第49号 - 伊能忠敬研究会

史料と伊能図
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伊能忠敬研究会
表紙図解説米国議会図書館蔵
伊能大図前号金沢・宮腰(部分)
みやのこしかないわ
享 和 三 二 八O 三)年二月に江戸を出立した第四次測量隊
が、加賀藩入りしたのは六月二十四日のことである。支藩の
大聖寺藩ではトラブルもなく順調だった。ところが、本藩の
安宅村(﹁勧進帳﹂の舞台)に入ると、出迎えの十村手代は﹁領
主の指図なし﹂と、村高・家数等を答えない。加賀藩は﹁隠密
がましき﹂と警戒心を抱いて、対応策を指示していたのだ。
表紙図の海岸は白砂青松。打木村・下安原村などは、今は
砂地を利用した﹁加賀野菜﹂の主要産地となっている。地図上
の錨マークは 、犀川(図では才川)の河口に発達した加賀藩の
河崎倫代
外港宮腰(現在の金石)である。藩米や専売品の塩などの積
み出し港として賑わっていた。金沢はこの犀川と浅野川を城
の外堀とみなして建設された城下町である。
宮腰から金沢城下まで、ほぼ直線の測線が引かれている。
今も﹁金石往還﹂と呼ばれる直線道路である。沿線には、寺
中・観音堂・畝回・藤江・長田などの村々が存在する。しか
し、伊能図にはこれらの村名は記載されていない。﹁測量日
記﹂には、量程車を使ったとある。第四次測量では他にも、小
田原・駿府・名古屋城下など、通常の作業をはばかって量程
車を使用した例はある。しかしここでは、忠敬一行が緊張と
警戒心をもって行動せざるを得なかった証である。ただし、
量程車のみで測ったわけではないだろう。得意の歩測を併用
したに違いない。金沢城下での宿所は、尾張町﹁住吉屋﹂だっ
た。明治期に近江町市場近くに移転したが、現在も﹁すみよ
し屋﹂の看板を掲げて旅館業を営んでいる。
それにしても残念なのは、加賀藩の警戒心のせいで、私が
住んでいる﹁畝回﹂が、どの伊能図にも記載されることがなか
ったという事実である。
表紙題字は伊能忠敬の筆跡
目次刊号
二O O七 年 度 総 会 報 告
特報祝・叙勲、刊行祝賀現代の快挙を祝す
新任ご挨拶前田幸子
事務局長就任にあたって鈴木純子
編集部
﹁
忠敬 ・ 重 富 展 ﹂ が 実 現 │ 今 秋 開 催 伊 能 記 念 館
話題 I 銅像とご対面!神保新さん伊能陽子
映画﹁掘るまいか﹂を見ませんか山岸俊男さん
佐渡へのいざない・佐渡旅行案内石川進
mあ さ ひ か わ ﹂ 安 川 義 巳 さ ん
﹁侃伊能大図フロア展 -
発 刊 ﹁ ウ オl キ ン グ ガ イ ド 茨 城 ﹂ 川 上 清
伊能家蔵書は五千冊(一)佐久間達夫
芳名録白鳥庫吉長岡輝海伊能陽子
話題 E
﹁
伊能 大 図 謄 写 図 ﹂ 調 査 概 報 (二) 鈴 木 純 子
伊能大図総覧の地名と景観(三)星埜由尚
川定美
三O
三
一
一
一
一
二
一
二
三
旅のフォトスケッチ野田茂生
表紙図解説河崎倫代編集委員前田幸子
お便りから日々の話題お知らせ編集部
忠敬談話室だより編集余話福田弘行
伊 能 忠 敬 測 量 隊 が 観 測 し た 星 (二) 佐 久 間 達 夫
和算の人脈(一)安藤由紀子
演宅宮内家所蔵資料から(その一ニ)宮内敏
﹁
文化 の 開 拓 者 伊 能 忠 敬 翁 ﹂ ( 六 ) 宮 内 敏
忠敬先生関連の或る古書をめぐって(こ秋問実
研究ノート
地 域 史 料 今 井 八 九 郎 の ﹁ 室 蘭 図 ﹂(二 ) 井 口 利 夫
青柳種信夫妻の墓誌園重正樹
﹁
佐世保戦国史の研究﹂ に つ い て 平
ブックストリート・近著紹介
六一二 O五九九七六六五四二一
六七六五五四三
九 二二 四二六八
伊能忠敬研究
第 49号
2007年
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伊能洋陽子ご夫妻
﹁紺綬褒章﹂受章
安藤由紀子さん
﹁世田谷伊能家伝存・
伊能忠敬関係文書目録﹂編纂
春
二O O七年度総会報告
事務局長に鈴木純子さん
編集長には前田幸子さん
どうぞよろしく
富岡八幡宮社報特号木場木遣之碑
六月二四日、二O O七年度の伊能研究会
総会が富岡八幡宮で開催され、梅雨時らし
くしとしとと雨が降る天候でしたが、北海
道や九州など遠方からも会員が駆けつけ、同好の士の集まりらしいな
ごやかな雰囲気のなか、清水靖夫監事の司会により講演から総会が始
まりました。会員総数二二二名。出席者五一名、委任状七六名で、総
会は成立しました。
第一部講演﹃伊能大図総覧﹄の刊行について
星埜代表は伊能大図にみえる珍しい地名について。本書の編纂作業
のなかで三万九千にわたる地名を整理して地名索引を作成されました。
その際﹁正月不知﹂という地名を見つけ、正しい読み方と地名の由
来を新聞紙上などで呼びかけたところ、﹁正月不知﹂は﹁しようがつし
らず﹂と読み、﹁正月も迎えられないほど貧しい土地﹂ではなく﹁正月
が来たのも気づかないほど温暖でのんびりした風情の土地﹂という大
変良い意味の地名であることが、会員の辻本さんからのお知らせで判
明しました。
また岩手県一関市には﹁鬼死骸﹂という地名があり、これはその昔、
坂上田村麻目、が大武丸という鬼を征伐した伝説にもとやついており、は
ねられた首が飛んでいって落ちたところが宮城県の鬼首。胴体はこの
地に残って鬼死骸という地名となったということでした。回覧されて
きた伊能大図のコピ l で﹁正月不如﹂や﹁鬼死骸﹂という小さな文字
で喜かれた地名を確認しながら、大変面白く伺いました。
次に渡辺名誉代表から﹃伊能大図総覧﹄出版の経緯、出版に至るま
での曲折、資金の問題、印刷の苦心、マスコミを巻き込んでの宣伝活
動など、さまざまな工夫と苦労について報告がありました。
一組四O 万円の豪華本が僅か一ヶ月で売り切れとなったこと、購入
者は意外にも六割が個人だったこと等々。結果として成功裏に終わる
ことができた刊行事業について、安堵と喜びがにじみ出た報告でした。
ついで、鈴木純子理事より伊能図の正本の焼失、副本の献納、献納
本の動き、大図の模写について内務省系、隆軍参謀局、海軍水路部と
三系統があること、ならびに明治期の伊能図利用についてのお話。伊
能図への理解を深めるための貴重な講演でした。
第二部総会
第一号議案経過報告は星埜代表から前回平成同年四月四日に開催
された創立叩周年記念総会以降の経過について報告がありました。
この間の事業としては、平成口年は佐原へ、平成同年に平戸、長崎
へ研修旅行を実施。会報﹃伊能忠敬研究﹄は第四号から刊号までの
叩号を発行。﹁伊能図展﹂の開催は、平成口年 1月の籍張メツセか
ら 平 成 四 年 3月の高知市まで、主なものだけでも八つを数えました。
また、平成時年 2月に伊能家から﹁伊能忠敬記念館﹂に忠敬関係
史料九一八点を寄贈し、安藤、伊能、渡辺氏に市長から感謝状を受
けたこと。また同年 6月には安藤由紀子、伊能陽子両氏が二十年が
2-
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
かりで作成した﹃世田谷伊能家伝存伊能忠敬関係文書目録﹄を発行、
全国三百余の図書館や博物館に寄贈されました。史料、目録の寄贈
に対し、今年 2 月、国から伊能ご夫妻に紺綬褒章が授与されました。
さらに﹃伊能大図総覧﹄出版や、一橋大学と海上保安庁における伊
能図の調査などこの間の多彩な活動について報告がありました。
第 二 号 議 案 二O O六 年 度 収 支 報 告 と 二O O七 年 度 予 算 案
り合って、楽しいひとときを過ごしました。
{長の締めはおなじみ注連縄研究の大友正道顧問。豪快な三三七拍子
で見事に締め、総会はお聞きとなりました。
まだ余韻が残る会場を後にして、伊能洋画伯の絵葉書集、奥能登の
塩田で作った揚げ浜塩、﹃地図中心﹄には木谷、星埜、芳賀、鈴木さん
方 の 頁 に ﹁ 日 本 の ウ オl キ ン グ 名 所 則 選 ﹂ 、 そ し て 佐 渡 ガ イ ド 。 い ろ
いろお土産が入った袋を下げて帰途につきました。この十二年間で築
永野達代
新沢義博
座間喜美
木谷道宣
川上清
荻原哲夫
江口俊子
伊能洋
安藤由紀子
平岡佳子
神保弘之
島崎恭一
窪谷悌二郎
河崎倫代
海保英之
大内惣之丞
伊能陽子
石川清一
堀江敏夫
成家淑子
星埜由尚
日名
山岸俊男
渡辺孝雄
八木勲
馬場良平
、
敬称略
(前田幸子・福田弘行)
福田事務局長より会費収入に見合う会計の現況、現在の事務局が日
一勧健新幸貞義昭敏日浩隆京
郎 臥 夫 治 子 夫 親 一 知 7ロ 一 男 子
きあげてきたものの大きさと手ごたえをあらためて感じた総会でした。
渡宮藤橋中白坂喜金大植伊浅
辺内岡本川根本多窪沼田能井
本地図センターに存在の意義とその内容、前号に挟み込み配布した
決 算 書 、 予 算 案 と 報 告 事 項 の 議 案 説 明 が あ り まL た
。
第三号議案役員の選任
以 下 星 埜 代 表 か ら 。 二O O 一 年 か ら 編 集 長 を 兼 務 さ れ て き た 福 田 事
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日本ウォl キ ン グ 協 会 あ り が と う ご ざ い ま し た !
公幸弘菊純靖←悦隆正裏靖
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之子行乃子夫仁子雄道二子実唾
ゲスト参加
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岡野吉春会長藤本伸一さん伊藤浩史さん
- 3-
務局長が退任され、鈴木純子理事が事務局長に、編集長には前田幸
子新理事が提案されました。
参考報告は研究会の特定非営利法人化に向けて、検討を始めていく。
設立申請は佐原の地に活動拠点をとのお話がありました。
以上の議案は原案通り拍手をもって承認されました。
第三部受章祝賀会
議事は滞りなく終了し、記念写真撮影をおこなったあと、伊能ご夫
妻の受章を祝い、安藤由紀子氏には目録完成をお喜びする。花束贈呈
から長年にわたる史料編纂の労をねぎらいました。
第四部懇親会
贈呈式のあとは懇親会に移行。金窪氏の音頭で乾杯するや、談笑の
ざわめきが会場に満ちました。全国各地から上京された会員の方々か
ら各支部での活動の様子を伺い、また昨年の研修旅行の思い出など語
山前福丹鈴清粛河柏大今井秋I
孟
本田田羽木水藤島木友村上間│う
会場に 5
4名の精鋭が集合しました 。
市唯一周の皆直ぽ
名誉代表渡辺
代表理事星埜
理事伊能洋
理事鈴木純子
理事斉藤仁
理事香取稽良
理事柏木隆雄
理事前田幸子
監事清水靖夫
幹事石川清一
仁
総務担当
事務局長・調査研究担当
総務担当
佐原支部長・旅行担当
行事担当
編集長・ H P ﹁図書館﹂担当
九州支部長
関西支部長
新潟支部長
H P ﹁資料室﹂担当
編集委員
編集委員
鈴木純子
今年度から事務局を担当することになりました。 事 務 局 を 鈴 木 が担
当し、会誌については、あらたに理事に就任された前田幸子さんが担
当されます。
さて、残念ながら未だ面識をいただいていない会員諸氏も多いこと
- 4一
幹事原田照男
幹事小林三ニ
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幹事坂本規
顧小
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顧伊能陽子
由 一
尚郎
事務局長就任にあたって
顧大友正道
顧佐久間違夫
顧安藤由紀子
問 問 問 問
講師などもっとめましたが、それも昨年定年となりました 。 伊能図に
国立国会図書館に勤務(主に地図室)し、定年退職後、大学の非常勤
とて、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は戦前生まれ、長く
ますよう、お待ちしております 。
様な切り口が魅力です。 原稿、ニュ ー スなど、どしどしお送り下さい
であり、特に、当会誌は﹁伊能﹂に収数しながらの、個性あふれる多
会誌は居住地の隔たりなく、会員聞の交流ができる貴重なメディア
発行を担当することになりました 。 若 輩 者 で あ り 非 才 の 身 に 編 集 長 の
このたび福田編集長のあとをうけて会報﹁伊能忠敬研究﹂の編集、
前田幸子
の現地調査に参加したこと、それらを用いた展示会、図録編集などな
大任はことのほか重く感じられますが、会員の皆様方のご支援をいた
新任ご挨拶
あらためまして、どうぞよろしくお願いいたします。
および編集担当のご苦労に厚く感謝申しあげます。
最後になりますが、これまで長期にわたる、福岡弘行さんの事務局
限らず、地図、地図史全般に関心があり、日本国際地図学会、その他
地図史関連の諸活動にかかわっております。伊能忠敬研究会には設立
当時から参加していますが、理事として会の運営に加わるようになっ
たのは比較的近年のことです。
国立国会図書館在職中に気象庁に残っていた最終上呈伊能大図の
明治期模写本絹面を確認し、国立国会図書館への寄贈をいただいたこ
ど、主に﹁伊能図﹂を中心にする活動に参画してきました 。 昨年刊行
足せるものがあればと考えています。会全体の動向も十分把握してい
も相談しながら、これまでの諸先輩の蓄積を生かし、わずかでも積み
星埜代表理事をはじめとする役員諸氏と力を合わせ、渡辺名誉代表と
ままならないと思われますが、皆様のご尽力を何よりのたよりとして、
指導を下さいますようお願いいたし
と思いますので、どうぞご協力とご
非力ながら精一杯つとめていきたい
ぎ、みなさまのお力添えを得まして、
偉大な福田編集長の業績をうけつ
5-
と、渡辺 一郎さんのアメリカ議会図書館大図の発見を受けて、その後
されて話題を呼んだ﹃伊能大図総覧﹄(河出書房新社)では、解説の一
福田編集長は二O O 一年の第二七号から六年間、通算二三号にわた
だいて、責を果たしてゆきたいと存じます。
としては、当面、江戸期、明治期の伊能図の利用の跡を確認したいと
り 会 報 の 編 集 、 発 行 を 担 当 し て こ ら れ ま し た 。 毎号六四頁以上、年四
部、図版のチェックなどにかかわらせていただきました。研究テ ー マ
考えています。﹁伊能図﹂を調べるほどに、日記、書簡、関係文書など
ながら担当してこられたことは、ま
回の会報発行を、事務局長を兼任し
m名、総会で提起された N P O法人化の検
ったく超人的というほかありません。
の重要性を痛感させられているところです。
討 と い う 大 き な 課 題 も 抱 え て い ま す 。 事務局の激務をこなすにはいさ
ご奮闘に敬意と感謝を表します。
るとはいえず、至らぬ点が多いかと存じます。ご注文、ご叱正をお寄
ます。
総会時点での会員総数は
さか馬齢を重ねすぎていることはご覧のとおりで、きめ細かい活動は
せください。
江口俊子さん・画
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
わしがモデル
1
銅像とご対面!
神保新さん(忠敬の父神保貞恒の子孫)が五月三日、初め
て富岡八幡宮の忠敬銅像を訪ねました。
銅像制作者・酒井道久氏と共に、参考資料のため横芝のお
宅で写真を撮らせて頂いたのは五年前のことになります。
(伊能陽子)
新さんは大満足で、まわりの見物客に、﹁私がモデルです﹂
と話されたとか 。
さぞ皆さん、驚かれたでしょう。
写真・神保新さん(左)とお孫さん
﹃忠敬・重富展﹄が実現 1
今秋、伊能忠敬記念館にて
特別展開催﹁西日本測量と絵地図﹂嘉数次人氏が講演
一八O 五年、東半部日本沿海図完成後、幕臣に取り立てられた忠敬
は 、 西 日 本 へ の 測 量 に 出 か け ま す 。 しかし、その前に忠敬の師高橋至
時の命を受け西日本を測量し、地図をつくった人物がいます。それが、
間重富です 。重富 は、江戸で至時にかわって暦学を教えていた人物で、
忠敬が使用した測量器具の製作にも関わっていました 。
今回の特別展では、この間重富の業績と忠敬との関わりについて紹
)i什月白日(日)
- 6一
介し、あわせて重富、忠敬が測量する以前の日本地図も紹介します。
期平成叩年叩月2日(火
[聴講は先 着順の予定]
照 会 先 曾 0478・
5 4・
1118 伊能忠敬記念館
叩月幻日(日)午前日時
大阪市立科学館主任学芸員嘉数次人さん
ギャラリートl ク(展示解説)
会場香取市佐原中央公民館
期 日 叩 月 初 日 ( 土 ) 午 後 2時1 4時
講師大阪市立科学館主任学芸員嘉数次人さん
講演会﹁間重富と伊能忠敬﹂
日本地図(含重要文化財古河歴博所蔵金沢文庫所蔵)
間重富関係資料(大阪歴史博物館所蔵)
展示資料
休 館 日 目 月 9日 目 日 幻 日 却 日 日 月 5日四日目日
間
期 講
日 師
制時-'
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
能 忠 敬 が こ の 地 を 測 量 し た の は 享 和 三 年 (一八O 三)のことでした。
そ れ か ら 口 年 後 の 文 政 三年 ( 一八 二O
)、 この宿根木の地に柴田収
蔵が誕生しています。収蔵は凶歳で島内の地方絵図師石井夏海・文海
親子から地図製作法を学び、お歳にして師の指導のもとに伊能図の重
訂作業に従事したのでした。そして大成し江戸に出て、安政四年(一
柴 田 収 蔵 の 最 大 の 功 績 は 嘉 永 五 年 (一八五二)に﹁新訂坤輿略全図﹂
八五七)洋学所の絵図調出役に登用されるのでした 。
を上梓したことでした。それよりおよそ二百年前に、すでに﹁万国全
り、現代の目からはかなり違和感を感ずるものでした。
図﹂(神戸市立博物館所蔵)は鎖国日本にもたらされていましたが、そ
メガラニカ﹂(大陸)の存在が大きな特徴になってお
れは南の大きな ﹁
時あたかも翌年にはロシア使節プチャ ー チンが極東艦隊を率いて
佐渡へのいざない
皆様は﹁佐渡﹂と聞くと何を思い浮かべますか?﹁金山、流人の
長崎に来航するなど、幕末動乱の幕開けの時期でした。柴田収蔵の世
佐渡は伊能忠敬の地図作成を岨唱し、そのうえに柴田収蔵の世界地
たのです。
佐渡は古くから開発が進み文化水準の高い地域でした。倭名類取県抄
いたということを知ってほしいものです。佐渡が世界地図の発信地で
図上梓を支えた、豊かで高いレベルの文化と世界を見る目が培われて
-妙宣寺五重塔、清水寺(せいすいじ)見学(京都清水寺のミニ版)
-佐渡歴史伝説館見学
・柴田収蔵の生地・宿根木訪問。柴田収蔵について講話
-伊能図を参照に内陸部を測量し改定した石井夏海の﹃佐渡図﹂見学
.江戸幕府の財政を支えた佐渡金山見学
︻佐渡旅行のメニュー︼叩月刊日(日)1日日(月)
おります。
佐渡は新鮮な魚と新潟の地酒で皆様の御来港を心よりお待ち し て
あることを知って欲しいと思うのです。
には佐渡国として郷数二 二、抄回積三、九六四町歩が記録されていま
佐渡島の西南端に宿根木の集落があります。この村は和船の産地と
した 。 佐渡は日本海交易の中継点として要衝の地でした。
二二一二)の廻船式目では、主要港の﹁七湊﹂は全て日本海側にありま
また、日本海の海上交通の影響も大きいと思われます。貞応 二年 (一
接佐渡に伝えたのでした。
世阿弥など政争に敗れた人々が佐渡に流されてきて、中央の文化を直
が高い水準で定着していたようです。加えて、承久の変の順徳上皇や
越後や越中の開発程度と比べるとはるかに進んでいました。稲作文化
す。全面積に占める抄田及び郷数の割合は、およそ大和と同じ割合で、
紹介いたします。
界地図がこの時期に上梓されたその意義はすこぶる大きなものがあっ
進
島 ﹂などでしょうか。実は江戸時代の佐渡は﹁地図の発信地﹂の一
・
:
つでもあるのです 。﹁佐渡旅行﹂を機会に、少しそのあたりのことをご
)1
して栄え、また大阪へ城米を積み出す廻船業で富を築いた村です。伊
- 7一
石
-伊能忠敬が天体観測した場所にご案内
-佐渡で最も風光明娼な尖閣湾の眺望 (
映画 ﹁
君の名は﹂で有名 )
火)
オプ ショナルツアーは︻良寛めぐり︼で出雲崎・寺泊方面を探
※ 同日 (
索いたします 。地元良寛会会員による案内を予定しています。
日
良寛めぐり長岡駅(上越新幹線)
尖閣湾 │宿根木・佐渡歴史伝説館 ・妙宣寺 ・清水寺 ・トキの
ど う ぞ 、 こ ぞ っ て ご 参 加 下 さ い 。 ( い し か わ す す む ・新潟支部)
1
4
日
│相 川高 校 ・ 佐 渡 金 山 ホ テ ル ひ ら ね 泊
四万二千 円
森 公 園 │両津港 l新 潟 港 ( 解 散 ) 新 潟 泊
O費用予定 東 京 発 六 万 二 千 円 新 潟 集 合
締切
8月 初 日 ( 今 回 が 正 式 申 込 に な り ま す )
O事 務 局 よ り 新 潟 県 中 越 沖 地 震 に お 見 舞 い 申 し 上 げ ま す。
一
51
柏木隆雄さん
新 潟 支 部 の 熱 意 に 感 謝 で す 。 初めての佐渡を愉しみに 。
白秋の﹁砂山﹂はいい童謡です 。
佐和田に残された天体観測書
位年 4 月 幻 日 新 潟 日 報
ぉ
O申込 ・資 料 請 求 柏 木 幹 事 公0 3・
3294・
7383 相木事務所
良寛めぐりは三万円プラス。
│東京駅
東京駅(上越新幹線) │新潟(ジェットフオイル) │両津港
15
日
会報四号既報
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舟
宿根木・称光寺 は 千 石 船 が 帰 り が け に 荷 と し た 御 影 石 で 作 っ た と い う
念仏橋を渡った集落の最奥にある。収蔵の墓は、信心深い宿 根 木の人々
(写真提供 ・山浦佐智代さん)
の献花が絶えることなく、古色蒼然の中にも明るさのある本堂裏手墓
地、ほぼ中央にある 。
柴田収蔵資料から
柴田収蔵の墓
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柴田収蔵 80乙
佐渡が生んだ地理学者
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﹁掘るまい か﹂ を 見 ま せ ん か !
公開され、多くの関
F・・・・・・・・圃置咽創固刑
前副昆置
高木崇世芝氏所蔵﹁江戸時代の蝦夷地図﹂の公開
も触 れました。多くの笑顔を見受けました 。
能図 を 見 で歩測を体験 し、最新 の測量 機器 に
たくさんの 子供 たちが会場 を訪 れ、本物の 伊
安川義巳さん提供
﹁ MW伊 能 大 図 フ ロ ア 展 mあさひかわ報告﹂から
昨年九月の開催は
五 日間、四万二千人
が来 場 しました。伊
能忠敬、松 浦武四郎
係者の熱意、努力の
など大先輩の偉業が
﹁これは単なる美談ではない。日本の 地域共同体には、助け助けら
跡を記憶と記録に残
忠敬さんに並ぶ同年も穴堀りを続ける我慢と努力
れる共同作業の伝統が確固と し であったことの証明である 。 この忘れ
す記念誌が完成しま
p
E
した 。
かけようと し ている 山村のかつての大事業を、橋本信 一監督をはじめ
働 樹 園. . . .
U明a
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9一
とするスタッフは見事に映画に匙えらせてくれた 。
かつて苦楽を 共 にした人々の、その豊かな表情を通じて、村が生き
長鴻繍明科尉湖議離
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迫にあふれでいる 。 お い や
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素晴しい映画である 。村山ト 剖 び 醐 蓋
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ぜ ひ広く多くの人々 W
圃・司削圃・副
腫 為 師圃
に見てほし い﹂ 川 区
動ぺ一事
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2007年
第 49号
伊能忠敬研究
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白鳥庫吉
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くらきち(一八六五│一九四 二)
東洋史学者。下総茂原生まれ。東大教授。
近代的東洋史学を確立し、北方民族および西域諸
国の研究を開拓。東洋文庫研究部を創設。
著 ﹁ 西 域 史 研 究 ﹂ など。
(広辞苑)
※年月がありませんが昭和九年頃と思われます。
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第 49号
伊能忠敬研究
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美ち能枝折登
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長岡輝海
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※長岡輝海さんは不明です。
年月もわかりませんが、
多分、昭和四、五年です。
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お待ちしております。
おこころ当りがありましたらご一報を
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伊能家蔵書は五千冊
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右衛門が、明治一 O年頃に語った話として、
三治郎は、二二歳のとき、常陸国の某寺の住職について
数学を学んだ。
という話も残されている。
忠敬が、伊能家に入り婿したとき、伊能家の後見人であった伊能豊
まれにて気ばかり強く、少々医学成され候故、万事人の
医者の儀は、得と御相談然るベし。一体、御身分弱き生
秋は、明和二年(一七六五)十月二一日付の日記に
に、どのような学聞をしたか。長男の景敬が作成したものといわれて
申す事、取り用いこれなく(以下略)
と、記している。忠敬が医学を学んでいたということだけでなく、そ
の性格の一端をも窺えよう。
以上、神保光一氏の話や永沢半右衛門の話、﹁東河伊能翁伝﹂﹁伊能
豊秋日記﹂の記述には、若干の相違はあるものの、ほぼ一致している。
伊能忠敬の少青年期の学問の内容について述べたが、親の膝下にい
た時の学問は、主に経学、すなわち四書五経で、数学と医学も教養程
また、佐原時代に記した﹁奥州紀行﹂﹁関西旅行記﹂(伊能忠敬記念
度に学んだことがわかる。
に、数多くの古歌や歴史的事項が書き留められていることから、忠敬
館蔵)や、全国測量の時に書き綴った﹁測量日記﹂(伊能忠敬記念館蔵)
また、後に忠敬の天文暦学の師となる高橋至時の二男で、第五次測
の二十項目に分け、四百二部、三千四百二十一冊が記述されている。
字、宙、洪、荒、目、月、盈、是、辰、宿、列、張、寒、来、暑、往
伊能家が所蔵していた﹁書籍目録﹂は、津宮行分、第二、玄、黄、
二、﹁書籍目録﹂の内容
たことが窺われる。
は、文学的、歴史的な面に興味関心があり、それを生涯持ち続けてい
村(現千葉県香取市佐原)で豪商であった永沢治郎右衛門家の分家半
さらには、忠敬が後に婿養子となる伊能家とともに下総香取郡佐原
と記す。
の医某に就いて経伝、及び医籍の句読を受く(以下略)
然れども僻阻に居りて、その師に乏し。因りて常州土浦
﹁東河伊能翁伝﹂は、
量に参加した渋川景佑(一七八七1 一八五六)が文政四年に編述した
も一年程で習得してしまった﹂という話が伝えられている。
り、常陸国の﹃アソン﹄という学者のもとで学んだ。しかし、ここで
いう人物に漢学を学んだが、数か月で習得したため、元徳の紹介によ
﹁三治郎(忠敬の幼名)は、中村(現千葉県多古町)の平山元徳と
保 光 一 氏 ( 昭 和 六 三 年 九O歳)は、
忠敬の父の出生の家から分家した屋号五右衛門の当主であった神
にいわれている。
忠敬の前半生における学問の種類とその程度については、次のよう
一、忠敬の出府前の学問
いる ﹁
書籍目録﹂(伊能忠敬記念館所蔵)を基にして記してみよう。
伊 能 忠 敬 が 、 寛 政 七 年 (一七九五)に江戸の深川黒江町に出る以前
伊能家の文庫土蔵は中国と日本の書籍のやま
佐久間
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臼
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
であるといえる。
学者でもない地方の一商家でこれ程の書籍を所蔵していたことは異色
﹁書籍目録﹂を繕いて、初めに目をつくのは中国の古典の多いこと
である。儒者の孔子・曽子・子思・孟子・菊子などの編著である四書
(大学、中庸、論語、孟子)を始め、道家の老子・列子・荘子・楊子、
墨家の墨子、法家の管子・商子・韓非子、陰陽家の孫子、朱子学の朱
烹、それに百家の著名人の編著やそれに関係した書籍が数多く見られ
る
。
わが国の古典では、東鑑、古語拾遣、今昔物語、大日本史、日本書
紀、伊勢物語、沙石集、吉今和歌集、方丈記、保元平治の乱、源平盛
衰記、噴野、 三十 六 歌 仙 な ど が 見 え 、 そ れ に 数 学 の 二 十 二 部 、 九 十 二
また、﹁書籍目録﹂の末尾には、﹁旧蔵目録﹂という見出しで、東、
冊、天文暦学の十八部、五十六冊、医学や本草書が少数記されている 。
壁、図、書、府、西、園、輪、墨、林の十項目に分け、百五十四部、
干 六 百 三 十 一冊 が 記 述 さ れ て い る 。
、 中国書籍
﹁旧蔵目録﹂に記されているものは、日本の書籍が多 く
や 医 学 ・ 本 草 書 も 何 部 か 見 ら れ る。 し か し 、 天 文 暦 学 に 関 係 し た 書 籍
は一冊もない。
なお、安永八年七月に、伊能忠敬の長男・景敬(十四歳)と、忠敬
の養子になった布留川盛右衛門(二十四歳)が識した﹁高控記﹂のな
かに﹁書物目録﹂があり、八十五部が記されている。﹁旧蔵目録﹂と﹁高
控記の書物目録﹂とで重複している書籍は四十三部ある。
・儒学
※註釈
魯の陳邑(山東省出阜)生まれの孔子が、儒教に実践理論、政治哲
学 を 盛 込 ん で 大 成 さ れ た 政 教 一 致 の 学 問 ・思想の体系 。
先 秦 時 代 の 老 子 ・ 荘 子 一派 の 総 称 。 あ る が ま ま の 無 為 を 最 高 原 理 と
-道家
して説いている 。
-墨家
と、人心を感化する楽)を退け、博愛主義を説いた
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魯の生まれの墨子の思想である。儒家の礼楽(社会秩序を定める礼
.法家
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第一
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治国平天下を目的と
める)を基にして、
をきわめて知識を深
格物致知(物の道理
気の二元論を唱え、
た儒教の学説。理と
南宋の朱烹が大成し
・朱子学
なう学派。
などで吉凶禍福を占
天文・暦数・方位
-陰陽家
韓非子(旧称韓子)を代表する学派で、法律によって国を治める法
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書籍目録伊能忠敬記念館所蔵
治主義を唱える 。
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書籍目録
口楊子法言口賀誼新書
伊能忠敬記念館所蔵
口詩経草木疏図解
日韓非子口京大和名所図
-津宮行の分
口匡謬正俗
左伝林桑史註
左伝弁誤
左伝音註
春秋胡氏伝(唐本)
年雅註疏
口王充論衝口墨子
六経略説
祖徳学則
会
口保文韻府(箱とも)
大学解一と中庸解
口陸賀新語
弁道書
口文海披沙口釈親考
口大明一統志
口酉陽雑組
口那珊代酔編
口鶴林玉露(箱とも)
大疑録
唐詩訓読
斥非
親族正名
口通鑑綱目(箱とも)
論語古訓玉冊
論語皇侃義疏十冊
一冊
三冊(自十八まで音釈 一冊、計十九冊)
二冊南留別士山五冊
十一冊王註楚辞六冊
十五冊異称日本伝(子年不見)十五冊
口東鑑定相とも)
-第二
左伝
三音正伝
孫子国字解
明七 子詩 解
論語集解二冊
・玄第三
論語筆解一冊
論語緯解五冊
古文指解補註一冊
古文孝経
論語外伝十冊
論語国字解五冊
古文古註(酉年改無)一冊
古文標註(子年改無)一冊
古文述(酉年改無)一冊
詩経毛伝補義十冊
尚書大伝玉冊
古文国字解一冊
冊
詩経名物弁解四冊
詩経国字解十
越註孟子四冊
左伝属事
公羊伝穀梁伝
左伝系譜
詩書古伝
増註大学
祖僚答問書
聖学問答
弁道全と弁名
和読要領
口釈親考
論語微解
三冊
二冊
二冊
上下三冊
三冊
二冊
四冊
三冊
四冊
一冊
二冊
五冊
四冊(久保木)
王註老子国字弁
読菊子
曇子春秋
文中子
口陸貰新語
劉向説苑
孔叢子
習子(写本)
列女伝
西京雑記
述異記
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冊冊冊冊冊
冊冊
冊冊
口詩経草木 疏 図 解 五 冊
尚書国字解五冊
口 口
五二一二 一一 一 上五五 一 四五
冊冊冊冊冊冊冊下冊冊冊冊冊
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王列帝顔国 白劉 買韓塩楊萄 ・
争向誼詩鉄 子子
子 仙範氏語 I
年伝
家(通新新外論法全黄
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上訓酉
序書伝
言書 富
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上 通 十
五四下一五
五五五二六十
冊冊四冊冊上冊冊冊冊冊冊
冊 下
回
冊
十 十 二
一五 四 一二
十
資
料
伊能忠敬研究
第 49号
2007年
口王充論衡
英雄記(写本)
独断
口匡謬正俗
国史経籍志
世説新語補
輔儲篇
経済録
素書国字解
山海経
忠義水瀞伝
-宇第五
王注老子二冊
郭注荘子六冊
老子国字解四冊
文子
管子全書十三冊
於陵子
古今註
捜神記
博物士山
斎丘子(写本)
関安子
世説鱗
政談(写本)
孫子国字解
鈴録(写本)
小説粋言
十五冊
二一三十六二 二
冊冊冊冊冊冊冊
論語微集覧
老子林註
張注列子
口墨子全書
日韓非子全書
子華子
劉子全書五冊
商子全書二冊
戦国策
全二冊
五十冊
六十冊
三冊
口大明一統志
元明史略
蒙書評林
目子春秋(酉年改無)十冊
抱朴子八冊
穆天子伝全と漢武内伝・飛燕外伝
呉越春秋六冊
十八史略七冊
百六冊
歴代官制沿革図二冊
竹書紀年二冊
・宙第六
口通鑑綱目
七五三十四十四四二一八
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
二
十
十二八一四二一一四八一
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
口
三本和和中 日・農九医医活素医建内難丹儒広備本・大三後・
主朝漢名臣本
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口京名所図会
六冊
五三冊
七六一七十八
冊冊冊冊冊冊
目十冊
冊冊冊冊
六冊
篇
二七一
冊冊冊
東海道名所図会
十
四三一
冊冊冊
七冊
古語拾遺
中臣蔵嚢義解
本朝系譜
二五冊
五事略(久藤紛失) 一冊
冊
冊 二 と
と 八 二 ( 編
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十十四
一後 一十一 三
一四一
一一二二 杷二四五二六五
冊十冊冊冊冊
冊冊冊四冊冊冊冊六冊冊冊冊冊冊
因
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冊 足 (
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年 八
改 冊
医用易無薬奇医医
仲丹原十大救
方薬簡)微効方断
景渓病四和荒
大須方
(医口
全纂式経本本
成知
写術訣
書要和草草
三五
論 本
抄
後
にU
・月第十
和漢帝王年表
前王広陵記
事 文 類 衆 ( 前 集 二 十 一 後 集 二 十 続 集 十 三 別集十四
新刊用子格
准南鴻烈解
五冊尚書
四冊明詩選
六冊孟子解
助字考
韻鏡切要紗(写本)
字考正誤
鳥石唐詩選
欧陽詞九成宮
文微明干字文
広沢千字文敬斎簸
五冊
属文換字一冊
芸苑后言四冊
古文後集
二冊
古文矩(酉年改無)一冊
文章縁起二冊
文章軌範(酉年改無)四冊
新集十五外集八遺集九)百冊
毛詩鄭婆
二冊 古 文 孝 経
三十 帳 (二百冊)
論語集解
・盈第十一
淵鑑類函
-是第十二
口侃文韻府
-辰第十三
文体明弁
四家儒
文則
文林良材
卓氏藻林
名物六帖器材築
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品
筆
吉今原始
日本釈名
図書白文
-宿第十四
文選六臣註
楚辞王註
六一冊
六冊
綴耕録
口酉陽雑組
一冊
八冊
八冊
十冊
二三冊
口文海披沙
一冊
口那珊代酔編
唐詩品葉
口楊子方言
一冊
下学集
三正 俗 解
大系図
東藻会葉纂略一冊
天学名目紗一冊
事物紀原十一冊
千百年眼十冊
玉雑組十六冊
口鶴林玉露九冊
文語解五冊
文 選 李 善 註 ( 唐 本 ) 二 帳 二十 冊
十
一三 冊 字 業 頭 書 ( 子 年 改 無 ) 十 五 冊
四冊続字葉補五冊
二冊 四 声 国 字 通
訓誇示蒙二冊助字語通
草書韻会一冊和漢字名録
助語辞二冊万象千字文
九弄和解
磨光韻鏡後篇二冊九弄弁
韻鏡易解五冊磨光韻鏡
百 体 千 字 文 ( 十 字 文 集 法 と も ) 二冊
釈名三冊広雅三冊
字葉頭書荘岳音
小補韻会
五車韻瑞二五冊正字通(唐本)四十冊
・列第十五
竹山絶句標題
冊冊冊
一冊 語 文 筆 蹄
唐話纂要六冊和字正鑑紗
印判秘訣
四一一
冊冊冊
六五三四一五一二
冊冊冊冊冊冊冊冊
詩薮
広 沢 千 字 文 真 一冊
鳥石 山人伝
文微明千字文膝王閣
猿橋碑銘
金百法群華
切韻指掌
罪文筆蹄(写本)
冊
冊
一 六六七
冊冊冊冊
冊冊冊冊冊冊冊
冊
百
冊
八
五一一一一 一 行六 三 八四一八四
冊冊冊冊冊冊 二 冊冊冊冊冊冊冊
c
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唐詩詠物詩選
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九腕斎記
人物伝一帖
.往第二十
史記
老子特解
百五十冊
蘭亭記
武家盛衰記(写本)
集義和書
編年集成(写本)
・暑第十九
大日本史(写本)
.来第十八
天地弁
産論翼
詩茎
草書要決
詩門一覧
唐明詩聯
明詩擢材
詩家法語
地名筆
語圏随筆
三音正請
書東式
詩学解環
さ﹃日H
-張第十六
三家詩話
唐詩品葉七律絶句
絶句解拾遺考証
絶句考証
七才子詩集解
説唐詩(唐本)
唐詩句解
唐詩訓解
詩題苑
今昔物語(破本)
十
冊
険
!
十
五五一三 二三三 六五四五六 一一 一 一 四三三三四九四
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
吉詩紀三二冊
三 三 六七 一 四三三六四四二 一 三 一 二五一 一 二三四 一
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
唐詩紀三三冊(唐本)六十五冊
・寒第十七
唐詩選
唐詩掌故
唐詩諺解
七才子詩集注解
絶句解
絶句解拾遺
唐詩品葉七律
唐詩正声
治一決尺臆解
弄州尺摘
弄州尺眉記要
但僚文集
支荷園稿
金華文集
周南文集
生駒詩集
松浦詩集
玉山詩集
白石余稿
日本詩史
設園名公四序
新刻蒙求国字解
大東世語
南郭絶句(酉年改無)
詩題苑(写本)
唐詩聯材
閑散余録
南留別志
度量衝考
語文筆蹄字引
初学作文法
明詩礎
唐詩礎
尺膿活套
O 天文図解
省文集(写本)
産論
日本輿地図
左伝 一冊
老子解
老荘翼注
午門朝見帖
唐賢詩帖
累代武鑑(写本)
集義外書
武徳安民記 (写本)
ノ
、
一帖
一帖
十五冊
八冊
三十 冊
文
撰
治渓尺眉
治漠尺膿諺解
弄州尺庸解
明七子尺膿
南部文集
江陵集
喫鳴館詩集
草葺詩集
大激詩集
蹴巌詩集
日本詩選
南海詩集
蘭亭詩集
新刻蒙求
蒙求拾遺
一 一 二一五 一 一一 一 二二 二 五 一 六一
冊帖冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
十
一 七
冊冊
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
三 五
一一 六六十
帖帖冊冊冊
二 五
冊冊
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
ヴ
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四始考証
老子妾言二冊
。大 成算経(写本)
。算法吉今通覧五
。算法天 元録
二冊
二十冊
冊
三冊
冊
四冊
好古目録
大学考証
八線五求法(写本)
算法顕術
O算 法 天 元 録
。算 法廓如
天経或問
冊
天学指要
O算 法統宗
O拾磯算法
O算 学 啓 蒙
O量 地 指 南 後 編 ( 写 本 )
冊
二冊
地球 一覧 図
求四正相矩累計度
O算 法 指 掌大成
烈祖成蹟(写本)
O 貞 享暦(写本)
O皇 和 通 暦
O古 暦 便 覧
O蝕 算 活 法
授時暦俗解
冊
二冊 和
毛詩
書経音義
合類大節用集
旧蔵
・東
四書大全
・壁
古文前集三
古文後集諺解二十冊
冊
尚書
六冊
六冊
三冊
語文筆蹄
古文後集合解十冊
・杜律
二冊
本朝四家絶句四冊
聯珠詩格(酉年改無)
冊
四冊
・三体詩四冊
詩学 小成 (
子年改無)
・尺膿青銭三
四家絶句(亥年改笹川)四冊
一冊
冊
子年改無 ) 二冊
大成論頭書 (
冊
本草 弁 疑 五
・明元 算 法 二
冊
冊
十 一冊
二冊
童蒙七書一
伊 品 波 韻 (子年改無 )
唐詩選掌故二冊
三冊
和漢合運年代記四冊
詩聯大成二
.二冊
十冊
冊
一冊
冊
・農業 全 書
外科指南四冊
冊
・三蔵 弁 解 六 冊
・針灸大成七冊
和語韻略(子年改無)
泉志
四冊
一冊
三重韻(酉年改蕪)
詩料一冊
医学灸要詳解
大成論一
医学指南一
合類衆方規矩九冊
本草原始四冊
朗詠集
医学源流一
字大観紗二
職原抄参考
詩茎二冊
漢書(酉年改)五十 冊
・観 音冥応録
冊
録
詩文重宝記(酉年改無)一冊
三冊
一冊 顕 注 古 今 和 歌 集 抄 六 冊
冊前
目
十
三 一五
冊冊冊
冊
。算法算組五
。算法得幸 録 二 冊
。点寵算法二
。開成算法
演段諺解四冊
。規 矩 分 等 集
天経或問序図解三
。天文図解五
。授 時 暦 諺 解 六 冊
。授 時 暦 図 解 発 揮 三 冊
三冊
。 宝 暦 甲 戊 暦 ( 写 本 ) 六冊
。皇 倭 通 暦 蝕 考
冊
一冊
。日東通暦二
紫奥紀略(写本)
。暦学法数原五冊
。和漢算法大成(子年改)七冊
目声便蒙
増註家語五冊婆注蒙求
。量地指南三
開口新語
。古目録に有之候へども、当時書福中に無之分 。但し、先年より知此 。
十
二 五六 一一三二一一 四四五七五五 一一一 一二 一
冊冊冊冊冊冊冊冊帖冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊附
。
。
-図
五経羅山点十一冊易学啓蒙図説
四書(孟子ばかり有る。外不足)十冊
二六 冊 大 極 図 説
四書頭書十冊・近思録(大学中庸不足)
近思録詳説
一冊
一冊
四冊
-本朝三国志
・四海太平記
西国太平記
武将感状記
-桜井書(酉年改無)
一塵重 山 集
誰カ家
.阿羅野
-楽訓三冊・孝経便蒙詳説五冊
-小学(丑三月二五日亀嶋為登)四冊
・日本書紀十五冊仮名神代四冊
勺兄弟
江戸筏
陽復記二冊・王代一覧七冊
・沙石集十冊風俗文選九冊
誹諸吉今明顕
吾嬬布里
夢中一休四冊田舎一休四冊
・行脚文集七冊・方丈記二冊
東紀行
寛永行幸記
続滝ノ声
・田舎荘子玉冊当世穴撃五冊
偏鉄挺論五冊・鎌倉志十二冊
枝葉集
十二冊
十八冊
-西国盛衰記
・後太平記
-北条五代記
三楠実録
桑々発句集
絵具皿
猿蓑
桐ノ一葉
幽蘭集
百千万
子ムリサマシ
誹詰節用集
当用書札集
誹詰鱗
亥 歳E
江左風流
金魚育草
通俗両漢紀事
四戦記
戟鮮来聴記
・関ケ原軍記大全
-三遠日記
今昔物語
-通俗漢楚軍談十八冊
冊
通俗続三国志
朝鮮来勝記
琉球来聴記
大秘録
武野燭談
-墨
三河後風土記五十
-通俗三国志(近年不見)五十冊
・翰
公家大名文通
名君恩光録
堪忍記四冊・永代蔵六冊
太閤記
一冊 和 漢 名 数 ( 子 年 改 無 ) 一 冊
千歳記七冊・神仏感応編八冊
孔方図鑑
華夷通商考一冊
-書
・東鑑
・府
・西
-東国太平記
-源平盛衰記
・北国太平記
十三
二 二 十
一一 二九一 一八 三 一 一二二二 十十 一八
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
十七十
冊冊冊
四五 三四
冊冊冊冊
・甲陽軍鑑
-保元平治
・園
新編東国太平記
・武田三代記
冊
冊冊
十三
一五一二一二一六一三二二三一十十八六
冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊冊
冊冊冊冊
冊
五
冊
五
冊
十
冊
十三
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
Qd
神代巻
・日本永代蔵
伊勢物語
古道仙伝・漢楚軍談
・女学範
一冊
・沙石集・保元平治
難破戦記九冊難破後記
新撰碁経(二月十八日便り、亀嶋へ行く)三冊
.農業全書
・東鑑
唐詩訓解
和漢朗詠集
孝経釈名
.尺闇青銭
・源平盛衰記
。算法天元録
古今全集
近思録集解
・後太平記
・新編鎌倉志・田舎荘子
.鍍灸械華大成
新撰碁経
茎蹄
三十六歌仙
-太閤記
事真宝合解評林
・阿羅野・王代一覧
基経詩経易春秋
梅尾明恵上人誌記
・孝経便蒙
一字幽茶集東朝四家絶句
-合不足本分
宝永千年記七冊
鑑草五冊
・楽訓三冊
太平記大全(残有三九冊)
・観音感応集十冊・杜律集解三冊
語圏二冊
杜律集三冊
仏書二冊
.桜井書
清正記一冊
・三体詩四冊
たつお・伊能忠敬研究家)
印は、﹁旧蔵目録﹂と﹁寓控記の書物目録﹂と重複図書。
(さくま
(つづく)
るもの。口印は、津宮行きの分(久保木漬淵)と重複分。また、了﹂
・書名の上のO印 は 、 現 存 し て い て 、 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 さ れ て い
※註釈
算本四冊誌学三冊
・方丈記二冊百法句二冊
・神仏感応録八冊文書草紙二冊
基経五冊
兵学指南兵方大成論
・小学句読・三蔵弁解
・北条五代記・行脚文集
-明元算法・甲陽軍鑑
甲州武田日記
・近思録上下吉今和歌集
謡本内百番一函
礼記・武田三代記
便蒙詳説便蒙詳説附録
古碁葉華(二月十八日便り、亀嶋へ行く)六冊
御城碁三冊争十六番
道回可門集一冊佐々木碁
五十番(二月十八日便り、亀嶋へ行く)一冊
英草紙五冊運気算法
・女撃範二冊婦通鑑諭草
省文集一冊装束記
祭式十有二一冊中興武家盛衰記
武玉川五冊
-林
謡本半切本二函
-前太平記
謡本内百番一函二十冊
寓葉捨穂抄三十冊
高宝全書
・関ケ原軍記大全五八冊
謡本外百番半切本一函五冊
太閤真顕記三百六十冊
@菖控記のなかの﹁書物目録﹂安永八年七月識
-関ケ原大全
伊能景敬十四才伊能盛右衛門二十四才忠敬は三十五才
風俗文選
古今真宝諺解大成
・続通俗三国志・四海太平記
東漢記
論語中庸・北国太平記
・本朝三国志
.前太平記
孟子
四漢記
・一一一遠日記
・通俗三国志
・東国太平記・日本書紀
.西国盛衰記
20
冊冊
四一一五
冊冊冊冊
十 二 二
三十二一
冊冊冊冊
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
納沙布岬と宗谷岬に
挟まれた海は、現在宗谷
湾と呼ばれているが、宗
谷湾に突き出ているウヱ
ンノツ岬(声問岬)は、
海蝕崖の発達する様子が
描かれおり、測線も海岸
海軍水路局が模写したものである。他の模写図と異なり、山景は、い
滑で海蝕崖は見られない。
は、声問岬の海岸線は平
線にとることができず海
わゆるケパ式で描かれており、測線も海岸線と一致するところは、海
また、岬の海岸線も伊能
稚内
岸線を優先している。そもそも、海図の作成のために模写したもので
大図では地形図より多少
海岸には草地や樹木の絵記号が多数描かれているのに対し、東側の海
ノッシヤム岬となっている。納沙布岬の半島の両側を比べると西側の
湿原とは明らかに異なる。この部分の海岸には砂浜の記号は描かれて
これは何であろうか。描き方からして、樹木と草地で表現されている
の海岸沿いには見られないモヤモヤと薮のようなものが描かれている。
ており、竹林の記号があり、笹薮が広いことが分かる。このようなと
おらず、さりとて露岩の見られる岩石海岸の描き方ではない。地形図
ころから、問題の場所は、クマザサに広く覆われた歩行困難の土地で
岸には数本の樹木を除いてその様な表現が全くなく、数ケ所に黒抹記
このような地図表現から、納沙布岬半島の西側には、海岸に沿う湿
あったのではないだろうか。
号が描かれ、集落のあることが分かる。また、東側の海岸は、砂浜海
原が発達していたのに対し、東側は、湿原はあまり見られず比較的高
この東側の海岸に沿ってであることもうなずける。
小樽・積丹周辺
燥な土地であったのであろう。明治以降に稚内市街の発達するのは、
を見ると、現在このあたりは、標高印 m前後の開拓された台地となっ
ウヱンノツ岬と納沙布岬半島との聞の海岸には、この図の中でも他
がっており、森林や湿原が広く分布していたのであろう。
とがった形態をしている。ウヱンノツ岬から東側には草地や樹木が広
第 1図 大 図 1
2号稚内付近(海上保安庁海洋情報部所蔵)
岸であることが分かるが、西側の海岸にはその様な表現はない。
この園を見ると稚内に当たる地名は記載されていない。野寒布岬は、
写図である。
朱線で示されており、宿駅記口すなどもあり、紛れもない伊能大図の模
あり、若干の加工が施されている。しかし、海岸線を除いて、測線が
しかし、現在の地形図で
尚
蝕崖の上を測量している。
由
伊能大図総覧の地名と景観
星埜
一
一
一
伊能大図第四号が現在の稚内、宗谷岬などを含む範囲の図である。
今回は、北海道の日本海側の要所を見てみよう。
、
、
ー
〆
この図は、海上保安庁海洋情報部が所蔵する図で、明治初年に当時の
〆'ー¥
η
J臼
第 2図 2万 5千 分 1地形図『稚内」の一部を縮小
第 4図 大 図 第 2
0号小樽付近(上が西)
第 3図は、石狩平野の日本海に面する海岸が終わり、小樽に向かっ
て続く岩石海岸の部分である 。第 4図は、それに続く小樽周辺の図で、
ヲタルナイが現在の小樽に当たる。﹁ハルシ﹂と記された地名は、第 5
図 2 万 5千分 1地形図の﹁張碓﹂に当たるものと思われる 。 レブン
ノツカ川のほか、小河川が多数描かれているが、レブンノツカ川は 、
礼文塚川として地形図には記載されている 。ハルシに集落記号がある
が、海岸は海蝕崖が発達している様子が表現され、険しい断崖の聞を
縫うように測線 、
が通っている。 カムイコタンと書かれたあたりは、天
をつくような崖が迫っていたのであろう。海蝕崖が 二段になって饗え
ている様が表現されている 。 現 在 、 こ の 海 岸 は 、 崖 下 に 函 館 本 線 が 通
っており、神威古湾の地名が地形図にも表示されている 。 神威古揮に
は、ニシン漁の最盛期には釘戸の人家があったそうだが、大図にカム
イコタンと書かれたあたりに集落記号は見られない 。
第 4図は、現在の小樽市内に当たる 。ヲタルナイ、テミヤ(手宮)、
タ カ シ マ ( 高 島 ) と 言 っ た 現 在 も 残 っ て い る 地 名 が 見 ら れ る 。 集落記
号が多数見られ、当時からヲタルナイ場所が設けられ、かなり開けた
土地であったのであろう 。
第 7図は、積丹岬の付近の大図である 。積丹半島は、険しい海蝕崖
が続き、近年まで 一周する道路が未通であった地域である。第 8図の
ような海蝕崖が続き、豊浜トンネル崩壌の大災害も記憶に新しいとこ
ろである 。 大図を見ると、測線は、海岸線を辿っていないが、海蝕崖
の上やその聞を通過していることが読み取れる 。 伊 能 忠 敬 は 、 積 丹 半
島には足を踏み入れていないが、間宮林蔵のデータに基づいて固化さ
J
。
れたと言われており、その測量には想像を絶する苦労があったであろ
つ
・
ひづか
宿駅記号の付されているシャコタンと記された集落が描示されて
いる。現在の積丹町日司町に当たると判断される 。
,
η
“
“
ヮ
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
占
事
.
第 5図 2万 5千分 1地形図「小樽東部 J
r張碓」を縮小
「小樽東部」を縮小
"
'
1
'
A
、~~
第 7図 大 図 第 2
0号積丹岬付近
h
一方、積丹岬の西に当た
...令
1砂.
る神威岬のすぐ東にはラ
イケシと書かれたところ
があり(第 7図からは外
四世 紀 末 頃 か ら
..
‘今
れる)、
松前藩の運上家があった
そうである 。 しかし、大
図にはライケシと小さく
書かれた地名があるのみ
で、シャコタ ンの方が大
きく記され、宿駅記号も
付 さ れ て い る 。 伊能測量
第 8図 積 丹 岬 付 近 の 海 蝕 崖
第 9図 2万 5千分 1地形図「積丹岬」を縮小
.
ゐ
匂
守
,
‘ 、
当時の積丹半島は、ニシ
叩
ι
ン漁が盛んで、商人によ
る場所請負も行われて賑
わいがあったのであろう 。
第 6図 2万 5千分 1地形図
ηJU
。δ
は、伊能測量の頃に開削され、海岸を避けて雷電峠を越していた。大
が続く通行困難な海岸であった 。 蝦夷 三験の 一つといわれた雷電山道
積丹半島の南、岩内から南に下がった海岸は、同様に切り立った崖
雷電海岸
ようである。 権-
由来すると言われている
ンルム(低い出崎)等に
らから船出した)④ラエ
ってくると言ってこ こか
れる 。 現在も峻険な海蝕崖を縫うように国道が走 っており 、 トンネル
た海蝕崖の様子が描かれており、大変な苦労があっただろうと想像さ
代の地形図には、刀掛岩
多数記載されている 。 現
が通過し、海岸の地名が
急峻な海蝕崖の上を測線
大図の表現を見ても、
図を見ると海岸に測線が通じており、極めて通行困難であった海岸を
で抜けているところが多い 。途中に雷電温泉があり、旅館などが数軒
測量して行ったことを示している 。 積丹半島の海岸と同様に切り立っ
建っている 。
の注 記があり、弁慶が刀
を掛けた岩との伝説があ
る。第四図の岬の先端の
岩がそれである 。
﹁雷電 岬﹂を検索すると ﹁
雷電山﹂と表示され
第 12図 雷 電 岬 刀 掛 岩
岩﹂を指す)②ライテム(焼いてうなる H落雷で山が焼き崩れ、振動
電の名称は、①ライ ・ニ(枯れ 木の意、枯れ木は近くの﹁弁慶の薪積
インターネットホ 1 ムベlジに掲載されていた説を紹介すると、雷
で、アメリカ大図の彩色図と同じくして写されたものであることは間
﹁ 第七軍管北海道之圃﹂の裏書きはアメリカ大図の彩色図と共通
ある 。
や異なり、全体的に明るい 。 また、地名等の字体もやや異なるようで
アメリカ大図と同系列のものであるが、色調は、アメリカ大図とはや
阿武次郎氏の旧蔵で、国立歴史民俗博物館が所蔵しているものである 。
第臼図は、江差追分で有名な江差の付近の図である 。 この図は、秋
江差
いる 。北海道の山についての紹介ベ lジであると思われる 。
るホl ムページがある 。 そこに﹁雷電 ﹂ の由来が記述されて
u
s
v
o
oなどで
*
違いない 。
第 1
1図 2万 5千 分 1地形図『雷電岬 J
を縮小
した) ③ ライネン(来年が雷電に転靴、アイヌの人々に義経が来年帰
第 10図 大 図 2
1号雷電岬付近
ηL
4
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
現在の江差は、﹁江指 ﹂ と
書かれている。現代の地形図
を見ると、姥神・中寄・五勝
手、豊部内、演茂尻、アイト
マリなどの地名が町名、河川
名などに残っている。 排天島
は鴎島と名称が変わり、嘗て
は島であったが、現在は、埋
め立てが進み、陸繋島のよう
になっている。ゴカツテ川の
河口の沖合には、ヒラ島と無
名の小さな島とが描かれてい
る一方、現在の地形図には、
岩礁は描かれているが、島はない。江指・を中心にして、集落記号が
多数描かれており、排天島にも黄褐色の家並みの記号が書かれている。
茨城新聞社から発刊
よしひさ・(社) 日 本 測 量 協 会 副 会 長 、 代 表 理 事 )
つづく
図 は 、 す べ て 国 土 地 理 院 発 行 の 2 万 5千 分 1地形図を適宜縮小)
(
第 1図 と 第 臼 図 を 除 き 大 図 は す べ て ア メ リ カ 議 会 図 書 館 所 蔵 。 地 形
(ほしの
川上清さん監修
﹁ウォlキングガイド茨城﹂
楽しく歩いて健康づくり
ご縁があり、茨城新聞社か
らのお話を受け約二年ほどを
しました。
掛けこのほど一冊の本が完成
今ウオ l キ ン グ は 大 勢 の 方
が取り組むようになり、順風
をあびたスポーツになりまし
た。 で す か ら 製 作 に は 力 が 入 り 、 歩 き 、 写 し 、 感 想 を ま と め ま し た 。
コl ス が 増 え る ほ ど に 茨 城 は 広 く 、 そ し て 美 し い 県 土 で し た 。
完壁とはいかないまでも、新聞社のご支援を受けて監修本として発
刊にこぎつけました 。茨城県には過去に無くはないのですが、今のス
タイルで民間人からのものは久しぶりの刊行といえると思います。エ
キスは本に全て吐き出しました。どうかご活用ないしご高評下さいま
すればこの上ない幸甚でございます。
( か わ か み き よ し ・ 茨 城 県 ウ ォl キ ン グ 協 会 副 会 長 )
2
5
第 1
3図 大 図 3
4号江差付近
第 1
4 図 2万 5千分 1地形図『江差」を縮小
国立歴史民俗博物館所蔵
﹁伊能大図謄写図﹂ 調査概報
純子
、
ー
,
〆
一つの図が数ケ所に重複して収録され
式に分けられる 。 このうち、伊能図式の図はさらに原寸の模写図と、
で表現するなど﹁平面図式﹂に改描した図(写真 6)の、大きく 一一種の形
した﹁伊能図式 ﹂(鳥轍図式)の彩 色図(絹号参照)と、山地をケパ
従来の報告にもあるとおり、地図は伊能大図の描画形式どおりに写
いる大図は一五O 図余りに及ぶ。
一四七枚の図の中に、部分・略写なども含む何らかの形で関係して
ているものもある。
の番号との対照を可能にした。
れ全図か、あるいは部分図かを確認し、伊能大図の号数と海洋情報部
海洋情報部所蔵の各国が伊能図の何号にあたる図であるか、それぞ
今回の調査で確認できた点は、概略つぎのようなものである。
が全般としての評価である。
あるが、それらの図も含めて、模写の質は非常に良好であるというの
縮小、改変の手が加わった転写図が大部分というのはそのとおりで
り、表はページ数の関係で、この報告には収録していない 。
に終了後そのデータを表の形式に取りまとめた。前述(刊号)のとお
調査には地図 一点ごとの記録用紙を用意し、必要事項を記録、さら
四、調査の記録から
一
一
〆'‘¥
縮小模写図の二種に分けられる。平面図式の図は全て縮小図である。
a
・
.2
‘
・
・
.
.
.
‘
写真 6 第100号甲斐駿河の部分(﹁けば﹂による平面図式)
g
i司!波支
木
種類別の枚数は、伊能図式では原寸模写図が六枚(二枚は重複、
王寺民主f
i
鈴
nL
a
u
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
に、集成図、部分図を合わせて六三枚、平面図式は六九枚で、集成図
枚は集成図)、縮小模写図が単独図四四枚(五枚は山・島の遠景のみ)
二枚、部分図 一 枚 を 除 く 六 六 枚 は 単 独 図 で あ る 。 な お 、 平 面 図 式 の 図
は大多数が山地を﹁けば式﹂で表現するものだが、なかに二枚(単独
図 一枚・集成図 一枚)だけ、﹁けば式﹂ではなく等高線的な水平曲線(フ
ォームライン)式の図(写真 7)がある。以上のほか、形式の特定しにく
い略写図が九枚で、合計一四七枚である。形式の特定しにくい図は九
る
。
枚としたが、伊能図式とするか、その他とするかの線引きは微妙であ
原寸模写図中の三枚は模写図としては最高のレベルに属する優品で
一三九・ 一二四 (伊能大図号数で一八 一・一八 三 お よ び 一 八 五 号 、 別
ある。報道でも特に強調された部分である。海洋情報部番号一四0 ・
府・大分、佐伯、宮崎)がこれにあたる。
縮小図のなかにも精微に写された優れた図が多数みられる(写真 8)
が、簡略な図も混在し、玉石混濡の状態である。単独図だけでなく集
成図中にも一図の図郭がそっくり含まれているケl スが多い。大図 一
図の図郭が保持されているものを拾いあげ、簡略化の著しい図を除く
と、縮小模写図として姿をとどめている伊能図式の大図の図数は七O
図前後となる。全図と部分図の判定などに確定しにくい部分もあるの
で、この数字は概数としておきたい。
表 1に、伊能図式の模写図で、内容、描写の特に優れていると思わ
れる図を集めてみた。備考欄の所見は、調査時に瞬発的に述べられた
感想の一部を書きとめたもので、必ずしも一貫した基準にもと申ついて
の判断ではない。
伊能大図の変形バージョンともいえる平面図式の図は、伊能図式の
図と比べると、書写のレベルが比較的一定しており、伊能図の骨組み
52
写真 7 第4 8・
号松島湾の部分(フォームラインによる平面図式)
-2
7一
表 1 伊能図式模写図の優品
伊能図番号
収録地域
海保番号
4
2
4
8
6
0
山のみ)
6
3八甲田山 (
5
3 石巻・金華山
1
1
4能代・森岡・大館
7
5
1
0
2佐 渡
8
2
96-2 魚 津
備考
美麗、色使い繊細
鮮明な写図、コンハ。
スロースー
美しい
書き方ていねい
日焼けあり、斜め方眼記入
斜め方眼あり
1
3
5
6
5大坂・奈良
プラスマークで潜岩表現、議会図書館図あり
1
3
7
6
9神戸・明石・淡路
美しいが歴博図が beUer、山やや粗い
1
3
9
6
8和歌山・淡路島
美麗、海 :
水色、番号表示 1
3
8号と誤記
1
4
2
7
8
1
4
4
9
1 赤穂
1
4
6
7
9 品松
豪を錨く
晶松城の水 j
1
5
2
8
0金毘羅-川之江
美麓
1
6
9
72 安芸、平生・屋代島
原寸だが、山に樹木なし、海から見た形で山を描く、
設標位置記入
1
7
4
8
5須佐・見島
1
8
1
1
4
0別府・大分
λ口
一 λ.
良
原寸、地名修正 (
朱 )少々、露見獄、コンハ .
1
8
3
1
3
8佐伯・津久見
原寸 、城・コンパスローズ彩色良い、下回と重複
1
8
3
1
3
9佐伯・津久見
原寸、美麗、国会図よりやや簡略、上図と重複
1
8
5
1
2
4佐土原・晶鍋
原寸、全体として美しい
1
8
9
1
1
8唐津・呼子・
唐津城立派
1
9
1
1
1
9 壱岐
壱 岐 本 島 の み 、二 神 島 は 枠 外
1
9
7
1
3
6霧 島 山・小林
議会図書館図を上回るレベル
鳴門海峡・小松島・
淡路島
やや雑
緑濃い、文字良し、内陸まで忠実に写す
l
見
あ
り
島の位置、紙面に合わせて移動(
注 記 付 )、毛利図
1
9
8
由j
掌・都井岬
1
3
5j
議会図書館図をよ回るレベル、ヨンハ。
スロー λ.
美麗
2
0
1
1
2
2大 村 湾
議会図書館図を上回るレベル
204
1
2
1 平戸島
美 麗 、松浦図あり
2
0
9
1
3
2鹿児島・桜島
桜島に噴煙
210
1
3
0 串木野・枕崎
議会図 書 館図を上回るレベル
2
1
1
1
3
1 佐多岬
議会図 書館図を上回るレベル
212
1
2
9甑島
コンパスローズ美しい
213
1
4
3種 子 島
小河川を細かく写す
214
1
4
4屋 久 島
154P'155
1
7
6.
1
7
7
193・195・
196・200・
202・203
206・207
195・
196・
200・203.
205
口永良風遠景
8
8 米子・境港・地蔵崎
全体として美麗
7
4 山口・字部・萩
油谷湾に水深・底質・細かい方眼を記入、毛利図あり
肥後沿海図、天草海 原寸、 1
9
6は金、他は未確定、寛政 4年 湧 出 新 島 の 島
名丹念に移す (
引出線使用)、傷みあり、
1
2
5j
寄
1
2
7五 島 列 島
大瀬崎に鉛筆の灯台注記
1
2
8瞳摩
議会図書館図を上回るレベル
2
8-
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
をなす海岸線、街道、目当てとした山頂の位置、地名などを忠実に再
現している。﹁けば﹂や畑地の記号などが古典的な美しさをみせている。
近代図の衣をまとった伊能図としてユニ ー クな 一群である。
縮 小 図 の 縮 小 率 に つ い て は 、 こ れ ま で 、 原 図 (三 万 六 千 分 の こ の
こ分の一から四分の一とされてきた 。 縮小率を厳密に算出することは
不可能であるが、総覧との比較で算出したところでは、原図の五分の
二前後の縮小率のものが大多数である 。多数図を集成している広域図
には六分の て つまり中図の縮尺まで縮小した図もある 。 海洋情報部
番号七七(伊能図号数 一七回、 一七六、一七七、石長周海岸)および、
八二(一四八、一四九、一五九など、土佐南岸)の二点である 。
一部の図に模写担当者の姓名または姓、作業日付が記入されている 。
作業日付は五件のみ、明治 二二 年が三件、一五年と 一
二 年が各一件で
ある 。 明治 二
一 年とあるのは約六分の 一に縮小されている土佐南岸の
の作成から間もなくであり、六分の一縮小の広域集成図は遅れて、別
集成図である。大部分の図の転写が行われたのは、もとになる模写図
の機会に作成された可能性がある 。
はじめて全容に接した海洋情報部の所蔵図は、海図作成の技術者た
玉、調査を終えて
能図利用の痕跡もこの一群の図の中に残されている 。
調査対象が集成図も含む全一四七枚と大量で、限られた時間内での
ちの手になるものだけあって、全体として予想以上に精細であり、景
観表現などの徽密なものが多い 。 失 わ れ た 伊 能 図 の 全 容 を 復 元 す る た
作業でもあったため、詳細調査とはいいながら、見落とし、記入ミス
すずき
じゅんこ・日本国際地図学会評議員、新事務局長)
宇
中
さまざまな機会にデl タを充実させることができるよう願っている 。
なども多々残っていると感じている 。今回の記録データを基礎として、
地誌提要、他の地図による補記(知床半島)など、明治期における伊
書写の時期や作業者名の記載、海岸測量用の旗標位置を記入した図、
能大図総覧﹄に採用できていればとの心残りも否定できない 。
調査が困難であ った事情はあるとしても、着色された模写図を﹃伊
めの有力な手がかりにできる貴重な模写図群であることをあらためて
(伊能図式の縮小模写図)
確認することができた 。 これからの活用を期待したい 。
写真 8 第 144号 矯 磨 美 作 備 前 赤 穂 の 部 分
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ブックストリート
近著紹介
﹁佐世保戦国史の研究﹂ について
平川 定 美
拙著﹁佐世保戦国史の研究﹂は、過去十二、三年(平成六年1平成
十七年)において、佐世保の戦国史(十五 世紀 後半1十六世紀末)の
約百年間を、通史としてではなく、問題点とその背景を主軸として、
三誌に寄せた論文を集大成 したものです 。
大智庵城落城年代をめぐって・上製本四二ハ頁
一、問題の発端
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在職中から、二、 三 の郷土史関係組織に加入し、退職して﹁佐世保
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みられ、それが陶訟とされることなく紋併されているよと-関心あるものにい向して、混乱を附くことは
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史 談 会 ﹂ で 、 事 務 局 を 十 年 程 や っ て き て 、 現 在 副 会 長 を し て い ま す。
郷土史関係に携わるなかで、﹁佐世保は歴史がない﹂と云う 一般市
民の常識を打破すべく、そして、佐世保が松浦の本筋(宗家松浦)で
ある ことを強調す べきであるとの意識のもとに、佐世保の戦国史に関
わる諸問題を、私なりに掘りさげてみたい念にかられて、その都度寄
稿していきました 。
当然の事ながら、現地取材と原資料にあたることを根幹として筆を
すすめてきました。
参考文献も、そのほとんどを手もとに寄せて、孫びきにならないよ
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う留意してきました。﹁鉄砲伝来異聞﹂は、幾多の郷土史家の論考を、
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付されましょうが、一方は、平戸の人々が避けたがる問題(倭冠の頭
目﹁王直﹂ に触れること)にあえて挑戦してみました 。
私なりに、その論拠を希求したものです。学者諸史家からは、一笑に
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2007年
第 49号
伊能忠敬研究
﹁旅のフォトスケッチ﹂
茂生
この度、 ﹁ 古 希 ﹂ を 迎 え た の を 機 に 、 長 年 撮 り 溜 め た も の を
メラに納めて来ました。溜った写真もかなりの数になり﹁旅のフォト
ましたが、その旅先での感動や想いを何とか形に残したいと思い、カ
外国は、﹁安全﹂と﹁経済力﹂が理由で、専ら観光ツアーに乗っかり
た
。
若い頃からひとり旅を中心にカメラを持って全国各地を歩き廻りまし
旅好き﹂が原因の一つですが、
私が、伊能忠敬に惚れ込んだのも ﹁
集﹂にまとめてみました。
写
真
作品の選択からレイアウトまで、全くの自己流の拙い作品集ですが、
スケッチ ﹂ として作品集にまとめてみました。
自分なりに満足感を味わっているところです。
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﹁アルプスを往く﹂(フランス
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しげお・ NHKOB)
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﹁棚田の秋﹂星野村(福岡)
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J茂生「古希 i写真集
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旅のフォトスケッチ
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青柳種信夫妻の墓誌
園重
私は現在九州の某私立大学に在籍しています。今 年で五年目になり
ます。 退職後 一年目は聴講生、二年目は運よく大学院に合格できま し
た。 大学院での 二年間は﹃青柳種信の筑前考古学﹄というテl マで勉
強しました。今回の﹃青柳種信夫妻の墓誌﹄は修士論文をもとに四年
目に書いたものです 。 この修論・小論は担当教授を初め多 くの人の 扶
け に よ っ て 出 来 上 り ま し た 。 この五年間の学生生活は、私の人生で 一
番楽しいものです。 しかし勉強 生活は老 化した脳には過酷 で惨憎たる
ものです 。
伊能忠敬の﹁見事なり、二度の人生﹂注は私の理想です 。六 年目は
聴講生に再び戻るのか、違う道を進むのか、しっかり考えます。 変ら
川村優著
平成六年東京書庖
結J
ることです。
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見事なり、
二度の人生﹄
ないのは、この理想を胸に﹁鈍は鈍なり﹂に﹁青柳種信﹂を追い続け
注﹃
ぷ門階品了院大常化 伸
子
可1
種信の石蓋の拓本(福岡市博物館蔵)
車問柚柳時憎信審相之賎誌
先日間務柳種信君姓大蔵餓次廿央通称也
田守柳郷父称利三ムズ勝複明和三年丙成生
編岡地行之家生十三歳学業之譲為人
関 学 待 遇 和 漢之悪 事 回 世 之 君 候 変
質十有三度甚得名誉家年七十以矢田陣六
年乙来十一一月十七包病死率良郡鳥相制
緩
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本月十八包努本町側幾康山仲完結一口
まさき・青柳種信研究家)
青柳種春総
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河 原 文 化 語 晶 線 第 町民幽瞬
間中城?九年 一月 潟 付
車内蜘柳間鴨信夫妻の墓誌
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今井八九郎の ﹁室蘭図﹂
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一
一
-﹃脂振園室蘭郡全国﹄室蘭図書館蔵
・参謀本部陸地測量部﹃仮製五万園﹄
注注
気になっていたので、地名比較のために検討に加えてみたのが経緯で
ようになってから、地図の情報量と精度が一段と向上した。回世紀末
松浦武四郎は幕末の蝦夷地探検家であり、箱館奉行のお雇可
いとして
を詳細に対比する必要があって、大縮尺の地図が欠かせない。この点
である。このため、文献上の地名の位置を検討するには、細かい地形
付けた地名には広域地名というものが無く、小地域を指す地名ばかり
北海道には万を越えるアイヌ語の地名が残されているが、アイヌの
の記録の一部を纏めたもので、﹁エトモの澗の図﹂は﹁巻之七﹂の挿絵
て最初の蝦夷地紀行である弘化二年 (1845) の記録と翌年の再航時
提案者としても夙に有名である。﹃初航蝦夷日誌﹄は松浦武四郎にとっ
識と経験を請われて開拓判官として開拓使に出仕し、北海道国郡名の
西蝦夷山川地理取調図﹄(全部枚)を刊行している。維新後はその知
ている。又安政七年 (1860) には、収録地名 1 万を超える大作﹃東
蝦夷地の調査と建言を行った蝦夷通であり、多くの取調日記類を残し
については既に本誌に報告したことであるが(注⑨)、伊能間宮図大図
である。
を検討するのに十分な大きさの 3 万 分 1 前 後 の 大 縮 尺 の 図 が 今 井 八
時世紀に作られた室蘭地方の絵図類の中には、アイヌ語地名の位置
で比較表にいれたのだが、表に書き加えてゆく内に、記載内容が﹃今
﹁エトモの澗の図﹂については前述のように、ほんの参考のつもり
・南部藩﹃蝦夷南海岸圃 一﹄北大図書館蔵
名は諸図の間で特に相違が著しいのだが、これがほとんど一致し
-絵鞘半島外海部は間宮林蔵も未測量とした難所で、この部分の地
ている。特に顕著な類似点を挙げてみると、
いたことに、ほとんど違いが無いと言ってもよいほど、極めてよく似
絵図の形は全く異なるので、全く予想もしていなかったことだが、驚
井八九郎図﹄の内容とよく似ている、という意外な事実に気がついた。
その表記の変遷を詳細に検討したことがある(注⑤)。
・伊能忠敬・間宮林蔵﹃大日本沿海輿地闘﹄大図
・今井八九郎﹃室蘭図﹄
⑩
-松浦武四郎﹃初航蝦夷日誌 巻之七﹄所載 ﹁エトモの澗の図﹂
注
九郎図を含めて数点あり、その内 6図のアイヌ語地名を比較表にして、
は甚だ大である。
はその中で最も古い位置づけであり、アイヌ語地名研究における価値
めた。
には、蝦夷地についても地形図といえる程の精度の高い図が作られ始
だったが、異国船出現の頻発によって海防上必要な情報が求められる
間今井八九郎﹁室蘭図﹂と松浦武四郎
無い。ただ、アイヌ語地名が豊富に記載されていることがかねてから
うな絵図で、他の 5図と比べるととても地図といえるようなものでは
この内 3番目の松浦武四郎の﹁エトモの澗の図﹂は図 3 でご覧のよ
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回世紀以前の蝦夷地の地図情報は場所請負人の必要を満たす程度
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2007年
第 49号
伊能忠敬研究
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伊能忠敬研究
第 49号
2007年
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ている。その他、湾内の距離を一示す記事(南北方向 2 ヶ所、東西
松 浦 武 四 郎 は ﹁ 松 前 藩 秘 蔵 の 精 密 の 地 図 ﹂ を手に入れていたとの説
・エトモ場所(室蘭市)の地図としては、ホロベツ場所(登別市)
原図を見ていたことも考えられるが、若し北大図書館図の方を引写し
書館図よりかなり遅く 1 8 4 1年頃と推定される。松浦武四郎は測量
推測している(注②)。前述のように北大図書館図の完成は札幌中央図
があり、佐々木利和氏はこの﹁精密の地図﹂を今井八九郎図だろうと
と の 境 界 の ワ シ ベ ツ (鷲 別川)まで描くのが普通なのだが、両国
たとしても、弘化二年 (1845) の初航以前に北大図書館図を実見す
方向 1 ケ所)についてもよく似ている 。
しか描かれていない。
ともそのずっと手前のウトナンカルウシ(図 3 の右下部分)まで
を省略したという技術上の都合である。しかしながら、松浦図にはそ
ら、東側の隣接図とのつなぎ合わせの都合で、隣接図と重複する部分
にある地名に加えて、各地名聞の距離まで記載されている。この﹁蝦
文中に引用されている﹁蝦夷地行程記﹂についてで、これには図の中
なお﹃初航蝦夷日誌﹄にはこの他にも気になる点がある。それは本
ることは可能だったことになる 。
ういう理由は全く無いのだから、﹁エトモの澗の図﹂としては更に東の
夷地行程記﹂に該当する史料についても今のところ不明である 。 灰聞
特に二点目については、今井八九郎図の場合は縮尺が一定であるか
ワシベツまで描く方が自然である。これは松浦武四郎が今井八九郎図
によると、今井八九郎は詳細な﹃蝦夷地東西里数記﹄を残していると
のことだが、あるいはこれが﹁蝦夷地行程記 ﹂の出所ではあるまいか。
を写したと考えなければ説明のつかないことである。
今井八九郎図については札幌中央図書館図と北大図書館図とで記
と書かれている(図 1、右側中央の十字折り目の部分)。松浦図にも
母恋)の地名は両国とも記載が無く、北大図の方には、そこに﹁谷地﹂
いえば、北大図の方に近いと言えそうだ。例えば、ホコエ(ボコイ H
のかもしれない。ただ、松浦武四郎は嘉永七年 (1854) の﹃ 三航蝦
今井八九郎図との関係については何かしら公にできない事情があった
松浦武四郎はこれだけの地名を載せた室蘭図を世に出したことはない 。
もエトモ(室蘭)図はあるが、採録地名数はずっと少なく、その後も、
松浦武四郎が後年の調査に基づいて執筆した﹃竹四郎廻浦日記﹄に
地名が無く﹁谷地﹂とのみ書かれている(図 3、※←で示す)。ただ、
夷全図﹄(全日枚)の﹁凡例 ﹂中に、﹁諸国を見たが今井八九郎図が最
事に若干の違いがあるが、松浦図の記事がどちらの図の方に近いかと
北大図より札幌中央図書館図に近い記事(海上記事の 一部)もあり、
も参考になった﹂という趣旨のことを書いているという(高木崇世芝
郎図からの引写に違いないことに気がついた。図の雰囲気が余りに違
松前藩の先手組で防歳、丁度間宮林蔵没後叩年にあたる。先に紹介し
松浦武四郎が最初に蝦夷地を紀行した弘化 二年には、今井八九郎は
氏私信)。
両図に共通する測量原図などから引写したのかも知れない。
松浦武四郎の﹁エトモの澗の図﹂の地名が詳しいことから、かねて
うので全く気がつかなかったのだが、各図の記事の詳細な比較表を作
た間宮鉄治郎と今井八九郎との出会いはその 9年後のことである 。
か ら そ の 出 所 が 気 に な っ て い た の だ が 、 作表してみて初めて今井八九
ってみて初めて気がついたことである。
間宮林蔵に関する史料はあまり残されていないということだし、今
- 36 -
い。 伊能忠敬の孫弟子今井八九郎と探検家松浦武四郎を結び付ける手
井八九郎についても佐々木利和氏の研究の 他は 未だ広がりを見ていな
がかりは、まだ何処かにひっそりと埋もれているに違いない。
あとがき
最初に触れたように、本会事務局の福田弘行氏の熱心なお勧めとア
ドバイスが無ければ、本稿がこのような形で日の目を見ることは無か
った。また、本稿をまとめるに当たって、本会会員高木崇世芝氏から
は今井八九郎と松浦武四郎に関する諸資料について貴重な情報をご提
1 / 3・6万 米 議 会 図 書 館 蔵
文政 4年 (1821) 上 呈 。 北 海 道 部 分 全 幻 図 の 大 部 分 は 伊 能 家
⑮﹃大日本沿海輿地園﹄
控図からの明治初年の模写図。(北海道部分は文化 U年 (1817)
までの間宮林蔵の測量成果に基づくと推察される)
⑪ ﹃ 臆 振 園 室 蘭 郡 全 園 ﹄ 約 1 / 2・5万 位 室 蘭 図 書 館 蔵
明治 5年 (1872) 頃(仙台藩角田領石川家臣移住関係者の作
1 / 5万(全道制図の内室蘭部分 4図)
成図かと推察される)極彩色原折図(現状軸装)
⑫﹃仮製五万圃﹄
明 治 却 年 (1896) 製 版 参 謀 本 部 陸 地 測 量 部
その他参考文献
﹁埋もれていた蝦夷地測量師::今井八九郎地図のこと﹂(上・下)
佐々木利和﹃北海道新聞﹄ S 開・叩・ 7 / 8
﹁今井八九郎の蝦夷地図考 1和 人地関係図を中心に │﹂佐々木利和
﹃ 松 前 藩 と 松 前 幻 号 ﹄ S 印年 1月 松 前 町 史 編 集 室
- 3
7-
供頂いた。記して両氏への感謝の意を表したい。終
︻ 注 ︼ (一部前回分を再掲)
① ﹁ 今 井 八 九 郎 図 の 縮 尺 に つ い て ﹂ ・ ② ﹁ 同 l補 遺 l﹂井口利夫
-m号 ﹄ 侃 年
﹃日本北辺の探検と地図の歴史﹄秋月俊幸卯年北大図書刊行会
﹃ 北 海 道 古 地 図 集 成 ﹄ 高 倉 新 一郎 前 年 北 海 道 出 版 企 画 セ ン タ ー
﹃アイヌ語地名研究会会報部号
③﹁今井八九郎の事蹟﹂谷津尚一・佐々木利和﹃北の文化引﹄叩年
﹃校訂蝦夷日誌 一編 ﹄ 松 浦 武 四 郎 伺 年 北 海 道 出 版 企 画 セ ン タ ー
﹃伊能忠敬と日本図﹄閃年東京国立博物館
④ ﹁
今井八九郎作成の蝦夷地図考ご佐々木利和
M U S E U M尚 抑 ﹄ 初 年
﹃
⑤﹁一四世紀の室蘭図に見るアイヌ語地名﹂井口利夫
﹃竹四郎廻滞日記﹄松浦武四郎部年北海道出版企画センター
﹃ 東 西 蝦 夷 山 川 地 理 取 調 図 ﹄ 安 政 7年 松 浦 武 四 郎
としお・アイヌ語地名、松浦武四郎研究家)
年年
﹃アイヌ語地名研究 9﹄ 郎 年
@ ﹃ 今 井 信 名 経 歴 一 斑 ﹄ 今 井 徽 大 正 3年 東 京 国 立 博 物 館
﹁間宮林蔵の東蝦夷地測量﹂井 口利 夫 ﹃ 伊 能 忠 敬 研 究 引 ﹄
(
い ぐち
﹁﹃臓振園室蘭郡全園﹄について﹂井口利夫﹃茂呂澗拘﹄
⑦ ﹃ 蝦 夷 南 海 岸 園 一 ﹄ 約 1 / 2・6万 北大図書館蔵
安政年間 (1850年 代 後 半 頃 ) 南 部 藩 作 成 極 彩 色 畳 物 南 部 藩 が
警護を 命じられた東蝦夷地の海岸図 (4枚組)の 一部
③ ﹃ 東 西 蝦 夷 地 大 河 之 図 ﹄ 今 井 八 九 郎 天 保 5年 東 京 国 立 博 物 館
⑨﹁伊能大図とアイヌ語地名研究﹂井口利夫﹃伊能忠敬研究剖﹄
05 05
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
一
実
忠敬先生関連の或る古書をめぐって
はしがき
〆
'
町
、
、
、~
ぼ) B 6版で並製三0 0ページたらず、黄ばんだざら紙のような粗末
なによりも、この 三 つの名まえの取り合わせの意外性に衝撃を受けた
のです 。
を主題とした本を書いた、ということによります。つまり、わたしは、
いう記憶がなんとなくあります。が、わたしとしては、貴重な掘り出
少し明るい感じのましな本もまだ庖頭にあったのではなかったか、と
にも、物資の欠乏は日々に身にしみて感じられてはいましたが、もう
すね││、定価二円、とあります 。 当時、中学一年生であったこの身
いて(最後にはその前半﹁伊能忠敬﹂の中身についてていくらか紹介
れません。そう考えて、以下、まず著者について、ついで本自体につ
か?そうかもしれません。もしかしたらしかしそうではないかもし
この小さな本は、会員諸兄姉にはとうに知られているものでしょう
著者・伊藤至郎のこと
させていただくことにしました。
が、二つには、それにもまして、以前からずっと気にかかっている伊
なかで珍しく目にはいった、忠敬先生関連本だということによります
か?一つには、非常に視野が狭くまた怠惰なわたしの古本さがしの
この古本にこれほど興奮させられたのは、なにによるのでしょう
し物を手に入れたわくわくした気分でした。いまでも仕合せです 。
五日刊行│ │あの真珠湾攻撃のわずか三か月たらず前、ということで
な づ か い で 、 た っ ぷ り 印 刷 さ れ て い ま す 。 奥付を見ると、同年九月十
な紙(仙花紙ワ)に、泥くさい感じの活字が、もちろん旧字体・旧か
ならずして到着しました。見るからに質素な本で(フォト、参看)、(ほ
に久しぶりに胸のうちが沸き立ちました。さっそく発注し、現物は日
書庖(昭和十六[一九四二年)、と出ているのが目にとまり、とたん
の終わりのほうに、小さく、伊藤至郎著﹃伊能忠敬・鈴木雅之 ﹄伊藤
さきごろ東京の或る有力な古本屋さんから送られてきた豪華な目録
間
藤至郎という篤実なヨーロッパ数学(史)研究者が、昔の日本人 二人
じつは、 手もとにすでに一冊、この人の著書があります。伊藤至郎
1
3
8-
秋
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
うに粗末な紙を使った A 5版二五0 ページの地味な本(定価二五O 円)
体に改めました)︹昭和二十三[一九四八]年十月)がそれで、同じよ
著﹃対応の学としての数学﹄真善美社(書名・出版社名の表記を新字
の大半を引用させていただくことにします││
ことに、気がつきました。そこで、かなり長くなりますけれども、そ
述べることによって、まことに適切な︿自己紹介﹀をしてくれている
学問的関心とそのこれまでの展開とこの先の展望とについて穏やかに
先生(一九O 一ー一九九O
) から、︿旧・唯研 (1)の仲間に伊藤至郎と
代かの或る日、東京のどこかで、なにかの折りに、尊敬する古在由重
寄せたことに間違いありません。││むかし、
れて、少年の胸に哲学者となるためには数学を学ばなければならな
いる。ただその昔においてカントの﹃プロレゴメナ﹄などに刺戟さ
ごもさらにふかく数学をおさめるということもなく今日に至って
余年の昔に東京物理学校 (2)の数学科を卒業したにすぎない。その
﹁・・・・わたくしは特別に数学をふかく学んだわけではない。二十
です。巻末に︿一九九一年十一月十三日に逗子で手に入れた﹀と書き
付けてありますから、今回と同じく通信販売で古本として自宅へ取り
いう人がいた。この人の学問的業績は、もっとまともに評価されてよ
い、とおもうようになり、貧しい農家の子であったわたくしは物理
一九七0年代か八0年
いのではなかろうか?﹀、とじかに言われたことがありました。わたし
たら、どの古書目録を見てもこうした書目が目にとまるというような
談や雑談であった。わたくしは物理学校では怠けものの劣等生にす
一先生 (3)の函数論と微分方程式との講義のおりおりになされた余
・・・・いまもなおこころにきざまれているのは三掛谷宗
ことはなかったでしょう。そして、入手時、まず﹁あとがき﹂を読ん
ぎなかったが、掛谷博士の独創的な考え方とでもいうべきものにふ
0
学校をえらび、そこで数学を学んだのであった。
で、その控え目な調子になにかしみじみ心に訴えられるものがあった
れることができ、自分なりの尊敬の仕方でこの師を仰いでいた。わ
﹁
・
・
・
・
は、この時はじめて﹁伊藤至郎﹂という名まえを知り、先生のこのメ
のを覚えていますが、本文は、古代ギリシア数学をおもに論じた前半
たくしがこころにえがき、またのぞんでいたのは、単なる学問のう
ッセージがその後ずっと頭のどこかに残っていました。そうでなかっ
に数式と図形とが多いのに僻易して、あまり身を入れては読みません
け売り・物まねではなくて思索者・思想者としての学者の面影であ
ったのだったから。
でした。
ご一十余年の歳月はしかしこの鈍根のわたくしを哲学者にも数学
﹁唯物論研究会﹂の略称。この会は、唯物論的世界観の研究
と発展と普及とを目的として、一九三二年十月に設立されて活動
者にもまた技師にも教育者にもすることができなかった。わたくし
﹁ただ、もしも読者がこの種の文章に多少の関心を抱いてくださ
うとは思はない。
ない。したがって本書の内容の浅薄なことについてはここにしるそ
まさら・ ・・・自分の学問の狭く浅いことを弁護しようなどとは思は
はいまもなお中途半端な人聞として生活している。それゆえ・・・・い
しましたが、すでに潰滅させられていた日本共産党の再建を狙う
非合法組織だと天皇制司法 H警察権力の手でこじつけられでっち
あげられて執揃に圧迫された結果、三八年二月に自主解散を余儀
なくされました。
このほど ﹁あとがき﹂を読みなおして、著者がここで自分の出自と
ntu
ny
の数学の発展のなかに、わたくしなりに問題をとらえ、対応の学と
るなら、わたくしはさらに時をえて、これにつづくルネサンス以後
洋戦争開始前夜の時期であったこととは別に、自分のうろおぼえでは
書かれていることをあらためて確認したとき、わたしは、これが太平
と思いいたるに及んで、不意に、猛然、一つの思いに襲われたのでし
このころ唯研が弾圧の嵐にさらされているさなかではなかったのか、
﹁本書の刊行と前後して、わたくしはなお丹波書林から﹃数学と
しての数学のすがたをたどろうと思う。
弁証法﹄を、月曜書房から﹃通路﹄││或る数学徒の思索ーーを出
のなら、このころ官憲から目のかたきにされ痛めつけられてはいなか
ったのか?そもそもどのような(つまり、熱心で積極的な、あるい
た。それは、もし著者が古在先生のおことばどおり唯研会員であった
間にわたくしがわたくしなりに歩んできた途上のまずしい仕事の
は、消極的ないわば形だけの)会員であったのかワそして、この本
版することになっている。これらのものは︹、︺二十余年の歳月の
うちの、数学や哲学に関係ある文章を集録したものである。これら
く知りたいものだ、という思いです。
とができたのか?といった事柄をおくればせながらできるだけ詳し
をどういう状況のなか・条件のもとで書き、さらに出版に持ち込むこ
著者﹂。
のものも本書とともに文科方面の方々の一読をえたいと思う。
一九四八年六月四日夜
千葉県 一宮町において
は、わたしにはもうあらましわかっているところでした。この人がわ
このように伊藤至郎が哲学に関心をもった数学研究者であったこと
九月に、︿全国の主要新聞社などに責任をもって時事・文化など各方面
執筆活動の要員としても名まえを出していて、たとえば、一九三六年
し、翌日の第一回幹事会では、財政部に配置されました。また、会の
-古在由重・松田解子・平林たい子その他といった面々ととも
- 40 一
こうして、さしあたり手もとにある二、三の文献だけを使って(例
まず、伊藤は、はたせるかな、熱心な唯研会員の一人でした。いつ
によっての不精・怠惰!)いくらか調べごとをしました。その結果、
現在の東京理科大学の前身、一八八一年創立。︿入学はきわめ
(3) 高名な数学者で、本務校は東京帝国大学であったはずです。
入会して各種の読書会・研究会などのうちどれに参加していたのかは
断片的にではありますが、つぎのようなことどもがわかりました││
著書として、わたしの知るかぎり、岩波書庖の﹁高等数学叢書﹂
不明ですが、会の運営自体にも早くから参画するようになっていたら
て易しいが、卒業はきわめてむずかしいてと言われていました。
のなかに﹃一般函数論﹄・﹃高等数学概要﹄が、同﹁岩波全書﹂の
しく、たとえば、一九三五年十一月十日に開催された第四回総会では、
が忠敬先生となぜ、またどのように、取り組むようになったのか、そ
方定
同人五四名のなかに、三木清・戸坂潤・小倉金之助・中野重治・士
行なう事業の主体として﹁東京学芸通信社﹂が設立されたさい、その
にわたるニュースや評論などを供給する﹀という、実質的には唯研が
ところが、こんどの本を手に取って、﹁序﹂が一九四一年九月一日に
2
れを明らかにすることが、わたしのつぎの仕事になるはずでした。
書記に任命されたあと、改選された二九名の幹事の一人になりました
なかに﹃微分学﹄が、それぞれありました。
2
2
0
0
7年
第 49号
伊能忠敬研究
に就任したのでした。さらに、この年の十月 四 日に挙行された﹁秋の
にはいっていましたし、それどころか、推されて、この通信社の社長
である﹂││と広告されているのは、三笠全書に予定されていて出版
した 真に科学 的な科学史記述の精髄であり、青年すべての必読の文献
三二O
されなかったあの﹃日本科学史﹄と同じものであろうか、という問い
てんまつ
H
遍歴
について語っているか
H
最後に、 伊藤が唯研の中心メンバーの一 人として理不尽な思想弾圧
どうかはわかりませんが 。
ーーもちろん、著者が自分でこの本の
きれば、いつの日にか、現物を手に取って確かめてみたいものです、
本よりもすこ し早 く実際に 刊行 されたことは確実、と思われます。で
頁 定 価 二円 一 T十五銭﹂と具体的に出てもいるので、わたしたちの
です。まず間違いなくそうでしょう 。広告には、﹁ B 6版函入
ピクニック﹂では、企画委員長を勤めました (4)。
(4) 以上は、渋谷一夫﹁唯物論研究会の歴史﹂ (4)、﹃イル・サジ
アトl レ﹄第お号(二O O六年五月)、によりました。
も う こ の 時 点 (一九 三六年秋ごろ)において、かれは唯研の中心メ
ところで、唯研がその時代および後代の日本国民に献げた最大の贈
ンバーの一人であった、と言ってよいでしょう。
り 物 は 、 戸 坂 潤 が 中 心 に な っ て 企 画 し 推 進 した﹁唯物論全書﹂全五O
行されたーーであった、と言えるでしょうが、伊藤至郎は、その著者
一次全一八 冊・第 二次全 一八冊・第 三次全一四冊、というぐあいに刊
維持法違反容疑でいっせいに検挙しました。そのなかに伊藤もはいっ
は、唯研の全面的破壊を狙って、中心的な主要メンバ ー 一四名を治安
一九三八年十 一月二十九日早朝七時、警視庁特別高等警察課(特高)
に さ ら さ れ た 願 末 に つ い て 述 べ ま し ょ う。
たちのなかにははいっていま せん。おくれて、第四次唯物論全書と見
このあと数年にわたって続けられ、検挙された関係者は併せて一 0 0
ていたのです。ここにいわゆる﹁唯研事件﹂が発生しました。検挙は
冊 ││一九三五年五月から三七年十二月にかけて、三笠書一房から、第
なせる﹁三笠全書﹂第 一期刊行予定分のなかには、かれの﹃日本科学
名ほどになったようですが、詳細は不明だそうです。ここでは、話を
史﹄が顔を出しています。 これもしかし、一九 三八年四月から 三九年
一一月までに実際に 刊行された全 一六 冊のなかには、はいりませんでし
伊藤とその周囲とに限りましょう 。
いは、たらいまわしにされていくつかの警察署に順番に││留置され
想像するに、ご多分に洩れず、東京市内のどこかの警察署に││ある
検挙されたのちのかれの動静については、なにもわかっていません。
51
た(
(
5
) 以上は、久保昭男﹁﹃唯物論全書﹄・﹃三笠全書﹄書誌﹂、芝田
/鈴木/祖父江(編) 唯 物 論 全 書 ﹂ と 現 代 ﹄ 久 山 社 (一九九 一
﹁
﹃
年五月)所収、二二五ペ ージ以下、によっています。
木雅之﹄の巻末に伊藤至郎著 ﹃日本科学史﹄││﹁科学興隆の叫ばれ
ったにちがいありません 。 しかし、この歳月についてわたしに与えら
ベ﹂を受けたのでしょう。この間、勉強も執筆もできる状態にはなか
かん
て、起訴されるまでのかなりの期間、多かれ少なかれ暴力的な﹁取調
る今日、私たちは篤実なる科学史家による日本科学の史的展望を得た。
れている情報がただ一つだけあります。か れにたいして一九四O年二
ここに、興味ぶかい問いが 一つ生じてきます。 わが﹃伊能忠敬・鈴
ここに書かれたものは[、]上代日本からの民族生活と社会的動向に即
- 4
1一
月 二十八日に予審請求が行なわれ、
一九四 一年四月 二十 二日に予審終
結の決定がくだされた、というのです 。 予 審 と は な に か ? 旧 法 制 で
﹃広辞苑﹄第五版による
起訴のあとに取られた裁判手続きのことです 。
と、﹁事件を公 判 に付すべきか否かを決定する公判前の裁判官による非
ご覧ください 。
前列左から武田武志、石原辰郎、後列左から伊豆公夫 、永田広志 、戸坂潤、
公開の手続﹂であり、﹁その判断に必要な事項および公判では取り調べ
石井友幸、本間唯一、新島繁、岡邦雄、伊藤至郎、メJ
I回新七、森宏一
にくいと考えられる事項の取調べを 目的 とする﹂のだそうです 。 これ
かん
は、裁判官によるものですが、非公開ではあることから、どうもわた
しには、︿被告人の身柄はこの間まだ官憲に拘束されたままであったろ
う て と い う 気 が す る の で す 。 つまり、︿伊藤は、予審終結決定のあと
ではじめて保釈されていちおうの﹁自由﹂を回復し、友人 ・知人との
交流や落ち着いた研究また執筆などができるようになり、公判廷にも
が保存されていて、前掲﹃﹁唯物論全書﹂と現代﹄
H
42 -
自宅から私服でかよい、第 一審判決を待ち受ける身になったのではな
いか﹀、と思えてならないのです 。
なぜこのことにこだわるのかと言えば、それは、ともかくも身辺静
序
﹂
穏であったこの時 期 にあたったからこそ、伊藤には、九月一 日に ﹁
を書いて本書を世に送る準備を終えることができたのだ、と考えるか
らにほかなりません 。 この日々にはあとでまた 立ちもどる機会があり
ます。 当面は、裁判の進行を終わりまで見とどけましょう。
その第 一審 判 決 (一九四 一年十 二月 二十六日、あるいは、十 一月 二
十八日 。 この両説あり、急いで調査して確定しなければなりません)
では、伊藤は、懲役 三年の求刑にたいして、懲役二年・未決通算 三O
記念写真
(
6) 第一審判決の日に │ │判決 言 い 渡 し の 前 ワ あ と ワ ││撮ら
O 日、という刑を言い渡されました 。ちなみに、戸坂潤のばあい、求
刑 五年にたいして、懲役四年・未決通算二一O 目、でしたし、ほかの
。
6)
被告人たちにも似たりよったりの刑が言いわたされました (
N
の巻頭に掲げられています。伊藤の顔もわずかにのぞいています。
れた
「唯研事件 J
第一審判決の日 (
1
9
4
1年 1
1月 2
8目、日比谷公園 )
たいして、第一審と同じ刑が言い渡され、戸坂のばあいには、求刑四
は、一九四二年十二月十六日にくだりました。伊藤には、求刑二年に
こ の う ち 八 名 は た だ ち に 控 訴 し 、 東 京 控 訴 院 に お け る 第 二審 の 判 決
機会が得られれば、どこかで紹介しましょう。
く 受 け と め ま し た 。 今 回 は じ め て 気 が つ い た 貴 重 な 証 言 です。他日、
ところがあったてと書いてあるのを見つけ、興味ぶかくまた感慨ぶか
ほど前に千葉は 一宮 町 の 自 分 の 家 を 訪 れ て 自 分 と 空 間 論 に つ い て 語 る
0
前掲﹃証言﹄、 三 五 ペ ー ジ お よ び 三 ページ 。
て そ の 生 没 年 く ら い は 正 確 に 知 り た い も の で す。
定 で き る わ け で す。 い っ た い 、 い つ ま で 生 き た の で し ょ う か ? せ め
が正しければ、あの﹁あとがき﹂がかれの絶筆となった可能性さえ想
悪 化 の た め ﹁ 戦 後 間 も な く 死 ん だ ﹂ と い う 認 定 も あ り ま す (8)。 これ
の 受 難 に つ い て は 、 な に も 語 っ て い ま せ ん 。 しかし、持病(肺患)の
六月四日にはまだ生きていて、あの﹁あとがき﹂を書きました 。 自 分
ないまま、 1 1戦 争 を 生 き の び て 、 右 に 見 ら れ る と お り 、 一 九 四 八 年
ま ず 間 違 い な く 後 年 の わ た し た ち の う ち だ れ 一人 ま っ た く な に も 知 ら
で は 、 伊 藤 に つ い て は ど う で あ った の か ? な る ほ ど か れ は 、 ー ー
した 。 な ん と 腹 立 た し い 痛 ま し い こ と で し ょ う か !
日、敗戦のわずか六日まえに、酷熱のなか死ななければなりませんで
ま れ 放 置 さ れ た 結 果 、 ひ ど い 府 癖 に か か り 、 つ い に 一九 四 五 年 八 月 九
な非衛生居住条件を備えた独房に(たぶん意図的にしたろう)放り込
こまではと予想してはいなかったにちがいない極端に非人間的な劣悪
その戸坂は、下獄した長野刑務所において、疑いもなく自分でもそ
年 に た い し て 、 懲 役 三年 ・ 未 決 通 算 一二O 日 、 と 、 す こ し 軽 減 さ れ ま
した 。 両人は、ほかの 三 人 と と も に 、 判 決 を 不 服 と し て た だ ち に 大 審
院に上告しました。
なお、 右 の 第 二 審 判 決 ( の ﹁ 判 決 理 由 ﹂ の な か ) で は 、 岡 邦 雄 ・
戸坂・森宏一を﹁共産主義ニ共鳴スルニ至リタル者﹂と、永田広志を
﹁共産主義ヲ信奉スルニ至リタル者﹂と、新島繁・伊藤至郎・伊豆公
夫を﹁依然共産主義ヲ信奉シテ改メサリシ者﹂と、それぞれ決めつ
けているとのことです 。 この認定と量刑との関係については、わかり
ません 。
大 審 院 は 、 一 九 四 四 年 四 月 八 日 に 上 告 を 棄 却 し 、 これによって刑が
確 定 し ま し た (7)。
(7) 以上は、おもに本村四郎氏の詳細な調査研究﹁﹃唯研事件﹄と
一二 九 ペ
治安維持法﹂、﹃季報・唯物論研究﹄編集部(編)﹃証 言 ・唯物論研
究 会 事 件 と 天 皇 制 ﹄ 新 泉 社 (一九 八 九 年 ) 所 収 、 九 八
ージ、によっています。この本には、﹁事件﹂についての証言・意
見がほかにも収められていて、参考になります。伊藤への言及も
)
能忠敬﹂ に立ち向かわなければなりません。
このあとは急いでその著書﹃伊能忠敬・鈴木雅之﹄とくにその前半﹁伊
不 明 な 点 が ま だ ま だ 残 っていて残念ですが、このへんで切り上げて、
というしだいで、著者・伊藤至郎については、その生没年をはじめ
8
いくつかあります (そのうち、 三五 ページの ﹁伊藤四郎﹂ は誤記
です
さて、 刑 確 定 の の ち 、 ど う い う こ と に な っ た の で し ょ う か ? た だ
ち に 収 監 、 と い う こ と で は な く 、 下 獄 ま で に い く ら か 時 日 の 猶 予が与
え ら れ て い た ら し い で す 。このたび、﹃対応の学としての数学﹄の後半
を す こ し て い ね い に 読 み 、 そ の 一部﹁空間論のために﹂を読んで、一
九一 / 二ページに 、︿戸坂が下獄(同年九月に長野刑務所へ)の一
日
O
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
η0
4
ーなぜこの本を書いたのかっ・ ど ん な 本 か ?
2 いつこの本を書いたのか?
3 ﹁伊能忠敬﹂はどのような作品か?
なによりもまず、この本が、時期も異なれば活動分野も異なってい
た二人の男の話をいわば仲よくいっしょに並べて一冊にした、かなり
風変わりなものだ、ということを、あらためて確認しましょう 。
すなわち、忠敬先生が江戸時代後期に日本全図を完成させた卓越し
た測量家・地図製作者であった(一七四五一八一八)のにたいして、
鈴木雅之は、平田篤胤の流れを汲む国学者であり歌学者・歌人であっ
た(一八三七七二ょうです。この本がこういうこ人をそれぞれ主
役にするという独特なつくりになっているということ、じつはこれに
はちゃんとしたわけがあり、ここにこそその最も基本的な特徴、がある
のです。わずか四ペ ージの﹁序﹂を読むと、著者がどのような動機に
駆り立てられてこの本を書いたのか、よくわかります。なかほどに こ
うあります││
﹁忠敬は多く世に知られた 。彼はまたたしかに知られるに値する
人でもあった。下総の人達が彼︹上総に生れたが養子として下総の
人になった彼︺ありしを誇るのはもっともなことといふべきである。
忠敬先生と比べてず っと知名度の低いこの鈴木雅之については、少
し前のほうにこう書いてもいます││
﹁鈴木雅之を語るにあたって私はここではただ彼が世に知られずに今
に到ったことを遺憾に思ふこころを以でしたといふ外はない。彼を世
に知らせてやりたい、かう私は思ふ﹂(二ペ ージ)、と。
9)は、切々とわたしの胸にも響いてきます。これ
著者のこの思い (
ほどにも強くかれが自分の故郷が生んだ世に知られずにいるこの逸材
一八七ペ ージ以下あたりでも、あらためて吐露さ
のために力を尽くそうと念じていたことに、わたしは、深く感動しま
(
9
) 本書後半、
す
。
れています。
総じて、自分の故郷に生まれたこの二人のすぐれた先人たちのみご
とな業績を顕彰することが、伊藤が本書を著した最大の動機であった、
貧
と言うことができるでしょう。その大もとにあったものは、自分が ﹁
しい農家の子﹂(前掲﹁あとがき﹂)として生まれ育った下総の地わけ
でも一宮町に寄せる、かれ自身の深い愛情であったにちがいありませ
下総の誇るに値する思想家であり国学徒であった。下総がこの人を
れ、それ故に彼ありしを誇る一人である。しかし、鈴木雅之もまた
わせれば、かれ伊藤至郎自身、いまでは一宮の人たちが誇るにたり顕
て著者﹂と書いていることに、それを感じとる者です。わたしに言
に、とくにたとえばあの﹁あとがき﹂の最後に﹁千葉県一宮町におい
ん。わたしは、かれが著書のあちこちでご宮﹂としるしていること
埋れたままでおくことは[、]恥辱とはなるが決して褒められること
彰するに値する篤実な思索者・学者です。本書は、そのような伊藤が
彼は下総が誇るに値する人物であった。そしてこの私も下総に生ま
ではない。私はいま世にむかつて下総に彼ありしを誇る。さうして
4
4一
1
心をこめて取りまとめて世に送り出した貴重な作品なのです 。
4
彼が世に知られるの日が待たれてならない﹂(三ページ)、と。
4
2
0
0
7年
第 49号
伊能忠敬研究
入れの対象であるその原稿のいちおうの完成がいつのことであったか
作業がこの晩に完了したことを認定させてくれますが、もちろん、手
伊藤至郎は、では、いつ本書を書いたのでしょうか?
一一二ハ]年十一月﹂に書きあげられていたことが、その末尾(二七九ペ
ところが、後半﹁鈴木雅之﹂では、本文がすでに﹁昭和十 一 [一九
については、なにも推定させてくれません 。
敬﹂・﹁鈴木雅之﹂の両篇とも、一九三八年十一月二十九日早朝の検挙
ージ)に明記されています。他方、二七九 ページから二 九 一
ペ ージま
でに及ぶ鈴木の﹁著述目録﹂が﹁昭和十六[一九四二年六月三十日﹂
開始されていた、と想定して﹀のか、それとも、公判も終わって唯研
四か月たっていて、まだ公判廷がよいに追われていた︿すでに公判は
はどのような生活をしていたのか、想像してみましょう。保釈後ほぼ
さしあたり、かれが﹁序﹂を書いた一九四 一年九月 一目のあたりに
と考えるほかに、もう一つ、いわば﹁内的論拠﹂とでも言いたいもの
てその時期をやはり数年まえへさかのぼらせないわけにはいくまい、
するのです。それは、さきほど確認した物理的・時間的条件から言っ
ーーやはり検挙まえにほぼ書きあげられていたのではないか、と推定
わたしは、﹁伊能忠敬﹂の本文も、││明示されてこそいませんが、
に、さらに﹁鈴木雅之年譜﹂(二九二二九六ページ)が同年﹁七月二
の仲間たちと同じく静かに判決の日を待っている状況であったのか、
があるからです。それは、下総出身のこの両人を顕彰したいという、
まず、︿拘禁中││検挙されてから予審終結の決定←保釈にいたる
わかりませんが、いずれにしても、少なくとも、この短日月のあいだ
かれのあの熱意です。か れは、この情熱に駆られて、検挙まえの 一時
十一日﹂に、それぞれ書きあげられて、本文に付け加えられていまし
に、本書全体(あるいは、ただ前半だけ、ないし、ただ後半だけでも)
期(たとえば、一九 三七年ごろ?)に、﹁鈴木雅之﹂に続けて、集中的
までの期間ーーには、勉強も執筆もできなかったにちがいなく、それ
のような、それなりに大量の原稿を書きあげることは、常識的に判断
また継続的に﹁伊能忠敬﹂の著述にたずさわったのではないでしょう
て、︿本文は検挙まえに完成、あとは予審終結決定後のあの時期・それ
して、不可能であったでしょう。 かれにやれたのは、すでに基本的に
か?こうして、上掲の結論を出してよい、と考えたしだいです。ご
も九月 一日まえの日々に執筆てというのが、はっきりわかります。
はできあがっていた原稿を読みなおし、それに手を加えて完成度を高
批判ください 。(原稿が検挙のさいに押収されずに すんだのか、あるい
からのことであったはずだてというのが、わたしの推論の前提です。
め、最後に﹁序﹂を書いて上梓に備える、という、ただその程度の作
(あきまみのる・東京都立大学名誉教授、哲学・自然科学思想史)
ど、そのへんのところは、まったく不明です。) ( 続 く )
は、押収はされたがあとで保釈かなにかのさいに返却されたのか、な
二七夜﹂としるされていて、右に示唆したような手入れ(仕上げ)の
前 半 ﹁ 伊 能 忠 敬 ﹂ の 本 文 の 最 後 に は ﹁ 昭 和 一 六 [一九 四 二 ・ 六 ・
すこしテキストについて見てみましょう。
業だけではなかったでしょうか?
をともかくも再開できるようになったのは、二昌町の自宅にもどって
れです。
まえにはほぼ完全に書きあげられていた、と見られるてというのがそ
︿ ﹁伊能忠
が、もうここでいち早くその結論を述べてしまいましょう。
以下、このことについていくらか考察めいたものを展開してみます
2
ZU
4
﹁文化の開拓者伊能忠敬翁﹂ (六)
伊能測量のバックボーンとしての﹁利根水運﹂(二)
敏
に入り鉄道が整備されると(明治 三十年鉄道が銚子まで開通)、輸送の
くことになる。替わって銚子が発展してゆくことになるのだが、明治
とや、潮来河岸が堆積物で浅くなったこともあり、潮来は衰退してい
利 根 川 河 口 の 難 所 が 整 備 さ れ る と 、 潮 来 ル l トは積み替えがあるこ
性が増した 。
海 洋 輸 送 に の み 頼 る こ と への危倶から利根の水運はその意味でも重要
外国船が現れるような事態になると江戸への米などの物資輸送が
力、情報力を生んだといえないだろうか 。
水運による潮来・佐原の発展が伊能忠敬の全国測量を可能とする財
の御用商人として繁盛した 。
部藩蔵屋敷が建てられた 。窪 谷 ・ 宮 本 両 家 は そ れ ぞ れ 仙 台 藩 ・ 津 軽 藩
は 一層繁栄することになり(注@)、仙台藩蔵屋敷、津軽藩蔵屋敷、南
は そ れ に 代 わ る も の と し て 水 戸 藩 に よ り 開 拓 さ れ た 。 これにより潮来
土用までの 三 カ月間しか使えず危険も多かった 。 潮来ル 1 ト(注⑤)
入 り 風 待 ち し 、 そ の 後 江 戸 湾 に 入 る 航 路 で あ っ た 。 しかし、初夏から
る こ と な く 、 海 路 で 直 送 さ れ る よ う に な った。 房 総 沖 か ら 伊 豆 下回に
開かれると、東北米はそれまでのように利根川河口で川船に積み換え
河 村 瑞 賢 ( 注 ④ ) に よ り 、 寛 文 十 一年(一六七一)、 西廻り航路が
内
中心は利根水運から鉄道そして自動車に変わっていく 。 海洋輸送も本
与 三郎かたへ
役人衆奉之
葵酉八月六日(一五七三年)
麻廿把請取可申也
かたへ一把十両目之
の儀、宮内清右衛門
被仰付候、然者、あみ
の事、去年のことく
さっさ川のあち
(筆者家所蔵)
役人より与三郎網代状の写
宮内清右衛門尉殿
六月 二 日 花 押
永禄十 三年 庚 ・ 午
件
、
相違者也、仇如
御知行之内不可
般、実城役之儀申上候、
従下総小南乗船士宮
(演宅宮内家所蔵)
築 田 持 助 判 物 の 写 二 五 七O年)
工事と河口堰の建設によって高田河岸をふ く めて多くの河岸は姿を消
必
し、現在河川敷とな っている 。
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仏、ずむ会0
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格化し、利根の水運は表退の速度を速めた 。最終的には利根川の波諜
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2007年
第 49号
伊能忠敬研究
さしきたり候、
(筆者家所蔵)
国岡田野尻商人網代状の写
久しくおのく
あ ち と も の 事 む か ひ こ ふ 百姓
わひ事申について、めしはな
され候、其のため御印判を以、
山
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幹勝(花押)
額賀長門守
一筆候、以上、
小見阿衆御挽之口横合不可有之候、
為後日用
霜月十日
藤枝弥三郎殿
(宮本茶村による額賀幹勝について
の考証)
利根水運を支えた高瀬船
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冨獄三十六景常州牛堀
千葉県立大利根博物館蔵
葛飾北斎によって描かれた利根 川
の高瀬船。船の中から釜の水を捨てて
いる。この屋根のある場所をセイジと
いい船頭が寝起きをする場所である。
セイジの上に帆柱が倒してある。船首
がおいてあり、荷物の上にカマスが積
にホウキとアカトリ(水を汲む道具)
んである。銚子から江戸までは早くて
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たか回
元亀四年葵酉八月十四日
(一五七三年)
宮内清右衛門三川田状
(演宅宮内家所蔵)
さん 川 にてか﹄へ申団地之事、
五段くたされをく所也、伺し
をかま之事ハ、上申へき分申
之上、其意にあひまかせら
る﹄者也、伺知件
役人衆奉之
一週間から十日ほどかかった。
(大利根博物館説明文より抜粋)
高瀬船は利根の水運を支え、江戸時
藤枝弥三郎船之事、額賀長門守
い、昭和の初期にその姿を消した。
な役割を果たした。しかし、その後、鉄道などの陸上交通の発展に伴
代には潮来・佐原・銚子の発展に大き
判口船ニ而候、当領衆之事者勿論、
額賀幹勝より藤枝弥三郎船状の写(筆者家所蔵)
ゆるされ、七貫五百文おさめさせられへき也、以上
追而、御船之事こしらへ申候由之問、当年者五百文
壬正月一 二
日 (一五七 二年 ) 宮 内 清 右 衛 門 尉
壬申(鶴丸黒印影)
錦
絵
ウ
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4
仙台より参候ハ、木材木其外何にでも、河内之﹂船賃世上
運賃たかく候へハ、 つませ申間敷候
安藤由紀子氏による)
ちゃうし H銚 子 、 高 回 日 現 銚 子 市 高 田 町
清右衛門を名乗る 。
宮 内 家 三世 、 五 世 の み 彦 左 衛 門 を 名 乗 る 。 六世以後は
一
房丁(米百俵ほど積める小回りの利く船)のこと
なみより
豪 商。
火 の 際 、 木 曽 の 材 木 を 買 占 め て 大 き な 財 産 を 築 い た 。 江戸時代初期の
三重 県 伊 勢 生 れ 、 江 戸 の 大
拝領品とある伊達の家紋(笹すずめ)入りの漆器
佐 々 若 狭 守 H仙 台 藩 士 と 思 わ れ る
何のための目録か不明 (筆者家所蔵)
(解読伊能忠敬研究会
後見で藩主になる (
1
7
9
6
1
8
0
9
)
2 1
注 ④ 河 村 瑞 賢 (一六 一八1 一六九九)
伊達藩主 9代松平陸奥守政千代周宗の目録
注注
注
3
天領 租 米 を 江 戸 へ 運 ぶ 航 路 の 開 発 命 じ ら れ 、 阿 武 隈 川 河 口 の 荒 浜 か
- 48 一
利根水運が結ぶ仙台(伊達)との繋がりを示す品々
︻釈文︼
並ニ候は、たか田之者共ニ船を借り申候様ニと、仙台より
いずれ
注 1) ば う ち ゃ う に
上 せ 申 候 衆 そ 堅 可 申 付 候 問、 (
て 江 戸 ま で 御 届 致 候 船賃 は 何 も 之 な み 口 御 取 入 候
て、知此申入候以上
佐々若狭守 (花押)
此度天下様之御材木参候ニ吉岡田之衆 、 才 覚 被 仰 候 ニ 付
元和六年
四月十四日
高 田 彦 左 衛 門 殿 ( 注 2)
政 宗 様 之 御 米 又 ハ 御 材 木 ち ゃ う し ( 注 3) え棺登申候へハ
御運賃之儀ハ、いたこほこだるみにて候へハ高田衆ニつ
市$孝
ませ可申候此度川せにて、天下様御材木のぼ園かね申
候 を 、 高 田 衆 一さくを相すて、 のほせ被申候侭 、 川内之
(筆者家所蔵)
1
6
0
0年代、仙台米、木材運送に関わる文書
(筆者家所蔵)
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
下り酒田から海路下関・大坂・下回を経て江戸へ入る西回り航路も開
ら房総沖をへて江戸へ入る東回り航路を開発した。 その後、最上川を
を得て、恵まれた環境で育ったと見るべきであろう。
てからは、縁戚に当る平山季忠の我が子以上とも思えるバックアップ
や湖沼など一部陸路を経て潮来に集積され、川舟に積み替えられて利
注 ⑤ 潮 来 ル ー ト 海 路 運 ば れ て き た 物資 は 茨 城 県 那 珂 湊 に 入 り 、 河 川
も二役も果たしたに違いない。学僧から数学を学んだことも、医学を
地方の名主ネットワ ー ク も あ っ た 。 そ れ ら は 忠 敬 が 大 き く 育 つ に 一 役
があり、医学者や本草学者の平賀源内などとも面識があった。また、
平山季忠は、幕府学問所の昌平餐に学んでおり江戸の学者等の人脈
。
根川に入るコ l ス
志すに至る過程においても、また、土浦に出て医学を学ぶことができ
発した。
注 ⑥ 水 戸 藩 御 用 金 ( 元 禄 十 三 年 ) 御 用 金 三O O両 以 上
潮来
一潮来
忠三郎
窪谷庄兵衛
宮本平衛門
玉O O両
七五O 両
一三O O両
三OOO両
少年三治郎(忠敬の幼名。婿入り前は佐忠太と名乗っていた)には
たのも、平山季忠の助力なくしては不可能である。
湊
助衛門
五O O両
平山季忠をしてほっておかせない何か(向学心・野心・青雲の志・大
名
潮来
山 三郎
五O O両
順住所金額
潮来
市衛門
養家伊能三郎右衛門家は永沢治郎衛門と並んで、佐原で両家と呼ば
忠 敬 は そ の よ う な 地 域 環 境 の 中 に 生 ま れ た の で あ る。
いる 。地 域 経 済 的 に 余 裕 が あ り 文 化 的 に も 発 展 し て い た 証 拠 と い え る 。
取引も活発で実学の算盤等の他、和算も庶民の聞に広まっていて学ぶ
当時、小関家のあった九十九里町は干鰯(ほしか)で賑ぎわっていた 。
季 忠 の ﹁ 忠 ﹂の一 字 ま で 与 え て い る 。 大 変 な カ の 入 れ よ う で あ る 。
伊能家婿入りに際しては、自分の養子とし、林鳳谷の命名であるが
た証拠である。
これらは、当時の一般庶民にできるはずもなく恵まれた環境であっ
湊
業成就の願望)魅力があったのではないだろうか 。
小泉
作十郎
四一五両
水戸
与兵衛
一
二
内蔵之充
部垂
山九郎
﹁水戸市史﹂中二巻より
者も多かったようだ。和算は実学というより道楽に近いものとされて
嶋河岸
﹁あとがき﹂から
・・本稿を締めくくるにあたって次の二点について記したい。
れる名家であった。 それは単に名主という理由だけでなく飢僅に際し
佐 原 一帯 は 時 々 利 根 川 の 氾 濫 に よ る 被 害 に あ っ て い た 。 村 方 は 復 旧
ては窮民救済に尽力したからにほかならない。
三冶郎 時 代 の 忠 敬 は 不 遇 に 書 か れ て き た が 果 た し て そ う で あ っ た
に全力を尽くすと共に村民の納得の行く形で荒れた田畑を再配分しな
第 一に ﹁ 忠 敬 は ど う し て 偉 業 を な し え た か ﹂ と い う こ と で あ る 。
ろうか。幼少にして母を亡くし、小関家に残されるが、神保家に戻つ
- 49 一
氏
三O O両
三O O両
O O両
ム
五 四
ノ
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十 九 八 七
前述のように偉業達成の要因は、生家の地域環境・養父平山季忠・
の学術・技術が入ってくるという時代的幸運も見逃せない。(冨吉繁貴
養家伊能家・佐原の地域社会・先輩伊能魚彦・水運で結ぼれた文化経
ければならない。それには測量技術は勿論、文書により記録に残すこ
いた。忠敬は測量技術のみならず、それら伊能家の貴重な資料に助け
氏指摘)
られ仕事ができた。記録の重要性についても学んだに違いない。測量
済圏から得た情報・良師との出会い・ロシアの南下による困難などの
とが重要であった。達の祖父景利は村方在任中に多くの記録を残して
日誌にも見られるメモ魔ともいえる程のまめさは景利から学んだもの
外的要因などが挙げられる。しかし、それらの要因を一身に集めて幸
それにしても六十を過ぎてからの測量は忠敬にとって大変厳しい
運児になれたのは忠敬の資質によるものであろう。
であろう。
忠敬は三郎右衛門時代に地域佐原から極めて多くのことを学んだ
三郎右衛門家と茂左衛門家は小野川を挟んで対していた。その伊能
ものであったに違いない。忠敬には持病があり必ずしも健康体とはい
といえるのである。
茂左衛門家七代当主伊能魚彦は長男に家督を譲り三十七才で賀茂真淵
と心を維持している。普通に言う責任感・使命感、ましてや俗に云う
えない。一病息災とし健康管理を徹底し、長期の測量に耐えられる体
功名心などで出来ることではない。私には執念とも思える使命感であ
に弟子入りし、四天王といわれる高弟となった。二十三才年下の忠敬
伊能家を再興させた忠敬は長男景敬に家督を譲り隠居して、念願の
り行動力のようにみえる。それらは測量を通して忠敬自身の中で、天
にとって、手本となったであろうことは十分に推測できる。
学問により身を立てることを実行に移すだけの財力など余裕を身にっ
命と言わせるほどに昇華したのではないだろうか。実に、櫛風休雨十
忠敬はなぜ天文・測量という分野を選んだのであろうか。
チ)、測量日誌五十一冊である。
七年、距離にして地球を一周、歩数にして五千万歩(歩幅六十九セン
しつぶうもくう
すた。
当時、忠敬の地元佐原は利根川の水運を介して潮来・銚子・江戸も
の圏内の情報と財力をいかして、江戸に出たのであろう。
含めて同一の文化圏であり、経済圏であったと云えないだろうか。そ
て幼少より数理に関心があったのみならず、平山季忠の影響もあり
学問により身を立てたいという熱い願望が少年時代に育っていた。
忠敬の幸運はその情報網から、高橋至時という良き師にめぐり会え
たことにある。改暦事業のため麻田剛立一円から送りこまれた至時と
二、三郎右衛門時代に測量や天文について独学であったが既にかなり
の実力を身につけていた。
の運命的な出会いこそ、偉業達成のまさに偶然のなせる業である。
三、士農工商の身分社会において、医学や、天文などは他の学問分野
時代背景として、ロシアの南下や林子平の海防論などから北境の警
に比して、実力が正当に評価されるとの判断があったのではないだろ
うか。日食や月食の計算は、はっきりした形で結果が出てくる。門地
備の急務を悟った幕府は蝦夷地の巡視警戒をさせた。そのような状況
徳川吉宗による禁書の緩和(一七二O年)で学術書が輸入され西欧
下、正確な地形図が必要になっていた。
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2007年
第 49号
伊能忠敬研究
なかったのである。
麻田剛立は関西の庶民学者であったが幕府はその実力を認めざるを得
や身分の違いがあっても先端技術の分野では重く登用せざるを得ない。
子に久米栄左衛門、至時の長男高橋景保、次男渋川(高橋)景祐、足
弟子に問重富、高橋至時(忠敬の師)、片山婚桃等がいる。間重富の弟
周・天文・蘭学・通調・医学の人物間団をみるなら麻田剛立、その
立左内(信頭)、景祐の長男渋川六蔵等々、通詞、馬場左十郎、大槻玄
沢等がいる。忠敬の嫡孫忠誇は足立佐内について研鎖している。
大槻玄沢は杉田玄白と前野良沢の弟子で仙台藩医である。忠敬後妻
第二に忠敬周辺に見られる人脈について
それは暦学や天文・工学・蘭学・医学に止まらない。思想や政治と
(冨吉繁貴氏指摘)。伊予宇和島藩は伊達氏であり洋学に熱心である 。
信の父桑原隆朝も仙台藩医であり何らかの関係があったのではないか
る大変革の兆しを読み取ることができるのである。ここでは人物名と
司謝剖制叫副では大野弥五郎、弥三郎、規周等、明治につながる技
も絡み合い複雑で混沌としているが、忠敬周辺の人脈から明治に繋が
関連事項のみ列記し人脈を考察してみたい。
信の寛政の改革に際会し、昌平坂学問所の開設(回目平髪を公的学校と
代林信勝(緩山)から玉代目にあたる 。 九代の林衡(述斎)は松平定
り釈放され、その後明治新政府で活躍、ロシア全権大使、清国大使、
は函館戦争に敗れたが、彼の才能を惜しむ黒田清隆らの助命運動によ
忠敬の弟子に、間宮林蔵、榎本武揚の父箱田良助がいる。榎本武揚
術の伝承がある 。
した)に尽力して学頭となり林家中興の主といわれる 。 洋学弾圧で知
逓信、農商、文部、外務の各大臣を歴任し、子爵にまでなっている 。
閣制叫制剥剖寸刻引制則樹州制刻州刈刺闘圃を見てみると鳳谷は初
られる鳥居耀造は述斎の三男である。述斎の弟子に佐藤一斎がいる。
皇の詩人)がいる。忠敬の内妻と
同月叫伺判剖叫判制叫叫創刊には大窪天民、宮本茶村、梁 川星巌(勤
儒官となり日米和親条約に際して林復斎(述斎の子)を助け外交文書
される(客分)大崎栄も山本北山
の詩友、安政の大獄に連座するも逮捕
一斎は林述斎 と共に多くの門下生の指導にあたった 。また、田昌平餐の
作成に尽力した。幕末から明治にかけて大きな影響を与えた人物であ
の弟子であった。
の刈側闘圃をみると、水戸藩主徳
水戸学及原・潮来周辺地
る。佐藤一斎の弟子に、 山田方 谷、渡辺峯 山、佐久間象山らがいる。
よるものである。また、忠敬の嫡孫忠認の師でもある。一斎の弟子で
川斉昭、水戸落 の藤田幽谷、会沢
3目前に病死(筆者家所蔵)
伊能家との関連で見ると上野源空寺伊能忠敬墓石側面の碑文も 一斎 に
田原藩の渡辺畢山は江戸詰年寄の末席となり海防を担当した 。また、
正志斎、藤田東湖ら尊王懐夷思想。
村等がいる 。 水戸学は吉田松蔭ら
シlボルト門下でもあり、高野長英ら蘭学者と交わり﹁蛮社の獄﹂に
一斎の弟子で松代藩の佐久間象山は幕末の思想家であるが弟子に吉
に大きな影響を与えたと考えられ
郷土の学者、久保木清淵、宮本茶
田松陰、橋本左内らがおり、吉田松蔭は高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博
ている 。
連座し自刃した。
文
、 山県有朋ら明治につながる多くの門下生を輩出している。
梁川星巌筆山本北山の門下、宮本茶村
FD
吉田松蔭は宮本茶村宅に宿泊している。茶村の獄中生活が松蔭の獄
中生活に影響を与えなかっただろうか。
忠敬の時代以降の幕府天文方は最先端の知識人・技術人・科学者を
集めたアカデミック集団であった。そのような環境下で忠敬は偉業を
達成することができた。そして、その人脈は日本の近代化に大いに力
を貸すことになったのである。
忠敬は三人の妻に先立たれ、晩年、信頼篤い坂部を亡くし、長男景
敬にも先立たれる等、必ずしも幸運とは云えない面もあるが、自ら信
ずることをやり遂げ、後年、絶大な信頼を寄せていた長女妙薫に嫡孫
忠講の後見をさせて、後に起こるシlボルト事件や忠講の早世を知ら
ずに他界した。そして、現在、全国各地にファンを抱えている。稀に
みる幸せ者に違いない。(終)
葉経済大学名誉教授・利根水運の第一人者)のもとで古文書目録が完
どて伊達家拝領品(膳、杯)、目録などです。このたび川名先生(千
書画、書簡の類、骨董品(矢立、根付、火薬入れ、財布、刀、古銭な
る資料、裁判記録、広告の版木、当家の商標入りの高瀬舟の盃などて
県提出資料など)に、家業関連資料(廻船、漁業、酒造、金融に関す
五人組、割付取調書、諸役割付石高帳、村地図、地租改定に伴う資料、
宮内家所蔵資料は古文書の類、村役関連資料(水帳、地引帳、宗門
宮内敏氏提供
(みやうちさとし・伊能家縁戚、演宅宮内家打代当主)
。
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演 宅 宮 内 家 所 蔵 資 料 か ら (その三)
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成しました。書画、骨董、書簡は含まれませんので三百点くらいだそ
うです。
村役関連資料と家業関連資料の一部
ηム
ロυ
︿下総国海上郡三崎村今宮村辺田村隔地相論の事﹀資料
寛文五年(一六六五)八月十四日
妻彦右印(勘定奉行妻木彦右衛門頼熊)
寛 文 二 年 四 月 十 二 日1寛 文 十 年 十 二 月 三 日
岡豊前印(勘定奉行岡田豊前守)
渡大隅印(南町奉行所渡辺大隅守網貞)
寛 文 一 年 四 月 十 二 日1寛 文 十 三 年 一 月 二 三 日
村長門印(北町奉行所村越長門守吉勝)
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3一
万 治 二 年 ( 一 六 五 九 ) 二 月 九 日1寛 文 七 年 十 二 月 一 六 日
側面が異なる数種類がある。
印(寺社奉行加々瓜直澄甲斐守)
側面には友鴎(秀三の号)と詩の記載がある。
寛 文 一 年 十 一 月 十 一 日1寛 文 十 年 十 二 月 十 一 日
(寺社奉行井上河内守)
当家のマーク入り帆高瀬舟「大漁 J
r高田宮内」とあり、
賀甲斐
井河内
幕末から明治初期?
おチヨコ(猪口)
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
和算の人脈
﹃算法少女﹄をめぐって
安藤
由紀子
ピーを先生から送っていただき、﹁和算とはこういうものか!忠敬もこ
ういうものを勉強したのか!﹂と、分からぬながら感心してしまった 。
楽しい問題がたくさんある。
和算の問題をいくつかを、この稿の最後に連載するので、数の道に
くわしい方は解答に挑戦してみてほしい。
さらに話は 一年前に遡るが、目録の和算関係の文 書 の摘記に困って、
いが、安永田年に江戸で﹃算法少女﹄という名の本を上梓したとき 一
阿問問幽さて、この小説の主人公千葉あきの没年は分からな
︹宝暦 二ニ (一七六 三)年 !?
︺
ネットで﹁和算 ﹂と入れて検索し、﹁和算の館﹂注 ーというホl ムペー
三歳であったというから、宝暦 二二 (一七六 三)年の生まれ、忠敬よ
千葉あき
ジを見つけた。数学史学会の 小寺裕 先生の H Pで、質問はなんでも受
村政担当者として立派に切り抜け、妻同伴の奥州旅行を計画中であっ
た。
された年、忠敬は三一歳。かねて係争中の﹁佐原村河岸問屋一件﹂を
彼の長女、妙薫と同じ歳であるから、娘の年代にあたる。本が上梓
り一八歳年下である 。
房が出版に踏み切ったのだということを知った 。
刊ドットコム﹂に登録され、多くの票を集めることができて、筑摩書
前記、遠藤さんの﹁あとがき﹂を読んで、小寺先生がこの本を﹁復
のコピーをお送りし、内容摘記を丸投げしてお願いしてしまった。
け付けてくださるような雰囲気だったので、とうとう和算関係の文書
し、三 三年ぶりに文庫として日の目を見たということである 。
版ののち、数学史・和算関係の多くの研究者が復刊のために力を尽く
ンである。著者の﹁あとがき﹂によれば、昭和四八(一九七三)年初
少年少女向けにやさしく書かれた小説で、史実に基いたフィクショ
早速この本を買って読んだ 。
女﹄という本が出版されて、 一年経った今もロングセラーを続けてい
る。 ﹁伊能忠敬文書目録﹂を作るとき和算関係の文書で苦労した私は、
同 阿 川 凶 昨 年 夏 、 ﹁ ち く ま 学 芸 文 庫 ﹂ から遠藤寛子著﹃算法少
伊能忠敬から現在まで続く、和算の人脈についてまとめてみた 。
、
、
,
〆
ま た 今 年 初 め 、 安 永 田 (一七七五)年出版の ﹁算法少女﹂原本のコ
54 -
〆
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ー
、
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
しろが ね
あきの父は千葉桃三といい、神田銀町に住む町医者で、もとは大
坂の人である。算法に熱中して、大坂にいるころは天満宮(てんまの
てんじんさん)などに、所せましと掲げられた算額注 2を解くことので
きる数少ない和算家であったらしい 。
岡田この父からまの手ほどきを受けた一人娘のあきは、
浅草の観音様に奉納された算額の誤りを指摘したことから、自身高名
よりゆき
な和算家であった久留米藩主有馬頼律の目に留まり、姫さまの算法指
南役に召しだされることになったが・・・。というのが話の発端で、
この 一件は在野の上方算法を追い落とそうとする関流(関孝和を流祖
和算も日本お得意の流派システムで、家元から免状を貰う仕組みで
よりゆき
ある 。問題と答だけを出して、途中の解法は各派の秘中の秘であった 。
E いに競い合い憎みあっていた 。
当時間流が圧倒的に優勢で、久留米藩主有馬頼復も、関流の藤田
さだすけ
貞資を召抱えていたから、反逆児鈴木彦助(会田安明)はあきを熱心
に応援したというわけである。
会田算左衛門安明
とする)の藤田貞資から邪魔がはいって実現しない 。 やがてこの 二二
して﹁最上流﹂を旗揚げし、関流の後継者たちとの問で二O年余にわ
広同四ぽ期比畑出国陥
︹延享四 (一七四七)年 l文化十四 (一八 一七)年︺
歳の少女は﹃算法少女﹄という本を出版してのち、九九も知らない子
たって論争を続け、六O O巻にのぼる膨大な著作を残した。
会田算左衛門安明は、こ ののち関流に対抗
供たちに算法を教えてゆこうとする・・・というのが、この小説の﹁あ
彼は伊能忠敬より二歳年少で一年前に没した同時代人であるばかり
さだすけ
らすじ﹂である。
でなく、忠敬の人生の抜き差しならない関係者の一人であった 。
郎)をめ ぐ る 事 実 で あ
る。
弟子渡辺慎(尾形啓次
敬の唯一の後継者、内
された。いずれも、忠
新しい資料が複数発見
敬と安明の関係を示す
録﹂を作る遇程で、忠
﹁伊能忠敬文書目
岡同開幽ところが、最初に主な登場人物の紹介がついていて、
その中に見たことのある名前│鈴木彦助ーを発見した 。 この人物の説
明は、こうなっている 。﹁山形出身の算法家。 のちに、会田安明として
有名になる。 あきに好意をもっている 。﹂と 。
記憶に残っているはずで、忠敬の友人会田算左衛門安明こそ、この
人なのである。
公儀直参で普誇方、利根川改修の仕事を担当していた鈴木彦助は、
﹁東北なまりのつよい、ひどく四角張った﹂物言いをする若い侍(と
いっても、この年二九歳)として登場する。﹁お女中﹂などと呼びかけ
て、﹁変なお侍さんだ﹂とあきに思われてしまう人だ 。
隆盛だった関流を目の敵にしていたから、仕事の合間に彼女を応援
してくれる役である。
D
﹁
P
D
L
りの豪農だったと思われる。
いだ。やがて安明の妹は、その内海家の嫡男(従弟に当る)に嫁して
新しいいくつかの資料が示す結論を先に述べてしまおう。
農業を継ぐことになった。
長男が町へ出てしまったので、実家では重兵衛の弟が内海の家を継
第一に、内弟子尾形啓次郎の実の父親は、この会田安明である。
が嫁していた本家内海家の厄介になったという。
事情はよく分からないが、父重兵衛の死後、安明は母とともに、妹
第二に、尾形の実の母親は、忠敬の無二のパートナー大川治兵衛の
娘(または妹)である。
第三に、忠敬は、内弟子の尾形を実子同様、あるいはそれ以上に可
愛がっていた。
子先は旗本かさて安明は、﹁二三歳の時、志を立てて江戸に
出て、鈴木清左衛門という旗本の株を買って養子となり、鈴木彦助と
第四に、安明は、伊能忠敬の和算の先生であった可能性が高い。
右の四点である。
名乗って御普請方の仕事を継いだ﹂と伝記はいう。株を買う資金は内
に出て、絶家になっていた会田家(商家カ)に買養子に入った。そし
0 0石で、うち蔵米一 O O俵(石 H俵)だから、二O O石分の小さな
当主は、鈴木康元、通称を清左衛門といった。本国は三河、禄高三
襲名を持つ鈴木家が、確かに一家だけあった。
﹃江戸幕府旗本人名事典﹄(原書房一)によると、清左衛門という世
でなく、いきなり旗本株を買ったというのは本当だろうか?
枚挙に暇がない。しかし内海家がいかに豪農だったとはいえ、御家人
掘のために実に有効に機能した。幕府を支えた有能な御家人の養子は
御家人株は、よく売買された。御家人株の売買は幕府公認で、人材発
まず﹁旗本の株を買う﹂というくだりに不審をいだいた。たしかに
海家が出し、金三分を貰って江戸に出発したらしい。
この四人をつなぐ糸をたどってゆくと、江戸時代ならではの人間関
会田算左衛円安明とはいったいどんな人だっ
係と、現代にも通じうるドラマを見ることが出来る。
医同ほ同同障協
たのであろうか。
以下は、伝記﹁会田算左衛円安明﹂(昭和四一年刊、平山諦・松岡
元久編)による。
安明の父会田重兵衛は、山形県南村山郡堀込村の内海与平治の長男
て、二子、安明と妹が生れた。生誕地は今の山形市役所の南、大沼デ
知行地を摂津田に持っていた。家禄は少ないが、﹁三河以来﹂の名家で
であったが、農業をきらい妻と共に山形(山形藩、秋元氏・六万石)
パートのあたりという。
願を出すように求められた。封書は宛名人不明で戻ってきてしまった
ろ、画像の所蔵者である山形市前明石の内海与平治という方に、許可
昨年目録へ右の写真を転載したいと思い、吉川弘文館に連絡したとこ
一
主は四一歳で、継嗣の泰直もいる。この家が養子先であるとは、考え
に下層の旗本だが、会田安明が養子となったとされる明和六年に、当
あった。墓は谷中臨江寺、役職は番方(武官)筋となっている。確か
璃坂(安明は出府後、別の場所、本所石原町に住まわされている)に
ある。先祖は家康に従った武士だったのであろう。屋敷は、市谷浄瑠
因みに、父重兵衛の実家内海家のご子孫は、現存しておられる。
が、同じ世襲名を、現在も名乗っておられるのだから、この家はかな
- 5
6-
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
にくいと思った。
小川恭一著﹃江戸の旗本事典﹄によれば、 ﹁旗本﹂ は 本 来 軍 事 用 語
はたもとぞなえ
これも想像だが、安明は山形時代にすでに高度な和算の力を持ち、
有 能 な 土 木 技 術 者 と し て 売 り 込 め た の で は な い だ ろ う か 。 いずれかの
科学技術から身分制度がくずれるという現象は確実に進行してい
ツテにより、鈴木家は彼を獲得したのであろう。
のことである。だから禄が少なくても、御家人とは格がちがうのであ
た。間重富や伊能忠敬の登用もその例にもれないが、幕府の人材登用
は、会田安明のような形でも、非公式に機能していたと思われる 。
で、合戦の陣立てに﹁旗本備﹂があり、主君の旗印の下にいる親衛隊
る 。 勝 海 舟 の 家 は 家 禄 五O 俵 だ か 、 れ っ き と し た 旗 本 で あ り 、 父 の 小
後の天明六(一七八六)年、将軍家治から家斉への代替わりがあっ
一つの事 例として、たいへん面白いと思う。
称すると重大な犯罪になる。有能な技能者を求めて養子にし、死罪・
て、これは、老中田沼意次から松平定信へ、積極財政から緊縮財政へ
旗本株の売買は、公式には禁止である。もし庶民や陪臣が旗本を偽
吉は夜庖で刀を商っていても﹁殿さま﹂であった。
流罪・絶家になる例もあった。バレずに済む場合もあったが、命がけ
の代替わりでもあって、多くの幕臣のリストラが行なわれた。彼もそ
専心することが出来た。この失職は、﹁天の賜物﹂ であったと ﹁自伝﹂
長年一日も怠りなく勤め、倹約を守ったので、貯えもあり、 算法に
算左衛門安明と名乗るようになった。
(鈴木家 の方で、用済みになった彼を離縁 し た の か も し れ な い て 会 田
の例にもれず、解雇されてしまう。無役になったとき姓を会田に一戻し
の危険があったという。
﹁奥州なまり﹂の旗本、ということ自体ありえないのである 。
これらの辻棲の合わない事実を、どう結びつけたらいいのだろうか。
想像するに幕府は専門家集団としての土木技術者がどうしても必
木家は、稼ぎのよい技術者になりうる安明を、﹁部屋住みの養子﹂とし
は述べている。
要であったから、その職禄はかなり高く、無役の下級旗本であった鈴
たのではなかろうか。
シビルエンジニアとしての和算家以下は、東北大学の米沢誠
前記伝記の中に、﹃自在物談﹄という安明の自伝が載せられている
が、﹁養子にして一金もなし。金銀のことは、皆養父の心に任せ置く﹂
氏の論文﹃シピルエン ジ ニアとしての和算家﹄による 。
て、多くの設問とその解法が記載されている。
ジンコウキ
面積計算、治水・掘割は容積計算、測量は幾何学計算の応用問題とし
寛永のころ成立の和算の名著、吉田光由の﹃塵劫記﹄には、検地は
リ ン グ の 分 野 に 、 多 面 的 に 係わ ってきた。
和算家たちは、江戸期を通じて測量や土木などのシビルエンジニア
と書かれているから、ある割合で収入を分け合ったのであろう。
幕末には、﹁部屋住みの養子﹂が当主や嫡男を飛び越えて職を得る
ことは、特に技能職で、よくあったそうである。岩瀬忠震・小栗忠順・
永井尚志などがその例である。安明の自伝によれば、彼が利根川普請
の現場監督をしていたとき、百姓たちは彼を﹁日一那﹂と呼んでいるか
ら、御家人として認識していたということになる。庶民はこういうこ
とにたいへん敏感で、旗本なら﹁殿さま・奥さま﹂、御家人なら﹁旦那
さま・ご新造さま﹂と呼ぶのを間違えることはなかった。
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した 。 測量技術の専門集団がいて、幕府及び藩の事業には、それらの
と に な っ た 。 各 藩 も こ の 命 を 受 け て 、 競 っ て 測 量に秀でた人材を登用
し進 めた数次にわたる国絵 図作成事 業の 中で、大き な役 割を果 たすこ
国絵図の作成その後和算家たちは、幕府が国家的事業として押
O O名を超えたといわれる。
一
関東 一帯、のちに全国に点在する天領の治水工事を担当させ、人員は
水術を採用することにし、専門家集団﹁普請役﹂を設置した。初めは
享保の頃幕府は、将軍吉宗の出身 地 で行なわれていた﹁紀 州流 ﹂治
会田算左衛門安明もこうした普請役の 一人であったし、のちに登場
する彼の実子渡辺慎(尾形啓次郎)も測量ばかりでなく、普請役として
宇治橋の改築も手がけた 。安 明との長い論争の相手だった関流の 神谷
人材が不可欠であった 。
定令 も、幕府の普請方であった 。 神谷と同門の石黒信由 は加賀藩で重
たけベかたひろ
任を負ったのも、関孝和の高弟 建部賢弘 であった 。 ﹁
享保日本図﹂は、
用され、検 地・ 治水 ・開 墾のほか、加賀、越中 、能 登三州 の測量と地
享保年 間に将軍吉 宗は、 元禄 の日本総図の 改訂を行ったが、 その車貝
精度の高いものと評価されている 。 伊能忠敬 の登場以前に、こうした
図作成に貢献した。因みに石黒は、享和三(一八O 三)年八月三日、
厚い積み重ねがあったのである 。
北陸測量中の 忠敬 を訪ねて天 測を見学し、翌日は測量に同行 し ている 。
(河崎倫代 ﹃
加 賀藩天文学者西村太沖﹄ ﹁伊能忠 敬研究﹂第二九号)
『塵劫記』寛永 4年 (1627
)
め、どれが幹流でどれが支流か分からない 状態 であった。洪水のたび
に、流路が変わった 。
現在の主な支流渡良瀬 川は利根川 からは独立した水系で、並行する
ように南流して、やはり江戸湾に注いでいた。鬼怒川も別の水系で、
小貝川を合わせて、鹿島灘へと流れていた。
﹁利根 川東遷(流路変更)﹂が行なわれて、利根 川が鹿島灘へ流入
するようになったのは事実であるが、その時期や意図につ いては諸説
あるらしい。治水・利水・通舟を意図したことだけは確かであろう。
5
8-
陪休い同体同ほ同時﹃塵劫記﹄の中の﹁河普請のこと﹂という題
同附凶利根川
四
頃は今より一回り小さく江戸湾に流れ込んでいた。しかも乱流をきわ
は﹁坂東太郎﹂といわれた暴れ 川 で、家康入府の
利根川と会田安明
和算家の果たした大きな役割がうかがえる。
蛇籍(右詰め籍)と三角柱枠
の治水の問題には 、 堤の盛り土の量の算法 、川 水をせき止めるとき使
河普請のこと
う蛇寵(石詰め箆)の容積の算法、 三角柱枠の容積の算法などが載っ
ていて、当時の治水技術の一端を知ることができる。
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2007年
第 49号
伊能忠敬研究
前記安明の﹃自伝﹄は、当時の河川工事の具体的史料として貴重な
け二丈ほどの差あり、大滝の流れ落る勢ひ﹂であるそうだ。この中に
な盛り上がるのである 。 最後に閉め切る瞬間、堤の内と外では﹃水丈
用 あ け に そ れ を 切 る 定 め に な っ て い た と い う。
員川の水を濯概用水としておくる施設であったが、毎年春に築き、土
に よ っ て 寛 永 八 (一六 三 一)年に造られたもので、 二 万石の水田に小
同四川同国小員川の三大堰の三岡堰は、関東郡代伊奈半十郎
突くというもの 。後 年 の 論 争 好 き な 算 法 家 の 面 白 躍 如 た る も の が あ る 。
頭巾をかぶり、蝦夷錦の野羽織を着て、銀栴えの大小をさし、竹杖を
そのときの指揮者安明のいでたちはといえば、大将の目印に更紗の
酒を飲んで祝うのである 。
閉 め 切 り が 成 就 す る と 、 人 々 は 主 だ っ た も の を 一斉に胴上げして、
落ちて、年番名主が水死したこともあるらしい 。
ものと思われる 。安 明 が 現 場 監 督 と し て 活 躍 し た 様 子 が 生 き 生 き と 描
かれている 。
彼は暗記力抜群で、﹁飛鳥も及、ふ べか ら ざ る 程 の 早 算 ﹂ であ った。
仕 事 の 手 際 も よ く 、 人 夫 の 扱 い 方 も 巧 み で あ っ た 。 川のしめ切り方、
堰や樋の容積の見積もり方、村々への農業用水の配り方、村民間の水
争いの仲裁などに大活躍したらしい 。
安明の仕事の範囲は、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、見沼井筋、印施
沼 、 手 賀 沼 と 利 根 川 水 系 の 広 い 範 囲 に わ た っ て い る。
閃 岡 山 水 配 り の 話 は 、 自 伝 中 の 圧 巻 と い っ て い い 。 彼は﹁先ず
最初に関東中の地理を考へ、川々の水源水尾を知り、次に用水井筋の
模様を考へ、村々の料地の高低迄も常に心掛て﹂いたので、渇水だと
安明はここでも大活躍する。川瀬閉め切りの仕上げの日は、千人の
人 夫 が 未 明 か ら 取 り 掛 か り 、 四 つ 時 ( 十 時 ) ご ろ に は 完 成 す る 。 村々
言って駆け廻ることもなく、﹁算術を楽しみてくらせし也﹂という 。
川上の村々で用水の盗み取りのあるときは、川下の村々の百姓に竹
の名 主 役 人 が 残 ら ず 出 て 酒 二、 三升 ・ 王 子 二、 三十 ず つ 持 参 し ﹁
おど
歳、林蔵一二歳)、この同じ岡堰に間宮林蔵が姿を現す 。林 蔵 が 生 れ た
医同除問
H同 国 防 閣 安 明 が 普 請 役 を 解 雇 さ れ る 前 後 ( 安 明 四 一
減らし、﹁百姓共も大きに悦びし事﹂であったという。
届いたが、岡堰だけは無事にすんだ 。 必要な人夫の延べ人数を大いに
法﹂ を 改 良 す る 。 こ の 時 洪 水 で 上 流 の 堰 が 押 し 流 さ れ た と の 早 飛 脚 が
﹁是則、古人のいわゆる勝て兜の緒をしめると云の法﹂を実行して﹁古
を造らぬうちは安心できないので、一日の内に﹁重り堤﹂まで造らせ、
り 悦 び て 皆 々 帰 る ﹂ の が ﹁ 古 法 ﹂ であったが、 ﹁
重り堤﹂(詳細不明)
やりを持たせ、水盗人を見つけたら突き殺すよう申渡し、その旨川上
へ触れを廻して無事水の引渡しをすませたこともあると述懐している 。
川瀬閉め切り川瀬閉め切り工事の様子も活写されていて、映像
にしてみたいと思わせる筆力である 。先ず千人余の人夫の頭に役割ご
と に 浅 黄 や 赤 の 色 違 い の 目 印 を 付 け さ せ る。 山萱と竹で壁を作り、即
座にそこへ土を投げ入れるというやり方で、瀬の両側から少しずつ堤
を築いてゆく。
土の運び方にマニュアルがあって、ぼんやりして列をみだすと、小
高い場所に建てた丸太に縛り付けられる 。 帰りの行列は、これを見て
嘱し立て、本人は手ぬぐいで顔をかくす。命がけだが、すっかりみん
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あるとき岡の上で仲間の子供たちと遊んでいた林蔵は、普請役の幕吏
林蔵は数理的天才だったとして、次のよ う な伝承が残されている 。
われた。こうした広い範囲の御普請見分の時は 、御勘定五人に夫々御
が水系全体を襲った。各地で堤防が決壊し、普請方は総出で対応に追
年、解雇される 一年前、強気 一点張りの安明も閉口するような大洪水
川床を上昇させ、大水害を引き起こした 。三年後の天明六(一七八六)
が村役人と算盤で工事の計算をしているのを見て笑った 。﹁吏日、汝我
普 請 方 四 、 五 人 付 き 、 玉 手 に 別 れ て 見 分 を 行 な っ た 。 その集合、連絡
常陸国上平柳村は、この堰の西 一キロほどのところにある 。
ヲ笑ハパ、能ク之ヲ算セヨト 。 倫 宗 ( 林 蔵 ) 未 ダ 算 術 ヲ 知 ラ ズ 、 心 計
場所が佐原村であったらしい 。
脈の 一人になっていった﹁いきさつ﹂から話を始めよう。
次号は、会田安明が利根川水系の工事担当者として、伊能忠敬の人
以テ答フ 。吏、大イニ意ヅ 。是ヨリ奇童ノ名アリ﹂と﹃新編常陸国誌 ﹄
にあるそうである 。 郷里には、林蔵、が江戸へ出るきっかけをつくった
のは、岡堰の工事を担当していたこの幕吏であり、帰りに連れて行っ
たのだという 言 い伝えがあるらしい 。 もしそうならこの普請役は、安
明の後任者であったことになる 。
和算の問題
│ 初心の手引草
﹃算法少女﹄│
録
浪 花 に て 一 石 四 十 八 匁 五 分 の 米 。 江戸へ廻し。百俵 守
にて。金五両壱分銀十三匁一分弐厘五毛の利を得たり 。
一石に拾匁七分五厘の運賃諸懸 。 又浪花の小判のあたひ
銀六拾四匁。江戸は六十目なり 。 江戸にて売所の相場。
金壱両に何程と問。
(正解をお知りになりたい方は、研究会事務局まで。
次回は忠敬自筆の米の問題を掲載します)
- 60 一
林蔵は安明より二九歳年下であるが、この事件が林蔵十一歳以前の
みぎり
内
こ と で あ っ て 、 こ の 幕 吏 が 安 明 で あ っ た ら 面 白 い 。 しかし安明も計算
はすべて暗算だったから、林蔵に﹁懸ヅ ﹂ る人ではなかっただろう 。
後 、 文 化 五 (一八O 八)年の暮れ安明は、自派最上流の高弟であっ
た二本松藩士の渡辺治右衛門に、同年に行なわれた間宮林蔵の第一次
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カラフト探検のことを知らせる手紙を書いた。渡辺は翌年 二月安明に
﹁右間宮林蔵と申仁は、何役相勤め御座候哉 。当 地 御 通 行 の 瑚 に で も
民まか り な
御 知 る べ 罷 成 り 度 、 存 じ 奉 り 候 ﹂ と 書 き 送 っ て 、めぐり合いの機会を
二年間も待ちわびていた。
そして文化七(一八 一
O) 年松前から帰府の途中に、林蔵の方から
この渡辺を訪問している。 二本松で渡辺治右衛門が待っていることを
蝦夷地へ知らせたのは、会田安明以外には考えられないから、安明と
一七主一 一
)年七月、浅間山に大噴火が起こ
林蔵とは極めて密接な間柄であった、とだけはいえそうである。
開閉川園天明三(
った 。 昼でも空を暗くした大量の降灰は、やがて利根川に流れ込んで
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聞
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和算に興味をお持ちの方は、小寺氏のホl ムベ lジ﹃和算の館﹄
覧
*﹃算法少女﹄遠藤寛子著
*﹃会田算左衛円安明﹄平山諦・松岡元久編
講談社
ちくま書房
富士短期大学出版部
大坂天満宮に掲げられ、平成一 O年に復元されたもの)
*﹃江戸の旗本事典﹄小川恭一著
原書房
米沢誠著
*﹃間宮林蔵﹄洞富雄著吉川弘文館
東北大学付属図書館報﹁木遣子﹂
*﹃シピルエンジニアとしての和算家﹄
*﹃江戸幕府旗本人名事典﹄小川恭一編
間固
(下掲の算額とともに、右記 H Pより。この算額は文化五年に
の習慣は世界に例を見ず・・・﹄
算額にしてまた奉納するといったことが行なわれました。算額奉納
て解答を付けないで奉納するものも現われ、その問題を見て解答を
ます。人の集まる神社仏閣を発表の場とし、難問や問題だけを書い
神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと思われ
O面 の 算 額 が 現 存 し て い ま す 。 算 額 は 、 数 学 の 問 題 が 解 け た こ と を
代中期、寛文年間の頃から始まった風習といわれ、現在全国に八二
同凶﹃算額とは、神社や仏閣に奉納した数学の絵馬である。江戸時
出リ
を 川l
ゆきこ・﹁伊能忠敬文書目録﹂編者)
*﹃利根の変遷と水郷の人々﹄鈴木久仁直著嶺書房
(あんどう
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30
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
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伊能忠敬測量隊が観測した星
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伊能忠敬記念館所蔵
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資料五黄道経緯儀表(降婁宮至鶏宮)
経緯表(寛政九年)で、忠敬が作成したものである。
表であり、﹁資料六﹂は、恒星南北視高度(享和三年)、﹁資料七﹂恒星
﹁資料五﹂は、忠敬の手沢本であった﹃霊台儀象士山﹄の黄道経緯儀
﹁
恒 星経緯表﹂などを作成した。
象考成﹄などを参考にして星を観測し、﹁北極高度測量記﹂や﹁恒星表﹂
忠敬は、前述したように恒星の観測にあたって﹃霊台儀象志﹄や﹃儀
について記述してみたい。
では、二十八宿のなかの北方七宿、西方七宿、南方七宿の星(星座)
前号で 、伊能忠敬測量隊が観測した紫微垣、太微垣、 天市垣、それ
に 二十八宿のなかの東方七宿の星(星座)について記したので、本口す
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伊能忠敬研究
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第 49号
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祖'
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一
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実
笠
名
資料七 恒 星 経 緯 表
ベ
コ
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L‘
a
・
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)
孝
行
弘
O 北方七宿
斗宿五
斗宿六
牛宿 一 牛宿 二
・牛宿六星(山羊座)
建五建六
斗宿四
伊能測量隊が観測した星名(星座名)
二十八宿
建三
斗宿一斗宿二斗宿 三
・斗宿六星(射手座)
二
・建六星(射手座)
建一建
・天狗 二星 (射手座)
天 狗 一 天 狗二
・天梓四星(鷲座)
天梓一天梓四天梓内増二
二
-右旗九星(鷲座)・河鼓三星(鷲座)
O
右旗 三 右 旗 五 右 旗 八 河 鼓 一 河 鼓
・左旗九星(鷲座・矢座)
左 旗 五 左 旗 西 増 二O 左旗北増一
何
女宿 一 女 宿 二 敗 瓜
瓢瓜一級瓜二瓢瓜三
・瓢瓜五星(海豚座)
三
一
天津四天津五天津六
・天津九星(白鳥座)
天津一天津二天津 三
天津北増一七
天 津 東 増 三 二 天 津南増 二ハ
瓢瓜四
-女宿四星(水瓶座)・敗瓜玉星(海豚座)
漸台二漸台三漸台西増一
・漸台四星(琴座)
織女 一 織 女 二 織 女 三 九 炊
-織女三星(琴座)・九吹九星(インディアン鹿)
鼓
天津 七 天 津 八 天 津 九
-実仲四星(白鳥座)
実仲一葉仲二柔仲三
司非 一 司 非 二
・司非二星(小馬座)
・泣二星(水瓶座)
古川比一治体二
-虚宿 二星(水瓶座)
虚宿一虚宿二
突一
・突二星(山羊座)
・敗臼四 星 (鶴座)
敗臼一
危 宿 一 危 宿二 危宿三危宿内増七
・危宿三星(水瓶座・。ヘガスス座)
・墳墓四星(水瓶座)
墳墓 一 墳 墓 二 墳 墓 三 墳 墓 四
・藁屋二星(水瓶座)・人四星(ベガスス座)
蓋屋一人星一人星二人星四
臼二
・臼四星(白鳥座・ ベガスス座)
臼一
・車府七星(断腸座・白鳥座)
車府三車府四車府五車府六車府北増三
・造父五 星 (ケフエウス座)
造 父 一 造 父 二 造父五
・天鈎九星(ケフエウス座)
天鈎三天鈎四天鈎五天鈎六天鈎八天鈎九天鈎西増
天鈎北増
室宿一室宿二
・室宿二星(ベガスス座)
・離宮六星(ベガスス座)
離宮一離宮二離宮四離宮五
・騰蛇 二十二星(断腸座・白鳥座・ケフエウス座・アンドロメダ座・
カシオベヤ座)
- 64 一
O
騰蛇二 一 騰蛇 二二
騰 蛇 一 騰 蛇二 騰 蛇 四 騰 蛇 九 騰 蛇 一
O
騰蛇 一九 騰 蛇 二O
・雷電六星(ベガスス座)
雷電 一 雷 電 二 雷 電 六
・畳壁陣十 二星 (山羊座・水瓶座)
騰蛇一五
畳壁陣二畳壁陣三畳壁陣四畳壁陣五畳壁陣六
畳壁陣八
-羽林軍四十五星(南魚座・水瓶座)
畳蟹陣七
羽 林 軍 六 羽 林 軍 人 羽 林 軍 二六 羽 林 軍 二 八 羽 林 軍 三 一
羽林 軍 三 二
一 八魁 二
-北落師門 一星 ( 南 魚 座 ) ・ 八 魁 六 星 ( 鳳 風 座 ・ 鯨 座 )
北落師門八魁
・壁宿 二星 (ベガスス座・アンドロメダ座)
壁宿 一 壁宿二
・天厩十星(アンドロメダ座・カシオベヤ座)
露露四
震露五
天厩一天厩二天厩三天厩六
震震 二 露震 三
・露露五 星 (魚座)
-策一 星 (
カ シオベ ヤ座)
策
・閣道六星(カ シオベ ヤ座)
閣道 一 閣道 二 閣道 三
閣道四
・外扉七星(魚座)・土司空
外扉七土司空
附路 一星(カシオベヤ座)
附路
一星 (鯨座)
右更 二 右更 三 右更四
・婁宿三星(牡羊座)・右更五星(魚座)
婁宿 一 婁宿 二 婁宿 三
・天大将軍十 一星 (アンドロメダ座・ ベ ルセウス座・ 三角座)
大陵六大陵七大陵西増
天倉玉
天大将軍西増一
天大将軍 一 天 大 将 軍 二 天 大 将 軍 三 天 大 将 軍 四 天 大 将 軍 七
天大将軍九天大将軍 一
O
-天倉六星(鯨座)
天 倉 一 天 倉二 天 倉 三 天 倉 四
・胃宿三星(牡羊座)
大陵五
天国九
・天康四 星 (牡牛座)
天国八
天康 一 天康三
天国七
天康四
天船七
巻舌四
天国六
天船五
胃宿 一 胃 宿 三 胃 宿 東 増 三
・ 大 陵 八 星 (ベ ルセウス座)
大陵二大陵三大陵四
・ 天 船 九 星 (ベル セウス座)
天船一天船二天船三
巻舌一巻舌二巻舌 三
-巻舌六星(ベ ルセウス座)
昂一昂六昂七
・昂宿七星(牡牛座)
天国一天国三天困五
・天国十三星(鯨座)
積水
・雲雨四星(魚座)
杢宿九
・ 積 水 一 星 (ベ ルセウス座)
杢宿八
雲雨 一 雲雨四
王良 三
王良 四
杢 宿 一 三 杢 宿 一四
王 良 一 王 良二
・王良玉星(カシオ ベ ヤ座)
一
杢宿 一
率一宿一杢宿 二 杢 宿 五 杢 宿 六 杢 宿 七
・杢宿十六星(アンドロメダ座・魚座)
門岡阿国
2
0
0
7年
第 49号
伊能忠敬研究
に
u
c
o
調藁 一 甥藁北増 二
-桐明藁六星(鯨座)
-天苑十六星(エリダヌス座)
天苑一一天苑一三天苑西増九天苑南増四
天苑一天苑三天苑四天苑玉天苑六天苑七天苑九
天苑一 O
-畢宿八星(牡牛座)
畢宿一畢宿二畢宿三畢宿四畢宿五畢宿六畢宿八
畢宿南増七
二
-天高四星(牡牛座)・諸王六星(牡牛座)
天高諸王
九州殊口西増四
一星(牡牛座)
五車三五車四五車五五車西増八
・五車五星(叡者座・牡牛座)
五車 一 五車 二
・天漢五星(駆者座)・天関
天演四天漢五天関
・九州殊口六星(エリダヌス座)
九州殊口二九州殊口三九州殊口四
九州殊口内増 一 九州殊口内増八
-参旗丸星(オリオン座)
参旗玉参旗六参旗七参旗八
・九波九星(エリダヌス座)
九瀞 二 九 務 八 九 滋 西 増 四
司怪二
座旗八
座旗東場六
-司怪四星(双子座)
座旗七
天園一二天園一三
・天園十三星(エリダヌス座)
天園一 O
・費宿三星(オリオン座)
舞宿一
・座旗九星(取者座)
座旗 二 座 旗 玉 座 旗 六
座旗東増七
・参宿七星(オリオン座)
参宿 一 参 宿 二 参 宿 三 参 宿 四 参 宿 五 参 宿 六 参 宿 七
井宿七
参宿東増 二六 参 宿 東 増 二 八 参 宿 西 増 三 参宿北増 一
井宿六
開北増六
井宿五
五諸侯一五諸侯三
・玉諸侯五星(双子座)
水 府 一 水 府二
-水府四星(オリオン座)
井宿四
周北増五
・玉井四星(エリダヌス座)・軍井四星(兎座)
玉井三軍井二軍井三
・扉二星(兎座)
扉 一 扉二
・厨四星(兎座)
周 一 周 二 周三
門開園
・井宿八星(双子座)
井宿一井宿二井宿三
井宿八
・錨一星(双子座)
鋪
・天始時(樽) 三星(双子座)
天鱒 二
・北河三星(双子座)
軍市一軍市五
軍市六星(大犬座)
四漬一四漬三四漬四
・四漬四星(双子座・一角獣座)
北河 二 北 河 三 北 河 北 増 一 北河北増 二
・積薪一星(双子座)
積薪
・南河三星(小犬座)
南河二南河三南河東増八
開郎一
・ 闘 郎 ( 丘 ) 二 星 (一角獣座)
-6
6-
周
回
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
-野難(鶏) 一星 (大犬座)
野難
・丈人 二星(鳩座)
丈人 一
・孫 二星(鳩座)
孫一孫北増一孫北増四
・弧矢九星(大犬座・船尾座)
弧矢南増 二三
-天狼 一星(大犬座)
翼宿 一 翼 宿 二 翼 宿 三 翼 宿五
-翼宿 二十 二星 (
コ ップ座・海蛇座)
翼宿七
・左轄 一星
左轄
翼宿 二 ハ
(烏座)
火(花) 鳥 十星(鳳風座)
火鳥六
α UM--、ポラリス)、すなわち北極星は中国名で
小熊座の α星 (
①北極 星 (小熊座、 勾陳 一)
の同定について記してみよう。
次に古くから親しまれ、知られてきた星 (星座) の中国名と西洋名
ムない)
六 二、東 方 七宿六七、北方七宿一四
、 天市踊一
西方
七、太微垣 二八
、
一
O 二となっている。(調査漏れがあるかもしれ
七宿 一五四、南方七宿 一
方七宿四 て 西方七宿 三九、南方七宿 三
一 で、星の内訳は、紫微垣八
の内訳は、紫微垣 二四、太微垣 一
O、 天市垣 一四、東方七宿二七、北
それによると、百八十六星座、六百四十 一星も記されていた 。 星座
忠敬自筆の記録を基にして調査してみた 。
年)、﹁恒星南北視高度﹂(享和三年)﹁恒星表﹂(文化十年)などの伊能
(享和 二年識)や ﹁
恒星経緯表﹂(寛政九年)、﹁恒星経緯度﹂(文化七
伊 能 忠 敬 測 量 隊 が 観 測 し た 星 (星座)について 、 ﹁北極高度測量記﹂
鶴二
・鶴十 二星 (つる座)
岡国
青郎 一 青郎玉
・青郎(丘)七星(海蛇座)
右轄
・右轄 一星(鳥座)
診宿 一 秒宿 二 秒宿 三 診宿四
・秒宿四 星 (
烏 座)
天狼 天 狼 東 増 四
・子 二星 (鳩座)
子二
・老人 一星(竜骨座)
老人
弧矢北増 一五 弧 矢 内 増 一九
弧矢 一 弧 矢 二 弧 矢 玉 弧 矢 七 弧 矢 八 弧 矢 九
弧矢南増 二二
一
・鬼宿四星(蟹座)・燐四星(蟹座)
鬼宿 一 鬼宿 三 鬼 宿 四 燐
・外厨六 星 (海蛇座)
軒鞍八
柳宿八
軒鞍七
軒鞍一四
柳宿六
外厨 一 外厨 二 外厨西増 二 外厨南増 二 一 外厨南増二ハ
・柳宿八星(海蛇座)
柳宿一柳宿二柳宿四柳宿玉
柳宿西増 一
O 柳宿北増二
星宿 一 星宿 二 星宿 三 星 宿四
・星宿七星(海蛇座)
・天相 三星(六分儀座)
天相二
・軒鞍十七星(山猫座・翻子座)
軒鞍四
軒鞍一
張宿五
O 軒轄 一 一 軒鞍一
軒鞍一軒鞍二軒鞍三
軒鞍九軒鞍一
軒鞍 一五 軒 轄 二 ハ
軒鞍南増 三 八
・張宿六星(海蛇座)
張宿 一 張宿 二 張宿三
t
巧
c
u
E、8 (イルズン ) α (ポラリス)の星のなかの
一つで、北極近
﹁勾陳ごという。小柄杓の七個の8(コカブ)γ(フェルカド)
と
、
くにある 。
8.
"
へ参宿 三 (8or--、ミンタカ)参宿二 (EOr--、アル一一ラム)
(αor-、ベデルギウス)参宿五 (γor--、ベラトリックス)
参宿 一 (COr--、アルニタク)という。参宿は、このほか参宿四
-、サイ フ)参宿七 (Sor--、リゲル)から成っ
参宿六 (κorていて、不等辺四角形をしている。
北極星を へだてて 北斗七 星と相対して 、五つ星 が少しゆがんだW形
③やまがた星・W形星(カシオベヤ座、王良一・四、策、閣道二・三)
をしているのがカシオベヤ座の﹁やま
(
s
がた星﹂である 。東端から王良 一
スケダル)策 (γCas) 閣道三 (8
e a s、ヵl フ)王良四 (αcas、
c a s、ルクパ 1) 閣道二 ( E C a
S) という。
④牽牛星・彦星(鷲座、河鼓二)
、
鷲座のアルタイル (αAql)は
七夕説の﹁彦星﹂﹁牽牛星﹂といい、中
国名で﹁河鼓二﹂と呼ばれている。
⑤織女(琴座、織女 一)
北天の白鳥座とへルクレス座との
中間に位置し、銀河のほとりにある琴
牛星とともに七夕説の﹁織女﹂として
座のベガ (αLyr) は、鷲座の牽
知られていて、中国名で﹁織女ごと
い
・
フ
。
(本稿了)
(さくまたつお・伊能忠敬研究家)
- 68 一
②三つ星(オリオン座、参宿 一・二・一二)
高田
・
権
﹁三つ星﹂は、二十八宿の第 一一一番目の﹁参宿﹂のなかの三星 。参
1
"
3
天市左績一
,
星
この星座のなかで目立って明るい星が三つ星で、西(右)端から東
F
4
・
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在 出掛 (
九
"
'
鼓
とは、オリオン座の三つ星からきていて、白虎の胸にあたる。
留守道五星〆/・
・
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α.
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書量女 f二 }
ア
ぞ
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
先日作家の山本 一力先生とお話している際に、
-伊能隆男さん浦安市
闇川凶
と景観、星埜先生の健筆拝読させていただきま
御健祥にて御活躍下さいませ 。安藤様陽子様刊
行おめでとうございます。必号大図総覧の地名
伊能先生奥様おめでとうございます。ますます
-斉藤サダさん函館市
能忠敬記念館に寄贈されたことは大変嬉しく存
じます。
牽力により伊能忠敬先生の貴重な史・資料が伊
お芽出度うございます。ご夫妻の並々ならぬご
この度の伊能洋、陽子ご夫妻紺綬褒章受章誠に
-神戸信和さん東京都中野区
下(これはもしかしたら多分入江様関係かなと
﹁伊能図に学ぶ﹂に掲載分の市町村誌は長崎県
同株です。 止宿の具体的位置やその後現代迄の
聞に変化した旧の海岸線の様子等。
②知り得た測量地点等の具体的位置に付いても
列拳してゆく必要性を感じております。
どのように触れているかということも注意して
が重なっており、測量日記等の中の何に付いて
誌や郷土史家による著作には佐久間達夫氏校注
①各地で調査中に自治体の歴史を記した市町村
月不知﹂でも改めて思い知らされました。
いて前から思っていることですが、前号の﹁正
忠敬談話室だより
圃今村葱こさん白井市
した。特に画館から近いこともあり室蘭、礼文
思うのですが)と高知県下に限られております。
忠敬さん
H
に関する講演などして戴けました
の生き方には大変ご興味をお持ちでした。一度
H
ら興味深いお話しが聞けるかも知れません 。
の伊能忠敬測量日記からの引用に遭遇すること
三月二八日、日帰りパスツア ーでお江戸五大桜
めぐりに行ってまいりました。上野公園に始ま
て室蘭に﹁伊能橋﹂があるとのことも耳にした
華の項は興味を深めるものがありました。 かつ
伊能忠敬の話となり、山本先生も H忠敬さん
り、隅田川お花見クルーズで日の出桟橋へ、芝
-新沢義博さん東京都台東区
するとかの頁を設けておく必要を感じておりま
す。蓄積したら例えば伊能忠敬研究の素引集と
互いに遭遇したら都度忘れずに索引として列挙
M
公園、靖国神社、千鳥ケ淵とまわり、桜、さく
-大沼晃さん藤沢市
忠敬さんゆかりの地に住んで五年が経過しよう
合体した別冊素引集としては如何でしょうか 。
これら以外全国には相当ありますので皆がお
古代歴史の勉強に熱中しており、吉川弘文館﹁日
としています。都心に近く、四季の隅田川を堪
小生が今すぐ思い出すものでは、島根県の旧島
ことがありました。
本史年表・地図﹂とてらしながら﹁古代よりの
能しております。
ら、サクラを満喫した 一日でした。
伝言﹂角川文庫八木荘司著を読んでいます。
根町、秋田県若美町など 。
・直江泰子さん筑西市
5 月幻自幕張メツセで﹁伊能忠敬の山島方位
記に基づく十九世紀初頭の日本の地磁気偏角の
-辻本元博さん堺市
解析﹂の論文を日本地球惑星連合町年大会で発
伊能洋様陽子様御授賞御祝い申し上げます。永
-海保英之さん千葉県横芝光町
介護など大変でした 。 しかし、この度役場を退
年の御努力の賜と存じます。安藤様、研究会の
町村合併と合併直後の混乱期への対応や母親の
職致しましたので、また研究会の行事にも参加
ータからいろいろなことが分り、永遠に活用で
表しました。また 一歩前進です。忠敬の測量デ
[提言]各地での市町村誌等引用例での列拳につ
思います。
きるデlタを解析しております。伊能図の傾き
原因の研究にも 一石を投じることができればと
去る五月十七日﹁伊能忠敬を偲ぶ会﹂が香取市
-成家淑子さん香取市
皆様方のお力あってのこと﹀お喜び申し上げま
す。御盛会を御祈り致します。
(編集部・検討課題のひとつです)
-川上清さん水戸市
させていただきます。
ーク ﹂北茨城、常陸大田の 二大会を続けて実施
します。北茨城は八年前伊能ウオークで通った
茨城県内の﹁美しい日本の歩きたくなる道ウオ
道です。
6
9-
に佐原町(当時)が命日に遺髪など埋葬されて
牧野観福寺で行われました 。 これは 一九三三 年
究発表に大図総覧の展観が出来まして、とても
告と菱山剛秀氏、永尾正剛氏、園重正樹氏の研
行うようにしています。
生の指導を行っています。社会科教育法では必
私は千葉県松戸市の聖徳大学で教職を目指す学
ボランティア的に始めたカルチャーセンターで
オホーツク地域の滝上町では、四年ぶりの降雪
全般的に低温の日が続き、札幌は最高温度印度、
移っていると思いますが、本道は、一昨日から
五月中旬を過ぎ、東京は日増しに暖かい季節に
・平野幸彦さん札幌市
果だと思います。 とくに陽子さんそして安藤由
伊能夫妻の受賞 は二人の永年にわたる努力の結
-吉田一さん東京都練馬区
れました 。
利根川を境に隣接しています)に寄贈して喜ば
故郷、潮来市立図書館(潮来市は香取市佐原と
懸案の忠敬関係書籍地図等 三十余附は、小生の
ず﹁伊能忠敬と日本地図﹂を取り上げて授業を
有意義でした 。 秋の研修旅行は﹁島原市内の伊
能測量隊の足跡﹂訪ねる予定です。
の各地の﹁街道めぐり ﹂も六年目に入りました。
古希をすぎ体力的にや﹄負担に感じるようにな
っているところです。
を記録し、同町のピンク色の芝桜も白い 雪 に驚
紀 子さんが丹念に持続したエネルギーによるこ
0
いる同寺で墓前祭を始め、以後ずっと続けてい
-藤岡健夫さん横浜市
ます。当日は雨のため本堂で読経いたしました
(編集部・例会の模様など次号で報告します)
-馬場良平さん武雄市
いています。 その後、青空に恵まれ、観光の花
・野田茂生さん大野城市
随分迷いましたが思い切って上京することにし
として今月 一杯元気に咲いてくれるよ うなので、
いと思っています。伊能忠敬の果した仕事 l内
ました(総会に出席)。この機会に佐原や深川か
容もさることながらその生きかたをふくめーは
ら浅草聞を歩いてみたいと思っております。
この度の伊能洋様の紺綬褒章授章祝賀会が開
わたしへも痛烈な刺激となりますが、渡辺一郎
とが大でしょう。ごくろうさまを心から 言 いた
催されると知りました。この慶賀を契機として、
一安心です。
だんだんと足腰が弱ってきたようで、何とか元
忠敬先生の偉業が更に国内外に普及されますよ
-原因照男さん神戸市
気を出そうとこの六月に第九発祥の地鳴戸で
﹁
第九演奏会﹂に参加し久しぶりに唱ってくる
さんをはじめ﹁研究会﹂の片々の支えがなけれ
四川閣直
予定です。そうそう割叫制剰寸瑚割剖聞を授与さ
・受贈図書など
ば現在はないでしょう。 ありがたいものです。
先日、送付いただいた第必号ですが、とりわ
には、たまたま、凶年前に出張の折り立ち寄っ
報告をお待ち下さい)
伊能洋家から資料寄贈が行われ、以前に寄贈
う、心 からお祈り致しております。富岡八幡宮
-平川定美さん佐世保市
け星埜先生の﹁伊能大図総覧の地名と景観﹂
、井
された伊能淳家資料と併せて伊能三郎衛門家の
れ何年ぶりかの東京へも行って来ました 。
(編集部・授賞おめでとうございます。 次号で
六月末でどうやら梅雨は明けてしまい、このま
口先生の﹁今井八九郎の﹃室蘭図﹄﹂
、佐久間先
生の﹁未完の天文暦学者伊能忠議﹂、伊藤栄子先
資料の大半は記念館に収蔵された。
たことがあります。
までは水不足も心配されましたが、七月になっ
く読ませていただき、諸先生方の豊富で卓抜な
生の﹁榎本武揚文書解読余話﹂を中心に興味深
口伊能忠敬記念館年報第8号
てずっと雨続き。大雨洪水警報とやらで慢性的
佐原・永沢治郎右衛門家覚書
椎名和宏
口香取民衆史叩小島一仁さん
報告佐原村の屋敷地変遷について
キ
C+蕊
な水不足に悩む我が佐世保もホッとしている
-贋嶋憲一郎さん日野市
伊能様ご夫妻の受賞 を心から喜 んでおります。
識見に感銘しております。
様です。
6月初日は九州支部の例会でした 。 総会報
ハ
U
マ4
2007年
第 49号
伊能忠敬研究
佐原の名家として知られていた永沢本家の家
て引きつがれていたようです。
口早稲田大学図書館蔵の伊能図について
同館紀要日号抜刷藤原秀之さんより
一 中図標題・大日本天文測量分間絵図
①別×却価表紙﹁伊能東河測量﹂
②m × 郎 佃 表 紙 ﹁ 伊 能 東 河 先 生 大 日 本 天
H 両年分﹂
日文測量分間絵図 時一一
ト
﹁
紙本彩色、針穴本
①加×山岨
二小図標題・沿海地図
-香取市で﹁ラジオ深夜便のつどい﹂
日月6日(土)忠敬さんが出演?
深夜便アンカーのトlクサロン
来年開年 3 月 辺 日 ( 土 ) 中 村 士 先 生
・科学史学校案内首藤郁夫さん
天文方高橋至時・その生涯、業績と影響
問合せ・国立科学博物館分館
・
智0 3
3364・
7103(月1金)
国立科学博物館﹁日本館﹂オ ープンから
日本館 一階南翼には天球儀地球儀のほか望遠
鏡なども展示されております。新館二階の﹁科
紙本彩色
ーがあります。おついでの節ごらんいただけれ
三 大図標題・海岸要地之図武蔵・相模・
ばと存じご案内申し上げます。
学と技術の歩み﹂では﹁天文と測量﹂のコ ーナ
①m × 川 畑
安 房 ・ 上 総 ・ 下 総 甲 乙 二鋪 ︽ 新 発 見 ︾
②山×附佃
紙本彩色、針穴本
①﹁豆相武房総沿海図﹂筑波大学図書館蔵
四伊能図写本
②﹁武相豆房総海傍之図﹂明治大学図書館蔵
述を訊ねましたが特記はないとのことでした。
せでした。絵図に何か書き留めたものや参考記
間違いないと考えています。夢のようなお知ら
されていることが紺野学芸員からの連絡で判明
しました 。小西伯照が直接忠敬に渡したものに
松田昭二さん
公042
・
621・
6777
-﹁久美浜湾絵図﹂写本が記念館に!
-八王子夢美術館
がありました。伊能記念館にこの絵図写本が残
前号﹁松江近体詩の久美浜湾絵図﹂に早速反応
りム
ますむらひろしの世界展
nDtiEd
η (11i
“
,
ポップ・ア ート
E‘
,
、
ロ
7 1 2 ・3
富山県民会館
-﹁地図展2007・
m富山﹂
山 月 日 日 ( 木)ln日(日)
林静一展
7・mtJ9・口
調査訪問をしました。
なかなかの労作です。6月に有志の皆さんが
ったので孫の忠講によって文政六年四月 十四日
代 │東 北 歴 史 博 物 館 武 川 芳 男 さ ん
寸チ凶ドd ⋮
k
k
影法師
口町絵図・村絵図の世界│絵図の時代・江戸時
に建てられた。(植田さん手製の拓本写本)
子の景敬が、忠敬の九州測量中に死去してしま
原本は﹃伊能忠敬研究﹄ M 号。忠敬の墓塔は、
î!.II1-~護史総 資 妥協 議 会
系は、途中から実質的には伊能本家の力によっ
s
e10.
替取民猿
t
ウ
今号の佐久間さん﹁伊能家蔵書は五千 冊﹂にあ
の最先端国家だった﹂﹁医者三分、看病七分﹂。
りました 。本草、医療の 荒第八に﹁用薬須知﹂
し、入門の日かそれに関連した日がわかれば、
前後 二篇 七冊。あ いにくと著者名はわかりませ
それでも良いと考えております。
来年は、福島県で生涯学習フェスティバル(ま
閣明国
なびピア)が開催されますので、そのときに発
・榎本武場百回忌(続・前必号肝頁)
1記 念 講 演 会 童 門 冬 二
んが長男景敬が作成した目録に存在した事実で
法要口一∞
叩月別日(土)吉祥寺・東京都文京区
表できればと考えております。
カレッジは商業実務系の専門学校で、現在約
五千冊の伊能家蔵書の一部は正文堂書庖から購
た大手書庖でした。(江戸の読書熱・鈴木俊幸著)
す。江戸末期の往来者の売弘書臨時に︿下総佐原
偲 ぶ 会 問 一 ∞ 1霞 会 館 要 会 費
資料請求等は曾 042・
424・
4568福固まで ‘
三百名 の学生が在籍 しておリます。先月は、
名の学生が献血に協力してくれました。献血協
講の存在が関係か。当時では確実な全国ネット
入もあるのかは微妙です。古書籍類は六十六部
正文堂浅野利兵衛﹀とあります。全国に知られ
力は、加年近く続いており、昨年厚生労働大臣
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-新入会員です。ど うぞよろしく
から感謝状をいただきました。柳田以上献血協
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・猪原紘太さん東京都杉並区
力の教員もおり、血気盛んな専門学校です。ち
ワークワここにも時代の先端情報が存在しまし
た。
東京カlトグラフィック側代表取締役
ソフト﹁地図太郎﹂は身近な地域の地図や航空
なみに私も臼回献血をしております。
御 礼 新 し い 関 心 は し ば し ば 異質の出会い
ませ。 ﹂作家・早瀬徹さん
ただきます。皆様にはよろしくお伝えください
るかも知れません 。あらためてご連絡させてい
﹁わたしの原稿、この秋には、読んでいただけ
加州の忠敬さんと郡蔵さん
写真を背景に、 地域や個人の情報を表示したり、
念0 3
5303・
8221
・
重ね合わせたりする簡単な地理情報システムで
す。歩いたコ l スが地図上に表示できます。
編集余話
月が欠けて昇るのが見られるそうです。東京で
は夕方 6時 9分、日制分後に皆既が始まり、 9
8月犯日はお天 気がよければ、
ます。特に、生涯学習の偉大な先駆者である伊
皆既月食
能忠敬には以前から興味を惹かれておりました。
あります。忠敬さんの情報源は?今号の佐久
時お分まで。測量日記にはかなりの月食情報が
職業柄、生涯学習には強い関心を持っており
・岡部隆男さん郡山市専修学校教育
当地福島県の専修学校各種学校連合会でも
間さん﹁伊能隊が観測した星 ﹂には 一八六星座、
六四一星が記されています。天文、暦など日本、
して参りました 。現代は市場とは違う論理で動
向学心が輝き、
病家須知(びょうかすち ) 今 年 の ブ ックフェ
しなければ!会員の諸賢兄姉はじめご支援いた
められています。特に晩節は価値判断を大切に
く共助の拡充や社会還元を豊かにする必要が求
一号に 十万字近くを有難く頂戴
中国、西洋の知識に触れ、賢明に吸収し実見に
から生れます。毎号の誌面には皆さまの探究心、
ンを実施できないかと考えておりました。そ し
最大の努力をしていました。
﹁生涯学習の日﹂を設けて会員校がキャンペ ー
て﹁生涯学習の日 ﹂にふさわしいのが、忠敬が日
歳で担歳の高橋至時に入門した日と考えてい
アに農文協﹁病家須知﹂現代語訳がありました 。
ます。
以前、江戸東京博物館で、伊能忠敬展が開催
(福田弘行)
だいた関係者の皆さま、有難うございました。
書名は病人のいる家では知っておくべきことの
意味。江戸後期の医者平野重誠 (1790118
67) の著書です。﹁江戸期ニッポンは予防医学
されたとき、学芸員の方に調査を依頼したので
すが、不明でした。何か、手がかりがありまし
たら、ご教授いただければ幸いに存じます。も
- 72 一
伊能忠敬研究会のホームページ
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ホームベ lジ は 秋 葉 武 晃 さ ん の 担 当 で す 。 流 氷 着 岸 は 温 暖 化 の 影 響 ?
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史料情報は、﹁資料室﹂として坂本幹事です。現存する伊能図の所在一
覧、アメリカ伊能大図など御覧いただけます。
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忠敬関係の図書、文献資料は﹁伊能忠敬図書館﹂です。前田新編集長
が担当です。会報原稿などはこちらへ直信。
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編集後記
中 越 沖 地 震 被 災 お 見 舞 い 。 ご 無 事 を 願 っ て い ま すO 六 月 の 北 見 、 網 走
は纏めた春がにぎやか。蝦夷春せみの大合唱。蝦夷山桜、芝桜など一
ク海を結ぶ幅叩れの小さな海道。﹁さんま?﹂の声に橋から覗くと大ぶ
斉開花は文字通り百花練乱。湖畔﹁第二湖口﹂はサロマ湖とオホーツ
りのさんまが群れで泳ぐ。自然を守る知恵はこの海道に︿﹀アフガンの
心 (1月 9 日 朝 日 新 聞) H子らに希望託す映画から﹃﹁大人になった
ら何になる?﹂少年が答える。﹁心臓病を治す医者になる﹂。どうして?
﹁アフガン人の心は戦争で壊されたから﹂﹄ O 江 戸 し ぐ さ の 越 川さん 。
仕草ではなく思草。銘柄やブランド評価には失敗がある。江戸はしぐ
さで選べば失敗が少ないと。自分の努力や才覚で築き上げた心ばえ、
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﹃ほのぼのと夜明けに輝く忠敬忌﹄︿﹀忠敬旧宅の発掘調査では新
個性や特技を評価。今でも内面が感じ取れる美しい思草は忠敬さん
に
事 実 は 如 何 にO ﹁ 離 別 一 札 の 事 ﹂ 今 般 私 方 勝 手 合 を 以 及 離 職 然 ル 上 縁
田 さ ん に 増 し て の ご 支 援 ご 協 力 を 是 非 に お 願 い し ま すO 天の賜もの H
祖如件。潮時到来、永年のご懇情に多謝深謝です。気鋭の鈴木さん前
忠敬さんと同時期は俳人田上菊舎﹃雲霞呑みつ﹄越えん菊の山道﹄ (F)
「伊能忠敬研究 J
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9号 @2
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7年 8月 l日印刷 8月 6日 発 行 編 集 福 岡 弘 行 発 行 星 埜 由 尚 印 刷 閥 均 一 イ ン
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2東京都目黒区青葉台 4
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伊能忠敬研究会御案内
一、本会は伊能忠敬に関心をお持ちの方はどなたでも入会できます。
第 四 号 締 切 3 月 末 発 行 5月
第 日 号 締 切 臼 月 末 発 行 2月
第 印 号 締 切 9月 末 発 行 日 月
ー予定│
二、つぎのような活動をおこなっております。
①会報の発行
発表誌原則として年四回臼頁
②例会・見学会の開催
③忠敬関連イベントの主催または共催
④その他付帯する事業
字 × 凶 行 ( 側 字 詰 用 紙 4枚分)、三段組却字×印行です。文字は 9ポ
イントを使用。タイトルは 5行分、写真、図表等(返却します)添付可。
併せて、話題、各種情報、近況などお便りをお待ちしています。
ー
、
一一一、入会方法等入会を希望される方は郵便振替で住所、氏名、電話
番号、通信欄には専門、趣味、入会の動機など御意見を書き添えて、
入会金四千円、年会費六千円、合計一万円を左記にお送り下さい。
会計年度は、四月から翌年三月ですが、年度途中より御入会の場合
は、当該年度のバックナンバーをお送りします。
( 似 年8月事務所は新宿区下宮比町から移転)
伊能忠敬研究会
〒15310042 東 京 都 目 黒 区 青 葉 台41916
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( 町 年 8月よりアドレスが変りました)
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掲載は、原則として 2 1 8頁です。提出原稿は返却しません。採否は
編集部に一任。手書き、 F D、C Dなど形式自由です。一頁は二段組出
投稿規定会員の皆様から会報の原稿を募集しております。
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