リービッヒのイギリス紀行 1


(105)
肥料科学,第37号,105~130(2015)
リービッヒのイギリス紀行 1)
妻ヘンリエッテへの手紙より 渡邉 慶昭* 目 次
はじめに
1.イギリス紀行と手紙の発信地
2.手紙の形式
3.イギリスからの最初の手紙
4.イギリス紀行の案内者
5.イギリスの家庭と生活様式
6.イギリス科学振興協会(BAAS)リバプール年次総会
7.農業改革者フィリップ・プジーと農場見学
8.ムスプラット一家とリービッヒの “ 特許肥料 ”
おわりに
* (元)大正製薬株式会社創薬研究所研究員
(106)
リービッヒのイギリス紀行
はじめに
一般にリービッヒ(Justus von Liebig, 1803-1873)は「短気で喧嘩早い論
争好きの化学者」とのイメージを与えている。
事実当代化学界の第一人者でスウェーデンのベルセリウス(Jöns Jacob
2)
とは乖離し(1845年),フランスの同僚化学者デュマ
Berzelius, 1779-1848)
(Jean Baptiste Dumas, 1800-1884)3) とは絶交となり,さらにオランダの化
学 者 で “ タ ン パ ク 質 ”(protein) の 名 付 け 親 で あ る ム ル ダ ー(Gerardus
Johannes Mulder, 1802-1880)4)とは喧嘩別れをしている。
しかしながらここで紹介するリービッヒのイギリスから妻ヘンリエッテ
(Henriette, 1807-1881)に宛てた手紙を
読むと,彼は非常な愛妻家でしかも家族
思いの優しい父親であったことが分かる。
(図1)
この機会に彼のこれまでの良からぬ印
象を払拭できれば幸いである。
イギリス旅行のそもそもの発端は “ イ
5)
ギリス科学振興協会 ”(BAAS と略す)
が1837年リバプールで開催する年次総会
にリービッヒを招待し講演を依頼したこ
とにあった。その後1855年まで計7回イ
図1 ヘンリエッテ・リービッヒ(1807-1881)
ギリスに渡っている。
1.イ ギ リ ス 紀 行 と 手 紙 の 発 信 地(図2)
第1回 1837年8月5日より10月7日 手紙12通
(2) ベルファスト (1) グラスゴー
マンチェスター (2)
ダブリン (1) ロンドン (2) パリ (1)
(3)
マンチェスター 第2回 1842年8月18日より10月10日 手紙6通
1.イギリス紀行と手紙の発信地
(107)
ロンドン (1)
ブリス
トール (1)
ファフィー
ルド (1) ウエントウ
オース城 (1) ラーグ
ス・オン・クライドル (1) ニューキャッスル (1)
第3回 1844年9月3
日より10月28日 手紙12
通
ロンドン (3) リバプ
ール (1) マンチェス
ター (1) ウェジウォ
ー ス 城 (1)
ボ ル ト
ン・パーシー (1) ビ
ショップ・ソープ (1) エジンバラ (1) ロ
ン ド ン (2)
リ ー
ル (1)
図2 リービッヒが訪れたイギリスの場所
第4回 1845年4月3日より4月10日
ロンドンで数日滞在中長女アグネスの病気により旅行を中止して帰国した。
第5回 1845年9月14日より9月30日 手紙3通
いずれもロンドンより発信
第6回 1851年8月6日より10月12日 手紙9通
(1)
リバプール (2)
ガルウエイ(アイ
ロンドン (2)
オックスフォード (1) バークホール (1)
リバプール (1)
ルランド)
(1)
ラーグス 第7回 1855年8月25日より10月10日 手紙2通
パリ (1) (オズボンハウス)(1)
(108)
リービッヒのイギリス紀行
2.手 紙 の 形 式
手紙はいずれも日記風に書かれ,妻が内容を理解出来るできないに係わら
ず,最初の頃は一部始終報告している。かなり専門的な記述も見受けられる。
とにかく驚くほど誠実実直である。
手紙の書き出しは必ず「僕の最愛のイェットヒェン」あるいは「愛する
イェットヒェン」などから始めている。6)
他方末尾は「君のユストゥス」あるいは「ご機嫌よう 僕の最愛の人に 千回の心からの挨拶と口づけを 君と子供たちへ」,あるいはこれに類した
言葉が添えてある。7)
3.イ ギ リ ス か ら の 最 初 の 手 紙
初めてイギリスへ行くので門下生であったトーマス・トムソン Jr.(Thomas
8)
がギーセンまで迎えに来た。
Thomson Jr., 1817-1878)
最初の手紙は1837年8月9日マンチェスターから投函している。9) リー
ビッヒ一行はライン川を下り,ロッテルダムからイギリスのフル(Hull,現
在の Kingston Upon Hull)へ航行した。手紙は:
「僕の最愛のイェットヒェンへ
昨日僕は恙なくここへ到着し,そしてヘンリー(William Charles Henry,
10)
の家に落ち着きました…(その後旅行中の話があり,初めて見
1804-1892)
るイギリスのことが続いている)。
日曜日の11時に僕たちはイギリスの陸地を見ました。その前から数限りな
11)
家々
い帆船の様子で分かっていました。12時にフルの港へ投錨しました。
の建て方や船の数などすべて一見したところ目新しく,僕たちは港近くのホ
テルに宿を取りました。
イギリスでの最初の夕食は勿論すべてがイギリス式で,まずは魚料理,鮭
と一緒にヒラメのフライ,続いてすぐにジャガイモ,インゲン豆そしてカリ
フラワーを様々に水煮をした料理です.最後はデザートでとにかく山ほどの
3.イギリスからの最初の手紙
(109)
チーズが出されました。
マンチェスター12)での最初の夜はイギリス式ベッドですべてが単調な形
をしています。その上古くエリザベス朝の代物のようでベッドは二人だけで
なく四人はゆっくりと寝られ快適で,誰もがすぐに寝付けます。」と書いて
いる。
翌朝6時に馬車で宿を出発しおよそ11時間かけてヨーク(York)へ到着
している。旅はさらにヨークからマンチェスターへと続いた。
リービッヒは途中の田園風景について,「イギリスの田舎の眺めは一風変
わっています。畑は子孫に分譲されるわけではなく必ず長男一人が受け継ぎ
ます。従ってほかの兄弟姉妹は報われません。広い畑には一様にいろんな種
類の穀類が栽培されています。畑の境は小高い生け垣で仕切られています。
考えてみてご覧,それは単なるだだっ広い庭と同じで,大半はオークの木が
植えてあるのだよ…」。
またヨークからマンチェスターへ
の 道 の り で は,「 ヨ ー ク か ら マ ン
チェスターにかけての地域には煙を
吐いている煙突が並び,煙突は何千
といった巨大なピラミッド形あるい
は柱に取り囲まれボイラーから出る
煙を吸収するもので途方もなく大き
な蒸気機関と同じです。(図3)
至る処船の上では人また人,街路
に沿っては石炭工業所だらけで,マ
図3 林立する煙突
ンチェスターも異様な眺めです。数限りない煙突の山で,すべての煙突から
煙が排出しているのでその煙でマンチェスターの町全体が囲みこまれ,まさ
に地獄(Hölle)としか例えようがありません。」と産業革命発祥地のものす
ごい有様を実感していたに違いない。一歩も二歩も後れをとっていたドイツ
にあっては想像も出来なかったことである。
(110)
リービッヒのイギリス紀行
4.イ ギ リ ス 紀 行 の 案 内 者
リービッヒは生来外国語は苦手で,古典語が習得できなくて結局ギムナジ
ウムを中退している。当然ヘッセン訛りのドイツ語を話している彼にとって
英語は聴くことも話すことも苦手であった。
事実1837年9月6日の手紙で,ある懇親会のことが書かれている。13)「僕
の謝辞はもうしどろもどろで声もかすれ,隣に座っている人でも(僕の英語
が)ちんぷんかんぷんであったに違いありません。それでも終始恐ろしいほ
どの拍手喝采を受けました…」。
参列者には演説が分かるわからないは問題外で,懇親会は最高に盛り上
がっていたことを物語っている。
この手紙の文章からもうなずけるようにリービッヒのイギリス紀行には案
内者(つまり通訳)が欠かせなかった。そこで上述したトムソンがギーセン
まで迎えに来たわけである。
ここで主な案内者を挙げておくことにする。
1)ウイリアム・グレゴリー(William Gregory, 1803-1858)(図4)
グレゴリーはリービッヒの『動物化
学』14)の翻訳者として知られている。彼
はまた『化学書簡』15)第3版を編集して
書簡も35通と大幅に加わった。
グレゴリーはエディンバラの出身で当
地の大学で医学博士となったが,次第に
化学に 関 心 が 深 ま り,1835年 と41年 に
ギーセンの化学教室に籍を置いた。1837
年からグラスゴーのアーバーディーン,
そして1844年からエディンバラの化学の
教授を勤めた。
図4 ウイリアム・グレゴリー(1803-1851)
4.イギリス紀行の案内者
(111)
グレゴリーはドイツ語に堪能でリービッヒの重要な著作を翻訳している。16)
グレゴリーはリービッヒの案内者,通訳として最適で,第1回のときより
第6回まで同行している。リービッヒはダブリンで初めて彼に会ったときの
様子を,「私たちは大通りでグレゴリーと出会いました。彼は見違えるほど
恰幅も良く太り,つやつやしていました。長身なので以前よりスタイルも見
事です。」と記している。17)
2)ライアン・プレイファー(Lyon Playfair, 1818-1898)(図5)
周知のようにプレイファーはリービッ
18)
の 翻 訳 者 で あ る。
ヒ の『 農 業 化 学 』
1840年ギーセンに留学してミリスチン酸
と他の研究で博士号を取得した。彼は学
術および政府機関の職に就き1851年のロ
ンドン世界博覧会ではアルバート皇太子
のアドバイザーとして活躍した。後年に
は国会議員に選出されている。プレイ
ファーはリービッヒの第2回の紀行から
登場する。彼のドイツ語はあまり達者で
はなかったようである。
図5 ライアン・プレイファー(1818-1898)
リービッヒは1842年9月の手紙でリーズで開かれたある集会でのことを伝
えている。19)
「僕は話をする羽目になった。自由自在に話が出来ないので全く辛い。再
度ドイツ語で話を繰り返したが,プレイファーの通訳は要をなしていなかっ
た。」。
3)ア オグスト・ヴィル ヘルム・ホフマン(August Wilhelm Hofmann, 18181892)(図6)
ホフマンはリービッヒの愛弟子の一人で,リービッヒの推薦で1845年当時
(112)
リービッヒのイギリス紀行
新設されたロンドンの化学専門学校
(College of Chemistry in London)の教
授(学長)として20年にわたってイギリ
スの化学者を養成した。初めての人造染
料モーブ(Mauve)を開発したパーキ
ン(William Henry Perkin, 1838 -1907)
は彼の最初の頃の教え子である。
リービッヒはホフマンを新設の化学専
門学校への推薦について1845年9月17日
「今日ジェー
のロンドンからの手紙で,20)
ムズ・クラーク卿21) の所へ行きブンゼ
22)
ンの話をしてから
23)
W. が要望してい
図6 アオグスト・ヴィルヘルム・ホフマン
(1818-1892)
た文書を作成しました。この文書が受理されたら直ちにロンドンへ行って,
私たちは一緒に化学専門学校の委員会に列席するのが最善の策といえます
…」。リービッヒの目的は無事達成された。
一方リービッヒの門下生で『化学書簡』第4版を編集し , 残りの農業関係
24)
のタイトルで1859年同時に出版
の書簡を改めて翻訳して『近代農業書簡』
したジョン・ブライス(John Blyth, 1815-1892)とは一度会っている。1844
年10月6日エジンバラからの手紙でリービッヒは「…馬車でエジンバラに到
着して僕はブライス博士に会いました。彼はアーバーディーンの教授職の推
薦に漏れてしまい,僕にとっても残念です。というのは彼は有能で優れた人
物だからです。」と至って簡潔である。
不思議なことにこの『化学書簡』初版(1843)を翻訳したジョン・ガード
ナー(John Gardner, 1804-1880)の名前がどこにも書かれていないことであ
る。彼はホフマンがロンドンの王立化学専門学校の教授に就任したときに,
同じく事務局長の職に就いている。
4.イギリス紀行の案内者
(113)
4)そのほかの案内者
リービッヒのイギリス紀行に良く出てくる同伴者にチャールズ・ドウブニ
(Charles Daubeny, 1795-1867) と ト ー マ ス・ グ ラ ア ム(Thomas Graham,
1805-1869)の二人の学者がいる。
ドウブニはオックスフォードの教授で , リービッヒの農業論を支持してい
25)
リービッヒは二回目の紀行で彼と知り合い意気投合してか,それ以降
た。
最後の旅行まで付き合いを持っている。
ドウブニをリービッヒに紹介したのはプレイファーであった。リービッヒ
26)
は1842年8月28日ブリストールの手紙でその様子を伝えている。
「僕たち27)は通りでドウブニに会い,その足ですぐ彼の家に行きました。
快適な造りの邸宅です。ドウブニは優れた学者で,独身,親切な性格の人
で,化学と植物学そして農業経済学の教授です。大学の植物園の中に住んで
います。(おそらく君にもその素晴らしさが想像できると思うよ)小綺麗な
石造りの家で自分で設計したそうです。僕の泊まる部屋は庭園の上に突き出
ていてます。正面には満開に咲き誇った花壇が眺められます…」。
ドウブニは独身で自由の身であったこともあり,リービッヒの旅行を一緒
に楽しみ,恰好な案内役でもあった。
グラアムの専門は物理化学で “ コロイド学の父 ” と称されその業績は高く
28)
リービッヒも彼を尊敬していた。
評価されている。
リービッヒは彼との出会いについて1837年8月27日にグラスゴーから書い
29)
「グラアムの所へ行きました。彼の実験室は雑然としていて誰も
ている。
いません。グラアムはロンドンへの移転で忙しく,30) しばらく待つうちに
戻ってきました。彼は非常に誠実で 立派な人です。彼と話をして,これか
らも交際を続ける約束をしました…」。
事実その後リービッヒがイギリスへ行くたびに,しばしば同行している。
彼もまた独身であった。
リービッヒの手紙では同行者の名前が書かれているケースは殆どない。大
体は “ 僕たち ”(wir)となっている。従って手紙に出てくる名前から判断す
(114)
リービッヒのイギリス紀行
ると上述の人たちが主な案内者(通訳)と見られる。
5.イ ギ リ ス の 家 庭 と 生 活 様 式
初めてマンチェスターを訪れたリービッヒはヘンリーの家に滞在した。
「僕はヘンリーの家が簡単に見つかった。お城のような建物です…ヘン
リー夫人が快く出迎え,主人はすぐに帰宅しますと言ってくれました。僕は
家の中の煌びやかさに茫然としました。僕にあてがわれた部屋はイギリス人
が日常よく使う調度品がいっぱい取りそろえてあります。」とイギリスから
の最初の手紙で述べている。
リービッヒはイギリスの中産階級の人々の暮らしにいささか戸惑いを感じ
たのかもしれない。
続いて「ヘンリーは友人を夕食に招きました。給仕は黒の燕尾服姿で短い
パンツと長い靴下を履き白い手袋をはめていました。三人の奴隷31)が背後
に控え一寸した貴族の気分でしたが,僕には我慢がなりませんでした。…料
理については特に話すことはありませんが,12種類ものワイン,氷,スペイ
ンの果物,白と青色のブドウなどで僕には全く興味がなかったのですが,ヘ
ンリーは終始上機嫌でした。」。
次いで5日後の8月14日の手紙では,「イギリス人の生活様式は単純で僕
の理解を超えています。家族は一日の殆どの時間を別々のこと(仕事)に時
間を費やしています。ヘンリー一家の朝食は9時でヘンリーは紅茶,僕は
コーヒーでした。午後1時に前日の残りの冷えた肉を食べました。夕食は5
時で焼き肉,ジャガイモやインゲン豆の水煮などに類した料理,これで全部
です。そして小さな深皿に盛ったライスのプディング,あるいはそれに似た
もので全体にソースをかけます。僕はこれまでのところスープをお代わりし
ていません。夕刻8時にはお茶を飲みます。毎日同じ(料理)で変わりあり
ません。ただマトンの代わりに一度は子牛の肉,あるいはビーフステーキま
たはローストビーフが供されました。」,また「ヘンリー夫人は子供たちと係
わることが殆どなく,末の子とはある決まった時間相手をしているだけで
6.イギリス科学振興協会(BAAS)リバプール年次総会
(115)
す。これがごく普通のようです。」。32)
子煩悩のリービッヒにとっては信じられない家庭の生活ぶりであったに違
いない。
ヘンリーの家には付添婦が二人いて子供たちの面倒を見ていたり,ベッド
メーキングする女中が二人とか料理婦一人がいたと報告している。
さらに続けて,「この家の厨房は本質的に一番清潔です。調理用設備は比
較にならないほど(立派)です。」とリービッヒの観察は細かい。
「水の便については言うこともありませんが,最上階に3つの貯水タンク
があります。雨水を集めて貯蔵し(水道)管により家全体に配備されていま
す。簡単にしてとても快適で清潔です。厨房の設備はなかなか良く整ってい
て勉強になりました。」。
リービッヒは妻への配慮も決して欠かしていない。最初の手紙で早速「昨
日君に高価な絹織物を買い求めました。その反物は銀色の地に黒と緑色の花
模様があしらってあります。それに華やかで君にぴったりあった服が仕立て
られるに違いない...1エレ33)が4.2フロリン34)で最新モードです。フラン
クフルトで買うとすると仲買手数料が入るので倍の値段になるでしょう…」。
そしてまた彼は妻の上着と(長女)アグネス用に花模様をあしらった半分
絹の入った生地30エル買ったが,1エル39シリングしたと書いている。
この手紙の文面からするとリービッヒはかなり計算高かったようである。
その後再び「マンチェスターで君の求めに応じて袋地7枚買いました。きっ
と気に入ってくれるでしょう…今頃君はダルムシュタットで受け取っている
に違いない…」。
6.イ ギ リ ス 科 学 振 興 協 会(BAAS)リ バ プ ー ル 年 次 総 会
第一回目のイギリス紀行の最大の目的はこのリバプールで開催される1837
年度の BAAS 総会の招待講演にあった。総会は9月9日土曜日からのリバ
プール市長主催の晩餐会から始まった。発表は11日(月)から15日(金)の
午後まで各部門の講演があった。
(116)
リービッヒのイギリス紀行
リービッヒは最終講演で全ての部門の人たちが集まった。座長はかの有名
なマイケル・ファラデー(Michael Faraday, 1791-1867)35)が担当した。ファ
ラデーはリービッヒに代わって彼の原稿を代読した。演題は “ 尿酸の分解に
よる生成物について ”36)であった。
37)
「僕
この総会の様子について9月18日マンチェスターから伝えている。
は心配でたまらなかった。というのは僕の英語では注目されることは殆どな
く講演の本来の目的が達成されない。そこで理解してもらえるようにこの部
門の座長であるファラデー氏に僕に代わって報告してくれるように頼みまし
た。つまり総会の夕べで各部門の長も出席していましたから…ファラデーは
僕の原稿を携えて席に着きました。そして彼は僕が世界の偉大な化学者であ
ると紹介しその業績を列挙しました。最後には恍惚(Ekstase) となって僕の
原稿を二回も繰り返して朗読しました。一方他の発表については演題を読み
上げただけでした…イギリス化学者に対する僕の要請には恐ろしいほどの拍
手喝采があり,講演者に話が及ぶと拍手は二倍となり鳴り止みませんでし
た。少しの間でしたが僕は夕べのライオンのようでした…」。有頂天になっ
たリービッヒの気持ちがよく分かる。
帰国後リービッヒは有機化学の生命体への応用に着目し,とりわけ農業へ
の利用を模索した。ダーニエル・テアー(Daniel Thaer, 1752-1828)やカー
ル・シュプレンゲル(Carl Sprengel, 1787-1859)の書を攻究して自分のテー
ゼを分析実験で確立し,1840年の『農業化学』で結実した。
7.農 業 改 革 者 フ ィ リ ッ プ ・プ ジ ー と 農 場 見 学
リービッヒは1842年二回目の旅行でプジー(Philip Pusey, 1799-1856)と
38)
初めて知り合った。8月28日の手紙でその経緯が分かる。
「僕たち39)はオックスフォードに別れを告げ,…プジー氏のいるプジーに行
きました。国会議員でそしてまた非常に熱心な農場主です。同様に国会でも
強い影響力を持つ人物です。プジーの年収は24万グルデン(約2万ポンド)
あり,ヘッセン大公と同じくらいです。彼の居城と施設はどんなものか君に
7.農業改革者フィリップ・プジーと農場見学
(117)
も想像がつくのでは…
僕の窓からは緑色のプ
レ ー グ ラ ン ド( ロ ー ン
ボーリング用の芝生)
と芝生が綺麗に刈り込
ま れ, 小 さ な 庭 に は 美
しい花が咲き誇り木々
が 点 在 し て い ま す。 そ
の背後には小さな池と,
さらに緑色の景色が続
いています。到着したそ
図7 ヴィクトリア朝時代の田園風景
の日僕たちは馬に乗ってプジー氏が自ら耕作している畑を見ることになりま
した。僕は馬にまたがるなんて馬鹿げたことは全く考えてみなかったのです
が,馬には純血イギリス種と練習用駄馬がいるとのことです。(図7)
いざ乗ってみると馬は(僕の)意向に従わず,勝手な行動をして手綱を操
る余裕もなく落馬してしまいました。そんなことでこの企画は僕にとって呪
わしい事件となりましたが,幸いどこも怪我はありませんでした。遠出は馬
車で行くことに決まりました。プジーの領地は何マイル平方にもおよび,そ
の大部分は小作人が畑を耕し,毎年小作料を支払っています…。プジー氏の
家はまさに領主の館と言っても良く,食器や調度品は全ていぶし銀で作られ
ています。僕はイギリス産ワインを飲むのをやめました。どうも蒸留酒の味
がしたからです。食事は全く口に合いません…」。
その後プジーは農業学会の講演会で農業進歩の唯一の道は化学によっても
たらされるもので,骨粉,あるいはリン酸石灰,硫酸の添加で溶解性を高め
る。このことはリービッヒの『農業化学』からその示唆を受けていた。
リービッヒがプジーの講演要旨集を読んで「私を賞賛して彼はまだインク
の乾ききっていない受け取り(receipt)を手渡してくれた」と上機嫌でエ
ドマンド・ノールズ・ムスプラット(Edmund Knowls Muspratt, 1833-1923)
(118)
リービッヒのイギリス紀行
に話したと,彼は自伝で記している。40)
ところがムスプラット社が製造発売した “ リービッヒの特許肥料 ” が不成
功に終わるやいなやプジーは一気に豹変してローズ,ギルバートの肥料の理
論が正しいと実証されるとともにリービッヒを徹底的に非難嘲弄した。
プジー訪問の後リービッヒは農場見学の一環としてチーズを生産している
農場を見学している。41)
「私たちは有名なチェダー・チーズ(Cheddar-Käse)を生産している農場
を訪ね,製造行程の始めから終わりまで見て回りました。朝5時に起床し7
時には到着していました。前日の夕方30頭の乳牛から搾った牛乳は私たちが
行ったときにはすでに準備が整っていました。牛乳は子牛の胃から採った乳
脂(Rahm)で凝固され,新鮮なバターを含んだ濃厚なチーズは慎重に乳清
から分離されます。沸騰させた乳清を注ぎかけ,それから食塩と混ぜ合わせ
て圧搾します。その後チーズは1年から2年そのまま寝かせて置くと,その
間に醸成し食卓に乗るのです。このような作業で毎日30頭の牝牛から60ポン
ド(約27㎏)のチーズが製造されます。全行程が全く清潔で,一般に農家の
主婦の仕事になっています。」。
産業革命の発祥地イギリスの工場制手工業の発展には強い関心を示してい
たリービッヒであったが,農業についての観察は手紙から見る限りではさほ
ど詳しくはない。もっとも1842年当時は未だ『農業化学』出版まもなく農業
についての研究はその一歩を踏み出したに過ぎないので関心も薄かったもの
と思われる。
8.ム ス プ ラ ッ ト 一 家 と リ ー ビ ッ ヒ の “ 特 許 肥 料 ”42)
リービッヒがジェームズ・ムスプラット(James Muspratt, 1793-1886)
(図
8)と初めて会ったのは1837年9月リバプールの BAAS 年次総会の時で
あった。9月18日マンチェスターからの手紙で分かる。「リバプール滞在4
8.ムスプラット一家とリービッヒの “ 特許肥料 ”
(119)
日目僕はムスプラットとチャールズ・クロ
ウ両氏と一緒にノースウィッチの塩鉱山と
製塩工場を見学に行きました。新設のバー
ミンガム鉄道で山や川を越えたところでク
ロウの工場があります。彼は年間24万ツェ
ントナー(1万2千トン)の塩(塩化ナト
リウム)を生産しています。43)…工場見学
後ムスプラットは私たちを素晴らしい夕食
に招いてくれたのです。支那製の陶器を使
い,世界中の高価なワインが食卓に乗って
図8 ジェームズ・ムスプラット(1793-1866)
いました…」と淡々と書いている。
この当時ムスプラットはルブラン法によりソーダ(炭酸ソーダ)を大規模
に製造していた。原料に塩化ナトリウムと硫酸を使用するので塩酸の発生は
免れない44)。このガスが公害の源でムスプラットは近隣からの訴訟に苦労し
た。そのため煙突を極端に高くしたりして大気中への拡散をはかったが,雨
天の時は工場周辺に降下し白煙に包ま
れ目も当てられないほどの惨状を呈し
た。(図9)
リバプールを機に二人は意気投合し
てか,ムスプラットは4人の息子全員
を1840年から次々とリービッヒの指導
を受けるようにギーセンの化学教室へ
留学させた。
長男のジェームズ・シェリダン(James
Sheridan, 1821-1871)は帰国後父親の
経営に参加したが商才に欠け,学問の
世界へ身を転じ,新設の王立化学専門
学校でホフマンと一緒に研究した。そ
図9 高い煙突のそびえる工場
(120)
リービッヒのイギリス紀行
の後父親と協力してリバプール実業専門学校の設立に尽力した。
上述の末息子エドマンド・ノールズは1856年にミュンヘンから帰国して父
親の経営を引き継ぎルブラン法の製造に大きく係わったが成功は見ていない。
時代は変わりベルギーのソルベー兄弟が開発した “ ソルベー法 ”45)は公害
も殆どなく原料も再利用が出来るので次第にルブラン法に取って代わり,世
紀の変わり目にはルブラン法に比べ6倍も生産量が上回った。
リービッヒは自分の人造肥料 “ 特許肥料 ” をどうやってイギリスへ売り込
んだのか。その一端を1845年4月8日ロンドンからの手紙で伺える。46)契約
を交わす前すでにムスプラットとの間でかなり話が進捗していた模様である。
「僕の最愛の人へ
僕のここでの業務も首尾良くまとまり明後日ここを出立する考えです。万
事予定通りです。特許に対する反論も僕が来る前に処理済みです…他方僕は
目下非常に良い機会を迎え,別の資本家47)とムスプラットとの間で実施に
ついてじっくり話し合いをしました。両者は12万フロリン(1万ポンド)を
出費します。この資本が2倍にも3倍にもなるはずです。純利益の3分の1
が僕に保証されています。僕の死後はそっくり遺族に引き継がれます。と
言っても後々のことですが…」。
この時点ではリービッヒの特許肥料もまさに順風満帆であった。
リービッヒの特許肥料の名前は知れ渡っているが,その内容については今
一歩である。ここで当該特許の内容について紹介したい。
1840年代のイギリスでは外国人による特許の出願は許可されていなかっ
た。そこでジェームズ・ムスプラットが代わって出願している。48)
1) 特許番号 10616
2) 特許申請日 西暦1845年10月4日
3) 特許の名称 肥料製造の改良法
8.ムスプラット一家とリービッヒの “ 特許肥料 ”
(121)
4) 特許申請人 ジェームズ・ムスプラット(リバプール在住)
5) 特許庁審査官 フランシス・F・フォーブス
6) 発明の主旨と目的
本特許はドイツ国ギーセンのリービッヒ博士の報告で,発明の主旨は作物
の収穫量はその土地の肥沃度によるという。植物の生育にはある種の無機物
が吸収される。そこで肥料が必要となる。リービッヒ博士は以下に述べる肥
料で肥沃度を回復させるべきであると主張するものである。
植物は生長している間,土壌から無機物を吸収している。そこで泥灰土
(marl)や植物の灰を化学的に調べてみると炭酸ナトリウム(炭酸カリウ
ム),炭酸カルシウムが含まれていて,その溶解性は炭酸カルシウムの含有
量によって異なる。炭酸ナトリウム,炭酸カリウムは部分的にリン酸ナトリ
ウム,リン酸カリウムに変化している。
本発明の目的は作物が生育する時に土壌から吸収されるような肥料を提供
することにあり,即ちアルカリ性物質の性状が変化して水に溶け難くなるよ
うな肥料の製法である。
その結果他の要素と比べ肥料中のアルカリ部分が雨水などにより流出しな
いことを目的とする。
炭酸ナトリウムまたは炭酸カリウムと炭酸カルシウム,あるいはリン酸ナ
トリウムとリン酸カルシウムの混合物は溶解性を低下させ肥料の成分として
適当であり,土壌中に保持されて穀物の生育に都合良く土地の肥沃度も高く
なる。以上が本特許の発明の新規性である。
7) 製造法
本発明による肥料の製造は炭酸ナトリウムあるいは炭酸カリウムまたは両
者を炭酸カルシウムあるいはリン酸カルシウムと一緒に(ソーダ灰の製造に
用いる)反射炉(reverbatory furnace)で熔解する。その後以下に述べる
ところの要素を混合してから,刃の付いた石臼あるいは類似の器具で粉砕し
肥料として用いる。
肥料を正しく使用するため,前もって収穫した穀物中の無機物の重量とそ
(122)
リービッヒのイギリス紀行
の組成を分析することにより適量が分かる。
まず二種類の化合物についてその製法を述べる。
実施例 1
炭酸カルシウム2~2.5部と市販の炭酸カリウム1部(純度は試薬100部中
に炭酸カリウムが平均で60部,硫酸カリウム10部,塩化カリウムあるいは塩
化ナトリウム10部が含有されている)を熔解するか,あるいは炭酸カルシウ
ム2~2.5部と炭酸ナトリウムおよび炭酸カリウム各1部とを熔解する。
実施例 2
リン酸カルシウム1部,市販の炭酸カリウム1部およびソーダ灰1部を熔
解する。
実施例1,2で得た融解物を各々粉砕して,得られた粉末の状態によって
は他の塩あるいは要素を混合する。
小麦の生育に適した肥料は重量比で実施例1の製品6部と実施例2の製品
1部を石膏2部,ばい焼した骨粉1部,無水ケイ酸6部を含有するケイ酸カ
リウム,リン酸マグネシウム1部,リン酸アンモニウム1部と混合して作る。
このようにして製造した肥料は大麦,オート麦及び同様の性質を持つ植物
に適用される。 実施例1の製品14部と実施例2の製品2部を塩化ナトリウ
ム1部(無水ケイ酸2部を含有する)ケイ酸カリウム同量,石膏2部,リン
酸マグネシウム1部,リン酸アンモニウム1部を混合して得られる肥料はエ
ンドウ豆と類縁の植物に適用される。
実施例1の製品12部と実施例2の製品1部を石膏1部,リン酸マグネシウ
ム1部,リン酸アンモニウム1部と混合した肥料はカブの類に適用される。
この製品はまた馬鈴薯にも使用可能である。
8) クレーム
以上植物の種類に応じた肥料の製造法を述べたが,特に植物を燃焼させそ
の灰を分析することで,これら植物の組成とその量を確定し,分析結果に基
づいて肥料を組み合わせる。収穫時の分析値と同量か過剰の量を使用する。
(ケイ酸カリウムを多量に消費する)蕎麦などを肥料代わりに畑に用いる
おわりに
(123)
場合は,必要とするケイ酸カリウムが土壌に還元されているので,上述の製
法においてケイ酸カリウムを除外しても差し支えない。
本発明の特徴と実施方法を述べたが,炭酸カリウムおよび炭酸ナトリウム
と炭酸カルシウムおよびリン酸カリウムとから製造される肥料にも利用で
き,この方法で製造した肥料はアルカリ塩を含む率が少なく,水溶性が低下
する。それ故に生育する植物に吸収される前に雨水により洗い流される割合
が低い。
ムスプラットは上述の製造法に従って小麦,馬鈴薯,野菜,クローバー,
たばこ,亜麻用の肥料6種類49) を1845年から販売したが,短期間で製造中
止に追いやられた。水溶性に問題があった。
特許を一読したところでは素晴らしい内容ととれるかもしれないが,原
料,製品(肥料)の規格の記載もなければ,成分分析も全くなされていな
い。これでは一定の製品が生産出来るはずはない。
一般に炭酸塩は熱に不安定で熔解状態では原形をとどめていない可能性が
多分に考えられる。製品は一体どんな物質なのか? 極言すれば一種の石の
固まりであったかもしれない。
百戦錬磨のリービッヒが試験管でも出来る実験を何故やらなかったのか?
反応条件(例えば反応温度,反応時間そして攪拌の程度)と水に対する経
時的な溶解性の有無及びその成分の分析は試験管でも実施可能であり,それ
ら測定値の相関性を検討すれば至適条件(optimal condition)が見つけられ
たはずである。肥料特許の実用化も夢ではなかった。惜しんでも余りある。
おわりに
リービッヒの手紙全般を通してみると,まず注目されるのは必ず妻や子供
たち,時には親族,知人あるいは門下生にも “ 愛情豊かな言葉かけ ” がなさ
れていることである。50)そしてまた文章の運びも極めて単純素朴,有りの儘
(124)
リービッヒのイギリス紀行
図10 リービッヒ一家の写真(1844年頃)
を書いている。妻への手紙を読むかぎりリービッヒが論争好きな学者とはと
ても思えない。
著者は寡聞にして知るところが少ないが,19世紀中頃までの化学者で家族
一緒になった写真あるいは肖像画はラヴォアジェとファラデーしか見ていな
い。51)
ところがリービッヒには1844年頃撮った家族全員による一枚の写真が存在
する。52)(図10)。この一事を見ても彼の真心が見えてくる。
当然リービッヒは門下生にも愛情をかけ良く面倒を見た。この手紙に出て
くるように彼はホフマンをロンドンに新設された化学専門学校の教授に推薦
し,実現した。ホフマンはイギリスで大いに手腕を発揮して,師の恩に報い
ている。彼は終生リービッヒを慕っていた。53)
余談になるがリービッヒの教育方針はギーセンの化学教室に学ぶ学徒に人
一倍の情熱と夢を持って語りかけ,彼らの研究の成果をいち早く自らが編集
する “ 化学と薬学年報 ”Annalen der Chemie und Pharmacie に発表して,
外部の専門家から正当な評価を受けて彼らの化学者としての地位を確立する
ことにあった。まさに自己の実力発揮の場として研究者を鼓舞した。そして
数々の俊英をドイツ各地の大学へ送り出した。リービッヒは教育者としても
訳注
(125)
非凡な才能を持っていた。54)
自己の偏見に基づいて著者は手紙のほんの一部分を紹介したに過ぎない。
読者諸賢が象の鼻を摩っていささかでも象の大きさを悟っていただければ望
外の喜びである。
訳注
  1)原本として Günther Klaus Judel (ed.), Justus Liebig in Grossbritannien Justus
Liebigs Briefe aus Grossbritannien an seine Frau Henriette (Justus LiebigGesellschaft e. V., 2003) を使用し,その訳注を引用させていただいた。以下手
紙と略す。
なおヤーコプ・フォルハルト(Jacob Volhard)の『リービッヒ伝』Justus
von Liebig (Leipzig: J. A. Barth, 1909) 第1巻,131-181頁にイギリスからの手
紙として載っているがその一部に過ぎない。
  2)ベルセリウスはリービッヒの『農業化学』Die organische Chemie in ihrer
Anwendung auf Agricultur und Physiologie
(1840)と『動物化学』Die organische
Chemie in ihrer Anwendung auf Physiologie und Pathologie(1842)にリー
ビッヒの期待に沿うどころか反対に酷評した。このことが両者の乖離を決定的
にした。結局のところ有機化学の急速な進歩にベルセリウスが追いついていけ
なかった。その経緯については『ベルセリウス-リービッヒ往復書簡』Justus
Carrière (ed.), Berzelius und Liebig Ihre Briefe von 1831 -1845 (München:
1892) を参照。
  3)有機化合物の構造論でリービッヒはフリードリッヒ・ヴェーラー(Friedrich
Wöhler, 1800-1882)とともに “ 根の理論 ”(radical theory)を提唱した。一方
デュマは “ 型の理論 ”(type theory)を主張し互いに相容れず,一度は和解し
たかに見えたが結局絶交に至った。
  4)両者はタンパク質の分子式の不一致を発端として論争が始まり,ムルダーも
リービッヒに勝るとも劣らぬ論争を展開し喧嘩別れとなった。
ムルダーの農業関係については Charles Browne, A Source Book of Agricultural Chemistry, Chronica Botanica, Vol. 8 (1944), 252-262頁を参照。
ムルダーは優れた学者であったが,惜しむらくは猜疑心,嫉妬心が強く優秀
な門下生をむしろ疎んだ。門下生を育てたリービッヒとは大きな違いである。
とは言っても全ての門下生がリービッヒを慕ったわけではないことが彼のイギ
リスからの手紙でも分かる。
(126)
リービッヒのイギリス紀行
  5)名 称 は British Association for the Advancement of Science。 協 会 の 創 立 は
1831年でリバプールは第7回目に当たる。現在は British Science Association
(BSA)と改名されている。
  6)イェットヒェン “Jettchen” は妻の愛称である。日本語は主語を省略しがちであ
るが,二人称には貴方,君,そなた,お前など状況によって様々である。本論
で は “ich” を 僕,“Du” を 君 と 訳 し た。 手 紙 の 書 き 出 し は Mein threuerstes
Jettchen とか Liebes Jettchen などさまざまである。
  7)簡 単 に Dein Justus あ る い は Leb wohl, mein theuerstes, thausend herzliche
Grüsse und Küste und den Kindern と書かれている。
  8)トムソンは1839年ギーセンに学びニンジンのペクチン酸の研究をした。その後
インドに渡り,カルカッタの医学校の植物学教授となった。同名の父親(17731852)は有名なグラスゴーの化学の教授で,リービッヒを初めてのイギリス旅
行に招いた。
  9)手紙:1頁。
10)ヘンリーは1836年ギーセンに留学した。マンチェスターで臨床医を勤めるが,
後に Surrey の大地主となった。元来ヘンリー家は裕福な家系であった。
ウィリアム・チャールズ・ヘンリーについては W. V. Farrar, et al., The
Henry of Manchester, Part 6. William Charles Henry: The Magnesia Factory,
Ambix, 24 (1977), 1-26頁を参照。
11)フルはイギリス中央部の東海岸に面した港町で,ヨークやマンチェスターへの
近道でもある。
12)リービッヒはフルをマンチェスターと勘違いしている。
13)手紙:24頁。
14)英文のタイトルは Animal Chemistry, or Organic Chemisry in its Application
to Physiology and Pathology (London: Taylor and Walton, 1842)。
15)タ イ ト ル は Familiar Letters on Chemistry, in its Relations to Physiology,
Dietetics, Agriculture, Commerce and Political Economy (London: Taylor,
Walton and Marberly, 1851)。
尚1843年発行の初版のタイトルは Familiar Letters on Chemistry, and its
Relation to Commerce, Physiology, and Agriculture (London: Taylor and
Walton) となっている。
16)そのほか重要な訳書には『食品化学の研究』Research on the Chemistry of
Food (London:Taylor and Walton,1847),『動物体内における体液運動の研究』
Researches on the Mortion of the Juices in Animal Body (London: Taylor and
Walton, 1848) がある。
17)手紙:9頁。
訳注
(127)
18)タイトルは Organic Chemistry in its Application to Agriculture and Physiology
(London: Taylor and Walton, 1840)。この本には誤訳があると言われている。
プレイファー自身もギーセンへの留学の経緯とこの『農業化学』について,
「My knowledge of German was not good,けれども懸命になって翻訳を急い
だ」と言っている。
Wemyss Reid (ed.), Memoirs and Correspondence of Lyon Playfair (New
York and London: Haper & Brothers,1899),42-43頁を参照。
19)手紙:58頁。
20)手紙:93頁。
21)クラーク卿(Sir James Clark, 1788-1870)は1837年より女王の侍医を勤め,
1835年から65年までロンドン大学の評議委員の地位にあった。その関係で新設
の化学専門学校にも発言権が大きかったと思われる。
リービッヒはクラーク卿と親交を続け,彼に恩義を感じたのか,上記の『化
学書簡』第3版と第4版(1859)に献詞を呈し,彼の化学の進歩に対する理解
を褒め称えている。
22)リービッヒはおそらくブンゼン(Robert Wilhelm Bunsen, 1811-1899)が新設
の化学専門学校への就任を拒否したことを伝えたのであろう。
23)W. はアオグスト・ヴィルヘルム・ホフマンを指す。
24)ブライスは『化学書簡』を36通とし,残りの農業関係14通を改めて Letters of
Modern Agricultiral Chemistry (London: Walton and Mabery, 1859) のタイト
ルで出版した。
25)ドウブニには『ローマ時代の農業についての講演集』Lectures on Roman
Husbandly (Oxford, 1857) がある。
彼はまた光合成の研究で太陽光を二酸化炭素中,色媒体を通じて植物の葉に
光を当てると黄色光では二酸化炭素が一番吸収され,青色光では殆ど吸収され
ないことを実験で証明した。
26)手紙:46頁。
27)リービッヒとプレイファーの二人。
28)グラアムは気体拡散についても “ グラアムの法則 ” として有名である。アオグ
スト・ヴィルヘルム・ホフマンは彼の『過ぎ去りし友の思い出』Zur Erinnerung
an vorangegangene Freunde (Braunschweig: Vieweg und Sohn, 1888),第1巻
の3-41頁でグラアムを回想している。
29)手紙:16頁。
30)リービッヒが訪ねたときグラアムはグラスゴーのアンダーソン・カレッジから
ロンドンのユニバーシティー・カレッジへ引っ越す最中であった。
31)リービッヒは drei Sklaven と書いている。イギリスでは当時でもまだこのよ
(128)
リービッヒのイギリス紀行
うな奴隷制度が存在していたのかもしれない。
32)手紙:4頁。
33)エレ Elle はドイツ各地で長さが異なり,50-80㎝の幅がある。
34)フロリン Florin は当時の1.7シリングに相当していた。
35)ファラデーは王立研究所で電気磁気学に画期的業績を残した。1832年にはベン
ゼンを発見している。詳しくは島尾永康(著)『ファラデー 王立研究所と孤
独な科学者』(岩波書店,2000)参照。
フ ァ ラ デ ー の 代 表 的 伝 記 に は Henry Bence Jones に よ る The Life and
Letters of Faradey (London: Longmans, Green, 1870) という2巻本がある。
36)演題は On the Products of the Decomposition of Uric Acid。
37)手紙:32-33頁。
38)手紙:48頁。
39)リービッヒとドウブニの二人。
40)エドマンド・ノールズの自伝『私の人生と仕事』My Life and Work (London,
1917) 163頁参照。
エドマンドは本書の13章(158-164頁)をリービッヒの思い出に当てている。
しかしながら “ 特許肥料 ” については一言も触れていない。
41)手紙:51頁。
42)ムスプラット一家については拙論 ‘Justus von Liebig 生誕200年に寄せて リービッヒと Muspratt 一家について ’,化学史研究,34巻(2007),85-91
頁を参照されたい。
43)年間1万2千トンの塩(塩化ナトリウム)を生産していてもムスプラットと同
じく大工場を経営しているテナント(Charles Tennant, 1768-1838)のルブラ
ン法によるソーダ製造には足りないとリービッヒは伝えている。
44)ルブラン法の反応行程:
2NaCl + H2SO4 → Na2SO4 + 2HCl ↑
Na2SO4 + Ca(CO3)2 + 2C → Na2CO3 + CaS + 2CO2↑
塩酸ガスの発生とともに硫化カルシウムの廃棄にも問題があった。
45)ソルベー法の反応行程:
NH3 + CO2 + NaCl → NaHCO3 + NH4Cl
2NaHCO3 → Na2CO3 + CO2 + H2O
原料に使う二酸化炭素はリサイクルでき,塩化アンモニウムの処理を考える
だけでよい。
46)手紙:91頁。
47)別の資本家と “mit anderem Kapitalisten” と言っているところでは本命の資本
訳注
(129)
家 は 来 な か っ た と と れ る。 ウ イ リ ア ム・ ブ ロ ッ ク (William Brock) は 彼 の
『 リ ー ビ ッ ヒ 伝 』Justus von Liebig The Chemical Gatekeeper (Cambridge,
1997)122頁でこの人物をムスプラットの友人でグラスゴーの大資本家クラム
(Walter Crum, 1796-1857)ではないかと推定している。しかしながらムスプ
ラットとの共同経営はしていない。
48)ブロックは上記『リービッヒ伝』122頁で特許の出願人を長男のシェリダン・
ムスプラットであると言っているが誤りでジェームズ本人である。
49)フォルハルトは上記『リービッヒ伝』第2巻,33-47頁で詳細に述べている。
「小麦用肥料はトン当たり10ポンドの価格であった。しかし肥料のコストが
嵩む割に効能書きのような実効性が挙げられず,多くの農場で肥料の効き目が
全く見られないことが実証された」とある。
50)上記注7)でも述べたが,例えば1844年10月6日の末尾には「…何時も君のこ
とを思っているそしてすぐ再び君たちに会えるのを待ち焦がれています。ブッ
フ,ホフマンの家族,ビショッフに宜しく.千回の口づけを」… denke ich an
Dich und freue mich schon darauf, wieder bei Euch zu sein. Grüsse Buff,
Hofmannʼs, Bischoff. Tausend Küsse.ブッフはリービッヒの門下生で,ギー
センの物理学教授。ビショッフは同僚で解剖学の教授であった。
51)ラボアジェについては,例えばエドアール・グリモー(著)田中豊助・原田紀
子・牧野文子(共訳)『ラボアジェ 1743-1794』(内田老鶴圃,1995)の表紙
カバー及び口絵参照。
ファラデーについては上記注35)の島尾書200頁参照。
52)末娘 Marie(1845-1920)はこの時まだ生まれていなかった。
53)ホフマンは1875年3月18日の “ ファラデー講演 ” で『リービッヒの生涯-業績』
についての話をし,その中で彼がリービッヒそのほかの友人4人で旅行をした
ときの逸話を紹介している。 それによればある村で哀れな老兵と出会った。
彼らは幾ばくかのお金を恵んで宿に帰った。ところが午睡をしている間にリー
ビッヒが姿を消していた。宿のある村には薬局がなかった。そこで彼は山を越
えた隣村まで行くところであった。急いで一緒に行き薬局でキニーネを買い求
め,先の老兵に手渡たしたと言う。ホフマンは「先生はこの老兵の病気(マラ
リア)に気づいた。そこで彼の苦痛を断ち切ろうとしていたのである。これこ
そまさに究極の思いやりであり,自分の貴重な時間までも犠牲にした。」。
最後に「私たち昔の生徒や同僚の敬愛する化学者をまた人として愛するとす
ればいぶかしく思われるであろうか?」Is it to be wondered at if we, his
former pupils and ever-devoted friends, in admiring the chemist also loved
the man ? (否,そんなはずはない)と。
出典:The Life-Work of Liebig (London: Macmillan, 1876) 139-141頁参照。
(130)
リービッヒのイギリス紀行
なお上記ホフマンの『過ぎ去りし友の思い出』第1巻,195-305頁に再録され
ている。297-299頁が該当する。
ホフマンには誇張している箇所が散見し,フォルハルトの『リービッヒ伝』
のほうが中庸を行っている。
54)上記ホフマンを始め,ベンゼン環構造解明のケクレ(August Kekulé, 18291896),化学史のコップ(Hermann Kopp, 1817-1892),リービッヒの後継者
ヴィル(Heinrich Will, 1812-1890),ドイツ衛生学の父ペッテンコファー(Max
von Pettenkofer, 1818-1901)など枚挙に暇がない。
詳しくは Georg Schwedt, Liebig und seine Schüler (Berlin: Springer, 2002)
を参照。