ふるさと散歩 № 51 H28.8.22 日立市郷土博物館 《道標シリーズ38 「小木津町 訪ね歩いてみませんか?ひたちの道標》 山中にある馬頭観世音の道標」 ■ 東連津川の北側の尾根に埋もれた道標 この道標の存在を知ったのは、 “ひたか民話の会”編の『東連津 川風土記』(1992)を読んでからのことです。「岩本を西に入った 山中には、馬頭観世音の石塔があり、道標を兼ねている」と書か れていました。現在、ゴルフ場が岩本集落の北西側にあることや、 長らく人が踏み入れることがなかったため、藪になり、忘れられ ているとのことでした。『東連津川風土記』に記載のある「・・・戻 ってから明治 44 年の地図を見ると、確かにあの場所で道は二つに 分かれている。右は藤坂、左は東連津の支流松ヶ沢を経て沢平に出 古道の傍らに土砂に埋もれて る。 」だけを頼りに、平成 28 年の 3 月、東連津川の北側の山に入っ てみました。探すこと 2 時間近く・・・。 ★土砂に埋もれた「馬頭観世音」の併用道標 …馬頭観世音の石仏は、岩本集落からの古道の傍らに、半分ほどが落ち葉や 土砂に埋もれて確かにありました。高さ 84cm、幅 55cm の角閃岩自然石の平 面には、次の文字が刻まれています。 「馬頭観世音」「明治十九年/戌十一月 吉日」の文字と「右高原/左山/道」の文字です。右へ行けば、十王町の高 原の藤坂集落へ、左に行けば、山道ですが、沢平集落へ行けます。 ここはゴルフ場敷地の南西部外側で、石仏の右側の尾根近くにはフェンス 馬頭観世音併用道標 がありました。左側の東連津川沿いは急傾斜でした。 この石仏は、東連津川で産したと思われる角閃岩です。どのように して、ここまで運んだのでしょうか?馬の背でしょうか。それとも、 ソリに載せて馬で引いて運び上げたのでしょうか? ★集落と集落を結んだ古道…『十王町史 地誌 編』 (P349)に、十王町高原地区の古道に関して、次のような記載が あります。 「かつて、小木津の岩本から東連津川の北側の尾根を通り、 中間点の藤坂を経て、黒田の南の尾根伝いに、入四間へ抜ける道があ り、 「イクサミチ」と呼ばれていたという(石井三郎氏談)」また、ふる さと散歩№27 で紹介した十王町高原の沼久保に建つ馬力神道標にあ る「左小木津」の道は、東連津川の北側の尾根を通る、今回紹介する 道標の脇を通ったと考えられます。 この道標の存在は、山間部の十王町高原地区と海岸部の小木津地区 を結ぶ古道が存在したことを示す重要な証拠です。 江戸時代の天保 13 年(1842)以降は、現在の沢平集落は高原村に 編入されました。それ以前、明暦 2 年(1656)までに沢平は東連津川 馬頭観世音併用道標の拓本 沿いに下流から上流に向かって開発が行われたため、小木津村に属し、小木津村の村内新田でした。当 時は田畑、屋敷合わせて 1 町 5 反 5 畝余で、戸数は 5 軒だったとのことです。 現在は自動車による往来が当たり前の時代で、十王川とその支流沿いに道が通っていますが、石尊山 塊の尾根道(東連津川の北側の尾根道)の存在が確認されて、確かに往来があったことがわかりました。 参考文献:『東連津川風土記』 (1992) 『日立の民間信仰』2(1991) お問い合わせ先 ℡(23)3231 日立市郷土博物館 Fax(23)3230 『ひたちの野仏』第2集(1986) 歴史資料調査員 綿引 逸雄
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