新聞 17号 ア イ ・ユ ー ・ケ イ ソ リ ュー シ ョ ン

ワトソンとは
2011年にコンピューターが米国のクイズ番組 Jeopardy! に出場し、QUIZ
王に勝利した。これが、ワトソンの原型である。
では、QUIZに勝利すると言うことはどういうことなのか、何の意味があ
ることなのか?
クイズ番組 Jeopardy! でワトソンが証明したのは下記のような能力であ
る。
-自然言語での質問の理解と応答ができること
-カテゴリーを問わない質問への応答ができること
-複雑な問題文とカテゴリーの解釈ができること
-キーワードの一致だけでなく、意味内容に基いて問題文と情報源を関
連づけて情報源から回答候補を選定できること
-確信度の推定(ボタンを押下して回答をするか、しないかの判断)が
できること
では上記のようなことができるワトソンとは何なのか
当初、ワトソンは質問応答システムと呼ばれたが、今はコグニティブシス
テム、あるいは、コグニティブ・コンピューティングと呼ばれている。
コグニティブ・コンピューティングとは、自然言語処理と機械学習によっ
て人間とコンピュータがより自然な対話を行い、人間の専門知識や認知を
より広く深いものにしていく仕組みである。
人間は「自分はこの質問に答えられる」ということを直感的に判断する。一方で、コンピューターはそのよ
うな直感を持っていないので、質問に対する解答が正しいと判定できる根拠が文書の中にどれだけ見つかっ
たかを計算し、自信の度合いを数値化する。
この一連の作業を数秒以内に実行し、ワトソンは質問に答える。
キーワード検索結果として表示されたキーワードを含む文書のURLの中から内容を人間が一つ一つチェック
してユーザー自身が判断して正しい答えを導き出す通常の検索エンジンとは明らかに異なる。
このような処理は、一般的には質問応答技術として従来から研究されてきたものだが、ワトソンのように人
間の解答者と競えるような高い精度を実現する手法は存在しなかった。
ワトソンはコンピューターでありながら、情報から学び経験から学習を必要とするシステムと言える。
ワトソンで何ができるか
-ワトソンが自然言語での問い合わせの対応ができることから、質問への応答支援、例えばコンタクトセ
ンターや営業への支援などやセルフサービス(SNSでの応答)の支援などへの活用
-必ずしも存在しない問いに対し、答えの候補 (仮説などを含む) をリストし、それをサポートする根拠を
精査し、検証することができることから、例えば症状から過去の症例などから医師の診断の支援
-ポリシーや規定への適合を確信度を加えて判断できることから保険金の支払い審査
などへの適用が考えられる。
ワトソンの実績
海外含めて多くの実績が出始めており、国内でも下記のような事例が出つつある。
・カラフル・ボード (http://www.colorful-board.com/)
ユーザーの好みを理解するアプリSENSYで個々人の感性を学習して人工知能がファッションコーディネート
&相談に対応/アドバイス。
・FiNC (https://finc.com/)
ヘルスケア・パーソナライズ、ダイエット関連。ユーザ向けに人工知能が適切な食事指導。専門家向けの
コールセンターでアドバイス支援。
・第一三共 (http://www.daiichisankyo.co.jp/)
製薬会社。新薬開発、医薬品の研究開発プロセスの効率化。
・フォーラムエンジニアリング (http://www.forumeng.co.jp/)
エンジニア、学生の求人情報、最適な人材マッチングに活用。
・三菱東京UFJ銀行(MUFG) (http://www.bk.mufg.jp/)
LINEによるワトソンを使った顧客からの応答サービスを提供。ワトソンを使ったeフィナンシャルプラン
ナー(資産管理/資産活用)。
ロボットとワトソンの組み合わせによる受付管理(多言語対応)。
富士重工(http://ascii.jp/elem/000/001/174/1174301/)
膨大な走行データをワトソンを活用して解析し、自動運転のレベルアップを加速
東京大学(http://japan.zdnet.com/article/35068153/)
ワトソン Genomic Analyticsの活用により、特定された遺伝子変異情報を医学論文や遺伝子関連のデータ
ベースなどの、構造化・非構造化データとして存在する膨大ながん治療法の知識体系と照らし合わせること
を可能にする
17
号
ワトソンの技術の概要
ワトソンは、与えられた質問文の内容を分析して、大量の文書の中から質
問の解答の候補とその根拠および確信度を計算し、高い確信度の候補が得
られた場合に解答する、という一連の知的処理を高速に実行している。
基になっている技術は、質問応答、という技術である。質問応答とは、
ユーザーが知りたいことを尋ねると、それに対する答えを返すもので、通
常の検索エンジンとは全く異なるものです。また、記憶容量にモノをいわ
せて質問と解答を丸暗記したりするようなデータを構築しているものでは
ない。
ワトソンに採用されている質問応答技術は、まず問われている内容の解析
を行うことによって何を質問されているかを判断する。
次に、ワトソンに蓄積された情報源の中から解答候補を複数を生成し、解
答候補の根拠を探索し、確信度を計算する。
クイズ番組 Jeopardy! に出場したワトソンには、ニュース記事、百科事
典、ブログ記事といった文書に加えて、辞書、語彙体系など、予め大量の
情報が蓄積されていた。
質問文に対する解答となり
そうな語句、特に質問と
関連が深い語句をそれらの
文書から推定し、解答の
候補として数百から
千個ほど列挙し、それらが
質問文の解答としてふさわ
しいかどうかを調べるため
に、文書や辞書の中から
その「根拠」となる記述を探す。そして、ワトソンは、解答候補の中から
確信度の高いものを解答として導き出す。
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アイ・
ユー・
ケイ ソリューション 新聞
ワトソンって何かなぁ
まとめ
これまでのコンピュータは計算だけをしてきた。白か黒か、正しいか否か。
ワトソンは全く異なり、パターンを見つけ、白か黒かだけでなくグレーの解答をも示すことができる 。
データが爆発的に増加する現代にあって、急増するデータを人間だけで正しく処理することは不可能になっ
てきている。
しかも、急増するデータの多くがメールやSNS、音声、画像などの非構造化データと呼ばれるものである。
ワトソンはこのような情報の処理に向いており、ますます、活用の幅をひろげることができる。
ワトソン担当 奥野細道
1914年12月、トーマス・ワトソン Sr.(Thomas Watson Sr.)は、C-T-R
(Computing-Tabulating-Recording)社の部門責任者を初めて全社的に招集しま
した。C-T-R社は、1911年に、いくつかの合併を経て設立された企業で、1914年5月、
経営者として迎えられたワトソンは、その小さなまだまとまりのない複合企業を、
1924年に最終的にIBMと改名する企業へと再構築したのです。
基本的信条
1962年、トーマス・ワトソン Jr.(Thomas Watson Jr.)は、ニューヨーク市のコロ
ンビア大学で700人の聴衆に向かって演説をしました。ワトソンは、今なおIBMの指
針となっている価値観の原典とも言える3つの基本的信条、「個人の尊重」、「最善
の顧客サービス」、そして「完全性の追求」について熱弁を振るいました。ワトソ
ンの一連の講演は、著作“A Business and Its Beliefs”(邦題 : 『企業よ信念をもて-
IBM発展の鍵』)として1963年に出版され、大きな影響を及ぼしました。
C-T-R社のマネジャーたちは、新しいCEOからやるべきことを命じられると考えて
いました。しかし、逆に、「私がするべきことは何か」とワトソンは一同に尋ねま
した。彼は、製品ラインや戦略については語りませんでした。ワトソンが説いたの
は、目的の統一でした。会議の記録によると、「社員全員が一丸となり、皆が同じ
目標に向かって懸命に努力して前進してほしい」と彼はマネジャーのグループに告
げています。
通常、企業文化はCEOから従業員へと伝わっていきます。しかし、C-T-R社として
スタートし、その後改名したIBMは、異なる方針をとりました。従業員からトップ
へ流れる文化を意図的に築いたのです。この文化の中心を占めるのは、製品やビジ
ネスではなく、世界における自社の役割について共有されている信条であり、その
実現に向けた行動指針です。
1911年の創立以来の一世紀にわたるIBMの存続の鍵となったのは、ほかならぬこの
信条でした。信条に基づく企業は、その信条が揺るがないかぎり、変化に耐えるこ
とができます。100年にわたって、IBMはその基本的信条に忠実であり続けようとし
てきました。テクノロジーが変化しても、グローバル経済が根本的に異なるモデル
に移行しても、その姿勢は変わりませんでした。
トーマス・ワトソンSr.が責任者になったとき、C-T-R社はタイム・レコーダーや計量
器、パンチ・カード式会計機を作っていました。それ以降の数十年で、IBMは情報
関連のさまざまなビジネスを手がけました。具体的には、タイプライター、真空管
の計算機、磁気テープ・ドライブ、ディスク・ドライブ、メモリー・チップ、リ
レーショナル・データベース、ATM、メインフレーム、パソコン、スーパーコン
ピューター、コンサルティング、ITサービス、ソフトウェア、アナリティクスなどが
挙げられます。IBMの事業展開は1カ国から拡大し、2011年現在、170カ国以上のお
客様にサービスを提供しています。
信条が時代とともに進化してきたのは間違いありません。それでも、製品、市場、
および従業員の数世代にわたって世界中で一貫性を保っているのは驚くべきことで
す。1962年、トーマス・ワトソンSr.の息子であり、当時、IBMの会長だったトーマ
ス・ワトソンJr.は、ニューヨーク市のコロンビア大学でスピーチの演台に立ち、将
来のリーダーである聴衆に向かって演説を行いました。そのとき、IBMはちょうど
創立50周年を迎えていました。ワトソンが招かれたのは、半世紀にわたる企業とし
ての活動がIBMに何を教えたかについて考えを述べるためであり、そのスピーチの
中心をなしたのがIBMの基本的信条でした。
「どの組織も存続し続け、成功を収めるためには、すべての方針や行動の指針とな
る正しい信条を持つ必要があると私は固く信じています」と彼は聴衆に語りました。
「次に、企業の成功に必要な最も重要な要素は、この信条に忠実であることです。
そして最後に、変動する世界の課題に組織が立ち向かうのであれば、その企業の歩
みとともにすべてを変える覚悟が必要ですが、その信条は変えてはならないという
ことです」
トーマス・ワトソンJr.のスピーチは、“A Business and Its Beliefs”(邦題 『企業よ信
念をもて-IBM発展の鍵』)という1冊の本に収録されています。この本はIBMにお
いては重要な文書となり、ビジネス・スクールの授業でもしばしば使われています。
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ワトソンって誰かなぁ
野鴨は馴らすことはできる。しかし馴らした鴨を野生に返
すことはできない。もうひとつ、馴らされた鴨はもはやど
こへも飛んでいくことはできない。ビジネスには野鴨が必
要なのである
「組織の基本的な考え方、精神、および気力は、その組織の相対的な業績と深い関係を持ちます。その関係は、
技術的、経済的な資源や組織構造、イノベーション、タイミングなどよりもはるかに深いものです。これらの
事項もみな成功に大きく影響しますが、組織の従業員がその基本原則を強く信奉し、忠実に実行することのほ
うが勝っています」
もちろん、世界は常に進歩しています。40年後、サム・パルミサーノがIBMのCEOに就いたとき、彼とその
チームは、テクノロジーとグローバル経済で起きつつある困難な変化を見てとりました。IBMがその変化を利
用しようと思えば、この場合もやはり、IBM自身が変わらなければならないことに気づいたとパルミサーノは
振り返ります。IBMは、1990年代の大規模な変革を経て業績回復を遂げたばかりでした。
「率直に言って、経営陣と財務担当者にこの新たな変革を遂げる用意があるのかと疑問に思いました」とパル
ミサーノは言います。「約10年前、このような理由により、私たちがIBMの偉大さを取り戻すためには、原点
に返ってそのDNAに触れる必要があると考えました。そこで、CEOとして私が最初に取り組んだ仕事の1つは、
IBMの中核的な価値観を再検討する試みに着手することでした」
その試みは、IBMの「ValuesJam」に結実しました。このイベントは3日間にわたってオンラインで実施され、
世界中のIBM社員がディスカッションに自由に参加し、IBMが体現すべきものは何か、IBM社員が果たすべき
役割は何かをテーマに話し合いました。このジャムは2003年の7月29日に華々しく開始されました。しかし、
一般の企業が歓迎するような種類のイベントではありませんでした。IBMには、1990年代の初めに苦労して危
機を回避した痛みがまだ生々しく残っており、意見の多くは厳しいものでした。一部の経営幹部はジャムの中
止を求めましたが、パルミサーノは耳を貸しませんでした。ディスカッションが続いて発展していくにつれて、
新たな見解が生まれ、IBM社員の物事の見方は深くなっていきました。
ジャムの終了時、ディスカッションに参加したIBM社員は数万人に達しており、そのアイデンティティーの探
求はいっそう具体的で詳細なものになっていました。IBMの分析者は、ジャムで集まったテキストを調べて主
要なテーマを得る作業に取りかかり、IBM社員が生み出した企業の価値観を要約しました。この価値観は行動
規範にとどまらず、アイデンティティーも意味していました。2003年11月、新しい価値観が従業員に発表さ
れました。新しい世界に向けて斬新な方法で生み出された価値観ですが、1914年にトーマス・ワトソンSr.が
定めた信条に沿っており、極めて馴染み深いものでした。以下に示すのがIBM社員の新しい価値観です。
お客様の成功に全力を尽くす
私たち、そして世界に価値あるイノベーション
あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任
ValuesJamの実施以降、IBM社員の価値観はさまざまな方法でIBMの方針、プロセス、および日常業務に組み
込まれており、IBMは目指す企業像を実現しようとしています。後続イベントのWorldJam 2004では、採用
された方針と慣行の変更が多く確認され、価値観を生き生きとした現実に変えることを目的とする、継続中の
プログラムが開始されました。
「まず基本に立ち返り、ルーツまで遡って、IBMの文化の基盤に触れることがなければ、製品とサービスにお
けるIBMのポートフォリオの再構築やグローバルな会社の統合、世界的な景気後退のただ中でのSmarter
Planetビジョンの開始など、ジャム以降のIBMの事業の効率化や継続維持はなかったと私は本気で信じていま
す」とパルミサーノは語ります。
現代のIBMの企業としての価値観には、市場はおろかビジョンの記述さえ含まれていません。これは、IBMの
歴史を通しても言えることです。IBMの価値観が問うものは、その在り方です。市場やテクノロジーは変化し
続けますが、IBMの精神とそれを具現化した「IBMer」(IBM社員)と呼ばれる個人の特徴的な存在が変わる
ことはありません。
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トーマス・ J・ ワトソン Sr. (Thomas J. Watson Sr.)
ニューヨーク州イサカ近郊の田舎で質素な少年時代を過ごした後、トーマスJ.ワトソンSr.は販売の仕事を始めました。当初、ワトソンは訪問販売の自営
業に就きますが、その後、オハイオ州デートンにあるNCR社(National Cash Register Company)で営業部長を務め、10数年の在職期間中に重役の地
位に昇格しました。NCRを離れたワトソンは、C-T-R(Computing-Tabulating-Recording)社の統括マネジャーになり、1914年5月、同社を導くため
に家族の幼い子どもたちを連れてニューヨークへ引っ越しました。10年後、ワトソンはC-T-RからInternational Business Machinesに社名を変更するこ
とになります。IBMの創立者兼会長として、ワトソンは事業の象徴となる強力な会計機ビジネスを構築しました。IBM特有の経営スタイルを打ち立てて、
その企業文化を創造したことで高い評価を得たワトソンは、米国で最も著名な実業家となりました。多くの人々に知られているワトソン考案のTHINKと
いうモットーは、セールスマン兼マーケッターとしての生涯にわたる彼の成功を揺るぎないものにしました。ワトソンは急激な成長をIBMにもたらしま
した。ワトソンが亡くなった1956年、IBMは9億ドル近い年商を誇っており、これは1914年にワトソンがC-T-Rの責任者になったときの年商の100倍に相
当しました。
トーマス・ J・ ワトソン Jr. (Thomas J. Watson Jr.)
トーマスJ.ワトソンJr.は、父親である ワトソン Sr. がIBMの前身であるC-T-R社の社長になった1914年に生まれました。ワトソンは、技術の時代の最前
線にIBMを位置付けました。彼のリーダーシップのもとでIBMは成長し、世界で最も尊敬される企業の一つとなりました。IBMでのワトソンの職歴は
1937年に始まります。彼は、第二次世界大戦の陸軍航空隊パイロットとして軍務に就くためにIBMを離れ、中佐の地位を得ました。戦後、ワトソンは
IBMに復帰し、1952年に社長に選出されました。その4年後、父親の跡を継いでCEOになり、1971年までその役職を務めました。彼の在任中に、IBM
の総収益は8億9,200万ドルから80億ドル以上に急増しました。Fortune誌がワトソンを「歴史上最も偉大な資本主義者」と評したことは実業界の伝説
となっています。
ワトソンって親子?
初代社長トーマス・ジョン・ワトソン・シニアは、1952年、自らの息子であるトム・ワトソンJr.を社長に就任させると、その4年後には長年勤めたチーフ・エグゼクティブ・オフィサー
(CEO)の地位も譲り、ビジネス界から引退します。世代交代を無事に成し遂げたワトソンSr.は、その年、1956年の6月19日にこの世を去りました。偉大なる中興の祖を失った悲しみにく
れつつも、新しきリーダーの元で、IBMは新しい進路へと突入していきます。
トーマス・ワトソンJr.の経営方針、それは、過去の達成を元に、現代のニーズを広くカバーして事業を進めるというものでした。従来のパンチカードなど、ビジネス支援以外の領域に広く手
を伸ばし始めたのもこの頃。宇宙探査への協力や研究・開発機関の設立――そして現在に至るまでのIBMに最も大きなインパクトを残した事業、それがSystem/360の開発でした。
技術革新と事業拡大を支えた研究開発
1960年代におけるIBMコンピューターの普及を支えたのは、通信技術の進歩、そして宇宙探査計画の推進でした。IBMエンジニアが行った、米国・ニューヨーク州エンディコットとフラン
ス・ラゴード間における、衛星を経由したデータ通信実験。そして、宇宙船設計や宇宙飛行計画のために書かれた何百万ものコンピューター命令。これらが世に広まるにつれ、IBMの名声は
さらに高まっていきました。
この高度な技術を可能にしたのが、ワトソンJr.が力を入れていた、研究開発基盤の整備でした。1961年にはニューヨーク州ヨークタウンにトーマス・J.ワトソン研究所がオープン。また、ス
イスのチューリッヒにも研究所が整備され、欧米のどちらにも研究拠点を持つに至り、技術開発競争をリードする準備が完成したのです。
「IBMの歴史の中でもっとも重要な製品発表」
これらの研究開発は、ひとつの製品に結実することとなります。1964年、IBMの設立年とされる1914年のまさに50年後、ワトソンJr.が「IBMの歴史の中でもっとも重要な製品発表」と呼ん
だ製品が世に姿を表します。それが、System/360でした。
『フォーチュン』誌には「IBMの50億ドルの賭け」と評された、技術的にもビジネス的にも超大規模な挑戦。IBMの開発してきたソフトウェアと周辺機器を組み合わせた、コンピューター・
ファミリー、後に「メインフレーム」と呼ばれる仕組みでした。コンピューターが必要とされるあらゆる用途をカバーし、商用から科学技術まで幅広く使用されたこのシステム。これをきっ
かけに、ワトソンJr.率いるIBMは「メインフレーム市場の巨人」として君臨することになるのです。
今年2014年は、コンピューターテクノロジーの歴史そのものともいえる、ある製品の発売開始から50年にあたります。System/360――「メインフレーム」と呼ばれ、世界中あらゆる企業や研
究機関でその基幹業務を支えるコンピューターシステム、その起源とも言える製品です。
「50億ドルの賭け」に勝ったIBM
それまで、たとえば商用計算は商用計算、科学技術計算は科学技術計算と、用途ごとに異なるコンピューターが使われており、しかもそれらには互換性が存在していませんでした。コン
ピューターを動かすプログラムすら、利用するユーザー側が独自に開発することを強いられていたのです。IBMはこの状況を解決するため、互換性のあるコンピューターの開発プロジェクト
に巨額の予算と大量の人材を投入。上位モデルへのアップグレードが可能なハードウェアであるSystem/360、そして、世界初の商用オペレーティング・システム(OS)であるOS/360を開発し
ました。『Fortune』誌の記者、T.A.ワイズが「50億ドルの賭け」と評したこのプロジェクト。その成功によって、IBMは今に至るまでの大きな事業の核を手に入れたのでした。
50年を超え、メインフレームの進化はより加速する
とはいえ、この50年の間、メインフレームに変化がなかったわけではありません。むしろ、関連技術や素材の発展に最も敏感だったのがメインフレームの世界とすら言えるぐらい、時代の要
請に応えた進化を続けています。ダウンサイジングが大きな潮流であった1990年代には、専門家から「メインフレームは必要とされなくなり、死を迎える」という予想すら出されていました
が、継続的な投資を続け、2000年代にLinux、Javaといったオープンなテクノロジーを取り入れていった結果、2014年の現在でもメインフレームは必要不可欠な製品として、世界中で愛され
ているのです。50年前の発明がもたらした最大の変革は、ビジネスとテクノロジーの関係を、極めて密接にしたことでした。時は経ち、ビジネス・テクノロジー双方が大きく発展し複雑化し
た今でも、その関係性は変わっていません。現代では、2013年のOpenStackのサポートに代表される最先端技術の継続的な採用によって、メインフレームはより利便性を増しています。次
の半世紀のビジネスも、支え続けるために。メインフレームとその関連技術は、その進化をより加速させていきます。