ふるさと散歩 № 55 H28.9.12 日立市郷土博物館 《石シリーズ9 粘板岩②―砥石の材料に 》 ■ 板状に割れる性質を利用して 粘板岩は、縄文時代に打製石斧、石棒、石刀として使われたほか、当館 の所蔵資料から、石錘、石針などにも使われていたことがわかります。と もに削るなどの加工が容易な性質を活かし、石器として利用されていまし た。長径の両端から溝があり、掛けた紐が外れない工夫が施されている石 錘(長径 6.3cm)は投網の錘などに使用しました。また、頭部に細い孔の ある針状のものは石針(長さ 11.0cm)と考えられ、衣服や網を編む時に 石錘(左) ・石針(右) 使用されたものでしょう。 ★弥生時代には、石包丁として使用…弥生時代 には、石包丁の材料にもなりました。右写真のように扁平な石片に孔を開 けて刃をつけた石包丁と考えられるものが、久慈町のゴルフ場に隣接する 常磐線の北西側の畠地から出土しています。 石包丁はイネの穂を刈る道具ですが、茨城県内での出土例は少なく、福 石包丁(破片) 島県の浜通り地方では数多く出土しています。弥生時代の茨城県域でも稲 作が行われていたはずなのに、なぜ石包丁の出土が少ないのか、謎の一つです。 ★古墳時代以降は砥石として使用…弥生時代に伝わった金属の、その利器と してのすばらしさは皆のあこがれでした。古墳時代以降すぐに国内に伝播し、そして、金属製の武器や 馬具が有力者の持ち物として広まっていきます。そのころ金属採取の技術は国内にはなく、当初は輸入 した素材から金属器を作っていたようです。日立市内の古墳からは、直刀、鏃(やじり)などの武器のほ か、刀子(とうす)などの利器の出土もあります。利器の存在は、それらの刃を研ぐ「砥石」の存在を示 しています。市内では古墳時代の砥石は、東滑川町明神越遺跡などから発見されています。調査例が増 えるに従ってさらに出土することでしょう。 ★古墳~奈良・平安時代には各地に流通した日立産砥石… 奈良・平安時代になると、金属器はより普及し、市内の住居址からは 時折、鍬先(くわさき)、鎌、刀子などが出土します。そして、砥石の出土 数の増加が見られます。 今までに滑川町金木場遺跡などの奈良・平安時代の集落跡からは、た くさんの砥石が出土しています。これらの砥石は鮎川などから採集して きたものと思われ、長年の使用によって磨り減り、時には中央部から折 れて 2 つになったものもあり、丁寧に使われたことが伺えます。 この砥石は当時の日立地方で使われただけでなく、ひたちなか市域な ど県内各地に流通していたようです。 ひたちなか市埋蔵文化財調査センターの調査によると、多珂郡・久慈 郡・那珂郡には 8 世紀から 10 世紀にかけて、日立地方産の砥石は多量に 流通していて、ひたちなか市の古代遺跡からは「日立産変成岩製砥石」と 磨り減った砥石(金木場遺跡) して「黒味を帯びた暗青灰色の千枚岩製砥石」と「淡緑色、あるいは風化した褐色の結晶片岩製砥石」 が発見されているとのことです。このことから、古代久慈郡東部の助川郷、箕月(みつき)郷あたりの 集落では河原で採集した原石から砥石への加工がなされていた可能性を指摘しています。さらに、砥石 の交易地は箕月郷の南に隣接する久慈郡高市(たけち)郷であったとの指摘もなされています。とにか く、砥石は消耗品でありながら、貴重品でもあったようです。 参考文献:『ひたちなか埋文だより 42』 (2015) お問い合わせ先: 日立市郷土博物館 『日立市史』 (1959) ℡(23)3231 Fax(23)3230 歴史資料調査員 綿引 逸雄
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