ゾンビのあふれた世界で俺だけが襲われない 裏路地 !18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません! タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小 説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小 説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ ゾンビのあふれた世界で俺だけが襲われない ︻Nコード︼ N3271BM ︻作者名︼ 裏路地 ︻あらすじ︼ ※SEACOXX様よりゲーム化されました ※ノクスノベルス様より書籍化されました ゾンビによって壊滅した現代社会で、一人だけゾンビに襲われない 男が、好き勝手する話です。 主人公は善人ではありません。 最近は好き勝手していないかもしれません。 1 四章予定です。 2 01﹁高熱﹂︵前書き︶ この物語に登場する人名、地名、組織名は、雰囲気を出すためのフ レーバーであり、現実のそれとはいっさい関係ありません。 3 01﹁高熱﹂ 世界にゾンビがあふれ出して、十日目。 武村雄介は二十五歳の、元サラリーマンだ。 一年前に会社が倒産。 就職活動も上手くいかず、少し前からマンションに引きこもり、 ひたすらゲームをしていた。 それも、ゾンビを銃で撃ち殺していくというアクションゲームだ。 無心になって一週間、ぶっ続けでやっていた。 それが一区切りついたあと、適当にヒゲを剃り、食料でも買いに 行くかと扉の外に出た。 そのマンションの廊下の途中で、見知らぬ男に襲いかかられたの だ。 思い出しても怖気が走る。 中年のスーツを着た男が、よだれを垂らしながら、顔を歪めて飛 びかかってきたのだ。 狂犬病にそっくりだった。慌てて蹴り飛ばし、そばにあった鉢植 えを投げつけて、自室に逃げた。男は追いかけてきて、扉をガンガ ン叩き始めた。雄介は震えながら一一〇番に電話をかけるが、まっ たく繋がらない。 そのうち気分が悪くなり、立っていられなくなった。最後の力を 振り絞ってドアにチェーンをかけ、倒れこむように布団に入ったと ころで、雄介の意識は途切れた。 そのまま三日ほど寝込んでいたらしい。 寝起きはまだぼうっとしていたが、冷蔵庫の麦茶で喉を潤すと、 すっきり目が覚めた。いつになく爽快な気分だった。 襲いかかってきた男のことを思い出し、慌てて扉を確認するが、 4 破られた痕跡もない。 ひとまず安心したが、外に出るのはためらわれた。 雄介はPCを立ち上げ、ネットで事件を検索する。あのキチガイ の男が、捕まっていないか調べようとしたのだ。 そこで、世界がそれどころではないことを知った。 ﹁マジかよ⋮⋮﹂ 全世界で同時に発生した、謎の疫病。 致死率百パーセント。高熱で脳がやられ、感染した人間は一日と 持たずに死亡。 その後、二十四時間以内に死体が動き出し、無差別に人を襲うよ うになる。 彼らに噛まれた人間は感染し、死亡、そして彼らの仲間となる。 ﹁ゾンビじゃねーか⋮⋮﹂ 雄介は呆然とつぶやく。 様々なニュースサイトを検索していくが、半数は繋がらなかった。 残りも、四日ほど前から更新が途絶えている。 リアルタイムに更新しているサイトもわずかにあったが、そこに ある情報はどれも絶望的なものだ。 政府は機能しておらず、各地の県議員と自衛隊が中心となって救 出活動を続けているが、うまくいっていない。道路は乗り捨てられ た車両で塞がれ、避難民は各地に取り残されている。 全世界が大災害に襲われたようなものだ。 静かな暗い部屋で、PCの前に座りながらそれらを眺めても、ま ったく現実感が持てない。 テレビのことを思い出し、ゲーム用のモニタのチャンネルを民放 に変えるが、どこも砂嵐だった。 5 雄介は立ち上がり、ベランダの窓に近づいた。遮光カーテンを少 しだけ開き、眩しい光に目をしかめながら、外をのぞく。 マンションの五階から見える光景は、いつも通りだ。ビルや建物 が遠くに見えるだけで、特に変わった様子はない。 窓を開け、ベランダに出る。 あたりを見回すと、地上の様子が目についた。いくつもの車が乱 雑に乗り捨てられていた。歩道に乗り上げていたり、店に突っこん でいるのもある。 そのそばには人影があった。だが、ふらふら目的もなく、ただ徘 徊しているように見える。それが本当に正常な人間なのか、雄介に は判断がつかなかった。 ﹁えらいことになったな﹂ 部屋に戻り、椅子に腰を下ろして、つぶやく。 少なくとも、何かが起きているのは事実のようだ。 感染が始まったのは、ちょうど雄介がゲームに熱中していたころ だ。それから二、三日で、日本全土を席巻している。 ということは、あの襲ってきた男もゾンビ? だったのだろうか。 そこまで考え、雄介は凍りついた。 慌てて右腕の袖をまくり、男に襲われた部分を確かめる。 そこには、服を貫いて皮膚にまで食いこんだ、男の歯形があった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 出血はすでに止まり、かさぶたになっているが、雄介は焦りなが らネットで治療法を調べた。 しかし、噛まれたら終わり、という情報しか出てこない。 ﹁潜伏期間か⋮⋮? でも、一日で死ぬって書いてるしな。高熱⋮ 6 ⋮あれだよな、どう考えても﹂ 男に噛まれたあとの悪寒が、感染の症状だろう。 しかし、雄介は生きている。 ﹁あいつはゾンビじゃなくて単なるキチガイで、変な菌が傷口から 入ったとかか? ⋮⋮わかんねーや﹂ 念のため、ネットで近くの病院の電話番号を調べてみたが、どこ も繋がらなかった。警察も救急も同じだ。 いまだに現実感が持てないが、社会が停止しているのは事実のよ うだ。 7 02﹁OLの部屋﹂ 雄介はとりあえず、マンションの同じ階の呼び鈴を、押してまわ った。 他の住人がいたら、情報をもらおうと思ったのだ。ネットだけで は心もとない。 しかし、どこも反応がなかった。鍵も閉められている。ほとんど の人は避難してしまったらしい。 そんな中で、三軒隣の部屋は、鍵が開いていた。 ﹁すいませーん﹂ 呼びかけにも反応はない。 無人らしい。 中は真っ暗で、玄関には女物の靴が二足、揃えて置いてあった。 それを見て、住人の姿を思い出す。 確か、黒瀬というOLだった。 黒髪をゆるく三つ編みにして、眼鏡をかけた、陰気な雰囲気の女 だった。ほとんど話したことはない。すれ違ったら挨拶する程度だ。 少し迷ったあと、扉を閉め、靴を脱いで上がった。 電気をつけると、中が明るくなる。やはり誰もいない。 不法侵入に気が咎めるが、雄介は中に入った。 間取りは雄介の部屋と同じ、1DKだ。テーブルの上は片づいて いて、キッチンには調味料や器具が丁寧に並べられている。 今いる台所の奥に、もう一つ部屋がある。引き戸は開いていて、 奥にベッドが見えた。 念のため、奥の部屋も確認する。 ピンクのカーテンの引かれた室内は薄暗かった。サイドテーブル 8 にノートパソコンがあるぐらいで、他はクローゼットと化粧台のみ の、シンプルな内装だ。 枕元にある猫のぬいぐるみが、女の子の雰囲気を感じさせる。女 性の寝室に踏みこんでいることに、雄介は少し後ろめたさを覚えた。 そのとき、後ろでかすかな物音がした。 ﹁⋮⋮!?﹂ 慌てて振り向くと、引き戸のそばに、黒髪の女が立っていた。 眼鏡をしていないので、一瞬わからなかった。 この部屋のOL、黒瀬だ。黒のセーターとジーンズの、私服姿だ。 ﹁すっ⋮⋮すみません! あの、返事がなかったので﹂ そこまで言ったところで、黒瀬の様子がおかしいことに気づいた。 ぼんやりとこちらを見ているが、その視点は定まらず、体はかす かに揺れている。 ﹁あの⋮⋮?﹂ 黒瀬はゆっくりときびすを返し、玄関へと向かった。 雄介はしばらく硬直していたが、すぐに黒瀬のあとを追いかけた。 その先で見たのは、黒瀬が玄関の扉を前に、うつむいている光景 だった。 ﹁黒瀬さん⋮⋮?﹂ カリ、カリ、という音が部屋に響く。 黒瀬はなでるように、指先でドアノブの近くを引っかいていた。 9 ﹁何してるんですか?﹂ 近くでのぞきこんでも、黒瀬は反応しない。 もしかして、と思いながら、黒瀬を観察する。 少し髪がほつれているが、美人だった。度の強い眼鏡は人相を変 えるというが、眼鏡を取っただけで、がらりと印象が変わった。少 し暗いが、文学少女が成長したような雰囲気だ。 その顔は健康的な肌色ではないが、青白さでは雄介も人のことは 言えない。瞳は血走っているということもなく、ぼんやりとドアノ ブを見つめている。 ドアを引っかく爪は荒れていて、ドアの方もその部分だけ、塗装 が剥がれていた。自分が来る前から、何度も引っかいていたのかも しれない。 その指先は、確かに血色が少ないようにも見える。 ﹁黒瀬さん?﹂ 言いながら、肩を恐る恐るつかむ。 セーターごしの感触は、柔らかかった。女の子の柔らかさだ。 体温については、服越しでいまいちわからない。 いまだに何の反応も見せない黒瀬の額に、熱を計るように手を当 ててみる。 冷たかった。 冷え性の人間とは違う、マネキンのような冷たさだった。 それでも信じられず、恐る恐る、黒瀬の首筋に指を這わせる。 我関せずと、扉を引っかき続ける黒瀬の、その頸動脈を軽く押さ え、じっと待った。 しかし、いつまでたっても脈は感じられなかった。 ﹁マジかよ⋮⋮﹂ 10 雄介がつぶやいたのは、黒瀬がまったく死んでいるように見えな かったからだ。 確認してみたが、呼吸もしていない。少し後ろめたく思いながら 胸に手を当てるが、心臓の鼓動もない。 完全に死んでいる。 ゾンビ映画のようにグロテスクな姿なら、まだ納得できたかもし れない。 しかし、黒瀬は、やや血色の悪い、普通の人間のようにしか見え なかった。 そんな、死体が動いている、という事実を、雄介はしばらく受け 止められないでいた。 11 03﹁ゾンビ﹂ 雄介は部屋に戻り、再びネットで情報収集をした。 ﹁表面的には、生きている人間と同じか⋮⋮﹂ ゾンビウイルスに感染しても、姿形が変わるわけではないらしい。 普通の人間と変わらない、綺麗なゾンビというのも珍しくはない ようだ。それが被害を拡大させる一因になったとも言われているが。 ﹁でも、あの雰囲気は、死体って感じでもないよな﹂ 葬式ぐらいしか死体を見たことはないが、あれは死体というより、 別の生き物に変わったという方がしっくりくる。 ﹁それにしても⋮⋮﹂ 疑問なのは。 ﹁あれがゾンビなら、何で俺が襲われないんだ?﹂ ニュースサイト、SNS、匿名掲示板、ネットのどこを見ても、 ゾンビは人を襲う、としか書かれていない。そこに区別はなく、老 若男女、誰彼構わず、近くの人間に襲いかかるという。 不思議なことに他の動物は襲わないようだが、人間が襲われなか った事例は一つもない。 ﹁まあ、ネットの情報だしな﹂ 12 黒瀬に襲われなかったのは事実だ。人を襲わないゾンビもいるか もしれない。 ﹁つか、腹減った⋮⋮﹂ ずっと引きこもっていたため、食料は尽きている。近場で言えば コンビニだが、まだそこまで遠出する勇気もない。 黒瀬の部屋から、何か取ってこようと、雄介は外へ向かった。 扉を開けて、閉めようと振り向いたところで、 ﹁ひっ!?﹂ すぐ背後に、中年の男が立っていた。服はぼろぼろに破けて血ま みれで、首には大きな傷がある。雄介は腰を抜かして、へたりこん だ。 だが、男は何をするでもなく、じっとこちらを見下ろしていた。 そのまま、動けない雄介をしばらく眺めたあと、男はふらふらと 離れて行った。 雄介はその背中を視線で追いながら、バクバク鼓動する心臓を落 ち着かせた。 ﹁あいつもゾンビか⋮⋮?﹂ 立ち上がり、急いで追いかける。 男の速度は遅く、すぐに追いついた。 ﹁すいません!﹂ 雄介の言葉にも、反応はない。 13 首の傷は大きく、噛みちぎられた跡のようだ。他にも良く見れば、 大小様々な傷を負っている。普通に考えて重傷だ。 それでも雄介は確認のために、後ろから手を伸ばし、首筋に当て てみた。 冷たかった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は無言で離れる。 自分の部屋の前まで戻ったあと、大きくため息をついた。 ﹁マジなんだなあ⋮⋮﹂ 今まで半信半疑だったが、この世界にゾンビがあふれている、と いうのは事実のようだ。 気持ちを切り換え、黒瀬の部屋に入る。 靴を脱ぎ、冷蔵庫の中を物色した。 賞味期限まぎわのヨーグルトと、ミネラルウォーター、卵を取り 出し、鍋でゆで卵を作った。二枚だけ残っていた食パンをトースタ ーで焼き、マーガリンを塗ってほおばる。 人の台所で好き勝手をしているが、黒瀬が死人であることはもう 明らかだ。ここで食料を腐らせるのももったいない。 当の黒瀬は、浴室に閉じこめておいた。最初に不意をつかれたと きは、そこから出てきたらしい。扉をきっちり閉めると、中でまご つくだけになった。 ﹁そういや、まだ電気ガスは使えてるな。ネットも繋がってたし﹂ インフラはまだ保っているようだ。日本全土が破壊されたわけで はないらしい。 14 腹が膨れたことで、気持ちも落ち着いた。心も前向きになる。 このあたりの住人がどこに行ったのかわからず、雄介は逃げ後れ た格好だが、幸い、命の危険もなさそうだ。 なぜゾンビが人を襲わなくなったのか、それはわからないが⋮⋮ ﹁とりあえず、探検だな﹂ 15 04﹁母子﹂ まずやることは、近所の探索だ。 念のため服を重ね着し、バイク用の革ジャケットを羽織る。これ で万が一噛まれても、皮膚は守れるだろう。 グローブをつけ、フルフェイスのヘルメットを小わきに抱える。 ベルトには、鞘に入れた包丁を挿しておく。武装というには心も とないが、慰め程度にはなる。 バイクのキーを取り、マンションの階段を下りている途中だった。 三階の踊り場で、通路の方から物音が聞こえた。 首を伸ばしてのぞいてみると、マンションの一室の前に、男が三 人、群がっていた。 先ほどの黒瀬のように、扉を引っかいている。 ﹁何やってんだ⋮⋮?﹂ 三人の服装は乱れ、ところどころ怪我をしていたが、それ以上に 雰囲気がおかしかった。 それでも、雄介は近づき、少し遠くから声をかけた。 ﹁すいませーん、大丈夫ですか?﹂ その言葉にも反応はない。 やっぱりゾンビかと思いながら、どうしてこの扉に執着している のか不思議に思う。 突然、ゾンビたちの動きが早くなった。男の一人が扉に体当たり を始める。 その音にかきけされそうな、かすかな声で、扉の奥から女の声が 16 聞こえた。 ﹁誰かいるんですか? いますか?﹂ ﹁あ、はーい。います。大丈夫ですか? こいつら何ですか?﹂ ﹁た、助けてください! 外に張りついてて、ずっと出られなくて !﹂ ﹁え⋮⋮あー、はい。ちょっと待って﹂ 女の声に、雄介は警戒度を上げる。 ヘルメットを被り、包丁を抜いた。 雄介の声には反応しなかったが、こいつらは人を襲うタイプのゾ ンビなのかもしれない。警戒するに越したことはない。 ﹁なんかねーかな⋮⋮あれか﹂ 雄介は、踊り場にあった消火器に目をつけた。 格納容器を開けて、手に取る。ずしりと重かった。 そのまま噴射しようとして、手を止める。ゾンビ相手に消化剤が 効くだろうか。人間だったら、牽制ぐらいにはなるだろうが⋮⋮ 雄介は消火器のその重さを利用し、遠くから投げつけてみること にした。攻撃してみて、こちらに反撃してくるか調べるためだ。 反応があったらすぐ逃げられるように、階段の近くから放り投げ た。 重さで腕が吊りそうになったが、見事に、消火器はゾンビたちに 命中した。ゾンビたちは吹き飛ばされ、折り重なって倒れこむ。 雄介がじっと注視する中、ゾンビたちはのろのろと立ち上がり、 再び扉を叩き始めた。 それを見て、こちらに攻撃はしてこない、と雄介は判断した。 ﹁大丈夫だよな?﹂ 17 恐る恐る、ゾンビたちに近づく。 すぐそばまで近づいても、ゾンビは扉を叩くだけだ。 人を襲うでもない。 こいつらは部屋に入りたいだけなのか? 雄介の脳裏は疑問だら けになった。 ﹁大丈夫ですかー! もうちょっと待っててください。どけますん でー!﹂ 部屋に大声で呼びかける。 包丁をしまい、後ろからゾンビの一人の腰を抱える。 そのままどこかに動かそうとするが、勝手に動く人間の体を運ぶ のはきつい。諦めて、手すりから地上に落とすことにした。 ゾンビは頭部を潰せば動きを止める、という情報はネットにあっ た。 しかし、まだそこまでの覚悟はない。魚をさばいたこともないの だ。死体とはいえ、人間に刃物を使うことには抵抗があった。 幸い、手すりから落とすのは簡単だった。腰から手すりに押し上 げるだけだ。ゾンビたちは扉に執着するだけで、雄介にはいっさい 関心を向けない。 ドン、と地面に叩きつけられる音が響く。下をのぞくと、広がる 血溜まりの中で、折れた手足をもぞもぞ動かしているゾンビが見え た。 少し薄ら寒い気分になるが、頭を振って次のゾンビを落とす。 三人とも始末したところで、部屋の中に声をかけた。 ﹁もう大丈夫ですよー! あいつらいなくなりましたからー!﹂ しばらく反応はなかった。少しして、ゆっくりと扉が開く。 18 チェーンの向こうから、不安そうな三十代ぐらいの女の顔がのぞ いた。雄介を見て、ひっ、と声を漏らす。 ﹁?﹂ 雄介は不思議に思うが、自分の姿を思い出して、ヘルメットを取 った。確かにヘルメット姿が扉からのぞいたら、怖いかもしれない。 ﹁大丈夫ですよ。片づけときましたんで﹂ 素顔を見せてのその言葉に、ようやく安心したようだった。女は 玄関にへたりこむ。 しばらくして正気に戻ったのか、女は立ち上がり、チェーンを外 しながら、 ﹁あ、あ、すみません、ありがとうございます。ずっと逃げられな くて、もうどうしようかと⋮⋮﹂ ﹁大変だったっすね﹂ 雄介は気楽に言う。 扉の前に群がるゾンビは、さぞかし恐怖だったろう。出られなく ても無理はない。 ゾンビがこの部屋に執着していたのは不思議だが、単に運が悪か ったんだろう、ぐらいで考えるのをやめた。 扉を開け放ったところで、女は不安げに通路を見渡した。 ﹁あの⋮⋮このあたりは安全になったんでしょうか?﹂ ﹁大丈夫じゃないですかね? 一時期は酷かったみたいですけど﹂ ネットの情報を思い浮かべながら、雄介は答える。肝心のゾンビ 19 が襲ってこないので、あまり危機感を感じられない。 雄介の言葉に安心したのか、女は何度も頭を下げ、 ﹁本当に、本当にありがとうございます。ミキちゃん! おいで、 パパのとこ行くよ﹂ その声に、後ろから小さな足音が寄ってきた。小学生ぐらいの女 の子が、リュックを背負って、無表情に雄介を見上げている。 女も、奥からバッグや荷物を抱えて戻ってきた。 靴をはきながら、 ﹁父親を待っているうちに、逃げ遅れてしまって⋮⋮あの、良けれ ば、避難所まで一緒に行きませんか?﹂ ﹁避難所? どこにあるんですか?﹂ ﹁南波小学校なんですけど⋮⋮うちの子も通ってるところで﹂ ﹁あー⋮⋮? ちょっとわかんないですね。案内してもらってもい いですか?﹂ ﹁あ、はい。もちろんです。よろしくお願いします﹂ 同行人を得て安心したのか、女は表情をゆるめた。 20 05﹁襲撃﹂ マンションの階段を降りている途中、 ﹁アレ、まだいるんですか⋮⋮?﹂ 徘徊しているゾンビのことを聞いて、女は青ざめた。 雄介は気軽に、 ﹁でもなんか、襲ってこないですよ? うろついてはいますけど﹂ その言葉にも、女は半信半疑の表情だ。 雄介は続けて、 ﹁近づいても全然平気でしたし。さっきの扉の奴らはちょっとわか んないですけど⋮⋮。そちらは、ゾンビが襲ってるとこ見たことあ りますか?﹂ ﹁いえ⋮⋮﹂ 女は首を振る。 テレビのニュースで、感染者には絶対に近づかないようにと念を 押されたぐらいで、実際の映像は見ていないらしい。ずっとあの部 屋に閉じ込められていたそうだ。 ﹁まあ、行けばわかるでしょ﹂ 話すうちに、一階についた。エントランスを抜け、表に向かう。 母子は手を繋ぎ、不安そうに身を寄せ合っている。 21 こいつらと一緒だと、バイクは使えないなあ、とのんきに考えな がら、雄介は道路に出た。 そこで三人は固まった。五、六人のゾンビが一斉に、こちらを振 り向いたのだ。 ﹁ひっ⋮⋮﹂ 女が悲鳴を漏らす。 雄介は、全身に鳥肌がたつのを感じた。 ︵喰われる︶ ﹁逃げっ⋮⋮!﹂ 母子を押すようにして、慌てて戻る。後ろから、猛烈な足音が近 づいてきた。 ﹁早くっ!﹂ 転げるように、階段のところまで戻る。雄介は後ろをたびたび振 り返りながら、母子を上に追い立てた。 後ろから近づく姿に、雄介は悲鳴をあげる。 ﹁ゾンビって遅いんじゃねーのかよ!﹂ 走る速度は、ほとんど人間と変わらない。手を振らないで、下半 身だけの不格好な走り方をするため、一歩ごとに体がかしいでいる。 それが余計に恐怖を増幅させる。 ﹁上に! 部屋に戻れっ!﹂ 22 一段飛ばし、二段飛ばしで駆け上がる。 三階の踊り場で、横から何かがぶつかってきた。雄介は通路に吹 っ飛ばされ、背中を壁にぶつけて、倒れこんだ。 何が起こったかわからないまま、雄介は身を起こす。 軽く打った肩を手で押さえながら、顔を上げると、 ﹁あぐぁっ⋮⋮﹂ 奥から奇妙な声が響いた。 その光景に、雄介は、ゴミ捨ての日、早く出しすぎた生ゴミに群 がる、カラスの群れを連想した。 あるいは、倒れた人を介抱しようと集まる、人の群れか。 だが、 ﹁だずっ⋮⋮げ﹂ グチャ、ビチャ、という粘着質な音と、群がるゾンビたちの間で 飛び跳ねる赤いものが、そのどちらでもないことを知らせていた。 ﹁ぉっ⋮⋮﹂ 鈍いその声が、母子の最後の声となった。 ゾンビたちは十人近くいたが、雄介には目もくれず、母子に群が っていた。 どれだけの時間がたったのだろうか。 周囲を、ゾンビが埋めつくしていた。通路の奥までゾンビが連な り、座りこむ雄介の周りにも、ゾンビがひしめいている。彼らは雄 介を一顧だにせず、母子を囲む輪の順番待ちをするように、ふらふ らとうごめくだけだった。 23 やがて、日が傾いてきたころ。 ゾンビたちは一人、また一人と、去っていった。 呆然とした雄介が我に返ると、あたりは無人になっていた。母子 の居たそこには、赤黒く濡れたコンクリートと、引きちぎられた衣 服、そして茶色いかけらが散らばっているだけだった。 ﹁えっ⋮⋮﹂ 訳もわからず、雄介はぼんやりと、その光景を見つめていた。 24 06﹁自分だけが襲われない﹂ 次の日、自室で目を覚ますと、雄介はまずシャワーを浴びた。 バスタオルで頭を拭きながら、ずっと考えていたことをまとめる。 ゾンビは人を襲う。 それは事実のようだ。情報は正しかった。 しかし、自分は襲われなかった。 つまり、自分が特殊なのだ。 右腕の傷口を見る。 かさぶたが剥がれ、新しい皮膚ができている。あの男に噛まれた 跡だ。 致死率百パーセントのウイルス。それに感染して、自分は死なな かった。 あるいは死んでいて、自分で気づいていないのか。 不安になり、自分の胸に手を当てるが、ちゃんと心臓の音が聞こ える。体温もある。 なぜ死ななかったのか? 何らかの理由で、ゾンビのウイルスが弱っていて、それがワクチ ンのような働きをしたとか。 体の中に抗体ができ、それがなぜか、ゾンビに狙われない理由に なったとか。 ﹁さっぱりわからん﹂ 考えてもわかるわけがない。感染して死なない人間も、ゾンビに 襲われない人間も、ネットの情報にはなかった。 これは、おそろしく稀なケースなのだろう。 医療機関に申告すれば、人類の、ゾンビに対する打開策になるか 25 もしれない。 ﹁それも嫌だなあ﹂ 絶対に実験材料にされる。 社会秩序が崩壊しているのだ。人権など尊重されないに決まって いる。 雄介は、自分を犠牲にして人類を救う、などという殊勝な人間で はなかった。むしろ正反対の、自分本位の人間だ。 ﹁まあ、ラッキーだよな﹂ 本当なら、自分もあの母子のように、ゾンビに食われていたはず なのだ。 ﹁正直すまんかった。運が悪かったと諦めてくれ﹂ なむ、と手を合わせる。 あの母子にとっては災難だったが、別に悪意でハメたわけではな い。 どうせあの部屋にこもっていても、餓死していただろう。結果は 変わらない。逃げ出せたとも思えないし。 と言っても、ゾンビに喰われるよりは餓死の方がまだマシだろう し、助けが来る可能性も無かったわけではないが⋮⋮ もう終わったことだ、と雄介は考えるのをやめた。 ﹁まずは、確認だな﹂ 昨日の事からも、おそらく自分はゾンビに襲われないだろう。 それを確かめるため、雄介は昨日と同じような装備で、マンショ 26 ンの外に出た。 そのまま、マンションの外を一周する。 ゾンビとすれ違うときは、昨日の光景を思い出して緊張したが、 やはり雄介に反応する者はいなかった。 あのとき襲ってきたゾンビも見かけたが、こちらに目も向けない。 ふらふらと徘徊するだけだ。 地下駐車場に止めてあった街乗り用のバイク、黒のVTRに乗り こみ、近くのコンビニまで足を伸ばす。 道路はところどころが車で塞がっていて、一車線分ぐらいの隙間 しかなかった。事故で詰まっている交差点もある。車の移動だと苦 労するだろう。 時には事故車を避け、時には歩道に乗り上げながら、雄介は徐行 のまま、ゆっくりと進んだ。 周りではゾンビたちが歩いている。思ったより多い。ぱっと見え るだけでも、十人ぐらいはいる。 ﹁バイクの音にも反応なし、か。人間の匂いでも追ってんのかな﹂ それとも、新鮮な血の臭いにでも惹かれるのだろうか。 昨日の、母子に群がっていたゾンビたちを思い出す。付近一帯の ゾンビが集まったような光景だった。 ﹁⋮⋮お? あの子人間じゃねーよな﹂ 五歳ぐらいの男の子が、車のわきにうずくまっている。 すぐそばを通りながらのぞきこむと、男の子が白骨化した前腕の 骨をかじっているところだった。こびりついた肉を歯でそぎ落とし ている。 ﹁うお、グロ⋮⋮﹂ 27 慌てて離れる。 こちらに襲ってこないとはいえ、さすがに心にくるものがある。 周りの光景を眺めながらゆっくりと進み、コンビニに到着した。 中ではゾンビが二人うろついていたが、棚はまったく荒らされて いない。適当に選んだ缶詰やレトルト、ペットボトルを、持ってき たフィールドバッグに放りこんでいく。 ﹁あー、腐る食べ物から先に行った方が良かったかな。スーパーと か⋮⋮まあいいや﹂ とりあえず当座の食料になればいいと、適当に選ぶ。 値段を気にせずさらっていくうち、雄介は楽しくなってきた。火 事場泥棒だが、社会がここまで崩壊しては、これも不可抗力だろう。 ﹁ふんふんふ∼ん﹂ アイスをかじり、鼻歌を歌いながら、膨らんだバッグを抱えてバ イクに戻った。荷物を座席の後ろにくくりつけ、バイクにまたがる。 マンションにつくまで、雄介はご機嫌だった。 冷蔵庫に食料を運びこみ、腹がいっぱいになるまで食べたあと、 雄介は適当にネットサーフィンをしていた。 ネットは社会全体のことを知るには便利だが、近所でどこが避難 所だとか、どのへんに生き残りがいるだとか、そういったことを調 べるのにはあまり向いていない。 町サイトも探してみたが、サーバーが落ちているのか繋がらない。 市役所のページは繋がったが、更新は少し前で止まっている。ゾ ンビについては何も書かれていなかった。 ﹁つかえねー﹂ 28 雄介はタブを閉じる。 ﹁ラジオでも取ってくりゃ良かった⋮⋮。そういや防災無線ってど うなってるんだろ﹂ 災害用の通信網なのだから生きているはずだが、サイレンや放送 らしきものは一向に聞こえない。何かあっても良さそうなものだが。 ﹁あとで市役所も見に行くか﹂ サーバーは残っているのだ。おそらく設備は生きている。 気分転換に、ブックマークのエロサイトを開いていく。 だが、ほとんど全滅していた。世界崩壊の危機に、エロサイトの サーバーなど維持していられないのだろう。 雄介はうなだれ、 ﹁なんか⋮⋮思わぬところで、社会の恩恵を実感したな⋮⋮。ちょ っとショック﹂ ため息をつき、PCの電源を落とす。 ﹁ゲームでもやるか⋮⋮﹂ 腰を上げようとしたところで、雄介は動きを止めた。その視線は 宙をさまよい、三軒隣の、黒瀬の部屋の方を向いた。 29 07﹁黒瀬時子﹂ 浴室の扉を開けたそこに、黒瀬は変わらずにいた。 雄介がじろじろ無遠慮な視線を向けても、反応は見せない。うつ むき加減に立っている。 やはり黒瀬は美人だ。黒のニットのセーターを、豊かな胸が押し 上げている。 雄介は唾を飲みこみ、ゆっくりと、その胸に左手を伸ばした。 ふわり、と手が柔らかい重みを感じる。セーターの奥に、少し硬 めのブラの感触があった。少し強めに揉んでも、黒瀬はうつむいた ままだ。 ﹁やべーな⋮⋮﹂ 部屋の鍵は閉めているので、邪魔される心配はない。 腕をつかんで軽く誘導すると、黒瀬はふらつきながら、寝室の方 までついてきた。 そのままベッドに押し倒す。 両手を万歳をするように上げさせ、タオルで縛る。さらにもう一 つのタオルを輪に通してベッドの枠に縛りつけ、両手を拘束する。 口を軽く開けさせ、黒瀬の腰から抜いた細いベルトを噛ませて、 後ろで止めた。黒瀬はまるで介護されるように、雄介の動きに逆ら わない。 上半身を拘束し終わると、その光景を上から眺めた。 ﹁AVみたいだな⋮⋮﹂ 黒瀬はぼんやりとした瞳で、こちらを見上げている。ときおり、 30 起き上がろうと身じろぎするぐらいだ。 黒瀬のジーンズのボタンを外し、膝までずり下ろす。 リボンのワンポイントのついた白いレースの下着が、セーターの 下に現れた。その先に白い太股がのぞいている。 清楚な下着と、卑猥な格好のギャップに、雄介は興奮した。手を 伸ばし、太股に割りこませるようにして、内腿を撫でさする。すべ すべした感触だった。 たまらずベッドに飛びこむ。 黒瀬の胸が、雄介の胸板で押し潰される。背中に手を回し、抱き ついた。 ﹁はー⋮⋮落ち着く⋮⋮﹂ 死体や人形を抱いているような感じではない。柔らかく、たまに 身じろぎする、等身大の抱き枕のようなものだった。黒瀬はされる がまま、ぼんやりと天井をながめている。 その横顔を見ながら、セーターの下に手を入れた。背中のホック を外し、ブラを裾から引きずり出す。下と同じようなレースのブラ だった。それをベッドに放り投げる。下着に興味はない。 生になった乳房を、セーターの下でこね繰り回す。視覚的にもエ ロい。セーターをずりあげ、片方だけ露出させる。 ﹁お、ピンク﹂ 指先でつまんでみるが、乳首は柔らかいままで、刺激されても硬 くなることはない。まあ死んでるしな、と納得する。 仰向けになっても、おっぱいの形はあまり崩れていない。Dカッ プはある美乳だった。 雄介は、黒瀬から離れて立ち上がった。 31 ﹁いかんいかん。つい暴走した﹂ 最初は拘束だけしておくつもりだったのだ。エロい格好に、我慢 できなくなってしまった。 ﹁まずは家捜しだ﹂ 鼻歌を歌いながら、雄介は黒瀬の荷物を漁りはじめる。黒瀬がど ういう人間なのか知っておこうと思ったのだ。 ﹁ていうか、なんで逃げなかったんだろうな、こいつ﹂ 小さな書類棚を上から引き出して、中の書類に目を通していく。 黒瀬時子。二十三歳。今年の四月に松田製作所に入社。 そこそこの中堅会社の、新入社員だった。 ﹁営業担当かー。時子ちゃんにはきついんじゃない?﹂ 大人しそうな見た目から、勝手に決めつける。挨拶の声も暗かっ たし、飛びこみ営業でなくても、あまり対人業務に向いているとは 思えない。 ﹁ここには独り暮らしか。実家は広島で、両親と妹の四人家族。妹 さんも可愛いの?﹂ 呼びかけるが、ベッドの黒瀬は、胸と下着を露出し、ジーパンを 膝に引っかけたまま、ぼんやりと天井をながめている。 ﹁普段からコンタクトにすればいいのに。そしたら男も、ちやほや してくれるんじゃねーかな﹂ 32 一通り書類を戻し、ノートパソコンを立ち上げる。 Windowsのロゴのあと、子猫がじゃれあう壁紙が映った。 デスクトップには、プリインストールらしいアプリのアイコンがあ るだけだ。 ブラウザを立ち上げ、履歴を確認する。最後の閲覧はかなり前だ った。変哲もないポータルサイトだ。 順にブックマークを見ていくと、セクハラ相談所という文字が目 に入った。 ﹁なんだこりゃ? ⋮⋮パワハラサイトに、法務関係のもあるな。 セクハラされてたのか? けしからんな﹂ 最近使ったファイルを検索してみる。﹃記録﹄というタイトルを クリックすると、ワードファイルが開いた。 中には、日付とともに、黒瀬が山本さんとやらからされた、嫌が らせの記録が残っていた。 タクシー内で太股を触られたとか、複合機に向かっているときに 腰を押しつけられるようにして後ろを通られたとか、客先でのやや 過剰な接待を強要されたとか、そういったことが、黒瀬の淡々とし た文章で書かれている。 記録は最近まで続いていた。適当に読み飛ばして、ファイルを閉 じる。 ﹁ひでーな山本さん。しかも営業の先輩か﹂ なんとなく、赤ら顔で体格のいいおっさんを思い浮かべる。新人 にはきつい相手だよなーと思う。 ﹁でも、今どきこんなのあるんだな。うちで同じことしたら即クビ 33 だ。時子ちゃん大人しそうだし、舐められてたのかね﹂ 上司に相談した痕跡もあったが、この記録を見るとあまり効果は なかったようだ。 ﹁セクハラ被害は記録をつけろって言うしなー⋮⋮。ま、もう会社 に行く必要もないし。良かったね時子ちゃん﹂ ベッドの黒瀬に呼びかけるが、反応はない。ジーンズが引っかか るのか、かすかに太股を動かすだけだ。 ﹁プライベートの日記とかは⋮⋮なさそうだな﹂ ブックマークにも、それらしいものはない。メールソフトも立ち 上げるが、あまり使われた形跡はなかった。 バッグの中の手帳には、日付や人名、電話番号ぐらいしか書かれ ていない。仕事用だろう。私的な情報を示すものは見つからなかっ た。 デコレーションされていないピンクのシンプルな携帯を開き、メ ールを確認する。送信メールは十日ほど前で、妹向けのたわいもな いものだ。それから安否を確認する家族からのメールが何通か。そ れも五日前で途切れている。 アンテナは圏外だった。自分の携帯も圏外だったことを考えると、 電波が死んでいるのかもしれない。スマフォならまた違うのか? 詳しくない雄介にはわからなかった。 もう一つは仕事用らしいシルバーの携帯。ほとんどが業務メール で、特に興味はひかれなかった。 ﹁家族とのメールだけか。友達いなかったのかね﹂ 34 そう言う雄介も人のことは言えない。引きこもるようになってか ら、ずっと携帯は沈黙している。両親はいないし、祖父は二年前に 交通事故で死んでいる。 散らかした部屋を元に戻しながら、集めた情報をまとめる。 黒瀬はこの部屋に一人で住んでいたようだし、しばらく占拠して も問題ないだろう。家族も、この混乱の中は来れない。 近くに知り合いがいたら、黒瀬を心配して見に来る可能性もあっ たが、それもなさそうだ。 ﹁まあ、来てもゾンビに喰われるだろうけど﹂ 母子を襲ったゾンビたちは、かなり俊敏だった。少なくとも、人 間より遅いということはない。ややバランスに欠けるが、獣のよう な勢いで突進してくる。それでいて、頭以外は傷つけられても止ま らない。 かなり厄介な相手だろう。それが、いたる所にうろついているの だ。 しばらく楽しんでも、邪魔は入るまい。 35 08﹁屍姦﹂◆ ﹁とりあえず⋮⋮﹂ ベッドに腰を下ろし、黒瀬を見下ろす。だいたい見当はついたが、 やはり体も調べておくべきだろう。 ふと、黒瀬の瞳がこちらを向いた。口はベルトを噛まされたまま だ。 眼前で手を振ると、ゆっくりとそれを追うような反応を見せる。 物としては認識しているようだ。 ﹁服脱がさせてもらっていいっすかね? もう半分脱いでるけど﹂ 言いながら、黒瀬のジーンズをずりおろす。靴下も一緒に脱がせ ると、白い太股がくるぶしまであらわになった。 黒瀬の靴下に鼻を近づけ、すんすんと念入りに嗅ぐ。 ﹁変態じゃねーんだけどなあ⋮⋮﹂ 匂いはまったくない。黒瀬が体臭の少ない方だとしても、かなり 前に代謝は止まっているだろう。 太股に目を向ける。片足ずつ持ち上げ、裏まで観察するが、傷ら しいものはない。 ﹁ふむ﹂ 黒瀬の腰をまたいで、腹の上に座る。セーターを肩までずりあげ、 鎖骨から白い乳房のまわり、軽く毛の生えている脇、その下の脇腹、 36 横に転がして背中まで見る。痩せているが、どこも綺麗なものだ。 セーターの腕を片方ずつまくりあげて、両腕も調べる。どちらに も傷はない。 セーターを戻し、ショーツの方に向かう。指で引っかけて軽くず りおろすと、淡い草むらがあらわになった。 ﹁ちょびっとだけ指入れていいっすか? ⋮⋮あ、いいですか。あ りがとう﹂ 茂みをかきわけ、わずかに開いたひだの中に、人差し指を沈める。 乾いた肉の感触があった。ぐりぐりと押しこむが、黒瀬はこちらを 見つめたまま微動だにしない。 人差し指を抜き、鼻に持ってきても、匂いはまったくしなかった。 体を洗ったあと、そう時間が経たないうちに死んだのだろう。 ﹁やっぱりパンデミックの最初の罹患者か? 噛まれたあともない し﹂ ネットでは、この疫病の発生原因は不明とされていた。 恐らく黒瀬が感染して死んだのは、雄介がのん気にゲームをやっ ていたころだろう。 黒瀬が感染し、自分は感染しなかった。マンションの同じ階であ るにも関わらず。 感染経路は黒瀬の職場だとか、他にあるのかもしれない。まった く突然にゾンビウイルスが発症するというのは納得しにくい。 ﹁とはいえ、謎の宇宙放射線とか、毒電波とか、遺伝子が時限爆弾 みてーに爆発したとか、いろいろあるけどな﹂ そういえば一ヶ月ほど前に、小惑星が地球に激突する、というよ 37 うなニュースが流行っていた。その手の話の常で、何事もなくXデ イは過ぎていったが。 まあ、偉い科学者が原因不明と言っているのだ。雄介ごときが考 えたところで、どうなるものでもないだろう。 腐敗臭がしなかったことで、ゾンビが腐らないこともわかった。 理屈はわからないが、雄介には都合が良い。突っこんだら中がドロ ドロだった、では萎えてしまう。 ﹁とりあえずゴムつけとくか⋮⋮﹂ 自室から持ってきたコンビニ袋から、ローションの容器と六連の コンドームを取り出す。 ゾンビに噛まれたら感染するという情報はあったが、ゾンビを犯 したら感染するか、などという情報はあるわけがない。万が一のこ とを考え、持ってきたのだ。 手早く服を脱ぎ、全裸になる。 ﹁時子ちゃん、ちょっと股開いて﹂ 言いながら強引に太股を開かせ、両手で持ち上げて、その下に自 分の腰を押しこむ。黒瀬の割れ目の先に、すでに勃起していた先端 が当たった。 ﹁塗り塗りするよー﹂ 上からローションを垂らし、指を入れて黒瀬の中に塗りこんでい く。薄い陰毛が、べったりと恥丘に張りついた。 自分のものにもゴムを被せ、ローションをまぶし、シーツで手を ぬぐう。 38 ﹁こんな乳してたら、そりゃセクハラされるよなあ﹂ セーターをずり上げ、二つの膨らみを遠慮なくこねまわす。手の ひらの中でやわやわと、乳房が形を変える。吸いつくような感触に、 股間が硬くなる。 胸については、山本さんとやらからも、何度もからかわれていた らしい。後で証拠にしようとしていたのか、几帳面に記録されてい た。 ﹁俺もちょっとセクハラするけどいい? ちんちん入れるだけだか ら﹂ 黒瀬は雄介の腹のあたりを見つめたまま、何も言わない。 雄介はゆっくりと腰を進め、ローションで塗れたひだの中に、先 っぽを沈めていった。黒瀬の無機的な膣内を、割り開いていく感覚。 ﹁きっつ⋮⋮時子ちゃん処女だったの?﹂ ゆるく腰を前後させて、芯の入った肉棒を馴染ませる。そのうち、 動かしやすくなった。 久々の女の感触に、雄介はたかぶりはじめる。腰を打ちつけるた び、黒瀬の形のいい乳房が揺れる。相手の痛みなど考えない、自分 本位の動きだ。 ﹁これオナホだなー⋮⋮﹂ がしがしと腰を振りながら、中を楽しむ。きつい入り口が、肉棒 を絞り上げてくる。 ﹁俺もこんな後輩欲しかったなー。美人だし。セクハラしたくなる 39 おっさんの気持ちもわかるな。つかゴムいらねーな。どうせ感染し ないだろ。感染したらそんときゃそんときだ﹂ 別に死ぬのが怖くないというわけではないが、崩壊した社会の中 で、いつまでも生きていても仕方ないという思いもある。虚無的な 感覚だった。正気では女の死体など抱けない。 一度引き抜き、ゴムを外す。再び突っこむと、腰の抜けるような 快感に包まれた。息を止めて、せりあがった射精感を抑える。 ﹁そういや生って初めてだったわ⋮⋮。ごめんね、時子ちゃん。あ とで書いといていいからね。おまんこにセクハラされました、精子 出されましたって﹂ 後輩のOLを犯しているという妄想をしながら、腰を動かす。両 足を押さえつけ、光のない瞳を見つめながら腰を振っていると、レ イプしているような気分になる。快楽の先端を密着して包むのは、 薄皮一枚挟まない、黒瀬の膣肉だ。その柔らかく絡みついてくる感 覚に搾り取られるように、限界が訪れた。 ﹁あー出る、出るっ﹂ 腰から抜けた快感が、黒瀬の中にびゅるびゅると吐き出される。 亀頭をぐりぐり子宮にこすりつけるようにして、尿道の最後まで白 濁液を搾り出していく。 気弱なOL、黒瀬の子宮を汚しての中出しは、最高に気持ちが良 かった。 ぬるぬるする中をゆっくりと引き抜くと、かすかに開いたそこか ら、白いものが垂れ、お尻を伝ってベッドに流れ落ちていった。 顔を上げると、黒瀬は両手を縛られたまま、こちらをぼんやりと 見つめていた。 40 ﹁ふー⋮⋮﹂ 息をついて、黒瀬の上に倒れこむ。その胸に顔をうずめながら、 雄介は考えるのをやめ、まどろみに身を任せた。 41 09﹁SOS﹂ 地図で調べた南波小学校の校門で、雄介はバイクを下りた。 校舎を見上げ、ため息をつく。 ﹁駄目そうだなあ⋮⋮﹂ すでに校庭をゾンビがうろついている。 校舎の中も探索してみたが、生存者のいる気配はない。 教室の机や椅子は片側に寄せられ、ダンボールやシートがひかれ て、その上に荷物が散らばっていた。 多くの人間がここにいた痕跡はある。しかし、今はゾンビしかい ない。彼らの年齢、性別は様々で、おそらく避難民だったのだろう。 教室のところどころに、乾いた赤黒い染みがあった。割れた窓の 様子からも、ここでの混乱ぶりがうかがえる。 ﹁綺麗な女の子でもいればいいのに﹂ 廊下をすれ違うゾンビの半数が、怪我を負ったり、パーツが欠け たりしている。謎の発症者以外はゾンビに襲われて感染するわけだ から、怪我をしているのも当然なのだが。 ゾンビ化した後、人間を襲って格闘したりもするだろうし、五体 満足のゾンビは多くないのだろう。 そんな中を一人で歩いているうちに、グロテスクなゾンビの姿に も慣れてきた。こちらには脅威とならないのだから、気楽なものだ。 折れた首をぐらぐら揺らしながら歩く大学生ぐらいの女の子を見 つけたときは、シャツに手を入れて胸を揉ませてもらった。 染めた髪にボブカット。乳は良かったが、顔は中ぐらい。黒瀬な 42 みの美人なら持ち帰ったかもしれないが、そこまでではなかった。 女の子を間近で見ていて気づいたが、右手の噛みちぎられた部分 に、薄い皮膜が張っていた。考えてみれば、彼らは死体とはいえ動 物のように動きまわっているのだし、擬似的な生命活動があるのか もしれない。乳をもみながら、雄介は思案に暮れた。 一通り見てまわり、生存者がいないことを確認すると、雄介は三 階に戻った。 各教室に残された避難民の荷物を漁りながら、 ﹁通帳と印鑑か⋮⋮。気持ちはわかるけど意味ないよなー﹂ ぽいぽいと放り出していく。食料や道具はあまりない。電池やペ ンライントはありがたくいただいておく。携帯ラジオがあったので 点けてみたが、どこにも繋がることはなかった。 近くのホームセンターに行けば、こんな物はいくらでも手に入る が、せっかく足を伸ばしたのだ。ついでに見ていくのも悪くない。 腰を伸ばして、背伸びをしたとき、教室の窓から、妙なものが見 えた。 遠くの建物の壁に、白い布がひらひらなびいていた。 ﹁なんだありゃ﹂ 窓から身を乗り出して、じっと目をこらす。 かすれているが、SOSと書かれていた。 たどり着いた場所は、広い駐車場を備えた三階建ての大型スーパ ーだった。屋上から、救援を求めるSOSの布が垂れ下がっている。 43 ﹁生き残りか⋮⋮?﹂ 駐車場でバイクにまたがったまま、雄介は逡巡する。 避難所である南波小学校に向かったのは、情報が欲しかったから だ。食料はどうとでもなるが、この辺りが今どうなっているかとい う情報は、引きこもっていてはわからない。 そのためには、なるべく大人数の、統制が取れた集団に接触する 方がいい。 少人数のグループだと、この混乱状態では襲われる可能性もある。 パンデミックが発生してそろそろ二週間、食料も心もとなくなって いるだろう。 バイクは徐行で近づいたので、まだこちらに気づかれていないと は思うが⋮⋮ ﹁様子見するか。ゾンビはこっちの味方なんだし﹂ いざとなったら、ゾンビの中に逃げこめばいい。 雄介はバイクを降りた。ヘルメットはバイクに置き、座席の後ろ のフィールドバッグを背負って、スーパーの入り口へ向かった。 一階は食料品、二階は日用品のようだ。 陳列棚の間をふらふらと歩くゾンビたちの間をすり抜け、様子を 見てまわる。 生鮮食品のコーナーでは、少しだけ異臭がただよっていた。野菜 はしなびて、色つやを失っている。肉や魚をこのまま放置すれば、 蛆がわきはじめるかもしれない。 ﹁暇なときに近所の店もまわって、始末しないとなー﹂ 小さなスーパーの米や缶詰、レトルトだけでも、雄介一人なら一 年は持つだろう。足を伸ばせば、ほぼ無限の食料が得られる。しば 44 らくお世話になるのだから、環境の悪化は避けておきたい。 ﹁そう考えると、新鮮な肉や魚はしばらくお預けか⋮⋮。野菜もだ。 栄養偏るなー﹂ どこかの集団が安全を確保して、農業や狩猟をしてくれないだろ うか。そうすれば、物資を持っていって物々交換ができる。 なにしろ雄介には、崩壊した人間社会に残された、無限の物資が あるのだから。 ﹁交易商人、武村雄介﹂ なかなか楽しそうだ。 ﹁それとも、ここから立てなおせるのかね。人類は﹂ ウイルスに対する対処法を見つけて、ゾンビが駆逐される日がい つか来るかもしれない。五年、十年では文明レベルは戻らないだろ うが、その先はわからない。 雄介の理想としては、ゾンビが地上を支配し、人類は絶滅しない 程度に細々と生き残るというものだ。 もともと人嫌いのケがあった雄介だ。故郷を離れたような喪失感 はあるが、あのせせこましい毎日に戻りたいとも思えない。 ﹁時子ちゃんもいるしな﹂ どうやらゾンビは腐らないようだし、無茶をしなければ長持ちす るだろう。 ﹁あとで釣り竿探してくるか。魚ぐらいはいけるだろ﹂ 45 鼻歌を歌いながら、二階に上がる。 踊り場で、休憩用の長椅子に座ったおばちゃんのゾンビと目があ った。会釈をするが、当然反応はなかった。 46 10﹁生存者﹂ 二階の日用品フロアも、特に変わったところはなかった。ゾンビ がうろついているだけだ。 問題は三階だった。 階段を上がった踊り場に、防火扉が下りていた。 耳を当てて、中の様子をうかがってみるが、物音はまったくしな い。そのまましばらく聞き耳を立ててみたが、変化はなかった。 少し離れ、 ﹁おーい! 誰かいるかー!﹂ 大声で呼びかけてみる。 ﹁⋮⋮﹂ 数分待っても返事はない。 それから何度か、扉を叩きながら呼びかけてみたが、人の気配す らしない。 防火扉にある小さなくぐり戸も、鍵がかかっているのか開かない。 ﹁飢え死にしてんのか?﹂ こうしていても埒があかない。 二階に戻り、先ほど見つけておいたエレベーターに向かう。電源 は生きていて、すぐに扉は開いた。 中に乗りこんで三階を押そうとして、3Fのボタンがシールで塞 がれていることに気づいた。押しても反応しない。 47 ﹁⋮⋮そりゃそーか﹂ 三階は売り場ではないのだから、客用のエレベーターが止まるわ けがない。 二階の端のスイングドアを押して、バックヤードに入る。 売り場とは一変して、灰色の、面白みのない通路が続いていた。 近くには在庫らしい家具がビニールをかけられたまま、適当に置か れている。 奥に進むと、二基のエレベーターを見つけた。こちらにはB1F のボタンもある。3Fのボタンを押すと、今度はちゃんと上昇した。 三階に到着し、扉が開く。エレベーターの前には、スチール机や ら椅子やらで、簡単なバリケードが作られていた。 しかし、それほど本格的なものでもない。よじ登れば簡単に乗り 越えられた。妨害というよりは、気休めのようなものだろう。 出た場所は、幅三メートルほどの通路だ。辺りを見回すが、ひと けは感じられない。 フロア図らしきA4の紙が、正面の壁にテープで留められていた。 従業員の手作りなのか、事務所、更衣室、倉庫などの、簡単なもの だ。 ざっと目を通し、フロアの端から部屋を確認していく。鍵のかか っていた部屋もあったが、ほとんどは無人だった。 途中で見つけた警備室のモニタールームでは、店内の光景がカメ ラで映し出されていた。中でゾンビのうろついている様子が見える。 ﹁地下は搬入口か。機械室もあるけど、こっちに隠れてるってこと はねーよなあ⋮⋮﹂ モニターの近くにあるフロア図を確認すると、他に冷凍庫と倉庫 もあるようだ。地下を映すモニターは一つだけで、大きなトラック 48 の止まった搬入口を映している。こちらにはゾンビは見当たらない。 どこにも人の姿がないことを確認して、部屋を移動する。 次に扉を開けた事務所は、普通のオフィスのようにデスクが並ぶ 場所だった。PCがいくつか置かれ、壁には市内のイベント情報や 週間天気のプリントが張られている。奥にはすりガラスで仕切られ た会議室があり、そこも確認したが、人はいなかった。 問題は、人が暮らしていた痕跡があることだ。 デスクに出しっぱなしの複数の湯飲みや、やかん、カップ麺の容 器で膨らんだ半透明のゴミ袋など。 事務所から続く、フロアの一番奥は、役職者用の部屋のようだっ た。扉を開けた中には絨毯がひかれ、部屋の奥はついたてで隠され ていた。そこで雄介は動きを止めた。 すぐ近くの、小学校低学年ぐらいの男の子と、目が合ったのだ。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 男の子と無言で見つめ合う。 少し薄汚れた感じはあるが、黒髪の素直そうな子供だ。 そのうち、男の子は無言で部屋の奥に走り去った。 ﹁あ、おい﹂ 呼び止めるが遅かった。慌てて追いかけると、応接用のソファー に寝ていた誰かを、男の子が起こそうとしていた。 揺さぶられて、のろのろと身を起こしたのは、高校生ぐらいの女 の子だ。白いシャツにベージュのカーディガン、下はブラックジー ンズで、クラスの優等生の、休日の姿といった感じだ。背中まで伸 びる黒髪はほつれ、艶を失っている。 その隣にはもう一人、小さな男の子が寝ていた。歳はさっきと同 49 じぐらいだ。こちらは起きる様子もない。薄いブランケットを毛布 代わりにして、すやすやと眠っている。 女の子は寝起きのようで、男の子を見ながらぼんやりしている。 ゆっくりとこちらに振り向いて、一瞬後、目を見開いた。 ﹁⋮⋮⋮⋮!﹂ 悲鳴を上げられそうな雰囲気を察して、雄介は両手を上げた。敵 意はないと示しながら、なるべく友好的に話しかける。 ﹁こんにちは。お邪魔してます。怪しいもんじゃないよ﹂ ﹁あ⋮⋮はい⋮⋮?﹂ 気勢をそがれ、女の子は戸惑ったように答える。 雄介はフィールドバッグを床にどさりと置き、言った。 ﹁ご飯食べる?﹂ 50 11﹁藤野深月﹂ 聞けば、水以外、しばらく何も口にしていなかったらしい。 バッグから取り出した食料に、起きた男の子も含め、三人とも目 が釘付けになった。 まずエネルギーバーを一本ずつ渡し、三人に食べさせる。その間 に、缶詰やペットボトルを取り出していく。 お茶のボトルを一本ずつ置き、サバの味噌煮や、鳥の照り焼き、 シーチキンの缶詰を、ふたを開けて広げてやる。割り箸を並べ、デ ザートに桃の缶詰も用意する。 バーをかじりながらも、三人の目は缶詰の間を激しく泳いでいた。 食べ終わると、子供たちは箸をもどかしそうに割り、がっつくよう に缶詰を食べ始める。 雄介は野良猫に餌をやっているような気分で、食事の様子をなが めた。女の子は一つ目の缶詰を空けたあと、二つ目の缶詰を手に取 ろうとして躊躇する。子供たちはすでに二つ目の缶詰を食べ終わろ うとしていたが、二人が満足に食べられるか気にしているらしい。 バッグから缶詰の山を取り出してやると、女の子も安心して食べ始 めた。 たまに男の子がこぼしたかけらを、女の子が拾ってやる。自分も お腹が空いているのに、子供の様子を見ながら食事をしていて、面 倒見の良さそうな性格だった。 缶詰をいくつも空にし、食事が一段落すると、おたがいの間に弛 緩した空気が広がった。 雄介はバッグを軽く叩きながら、 ﹁もういいか? まだあるけど﹂ ﹁はい。大丈夫です。ご飯、ありがとうございました﹂ 51 正座をして、深々と頭を下げる。つられて、両隣の男の子も頭を 下げる。良くしつけられているようだ。 ﹁たまたま外を通りがかったんだけど、あのSOSは君が?﹂ ﹁あ⋮⋮いえ、私というか⋮⋮。でも、はい。そうです﹂ 要領を得ない答えだったが、聞けば、この事務所にはもっとたく さんの人がいたらしい。 避難所に向かう途中でゾンビの集団に襲われ、周りの人間と一緒 にこのスーパーに逃げこんだというのだ。そのときに両親ともはぐ れたらしい。 初めは籠城していたが、食料が少なくなり、焦燥感が増してくる につれ、外の様子を見に行く人たちが増えた。そして、誰も帰って 来なかった。 彼女は二人の弟がいたので、動くことができなかった、というこ とらしい。 そういった経緯を、雄介はじっと聞いていた。その話し方は理路 整然としたもので、見た目も優等生的な、整った顔だちの美人だ。 それでいて活動的な印象もある。クラス委員とかやっていそうだな ー、と雄介は思った。 一通り話し終わり、 ﹁なるほどねー。大変だったねえ﹂ 雄介がしみじみ言うと、 ﹁あの、ええと⋮⋮﹂ 物問いたげな女の子の様子に、そういえば名前を言っていなかっ 52 たなと気づく。 ﹁俺は武村雄介。そっちは?﹂ たかし ふじのみつき まさる ﹁あ、ありがとうございます。私は藤野深月です。こっちが弟の優、 こっちが隆司です﹂ ﹁どうもどうも。よろしくね﹂ こんな状況でも名前の交換を優先するとは、ずいぶん育ちのいい 家庭らしい。雄介がふざけて頭を下げると、二人の弟も真似して頭 を下げた。それを見て、深月が少し笑みを浮かべる。 自己紹介が終わると、深月がおずおずといった感じで、 ﹁武村さんは救助の方です⋮⋮か?﹂ 一般人にしか見えない雄介に、念のためといった感じで聞いてく るが、雄介は首を振り、 ﹁通りすがりの一般人﹂ ﹁⋮⋮そうですか。外は安全になったんですか? しばらくずっと 外を見てなくて⋮⋮﹂ ﹁うーん⋮⋮安全というか⋮⋮﹂ 雄介は説明に困る。自分がゾンビに狙われないことを言うつもり はなかった。 ﹁たぶん君らが出るのは、無理。あいつら、まだ下でうろついてる から﹂ ﹁⋮⋮そうですか⋮⋮。連れて行ってもらうことは、できないです か?﹂ ﹁無理だねえ。人が多い方がやばいんだよ。あいつら群がってくる 53 から﹂ 口からでまかせだが、本当にそういう習性もあるかもしれない。 ゾンビの行動パターンなど、誰もわかっていないのだし。 深月はすがるように、 ﹁弟だけでも、安全な場所には⋮⋮﹂ ﹁無理無理。ていうか、安全な場所なんてないよ。避難所もゾンビ だらけだったし﹂ 雄介のマンションの隣にでも住ませて、定期的に食料でも持って いってやれば安全とは言えるだろうが、そこまでする義理もない。 可愛い女の子だけならともかく、小学生のコブつきだ。安全に連れ て行くのも骨が折れる。 肝心の情報も、ずっと籠城していたのではろくに聞けそうもない。 ﹁俺もあいつらを避けながら、適当に食料を奪って逃げてるだけだ から。君らを連れてく余裕はないよ﹂ ﹁そう、ですか⋮⋮﹂ 深月は顔を暗くする。 弟たちは無言で、頭上で行われる会話を聞いている。ほとんど表 情も変えず、口も挟まない。 躾けられているにしても、大人しすぎた。籠城している間にも、 いろいろあったのだろう。この状況に心が参っているのかもしれな い。 深月にしてもそうだ。ただでさえ食料が尽きているのに、こんな 奥で引きこもっていて、現実逃避じみた印象を受ける。 頭の良さそうな少女だったが、わりと追い詰められているのかも しれない。 54 ﹁あー、また食い物持ってきてやるよ。今あるのは置いてくから、 しばらく持つだろ。外で救助の人間に会ったら、ここのこと教えて やる。それでいいか?﹂ 深月は一つまばたきして、雄介の顔を見つめた。 それから深々と頭を下げ、 ﹁⋮⋮本当にありがとうございます。色々と、わがままを言ってす みませんでした﹂ ﹁いいよいいよ。きっと助けが来るよ。がんばってね﹂ たぶんこねーだろうなあと思いながら、雄介は、頭を上げる深月 の顔を見つめていた。 55 12﹁掃除﹂◆ ﹁深月ちゃん可愛かったなー。胸もそこそこあったし﹂ 黒瀬を相手にバックで腰を突き入れながら、雄介は深月のことを 思い浮かべていた。けれん味のない、芯のある正当派美少女といっ た感じだ。 黒瀬はキッチンのテーブルにうつ伏せに押し倒され、されるがま まに揺さぶられていた。セーターに包まれた胸はテーブルで押しつ ぶされ、下のジーンズは膝までずりおろされている。両手は背中に まわされ、ロープで縛られている。その瞳はうろんげに、横の壁を 見つめていた。 黒瀬の顔が見えないのをいいことに、雄介は妄想を加速させる。 倉庫の中で押し倒した深月を、後ろから貫いている。泣き疲れてぐ ったりと力が抜けた深月の体は、白い尻に男のものを叩きつけられ るたびに、かすかに揺れる。その中は熱くぬめって、突きこむたび に、雄介のものに絡みついてくる。泣いても叫んでも助けてくれる 人がいない、そのことを自覚している深月は、目を閉じ、ただひた すら自分の膣内で男の精が放たれるのを待っている。 ﹁うっ⋮⋮﹂ 達する寸前、腰を引いた。先が抜けるぎりぎりのところで止め、 黒瀬の控えめな花びらに亀頭をねじこみながら、快感を放出する。 奥にではなく、入り口の方に白濁液を塗りこめるように、浅く腰を 動かしていく。 ﹁ふー⋮⋮﹂ 56 溜まったものを全部出し、一息ついて黒瀬から離れた。濡れタオ ルで下をぬぐい、ズボンを履きなおす。 黒瀬の秘部から糸を引く白いものを見て、さっとぬぐってやる。 表面を綺麗にしたあと、指で開いて中をのぞいた。白いものが中に あることを確認し、閉じる。 キッチンで手を洗って、冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトル を取り出し、口をつけてラッパ飲みする。自室だけでは入りきらな いので、黒瀬の部屋の冷蔵庫にもいろいろ詰めこんでいた。 ﹁ゾンビだったら簡単なのにな﹂ 可愛い女の子のゾンビなら、マンションに連れ帰って、この部屋 に放りこんでおくだけだ。人形のようにコレクションできる。 しかし、生きているとなると、それも容易ではない。スーパーか ら脱出させるのも一苦労だ。 トランクケースにでも入れて、車で移動。寄ってくるゾンビを追 い散らしながら、無理やり部屋まで運びこむ⋮⋮ どれだけゾンビが集まってくるかわかったものではないし、下手 をすると、雄介もまきぞえをくってしまう。だいたい弟もいる。現 実的ではない。 深月をゾンビ化させるにしても、下手にゾンビを放りこむと食い 荒らされるだろう。どうにかして指の先をちょっとだけかじらせれ ば⋮⋮などと考えているうちに、馬鹿馬鹿しくなってきた。女の子 一人にそこまでするのも面倒だ。人としてどうかという方法でもあ るし。 ﹁それに美人のお姉さんの方が好みだしなー。若いのは体はいいけ ど、綾がないよな。綾が﹂ 57 好き勝手なことを言いながら、雄介は出かける支度を始める。 外はまだ薄暗く、カラスの声が聞こえてくる。早朝に目が覚め、 朝立ちのむらむらしたものを黒瀬で解消していたのだ。 向かう先は、駅前のスーパーだ。雄介のマンションから数分の距 離にあるので、ガソリン節約のため歩いて行った。 やることは、腐りそうな物の処分だ。買い物カゴに大きめのゴミ 袋を被せ、カートに乗せて、危なそうなものを片っ端からさらって いく。 パックに入った肉や魚は色が変わり、異臭を放っていた。葉物の 野菜はしなびていたが、玉ねぎや人参といった根野菜はまだまだ持 ちそうだ。 パンのコーナーはひとまず置いておく。牛乳や乳製品も腐るが、 放置しても問題なさそうなので無視した。 バックヤードの冷蔵庫も確認し、中を綺麗にしていく。 ﹁なんか引きこもってるときより働いてるな。商店街もチェックし ないといけないし。しばらく忙しそ⋮⋮お、冷凍庫か?﹂ 精肉場のステンレスの扉を開けると、強烈な冷気が噴きつけてき た。豚肉らしいものが吊るされて、奥に並べられている。相当な冷 気でカチコチに凍っていた。 ﹁これならしばらくもつか⋮⋮? 肉は貴重品になるなー。電気止 まったら終わりだし﹂ 五つ目のゴミ袋をいっぱいにするころには、だいたい片付いてい た。 ﹁さて、これどうすっか⋮⋮﹂ 58 ゴミ袋の山を前に、悩む。このまま放置しては意味がない。 ﹁あいつらがこういうのも食ってくれればなあ﹂ この街だけでも相当な数の死体が発生したはずだが、路上に関し てはゾンビのおかげで綺麗に保たれている。かじられてゾンビにな るか、全部喰われて消えるかだ。 そこでぴんと閃いた。 ﹁そうか。人のいるところに放りこめばいいじゃん。腐りかけでも 腹減ってたら食うだろ。喜んでくれるかもしれないし﹂ 言っておいてから、少し固まる。 人間を生ゴミ処理機扱いしている。 同じ人間の言う言葉ではない。 ﹁いやいや⋮⋮それはないな。それはない。山に捨てに行こう﹂ 山奥に適当にばらまいておけば、動物が漁りに来るだろう。腐っ て蛆がわいたところで、問題はない。 街中の、目につかないところにゴミ捨て場を作ってもいいのだが、 臭いの問題がある。街のどこが必要になるとも限らないのだし。 ちょうど街の東の外縁部に、背の低い山なみが広がっているので、 そこに捨てることにした。 ﹁軽トラ探してくるか﹂ スーパーを出て、周囲を調べていると、妙な光景が目についた。 踏み切りから見える駅のホームに、まばらな人だかりがあるのだ。 まるで電車を待つ通勤客のように。 59 動きはふらついていて、みんなゾンビのようだが、明確な意思で そこに留まっているようだった。 腕の時計を見ると、八時過ぎ。ラッシュの時間帯だ。 ﹁電車を待ってる⋮⋮? まさかな﹂ 今まで見てきたゾンビは、ほとんどが自我を失い、さまよってい るようにしか見えなかった。だがもしかしたら、おぼろげながらも、 生前の行動パターンをなぞっていたのかもしれない。 ﹁でも、ラッシュの時間にしては少ないよな⋮⋮よくわかんねー﹂ 緊急性はないが、そのうちゾンビの行動パターンについて調べて みるのもいいだろう。生活環境を整えたあとは、特にやることもな くなるのだし。 そのあと、夕方までかけて二軒のスーパーを掃除し、ゴミ袋をハ イエースの後ろに積みこんでいった。軽トラが見つからなかったの で、たまたまキーの刺さっていたこの白のワンボックス車にしたの だ。 すでに日は暮れている。道路状況が悪く、ゾンビもうろついてい るので、移動に時間がかかってしまった。山に捨てに行くのは明日 にして、マンションに帰還する。 部屋に戻ると、テーブルにそのままにしておいた黒瀬のロープを 外し、一緒に浴室に連れていった。手首には痣ができていた。 ﹁拘束具も考えないといけないなー、いちいち面倒くさいし。SM ショップとかどっかに⋮⋮ねーよなあ。都心まで行かないと﹂ そこでふと気づく。 60 ﹁手錠でいいじゃん。おもちゃ屋に⋮⋮いや、せっかくだし交番か 警察署か。人間捕まえたときも便利そうだし。何があるかわからん よな、世紀末は﹂ 手際よく黒瀬の服を脱がし、全裸にして両手を後ろで縛る。自分 も服を脱いで、浴室に一緒に入った。 湯を張りながら、黒瀬を床に座らせ、足を開かせた。黒瀬はされ るがままに大人しくしている。 股の間に指を入れ、濡れたままの中をかきわけ、引き抜く。その 指先をまじまじと見て、首をかしげる。 ﹁⋮⋮やっぱ吸収されてるのか?﹂ 中をのぞいてみても同じだ。外にこぼれたわけでもないのに、朝 に出したはずの精液がなくなっている。 前にも何回か黒瀬を抱いて放置したあと、中で腐敗するとまずい と思って洗おうとしたら、ほとんど残っていなかったことがあった。 だいたい半日ぐらいで吸収されるようだ。 昼間の駅のことといい、ゾンビには、まだまだよくわからない生 態があるようだ。 ﹁⋮⋮ま、いいか﹂ 便利なことには違いない。 湯を張った浴槽に黒瀬を座らせ、体面座位の格好で抱きしめる。 両手が後ろで縛られているので、大きな胸が強調され、湯にふわふ わと浮いている。 硬くなったものを下にあてがうと、ぬるりと入った。黒瀬は縁に 背中を預け、顔を力なくのけぞらせたまま、天井を光のない瞳で見 つめている。その首筋にかぶりつくように、湯の中でゆっくりと腰 61 を動かす。芯を包むぬめる快感に、ゆるやかにのぼりつめていく。 そのまま我慢することもなく、溜まった快感を黒瀬の中に放った。 湯に温められて、人間を抱いているような感覚だった。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 倦怠感に包まれ、雄介は満足の息を吐いた。そのとき、雄介の体 に抱きつくようにしていた黒瀬の太股が、わずかに弛緩したことに、 雄介は気づかなかった。 62 13﹁催促﹂ 次の日からしばらく、雄介は町内を走りまわった。さらに三軒の スーパーを掃除し、商店街の小さな店も綺麗にしていく。 さすがにワンボックス車では容量が足りなくなったので、町工場 で見つけた中型ダンプに乗り換えた。イスズの白い車体のものだ。 ﹁うわー、見たことないスイッチだらけだな。大丈夫かこれ?﹂ 適当に荷台のエアサスペンションで遊びながら、操作を確認して いく。ぶつけたところで、捕まることもない。気楽なものだ。 クラッチはなく、変速はマニュアルという仕様で、操作感に最初 はまごついたが、動かせるようになると、その運転席の視点の高さ に感動した。パワーと重量感も凄い。普通に生きていては、まず乗 ることはなかっただろう。仮眠マットや遮光カーテンなど、アクセ サリーもいろいろ付いていた。 運転できそうなことがわかると、一度エンジンを切った。荷台の 左右の囲いを下ろして、大量のゴミ袋を放りこんでいく。気分は清 掃業者だ。 積みこみおわると、ナビを起動し、山へ向かった。 市街には車で通れない道がいくつかあったので、それを避けなが ら移動する。ゾンビの分布にもムラがあるので、なるべくゾンビの 少ない通りを走った。 ﹁こっちの道か﹂ ナビにうながされるまま、山道の入り口で右折する。 高台のガードレールごしに、街の様子が一望できた。対向車もな 63 いので、事故車に気をつけるだけでいい。低速で走りながら、街の 様子をながめた。 ﹁ん? なんだあれ﹂ 遠目に見える空の向こうを、黒い点が移動していた。 よく目を凝らすと、どうやらヘリコプターのようだった。視線で 追いかけるが、すぐに雲の陰に隠れ、見えなくなった。 ﹁⋮⋮?﹂ かなりの遠距離であっという間に消えたので、正体もわからない。 雄介は首を傾げながら、視線を戻した。 山頂へ向かう途中で、意外なものを見つけた。野外活動センター だ。案内板を見る限り、かなり広い。食堂や風呂を備えた大きなロ ッジに、立ち並ぶログハウス、テント村に体育館まであった。 ﹁こんなとこあったのか﹂ 同じ市内なのに、まったく知らなかった。山など行くこともなか ったから、当然なのだが。 小川があり、炭も用意されているようなので、電気ガスが止まっ たらこちらに移動してもいいかもしれない。山小屋用の発電機もあ るだろう。 理想は、市内で太陽光発電とオール電化の一軒家でも見つけるこ とだ。井戸と浄水装置もあればなお良いが、さすがにそれは高望み だ。 センターを通りすぎ、さらに山の奥に入る。 造成中らしい広場と、土砂の崖があったので、その下に捨てるこ とにした。横のレバーを引くと油圧が働き、荷台が後ろに角度をつ 64 けて上がりはじめる。傾いたゴミ袋が、雪崩をうって落ちていった。 ﹁ちょっと面白いなこれ⋮⋮﹂ 荷台をのぞいて空になったことを確認すると、雄介はUターンし た。 ﹁いい汗かいたぜ⋮⋮土木作業もけっこう楽しそうだな﹂ 街は雄介の好きなようにできるのだ。ショベルカーなどの特殊車 両も勝手に使える。許可も免許もいらない。壊しても問題ない。 ﹁リアルシムシティだな。あとでレッカー車でも見つけて道路の掃 除でもするか。運転できるかな?﹂ ひとまず近場のスーパーの腐敗問題を解決したことで、食料の心 配はなくなった。快適な環境でいつでも補給に行けるだろう。今の うちに、肉の燻製などにチャレンジするのもいいかもしれない。 ﹁また食い物取りに行かないとなー。隣の部屋の鍵をこじ開けて、 食料庫でも作って⋮⋮あ﹂ 深月のことを忘れていた。あれから五日は経っている。さすがに 食料もなくなっているだろう。 雄介は少し焦りながら、街に引き返した。 ダンプをマンションの近くに止め、バイクに乗り換えて深月のス ーパーへ向かう。 65 一階の食料品フロアで適当に食べ物を見繕ったあと、二階から毛 布も持っていった。前に深月たちを見たとき、薄いブランケットで 寝ていたのを思い出したからだ。そろそろ冬も目前で、夜は冷えこ むだろう。 エレベーターで三階に上がる。扉が開くと、バリケードのすぐ前 の壁に、三人寄りそって座っているのが見えた。こちらに気づき、 ﹁あ⋮⋮﹂ 深月が壁に手を当てて立ち上がろうとするが、若干ふらついてい る。 ﹁悪い。遅くなった﹂ 近くの会議室に移動して、バッグから缶詰やらレトルト品を並べ る。給湯室に電子レンジがあったので、パックのご飯とレトルトカ レーも温めてやった。タッパーに入れて、即席のカレーライスにす る。深月が手伝いたそうにしていたが、視線でうながして席につか せた。 食事が始まると、男の子二人の食べっぷりが凄かった。追加でご 飯を温めて、缶詰を開けてやる。 ひとしきり食事が進み、二人とも満足したようだった。 ﹁ごちそうさまでした﹂ 手を合わせる深月に合わせて、子供二人も手を合わせる。 ﹁⋮⋮ごちそうさまでした。⋮⋮カレー美味しかった﹂ 男の子の片方が小さくつぶやいた。 66 まさる たかし 優だったか隆司だったか、どっちかは忘れたが、初めて声を聞い た。 深月が頭を下げ、 ﹁ありがとうございます。ご飯、美味しかったです﹂ その言葉とは裏腹に、何か言いたいような雰囲気があった。 雄介はバッグから、玩具付きのお菓子をじゃらじゃら取り出し、 ﹁お前ら、これもお土産だ﹂ テーブルに広げると、二人とも目を輝かせて包装を開け始めた。 その隙に、深月をうながして会議室の外に出る。 廊下の隅に移動し、深月はしばらく沈黙した。そのあと、おずお ずと話しはじめた。 ﹁あの、本当に、感謝しています。ただ、あの、もう少し、できれ ば⋮⋮﹂ その言いにくそうな口ぶりに、雄介はなんとなく言いたいことを 察した。 ﹁私は我慢できます、けど、弟たちがかわいそうで⋮⋮﹂ 雄介に、もう少し頻繁に食料を持ってこいと言っているのだろう。 そういえば、深月自身はあまり食事に手をつけていなかった。ま た雄介が来なかったときのために、食料を残していたのかもしれな い。 雄介は考える。バッグに限界まで詰めこんでも、三人なら一週間 分がせいぜいだろう。一週間ごとにここに来るか、下と往復して、 67 大量の食料を運びこむしかない。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ なんか面倒になってきたな。 68 14﹁ギブアンドテイク﹂◆ ﹁まあ、考えとくよ﹂ 雄介はきびすを返す。 もともと、この三人を助ける義理はないのだ。最初は情報目当て の接触で、行きがかり上、食料を与えたが、その後も定期的に面倒 を見るとなると、話は違ってくる。 食べ物を持ってくるというのは自分で言い出したことだが、一回 は食料を持ってきたのだから、約束は果たしたと言えなくもない。 せっつかれて、雄介は面倒になってきた。 助けても、雄介に得があるわけでもない。他にやりたいことはい くらでもあるのだ。 ﹁あっ、あのっ⋮⋮!﹂ 雰囲気の変化を察したのか、深月が慌てて追いかけてくる。 ﹁ごめんなさい! あの、すみませんでした! 助けてもらってる のに⋮⋮あの⋮⋮﹂ ﹁いいよいいよ。腹減ったらきついもんな﹂ 言葉とは裏腹に、雄介は突き放すような態度で答える。 ﹁そこに転がってるの、毛布だから。使っていいよ。ぼちぼち寒く なるし。冬がきつくなる前に助けが来るといいね﹂ エレベーターの前までたどり着き、バリケードを乗り越えようと 69 したところで、後ろから手を掴まれた。 振り返れば、深月がすがるような表情で、 ﹁武村さん、助けてください⋮⋮! お願いします⋮⋮﹂ その顔は、脆くも美しい、男の保護欲をそそらせるものだった。 この女の前でいい格好をしたい、という欲望を抱かせるような。 この顔で懇願されたら、断れる男はいないだろう。これで周りか らずっと助けてもらってきたんだろうな、雄介はそんなひねくれた ことを思った。 ﹁ゾンビに襲われてる人、見たことあるか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は無言で、小さくうなずいた。 ﹁食い物一つ手に入れるのも命がけなんだよ。わかるだろ?﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ 実際は命がけどころか、いくらでも手に入るのだが、雄介はやや ひねくれた感情で、この美少女をいじめたくなった。 ﹁それでさ、お前らに食い物わけて、俺に何の得があるんだ? 俺 一人なら、お前らの分だけで一ヶ月は生きのびれるんだぞ。この前 のと今回のはいいよ。もうくれてやったもんだしな。でも、次は、 俺の分しかないかもしれん。わかるな?﹂ 深月はうなだれて、床を見つめている。現在の状況では、食料が とてつもない貴重品だということは理解しているのだろう。 何も言い返せなくなった深月に、雄介は声のトーンを落として続 70 けた。 ﹁⋮⋮まあ、助けた責任もあるから、俺ができることはしてやるよ。 その代わり、お前も何かしろ。こんな状況じゃ、大人だとか子供だ とか関係ないだろ。ギブアンドテイクだ﹂ 深月はゆっくりと、顔を上げた。 やや強張った表情で、 ﹁何か⋮⋮ですか?﹂ ﹁抱かせろ﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ 深月は胸を押さえ、反射的に後ずさる。 その瞳が、みるみる侮蔑の視線に変わる。 ﹁男の人っていつもそうですね⋮⋮! 私たちのことなんだと思っ てるんですか!?﹂ ﹁他に何ができるんだよ? お前に。なんかあったらそれで説得し てみろ﹂ ﹁それは⋮⋮でも、そんなの許されるわけない!﹂ 激昂する深月を、雄介は冷めた目で見つめた。 ︵まあ、こいつには無理だろうな︶ 今までの人生の中、深月は先ほどのように要求する側であって、 要求される側ではなかっただろう。自分の価値もよく知っている。 それを貶められるのは、プライドが許さないのだ。たとえ生きるか 死ぬかのときでも。 71 深月が動かないのを見て、雄介は、 ﹁⋮⋮ま、がんばってくれ﹂ きびすを返そうとすると、 ﹁まっ⋮⋮待って。他に、他のことなら、何でもします﹂ ﹁だから、それを言ってみろよ。聞いてやるから﹂ ﹁こ、ここを安全な場所として、武村さんに提供します。お休み中 の見張りもします﹂ ﹁いらねー。俺がどこで寝てると思ってんだ? だいたいその気に なれば、お前ら叩き出して、ここ奪えるんだぞ﹂ ﹁じゃ、じゃあ、何か⋮⋮何でも⋮⋮だって、こんなの、こういう 時だから、助けあうべきじゃないんですか!? 小さな子供もいる んですよ!?﹂ ﹁知らねーよ。だいたい助けあいになってないだろ。俺の一方的な 持ち出しじゃねーか。お前はありがとうって言っとけば済むのか? お前、自分が女だから、未成年だから、助けてもらうのが当然と か思ってないか?﹂ ﹁そ、そんなことは⋮⋮﹂ ﹁なら助けあいって言葉を考え直せ。俺は救助隊でもボランティア でもないんだぞ。ゾンビの中に出てって、お前らの食料を取ってき てやる義理はねーんだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は唇を噛みしめ、うつむいた。 雄介がゾンビに襲われないことを、深月は知らない。つまり、雄 介に食料を取りに行けというのは、命をかけろということと同義だ と理解している。それでいて、食料を要求して感謝で済ませようと する深月の態度に、雄介はイラついていた。 72 深月はぼそぼそと力のない声で、 ﹁お金を⋮⋮家に帰れたら、貯金を全部⋮⋮﹂ ﹁話にならん﹂ 深月はしばらく沈黙したあと、最後の問いかけのように、 ﹁⋮⋮本当に⋮⋮本当にだめですか、助けてもらえませんか﹂ ﹁駄目だ。助かりたけりゃ、何かを犠牲にしろ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は小さくつぶやいた。 ﹁⋮⋮手で⋮⋮﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁手でし⋮⋮、します﹂ 男子トイレの個室に移動し、扉を閉めた。 二人で入ると、肩が触れ合うぐらいの距離だ。 雄介は便座に腰をおろし、立ちつくしたままの深月に視線をやっ た。無言でうながすと、深月はかすれた声で、 ﹁あの⋮⋮どうすれば⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ひざまずいて、中から出して﹂ 深月はタイルに膝をつき、足を開いた雄介の股間に手をやる。震 える手でベルトを外そうとするが、力が入らないのか、何度も失敗 していた。 73 ようやくボタンを外し、ジッパーに触れたところで、深月は躊躇 する。顔を上げ、雄介に懇願の表情を向けるが、雄介は無言でそれ に答えた。 深月は諦めて、ゆっくりとジッパーを下ろした。膨らんだ下着が 露になる。そのふちに手をかけたところで、うつむいた深月の瞳か ら、雫がぽたぽたと落ちた。袖でぬぐうが、さらにあふれてくる。 食料のために、場末の売春のような格好をさせられているのが、 相当な屈辱なのだろう。 雄介は何も言わなかった。 深月は雄介の下着を少しずつ下ろし、顔をそむけながら、頭を出 してきたモノをちらちらと眺めた。 ﹁⋮⋮次は、これを⋮⋮?﹂ ﹁握って、上下にしごいて﹂ 指先でつまむようにして、半勃ちのそれに恐る恐る触れる。かす かに上下に動かすが、ほとんど力は入っていない。 ﹁こうするんだって﹂ 雄介は強引に深月の右手を取り、硬くなり始めたものを握らせた。 細く白い指が、節くれ立った醜悪な器官に絡みつく。そのまま上下 に動かし、無理やりしごかせる。深月は硬直したまま、なすがまま にされていた。 ﹁わかったか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 深月は小さくうなずき、のろのろと手を動かしはじめた。くに、 くに、と、深月の手で竿がこすられる。 74 単にしごかれている、というだけの刺激だったが、それでもブツ は深月の手の中で大きくなりはじめた。締めつける指を押し広げる ように、器官が充血していく。深月は懸命に手を動かすが、潤滑油 が足りないのでスムーズとは言えない。 ﹁よだれ垂らして﹂ ﹁え?﹂ ﹁それによだれ﹂ 深月は言われたことを理解したのか、顔を青くする。 ﹁むっ、無理です﹂ ﹁⋮⋮。咥える方がいいか?﹂ その言葉に、深月は首をぶんぶん振る。 雄介が無言で見つめていると、深月は根負けしたように顔を伏せ、 左手を口元に持っていった。口をもごもごと動かしたあと、だらり と唾液を落とす。泡立った手のひらの唾液を、右手で握ったままの 肉棒に、撫でるようになすりつける。 ﹁⋮⋮これでいいですか?﹂ ﹁両手でしごいて。その方が早く終わる﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 不慣れな深月に、雄介は男の敏感な部分を教えていった。深月は 言われた通りに、おずおずと手を動かす。 右手で竿をしごき、左手では輪っかを作って亀頭をぬぷぬぷと上 下させる。親指の水かきの部分が、唾液まみれのカリと裏筋をこす りあげ、緩やかな快感を送りこんでくる。 ただ、これでイケるかというと、やはり稚拙ではあった。 75 ﹁⋮⋮気持ちいいですか?﹂ ﹁あー⋮⋮まあまあだけど。ちょっとな﹂ 雄介は少し考える。 ﹁ちょっと立ってくれ。手は動かしたままでな﹂ ﹁? はい﹂ 必然的に、深月は前かがみの中腰になる。長い黒髪が、雄介の目 の前でさらさらと流れ落ちた。その髪をかきわけるようにして、深 月の胸元に手を伸ばす。 ﹁えっ⋮⋮?﹂ 困惑の声をあげる深月には構わず、そのシャツのボタンをぷちぷ ちと外していく。 ﹁なっ⋮⋮なに、何を﹂ ﹁お前下手くそだから、サービスがないと出なそうだ﹂ ﹁⋮⋮っ、やめ、⋮⋮﹂ ﹁手ぇ離すなよ﹂ ボタンをすべて外し、シャツを開くと、動きを止めた深月の胸元 が露になった。白と黒のドット柄のブラジャーが、胸元からのぞき こめる。手を差し込み、上に無理やりずり上げると、ぽろんと二つ の乳房が、重力に引かれてこぼれ落ちた。Cカップぐらいの、綺麗 な形だった。手のひらですくい上げ、ピンク色の乳首をこすってみ る。 76 ﹁⋮⋮っ!﹂ ﹁早く終わらせたいなら、気合入れてがんばれ﹂ その言葉に、深月は無言で手の動きを再開する。先ほどにも増し て、いやらしい手の動きだった。唾液と先走りでぬるぬるになった 肉棒に、深月の柔らかい手のひらと、白い指先が、軟体動物のよう に絡みつく。血管の浮いた竿を指先でこすり上げ、手のひらで亀頭 を包むようにしてぐにぐにと動かす。 それ以上に興奮したのは、深月の格好だった。白いシャツにカー ディガン、ブラックジーンズという活動的な格好だが、そのシャツ は目の前ではだけられ、柔らかそうな胸がまろび出ている。その吸 いつくような若い二つの膨らみを両手で好き勝手にこねまわしなが ら、深月の奉仕を味わう。 ﹁⋮⋮ぅ⋮⋮﹂ 乳首をいじられ、深月が小さく声を漏らす。それでも手を止める ことはなく、雄介は腰の奥に、どろどろしたものが溜まってくるの を感じた。息が荒くなり、腰を動かしたくなる。雄介はそれに耐え、 深月の手が、腰の奥から快感を引きずり出していく過程を、じっく りと味わった。 深月の手でしごかれ、なぶられているうちに、じわじわと昂ぶり が先端に集まっていく。指先でいじっていた深月の乳首が、柔らか いものからこりこりとした感触に変わった。硬く膨らんだその側面 をこするようにしてつまんだとき、深月の両の手のひらにぎゅっと 力が入り、ぬるりと肉棒を絞り上げられた。その瞬間、白い快感の かたまりが腰の奥から引きずり出され、深月の両手の中で爆発した。 ﹁っ⋮⋮!﹂ 77 びちゃりと噴水のような勢いで出された精液が、深月のむき出し のお腹に叩きつけられる。びちゃり、びちゃりと、数度の痙攣と噴 出が起きる。そのあいだ、深月は肉棒を握り締めたまま、目を見開 いて硬直していた。 ﹁⋮⋮ふーっ⋮⋮﹂ 雄介は大きく息を吐き、深呼吸する。それにつられ、深月も手を 離す。深月は呆然と、自分のお腹を垂れていく精液を見つめていた。 その後、トイレットペーパーで適当に身をぬぐい、二人は個室を 出た。 先に廊下に出ようとした雄介は、ちらりと視線を後ろに飛ばした。 深月は無言でうつむき、丹念に両手を洗っていた。 78 15﹁警察署﹂ 雄介がマンションにたどり着いたときには、すでに空は暗くなっ ていた。 途中の店で見繕った酒とつまみの袋をぶらさげ、エレベーターを 上がり、黒瀬の部屋の扉を開ける。 ﹁⋮⋮ただいまっと﹂ 照明をつけ、靴を脱いで顔を上げると、こちらをじっと見る黒瀬 の視線とぶつかった。 ﹁え⋮⋮﹂ まっすぐ見つめられ、雄介は硬直する。 コチ、コチ、コチ、と数秒のあと、黒瀬は視線を外した。テーブ ルの上を見つめ、微動だにしなくなる。その両手は椅子に縛られて いたが、暴れることもなく大人しく座っている。 硬直が解け、雄介は息を吐きながら、のっそりした動きでキッチ ンに上がった。 ﹁びびった⋮⋮﹂ 黒瀬が顔まで向けて見つめてきたのは、今が初めてのことだった。 ごく至近距離で、動きを目で追うぐらいのことはあったが。他のゾ ンビからも、ここまでまっすぐ見られたことはない。明らかに雄介 を認識していた。 79 ﹁⋮⋮なんだろ。声かけてたら植物も元気になるとか、そういうあ れか。植物状態の脳が、名前を呼ばれて復活するみたいな⋮⋮。⋮ ⋮時子ちゃん、時子ちゃーん⋮⋮黒瀬さーん⋮⋮﹂ 声は尻すぼみになる。黒瀬は一切の反応を見せず、テーブルを見 つめている。 ﹁⋮⋮あほらし。時子ちゃん、椅子一個借りるよ﹂ もちろん返事はない。椅子をベランダまで引きずって、酒とつま みの袋をそこに置く。缶ビールを取り出し、手すりにもたれながら プルタブを引いた。 外は肌寒かった。これからますます冷えこんでくるだろう。 ベランダから見える光景は、暗闇が混乱のあとを覆い隠している ために、以前の日常とあまり変わらないように見える。闇に浮かぶ 街灯が、薄暗い街路を照らし出していた。ゾンビの姿もあまり見え ない。 もちろん、以前と決定的に違うところもある。 街を埋めつくしていた家屋の明かりは、今では二割ほどしか残っ ていない。他の部分は闇に埋もれていた。 照明のついている家屋も、ほとんどは単にスイッチが入ったまま というだけのことだろう。中には生存者のものもあるかもしれない が、その判別はできない。直接確認してまわれば分かる事だが、そ れで生存者を見つけて、一体何になるのか。 孤立した篭城者を見つけたところで、また食料を求められるだけ だ。助ければ助けるだけ、雄介はただの食料運搬人になっていき、 そのうち身動きが取れなくなる。そんなのは願い下げだ。 ちびちびと缶ビールに口をつけながら、ぐだぐだと考え事をして いた雄介の耳に、夜のしじまを引き裂いて、強烈なブレーキ音が届 いた。 80 見れば、大通りを走っていた乗用車が、後輪を滑らせながら、前 方の事故車にぶつかるところだった。ドン、という衝突音と共に、 ガラスが砕け散る。 周囲の闇から湧き出てきたように、ゾンビたちが集まりはじめる。 中に乗っていた家族は、シートベルトでもたもたしているうちに、 完全に包囲されていた。両親らしい男女が、ドアから引きずり出さ れていく。深月と同じぐらいの歳の娘が、腕に噛みつかれ、地面に 引きずり倒された。そこに群がるゾンビたち。 遠い悲鳴が聞こえてくるが、そのうち静かになった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は無言でつまみの袋を探り、ジャーキーを取り出してかじっ た。 翌朝、いつものように装備を整え、地図で確認した警察署へ向か った。黒瀬に使う手錠と、何か武器を手に入れるためだ。場所は以 前に行った、南波小学校のすぐそばだった。 警察署は灰色の三階建てで、四角いのっぺりした建物だった。駐 車場にはパトカーが何台も停まっている。入り口にはバリケードが あったが、半分破られていた。 ここには南波小学校から逃げこんだ人間もいるかもしれないが、 エントランスから見た限りではその気配はなかった。 ﹁警察署っても、けっこう普通だなー﹂ 市役所と同じような雰囲気だ。地域課、交通課、警務課などの案 内板があり、窓口のカウンターと、待合席が並んでいる。ゾンビの 81 姿は見えなかった。 警察署に対してもっと物々しいイメージを抱いていたので、その 光景に雄介は拍子抜けした。 一階は市民対応が主のようで、奥の事務室を探しても、めぼしい 物はなかった。見切りをつけて、二階に上がる。 上がってすぐの場所に刑事課があり、奥まった場所に留置場があ った。面会用の部屋が併設されている。 ﹁留置場って、地下ってイメージがあったけどなあ﹂ 入り口は鍵がかかっていなかった。純粋な好奇心で、中をのぞく。 通路の片側に、四畳ぐらいの鉄格子の部屋が並んでいた。隅に寝具 が畳まれている。どこも無人だったが、一部屋だけ、中に人がいた。 ﹁げ⋮⋮﹂ 頭を打ち抜かれた男の死体が、三つ、鉄格子の近くで折り重なる ようにして倒れていた。飛び散った血や脳漿が、後ろの畳をまだら に汚している。すでに乾いて黒ずんでいた。 ︵人間じゃ⋮⋮ないな。中でゾンビ化したのか︶ 三人のうち二人は、腕や足にかじられた跡があったので、おそら く一人が発症し、残りが感染したのだろう。 問題は、これらを撃ち殺した人間の方だ。 ︵なんか武器持ってきとけば良かった⋮⋮平和ボケしてたな︶ ゾンビを撃ち殺したのはおそらく警察官だろうが、まだ正気でい るという保障はない。閉じ込めたゾンビを、わざわざ外から撃ち殺 82 しているのだ。暴力の行使に抵抗はないだろう。 下にゾンビがいなかったのも気になる。雄介にとって、ゾンビは 人間探知機であり、防衛の道具だ。ゾンビのいない場所では、人間 に襲われる可能性があった。 今までは、人に出会ったら食料で交渉すればいいと気軽に考えて いたが、異常者相手だと、そんな悠長なことは言っていられないだ ろう。 ︵いったん出直すか⋮⋮?︶ 逡巡していると、階段の方から物音が聞こえた。扉に身を隠し、 様子をうかがう。 上から、誰かが降りてきていた。その足音は不規則で、頼りない。 ぐらぐらと体を揺らしながら、制服を血で汚した婦警が現れた。 ﹁ゾンビかよ⋮⋮﹂ ふう、と雄介は息を吐く。遠くから見ただけでも、ゾンビと人間 の区別はすぐにつく。なんとなく雰囲気でわかるのだ。 ゾンビが降りてきたということは、すぐ近くに人間はいないのだ ろう。 雄介は警戒しながら、三階に上がった。 83 16﹁拳銃入手﹂ ﹁うおっ⋮⋮﹂ 三階の通路には、十体ほどのゾンビがひしめいていた。 どれも血まみれだったり、体の一部が欠損している。銃創を負っ ている者も多かった。顎が半分吹き飛ばされ、上顎が丸見えになっ ているのもいる。大半は民間人だったが、警察の制服に防刃ベスト を着ているのも混じっていた。 ゾンビたちの上には、大会議室というプレートが掲げられている。 どうやらそこに引きつけられているようだ。どことなく異臭も漂っ ている。 ﹁嫌な予感⋮⋮﹂ ゾンビたちはずいぶん大人しい。中に生存者がいるなら、もっと 扉に執着していそうなものだが。 近くにいた警察官のゾンビの腰から、何かがぶら下がっていた。 らせん型の黒い吊り紐の先にあったのは、黒い拳銃だ。地面近くで 揺れている。 動くゾンビに手間取りながらも、吊り紐をベルトから外し、手に 取ってみる。 拳銃は回転式の小型のもので、玩具のように軽かった。黒のグリ ップは握りやすく、保持は楽そうだ。弾はシリンダーに二つだけ残 っている。 警官といえばニューナンブだが、この拳銃がそうなのかは雄介に は分からない。とりあえず、持っていれば牽制にはなるだろう。 トリガーに指をかけないよう、人指し指を伸ばしたままグリップ 84 を握りしめ、会議室に近づいた。 探索の前に不確定要素は潰しておきたい。 扉の前には立たないで、横の壁に背中を預ける。 雄介は意を決して、声をかけた。 ﹁誰かいますかー?﹂ 反応はない。 ﹁おーい?﹂ 物音はまったくしない。 ドアノブは抵抗なく回った。施錠用の鍵を持ち出す暇がなかった のかもしれない。 押し開けようとすると、すぐ向こうに積み上げられたテーブルと 椅子のバリケードにぶつかった。 体重をかけて、押し広げる。 わずかに開いた隙間から、強烈な腐臭が漏れ出してきた。胃が引 っくり返るような吐き気を我慢しながら、中をのぞく。 奥の床に血の海が広がり、そこに、自分の頭を撃ちぬいた警官が 横たわっていた。光を失った瞳が、虚空を見つめている。 他にも、だらりと伸ばされた何人かの手足が見えた。生きている 人間はいなそうだ。 ﹁あーらら⋮⋮﹂ 残念な気持ちが半分、安心する気持ちが半分。少しほっとしなが ら扉を閉めようとすると、周りのゾンビたちが殺到してきた。雄介 は慌てて扉の前から逃げる。 わずかに開いた扉を無理やり押し広げるように、ゾンビたちが自 85 分の体をぶつけていく。人間の腐臭が、誘蛾灯のようにゾンビたち を引き寄せているらしい。 塊になったゾンビの体重をかけられて、バリケードが音を立てて 崩れた。 同時に腐臭が耐えがたくなり、雄介はその場を離れた。回収し損 ねた警官ゾンビの手錠と警棒は心残りだが、この臭いでは中に入る 気にはなれないし、ゾンビの腐り物の食事を眺める趣味もない。 ﹁まあこんな所で籠城してもな⋮⋮食い物もなんもないし。つか腐 れた臭いつけるなよ⋮⋮﹂ 街中で、一軒家に籠城していた人間もそこそこいるだろう。その うち餓死して腐り、けっこうな家屋が使えなくなっているのではな いだろうか。 ややげんなりした気持ちを抱えながら、雄介は三階の探索に入っ た。 目当ての物は、しばらくして見つかった。 通路の奥で、ストッパーで開いたままの電子錠の扉を見つけ、中 をのぞいてみると、物品保管庫だった。 両側にロッカーが並び、中央には棚が置かれている。いくつかの ロッカーが開きっぱなしで、やや荒れた印象を受ける。 ﹁なんか急いで持ち出そうとしたのかな⋮⋮﹂ 調べていくと、予備の被服と一緒に、ケースに納められた手錠の 束があった。 86 ﹁お、ラッキー﹂ 個別包装のパッケージで、手錠の鍵も一緒に入っている。六個あ ったので、全部バッグに入れた。 他にも手錠入れにホルスター、制服、ヘルメット、防刃ベスト、 帯革、警笛、警棒など、様々な物が保管されていた。使えそうなも のを適当にバッグに放りこんでいく。 ホルスターを一つベルトに付け、手に持ちっぱなしだった拳銃を 入れてみる。なかなかしっくりと納まった。 ﹁さて次は⋮⋮お、これかっけー。軍用みたいだ﹂ 未使用のコンバットシューズがあったので、サイズの合うものを 拝借する。めぼしいものを取り終えると、他に移動した。 刑事二課と警備課では小さなロッカーを見つけたが、どれも鍵が かかっていた。デスクを調べたが、マスターキーも見つからない。 開いている金庫が一つあったが、中は空っぽだった。 途中で押収物の保管庫を見つけたが、こちらも暗証番号式の電子 錠で、鍵がかかっている。ちらりと腰の拳銃に目をやるが、どう考 えてもこれで開けるのは無理だろう。弾も二発しかないのだし。 ﹁あとは拳銃か弾薬なんだけどなー⋮⋮。拳銃保管庫ってどこなん だろ﹂ 探索途中だった二階も調べなおすが、それらしいところはない。 雄介は一階に戻り、案内板を見て、腕組みした。 案内板には、建物の半分ぐらいしか描かれていない。保管庫があ るとしたら、その隠されている部分だろう。 予想は当たり、警務課の奥、目立たないところに、地下への階段 があった。 87 地下を奥へ進むと、拳銃貸し出しの受け付けがあり、さらに奥に 保管庫が見えた。 鉄の扉は開きっぱなしで、中の火器類はほとんど持ち出されてい た。 ﹁えー⋮⋮まあそりゃそうか⋮⋮﹂ 少しがっかりしながら、番号プレート付きの保管棚を、端から順 番にチェックしていく。幸い、空っぽということはなかった。 上で手に入れたのと同じタイプのリボルバーが二丁、やや形状の 違う、グリップが焦げ茶のリボルバーが一丁。黒く鋭角的なフォル ムを持つ、刑事ドラマなどで見かけるような自動拳銃が一丁。 腰の物と合わせて、全部で五丁だ。 ﹁ちと多いかなー﹂ リボルバーとオートマチックの一丁ずつでいい気もしたが、故障 しても修理できないので、予備として一応持っていくことにした。 弾もそれなりに見つかり、箱ごとバッグに詰めこむ。すべて合わ せると、かなりの重量になった。拳銃は弾が抜かれていたので、バ ッグの中でも暴発の心配はない。 ﹁よし、こんなもんだろ﹂ 一階に戻り、エントランスの待合席で一息ついた。 雄介はホルスターから拳銃を取り出し、ためつすがめつする。銃 身は短く、あまり格好良いとは言えない。 ただ、隠して持ち歩くのには良さそうだ。ポケットに入るぐらい の大きさしかない。 88 ﹁拳銃射撃マニュアルとか⋮⋮ねーよなあそんなもん。警察学校で 習うんだろうし﹂ 一度ホルスターに戻す。 バッグから弾の入っていないリボルバーを取り出し、いじってみ ることにした。さすがに実弾の入った拳銃をいじくりまわす勇気は ない。トリガーの後ろにはめこまれていた安全ゴムを外し、映画な どを思い出しながら、見よう見まねで触ってみる。 ﹁お、ここを押しこむとシリンダーが外れるのか﹂ 親指で、銃身左側についたスライドを押しこみながら、シリンダ ーを左に落とす。これで回転弾倉に装填できるようになる。戻すと、 カチャリとロックされた。 ﹁撃鉄は起こさなくてもいいのかな?﹂ トリガーに力を入れ、じわじわと引くと、撃鉄がそれにつれて起 こされ、弾倉がゆっくり回転を始める。最後まで引き絞ると、撃鉄 がカチリと落ちた。これで発射のようだ。 撃鉄をあらかじめ手で起こしておくと、弾倉が回転した状態で保 持される。これだとトリガーを軽く絞るだけで撃鉄が落ち、即座に 発射されるようだ。瞬時に撃ちたいときはこちらの方がいいだろう。 セイフティはないようだった。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ かなりシンプルな構造だ。撃つだけなら難しくはなさそうだ。 雄介はだんだん試したくなってきた。 ホルスターから、実弾の入った拳銃を取り出す。 89 椅子から立ち上がり、適当な的を探した。ふと、動くものが見え た。 上で見かけた婦警だ。十メートルぐらいの距離にいる。こちらを 見るでもなく、ただふらふらと目の前を横切っていく。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 無言で撃鉄を上げ、拳銃を構える。右手で構えて、左手で支持。 ターゲットに、銃身前後の照星と照門を合わせる。その先には、婦 警の虚ろな顔があった。 息を止めながら、じっと狙う。 数秒間、ガンサイトはずっと婦警を追っていたが、やがて雄介は 息を吐き出した。 ﹁⋮⋮ふー﹂ 照準をずらし、近くのポスターに写るマスコットキャラの眉間に 向けて、トリガーを引く。 パン、という破裂音。 反動で手がぶれ、銃痕はポスターを盛大に外していた。かすかな 硝煙の臭いがあたりに漂う。 ﹁これ難しいぞ⋮⋮﹂ 拳銃を見つめながら、雄介はつぶやく。 反動はそれほどきつくないが、ベクトルを体で抑えこまないと、 銃口がぶれてしまう。弾はあるのだし、もう少し練習する必要があ るだろう。 手のひらにじんわりと残る、暴力が発露する感覚を噛みしめなが ら、雄介は拳銃をホルスターに戻した。 90 17﹁深月の乱心﹂◆ 警察署で物資を手に入れてから、一週間ほど。 雄介は自室のテーブルに地図を広げ、マーカーで書きこみをして いた。市で配布される詳細な地図で、町内の各戸の名前も一つ一つ 書かれている。 スーパー、食料品店などには赤で丸をつけ、電気店や工具店、ホ ームセンターなどにも印をつけていく。 ﹁ここからここまでは無人と⋮⋮﹂ 駅前の商店街に、青で斜線を入れていく。 塗りつぶされた箇所は、マンションの周囲からスーパーや避難所 までの道のり程度で、それほど多くない。チェックした住宅地は大 きな道路のそばぐらいで、他はあまり手をつけていなかった。 車で通行できない道も、×で記していく。それほど多くはないが、 迂回路を取るときの参考になる。 ﹁町内でもけっこう広いもんだなあ⋮⋮﹂ これが市内まで広がると、到底一人では探索しきれないだろう。 数年単位の仕事になってしまう。 続いてPCを立ち上げ、ゾンビたちから回収したGPSロガーを USBポートに繋ぐ。中のデータを取り込み、地図ソフトの地形上 に読みこませる。 連続的な位置データが、地図の上にプロットされた。 そのルートは、駅のホームから自宅とおぼしき場所まで、寄り道 をしながらも、おおむねまっすぐに移動していた。 91 ﹁やっぱ帰る場所は同じか。偶然じゃないなこりゃ﹂ ロガーのタグ番号を見て、同じ個体の前日のデータもプロットす る。GPSの性質上、屋内のデータにはぶれが入るが、おおむね似 たようなルートを取っている。 これらは、駅のホームのゾンビたちのものだ。毎朝同じ顔ぶれだ ったので、気になってデータを取ってみたのだ。 雄介は他の個体のルートも確認していった。それらはすべて、前 日と同じようなルートを取っていた。 寄り道をすることはあるが、帰る場所は同じだ。朝になると家を 出て、昼間から夕方にかけては駅の周辺でふらふらし、夜になると 帰宅している。 ﹁死んだあとも電車通勤かよ。救われねえなあ⋮⋮﹂ 生前と同じような行動をしているゾンビがいる、というのは確か なようだ。 しかし、同じ時間に同じ場所で見かけるゾンビは、それほど多く ない。すべてのゾンビがパターンを作るわけでもないのだろう。 なぜそんな違いが出てくるのかは、わからない。 パターンを取るゾンビたちの年齢、性別は様々だ。初期感染者が パターンを取る⋮⋮というわけでもなさそうだ。 ﹁ふー⋮⋮﹂ 椅子の背もたれに背中を預け、伸びをする。 気分転換にウインドウを切り換え、ネットワークカメラの受信画 面にする。マンションの中の様子が、三画面で映っていた。 マンションのいくつかのポイントに、サーバー機能付きの無線L 92 ANカメラを偽装して置いておいた。電源は延長コードで適当に引 っ張っている。 動体感知でアラームを発生させて警戒網にしようかとも思ったが、 ゾンビが引っかかってまるで使い物にならない。マンションの中に 生存者がいないのは確認しているし、カメラは念のためでしかない。 映像を次々と切り換えるが、特に変わったところはない。マンシ ョンの中をうろつく、いつものゾンビしか映っていない。それを確 認し、ウインドウを閉じる。 日付を見ると、前回深月たちの所に行ってから三日たっていた。 ﹁あいつらにやらせることも考えないとな⋮⋮﹂ 雄介は、深月たちを労働力として使うことを考えていた。 女子供で重労働には使えないが、反乱の危険も少ないとも言える。 そう考えると、悪くはない資源だ。 子供でも、水やりぐらいはできるだろう。屋上に菜園を作らせて もいいかもしれない。器具を持ち込めば燻製もできる。無線の傍受 もだ。機器につきっきりになるから、それを代わりにやらせれば、 雄介は他のことに時間を使える。食料と引き換えなら、何でもやる だろう。 それらの仕事が軌道に乗るまでは、体で払わせるしかない。雄介 は席を立ち、深月たちのところに向かった。 二回目はまだぎこちなかったが、三回目になると、深月はすでに、 淡々と手ですることを受け入れていた。 いつもと同じ男子トイレで、深月は目を伏せ、雄介のものに手を 馴染ませている。粘液が伸び、白い指を汚していく。 硬く勃起したものを手のひらでやわやわとなぶり、指先でえらの 93 部分をくすぐっていく。左手で竿を包み、人指し指の腹で裏筋をな ぞるように、くにくにと刺激する。その快感に息を吐きながら、雄 介はつぶやいた。 ﹁ずいぶん素直だな⋮⋮﹂ 深月はぼんやりとしたまま手を動かしていたが、ふと雄介の言葉 に気づいたように、顔を上げた。 ﹁⋮⋮弟のおしめ、私も代えていたので﹂ その言葉に雄介が怪訝な表情を浮かべると、深月はうつむき、 ﹁介護だと思えば、別に⋮⋮﹂ 排泄介助のようなものだと、暗に言っているらしい。 ﹁介護かよ⋮⋮﹂ 糞のついたおしめを代えていたのだから、これぐらい何でもない とでも言いたいのかもしれない。自分を上に置き、雄介を下に置く。 いびつなプライドの再構築の仕方だった。 ︵どんだけプライド高いんだよ⋮⋮︶ 深月は視線を落とし、雄介のものに指をねっとりと絡め、 ﹁⋮⋮⋮⋮早く出して、ください﹂ 雄介は無言で深月を抱き寄せた。壁に押さえつけ、体を密着させ 94 る。ジーンズのボタンを外し、膝までずり下ろした。白い太股と、 ドット柄のショーツがあらわになる。 深月はびくりと震えたが、逃げることはしなかった。ものを両手 で握らせたまま、雄介は腰を前後させる。深月の内腿になすりつけ るように、圧迫していく。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は目を閉じ、手でしごくのを再開した。根元から、先端まで、 ぬるぬるになった十本の指を絡みつかせ、自分の太股への射精をう ながすように、雄介の感じる部分を刺激していく。 深月の体を抱きしめながら、根元にこすりつけているうちに、限 界が訪れた。太股の柔らかい部分に押しつけ、びゅる、びゅると、 どろどろしたものを吐き出していく。深月の肌が白いもので汚され ていく。 溜まったものをひとしきり出し終わると、雄介はゆっくりと体を 起こした。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月が何かをつぶやいたが、聞き取ることはできなかった。雄介 の方を見ることもなく、淡々と、トイレットペーパーで太股の汚れ をぬぐっていた。 身支度する深月を後に残し、気だるい気分で部屋に戻ったところ で、弟の一人とぶつかりそうになった。お菓子のおまけのミニカー を並べて遊んでいたらしい。 男の子は慌ててミニカーを片づけようとするが、 95 ﹁いい、いい。遊んでろ﹂ 雄介がまたいで乗り越えようとしたところで、男の子のお腹がぐ う、と盛大に鳴った。 雄介は怪訝に思いながら、 ﹁お前どっちだっけ。隆司か?﹂ 小さくうなずいた。 ﹁食い物いっぱいあっただろ? 俺が持ってきたのはどうした?﹂ 隆司はふるふると首を振り、おずおずと言った。 ﹁⋮⋮ごはん、大切だから、節約する﹂ ﹁ふーん⋮⋮。それは姉ちゃんが言ったのか?﹂ 隆司はこくりとうなずいた。 ﹁まあ⋮⋮節約はいいことだな﹂ 命をかけて食料を取りに行っている、という言葉を重く考えたの かもしれない。それとも、代価を差し出す機会をできるだけ少なく するためか。普通に考えて後者だろう。 雄介はソファーに腰を下ろし、ミニカーで遊ぶ隆司の様子をなが めた。 すきっ腹を抱えながら、一人でおもちゃで遊ぶ子供の姿を見てい るうちに、ふと既視感に駆られた。差しこむ夕焼けの中、シルバー センターから帰る祖父を待ちながら、安物のおもちゃで遊ぶ小さな 96 子供の姿。 雄介はぼんやりと、目の前の子供を見つめていた。 不意に、ミニカーで遊んでいた隆司が顔を上げた。 部屋に入ってきた深月は、奇妙に虚ろな瞳をしていた。こちらに 一瞬だけ視線を走らせたあと、隆司に視線を戻す。 ﹁まーくんは?﹂ ﹁えっと、あっち﹂ 会議室の方を指さす。 ﹁じゃ、いこっか﹂ 二人は仲良く手を繋いで、部屋を出て行った。 取り残された雄介は、ソファーの背もたれに後頭部を乗せ、小さ くため息をついた。 残る理由もなく、雄介はすぐにその場を後にした。 一階に下り、裏口から出ようとしたところで、足を止める。 ﹁バッグ忘れてるし⋮⋮﹂ バックヤードに戻り、エレベーターの方へ向かう。通路を曲がっ たところで、その光景が目に入った。 エレベーターの扉が、ゆっくりと開こうとしていた。 ﹁⋮⋮は?﹂ 97 思わず立ち止まる。 エレベーターの中から、深月が顔を出した。自前のバッグを持ち、 雄介のフィールドバッグを肩からぶら下げている。 後ろに弟二人が続き、そちらも小さなリュックを背負っていた。 武器も持たず、まるでピクニックにでも行くような格好だ。 ﹁おい、何やってんだ?﹂ 雄介の声に、深月がびくりと振り向く。 こちらに気づくと、反対方向に急いで離れはじめた。弟二人は不 思議そうな顔をしていたが、深月が二人を引きずっていく。 ﹁どこ行く! あぶねえぞ!﹂ 帰ってきたのは、﹁家に帰るの!﹂という怒声だった。 98 18﹁ゼロデイ﹂ 午後七時すぎ、弟たちをお風呂に入れたあと、深月は二人の頭を ふいていた。 ﹁待って、まだ乾いてないよー、ほらほら﹂ 弟たちは歓声を上げながら、お互いに叩きあっている。ぺちぺち と音が鳴るのが楽しいらしい。深月は苦笑しながら、湿気をふき取 りパジャマを着せて、リビングに連れていった。 キッチンから牛乳を取り出し、三つのコップに注いでいく。その とき、リビングにいる父親の声が聞こえた。 ﹁暴動⋮⋮?﹂ ﹁えっ?﹂ ﹁いや、ニュースが⋮⋮﹂ ニュース番組を眺めていた父親が、怪訝な声で言った。 後ろからテレビをのぞいてみると、緊急ニュースのテロップが流 れていた。横から渡された原稿を、キャスターが抑揚のない声で読 み上げはじめる。 首都圏の駅周辺で、大規模な暴動が発生、死傷者が若干名出てい る模様、と。 ﹁母さん、おいで。暴動らしい。緊急ニュースだ﹂ ﹁⋮⋮あら、本当ですか?﹂ 母親がキッチンから顔を出す。 99 三人が見守っている間に、次々とニュースが入ってきた。首都圏 に限らず、暴動は各地の都市で起きているようだった。原因は不明。 死傷者も不明。 ﹁日本で暴動なんて⋮⋮﹂ 母親が心配そうにつぶやく。 続くニュースの中で、聞き覚えのある地名が読み上げられた。電 車で五駅ほどの場所で、この近辺の都心部にあたる所だ。 父親が呆然と、 ﹁すぐ近くじゃないか⋮⋮﹂ そのとき、ひどく不快なサイレン音が、家の外から響いてきた。 毎日夕方五時に童謡を流している、市のスピーカーだ。 こもっていて聞き取りにくく、普段はろくに意識もしないものだ が、そのときは三人とも、じっと耳を澄ませた。 テレビの音を消し、動きを止めて、続く言葉を待つ。 途切れ途切れに聞こえてきたその放送は、今すぐ指定の避難所に 避難しろ、ということを伝えていた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ リビングは沈黙に包まれる。 父親が立ち上がって、 ﹁母さん、準備しよう。避難用のリュック、あったよな? 深月は 隆司たちの面倒を見てくれ﹂ ﹁は、はい﹂ 100 慌てて母親が立ち去る。 深月は不安に駆られながらも、避難は大げさではないかと思った。 災害などのニュースは入っていないし、暴動が起きているといっ ても、ここからはずっと遠い。ここまで押し寄せてくるとは思えな かった。 とはいえ役所のやることなのだし、避難しろと言われたら、避難 しておくべきなのだろう。 まさる 弟たち二人を子供部屋に連れて行き、パジャマから外着に着替え させる。弟の一人、優が深月を見上げて言った。 ﹁暴動ってなに?﹂ ﹁え? うーん⋮⋮人がいっぱい暴れてるの。すごい喧嘩、かな?﹂ ﹁けんかしてるんだ﹂ ﹁うん。喧嘩はよくないね。さ、二人ともリュック持ってね。今か らお出かけするから﹂ ﹁うん﹂ リュックに着替えやタオルを詰めて、深月も自分の荷造りをする。 バッグを肩にかけ、一階に下りた。 下では、父親がガレージから車を出す準備をしていた。電動シャ ッターを開けて、車のエンジンを入れている。ライトが暗い私道を 照らしていた。 それを見て深月は意外に思う。避難所は近くの小学校で、それほ ど遠くない。歩いても十分ぐらいだ。 ﹁車で行くの? 歩いて行った方が⋮⋮﹂ ﹁どうも嫌な予感がするんだ。急いだ方がいい﹂ ふと、ライトの先に、不安そうな顔をした男が顔を見せた。隣の 家のご主人、高崎さんだ。 101 父親はエンジンをつけたまま車を降り、高崎さんと何事かを話し こみはじめた。 ﹁深月!﹂ あつし その声に振り向くと、背の高い黒髪の少年が立っていた。高崎家 の一人息子で、深月の幼なじみの敦史だ。 ﹁あっくん⋮⋮﹂ ﹁そっちも避難するのか? なんだろな、暴動って﹂ ﹁うん⋮⋮わからないけど。お父さんが念のためって﹂ そのとき、母親が家の戸締りを終え、ガレージにやってきた。手 にはカンパンやビスケット、缶詰といった非常食と、水筒を持って いる。 ﹁あら、敦史君、こんばんは。大変なことになっちゃったわね。深 月、これをリュックにお願い﹂ 言われるままに、自分のバッグと弟のリュックに詰めていく。水 筒は弟二人に持たせる。 ﹁じゃ、俺も戻る。また後でな﹂ ﹁うん﹂ 深月は笑って手を振る。避難所でも隣同士になるだろう。少し不 安が薄れるのを感じた。 ふとドライヤーを入れ忘れたのを思い出し、深月は取りに戻ろう か迷う。寝癖のついた髪を見られるのは困る。 そのとき父親が話を切り上げて、車に戻ってきた。 102 ﹁高崎さんちも一緒に避難するそうだ。すぐに出よう﹂ 深月はドライヤーを諦め、弟と一緒に、後部座席に乗りこんだ。 続いて母親が助手席に座る。父親のシートベルトのチェックのあと、 車は出発した。 小学校まで半分の道のりのところで、車は進めなくなった。ひど い渋滞が起きていたのだ。向こうの通りまで、ずっと車が繋がって いる。クラクションがなり、怒鳴り声が聞こえる。さっきから一歩 も進んでいない。 何か、妙な、ざわついた気配があった。見えない近くで、火事が 起きているような、そんな浮ついた気配が。 ﹁⋮⋮無理だな。ここからは降りていこう﹂ 車を切り返し、そばの店の前に止めて、五人は外に出た。 車内にキーが刺さったままなのを見て、 ﹁お父さん、キーは?﹂ ﹁放っておいていい! 動かせないと他の人が困る﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ 盗られたりしないかな、と心配になったが、深月は大人しくうな ずいた。車を乗り捨ててまで近くの小学校に避難するということに、 いまだに実感が湧かなかった。 そこに駆け寄ってくる人影があった。敦史だ。 103 ﹁深月! 車いいのか?﹂ ﹁うん。急ぐからって﹂ 父親が敦史に気づき、 ﹁敦史君、君一人か? お父さんたちは?﹂ ﹁車、家に戻してくるそうです。進めなさそうだから。俺だけ先に 行くことにしました。ご一緒していいですか?﹂ ﹁そうか⋮⋮じゃあ、一緒に行こう﹂ 高崎家の車が、反対車線にUターンして、元の方向へ戻りはじめ た。それを父親は悩むような表情で見つめている。自分の判断に迷 っているのだろうか、と深月は思った。 次の瞬間、車の先の側道から、何人もの人影が飛び出してきた。 そこに車がもろに突っこむ形で、ドンという鈍い音が響く。フロン トにぶつかり、人が将棋倒しのように倒れる。 車はがくんがくんと車体を揺らしながら、倒れた人たちの体に乗 り上げ、止まった。 ﹁やった⋮⋮﹂ 父親が呆然とつぶやく。 車の下から血溜まりが広がっていく。 ﹁え⋮⋮﹂ 状況についていけず、声を漏らす敦史。 目の前で、親が人をはねたのだ。 ﹁行くぞ! 助けないと!﹂ 104 父親の声に、深月は我に返る。 慌てて駆けだそうとして、その先の光景に凍りついた。 車のドアを開け、倒れた人たちの前でおろおろしていた高崎夫婦 に、側道から走ってきた男たちが飛びかかったのだ。 夫婦は地面に引きずり倒された。悲鳴が上がる。男たちは狂気染 みた動きで腕を叩きつけ、押さえつけ、夫婦の顔面に噛みついてい た。 ﹁な⋮⋮﹂ 思わず足が止まる。 ﹁なん、だ⋮⋮?﹂ 呆然とした父親の声が漏れる。 視線の先ではぞくぞくと人影が現れていた。血まみれだったり、 骨が折れている者もいる。雰囲気がどこか普通ではなかった。 すぐそばで女の悲鳴が上がった。 振り返ると、五メートルと離れていない側道の陰から、人の集団 があふれ出てきた。一様に目は虚ろで、病人のようにふらついてい る。 次の瞬間、それまでの緩慢さが嘘のように、集団が動きはじめた。 手当たり次第に、車列の中にいた人間に襲いかかっていく。 深月は硬直したまま、自分に向かってくる中年の女を見つめてい た。普段ならすれ違っても気にも留めないような、普通のおばさん だ。両手をだらりと下げたまま、早歩きで近づいてくる。口元と両 手は真っ赤に染まっていて、目は虚ろだった。 その手が自分の体に伸びてくる寸前、 105 ﹁逃げろっ!﹂ 父親が女に体当たりする。女は車に叩きつけられ、ふらつきなが ら起き上がろうとしていた。 周りで悲鳴が上がり、捕食動物に襲われた野生の群れのように、 人ごみが散らばる。 深月は本能的に周囲を見回し、車の間で立ちすくんでいる弟たち を見つけた。二人の手を捕まえ、その手を握りしめると、人ごみの 流れに押されるように、深月は逃げ出した。 106 19﹁集団篭城﹂ 寒さに目が覚めた。 両脇には、弟二人がくっついて寝ている。その体温を感じながら、 深月はぼんやりと周りを見回し、見覚えのない部屋の様子に困惑し た。 デスクの並ぶ事務所の隅で、三人は座りこんでいた。下にはクッ ションがひかれている。 ︵あ、そうか⋮⋮︶ 断片的なイメージが浮かんでくる。 暗い夜道を、弟の手を引いてずっと逃げていた。前を走る人の背 中をただひたすら追って、どこをどう曲がったのかもわからない。 広い駐車場のような場所に出て、周りから迫ってくる人影に追い立 てられるように、スーパーの中に逃げこんだのだ。 一階には何人かの従業員がいた。ぐずぐずしていた買い物客を、 外に避難させようとしていたらしい。集団で押しかけてきたこちら に、奇異の視線を向けてくる。 警備員が肩を怒らせながら近づいてきて、 ﹁ちょっと! なんですかあんたら!?﹂ 言いながら、その言葉の途中で、警備員は視線を別の方向に向け る。自動ドアの外に、ぞくぞくと人影が集まっているのに気づいた ようだ。群衆はガラスにべったり張りつき、ドアが開くと、つんの めるようにしてなだれこんでくる。 警備員が焦った声で、 107 ﹁おいシャッター閉めろ! シャッター!﹂ その声を背中に聞きながら、深月は前の人を追って、階段を駆け 上がる。とにかく安全な場所に、とそれしか考えられなかった。遠 くから悲鳴が響く。 関係者以外立ち入り禁止、という立て札の横を、三階まで登る。 奥に一人だけいた従業員のおじさんは、監視カメラで店内の様子を 見ていたらしい。顔を青くしながらも、深月たちを収容すると、三 階の防火扉を閉めてくれた。 そこまでたどり着けたのは、七人だけだった。 深月たち三人、若いカップルの二人、痩せた三十ぐらいの男、中 年のおばさん。従業員のおじさんを合わせても八人だけだ。 ︵お父さんたち、大丈夫かな⋮⋮︶ 携帯を取り出してリダイヤルするが、昨日と同じように、ずっと 呼び出し音が鳴るだけだ。画面を見ながらぼんやりと物思いにふけ っていると、遠くから響く物音に気づいた。人の声もする。 弟たちを起こさないようにして、そっと抜け出す。廊下に出て、 音の方へ向かう。 ガンガンと外から叩かれる防火扉の前で、従業員のおじさんが声 を張り上げていた。 ﹁落ち着いてください! 何があったんですか? 落ち着いて! 中に入れてほしいならそう仰ってください!﹂ その言葉にも返答はなく、防火扉からは、鈍い乱打の音が聞こえ てくるだけだ。 108 ﹁あ、あの⋮⋮﹂ 深月に気づき、おじさんが振り向く。 ﹁ああ⋮⋮これ、昨晩からずっとなんだ。返事がないから、入れな いようにしてるんだが⋮⋮﹂ ﹁い、入れないでください! 普通じゃなかったです、絶対﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ 腕組みをしてため息をつく。 ﹁子供たちは起きたかな? 備蓄食料はあるから、食べる物がない なら言ってください。十人で三日分はあるから﹂ ﹁ありがとうございます。一応保存食はあるので、なくなったらお 世話になります﹂ 深月は頭を下げる。 ﹁うん、こんなものすぐ治まる。警察が来るまでの辛抱だ﹂ だが、三日たっても救助は来なかった。 防火扉の乱打音は小さくなっていたが、外で何者かがうごめく気 配は残っていた。 従業員のおじさんは各地に連絡を取ろうとしていたが、どこも不 通だったり、情報が錯綜していたりして、まともな連絡をつけるこ とはできないようだった。 事務所の隅に置かれたポータブルテレビは、新型狂犬病のニュー スを伝えている。感染した者を狂暴化させる疫病で、これが暴動の 原因らしい。ヘリからの空中撮影で、暴徒と化した集団が街路を埋 めつくす様子を映していた。画面にはゾンビという言葉が踊ってい 109 た。 民放のいくつかは映らず、砂嵐になっている。普通ではなかった。 事務所には閉塞感が漂っている。誰もが無言で、じっとテレビを 見つめている。カップルは隅で寄り添って、おばさんは携帯を握り しめたまま、痩せた男は距離を取って黙りこんでいる。 この三日間、閉じ込められた人間たちはお互いろくに話すことも なく、ばらばらに過ごしていた。 従業員のおじさんも、ことさらリーダーシップを取るつもりはな いらしく、食料を求められたら渡すぐらいだった。 臨時政府が発足しただとか、自衛隊の即応集団が活動を開始して いるだとか、そういったニュースが終わったあと、おじさんが言っ た。 ﹁外に救助を呼びに行こうと思います﹂ その言葉にも、反応は起きない。みんな無言で、探るような視線 を向けている。 ﹁SOSの布を、屋上から吊るしておきました。警察にもここの事 を知らせますので、安心してください﹂ そういって出て行くおじさんに、声をかけようとする者はいなか った。 ﹁あのっ﹂ 深月の声に振り向く。 ﹁大丈夫ですか⋮⋮? 危険じゃ⋮⋮﹂ 110 おじさんは困ったような表情で、 ﹁⋮⋮家族が、連絡が取れなくて⋮⋮心配なんだ﹂ その言葉に、深月は何も言えなくなった。 おじさんは帰ってこなかった。救助の気配もなく、五日目にはテ レビが映らなくなった。それまではテレビを見るために、それなり に事務所に人が集まっていたが、それも無くなった。 リダイヤルを続けていた携帯のバッテリーは切れ、充電器もない。 家から持ち出してきた食料が半分を切ったところで、これ以上食 べるのは危険だと判断した。事務所の備蓄食料が置いてある、隅の ロッカーをのぞきこむ。夜食らしいカップ麺などを合わせても、三 分の一ぐらいに減っていた。二人分の量を持ち出し、弟たちと三等 分して食べることにする。 給湯室に行き、飲み物を入れようとしたところで、先客がいた。 カップルの女の方だ。 ﹁あ⋮⋮カップ、お借りしてもいいですか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 女は答えない。無言で、ポットからお湯を注いでいる。 ﹁あの⋮⋮﹂ ﹁勝手にすれば? 私のじゃないし﹂ そう言って背を向け、女は出て行った。 深月はしばらく無言でいたが、一つため息をつき、身をかがめて 111 カップを取り出した。 次第に時間の感覚がなくなっていった。減っていく食料だけが、 まさる また一日終わったことを知らせている。 夜半、尿意を覚えた弟の優に起こされ、深月は付き添って男子ト イレに向かった。 照明は点けっぱなしのため、廊下は明るい。トイレの入り口で優 を待っていると、かすかな声が聞こえた。首を傾げ、そちらの方に 耳を澄ます。 奥にあったのは更衣室だ。声は中から聞こえてくるようだった。 数歩近づいたところで、それが女の喘ぎ声であることに気づいた。 何かをぶつけるような音も響いている。 ︵!︶ 深月は息を止め、後ずさった。 あのカップルが中にいるのだ。更衣室だから鍵もかけられる。 頬が紅潮するのを抑えながら、深月はトイレの前に戻った。 ちょうど中から出てくる気配にほっとしながら、声をかける。 ﹁まーく、ん⋮⋮?﹂ そこにいたのは弟の優ではなく、あの痩せた男だった。落ちくぼ んだ、ぎょろりとした目でこちらを見つめている。 ﹁あ⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 112 男は不躾に、深月の体を眺めまわした。体の上を這うようなその 視線に、深月は鳥肌が立つのを感じた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 男は無言で去っていく。深月は自分の腕を握りしめたまま、胸の 奥に危機感がわき上がるのを感じた。 おそらく救助は来ないだろうと、深月は悟りはじめた。 事務所の食料はもうない。手持ちのカンパンなどで、三人は細々 と食いつないでいた。お湯は沸かせたので、ミルクと砂糖を溶いた もので空腹を紛らわせていたが、それも遅かれ早かれ限界が来るだ ろう。 食料以外にも危険はあった。 夜中、眠っているときに、妙な気配で目が覚めたのだ。ふらつく 頭で身を起こすと、すぐそばから足音が聞こえてきた。 慌てて視線を向けると、こちらから離れていく男の背中が見えた。 そのまま、部屋の外に消える。 その光景の意味が、深月の中で形を結ぶと、ぞっとしたものが背 中を這い上がった。深月のそばに男がいて、深月が起きるのを見て 離れていったのだ。 自分は何をされようとしていたのか。 起きなかったらどうなっていたのか。 ここに残るのは危険だった。 といって、弟たちを連れて、一人で外に行く勇気はない。防火扉 に近づくと、今でも何かが外からぶつかってくるのだ。それが何な のか、深月は考えたくなかった。 テレビも砂嵐のままで、事務所の電話はどこにも繋がらない。外 113 が安全とは、楽観的にも思えない。 あのカップルか、おばさんが出て行くときに、自分たちも一緒に 連れていってもらおう。 そう決心して眠った日の、翌朝。 フロアには、奇妙に人の気配が薄かった。事務所にいたのは痩せ た男一人だけで、どこにも人の姿がなかった。 気は進まなかったが、深月は聞いた。 ﹁あの⋮⋮他の方々は⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮ああ。出てった﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁今朝。三人で。エレベーターで﹂ 深月は無言でいた。 子供が二人いて、足手まといと思われたのかもしれない。 だが、取り残されたというショック以上に、 ︵なんで、この人は残ったの⋮⋮?︶ 悪寒に似たものが、深月を襲った。 男は椅子に腰掛け、デスクに足を乗せ、宙をぼんやりした目で見 つめている。 奇妙な存在感があった。それまでの、隅で一人でいるような雰囲 気はなかった。まるでこの場所の主人であるかのように、くつろい でいるようにさえ見えた。 その日、何度も男からの、粘つくような視線を感じた。振り返る と目をそらすが、明らかにこちらを向いていた。 胸の奥の本能が、早鐘のように警鐘を打ち鳴らす。 ︵怖い、怖い、怖い︶ 114 外に出たい。家に帰りたい。しかし、その勇気はない。アレがう ろつく扉の外に出ていった人たちは、誰も帰って来なかった。 その日、深月は弟たちとずっと離れずにいた。夜は更衣室に移動 し、鍵を閉めて、三人で固まって眠りに落ちた。 ガチャ、という音に目を覚ます。 ぼんやりと浮上していく意識の中、ドアノブが何度も回されてい るのが目に入った。 ﹁っ⋮⋮!﹂ 深月は恐怖に硬直する。 絞り出すような声で、呼びかけた。 ﹁なん、ですか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ しばらくの沈黙のあと、扉の外から男の声で、 ﹁⋮⋮食べ物見つけたから、わけてあげる﹂ ︵こんな夜中に?︶ 深月はその思いは口には出さず、 ﹁あ、ありがとう、ございます。明日、いただきます﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ガチャガチャと、再びドアノブが回される。 深月は悲鳴を呑みこみ、無言で自分の体を握りしめた。 弟たちも目を覚まし、その様子を見つめている。声も上げずに、 115 深月にしがみついてくる。 数分間、それが続いたあと、ようやくドアノブが止まった。 ドン、と扉が蹴られる。 男の足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。 ﹁⋮⋮⋮⋮はぁっ、はぁっ、はぁっ﹂ 止めていた息を吐き出し、深月はあふれ出る涙をぬぐった。 弟たちが、心配そうにこちらを見上げてくる。 ﹁ご、ごめんね。お姉ちゃん大丈夫だから⋮⋮﹂ 恐怖を紛らわすように、二人の弟を両腕で抱えこむ。その温もり にすがりながら、 ︵お父さん⋮⋮あっくん⋮⋮助けて⋮⋮︶ 朝が来ても、半日は更衣室を出られずにいた。 しかし、そのうち尿意と喉の渇きが耐えがたくなり、恐る恐る、 外の様子をうかがった。 物音はせず、人のいる気配もない。 三人で固まって各部屋を見てまわっても、誰もいなかった。 フロアには、深月たちだけが取り残されていた。 116 20﹁希望的観測﹂ デスクの中にあった飴玉まで食べつくし、給湯室の砂糖やミルク もなくなって、深月たちはフロアの一番奥の部屋にこもっていた。 最後の食料はほとんど弟たちにわけたため、深月は空腹で力が入 らず、身を起こすのも億劫だった。 弟に揺り動かされても、深月はなかなか起き上がれない。ぼんや りした視界で、隆司を見つめる。その指さす方に視線を動かすと、 あの男が立っているのが見えた。 反射的に悲鳴を上げそうになるが、その機先を制すように男が手 を上げ、口を開いた。 怪しいものじゃない、と。 その言葉に、深月は口ごもる。 よく見れば、男の顔には見覚えがなかった。別人だ。 黒髪の、特徴のない顔だちで、やや目つきがきつい。今は物を観 察するような、不思議な表情を浮かべている。 男は肩のバッグを床に置き、﹁ご飯食べる?﹂と言った。 それからは、流されるように状況は変わっていった。 食料の心配はなくなり、時間だけが有り余るほど残った。 その時間が、深月の心を千々に乱れさせる。 ソファーに体をもたれかけさせ、ぼんやりと弟たちの様子をなが めながら、深月の精神は遊離していった。 自分が食料のために男のものを慰めている、という事実に、現実 感がわかない。 今見捨てられたら確実に餓死する、という切迫した感情が、男の 117 ものを手で処理して食料を貰う、という行為を取らせた。しかし、 それが深月の心に納得をもって定着することはなかった。 ︵どうして⋮⋮︶ 初めてのときは、必死なうちにすべてが終わった。 二回目は、まるで視界に膜がかかったように、現実感がなかった。 なぜ自分はこんなことをしているんだろう。 男子トイレで、男の硬いそれに指をからませながら、深月はそん な思いに駆られる。自分で言い出したこととはいえ⋮⋮。 食料を手に入れるためには、それをするしかない。拒否すれば、 簡単に見捨てられるだろう。目でわかる。あの男は、深月にあまり 執着していない。粘つく視線で追いまわされるような、あの感じが なかった。 男の視線なら、深月は日常的に感じていた。後輩の男子からの媚 びるようなまなざしや、幼なじみから時おり感じる、オスの視線。 そのかわし方を、深月は本能的に知っていた。 しかし、あの、深月を無価値とみなすような、冷たい視線は⋮⋮。 あの痩せた男のように粘性の目で迫られたら、餓死しようとなん だろうと、深月は拒否していたかもしれない。襲われる、という本 能的な恐怖から、逃げ出していただろう。 ︵それを⋮⋮︶ ひどく冷徹な取引を持ちかけてきた。 代わりに傷ついたのは、深月のプライドだ。 しかし、弟たちと一緒に生き延びるために、拒否はできない。 恐怖はない。あるのは、それを受けざるを得ない状況に対する怒 りだ。 不意に疑問がわきおこった。 118 ︵本当に、外は危険なの?︶ その疑問は、思考の片隅からじわじわと広がっていく。 ︵なんであの人は、あんなに簡単に出入りできるの? 危険って言 ってるのに、なんであんなにいっぱい食料を持ってこれるの?︶ そもそも、雰囲気がおかしいのだ。この事務所に閉じこめられて いた人たちは、みんなピリピリしていた。不安、絶望、閉塞感。そ ういった気配が、あの男からはまったく感じられなかった。 もうすでに、暴徒はいなくなっているのではないか。 それを黙っていて、自分に都合のいいように話しているのではな いか。 あの苦難の夜の記憶は、もうおぼろげになっている。 ︵だっておかしいよ。ゾンビなんて⋮⋮もう街は落ち着いていて⋮ ⋮お父さんとお母さんは家で、私たちの帰りを待っているんじゃ⋮ ⋮? 方々に電話をかけて、心配して⋮⋮私たちの帰りを⋮⋮︶ 思考につられ、深月の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。 ︵私はここで一体何をしてるの⋮⋮?︶ ぐるぐるとループする思考の中で、その思いだけが大きくなって いった。 雄介のエレベーターが降りていったのを確認して、深月は部屋に 119 戻った。置き去りのフィールドバッグを見つけて、それを拾い上げ る。 ロッカーの下段に隠しておいた食料を詰めこんで、肩にぶらさげ る。自分のバッグも持ち、弟たちを振り返った。二人ともすでに準 備はできている。 ︵大丈夫⋮⋮あの人だって、あんなに簡単に出て行ったんだから⋮ ⋮︶ ﹁⋮⋮じゃ、帰ろっか﹂ 深月の言葉に、優が不安そうに見上げる。 ﹁もう帰れるの?﹂ ﹁うん。お母さん、待ってるよ。たぶん﹂ 深月はうなずく。弟たちが、しばらくぶりの笑顔を見せた。 エレベーターに向かい、手を貸してバリケードを乗り越えさせる。 下へのボタンを押し、1F、2F、3Fと、上がってくる階層表 示を見つめた。 ︵大丈夫⋮⋮ぜったい⋮⋮大丈夫⋮⋮︶ 扉が開き、三人は乗りこむ。 1Fのボタンを押すと扉が閉まり、エレベーターが降下を始めた。 独特の浮遊感を感じながら、深月はエレベーターの表示を見つめる。 3F、2F、1F。 だんだんと視野が狭くなり、周囲が暗くなる。すでに深月には、 階の数字しか見えていない。 なぜ自分は食料を持ってきたのか。 120 外が安全なら、こんなものはもう必要ないはずだ。家に帰って、 シャワーを浴びて、ご飯を食べて、それで終わりのはずなのに。 外に何があると、自分は思っているのか。 息がどんどん荒くなる。肌の泡立つような感覚が、全身を襲った。 ミスだ。 自分は致命的な間違いを犯そうとしている。 今ならまだ引き返せる⋮⋮。 まるで奈落の底に引きずりこまれるような錯覚を覚えながら、深 月はじっと祈っていた。 ︵違う⋮⋮きっと大丈夫だから⋮⋮お願い⋮⋮︶ 一階の扉が開いた。 そこには何もいない。 バックヤードの通路が広がっているだけだ。 恐る恐る、外に出る。 そこには誰もいなかった。無人だ。 深月は大きく安堵の息を吐き、バッグを背負いなおした。 ︵ほら、そうだよ。おかしかったんだ。ゾンビなんて⋮⋮︶ ﹁おい、何やってんだ?﹂ 投げかけられた声に、深月はびくりと振り向く。 曲がり角のところに、雄介が立っていた。いぶかしそうに、こち らを見ている。忘れたバッグを取りに戻ってきたのだ。 見つかってはいけない人間に見つかってしまった。 弟たちを連れて、慌てて反対方向に逃げる。 ﹁どこ行く! あぶねえぞ!﹂ 121 ︵危なくなんかない!︶ そう怒鳴りたい気持ちを抑えて、深月は﹁家に帰るの!﹂とだけ 返した。 ﹁たっくん、まーくん、お家に帰ろう!﹂ 喜色を含んだその声に、弟たちは不思議そうな顔をしながらも、 大人しくついてくる。 バックヤードの端、両開きのスイングドアを開けて。 深月は凍りついた。 その果物コーナーには、見てとれるだけで、三人はいた。 みんなこちらを見つめている。 あの夜に経験した空気。 悪意の視線。 捕食者の視線。 そんな視線が、体中に突き刺さるのを感じた。 ﹁ぁ⋮⋮﹂ 深月は後ずさる。 正面の棚の間にいた男が、ゆっくりと近づいてくる。 ﹁おじ、さん⋮⋮﹂ 深月は呆然とつぶやく。 一番最初に出て行った、従業員の男だった。 頭皮が半分めくれ、頭蓋骨があらわになっている。グレーの髪が、 耳の横で皮膚と一緒に垂れ下がっていた。目は虚ろで、胸元は乾い 122 た血で赤黒く染まっている。 どう見ても死んでいる。 思考が完全に停止した。 ﹁何やってんだ!﹂ 雄介の怒鳴り声に、男が襲いかかってくるのが重なった。 まさる 足をもつれさせ、深月は転倒する。男はその上をかすめ、奥の荷 物に突っこんで、盛大な音を立てて転がった。 他のゾンビも動き出す。 すそを引っぱられる感触に顔を上げると、小さな優が深月の腕を 引いていた。泣きそうな顔で、必死でエレベーターに連れて行こう としている。 ﹁何がしてーんだよてめーは! とっととガキを下げろ!﹂ 雄介が走りこんでくる。隆司に襲いかかろうとしていたゾンビに 体当たりをし、一緒に倒れこむ。 深月は立ち上がろうとして、腰が抜けたようにへたりこんだ。ま るで力が入らず、転げるようにしてエレベーターの方に這いずって いく。 ﹁暴れんな!﹂ 後ろからは、雄介の怒声と、激しい格闘音が聞こえてくる。 三人はやっとのことでエレベーターに乗りこんだ。 深月はがくがくと震えながらも、壁を支えにして立ち上がる。ゾ ンビともみあっている雄介を見て、 ﹁あ⋮⋮武村さん、はや、はやく⋮⋮﹂ 123 ﹁さっさと閉めろボケナス! 行け! 行け!﹂ 隆司が、ぴょんと跳んで、3Fのボタンを押した。 扉がゆっくりと閉まりはじめる。 狭くなる視界の中で、雄介はゾンビを押さえようと苦戦していた。 殺到するゾンビの圧力に負けて、ついに押し倒される。その光景を 断ち切るように、扉が閉じられた。 エレベーターの上昇音。 永遠にも感じられる時間のあと、チン、とエレベーターが鳴った。 すべてを置き去りにして、深月たちは三階にたどり着いた。 へたりこんだ深月を、弟たちが外に引っぱり出す。深月はのろの ろとバリケードを越え、壁際に座りこんだ。 しばらく、誰も口を開かなかった。エレベーターが動く様子もな い。ずっと三階に留まっている。 呆然としたまま、一時間近くがたった。 エレベーターは微動だにしない。それが下に呼ばれることはなか った。 ﹁お兄ちゃん、しんじゃった﹂ ぽつりと、優がつぶやいた。 その言葉に、固まっていたものが溶ける。深月の喉の奥に、硬い ものがせり上がってきた。 ﹁ぐっ⋮⋮ぅ⋮⋮﹂ 帰れない。みんな死ぬ。 殺してしまった。 ﹁⋮⋮ぅぇ⋮⋮ぅ⋮⋮ぐ⋮⋮﹂ 124 わかっていたのに。 ﹁ふぇ⋮⋮う⋮⋮う⋮⋮﹂ 深月はうずくまり、子供のように泣きじゃくった。 125 21﹁沈む街並み﹂ ゾンビたちがエレベーターに群がる光景を横目に、雄介は起き上 がった。 ﹁いってー⋮⋮、くそ、靴跡ついてるし﹂ 軽く服を払い、ほこりを落とす。 ﹁あいつらマジで何がしたかったんだ⋮⋮?﹂ いきなり三階から降りてきて、ゾンビに襲われて逃げ帰る。雄介 からすると、意味不明な行動にしか見えない。 ﹁とりあえず、こいつらどうにかしないとなー﹂ 目の前ではゾンビが三体、エレベーターの扉を引っかいていた。 深月たちが遠ざかったためか、体当たりは治まっている。 ﹁うーん⋮⋮﹂ 腰のホルスターに手をやる。誤射を恐れて先ほどは使えなかった が、今ならゾンビの後頭部をぶち抜いて終わりだ。 しかし、深月たちが逃げた以上、そこまでする必要があるわけで もない。床は汚れるし、死体の片づけは面倒だし、一階の防衛要員 が少なくなるだけだ。 下手に数を減らすと、万が一人間が迷いこんできたときに、食料 を荒らされる危険がある。なるべくならゾンビは残しておきたい。 126 ﹁ちょっとこっちに来てくれよ。おい、もうそこに餌はいないって﹂ 体を引っぱってどかそうとするが、ゾンビたちのしつこさは予想 以上だ。人間の残り香らしきものでも探しているのか、扉の前から 離れようとしない。 ﹁まいったな⋮⋮﹂ うんざりしながら辺りを見回すと、床に食料が散らばっているの に気づいた。深月のバッグと、雄介のフィールドバッグが転がって いる。 ﹁食料を持って逃げようとしたのか⋮⋮? ってことは自暴自棄の 自殺ってわけじゃないな。逃げられると思ったのか﹂ 雄介は首をひねる。 今回の深月の行動が、精神に異常をきたしてのものであれば、雄 介は見捨てるつもりでいた。労働力の見込みがあるとはいえ、狂人 に関わるつもりはない。 ﹁まーいいや。まずはこいつらをどけるか﹂ このまま放置しても、一週間ぐらいは平気で張りついているだろ う。出入り自体は他の階からもできるが、いちいち階段を使うのも 面倒だ。 二階の雑貨コーナーから太めのロープをいくつか拝借し、裏口か ら入れたバイクと、ゾンビの胴を結びつける。低速でエンジンを回 し、床にタイヤ跡をつけながら、じりじりと引っぱっていく。 バックヤードから売り場まで引きずり出すと、ゾンビは抵抗しな 127 くなった。そのまま二つある入り口の片方に引きずっていく。 バイクから解いたロープを、自動ドアの近くにある柵に結びつけ、 そこから一定以上は離れられないようにしておいた。他の二体も同 じように、もう一方の入り口と、裏口にくくりつけておく。 これで誰かが侵入しようとすれば、ゾンビが襲いかかるだろう。 このゾンビたちが無事なら、その入り口は安全という目印になる。 ﹁言うなれば固定エンカウントだな﹂ 自動ドアの近く、外からは陰になっている場所に繋がれたゾンビ を見て、雄介は満足そうにうなずく。 ﹁って言っても⋮⋮﹂ 駐車場や周りの道路には、だいたい十人近くのゾンビがうろつい ているし、一階の売り場にも、まだ三、四人はゾンビがいる。先の 例にならえば、ワンダリング・モンスターだ。 この中を突っ切ってくるには、それなりの人数か、武装が必要だ ろう。周囲の探索でもそんな気配を感じたことはなく、あまり不安 視しているわけではなかった。 ﹁実際、ゾンビの戦闘力ってどれぐらいなんだろうな﹂ 鈍いゾンビなら、斧か何かで頭を一撃すれば終わるだろうが、素 早いゾンビとなると⋮⋮。 拳銃のある雄介でも、向かってくるゾンビを遠距離で仕留めるの は難しい。動く頭を狙えるほどの腕はないし、胴を狙っても大して 足止めにならなそうだ。 最初の一撃を何かで受け止めて、動きが止まったところで頭部を 撃ち抜く。 128 雄介の腕では、拳銃は、破壊力のある近接武器として使う方が良 いだろう。 ﹁なんか刃物も見つけないとな﹂ 鉈か山刀、あるいはナイフ。手早くゾンビを処理しないといけな くなったときに、一つあれば便利そうだ。 そんなことをつらつらと考えながら、一仕事終えたころには、空 は赤みがかってきていた。 雄介はエレベーターの前に戻り、床の荷物を回収し、上へのボタ ンを押した。 部屋に入った雄介に、最初に気づいたのは弟たちだった。目を丸 くし、それからやけにキラキラした目でまとわりついてきた。 深月について聞くと、奥の執務机を指さした。 机にまわりこみ、下をのぞくと、深月は三角座りをして、顔を膝 にうずめていた。 ﹁何やってんだよお前は⋮⋮﹂ あまりな光景に、雄介は脱力する。 深月は顔を上げ、バッグをかついだ雄介に気づき、呆然とした表 情で固まった。泣き腫らしたように目は赤くなっている。 ﹁ぁ⋮⋮え⋮⋮なん、で⋮⋮?﹂ 深月は漏らすようにつぶやく。 129 ﹁なんでじゃねーよ。お前何がしたかっ⋮⋮﹂ そこで、こちらを見つめている弟二人の視線に気づく。 雄介は身を起こし、バッグを二人の前に置いて言った。 ﹁お前ら、まだ飯食ってねーな? 節約とか気にしねーでいいから 適当に食っとけ。開け方わかるな?﹂ 二人はこくこくとうなずく。 ﹁よし。こっちは姉ちゃんと大事な話あるから、邪魔すんなよ﹂ 弟たちの視線を背中に感じながら、雄介は深月を引きずって部屋 を出た。深月は力なく、されるがままになる。 事務所の外に出て、通路まで来たところで、二人は向かい合った。 ﹁で? 何であんなことしたんだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月はうつむいたまま答えない。 ﹁なんか言え。お前ら死にかけたんだぞ﹂ ﹁⋮⋮ぃ⋮⋮ない⋮⋮て﹂ ﹁もっと大きい声出せ﹂ ﹁外⋮⋮安全かと⋮⋮思って⋮⋮﹂ ﹁はあ?﹂ ﹁お父さん⋮⋮お母さん、家で待ってるから⋮⋮帰ろうって⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は黙りこむ。 130 深月も口を閉じ、しばらくどちらも沈黙していた。 やがて、雄介がゆっくりと口を開いた。 ﹁⋮⋮電話が繋がるか確認はしたのか? 事務所に電話あっただろ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は首を振る。 ﹁屋上から街の様子は見たか? 安全になってるかどうか確認しな かったのか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は首を振る。 ﹁先に一人で降りて、下の様子を見ようとは思わなかったのか? なんでガキども連れてった﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は無言でうつむいている。 雄介はため息をつき、頭をかいた。 ﹁⋮⋮だって!﹂ 深月が癇癪を起こしたように叫ぶ。 ﹁ゾンビなんて! そんなの⋮⋮あるわけ⋮⋮﹂ 最後の言葉は消え入りそうで、ほとんど泣き声になっていた。 ﹁⋮⋮お前ちょっとこっち来い﹂ 131 雄介に手をつかまれても、深月は抵抗しなかった。 連れられていった先は、スーパーの屋上だった。 専用の階段を登った先にあり、ところどころにタンクや機械設備 が置かれている。それらの横をすり抜け、屋上の縁まで移動した。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ そこから広がる光景に、深月は無言でいる。 スーパーの駐車場のあちこちに、人影がうごめいている。周りの 道路には事故車が放置され、人間でないものに変貌した者たちが、 その間をさまよっている。 ﹁見りゃわかるだろ﹂ 雄介の言葉に、深月は答えない。 柵を握りしめたまま、じっとその光景をながめていた。 だんだんと日は落ち、暗くなっていた。それでも街に明かりが灯 ることはなく、ほとんどの家屋は死んだように眠っている。ビルの 外壁は暗く、マンションは廃屋のように静けさを保っている。 ﹁明かりのついてる所も、生存者がいるってわけじゃねーからな。 単に電気がきて、たまたまスイッチが入ってるだけだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 三十分ほどはその光景を眺めていただろうか。 深月はようやく口を開いた。 132 ﹁⋮⋮みんな、いなくなっちゃったんですね﹂ ﹁ああ﹂ ﹁⋮⋮お父さんとお母さんは、無事だと思いますか?﹂ ﹁さあな。お前らみたいに運のいいのが、百人に一人ぐらいは生き 残ってるんじゃねーかな。ただ、俺が見かけた生存者はお前らだけ だ﹂ その言葉を聞いて、深月は何か重いものを押し出すように、小さ く息を吐いた。うなだれるように、柵にもたれかかる。 深月がぽつりと言った。 ﹁⋮⋮武村さんは、なんでそんなに普通なんですか﹂ ﹁うん?﹂ ﹁街がこんなになって⋮⋮怖いと思わないんですか? それに、さ っきだって⋮⋮どうやって、あんなのを相手にしてるんですか? 私、武村さん、死んじゃったと思って⋮⋮﹂ 深月は不可解なものを見るような目で、雄介を見つめてくる。 ︵やべ。言い訳考えてなかった︶ 雄介は無言で頭を回転させる。確かにあの状況から生還するのは、 普通の人間には無理だ。 しばらく悩んだあと、雄介は上着の下に隠れているホルスターに 手をやり、拳銃を取り出した。 ﹁こいつを警官の死体からいただいた﹂ 深月はしばらくそれが何かわからないようだったが、その正体に 133 気づくと、息をのんだ。 ﹁⋮⋮おもちゃじゃ、ないですよね?﹂ ﹁本物だ。さっきの奴らもこれで片づけた﹂ あの混乱した状況だ。深月も錯乱していたようだし、細かい部分 については気づかれないだろう。 ただ、拳銃を持っているからといって、ゾンビの中を自由に動け るというのは無理がある。 ﹁あー、それにだ。あいつらは人の感情に敏感なんだ。ゾンビに恐 怖を感じたりすると、それを察知して、群がってくる。平常心だ。 禅の心だ。無心になって、あんまり近づかなければ大丈夫だ﹂ 適当に言い訳を並べながら、雄介は自分で噴き出しそうになった。 自身の感情がやや磨耗しているのは自覚しているが、最初にマン ションの廊下でゾンビと対面したとき、雄介は腰を抜かしかけた。 その状態でも襲ってこなかったのだから、単に雄介が特別なだけだ。 とはいえ、ゾンビに恐怖心を抱くなというのは、普通の人間には 難しい。怪しくても、その真偽は確かめられないだろう。 しかし、それらの言い訳を、深月はほとんど聞いていなかった。 黒光りする拳銃に、完全に意識が向いている。 やがて、ぽつりと言った。 ﹁⋮⋮それで脅したら、私なんて自由にできたんじゃないですか?﹂ 食料で取引などせずとも、無理やり深月を襲えたのではないか、 という言葉だ。 雄介は眉をしかめ、 134 ﹁自惚れんなよ。お前の体なんぞに⋮⋮興味はあるけど、ただで食 い物手に入れようってのがムカついただけだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は拳銃から視線を外し、街の様子を眺める。 日は沈み、街は闇に溶けはじめていた。 その中でうごめく、異形の影。 食料を得るのが命がけという言葉が、ようやく実感をもって迫っ てきたらしい。 深月は過去の記憶を思い出すように、ぼんやりと視線をさまよわ せたあと、しみじみとつぶやいた。 ﹁⋮⋮そう、そうでしたね⋮⋮私が⋮⋮﹂ その儚げな雰囲気に、雄介は不安になる。ここで飛び下りでもさ れたら、今までの投資が無駄になってしまう。 ﹁⋮⋮まあ、ともかくだ。日本が全滅ってことはないだろ。いつ救 助がくるかもわからんが、それまではキリキリ働いてもらうぞ。お 前、俺にすげー借りがあるんだからな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月はさまざまな感情を封じこめるように、柵をつかむ自分の手 を、じっと見つめていた。 やがて、こくりとうなずく。 それきり会話は途絶えた。 雄介がきびすを返すと、深月も大人しくついてきた。 屋内への扉の前で、深月に呼び止められる。 ﹁あの﹂ 135 ﹁なんだ?﹂ ﹁できれば、弟たちが寝たあとでも⋮⋮いいですか?﹂ ﹁あ? おう﹂ ﹁⋮⋮更衣室なら、鍵がかかりますから﹂ ﹁うん? わかった﹂ 深月は一度だけ屋上を振りかえる。暗闇ですべてがおぼろげにな っている。深月は未練を断ち切るように息を吐き、階段を下りる雄 介の後に続いた。 136 22﹁深月の夜﹂◆ 弟たちが寝つくまでの暇つぶしに、雄介は監視室の資料をパラパ ラとめくっていた。 空調や照明を専用PCで操作するための、職員の手書きのノート だ。正規のマニュアルが見あたらなかったので、適当な資料を漁っ ている。とりあえず暖房だけでも入れられれば、夜が楽になる。 雄介は、ここを仮の拠点として、しばらく使うつもりでいた。 今までは深月との関係が良好とはいえなかったため、距離を置い ていた。しかし、今の深月の様子なら、寝首をかかれる心配もそこ までなさそうだ。最低限の警戒は必要だが。 インフラのこともある。あまり深くは考えてこなかったが、この 冬の間は持つのか、それとも遠からず止まるのか。 いざというときのために、山の野外センターに移る計画も立てて おかなければいけない。 しかし、向こうはゾンビに守られていないため、野生動物や人間 に対して無防備だ。今移動するのは時期尚早だと、雄介は考えてい た。準備期間がいる。 深月たちが自衛と、農業や採集、製作などで雄介の役に立てるよ うに、サバイバルグッズやガイドブック、資料本を集める。冬を越 すための仕度も必要だ。発電機用の燃料に、暖房用の灯油。他にも 三人を労働力として稼動させるためには、まだまだやることがたく さんあった。 幸い、このスーパーは屋上に貯水タンクがある。インフラが止ま ってもしばらくは、高置からの水圧で水を使えるはずだ。ストーブ があれば電気はなくてもそれほど困らないし、移動するのはそれか らでもいい。 考え事をしながらページをめくっていると、コンコン、と扉をノ 137 ックする音がした。 深月が隙間から顔を出す。濡れた髪を一房にまとめて、横から垂 らしている。 やや不安そうな表情でこちらをうかがって、口を開いた。 ﹁あの⋮⋮先に行っています﹂ ﹁おう。すぐ行く﹂ 深月はすぐに姿を消す。 ノートを最後まで見終わり、雄介は立ち上がった。 更衣室の真ん中で、深月は靴を脱ぎ、正座でちょこんと座りこん でいた。下には毛布が敷いてある。湿った黒髪は後ろでまとめられ、 うなじでアップにされていた。 その格好に、深月が覚悟を決めてここに居ることを悟る。 雄介にしてみれば唐突だったが、深月が体を開くというなら、据 え膳を喰わない理由はない。 部屋の両側にはロッカーが並び、奥には小さな鏡と椅子、化粧台 があるだけだ。あまり雰囲気があるとは言えない小部屋だ。 深月は緊張した面持ちで、こちらを見上げていた。 ﹁あの⋮⋮電気、消してもらえますか﹂ ﹁⋮⋮いや、真っ暗になるだろ、ここ﹂ ﹁これ、ありますから﹂ 深月が手にしていたのは、懐中電灯だった。スイッチを入れ、壁 の方に向けて置く。雄介が部屋の照明を消すと、壁からの照り返し で、ほのかな明るさが残った。 138 ﹁⋮⋮まーいいけど﹂ 扉の鍵を閉め、雄介が近づくと、深月は体を強張らせたまま、 ﹁一つだけ﹂ ﹁うん?﹂ ﹁一つだけお願いが⋮⋮﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁できれば、その⋮⋮赤ちゃんができると、困るので⋮⋮﹂ ﹁あー⋮⋮そうな⋮⋮﹂ 確かに、今の環境では、妊娠は恐怖でしかないだろう。 男の雄介には想像しかできないが、深月の決死な表情を見るに、 強要できる問題ではなさそうだ。 ﹁つってもゴムないし⋮⋮外に出すから、今日は我慢しろ﹂ 深月は無言でうなずく。 それほどこだわりもなく了承した雄介に、深月は少し安心したよ うだった。 ︵まー中出しは、時子ちゃんに散々してるしな︶ そこまで深月に対して征服欲があるわけでもない。適当に楽しめ れば、それで十分だ。 あぐらをかいて腰を下ろす。 ﹁お前は経験あんの? 彼氏とかいなかったのか﹂ 139 深月は首を振る。 雄介が目の前に座っても、深月は体を硬直させたまま、身じろぎ もしない。 その緊張ぶりは、どう見ても未経験のそれだ。 ︵楽しませろっても無理だろーな⋮⋮勝手にやるか︶ ﹁とりあえず横になってくれ﹂ その言葉に、深月はおずおずと手をつき、姿勢を変える。毛布の 上で、仰向けに体を横たえた。目をぎゅっと閉じ、両手をお腹の上 で組んでいる。 その腰をまたぎ、深月の横に手をついて、雄介は覆い被さるよう な体勢になる。 ︵なんか雰囲気でねえな。しゃーないか︶ 手を胸に這わせると、薄いシャツのすぐ下に、柔らかい乳房が感 じられた。ブラの硬い感触がなく、沈みこむように、ふわりと雄介 の手を受けとめる。深月がぴくんと体を強張らせる。 深月が弁解するように、 ﹁⋮⋮服と下着、洗ってはいるんですけど、どうしても汚れちゃう ので⋮⋮﹂ 汚れた下着を見せるぐらいなら、着ない方がマシということらし い。 ﹁ふーん⋮⋮﹂ 140 ブラがなくても、深月の胸は形良く、薄手のシャツを押し上げて いる。その柔らかい膨らみをまさぐり、深月の吐息を聞いているう ちに、雄介のものも硬くなってきた。 深月のジーンズに手をやり、ボタンを外してジッパーを下ろす。 下も履いておらず、ジッパーの間から茂みがのぞいた。 ﹁あっ⋮⋮﹂ 深月が小さく声を上げ、両手を伸ばして股間を隠す。目はぎゅっ と閉じられたままで、羞恥に顔を赤く染めている。 股間を覆う深月の指の間にねじこむようにして、中指を這わせる と、乾いた陰部の入り口の、肉の感触が伝わってきた。はみ出る部 分もなく、二枚のぷっくりした唇の間に、綺麗に収まっている。そ こを軽くこすると、深月が小さく身震いした。 ﹁⋮⋮っ﹂ 雄介は身を起こし、 ﹁ジーンズ脱げ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月はしばらく無言でいたが、やがてのろのろと、片方の手でジ ーンズをずり下ろしていく。もう片方の手で股間を隠しながらの、 もたもたとしたぎこちない動きだったが、雄介は辛抱強く待った。 ﹁脱ぎました⋮⋮﹂ 上は白いシャツ、下は手で大事な部分を隠しているだけの裸身で、 深月は横たわっている。その卑猥な姿に、雄介も興奮してきた。自 141 身も服を脱ぎ、下半身をさらけ出す。深月は顔をそむけながらも、 横目でこちらを見ていた。 ふたたび深月に覆いかぶさり、下半身の硬直を深月のそこに合わ せる。手を無理やり入り口の左右にどけて、陰唇の間をなぞるよう に、膨らんだ肉棒を上下させる。深月の大事な部分を守るヒダが、 青筋の浮いた剛直を左右からぐにぐにと包みこんでくる。 深月は自分の入り口を両手で開いているような体勢のまま、震え る声で、 ﹁あの⋮⋮できれば、ゆっくり⋮⋮怖くて⋮⋮﹂ ﹁別に、濡れないうちに入れたりはしねーよ⋮⋮。こっちも痛い﹂ ローション持ってくれば良かったな、と雄介は思う。初めての女 を濡らすというのは、かなり面倒くさい。こすれる感触は気持ちい いが、そこはずっと乾いたままだ。 薄い毛の生えた土手を指先でかき分け、割れ目の上、それらしい 部分を軽く探ってみる。腰はこすりつけながら、深月の表情を見て、 指先で少しずつ反応を確かめていく。 ﹁っ⋮⋮﹂ 深月がかすかに反応した。 圧力を弱め、その部分をくすぐるようになぞってやる。薄い皮膚 の下で、かすかに膨らむものが感じられた。深月がかすかに息を吐 く。 ﹁自分ではどういうふうにやってんだ? こする方が好きなのか﹂ ﹁⋮⋮してませんっ﹂ ﹁ふーん﹂ 142 それまでの深月の反応から、あまり直に触ったことはないのでは ないかと思えた。下着の上から撫でるぐらいの刺激が、ちょうどい いのだろう。 膨らみの上の包皮を、軽く触れるぐらいに刺激していく。たまに 指の腹を滑らせ、周囲をくすぐっていく。 ﹁⋮⋮んっ﹂ 深月の反応を見ながらも、雄介はだんだん焦れてきた。一応反応 はしているが、そこまで濡れているわけでもない。 初めてで、好きでもない男に抱かれているのだ。当然だろう。 全身をマッサージするように愛撫でもすれば、もう少しマシにな るだろうが⋮⋮ ︵うーん⋮⋮これじゃ、俺が楽しませてるみたいだな︶ 好きな女を感じさせている、とでもいうなら興奮もするが、深月 とはそういう関係ではない。 雄介は面倒になり、愛撫を切り上げた。 ﹁お前、上になれ﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 深月は肘をつき、上体を起こして雄介を見上げてくる。 ﹁俺が横になるから、その上にまたがれ﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁別に入れなくていいから、上に乗るだけでいい﹂ それだけ言って、雄介は深月の隣に横になる。両手を頭の下に置 143 き、手枕にして、深月を視線でうながす。 ﹁⋮⋮えっと﹂ 深月はおずおずと、雄介の太股に腰を下ろす。女の子が自転車の 荷台に乗るような、横座りの姿勢だ。 ﹁いや、そうじゃねーよ。馬に乗るみたいにまたがれ﹂ その言葉に、深月は戸惑ったように雄介を見つめる。 やがて、顔を真っ赤にしながら、ゆっくり右足を開いて、雄介の 太股に正面からまたがった。大きく開かれた股間を、雄介の視線か ら隠すように、両手で覆っている。 ﹁は、恥ず、かしい⋮⋮ん、です、けど⋮⋮これ⋮⋮﹂ ﹁だから? もっとこっちに来い﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は羞恥に顔を染めたまま、もぞもぞと両足を動かし、雄介の 腰の部分まで体をずり上げる。かすかに浮かせた深月の腰の下に、 雄介の半勃ちのものがあった。 ﹁そのまま腰を下ろしてこすりつけろ﹂ 深月は真っ赤な顔で、無言の抗議の視線を向けてくる。 ﹁俺が動くのが怖いんだろ? 自分で気持ち良くなるようにやって みろ。濡れてなくて痛いのはお前なんだからな﹂ 深月はしばらく躊躇していたが、おそるおそる、腰を下ろした。 144 柔らかい尻が、雄介の太股の上でぐにゃりと歪む。気持ちの良い圧 迫感だった。 半勃ちのものが、ちょうど深月の下の唇の部分に当たっている。 深月が泣きそうな声で、 ﹁⋮⋮はずかしい⋮⋮﹂ 小さく声を漏らす。 雄介が無言で見つめていると、深月は観念したように、かすかに 動き始めた。くに、くに、と、乾いた肉同士が揺さぶられる。 前後にこするというよりは、かすかに腰を上下させて、クリや陰 唇を圧迫する動きだった。机の角でやるような感じだ。今は机の代 わりに雄介の勃起したものが、むに、むに、と圧迫される。そのゆ るい動きで、腰の奥にじんわりと快感が溜まってくる。 手を伸ばし、深月のシャツのボタンを下から外していく。こぼれ おちた膨らみは、手のひらにちょうど収まるぐらいだ。その綺麗な 形をした乳房を、両手ですくいあげるように揉みしだく。 ﹁目は閉じてていいぞ。好きな男のことでも考えてろ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は唇を噛み、雄介の腹に手をついたまま、動きを早める。 しばらく変化はなかったが、そのうち、二人の重なる部分が湿り 気を帯びてきた。硬くコリコリしたものが、雄介の勃起の裏すじに こすりつけられる。ぞわぞわと這い上がるような快感が、背筋をの ぼってきた。 指先で手慰みにいじっている乳首も、だんだんと硬く膨らみはじ めている。 ﹁⋮⋮ぅ⋮⋮っ⋮⋮んっ⋮⋮﹂ 145 深月は息を荒くし、腰をくねらせている。 時間がたつうちに、動きは複雑になり、ぬめる肉ひだで、雄介の ものも濡れはじめていた。ガチガチに膨らんだ亀頭を、深月のもの がこするたびに、ビクビクと痙攣する。 しばらくすると、二人の部分は愛液でベトベトに汚れていた。深 月の手は力なく崩れ、雄介にほとんど上体を預けている。その状態 でも腰だけはかすかに動かし、ぬるぬるになったクリトリスを雄介 のカリや裏筋にこすりつけ、引っかかるたびに小さく体を震わせる。 それなりに自慰の経験のある女の、快感の貪り方だった。 ﹁⋮⋮お前、オナニーでイったことあんの?﹂ ﹁な⋮⋮い、です⋮⋮﹂ 深月がか細い声で答える。 それならもういいかと、雄介は体を起こした。 ﹁あっ⋮⋮?﹂ 声を上げる深月を、そのまま床に押し倒す。股を開かせた正常位 の体勢で、深月の入り口に硬いものを押し当てた。 ﹁⋮⋮! やっ⋮⋮﹂ ﹁力抜いてろ﹂ 先端で深月の窪みを探りあて、腰をゆっくりと押し入れる。どろ どろに濡れた入り口が、亀頭に割りひらかれていく。 ﹁い⋮⋮たい⋮⋮っ﹂ 146 深月は眉を寄せ、苦痛に耐える。 先端がカリ首まで深月の中に埋もれたところで、それ以上進めな くなった。深月の太股が、雄介の腰を挟むようにして、押しとどめ ている。 ﹁⋮⋮股開けって﹂ ﹁⋮⋮い、痛い⋮⋮んです⋮⋮ほんとに⋮⋮﹂ 深月の首筋は赤みを帯び、額からは脂汗を流していた。 雄介は動きを止め、深月の太股に手を這わせた。そこは緊張と苦 痛で硬くこわばっている。 深月は懇願するような表情で、 ﹁あ、あの、また今度、がんばるので、つ、続きは⋮⋮﹂ ﹁だめだ﹂ 深月の両足を抱え上げ、太股を上体にくっつけるように、折り重 ねる。 ﹁自分で持ってろ﹂ ﹁う⋮⋮ううっ⋮⋮﹂ 深月は諦めたように、太股を両手で抱える。自分で股を開いて、 男を受け入れるような格好だ。 深月の脇に右手をつき、片方の乳房を左手でもてあそびながら、 そのままゆっくり腰を進めていく。深月の処女の部分はきつく、押 し戻されないよう力を入れながら、濡れた内部をこじ開けていく。 深月は自分の太股を握りしめ、女の部分に侵入される痛みにじっ と耐えていた。 147 ﹁⋮⋮っ⋮⋮﹂ 奥まで肉棒を押しこんで、雄介は息を吐いた。熱く絞られた内部 が、雄介の硬直を、柔らかく根元まで包んでいる。深月の薄い草む らと、雄介の陰毛が絡みあうほどに、お互いの股間は密着している。 ﹁もうちょっと我慢しろよ﹂ ゆっくりと腰を前後に動かす。入り口で粘液が糸を引き、ぬめっ た陰唇がぐにぐにと形を変える。ひどく緩慢な、じれったい動きだ ったが、深月は苦痛に顔を歪めていた。 雄介は股間のものに神経を集中させる。深月の処女の内部を、ひ だの隅々まで味わうように、肉の表面で感じとっていると、それな りに快感が高まってきた。 女子高生の股を、半ば無理やり開かせてという状況が、雄介のオ スの部分を刺激する。 深月の処女の部分にねじ込みながら、雄介は上体を倒して、深月 を抱きしめた。柔らかい乳房と尖った乳首が、雄介の胸板をこする。 髪から香る石鹸の匂いが鼻をかすめた。深月は目を閉じて横を向き、 ただじっと耐えている。 雄介は浅く腰を前後させ、深月の入り口で亀頭をくぷくぷと咥え させながら、快感の昂りに身を任せていった。 先端を刺激する浅い抽挿と、全身で感じる深月の柔らかい温もり に、ほどなくして限界が訪れた。 腰の奥から這い上がった、痺れるような快感が、尿道に殺到する。 雄介はぐっと腹に力をこめてそれに耐え、深月の膣の奥まで、硬い ものを突き刺した。 ﹁っ⋮⋮!﹂ 148 深月が身をよじる。それにつられて、溶けた深月の内部がうねる。 肉棒をなぶるようなその感触をぎりぎりまで楽しんだあと、雄介は 一気に腰を引いた。 ピンと跳ねるものを手で押さえ、亀頭の先端を深月のクリトリス にぐりぐりと押しつけ、せき止めていた快感をびゅっ、びゅっ、と 吐き出していく。その衝撃に、深月がびくんと震えた。腰が抜ける ような快感だった。 手でしごきながら、断続的に白濁液を噴き出す先端を、深月の入 り口にこすりつけていく。淡いピンクの割れ目が、白い欲望でどろ どろに汚されていった。 ﹁⋮⋮はーっ、はーっ⋮⋮﹂ ひとしきり溜まったものを吐き出し、雄介は息をついた。 激しい心臓の鼓動が聞こえてくる。 思った以上に興奮してしまっていた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 数分間の沈黙のあと、深月が手をついて身を起こし、こわごわと 見上げてきた。支えを失った深月の太股が、雄介の太股に重なり、 柔らかい重みを伝えてくる。 ﹁終わり、ましたか⋮⋮?﹂ ﹁おう⋮⋮﹂ 雄介は気だるげに答える。 ﹁⋮⋮外に出しといたぞ﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ 149 深月は視線を落とし、自分の股間が土手から入り口まで、男の白 濁液でどろどろに汚されているのを目にした。 深月は複雑な表情でそれを見つめ、 ﹁⋮⋮その﹂ 口ごもったあと、 ﹁ありがとう、ございました﹂ ﹁? 何が﹂ ﹁外に、出してくれて﹂ ﹁⋮⋮まあ約束したしな。でも、これで完璧避妊ってわけじゃねー ぞ。わかってるだろうけど﹂ ﹁それは⋮⋮はい。次はゴム、つけてもらえますか? あったら⋮ ⋮﹂ ﹁あー⋮⋮いいけど﹂ ﹁⋮⋮よかった﹂ 深月は腰をずらし、膝を崩して雄介の前に座りこんだ。準備して おいたらしい濡れタオルを近くから取って、股間をふきはじめる。 ﹁でも、痛かったです﹂ ﹁それは俺のせいじゃねーぞ。なるべくゆっくりしたし﹂ ﹁まあ、そうなんですが⋮⋮股が。あんなに開かされるとは、思わ なくて﹂ ﹁はあ?﹂ ﹁柔軟、しておけば良かったかな⋮⋮﹂ 深月はぼんやりとした表情で言った。 150 ︵なんかテンションおかしいな、こいつ⋮⋮︶ 深月のどこか茫洋とした雰囲気に、雄介は戸惑った。おそらくい ろんな出来事のために感情がオーバーフローして、やや現実逃避ぎ みになっているのだろう。 ﹁わっ﹂ 立ち上がろうとして、深月が転びかける。 ﹁危ねえって﹂ 雄介に支えられて、深月がひょこひょこと立ち上がる。 ﹁股が痛い⋮⋮﹂ ﹁いや⋮⋮そうかよ﹂ 謝るのも変なため、反応に困り、雄介はそう答えた。 151 23﹁二階の開放﹂ ﹁へっくしょっ﹂ 自分のくしゃみで、雄介は目を覚ました。はだけていた毛布を体 に巻きつけながら、雄介はぼんやりと周りを見まわす。部屋は真っ 暗で、何も見えなかった。 ︵⋮⋮あー、あのまま寝たんだっけ︶ 深月は、昨夜の事のあとに出ていった。雄介も帰るのが面倒にな り、更衣室に鍵をかけてそのまま寝たのだった。 手さぐりで懐中電灯を探しあて、スイッチを入れる。 手早く服を着こんだところで、扉がノックされた。 ﹁⋮⋮起きてますか?﹂ ﹁おー﹂ ﹁朝ご飯食べるなら、用意しますけど﹂ ﹁食べる﹂ ﹁十分ぐらいで準備できます﹂ ﹁あいよ﹂ 廊下に出ると、天井の蛍光灯の他に、日の光がうっすらと差しこ んでいた。 エレベーターの左右に伸びる廊下は、突きあたりがガラス張りに なっていて、そこに背の高さぐらいの観葉植物が置かれている。葉 っぱの上にタオルが何枚か干されていて、物干し代わりになってい た。 152 そのタオルを一枚取り、あくびを噛みころしながら、外の様子を ながめる。駐車場には数体のゾンビ。いつもの光景だ。 ﹁いい天気だなー﹂ 雄介は鼻歌を歌いながら、顔を洗いに男子トイレに向かった。 会議室での朝食は、あいかわらずレトルトが中心だった。いくつ かのタッパーに盛りわけたりはしているが、缶詰がならぶ食卓は、 わびしい雰囲気しかない。割り箸も洗って再利用している状態だ。 湯飲みに入れられた白湯が、唯一の温かみだった。 顔を合わせたときに、深月が少しぎこちない態度を見せたが、雄 介はそれを黙殺した。 四人はテーブルに向かい、黙々と食べている。 ︵米が食いてー。小さい炊飯器でも持ってくるか︶ 雄介がそんなことを考えていると、深月がこほ、と小さく咳をし た。口を押さえ、顔をそむけて、ごほごほと咳きこみはじめる。 ﹁風邪か? うつすなよ﹂ その言葉に、深月は少し眉を寄せた。 誰のせいだと言わんばかりの表情で、 ﹁⋮⋮昨日、少し無理をしたものですから﹂ ﹁そうか。うつすなよ﹂ 153 むっ、と仏頂面になる深月。 それを無視し、三人があらかた食べ終わったところで、雄介は口 を開いた。 ﹁さて⋮⋮とだ。お前ら﹂ その言葉に、深月と弟二人は動きを止めた。そのまま雄介の言葉 をじっと待つ。 ﹁面倒くさいことは省いて言うぞ。お前らの命は俺が助けた。だか らしばらくは、俺に従ってもらう。そんな認識でいいな?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 深月が小さく答える。 弟二人は顔を見合わせたあと、こくりとうなずいた。 雄介は言葉を続ける。 ﹁で、だ。お前ら、普段は何してる?﹂ ﹁普段⋮⋮ですか?﹂ 深月が首をかしげる。 ﹁俺が食い物を探しに行ってる間、ここで何してるんだ?﹂ ﹁特には⋮⋮何も﹂ その言葉に、雄介は沈黙する。 その呆れたような雰囲気を察したのか、深月も気まずそうな表情 を浮かべた。 少し間ができたあと、雄介が口を開く。 154 ﹁⋮⋮そうか。まーいいけど。とりあえず、今日はこのフロアの家 捜しをしろ。地下の搬入口のシャッターを下ろしたいんだが、そこ だけ鍵が見つからん。それ探せ。他にも設備のメモ書きとか、見取 り図とか、手順書とか、なんでもいいから、それっぽいの探してま とめとけ﹂ ﹁はあ⋮⋮えっと、鍵と書類を探せばいいんですね?﹂ ﹁ああ。三人でな﹂ ﹁わかりました﹂ スーパーの従業員が、鍵を持ったままゾンビ化していないことを 祈るしかない。 ただ、たとえ見つからなくても、三人に余計なことを考えさせな いように、仕事を割りふっておくという意味もある。 弟二人も、重大な任務を任されたような顔で、神妙にうなずいて いた。 ﹁俺は用事がある。夕方には帰る⋮⋮たぶん﹂ ﹁はい。気をつけてください﹂ ご飯がなくなるのは困ります、とでもいうような口調で深月が言 った。 スーパーの二階に降りて、雄介は腕組みをして考えこんだ。 ﹁さて⋮⋮問題は、あいつがどこまでアホなのかだな﹂ スーパー内を監視する警備室のモニターは消してある。操作がや や複雑だったので、深月には復旧できないだろう。その間に、雄介 155 は二階のゾンビを掃除するつもりでいた。 二階には、スーパーの日用品コーナーの他に、ドラッグストアや 婦人服、百円均一のディスカウントなど、いくつかのテナントが入 っている。ここを深月たちに開放できれば、いちいち雄介が物資を 持ちこむ手間が省ける。あとは三人に、拠点の整備を勝手にやらせ ればいい。 ただ、二階からのゾンビの排除という力技について、深月がどう 思うかが問題だ。 三体のゾンビから生還したのだから、それでもできなくはない、 と思うだろうか。それならなぜ、一階も開放しないのかと思われる かもしれない。 雄介は、一階はまだ開放するつもりはなかった。 深月たちが食料の自由を手に入れると、雄介に従う理由がなくな る。長期的に持つ量でないとはいえ、深月がまた暴走しないとも限 らない。 もし開放するとすれば、食料以外でも、雄介についた方が得だと いう状況ができてからだ。 ﹁⋮⋮たまたま二階のゾンビが少ないのに気づいて、排除を試みた。 一階は多すぎて無理。それでいくか﹂ 普通の人間が、拳銃でゾンビの排除などすれば、銃声を聞きつけ たゾンビたちにあっという間にやられそうだが⋮⋮ そこは深月の無知につけこんで、適当に言いくるめるしかない。 方針を決めると、雄介はさっそく行動を開始した。 女子トイレやバックヤードの休憩室など、すみずみまで確認する と、二階にはゾンビが六体いた。 老齢の爺さん、四十代のおばさん、二十ぐらいの男など。若い女 もいたが、顔が好みでない上に腹も食い破られていたので、食指は 動かなかった。 156 ﹁はいそっちそっち。行け行けー﹂ それぞれ手で押すなり引っぱるなりして、一階に誘導していく。 背中から押すと、よろけるようにそちらに歩いていく。頭を潰して 死体を運ぶよりは、死体に歩かせる方がずっと楽だ。 一階まで全員を移動させると、階段の防火扉を閉めた。 くぐり戸が階段からもフロアからも開けられる構造になっていた ので、入り口にあったカートを持ってきて、階段側から取っ手に縛 りつける。これで階段は封鎖できた。 ﹁あとはエスカレーターか﹂ 二階に戻り、フロアの中央に向かう。一階とをつなぐエスカレー ターは、上下とも停止したままだ。 まずは一階まで歩いて下り、付近を見まわす。 スイッチボックスは近くの柱に埋めこまれていた。 警備室から持ちだした鍵で開けると、﹃▲﹄﹃■﹄﹃▼﹄とスイ ッチが縦に三つ並んでいた。﹃▼﹄のボタンを押すと、電動シャッ ターが降りはじめた。 ﹁よし﹂ スイッチボックスを閉じて二階に戻る。二階側でも同じようにシ ャッターを下ろし、両側での封鎖が完成した。 これで二階と三階への入り口は、エレベーターだけになる。 一階のゾンビがエレベーターを呼び、2F、3Fのボタンを押し て上がってくる、という可能性はあまりないだろう。 ゾンビの中には生前の行動をなぞる者もいるが、そこまで複雑な 行動はとらない。駅でも、ゾンビたちが改札を無理やり通るせいで、 157 抑止用のフラップドアは壊れていた。 ﹁こんなもんか⋮⋮。まだ時間あるな﹂ 腕時計を確認すると、まだ昼前だった。 一階に降り、裏口のバイクにまたがる。雄介は他の物資を回収に 向かった。 夜七時にもなると、空は完全に暗い。 雄介はスーパーの裏口に止めたミニバンから、荷下ろしをしてい た。電器店やホームセンターから漁ってきた物資だ。図書館から持 ってきた資料もある。それらを台車に移し、エレベーターまで運ぶ。 三階で荷物をバラし、炊飯器を給湯室にセッティングしていると ころで、深月が顔を出した。まだ軽く咳をしている。 ﹁武村さん、それは?﹂ ﹁炊飯器。米が食いたい﹂ ﹁お米⋮⋮﹂ 深月の顔が期待に輝く。 ﹁缶詰だけだとどうもな。廊下に米袋があるから、それ使ってくれ﹂ ﹁⋮⋮あ、でも、食器がないのが困りますね。おにぎりにしようか な? 塩とか海苔があればいいんですけど﹂ ﹁あー、そうだった。ちょっと待て。二階を開けたから、そこから 食器取ってこい﹂ ﹁?﹂ 158 雄介の言葉に、深月が不思議そうに首をかしげた。 三階の防火扉のくぐり戸を開けるとき、深月は怯えた表情をして いた。二階のフロアをまわるときも、雄介の後ろで身を縮こまらせ、 こわごわと周囲を見まわしていた。 やがて、どこにもゾンビがおらず、安全だとわかると、深月の表 情は明るくなった。 買い物カゴを持ち、ぎこちない足取りながらも、陳列棚を楽しそ うに見てまわっている。 その姿に、雄介は拍子抜けしていた。 どうやってゾンビを排除したのかだとか、なぜ今までしなかった のかだとか、いろいろ聞かれると思っていたが、そんな様子は一切 ない。 すごい、と一言で済ませて、深月は目の前に広がる物資の方に心 を奪われていた。 自分の得になることなら疑っても仕方がない、という開き直りだ ろうか。 あるいは、疑心暗鬼でミスを犯したあとでもあるし、雄介を疑う ような言葉は言いにくいのかもしれない。 ︵単なる思考停止かもしれねーけど⋮⋮︶ 視線の先で、深月は満載のカゴに苦戦している。このフロアでな ら、服も、日用品も、医薬品も、化粧品もそろう。 生理用品も、深月にとっては死活問題だろう。雄介が二階を開け ようとしたのは、それも大きい。女子高生にいちいちそんなものを 補充するというのも微妙だ。 苦戦している深月を横目に、雄介はエレベーターの方に向きなお 159 った。 ﹁上で作業してるから、必要そうなものは適当に運びこんどけよ﹂ ﹁はい! あ、そうだ。武村さん、鍵、見つけました﹂ ﹁お、マジか﹂ ﹁事務所のデスクに、他のと一緒にまとめてあります。タグ付きで すから、すぐわかると思います。書類もいろいろ見つかりました﹂ ﹁へー。正直期待してなかったけどな。よくやった﹂ その言葉に、深月は小さくはにかんだ。 160 24﹁風邪﹂ 次の日の朝、食事をしようと会議室に顔を出すと、深月がテーブ ルに突っ伏していた。 朝食の準備の途中だったらしく、テーブルの上には食器や箸、湯 飲みが並んでいる。缶詰は未開封のままだ。 ﹁おい、どうした?﹂ その言葉にも反応はない。 肩をつかんで顔を上げさせると、深月は薄目を開き、ぼんやりと こちらを見つめてきた。前髪が汗で額に張りついている。顔色が悪 い。 深月は、ごほ、と咳きこみながら、 ﹁すみ⋮⋮ません。頭が、痛くて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮熱か? こじらせたな﹂ 舌打ちしながら、雄介は考えこむ。 深月の様子を見るかぎり、かなり体調が悪そうだった。 特に急ぎの仕事もないし、今日のところは休ませた方がいいだろ う。 ﹁ちょっと待ってろ﹂ いったん会議室を出て、奥の執務室へ向かう。 毛布にくるまって寝ている弟たちを横目に、応接セットの方に近 づく。中央のガラステーブルをどけ、対面のソファー二つをくっつ 161 ける。その上に毛布を敷き、即席のベッドを作った。 それが終わると、眠りこけている弟たちに向かって、 ﹁お前ら起きろ!﹂ ﹁っ!﹂ 隆司が跳ね起き、優が目をこすりながら身を起こした。 二人とも寝ぼけまなこで、雄介を見上げてくる。 それに構わず、 ﹁お前らのねーちゃんが風邪だ。ここのソファーに寝かせとくから、 今日は看病しとけ﹂ 言い捨ててから会議室にとって返し、深月を背負う。意識のない 深月の体は重かった。ソファーまで運び、上からも毛布をかける。 あとは寝かせておけばいいだろう。 近くでは、目の覚めた弟二人が心配そうな表情で、ぐったりした 深月の様子を見つめている。 ﹁⋮⋮お姉ちゃん、大丈夫?﹂ ﹁風邪だろ。寝てりゃ治る﹂ 不安そうにつぶやく隆司に答えながら、 ︵いや、待てよ⋮⋮︶ 雄介は考えこむ。 深月が体調を崩したのは、おそらく一昨日の夜のせいだろう。破 瓜で体力を失っていたし、更衣室でしばらく半裸でいた。そのせい で風邪をひいたのだと、今まで思っていたが。 162 熱を出して倒れるという症状は、考えてみれば他にもある。 ゾンビ化だ。 ︵⋮⋮︶ 雄介の脳裏に、ひどく不愉快な想像が浮かびあがった。 ︵⋮⋮俺がキャリアってか?︶ 雄介は一度、ゾンビに噛まれ、高熱で倒れている。 その後は奇跡的に回復したが、もしそのときのウイルスが雄介の 体内に残っていたとしたら。 雄介との性交渉で、深月がゾンビウイルスに感染した可能性があ る。 ︵でも、あのウイルスに、咳をするなんて症状あったか⋮⋮?︶ インターネットで収集した情報を思い出す。 熱を出して倒れるということだけは共通していたが、それ以外に 定まった症状はない。 出血、むくみ、痺れ、様々な症状がネットには氾濫していたのだ。 デマや勘違いも、相当混じっているだろう。咳がウイルスに付随す るものなのかどうか、雄介には判断がつかなかった。 ︵単なる風邪だろ⋮⋮?︶ 自分が保菌者で、他人に感染させている、という想像は、あまり 気持ちの良いものではない。体内に時限爆弾を抱えているようなも のだ。ウイルスが体の中にあると思うだけでも、ぞわぞわする。 しかし、自分がイレギュラーな存在であることは、雄介も自覚し 163 ている。 深月はそんな自分と深く接触したのだ。何があっても不思議では ない。 ︵⋮⋮発症したら二十四時間以内に死ぬんだよなあ、確か︶ それも大目に見積もった場合であって、早ければ数時間で死にい たる。 ︵⋮⋮︶ 深月の苦しそうな寝顔を見つめながら、雄介は横の弟たちに向け て言った。 ﹁お前ら、さっきのは無しだ。今日はこの部屋には入るな。どっか よそで遊んでろ﹂ 三階の各部屋の空調は、監視室にあるパソコンの一台で一括管理 されている。雄介は従業員の覚え書きを見ながら画面を操作し、三 階全体に暖房を入れた。 それが終わると、朝食の準備に戻る。 すでに炊かれていた炊飯器のご飯を茶碗に取り、余った分はタッ パーに詰める。そのまま朝食に持っていこうとして、雄介は立ち止 まった。 少し迷ったあと、炊飯器の前に戻る。 床の米袋から一合すくって、釜の中で適当に洗い、水を多めにし て、おかゆにセットする。水を馴染ませる時間はとっていないが、 そこまで几帳面にすることもないだろう。 164 弟たちは深月が心配なのか、朝食の席でも上の空だったが、ご飯 を前にすると、一心不乱に食べ始めた。タッパーの分までなくなる のに、そう時間はかからなかった。 そんな食事の様子を見ながら、雄介は考えこむ。 ホームセンターから持ちこんだ燻製器と、図書館から持ってきた 資料を深月に渡して、燻製のテストを丸投げするつもりだったのだ が、その深月がダウンしている。 自分でセッティングして、弟たちに火の番だけさせてもいいが、 どうもその気になれなかった。 深月がゾンビ化したら、いろんな前提がひっくりかえるのだ。 ︵今日はだらだらするか︶ 雄介は黙ったまま、弟たちに好きなだけ食べさせることにした。 お盆を手に部屋に入り、寝ている深月に近づく。 ﹁おかゆ置いとくから、食えそうなら食えよ﹂ 雄介の声に、深月はうっすらと目を開ける。 近くのテーブルに置かれたお碗と、水のグラスに目をやり、 ﹁すみません⋮⋮﹂ ごほごほと咳きこむ。 ﹁あの⋮⋮優たちのご飯⋮⋮お願いしてもいいですか⋮⋮?﹂ ﹁もうやった。これくわえろ﹂ 165 口元に突きだしたのは、体温計だ。深月は大人しく先端を口にふ くむ。 しばらくして電子音がなる。体温計には38.4℃と表示されて いた。 ︵微妙⋮⋮︶ 確かに熱はあるが、風邪でもおかしくない体温だ。 ゾンビウイルスの熱に関する定義は、ネットでもあまり定まって いなかった。現状では雄介には判断がつかない。 ︵一応、体温と症状だけ記録しておくか。ゾンビ化したときの資料 になるし︶ 深月はすでに、かすかな寝息をたてている。 雄介はそっとそばを離れた。 部屋の対面にある椅子に腰かけ、机に足を乗せる。置いておいた 書類のページをめくりながら、雄介は思考の片すみで考える。 ︵深月がゾンビ化したら⋮⋮マンションで飼うか。労働力は振り出 しに戻るが、もともと一人だったんだしな︶ 弟二人については、特に考えることもない。 姉を失って不安定になった子供では、労働力としても期待できな い。しばらく一緒に居たので情が移っていないこともないが、それ だけだ。 一階の食料品フロアを開放するぐらいはしてやってもいいが、雄 介にできるのはそこまでだ。あとは救助が来るのが先か、食料が尽 きるのが先か。運次第になるだろう。ここに残り、子供二人のお守 166 りをするつもりはなかった。 雄介はため息をつき、 ︵あいつが死ぬと、いろいろ無駄になるな⋮⋮︶ 人間の労働力を手に入れ、張りきって準備してきたものが、全部 パーだ。 今読んでいる資料は、停電時におけるスーパー内での避難誘導マ ニュアルで、自動ドアが手で開けられるようになるだとか、シャッ ターの手動での開け方だとか、地下の非常用のバッテリーだとか、 重要な情報がいろいろ書かれているのだが、深月が死ねば、これら も無用の長物となってしまう。そう思うと、読解にもあまり身が入 らなかった。 ︵ま、しょーがねえか。俺が迂闊だった︶ 自分がウイルスのキャリアである可能性について、考えないよう にしてきた結果だ。今さらぐだぐだ考えても仕方がない。 ︵しかし、俺も怪我だけは注意しないとなー︶ 雄介が大怪我をして動けなくなっても、助けてくれる人間はいな い。衣食住はあっても、文明の恩恵を受けられないことに変わりは ない。 ︵やっぱまとまった集団を見つけないとな。いざってときの保険が 必要だ︶ 気ままに暮らせる雄介ではあるが、病気や怪我といった不安はつ きまとう。医者や医療関係者の生き残りがいるなら、その位置は把 167 握しておきたい。 人間を相手にしたときの不安は確かにあるが、こちらは街のどこ にでも逃げこめるのだ。今のうちに、統制されたコミュニティを見 つけておきたい。 ︵うーん⋮⋮最初から積極的に人間の保護に動くべきだったか? でも、そういう状況じゃなかったしなあ⋮⋮。助ける手間もでかい し︶ つらつらと考えながらも、視線は文字を追っていく。 部屋は静かだった。かすかに響く空調、たまにおきる深月の咳、 雄介の書類をめくる音。 物憂げな空気の中、静かに時間は流れていった。 168 25﹁夢﹂ 早朝。 まだ日が昇りかけの時間帯に、深月は目覚めた。 ひどく懐かしい夢を見ていた。 まだ家族が揃っていたころ、深月が幼いときの夢だ。 熱を出し、幼稚園を休んだ深月のそばに、母が寄りそっていた。 冷たい手が額を撫でるのが気持ちよく、深月はこほこほと咳をしな がら、母親の顔を見上げていた。 視線の先の母の表情は、影に隠れたようにおぼろげだ。それでも、 見守られているという安心感が、深月を包みこんでいた。その暖か さにしがみつくように、深月は覚醒に抵抗していた。 しかし、意識は容赦なく、深月を現実へと引きずり上げていく。 イメージの断片がばらばらに溶けはじめ、幼い深月の姿が、夢の 中に遠くなる。 まどろみに留まろうとする抵抗もむなしく、深い喪失感だけを残 して、深月の自我がゆっくりと浮上してきた。 目を開ける。 無機質な白い天井が目に入った。 スーパーの三階の一室だ。 深月はごわごわした毛布にくるまって、ソファーに横になってい た。 ︵⋮⋮あ︶ 眼窩に溜まっていた涙が、目じりからこぼれおちた。 覚醒した意識が、自分が今どこにいるのかを、深月に正しく伝え てくる。先ほどまでの夢とのギャップに、深月はしばらく動けない 169 でいた。 ﹁⋮⋮はあ﹂ ため息をつき、こめかみに流れおちた涙のしずくを、指先でぬぐ う。 身を起こそうとしたところで、 ﹁くしゅっ﹂ くしゃみをした拍子に、鼻水がびろっと垂れ落ちた。 ﹁うわ⋮⋮﹂ さらに、濡れタオルが額からずり落ちてくる。 周りを見まわしてティッシュを探すが、見当たらない。深月は少 しためらったあと、そのタオルで鼻の下をぬぐった。折りたたんで、 テーブルに置く。 そばにあった水のグラスが目に入り、手に取って一気に飲みほし た。全身に水分が染みわたるようだった。 ﹁ふう⋮⋮﹂ 毛布ははだけていたが、暖房が入っているらしく、あまり寒さは 感じない。小さくくしゃみをしながらも、深月は頭痛が引いている のを感じた。 テーブルの上には、グラスの他に、おかゆもあった。昨日は食欲 がなく、一口だけ食べたものだ。それを前にすると、急にお腹が空 いてきた。 給湯室にはレンジがあるので、冷めたおかゆも温められる。汚れ 170 たタオルとお椀を手に持ち、部屋を出た。 給湯室のシンクには、三人分の食器が水に浸けられていた。おか ゆをレンジで温めている間に、それらを水ですすいでいく。油汚れ はないので、水だけで十分だった。近くに引いた布巾の上に、順番 に積み重ねていく。 終わるころには、冷たい水で手が冷えきっていた。 ﹁へくしゅっ﹂ また鼻水が垂れる。 鼻を洗うついでに、洗顔も済ませる。洗顔料や化粧水などは、下 から運びこんである。近くにかけていた新しいタオルで水気をふき、 深月は小さく息をついた。 ﹁⋮⋮﹂ 夢の残滓にぼんやりしていた思考が、だんだんはっきりとしてく る。 弟たちのことが心配になり、探してみると、事務室の隅で毛布に くるまって寝ていた。深月と同じ部屋で寝なかったのは、風邪をう つさないためだろうか。 そばには、大きな本がいくつか転がっていた。フルカラーの大判 で、自然の図鑑だった。 ぱらぱらとめくってみると、山の地形や、季節ごとの植生などが 載っている。昆虫や動物にも触れられていた。ほとんどが写真で、 難しい漢字が読めない子供でも読みやすく作られている。 おそらく雄介が、弟たちの暇つぶしに与えたのだろう。二人とも こういった図鑑は好きだ。ろくに娯楽もないこの生活で、きっと大 喜びしたに違いない。 171 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 深月は複雑な表情で、そっと図鑑を閉じる。 ︵武村さん、子供には優しいんだよね⋮⋮︶ 自分には冷たいけど、と深月はため息をつく。体を許した後でも、 その態度はあまり変わっていない。 別に雄介に好かれたいわけではないが、深月は今まで、あまり他 人に冷たい態度をとられたことがない。雄介のぶしつけな態度に対 しては、戸惑いが大きかった。 図鑑を置き、給湯室に戻る。 おかゆを手に部屋に戻ると、椅子で寝ている雄介の姿が目に入っ た。背もたれに体を預け、首を斜めにして寝ている。首すじを痛め そうな格好だ。 毛布もかけずに寝ているが、空調が効いているので寒くはないの だろう。 深月は自分の寝ていたソファーに近づき、乱れた毛布を畳んで横 に置いた。 少しずらしたソファーに斜めに座り、熱いおかゆを食べはじめる。 スプーンですくい、少し冷ましてから口に含む。さらさらした七分 粥だった。熱いかゆが、空腹に美味しかった。 ︵⋮⋮︶ じんわりとお腹にたまる温かさを感じながら、深月は黙想にふけ った。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 172 目の前のかゆや、額に乗せられていた濡れタオルのことを、考え る。 こんな風に、雄介が親身に手をかけてくれたことが意外だった。 利己的で合理的、深月が雄介に抱いているのは、そんなイメージ だ。これまでの態度からすると、深月が風邪を引いたとしても、毛 布をかけてその辺に転がして、それでおしまい、ぐらいだろう。 こんな甲斐甲斐しい世話があるとは、思ってもみなかった。 ただ、その気まぐれな優しさを素直に受けとるには、深月のプラ イドは傷つきすぎている。 深月と雄介は赤の他人だ。つい最近まで、あまり友好的な関係と も言えなかった。今回のそれは、家族に向けるような、ずいぶん唐 突な優しさのような気がした。 椅子の上で眠りこける雄介の顔を見つめながら、その違和感につ いてぼんやりと考えているうちに、深月はふと思いだした。 ︵⋮⋮そういえば、武村さん、一人なんだよね︶ 生存者は自分たちの他にいない、と言っていた。 つまり、自分たち姉弟とは違い、彼はずっと一人で、この世界を 生きてきたのだ。 そのことについて、深月はあらためて考え直してみる。 自分がそんな立場だったら、と。 深月は弟たちの面倒を見ることで、なんとか自分が保たれている のを自覚していた。自分一人でこんな世界に取り残されたとしたら、 いつ危うくなってもおかしくない。 親も友達もいなくなり、人を食べる化け物が街をうろつき、ただ 生きる希望もなく毎日を過ごすなど、深月には耐えられない。深月 はそこまで強くない。深月の世界は、すべてあの日に終わってしま ったのだ。 そんな、死に向かいそうなギリギリのところを引きとめているの 173 が、弟たちの存在だ。深月は二人の保護者ではあったが、逆に守ら れてもいた。弟たちのためだからこそ、壊れそうな自分のことを後 まわしにできるのだ。 そんな存在がいないとしたら。 家族を失い、たった一人で、この世界を生きなければならないと したら。 ︵それは⋮⋮さみしくて、つらい⋮⋮気がする⋮⋮︶ きっと雄介は、深月ほど弱くはないだろう。 それでも、平静でいられない時もあるに違いない。 考えてみれば、雄介が与えるものに対して、深月はまるで返せて いないのだ。命すら助けられている。死の臭いのするこの世界で、 自分にそれだけの価値があるとは、もう思えなかった。 それでも、決して善人とはいえない雄介が、冷たい態度をとりな がらも助けてくれる理由。 それは。 ︵さみしいとか、そういうのを、私たちで紛らわせてる⋮⋮。そう いうことなのかな⋮⋮︶ なんとなく、武村という男の、もろい部分に触れたような気がし た。 椅子で眠るその姿にも、疲労と諦念が浮かんでいるように見えた。 もちろん、深月の考えすぎなのかもしれない。体が弱っていると きは、心も弱くなるものだ。単なる雄介の気まぐれを、自分に都合 良く解釈しているだけかもしれない。 それでも、強く得体の知れない存在だった雄介の、人間らしい部 分を見つけたような気になり、深月はそれを否定したくなかった。 このとき初めて、深月は雄介を対等に見たのかもしれない。終わ 174 った世界を必死で生きている、一人の人間として。 ︵⋮⋮うん。私も甘えてないで、がんばろう︶ おかゆを全部胃の中に収めると、食器を持って部屋を出る。 給湯室で食器を洗い、部屋に戻ると、雄介が椅子に座ったまま、 背伸びをしているところだった。たった今、目覚めたらしい。こち らに気づき、すっとんきょうな声をあげる。 ﹁あ?﹂ 雄介は動きを止め、こちらを凝視する。敵を見るような、険しい 視線だった。 その視線の強さの理由がわからず、深月はまた自分が何かしてし まっただろうかと、不安になった。 ﹁あの⋮⋮?﹂ 深月が声を発すると、雄介は硬直が解けたように、椅子に背中を 預けた。 ﹁あー⋮⋮﹂ 雄介は視線をずらし、時計をながめて、時間を確認していた。朝 の六時だ。 それから気が抜けたように、 ﹁何だよ。マジでただの風邪かよ⋮⋮﹂ その呆れたような言葉に、深月は目をまたたいた。 175 もしかして、心配してくれていたのだろうか。 深月は苦笑いの表情で、頭を下げる。 ﹁すみません、ご心配をおかけしました﹂ ﹁いや、心配っていうか⋮⋮まあいいや﹂ 雄介は手を振り、 ﹁もう調子はいいのか?﹂ ﹁ちょっと変な感じはありますけど、だいぶ良くなりました﹂ ﹁⋮⋮ふーん﹂ 深月の言葉に、雄介は考えこむそぶりを見せた。 雄介が沈黙すると、深月は奇妙な居心地の悪さを感じた。 目の前の青年に対してどういう態度を取ったらいいのか、急にわ からなくなったのだ。 ﹁⋮⋮えっと、ご飯の仕度します。昨日、優たちにご飯、ありがと うございました﹂ ﹁おう。マスクしとけよ。飯にくしゃみは飛ばすな﹂ そのぶっきらぼうな言葉にも、深月は苦笑いを浮かべるだけだ。 もう不快感はわかなかった。 176 26﹁交尾﹂◆ 十二月も半ばになり、気温はさらに冷えこんできた。 屋上は風がよく通るので、コートを着込んでいても肌寒さを感じ る。 機械の間に張ったロープに洗濯物を干しながら、深月は空を見上 げた。雲ひとつない快晴だった。洗濯物も夕方までには乾くだろう。 雄介がスーパーから姿を消して、今日で四日目。 三日ぐらいで帰ってくると言っていたので、昨日は夕食を準備し て待っていたのだが、雄介は姿を見せなかった。 途中で何かあったのだろうかと、深月は不安になる。 ︵⋮⋮大丈夫だよね︶ 今までにも、何日かスーパーを空けることはあったのだ。今回も、 そのうち姿を見せるだろう。 落ちつかない気分のまま、深月は物干し場を離れた。 屋内への階段近くでは、ステンレスでできた円筒形の燻製器が、 わずかに白煙を立ちのぼらせている。付属の温度計を見て、内部が 30℃前後に保たれていることを確認する。 低温での長時間の燻製は水分をよく飛ばせるため、食料の保存に 適している。下段のスモークウッドが煙を出し、上の網に置かれた 食料を燻すという仕組みで、延焼にさえ気をつければ、ダンボール でも燻製器は作れる。大量に燻製するときは、自作しても良いだろ う。 今回は、事前の液漬けがいらないソーセージとチーズの燻製を作 っていた。温度調整のコツが掴めれば、他の物にも挑戦するつもり だった。 177 この仕事は雄介から丸投げされているため、自分で資料を見なが ら、試行錯誤するしかない。他にも言いつけられた作業はある。と にかく任された分はやろうと、深月は張りきって下に向かった。 リストにしておいた仕事がすべて終わり、夕方、洗濯物を取りこ んだあとも、雄介は姿を見せなかった。 ﹁帰るの、明日なのかな⋮⋮﹂ 陳列棚の間を歩きながら、深月はぼんやりとつぶやく。 片手には自作のノートがあり、山での作業に必要な道具がそこに リストアップされている。それを見ながら、深月は物品をカゴに入 れていった。 ふと、婦人服のテナントが目に入った。 ﹁⋮⋮﹂ 深月は少し迷ったあと、カゴを床に置いた。ノートもその中に入 れておく。 秋物と冬物のいろんな服が並んでいる中を、ゆっくりと歩いてい く。 そこにあるものなら、自由に手に取り、身に着けられる。深月は 少しだけわくわくした。 ﹁あ、これ可愛い⋮⋮﹂ 普段は作業のためにそうもいかないが、深月はファッションとし てはスカートの方が好きだ。 178 二階にも空調は入っているが、スカートでは少し肌寒い。レギン スのコーナーから防寒用の厚手のタイツを取り、試着室で履いてみ る。 それから、膝丈のチェックスカートや、ゆったりしたフレアスカ ート、普段なら着ることもないフリル付きのものまで、鏡を見なが ら着まわしてみた。 Aラインのワンピースや、レース付きのチュニックなど、ひとし きり取っかえ引っかえしたあと、コーナーの一角で紺のブレザーを 見つけた。気まぐれで手に取ってみる。 ﹁懐かしいな⋮⋮﹂ シャツの上に羽織り、ネクタイまで着けてみると、まるで制服の ようだった。一瞬だけ、昔に戻ったような気持ちになる。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月はその懐かしい姿を鏡でながめていたが、しばらくして、後 ろから足音が響くのに気づいた。 振りかえると、遠くに雄介の姿があった。エレベーターで上から 降りてきたらしい。こちらに近づいてくる。 ﹁武村さん!﹂ 深月の声に、雄介が軽く手を上げる。 ﹁おう。遅くなった﹂ ﹁お帰りなさい! 大丈夫でしたか?﹂ ﹁あー、別に問題ない。欲しいのは大体手に入った。下の車に積ん である﹂ 179 言いながら、雄介の表情が曇っていることに、深月は気づいた。 ﹁⋮⋮何か気になることが?﹂ ﹁外のゾンビが少なくなってる﹂ ﹁え?﹂ ﹁数が減ってるわけじゃない。屋内とか地下に潜ってるみたいだ﹂ ﹁そんなことが⋮⋮﹂ ﹁山に行くには好都合なんだけどな。もうちょっと少なくなれば、 お前らでも安全に移動できそうだ﹂ そう言いながらも、雄介の表情は晴れない。何か懸念があるよう だったが、それを口にすることはなかった。 雄介はわだかまりを振りきるように、 ﹁ま、電気があるうちはここに留まる。別に急ぐ必要もないしな。 そっちはどうだ?﹂ ﹁えっと、言われたことは全部終わりました。それと、山での自給 自足なんですけど、ノートにまとめてみました﹂ カゴからノートを取りだし、付箋のついたページを開いて、雄介 に手渡す。 興味深そうに手の中のノートをながめる雄介に向かって、深月は 話しはじめた。 ﹁ビニールハウスは無理でも、わだちを何かで覆うだけでも違いそ うです。寒さに強い葉物なら、条件が良ければ、冬の間にも発芽す るかもしれません。他のは三月まで待たないと駄目ですけど、山の 土壌なら、いろんな作物を自然栽培できるかも。化学肥料とか、除 虫、除草は、作物の形を気にしなければ、必須でもなさそうな感じ 180 です。いろいろ本を読んだだけですけど、土いじりってけっこう面 白そうです﹂ 深月の話を聞きながら、雄介はぱらぱらとノートをめくっていく。 各農作物の種まき時期や、収穫までの時間、必要な土壌の性質や、 それを雑草の種類から調べる方法、堆肥による土の整え方から、そ の堆肥の作り方まで、雄介の持ちこんだ農作資料の内容が、カラー ペンのイラスト付きでわかりやすくまとめられていた。 難易度が低く、すぐに収穫できるものとして、芋や一部の作物も ピックアップされている。さらに詳しい情報先として、各資料のペ ージ数まで書いてあった。 それらを流し読みし、雄介はしばらく沈黙したあと、のっそりと 言った。 ﹁⋮⋮お前さ、もしかしてすげー頭いい?﹂ ﹁え? さあ⋮⋮。自分ではよく⋮⋮﹂ ﹁学校の成績とかどうだったんだよ﹂ ﹁えっと⋮⋮﹂ 少しだけ言いよどみ、 ﹁一応、テストで五番以内には入ってました﹂ ﹁クラスで?﹂ ﹁学年で⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は無言になる。 ﹁⋮⋮俺、真ん中から上に行ったことねーや﹂ ﹁そ、そうですか﹂ 181 ﹁これも頭いい奴のノートって感じだよなー、マジで﹂ ﹁えっと⋮⋮すみません﹂ ﹁? なんで謝るんだよ。わかりやすいし、頭使う仕事はお前にや らせた方が良さそうだな﹂ 雄介に褒められて、深月は緩みそうになる頬をおさえた。良い成 績を取ったときよりも、なぜかはるかに嬉しかった。 一通り目を通すと、雄介はノートを閉じ、深月を見つめた。 ﹁それで⋮⋮その格好は?﹂ 上から下まで視線を動かし、深月の服装を観察する。 さらに、薄いピンクのグロスが引かれた唇に、雄介の目がじっと 注がれる。 深月はもじもじと、気まずそうに視線をそらした。 ﹁その⋮⋮言われていたお仕事、全部終わったので、ちょっと気分 転換に⋮⋮。すみません﹂ ﹁いや、それは全然いーけどな﹂ 雄介は言葉を切り、ゆっくりと深月の後ろにまわる。深月が不安 げに視線で追っていると、急に後ろから抱きすくめられた。 ﹁着たままやるか﹂ ﹁へっ?﹂ 試着室に連れこまれ、言葉の意味を理解し、深月は慌てて言った。 ﹁あ⋮⋮えっ⋮⋮その、石鹸の匂いがしますね。どうしたんですか ?﹂ 182 ﹁あー、家でシャワー浴びてきた﹂ ﹁⋮⋮武村さんのお家ですか?﹂ ﹁おう﹂ ﹁いいですね! ここだとお風呂には入れないし﹂ ﹁梱包用のでかいビニール袋あっただろ。あれダンボール箱に貼り つけて、給湯室で湯を入れたら、風呂になるんじゃねーか? 台車 の上に作れば、あとはトイレかどっかで流せばいいし﹂ ﹁あ、そうか。そうですね! 今度やってみます﹂ ﹁⋮⋮お前、頭いいのに抜けてるよな﹂ ﹁すみません⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ていうか、話そらそうとしてないか﹂ シャツごしに、胸を後ろから揉みしだかれて、深月は焦った。 ﹁あの⋮⋮夜に、夜なら! ここでは、ちょっと⋮⋮﹂ ﹁お前に拒否権はねーよ。足開け﹂ 耳元でささやかれて、腰が砕けそうになる。 深月は震えながら、スカートの下の、タイツに包まれた足をゆっ くりと開いた。 雄介にはもう何度も抱かれているが、服を着たままというのは初 めてだった。心の準備もできていない。猛烈な羞恥心に、顔が真っ 赤になる。 ﹁上脱いで、鏡に手をつけ﹂ 言われるままにブレザーを脱ぎ、シャツ一枚の姿で、両手を鏡に つく。雄介に腰を突き出すような格好になり、さらに頬が火照るの を感じた。 手がスカートの中に入ってきて、深月はびくりと震えた。タイツ 183 が太股までずり下ろされ、白い臀部があらわになる。レースのショ ーツごと、ゆっくりと撫でさすられる。 ﹁っ⋮⋮!﹂ 指がそっとショーツ越しに入り口をなぞり、深月はかすかに声を 漏らした。 正面の鏡では、垂れたスカートに隠されて、その下の様子は見え ない。しかし、深月の下着はだんだんと湿りはじめていた。それを 雄介に見られていると思うと、羞恥に逃げ出したくなった。 下着ごしに、くにくにと入り口をいじられる。伸ばした指に、敏 感な突起の部分を撫でられ、ひだを一つ一つ伸ばすように触られる と、深月は声を抑えるのが難しくなった。息は荒くなり、腕に力が 入らなくなる。ショーツのそこは水分を含み、触られると、くちく ちと粘着質な音がした。 やがて、指で引っかけるようにして、ゆっくりと下着がずり下ろ されていく。 ︵あ⋮⋮あ⋮⋮︶ 下着との間に、いやらしく糸が引いているような、そんな光景を 想像した。 後ろから、カチャカチャとベルトを外す音が聞こえ、硬く熱いも のがお尻に押しつけられる。そこで深月は我に返り、 ﹁あ、あの⋮⋮ゴム⋮⋮今なくて⋮⋮﹂ ﹁あるからお前がつけろ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 個包装のコンドームを手渡されて、深月は途方に暮れた。 184 後ろから抱き起こされる。 雄介の硬いものを股間で挟むような形で、深月は爪先立ちになっ た。ほぐれた深月の入り口を押し上げるように、血管の浮いた雄介 の剛直が自己主張している。鏡を通して、その卑猥な光景を真正面 から見る形になり、深月は顔を赤くした。 ﹁あ⋮⋮えと⋮⋮﹂ ﹁開けて被せるだけだって。やってみろ﹂ ﹁は、はい⋮⋮﹂ 震える手で包装を破り、教えられた通りに、先端の精液溜まりを 詰まんで手に持つ。股の間にある雄介のものに、おそるおそる被せ る。先端から根元の方まで、しごくようにして伸ばすと、ものが手 の中でびくびくと脈打った。 ﹁よーし。よくできた。尻借りるぞ﹂ ﹁そっ、そんな言い方⋮⋮!﹂ 抗議の声も無視して、雄介は深月の体をそっと押し倒す。深月は 鏡に両手をつき、再び腰を突きだす形になった。 挿入の予感に、深月の心臓は痛いぐらいに高鳴った。 ごつごつした男の手が、深月の腰を掴む。蹂躙の気配が、ゆっく りと近づいてくる。 深月の濡れきったそこに、硬いものが押し入ってきた。 痛みはなかった。 ずぶずぶと入ってくるものを、体の奥まで受け入れ、深月は眉を 寄せた。荒い息を吐きながらも、中から広がる感覚に、深月は困惑 した。 ︵あれ⋮⋮なんで⋮⋮?︶ 185 本格的な抽挿が始まる。ぱん、ぱん、と、深月の柔らかい尻に、 雄介の腰が叩きつけられる。 中を前後にこすられるたびに、むず痒いような感覚が、腰から這 いあがってくる。先の快感を期待させるような、もどかしくも切な い感覚だった。 ︵今日、はやい⋮⋮くるの⋮⋮!︶ 思う存分突きまくられているうちに、頭がぼうっとなってくる。 ピンク色のもやがかかったように、理性が溶けていく。 口元にそっと差しだされた雄介の指を、深月は夢中で口に含む。 雄介は、深月にキスを迫ったり、無理やり咥えさせようとはして こなかった。唇だけは、という深月の最後の抵抗を、尊重してくれ ているのかもしれない。そう思うと、心の奥に奉仕感がわいてくる。 舌を絡ませ、指の関節の一つ一つを舐めとっていく。まるで男根の ように、深月の唇を割り開いて侵入してくるそれを、深月は迎え入 れるように、ねっとりと舌で受けとめた。 鏡には、だらしなくよだれを垂らしながら、前も後ろも犯されて いる、はしたない自分の姿が映っていた。 ︵いや、らしい⋮⋮よ。私、いやらしい⋮⋮︶ かつて夢想していた、ロマンチックな幻想はもうない。好きな人 と、ゆっくりと気持ちをはぐくみ、互いに成長し、やがて結ばれる という、そんな幻想は。 恋ではなく、愛でもない。傷ついた野生動物が、ほら穴の奥で互 いの傷を舐めあっているような、そんな交合だった。 ︵あ⋮⋮、⋮⋮あっ!︶ 186 むず痒さは痺れるような快感に変わり、体から逃げることなく、 どんどん胎の奥で大きくなっていく。今まで経験したことのない感 覚だった。 思うさま揺さぶられているうちに、だんだんと快感の質が変わっ てきた。壁を飛びこえた先の、その快楽の予感に、深月は怯えた。 ﹁こ⋮⋮怖い⋮⋮です、武村さん、これ、怖い⋮⋮!﹂ その切迫した叫びに、雄介が動いた。硬い芯が体の中から引き抜 かれ、ぽっかりと空いたようになる。深月が声を上げる間もなく、 試着室の床に押し倒され、仰向けに転がされた。 上からのしかかってくる雄介を、深月は両手をまわして抱きしめ た。はしたないという意識もなく、深月の股はオスを迎え入れるた めに、大きく開かれる。そのおねだりに応えるように、ずぶずぶと 硬いものが挿しこまれた。失われていた充足感と、焼けつくような 快感が、再び戻ってくる。 ︵あ⋮⋮腹筋、かたい⋮⋮︶ 蕩けた思考で、深月は雄介の体に手を這わせ、その肉体の頼もし さを感じた。服の下にある筋肉の硬さが、深月の脳を痺れさせてい く。 ︵かたい⋮⋮すごい⋮⋮よ⋮⋮︶ 腰を打ちつけられるままに、深月の体は揺れる。快感のボルテー ジがどんどん上がり、思考が溶けていく。寂しさも、苦しさも、不 安も苦痛もすべて消え、深月という少女を、快感に溺れる雌に変え ていく。 187 不意に、壁を越えた。 ﹁あっ⋮⋮あああああっ!﹂ 浮き上がろうとする体を繋ぎとめるように、深月は雄介の背中に 手をまわし、必死でしがみついた。下半身を、せがむように、ねだ るように、雄介の腰にぐりぐりと押しつける。男の硬いものが、胎 の奥を圧迫する感覚。かすかな痛みさえも快感に変わり、深月を一 気に押し上げていく。 そのとき、深月は体内にオスの昂ぶりを感じた。いっそう強く抱 きしめられ、えぐるように打ちこまれる。その体がぐっと強張り、 深月の奥で精を吐き出すために、びくびくと脈動する。 体の中で雄介が達したのを感じ、そのことに本能的な幸福感を覚 え、全身を覆う快感の波が頂点に達して、深月の意識は白く弾けた。 188 27﹁停電﹂◆ 十二月は特に問題も起こらず、山籠もりの準備で、一日、また一 日と時間は過ぎていった。 雄介はダンボール箱を抱え、地下の搬入口のダンプに積みこんで いるところだった。 中身は燻製肉で、深月たちが加工したものだ。一階の調理場から 真空パック器を持ちこんで、パッキングしてある。それらをビニー ル袋に小分けし、新聞紙を緩衝材にして、ダンボール箱に詰めこん であった。 材料は冷凍庫にあった牛肉や豚肉だが、冷凍とはいえ生肉が食べ られるのは今のうちだけなので、最近は三階にコンロを持ちこんで、 肉ばかり食べている。 レトルトよりはよほど美味しいし、深月が料理の本を見ながらい ろいろ試しているようで、それなりに多彩な食卓になっていた。 ﹁けっこう使えるなーあいつ﹂ 雄介はつぶやく。 ﹁体もエロいし。拾いもんだったかな﹂ あれから何度も体を重ねているが、すでに拒否するような雰囲気 はない。恥じらいはあるが、雄介の乱暴な動きに抗議するでもなく、 体を押しつけてくる。従順になった深月に、雄介は満足していた。 雄介はダンプの荷台に上がり、荷物を抑えているロープを適当に 直していく。集めた燃料や道具、機器類などは、すでに山に運んで ある。今荷台に積んであるのは、ほとんどが水と食料だ。 189 雄介がいる荷下ろし場はプラットフォームのような形で、ダンプ を停めてある停車場から少し高くなっている。道路はカーブをしな がら地上に続いているが、今は入り口でシャッターが下ろされてい るため、地下は薄暗い。配線やダクトがむきだしの天井にある蛍光 灯だけが、わずかな光源となっている。 荷下ろし場の近くにはエレベーターがあり、これで一階や二階へ 荷物を直接運びこめるようになっている。三階にも直接行けるため、 雄介自身は、機械室や電気室のあるフロアへはほとんど入ったこと がない。一度ざっと見てまわったことがあるだけだ。 その、屋内へと続く扉の向こうから足音がして、雄介は動きを止 めた。 深月は三階にいるし、中に誰かがいるはずもない。 雄介は腰の拳銃を抜き、物音を立てないよう、扉にゆっくりと近 づいた。 顔を寄せて、耳をすます。 鈍い足音が、扉の奥へ遠ざかっていく。 そっと開けて中をのぞくと、ふらつく中年の女の背中が見えた。 右腕を怪我している。 ゾンビだ。 ﹁んだよ⋮⋮﹂ 拳銃をしまい、扉の中に入る。 近くには、一階へと続く階段がある。そこから降りてきたらしい。 奥へ行こうとするゾンビを引きずり、階段の上へと追いやる。つ いでに防火扉を閉めて、ゾンビが入れないようにする。 ゾンビは能動的には物を壊さないが、万が一ということもある。 機器類の置かれた地階をうろついてほしくはない。 ふと、かすかな異臭が鼻についた。 190 ﹁⋮⋮なんかくせーな﹂ 奥に死体でも転がっているのかもしれない。この臭いに引き寄せ られてきたのだろうか。 そのとき、腰にかけたトランシーバーから、雑音交じりの声が届 いた。 ﹃武村さん、武村さん、聞こえますか? こちらは三階です﹄ 雄介はそれを手に取り、 ﹁聞こえてる。レピータは順調みたいだな。なんかあったか?﹂ ﹃あの、こちらに来てもらえませんか? 女の人が無線で助けを求 めてるんですが⋮⋮応答した方がいいですか?﹄ ﹁今行く。ちょっと待ってろ﹂ 久しぶりの生存者との接触だった。 雄介は急いで三階に向かった。 ﹃助けて⋮⋮助けてよぉ⋮⋮誰かぁ⋮⋮﹄ 何度も繰り返されるその無線を、雄介はヘッドフォンで聞いてい た。外付けのスピーカーからも同じ音声が流れている。深月は不安 そうに、雄介の様子をうかがっていた。 事務所のデスクに置かれているのは、菓子箱ぐらいの大きさの無 線機だ。屋上のアンテナまで同軸ケーブルを伸ばしているので、受 信範囲は広い。 今までにも無線が入ることはあったが、ほとんどは暗号化された 191 デジタル無線の雑音で、生存者からのものは初めてだった。 女は涙声で、数分に一回ぐらいの間隔で発信している。 ほとんどはメインチャンネルでの発信で、たまに周波数を変えて いるようだったが、そちらも無線機のスキャン機能ですぐに捕捉で きた。 その無線を聞きながら、雄介は深月に言った。 ﹁ちょっと応答してみろ﹂ ﹁わ、私がですか?﹂ ﹁女の方が安心するだろ。ここのことは言うなよ。向こうの居場所 だけ聞け。やり方わかるな?﹂ ﹁は、はい﹂ 深月は付属のマイクを手にとり、横の送信ボタンを押す。 少しためらったあと、深月は口を開いた。 ﹁あの⋮⋮こんにちは﹂ 深月が送信ボタンを離すと、途端に女の声が入ってきた。 ﹃助けて! どこにいるの!?﹄ 深月は答えようとするが、受信ランプがついたままだ。向こうが 送信し続けているのだ。 ようやく発信できるようになり、深月は言った。 ﹁落ち着いて! 落ち着いてください。無線だと同時には話せない んです。喋り終わったら、送信ボタンを離してください。そちらは どこにいらっしゃるんですか?﹂ 192 少しして、再び女の声。 ﹃知らないわよ! 助けて! どこに行けばいいの? ねえ!﹄ 切り替わる音。 ﹁⋮⋮あの、落ち着いて、聞いてください。どこかに立てこもって いるんですか? 他に人はいますか?﹂ 少しの間。 ﹃⋮⋮んでそんなこと聞くの!? 助けてくれないの!? いや、 いやぁ、もういや⋮⋮どこにいるのか教えてよぉ⋮⋮﹄ ﹁あの⋮⋮﹂ ﹃そっちに行きたいの⋮⋮だから教えてよ⋮⋮ねぇ⋮⋮﹄ 横から伸びた雄介の手が、無線機のスイッチを切った。 女の声が途切れる。 深月は戸惑ったように雄介を見上げるが、それに手を振り、 ﹁もーいいもーいい﹂ ﹁で、でも﹂ 雄介はヘッドフォンを外しながら、 ﹁後ろで他の奴の足音が聞こえた。声の途切れ方もおかしい。別の 人間が無線機を操作してるんだろ。女は囮だ﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁言ってることも支離滅裂だし、こっちの居場所を探ってるんじゃ ねーか? 考えることはみんな同じだな﹂ 193 ﹁⋮⋮でも⋮⋮あの人、演技には⋮⋮﹂ ﹁後ろで脅されてるのかもな。でも、あれじゃーな。やばそうだし 助けるメリットもない﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月はうつむいた。 それを見て雄介は頭をかき、 ﹁この場所を教えたってな、何が来るか責任はとれねーぞ。今は外 のゾンビも少ないんだ。お前も変な考えは起こすなよ﹂ ﹁そんなこと⋮⋮﹂ 深月は顔を上げ、寂しげに笑った。 ﹁そんなこと、しません。武村さんの言うことはいつも正しいです。 私は武村さんの言うことに従います。心配しないでください﹂ ﹁ならいーけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮えっと、洗濯物、取りこんできます﹂ 深月はデスクから立ち上がり、廊下へ歩きだす。 その小さな背中に、雄介はため息をついた。 ︵難義な奴だな⋮⋮︶ 雄介はデスクに向きなおり、無線機のスイッチを入れる。マニュ アルを片手に、ぎこちない手つきでスペクトラムスコープを操作し、 他に受信電波がないことを確かめる。 ︵ボタン多すぎなんだよなーこれ︶ 194 録音やタイマーぐらいなら予想もつくが、英字の略号だらけのペ ージは、ほとんど暗号にしか見えない。使っている機能はごくわず かだ。 無線機の設定を戻し、一息つく。 ふと、近くにあった卓上カレンダーが目に入った。 今日の日付の下には、イベントを示す印がついている。 ﹁そーいや今日か。⋮⋮早いもんだ﹂ 雄介はマニュアルを放りだす。 部屋の入り口にかけていたジャケットを羽織り、バイクの停めて ある裏口へと向かった。 その日の夜。 夕食後の会議室。 ﹁ふうっ⋮⋮﹂ 主人公とヒロインの抱き合う場面で映画が終わり、深月が小さく 息をついた。 会議室の大きなモニターでは、エンドクレジットが流れはじめて いる。 雄介は軽く首を鳴らし、感想を端的につぶやいた。 ﹁微妙﹂ ﹁そうですねー⋮⋮﹂ 引退した情報分析官がテロリストと戦う、よくあるアクション映 195 画だった。 面白くないこともなかったが、感動に放心するほどでもない。 ﹁けっこう評判良かったんで、期待してたんですけど﹂ ﹁そーな⋮⋮﹂ エンドクレジットが終わると、他の映画のCMが始まった。プロ モーションビデオが流れ、次々と映像が移り変わる。 ﹁あ、これ! 次があったらこれ見ませんか。気になってたんです﹂ ﹁へー⋮⋮動物ものか﹂ 動物と話ができる連邦捜査官が、その力で犯罪者を追い詰めてい くという、ややコメディタッチの洋画だった。そこそこ有名で、シ リーズも三作まで出ている。 ﹁まー今のよりはマシか⋮⋮﹂ 雄介たちは会議室にポータブルプレイヤーとソファーを持ちこん で、映画の鑑賞会をしていた。テーブルは隅に寄せられ、床にはス ナック菓子やペットボトルが積まれている。会議室の照明は消して いるので、大型モニタの明かりだけが、わずかにまわりを照らして いた。 時計は深夜の一時を回っている。 クリスマスだった。 食料の備蓄や、道具の収拾も順調に進んでいたので、今日だけハ メを外すことにしたのだ。 最初に見たのは、ディケンズの名作をテーマにしたディズニー映 画だった。原作は昔読んだことがある。ガキがこれを見て面白いの かと思いつつも選んだのだが、それなりに好評だった。 196 弟たちが寝たあとは、二人で積んだDVDを消化していた。しゃ れで入れたゾンビ映画もあったが、さすがに手はつけていない。 やや弛緩した空気の中、雄介はサイドテーブルのコーヒーカップ を口に運ぶ。冷めきったそれに顔をしかめると、 ﹁あ、入れなおしてきます﹂ 深月がカップを受け取り、給湯室に向かう。 その背を眺めながら、 ︵⋮⋮最近素直だよなー︶ 雄介はぼんやりと思う。 最初のころの態度が嘘のようだ。 深月はカップを乗せたトレイを持ち、すぐに戻ってきた。 トレイを置き、スカートの裾を押さえながら、雄介の右隣に腰を 下ろす。その距離は近く、かすかにソファーが沈むのを感じた。 ﹁どうぞ。インスタントですけど﹂ ﹁おー﹂ コーヒーをすすりながら、横目で深月をながめる。深月は自分の カップを両手で持ち、ちびちび飲んでいる。 気まぐれに腰に手をまわしてみるが、一瞬こちらに探るような視 線を向けるだけで、拒絶はしない。 見た目だけなら恋人同士に見えなくもないが、そうではないこと を雄介はよく知っている。単純に考えれば媚びを売っているのだろ うが、その挙動はずいぶん自然だった。 ︵⋮⋮まあいいか︶ 197 考えるのをやめ、腰にまわした手を下に滑らせる。 ﹁あっ⋮⋮﹂ 深月は言葉を切り、体を強張らせた。 膝丈のスカートの裾から、雄介の手が入りこんできたのだ。深月 は震える手でカップを置き、スカートを力なく押さえる。 太股まで手を滑らせると、生地の感触が途切れ、深月の柔らかい 内股の感触が手に伝わってきた。チェックのスカートがめくれ、白 いショーツが露になる。今日はタイツではなく、ニーソックスのよ うだった。脱がせる手間がなくていい。 ﹁準備いいじゃん﹂ ﹁別に⋮⋮そういうわけじゃ⋮⋮﹂ 深月は息を乱しながら言う。 太股に両側から圧迫されながら、雄介はゆっくりと指を動かす。 下着の上から入り口をこすられるのが好きだというのは、すでにわ かっている。人指し指で、クリの部分を円を描くように撫で、閉じ たスジを中指で繰り返しなぞる。 ﹁⋮⋮ぅ⋮⋮ん⋮⋮﹂ だんだん深月の呼吸が荒くなる。かすかに開いた入り口を下着ご しに弄っているうちに、指先に湿りけが感じられた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 股間に感触を感じ、視線を下ろすと、深月の左手が雄介の膨らん 198 だ部分に、そっと添えられていた。優しく包むように、撫でさすら れる。そのむず痒い感触に、深月の手の中でさらに硬さを増す。 ﹁あ⋮⋮﹂ 深月の声が漏れ、手の動きが止まる。少しして、ジッパーに手が かかり、ゆっくりと下ろされた。その隙間から、深月のしなやかな 指先が入りこんできた。 薄い下着ごしに、指先でくにくにと、そそり立った亀頭の裏スジ を刺激される。根元から上まで撫でられ、張りだしたエラをくすぐ るように、人指し指でなぞられる。 自分でしごくのとは違う、その慣れない刺激に、さらに血が集ま ってきた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は無言で、それに視線を落としている。 雄介は指先を、濡れきった深月の下着の隙間にわずかに潜らせた。 濡れた陰毛をかき分けるように、少しずつ、少しずつ差し入れてい く。 焦らすようなその動きに、深月の呼吸がさらに荒くなる。身を硬 くし、快感の予感に動きを止めている。 雄介の指先が、ぬるぬるになった敏感な膨らみに触れた。 ﹁あうっ⋮⋮!﹂ 深月は身を折り曲げ、雄介の腕を抱きしめるようにして悶えた。 愛液でべたつくそこを、指先で優しく撫でてやると、 ﹁あっ⋮⋮んんっ⋮⋮! や⋮⋮だっ⋮⋮﹂ 199 快感から逃れるように、こちらにしがみついてくる。 手がべとべとになるまでそこをいじったあと、雄介は言った。 ﹁上に乗れ﹂ ﹁⋮⋮ぁ⋮⋮はい⋮⋮っ⋮⋮﹂ 深月は溶けた瞳でうなずき、ふらつきながら体を起こす。雄介に またがるように座りなおし、雄介のベルトを外しはじめる。 中から硬くなったものを取り出すと、スカートのポケットからゴ ムを取り出し、先端からそっと被せた。 雄介は腰を前にずらし、深月が入れやすいように、背もたれによ りかかった。深月を見上げるような体勢になる。 深月は熱に浮かされたような声で、 ﹁入れ⋮⋮ます、ね⋮⋮﹂ 左手で雄介のものを押さえ、その上に自分の濡れた部分をあてが い、ゆっくりと腰を下ろしていく。 ﹁あ⋮⋮ぁ⋮⋮﹂ スカートに隠れて見えない亀頭の先を、ねっとりとした熱いもの が包みこんでいく。ぬかるんでいるが締めつけはきつく、ざらざら した壁が、雄介のものを刺激してくる。 深月の白いブラウスの膨らみが、こちらの顔に押しつけられた。 深月は雄介の頭を両腕で抱きしめ、腰を動かしはじめた。 ﹁⋮⋮あっ! ⋮⋮んっ!﹂ 200 雄介のものが浅く入り口を出入りするたびに、深月は声を上げる。 その腰に両手を添え、深月が動くがままに任せた。 ときおり腰を突き上げてやると、深月はか細く鳴き声をあげる。 柔らかい尻が、たぷんたぷんと雄介の腰にぶつかる。ぬめった感触 が、硬く上を向いた肉棒をくわえこみ、しごきあげていく。 深月のその淫卑な動きを見ながら、 ﹁お前もエロくなったよなー﹂ ﹁だれっ、の⋮⋮、せい、ですか⋮⋮﹂ 深月は体をわずかに起こし、不服そうにこちらを睨んでくる。 その顔を見ながら、雄介は腰を前後に動かしてやった。 中をえぐるように刺激され、 ﹁やっ⋮⋮!﹂ 深月はうずくまるように、こちらにしがみついてくる。首筋に熱 い吐息を感じながら、膣内の側壁をえぐるように、腰を動かしてい く。 ﹁こーいうのはどうだ?﹂ ﹁⋮⋮しり⋮⋮ません⋮⋮﹂ 言いながらも、深月の吐息は快感に乱れていく。どうやらこの感 触が気に入ったようだ。雄介が動きを止めたあとも、自分からこす りつけるように腰を動かしている。 雄介の目の前では、ブラウスに包まれた深月の胸が揺れている。 その胸元のボタンに手をかけると、深月が濡れた視線でこちらを見 つめてきた。 ぷち、ぷち、と上から三つほど、ボタンを外す。大きく開いて胸 201 元をはだけさせると、汗でしっとりと湿った白いブラが露になった。 上にずらすと、柔らかい乳房がまろびでる。ピンク色のつぼみは すでに硬く尖っていた。 その柔肉を手ですくい上げながら、 ﹁やっぱ着たままのがエロいな﹂ ﹁そう⋮⋮なんですか⋮⋮?﹂ 胸を揉まれ、深月は頬を赤く染めて言った。 ﹁ロマンだよロマン﹂ ﹁そういえば⋮⋮制服っぽい格好だったとき、いつもより硬かった ような⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮別に俺はロリコンじゃねーぞ﹂ ﹁⋮⋮いえ、いいんですけど⋮⋮﹂ くす、と深月が笑う。 雄介は無言で、深月の胸の、桜色の先端を口に含んだ。吸い上げ ながら唇でこすり、舌先でねぶってやる。 ﹁っ、ぅあっ! それっ⋮⋮!﹂ 深月は身をよじらせ、雄介の頭をかき抱く。 腰を動かし、奥をつついてやると、深月は嬌声をあげた。胸を吸 われながら、自分の中の気持ちいい部分に、雄介の硬いものをこす りつけていく。 その深月の動きに、雄介は唇を歪め、 ﹁お前だって楽しんでるじゃねーか。立場忘れてねーだろうな?﹂ ﹁だって⋮⋮! 最近っ⋮⋮優しくしてくれるから⋮⋮だからっ⋮ 202 ⋮﹂ 深月の、雄介を抱きしめる手に、一瞬力がこもった。 ﹁ぁ⋮⋮ぅあっ!﹂ 深月は感極まったように、ぶるぶると体を震わせた。柔らかい胸 や尻が、たぷたぷと揺れながら雄介の体に押しつけられる。全身を 包む少女の体と、その中の濡れた感触に、雄介の快感も高まる。 深月の胎の一番奥、そのコリコリした部分が、雄介の精を吐き出 させようと、亀頭を刺激してくる。舐めるような、吸いつくような その感覚に、我慢も限界を越えた。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 腰の奥から這い上がってきた欲望が、柔らかく包みこむ深月の体 の中に、びゅく、びゅくと吐き出されていく。 その律動に、 ﹁あ⋮⋮﹂ 深月は雄介を抱きしめたまま、満足げに吐息を漏らした。 ひとしきり精が吐き出されると、ゆっくりとお互いの体が弛緩し ていく。 力なくしだれかかってくる深月の、その柔らかい重さを感じなが ら、雄介は息をついた。 深夜、肌寒さに目が覚めた。 203 毛布の中は自分と深月の体温で暖かいが、わずかにはだけた部分 から冷気が入りこんでくる。 暖房が止まっていた。 それを認識すると、雄介は毛布から出て、散らばっていた衣服を 手早く着込みはじめた。 ﹁武村さん⋮⋮?﹂ 深月も目が覚めたようで、ぼんやりした視線のまま、裸身に毛布 をまとって身を起こす。 ﹁暖房が止まった。様子を見てくる﹂ その言葉を聞いて、深月は目を見開いた。 ついに来るべきものが来たのだ。 スーパーの屋上から見渡す限り、街は闇に沈んでいた。わずかに 残っていた明かりもすべて消えている。 強風の中、フェンスに手をかけ、二人は街の様子を眺めていた。 大規模な停電だった。 スーパーの中では、非常灯や防災機器、エレベーターだけが非常 用電源で動いているが、これらもそう長くは持たないだろう。 地下で燃料を補給すれば時間は延ばせるが、防災用のため、通常 のものと電気系統が違う。他の設備に電気を供給することはできな いし、その能力もない。 消化設備が止まるのを防ぐためであったり、エレベーター内の閉 じ込めを防止するための、あくまで緊急用のものだ。 屋上のタンクへ揚水するポンプも止まるので、水も今ある分しか 204 使えない。 数日以内には準備を整え、ここを出発する必要があるだろう。 しかし、今二人の目は、街の一角に釘付けになっていた。 数キロは離れているだろう、その方角の空が、明るく照らされて いた。よく目をこらせば、立ちのぼる黒煙が見える。 建物に遮られて現場は見えないが、火災が起きているようだった。 ちょうど、山へと向かうルートの途中だ。 その光景を眺めながら、雄介は言った。 ﹁お前ら、いつでも出れる準備しとけ﹂ その言葉に、深月はこちらを見上げてくる。 ﹁武村さんは⋮⋮?﹂ ﹁様子を見てくる⋮⋮やばそうならすぐ出発する。ガキども起こし とけよ﹂ 最近はゾンビも鳴りを潜め、街は死んだような静けさを保ってい たのだが、今はひどくざわついている。争いの気配があった。 205 28﹁髑髏男﹂ 火災現場は、四車線の県道沿いにある大学キャンパスだった。 道路を挟んで反対側にバイクを停め、ヘルメットのバイザーごし に、雄介は様子をうかがっていた。 月明かりはあるが、周囲は薄暗い。 正門の向こうにある五階建てぐらいの棟が、暗闇に燃え上がって いた。近くの並木道にも火が移り、枝だけになった広葉樹が大きな 松明となって、暗い敷地内を照らしている。 ︵⋮⋮失火か? 厄介事じゃないといいが⋮⋮︶ 山へ向かうなら、ここが一番の近道なのだ。雄介としては、この あたりの安全は確認しておきたい。 この付近を避けての迂回路は、かなりの大回りになる。雄介だけ ならともかく、女子供が三人もいるのだ。未開拓のルートを長々と 移動するのは避けたい。 付近には、ちらほらとゾンビの姿も見える。大学側に引きつけら れているようだが、正門は閉じられていて、ゾンビの侵入を阻んで いる。 突然、キャンパスの奥からエンジン音が響いた。 ︵⋮⋮なんだ?︶ 雄介はグリップを握りしめ、いつでも発進できるようにしたまま、 音の方向を凝視した。 現れたのは、シルバーのミニバンだった。上に何かを乗せたまま、 スリップ寸前の速度で正門に突っこんでくる。 206 閉まっている門を見てミニバンはハンドルを切るが、間にあう速 度ではない。タイヤと地面のこすれる甲高いスキール音が響き、次 の瞬間、ミニバンは門の脇の柱に鼻面を突っこんでいた。フロント が大破し、フレームの断裂する破砕音が、夜のしじまに響きわたる。 ミニバンの上に乗っていた物体が投げ出され、門を越えて、道路 に転がった。それは手足を伸ばし、体勢を整え、立ち上がった。 ミニバンの天井に乗っていたのは、黒いコート姿の男だった。 唐突な展開に固まる雄介をよそに、男はミニバンに向かって走り だす。 身軽な動作で正門を飛びこえたその男は、エアバッグの膨らんだ 車内に向かって、腰から抜いた棒を叩きつけた。ドアガラスが砕け 散り、甲高い女の悲鳴があがる。そのまま車内に腕を突っこみ、窓 から女を引きずりだす。 男は全身に凶悪な敵意をみなぎらせ、叫び声をあげる女を、正門 の鉄扉に何度も叩きつけた。飛び散る血しぶきに、門に集まってい たゾンビたちが興奮したように手を伸ばす。 やがて、女が静かになると、男は手を離した。女の体が地面に崩 れ落ちる。 男はそのそばに屈みこみ、腰の鞘から抜いた鉈を、無造作に首に 振り下ろした。切り離された生首が、地面に転がり落ちる。髪をつ かんでその生首を持ち上げ、苦悶の表情を観賞でもするかのように、 女の顔を正面からじっと眺めていた。その首筋からあふれる血が、 地面に血溜まりを作りはじめる。 やがて、男は飽きたように女の生首を放り投げると、かんぬきを 外して、正門を押し広げはじめた。 集まっていたゾンビたちがどっと中に押し寄せ、女の死体に群が っていく。 その光景に、ようやく雄介の硬直が溶けた。 ﹁おいおいおい⋮⋮﹂ 207 思わず声が漏れる。 ﹁⋮⋮ゾンビ⋮⋮なのか?﹂ ゾンビにしては人間的すぎる動きだ。 しかし、周りのゾンビに襲われる様子もない。悠々と立ち去ろう としている。 その背中に、雄介は一瞬だけ葛藤する。 あの男の正体が知りたい。 しかし、危険性が測れない。 だが、雄介はすぐに覚悟を決めた。今なら襲われても、バイクで 逃げられる。あれを何もせず見逃すのは危険だ。 雄介はエンジンを空噴かしして、排気の爆音をその場に轟かせた。 その音に、コートの男が振りむく。他のゾンビたちは反応する様 子もなく、食事を続けている。 男は全身に傷を負っているらしい。黒革のコートはひどく痛み、 傷だらけになっていた。 だが、それ以上に目についたのは、その顔だった。 鼻は砕け、鼻骨の穴が見えている。頬肉はえぐれ、歯茎がむきだ しになっている。髑髏に両目をはめこんだような、凄惨な顔面だっ た。無事なのは目元と額、短い黒髪ぐらいだ。 男と雄介は睨みあうような形で、じっと動きを止めた。 こちらを見つめてくる男の視線には、明確な知性がある。 にも関わらず、生気がまったく感じられない。 ︵やっぱりゾンビか︶ それは敵意も何もない、無機物の視線だ。 ふと、男のコートの襟元からのぞく服装に、見覚えがあることに 208 気づいた。交番などで見かける、紺色の制服だ。 腰の鞘に収められた鉈の横には、警棒もぶら下がっている。 ︵警官か⋮⋮︶ ゾンビの力は、生前の肉体に引きずられる。幼い子供のゾンビが 怪力を発することはないし、鍛えられた人間がゾンビ化すれば、か なりの脅威になる。 不意に、男が顔をそむけ、奥へと走り出した。 ︵やべっ︶ 雄介はとっさにバイクをまわした。 あの男は、ゾンビとしては明らかに普通ではない。 幸いなことに、こちらを襲ってくる様子はなさそうだ。捕捉でき ている今のうちに、なるべく様子を探っておきたい。 それに、あの髑髏男は危険でもある。あんなゾンビがいては、道 中の危険が跳ね上がる。移動中に襲われたら、三人を守りきれない だろう。 追跡して様子をうかがい、隙を見て排除する。 そう方針を決めると、雄介はグリップを握り、男の後を追った。 キャンパス内は、ほとんど人けがなかった。火災の起きている正 門近くから離れると、とたんに暗闇が濃くなる。周りの建物には光 もなく、あたりは闇に落ちていた。 歩道をバイクで走り、髑髏男の後を追ったが、奥の区画の研究棟 に入ったところで、姿を見失った。バイクを置いて中を探索するが、 一階の管理室にも気配はない。 209 雄介は拳銃を構えたまま、足音を忍ばせて階段を上がった。 屋内は暗く、窓から入る月明かりだけが頼りだ。フラッシュライ トはあるが、ぎりぎりまで目立つ行為はしたくない。 ︵ちとまずいな⋮⋮︶ 髑髏男を見失ったのは痛いが、やや深入りしすぎている。 ゾンビならまだいいが、人間の生き残りとの、暗闇での接近遭遇 は避けたい。相手が友好的とは限らないのだ。 二階に並ぶ研究室にも気配がなく、そろそろ戻ろうかと考えてい ると、かすかな物音が聞こえた。 雄介は息をひそめ、音の出所を探った。 近くの部屋のようだ。忍び足でそちらに向かい、扉のそばで聞き 耳を立てる。中で何かが動いていた。 雄介は拳銃を構えたまま逡巡したあと、小さく声をかけた。 ﹁誰かいるのか?﹂ その声にも反応はない。 かすかな物音は、相変わらず続いている。 ︵人間じゃない⋮⋮か?︶ 雄介は深呼吸をして、心を落ちつける。 頭に少し血がのぼっている。アドレナリンが出て、やや興奮状態 にあるのだ。 ドアノブをゆっくりと回し、足で蹴り開ける。すぐに壁に張りつ き、中の動きを待った。 物音は変わらず続いている。 雄介はゆっくりと、構えた拳銃を先にして、半身になりながら中 210 をのぞきこんだ。 奥の暗闇の中で、腰の高さぐらいの何かが、かすかに動いている。 右手で拳銃を構えたまま、胸のポケットから左手でフラッシュライ トを取り出す。一瞬だけ光を当てると、その正体がわかった。 四肢を切断された、女のゾンビだ。 首を壁のパイプにくくりつけられ、手足をミノ虫のように動かし ている。口には太いロープが噛まされていた。 雄介は部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。 再びライトをつけ、女の様子を観察する。 軽く染めた茶髪のボブカット、おっとりした顔だちの、大学生ぐ らいの女だ。切り落とされた手足の断面には、薄く皮膜がかかって いる。女はぼんやりとした瞳で、こちらを見上げていた。 全裸の体のあちこちには、乾いた汚れがこびりついている。かす かに漂う異臭からも、何に使われていたのかは明白だった。 豊かに盛り上がった白い胸には、長釘が何本も打ちつけられてい る。太股にも切り傷がいくつもある。面白半分にオモチャにされて いたのかもしれない。 ﹁えげつねー⋮⋮﹂ 思わず声を漏らす。 ゾンビを物扱いしている雄介ではあるが、さすがにこの扱いには 眉をひそめる。人の形をしたものを傷つけることには、それなりに 抵抗があるのだ。 ﹁世も末だよな、マジで⋮⋮﹂ 雄介はナイフを引き抜き、女の口を塞いでいたロープを切り落と す。女はきょとんとした瞳で、雄介を見上げてきた。口元の様子が おかしいのでよく見れば、歯もほとんど抜かれているようだった。 211 ︵⋮⋮俺も人のことは言えねーけど、さすがになあ⋮⋮︶ げんなりしながら、首のロープにナイフで切りこみを入れる。 不意に、後ろで扉の開く音がした。 続いて、カチリと何かの作動音がする。 強烈な悪寒を感じ、雄介はとっさに床に転がった。 次の瞬間、後ろから、パシュ、という空気の抜けるような音と、 少し遅れて甲高い金属音が響いた。 雄介は床を這いずりながら、近くに開いていた扉へと逃げこむ。 その途中で一瞬だけかいま見えたのは、入り口に立つ人影だった。 大きな塊を構え、こちらに向けている。何かの射撃装置らしい。 逃げこんだ場所は資料部屋らしく、キャビネットとスチール机が あるだけで、出口はなかった。 ︵くっそ︶ 雄介は体勢を立てなおし、膝立ちの射撃体勢をとって、隣に呼び かけた。 ﹁おい! こっちは人間だ! 間違えんな!﹂ 返答は、パシュパシュ、という射撃音だった。揺れる扉に長釘が 打ちつけられ、へこみを作って床に転がる。 ネイルガンらしい。安全装置を外しているのだろう。威力から見 てガス式だろうか。 ︵しょーがねえ、ちょっと驚かすか︶ リボルバーの撃鉄を起こし、扉に向ける。 212 身を晒してまともに撃ちあうつもりはない。リスクが大きいし、 積極的に殺し合いをしたいわけでもない。威嚇で逃げてくれれば御 の字だ。 無造作に近づいてくる足音に、雄介はタイミングを計る。 トリガーを絞ろうとする寸前、隣の部屋から、男の驚愕の声が響 いた。 揉みあうような物音と、ネイルガンの乱射音。跳弾した釘が部屋 を跳ねまわり、けたたましい金属音を立てる。 とっさにのぞきこむと、黒い人影の足元に、先ほどの女ゾンビが 組みついていた。切りこみを入れていたロープを自力で引きちぎっ たらしい。唸り声をあげながら、四肢のない体をくねらせ、男の足 に噛みつこうとしている。 歯がないため致命傷にはならないだろうが、ゾンビに襲われたこ とで男は慌てたらしい。手に持っているネイルガンを振りまわし、 釘を乱射している。 ︵あぶねっ︶ 近くに跳弾してきた釘に、雄介は頭を引っこめる。 しばらく乱闘音は続いていたが、やがて静かになった。慌てたよ うな足音が、部屋の外に遠ざかっていく。 恐る恐る部屋をのぞきこむと、体中に釘を生やし、床に横たわる 女の姿があった。天井を見つめる瞳は茫洋と、一切の光を失ってい る。その額には、長釘が何本も突き刺さっていた。 ゆっくりと、雄介は部屋に足を踏み入れた。 近くに男の気配はない。逃げ去ったらしい。 手足のない女の、無残な死体だけが残されている。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 213 雄介は無言のまま片手で合掌し、廊下の様子をうかがってから、 外に出た。さすがにもう探索を続ける気にはなれない。 階段へ向かおうとしたところで、反対側の廊下から、男の叫び声 が響いた。 振り向けば、廊下の突き当たりで、先ほどの男が後ずさりしなが ら、ネイルガンを乱射していた。 そこに、猛禽のように飛びかかる人影。 髑髏男だ。一瞬でネイルガンを弾き飛ばし、男の顔を殴りつける。 男は吹っ飛び、壁に叩きつけられた。 倒れこみ、うめき声を上げる男の襟首を、髑髏男がつかみあげる。 そのまま、廊下の奥へと引きずっていく。 あっという間の早業だった。 どうするべきか雄介は逡巡するが、 ﹁⋮⋮くそ﹂ 雄介は毒づき、拳銃を構えなおして、髑髏男の後を追った。 暴れる男を無理やり引きずっているにも関わらず、髑髏男の足は 早かった。必死で追いすがるうちに、渡り廊下を通り、別の棟にた どりついていた。 周囲を見渡すが、髑髏男の姿はどこにもない。 ふと、明かりが目についた。 近くにある、壊れた両開きの扉の向こうから、明かりが漏れ出し ているのだ。その光に誘われるように、雄介は足を踏みいれた。 そこは広い空間だった。 一階と二階を吹き抜けにした、小さなホールだ。 今いる入り口は二階部分にあり、下の舞台に向かって、座席が階 214 段状に並んでいる。入り口の両脇からはホールを囲むように通路が 伸びていて、上から照らせるように照明器具などが置かれていた。 途中には扉もいくつか見える。 ホールの照明はついていなかったが、燃え落ちてくすぶる暗幕や、 おき火のように燃える座席が、ホールの中を照らしていた。今は鎮 火しているようだが、ここでも火災が起きていたらしい。 その焦げくさい臭いに混じって、鼻をつく腐臭が舞台から吹き上 げてきた。 雄介は込みあげそうになる胃液を抑えた。 ﹁んだここ⋮⋮﹂ 口元を手で覆いながら、つぶやく。 よく見れば、ホールのあちこちに人骨が散らばっていた。得体の しれない肉のかけらが座席に垂れ下がり、乾いた血があちこちにぶ ちまけられている。屠殺場のような光景だった。 不意に、何の前触れもなく、座席の中から二つの人影が立ち上が った。 女だ。 食い破られた体と、乱れた服の様子から、どちらもゾンビだとわ かった。薄暗闇の中、背後から炎の照り返しを浴びて、その姿は幽 玄に浮かびあがっている。 女たちは立ちつくしたまま、じっとこちらを見つめてくる。 髑髏男と同じような、無機質な瞳だった。 雄介は思わず後ずさった。 襲ってくる様子はないが、ゾンビに見られているというだけでも プレッシャーになる。普通のゾンビは、雄介を認識することすらな いのだ。 ﹁なんなんだよ⋮⋮﹂ 215 髑髏男だけではない。 ここには普通でないゾンビが多すぎる。 そのとき、右手の通路の奥から、男の悲鳴が上がった。そちらに 視線を向けると、異様なものが目に入った。 まるで飛びこみ台のように、通路の手すりからホールの中央に向 かって、板が数メートルほど伸びているのだ。 その近くの扉から、髑髏男が現れた。先ほどのネイルガンの男を、 中から引きずり出している。炎に照らされた男の横顔は若く、大学 生ぐらいだった。泣き声で悲鳴を上げていた。 ﹁いっ! ひ⋮⋮いやだっ! やめっ⋮⋮ゆるしっ⋮⋮﹂ もがく男に頓着する様子もなく、髑髏男は台を登り、板の先に男 を追いやった。バランスを崩した男が、板から転げ落ちそうになる。 辛うじて引っかかった両手で男は板にしがみつき、宙吊りの格好 になった。 ﹁ひっ⋮⋮ひっ⋮⋮!﹂ 男は頭上の髑髏男を見上げながら、引きつけを起こしたようにあ えいでいる。 髑髏男はねめつけるように、その様子を見下ろした。 ゆっくりと髑髏男の口が開き、剥きだしの頬がゆがむ。 凶悪な笑みだった。 次の瞬間、板をつかむ男の両手に向かって、髑髏男の鉈が振り下 ろされた。 血しぶきと共に指が跳ねとび、男は悲鳴をあげながらホールに落 ちていく。 雄介は思わず声をあげた。 216 ﹁あいつ!﹂ 髑髏男は、男がホールに落ちるのを見届けると、興味を失ったよ うに扉の中へ消えた。 雄介は拳銃を握りなおし、その姿を追った。通路を走り、扉を押 し開いて中に入る。 部屋の中は真っ暗だった。 左手でフラッシュライトを取り出し、光を走らせる。ホールのコ ントロールルームのようで、壁ぎわに様々な機器が並んでいた。 髑髏男の姿はない。 雄介は慎重な足どりで、物かげや部屋の隅に、光を投げかけてい く。雑然とした部屋だった。コードや機器の複雑な陰影が、壁に浮 かびあがる。 隠れられる場所はないか調べていると、部屋の奥に扉を見つけた。 開くと、月明かりの照らす廊下に出た。ホールの外に出てしまっ たらしい。 左右の廊下の先を見ても、髑髏男の姿は見あたらない。 ﹁⋮⋮くそ﹂ 雄介はため息をつき、拳銃を下ろした。 これ以上追うべきではないだろう。 潮時だ。 部屋を通ってホールに戻る。 通路の下では、女ゾンビたちが、落ちた男に食らいついていると ころだった。男は口から血の泡を噴き、痙攣している。もう長くは ないだろう。これ以上ながめていても仕方がない。 雄介は男から視線を外し、周りに目をやった。 男が突き落とされた板は、通路に置かれた階段付きの台につなが 217 り、ますます飛びこみ台じみた作りになっていた。それらのあちこ ちに、乾いた血が赤黒い染みを作っている。 ︵⋮⋮いや、これは飛びこみ台っていうか⋮⋮︶ 一つの単語が脳裏に浮かぶ。 ︵処刑台⋮⋮︶ それも、人間の作ったもの。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 雄介はコントロールルームに戻った。先ほど部屋を調べていたと き、机の上に奇妙なものを見つけたのだ。 それは、コンパクトなデジタルビデオカメラと、ミニテープの束 だった。ライトを当てると、それぞれのテープのラベルに、日付と 名前が書かれていた。男の名前もあれば、女の名前もある。 妙な胸騒ぎがした。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介はじっとそれらを見つめていたが、やがてテープを手に取り、 ビデオに差しこんだ。電源を入れ、側面の再生モニターを開く。バ ッテリーは残っていた。 念のため、部屋の入り口を機材で封鎖する。邪魔が入らないよう にしたあと、雄介は再生ボタンを押した。 218 それは、人間による、人間の処刑の光景だった。 手首を縛られ、泣いて怯える若い男が、処刑台の上に引きずり出 される。その様子を、カメラがじっと追っている。画面の外から馬 鹿笑いが聞こえ、ヤジが飛ぶ。 必死で抵抗する男を、棒の先にナイフをくくりつけた手製の槍が 突つきまわす。すぐに男は血だらけになり、板の先へと追いやられ、 バランスを崩してホールに落ちていった。 周囲から歓声が上がる。 画面が揺れ、場所を移して、再び固定される。画面は、手すりの 上からホールを見下ろす形になっていた。 男は体を引きずるようにして、ホールの隅へ逃げようとしている。 それを、二体のゾンビが追っている。ゾンビの一体が座席を乗りこ え、男に食いつく。カメラはズームし、手ぶれで揺れながら、その 捕食の様子を捉えようとしている。撮影者の粘着質な興奮が伝わっ てくるようで、雄介は気分が悪くなった。 画面の中では、押し倒された男に二体のゾンビが群がっていた。 悲鳴は途切れ、男はすぐに動かなくなった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介はビデオを止めた。 ﹁⋮⋮⋮⋮ふー﹂ 深く息を吐き、椅子に背を預け、暗い天井をながめる。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 私刑か。 娯楽か。 219 あるいはゾンビを飼うことで、ゾンビへの恐怖を克服しようとし たのかもしれない。虎やライオンを飼いならすように。 テープはまだある。 ビデオカメラを開け、一番日付の若いテープに入れ換えた。早送 りをしながら目を通していく。 内容は似たりよったりのものだった。 最初にホールにいたゾンビは、一体だけだったらしい。そこに突 き落とされた犠牲者がゾンビとなり、次々に増えていったのだ。 日付順にテープを入れ換えていく。三本目のテープに映っていた 男の姿に、雄介は手を止めた。 少しだけ予感していたその姿は、コートを着たあの警官だった。 殴られたのか顔は腫れ上がり、後ろ手に縛られている。太股には深 い裂傷があり、足は血まみれだった。 早送りをしているので、会話の内容はわからない。しかし、警官 の毅然とした態度は見てとれた。最後まで説得するように何かを呼 びかけていたが、槍で腹を深く突かれて、階下に落とされた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 無言でテープを入れ換えていく。 階下のゾンビが十人ぐらいになったところで、それ以上は増えな くなった。数が増えたことで、ゾンビ化する前に食いつくされるよ うになったのだろう。 犠牲者に群がるその中には、あの警官の姿もある。落とされたと きにゾンビに喰われたのか、顔の肉はえぐり取られていた。 髑髏男の姿だ。 ﹁やべーぞこれ⋮⋮﹂ 雄介はつぶやく。 220 テープを順に見ていて、ゾンビたちの挙動が少しずつ変わってい るのに気づいたのだ。 最初は獣のようにうごめくだけだったゾンビたちが、人を喰うた びに、少しずつ、少しずつ、人間的な動きを取りもどしている。 あの髑髏男も、最初は、ただのゾンビと変わらない動きしかして いなかった。 しかし、後半のテープでは、憎悪に目を光らせながら、撮影して いるこちらの隙をうかがうような、危険な挙動を見せている。 恐怖に似た、ひどく冷たいものが、雄介の背中を襲った。 ︵これを撮りながら⋮⋮奴ら、何も不思議に思わなかったのか?︶ 今、雄介の脳裏にあるのは、ゾンビに対してずっとくすぶってい た疑問だ。 駅のホームで通勤客のように並ぶゾンビたちや、スーパーで買い 物をするように徘徊するゾンビたち。 今まで街のあちこちで見かけてきた、生前の行動パターンを繰り 返すゾンビの姿。 無目的にさまようゾンビが大半の中で、それら少数のゾンビだけ がなぜパターンを取るのか、雄介はずっと気になっていた。 その疑問に対する答え。 雄介の脳裏に、一つの仮説が浮かび上がった。 ︵人を喰ったゾンビは、その分だけ賢くなる⋮⋮︶ パターンをなぞるゾンビの少なさから考えて、恐らく少量では変 わらないのだろう。さらに人間を食べたとしても、せいぜいが生前 の行動を思い出す程度なのだろう。 しかし、人を喰えば喰うほど、知性を取り戻していくとしたら⋮⋮ 髑髏男の姿を思いだす。 221 自分を殺した処刑場へ、男を叩き落としたときの、凶悪な笑み。 人間への、純粋な憎悪。 ビデオを見る限り、ホールには最低でも十人はゾンビがいた。そ れらのほとんどが、ここから解放されているのだ。 餌を与えられ、髑髏男と同じように知性を取り戻しているかもし れない、危険なゾンビたちが。 ﹁⋮⋮くそがっ!﹂ 雄介はビデオを床に叩きつけた。 ︵くそくそくそくそ、クズどもが余計なことをしやがって! 脅威 を育ててどうすんだカスが! くそったれ!︶ 雄介は荒い息のまま、立ち上がった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ じっと考えをまとめる。 ︵⋮⋮迂回するしかないな。このあたりは危険すぎる︶ そうと決まれば、髑髏男を追う理由もない。迂回ルートの安全は 確認しておきたいが、一度スーパーに戻るべきだろう。 街中に留まるのも危うい。生前の知性を取り戻したゾンビがいる とすると、人が集まる場所の方が危険だ。山の方がまだしも安全だ ろう。 方針を決めると、雄介は扉の封鎖を解き、外に出た。 ホールの入り口から、廊下に足を踏み出したところで、雄介は立 ち止まった。 222 数メートルほど離れた場所に、ぼろきれをまとった少女が立って いたのだ。 その右手には髪の毛が絡みつき、生首がぶら下がっている。 目を見開き、苦痛に顔を歪めた、男の生首だ。 反対側の手には、血に濡れたいびつな槍があった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介と少女は見つめあう。 高校生ぐらいの少女だ。やや吊り眼がちで、右目の下に泣きボク ロがある。顔は綺麗だが、鎖骨には大きく噛みちぎられた痕があっ た。 ゾンビだ。 少女はぼんやりと、こちらに視線を投げかけている。 長くほつれた黒髪に、むきだしの足。裸身にぼろきれをまとい、 槍を持つその姿は、蛮族の少女のようにも見えた。 不意に、少女が窓の外に視線をそらす。つられて雄介も視線を向 けると、中庭の先には、折り重なるいくつもの塊があった。 暗闇に溶けていて、その輪郭は判然としない。かすかな月明かり に、目をこらす。 やがて見えてきたのは、 ︵⋮⋮人間、か⋮⋮?︶ 雄介は息をのむ。 それは死体の山だった。 ぺたぺたと廊下を叩く足音に、雄介は視線を戻す。少女がきびす を返し、立ち去ろうとしているところだった。髪を掴まれたままの 生首が揺れる。 そのとき、どこか遠くから、かすかに女の悲鳴が聞こえてきた。 223 雄介は悟る。 このキャンパスの中で、彼らの狩りは今も続いているのだ。 遠ざかる少女の背中を見つめながら、雄介はじっと立ちつくして いた。 やがて、少女の姿が暗闇の向こうに消えると、雄介は大きく息を 吐きだした。 ﹁⋮⋮⋮⋮はぁ⋮⋮くそ﹂ 考えるのをやめて、階段へと向かう。 ここでできることは何もない。 雄介はうそ寒いものを誤魔化すように、帰還の足を早めた。 224 29﹁見落とし﹂ スーパーに帰還するころには、夜が明けかけていた。空はまだ暗 闇にあるが、地平線に少しずつ曙光が漏れはじめている。 雄介は周りにゾンビの姿がないことを確かめて、搬入口のシャッ ターをわずかに上げた。下をくぐり抜けたあと、スイッチボックス を操作して再び閉鎖する。 照明が消えているため、ゆるやかに下降するスロープの奥は真っ 暗だ。ときおり設置されている非常灯が、その周囲だけをぼんやり と照らしている。雄介はフラッシュライトを点け、地下へ降りてい った。 車の準備ができしだいに深月たちを呼んで、すぐにでも出発する つもりだった。 プラットフォームに停めてあるダンプまでたどりつくと、雄介は キーのリモコンでロックを解除した。運転席に乗りこみ、ヘッドラ イトを点けると、ハイビームが闇を切り裂いてコンクリートの床に 伸びる。燃料計に十分残量があるのを確認すると、雄介は車内灯を つけたまま運転席から降りた。 そこで、雄介は立ち止まった。先ほどから気になっていたのだが、 地下に異様な臭気がただよっていた。 ︵⋮⋮なんだ? この臭い⋮⋮︶ 鼻をつく臭気だった。肥だめのような臭いだ。 ︵下水に問題でも起きたのか⋮⋮?︶ ライトで臭いの元を探っていると、開きっぱなしになっている扉 225 を見つけた。迷いこんできたゾンビを上に戻したときに、雄介が閉 めた、屋内への扉だ。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 無言で拳銃を引き抜く。 近くに人の気配はない。 扉の中に入り、周囲を確認する。通路は正面と右側へ伸びている。 すぐ近くにある一階への階段は、防火扉で封鎖されたままだ。 ︵ゾンビ⋮⋮か? 深月が来るわけねーし⋮⋮︶ まだ奥にゾンビが残っていたのかもしれない。だとすると、上か ら三人を呼ぶ前にどうにかする必要がある。 しかし、気になるのはこの臭いだ。屋内に入ることで、さらに臭 気は強くなっている。正面の通路から漏れ出してきているようだ。 雄介は脳裏に図面を思い浮かべ、周囲の気配を探りながら近づい た。こちらは電気室とボイラー室に通じていたはずだ。 通路の途中、まばらにある非常灯と左手のライトを頼りに、奥へ と進む。いくつか部屋を見つけたが、すべて鍵は閉まっていた。 通路の最奥まで進むと、突き当たりで、両開きの扉が開きっぱな しになっていた。臭気はそこから漏れだしている。 ︵こんなとこ⋮⋮開いてたか?︶ 疑問を覚えながら扉をくぐると、そこは生ゴミの集積所だった。 壁ぎわにダストシュートがあり、一階から運ばれた生ゴミが、台 車付きのカーゴに山積みになっている。すでに一杯になったカーゴ もいくつかあった。それらはコンポストで微生物と混ぜ合わせて発 酵させ、堆肥化して搬出する、そういう流れになっていたはずだ。 226 三階で読んだスーパーの資料を思い出しながら、雄介はライトを 手に周囲を見渡した。床は打ちっぱなしのコンクリートで、経年劣 化とゴミの跡でひどく薄汚れている。ラックが横倒しになり、洗剤 らしいボトルが転がっていた。 ここが臭いの発生元らしい。 ︵ゴミの臭いか? いや、それにしては⋮⋮︶ 生ゴミの腐った臭いも混じってはいるが、どちらかというと下水 の臭いだ。 ライトで床を照らしながら、奥に進む。 光の中に、コンポストが浮かびあがった。高さ一メートル、幅二 メートルぐらいのステンレスの外形で、大きな投入口がついている。 何の気なしにライトを横に振ったところで、雄介は動きを止めた。 コンポストの横に、壁ぎわに沿うようにして、薄汚れた毛布が落 ちていたのだ。床と壁にダンボールが張りつけられ、ホームレスの 住処のようになっている。 雄介は早足で近づき、毛布を手に取った。それはすでに冷えきっ ていたが、横のコンポストからは余熱が感じられた。コンポストは 堆肥化の過程で発酵熱を出すため、暖房代わりにはなるだろう。 わきおこる焦燥感のままに、部屋中にライトを巡らせる。 横倒しになっているダンボール箱から、野菜くずがあふれだして いた。廃棄物らしいが、ほとんどが食い荒らされ、皮や芽だけがわ ずかに残っている。よく見れば、生ゴミのカーゴを漁ったあともあ った。残骸が床に転がり、腐汁が飛び散っている。 視線を転じると、近くには洗い場があり、蛇口から伸びたゴムホ ースが床でのたくっていた。壁ぎわにそって掘られた排水溝は、部 屋の隅の排水枡に繋がっている。悪臭の大元はそこのようだった。 歩いて近よると、四角い蓋は外されていて、中には悪臭と糞便がこ びりついていた。 227 人の生活の痕跡だ。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 雄介はライトを消し、耳をすませる。 近くに人の気配はない。 待ち伏せがあったら、とっくに襲われていただろう。暗闇の中で、 雄介のライトは灯台の明かりのように目立っていたはずだ。 雄介は暗闇の中で、思考を巡らせる。 ︵侵入者じゃない⋮⋮元からここにいたんだ。逃げ後れた従業員か ?︶ ゾンビが周囲をうろつくようになってからは、外からの侵入はま ず不可能だろう。雄介が最初にこのスーパーに来たときには、すで にここに居たのだ。 ︵いや⋮⋮従業員なら三階に上がる。連絡を取ろうとするはずだ。 普通なら、こんなところにこもろうとは思わない⋮⋮︶ 不意に、深月の言葉を思いだした。 避難所に向かう途中でゾンビの集団に襲われ、周りの人間と一緒 にこのスーパーに逃げこんだ。初めは籠城していたが、食料が少な くなり、焦燥感が増してくるにつれ、外の様子を見に行く人たちが 増えた。そして、誰も帰ってこなかった。 ︵誰も帰ってこなかった⋮⋮︶ 全員の死亡が確認されたわけでは、ない。 多少なりと目端の効く者なら、三階を出るときに、監視室のカメ 228 ラも確認するはずだ。一階と二階はゾンビだらけで、そこからの脱 出は不可能だとわかるだろう。もし出ようとすれば、ゾンビたちの 仲間入りだ。 それなら地下は⋮⋮ 雄介が最初にこのスーパーにやってきたとき、搬入口の監視カメ ラにゾンビの姿はなかった。カメラを見た人間なら、地下から脱出 しようとするはずだ。 しかし、駐車場にもゾンビはあふれている。外への脱出は難しい。 そうなると、屋内に戻るしかない。生ゴミ集積所のここなら、水 も食料も暖房もある。あるいは一階に繋がる階段からゾンビが入っ てきて、追いこまれたのかもしれない。なんにせよ、ボイラー室や 電気室に囲まれたこの場所で、一ヶ月以上は立てこもっていたのだ ろう。 が、それも停電までだ。 コンポストが止まり、照明が消えたのだ。飢えと寒さはともかく、 光の一片もない暗闇の中でじっと耐え続けるなど、普通はできない。 外に出てくるはずだ。 このあたりを徘徊していたゾンビは雄介が一階に出してしまった ため、障害もない。 そこまで考えると、雄介はライトを点け、足早にプラットフォー ムに戻った。 搬入口のシャッターは、鍵を持つ雄介にしか開けられない。行き 先は上だけだ。 見れば、エレベーターは3Fを表示していた。 ︵くそ︶ 非常用電源はまだ生きている。上のボタンを連打し、イライラし ながらエレベーターを待つ。 雄介はトランシーバーのことを思い出し、ダンプにとって返した。 229 交信距離が短いため、運転席に置きっぱなしにしていたのだ。 フックにぶら下がっていたそれを手に取って、深月に呼びかける。 ﹁おい、聞こえるか? 武村だ。生き残りがそっちに行ったかもし れん。俺が行くまで刺激すんなよ﹂ 返答はない。 トランシーバーを腰に戻し、ゆっくりと降りてくるエレベーター を見つめながら、雄介は考える。 ︵別に生存者が敵対的とは限らない⋮⋮食料さえ与えておけば大丈 夫なはずだ︶ 手持ちぶさたに周囲にライトを走らせていると、ダンプの荷台に 目がいった。ダンボールの一つが横倒しになり、中の燻製肉が散乱 している。パッキングが破られ、いくつも食い散らかされていた。 空になったミネラルウォーターのボトルもある。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ チン、という音とともにエレベーターが到着する。 雄介は無人のケージに乗りこみ、3Fのボタンに拳を叩きつけた。 230 30﹁凶刃﹂ 雄介が火災の様子を見に行ったあと。 スーパーの三階では、深月たちが暗闇の中で出発の準備をしてい た。 眠りこけていた弟たちを起こし、防寒用のジャンパーを身につけ させる。電池式のランタンをデスクに置いて照明にし、手早く必要 なものを集めていく。 弟たち二人のリュックには、小分けした食料や衣服、水のボトル などが詰められている。万が一はぐれたときに、少しでも生存の可 能性を上げるためだ。 炊飯器などの家電は、山に予備があるらしいので持っていく必要 はない。そもそも発電機頼りなのだから、あまり電化製品を持ちこ むわけにもいかない。太陽光発電の機器も見つけたらしいが、設置 がうまくいかず、放置されているらしい。どちらにせよ電力に余裕 はない。 深月は各種の資料や自作のノートをバッグに入れ、軽くつまめる 食料をビニール袋にまとめた。 一番かさばるのは衣服だった。これからさらに冷えこむため、四 人分の防寒着や下着はそれなりの量になる。弟たちのリュックに入 らなかった分は、自分のバッグに詰めこんでいく。雄介の残してい ったフィールドバッグも使い、タオルや洗面具を入れていく。 ︵旅行の準備みたい︶ そんなことを深月は思う。 慣れ親しんだ事務所を離れるのには、確かに不安がある。 しかし、それ以上に、この閉塞した環境から出られるという期待 231 もあった。山での生活への期待も。 雄介に指示されて農作のやり方を調べていくうちに、深月はその 内容に惹かれていった。 土いじりをしたことはないが、何かを生み、育てるということに は、胸の沸きたつものを感じる。 それは希望だった。 今の深月たちは、壊れた文明の残滓にすがって、ただ生きのびて いるだけだ。 それが、土と共に、自分で育てた物を食料として生活できるよう になれば、多少なりと、人らしさを取り戻せるような気がする。 人間として生きている、そう胸を張って言えそうな気がするのだ。 ︵それに⋮⋮武村さんについていけば、どんな所でも、なんとかな りそうだし︶ 深月はかすかに微笑んだ。 不思議な信頼感だった。 まとめたバッグを、ホールまで引きずっていく。 廊下の突きあたりはガラス壁になっているため、ホールは夜明け の星明かりに照らされ、ほの明るい。 そのとき、エレベーターの階数表示が動いているのが目に入った。 こちらに上がってきている。 ︵火事、何でもなかったのかな?︶ 思ったより早めの帰還に、深月は手を止めた。 荷物を置いて、エレベーターが開くのを待つ。 チン、という音とともにエレベーターが到着し、ゆっくりと扉が 開いた。 232 ﹁え⋮⋮﹂ 深月はあとずさった。 扉から現れたのは、雄介ではなかった。 浮浪者のように薄汚れた、ひょろ長い、痩せ形の男だ。 あごにはびっしりとヒゲが生え、肩まで伸びた髪は、脂でてかっ ている。野菜くずが髪に引っかかり、もつれていた。服はまだらに 汚れ、汚物のような染みがあちこちについている。ひどい汚臭がホ ールに漏れ出してきた。 どこか見覚えのある男だった。 その男は深月を見ると、少しだけ目を見開いた。 それから億劫そうに、扉に手をかけ、足を引きずるようにしてエ レベーターから歩み出てきた。 それに押されるように、深月は一歩後ろに下がる。 ﹁あ⋮⋮の⋮⋮﹂ 困惑の声を漏らしながら、深月は、男の右手に視線をやる。 そこには汚れた金槌があった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は無言で、ゆっくりと事務所の方へ下がる。 この男をどこかで見た気がする。 しかし、どうしても思い出せない。 うわずりそうになる声を抑えながら、 ﹁生存者⋮⋮の方ですか? 食料ならあります。いっぱいあるので、 どうぞ⋮⋮﹂ 233 バッグから、食料をまとめたビニール袋を取り出し、床に置く。 男の目が、そこに注がれるのを見て、深月は静かに距離を取った。 男が近づき、それに屈みこむのを見て、深月はきびすを返した。 事務所に駆けこみ、扉を閉める。 バリケードが必要だ。ここには鍵をかけられない。更衣室なら鍵 を閉められるが、弟たちがこちらにいる以上、向こうに籠城はでき なかった。 そこで、深月は男の正体に思いあたった。 ︵⋮⋮あの人だ⋮⋮︶ このスーパーに籠城していたとき、最後まで残っていた、痩せた 男。 深月に粘つくような視線を投げかけ、更衣室の扉を夜中にこじ開 けようとしてきた、あの男だ。 なぜ生きているのか。 どこにいたのか。 その唐突な出現に深月は混乱したが、まずもって友好的な相手で はない。 ﹁たっくん、まーくん! 奥に行って!﹂ 事務所にいた弟たちに声をかける。二人は驚いたように顔を上げ るが、深月の剣幕に怯えたように、リュックを持って奥の部屋へと 向かう。 ︵守らないと⋮⋮!︶ 目についたデスクをバリケードにしようと引っぱるが、深月の力 ではびくともしない。近くのキャビネットも同様だ。こうしている 234 間にも、いつあの男が入ってくるかもしれない。気が焦るばかりで、 行動指針が定まらない。 深月は混乱する頭で、 ︵これじゃだめだ! どうしたら⋮⋮どうすれば⋮⋮︶ 武器。 給湯室は通路の外にあるため、包丁類は取りにいけない。しかし、 包装されたままの未使用のナイフが、事務所にもあったはずだ。弟 たちが触らないよう、鍵付きのキャビネットに、他の道具と一緒に 収められている。 デスクの引き出しを開け、ランタンのわずかな明かりに目を凝ら しながら、ようやく鍵を見つけだす。 震える手でキャビネットに鍵を差しこみながら、扉の方に視線を やる。まだ入ってくる気配はない。 中にはガストーチやカセットコンロ、刃物のたぐいが入っていた。 その一つを手に取り、包装をちぎってナイフを取りだす。 そのとき、事務所の扉が開いた。 痩せた男が、ゆっくりと顔を出す。その右手には、金槌が握られ ている。 男は無言で、深月を値踏みするように見つめてきた。 深月は震える息を吐きだし、キャビネットから立ち上がって、ナ イフを両手で握りしめた。 自分でも驚くほどの、凶暴な意思がわいてきた。 ﹁それ以上、近づかないで﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 男は無言のままだ。 235 ﹁食料なら、ある物すべて、渡します。受け取ったら、出て行って ⋮⋮元いた場所に。私たちは、明日にはここからいなくなります。 そのあとは、ここを好きに使ってください﹂ 男はそれを聞いても、何かを感じた様子もなく、無言で事務所を 見渡している。 ︵引くもんか︶ 深月は唇を噛みしめる。 以前に襲われたときは、状況に翻弄されて、ただ震えるだけだっ た。 しかし、今は違う。 今の自分には、希望が、目的がある。生活の再建、四人での山で の生活。いつか穏やかに過ごせるだろう、その日々のために。 抗うのだ。 男が一歩踏みだしてきたのを見て、深月はナイフの切っ先を向け た。 ﹁⋮⋮脅しじゃ、ないです﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 男は立ち止まる。 右手の金槌に目を落とし、それをなぞるように左手で撫で、男は 顔を上げた。 ﹁あ⋮⋮﹂ ゴホゴホ、と咳きこむ。 236 ﹁⋮⋮わかった﹂ 言いながら、金槌を持った手をだらりと下げる。 深月は油断をしないよう、ナイフを構えたまま、男の言葉を待っ た。 ﹁⋮⋮それで﹂ 男が口を開く。 ﹁⋮⋮他にいるのは、そこの二人だけか?﹂ その言葉に、深月は思わず振りかえる。弟たちが、執務室の扉の 陰から、不安そうにこちらをのぞいていた。 ﹁だめ! 奥にっ⋮⋮﹂ 何かが体にぶつかる衝撃に、深月は言葉を続けられなかった。デ スクにあった文具立てを投げつけられたのだ。ペンやハサミが散ら ばるその中で、男が金槌を振りかぶって突進してくるのが見えた。 体をひねり、ナイフをやみくもに走らせる。何かを切り裂く感触 があり、同時に、脇腹に鈍痛が走った。 ﹁かふっ⋮⋮﹂ 床に倒れこみ、うずくまって苦痛に息を吐く。 深月は脇腹を手で押さえながら、這いずるように男から距離を取 った。首にぶら下げていたトランシーバーは外れ、近くに転がって いた。 ナイフを持つ右手に濡れた感覚があった。ランタンの明かりも遠 237 く、はっきりとはわからないが、血で濡れているようだった。 返り血だ。 見れば、男は左腕を押さえ、暗闇の中でこちらを凝視していた。 その腕から、いくつもの雫が垂れ落ちている。その出血具合から、 傷はかなり深いようだった。 男の目は、怒りに見開かれている。充血した瞳が、闇の中に白く 浮かびあがっていた。 ﹁⋮⋮!﹂ 男は金槌を構え、大股で近づいてくる。 深月は脇腹を押さえながら立ち上がり、奥の弟たちに向かって叫 んだ。 ﹁ドア閉めてっ! 出てきちゃダメだからね!﹂ 言い捨てて、弟たちのいる部屋から離れるように、デスクの周り をじりじりと下がる。 額に脂汗が浮き、脇腹の痛みはさらに酷くなってきている。金槌 があばらのあたりをかすめたらしい。深月は左手で脇腹を押さえな がら、右手のナイフを強く握りしめた。 恐怖はある。 しかし、それ以上の怒りが深月を支配していた。 ︵こんな人に⋮⋮!︶ 。 こんな、弱い相手を狙って襲うような、卑劣な人間に。 やられてたまるものか。 じりじりと間合いを取りながら、深月と男は睨みあう。 238 ﹃⋮⋮聞こえ⋮⋮か? ⋮⋮⋮⋮そっち⋮⋮﹄ 突然、男の足元でノイズが流れた。トランシーバーの受信音だ。 男は驚いたように足を止め、視線を落とす。 深月はその隙をついて、入り口に走りだした。 ︵武村さん!︶ すぐ下に雄介が来ている。 その思いに励まされ、もつれそうになる足で、デスクの間を駆け 抜ける。通路まで目前に迫った次の瞬間、ふくらはぎに激痛が走っ た。つんのめって体勢が崩れ、近くにあったキャビネットにぶつか り、弾かれるようにして床に叩きつけられた。 ﹁いっ⋮⋮た⋮⋮﹂ 痛めた肩を押さえながら、仰向けに身を起こす。 見れば、近くに金槌が転がっていた。足に投げつけられたのだ。 今の転倒で、右手のナイフもどこかにいってしまった すぐ後ろに気配を感じ、振り向こうとする間もなく、背中に蹴り を入れられた。肺の空気が押し出され、深月は痛みに身をよじらせ る。苦痛に手足が萎縮し、思考が蒸発していく。何も考えられなく なる。 髪を掴まれ、引きずり起こされた。 上からのしかかってくる男の、獣じみた口臭が顔にかかる。腐っ たような臭いとともに、男の黒いシルエットが、天井を向く深月の 視界を覆った。 ﹁いや⋮⋮だっ⋮⋮!﹂ 239 悔しさに涙が浮かぶ。 男を引き剥がそうと伸ばした右手は掴まれ、口元を殴りつけられ る。一瞬気が遠くなり、次に深月の視界に映ったのは、男の持った 金槌の、振りかぶられたそのシルエットだった。 ﹁お姉ちゃん!﹂ 優の叫び声がした。小柄な体が突進してきて、男の背中にぶつか る。男はよろめき、それでも倒れることなく身を起こして、弟の方 に向きなおる。後ろには隆司の姿もあった。怯えながらも姉の窮地 を助けようと、飛びかかっていく。男はそれを腕だけで振り払い、 金槌を振りかぶった。 ﹁だめぇっ!﹂ 深月が男の足にすがりつくが、動きは止まらない。凶器が振るわ れ、血が舞った。 240 31﹁報復と浄化﹂ 三階についたときにはすでに、その争う音は聞こえていた。雄介 は撃鉄を起こし、トリガーに指をかけて、大股で事務所に向かう。 ランタンにぼんやりと照らされた事務所の中で、深月にのしかか っていた男の姿を見て、雄介は天井に向けて発砲した。 その場にいた全員の動きが止まる。 発砲の残響音が、部屋の中からゆっくりと霧散していく。 深月は泣きじゃくりながら、近くで倒れている弟たちに手を伸ば そうとしていた。その背中に男がのしかかり、服を引きちぎろうと していた。今は呆気に取られたように、こちらを見つめている。 雄介は大股で近づきながら、片手で撃鉄を起こす。シリンダーが 回転し、次弾が装填された。 男の眉間に銃口をポイントしたまま、硬直して動けないでいるそ の顔面に、横蹴りを叩きこむ。鉄板を入れたコンバットブーツが鼻 柱を砕き、男は豚のような悲鳴をあげて床に転がった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 鼻血を出しながらうずくまる男の後頭部に、雄介は銃口を向ける。 男は鼻を押さえながら、這いずって逃げようとしている。壁ぎわ までそれを目で追ったところで、雄介は口を開いた。 ﹁止まれ﹂ その冷たい声音に、男は動きを止める。 ﹁これを足につけろ﹂ 241 言いながら雄介が放ったのは、腰の革入れに収めていた手錠だ。 ﹁片方はデスクの足に繋げ﹂ 転がってきた手錠を前に、男は戸惑ったように固まる。 再び発砲音。 近くのキャビネットに弾痕が穿たれ、男は悲鳴をあげてうずくま った。 ﹁早くしろよ⋮⋮﹂ その疲れたような声を聞いて焦ったのか、男は手錠を慌てて拾い、 暗闇の中で四苦八苦しながら自分の右足とデスクを繋いだ。 これですぐには動けない。男の手の届く場所にも、武器となるよ うなものはない。雄介はようやく銃口を下げた。 ﹁おい、大丈夫か?﹂ 深月に声をかけるが、返事はない。 振りむくと、優の体を膝の上に抱いて、深月はぼんやりと動きを 止めていた。 ﹁ぁ⋮⋮あ⋮⋮﹂ 嗚咽とも吐息ともとれないものがこぼれる。 ﹁⋮⋮おい﹂ ﹁優が⋮⋮﹂ 242 深月の方に歩みより、上から優の体を見下ろす。 首の骨が折れていた。 その瞳は虚ろに、宙を見上げている。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は目を閉じ、こみ上げてくるものをじっとこらえた。 無理やり動揺を呑みこむと、目を開けて周囲を見まわす。倒れて いる隆司の姿が目に入った。体を丸めて震えている。 ﹁大丈夫か?﹂ 近寄って屈みこむ。ズボンの下で右足が腫れ上がり、血が滲んで いる。骨が折れているかもしれない。それに腹を押さえている様子 から、内臓にもダメージがありそうだ。命の危険があるかどうかは わからないが、酷い怪我であることは確かだった。 ︵くそ︶ 小さな怪我でも、治療の受けられない現状では致命傷になりうる。 ただでさえ、体力の少ない子供なのだ。 ︵病院に連れてって⋮⋮いや、屋内はゾンビだらけだ。それに素人 の手当てでどうにかなるのか? 医者さえいれば⋮⋮でもどこに︶ 思考にふけっている雄介の右手に、何かが掴みかかってきた。顔 をあげると、深月が拳銃をもぎ取ろうとしていた。 ﹁危ねえって!﹂ 243 暴発を恐れて突き放そうとするが、深月は離れない。揉みあうの も危険で、強引に握りしめておくこともできず、やむなく雄介は手 を離した。 黒光りするリボルバーを手に収めると、深月は手錠で繋がれたま まの男の正面に立ち、両手で拳銃を構えた。 ﹁ひっ!﹂ 男は悲鳴をあげてあとずさるが、足がデスクに引っかかってそれ 以上は下がれない。怯えるように両腕で顔をかばった。 こうして見ると、哀れな姿だった。頬は痩せこけ、鼻は潰れて、 鼻血が垂れ流しになっている。腕からの出血で、服はまだらに汚れ ていた。浮浪者狩りにあっているホームレスのような姿だ。 ﹁よくもっ!﹂ 深月が涙声で叫ぶ。拳銃を握りしめる手は震えている。そのトリ ガーを絞るだけで、弾丸は発射されるだろう。 ﹁た、助けてくれ⋮⋮﹂ 男の言葉に、深月が激昂した。 ﹁よくもそんなことがっ!﹂ トリガーの指に力がこもる。 ﹁悪かった! すまなかった! ゆるしてくれっ!﹂ ﹁なんでそんなことが言えるのっ! 優を、優を! こんな酷いこ とをしておいてっ!﹂ 244 ﹁殺す気はなかったんだ! どうかしてた! ずっと一人で閉じこ められてて、おかしくなってたんだ!﹂ ﹁そ、そんなの知らない! 知るわけない! 卑怯ものっ! 自分 が殺されるのは恐いの!?﹂ ﹁ゆるしてくれ! たのむ、やめてくれ⋮⋮﹂ 男は顔をかばいながら、必死であとずさろうとしている。 その姿を見ながら、深月は必死でトリガーに力をこめようとする。 ﹁ゆるさない⋮⋮﹂ ﹁すまない⋮⋮たのむ、しにたくない⋮⋮﹂ その懇願の姿に。 深月はどうしても、トリガーを絞りきることができなかった。 何度も力がこめられるが、発砲にいたることはなく。 やがて。 ﹁どうして⋮⋮﹂ 深月の絶望したような声が漏れる。 その腕は震えている。 争っている最中ならまだしも、無抵抗に怯える人間の命を奪える ほど、深月は冷酷になれなかった。 ﹁どうして命ごいなんてするの⋮⋮? なんで黙って、殺させてく れないの⋮⋮﹂ その、精神の歯車がずれたような声音に、男はさらに怯える。 雄介はそんな深月にそっと歩みより、横から手を伸ばした。拳銃 の撃鉄を押さえ、手の中から引きあげようとする。深月の力はゆる 245 むことなく、拳銃を握りしめている。 ﹁深月﹂ 雄介の声に、深月は驚いたように顔をあげる。 そういえば、こいつを名前で呼ぶのは初めてだったな、となんと なく思う。 深月の体から力が抜け、拳銃はその指の間をすり抜けて、雄介の 手に渡った。 深月はうつむき、幽鬼のような表情で雄介を見上げ、 ﹁あの子たち⋮⋮﹂ 深月は言った。 ﹁武村さんのことを、ヒーローみたいに思ってて⋮⋮武村さんが私 たちを助けてくれたときのこと、何度も言ってて⋮⋮それで、武村 さんみたいになるんだって、だから、私が危ないと思って、飛び出 してきたんだ﹂ 深月の瞳に憎悪が浮かぶ。 ﹁なんで⋮⋮守ってくれなかったんですか?﹂ 雄介は手の平の拳銃をながめ、沈黙した。 やがて、ぽつりと言った。 ﹁すまん﹂ その言葉に、深月は目が覚めたように、 246 ﹁あ、ああ⋮⋮何言ってるんだろうわたし。ごめんなさい、頭がう まく働かなくて⋮⋮もしかして、失礼なこと言いましたか? ごめ んなさい、わたしのせいなのに⋮⋮ああ、どうしよう⋮⋮怒りまし たか⋮⋮?﹂ ﹁いいんだ。隆司の怪我を見てやってくれ﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ 深月はふらふらと頼りなげな足どりで、隆司のそばへ向かった。 ﹁ふー⋮⋮﹂ 雄介はデスクに腰かけ、大きくため息をつく。 横目で男の様子を見ながら、両膝に肘をつき、あごの下で両手を 組んで、じっと考えこむ。 争いの音は消え、今は痛いほどの沈黙が、部屋を支配している。 深月は隆司のそばで虚ろにかがみこみ、男は震えながら隅で怯え ている。 ゆっくりと時間が流れていく。 すべては壊れてしまった。 その原因は自分にある。 雄介はそれを理解していた。 ︵俺のせいだな⋮⋮︶ 自分ですべてを完璧にできるとは思っていないし、不測の事態は いくらでも起こりえる。 しかし⋮⋮たとえどんなに事態が悪化しても。 深月が拳銃さえ持っていれば、こんな状況にはならなかった。 予備の銃はあったのだ。 247 相手に当てられなくとも、牽制にはなる。拳銃を持った人間に近 づいてくる者など、そうそういない。 ならばなぜ、今まで深月に拳銃を渡していなかったのかといえば。 それは。 ︵⋮⋮深月を信用しきれなかったからだ︶ 明確な武力を渡すことでの、反乱を恐れたのだ。 この拠点への侵入者は考えにくく、あえて深月を武装させる必要 性が感じられなかった、というのもある。 しかし、今となってはそれも言い訳でしかない。 結果として、雄介の猜疑心が、この事態を招いたのだ。 ﹁あーあ⋮⋮﹂ 雄介は天をあおぐ。 ﹁どーすっかなあ⋮⋮﹂ 嫌な沈黙が、部屋を支配している。 ︵山に行くしかねーけど、隆司の怪我だ⋮⋮悪化したらどうする。 まともに処置できるのか。点滴やら輸血は必要なのか? 薬は何を やればいい? 抗生物質でいいのか? くそ、医者の生き残りでも いればな⋮⋮︶ そのとき、どこか遠くから、サイレンの音が響いてきた。 雄介は動きを止め、耳をすます。 今まで聞いたこともないような、不快な音だ。 建物の壁に阻まれて聞き取りにくいが、それは防災無線のサイレ 248 ンだった。 雄介は立ち上がって通路に向かおうとし、男と深月を部屋に残し ていく不安から、立ち止まった。 深月はまだその音の正体がわからないのか、うろんげな瞳で宙を 見渡している。 サイレンの音は遠く、鈍い。 このあともし放送が流れるとしても、この屋内ではまず聞き取れ ないだろう。屋上に向かうべきなのだが、男から目を離したくない。 ︵そーいや無線機に⋮⋮︶ ランタンを手に、無線機のあるデスクに近づく。スイッチを入れ るが反応はない。停電しているのだから当然だ。 雄介は舌打ちをしてデスクの下に潜りこみ、コンセントに差さっ ている無線機のプラグを、近くのバッテリーボックスに差し替える。 電圧は確認済みだ。デスクの下から立ちあがると、無線機が無事に 起動した。 ここに登録されたチャンネルの中に、この市の防災無線の周波数 もあったはずだ。テンキーを操作し、チャンネルを選択していく。 すでに外のサイレンは途切れ、くぐもったような音だけが響いてい る。 唐突に、スピーカーから音声が流れだした。 若い女の、たどたどしい声だ。 ﹃⋮⋮です。⋮⋮なるべく大きな道路を選び、静かに移動してくだ さい。繰り返します。⋮⋮こちら、大野市役所です。現在、百人ほ どの避難者が集まっています。三日後に、自衛隊のヘリによる救出 が行われます。動ける方は、大野市役所をめざしてください。三十 三号線と、日高川の、交差地点です。なるべく大きな道路を選び、 静かに移動してください。⋮⋮この放送は、これから二十四時間、 249 毎時、零分に、五分間、放送されます。バッテリーがなくなるまで の、二十四時間です。生き残っている方は、声をかけあって、大野 市役所を目指してください。どうか、諦めないで! 繰り返します。 こちら、大野市役所⋮⋮﹄ いかにも放送慣れしていない、詰まりながらの、懸命な声だった。 深月が困惑の表情で、雄介を見つめてくる。 ︵まだそんなに生き残りがいたのか⋮⋮︶ 雄介は顔を左手で覆い、今耳にしたことについて、思考を巡らせ る。 ︵⋮⋮百人、百人か。放送してるぐらいだから、統制は取れてるな ⋮⋮中に医療関係者がいなくても、自衛隊が来るなら、それまで持 てば治療は受けられる。大学にいたあいつら⋮⋮ヤバい奴らが不安 だが⋮⋮市役所なら、相当離れてる。三日なら問題ないか⋮⋮?︶ 雄介は考えをまとめると、口を開いた。 ﹁深月、隆司を頼む。毛布か何かで包んでやれ。優は⋮⋮優は俺が 連れてく。すぐ出るぞ﹂ ﹁は、はい﹂ 深月は毛布を取りに、慌てて奥へ向かう。 雄介も出発の準備をしようとしたとき、 ﹁あっ! お⋮⋮い⋮⋮﹂ 声をかけられ、雄介は振りかえった。 250 見れば、男がすがるような視線を向けてきている。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介と男は見つめあう。 ﹁⋮⋮た、たのむ⋮⋮﹂ 男の懇願の声に、雄介は、ゆっくりと視線を落とす。その先には 握りしめられたままの拳銃がある。 男の表情に焦りが浮かんだ。 雄介はため息をつき、 ﹁お前も行きたいか?﹂ ﹁! あ、ああ! たのむ!﹂ 雄介は腰の鍵を放り投げ、 ﹁足の手錠を両手につけかえろ。終わったら鍵を投げ返せ。変な真 似したら頭ぶち抜くからな﹂ ﹁わ、わかった!﹂ 男は必死で手錠を外し、手に付けなおして、媚びるような笑みを 浮かべた。先ほどの深月とのやり取りから、雄介が男の殺害に積極 的でないと、そう思っているのだろう。 ﹁武村さん!?﹂ 戻ってきた深月が、驚きの声をあげる。 251 ﹁なんでそんな人を!﹂ ﹁いいから黙ってろ﹂ ﹁でも⋮⋮!﹂ ﹁うるさい﹂ 深月は眉を寄せながら、毛布で隆司を包む。その瞳は憎しみのま まに、男を睨みつけている。 それを雄介は黙殺し、拳銃で男をうながした。 ﹁先に外に出ろ﹂ 男はおどおどと、卑屈にこちらをうかがいながら、壁ぎわを通っ て出口へと向かった。雄介はその後ろをついていく。 廊下に出て、ホールに向かおうとした男を、雄介は呼び止める。 ﹁違う。右だ。脱出の前に、外の様子を見ておきたい﹂ その言葉に、男は足を止め、右の突き当たりへと向かう。そこは ガラス壁で、姿を現した朝日が、廊下に陽光を投げかけていた。近 くには観葉植物が置かれ、緑の葉が朝日にきらめいている。そこか らは駐車場が一望できた。 雄介は声をかける。 ﹁外の様子はどうだ? ゾンビはいるか?﹂ ﹁い、いや⋮⋮﹂ ﹁そうか﹂ その声の思わぬ近さに、男は振り向いた。 一メートルもない近距離から、男の腹に、拳銃がポイントされて いた。 252 発砲音。 弾かれたように男の体がガラスに叩きつけられ、全面にヒビが入 る。男はガラスにもたれかかるようにして、穴の空いた自分の腹を 茫然と見下ろしている。 ﹁俺がてめーにムカついてないと思ったか?﹂ 撃鉄を起こす音。右足に弾丸が撃ちこまれ、その衝撃に男の体は 跳ねるように踊る。後ろのヒビがさらに大きくなる。 再び撃鉄の音。 左足への発砲音。 その三発目で、ガラス壁の全面が崩壊した。粉々になったガラス 片の中、男の体が落下していく。下のコンクリートに叩きつけられ、 手足が玩具のように折れ曲がる。ゆっくりと血が広がっていく。 その様子を、雄介はじっと見下ろしていた。 地上の男はまだ生きていた。うつ伏せのまま、歪んだ手足で這い ずるように動いている。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ そっと隣に立つ気配があった。 深月だ。 無言で男の姿を見つめている。 二人で階下の光景をじっとながめていると、スーパーの周囲から、 ゾンビが姿を現しはじめた。血の臭いに惹かれてきたらしい。十数 体はくだらない。ゆっくりと、男を包囲していく。 男は逃げようとするが、あの手足ではどうにもならない。 一人が男の腕に噛みついた。悲鳴があがり、肉がちぎれる。それ を皮切りに、次々とゾンビが群がっていった。血が飛び散り、絶叫 が響く 253 血と肉の饗宴。 不意に、大学キャンパスで見たビデオの光景がフラッシュバック する。 雄介はそれを、無感動にやり過ごした。 ﹁⋮⋮あいつが周りのゾンビを引きつけてるうちに、地下から脱出 する﹂ 男から視線を外し、振り向く。 そこで、雄介は動きを止めた。 深月の瞳が、じっとこちらを見つめていた。その瞳の色に気圧さ れたように、雄介は口をつぐむ。 深く、深く、心の奥に入りこんでくるような。 自分のすべてを差し出すような、ひどく透きとおった瞳だった。 ﹁⋮⋮行くぞ﹂ ﹁はい﹂ 深月は静かに答える。 地上の悲鳴が途切れると、二人はゆっくりとその場を立ち去った。 254 ・登場人物︵前書き︶ 暫定ページです。 ネタバレがあるので、名前の確認用に使ってください。 255 ・登場人物 ・武村雄介︵たけむらゆうすけ︶ 主人公。 男。二十五歳。 ・藤野深月︵ふじのみつき︶ ヒロイン。 女。十七歳。 ・藤野優︵ふじのまさる︶・隆司︵たかし︶ 深月の弟。 五歳、六歳。 ・高崎敦史︵たかさきあつし︶ 深月の幼なじみ。 男。十七歳。 ・牧浦さやか︵まきうらさやか︶ 産科医。 女。二十七歳。 ・社長 工務店の社長。 男。四十六歳。 ・工藤︵くどう︶ 社長の部下。金髪メッシュのポニテ。 256 男。二十五歳。 ・小野寺︵おのでら︶ 気弱な大学生。 男。二十一歳。 ・佐々木︵ささき︶ 社長の部下。元自衛官。 男。三十二歳。 ・駐屯地にいた女の子 六歳。 257 32﹁別れ﹂ 街は静かだった。 幹線道路を東に向かう間も、ほとんど人影は見当たらなかった。 ゾンビの姿も。 まばらに放置されている車を避けながら、ダンプを徐行で走らせ る。 市役所に向かうあいだ、助手席の深月は無言でいた。隆司の体を 膝の上に抱いて、シートベルトはつけていない。座席の後ろには、 毛布でくるんだ優を寝かせている。 市役所は、川が二股に分かれる地点の、中州のような場所にあっ た。東西を川に挟まれている。 中州といっても、長さ数キロにおよぶ大きなエリアだ。数ある大 小の橋で、両岸と連結されている。 雄介たちは西側から、その橋の一つに乗り入れた。 ︵なるほどな⋮⋮︶ 橋の先に近づいてくる光景をながめながら、雄介は独りごちた。 中州の北側は商業ブロックで、ホテルや銀行、ビルが建ち並んで いる。 その対面に、大きな道路を挟んで、市庁舎が建っていた。奥には 公園が広がっている。遊歩道や駐車場が整備されて、周辺はかなり 見晴らしがいい。 ゾンビは泳げないためか、あまり水辺に近寄ろうとしない。周り を川に囲まれているここなら、ゾンビの侵入も防げる。あとは市庁 舎の北と、東西にかかる橋に注意を払うだけでいい。 パンデミック前にも何度かここを訪れたことはあるが、こうなっ 258 てみると、良い場所に建てたものだ。この地形に助けられて、百人 もの人間が生きのびたのだ。 橋を渡りきった先に、人影があった。歩哨らしき男が二人、道端 に立ち、こちらに手を振っている。どちらも一メートルほどの鉄パ イプを持っていた。 隣の深月が、かすかに身をすくませる。 雄介は腰の拳銃を視線で確認したあと、運転席の窓を少し開け、 スピードを落とした。 男たちの前で、ゆっくりとダンプを止める。 ハンチング帽の男が片手を上げ、口を開いた。 ﹁やあ!﹂ ﹁どうも﹂ 雄介の短い返答と、沈黙。 お互いに何を言うべきか、迷っているような雰囲気だった。 考えてみれば、深月以外でまともに会話をかわすのは久しぶりだ。 雄介は気を取りなおし、 ﹁あー⋮⋮市役所の人間、か?﹂ ﹁あ、ああ! 放送を聞いてきたのか? よく無事だったな﹂ ﹁ありがとう。三人だけど、合流できるか?﹂ ﹁大丈夫だ。地下に誘導するからついてきてくれ。なるべくゆっく りでな﹂ 言って、男は歩きだす。そのあとを、雄介も徐行で進む。サイド ミラーを見ると、もう一人は車の後ろについていた。特に不審な動 きもない。 視線を転じれば、市役所の入り口、バリケードの奥から、歩み出 てくる人影があった。二人組の若い男女で、鉄パイプを手に持ち、 259 橋に向かっている。車の誘導についた二人の代わりに、歩哨に立つ らしい。 男たちが連絡を取った様子もないので、車が来たときの対処を、 仲間うちであらかじめ決めておいたのだろう。 ︵こりゃかなりのもんだな⋮⋮︶ 予想以上に秩序立った集団のようだ。 市庁舎の上階の窓からは、いくつもの人影がこちらを見下ろして いる。年齢も性別もばらばらで、ある者は不安そうに、ある者は好 奇心のままに、こちらをながめている。避難民だ。 雄介はゆっくりと息を吐く。見た感じでは、まっとうな集団のよ うだ。最初に応対した男の態度も、雄介たちの無事を心から喜んで いるような雰囲気だった。 雄介は視線を戻し、暗い地下駐車場へのスロープに車を入れた。 ◇ ダンプの荷台の物資は没収を覚悟していたが、意外にも何も言わ れなかった。あと数日で救助が来るのだし、あまり逼迫した状況で もないのだろう。 かわりに、武器についてはすべて渡すよう要求された。庁舎内の 治安維持のためらしい。 雄介は少し躊躇したが、隠して持ちこむ隙もなさそうで、ひとま ず従った。隆司の治療のこともある。無用なトラブルは避けたい。 別に銃の予備はあるし、弾を抜いておけば危険も少ない。軽くなっ たそれを渡したときは、向こうもぎょっとしていた。弾が入ってい ないことを知って、むしろ安心したようだった。 幸運なことに、避難民の中に医者がいた。 目の下にひどいクマのある、二十代中盤ぐらいの若い女医だった。 260 ゆるくウェーブのかかった黒髪を後ろで縛っていて、ほつれた毛先 が頬にかかっている。徹夜明けのような、眠たげな雰囲気の女だっ た。 隆司の腹を触診しながら、 ﹁嘔吐はありましたか?﹂ 雄介は首を横にふる。 市役所の中、医務室に改装されたその一室では照明が灯っていた。 自家発電でもしているのかもしれない。小さな冷蔵庫の稼働音も聞 こえる。 隆司は簡易ベッドの上に寝かされている。治療の雰囲気に少し怯 えていて、深月が近くでその手を握っていた。 女医はズボンのすそをハサミで切り、患部を露出させ、腫れあが った右足の細かい傷を消毒していく。それから近くにいた助手らし い女に、 ﹁事務室から三十センチの定規。なければ似たような物を二つ、長 くてもいいです。お願いします﹂ 女はうなずいて、廊下へ消える。 女医は、机にいくつかある救急箱の一つから包帯を取りだし、腫 れた患部に巻きつけながら口を開く。 ﹁ここではレントゲンを取れないので、骨折かどうかはわかりませ んが、念のため固定して様子を見ます﹂ 深月は心配そうに、処置の様子を見守っている。 包帯を巻き終わると、女医は隆司のそばに顔を寄せ、 261 ﹁たかしくん、お腹、だんだん痛くなってる?﹂ 隆司はゆるく首をふる。 ﹁そっか。痛くなってきたら、我慢しないで言ってね﹂ 小さくうなずく。 女医は聴診器を胸に当て、 ﹁ちょっと深呼吸してみようか。息をいっぱい吸って﹂ ゆっくりと隆司の胸がふくらむ。 ﹁息を吸うとき、痛い?﹂ 隆司はちょっとだけ、と答える。 ﹁うん。ありがとう。泣かないでよくがんばったね﹂ 女医が優しく言った。 助手の女が、三十センチの定規を二つ持って、戻ってきた。 女医はそれを受けとると、ストーブのお湯で熱湯消毒をはじめた。 水気を切って冷ましたあと、患部を両側からはさむ。それから助手 と一緒に、タオルで縛って足を固定していく。 ﹁足の方はしばらく冷やして、動かさないよう安静に。あと、血尿 が出ていたらすぐ教えてください﹂ 治療を見守っていた深月が、不安げに、 262 ﹁あの⋮⋮大丈夫、でしょうか?﹂ ﹁⋮⋮危険な症状は出ていないので、今の時点では、あまり心配は いりません。まだ体ができあがっていないので、鎮痛剤は控えた方 がいいですね。痛みが酷くなるようなら、私に知らせてください﹂ ﹁はい。ありがとうございました﹂ 深月は安心したように、深々と頭を下げる。 女医はその様子をぼんやりと眺めていたが、ふと口を開いた。 ﹁⋮⋮お二方が怪我をされていないか、確認しておきましょう。藤 野さんはこちらへ。武村さんは、そちらの田宮さんの指示に従って ください﹂ そう言って、深月を連れて隣室へと消える。 入り口に立っていた男の一人が雄介の肩を軽く叩いて、ついたて の向こうへとうながしてくる。 言われるままに物陰に入り、上着とズボンを脱いで、どこにも傷 跡がないことを見せる。感染を警戒しているのだ。男は大ざっぱに 体を確認すると、OKを出した。 ベッドのそばに戻ってしばらくすると、深月たちも戻ってきた。 確認もひととおり終わると、田宮と呼ばれた男が言った。 ﹁先生、手続きに戻ってもいいでしょうか?﹂ ﹁ああ⋮⋮そうですね。避難者カードですね。ここで書いてもらっ てください。その子をむやみに動かしたくないので﹂ ﹁了解です﹂ しばらくして雄介の元に持ってこられたのは、住民票に似た避難 者カードだった。住所、氏名、年齢、性別、持病の有無や、技術・ 資格、所有する車の欄などがある。世帯ごとに一枚の紙にまとめて 263 書くようになっている。 雄介は代表者のところに自分の名前を書いたあと、深月に手渡し、 二人の名前も書かせた。 この混乱した状況であるし、しばらく同行する人間なら、同じ世 帯として扱うらしい。物資の配給などは、グループの代表者に対し てまとめて渡されるという。 そういった細々としたルールの説明を受けたあと、寝泊まりをす る部屋に案内された。 途中の廊下やホールでは、避難者たちが椅子やベンチに座り、な ごやかに談笑していた。暖房がないため、みな厚着している。女や 老人が多い。働き手は作業に割り当てられているのだろう。 救助が近いためか、みな表情は明るかった。通りがかる雄介たち に、好奇の視線を向けてくる。 ︵あんまり追いつめられた様子がないな⋮⋮。うまくいってるのか︶ ぼんやりと考えているうちに、目的地に到着した。 案内されたのは、二階の廊下を渡り、西庁舎に入ったところの一 室だった。学校の教室を二つ繋げたぐらいの広さで、中にあったら しいデスクやパーティションは隅に寄せられている。都市整備局、 住宅部というネームプレートがあった。中央にはストーブが置かれ ている。 部屋の中には五人ほどの男女がいた。タイルカーペットの床の上 にダンボールやシーツを敷き、毛布にくるまって、思い思いの場所 で寝ている。みな薄汚れ、疲弊した様子で、顔を上げることもなか った。 途中で見かけた避難者とは、明らかに雰囲気が違う。おそらく、 放送を聞いて新しく避難してきた人間たちなのだろう。 案内の男が壁際に歩みより、 264 ﹁これをその子に使ってくれ。疲労感がだいぶ違うと思う﹂ 災害備蓄用のマットレスを、壁ぎわに敷いていく。その上に隆司 を横たえ、毛布を被せると、少し落ちついた形になった。 雄介は肩にかけていたフィールドバッグを下ろし、 ﹁いろいろありがとう。助かる﹂ ﹁いや、子供も無事で良かったよ。何かあったら、外にいる奴らに 声をかけてくれ。配給は毎朝してるんだが、食べ物は今すぐ必要か ?﹂ ﹁いや⋮⋮それより﹂ 深月たちと少し距離を取り、 ﹁もう一人、子供の遺体が車にある。墓を作ってやりたいんだけど、 いいか?﹂ 男の顔がさっとこわばった。 ﹁⋮⋮奴らに噛まれたのか?﹂ ﹁いや。人間にやられた﹂ ﹁ああ⋮⋮そうなのか⋮⋮﹂ 男は表情を暗くし、 ﹁子供がなあ⋮⋮。やりきれんよ﹂ 首を振り、 ﹁こっちでも今朝、爺さんが一人、病気でな⋮⋮。明日、裏の公園 265 に埋葬する。そのときに一緒でいいか? それなら人手もまわせる﹂ ﹁頼む。助かる﹂ ﹁ま、もう少しで救助が来る。気を落とさんでくれ﹂ ﹁ああ。ありがとう﹂ 話を終えて戻ると、隆司はすでに寝ていた。移動の間もずっと体 力を消耗する。限界だったのだろう。 そのそばで、深月はじっと隆司の寝顔をながめている。女医から 渡されたビニールの水袋は二つ。これを交代で使い、患部を冷やす ことになる。 雄介は横に腰を下ろし、 ﹁良かったな。医者がいて﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 深月はかすかにうなずいた。 隆司の怪我は心配だったが、今すぐどうこうはなさそうだ。 ﹁お前も寝てねーだろ。こいつは俺が見ててやるから、先に寝ろ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 深月に毛布を渡し、自分もごわつくジャケットを脱いで、毛布を 羽織る。ストーブがあるとはいえ、広い部屋はまだ冷える。 壁に寄りかかって腰を下ろすと、深月がこちらの膝に体を預けて きた。猫のように体を丸め、何を言う間もなく、静かな寝息を立て はじめる。 ﹁⋮⋮﹂ 無言でその体に毛布を被せ、雄介はぼんやりと思案にふける。 266 三日後には救助が来る。避難した先には、どれぐらいの人間が生 き残っているのか。無事な場所はどれだけあるのか。 ︵これからどーなんのかなあ⋮⋮︶ 体を休めているうちに、少しずつ人が増えてきた。 雄介たちが市役所に到着したのは午前のことだったが、それから 一日かけて、次々と避難者が到着してきた。すべてこの部屋に集め られているらしく、広かった部屋が、少しずつ避難者で埋まってい く。 部屋に出入りがあるたびに、深月は目を覚ました。毛布の中から こちらを見上げ、雄介が特に表情を変えていないとわかると、また 眠りに戻る。あんなことの後で、眠りも浅いのだろう。 隆司の看病をしながら、交代で睡眠をとるうちに、夜になってい た。戸口に吊るされたLEDのランタンがわずかな明かりとなる中、 薄暗い部屋の隅で、雄介たちは手持ちの食料で夕食をとった。 部屋の人間は三十人ほどに増えていた。ほとんどは二、三人のグ ループで、単独の避難者はあまりいない。 部屋の中央近くで目立っていたのは、十人ぐらいの集団だった。 体格のいい中年の男たちが主で、女が数人混じっている。照明や食 料も持ちこんでいるようで、その周囲だけが明るい。声を潜めるこ ともなく、さかんに言葉を交わしている。キャンプ場のような雰囲 気だった。 ランタンで照らされる戸口には、紙が張りだされている。手書き の屋内図と共に、指定のトイレ以外は使わないように、何か要望が あれば係の者に声をかけるように、などの注意書きが示されている。 廊下のベンチでは、腕章をつけた男たちが和やかに談笑していた。 外に出てきた雄介を見て、男の一人がどこに行くのか尋ねてくる。 トイレと答えると、男はうなずき、危ないので関係ない場所は出歩 かないように、と言いふくめてきた。 267 途中で目に入った渡り廊下には、歩哨が二人立っていた。 見ようによっては、西庁舎の人間が本庁舎へ入らないようにする ための、門番のようにも見える。 雄介は不意に思い当たった。 ︵⋮⋮隔離されてんのか︶ 考えてみれば、安定しているところへ新参者を受け入れるのだ。 どんな人間が来るかもわからない。感染者の可能性もある。慎重に なっても不思議ではない。 そんな状況でも救助の情報を放送したところは、良心の発露とい うべきだろう。多少の不自由は仕方がない。 雄介はトイレを口実に、少し足を伸ばした。節電のためか、天井 の蛍光灯はほとんど外され、五つに一つぐらいの割合でぽつぽつと 灯っている。廊下以外はどこも真っ暗だった。 トイレの個室には外付けのタンクがつけられていて、水を補充し て水洗が使えるようになっていた。ずいぶんと準備がいい。 停電は昨日のことだ。慌てて対処したわけでもなく、電気や水が 止まることを想定して、周到に準備をしていたのだろう。 市役所についてからずっと感じていたことだが、全体的に手際が いい。指揮を取っている人間が有能なのだ。 他にも建物の出入り口や、閉まっている防火扉などを確認したあ と、部屋に戻る。 雄介の姿を見て、深月はあからさまにほっとした表情を浮かべた。 ◇ 次の日の朝、肌寒さを感じ、雄介は目を覚ました。 ﹁あ、ごめんなさい⋮⋮﹂ 268 ﹁うん⋮⋮?﹂ 寝ぼけまなこで目をこする。 朝日が窓から入り、雑魚寝する避難者たちを照らしている。その 片すみで、雄介は毛布にくるまって横になっていた。すぐ隣には隆 司も寝ている。 毛布のはだけた隙間から、冷気とともに深月が潜りこんできた。 深月の冷えた衣服の奥から、体温がじんわりと伝わってくる。トイ レか何かで外に出ていたらしい。 深月は雄介の襟元に顔をうずめ、耳元でささやく。 ﹁まだ寝てていいですよ。私が起きてます﹂ ﹁もう目ぇ覚めた⋮⋮ちょっとしたら起きる﹂ ﹁はい﹂ それきり二人は沈黙する。 同じ毛布の中で、静かに時間が流れていく。 ﹁武村さん﹂ ﹁ん?﹂ ﹁⋮⋮ありがとうございます﹂ ﹁なにが?﹂ ﹁⋮⋮いろいろと﹂ 深月はか細くつぶやき、雄介の胸に頬を寄せてくる。小動物のよ うな仕草だった。 日が昇るにつれ、避難民もちらほらと起きはじめた。トイレに行 く者、ストーブのそばで隣人と話しはじめる者、配給の時間を聞く 者。雑然とした雰囲気で部屋が満たされる。 そろそろ起きようかと考えていると、不意に、男の声が響いた。 269 ﹁深月!﹂ 顔をあげる。 避難者の間をぬって近づいてきたのは、背の高い黒髪の、高校生 ぐらいの少年だった。 ﹁あっくん⋮⋮﹂ 深月が茫然とつぶやく。 ﹁無事で良かった! 名簿で名前を見つけたんだ。ずっと心配して た﹂ そう言って近づいてくるが、同じ毛布にくるまった雄介と深月を 見て、顔を強張らせる。 少年は言葉に詰まったようにしばらく立ち尽くしていたが、やが て雄介から視線を外し、 ﹁⋮⋮深月、ちょっと話がしたいんだけど。いいか?﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ それから、うかがうようにこちらを見上げてくる。 ﹁行ってこい﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 雄介の言葉を受け、深月は毛布から出る。 少年にうながされ、二人はともなって廊下に出ていった。その背 中を見送り、 270 ︵めんどくせー予感がする⋮⋮︶ 毛布の中にこもり、眠る隆司の様子をながめながら、考える。 ︵感じ的に彼氏ってとこか。だとしたら一悶着ありそうだな⋮⋮︶ 恋人が他の男と毛布にくるまっていたとしたら、心中穏やかでは ないだろう。ややこしいことにならなければいいが。 十分ほどたっただろうか。 しばらくして戻ってきたのは、少年一人だけだった。雄介に軽く 頭を下げ、開口一番に言った。 ﹁深月のこと、今までありがとうございました﹂ ﹁⋮⋮。どういたしまして。あいつはどうした?﹂ その言葉に、少年はゆっくりと顔をあげる。 直前の感謝の言葉とは裏腹に、能面のような無表情だった。 ﹁これからは、俺があいつを守ります。もう迷惑はかけません﹂ ﹁⋮⋮ああ、そう﹂ 言外に、もう深月に関わるな、と言っているのだ。 そのあからさまな隔意に、雄介は小さく口元を歪める。 少年はそれに苛ついたように、 ﹁深月を保護してくれてたことには感謝しますが、これからは身内 でやっていきます。何か問題がありますか?﹂ ﹁いや、別に。お前はあいつの彼氏かなんか?﹂ 271 少年は無表情のまま、 ﹁そうです。付きあってます﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ 雄介は無感動にあいづちを打ち、 ﹁でもさ、ちゃんと面倒見れんのか? そこのガキは怪我してるし よ。食い物とかは十分あるか?﹂ その言葉に、少年は気分を害したようだった。かすかに眉を寄せ、 ﹁⋮⋮わかってないみたいですね﹂ ﹁? 何が﹂ ﹁ここの運営を取りしきってるのは、牧浦先生です。俺から先生に 言えば、いろいろ融通が効きます﹂ 聞けば、あの女医のことだった。この市役所内ではトップにあり、 その女医と少年は親しいという。 ﹁救助が来るまで、新しく避難してきた人たちは西庁舎に留まって もらうことになってる。でも、俺と身内だって言えば、本庁舎に入 れてもらえる。医務室の近くにでも、隆司を移動させられる。こん なとこに置いておくより、よっぽどいいです﹂ ﹁⋮⋮へー。そりゃいいな﹂ なんとなく、眠っている隆司に視線を移す。 この部屋は人口密度も高く、暖房も効きづらい。あまりいい環境 でないのは確かだった。 272 ﹁それに⋮⋮﹂ 少年の目に、苦々しいものが浮かぶ。 ﹁感謝してるとは言いましたけどね。なんでここに、優がいないん ですか。俺、あいつとも仲良かったんですよ。隆司もこんな怪我し てるし。⋮⋮誰の責任なんですか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は沈黙する。 そもそも雄介が介入しなければ、三人ともとっくに餓死していた。 深月に責められるならともかく、目の前の男にどうこう言われる筋 合いはない。 しかし、雄介は反論しなかった。 ︵⋮⋮まあ⋮⋮もういいか。身内がガキの面倒も見るっつーなら⋮ ⋮︶ 雄介は小さく息を吐き、 ﹁⋮⋮わかったよ。あとは頼んだ。どこに連れてけばいい?﹂ 立ち上がり、隆司を抱き上げようとすると、少年に遮られた。 ﹁隆司は俺が連れていきます。名簿の手続きはこっちでしておくん で。残った毛布は使っていいですよ﹂ ﹁⋮⋮サンキュー﹂ ふと見ると、戸口に深月が立っていた。何が起こっているのかわ からないようで、うろたえたようにこちらを見守っている。 273 雄介がそちらに近づくと、少年が警戒の視線を投げかけてきた。 なんでもないと手を振りかえす。 入り口ですれ違いざま、こちらを見上げてくる深月に向かって、 雄介は言った。 ﹁今まで悪かったな。あとはあいつに面倒見てもらえ﹂ ﹁え⋮⋮﹂ 深月は茫然とつぶやく。 ﹁じゃーな﹂ 立ちつくす深月と、そこに何事か話しかける少年を背後に、雄介 はその場を立ち去った。 ◇ 埋葬は、その日の午前に始まった。 晴れ空の下、男手の数人で穴を掘っていく。火葬の余裕もないの で、シーツでくるんでの土葬だ。公園の片すみには、木の棒で作ら れた墓が他にもいくつかあった。 墓堀りの男たちに交じり、雄介は無心で腕を動かす。 一メートル半ほどの深さに達すると、シーツに包まれた老人の遺 体が担架で運ばれてくる。棺桶もない。穴底で待っていた男に抱え 渡され、穴底に安置される。上から、土がかけられていく。 死者の家族らしい、中年の女と若い娘が、その様子をぼんやりと 見守っている。 老人の埋葬が終わると、その横に、優の墓穴を掘った。腕が鈍く なると、他の男に交代してもらい、少しずつ下に掘り進めていく。 シーツに包まれた優の体は軽く、雄介一人で穴底に安置した。土 274 をかけるごとに、その姿が見えなくなっていく。 すべてが終わると、同じ墓堀りの男たちが、ねぎらいに肩を叩い ていった。同情のこもった優しい手つきだった。礼を言ったあと、 雄介はその場に一人残った。 ひとけのなくなった墓の前であぐらをかき、雄介は物思いにふけ る。 すじを考えるなら、優の埋葬も、深月やあの少年に任せるべきだ った。短い付き合いの自分より、よほど近しいのだから。 しかし、どうしてもこれを放り出す気にはなれなかった。 ︵依怙地になってんのかね⋮⋮︶ 雄介はため息をつき、 ﹁お前も運がなかったな⋮⋮﹂ 優の眠る土をかるく叩き、雄介は立ち上がった。 ︵さてと⋮⋮救助が来る前に、時子ちゃん解放しとかねーと︶ 雄介がいなくなれば、あのマンションの一室を訪れる者は誰もい なくなる。そんな所にずっと放置しておくというのも忍びない。気 分の問題ではあるが、街に解き放っておいた方がいいだろう。 市役所の人間に気づかれずに街に出られるポイントを確認してお こうと、雄介は公園の奥に足を伸ばした。 遊歩道の先には、人がすれ違えるぐらいの小さな橋がかかってい た。途中でしっかりとバリケードで塞がれている。橋のたもとでは、 パイプ椅子に座った男が二人、ぼそぼそと何かを喋っていた。橋の 監視なのだろう。 公園の周囲を遠巻きにながめながら、雄介は考える。 275 ︵夜になりゃ行けるかなー︶ 警備の態勢次第ではあるが、こっそりと脱出するのは、そう難し くもなさそうだ。 そのとき、すぐそばで、盛大にむせる音が響いた。 振り向くと、木陰のベンチに女が座っていた。 白衣を着ていないので一瞬わからなかったが、たしか牧浦とかい う女医だ。目の下にひどい隈がある。白いシャツに黒いロングスカ ート、上からベージュのカーディガンを羽織っていた。ウェーブの かかった黒髪は自然に流されている。 見た目だけなら、男子に人気のある新任の国語教師といった風情 だが、どうにも退廃的な雰囲気がある。 女医は、火のついた煙草を手に持ち、口元を抑えて咳きこんでい る。振りかえった雄介には気づいているようだが、手の平をこちら に向け、しばらく待ってほしい、というようなジェスチャーをして いた。 少しして、様子が落ちついた。 女医がかすかに頭を下げ、 ﹁⋮⋮失礼、しました﹂ ﹁ああ、いや⋮⋮﹂ いきなりの邂逅に、雄介は戸惑った。 そんな雄介の様子に頓着するでもなく、女医は、手元の煙草を無 言でいじっていたが、ふっとこちらを見て、 ﹁吸いますか?﹂ その言葉に雄介は面食らい、 276 ﹁いや、煙草は⋮⋮最近は、吸ってないんで﹂ ﹁それはいいですね。煙草はあまり良くない﹂ じゃあなんで吸おうとしてたんだ、とでもいうような雄介の視線 に、牧浦は首をかしげ、 ﹁気分転換になるかと思ったんです。周りで吸っている人も多かっ たので。平気かと思ったんですが⋮⋮あまり美味しいものではない ですね﹂ ﹁まあ⋮⋮慣れてないと。楽しめるものでは、ないかな﹂ 医者相手なら敬語を使うべきだろうが、どうにもやりにくい。 パンデミックが起きて、さんざんサバイバル生活をしてきたのだ。 今さら社会的な立場を意識した言葉を話すことには、猿真似のよう なぎこちなさがあった。 牧浦は淡々と、 ﹁無理して言葉を繕わなくてもいいですよ。こんな世の中です。お たがい同年代のようでもあるし﹂ ﹁いや、ここのトップなん⋮⋮だろ? 牧浦先生は﹂ ﹁誰がそんなことを?﹂ ﹁なんだかっていう⋮⋮高校生ぐらいの男に﹂ 牧浦は聞こえないほどの小声で、何かをつぶやいた。 ﹁⋮⋮お飾りで副会長の役職についていますが、救護班での治療と カウンセリングが担当で、トップではないです。会長の水橋さんは 高校で教鞭を取っておられた方で、年齢も経験も私よりずっと上で す﹂ 277 ﹁みんなあんたに判断を仰いでる、って言ってたけど﹂ ﹁それは、あまりいいことではないですね﹂ ﹁そーだな﹂ 医者には医者の仕事に専念させるべきで、他のことに拘束しては リソースの無駄遣いになる。 話題を変えるように、牧浦が口を開いた。 ﹁埋葬、見ていました。お手伝い、ありがとうございました﹂ 雄介は首を振り、 ﹁こっちも墓を作ってもらった。助かった﹂ ﹁⋮⋮ご兄弟だったんですか?﹂ ﹁いや。他人の子で⋮⋮前に医務室で診てもらった子供の、弟だっ たか兄貴だったか⋮⋮それも知らないな﹂ ﹁そうですか⋮⋮﹂ 沈黙がおりる。 居心地の悪さに、そろそろ立ち去ろうかと考えていると、牧浦が おもむろに口を開いた。 ﹁今日、こちらで埋葬したのは、篠崎さんというお爺さんだったん ですが⋮⋮﹂ 牧浦は言葉を切り、眠たげな瞳で、ぼんやりと視線をさまよわせ る。 ﹁正直なところ、死因も不明で。いろいろ気にはかけていたんです が、ここでは機材もろくにない。対処も何も⋮⋮。せめて埋葬だけ 278 でも立ち会おうと思ったんですけど、ご家族の目を見る勇気がなく て﹂ とつとつと話される言葉は、まるで泣き言のようだ。 ほぼ初対面の自分になぜそんな話をするのか判断がつかず、雄介 は口を閉じていた。 その疑問の気配を察したのか、牧浦は頭を下げ、 ﹁すみません⋮⋮。ですが、あの男の子のことで。危険な兆候はな いです。でも、自信がなくて。篠崎さんのときも、前兆はありませ んでした。できるだけ、目を配っておいてほしいんです﹂ ﹁ああ⋮⋮なるほど﹂ 雄介は頭をかき、 ﹁でも、もう別れたからなあ⋮⋮﹂ ﹁? なにかあったんですか﹂ ﹁あの子供の姉⋮⋮保護してた女の子の彼氏が来たんで、合流させ た。弟と一緒に、本庁舎に移してもらえるって話だったんで﹂ 牧浦は眉をひそめ、沈黙した。 無言で、じっと雄介の言葉を吟味している。 やがて、小さくうなずいた。 ﹁わかりました。その件については、こちらで責任を持ちます﹂ ﹁頼みます﹂ ﹁いえ﹂ 牧浦は立ち上がりながら言った。 279 ﹁そろそろ戻ります。引き留めてすみませんでした﹂ 別れの挨拶を交わして、牧浦は立ち去っていく。その背中を見送 り、雄介は一息ついた。 川を挟んだ対岸には、静かな街並みがたたずんでいる。空は雲一 つない青空で、気持ちのいい空気が漂っていた。 ﹁ま、これはこれで⋮⋮。自由に戻ったってことなのかね﹂ ぐっと、大きく伸びをする。 これで、しがらみはなくなった。 どう動こうと自由だ。 あの少年に二人を預けることには不安がないでもなかったが、医 者の牧浦は信用できそうだ。雄介は少し気が楽になった。 生きている自衛隊の場所さえ把握できれば、救助のヘリにこだわ る必要もない。統制の取れた集団との接触、という目標は達成でき たのだ。 大学キャンパスのゾンビたちという不安要素はあるが、市役所で は防御も固めているようだし、仮に襲われても、あと三日ぐらいな ら持ちこたえるだろう。 ﹁夜になったら、一回街に戻るか﹂ それまでに警備の位置を把握しておこうと、雄介は市庁舎へきび すを返した。 280 32﹁別れ﹂︵後書き︶ 蛇足ですが深月さん寝取られはないです。 281 33﹁時子の変化﹂◆ 日が落ちたあと、雄介は市役所を抜け出した。 途中で拾った自転車を使い、マンションにたどりついたころには、 時刻は深夜をまわっていた。 ﹁なんか久しぶりだなー﹂ 自分の部屋に入り、雄介は中を見まわす。電気は止まっているの で、ライトの明かりだけが頼りだ。 少し埃の臭いのする室内で、とりあえず持っていくものを選別し ようと、雄介は物色を始めた。 ﹁まず、これをどーするかだよなあ⋮⋮﹂ クローゼットの中にあるのは、警察署から入手した銃器類だ。箱 詰めの銃弾もある。 隠して持ちこむことはできるだろうが、ばれたときはトラブルの 種になりかねない。 ﹁市役所の近くにでも隠して⋮⋮いざって時に使えないか。やっぱ 車の中かな﹂ 小さい金庫か、南京錠をつけたガンケースにでも入れて、運転席 の後ろに置いておけばいい。救助が予定通りに行われるなら無用の 長物になるが、備えはしておきたい。 銃器類をひと通りフィールドバッグに移し終わると、雄介は他の 物品に移った。 282 パンデミック初期のころに、量販店から使えそうなものを適当に 持ちこんでいる。その中に手回し式のラジオを見つけ、バッグに放 りこむ。USB端子があるので、これで音楽プレーヤーの充電もで きる。他にも使えそうなものを拾い、バッグを閉めた。 私物には、特に持っていきたい物はなかった。服のいくらかぐら いだ。 思い出の品を貯めこむたちでもないし、就職のさいに、昔の物は 整理している。無個性な、独り暮らしの男の部屋、それだけだ。鍵 と身分証明証だけあればいい。 だいたいの物色が終わると、雄介は一息ついて、冷蔵庫を開けた。 中のビールを取り出し、プルタブを引いてラッパ飲みする。電気が 切れているので少しぬるい。 久しぶりのアルコールが、乾いた喉に染みこんでいく。 缶を投げ捨て、再び冷蔵庫をのぞきこむ。残りは一つだった。 ﹁時子ちゃんの部屋にあったかなー、酒⋮⋮ってそうだ、時子ちゃ んだ﹂ 本来の目的を思いだす。手に取ったビールを半分ほどあおり、雄 介は時子の部屋に向かった。 鍵を回してドアを開け、靴を脱いでダイニングに上がる。 そこで見たものは、床に倒れ伏す時子の姿だった。 ﹁へっ⋮⋮?﹂ ライトの明かりの中、ゆるく三つ編みにした黒髪が、床に広がっ ている。薄いピンクのパジャマの上着に、その裾からのぞく、白い 下着だけの下半身。横向きに横たわる時子の、冷えきったような青 白い太ももが、床に投げだされている。 時子の後ろ手についている手錠は、雄介がはめたものだ。それに 283 タオルを通して椅子に縛りつけ、拘束していた。 しかし、その拘束は、今は解けている。 ﹁自分で外したのか⋮⋮?﹂ 恐る恐る近づくが、反応はない。 ﹁おーい⋮⋮時子さん⋮⋮?﹂ 肩を掴んで揺さぶってみるが、動きはまったくない。目は閉じら れ、元の死体に戻ったかのようだ。 ﹁冬眠か? ⋮⋮んなわけねーか﹂ 雄介は首をひねる。寒さが厳しくなるにつれ、他のゾンビたちも 地下や屋内に移動していたが、今の時子のように動かなくなるゾン ビは見たことがない。 ビールをちびちび飲みながら、時子を揺する。すべすべした太も もをなでさすり、はだけたパジャマの裾から手を入れて、乳房を揉 みしだく。下着をつけていないので、手のひらの中で形を変える柔 らかい感触が、直に伝わってくる。 ﹁相変わらずいい乳してんなあ﹂ さんざんいじってみるが、やはり反応はない。 ﹁ま、いいか﹂ とりあえず部屋の鍵だけ開けておくことにして、雄介は時子を放 置した。また動くようになったら、そのうち出て行くだろう。 284 冷蔵庫をあさり、予備のビール缶を大量に持ち出す。戸棚からジ ャーキーなどのつまみもさらって、奥の部屋に向かった。 寝室のカーテンを開けると、月明かりが部屋の中を照らしだした。 ジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに上がり、雄介はビールをあおり はじめる。 救助のヘリが来るのは明後日なので、明日の夜に市役所に帰るつ もりだった。点呼を取っているような様子もなかったし、一日ぐら いは気づかれないだろう。明日は街の様子を見てまわる予定だ。 そのためにももう寝ておきたいが、しばらくずっと緊張状態が続 いていたせいで、神経が少し高ぶっている。それを酒で、強引に和 らげていく。 追加されるアルコールで脳が鈍くなり、それに釣られて、雑然と した想念が浮かんでは消えていった。 ︵前もここで飲んでたよなー︶ 確か、深月に二回目に会ったあとだ。 食料を要求され、こちらは代価として体を求めたのだ。 あのときは、こちらを殺しそうな目で見ていた。 そんな最悪の関係から始まり、紆余曲折を経て、共同生活を送る ようになった。しかし、それは結局破綻し、 ︵一周まわって元の場所か⋮⋮︶ ﹁くだらね﹂ 次のビールを開ける。次々とわき上がってくる雑念を押し流すよ うに、雄介は酒を流しこんだ。 ◇ 285 布団にくるまって眠りにつき、夜もふけたころ。 ぎし、という床鳴りの音に、雄介の意識はゆっくりとまどろみか ら浮上した。 寝起きのぼんやりとした状態で、周囲の違和感を探る。 すぐ近くに、人の気配があった。 ︵なんだ⋮⋮?︶ 雄介は泥のような眠気をこらえて、張りついた瞼をこじ開けた。 視界が焦点を結ぶ、少しの間。 ベッドのすぐ横に立つ時子の姿が、目に入ってきた。 月明かりに照らされ、無表情にこちらを見つめている。ゆるい三 つ編みがその肩口から垂れ落ち、手は後ろで拘束されたままのよう で、パジャマを盛り上げる豊かな胸が強調されている。 ︵へっ⋮⋮?︶ いまだに夢とうつつの区別がつかず、雄介はぼんやりと、目の前 の光景をながめた。 突然、時子が動いた。 横からこちらにのしかかり、首筋に噛みついてきたのだ。 ︵⋮⋮っ!? こいつ!︶ 一気に意識が覚醒する。 油断だった。 まがりなりにもゾンビのそばで、意識を失うほど痛飲するとは。 被っていた布団をはねのけ、時子を突き放す。時子は姿勢を崩し、 ベッドに尻もちをついた。 286 それを横目に、雄介は噛まれた場所に手を当て、傷の様子を探っ た。 そこで、ふと違和感に気づく。 噛まれたと思った首筋には痛みもなく、ぬめるような感触がある だけだ。月明かりに照らしてみても、手には唾液しかついていない。 ︵⋮⋮噛まれたんじゃねーのか?︶ 時子は手の使えない不自由な体勢のまま、こちらに覆い被さろう としてくる。雄介は慌ててその肩を抑える。 時子は明確に、こちらを獲物として認識していた。 しかし、ゾンビが人を襲うときのような、切迫した敵意や悪意は 感じられない。力にも勢いはなく、片手で抑えられる程度だ。 ﹁っと暴れるなって!﹂ 右手を噛まれそうになり、慌てて手を離す。 らちがあかない。雄介は時子をベッドに押し倒し、その腹の上に またがって動きを封じた。両手を背中で拘束されている時子は、こ れで何もできなくなる。 時子はぼんやりとこちらを見上げながら、視線を動かし、様子を うかがっている。ゆるく開いた唇に、小さな舌がちらりとのぞいた。 ︵どーなってんだ⋮⋮︶ 時子を拘束し、それから数十分、四苦八苦したあと。 ようやく、時子が何をしようとしていたのかわかった。 こちらを獲物として見ているのは事実のようだが、血や肉を求め ているわけではなかった。 試しに差しだした雄介の手に、時子が噛みついてくる。その歯は 287 甘噛み程度で、ぬるりとした舌の感触が、手の水かきや爪の周りを、 ねとねとと濡らしていく。 指にも舌をからませ、アイスのように舐めはじめる。ひと通り綺 麗になると、次の指へ移っていく。 その仕草は愛撫のようでもあるが、もっと即物的なものだ。 ︵垢を喰ってる⋮⋮︶ 皮膚を食い破るでもなく、ただ表面の老廃物を舐めとるだけの動 き。 おやつの骨をしゃぶる、犬のような動きだ。 ︵俺が骨かー⋮⋮︶ 酔いも手伝って、雄介は妙な脱力感を覚えた。 仮説を立てるなら、おそらく時子に何らかの変化があり、雄介も 獲物認定されたのだろう。 しかし、雄介には、ゾンビに襲われないという体質がある。 獲物だが襲えない、というその二つの折り合いが、老廃物を食べ る、という行動になったのだろう。 おそらく血や肉も好むのだろうが、あえて傷つけるような行為は 取らない、といったところか。 ︵焦って損した⋮⋮︶ 時子に襲われるのは、心臓に悪い不意打ちだった。雄介は安堵に 息をつく。 その間も、時子の食事は続いている。 見目の整った美人が、自分の手先を口に含み、舌を這わせている。 その光景をながめているうちに、雄介はむらむらしてきた。 288 いっそ押し倒したい衝動に駆られるが、せっかくなので、時子に させるがままにする。 ベッドに横になり、枕に頭をあずけると、腹の上に時子がのしか かってきた。パジャマごしに、柔らかい胸がぐにぐにと押しつけら れる。 舌は、手首から肘へと動いていた。皮膚に唇が吸いつく感覚。唾 液のまぶされた皮膚の表面を、舌で何度もくすぐられる。ピチャ、 ピチャ、と子猫がミルクを舐めるような音とともに、ぞわぞわする 感覚が表面をなぞっていく。 やがて、腋までべたべたにされると、時子がぎこちなく体を動か しはじめた。 時子のすべすべした素足が、こちらの足にからみついてくる。押 しつけられていた胸が下の方にずれ、雄介の腰を包みこむ形になる。 硬くなりかけていた股間が、豊かなふくらみに埋もれた。 布団に入るときに上着もズボンも脱いでいたため、ボクサーパン ツの薄い布地ごしに、柔らかい胸の感触が伝わってくる。無遠慮に 押しつけられるその甘い圧迫感に、芯がゆっくりと立ち上がり、思 わず突きこみたくなる衝動をこらえる。 時子の動きでこちらのTシャツがめくれあがり、脇腹に、濡れた 舌の感触が侵入してきた。 ︵⋮⋮これ変な気分になるなー⋮⋮︶ 時子は雄介の腰にすがりつくような形で、唇を動かしている。 あばらから腹筋へ。筋肉の線をなぞりながら、唾液の跡をつけて いく。湿った唇が、快感とまではいかない、もどかしくもじれった い感触を残していく。 へそを舌先でほじくられ、雄介は手足をぴくりと緊張させた。時 子の唇が粘着質に這いまわり、腹が唾液でふやけていく。 289 ︵⋮⋮⋮⋮︶ そのぬるま湯のような感覚に、雄介はぼんやりと身を任せた。 やがて、時子の唇が、ゆっくりと腰に下りていく。 へその下、下腹部の先、さんざん焦らされ、熱気がこもっている 場所へと。 数秒のあと、柔らかい唇が、張りつめた強張りを下着ごしにくす ぐった。そこから走った快感に、雄介は小さく息を漏らした。 さらに下着ごしに唇でくわえられ、ちろ、ちろ、と舌で裏すじを 刺激される。 声を我慢するのも難しいほどだったが、それも長くは続かなかっ た。刺激はすぐに横にそれ、内股の方へと移っていく。 ﹁⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ 別に愛撫されているわけではない。時子は食事をしているだけで、 雄介がそれに勝手に快感を覚えているだけだ。背徳的な気分だった。 時子の舌がだんだんと内股を這い上がり、下着の裾をずり上げな がら、ゆっくりと陰嚢の近くへ侵入してくる。 ︵そーいや⋮⋮しばらく風呂入ってないっけ⋮⋮︶ 少し前まで荒事ばかりだったのだ。冬なので臭うということはな いが、あまり清潔とは言えない。それが逆に、時子にとっての餌に なるのだろう。 舌先が袋をかすめ、雄介は体を震わせた。獲物を見つけたように 舌がべっとりと張りつき、唇が吸いついてくる。 玉を上下からくわえられ、ぬるぬるした唇の中に吸いこまれる。 唾液のぬかるみの中で舌先が動き、袋の皺を突つかれる。皺の一つ 一つを伸ばすようにして、溜まった汚れを舐めとられていく。 290 舌が動くたびに、射精に繋がらない快感が腰で渦を巻いた。強張 りは限界まで硬くなり、下腹部に張りついて、下着の上からはみ出 そうになっている。先端からにじんだ粘液がしたたり、下腹部に垂 れ下がっている。今触られたら、すぐにでも出てしまいそうだった。 袋を綺麗に舐めとられたあと、下着を突きあげる硬直の輪郭を、 唇が上になぞっていく。ぞくぞくするような快感に、全神経がその 動きに集中する。 唇が上まで到達すると、下着の隙間に、時子の舌が侵入してきた。 先走りでべとべとになった鈴口に、柔らかいものが絡みつく。 ぬるりとした唇の感触が、亀頭を包んだ。 唇でくわえられ、ぬめった舌の上に乗せられて、膨らみに溜めこ まれていたむず痒さが、一気に快感に変わる。笠のくびれを舌先で なぞられ、唇でこすられる感触。ぞり、ぞり、と垢をこすり落とす ように、亀頭の裏の敏感な部分を、舌が舐めあげてくる。 急激な射精感が込みあげ、雄介は我慢できずに体を起こした。時 子の頭をつかみ、一気に奥まで押しこむ。 後ろ手に手錠で拘束され、ゆるい三つ編みをベッドに垂らした時 子の顔は、まったくの無表情で、パジャマの胸元からのぞく白い膨 らみと、ベッドに投げたされた太ももが、月明かりに照らされて、 非人間的な淫猥さをかもしだしている。 根元まで突きこんだことで、膨らんだ亀頭の先が喉ちんこを押し つぶし、つるつるした口蓋を押し入っていく。人間なら嘔吐でもす るところだが、相手は死人だ。 下腹部に押しつけられる時子の鼻づらを感じながら、さらに奥に 突きこむように、頭をかきいだく。 強張りに押し退けられた舌がうごめき、張りつめた性器を溶かす ように絡みついてくる。 時子の喉が上下に動き、亀頭の先を飲みこむように絞りあげてき た。腰に溜まっているどろどろしたものを、優しく吸い上げられる ような感覚。 291 ﹁っ⋮⋮!﹂ その動きに、耐えていたものが決壊した。喉の奥に亀頭をこすり つけながら、快楽の脈動と共に、汚液を吐き出していく。 体を震わせて放出の快感を味わう雄介と、時子は対照的だった。 無感動に喉を鳴らして、男の精液を嚥下していく。苦しさにあえぐ こともなく、いまだ口内で脈打つそれの、残り汁を搾り取りでもす るかのように、快感の根元に舌をねっとりと巻きつけ、吸いあげて くる。 雄介はその舌の動きに腰を振るわせながら、尿道に残る最後の一 滴まで、女の喉に吐き出していった。 それからようやく、抱えこんでいた時子の頭を離し、 ﹁はー⋮⋮﹂ 荒い息をつきながら、ベッドに仰向けに寝ころがる。 心地よい倦怠感に包まれる。 あれだけ出したのに、下はまだ萎えていない。 時子は精液に執着するように、寝ころんだ雄介の下腹部に、舌を 這わせている。 その姿に、 ︵あー⋮⋮これか⋮⋮︶ ふやけた意識の中、雄介はようやく合点がいった。 以前の検証で、時子の中に放った精液が、半日程度で吸収される のを確かめたことがある。そのときは便利だとしか思わなかったが。 吸収した結果、どうなるのか。 人間の肉を食べて賢くなるなら、精液で似たような効果があって 292 もおかしくはない。 思い返せば、時子を抱くようになってから、少しずつこちらに反 応するようになっていた。 兆候はあったのだ。 ︵⋮⋮つーことは、ずっと餌やってたことになるのか⋮⋮︶ 大学キャンパスのゾンビたちを思いだす。 しかし、時子の雰囲気は、あれらともまた違う気がする。 キャンパスのゾンビたちには、遠巻きにこちらを観察する、捕食 動物のような気配があったが、時子からは、そういった能動的なも のは一切感じられない。 いきなり襲いかかってきたのには驚いたが、それもじゃれつく程 度だ。 考えてみれば、時子はずっと、雄介という単一の人間から糧を得 ていたのだ。摂取しているものも違えば、ゾンビ化の経緯も違う。 キャンパスのゾンビたちとは、また別の作用が起こっているのかも しれない。 ︵となると⋮⋮時子ちゃんで実験しても、あんま意味ねーかな︶ 知性体の弱点や能力、習性を探るために、時子を利用するという 考えがふっと頭をかすめたが、今の時点でこれだけ違いがあるのだ。 せいぜい参考程度にしかならないだろう。 ︵それにもうすぐお別れだしなー︶ そう考えると、手放すのも惜しくなる。 腰を引いて、時子の口からものを引き抜く。亀頭は唾液まみれに なり、時子の唇から糸が伝っていた。 293 また突きこみたくなる衝動をこらえながら、雄介は体勢を変え、 時子の体をベッドに横たえた。パジャマのすそがめくれあがり、白 いお腹があらわになる。下半身は白いレースの下着だけで、その柔 らかい尻を割り開いて、雄介は腰を入れた。 時子は両手を背中で拘束されたまま、ぼんやりと暗い瞳で、こち らを見あげている。 片方の太ももを右手で持ち上げ、ずらした下着の隙間から、薄い 茂みの下の入り口へと、先端をゆっくり埋めていく。 乾いた内部を、唾液でぬるぬるになった亀頭が強引にこじ開けて いく感覚。笠の先端で割り開かれた肉が元に戻ろうとして、強張り の芯に絡みついてくる。奥に進むのを押しとどめるようなその摩擦 感に、ぴりぴりとした快感が走る。肉棒はさらに膨らみ、まとわり つく膣肉を押し広げていく。 中に根元まで押しこむと、強張りはみっちりとした肉に埋まった。 時子のパジャマの上着を首までめくり上げ、二つの大きな膨らみ を露出させる。重力にも崩れず、綺麗な形をしているそれに、指を うずめ、ふにふにした感触を楽しむ。そのまま覆い被さり、柔らか い女の体に胸板を密着させ、むにむにと形を変えるその感覚を楽し みながら、腰をゆっくりと動かす。 しばらく楽しんでいると、急に、左の耳に、時子の舌が触れてき た。くぼみをなぞるようにして、濡れた舌先が這いまわる。耳たぶ を唇にくわえられ、奥から伸びる舌で、耳の穴の汚れを舐め取られ る。 その得体の知れない感覚と、下半身の強張りをつつむ柔らかい密 着感に、すぐに吐精の予感がわき上がってくる。 雄介はそれを我慢することもなく、快楽に身を任せた。時子の細 い体を強く抱きしめ、亀頭の先を子宮の入り口にぐりぐりと押し当 て、 ﹁⋮⋮!﹂ 294 びゅっと解き放った。 射精の痙攣のように、腰が二度、三度と突きこまれる。時子の中 に搾り取られるように、溜まったものを吐き出していく。 すべてを出し終わると、雄介はゆっくりと力を抜いた。耳に時子 の舌の感触を感じながら、雄介はまどろみに落ちていった。 ◇ ﹁もう夕方じゃねーか⋮⋮﹂ 赤い空を、雄介は呆れたように見上げた。 すでに日は落ちかけている。地平線からのぞく夕暮れが、赤い光 を街に投げかけていた。 最初の予定では、朝からいろいろ街の様子を見てまわるつもりだ ったのだ。しかし、結局、ずっと時子と過ごしてしまった。 知らず知らずのうちに、ストレスを溜めていたのかもしれない。 その反動か、猿のように盛ってしまった。 毒をすべて吐き出した今は、最初にこの街で自由を満喫していた ときのように、すっきりした気分だった。 救助のヘリが来るのは明日だ。今夜中に市役所に戻らなければい けない。 マンションのエントランスから出た雄介の後ろには、時子も立っ ている。 ニットセーターに、薄手の上着、下は少しフレアの入ったロング スカートで、中は黒のレギンス、足には編み上げブーツを履いてい る。クローゼットから適当に見繕った結果だ。 それだけだと雨に弱そうだったので、モスグリーンの迷彩のレイ ンコートも着せて、フードを目深に被せている。こちらは男物なの で、やや大きい。黒髪の大人しそうな美人が野戦ファッションで固 295 めている姿は、なかなかクールだった。 これでしばらくは、街をさまよっても、見すぼらしい格好にはな らないだろう。 知性を発現させつつあるらしい時子を街に解放することには、躊 躇がなくもなかったが、どうせこの一帯には誰もいない。 現時点で生きている人間は市役所に集まっただろうし、その市役 所も明日には救助が来る。いろいろ愛着がわいていることもあって、 監禁や排除はやめておいた。 ﹁サンキュー時子ちゃん。いろいろ世話んなったな﹂ 手を上げるが、もちろん反応はない。無言で、こちらの足元に視 線を落としている。 それを気にすることなく、雄介はフィールドバッグを担ぎ、自転 車を押して歩きだした。 ﹁さて⋮⋮﹂ しばらく歩き、雄介はつぶやいた。 ﹁どこまでついてくるんだろ⋮⋮﹂ 後ろから、時子が静かな足どりで、後を追ってきている。急ぐで もなく、遅れるでもなく、淡々と雄介の足あとを辿っている。 マンションの部屋を出たときから、ずっとこの調子だった。 何度か中に出したことで摂食要求は落ちついたらしく、襲いかか ってくることはないが、今はカルガモのヒナのように、雄介の後を 追いかけている。 駅を越え、繁華街に入ったところで、雄介は見切りをつけて自転 車にまたがった。さすがに市役所まで連れて行くわけにもいかない。 296 一気に距離を離し、その姿が小粒ほどになると、時子もようやく諦 めたらしく、立ち止まった。 しばらく見守っていると、その姿は、近くにある地下鉄への階段 に消えていった。 ﹁⋮⋮達者でなー﹂ 雄介はゆるゆると手を振り、その場を後にした。 297 34﹁牧浦﹂ 牧浦が執刀医として人の体にメスを入れたのは、その日が初めて だった。手術室の強力なライトの下、緑色の手術着を身にまとい、 膨らんだ妊婦の下腹部に、そっとメスを当てる。皮膚と、その下の 皮下脂肪を、ゆっくりと縦に切り裂いていく。 何度もシミュレーションしていた通りに手は動いた。震えはない。 対面にいる年かさの指導医が、傷口からあふれた血を手早くガー ゼで拭き取った。さらにハサミのような形をした鉗子で傷口を広げ、 固定していく。普段なら、牧浦が助手として行っている仕事だ。他 には第二助手の研修医と、手術室付きの看護師がついている。 緊急でもない帝王切開は、産婦人科では基本的な手術で、難易度 もそれほど高くない。そのため、卒後四年目の牧浦が、今回初めて 執刀をつとめることになった。何か危ういところがあれば、指導医 にすぐに取って代わられるだろう。 牧浦はマスクの下で深呼吸し、傷口を探った。腹部以外は薄緑の ドレープで覆われていて、そこに血が点々とついている。 開かれた腹の奥に、薄く半透明な筋膜が見えた。牛肉のブロック 肉などにもついている繊維状の膜だ。それを指先でつまみ、ハサミ で切り開いていく。 露出した赤身を左右にかきわけると、柔らかい鳥皮に似た腹膜が 現れた。 ﹁いいぞ﹂ 指導医は血をガーゼで拭き取りながら、こちらが切りやすいよう に膜をつまみ上げる。牧浦は先端の曲がったハサミで、それを少し ずつ切り開いていく。鉗子で横にかきわけると、血管の浮いた薄い 298 ピンク色の子宮がようやく現れた。指導医が中に金属製のヘラを入 れて肉を開き、術野を広げる。 ここまでは順調だ。五分もかかっていない。 牧浦は子宮を包むうすい膜を切り、メスに持ち替えた。膨らんだ 子宮の下部を、中の胎児を傷つけないよう、数ミリずつなぞるよう に横に切り開いていく。 やがて、卵胞の薄い膜を通して、羊水に浮かぶ胎児の足が目に入 った。あとはこの膜を破り、破水をさせて取り出すだけだ。 そこまで躊躇なく施術を進めていた牧浦だったが、その動きが急 に止まった。 ここからは、脆弱な胎児に直接触れることになる。 その畏れが、牧浦を怖じ気づかせた。 ﹁やれ﹂ 指導医の声がかかる。 その手が、子宮の切り口を広げて待っている。 ﹁⋮⋮﹂ 帝王切開には、牧浦も助手として、これまで何度も立ち会ってい る。取り上げるというよりは、引きずり出すという感じだ。もたも たしている方が良くない。 牧浦は覚悟を決めて、卵胞をピンセットのような器具で破った。 羊水があふれ出し、ドレープの上にこぼれる。牧浦は即座に手を子 宮内に突っこみ、恐いほどに頼りない胎児の体を掴んだ。血と羊水 があふれる中、青白く小さな手足が、ゆっくりと姿を現す。 ﹁見えてきましたよ、もうすぐですからね﹂ 299 看護師が母親に声をかけるが、牧浦の耳には入らない。 手の中の、確かな命の脈動に全意識が集中していた。ためらわず、 しかし、力を入れすぎずに。 へその緒がついたままの体がすべて出たところで、胎児の産声が 上がった。 産科ではすでに聞きなれた声ではあったが、手の中の小さな温も りがあげるそれは、牧浦の深い部分を揺さぶった。 ﹁元気な子だな﹂ 指導医の笑いを含んだ声。 ガーゼで羊水を拭き取りながら、 ︵よくがんばったね︶ 自分の手で、初めて赤子を取りあげた。 その感動に、牧浦は少しのあいだ浸っていた。 ◇ 大学病院のカフェテリアで夕食を取っていると、対面に白衣の女 が座った。 コーヒーを片手に、 ﹁どうだった?﹂ 挨拶もなしのその言葉に、牧浦は静かに笑みを浮かべる。 ﹁ばっちり﹂ 300 女は苦笑し、 ﹁そっかー⋮⋮いいな。うちはあと二年は助手だろうな﹂ ﹁形成は職人だからね﹂ ﹁今晩どう? 手術成功のお祝いに﹂ ﹁ごめん、外勤で当直﹂ ﹁あら、残念。でも、大丈夫なの? さすがに今日は疲れてない?﹂ ﹁実家だから。あんまり負担はないよ﹂ ﹁あ、そうか。そうだっけ。このお嬢さまめ﹂ ﹁そうなんですよ、実は﹂ 悠然と受けながす牧浦に、女は意外そうに目を向ける。 ﹁⋮⋮上機嫌だねえ。こんど合コンやるけど、もしかして参加した りしない?﹂ ﹁うーん⋮⋮考えとく﹂ ﹁おっ? いいの? 自分の赤ちゃん欲しくなったとか?﹂ ﹁ちょっと⋮⋮。⋮⋮まあ、相手を探してもいいかなって﹂ ﹁それがいいよ。私ら婚期逃しがちなんだし﹂ しみじみと言われたその言葉に、牧浦は苦笑いを浮かべる。 ふいに、メロディーが流れた。女が白衣から携帯を取り出し、何 度か返事をする。飲みかけのコーヒーを片手に席を立ち上がり、 ﹁ごめん。行ってきます﹂ ﹁行ってらっしゃい﹂ かるく手を振り、女は去っていった。 ◇ 301 2ドアのクーペを裏口の駐車場に止め、牧浦は車をおりた。 セキュリティにカードキーをかざし、ロックの外れた門扉を押し あける。通用路を通り、奥へと進む。 左右の植えこみや樹木が、カンテラを模したガーデンライトに照 らされ、おぼろげに浮かびあがっている。 さらに奥には、明るい窓の並ぶ病棟があった。外観や内装には手 がかけられていて、明治期の洋館を思わせた。 牧浦の父が院長を務めるここは、病床数五十の、産婦人科のみの 小規模な病院だが、評判は良く、遠方からわざわざ入院しに来る人 も多かった。 屋内に入り、ナースステーションの横を通りがかったところで、 四十がらみの夜勤のナースに声をかけられた。 ﹁あら、さやちゃん。お帰りなさい﹂ ﹁こんばんは。⋮⋮さやちゃんはやめてくださいね﹂ 牧浦は苦笑いしながら答える。 古株のナースだ。子供のころから、かれこれ十五年ぐらいの付き 合いになる。過去には採血や挿管などの基礎を叩きこまれたことも あり、ずっと頭の上がらない相手だった。 ﹁でも牧浦先生だと、どっちかわかんないしね。さやか先生って呼 ぼうか?﹂ ﹁もういいです⋮⋮院長はどちらに?﹂ ﹁院長室。今夜は特に何もないから﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 頭を下げ、階上へと歩みを進める。時刻は午後七時ごろ。まだ消 灯時間には早いため、入院患者の姿もちらほら見える。 302 院長室にノックして入ると、デスクに座って書類の整理をしてい た父が顔を上げた。 白髪の混じった優しげな顔だちで、こちらを見上げて口を開く。 ﹁その顔を見るに、問題はなかったようだね?﹂ ﹁はい。何事もなく﹂ ﹁そうか﹂ 小さくうなずく。 静かな反応だったが、長い付き合いの牧浦からすると、父がとて も喜んでくれているのがわかった。 入院中の妊婦と、婦人科の患者の、電子カルテでの引き継ぎが一 段落したあと、父がしみじみと言った。 ﹁私と同じ道を進んでくれたことは嬉しくもあるが⋮⋮。正直なと ころ、娘には勧めたくなかったな﹂ ﹁今さらですよ﹂ ﹁うん。そうだな﹂ 小さくうなずく。 最近では、産婦人科を希望する若手は少なくなってきている。産 科では分娩と妊婦検診が主だが、婦人科では、子宮頚ガンなどの重 い病気が大半だ。手術も多く、外科と同等の技術を要求される。 さらに出産を扱うために時間外でも呼び出しは多く、ほとんど休 暇らしい休暇は取れない。 この病院では助産師も多いため、他の所よりはましだが、それで も激務には違いなかった。 ﹁私は、この道を選んで良かったと思っています。今日は特に、そ う感じました﹂ 303 母を早くに亡くしているため、牧浦の記憶に残るのは、父の背中 だけだ。開業前は大学の助教授だったこともあって、年配の医師か ら﹃牧浦の娘﹄として声をかけられることも多い。すべて好意的な ものだった。 激務のために、父と家族として接する時間は少なかったが、周囲 から寄せられる尊敬と好意の念は、子供のころからひしひしと感じ ていた。そんな父の跡を継ぐことは、牧浦の中では考慮の必要もな い事だった。 ﹁そうだな⋮⋮やりがいはある。人のためになる仕事だ。精進しな さい﹂ ﹁はい﹂ ﹁夜は家にいるから。何かあったら呼びなさい。仮眠は取っておく ように﹂ ﹁はい。ありがとうございます﹂ 深々と頭を下げて院長室を退室し、控室へ向かう。 歩きながら、自分の恵まれた環境について思いをはせる。 医学部卒業後の二年間は、各科をまわって臨床研修を受けるロー テーションがあるのだが、産婦人科では、研修医はほとんど何もさ せてもらえなかった。訴訟のリスクも高く、患者が嫌がることもあ って、新米は仕事を回してもらえないのだ。 牧浦は最初から産婦人科を希望していたこともあって、他の研修 医よりは目をかけてもらったが、それでも技術の習得には難があっ た。 その点、昔から続いているこの外勤は、実戦経験を積む上でかな りの糧になっている。 牧浦はこの病院の跡取りなので、ベテランのナースに苛められる こともない。看護師長などは新米医師など鼻にもかけない権力を持 304 っているものだが、ここでは気心の知れた相手ばかりだ。 それに、普通の当直医だと、緊急時でも上位の医師を呼ぶのには かなり気を使うが、牧浦はその点、もっとも経験豊富な医師である 父のサポートを気軽に受けられる。院長の自宅は病院の隣にあるの で、いざという時でも五分とかからない。 とても恵まれた環境だった。 ︵甘えではあるけど⋮⋮︶ まだひよっこの自覚はある。今は経験を積み、将来一人前の医師 になったときに、父の力になれれば良い。 意気込みも新たにして、牧浦は歩みを早めた。 ◇ ナースステーションの端末でカルテを確認しているときに、携帯 が鳴った。 大学病院の同僚からだ。 ﹁牧浦です﹂ ﹃おう! 悪いけどこっち来れんか!?﹄ ﹁え⋮⋮いえ、今日は当直なので﹂ ﹃院長先生にはこっちから連絡しとく! 暴動が起きたみたいで、 外来がすごい来てるんだわ。外科だけじゃ手が足りん! 全員呼び 戻しとる﹄ ﹁暴動⋮⋮ですか?﹂ ﹃テレビでやっとる! 車のラジオつけとけよ。なるべく急いでな !﹄ ﹁はあ⋮⋮わかりました﹂ 305 通話は慌ただしく切れた。 牧浦は半信半疑で、ディスプレイを見つめる。 暴動。 日本で。 火災だとか玉突き事故で、救急車が連なることはたまにあるが、 暴動という言葉は初めて聞いた。 父に連絡すると、すでに事態は把握しているらしく、すぐに大学 に戻れと返ってきた。近くのナースに事情を話し、白衣を着たまま、 急いで駐車場へ向かう。 車を走らせながらつけたラジオのニュースでは、やはり暴動とい う言葉が頻発していた。それもかなり大規模なものらしい。 ︵本当なんだ⋮⋮︶ もしかすると、災害なみの死傷者が出ているかもしれない。 以前に病院で行った、トリアージの訓練を思いだす。 大量の負傷者が出たときは、助けられる人間とそうでない人間を 区別する必要がある。手の施しようがない相手にリソースを無駄使 いすると、死人が増えるのだ。その見極めとなる判断基準を脳内で 反芻しながら、牧浦は車を走らせる。 大学病院までは三十分ほどの道のりだったが、その途中の街の光 景に、何かおかしなものを感じた。 ︵なんだろう⋮⋮何か変だ︶ ナビの渋滞情報を利用して、ルートを次々と変えていくが、あち こちで車が滞っている。普段通りの光景があるかと思えば、一つ隣 の路地では、パニックに陥ったように群衆が群がっている。 普段の倍ほどの時間をかけて、ようやく病院に到着した。 入り口に何台もの救急車が停まっているのを見て、牧浦は眉を寄 306 せる。救急車の中は空で、救急隊員の姿もない。 あんな停め方をしていては、後続の救急車の邪魔になる。 職員用の駐車場に車を入れたあと、救急車をどけさせようと、牧 浦は急いでロビーに向かった。 そこで、牧浦は言葉を失った。 ﹁え⋮⋮﹂ 誰もいない。 普段なら人でごったがえしているロビーは、無人だった。患者は 一人もおらず、受け付けのナースの姿も見えない。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦はしばらく茫然と立ちつくしていたが、我に返り、携帯を取 り出す。先ほどの着信からかけなおし、じっと同僚の呼び出し音に 耳を澄ます。 出ない。 牧浦は不安に駆られ、周囲を見まわした。 ふいに、それが目に留まった。 待合席の背に、点々と赤黒いものがついている。 それを追っていくと、席の列の間に広がる、黒い血だまりが目に 入った。ペンキをぶちまけたように周りに飛び散っている。 その中に、小さな肉の塊があった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ いまだ繋がらないコール音を聞きながら、牧浦は亀のように遅く なった思考の中で、目の前の光景を理解しようと務める。 肉と脂肪の中に、骨が見えている。 307 人体の一部のように思えた。 そんなものが、なぜ、こんなところに放置されているのか。 ふと、かすかな音楽が聞こえるのに気づいた。 着信メロディーのようだ。 牧浦は麻痺した思考のまま、引き寄せられるようにそちらに向か った。 廊下には、ところどころ血が飛び散っていた。 メロディーは、エコー検査の部屋の扉から漏れ出していた。 少しの躊躇のあと、ゆっくりと、引き戸を開く。 目に入ったのは、部屋の奥にいる複数の人影だった。三人ほどの 人間が、何かを囲むようにかがみこんでいる。私服の人間もいれば、 病院着の人間もいる。 その人影の間から、血に濡れた両足が伸びていた。誰かが倒れて いるのだ。じわじわと床に広がるあれは、出血だろうか。大怪我を した人がいて、それを介抱しているのだろうか。なら、この粘着質 な咀嚼音はなんなのか。 着信メロディーはそこから聞こえている。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦は言葉を発することもできず、その光景をながめていた。 ふと、自分の携帯が発信し続けていたことに気づく。 同僚をコールしているそのディスプレイを、牧浦は凝視する。 彼の着信音は、どんなものだったろうか? そばで何度も聞いていたはずだ。 霞がかかったように、過去の日常が思い出せない。 そっと携帯の発信を切る。 同時に、流れていたメロディーが止まった。 その二つの因果関係を理解できず、牧浦は茫然と立ちつくした。 静寂が部屋を支配する。 308 何かの咀嚼音だけが、わずかに響いている。 ふいに、そのうちの一人がこちらを振り向いた。 三十代の短髪の男だ。目は虚ろで、口元から顎にかけて真っ赤に 染まっている。口をもごもごと動かし、何かを咀嚼していた。 ﹁っ!﹂ 牧浦は背を向けて走りだした。 本能的な行動だった。あそこで何が起きているのか、彼らはなん なのか、まだ理解できていない。しかし、あそこに留まってはいけ ないことはわかった。 後ろから足音が聞こえてきて、牧浦は止まりそうになる呼吸をあ えがせた。ホールに一台止まっていたエレベーターに必死ですがり つき、上へのボタンを押す。 振りかえれば、先ほどの男がこちらに向かってきていた。腕を使 わない奇妙な走り方で、上体がぐらぐら揺れている。牧浦は開いた エレベーターに滑りこむと、閉のボタンを押した。嫌になるほどの ろのろした動きで、扉が閉まりはじめる。前方から、男が急速に近 づいてくる。その顔が目前まで迫ったところで扉が締まり、体当た りを受けてエレベーターが揺れた。 牧浦は糸が切れたように、床にへたりこむ。 外から響く殴打音も、耳に入らない。 どれだけ茫然自失していたのだろうか。 ふと顔を上げると、エレベーターの階数は、産婦人科の病棟を示 していた。 ボタンを押した記憶はなかったが、無意識のうちにいつもの階を 選んでいたらしい。 牧浦は這いでるように、エレベーターの外に出た。 廊下は静まりかえっている。 ナースステーションも無人だった。 309 中に入ったところで、 ﹁せ、先生⋮⋮﹂ 唐突にかけられたその言葉に、牧浦は心臓が止まりそうになった。 見れば、若いナースがカウンターの下にうずくまっている。こち らを見て、泣きそうな顔をしていた。 牧浦は乾いた舌を動かし、つっかえながら聞いた。 ﹁何が⋮⋮あったん、ですか﹂ ﹁わ、わからないんです。何もわからないんです。急にみんなおか しくなって﹂ べちゃり、と粘着質な音がした。 振りかえると、廊下の角から近づいてくる人影が見えた。 女だ。 病院着を着ている。 腰から下が真っ赤に濡れている。 牧浦はとっさにしゃがみこみ、カウンターの下にうずくまった。 その動きから察したのか、若いナースは体を縮こめ、恐怖の嗚咽 を漏らした。涙をこらえ、しゃくりあげるようにしている。 何かを引きずるような足音は、だんだんと近づいてきている。 呼吸が荒くなる。 心臓は痛いぐらいに高鳴っている。 ふいに、近くで足音が止まった。 一瞬の静寂。 カウンターの上から二本の腕が伸び、ナースの頭を掴み上げた。 ﹁あああああああああああ!﹂ 310 つんざくような悲鳴があがる。 それを意にも介さず、女の腕がナースに巻きつき、引きずりあげ ていく。肉を噛みちぎるような音がして、目の前の床に、血しぶき が跳ねた。ナースは足をばたつかせて抵抗するが、そのうち痙攣す るような動きになった。 その光景を前に、牧浦は動けずにいた。 現実逃避のように、思考が浮遊していく。 目の前で人が喰われている。 ︵ああ⋮⋮︶ この悪夢のような世界は、どこから始まったのか。 ︵お願いします⋮⋮神さま、お願いします⋮⋮︶ 目の前で、ナースの足が一度だけ大きく痙攣し、それからぐった りと垂れ下がった。 太ももから流れ落ちた血が、床に跳ねる。 水滴のような音。 その瞬間、張りつめていたものが切れた。 心が空白になる。 体が勝手に動いた。 近くにあった機材を手にとり、カウンターの上でナースに食らい ついていた女の後頭部に、渾身の力を込めて叩きつけた。頭蓋の潰 れる嫌な感覚とともに、女の頭が陥没した。体がびくんと跳ね、そ れきり止まった。 動かなくなった女の体が、カウンターの外に、ゆっくりとずり落 ちていく。 ﹁はあっ⋮⋮はあっ⋮⋮﹂ 311 荒い息をつきながら、震える腕を下ろす。 強張った筋肉が悲鳴をあげていた。 カウンターに残されたナースの目は、虚ろに天井を見上げている。 その首は食いちぎられ、骨が見えていた。あふれた血が流れ落ち、 床に血溜まりを作っている。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 思考は戻らない。 攻撃的な生存本能があるだけだ。 まだ何かの動く気配がする。 ふわふわとした足取りでカウンターをまわりこんで、牧浦はそれ を見つけた。 倒れた女の死体のそばに、小さくうごめく物体。 病院着の裾から伸びる、肉の紐の先に、それは繋がっていた。 頭が沸騰する。 道理も理性もない。 こんなものからそれが出ているということが。 ただその存在が許しがたい。 振り下ろした腕の下で、柔らかいものがぐしゃりと潰れ、 その感触に、心の中で何かが壊れた。 ◇ 椅子の背もたれから跳ね起きたあと、自分がどこにいるのかわか らず、牧浦はしばらく茫然としていた。 もともと事務室として使われていた小部屋に、雑然とした物品が 並んでいる。 市役所の一室だ。 312 給湯室に近かったので、牧浦がここを医務室として改装したのだ。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ ゆっくりと息を吐きだし、椅子に背中を預ける。 吐き気と頭痛はひどいが、いつものことだ。そのうち治まる。 暖房の消えた室内で、手足は冷えきっていた。 時計を見れば、午前七時。まどろんでいたのは十分もない。読み かけのテスタメントも開きっぱなしだ。だが、もう眠気は吹き飛ん でいた。 疲労で体は重く、脳は睡眠不足で鈍っている。 しかし、頭蓋の奥には、あの日から解けることのない緊張が、ず っと続いていた。まともに寝たのがいつだったか、もう思いだすこ ともできない。 ふと、鈍色の思考が首をもたげる。 あの母親はゾンビだった。 殺さなければ、自分が殺されていた。 だが。 あの赤子⋮⋮ ⋮⋮⋮⋮ あれは、生者と死者、どちらだったのか⋮⋮ 突然、扉がノックされた。 ﹁先生、起きてらっしゃいますか﹂ ﹁はい。どうぞ﹂ 入ってきたのは、物資班メンバーの女だった。 ﹁おはようございます。朝からすみません﹂ ﹁いえ。どうしました?﹂ 313 ﹁食べ物の配給量が少ないって言う人がいて⋮⋮どうしても納得し てくれないんです。谷樫さんが説得してるんですけど、引き下がっ てくれなくて﹂ ﹁すぐ行きます﹂ 牧浦が立ち上がると、女はほっとした表情を見せた。 ﹁たぶん、ヘリが遅れてるので、イライラしてるんだと思います﹂ ﹁そうですね⋮⋮﹂ 自衛隊による救助の予定日から、すでに二日は過ぎている。 交信を担当する通信班が言うには、ヘリの故障と、近場からの救 難要請が続き、輸送の都合がつかないとのことらしい。余裕ができ たら、すぐに向かわせてくれるそうだが⋮⋮ ︵今日は荒れそうだな⋮⋮︶ 牧浦は憂鬱な気持ちで、女の後に続いた。 ◇ 市役所では毎朝八時に、各リーダーのミーティングが開かれる。 その場において、副会長の牧浦は上座に座っていた。隣には書記 もいる。 進行を務めるのは、会長であり、元高校教諭の水橋だ。五十代の 紳士然とした風貌で、そのゆったりとした話し方は雰囲気を和らげ るのに役立っていたが、今日ばかりは、それもあまり効果を発揮し ていなかった。 物資班のリーダーが、苦々しい声音で言う。 314 ﹁水は公園の貯水槽があるので、まだ大丈夫です。問題は食料です。 もともと災害用の備蓄で、余裕もなかったのに、消費が増している﹂ その言葉に、沈鬱な空気が流れる。 ﹁人がかなり増えましたからね⋮⋮﹂ ﹁喧嘩も昨日だけで二件ほど。小さないざこざはもっとある。新し く避難してきた人たちが、あまり協力的じゃないんで﹂ 警備班のリーダーの言葉に、何人かがうなずく。 ﹁新しい避難者の受け入れは、時期尚早だったんじゃないか、って 声もありますが﹂ 声、とは言っているが、発言者本人の意見なのだろう。 ﹁いや、それは⋮⋮﹂ 会長の水橋が、困ったように答える。対応に苦慮したようなその 態度は、こちらの立場を慮っているのだろう。 牧浦はテーブルに視線を落としたまま、それらの言葉を無言で聞 いていた。 自衛隊の救助が来ると決まったとき、市全域に呼びかけるように 言ったのは牧浦だ。そのときは、全会一致で採択された。 感染者やゾンビの誘因といった危険は考えられたが、救助が遅れ るとは、誰も思わなかった。 牧浦はぼんやりと考える。 市役所に逃げてくる避難者の流れは、すでにとぎれている。全体 で四十人ほど。これ以上は増えないだろう。 その中に、父の姿はない。 315 諦念とともに、牧浦はそれを認めた。 もう、あの背中を見ることはできない。 牧浦は息をついた。 ﹁救助が予定通りに行われていた場合、彼らは置き去りになりまし た。予定は狂いましたが、救助が中止されたわけではありません。 助けられる人間は助けるべきです﹂ その言葉に、先ほどの発言者が気まずそうに視線を伏せた。 ボブカットの若い女が、おずおずと口を開く。 ﹁あの⋮⋮自衛隊のかたも、ヘリが確保できたらすぐに来てくれる、 とおっしゃってましたので﹂ 通信班のリーダーである白谷は、もともとこの市役所の福祉課に 勤務していた人間だ。入って一年目の新人だったので頼りないとこ ろはあるが、市庁舎内の案内や整理などで力になっている。 牧浦は小さくうなずき、言葉を続けた。 ﹁食料の残りは、あとどれぐらいですか?﹂ ﹁かなり節約して、一週間ぐらいは⋮⋮﹂ ﹁また調達に出るべきか⋮⋮?﹂ 男の言葉を皮切りに、次々と発言が飛びかう。 ﹁前みたいなことになったらどうするんだ。六人も犠牲になったん だぞ﹂ ﹁どのみち、食料が尽きたら飢え死にだ﹂ ﹁一週間あれば救助は来るでしょう? 危険すぎる﹂ 316 この市役所のあるブロックにもコンビニがいくつかあり、ゾンビ が路上から姿を消しはじめたころに、少しずつ様子を見ながら食料 を調達していた。 しかし、そのうちコンビニも空になり、橋を渡ってさらに遠方へ と向かうことになったが、そのときのメンバーは誰も帰ってこなか った。 男たちの議論はしばらく続いたが、結論も出ず、だんだんと静ま りかえる。 みな、視線をこちらに向けてきた。 その無言の要請に、牧浦は口を開く。 ﹁ぎりぎりまで救助を待ちましょう﹂ その言葉に、男たちはうなずく。 ほとんど鶴の一声だった。 市役所に逃げこんだ人間たちをまとめ、外に押し寄せるゾンビへ のバリケードを指示し、各班の役割分担を作ったのは牧浦だ。市役 所には災害時の避難所運営マニュアルがあり、それが役に立った。 ベテランの医師は、仮面を被る。 頼りがいのある、揺るぎない存在として。 白衣という姿が、そこに権威を付与するのだ。 怯え、とまどう群衆を前にして、牧浦が被ったのは、父の仮面だ った。 その内面は、異常事態に怯える他の人間たちと、少しも変わらな いのだが。 ︵父ならばこうする⋮⋮︶ その思いが、極限状態にあった牧浦を動かした。 しかし、同時に自身の力不足も感じていた。 317 父ならもっとうまくやれる。周囲を安定させられる。 それに、自分が間違った判断をすることで、犠牲を出すのが恐い。 この上座に座っていることすら、牧浦には場違いと感じられるの だ。 大学病院に勤務していたころの朝のカンファレンスでは、末座も 末座の壁ぎわだった。少し前の研修医時代は、上級医に怒鳴られる ことも日常茶飯事だった。医師としてはただの小娘でしかない。 この運営委員会を整備したとき、会長職にもすすめられたが、救 護班の仕事に専念したいと固辞した。幸いにも水橋が人格者で、雑 務を引き受けるとして名乗り出てくれたが。 いつまでこんなことが続くのか⋮⋮ 牧浦は人知れず、ため息をついた。 ◇ 医務室の近くには、特に具合の悪い人たちを集めた部屋がある。 暖房の入ったその部屋に入り、牧浦は一人一人、回診を始める。 といっても、できることは少ない。手を取って具合をはかり、今 日の体の調子について会話を交わすだけだ。それでも、患者がとて も安心することを知っていた。 やがて、眠る男の子と、一人の少女のところに差しかかった。 ﹁藤野さん、おはようございます﹂ その声に、少女が顔を上げる。 どこかぼんやりした瞳で、 ﹁⋮⋮おはようございます﹂ ゆっくり答える。 318 その表情を見て、牧浦は内心で眉を寄せる。 ︵憔悴してるな⋮⋮︶ 最初に会ったときよりも、ずいぶん困憊しているように見えた。 ︵男の子は容体も安定してるのに。何か気にかかることでもあるの ?︶ 隣で寝ていた男の子がまぶたを開け、牧浦を見て、小さく笑みを 浮かべた。 牧浦はその近くにかがみこみ、微笑んだ。足の様子を見ながら、 ﹁今日は、お腹は痛くない?﹂ ﹁うん﹂ ﹁足の方はどう?﹂ ﹁⋮⋮まだいたい﹂ ﹁そっか。もうちょっとしたら良くなるからね﹂ ﹁うん﹂ 牧浦は立ち上がり、少女に言った。 ﹁高崎君はよくしてくれてますか?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 少女は小さくつぶやく。 その反応の鈍さに、内心で首をかしげる。 ︵こんな状況で恋人に再会したら、もっと高揚しそうなものだけど ⋮⋮︶ 319 裏の公園で、武村という男から聞いた話を思いうかべる。少女を 一時保護していたが、彼氏と再会したので合流させたと。そういう 話だったはずだ。 武村という男のことは印象に残っている。 最初に会ったのは医務室の中だ。怪我をした男の子と、不安そう に付きそう少女の後ろから、こちらを鋭い目で観察するようになが めていた。 泰然自若とした、どこか空気の違う男だった。 その雰囲気に、最初は要注意人物としてマークしていた。 しかし、子供の埋葬の現場を見たことで、印象をあらためた。墓 の前にあぐらをかき、じっと動かないその姿は、ずいぶん静かなも のだった。 危険な臭いはするが、おそらく無意味に人を害することはない。 牧浦はそう感じた。 ﹁武村さんからも、あなたのことを任されましたので。困ったこと があったら、何でも言ってください﹂ 急に少女が顔を上げた。 ﹁武村さんとお話ししたんですか?﹂ ﹁え? はい。二人のことを頼むと﹂ 火がついたようなその反応に、牧浦はとまどう。 少女は再びうつむき、沈黙した。 やがて、口を開いた。 ﹁あの⋮⋮武村さんに会ったときでいいので、伝えておいてもらえ ませんか? 私が謝っていたと。今までのこと、申しわけなく思っ 320 ていると﹂ ﹁⋮⋮構いませんが、ご自身で伝えられては?﹂ ﹁だめなんです。もうだめ⋮⋮﹂ 少女は片手で顔をおおい、 ﹁ここに来る前⋮⋮武村さんに、命を助けてもらったんです。でも、 私、混乱して、酷いことを言ってしまって⋮⋮弟のこと、守ってく れなかった、なんて⋮⋮なのに、それも忘れて、のうのうと恋人気 分でいたから、だから、嫌気がさされて⋮⋮そんなの見捨てられて 当然なのに⋮⋮馬鹿だったんです。迷惑ばかりかけてたのに、なの に⋮⋮﹂ 後半は涙声になっていた。 ﹁それに、あれは、私がしなきゃいけないことだったのに⋮⋮武村 さんに押しつけて⋮⋮武村さんだって、あんなの平気なはずないの に⋮⋮﹂ その言葉に、弟の埋葬のことだと察し、 ﹁⋮⋮あなたのせいではないですよ。隆司君の看病もありましたし。 あとでお参りに行かれてはどうですか﹂ ﹁え?﹂ 少女は不思議そうにこちらを見上げる。 牧浦は怪訝に思いつつ、 ﹁⋮⋮お墓のことではないのですか? ⋮⋮男の子の。武村さんが、 裏の公園に埋葬されていましたが﹂ 321 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 少女の目が大きく見開かれる。 ﹁まーくん、のお墓⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮はい。違うのですか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 少女は茫然としたまま、ゆるゆると首を振る。 ﹁違います⋮⋮。私が言いたかったのは、あの男は私が殺すべきだ ったのに、殺せなかったということです﹂ その言葉に、牧浦は凍りついた。 不意に背後で、扉の開く音がした。 連れの少年、高崎敦史が入ってくるところだった。 牧浦は急いで立ち上がり、少女に小声で言った。 ﹁あとで代わりの看護人をやりますので、少し医務室でお話ししま せんか?﹂ 少女は不思議そうにこちらを見つめてくる。 牧浦は優しく言った。 ﹁あなたのことが心配なんです﹂ 少女はしばらくぼんやりしていたが、ゆっくりとうなずいた。 322 35﹁孤独﹂ 医務室の椅子に座り、お茶を勧める牧浦にたいして、深月はスー パーでの顛末を語った。 弟たちとスーパーに逃げこみ、篭城していたこと。 食料が尽きたところに雄介が現れ、助けられたこと。 対価に体を求められたことは黙っていた。 それから街で停電が起き、スーパーから脱出する直前、男が襲っ てきたこと。 優が殺されたこと。 襲われていた深月を、雄介が助けたこと。 拘束した男を深月が殺そうとしたが、殺せなかったこと。 代わりに、雄介が手を下したこと。 ゾンビの贄にしたことについては、言葉を濁した。 深月はあれを当然の報いだと思っているが、牧浦がどう思うかは わからない。人を助ける医者だ。自分だけならいいが、雄介に不快 感を持たれたくはない。 牧浦のうながしによって、深月は大まかな流れを話し終わる。 一通り話を聞いて、牧浦は複雑そうな表情を浮かべた。それを見 て、深月は不安になる。 ﹁あの、武村さんは、私たちのためにしてくれたんです。責めるよ うなことは﹂ ﹁⋮⋮ええ、そんなつもりはありません。私も⋮⋮﹂ そこで牧浦は言葉を切った。 膝に置いた自分の指先を見つめ、じっと沈黙している。 急に訪れたその静寂に深月はとまどったが、しばらくすると牧浦 323 は何事もなかったように顔を上げた。 やわらかく微笑み、 ﹁それにしても、ずいぶん頼りになる方のようですね。話しぶりか ら伝わってきます﹂ ﹁あ、はい。武村さんは本当にすごいんです。どうすればいいのか 何もわからなくなってたときに、いろんな指示を出してくれて。そ の通りにしてると、全部うまくいくんです。あんなことがなければ ⋮⋮私たち、ずっと暮らせてたと思います﹂ ﹁そうですか⋮⋮﹂ 牧浦はつぶやく。 ﹁協力してくださるといいんですが⋮⋮﹂ 深月が首をかしげると、牧浦は苦笑いを浮かべ、 ﹁新しく来られた方々は、この状況で生き残っていた人たちですか らね。力になっていただけると、とても助かります。⋮⋮ただ、私 たちの不手際のせいで、時機を逸してしまいました。これから信頼 を得られるよう、努力しなければ﹂ ﹁⋮⋮救助の遅れのせいですか?﹂ ﹁ええ⋮⋮。救助を前に統合して、混乱を起こすよりはと⋮⋮﹂ そこまで言ったところで、牧浦は安心させるように微笑んだ。 ﹁自衛隊の方々も、救助で各地を飛びまわっているようです。こち らにもすぐ来ますので、心配しないでください﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ 324 それきり会話は終わった。 ◇ その簡素な墓は、公園の片すみにあった。 周りにひとけはない。遠くに警備の人間の姿があるだけだ。 ︵⋮⋮︶ 深月は優の墓前にしゃがみこみ、じっとうつむいていた。 本来なら、これは深月がするべきことだった。 復讐と埋葬、どちらも雄介に押しつけてしまった。 あるいはあの痩せた男が、まだ生きたままでいたら。 あるいは優の死体が、あのスーパーに置き去りだったら。 深月の心は、今ほど落ちついていないだろう。 悔恨に引きずられ、盲目のまま日々を過ごしていたはずだ。 ︵だめなお姉ちゃんでごめんね⋮⋮︶ まだ現実を受けとめきれてはいない。 弟を失った喪失感は強い。 しかし、優の眠る場所を前にして、深月は少しずつ自分を取りも どしていた。 今は、隆司を守らなければ。 もう、雄介の庇護はないのだ。 幼なじみの敦史は何くれとなく助けてくれるが、その敦史自身が 無理をしているのがありありとわかる。 かつては無自覚に受けとっていた好意だが、いまそれを受け続け るのは辛い。相手を一方的に利用するようなものだ。 隣同士の幼なじみだったということもあって、明確な恋心とまで 325 はいかずとも、ほのかな好意を寄せたこともあった。将来、そうい う関係になるかもしれない、と思ったこともある。 もう、遠い世界のことのようだ。 目の前には冷たい現実がある。 ︵⋮⋮︶ 一度だけ墓前に手を合わせ、深月は立ちあがった。 ◇ 牧浦との会話から二日後。 その日は朝から慌ただしかった。 隆司の腹痛がぶりかえし、一度嘔吐があったのだ。腹の触診をす る牧浦の表情は険しく、深月は不安にさいなまれた。 昼前には、市役所全体が慌ただしくなった。 ヘリが来るという連絡があったためだ。 牧浦が怪我人や病人などの優先救助者のリストを作っていたので、 それに従って移動の準備をする。隆司もその中に入っていたので、 深月自身が抱えていった。 ヘリの爆音は、予定時刻のかなり前から聞こえていた。車列の喧 騒もなくなった無人の都市では、空の音はよく響く。 土色と緑色で迷彩がほどこされた機体が空のかなたから姿を現す と、歓声があがった。 集まった避難民が見守る中、ヘリはすぐには着陸せず、安全確認 のためか、高度を下げながら市役所の周辺を見てまわっていた。 やがて、ヘリはゆっくりと高度を落としてくる。近づくにつれ、 その威容がはっきりしてきた。車と比べてもかなり大きい。 着陸したのは、公園のすみの小さな駐車場だ。ローターの風圧が 地上のほこりを巻きあげ、周囲の木立を揺らす。深月たちはやや離 326 れた公園内で待機していたが、その場所でも爆音と風圧は激しかっ た。ヘリに一度に収容できるのは十人程度なので、避難民の全員が 乗ることはできないのだが、周囲にはほとんどの人たちが集まって いた。 ローターの回転する速度が、徐々に弱まっていく。 コ・パイロットの扉が開き、迷彩服にフライトジャケットを着た 自衛官が降り立った。黒のヘルメットを被り、バイザーとヘッドセ ットはつけたままで、口元以外は隠れている。右手には、座席から 取りだした黒一色のアサルトライフルがあった。 自衛官は周囲を警戒しながら、ヘリ後部の扉をスライドさせる。 中にはダンボールが山と積まれていた。それを手で示しながら、こ ちらの人だかりを身振りで手招きはじめる。 もう一人のパイロットは操縦席についたままだ。ローターは止ま ることなく回転していて、独特の低い風切り音を響かせている。い つでも飛びたてるように待機しているのだ。 ﹁支援物資⋮⋮?﹂ 牧浦の怪訝な声が漏れた。 男たちがヘリに駆けよっていく。 自衛官にうながされるままに、ヘリの物資を少し離れた場所に運 び出していく。それらの箱には、食料や医薬品、浄水器といった文 字がステンシルでスプレーされていた。自衛官はその運搬の様子を 横目で確認しながら、銃剣をつけたライフルを構えて、周囲の警戒 を続けている。 会長の水橋と牧浦が近づくと、自衛官はバイザーを上げて何事か を話しはじめた。ときおり首を振り、二人の質問に申し訳なさそう に答えている。 その光景を遠目に見ながら、深月は不安を覚えた。 327 ︵支援物資ということは⋮⋮今日中に、みんな救助されるわけでは ないの?︶ その予感は的中した。 燃料の余裕がないため、今日は一往復しかできないのだという。 ﹁そんな⋮⋮﹂ 戻ってきた水橋の説明に、誰からともなく声が漏れる。 ﹁申し訳ありませんが、今日は怪我人、病人を優先して搬送します﹂ その言葉に、疑問の声があがる。 ﹁ヘリはまた来るのですか?﹂ ﹁それは、はい。燃料確保のために市街に進出するそうなので、早 ければ明後日には救助を再開すると﹂ ﹁そうですか⋮⋮それなら⋮⋮﹂ 質問した男はしぶしぶうなずく。 場が静まったのを確認すると、牧浦が搬送の指示を始めた。リス トを元に、一人一人指名していく。 他の人間は、物資の市庁舎への運びこみや、周囲の警備に戻って いった。それでも過半数が残っている。 搬送されるのは、持病の悪化した老人が多かった。もともと高血 圧や糖尿病などで薬を服用していたのが、ここ一、二ヶ月の無理な 生活のせいで、かなり悪化してしまっているのだ。栄養不足から体 調を崩している人間もいる。 隆司はリストの中でも上位に入っていたが、人数の関係から、付 き添いは同行できないことになった。特に具合の悪い人間だけでも 328 収容人数ぎりぎりなのだ。 隆司一人を送り出さなければいけない。そのことに深月がためら っていると、牧浦は難しい顔をして言った。 ﹁隆司君の診断は難しいのですが⋮⋮虫垂炎かもしれません。体力 が落ちているところに雑菌が入って、炎症を起こしたのだと思いま す。本来なら簡単な手術か薬で済むのですが、ここでは⋮⋮。自然 治癒も期待できませんし、腹膜炎を併発すると命の危険もあります。 逆に、設備の整った場所でならほぼ問題はありません。ご心配でし ょうが、任せた方が安全です﹂ ﹁⋮⋮はい。すみません。よろしくお願いします﹂ 深月は葛藤を抱えつつも、うなずいた。 牧浦が、搬送される人間の腕にバンドを巻いていく。名前と年齢、 血液型が書かれたものだ。それから自筆のカルテの束を隊員に渡し、 深々と頭を下げる。隊員は敬礼でそれに応えた。 ◇ ヘリが飛びたってから数日。 医務室の近くの部屋は搬送によってほとんど人がいなくなったの で、深月は別の部屋に移動することになった。敦史と同じ部屋だ。 三階の一室で、七世帯ほどが寝起きしている。部屋の入り口には 名簿が張りだされ、そこに深月の名前も追加されていた。 敦史は警備班の仕事に行ったので、深月は一人で部屋に残った。 他にも何人かいて、毛布にくるまりながら思い思いに過ごしている。 部屋の雰囲気はあまり良くない。 いまだに救助の音沙汰がないためだ。 食料の配給も、かなり少なくなってきている。 みな大っぴらに口には出さないが、押しこめたような不安感がた 329 だよっている。ことに深月のような新参者には、新奇の視線だけで なく、ややマイナスの感情が向けられているのも感じていた。 市庁舎内での会話を漏れ聞いただけでも、新しく来た避難者たち にたいする感情はあまり良くない。合流した直後は無事を喜び親切 だった人たちも、食料の配給が減るにつれ、だんだんと風当たりが 強くなっている。敦史も愚痴を漏らしていた。新しく来た人たちは 文句ばかり言っていると。 深月は、彼らの気持ちも少しわかる気がした。 救助があると聞いて、それぞれの拠点を捨ててきたのだ。それが やっかい者扱いされて、面白いはずがない。 ︵こんなに人がいっぱいいるのに⋮⋮︶ スーパーに少人数で篭城していたころに比べれば、この場所はは るかに安全なはずなのだが。 ︵どうしてこんなに、不安で寂しいんだろう⋮⋮︶ ひどい孤独感があった。 スーパーにいたころは、雄介と深月、隆司と優の四人だけだった。 しかし、ゾンビにも飢餓にも怯えることはなかった。生活にみなが 参加し、作りあげているという感覚があった。山での生活という希 望があり、未来への展望があった。 それが今は一人、こうして膝を抱えながら、見知らぬ他人に囲ま れ、配給頼みにお腹を空かせている。 ︵結局、武村さんに頼りきってたってことか⋮⋮︶ 深月は自嘲の笑みを浮かべた。 敦史から言われた言葉がまだ耳に残っている。 330 これ以上あの人に迷惑をかけてはいけないと。 スーパーで篭城していたところを雄介に助けられた、その顛末を 語ったあとでのことだ。 確かに元は赤の他人だし、こうして集団に合流した今は、同行す る理由もないかもしれない。それでも、雄介はなんだかんだと深月 たちを連れまわすと思っていた。雄介の指示の元で動くのが、当然 だと思っていた。 深月の一方的な思いこみでしかなかった。 唐突に告げられた別れの言葉に、深月は何も言うことができなか った。 ﹁ふふ⋮⋮﹂ 深月は自嘲気味に笑った。 ︵当然だよね⋮⋮︶ 目を閉じ、思い浮かべる。 あのときは、思考が麻痺していて気づかなかった。 優の死を知ったときの、雄介のあの表情。 何も感じていないはずがなかったのに。 自分はあんなことを言ってしまった。 ︵守ってくれなかったなんて、どの口で⋮⋮︶ すぐに謝ったが、雄介は軽く首を振るだけで、何も言わなかった。 今思えば、あれは遠慮や気遣いなど一切しない雄介が、唯一自身を 押しこめた瞬間だった。 そして、あの断罪の瞬間。 腹と両足を射抜かれ、男が地上に落ちていく、あの光景。 331 血溜まりの中でもがく男の様子を、上階からながめる、雄介の横 顔。 その眼差しは曙光を反射して燃えるようで、 とても鋭く、冷たく、綺麗だった。 ︵ぅ⋮⋮︶ 胸が苦しくなり、深月は胸元を握りしめた。 深月の憎悪は、あの冷たさに浄化された。 代わりに入ってきたのが、これだ。 ︵武村さん⋮⋮︶ もう自分の気持ちは自覚している。 そして、それが叶わないだろうことも。 しょせん自分は足手まといでしかない。 苦労しながらその思いを散らしていると、入り口に気配を感じた。 顔を上げると、牧浦が立っていた。申し訳なさそうにこちらに頭 を下げ、 ﹁すみません。藤野さんにお願いがあって来ました﹂ ﹁⋮⋮お願い、ですか?﹂ ﹁はい﹂ 不審に思いながらも、深月はうながされるまま廊下に出る。大人 の態度で親身になってくれる牧浦は、敦史以外では唯一心を許せそ うな相手だった。 窓際のひとけのない場所に移動すると、牧浦が話を切りだした。 ﹁地下にある車の食料を分けていただけませんか?﹂ 332 ﹁え⋮⋮﹂ ﹁本当に申し訳ありません。備蓄が残り少なくなっていて⋮⋮。恥 ずかしながら、こうしてみなさんにお願いしてまわっているところ です﹂ ﹁あ、いえ。それは、いいんですけど、あれは武村さんの持ち物な ので⋮⋮﹂ 牧浦は苦笑を浮かべ、 ﹁武村さんにはすでにお願いしました。条件付きで、物資の半分を 分けていただきました﹂ ﹁条件⋮⋮ですか?﹂ ﹁はい。市庁舎内にある資料の閲覧許可と、それに付随する各部屋 への立ち入り許可。それを私の署名付きでしたためること。それと、 運営委員会からは独立して動くという条件で﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁私も少し驚きました。特に二つ目は残念ですが、あの量です。背 に腹は換えられません﹂ ﹁⋮⋮武村さんらしいです﹂ 深月はつぶやく。 牧浦は言葉を続けた。 ﹁物資の残り半分ですが、そちらは藤野さんの持ち物だから、藤野 さんに聞け、とのことでしたので﹂ ﹁私の⋮⋮﹂ 思ってもみない言葉だった。 あれから雄介との接触もなく、すでに自分のことは忘れられてい ると思っていた。 333 ﹁図々しいお願いだと承知していますが、できれば提供していただ けないでしょうか。武村さんのように何か要望がありましたら、で きる限り応えますので﹂ ﹁いえ⋮⋮﹂ 深月はゆるく首を振る。 一人で消費するなら、ダンプの食料は一ヶ月でも二ヶ月でも持つ だろう。しかし、食糧事情の逼迫しているここで、一人だけそんな 真似をするわけにはいかない。間違いなくトラブルを引き寄せるこ とになるし、何より雄介が食料を放出しているのが大きい。 食料が何よりも重要な状態なら、雄介は提供に応じなかっただろ う。そうしなかったということは、コミュニティに食料を提供する という雄介の判断が、今は最善だということだ。 そして、彼は今、何かをしようとしている。 自分が一人でうなだれている間にも。 深月はそのことについて思いを巡らせながら、口を開いた。 ﹁あの⋮⋮救助の方は、どうなっているんでしょうか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦はしばらく黙っていたが、食料がかかっているためか、ごま かすこともなく単刀直入に言った。 ﹁どうも⋮⋮ここが安定して見えていることが、裏目に出たのかも しれません。実際に伝えられたわけではありませんが、他の、急を 要する場所を優先して救助している気配があります﹂ ﹁そうなんですか⋮⋮﹂ ﹁あるいは燃料問題が解決されていないのかも。通信も途切れがち になっていますし。食料が厳しいことは伝えたのですが、反応がか 334 んばしくなく⋮⋮。このことは他言無用でお願いします﹂ 深月はうなずき、しばらく考えこんでから言った。 ﹁わかりました。食料は構いません。その代わり、私には仕事をも らえませんか?﹂ ◇ 深月が所属したのは衛生班だった。 自衛隊の搬送によって怪我人や病人が減ったため、救護班の人員 は減らされている。代わりに衛生班が増員されていた。 部屋やトイレの清掃、水の運搬、ゴミの処理、各班から出た汚れ 物の洗濯、物品の洗浄など、人手はいくらあっても足りない。 衛生班のリーダーである中年女性に面を通し、はじめに割り振ら れたのは水の運搬の補助だった。 一緒に水を運ぶことになったのは、眼鏡をかけた黒髪の、気弱そ うな大学生ぐらいの男だった。引っこみ思案な性格なのか、こちら に目も合わせない。 生活用水は川から取ることになっていたので、二人は台車にポリ タンクを乗せて裏手に向かった。公園を囲む道路の端から、ロープ をくくりつけたバケツを手すりごしに川に投げこみ、水を汲んで引 き上げる。それをポリタンクに注いで、すべていっぱいになったら 市庁舎二階の集積所に運びこむ、そんな流れだ。 家庭や工場からの排水が止まったためか、川の水は綺麗だった。 さすがに飲用には適さないが、トイレや洗濯に使うには十分だ。 男は黙々とバケツを川に投げこみ、引き上げている。その腕にだ んだん疲労が溜まってきているのを見て、深月は言った。 ﹁あの、代わります﹂ 335 ﹁い、いや、大丈夫﹂ 男は慌てたように返事をする。こちらを見もしない。 先ほどから仕事を手伝わせてもらえず、深月は手持ちぶさたに川 をながめた。水位はそこそこあり、川幅も広い。対岸は遠くにあっ た。 二つ目のポリタンクがいっぱいになったところで、男が息をつい てバケツを下ろした。腰に手を当てて背伸びをする。 その隙にバケツを横から取り、深月は言った。 ﹁少し休んでてください﹂ ﹁あ⋮⋮うん。ごめん﹂ ロープの端は手すりにくくりつけられているため、流れに手を取 られてもバケツを失うことはない。必要なのは腕力だけだ。水面か らバケツを引き上げるのは重労働だったが、深月は額に汗を浮かべ ながら腕を動かした。 その様子を、男はぼんやりとながめている。 三度ほど水を汲んだところで、後ろから別の声がかかった。 ﹁おい、女の子にやらせてさぼってんなよ﹂ 振りかえると、警備の男が立っていた。 ﹁え、いや、あの﹂ 眼鏡の男は焦ったように口ごもる。 深月は慌てて、 ﹁あの、違うんです。今は休憩してもらってるだけで。さっきまで 336 ずっと汲み上げてもらってたので﹂ ﹁あ、そう⋮⋮﹂ 男は、バケツと深月の顔を交互にながめたあと、 ﹁まあいいや。それ貸しな﹂ 深月の手からバケツを奪い取り、何を言う間もなく、川に投げ入 れる。それからぐいぐいとロープを引っぱり、ポリタンクに水を汲 みいれていく。その動きは速く、精力的だった。 その様子を、深月は後ろで所在なさげにながめる。 深月が何かに苦労していると、男子が横から来て手伝ってくれる というのは、高校ではよくあることだった。かつてはそれを疑問に も思わず、ただありがたいと思うだけだったが。 今は、そんな能天気な気持ちにはなれない。 雄介にはずいぶんとこき使われた。 しかし、褒められたときは嬉しかった。 そこに媚びはなく、ただ能力と成果に対する称賛だけがあったか らだ。 ︵だから、あんなに嬉しかったんだ⋮⋮︶ 世界が崩壊する前は、自分の居場所はどこにでもあった。 今はそうではない。 自分の居場所は自分で作らなければいけない。 そして、雄介との生活の中で、誰かの役に立つことで自分の居場 所が、ここに居てもいいのだという自負が得られることを、深月は 知ったのだ。 それに比べれば、得体の知れない好意で得られる居場所など、ふ わふわした頼りのないものでしかない。 337 水汲みが終わり、男が手を振りながら去っていくと、深月は気ま ずげに口を開いた。ぼんやりと立っていた眼鏡の男に向けて、 ﹁あの⋮⋮すみませんでした。私のせいで﹂ ﹁い、いや⋮⋮﹂ 少しの沈黙。 ﹁大丈夫。慣れてるから﹂ ﹁慣れてる⋮⋮?﹂ ﹁あ、ご、ごめん。気にしないで﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 煮えきらない態度にそれ以上聞くこともできず、二人は無言のま ま、台車を押して戻った。 ◇ 水を集積所に下ろし、台車を元の場所に戻しに行く途中で、二人 はその騒ぎに遭遇した。 市庁舎の一階はゾンビの侵入に備えてほとんど使われていないた め、避難民は二階から上に居住している。その二階の中央ロビー、 警備班の詰め所がある場所に、人だかりができていた。 怒声があがる。 ﹁だから武器返せってんだろうが! もともと俺らのもんだろ!﹂ 若い男の声が響いた。 騒ぎの場所では、警備班の男たちが数人、詰め所の前に渋い顔を して立っている。それを取り囲むように、男たちが六、七人ほど立 338 っていた。 怒鳴り声をあげたのは、その中の一人、金髪のメッシュでまだら になった髪をポニーテールにした、二十代の若い男だ。細身で、背 は百七十弱。整った顔だちにパーカーを着込んでいて、声を聞いて いなければ女に見間違えたかもしれない。 声を荒らげるその男を、隣の男がとりなす。 ﹁ちょっと落ちつけ。喧嘩ごしになるな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ メッシュの男はふてくされたように顔をそむける。代わって、四 十代ぐらいの、肉体労働者風にがっちりした体格の男が進み出る。 ﹁こいつが失礼をした。すみませんな﹂ 見た目に似合わず、男は穏やかな口調で話しだした。 ﹁ただ、さっきも言ったように、外に食料を取りに行くのに手ぶら じゃ難しい。預けている道具を返してもらいたいだけなんだが、問 題があるかな?﹂ ﹁⋮⋮でも、許可がないことには﹂ ﹁じゃあ取りに行けよ﹂ 若い男が横でつぶやくが、年長の男が小突いてたしなめる。 ﹁いい加減にしろ。⋮⋮それじゃあ、すまないが、なるべく急いで 話を通してくれ。今日中に行きたいんでね﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 警備班の男は無言で立ち去った。 339 騒ぎを聞きつけたのか、だんだんロビーに人が集まっている。武 器を持った警備の人間もちらほらといて、警戒するように遠巻きに ながめている。 しかし、そんな周囲からの視線にも関わらず、男たちは落ちつい ていた。リーダーらしい男の隣では、背の高い三十後半ぐらいの男 がずっと沈黙を保っている。メッシュの男はそのそばで、いらいら したように周りを睨みつけていた。 深月はロビーの隅で成り行きを見守りながら、その集団に既視感 を覚えていた。どこかで見た記憶がある。 ふいに思いあたった。 ︵あ、そうか。最初の部屋にいた人たちだ⋮⋮︶ 市役所に避難してきたときに案内された、西庁舎の一室。そこに いた避難者の集団だ。部屋の中央に明かりを持ちこんで、にぎやか に談笑していた。周りが疲れきったような中で、ずいぶん目立って いた。 それからロビーではしばらく沈黙が続いていたが、やがて牧浦が 姿を現した。 使いを引き連れ、白衣をひるがえして歩いてくる。ロビーの方々 に集まっている人の群れを横目でちらりと確認したあと、リーダー らしい男の前に立った。 開口一番に言う。 ﹁食料を取りに行くと聞きました。本当ですか?﹂ ﹁ええ。ですから、預けていた道具を返してほしいんですよ﹂ ﹁危険です﹂ その言葉に、男は頭をかき、 340 ﹁食料も残り少ないでしょう。動けるうちに確保に行かないとまず い﹂ ﹁しかし⋮⋮﹂ ﹁貴方がたに迷惑はかけません。うちらだけでやります。失敗した ら、それはそれで口減らしになる﹂ ﹁⋮⋮不便をかけていることは申し訳なく思っています。しかし、 全員で生き残る方法を探すべきです。食料はまだありますし、明日 にも救助が来るかもしれません﹂ ﹁うん⋮⋮あんたはいい人のようだ。しかし、待ってるだけじゃあ ジリ貧だ。救助もあてにならんしなあ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦は言葉をなくして黙りこむ。 じっと睨みあうように、二人は対峙する。 そこに、予想外の声があがった。 ﹁俺も行く﹂ 人ごみから出てきた人影に、遠くからながめていた深月は息をの んだ。 雄介だ。 男は怪訝そうに、 ﹁君も?﹂ ﹁人手は多い方がいいだろ。俺も新参組だしな﹂ 肩をすくめる雄介に、男は口角を吊り上げて笑った。 ﹁ありがたい。おい、他に行きたい奴はいるか?﹂ 341 男が周囲を見わたすが、目のあった人間は視線をそらしていく。 深月の隣では眼鏡の男が体を強張らせ、うつむいている。他に声は 上がらず、視線は一周した。 ﹁ま、こんなもんだな⋮⋮。構いませんね? 先生﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦は唇を噛み、葛藤しているようだった。 しばらく何事かを思い悩んだのち、 ﹁⋮⋮委員会にかけあって、計画を立ててみます。私の一存では⋮ ⋮﹂ ﹁どうせうやむやになるでしょう。第一、預けているものを返して くれと言っているだけです。屋根と食料を提供してくださったのは 感謝するが、私らはあんたがたの組織に所属したわけじゃあない。 行動を抑制される理由はないはずだ﹂ 男の言葉に、牧浦は沈黙する。 ゆっくりと男たち一人一人に目をやり、それから雄介に視線を向 ける。一瞬だけ視線が交錯するが、雄介はつまらなそうに視線を外 した。 しばらくして、 ﹁⋮⋮わかりました﹂ 牧浦は肩を落として言った。 342 36﹁食料調達﹂ 食料確保に出向く男たちは七人で、年齢はまちまちだった。 一番若い、金髪メッシュにポニーテールの男が雄介と同じぐらい で、他は年上だ。 ﹁にーちゃん度胸あるなあ﹂ 自己紹介のあと、リーダーの男がそう言ったが、雄介は曖昧な態 度でそれに応えた。 ゾンビに襲われないのだから、度胸もくそもない。男たちにとっ ては決死の行動でも、雄介にとっては散歩のようなものだ。もっと も、ゾンビの知性体と出くわすとどうなるかはわからないが。 車両を出すため地下に進みながら、雄介は一人一人をそれとなく 観察していった。もともと同じ会社の人間らしく、リーダーらしい 男は他のメンバーから社長と呼ばれていた。 暗い地下駐車場の一角に停められていたのは、銀色の車体に運輸 会社のロゴが書かれた箱型のトラックが一台、ロングバンが二台。 もう一台あるらしいが、そちらは荷物置きになっているようだ。 ロングバンの車体は壁に何度もぶつけたようにあちこちがへこみ、 塗装は剥がれている。サイドウィンドウにもヒビが入っていたが、 その上からフレームに鉄棒がいくつも溶接されて、鉄格子のように なっていた。フロントも同様で、装甲車、あるいは護送車のような 物々しさだ。 その場での簡単な打ち合わせのあと、トラックに二人が乗り、残 りが二台のバンに分乗することになった。雄介はバンの方だ。 車の中に武器を放りこみ、出発の準備をしていると、仲間の一人 の潜めた声があがった。 343 ﹁誰か来る﹂ その言葉に、全員が動きを止める。 足音とともに、ライトのわずかな光がこちらに近づいてくる。 暗がりから現れたのは、眼鏡をかけた大学生ぐらいの男だった。 自分に集まる視線にたじろいだように立ち止まるが、数秒の沈黙の あと、眼鏡の男は口を開いた。 ﹁あ、あの﹂ ﹁⋮⋮なんだ?﹂ リーダーが答える。 ﹁俺も、行っていいですか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ リーダーは困惑したような表情を浮かべた。 男は体格も華奢で、覇気もあまりない。進んで荒事に手を染める ような人間には見えなかった。 ﹁気持ちは嬉しいけどよ⋮⋮大丈夫か? ゾンビとやりあうかもし れないんだぞ﹂ 男は一瞬口ごもるが、はっきりと言った。 ﹁手伝いたいんです﹂ ﹁そうか⋮⋮なら頼むわ。名前は?﹂ ﹁小野寺です﹂ ﹁よし。よろしくな、小野寺くん。佐々木、前を頼む。工藤はこっ 344 ちで二人のフォローをしろ﹂ 佐々木と呼ばれた男は軽くうなずき、もう一台のバンの方に歩い ていく。ホールではリーダーの隣に立っていた、三十代の男だ。黒 髪の短髪、体格も良く、独特の雰囲気がある。 工藤と呼ばれた方は金髪ポニーテールの若い男で、バンに寄りか かりながら、うさんくさそうに小野寺をながめている。腕を組み、 眉をしかめて、 ﹁あいつ、さっきホールの野次馬にいた奴だよなあ。大丈夫かよ⋮ ⋮﹂ ついで、雄介の方にも、うろんげな視線を向けてくる。 雄介が肩をすくめると、工藤は鼻を鳴らして出発の準備に戻った。 ◇ 行き先はあらかじめ決めていたらしく、やや遠方の物流センター に設定されていた。高速道路を使ったルートの先だ。 地下駐車場から、地上に向けて、ゆっくりと車列が走り出す。 先頭を走るのは、佐々木を含めた三人の乗るバンだ。 その後ろを、雄介たち四人のバンが走る。最後尾に、残り二人の トラックがついている。 バンの後部座席は折り畳まれて収納され、荷台も含めて広々とし たスペースがあった。運転するリーダーをのぞく三人は床に直接座 り、両側にあるベルトの掛け金を吊り革のようにして掴まっていた。 室内灯のともる暗い車内で、工藤は手に革グローブをはめながら、 ゾンビへの対処方法を話しはじめる。 ﹁とりあえず、お前らが覚えるのはこれだけだ。ゾンビが来たら、 345 絶対にドアは開けるな。外に出るな。車の中で待ちかまえて、迎撃 する。俺が杭よこせっつったら、後ろにあるそいつをよこせ。それ だけだ。いいか?﹂ 雄介は視線を巡らし、後ろに転がるいくつかの角材に目をやった。 その一つを手に取ってみる。長さは七十センチほど。重量のある材 質らしく、手にずっしりと重さを感じる。握りやすいように持ち手 のところは丸く削られていて、先端はいびつに尖っていた。ところ どころに赤黒い染みが付着している。それをしげしげとながめ、 ﹁杭ってこれか。⋮⋮これだけでやるのか? 刃物とか長物もある けど﹂ ﹁そっちは外で使う。車の中ならこれでいいんだよ。やりゃあわか る﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ 雄介は首をかしげながら杭を後ろに戻す。 リーダーはハンドルを握ったまま、黙って会話を聞いている。口 を挟むつもりはないようだ。 一方で小野寺は、神妙な面持ちで、後ろに積まれた武器や工具を ながめている。その様子に、工藤が言った。 ﹁お前はわかったか?﹂ 小野寺は慌てて顔を上げ、 ﹁は、はい。大丈夫です﹂ ﹁ほんとかよ⋮⋮とにかく余計なことはすんなよ。足引っぱったら 殺すからな﹂ 346 工藤はその整った顔だちに似合わず、どこか危険な雰囲気がある。 ゾンビを何人も殺してきた者の雰囲気だ。その気配に当てられ、小 野寺は顔を青ざめさせた。 ﹁工藤ぉ、あんま脅かすんじゃねーぞ。大事な仲間なんだからな﹂ リーダーの言葉に、工藤は唸り声ともつかない声で返事をする。 車が地上に出ると、差しこむ光で車内は明るくなった。ヘッドラ イトを消し、バンは徐行で橋に向かう。話が通っているのか、橋の 警備をしていた人間たちは制止の素振りも見せず、車を素通りさせ た。 橋を渡りきり、ゾンビたちの街に足を踏み入れると、車内はぴり ぴりした緊張感に包まれた。 リーダーは無線機で前のバンと連絡を取りながら、ゆっくりと車 を走らせている。工藤は建物や横道からゾンビが飛び出してこない か目を光らせ、小野寺もそれに習っている。 冬の冷えた空気の中、街は静かだった。雲一つない青空だが、気 温は下がりきっている。車内でも吐く息は白い。ガソリン節約のた め、暖房はつけていなかった。 ﹁市役所に来る前は、あんたらどこにいたんだ?﹂ 雄介の言葉に、しばらく返事は返ってこなかった。 少しして、リーダーが口を開いた。 ﹁会社の事務所だよ﹂ ﹁事務所か。よく食料が持ったな﹂ ﹁新築した事務所で、社員の震災用の備蓄も倉庫に揃えたところで なあ⋮⋮。運が良かった。後半は、外に出ないと足りなくなったが﹂ ﹁何の会社なんだ?﹂ 347 ﹁工務店。土建屋だ﹂ ﹁へえ⋮⋮そりゃいいな﹂ ﹁⋮⋮なんでだ?﹂ ﹁便利だろ。家を建てたりできるんなら﹂ ﹁まあ、材料と工具があればな﹂ 意外そうな口ぶりでリーダーが答える。そんなところに注目され るとは思わなかった、とでも言うような口調だ。 ﹁ま、今の世の中で、それにどこまで意味があるかはわからんが⋮ ⋮﹂ 工務店の社長の言葉は、車の上をさっとよぎった影に途切れた。 陸橋をくぐったのだ。 広い交差点で、あちこちに車が停まっている。その中を、バンを 隙間に寄せながら、右折していく。停車する車両の陰にゾンビが隠 れていないか、工藤は無言で視線を走らせている。 右折の途中で、バンがゆっくりと停まった。 ﹁こりゃ無理だな⋮⋮﹂ 社長のつぶやきが漏れる。 視線の先ではいくつかの車が衝突し、団子になっていた。横転し ているものもある。 バンならなんとかすり抜けられないこともないが、後続のトラッ クには幅が足りない。 ﹁迂回しよう﹂ 無線で連絡を取り、先頭のバンが車体を回す。 348 ルートを変えて一ブロックほど進んだところで、再びバンが停ま った。理由はすぐにわかった。コンビニがあったのだ。 薄暗い店内は荒らされた様子もなく、ゾンビの気配もない。無線 での相談の結果、中を見ていくことになった。 ﹁中は佐々木に任せる。こっちは待機だ。準備しろ﹂ ﹁あいよ﹂ 二台のバンが、コンビニの前に横付けされる。 工藤は迎撃の準備をしながら、 ﹁とにかく外には出るんじゃねーぞ﹂ こちらを見もせず言う。 雄介たちのいる後部座席の窓は固定されていて、フルオープンに することはできない。その代わり、中央に小窓が設置され、それを 横にスライドさせる仕組みになっていた。人間の頭が入るぐらいの 大きさだ。 その開いた小窓の前で、工藤が細長い鉄の武器を手に、待機して いる。 よく見れば、植えこみの剪定に使われるような刈込バサミで、折 り畳まれた木の持ち手にはボロ布が何重にも巻かれていた。持ち手 部分で五十センチ、刃渡りで三十センチはある。 雄介もとりあえず手近な杭を取り、外に視線を戻した。 佐々木が車を降り、先を尖らせた鉄パイプを手に、コンビニの入 り口に向かっているところだった。そのあとを、髭の男と、帽子の 男が続く。 三人は電気の止まった自動ドアをこじ開け、慎重に様子をうかが いながら、中へ足を踏みいれた。 349 ︵さて⋮⋮どうなるか︶ 人間とゾンビの、貴重な戦闘シーンだ。それを見ることは、今回 の目的の一つでもある。 外から見える部分には、ゾンビの姿はない。 先頭を進んでいた佐々木が、カウンターの前で立ち止まる。 近くの棚からドリンクを一つ取り、少し離れた床に放り投げる。 液体の詰まった缶の鈍い音が響くが、店内に反応はない。陳列棚の 陰にもゾンビはいないようだ。 さらに奥に進もうとしたところで、三人の動きが止まった。 何かが壁にぶつかる、かすかな音。 トイレの方から聞こえてくる。 三人は一人を入り口に残し、佐々木ともう一人で、物音のする方 に向かった。その姿は什器に隠れて、雄介たちの視界から見えなく なる。 ﹁応援に行った方がいいんじゃねーの?﹂ ﹁⋮⋮いいから黙っとけって﹂ 工藤の返答。 奥はしばらく静かだったが、ふいに壁を殴りつけるような音がし て、急に騒がしくなった。狭い空間で人が暴れているような音だ。 もう一度、再び何かをぶつけるような音がして、それからまた静 かになる。 社長が無線に耳を当て、何かを確認をする。こちらを向いて、 ﹁トイレに一匹いた。もう仕留めたらしい﹂ ﹁さっすが﹂ 口笛でも吹きそうな工藤の声音だ。 350 しかし、次の瞬間。 ﹁やべ⋮⋮﹂ トイレの反対側、バックヤードの扉から、店員の制服を着たゾン ビが現れた。首から下が、乾いた血でまだらに汚れている。 ゾンビは顔を歪め、入り口に残っていた男の方へ、歯を剥き出し にして近づいてきた。 ﹁佐々木、戻れ!﹂ 社長が無線に叫ぶ。 ゾンビの突進を、入り口にいた髭の男は転がるように避けた。 勢い余ったゾンビの体当たりで、商品の並ぶ棚がなぎ倒される。 週刊誌や漫画の並んだラックが跳ね飛び、耳を圧する破砕音ととも に、道路に面したガラスの一面が粉々に割れた。それらは光の粒と なって歩道に散らばる。 慌てて戻ってきた佐々木たちが、倒れた男を助け起こす。 離れた場所では、ゾンビもラックの上から起き上がろうとしてい た。奥の扉からは、もう一体のゾンビも現れている。 雄介は周囲の空気が変わったのに気づいた。先ほどまで静まりか えっていたまわりの建物のあちこちから、物音が聞こえてくる。先 ほどの破砕音がゾンビたちを起こしたようで、蜂の巣をつついたよ うな、剣呑な雰囲気だった。 ﹁やばいな﹂ ﹁わかってる﹂ 雄介のつぶやきに工藤は短く返す。 351 ﹁割り込むぞ﹂ 社長の言葉。 歩道に駆け出てきた三人の後ろを、立ち上がったゾンビが追って きている。そこにバンが突っこみ、ゾンビとの間に割り込んだ。直 後、ゾンビの衝突を受けてバンが揺れた。 ﹁っ!﹂ 小野寺の、声にならない悲鳴。 ドアに弾き飛ばされて路上に転がったゾンビが、再び立ちあがり、 開いている小窓にかぶりつく。溶接された鉄格子の間から顔を突っ こみ、凶悪な形相でこちらに噛みつこうとする。 ﹁おらっ!﹂ 工藤の刈込バサミが、その口内に突きこまれた。歯を砕き、喉を 貫き、頸椎の皮膚を突き破って、先端が首の後ろから飛びだす。赤 黒い血がフレームにかかり、ゾンビの体がびくりと震える。それか らゆっくりと、動きを止めた。 工藤がドアに足をかけ、刈込バサミを引き抜くと、ゾンビはその ままずるずると、車体の下に崩れ落ちていった。 ずいぶんあっさりとした撃退の光景だった。 ︵⋮⋮なるほど⋮⋮︶ 雄介は内心で、感嘆の声を漏らす。 工藤の手際もそうだが、車の中で迎撃するというやり方のメリッ トを実感したのだ。ゾンビに身をさらすリスクは最小限に、相手の 弱点である頭部を攻撃できる。これがもし路上なら、突進力のある 352 ゾンビを相手に、こうも簡単にはいかなかっただろう。 ﹁後ろ! 来てます!﹂ 小野寺の悲鳴があがる。 隣のビルの入り口から、二体のゾンビが歩道に出てきていた。道 路を挟んで反対側にも、ちらほらと人影が見える。 社長が舌打ちをし、シフトレバーを操作する。佐々木たちの車が 急発進した。こちらもそのあとに続く。 ﹁工藤!﹂ 社長の怒鳴り声。 トラックの方に、一匹のゾンビが向かおうとしていた。 工藤が窓から手を出して挑発すると、釣られてこちらに向かって くる。 今度のゾンビは小窓に取りついたあと、車に引きずられながらも、 右手を中に伸ばしてきた。バンの車内をかきむしるような動作に、 工藤は慌てて距離を取る。それを見て雄介が動いた。 暴れるゾンビの腕を横から掴み、力を込めて中に引きずりこむ。 バイク用のグローブにジャケットも着ているので、引っかかれる心 配はない。ゾンビの体がバンに押しつけられ、肩から首にかけての 無防備な部分があらわになると、その隙を逃さず、工藤の刈込バサ ミが勢いよく突きたてられた。 人間の皮膚がやすやすと切り裂かれ、首の骨が砕かれる感覚が、 掴んでいる腕から伝わってくる。その指は断末魔を伝えるように、 蜘蛛のようにもがいている。 ︵きめぇ⋮⋮︶ 353 得体の知れない気持ち悪さだった。ゾンビに襲われることに対す る緊張感もないので、アドレナリンで誤魔化すこともできない。も がく虫を素手で押さえつけているような不快感だ。 やがて動きが静かになると、雄介は手を放した。ゾンビはそのま ま外にずり落ち、転がっていく。 ﹁クソが﹂ 工藤が小さく毒づき、小窓を閉める。 車列がスピードを上げ、ゾンビたちを後ろに引き離すと、やっと 車内の空気が落ちついた。 ﹁駄目だな。外はすぐ集まってくる。寄り道はなしで行こう﹂ ﹁了解﹂ 社長の言葉に工藤は軽く返事をすると、赤黒い血で汚れた刈込バ サミを憂鬱そうにながめ、布の切れはしでぬぐいはじめた。 雄介は近くに転がっていた杭を後ろに戻し、気楽な口調で言った。 ﹁うまいやり方だな。車の中で待ちかまえるの﹂ ﹁⋮⋮﹂ 工藤は手を止め、しばらく沈黙する。 ちらりと雄介の方に視線をやり、 ﹁⋮⋮まあな。歩哨で生身で突っ立ってるなんて、アホのすること だぜ﹂ 工藤は再び手を動かしながら答えた。 暗に、市役所の警備態勢を批判しているようだ。 354 確かにバリケードと違って、車は好きに動かせる。耐久性も申し 分ない。座席を取り払ってしまえば、掩蔽壕としては理想的だ。 社長がハンドルを握りながら、 ﹁囲まれたら危険だが、あいつらの二、三体なら大丈夫だ。あんま りビビるなよ﹂ その視線は、バックミラーに映る小野寺の方を向いている。 小野寺は血の気の失せた表情で、杭を握りしめたまま、すでに見 えなくなったゾンビの方向をじっとながめていた。 355 37﹁物流センター﹂ バンとトラックの車列は、片側四車線の交差点からインターチェ ンジに入り、高速道路に乗った。 ランプには車もなく、スムーズに上れたが、目的地の物流センタ ーにたどりつくまでに、何度か道を塞がれた。ほとんどの車は路肩 に停められていたのだが、中には道路の中央を塞いでいるものもあ った。 単に路上に放置されているだけなら、トラックの牽引で動かすこ ともできる。しかし、団子になって焼け焦げている塊などは、全員 総出で残骸を取り除かなければならなかった。 料金所の付近も大混雑していて、パズルのように車を牽引してい く作業にかなりの時間を取られた。インターチェンジを降りて目的 地の近くにたどりつくころには、夕陽が落ちはじめていた。 ︵まあ、下を行くよりは安全だったかな︶ 赤焼けの空を見ながら、雄介は独りごちる。 高速道路上にはゾンビの姿はなかった。放置車両もほとんどが無 人で、たまに喰い荒らされた欠片のようなものが残っているだけだ。 これが下道を走っていたら、いつゾンビに気配を嗅ぎつけられた かわかったものではない。 市役所の近くにある中心街で物資を集めなかったのも、安全策を とってのことだろう。JRや地下鉄が乗り入れるハブ駅を中心に、 駅ビルや高層ビル、地下街が集中するブロックだ。そこなら物資は なんでも揃っただろうが、リスクも高い。それよりは、なるべく安 全な場所で食料を手に入れようというのだ。 物流センターの構内には、ゾンビの影はなかった。駐車場にはト 356 ラックが何台か停まっているが、中は広く、見晴らしもいい。 発着場の壁にはシャッターが等間隔で十ヶ所ほど並び、そのいく つかには、観音式のリアドアを開いたトラックが後尾を付けていた。 プラットホームはちょうどトラックの荷台の高さで、荷物はセンタ ーの中からそのまま運びこめるようになっている。 先ほどのコンビニと同じように、受付のある入り口近くに車列を 停め、工藤と雄介は外に降り立った。佐々木と髭の男の二人と合流 し、四人で中に向かう。偵察メンバーは移動中に決められていて、 工藤が名前を出したことで、雄介もそこに含まれていた。残りはバ ンで待機だ。 自動ドアをバールでこじ開け、中に入る。足音を忍ばせて廊下を 進み、受付の手前で立ち止まった。カウンターの奥に、無人の事務 所が見える。 佐々木が落ちついた声で言った。 ﹁二匹以上いたら、バンまで下がる。一匹ならここでやる。いいか ?﹂ 他の人間は武器を手に、無言でうなずく。 ﹁いくぞ﹂ カウンターにあった観葉植物の鉢を、佐々木が中に放り投げる。 陶器製の鉢がデスクにぶつかって跳ね飛び、事務所内に盛大な音が 響く。 反応はすぐにあった。 事務所の奥から、制服を着た若い女の事務員が現れた。目立った 外傷はないが、目は虚ろで、上体が不安定に揺れている。 ﹁一匹だ。やるぞっ﹂ 357 次の瞬間、女が突進してきた。デスクにぶつかり小物をなぎ倒し ながら、カウンターを乗りこえようとしてくる。 そこに、いくつもの鉄パイプが突き出された。先をグラインダー で削って尖らせた、手製の槍だ。一本は右手をかすめて外れ、二本 が腹と胸に刺さり、一本が首をえぐった。粘性の高い赤黒い血液が 噴き出る。女は槍ぶすまにされながら、まだもがいている。 ゾンビの突進に押されて後ずさった体を、雄介は立て直した。肉 を貫く生ぬるい感触が、握りに巻いたボロ布を通して、手元にまで 伝わってくる。 佐々木が槍を引き抜き、呼気とともに穂先を突き出す。 女は首元から後頭部を貫かれ、それでようやく動きが止まった。 ﹁⋮⋮ふー﹂ 誰ともなく息をつく。 カウンターは返り血で酷いことになっていた。事務員の死体を床 に捨て、一行は中に入る。他にゾンビの気配はない。 佐々木はあたりを見まわし、 ﹁工藤君、わかるか?﹂ ﹁鍵はそこの棚に。奥の扉は給湯室と会議室に繋がってます。左は 出荷場に。トイレと更衣室は外っす﹂ ﹁よし﹂ その勝手知った風な言葉に、雄介は怪訝に思う。その視線に気づ いたのか、工藤がかぶりを振って言った。 ﹁前にここでバイトしてたんだよ﹂ ﹁ああ、なるほど﹂ 358 食料調達にこの物流センターを提案したのも、工藤なのだろう。 ﹁クソみたいな仕事だったけどな。何でもやっとくもんだ﹂ 佐々木が笑みを浮かべた。 ﹁いい言葉だな。﹃何でもやっとくもんだ﹄﹂ ﹁ほんとになあ。それで助かってる﹂ 髭の男も笑い声を上げる。 工藤が苦笑いし、雄介も釣られて笑みの形になる。近くには事務 員の死体が転がり、そのすぐそばで四人が笑っている。緊張感が途 切れたあとの、ヒステリー性のブラックな笑いだった。 ともかく気を取りなおし、四人は探索を再開した。隣接した場所 にはゾンビの姿もなく、ひとまずの安全は確保できた。 といっても、事務所のエリアは物流センターの十分の一もない。 残りは広大な倉庫、仕分け場、荷物を流すローラーコンベアなどが 広がっている。どれだけゾンビが潜んでいるか知れたものではない。 センターは二階建てで、まずは一階を潰すことになった。 バンに戻って仲間と合流し、車ごと傾斜路をのぼって、プラット ホームに乗り入れる。照明は止まっているので、センターの中は薄 暗い。ハイビームにしたヘッドライトだけが頼りだ。 ダンボールの積み上げられたパレットや、プラスチックの小型の コンテナの間を縫うようにして、奥に進む。 天井に伸びるラックの列で、だんだんと見通しが悪くなる。戦い やすそうな場所でバンを停め、車列は迎撃体勢に入った。二台のバ ンを直列に繋ぎ、壁のようにする。 ﹁始めるぞ﹂ 359 社長の言葉とともに、ホーンが鳴り響いた。 しばらくして、何かのうごめく気配とともに、闇の奥からいくつ もの人影が現れた。ふらふらと歩いてくる作業着の男たちに混じっ て、私服の男も見える。 それらはすぐに殺到してきた。 ゾンビの群れに、バンの周りはすぐに修羅場になる。社長も助手 席の窓をわずかに開け、鉄格子ごしに手や顔を突っこんでくるゾン ビたちを槍で突き離していく。あふれる喧騒と怒鳴り声で、場はだ んだんと混乱しはじめた。小野寺の叫び声が上がる。 ﹁後ろも! 張りついてます!﹂ ﹁いいからほっとけ! あいつらの力じゃ割れねえ!﹂ リアドアのフレームに溶接された鉄格子をゾンビが掴み、揺さぶ っている。隙間からウィンドウを叩いたり引っかいたりしているが、 大した傷はついていない。 ﹁ハサミ取られた! 杭よこせ!﹂ ﹁はいよ﹂ 手持ちの杭を投げ渡し、雄介は次の杭を手に取って、窓の外を見 る。 ︵うーわ⋮⋮こりゃけっこう修羅場︶ 襲われないとわかっている雄介でも、こうもゾンビにたかられて いると嫌な気分だ。バンはひっきりなしに揺れ、ウィンドウを通し て凶悪な形相のゾンビが周囲を取りまいている。 たまに工藤と交代しながら、ゾンビの撃退を続ける。ルーフに登 360 ろうとするゾンビの腹に、鉄パイプの槍を突き刺す。他のゾンビが そこにたかって回収できなくなり、諦めて外に蹴り出す。下から小 窓に手をかけてきたゾンビには、ハンマーを振り下ろして手首を砕 く。小窓は小さく、ゾンビの頭をいつも狙えるわけでもないので、 戦闘は長引いた。 襲撃は二十分ほど続いたが、体感では数時間のことのように感じ られた。 静かになったときには、バンの周りには十数体のゾンビが散らば っていた。戦闘音を聞きつけて、次から次へとやってきたのだ。一 度に囲まれなかったので撃退はできたが、かなり危うい場面もあっ た。 フラッシュライトで暗闇の奥を探り、ゾンビの影が見えないのを 確認すると、雄介は腰を下ろして息をついた。 ﹁疲れたー⋮⋮。ゾンビやべーな。お前らいつもこんなことしてん の?﹂ ﹁こんな激しいのはねーよ⋮⋮。ちょっとやばかった﹂ 工藤は壁にぐったりともたれたまま、首を振る。 建物の中でもこれなのだ。街中で戦っていたら、あっという間に ゾンビの海に飲みこまれるだろう。 社長は無線でもう一台のバンの無事を確認したあと、助手席の返 り血をぬぐいながら、なだめるように口を開いた。 ﹁すまんが食い物のためだ。多少の無茶は許せよ﹂ ﹁まーそうなんすけどね⋮⋮。社長も歳を考えてくださいよ。見て てハラハラする﹂ ﹁うるせえな﹂ 社長は苦笑いをしながら言った。 361 最初のホーンでゾンビの大部分を呼び寄せてしまったらしく、他 の場所ではほとんど襲撃はなかった。 一階をひと通り探索し終わると、次は二階に移る。 階段の下にバンの壁を作り、そこまで誘導して迎撃する形だ。二 階に生身で乗りこんで、先ほどのような数のゾンビに襲われたら、 まず確実に全滅する。 誘導はすべて、佐々木と髭の男のペアが務めた。 壁や床を鉄パイプで叩いて、手前から少しずつゾンビを探る。出 てくるのは一匹か、多くても二匹で、それでも丁寧にバンまで戻り、 処理していく。精神はすり減らすが、先ほどよりは楽な作業だった。 何往復かしたところでゾンビが出てこなくなり、全員で階上に上が る。 ラックやローラーコンベアの並ぶ広大な暗闇の中を、フラッシュ ライトがかぼそく照らす。どこからゾンビが出てくるかわからない、 心もとない環境だった。 ふいに工藤が声を上げる。 ﹁リーチあるじゃん。これ使うか﹂ 壁ぎわに、立ち乗りの小さなフォークリフトがあった。工藤が乗 りこみ、電源を入れる。ペダルを踏みこみ、右手でアクセルレバー、 左手でハンドルを操作すると、モーターの駆動音がし、細かく旋回 しはじめた。 ﹁バッテリーは大丈夫っすね﹂ ﹁じゃあ、先導を頼む。あとは奥だけだ﹂ ﹁了解﹂ リフトの操縦中は両手が塞がるため、雄介が工藤の槍を持って後 ろに続くことになった。フォークリフトのライトが、前方をぼんや 362 りと照らす。 しばらく進んだところで、工藤が口を開いた。小声で雄介に話し かけてくる。 ﹁なんかさ、思いだすな﹂ ﹁⋮⋮何を?﹂ ﹁エイリアンにこういうシーンなかったか? 2か3か忘れたけど。 フォークリフトっぽいのに乗ってさ﹂ ﹁あー⋮⋮映画か。あったあった。パワーローダーで親玉と戦うや つ﹂ ﹁あれまた見てーなあ⋮⋮。4もまだ見てないんだよ。なんかタイ トル違うけど新作出たんだっけ﹂ ﹁俺はつまんなかったな、あれ。ネタバレしようか?﹂ ﹁いらねーよ。てか、つまんないの? マジで?﹂ ﹁人によるかな⋮⋮。今度レンタル屋でも行ったら?﹂ ﹁⋮⋮DVD取りにいくまでの方が映画だよな。ゾンビ倒してさ。 最低だわ⋮⋮﹂ ため息をつく工藤に、社長が後ろから割りこむ。 ﹁お前らもうちょっと警戒しろ﹂ ﹁すんません。でもゾンビ来ないっすね﹂ ﹁お前な⋮⋮。でも、そうだな。気配もしない﹂ ﹁二階はもともと数が少なかったようですね﹂ 佐々木がぽつりと言う。 幅三メートルほどの通路で、中央にはローラーコンベアが走って いる。その両側には棚が並び、スーパーのように商品が陳列されて いた。 一階では、ダンボールやコンテナでの保管が多かったが、今いる 363 エリアは単品ずつの出荷に使う場所らしい。ところどころに、ピッ キング用のケースやカートが放置されていた。 ふいに左後方で物音がした。 棚の向こう側だ。やや離れている。 一気に緊張が高まる。 後ろのライトがあたりを探るが、影は見えない。 引きずるような足音だった。だんだんと近づいてくる。 ﹁前にもいる。クソ﹂ 工藤の警告の声。 ライトの光がぎりぎり届く周縁に、両足だけが見えた。それはす ぐに作業着の男の姿となって、光の中に現れた。 工藤はゾンビに視線を合わせたまま、ゆっくりと片足を床に降ろ し、後ろ手に槍を受け取る。リフトを盾にして迎撃するつもりらし い。 左の棚とコンベアの間は狭く、前方をリフトが塞いでいる。雄介 が並んで戦うのは難しい。コンベアを乗りこえて反対側に出たいが、 一行とあまり離れたくもない。 集団の中に混じることで、ゾンビに襲われないという自分の特性 を誤魔化しているのだ。横をゾンビに素通りされると、いろいろと まずい。 ゾンビが上体を揺らし、猛獣のように歯を剥き出しにして、こち らに走りはじめた。リフトの前に突き出たフォークを乗りこえ、フ レームに手をかけて、棚との間を強引にすり抜けようとしてくる。 そこに工藤が槍を突き出した。鉄パイプが作業着の腹を貫く。 しかし、ゾンビはそれを意にも介さず、口から血を垂れ流しなが ら、リフトのフレームを左手で握りしめ、じりじりとこちらに押し 入ってくる。 364 ﹁トドメ刺せっ!﹂ 工藤の叫びに、雄介は前に出ようとするが、後方の佐々木から警 告が発せられた。 ﹁上にいるぞっ!﹂ ﹁うおっ⋮⋮!﹂ 棚の上から、リフトに人影が飛びかかってきた。別のゾンビが棚 を乗りこえてきたのだ。その体当たりは前部のマストに防がれるが、 衝撃で工藤も跳ねとばされる。 ︵やっべ︶ 工藤は当たりどころが悪かったのか、床にうずくまり、武器を手 放してしまっている。 新手のゾンビはリフトの向こうに転がっているが、腹に鉄パイプ を刺した最初のゾンビが、隙間から這い出てくる。 その頭に向けて、雄介は素早く穂先を突き出した。腰と踏みこみ がうまく乗り、尖った穂先は、頭蓋の側頭部を易々と貫通した。 ゾンビの頭が揺れ、その濁った瞳の焦点が、ゆっくりと溶けてい く。我ながら良い手応えだった。 雄介はゾンビを蹴って槍を引き抜き、リフトの向こうで立ちあが ろうとしている、もう一匹の方に向ける。 ︵冷静に冷静に⋮⋮。どうせこっちにゃこねーんだ。余裕余裕⋮⋮︶ 焦りと恐怖が手元を狂わせるのだ。ゾンビの迫力に負けず、脇を 締めてまっすぐ突きだせば当たる。一階の修羅場でコツは掴んでい る。 365 ゾンビが右前方のコンベアに跳び乗る。そこに、雄介は気合とと もに槍を突き入れた。穂先はゾンビのこめかみを削り、頭蓋骨の表 面を滑って横に外れた。 ﹁ありゃっ﹂ えぐれた肉と骨は見えているが、ゾンビには大した傷でもない。 相手がよろけているうちに、急いで槍を引き戻す。今度は胸に当た った。胸腔内を鋭い先端がえぐり、作業着に血が染みて広がる。そ れでもゾンビは動きを止めず、押し合いになった。相手が上にいる ため分が悪い。 次の瞬間、雄介の横を一閃が走った。ゾンビの右目に鉄パイプが 突き刺さる。起き上がった工藤の一撃だ。衝撃に押されてゾンビは コンベアに倒れこむ。だが、まだもがいている。 雄介はとっさに槍を手放し、ゾンビを足蹴に飛び乗って、腰から 引き抜いたナイフを振り下ろした。両手で支え、無事な方の眼窩に えぐるように突きこむ。中の柔らかい組織を切り裂くたびに、ゾン ビがびくびくと震える。ナイフが周りの骨に当たって削れる感触が、 手に伝わってくる。 ︵くっそ、気持ち悪いな⋮⋮︶ 殺し合いなら興奮で気にならないのだろうが、雄介にとっては人 間大の害虫駆除だ。 ようやくゾンビの動きが止まる。 仕留めた手応えを手のひらに感じながら、雄介は息を吐いた。 ︵⋮⋮ふー。ちっとは慣れたかな︶ 最初から頭を狙うと、外れたときの隙が大きい。動きを止めてか 366 ら頭を狙うのが、やはり一番確実のようだ。 ゾンビの頭に足をかけて、ナイフを引き抜く。開いた傷口から、 血と脳漿がこぼれ落ちる。一振りして床にしずくを飛ばすと、工藤 の方に視線をやった。 ﹁やっぱクリティカルはなかなか出ねーな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 工藤は無言でこちらを見つめたまま、何も言わない。 戦闘が終わると、場の収拾に入った。後ろの方でもゾンビが一匹 出ていたらしく、二階のゾンビはそれで最後だった。 ◇ 一階に戻り、シャッターや入り口を施錠して安全を確保すると、 ひとまず事務所で体を休めることになった。夜も遅く、すでに日付 が変わろうとしていたためだ。食料の回収は明日になる。 デスクを動かして、事務所の入り口にバリケードを作る。倉庫に ストーブがあったので、開いたスペースに持ってきて火を入れた。 幸い燃料は残っていた。 就寝中の見張りは二人ずつの交代だ。その中番で、雄介は工藤と 二人で、バリケードの前に座りこんでいた。その場を照らすのは、 床に置いたライトの明かりだけだ。構内は静まりかえり、物音一つ しない。 眠気覚ましにぽつぽつと続けていた雑談も、途切れがちだった。 気づまりなものではないが、暗闇が降り積もるような、雪山のよう な静けさだった。 工藤がふいに話題を変えた。 ﹁⋮⋮あのメガネさ﹂ 367 ﹁なんだ?﹂ ﹁思ったより使えるな﹂ ﹁へえ⋮⋮﹂ メガネ。大学生風の男、小野寺のことだ。 ﹁まあ、悪い奴じゃないよな。真面目だし﹂ ゾンビ掃討後の死体処理では、青い顔をしながらも率先して死体 を運んでいた。戦闘で役に立てなかったから、これぐらいはさせて ほしいと言って。服が汚れるのも構わずに。 工藤は首を振り、 ﹁それもあるけどよ。ゾンビ相手にもパニックになってなかった。 足引っぱらなきゃそれで十分だ。場数を踏めば戦力になる﹂ ﹁⋮⋮意外と優しいのな﹂ 茶化すような雄介の言葉に、工藤は唇を歪めた。 ﹁仲間うちでもっと酷いのを見てるからな。図体でかくて普段から 弱そうなの小突いてたくせに、ゾンビが出てからはてんで役に立た ねえ。しまいには、わめきながら窓から飛び下りやがった。ゾンビ から逃げようとしてな。それに比べりゃ、あのメガネはマシな方だ﹂ ﹁なるほどねえ﹂ ﹁お前は⋮⋮。お前は、ゾンビが怖くねーの?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 唐突なそれに、雄介は口ごもった。 工藤は言葉を続ける。 368 ﹁俺は内心じゃけっこうビビってるぜ。あいつらに喰われるのだけ は勘弁だからな。だから、容赦なく殺れる。おんなじ人間の見た目 でもな。殺られる前に殺れだ﹂ 工藤は一度言葉を切り、 ﹁お前はやたら冷静なんだよな。うまく言えねーけど⋮⋮。ゾンビ への怒りっつーか、敵意っていうのかな。そういうのをあんまり感 じない。なのに平気で殺れるのがちょっとこえーよ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁役所に来る前は何してたんだ? ゾンビとやりあってたのか?﹂ ﹁んー⋮⋮。まあ⋮⋮。合流するまでは、行きずりの奴らとスーパ ーに立てこもってた。今は一人だけど﹂ ﹁⋮⋮そっか﹂ 工藤は気まずそうに口をつぐむ。 何か誤解されていそうな気もするが、面倒だったので細かい説明 は省いた。 話題を変える。 ﹁冷静って言えば、あの佐々木って人もすごくねーか。やたら手慣 れてる感じがあるけど﹂ あー、と工藤は頬をかき、 ﹁佐々木さんはもともと自衛隊にいた人だからな。十年ぐらいやっ てからうちに来たって話だ。歩兵にはタコ穴っつって、車を使うの 考えたのも佐々木さんだし。気構えが違うんだろ。お前もそういう 関係の職業だったりすんの?﹂ ﹁いや。ただのリーマン﹂ 369 ﹁ふーん⋮⋮。ま、頼もしいっちゃ頼もしいし、別にいいけどよ。 悪いな、変なこと言って﹂ ﹁いいよ、気にすんな﹂ 雄介は手を振り、 ︵元自衛官か⋮⋮注意しとこ︶ 味方なら頼もしいが、敵にまわすと厄介だ。落ちついた雰囲気の、 人望のある人間のようなので、それほど危険ではないだろうが。 ︵しかし、やっぱこいつらじゃねーな⋮⋮。ずいぶんまともってい うか、イカれてる感じが全然ねーし⋮⋮︶ 市役所を割るような危険なグループなら、食料探索にかこつけて 排除するつもりでいた。自衛隊の救助が怪しくなっている今、危険 なのは内部の争いの芽だ。探索中に隙を見てゾンビに襲わせるだけ なので、そう難しい話ではない。拳銃も隠し持っている。 脳裏にあるのは、スーパーからの脱出の前日にあった、女の無線 のことだ。こちらを罠にかけようとしていたか、少なくとも何らか の意図を隠しつつの呼びかけだった。 あの無線の人間が、市役所の放送を聞いて合流している可能性は ある。危険と言いきることはできないが、不安要素ではあった。 ︵自衛隊がくれば一発解決なんだけどなー。何やってんだろ︶ 自衛隊の救助が確定しているなら、市役所の人間たちの安全には あまりこだわる必要もない。多少目減りしようと、救助先で他の集 団とも接触できるだろう。 しかし、もし万が一、救助がないとしたら。 370 そのときは市役所の生き残りが、このあたりで唯一残された人的 資源ということになる。 特に、医者の牧浦は重要だ。 生き残った医者など、他でもほとんど見つからないだろう。 それだけでもこだわる価値はある。 雄介の労力があまりかからない形で、ある程度安定して集団を維 持できるよう、持っていきたい。 面倒といえば面倒だが、他にやることもない。どこかに引きこも って適当に遊んで暮らすのもいいが、 ︵そっちはいつでもできそうだしな︶ 時間はいくらでもあるし、生存者と関わっての行動は今しかでき ない。どこかに引きこもるのは、集団の保持に失敗したときでいい だろう。 その後は大した話もせず、交代の時間になった。代わりの人間を 起こし、ストーブからやや離れた壁ぎわに座る。眠りに落ちないよ う注意しながら、雄介は目を閉じて体を休めた。 ◇ ﹁アクセルがそっちのレバーな。前で前進、後ろで後退。電動だか らクラッチはない。下のペダルを踏んでる間だけ動く。離すとブレ ーキ。ハンドルは普通に回せ﹂ ﹁ほー﹂ 工藤の講釈に従って、雄介はフォークリフトを操作していた。港 などで見かける大型のフォークリフトと違って、こちらは立ち乗り の小さなものだ。電動で小回りが効き、空気を汚さないため、屋内 でよく使われるらしい。 371 ﹁けっこう簡単だな﹂ ﹁まだパレットにフォーク入れられねーだろ。位置合わせ難しいん だぞ。とりあえず床の奴を⋮⋮あれでいいか﹂ ﹁微調整して⋮⋮よっしゃ入った﹂ ﹁リフトしてティルト。まんなかのレバー。フォークの傾き見とけ よ。水平ならそれでいい﹂ ﹁ふんふん﹂ ﹁荷物持って前進はするなよ。視界悪いし、急ブレーキかけたら前 に倒れるからな。基本はバックだ。ゆっくり行け﹂ ﹁オーケー﹂ 言われるままに、食品ケースの積まれたパレットを出荷場に運ぶ。 その隣を、工藤がカートを押してついてくる。フォークリフトでの 移動はなかなか快適だった。 ︵面白れー⋮⋮こういう知識があるのも他人の利点だな︶ 一人でマニュアルから練習してもできなくはないだろうが、はる かに面倒なことになるだろう。 ﹁一台ぐらい持って帰りたいな、これ﹂ ﹁つっても、けっこう充電が必要だからなあ⋮⋮﹂ ﹁もったいないか﹂ ﹁今日は食料だな。とりあえず﹂ 出荷場では、シャッターに接尾したトラックに、メンバーが荷物 を運びこんでいた。バンは防衛に使うため、輸送には使えない。 あたりを行き交うのは、台車に縦二メートルほどの覆いがついた カゴ車だ。奥からケースやコンテナを運び、下ろしていく。首にタ 372 オルを巻いた小野寺も、トラックへの積み込みに働いていた。 荷運びの監督をしていた社長が、雄介たちを見て言った。 ﹁鍵がついたままのトラックが二台あった。そっちにも積んで行こ う﹂ ﹁けっこう大漁になりそうっすね﹂ ﹁向こうの人数も多いからな。ごっそり持っていくぞ﹂ その台詞に、雄介は考えこむ。 ︵一応、食い物を分ける気はあるわけか⋮⋮︶ 手に入れた食料をグループで独占するというパターンも考えてい たが、それも杞憂のようだ。 昼食を挟んで、トラックへの搬入は続けられた。奥の自動倉庫は 電気が止まっていたので、中から取り出すのに苦労したが、ペット ボトルのケースをいくつかと、酒や菓子など、いくらかの嗜好品も 持ちこまれた。 三台目のトラックをプラットホームにつけ、搬入を始めたところ で、トラブルは起きた。 ﹁ちょっと荷物残ってるな﹂ トラックの中をのぞいた仲間の一人が、奥の様子を見に入る。 ﹁社長ぉー、調味料もあるんでいったん外に出して⋮⋮﹂ ふいに男の言葉がとぎれた。 その唐突な切れ方に、雄介はフォークリフトを操作しながら視線 を向ける。 373 そこには、後ずさりしながら出てくる仲間の姿と、それを追って 荷物の山を崩しながら歩いてくる、スーツ姿の男の姿があった。 目は虚ろで、白いシャツは脇から腹にかけて破れ、赤黒く変色し ている。 その正体に気づくと同時に、周囲から怒号が上がった。 ﹁ゾンビだ! 見張り呼べ!﹂ ﹁武器持ってこい!﹂ 間の悪いことに、槍を持った見張りは、プラットホームの外や出 荷場の反対側にいた。他の人間は荷物運びのため、ベルトにぶら下 げた工具類ぐらいしか持っていない。 後ずさっていた男が荷物につまずき、後ろに転んだ。それを見て、 ゾンビはそれまでの緩慢な動作を一変させ、男に襲いかかる。押し 倒された男の悲鳴が上がった。 ︵あー⋮⋮死んだかなあれは⋮⋮︶ 混乱する空気の中、雄介はハンドルを操作し、機体を回した。ア クセルレバーを全開に傾け、リフトを急進させる。 ふと、その修羅場のすぐそばで、立ちつくしている人影があった。 メガネの男。 小野寺だ。 カゴ車から荷物を下ろしている途中の姿勢で、揉みあうゾンビと 男の姿を見つめながら、凍りついたように動きを止めている。ゾン ビの唐突な出現に、思考が停止しているらしい。 ﹁下がれ小野寺ぁっ!﹂ 社長の怒鳴り声。 374 それが引き金になった。 ﹁わ⋮⋮わあああああああ!﹂ 小野寺が叫び声を上げながら、揉みあう二人に突進した。ゾンビ が男の首すじに喰らいつこうとする寸前、覆い被さっていたゾンビ にタックルし、その勢いでもつれあって横に転がっていく。 ﹁バカっ! パニくるな!﹂ ﹁車出せ! 外に落とせっ!﹂ 転がった二人はもつれあいながら体勢を変え、小野寺が上に馬乗 りになった。小野寺は掴みかかってくるゾンビの手を払いながら、 叫び声を上げて、近くにあったケースをゾンビの顔面に叩きつけて いる。 トラックが動き、プラットホームとの間にすきまが広がった。差 し渡しの板がずれ、その隙間から下の地面が広がる。 ﹁離れろ!﹂ 雄介の声に小野寺が顔を上げる。突進してくるリフトに気づき、 意外に俊敏な動きで横に跳んだ。 雄介はレバーを操作し、フォークを上げた。残されて立ちあがろ うとしているゾンビに高さを合わせ、旋回しながらぶつける。 衝撃は大きかった。つんのめる体をフレームを掴んで支える。ハ ンドルとブレーキで、リフトはぎりぎり落ちずに済んだが、ゾンビ の方はプラットホームの下に跳ねとばされた。 ﹁バックしろっ! ぶち当てろっ!﹂ 375 トラックへの社長の叫び声。 一瞬ののち、車体が急バックした。ちょうどそこに、ホームに手 をかけて立ち上がろうとしていたゾンビの姿があった。 大質量の圧迫を受け、枯れ木の砕けるような音とともに、ゾンビ の胸が押し潰されていく。その口から泉のように大量の血が噴き出 して、襟元を汚していく。 そんな状態でも、スーツ姿のゾンビはまだ左右に視線をやりなが ら、這い上がろうともがいていた。見張りから駆けつけてきた佐々 木が槍の一撃でその頭を砕くと、ゾンビはやっと動きを止めた。 場が静まりかえり、ようやく空気が落ちついてくる。 小野寺が茫然と転がったままなのに気づいて、工藤が慌ててしゃ がみこんだ。 ﹁噛まれたか!?﹂ 体を引きずり起こし、強引に四肢を確認する。 幸いなことに外傷はなかったようで、それを知ると、工藤は気が 抜けたように座りこんだ。 ﹁無茶するんじゃねーよ⋮⋮﹂ 対して小野寺は、へたりこんだまま、大きく開いた目をぎょろつ かせ、激しく息をついていた。 ﹁はっ⋮⋮はっ、はっ⋮⋮は、はい。すみません﹂ そこに、もう一人の男の方を見ていた社長の声が上がった。 ﹁こっちも大丈夫だ! どこも噛まれてない!﹂ 376 その言葉に、ようやく安堵の空気が広がった。 ﹁マジ危ねえ⋮⋮。ビビるわくそ⋮⋮﹂ 工藤が大きく息をつく。 襲われた方の男は、こめかみを抑えたまま座りこみ、死の間際の 光景を振り払うように、首を振っていた。そばに社長が付き、様子 を見ている。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁あいつに押さえつけられて⋮⋮真っ赤な口ん中がぶわって広がっ て⋮⋮死ぬかと思いました﹂ ﹁ぎりぎり間に合ったな。小野寺なんか素手で突っこんだんだ。二 人に礼言っとけよ﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ 男は顔を上げ、雄介と小野寺の方を見て、 ﹁ありがとな。助かった⋮⋮﹂ 深々と頭を下げる。 雄介は軽く手をあげて応えたが、小野寺は慌てて首を振り、 ﹁あっ、いっ、いえ、俺の方こそ、助けるのが遅れて⋮⋮﹂ ﹁黙って受けとれって﹂ 工藤がその頭をはたく。 緊張が途切れ、さざ波のように笑い声が広がった。 377 38﹁夕食会﹂ 物流センターを出発したあと、日が暮れる前には、市役所に戻る ことができた。 食料を満載したトラックを地下に入れ、運営委員会に連絡を取り、 手の空いている人間の総出で上に運びこむ。 地下駐車場には煌々と明かりがつき、多くの人手がダンボールや ケースを地上に運んでいた。その表情はみな明るい。 昨夜は、食料調達に行ったきり帰らない人間たちに、また全滅し たのかという悲観的な雰囲気も漂っていたのだ。そこに、行きより も車列を増やして、大量の物資が持ちこまれた。吉報は市役所中の 人間に広まっていた。 ︵なんだこりゃ︶ そして今、雄介が立っているのは、市議会議場の前方の席だ。目 の前には、百人を越す人間がいる。最低限の警備の人間を除いて、 市役所のほぼ全員が集まっていた。 そこは四階と五階を吹き抜けにした大ホールで、パンデミック前 は市議会の開かれていた場所だ。すり鉢状の議員席があり、後部に は記者席、傍聴席もある。部屋は広く、市役所の人間すべてを収容 することができた。 発端は、社長の提案だ。 午後七時、夕食の時間に、集まれる人間すべてをホールに集めて ほしいと。 委員会と打ち合わせを行い、夕食会が開かれることになった。 壁ぎわには食料が山と積まれ、この場で食べるという条件でなら、 好きな物を持っていくことができた。物資班の協力でドリンクサー 378 バーが置かれ、お茶やジュースが紙コップで配布された。 夕食会は会長の水橋の挨拶から始まり、食料調達に向かった人間 たちへの感謝の言葉で締めくくられていた。その後は食べ放題のパ ーティになり、今までにないような、なごやかな雰囲気になった。 食事が一段落したころで、会長の水橋が前方に立った。今回の食 料調達を主導した人間として、社長が紹介された。 社長がマイクを持ち、演壇にのぼる。 話は自己紹介から始まり、市役所の放送を聞いて避難してきたこ と、おかげでこの安全な場所で暮らせていること、そのことへの感 謝を述べた。 また、会長の水橋や、副会長であり医者の牧浦、運営委員会の他 のメンバーが秩序を保っているおかげで、この未曾有の状況にあっ ても文明的な生活が送れていること、そして、その恩に報いるため に、自分たちが動いたのだ、ということを語った。 ﹁我々の向かった場所には、まだ大量の物資が残っています。少な くとも数ヶ月は、食料の問題はありません﹂ おお、と聴衆から声が漏れる。 ﹁発電に必要な燃料も手に入るでしょう。今回開拓したルートには、 放置車両が大量にあります。これからは他の安全な場所も見極め、 生活必需品も手に入れるつもりです﹂ 聴衆の顔が期待に輝く。隣同士の人間たちの、ささやき声が漏れ る。 ﹁ここで、今回調達に向かった仲間たちを紹介します﹂ ざっと、演壇近くの席に固まって座っていた男たちが立ち上がっ 379 た。社長のグループだ。 周りを見て、小野寺が慌てる。 ﹁あ、あの﹂ ﹁いくぞおらっ﹂ 工藤に引きずり起こされて、小野寺も引っぱられていく。 目線でうながされ、雄介も渋々そのあとに続いた。壇上の社長か ら少し離れた場所に、男たちが並ぶ。 ﹁ここにいる彼らは﹂ 社長は続けた。 ﹁自分の命を危険に晒して、戦ってくれました。地下に停めている 車を見ていただければわかりますが、戦闘は激しいものでした。い つ誰が死んでもおかしくない、そんな状況です。食料問題が解決さ れたのは、その中で我が身を省みずに戦った、彼らのおかげです。 どうか、彼らの無事を喜んでいただきたい﹂ そう言って、社長はマイクを下ろし、ホールの中を見まわす。 ぱらぱらと始まった拍手の音は、すぐに広がった。 立ち上がった人間たちの、万雷の拍手に包まれる。 ︵なんだこりゃ⋮⋮︶ 工藤は隣でふんぞり返り、小野寺は緊張で固まっている。 こんな歯の浮くような、背中のぞわぞわするような展開になると は思わず、雄介は紹介されるままに突っ立っていた。 380 ◇ 夕食会のあとは、今回遠征に参加した人間だけでの打ち上げが予 定されていた。 そのために部屋を借り、食料を持ちこんで準備をしていたのだが、 集合の時間になっても、小野寺の姿が見えなかった。 探しに行った雄介と工藤の二人は、廊下の途中でその姿を見つけ た。見知らぬ男二人に囲まれて、何やら詰問を受けている。 ﹁おっのでーらくーん。⋮⋮何やってんの?﹂ 工藤の割り込みに、男たちが顔を上げる。 雄介と工藤の二人を見ると、男たちはバツの悪そうな表情を浮か べ、何も言わずに立ち去った。 ﹁なんだあいつら⋮⋮感じわりぃ﹂ 工藤がつぶやく。 小野寺がおずおずと言った。 ﹁あ、えっと、ゾンビのことを聞かれてて⋮⋮﹂ ﹁ゾンビぃ?﹂ ﹁その、本当に戦ったのかって。あ、俺、衛生班の仕事を放り出し て行っちゃったんで、それで迷惑かけたみたいで﹂ ﹁はぁぁ?﹂ 工藤の顔が凶悪に歪む。廊下の奥に立ち去ろうとしている二人に 目をやり、 ﹁教育してくる﹂ 381 一言吐き捨てて、後を追おうとする。 ﹁あ、ちょ、待って! 俺はいいから!﹂ 必死で引きとめる小野寺と、 ﹁やめとけって。喧嘩しても仕方ねー﹂ 興味なさげに、去っていく背中を見つめる雄介。 工藤はうんざりしたように振りかえった。 ﹁お前らさー、舐められたら終わりだぜマジで。こっちはゾンビ相 手に殺し合いしてきたんだぞ。何が迷惑だよクソが﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ 工藤は深くため息をつき、 ﹁まーいいや。なんか絡まれたら、俺か武村に言えよ﹂ ﹁俺もかよ⋮⋮いいけどさ﹂ 二人の言葉に、小野寺は苦笑を浮かべてうなずいた。 ◇ 打ち上げには酒が用意された。こちらは調達に行った人間の特権 らしい。社長の事務所の事務員だったという女が数人、メンバーに 酌をしてまわっていた。 酒宴が長引くにつれ、社長や佐々木といった主要メンバーが、床 に地図を広げて議論を始めた。どこなら安全に物資を得られるか、 382 それを検討しているのだろう。 それを遠巻きに眺めながら、雄介は言葉を反芻する。 ﹁調達班⋮⋮ねえ﹂ 今回のことを契機に、運営委員会に新しく新設されるという。 ﹁おう。まだ決定じゃねーけど、俺らのグループがそのままなるら しい﹂ ﹁それって社長さんの提案?﹂ ﹁らしーけど﹂ 紙コップを片手に、だらけた姿勢で喋る工藤。 ﹁ふーん⋮⋮﹂ 雄介は考えこむ。 ︵これは結局⋮⋮食料を手土産に、委員会に食いこんだ、ってこと になんのかなあ⋮⋮︶ ただ食料を取りに行くだけなら、運営委員会にたてつく必要はな い。上に提案して、決が下りるのを待てばいい。 多少は遅れるかもしれないが、出発前のような衝突は回避できる だろう。食料がいよいよ切羽詰まってくれば、どのみち誰かが行か なければならないのだ。 それを強引に、自分のグループのみで強行したのは、委員会に主 導権を取られることを嫌ったのだ。委員会に従えば、各作業への分 配でグループをばらばらにされることもありえるし、独自の動きも できなくなる。結束の強い集団ほど、それは受け入れづらいだろう。 383 かといって独立を続けても、少人数でできることは限られてくる。 市役所の中にいる以上、委員会の協力がなければ何もできない。と なれば、上に食いこむしかない。 独走とはいえ、今回の、命を危険に晒して食料を取ってきたとい う実績は、かなりのアドバンテージになるはずだ。 事前に多少の衝突はあったが、ホールでの様子を見る限り、委員 会とは和解している。今後は相当の発言力が得られるだろう。夕食 会はそれを周知するための、セレモニーだったのだ。 しかしもちろん、それが悪いわけではない。結果として市役所の 人間を救っている。率先して危険を引き受け、食料の独占は行って いない。古参と新参の、対立の解消にも動いている。コミュニティ への貢献としては十分だ。 ﹁社長さん、やり手だなー﹂ ﹁うん?﹂ ﹁いや、人を使う人間はやっぱ違うなと思ってさ﹂ ﹁まーなあ。あのおっさん、ああ見えてインテリなんだぜ。図面も 引けるし。建築系の院卒で、都市環境なんとかってのを研究してた って話だ﹂ ﹁へえええ⋮⋮すげー意外﹂ ﹁だよなあ⋮⋮見た目は四角い筋肉なのに﹂ ﹁いや、そこまでは言わねーけど⋮⋮﹂ ﹁あれだよ、工務店やってた親父さんが倒れて、そっから後を継い だって。それがなかったら、どっかのゼネコンにでもいたんじゃね ーかな﹂ ﹁なるほどねえ⋮⋮いろいろあんのな﹂ ﹁そーだぜ。人に歴史ありだ﹂ ﹁お前もなんかあんの?﹂ ﹁俺? 俺は⋮⋮、まあ、いいじゃん﹂ 384 工藤は言葉を濁した。 ﹁まあともかくさ、これからも仲間でがんばっていこーぜ﹂ ﹁あ、すまん。俺は調達班には入らん﹂ ﹁あ? なんでよ。他の仕事にはついてねーだろ?﹂ ﹁いろいろやることあるんだよ。暇なときなら手伝う﹂ ﹁なんだよー⋮⋮そうか。仕方ねーな。いつでも遊びに来いよ﹂ ﹁おう﹂ ﹁小野寺くんは入るよなー?﹂ 水を向けられ、小野寺は目をまたたかせる。 酒が入って少し静かになっていたが、小野寺は大きくうなずき、 ﹁やります。俺、がんばります﹂ ﹁よーしよく言った。ねーさん頼む、こいつに酒﹂ 呼ばれて、やや年上の事務員が、仕方ないなあ、といった表情で 酌にくる。小野寺はそれを、どぎまぎしながら受けとっていた。 ◇ 数日後、雄介は女医の牧浦に、医務室まで呼ばれていた。 椅子を勧められ、腰を降ろす。出された湯飲みには、さわやかな 茶葉の香りが漂っていた。 ﹁新しいお茶を頂いたんです。医務室の特典ですね。どうぞ﹂ ﹁ども﹂ 一口つける。 向かいでは同じように、湯飲みを持って香りを味わう、白衣姿の 385 牧浦の姿があった。ウェーブのかかった髪は綺麗にとかされ、身な りは清潔だが、目の下の隈は隠しきれていない。 しばらく無言でお茶を楽しんだあと、湯飲みを置く。 ﹁先日は、ありがとうございました﹂ 牧浦はそう言って、深々と頭を下げた。 ﹁ああ⋮⋮いや﹂ ﹁おかげで、食糧問題が解決しました。みなさんの不安も晴れたよ うで、市役所内のいさかいも減っています。感謝してもしきれませ ん﹂ ﹁俺は尻馬に乗っただけだから、礼は他の人間に﹂ ﹁もちろん、伝えています。調達班の方には、それぞれ時間を頂き ましたから﹂ ﹁全員に?﹂ ﹁はい。詳しいお話も聞きたかったので﹂ ︵事情聴取か︶ 雄介はお茶をすすりながら思った。 出発前にちょっとした衝突もあったので、その解消も兼ねている のかもしれない。 ﹁かなり激しい争いだったようですね﹂ ﹁まあ﹂ ﹁外は危険でしたか?﹂ ﹁そりゃ⋮⋮聞いてるだろ? 他の人間からも﹂ ﹁武村さんの意見もうかがいたくて﹂ ﹁⋮⋮何かトラブルが起きれば、いつ全滅してもおかしくなかった 386 と思う。何度かそういう場面はあった﹂ ﹁⋮⋮なるほど﹂ 牧浦は小さくうなずいた。 ﹁重ね重ね、お礼を申し上げます。ただ⋮⋮﹂ 牧浦は一度言葉を切った。 ﹁なまじ外見が人と同じだけ、あれらを相手にすることは、心の負 担になります。危険な状況ではなおさらに。心に焼きついてしまい ます﹂ 牧浦は視線を落とし、沈黙した。 やがて口を開く。 ﹁そんなひどい記憶、光景は⋮⋮。口に出し、誰かと共有すること で、楽になれることがあります。どなたか親しい方や、私でも。聞 くことぐらいしかできませんが﹂ ﹁そういえば⋮⋮最初の紹介のときに、カウンセリングもやってる って言ってたな﹂ ﹁そうですね。ここに立てこもった最初のころは、あれらの記憶を 生々しく覚えている方も多かったので﹂ ﹁へえ⋮⋮﹂ 確かに、ゾンビに対する鬱屈は、メンバーにも見られた。小野寺 は相当なストレスを感じていたし、あの工藤ですら、その片鱗は見 せている。他のメンバーも、大なり小なりあるだろう。何しろ死体 との殺し合いなのだ。まともでいられる方がおかしい。 387 ︵リーダーと医者やりながら、トラウマ負った奴らのカウンセラー か。内情把握と人心統制にはいい方法だけど⋮⋮完璧オーバーワー クだな︶ 雄介は冷めた目で、牧浦を見つめた。 ﹁あんな奴ら、何匹やっても変わらん。こっちを患者みたいな目で 見られても困る﹂ 牧浦はゆっくりと視線を上げた。 不思議な色を持った瞳が、雄介を射抜く。 ﹁それは⋮⋮人を殺すよりは、大したことがない、ということでし ょうか?﹂ 空気が止まる。 雄介は無言で、牧浦の顔を見つめた。 二人の間に沈黙が流れる。 じりじりと緊張感が高まる。 ﹁⋮⋮深月か﹂ 雄介のつぶやきに、牧浦は表情を変えずに答えた。 ﹁スーパーでのことについては、私が無理に聞きだしました。藤野 さんはずっと貴方を庇って⋮⋮いえ、貴方が正しいと、そう仰って いましたが﹂ ﹁正しいも何もあるかよ。ガキ殺した奴に、落とし前つけさせただ けだ﹂ ﹁⋮⋮後悔は、ないんですか?﹂ 388 ﹁ない﹂ ﹁その光景を夢に見たりなどは?﹂ ﹁ないね﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ 雄介は椅子の上であぐらを組み、後ろに背中を預けた。 ﹁これで危険人物認定されたかなー﹂ ﹁⋮⋮椅子で回らないでください﹂ 牧浦は興味なさげに視線を外し、お茶を一口飲んだ。 ふう、と深くため息をつく。 それから話題を変え、 ﹁そういえば、武村さんは調達班には入らなかったんですか?﹂ ﹁ああ﹂ ﹁何か思うところでも? お友達とは仲が良さそうでしたが﹂ 友達。工藤と小野寺のことだろうか。 それについては触れず、 ﹁しばらくやることがあるんで﹂ ﹁⋮⋮それは何か、お聞きしてもいいですか?﹂ ﹁あー⋮⋮まあ、伝えておくけど。明日、自衛隊の基地を見に行こ うと思ってる﹂ 牧浦は意表を突かれたようで、 ﹁基地へ?﹂ ﹁自衛隊との通信、止まってるんだろ?﹂ 389 無言。 おおやけにはされていないが、少し前から、通信は完全に途絶し ていた。 ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁とにかく救助を待つにしても、他の選択肢を考えるにしても、向 こうがどうなってんのか確認しないと始まらんだろうし﹂ ﹁それは⋮⋮しかし、かなり距離があります。危険では⋮⋮﹂ ﹁一人でならバイクで行ける﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁基地が無事で、ヘリが飛ばせないだけなら⋮⋮。偵察して、ルー ト開拓して、周到に準備していけば⋮⋮陸路で基地まで、全員を移 動できるかもよ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁食料があるっていっても、いつまでもここには居られんだろ。春 になったらどうなるか﹂ その言葉に、牧浦は考えこむような表情を見せた。 ﹁武村さんは⋮⋮またあれらが路上に出てくると思いますか?﹂ ﹁可能性は高いと思う﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦はしばらく思考にふけっていたが、やがて口を開いた。 ﹁そうですね⋮⋮。外を知らない私が言っても、武村さんに対して 説得力はありませんね。そもそも、私が何かを言おうとするのがお こがましいのかもしれません﹂ 390 そう言ってため息をつく。 ﹁卑屈になんなよ⋮⋮﹂ ﹁いえ、そういうわけでは⋮⋮﹂ 牧浦は視線をそらし、 ﹁武村さん一人なら、バイクでどこへでも行けるんですよね﹂ ﹁まーな。今はゾンビいないし﹂ ﹁どこか他の、ここより安全な場所を探そうとは思わなかったんで すか? 大量の食料もあったのに﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 黙りこむ雄介に、牧浦は探るような視線を向ける。 ﹁⋮⋮藤野さんのためですか?﹂ ﹁違う。なんか⋮⋮ちょっと突っこみすぎじゃないですかね?﹂ ﹁あなたが信頼できる方か知りたいんです。何しろ危険人物ですか ら﹂ ﹁カウンセリングって、もっと優しい感じだと思ってた⋮⋮﹂ ﹁武村さんにはこの方が話が早いでしょう﹂ 牧浦はしれっとした表情で答える。 遠回しに無礼を責めているのだろうか。 確かに、この市役所で、牧浦にこんな口の利き方をするのは雄介 ぐらいだろう。 牧浦はふいに苦笑を浮かべ、 ﹁すみません。おふざけが過ぎました﹂ ﹁あ、いえ⋮⋮﹂ 391 ﹁基地との連絡、よろしくお願いします。各所には周知しておきま すので、必要なものがありましたら、なんでも仰ってください。ど うかご無理はなさらないように﹂ ﹁ども⋮⋮﹂ 急速に指導者としての顔に戻る牧浦に、雄介は短く答えた。 話に区切りもついたところで、立ち上がる。扉に向かおうとする 途中、視界の隅に、見慣れぬ物を見つけた。 積み重ねられた本の陰に、空になった錠剤の包装シートが大量に 転がっていた。 その視線に気づいたのか、牧浦が言う。 ﹁睡眠薬です。最近眠れなくて﹂ ﹁⋮⋮もうちょっと仕事減らした方がいいんじゃねーの?﹂ ﹁ええ。でも、大丈夫ですから﹂ ﹁⋮⋮ならいいけど﹂ ﹁すみません。お見苦しいところを﹂ 牧浦はデスクの上を片づけはじめる。 その姿を後ろに、雄介は医務室を立ち去った。 392 ・38話までのあらすじ︵前書き︶ 読み返すのがめんどくさい人向けです。 新情報は含まれていないので、ストーリーを覚えている方は次話に 進んでください。 一ヶ月ぐらいしたら消すつもりでしたが、便利そうなので残してお きます。 393 ・38話までのあらすじ ・第一章 黒瀬 会社が倒産したあと、一週間ほど引きこもっていた武村雄介は、 部屋を出たところで男に襲われる。咬み傷から熱が出て、逃げこん だ自室の中で数日間寝込む。 起きたあと、世界が一変していることを知る。人がいなくなり、 ゾンビが闊歩する世界。なぜか自分だけはゾンビに襲われない。 同じ階のOL、黒瀬時子もゾンビ化していた。時子を玩具にしな がら、雄介は虚無的な快楽にふける。 ・第二章 深月 大型スーパーの屋上から垂れ下がるSOSの白幕を目にして、雄 介は様子を見にいく。 三階の事務所に立てこもっていたのは、高校生の少女、藤野深月 と、二人の幼い弟たち、隆司と優だった。助けを求める深月に対し て、雄介は食料を提供する見返りに、体を求める。強く反発する深 月だが、弟たちのことを考えて渋々受け入れる。 一方、雄介は、深月たちを労働力として使うことを考える。その 準備が整うまで、深月に体で対価を払わせようとするが、その屈辱 的な境遇に深月の精神は削られていく。 ある日、深月が暴走を起こす。災禍はもう治まっているのに、雄 介がそれを黙って、利用しているのではないかと。雄介の目が離れ た隙をついて、弟たちを連れてスーパーから脱出しようとするが、 そこでゾンビの群れに襲われる。駆けつけた雄介の助けで辛うじて 394 エレベーターに逃げこむが、雄介を置き去りにしてしまう。 深月は自分の間違いを知り、人を死なせてしまったことに絶望す るが、そこにあっさりと帰還する雄介。 屋上に連れて行かれ、ゾンビの闊歩する世界を見せられ、ようや く深月は現実を受け入れる。食料を得るのも命がけの世界だという ことを。 深月の態度の変化により、雄介はスーパーの二階を開放して、拠 点としての整備を始める。インフラが停止したときに備えて、山の 野外センターへ移動する準備も始める。風邪の看病や、避難の作業 などを経て、少しずつ馴染んでいく二人。 ある日、不審な無線を傍受する。女が助けを求めているが、雄介 はそれを罠と断定。落ちこむ深月の背中に、雄介はささやかなイベ ントを思いつく。クリスマスの映画鑑賞会。 その日の夜、肌寒さに雄介は目覚める。暖房が止まっていた。屋 上に上がると、大規模な停電とともに、街の一角が火災で照らされ ていた。不吉な予感を覚えながらも、バイクで様子を見にいく雄介。 火災の現場である大学キャンパスで、雄介は、黒いコートを着た 元警官のゾンビ、髑髏男と遭遇する。生きた人間に対する憎悪と殺 意はそのままに、まるで人間のような周到さを見せる髑髏男。こち らには襲ってこないが、雄介はこの脅威を見過ごせず、隙を見て排 除しようと後を追う。 たどりついたキャンパスの奥深くで、さらに何体ものゾンビと遭 遇する。雄介を認識し、捉えることのできる、ゾンビの知性体。 残されていたテープから、ここで何が起きていたかを知る。一部 の生き残りが、捕まえたゾンビに他の生存者を喰わせていた。処刑 の光景。元警官の髑髏男も、その犠牲者。 テープに順番に目を通していくうちに、雄介は恐るべき事実を知 る。ゾンビは人間を食べれば食べるほど、知性を取り戻す。 395 少しずつ反応をするようになっていた時子や、生前の行動パター ンをなぞる一部のゾンビたち、その謎に対する答え。 知性体という危険なゾンビが十体近く解放されていることを知り、 雄介は撤退を選ぶ。 帰還したスーパーでも異変が起きていた。地下の異臭をたどるう ちに、人間が隠れ住んでいたとおぼしき痕跡を見つける。急いで深 月たちのところに戻る雄介だが、深月と弟たちが、隠れていた男に 襲われていた。深月が他の人間と篭城していたときに、怪しい目を 向けていた男。 優が犠牲になり、錯乱する深月。男を取り押さえた雄介に対して、 守ってくれなかったと感情的に責めてしまうが、雄介自身も、猜疑 心から深月に予備の銃を渡していなかったという負い目があり、沈 黙する。 負傷した隆司のことも考え、これからの行動に頭を悩ませる雄介 だが、そのとき防災無線のサイレンが鳴り響く。市役所に百人ほど の避難民が集まり、三日後には自衛隊の救助が来ると。移動を即断 する雄介。 そこへ、拘束されていた男が、自分も助けてほしいと懇願する。 激昂する深月だが、その反対を押しきって、雄介は男を連れ出す。 外の様子を見るように言ってガラス壁のそばに立たせ、背後から腹 と両足を撃ち抜く。地上に落ちた男がゾンビたちに喰われ、囮とし て機能していることを確認し、雄介たちはスーパーから脱出する。 ・第三章 市役所 市役所では、高校教諭で会長の水橋、女医で副会長の牧浦を中心 に、秩序だった体制がとられていた。隆司の治療も受け、腰を落ち つける二人だが、そこに深月の幼なじみの少年、高崎敦史が現れる。 深月を保護していたことへの感謝を表しながらも、これからは自 396 分が深月たちの面倒を見る、という敦史に、雄介は反論せず、深月 に別れを告げる。 その午後、公園での優の埋葬を終え、市役所の警備状況を観察し ていると、女医の牧浦から接触を受ける。女医に深月や隆司のこと を託し、雄介は時子を解放するためにマンションに戻る。 女医の挿話。 初めて執刀医として赤子を取り上げたその夜、父の持つ産婦人科 の病院で当直に当たっていた牧浦は、大学病院の同僚から緊急コー ルを受ける。大規模な暴動が発生して、外来患者が多数。父の指示 を仰ぎ、急いで大学病院に戻るが、救急車が何台も放置されている だけで、ロビーも無人。その奥でゾンビと遭遇。エレベーターに駆 けこみ、上階に逃げるが、そこで破水した妊婦のゾンビと遭遇する。 隠れていたナースがすぐ隣で喰われ、理性を失った牧浦は生存本能 に押されてゾンビを殺害する。その次の瞬間、下におぞましいもの を見てしまう。うごめく赤子。牧浦は衝動的に手を下すが、その感 触と光景は、牧浦の精神を粉々に破壊するものだった。 それ以来続く不眠と疲労に悩まされながら、牧浦は頼りにしてく る市役所の人間たちを裏切ることもできず、実質的なトップとして 活動している。その立場に相応しくないと思いながらも、医師とし ての仮面、尊敬する父の、リーダーとしての仮面を被りながら。 一方の深月は、孤独感と無力感にさいなまれていた。救助に来た 自衛隊のヘリは燃料の関係で一往復しかできず、人数の関係もあり、 体調を崩していた隆司を先に送り出さざるを得なかった。 救助が長引くにつれ、食料の配給が減り、新しく来た避難者たち への風当たりも強くなる。配給頼みにお腹を空かせ、無為に時間を 過ごしている現状。スーパーでの生活とのその落差に、深月は雄介 に頼りきりだったことを自覚する。明確になった思慕の念と、足手 まといの自分にその資格はないという思いで苦しむ深月。 397 そこへ、牧浦が頼みごとを持ってくる。ダンプに積まれた食料を 分けてほしいと。半分は雄介の物だが、雄介はその食料を提供する 見返りに市役所内での自由を得て、何かの動きを見せていた。そし て、残りの半分は深月の物だと明言。それを知り、深月も自分の居 場所を作るために、行動を起こす。 衛生班に配属され、給水の仕事を始める深月だが、途中のロビー で騒ぎに遭遇する。新しく避難してきた人間たちの中にいたグルー プが、市役所の人間と揉めていた。食料を取りにいくので武器を返 せと。騒ぎを聞いて駆けつけた牧浦は難色を示すが、横から、雄介 が自分も行くと参加を表明。強引に押し通すグループ側。 高速を通り、物流センターへ向かう一行。工務店の社長を中心と したグループ。元自衛官の佐々木。金髪ポニテの工藤。 物流センターの一階と二階からゾンビを排除し、物資をトラック に積みこむ。その途中でトラブルが発生。仲間の一人が、トラック の荷台から出てきたゾンビに襲われる。グループ外から参加してい た大学生風の男、小野寺は、その光景を間近に見て硬直するが、パ ニックに陥りながらも助けに入る。雄介のリフトによる突撃も合わ せて、なんとか救出に成功。ゾンビとの戦いを乗りきったことで、 刺々しい姿勢を見せていた工藤も、戦友として態度を軟化させる。 市役所に帰還したあと、市役所の全員を集めて食事会が開かれる。 独断行動を取ったグループ側も、物資の獲得という実績と、食事会 というセレモニーを通じて、市役所内に地位を確立する。調達班と して委員会に新しく組みこまれることに。 一段落したあと、雄介は牧浦にカウンセリングに呼ばれる。ゾン ビと戦うことで生まれるトラウマ。スーパーでの人殺しに関する問 答。 話は今後のことに移り、雄介は自衛隊の駐屯地に向かうことを明 かす。一人ならどこでも行けると言い、その実績もある雄介に、牧 398 浦は反対を諦める。疲弊した様子の牧浦に懸念を抱きつつも、雄介 は市役所を後にするのだった。 399 39﹁駐屯地﹂ 雄介は市役所を後にし、静まりかえった街を背景にして、バイク を走らせた。 ナビは使えないので、ときおり立ち止まっては、地図を見ながら 方向を修正していく。 二時間ほどたったころ、基地の姿が見えてきた。 ︵おー、あれか︶ 遠目からでもすぐにそれとわかったのは、周りと比べて、そこが かなり異質な光景になっていたからだ。 二車線の道路の向こう側に、敷地が左右に伸びている。敷地を囲 む鉄柵は高さ一メートルほどだが、その後ろに、木材か合成樹脂の 板が張られ、後ろに積まれた土嚢が顔をのぞかせていた。 さらにその上には、工事現場の足場のような歩廊が、左右にずっ と組まれている。柵の上から攻撃するためのものだろうが、転落防 止の手すりもついていて、かなり本格的な作りだ。 よく見れば、柵の下の生け垣には、乾いた血や肉片があちこちに こびりついていた。基地を襲ったゾンビとの戦闘跡だろう。死骸は 見当たらないので、逐一片づけているのかもしれない。 それにしても、ひとけがない。これだけの防御施設を作っている のに、見張りがないというのもおかしな話だ。 敷地の周りを走りながら、正門を探す。途中には、高さ三、四メ ートルほどの、投光機付きの監視塔もあった。こちらにも人の姿は ない。 ようやく見つけた正門は、物々しいありさまだった。 閉じられた鉄門は、平時なら一メートルぐらいだろうが、今はバ 400 リケードで高さを補強され、装甲車が横付けされている。前面の道 路にも、横二メートルほどの有刺鉄線だらけの柵が、土嚢と共に、 警戒線としていくつも置かれていた。 横をすり抜けながら正門に近づくと、激しい戦闘を示す血痕が、 道路のアスファルトをまだらに汚していた。横の門柱には、駐屯地 の名前を彫りこんだ御影石がかけられている。 ︵こりゃバイクじゃ無理か⋮⋮︶ 侵入を諦め、正門に横付けしてエンジンを切る。 門の脇の守衛室に増設された物見台からは、光を無くした投光機 がこちらを見下ろしていた。 ︵それにしても、人の気配がしねーなあ⋮⋮︶ フィールドバッグを担ぎながら、雄介は嘆息する。 生存者がいれば、バイクのエンジン音に反応しそうなものだが。 バイクのシートを足場にして、正門の向こうにバッグを放りこむ。 それから腕の力で体を持ち上げ、門を越えた。 ようやく目にした内部は、閑散としたものだった。幅の広い道路 と、のっぺりした建物が並ぶ様は、軍隊の基地というより、どこか の大きな工場を思わせる。 車両用の自動ゲートは上がったままで、電源かあるいは電話線か、 分厚く皮膜されたコードが、道路の脇を何本も伸びていた。 ︵意外と普通なんだなー︶ フィールドバッグを肩に、雄介は興味深げに周囲を見渡しながら、 横の案内板に近づく。簡単なイラストと共に、体育館やグラウンド、 講堂や管理棟の位置が記されている。 401 ︵とりあえず近場から行くか︶ 気温は低く、歩いても汗ばむほどではない。 途中、いくつもの警戒線にぶつかった。車両の移動のためか今は 開かれているが、移動式の鉄柵と、壁に積まれた土嚢で、すぐに道 路を封鎖できるようになっている。内部への侵入を許した場合に、 第二、第三の防衛線とするためのものだろう。辻々には、土嚢で囲 まれた拠点も作られていた。 近くの芝生に目をやれば、土が掘り返され、地中に掩蔽壕が作ら れている。撤退が間に合わないときは、一時的に逃げこんで時間を 稼ぐのだろうか。 ︵うーん⋮⋮さすがプロ︶ 市役所のバリケードとは物が違う。 弾薬が限られている現状では、自衛隊の単純な火力より、こうい った陣地構築能力の方が力を発揮しそうだ。 ︵見てる限り、外のゾンビに押し負けたって雰囲気じゃねーんだよ なあ⋮⋮︶ ところどころに放り出された機材に混乱のあとは見えるが、どち らかというと、夜逃げ後のような雰囲気だ。ゾンビの死体もいくつ か見つけたが、数は少ない。小規模ながら戦闘があったのは事実の ようだが⋮⋮ ふいに、左手にグラウンドが見えた。濃緑色のテントが、隙間な く建ち並んでいる。 興味を惹かれて中を探るが、こちらにも人の姿はなかった。初め は避難民を収容するためのものかと思ったが、どうやら隊員の寝泊 402 まりに使っていたらしい。テントの間の要所要所には、土嚢で壁が 作られ、奇襲を受けても時間を稼げるようになっている。 ︵つーことは、避難してきた奴らは隊舎の方か︶ おそらく避難民を優先して建物の中に入れ、自分たちはテントを 使っていたのだろう。頭の下がる話ではあるが、それよりも気にな るものがあった。 ︵この、わだちの数は⋮⋮︶ かなりの車両の移動の跡が、グラウンドに残されていた。思い返 してみれば、車両を見かけた記憶がほとんどない。 アスファルトに残る泥のあとを追って、歩みを進める。それはま っすぐに、駐屯地の奥へと続いていた。 ◇ ︵ここから脱出したのか︶ 裏口は開け放たれていて、奥には林が広がっていた。その手前の 道路を、車列を組んで脱出したらしい。 ︵放置はできないよなあ⋮⋮︶ どの方角に向かったかだけでも突き止めなければ、来た意味がな い。 正門からバイクをまわし、大量の車列が通れそうなルートを選び ながら、追跡を続ける。 道はすぐにわかった。車列の後を追うように、ゾンビの死体が散 403 らばっていたためだ。冬の寒さのためにそれほどではないが、かす かな腐臭が漂っている。 一キロも進まないうちに、その現場を見つけた。 倉庫街の中ほど、広大な河川に面した荷下ろし場だ。そこに大量 の軍用車が放置されていた。近くには船着場もあり、何艘かのボー トも係留されている。倉庫街の入り口には車両で防衛線が張られ、 ゾンビの死体が山積みになっていた。激戦の跡だ。 おそらく、いや確実に、船で脱出したのだろう。 ︵川かよー⋮⋮︶ 雄介は力なくハンドルにもたれかかる。 これで足どりは掴めなくなった。 あてもなく水面をながめながら、雄介はゆっくりと考えをまとめ る。 ︵行き当たりばったりの行動じゃねーな。もともと脱出⋮⋮か輸送 に使うつもりで、船を集めてたのか︶ 大量の避難民を連れての、地上の移動はまず不可能だ。ヘリも燃 料不足。それなら河川を使うというのはうなずける。ヘリと違って、 船なら一度に大量に輸送できる。 しかし、放置されていたテントや様々な物資から、完全に計画的 な脱出とも考えにくかった。 ︵無線で知らせる暇もなく⋮⋮か。なんかトラブルが起きて、慌て て脱出せざるをえなかった⋮⋮避難民がゾンビ化したか?︶ そのあたりの警戒は、初期の混乱を乗りこえた時点で自衛隊でも 徹底していると思うが、実際に何があったかは想像するしかない。 404 ︵しかしまあ⋮⋮全滅じゃないだけマシか︶ それに、当てもなく逃げるとも思えない。どこか目的地があるは ずだ。そうでなければ、駐屯地を死守しようとするだろう。 冊子型の地図を取り出し、現在地のページを開く。自衛隊の脱出 場所にペンで印を付け、あとで見直せるようにしておく。 ふと、思いつきにかられた。 ︵船⋮⋮船か︶ 市役所のそばにも川は流れていた。川幅はここと比べるべくもな いが、百メートル近くの広さはある。 試しにこの駐屯地から川の流れをたどっていくが、市役所の方へ は続いていなかった。むしろ反対方向だ。 ︵そりゃそーか。ここから船で行けるなら、救助にヘリ飛ばす必要 ないし︶ 納得しつつも、船での移動、という可能性について、雄介は思い を巡らす。市役所の河川域でボートなり何なりを見つけられれば、 安全に移動できるかもしれない。 付箋を張っておいた市役所のページを開き、川の流れを調べる。 上流は山に向かっていた。かつて拠点として使おうと考えていた野 外センターに、かなり近いところまで伸びている。 ﹁うーん⋮⋮﹂ 雄介は腕を組んで考えこむ。 これまでも、自衛隊の救助がない可能性は考えていた。春までに 405 助けが来なかったときのために、野外センターを利用することも頭 にあった。しかし、安全な移送手段が思いつかなかった。 これが、その解決策になるかもしれない。 あとでじっくり考えることにして、雄介は駐屯地の方角にバイク を向けた。 ◇ 駐屯地の中を再び探索するうち、広報センターを発見した。来賓 向けの施設らしく、装備や写真などが展示されている。 こちらは混乱のあともなく、窓から差しこむ日に照らされて、う らぶれた印象を受ける程度だ。 それら展示資料に、雄介はざっと目を通していく。見当もつかな い自衛隊の行き先について、何か情報が得られないかと考えたのだ。 県下の配置図には、司令部や通信科、施設中隊や普通科連隊など がバラバラに配置されていた。この駐屯地にいたのは、普通科、い わゆる歩兵のようだ。輸送ヘリは飛行隊に所属するので、他の場所 から支援にきていたのかもしれない。 見る限り、司令部などがある駐屯地はここよりも小規模だ。避難 民を連れての脱出に選ぶかは怪しいところで、配置図に河川が描か れていないこともあり、あまり参考にはならなかった。 とりあえず、荷物からデジカメを取り出して撮影しておく。乾電 池はいくらでもあるので、あとでモニターで確認すればいい。 ︵駐屯地の中も撮っとくか。救助がこねーって信じられない奴もい そうだし︶ バイクをまわしながら、無人の風景を撮影していく。体育館の中 も避難所に使っていたようで、慌ただしく移動した痕跡が残されて いた。 406 ︵お、コンビニ︶ 駐屯地の三分の一ほど見てまわったところで、食堂を見つけた。 売店も併設されている。売り物はほとんど残っていなかったが。 中は社員食堂のような雰囲気で、これといって変わったところは ない。木目調のテーブルと椅子が並び、カウンターの向こうに厨房 が見えている。 ︵昼時か⋮⋮飯でも食うか︶ 視線を巡らしていると、テーブルの間に立ちつくす人影が見えた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ じっと様子を観察する。 中年の男だ。ポロシャツは乾いた血で汚れ、かすかに体を揺らし ている。顔には血の気がない。 ゾンビだ。 見れば、隅の方にさらに二人、人影があった。中年の女と老人。 どちらも身動きせず、壁を向いたまま、こちらに関心を払おうとも していない。 うんざりしながらも、雄介は適当な席を探す。 場所を変えることも考えたが、どうせ実害もない。他の場所を見 つけるのも面倒だ。なるべく離れた席を選び、バッグに入れた弁当 箱を取り出す。 中は、市役所の炊き出しで配給された白米だ。物流センターでの 補給がうまくいったため、市役所でも少し余裕ができている。 おかずは瓶詰めのにんにく味噌と、のりの佃煮。蓋を開けると、 美味しそうな匂いが広がった。適当にご飯にまぶし、口に入れる。 407 ︵うめー︶ ペットボトルの緑茶で喉を潤していると、物音がした。振り向く と、中年のゾンビがテーブルにぶつかった音だった。こちらにゆっ くりと近づいてきている。他の二体も、こちらに向き直っていた。 ︵⋮⋮飯に反応した?︶ 呆気に取られながらも、弁当箱を手に立ち上がる。ゾンビに昼飯 を渡すつもりはない。 しかし、どうやらこちらに反応したわけではないらしい。雄介の 前を通りすぎ、厨房の方に向かっている。 ︵⋮⋮なんかあんのかな︶ 弁当をしまい、ぞろぞろと歩くゾンビに、距離を置いてついてい く。 開きっぱなしのドアからゾンビが厨房に入ろうとする寸前、その 足元を、小さな影が走り抜けた。 ﹁っ、おい!﹂ 呼びかけにも止まらない。 ピンク色のリュックを背負った、小さな女の子だ。 薄汚れた長い髪が、子供用のオレンジのダッフルコートに張りつ いている。 ゾンビたちもその姿を見て、急に活発になった。群がって追いか けようとする。 食堂を風のように駆けぬける女の子だが、入り口のガラスドアで 408 少し手間取っていた。体重が軽すぎて、押し開くのに時間がかかっ ているのだ。 その背中にゾンビが手を伸ばす前に、横から蹴りを入れる。うつ ぶせに押し倒した男の後頭部に、腰から抜いたナイフを突き入れた。 とっさだったので返り血を気にする暇がなく、グローブがゾンビの 血で汚れる。 ︵あーくそっ!︶ ひねりを入れてとどめを刺し、顔を上げると、ドアの向こうに出 た女の子と目があった。小学校に上がったぐらいの年齢だが、その 顔は能面のような無表情で、目だけがこちらを凝視している。 女の子はすぐにきびすを返した。荷物もあるのに、とんでもなく 足が速い。 他の二体を始末している暇はなかった。フィールドバッグをかつ ぐと、適当にゾンビたちを蹴り散らして食堂を出る。右の方角に小 さくなる背中を見つけて、雄介は慌てて後を追った。 ◇ 正門から見て右奥の部分に近づくにつれ、少しずつ気配が不穏な ものになってきた。 ところどころに、ゾンビの死体が目につくようになってきたのだ。 中には自衛隊の制服を着ているものもある。小銃の薬莢もあちこち に転がっていた。 女の子はそれらに目もくれず、一点を目指して走っている。先ほ どよりも距離は縮まっているが、まだ手は届かない。フィールドバ ッグの重さが肩に食い込む。 ︵俺もバックパックとかにしないと駄目だなー⋮⋮︶ 409 そんな益体もないことを考えているうちに、隊舎の区画に入って いた。市営住宅のような雰囲気の、四階建ての建物が並んでいる。 このあたりでも激戦があったようだ。死体の数が格段に増えている。 そんな隊舎の一つに、女の子が姿を消した。入り口のガラスドア は開いたままで、生け垣には若い自衛官の死体が引っかかっている。 小銃をスリングで肩にかけたまま、目を見開いて虚空を見つめてい た。それを目の端に留めながら、雄介も女の子の後を追って飛びこ む。 足音をたどって上階に上がるうちに、階段を塞ぐバリケードにぶ つかった。立てられたベッドやロッカー、椅子などで塞がれている。 女の子は階段の手すりに器用に跳び乗り、駆け上がっていく。そ のままバリケードの上に潜り込むようにして、姿を消した。床に着 地した足音が遠ざかる。 ︵猿かよ⋮⋮︶ 踊り場に転がるゾンビの死体にうんざりしながら、雄介も不器用 にバランスを取って、手すりを登る。バリケードを崩さないよう苦 労して、体を向こう側に降ろした。 視線を上げると、正面の壁に男が座っていた。 年かさの自衛官の死体だ。 血で汚れた銃剣付きの小銃を胸に抱え、両足を床に投げ出し、白 髪まじりの頭をうなだれている。 戦闘装備なのか、胴体は迷彩色のポーチや弾帯、ハーネスで膨れ あがっていた。腕には血のにじんだ包帯が巻かれている。近くには、 ゴーグル付きの迷彩ヘルメットも転がっている。小銃のマガジンと 薬莢、拳銃も。 この場所を守っていて力尽きた、というような光景だ。 年配なことから、高位の自衛官だったのかもしれない。 410 ︵⋮⋮⋮⋮︶ ひと通り観察を終えると、女の子の向かった方向に歩きだす。 建物の内装は白を基調としていて、どことなく病院のような雰囲 気だった。ただ、部屋の中は荒れていた。避難民の使っていたもの か、食器や衣服がベッドの周りに散らばっている。 死体もいくつもあった。 刺殺、あるいは銃殺されたゾンビ。そんな光景が、多くの部屋で 広がっていた。 ︵うーん⋮⋮︶ やはり、避難民からゾンビ禍が発生したのかもしれない。自衛隊 側は建物の中のゾンビを始末したあと、階段にバリケードを作って、 それ以上の侵入を防いだのだろう。 ふいに、酸っぱいような臭いが鼻についた。膿んだような臭いだ。 臭いの元を探して、いくつめかの部屋に入ったとき、足に衝撃を 受けた。 ﹁い⋮⋮ってえ!﹂ 足に、先ほどの女の子が噛みついていた。反射的に振りほどくと、 女の子は転がりながら距離を取って、こちらに向き直った。 髪もコートもボロボロだが、目だけが爛々と輝いている。手負い の獣のような雰囲気だ。 雄介はなるべくゆっくりとした動きで、足の具合を確かめた。服 に歯形はついているが、大したことはない。それを確認すると、女 の子に顔を向け、 411 ﹁⋮⋮落ちつけって、襲ったりしねーから﹂ 声をかけたとたん、飛びかかられた。腰のあたりから体を殴りつ つ、上によじ登ろうとしてくる。引き剥がそうとするが、器用に体 を曲げながら、こちらを蹴りつけてくる。 ﹁おい、落ちつけ⋮⋮落ちつ⋮⋮、やめろコラ!﹂ 脇と首根っこを掴んで、女の子を眼前に引きずり上げる。 ﹁フー!!﹂ 顔を近づけ、歯茎を剥き出しにして威嚇する雄介。 女の子はびくりと震え、目をまん丸にして硬直した。 驚いた野良猫のような表情だった。 ﹁⋮⋮喰ったりしねーから、話聞け﹂ 床に降ろすと、女の子は壁ぎわまで一目散に逃げていった。 ︵なんなんだよ⋮⋮︶ 気を取り直して、部屋に目をやる。臭いの元はここのようだ。排 泄物と吐瀉物の臭いだ。 奥のベッドに、もう一人の子供が寝ていた。 ﹁おいマジか﹂ その姿を見て、思わず歩み寄る。 五、六歳ぐらいの男の子。見覚えがある。少し前にヘリで市役所 412 から駐屯地に搬送された、深月の弟、隆司だ。 くしゃくしゃのシーツと毛布にくるまり、横になっている。口元 に近いベッドにはタオルが敷かれ、生乾きの吐瀉物で汚れていた。 意識はないようだ。 ﹁おい⋮⋮﹂ 起こすべきか迷っていると、足に圧迫を感じた。視線を下ろせば、 雄介が邪魔だとでもいうように、女の子が手で足をどけようとして いた。 逆らわずに場所を譲ると、女の子はベッドによじ登り、小さなマ グカップにミネラルウォーターのボトルを注ぎはじめた。ベッドの 汚れたタオルを交換したあと、隆司の口元にマグカップを近づけ、 軽く肩をゆする。 ゆっくりと隆司の目が開く。 水気を感じたのか、隆司はかすかに身動きして、マグカップに口 をつけた。喉が何度か動き、力尽きたように、再び横になる。 隆司が落ちついたのを確認すると、女の子は半分ほど残ったマグ カップを両手で抱えて、大事そうにちびちびと飲みはじめた。 それらの光景を、雄介は言葉もなくながめていた。 他に生存者の気配はない。 子供二人だけで、この状況にいたらしい。 ︵⋮⋮よく生きてたもんだ⋮⋮︶ 壁によりかかりながら嘆息する。 階段のところで見かけた、年かさの自衛官に助けられたのかもし れない。それにしても、この混乱は昨日今日のものではないだろう。 床には女の子のリュックとともに、食堂から取ってきたらしい水 や固形食料が置かれている。ゾンビのうろつく駐屯地の中を、この 413 女の子がサバイバルしていたらしい。 大したものだと思うべきなのか、世の不幸を嘆くべきなのか。 複雑な気分で身を起こし、フィールドバッグのところに戻る。 血で汚れたグローブを脱ぎ、後で洗うためにビニール袋にしまう。 バッグの奥から甘く味付けされたカロリードリンクと、ミルクの 飴玉の袋を取り出した。缶のプルタブを開けて押しつけると、女の 子は反射的に受けとった。飴玉の袋をひっくり返してベッドの上に ばらまくと、そちらに女の子の目は釘付けになった。 ﹁やるよ﹂ その声に、隆司が目を開ける。こちらを目にして、両目をゆっく りと見開く。 雄介はなんと言ったものか悩み、一言だけ言った。 ﹁帰るぞ﹂ 隆司はしばらく戸惑っていたようだったが、かすかに笑みを浮か べて、うなずいた。ふいに、気遣うような視線が横に走った。 視線の先にいた女の子は、無言でこちらをながめている。 ﹁お前も来いよ﹂ 返事はなかったが、雄介は特に言葉を重ねることもなく、撤収準 備に入った。 ◇ 子供二人となると、バイクで連れ帰るわけにもいかない。 基地周辺の放置車両はすべてガソリンが抜かれていたので、自衛 414 隊の脱出地点である倉庫街まで行って、車を見つくろった。バイク ですり抜けてきた道を逆行するので、あまり大型の車は選べない。 車幅と防御の兼ね合いで、小型のワンボックスを選択した。軍用 車にも興味は惹かれるが、操作の不安があるし、大型すぎて途中で 詰まる可能性がある。 バイクは名残惜しいが、置いていくしかない。 倉庫街の車からガソリンをかき集め、駐屯地に戻って子供たちを 拾う。 最初は駐屯地の物資も集めるつもりだったが、隆司の体調のこと が気にかかる。自衛隊に保護されていたときに薬は処方されていた ようで、カプセルや粉薬の入ったビニール袋を持っていたが、素人 目にもあまり良い状態には見えなかった。なるべく早く牧浦に見せ るべきだろう。 医務室の薬品や器材を適当にさらい、小銃や装備をいくつか死体 から回収する。弾薬はほとんど残っていなかった。マガジンにして 二つ分ぐらいだ。武器庫なり備品庫なりあるはずだが、そちらは次 の機会にした。バイクも回収したいので、もう一度来る必要がある。 ひと通り終わると、ようやく駐屯地を出発した。 日はとっくに中天を通りすぎ、傾きはじめている。暗くなるまで に帰れるかは微妙なところだ。 バックミラーの中では、横になる隆司に寄り添うようにして、女 の子が無表情に窓の外をながめていた。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ あの年かさの自衛官のことを思いだす。 腕の怪我はゾンビに噛まれたものだったのか、死因は自刃だった。 隆司を下におろすとき、顔見知りだとまずいと思い、自衛官の死 体を隠しておいた。その場を通ったときのことだ。 女の子がふいに、強い視線を向けてきた。悲惨なものを見せまい 415 とするこちらの意図を見透かしたかのような、冷え冷えとした瞳だ った。 ︵ガキのくせになんつー目をしやがる⋮⋮︶ この子供はずっと、あの死体の横を通っていた。さらには同い年 の子供である隆司を助けるために、一人で水や食料を求めて、ゾン ビのうろつく駐屯地を闊歩していたのだ。 ︵世も末だよなー︶ 雄介はため息をつき、なるべく車を揺らさないようにしながら、 市役所へと向かった。 416 40﹁吐露﹂ 駐屯地から市役所にたどりつくころには、時刻も夜半をまわって いた。 消灯された市庁舎の中で、医務室だけは煌々と明かりがともって いる。白衣の牧浦が、診察台に寝かされた隆司を診ていたが、その 表情はかんばしくなかった。 控室に移動してから、雄介は小声で聞いた。 ﹁大丈夫なのか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦は無言で首を振った。 ﹁処方されていたものは抗菌薬ですが、薬で散らせていません。重 篤化しかけています。手術が必要です﹂ ﹁手術か⋮⋮﹂ ﹁体の負担になりますし、感染症の危険もありますから、まず服薬 で様子を見ようとしたのでしょうが⋮⋮﹂ 平静な環境なら薬で持ち直したかもしれないが、あの混乱の中だ。 体力も免疫力も低下していただろう。 話がとぎれ、沈黙がおりる。 牧浦が、目を合わせずにつぶやいた。 ﹁向こうは⋮⋮駄目だったんですか?﹂ 駐屯地のことだ。急患の隆司を診ることを優先したため、それま 417 で後回しにしていた話題だった。 雄介は、なるべく悲観的に聞こえないよう気をつけながら、 ﹁いや、何かトラブルが起きて⋮⋮まあ、ゾンビなんだが、それを 避けるために、移動した感じだった。全滅したような雰囲気じゃな い。避難民もかなりついてってると思う。駐屯地にいたら守りきれ ないって判断したのかもな。行き先はわからん。ガキどもが落ちつ いたら、そっちから聞いてくれ﹂ それらの言葉を、牧浦はじっと聞いていた。 しばらくして、 ﹁いつごろ救助が来ると思いますか?﹂ 雄介は宙をながめながら言葉を選んだが、その間だけで十分に伝 わったようだ。 牧浦の顔がうつむき、前髪に目が隠れる。伸びた髪は綺麗にとか されてはいるが、肩にかかって少し跳ねていて、それを手櫛で直し ながら、ぼんやりと考え事をしているようだった。 ﹁あー、詳しい話は、明日の朝のミーティングで報告する。手術は できる⋮⋮よな? 必要な物があったら教えてくれ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ うつむいたままで、返事はない。 雄介は言葉を続けようとしたが、それは部屋に響いたノックの音 に遮られた。 診察室に入ってきたのは、知らせを受けて駆けつけた深月だった。 後ろには、深月の彼氏と名乗っていた高校生の男もいる。 418 ﹁あ⋮⋮﹂ 深月と目が合った。 驚いたように硬直している。 ︵⋮⋮ちょっと痩せたか?︶ そんなことを思いながら、雄介は声をかけた。 ﹁よう﹂ ﹁⋮⋮、は、はい。⋮⋮お久しぶりです⋮⋮﹂ 深月は震える声で、やっとそれだけを言った。 会話は続かず、気まずい沈黙が流れる。 深月は我に返ったように視線を外し、横になっている隆司に駆け 寄った。 あとに残された高校生の男が、隆司の姿を見て茫然とつぶやく。 ﹁なんで隆司がここに⋮⋮ヘリで助けられたんじゃ﹂ 雄介は仕方なく答えた。 ﹁駐屯地を見に行ったんだが、まずいことになってたから連れ帰っ た。周りにはまだ喋んなよ﹂ 自衛隊のヘリに乗せられた隆司の姿は、大勢の人間が見ている。 その隆司が市役所に戻ってきたのだから、何かあったと勘繰られる のは時間の問題だ。駐屯地での出来事は、隠し通せることではない だろう。 診察台にすがりつき、小さなその手を両手で包むように握りしめ 419 る深月に、隆司はかすかに首を起こした。痛みに耐えながら笑みを 見せる隆司に、 ﹁たっくん⋮⋮﹂ 深月の両目に、みるみる涙が溜まる。 ﹁一人にしてごめんね⋮⋮﹂ ﹁ううん。お兄ちゃんが⋮⋮﹂ 隆司がかすかに答える。 深月は感に堪えかねたようにうなずき、うるんだ瞳でこちらを見 上げ、 ﹁ありがとう、ございました⋮⋮﹂ 高校生の男も、状況を把握したのか、複雑な表情のまま頭を下げ る。 雄介はそれらに手を振り、 ﹁たまたま拾っただけだ。向こうで隆司の面倒を見てたのはそいつ な。そいつがいなかったらヤバかった。感謝ならそっちにしとけ﹂ 話を振られた女の子が、迷惑そうにこちらを見る。 医務室に入ってからこちら、周囲の注目を避けようとするように、 ずっと部屋のすみで立っていた。今は大勢の視線を受けて、逃げ場 を探すかのように、落ちつかない挙動を見せている。 ﹁あっ、あのね⋮⋮ありがとう。本当に⋮⋮﹂ 420 正面に来て、膝を折って語りかける深月の言葉に、女の子は根負 けしたように、小さくうなずいた。 そんな女の子の姿を見て、 ︵そういや、こいつの事も考えねーと⋮⋮︶ 身体検査などは済ませているが、一人で放り出すわけにもいかな い。隆司との関係を考えても、一緒にいさせるのが一番だろう。 ﹁み⋮⋮﹂ 深月、と呼びかけて口ごもる。 隣に彼氏がいるのだ。気をつかうというより、面倒事を避ける気 持ちで言いなおした。 ﹁藤野、そいつの面倒を任せていいか?﹂ ﹁え⋮⋮﹂ 戸惑ったような声が返る。 深月は視線を落とし、一瞬だけ表情を隠したあと、顔を上げた。 ﹁⋮⋮はい。任せてください﹂ 何かを諦めたような、寂しげな笑みでうなずいた。 その様子が気にはなったが、雄介はとりあえず話を続けた。 ﹁頼りになるから隆司の看病に使え。お前もわかんねーことあった ら聞けよ﹂ 後半は女の子に当てての言葉だ。じろりとこちらを見上げるだけ 421 で、返事はない。 高校生の男が、具合の悪そうな隆司を見て、不安げに言った。 ﹁あの、先生、隆司は大丈夫なんでしょうか?﹂ 牧浦はずっと続けていた沈黙を破って、にっこりと笑った。 ﹁心配はいりません。安心してください﹂ ﹁⋮⋮そうですか⋮⋮﹂ 男はほっと息を吐く。 牧浦の笑顔は、人を安心させる暖かさに満ちたもので、その横顔 を、雄介は無言でながめていた。 ◇ 翌日のミーティングでは、案の定、駐屯地の写真が役に立った。 デジカメのモニターに映した光景を、会議室の面々が順番に回して いく。みな沈痛な面持ちで、それをながめていた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ひと通り目を通し終わると、誰からともなくため息が漏れた。 ﹁まいったな⋮⋮﹂ 物流センターで同行した中年の男、調達班リーダーの社長が、額 を押さえながらつぶやく。 他には誰も喋ろうとしない。何を話していいかわからないのだ。 422 ﹁本当に行き先はわからないのか?﹂ 向けられた質問に、 ﹁河を使って移動してる。見当もつかない﹂ 雄介は短く答える。 報告者として、雄介は会議室の椅子の一つに座っていた。遠い対 面には、牧浦と、会長の水橋も座っている。 牧浦はモニターの光景を見てからこちら、無言で両手を組み、ず っとテーブルに視線を落としていた。心ここにあらずといった様子 だ。 牧浦がそんな調子であるから、他の人間も暗くならざるを得ない。 じきに来ると思っていた救助がなくなったのだ。希望を見つけづら い状況だった。 会長の水橋が音頭を取り、ひとまず他の議題にうつる。各班の報 告や、作業の承認が、事務的に進められていく。暗い空気を払拭で きないまま、時間だけが流れていった。 議題がつきると、再び重苦しい沈黙がたちこめる。 ふいに、メンバーの一人が名案を思いついたように言った。 ﹁武村さんに、自衛隊の行き先を探ってもらうというのは? ある いは、他の安全な場所を見つけてもらうか。一人で基地まで行ける なら、他の場所も大丈夫かも⋮⋮﹂ 雄介が答える前に、牧浦が反応した。 ﹁危険です﹂ ゆっくりと顔を上げて、淡々と話しはじめる。 423 ﹁いくら武村さんでも、単独での行動では、何が起こるかわかりま せん。目的地が決まっているならともかく、その必要がない限り、 外に出るのは最小限にすべきです﹂ ﹁⋮⋮しかし、このままではどうしようも﹂ 別の男から、苛立ったような声が漏れる。珍しい反応だった。牧 浦の統制が効かなくなってきている。 ﹁そもそもここで救助を待っていたのが間違いだったんじゃないか ? 向こうの場所はわかっていたんだ。早めに移動していれば⋮⋮﹂ ﹁多少の犠牲はあっても、合流できていたかもしれないな。ここに 取り残されることもなかったかも⋮⋮﹂ 水橋のとりなしも効かず、議論が沸騰しかける。 社長が手を上げてそれを遮り、こちらに話を振ってきた。 ﹁そのへんどうなんだ? 現場を見た人間としては、移動できたと 思うか?﹂ 雄介は少し考えこみ、答えた。 ﹁⋮⋮無理だろうな。市街地が長すぎる。最初は二、三匹のゾンビ でも、そいつらをすぐ始末できないと、音にひかれて際限なく寄っ てくる。調達班の人間が、今の五、六倍はいないと辛いんじゃない か。女子供もいるし⋮⋮まあ半分は死ぬな﹂ 雄介の言葉に、冷や水を浴びせられたように沈黙が広がる。 社長は軽くうなずき、周囲に聞かせるように言った。 424 ﹁ま、今さらどうしようもないことです。それより、これからのこ とを考えましょうや﹂ と言っても、案を出せる者もいない。 方針も決まらず、時間だけが流れていく。 会議を切りあげる時間になり、うつむいていた牧浦が口を開いた。 ﹁⋮⋮幸いなことに今は安定していますから、自衛隊からの連絡を 待とうと思います。調達班の方々には苦労をおかけしますが⋮⋮﹂ ﹁ああ、そこは任せてください。月に一、二度ぐらいの出動なら、 準備にも時間をさけますしな﹂ ﹁よろしくお願いします﹂ 社長の鷹揚とした言葉に、牧浦は深々と頭を下げる。 全員が納得したとは言いがたい雰囲気だったが、それでひとまず 会議は終わった。 ◇ メンバーが退出していく中、雄介は、話があると言って社長を呼 び止めた。 会議室からひとけがなくなると、社長は再び腰を下ろしながら、 雄介に視線を向ける。 ﹁で、なんだ? 話って﹂ 雄介はバッグからバインダーを取り出し、机に置いたそれを開き ながら言った。 ﹁野外センターに移動するべきだと思う﹂ 425 ﹁野外センター?﹂ ﹁これを見てくれ﹂ 手渡したのは、この市の野外活動センターの紹介を載せたパンフ レットで、以前に庁舎内の観光課で見つけたものだ。 受けとった社長は、興味深そうにページをめくっていく。 ひと通り目を通したのを確認して、雄介は話しはじめた。 ﹁見ての通り、ここの人間はかるく収容できる。街からもけっこう 離れてる。ロッジもキャンプ場も水場もある。機械も道具も。少な いが食料も運びこんである﹂ 社長の視線が上がる。いぶかしげな表情だった。雄介の言葉には、 パンフレットを見ただけではない、それ以上の情報が含まれている。 その疑問に答えるように、雄介は言った。 ﹁ここに来る前の話だけど、個人的に使おうと思ってた場所なんだ よ。自給自足のための物は、それなりに揃えてある﹂ 社長は軽くうなずくが、その内心に様々な疑問が浮かんでいるの は見てとれた。混乱した状況の中で、単独でそれだけの準備をした ということに違和感を感じているのだろう。 雄介としても明かすべきか悩むところではあったが、これからの 提案には、センターが安全で、大勢の人間が暮らせる設備があり、 それを自分が確認している、という前提が必要だった。 社長はひとまず疑問を飲みこんだようで、何事もないように話を 戻した。 ﹁しかし、ずいぶん唐突だな。さっきは危険だと言ってただろう? なんで移動するべきだと思うんだ? わざわざここを離れる理由 426 は?﹂ ﹁春になったら、またゾンビが外をうろつきはじめるかもしれない﹂ その可能性については社長も頭にあったのか、特に動揺した様子 も見せず、ふむ、と顎をさすった。 雄介は言葉を続ける。 ﹁ゾンビたちが屋内に引っこんでる理由はわかんねーけど、とにか く寒くなってからだった。それなら春には路上に戻ってくるかもし れない。そうなると、街からの食料集めは厳しくなる。ここに閉じ こもってたら、次の冬まで持たない﹂ 雄介一人で食料を支えることはできないし、するつもりもない。 この集団には自活してもらう必要がある。 社長は腕組みをし、渋い顔をして、しばらく考えこむ様子を見せ た。 ﹁考えたくはないが⋮⋮﹂ 暗い声音で、 ﹁確かに、もう救助が来ない可能性もあるな。そこにゾンビたちが 出てきたら飢え死にか。なるほどな。なんでさっきの会議で言わな かった?﹂ ﹁あんたらに話を通すのが筋かなと思ってさ。山に全員を移動させ るとなると、まず先遣隊を出して、山までのルートを確保しないと いけないが、その仕事はどうせ調達班にまわってくる。あんたらが 駄目だと言ったら、移動は無理だ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 427 先遣隊は、本隊を移動させられるかの判断を行う、一番危険な役 割だ。それを担う人間が嫌だと言えば、他の人間をいくら納得させ ても無駄骨だ。 ただ、雄介の本音のところは、会議であれ以上妙なことを言って 目立ちたくなかったというのが大きい。 自分の、ゾンビに襲われないという特性を考えても、とにかく目 立っていいことはない。バレたら厄介なことになる。そう思ってな るべく大人しくしていたが、救助が遠のいたことで、そうも言って いられなくなった。 そこで次善の策として、社長のグループを隠れみのにするつもり だった。物流センターでも同行していて、それなりに仲間意識を持 たれている。運営委員会の中で悪目立ちするよりは、よほどマシだ ろう。 社長が顔を上げ、質問を発した。 ﹁仮に、その野外センターに移ったとしても、食料の問題は変わら ないんじゃないか?﹂ ﹁種になりそうな作物は運びこんである。体験用の畑もあるんだ。 それを広げて死ぬ気で農業やるしかないな。駄目なら終わりだ﹂ ﹁農業ときたか⋮⋮﹂ 社長はあごをなでながら、苦笑いを浮かべる。信じがたい状況に いることを改めて実感した、というような表情だった。 雄介は話を続けた。 ﹁⋮⋮まあ、食料調達も、ここよりはやりやすいんじゃないか? 山の上を移動して、ふもとでゾンビの少ないところを探せばいい。 このままここにいると、完全に身動きできなくなる﹂ ﹁確かにな。ここは街のど真ん中だ﹂ 428 社長はパンフレットを眺めながら、茶化すように言った。 ﹁⋮⋮もしゾンビが出てこなくても、移動しておいて損はないかも なぁ。このパンフレットで見る限り、暮らす場所としては向こうの 方が良さそうだ。村でも作ってみるか?﹂ 雄介は肩をすくめる。 ﹁前に見たときは、奥の造成中の場所に重機もあった。使えるんな ら使ってくれ﹂ 以前、街中のゴミをダンプで捨てにいった場所だ。 社長の目が好奇心に輝く。 ﹁バックホーか?﹂ ﹁名前はわからないけど⋮⋮ショベルカーっぽいのはあったかな﹂ ﹁ああ、それだ。そうか⋮⋮。重機があれば、かなりのことができ るな﹂ 社長の目が空をにらむ。野外センターの改造案について、考えて いるのかもしれない。 やがて、視線が戻ってきた。目の前の問題から片づけることにし たようだ。 ﹁さっきの話に戻るが、ルート確保が難題だな。かなり離れてる。 安全に移動できるのか?﹂ ﹁河を使うことを考えてる。地図を見てくれ﹂ テーブルに広げた地図の地形を、指で示す。市役所のそばを流れ る河が、山のふもとまで向かっている。 429 ﹁船で移動して、安全に上陸できる場所を探す。そこから野外セン ターまでなら家屋も少ない。先遣隊でルートを確保して、向こうを 整備する。連絡は無線で。受け入れ態勢が整ったら、こっちの人間 を順に移動する。救助を期待するなら、こっちでぎりぎりまで待っ てもいい。来なかったら移動をはじめる。山に移動したってことは わかるようにしてな﹂ ﹁船はどうするんだ?﹂ ﹁それはこっちで探す。近場で見つかるよう祈ってくれよ﹂ その言葉に、社長は男臭い笑みを浮かべた。 ﹁そっちでも危険は引き受けるってわけか⋮⋮。よし、いいだろう。 佐々木も入れる。プランを煮詰めて会議に出そう。実行するかはと もかく、選択肢は多い方がいい﹂ 社長の言葉に、雄介は無表情にうなずいた。 勝手に勘違いをしてくれるならそれでいい。雄介はただ船を探し てくるだけだ。細々としたことは市役所の人間にさせるつもりだっ た。 大学キャンパスで見かけたゾンビの知性体のことが、ふっと頭を かすめた。 ︵話すべきかな⋮⋮いや︶ 知性体を脅威に感じているのは、普通のゾンビには襲われない雄 介だからで、他の人間にとってはどのみち危険に変わりない。髑髏 男は脅威だが、あれは元が警官だからだろう。身体能力が桁違いに あるわけではない。 たとえ知性体の存在を明かしたところで、対策も立てづらい。ど 430 の程度の知恵が働くのかも不明だ。 そしてこちらは、なぜそんなことを知っているのかと、痛くもな い腹を探られることになる。処刑の光景を映したテープがあれば話 は早いのだが、キャンパスには近づきたくなかった。 それに、脅威を高く見積もられて、野外センターへの移動に及び 腰になられても困る。 もしこの市庁舎が襲われたとしても、こちらの方がはるかに数が 多いのだ。全滅することはないだろう。群れをなしたインパラのよ うに、防衛に立っている外側の個体が喰われるだけだ。 むしろ、街に出る先遣隊の方が襲われる確率は高い。雄介として は、そちらの方が都合がよかった。 調達班の戦闘力は高い。犠牲の二、三人で、向こうの数を減らせ るかもしれない。それがリーダーの社長以外であれば御の字という ところだ。なんなら小銃の一つを提供してもいい。元自衛官の佐々 木なら使えるだろう。 ︵こっちも撃ち方を教えてもらえるしな⋮⋮︶ 二丁のうち一丁との交換条件なら、拒否はされないだろう。武力 を渡すことへの懸念はなくもないが、囮にするのだから、戦闘力は 高めておきたい。 そんなことを考えながら、雄介は口を開いた。 ﹁ゾンビのことなんだが﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁駐屯地に向かう途中で、変な奴を見かけた。他のゾンビと違って、 道路上をうろついてた。こっちには気づかなかったが、棒切れを持 って武器にもしてた。外に出るときは、そういう奴もいるってこと を頭に入れといてくれ﹂ ﹁ふん⋮⋮? わかった。気をつけよう﹂ 431 それでひとまず会話は終わった。 ◇ 佐々木を交えた計画の相談が長引き、医務室に向かったのは夜も ふけてからになった。 手術の件がどうなったか確認しようと、扉をノックするが、返事 はない。 ︵寝てるのか? にしては電気が⋮⋮︶ 扉を開け、明るいままの医務室に入る。 中は無人だった。 人の出入りが多いので、隆司はすでに別の部屋に移されている。 控室への扉がわずかに開いていたので、軽くノックしてから、中 をのぞく。 暗い室内に、キャビネットや作業机、小さな冷蔵庫の輪郭が溶け ている。奥には、畳まれた毛布と雑貨類に、マットもあった。人の 気配はない。 ︵出直すか⋮⋮︶ きびすを返そうとして、ふと、作業机に目が留まった。 ノートや書類に混じって、空の包装シートがいくつも転がってい た。シルエットに見覚えがある。駐屯地に行く前、牧浦のカウンセ リング時に見かけた物と同じだった。 そのうち一つを手に取り、扉から差しこむ光に照らして、ながめ てみる。カプセルではなく錠剤のようで、銀色のシートには、雄介 になじみのない名前がカタカナで書かれていた。 432 ︵確か、睡眠薬って言ってたけど⋮⋮︶ その量に、雄介は不審を覚えた。 あたりを見まわし、キャビネットの中に整理された医薬品類を見 て、雄介は考えこむ。ここにある薬のほとんどは、自衛隊からの支 援物資だろう。医者がいるということで、種類も多めに提供されて いたのかもしれないが。 ︵緊急の支援物資に睡眠薬を入れるなんてタルいこと、自衛隊がす るか? ⋮⋮これどっから持ってきた? そもそも本当に睡眠薬な のか? ヤバい薬じゃないだろうな︶ たまたま市庁舎にあった医薬品をかき集めたのかもしれないが、 それにしても違和感がある。睡眠薬はベッドサイドに置くようなた ぐいの物で、私物としても、大量に持ち歩くものではない。 ︵それとも、医者だと常備するもんなのかな⋮⋮夜勤とかあるだろ うけど︶ 幸い、薬の名前はわかっている。薬剤事典でもないかと、ゆっく り控室の中に目を凝らしていると、キャビネットの中に見慣れない ものを見つけた。 口の部分だけ切ったペットボトルとゴム袋、チューブを、ビニー ルテープで加工してつなぎ合わせた、異様な物体だった。 ︵なんだこりゃ︶ キャビネットに鍵はかかっていなかった。手に取り、慎重に触っ てみる。作成途中らしいが、ポンプのような動きで、ゴム袋が膨ら 433 む仕組みになっていた。 しばらく動きを観察していて、思いあたった。不格好ではあるが、 手動の人工呼吸器だ。よく見れば、似たような手製の医療器具が他 にも置いてあった。ガラス瓶に注射器を連結したような、用途不明 の物もある。 ︵自作してるのか⋮⋮。こういうのも持ってくれば良かったかな︶ 駐屯地からは、目についた薬の箱を適当に持ってきていた。器具 はかさばるし使い方のわからないものが多く、敬遠していた。 人工呼吸器を戻し、視線を他に移す。 デスクの上には、いくつものノートやバインダーが散乱していた。 いくつか手に取り、ぱらぱらと眺めてみる。 薬剤類の備品リストもあったが、名前だけで詳細は書かれていな かった。インフルエンザ対策の、救護班への指示書や、覚え書きな どもある。他はだいたいが市庁舎の人間のカルテで、カウンセリン グで聞き出したらしい既往歴などの問診票と一緒に、五十音順でま とめられていた。 適当に目を通していると、ノートの一つに、隆司の治療計画書を 見つけた。ところどころに日本語以外の単語や図も混じりながら、 走り書きで数十ページに渡って丹念に検討されている。その中で、 必要な物品がまったく足りていないのはわかった。乱れた筆跡に、 牧浦の苦悩の跡がかいま見えるようだった。 ノートを閉じ、雄介はため息をついた。 牧浦の、医者としての懸命な努力を見て、家捜しのような真似を している自分がきまり悪くなった。 ︵⋮⋮薬なんてどうでもいいか⋮⋮戻しとこ︶ そのとき、不意に声をかけられた。 434 ﹁何かお探しですか⋮⋮?﹂ かすれたその声に、雄介はびくりと振り向いた。 今まで無人と思っていた控室の、奥から、その声は聞こえた。 声のした辺り、キャビネットの暗がりに視線をやると、白く細い 手がかすかに見えた。床に広がるスカートの影も。 牧浦だった。物陰に座りこんでいたらしい。 ︵おいおいおい⋮⋮ずっと居たのかよ︶ 雄介はしばらく硬直していたが、ゆっくりとノートを机に置き、 ﹁すまん。ノックしたけど反応がなかったんで⋮⋮。隆司の手術が どうなってるか、聞きにきたんだが﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あんた、大丈夫か?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 返事は返ってこない。 不審に思って歩み寄る。 まわりこんだ先で目に入ったのは、完全に脱力して壁にもたれか かる牧浦の姿だった。白衣はまとっていない。セーターとロングス カートの私服姿で、横顔は髪に隠され、表情はうかがえない。 ﹁⋮⋮おい?﹂ 座りこむ牧浦の足元に、中身の減った注射器が無造作に転がって いた。 435 ﹁⋮⋮あんた⋮⋮﹂ 雄介が絶句していると、牧浦が口元だけでくすりと笑った。 ﹁⋮⋮ただの鎮静剤です⋮⋮。少し、待ってください⋮⋮すぐ、起 きますので⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ぼんやりとささやく牧浦を横目に、雄介は床にかがみこみ、注射 器を手に取った。光にかざして目をこらす。 シリンジには薬剤名や、使用上の注意などが書かれている。最初 から薬剤を封入した状態で使う、専用の注射器らしい。針にはキャ ップがついていて、乳白色の液体が七割ほど残っていた。 ﹁なんか⋮⋮劇薬とか書いてるんだが﹂ ﹁そうですね⋮⋮﹂ ﹁本当に大丈夫なのか?﹂ ﹁医者ですから⋮⋮。限度は⋮⋮わきまえています﹂ だんだんと応答がはっきりしてくる。 鎮静剤、いわゆる意識を落とす薬を、睡眠薬代わりに使っていた らしい。 雄介はため息をつき、注射器を戻した。 ﹁⋮⋮わかった。俺がどうこう言うことじゃないな。好きにしてく れ。それはいいけど、隆司の手術はいけそうか?﹂ 答えはない。 雄介は焦れたように、 436 ﹁⋮⋮あのさ、必要なものがあるなら取ってくる。準備もあるし、 なるべく早く教えてほしいんだが﹂ 牧浦はゆっくりと顔を上げた。眠たげなその表情は、いっそ優し げですらあった。 ﹁手術はできません⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ 牧浦はささやくように言った。 ﹁いろいろと検討はしてみましたが⋮⋮リスクが高すぎます。エコ ーもCTも⋮⋮検査も何も。炎症反応さえ見れていない。お腹を開 いて、別の原因が見つかったらどうするんですか⋮⋮? こんな、 何もないところで? 万が一、大量出血をしたら? 感染症が起き たら? 合併症への対処は?﹂ 面食らっている雄介の顔を見上げながら、牧浦はか細い、震える 声で続けた。 ﹁私は、災害派遣の医師じゃない。ベテランでもない。大学病院に いたんです。知識はありますし、機材の使い方もわかります。手術 室での振るまいなら身につけています。でも、資料もなしに、間に 合わせの環境と道具で手術をするような、そんな訓練は受けていま せん。経験もありません⋮⋮。無理です⋮⋮﹂ 言葉がとぎれる。 牧浦はうつむき、床をじっと見つめている。 しばらくその場を沈黙が支配した。 雄介は机に腰かけ、牧浦の言葉の意味するところをじっと考えて 437 いたが、やがて口を開いた。 ﹁⋮⋮たとえば、このままあいつを放置して、良くなる可能性はあ るのか? 手術しなくても死ぬことはないのか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦はうつむいたまま、目を合わせようとしない。 答えは明白だった。 ﹁⋮⋮ならやるしかねーだろ﹂ 雄介のつぶやきに、牧浦はぼんやりとした表情で、床の鎮静剤を 手に取る。 手の平のそれをながめながら、口を開いた。 ﹁⋮⋮私に何を求めているんです? 強いリーダー? 有能な医師 ?﹂ 呪詛のように、言葉が漏れ出す。 ﹁⋮⋮私が普段、どんな気持ちであの椅子に座っているか、わかり ますか⋮⋮? お願いだから怪我人も病人も来ないでと、それだけ を祈ってるんです。今の私には、手に余ることの方が多いから。で も、そんなこと言えません。笑顔で周りを安心させるのが、私の務 めで、まわりに期待されていることだから。⋮⋮手さぐりで、ずっ とやってきました。せめて救助が来るまでは、みなさんの支えにな ろうと思って。でも、それも、もう⋮⋮﹂ 言葉が震え、とぎれた。 牧浦は手で顔を覆い、涙声で言った。 438 ﹁ごめんなさい⋮⋮。失望させて、すみません⋮⋮。でも、恐いん です。殺してしまうのが⋮⋮。藤野さんの前で、あの子の埋葬をす るのが﹂ 吐露されたその言葉に、雄介は沈黙した。 出会ったころの記憶を思いだす。老人の埋葬のときですら、家族 の目を見られず、木陰のベンチに独りでいた牧浦の姿。思えば、あ のときからずっと、いろんなものに怯えていたのかもしれない。 その牧浦は今、鎮静剤をお守りのように握りしめ、震えている。 リーダーとしての重圧、救助の来ない現実、治療できない子供、 そういったものに押しつぶされたかのような姿だった。医師として の姿はどこにもない。震える若い女がいるだけだ。 ︵無理してたのはわかってたけど、ここまでか⋮⋮︶ 手術ができないというのも、精神的なものの方が大きいのだろう。 救助が来るまではと耐えていたものが、折れてしまったのだ。 ︵かといって⋮⋮︶ 隆司の怪我には、雄介も負い目がある。医者がいないならともか く、目の前にいるのだ。簡単に諦められるものでもなかった。 雄介はしばらく無言でいたが、やがて机から立ち上がり、言った。 ﹁わかった。設備のある所ならできるか?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 戸惑う牧浦に、 439 ﹁適当な病院の手術室まで連れて行く。電気もどうにかする。それ ならどうだ?﹂ 突拍子もない冗談を聞いたかのように、牧浦の口元が引きつる。 ﹁何を⋮⋮無茶苦茶です﹂ ﹁無茶でもやるんだよ。いいから、近くで心当たりはないか?﹂ 牧浦は何か反論を口にしようとしていたが、ふいに、その動きが 止まった。 前髪に隠れた目はかすかに見開かれ、視線は、こちらではないど こか遠くを見ているように、茫然としている。忘れていた何かに気 づいたかのような、そんな表情だった。 ﹁⋮⋮何だ?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 怪訝に思った雄介にも答えず、床に視線を落とし、思いつめた表 情で考えこみはじめる。 しばらくして顔を上げると、こちらに尋ねてきた。 ﹁⋮⋮どうやって移動するんですか?﹂ ﹁工藤のとこのおっさんの⋮⋮調達班のリーダーにかけあって、車 を借りる。あれは防御が硬いし、隆司を担架ごと乗せられるからな。 途中でゾンビに絡まれても、あんたは何もしなくていい。全部俺が やる。病院の中の掃除も﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁俺とあんたと隆司の三人だ。委員会には知らせない。どうせ止め られるしな。夜のうちに出る﹂ 440 牧浦は唇を噛みしめながらそれらを聞いていたが、諦めたように 肩を落とした。 ﹁本当に、自信満々に言うんですね⋮⋮﹂ ﹁難しく考えるなって。あんたは手術のことだけ気にしてればいい。 どうだ? 行くか﹂ 少しの逡巡のあと、牧浦は密かな決意を固めたように、顔を上げ た。 ﹁もし、もしですけど⋮⋮、父の病院に行くことが、可能なら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮どこにあるんだ?﹂ ﹁そう遠くはありません。大学病院よりは近い⋮⋮勝手もわかりま す。以前に研修を受けたので、非常設備も使えます﹂ そこで言葉を切り、恥じるように目を伏せながら、 ﹁それに⋮⋮もしかしたらですけど⋮⋮、父がまだ生きていて、助 けてくれるかも⋮⋮﹂ すがるようにつぶやく牧浦に、雄介は言葉を挟まなかった。 その父とやらが生きている可能性は低いし、それは牧浦にもわか っているはずだが、もともと無謀とも言える行動だ。動く気になる なら何でも良かった。 ﹁⋮⋮じゃあ、親父さんに会いに行くか﹂ 言葉が耳に染み入るのを待つかのような、短い沈黙のあと、牧浦 はかすかにうなずいた。 441 41﹁トラウマ﹂ 病院への出発は、夜半過ぎになった。 地下駐車場を出たあと、橋のたもとで車が停止する。 雄介が窓を開け、見張りに許可証を見せる様子が、後ろからも見 えた。牧浦が書いたものだ。 隆司と一緒にバンに乗りこんだ牧浦は、後部座席で毛布にくるま って、身を隠していた。 自分を信頼している人たちを、その言葉で欺いている。 その自覚があった。 隆司を手術のために病院へと連れて行くことは、医務室に書き置 きとして残してある。戻るのが遅れれば騒ぎにはなるだろうが、行 方不明ということにはならないだろう。独断で動いた牧浦の信用は 失墜するが、子供の命には代えられない。 もし戻れなかったら⋮⋮ 牧浦はそれ以上、考えるのをやめた。 隆司の看病をしていた深月には、少し様子を見たいからといって 弟を引き取った。こちらを疑う様子など一片も見せず、よろしくお 願いしますという言葉だけが返ってきた。 そうして預かった子供を、自分は、死地へ連れていこうとしてい る。 ︵本当にこれで良かったの⋮⋮?︶ 迷いが浮かぶ。 ハンドルを握る雄介の姿には、緊張の様子はみじんも見えない。 市街地に入ったあと、牧浦はそっと身を起こし、窓から外の様子 をながめた。 442 あらためてみる街の様子に、牧浦は目を奪われた。ゾンビの氾濫 のあと、市役所から出たのは、これが初めてだった。 かすかな月光の下に、廃墟と化した街並みが続いている。両側に 並木道の広がる車道を、バンはゆっくりと進む。路肩にはいくつも の車が乗り捨てられ、店のウインドウは割れていた。歩道にはゴミ が散らばり、自動販売機にはバイクがめりこんで、半壊状態になっ ている。 日本の光景とは思えなかった。 窓の外を、ゆっくりと流れるその光景を目にしながら、ふいに牧 浦は息をのんだ。建物の二階に、人影が見えた。こちらをうかがう ような動きを見せている。 ﹁武村さん⋮⋮﹂ かすれた声で呼びかける。 バックミラーの中で、雄介の視線が動く。こちらが指さす方に目 をやり、すぐに視線を戻す。 ﹁気にすんな。あそこからじゃ来れない﹂ ﹁⋮⋮ゾンビ、なんですか? 生存者ではなくて⋮⋮﹂ ﹁さあ? どっちでも今は関係ない﹂ その言葉に、牧浦は押し黙った。 他にも危うい雰囲気の場所はあり、スピードを上げながら進みつ づける。 やがて、見慣れた建物が見えてきた。牧浦の父の持つ、産婦人科 の病院だ。 ﹁周りから見えにくい場所で、車を停められるところあるか?﹂ ﹁⋮⋮救急車両の入口が、正面よりは安全だと思います。左から入 443 れます﹂ 敷地内に車を停めたあと、雄介はパイプの槍とライトを手に、車 を降りた。 ﹁三十分ごとに連絡を入れる。絶対に外には出るなよ。何かあった らすぐ呼べ﹂ そう言って小型の無線機を置いていった。 使い方のレクチャーも受け、交信テストも行っているが、それで も不安で、牧浦は心もとなげに無線機を見つめた。 車の外は静まりかえっている。 冬の冷気が、ブーツの足元から這い上がってくる。コートの襟を たぐりよせ、牧浦は白い息を吐いた。 患者の隆司には、弱い鎮痛剤をのませてある。体力が落ちている こともあり、隆司は簡易担架の上で、毛布にくるまれて眠っていた。 その乱れを直しながら、牧浦はまんじりともせず時を待つ。 時間の流れは遅かった。とっくに一時間たったのではないかと思 うころ、最初の連絡が来た。 ﹃⋮⋮こちら武村。問題ないか?﹄ ﹁はい⋮⋮今のところ﹂ 背後の方から、何か鈍い音が聞こえた。反射的に振りかえる。 建物にいる人影と、目が合った。 距離は遠いが、男が一階の窓ガラスにへばりつき、こちらをじっ と見ている。 産毛が総毛立った。 こちらの動きに気づいたのか、男が暴れるように窓を叩きはじめ た。肘が当たってガラスが割れ、破砕音が響く。 444 とっさに床にしゃがみこみ、無線機のことを思いだして、呼び出 しをかける。 ﹃どうした?﹄ ﹁一階の窓から、こちらに出ようとしてるのが⋮⋮﹂ ﹃距離は? そっちから見て左右のどっちだ﹄ ﹁五十メートルぐらいで、左の⋮⋮たぶん、休憩室だと﹂ ﹃動くなよ。外には出るな﹄ 無線がとぎれる。 割れた窓の隙間は小さく、男はそこから這い出ようともがいてい た。体を通すことができず、フレームに残るガラスの破片に傷つけ られて、顔の肉が削ぎ落とされる。腕の皮がめくれ、筋繊維があら わになる。流れた黒い血がフレームを汚していく。 男は痛みを感じる様子もなく、顔を憎悪に歪めて、こちらに這い 出ようとしてくる。 牧浦は床にある槍をつかみ、握りしめた。自分に使えるとも思わ ないが、何かすがれるものが欲しかった。 ガラスが砕け、隙間が少しずつ広がる。手が窓枠にかかったその とき、突然、男の姿勢が崩れた。足を払われでもしたように上体が 揺らぎ、男は口を大きく開けて、表情を凍りつかせていた。 男の背後、暗がりの中に、雄介の姿があった。男の頭を左手でつ かみ、後頭部の後ろで右手をひねる仕草。 動きを止めた男の体が横にずり落ちていき、その重力を利用して ナイフが引き抜かれた。血に濡れた刃が月光を反射して、一瞬だけ 輝く。 雄介はちらりとこちらを見たあと、すぐに引っこんだ。 無線機から声が流れる。 ﹃一階はだいたい終わった。上に行く﹄ 445 返答を待つ様子もなく、無線は沈黙した。 ﹁⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ 押しこめていた呼吸が戻り、荒い息が漏れる。 槍から手を放す。 市役所にたてこもった初期のころは、建物に侵入しようとするゾ ンビとの戦いもあった。皆必死の形相で、怒りと悲鳴の声をあげな がら、同じ人間の形をしたそれを相手にしていた。 あそこまで静かにゾンビを始末する人間は、見たことがない。 ︵悔しいけど⋮⋮︶ こんな無謀な行動を言い出すだけのことはある、と牧浦は思った。 ︵本当に、どんな人なんだろう⋮⋮︶ 身の上話はほとんど聞いたことがない。そもそも周りに心を開い ている様子がない。それでも、この状況では頼りになった。 何度か連絡を受けながら、時間が過ぎていく。 死んだ街の、深い静寂の中。 時おり隆司の様子を見ながら、牧浦はぼんやりと周囲をながめて いた。 ふいに、自分が冷や汗をかいているのに気づいた。 動悸が激しくなる。 理性よりも先に身体が、何かに反応したようだった。 ︵なに⋮⋮?︶ 446 いつの間にか、視界の中、開けた駐車場の中央に、小さな塊があ った。 猫ぐらいの大きさのそれは、目の錯覚か、奇妙に動いているよう に見えた。 心臓の鼓動が速くなる。 どこか見覚えがある。 震える指で無線機を操作しようとして、牧浦は違和感に気づいた。 駐車場の中ほどにたたずむそれには、影がない。 月に照らされ、アスファルトの上にぼんやりと浮かびあがってい るのは、赤子の幻影だった。 その正体に気づき、牧浦は無線機から、震える指をゆっくりと離 した。 ︵あれは⋮⋮あれは違う︶ あれは、先ほどのゾンビとは違うモノだ。 視界のそれを否定するように、ぎゅっと目をつぶる。 暗闇の中、牧浦の鼓動はますます速くなる。 ゾンビはこの車の壁を破れない、中には入れないと、雄介は言っ ていた。 でも、あれは⋮⋮ ︵違う。あんなもの存在しない⋮⋮︶ 意識をそらし、思考を空白にしようと努力する。 これが初めてではない。 以前にも、暗い市役所の廊下を一人で歩いているとき、ふっと視 界のすみに映ることがあった。目を離せず、他の人間が通りがかる まで、ずっとその場で凍りついていた。 医師としての判断ならできる。 447 極度の不眠と疲労がもたらす、幻覚だ。 そんな言葉は気休めにもならなかった。 狂いかけている。 それが何よりも恐ろしかった。 ゆっくりと目を開けると、それはさっきよりも近くにいた。 ﹁ひ⋮⋮﹂ か細い悲鳴が漏れる。 それが近づいてくるのは、初めてのことだった。 今までは、暗がりからこちらをうかがうだけだったのに。 車のドアを開け、遠くへと逃げ出したい衝動に駆られる。 今それに耐えているのは、隣に子供の患者がいるからだ。 ふいに、無線機が音を発した。ノイズ混じりの声が流れだす。 ﹃⋮⋮、あー、こちら武村。ひと通り終わった。出る準備しといて くれ﹄ ﹁っ⋮⋮﹂ 送信ボタンを押し、何かを言おうとして、次の瞬間、視界からあ のうごめく影が消えていることに気づいた。 無人の駐車場が広がっている。 月明かりに照らされ、アスファルトがほの暗く光るだけだ。 左右を見渡しても、何もいない。 異様な気配は霧散していた。 ﹁⋮⋮﹂ ボタンから指が落ちる。 行き場を失った何かが、心の内圧を押し上げる。震える手でコー 448 トのポケットを探り、ピルケースを取り出す。中の錠剤を手の平に 転がし、水もなしに呑みこもうとして、そこで我に返った。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 薬を凝視する。 ゆっくりと手の平を丸め、錠剤を握りしめた。 これから手術がある。 頭を鈍らせるわけにはいかない。 小さく息を吐き出し、牧浦はピルケースを戻した。 ◇ 機械室の非常用発電機は、燃料が切れていた。 停電時に自家発電に切り替わり、そのまま稼働し続けたのだろう。 一瞬途方に暮れたが、備蓄の軽油が見つかったおかげで、なんとか 補給できた。 牧浦は緊急用の手順書を見ながら、キュービクルタイプのボック スを再起動させる。 電力の使用量にもよるが、十二時間は動作するはずだ。冷却水の 方が問題かもしれない。タンクの水が尽きて発熱が抑えられなくな ったら、異常停止してしまうはずだ。 発電機の低い振動音が響き、院内に明かりがともる。 牧浦は安堵の息をついた。 病院専属のエンジニアも交えた、災害対策委員会の主導で、以前 に一度研修を受けただけだ。故障でもしていたら手に負えなかった。 といっても、非常用電源は、通常の半分ほどの電力しか生みださ ない。供給先も限られている。手術室や検査室、新生児室や換気装 置、生命維持に必要な機器などに、優先的に供給される。それほど 重要でもない廊下は、ところどころ暗いままだ。 449 地下から上がったあと、まず一階で検査を行った。エコーと腹部 レントゲンで、典型的な虫垂の肥大が確認できたため、それ以上の 検査は切りあげた。 一台だけ動いていたエレベーターの扉を、雄介が手で押さえ、そ の横を牧浦のストレッチャーが通りぬける。 正面の鏡に映った自分の姿は、ひどくくたびれて見えた。 ストレッチャーに横たわる隆司は、不安げに視線をさまよわせて いる。 手術室のある三階へのボタンを押すと、床がゆっくりと上昇を始 めた。移り変わるフロア表示を見ながら、牧浦は口を開いた。 ﹁上には、誰も、いませんでしたか? ⋮⋮生存者は﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 難しい顔で沈黙する雄介に、牧浦は慌てて言葉を続けた。 ﹁隣に父の自宅もあるんです。もしかしたら、そちらにいるのかも しれません﹂ ﹁⋮⋮ああ、そうかもな﹂ そのなだめるような言葉に、牧浦は羞恥に顔がほてるのを感じた。 まるで聞きわけのない子供のように、現実から目を逸らそうとして いる。 近くに人の気配などない。 ここに到着してから、薄々わかっていたことだ。 ﹁親父さんの家もあとで見に行くけど。隆司が先でいいか?﹂ ﹁⋮⋮はい。すみません﹂ 牧浦はうつむいて言った。 450 三つある手術室は、まとめて手術部として、病棟から独立してい る。産科には分娩室もあるため、帝王切開以外では、婦人科が主に 使っていた。 大きな扉をくぐると、かすかな空気の流れを感じた。 更衣室に入り、コートを脱いで、予備の白衣に着替える。 雄介がそれを見て、 ﹁あー⋮⋮さっき着替えないで中に入っちまったけど、大丈夫か?﹂ ﹁陽圧も効いているので、器材に触っていなければ⋮⋮。手術の準 備が終わったら、周りを消毒をして、また手術着に着替えますので﹂ 手術室には普段から軽い空気圧がかけられていて、外の空気が入 らないようになっている。ウイルスや細菌、小さなほこりの侵入を 防ぐためだ。 ﹁準備で手伝えることは?﹂ ﹁いえ⋮⋮ただ、手術中は助手を。消毒を済ませたあとは、私は術 野以外を触れなくなるので、手が足りません﹂ ﹁わかった。ちょっと周りを確認してくる﹂ ﹁確認ですか?﹂ ﹁鍵のかかってる部屋は後回しにしたから、そこを潰してくる。手 術中に騒がれても気が散るしな。そっちも、あんまり変なとこは入 るなよ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 簡単に潰してくると言ってのける雄介に、牧浦は何も言えずうな ずいた。 ◇ 451 器材室で必要なものを集めながら、牧浦は気分が落ちこんでくる のを感じた。 隆司はまだ子供のため、全身麻酔にする必要がある。意識のある 状態で体をいじられることに耐えるのは、子供では難しい。手術中 に暴れられては大惨事になる。 しかし、全身麻酔で呼吸を止める場合、必ず麻酔医がついてバイ タルを管理する必要があるが、今回はそれを一人でやらなければな らない。 全身麻酔下では、体の様々な機能が低下する。呼吸以外にも、血 圧や脈拍の変動に合わせて薬剤を使い、患者をコントロールする必 要があった。 それを、子供に全身麻酔をしながら一人で開腹手術をするなど、 考えるだけでも冷や汗が出てくる。 ︵それでも、やらないと⋮⋮︶ 下腹部の麻酔と、眠らせる鎮静剤の併用で、呼吸を止めずに擬似 的な全身麻酔にするという手もあるが、そちらは高度な管理能力が 必要になる。 鎮静剤が強すぎては呼吸が止まるし、浅すぎて体動を起こせば、 手術が台無しになる。特に相手は子供だ。 自発呼吸を残しつつ、意識を落として、手術に必要な麻酔深度を 維持するというのは、牧浦の手には余った。一人では失敗したとき のリカバリーも難しく、綱渡りのようなものだ。 牧浦は大きく息をついた。 どのみちリスクはある。 ここまで来て泣きごとは言えない。市役所に比べれば、はるかに 好条件なのだ。 ︵それに⋮⋮︶ 452 牧浦は目を伏せた。 自分には医師としての責務があるが、雄介はそうではない。 他人の子供のために、ここまでするその行動には、報いなければ ならない。 そう思った。 ◇ 三階の制圧が済んで戻ってきた雄介を、手術室に呼び、モニター や機器の説明をしていく。 脈拍や血圧、体温、呼吸数、酸素濃度を示す部分には、わかりや すいようにシールを貼り付けてある。それらの監視をするのは雄介 の仕事だ。 準備した薬剤の、注射器のシリンジにも名前のシールを貼り、カ ートに並べておく。持続注入用の小型ポンプに、麻酔薬の入ったシ リンジをセットし、ルートを繋ぐ。 医療ガスの配管から、酸素や笑気が供給されているのを確かめ、 麻酔の気化器の動作を確認する。 院内にある血液製剤は保冷が切れているので、市役所の冷蔵庫に 保管していた輸血パックを持ってきている。適合はチェック済みだ。 量は少ないが、代わりに輸液が豊富にあるため、そちらで間に合わ せるつもりだった。輸血は最後の手段にしたい。 機器の確認をしていた雄介に、参考資料として、手術室付きの看 護師向けのマニュアルを渡す。最初は興味深そうに中を開いたが、 すぐに眉をしかめた。 ﹁さっぱりわからん⋮⋮﹂ ﹁基本的にはすべてこちらでやります。手術の流れを、ぼんやりと でも覚えておいていただければ﹂ 453 執刀医は術野から目を離さないようにするため、必要な物の名前 を看護師に言って渡してもらうのが常だが、今回はそんな贅沢はで きない。 手術室の準備を進めているうちに、酸素濃度計や麻酔回路、口元 に当てるマスクなど、様々な物を、小児向けに交換する必要に思い あたった。ただ、五歳ぐらいの子供に使えるものが三階には少なく、 地下の倉庫まで取りに行くことになった。 前投薬で浅い眠りにつく隆司を残し、戸締りをして、急いで手術 部を出る。雄介には判断のつかない物も多いため、牧浦自身が行く 必要があった。 雄介とエレベーターで降りながら、牧浦は物思いにふける。 研修医のときに麻酔科はまわったが、小児麻酔はこれが初めてだ。 不安がつのる。 ︵⋮⋮あるいは挿管なしの自発呼吸で、マスクだけで麻酔を維持す れば⋮⋮︶ 複雑な手技を省略できる。 迷いが生じる。 しかし、マスクのみの場合は、嘔吐が恐い。 普段なら、異物が気道に入ると、体が反応して吐き出すが、麻酔 下ではその反応が消える。 胃酸混じりの吐瀉物がそのまま肺に至ってしまうと、誤嚥性肺炎 を引き起こして、致命的なことになる。そのため、麻酔をする場合 は事前の絶食が必須なのだが⋮⋮ ︵固形物の食事はかなり前のはずだけど、腹膜炎なら、消化もかな り遅くなってる⋮⋮︶ 454 体の小さな子供だと、呼吸が止まったときの危険も大きい。今回 は一人でやるのだから、やはり万全の態勢を整えておくべきだった。 地下に到着し、雄介が倉庫の鍵を開ける。ひと通り中の安全を確 認したあと、牧浦も部屋に入った。 部屋に並ぶ棚をあさり、必要な物をカートに積みこんでいく。念 のためということで、予備も含めて様々な物を集めていくうちに、 空きが足りなくなった。 ﹁廊下にあったカート、取ってきます﹂ 部屋の外に出て、途中に放置されていたカートに歩み寄る。くし ゃくしゃの白衣をどけようとして、上に乗っていた名札に目が行っ た。見慣れた顔写真が写っていた。 父の白衣だった。 思わず動きを止める。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ おそるおそる、それを手に取った。 両手で、目の前に広げてみる。 裾のところに、わずかに茶色い染みがついていた。 ﹁⋮⋮﹂ 父のことだ。あの混乱の日は、怪我人を助けるために奔走してい ただろう。自分の身を守る余裕もなかったはずだ。 しばらく白衣を見つめたあと、丁寧に畳み、仕舞った。 心に一区切りつけ、カートを引いて部屋に戻ろうとしたところで、 足を止めた。 誰かに呼ばれたような気がした。 455 じっと耳をすます。 ︵声⋮⋮?︶ 奥の、暗い廊下から聞こえてくる。 ﹁⋮⋮誰ですか?﹂ 聞こえてくるのは、まるで風のようにあやふやな、とても小さな 声だった。 ︵耳鳴り⋮⋮違う。私を呼んでる⋮⋮?︶ 誘われるように、カートを押しながら、暗闇に足を踏み入れてい く。 光から離れるうちに、いびつに反響してくぐもっていた声が、少 しずつ鮮明になってきた。 ︵誰⋮⋮?︶ 突然、すぐ近くから呼びかけられた。 ﹁︱︱やか、さやかか!?﹂ 扉ごしに聞こえてきたのは、懐かしい声だった。 牧浦は驚きに体を硬直させ、目を見開いた。 それから我に返り、慌てて駆けよる。扉は開かなかった。牧浦は 両手を扉につき、大声を出して呼びかける。 ﹁お父さん!? 無事だったの!?﹂ 456 ﹁あ、ああ⋮⋮。本当にさやかなんだな⋮⋮。長い間、ここに閉じ こめられてたんだ。お前は大丈夫なのか?﹂ ﹁うん、私は⋮⋮。良かった⋮⋮本当に⋮⋮﹂ 全身の力が抜けるような安堵感に襲われた。これですべてが好転 する。父と二人なら、手術もまず問題ない。命を助けられる。 ﹁今開けます!﹂ 引き戸の扉は、壁の手すりとの間で、何重にも縛られていた。闇 雲に剥がそうとするがほどけず、近くにあったカートのトレーから はさみを取り、強引に引きちぎっていく。 すべてがほどけると、扉を開け放った。 背後から漏れるわずかな光に、父の顔が見えた。やつれ、青ざめ ているが、以前のままの、父の姿だった。 ﹁お父さん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 無言で抱き合おうとする、その途中で、横から衝撃を受けた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 視界が回転し、床に叩きつけられる。 ﹁いっ、た⋮⋮﹂ 打ちつけた体をかばいながら、身を起こした牧浦の目に入ったの は、父と重なる雄介の姿だった。そのとき初めて、雄介に突き飛ば されたのだとわかった。 ﹁何を⋮⋮﹂ 457 問いかけようとして、牧浦は絶句した。 ナイフが、父の、あごの下に突き刺さっていた。その体が痙攣す るたびにこぼれ落ちる血が、雄介の手をどろどろに汚している。 一目で致命傷だとわかった。 ﹁な、な⋮⋮﹂ 出る声は言葉にならない。 雄介がナイフから手を放す。残された体は、糸の切れた人形のよ うに、床に叩きつけられた。 牧浦は抜けた腰で這いずるように近づき、必死で父の顔をのぞき こむ。 ﹁あ、ああ、あ⋮⋮﹂ あごの真下に刺さったナイフは、脳まで達していた。目の焦点は 溶け、虚ろに天井を見上げている。 牧浦は、その頭を膝の上に抱え、雄介を振りかえった。 ﹁く、狂ったんですか⋮⋮? なんで、こんな⋮⋮ひどい⋮⋮﹂ 両目から涙がこぼれる。 ゾンビを殺しすぎて、人を殺めることに躊躇がなくなってしまっ たのだ。いや、そもそもすでに、スーパーで人を殺している⋮⋮ 雄介は眉間にしわを寄せ、にらむような目で、こちらを見つめて いた。 ﹁お前⋮⋮そいつが何に見えるんだ﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ 458 雄介がライトを振る。 暗闇に隠れていたまわりの様子が、光の輪の中に浮かんだ。 乾いた血の跡が、あちこちにこびりついていた。干からびた肉の 欠片も転がっている。 そして、牧浦の膝の上には、半壊した頭蓋が乗っていた。 顔の左半分が、頬骨を砕くようにえぐられていた。口の中が半分 露出し、その中央を銀色の刃が通っている。左目は眼窩からこぼれ 落ちそうで、肩の鎖骨も半分飛び出ていた。ナイフが刺さるまでも なく、完全な死体だった。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 反射的にそれを振り落として、床を後ずさる。 心臓が痛いほど早鐘を打つ。 あの死体が、さっきまで動いていた。 ゾンビ。 ゾンビだ。 ﹁でっ、でも、さっきまで⋮⋮喋って⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮喋ってたのはお前一人だ﹂ ﹁ちが⋮⋮だって、さっき⋮⋮﹂ 牧浦は助けを求めるように、視線をさまよわせる。 その先に、霊安室というプレートを見つけた。 ︵⋮⋮︶ 父の声がよみがえる。 この部屋に。 459 閉じこめられて。 長い間。 厳重に縛られていた扉。 心に残る父の姿を、優しい笑顔を、意識の裏側に隠されていた光 景が上書きしていく。 扉を開けたとき、自分の目に見えていたのは。 本当は。 ﹁あ⋮⋮﹂ 意識が脳から剥離する。 視界が暗転した。 ◇ どれだけ時間がたったのか。 いつの間にか、目の前に、白い壁が映っていた。 三階の控え室だ。 ストレッチャーの上に横たわり、毛布をかけられていた。 ずいぶん前から意識を取り戻していたような気もするが、視界が 焦点を結んだのは、そのときが初めてだった。 のろのろとした動きで身を起こし、ポケットを探る。目当てのも のが見つからず、そういえば白衣に着替えたことを思いだした。 あれはコートの中だ。 立ち上がり、更衣室へと向かう。 ロッカーのコートからピルケースを取り出し、中身を手のひらに ぶちまける。一息に呑もうとして、右から伸びた腕に、手首をつか まれた。跳ねた錠剤が、手のひらからこぼれ落ちる。 ﹁⋮⋮多すぎないか、それ﹂ 460 ﹁⋮⋮﹂ 無表情にこちらをながめる男の顔を、牧浦はうろんげに見上げた。 ﹁あんたには同情するし、俺も迂闊だった。ちょっと変だったのは わかってたんだ。目を離すべきじゃなかったな。ただ、時間も無限 じゃないんだ。そういうのは後でやってくれないか﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦は視線を落とし、黙りこむ。雄介の手が離れると、ゆっくり と壁に寄りかかり、崩れるように座りこんだ。 雄介が無言で見下ろしてくる。値踏みするような視線だ。 別に気にもならなかった。 しばらくの沈黙のあと、声が降ってきた。 ﹁⋮⋮できないか?﹂ その言葉に、牧浦はかすかな笑いを漏らした。 ﹁狂った医者に任せるのですか? 大事なあの子を。死にますよ。 私はもう、自分が信じられません﹂ 雄介は押し黙る。 それから、口を開いた。 ﹁他に人がいない﹂ ﹁⋮⋮そうですね。本当に。それに尽きる⋮⋮。みんないなくなっ てしまった﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁私たちも、遠からずそうなる⋮⋮そうでしょう?﹂ 461 ﹁あんたが隆司の手術をするなら、なんでも一つ頼みを聞く。なん でもいい。交換条件だ﹂ ﹁なら、助けてください﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ここから助けて﹂ 雄介は何も言わずそこに立っていたが、やがてきびすを返し、無 言で去って行った。 牧浦はしばらく動かなかったが、こみ上げてくる嗚咽をこらえ、 腕の中に顔をうずめた。 462 42﹁手術﹂ 牧浦は以前に一度だけ、産科を辞めようと思ったことがある。 誕生後の経過が悪く、集中治療室に入っていた赤ん坊が、十日目 で死んだときのことだ。 スタッフ全員で懸命に命をつなぎとめようとして、叶わなかった。 力がおよばなかった。 あまりにも早く逝ってしまった子供に、母親はただ虚ろにたたず んでいた。牧浦もまだ若く、慰めるはずの立場が泣いてすがりつい てしまい、背中に手を回され、なだめられた。完全に医者失格だと 思った。 これから何度も、こういったことがあるだろう。そう考えると、 続けていく自信がなくなった。 そんなとき、父に墓参りに連れて行かれた。牧浦が幼いころに亡 くなった、母の墓だ。例年とは別の時期で、牧浦は怪訝に思った。 花を替え、記憶にもない母に手を合わせていると、父が言った。 ﹁今でも悔いはあるんだ﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁あのときの私に、今みたいな技術が、知識があればってね﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁でも、仕方ないことなんだ。母さんだけじゃない。みんな、いつ かはいなくなる。それは、父さんも例外じゃない﹂ ﹁⋮⋮そんなこと﹂ 縁起でもない。考えたくもないことだった。 父は、ずっと自分の前を歩いている存在だった。それが見えなく なるなど、想像もできなかった。きっと立ちすくんでしまう。 463 ﹁でも、それでいいんだ。母さんも、最後までがんばった。みんな、 生きることをがんばった結果なんだ。だから、それでいいんだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 医者として、いくつもの生と死を見つめてきた背中だった。 牧浦はもう覚えていない、母の死を乗りこえた背中だった。 ◇ 目を覚ます。 控え室の壁が目に入った。 体は冷えて、固まっていた。 身動きしようとして、唐突に吐き気がきた。顔をそむけ、床に胃 液をぶちまける。 ﹁か、はっ⋮⋮﹂ 苦いものが喉を焼き、涙がにじんだ。 蠕動する胃を手で押さえながら、体の中によどんだ物を、痙攣す るように吐き出していく。 口元をぬぐい、ようやく落ちつくと、牧浦はぼやけた天井を見上 げた。 ﹁何やってるの⋮⋮﹂ 自嘲気味につぶやく。 きしむ関節に苦労しながら、壁を支えに立ち上がる。 時間を浪費してしまった。発電機の燃料がいつまで持つかも怪し いのに。 464 汚れた物を換え、身支度をしたあと、牧浦は重い体を引きずりな がら、隆司のいた部屋に入った。 しかし、 ︵いない⋮⋮?︶ 中は無人だった。 ストレッチャーが移動されている。 怪訝に思い、周囲を見てまわる。 どこにもいない。 まさかと思い、手術室の扉を開く。 緑の手術着に、マスクと帽子を被り、両手にゴム手袋をつけた男 が、手術台の横から、こちらを振りかえっていた。 ﹁⋮⋮お父さん⋮⋮?﹂ 露出した目元が、鋭い視線を投げかけてくる。 雄介だ。 牧浦はしばらくの沈黙のあと、 ﹁⋮⋮何をしてるんですか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 答えはない。 手術台の上では、無影灯に照らされた隆司が横たわっていた。目 を開き、ぼんやりと宙を見つめている。腕には血圧計が巻かれ、裸 の胸には心電図の電極がつけられていた。牧浦が寝ている間にマニ ュアルを読みこんだのか、数値はきちんと表示されていた。 器具の乗せられたカートの横で、雄介は隆司に向かいあっている。 その光景に、牧浦は一瞬だけ躊躇した。 465 ﹁⋮⋮何を﹂ ﹁手術するんだよ。腹を切って、出っぱり取るだけだろ。楽勝だ﹂ ﹁⋮⋮本気ですか!?﹂ ﹁やる気ねーならすっこんでろよ。口出すな﹂ 雄介の足元には、院内から集めてきたらしい、研修医向けの手術 図解本が散らばっていた。ページは開いたままで、転がしたライト の明かりが当てられている。手術中は手で不潔なものを触れなくな るので、足でめくって参考にしようとしているらしい。この寒いの に、素足にサンダルだ。無茶苦茶だった。 生体用のステープル、切開した皮膚を針で留める器具も準備され ている。手技のない雄介が、できる範囲で、手術の真似事をしよう としているのだ。 さらに、見慣れないシリンジと瓶に目が行った。 ︵ケタミン⋮⋮。よく見つけてくる⋮⋮。扱いやすい麻薬だけど、 それだけだと維持できない︶ 呼吸抑制が低く、強い鎮痛作用を持つ麻酔薬だ。血圧を下げるこ ともないため、設備のない野戦病院などでよく使われる。 ただ、向精神性の麻薬でもあるので、患者の動向には注意が必要 になる。普通は、鎮静剤と併用されるものだ。 隆司のぼんやりとした様子は、ケタミンの解離性の症状だった。 見れば、手の甲にパッチが張られている。注射の跡だ。 点滴ラインも取らずに、一度の投与で麻酔をとり、手術するつも りなのだ。そのことに牧浦はぞっとした。 ﹁無茶です⋮⋮! 今すぐやめてください﹂ 466 雄介は振り返りもせず、小声で吐き捨てた。 ﹁もうお前には頼まねえ。自分でやる﹂ ﹁⋮⋮素人にできることじゃない! おそらく穿孔しています。無 事では済みません﹂ ﹁放っておいても死ぬんだろ? 墓穴掘るのは、やることやってか らだ﹂ 淡々と話す雄介に、言い募ろうとして、牧浦は気づいた。 雄介のしかめられた眉間や額には、びっしりと汗が浮かんでいる。 ひどい緊張が見てとれた。 その様子に、牧浦は悟った。 雄介は、自分に手術ができるとは、成功するとは思っていない。 ただ、怯懦に手をこまねいて、子供を見殺しにするのを良しとし ないだけなのだ。 牧浦は茫然と、その場に立ちつくした。 ︵私は⋮⋮︶ 牧浦はうつむく。 無頓着に周囲を歩きまわる雄介の気配を感じながら、やがて、顔 を上げた。 ﹁⋮⋮手袋はどうやってつけました?﹂ ﹁⋮⋮別に。普通につけた﹂ ﹁これも着け方があるんです。手洗いからやり直しましょう。初歩 的な感染症で殺したくないでしょう﹂ ﹁⋮⋮﹂ いぶかしげな視線を背中に感じながら、牧浦は手術の準備に入っ 467 た。 ◇ すでに鎮痛は効いていたので、手早く静脈ルートを確保して点滴 をつなぐ。側管から鎮静剤を投与して、ひとまず隆司を眠らせる。 膀胱に導尿カテーテルを入れ、直腸と合わせて、プローブで体温 を取った。パルスオキシメーターを人指し指にセットし、血中の酸 素濃度をモニターに表示させる。 次は気管内への挿管だ。 血液が流れる静脈と、酸素を取りこむ気管、その二つさえ押さえ ておけば、あとはどうとでもなる。 牧浦は、隆司の頭側に立ち、口元にマスクを当てた。下顎を指で 上げ、気道を確保する。酸素で肺の中を十分に換気しておけば、麻 酔で呼吸が止まっても、しばらくは持つ。 換気が済むと、 ﹁エスラックス。印のところまで入れてください﹂ 牧浦の言葉に、雄介がシリンジを掲げて見せる。筋弛緩剤のシー ルの張られたそれは、点滴のルートの途中にある、三方活栓に連結 されている。 こちらがうなずくと、雄介はマジックで引かれた線まで、ゆっく りと薬剤を注入していった。 点滴の管を、薬剤が流れはじめる。 素人に介助させるべきではないが、手が足りない。手順と、簡単 な操作を教え、それらは必ず牧浦の監視下で行うということで、窮 余の策とした。 筋弛緩剤は数分で効いてくる。 気化器のつまみをひねり、挿管に備えて、マスクの酸素に麻酔を 468 混ぜた。 しばらくして、隆司の呼吸が止まった。 マスクを取って、両手で隆司の口を開ける。 カートからL字型の喉頭鏡を取り、ライトをつけて、口の中にブ レードを差し入れる。奥に見えてきた喉頭蓋を、舌と一緒に持ち上 げると、左右の声帯に挟まれた気道が見えた。 ゼリーを塗布したチューブを右手で取り、声帯の間に送りこむ。 微調整しながらの挿入が終わると、中のガイドと喉頭鏡を抜き、テ ープで口元に仮止めした。 モニターをちらりと確認する。介助者がいなかったため手間取っ たが、酸素濃度はまだ下がっていない。血圧も正常だ。 口から出たチューブを、人工呼吸器のホースに接続したあと、聴 診器を胸に当てる。 胃ではなく両肺がちゃんと換気されていることを確認して、牧浦 は息をついた。歯にバイトブロックを噛ませ、テープでしっかりと 固定し、チューブがずれないようにする。 ﹁あとはお願いします﹂ ﹁ああ﹂ 雄介と立ち位置を交代する。血圧や脈拍など、バイタルの監視は、 雄介の仕事だ。執刀中は、牧浦にも余裕がない。 静脈麻酔のシリンジポンプを作動させたあと、手術室の手洗い場 で、再度の消毒を済ませる。 ラテックス製のゴム手袋を、表面に触れないようはめながら、 ︵⋮⋮よし︶ 気合を入れて、手術台に戻る。 雄介はモニターと隆司の様子を交互に見ながら、じっと監視を続 469 けている。牧浦が本当に手術を行う気であると知ってから、ずっと 言葉少なに、指示に従っていた。内心、どういう気持ちでいるかは わからない。 とにかく手術を無事に終わらせよう、牧浦はそう思った。 眠る隆司の横に立つ。 まず体の表面を消毒し、腹部以外に覆布をかける。 用意した台からメスを取り、事前に定めていた右下腹部のポイン トに、そっと当てた。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ イメージをつかんだあと、一息に五センチほど切り開く。 すぐにモニターを見るが、血圧、脈拍、それほど変化はない。麻 酔が効いている証拠だ。痛みを感じていれば、それらが急上昇する。 電気メスに持ち替え、皮膚の下の脂肪層を焼き切っていく。 さらに下の筋肉を裂き、銀色の膜を、剪刀で剥離する。内部の腹 膜まで開くと、開創器をセットし、開いた部分を固定した。小さな 穴から、内臓が丸見えになる。 長ピンセットに持ち替え、中を探る。 すぐに盲腸が見つかった。それをたどっていくと、破れた虫垂が 見えた。癒着もせず、膿もそれほど出ていない。腹膜炎にしても限 定的だろう。 子供は腸の壁が薄く、重症化しやすいため、これは幸運だった。 駐屯地で貰っていた抗菌薬のおかげかもしれない。 鉗子でつかみ、開いた縁に触れないようにしながら、外まで虫垂 を引きずり出す。腹部から飛び出た生々しいそれに、雄介が少し動 揺するのが感じられた。 気持ちは理解できた。手術は、生きた人間の、物としての側面を 強く出す。親しい人間の手術には、プロの医師でも動揺を示すもの だ。 470 牧浦は迅速に手を動かし、虫垂に繋がる動脈を、先端から結紮し て切り離していく。助手もなしに一人でするのは、ずいぶん骨が折 れた。器具の持ち替えでもロスが出て、かなりの時間がかかる。 すべての動脈を処理し、根元を縛った虫垂の本体を、ようやく切 り離したとき、 ﹁っ⋮⋮﹂ にじんだ汗が目に入った。 隣に来た雄介が、ガーゼで、まぶたと額をぬぐっていく。 目を閉じ、その感触をじっと感じながら、 ﹁思ったより軽症でした。助かりました﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ ﹁バイタルは大丈夫ですか?﹂ ﹁ああ﹂ 雄介はモニターの所に戻る。 牧浦は虫垂をトレーに置き、バキュームで腹腔内の膿を吸い取っ ていった。わずかに残った残滓を、生理食塩水で洗浄していく。 ︵ドレーンはいらないか⋮⋮︶ 重度の腹膜炎のときは、お腹から外につながる管を手術後も残し て、溜まった膿を排出するのだが、それだと治りが遅くなる。外部 からの感染リスクも高まるため、洗浄して抗生剤を投与すれば十分 だと判断した。 ﹁シリンジポンプのスイッチを切ってください。これから縫合しま す﹂ 471 静脈麻酔のポンプを前に、雄介がこちらを見る。スイッチの一つ に指が添えられている。牧浦がうなずくと、ポンプが停止した。シ リンジからの麻酔の注入が止まる。 あとひとふんばりだった。創感染を防ぐためにも、縫合はおろそ かにできない。 ガーゼや器具を数え、中に何も落としていないことを確認すると、 両手をピンセットと持針器に持ち替え、下の腹膜から順に、丁寧に 吸収糸で閉じていく。 時間を忘れる作業が続いた。 やがて、皮膚まですべて縫い終わると、ようやく牧浦は顔を上げ た。 時計を見る。 手術完了だ。 小さく息をついた。 時間はかかったが、終わってみればあっという間だった。 トラブルもなく順調に終わってくれた。 ﹁純酸素に切り換えます。麻酔が切れたら抜管しましょう﹂ 言いながら雄介を見ると、なぜか怪訝な顔でモニターを見つめて いた。 ﹁なあ⋮⋮体温が少し上がってきてるんだが、これで正常なのか?﹂ ﹁え?﹂ モニターの数値を確認する。 36.6℃。 記録を見ると、10分で、0.3℃ほど上がっている。 472 ﹁⋮⋮﹂ 通常、開腹手術で体温は上がらない。むしろ下がっていく。それ を防ぐために、加温ブランケットや、輸液を温める装置などがある のだが⋮⋮ 機器の誤差ということもある。 ﹁⋮⋮とりあえず、ヒーターを切ってください。ドレープを取って、 クーリングを﹂ 四肢にかけていたブランケットを取り、足元で動かしていた暖房 を切る。手術室は換気のみで、空調は効いていなかったので、室温 は低い。 しばらくして、隆司の体温がさらに上がった。 37℃を越えている。 危機感が急激にわきあがった。 ︵腹膜炎からの敗血症? あるいは創傷からの感染⋮⋮。それにし てもこの上昇速度は早すぎる︶ バイタルに不整脈が出ていた。 酸素濃度も低下している。 人工呼吸の換気量を上げながら、牧浦は症状を観察する。 隆司は苦しい顔をすることもなく、眠ったままだが、かなりの汗 をかいていた。首元がやや強張っている。 輸液を、冷えた生理食塩水に換え、利尿剤を投与して、どんどん 循環させていく。 それでも体温は下がらない。 ︵何か持病があった? この発熱⋮⋮甲状腺か?︶ 473 動脈ラインを取り、採取した血を、血液ガス分析器に差しこむ。 胃洗浄による体温冷却を考えはじめたとき、血液ガス分析の結果 が出た。 pHが低い。血液が酸性に傾いている。 アシドーシスが起きていた。 発汗。体温上昇。筋肉の硬直。炭酸ガスの増加。 一つの名前が浮かび、牧浦は戦慄をおぼえた。 ︵⋮⋮悪性高熱症だ⋮⋮︶ 気化麻酔薬や、特定の筋弛緩剤によって引き起こされる、極めて 稀な症状だ。遺伝子を因子として、一万人に一人の割合で発生する が、男児は特に発生率が高い。 何の対処もしなければ、体温が上がり続けて筋組織が崩壊し、腎 不全を起こして死にいたる。 致命的だ。 だが、特効薬はある。 ︵ダントロレンナトリウム!︶ ﹁アルコールで体をふいて! 何でもいいので、できるだけ体を冷 やして! 薬を取ってきます!﹂ 手術室の棚に用意されているような薬ではない。手術室を飛び出 し、薬剤保管庫に向かう。 明かりをつけ、受付の端末を起動して検索しようとするが、管理 システムはダウンしていた。 保管庫に入り、棚をかたっぱしから確認していく。 ダントロレンは分類としては筋弛緩剤に入るが、高価な薬剤で、 474 悪性高熱症以外にはあまり使われない。そのため、在庫を置かずに、 緊急時は他から取り寄せる病院も多い。 この父の病院に存在するかは、賭けだった。 ︵お願い⋮⋮お願いします⋮⋮︶ 保管庫の半分を確認したところで、オレンジ色の粉末の入ったバ イアルを見つけた。 ラベルを確認する。 ︵あった!︶ 瓶を両手で抱え、手術室に飛びこむ。 ﹁今から用意します! 注射用水でルートをフラッシュして!﹂ ﹁もっとわかりやすく言ってくれ!﹂ 隆司の上にかがみこむ雄介の声にも、焦りが色濃く宿っている。 牧浦は息を整え、 ﹁これは他の薬と併用すると、ルートの中で反応して析出してしま うんです。そうならないように、今あるルートの中身を注射用水で 体内に押し流してください!﹂ ﹁わかった!﹂ 滅菌された注射用水をバイアルの中に投入し、粉末を溶かす。で きた溶液をシリンジに吸い上げ、雄介と場所を交代して、三方活栓 からルートに注入する。シリンジを持つ指は震えていた。 じりじりと時間の経つ中、しばらくして、変化が訪れた。 体温上昇が止まった。 475 気が抜けそうになるが、まだ終わっていない。暴れたバイタルを 落ちつかせる必要がある。 隙を見てもう一つ静脈ルートを確保し、頻脈を抑える薬も投与し ながら、ゆっくりと症状を戻していく。 ようやくすべての対処が終わったのは、二時間後だった。 ◇ 手術のあと、隆司は回復室に入った。 ガラス越しに、各種モニターに繋がれて、眠っている。 牧浦は、壁ぎわに座りこみながら、それとは別の方向を、ぼんや りとながめていた。 ﹁何見てんだ?﹂ ふいに声がかけられた。 雄介だ。 二つのカップを両手に持ち、こちらを見下ろしている。 ﹁⋮⋮いえ。なんでも﹂ 静かに答え、コーヒーの入ったカップを受けとる。 視界の端に、あの黒い影があった。物陰にかくれ、じっとこちら を見ている。 手術のあとで精も根もつき果てたせいか、恐怖はあまり感じなか った。それよりも、悲しみだけがあった。 目を閉じ、コーヒーのその切ない香りを感じながら、ゆっくりと 瞼を開く。 影は消えていた。 不思議に、悲しみが強くなった。 476 雄介が隣の壁によりかかりながら、コーヒーをすする。 ﹁今回は助かった。サンキュー。借りができたな﹂ ﹁⋮⋮まだ、不安はありますけどね﹂ ﹁いいんだよ別に。やることやりゃあ﹂ しばらく、沈黙が流れた。 牧浦がぼんやりと手の中のコーヒーをながめていると、雄介がお もむろに言った。 ﹁お前さ、委員会辞めれば? どう見てもボロボロだろ。他人のた めにそこまでやる必要あんの?﹂ 牧浦はかすかに笑みを浮かべた。 ﹁あなたが言っても説得力ないですよ。人の子供を助けるために、 必死になっていたあなたが﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は眉をしかめ、難しい顔をする。 コーヒーを一口すすり、しばらく間を置いてから、言った。 ﹁そりゃ違う。⋮⋮本当にあいつが大事なら、自分で腹切ろうとか 思わないだろ。たぶん殺してただろうし⋮⋮。深月あたりなら、お 前に泣いてすがって、頼みこんでるんじゃないか。プライド捨てて な。俺は隆司を助けるために、お前に土下座しようとか思わねーぞ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁あいつに負い目があっただけだ。自分にできることやっとけば、 言い訳もつく﹂ ﹁⋮⋮負い目とは?﹂ 477 ﹁深月から聞いてないのか?﹂ ﹁それは、スーパーでのことは聞きましたが⋮⋮。でも、もともと あなたに、彼らを守る義務はなかったのでしょう? 襲われたのも 不可抗力ですし、あなたがそこまで負い目に感じる必要は⋮⋮﹂ は、と雄介は鼻で笑った。 ﹁言ってねーか。まあそうだな。食い物やる代わりに抱いてたんだ よ。深月を﹂ 牧浦はカップを握りしめた。 揺れる波紋を、じっと見つめる。 絞り出すように言った。 ﹁⋮⋮なんてことを⋮⋮﹂ ﹁ただで食い物やるのもムカつくからな﹂ 牧浦は唇を噛みしめる。 衝撃は受けていた。 受け入れがたい事実だ。 軽蔑の念をおぼえてしかるべきだった。 しかし、同時に、先ほどまでの光景もよみがえる。命の危機に瀕 した子供を助けようと、必死であがいていた姿。 手術前に、手と腕の消毒を行ったとき、雄介の腕が傷だらけなの に気づいた。注射痕だった。 すぐに察しがついた。牧浦も学生のとき、同じ班の人間とお互い を練習台にして、注射の練習をしたことがある。それを、雄介は一 人で行っていたのだ。素人が、ぶっつけ本番の手術を前に、一人で。 抱いていたという当の少女も、雄介に悪感情を持つでもなく、か ばう素振りまで見せていた。 478 雄介に対して様々な感情がうずまき、それをどこに持っていくべ きかもわからず、牧浦は混乱した。 隠しておけばよいものを、わざわざ自分で言うのも不思議だった。 露悪的な言い方をしているようにも見えた。 ︵⋮⋮おかしな人だ⋮⋮︶ 以前の牧浦なら、嫌悪感を丸出しにして、雄介を糾弾していたか もしれない。 しかし、この極限状態で、もうすでに自分の弱さも汚さも、十分 に自覚してしまっている。 雄介は何も言わないが、牧浦は医師でありながら、限られた医薬 品を私的に流用していたのだ。人のことを言える立場ではない。 そんな牧浦の葛藤をよそに、雄介は言葉を続ける。 ﹁だからまあ⋮⋮貸し借りの問題だな。あいつを抱く以上、三人を 守る義務があった。それを破っちまったから、こうやって駆けずり まわってるわけだ。好きこのんでボランティアやってるお前とは違 う。全然違う。こんなんなるまで根詰めてバカじゃねーかって思う が、そのおかげで助かったから、なんとも言えないな﹂ 褒めているのか、けなしているのか。 善意の医師である牧浦と、自分は違うと言いたいらしい。 ﹁⋮⋮はあ⋮⋮﹂ 大きくため息をつく。 ﹁なんだよ?﹂ ﹁私を困らせて楽しいんですか?﹂ 479 ﹁はあ?﹂ 自分の内面をこだわりなく見せる雄介に、触発されたのかもしれ ない。 これから話すことを、雄介にどう思われるかが気になった。 しばらくためらったあと、牧浦は口を開いた。 ﹁その⋮⋮聞いていただけますか﹂ ﹁なんだ? 遠慮すんな﹂ 雄介は興味なさげにコーヒーをすすっている。 牧浦は床を見つめたまま、心の底に沈めていたその光景を、ゆっ くりと口元にのぼらせた。 ﹁⋮⋮以前に、大学病院で⋮⋮赤子を殺したんです。母親に襲われ て、そのまま⋮⋮﹂ 雄介は黙って、耳を傾けている。 牧浦は言葉を続けた。 ﹁無我夢中だったんです⋮⋮。暗闇の中で、とてもおぞましいもの に見えました。でも、あれがゾンビだったのか⋮⋮わからなくて⋮ ⋮。生きていたかもしれない、無抵抗の赤ん坊を⋮⋮この手で⋮⋮。 とても柔らかくて、手応えもあまりなくて⋮⋮でも、壊れる瞬間は、 すごくよくわかりました⋮⋮﹂ 語尾は震えていた。 あの感触はまだ鮮明に残っている。 ﹁⋮⋮そうか。⋮⋮そりゃきついな﹂ 480 ﹁⋮⋮は⋮⋮い⋮⋮﹂ 喉の奥にこみ上がってきたものをこらえ、飲みこむ。 ﹁⋮⋮いつも、私を見てるんです。あの子が⋮⋮。夜も眠れなくて。 頭をいっぱいにしていないと⋮⋮。だから、許されたくて、ずっと ⋮⋮いろんなことを、抱えこんでいたのかもしれません⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介はカップを手に動きを止め、宙をながめている。 しばらくして、 ﹁今も見てんのか?﹂ ﹁⋮⋮さっき、いました。そこに⋮⋮。前ほどは、怖くなかったで すけど﹂ ﹁じゃあ許されたんじゃねーか? 知らんけどよ。放っときゃ消え るだろ﹂ そのぶっきらぼうな言い方に、牧浦は噴き出した。人を慰めるの がとことん苦手のようだ。 涙をぬぐって、 ﹁だといいんですけど﹂ ﹁うんまあ⋮⋮正直、ヤク中の幻覚っぽくてドン引きだな。俺以外 には言わない方がいいぞ﹂ む、と牧浦は不本意げに眉を寄せる。 それから肩を落とし、 ﹁⋮⋮そうですね。もう薬に頼るのもやめようと思います﹂ 481 ﹁それがいいわな。ヤク中じゃ美人がもったいないだろ﹂ 動きが止まる。 うつむき、しばらくして、 ﹁⋮⋮何を言ってるんですか⋮⋮﹂ 首元が赤く染まっていた。 不意打ちだった。 ﹁⋮⋮そんな反応されても困るんだけど﹂ ﹁⋮⋮なら、どうして言うんですか⋮⋮﹂ 顔を上げられない。 気まずくなった空気を変えるように、雄介が言った。 ﹁あー⋮⋮そうだ。山の野外センターに移動する計画のことは、ま だ聞いてないよな?﹂ ﹁⋮⋮はい。なんですか?﹂ 熱くなった首元を手で押さえながら、火照った顔を上げる。 それから雄介は、春になりゾンビが路上に出てくる可能性、それ に備えての、山への大移動の計画のことを語った。 ﹁今だとあんたも、委員会を抜けられないかもしれないけど、山に 移動したら環境も変わるし、そんとき医者に専念するっつって辞め ればいいんじゃねーか? 診療所でも作って、引きこもればいい。 おっさん連中とか、けっこう頼りになる奴もいるし﹂ ﹁⋮⋮﹂ 482 牧浦は、山での、その生活を想像した。 少しだけ、希望が見えたような気がした。 ﹁そうですね⋮⋮。いいかもしれません﹂ ﹁まあ無理すんなよ。ほどほどにな﹂ 先ほどの反撃のつもりで、冗談めかして、一緒に住みますか、と 言おうとして、口ごもった。 思った以上に真剣味が入りそうで、首元がふたたび赤く染まった。 483 43﹁日常﹂ 隆司の手術のあと、雄介と牧浦は二日ほど病院に留まった。 単なる虫垂の切除だけなら翌日にでも動けるが、破裂して膿が出 ていたために、様子を見る必要があったのだ。 幸い隆司に熱が出ることもなく、軽い運動が可能になり、食欲が 出てきたところで、帰路につくことにした。バンには大量の医薬品 や器具を積んでいった。 問題があったのは、市役所に帰還してからだった。 子供の手術のために病院に向かう、という置き手紙だけを残して、 リーダー格が失踪したのだ。市役所は大騒ぎになっていた。 呼び出された会議室は、ほとんど査問会のような雰囲気だった。 ﹁⋮⋮﹂ パイプ椅子に腰掛けながら、雄介は無言で周囲をながめる。難し い顔をしている者もいれば、居心地の悪そうな者、好奇心に駆られ ている者もいる。 この数日の行動について、牧浦がひと通り説明を終えたあとは、 誰が喋ることもなく、その場にはきまずい沈黙が漂っていた。 やがて、会長の水橋が、ため息をついて口を開いた。元高校教諭 らしい、さとすような、落ちついた声音だった。 ﹁とりあえず、無事で安心しましたが⋮⋮。二度と、こんなことは しないでください。心臓に悪い﹂ ﹁⋮⋮はい。申し訳ありません﹂ 隣に座る牧浦が、しおらしく頭を下げる。 484 ﹁武村さんも。いいですか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雄介は何か言おうとしたが、口をつぐみ、軽くうなずいた。 その投げやりな態度に、別の人間から声が上がる。 ﹁⋮⋮あんた、ここで一人しかいない医者を危険に晒したんだぞ。 そこをわかってるのか? いつ救助が来るかもわからない、このと きに⋮⋮﹂ ﹁悪かった。反省してる。マジに﹂ 実際は反省の気持ちなど欠片もないが、何か喋れば余計に目をつ けられる。近しい子供の治療のために、牧浦の善意につけこんで危 険に晒したという立場なのだ。下手なことは言えない。 ﹁あの⋮⋮﹂ 牧浦が口をはさんだ。 ﹁手術は、必要でした。おかげで、隆司君も助かりましたから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それにしたって、やり方があまりにも乱暴すぎる。ちゃんと 計画を立てて、安全を確保してからでないと。先生は、替えのきか ない方なんですから﹂ ﹁でも、本当にぎりぎりだったんです。あれ以上遅れていたら、回 復にも相当の時間がかかりました。手遅れになっていた可能性もあ ります。独断での行動は反省しています。ですが、武村さんのおか げで隆司君が助かったのは事実なんです。確かに無謀な行動でした が、武村さんは自信があったのだと思いますし、その通りに、ほと んど危険なことはありませんでした。こうして、三人とも無事に帰 485 ってこられましたし、結果としては、最良のものが得られたと思い ます﹂ ﹁そ、そうですか⋮⋮﹂ いつになく強い口調で話す牧浦に、他の人間も少し驚いていた。 どちらかというとまとめ役であり、和を尊重する牧浦だ。珍しい態 度だった。 雄介の方にも、二人の関係を推し量るように、ちらちらと視線が 集まる。 ︵おい⋮⋮︶ 牧浦のフォローのおかげで余計に目立っていることに、雄介は内 心でうめく。 それ以上は、糾弾の声はあがらなかった。 もともと子供を助けるために起こした行動だ。周りも、それを強 く非難することはできない。落としどころに迷うような雰囲気がた だよった。 ﹁あー⋮⋮調達班から出したい議題があるんだが、話を次に移して も?﹂ そう言いながら、社長がパンフレットの束の一つを掲げた。野外 センターの資料だった。 牧浦と雄介が帰るまで、移動計画を出すのは控えていたらしい。 もともと雄介発案のものだが、今は微妙な立場だ。うまく名前を出 さずに、移動プランについて説明してくれるだろう。 話がうやむやになり、運営方向に移ったところで、雄介は退席を 許可された。 486 ◇ 病院から積んできた荷物は大した量でもなかったので、雄介一人 で搬入することにした。牧浦の失踪については箝口令が敷かれてい たのか、こちらに注目する人間はあまりいなかった。 ただ、地下駐車場から医務室まで上がる途中で、市役所の雰囲気 が変わっていることに気づいた。 ︵なんか⋮⋮みんな小奇麗っていうか、さっぱりしてる?︶ 疲労や困窮でうらぶれた空気が、以前より減っているような気が する。 その違和感に内心で首をかしげながらも、荷物を運んでいると、 廊下の途中で、まるで待合室のようになっている場所に出くわした。 開いた扉の前にベンチが置かれ、数人の人間が、やや興奮ぎみにお 喋りに興じている。 ︵なんだ⋮⋮?︶ 扉の張り紙に目をやる。 そこには、マジックで大きく文章が書かれていた。 ﹃髪のカット。無料。一人三十分。十九時まで受付﹄ 部屋の中では、小野寺がほうきを片手に、床に散らばる髪の毛を 掃除していた。以前に物流センターでも同行した、メガネをかけた 大学生風の男だ。思わず声をかける。 ﹁何やってんの⋮⋮?﹂ ﹁あ⋮⋮武村さん﹂ 487 小野寺は、はにかんだような笑みを見せた。 ﹁ええっと⋮⋮﹂ 小野寺の視線の先に目をやると、金髪メッシュにポニーテールの 若い男、工藤の姿が目に入った。 こちらも物流センターで共闘した男だが、今ははさみとクシを手 に、若い女の髪をカットしている。体には布が被せられて、対面の 机には鏡が置かれていた。元は小さな事務室だったようだが、今は 整理され、美容室のような光景になっていた。 工藤がこちらに気づき、 ﹁お、武村か! 久しぶりだな﹂ ﹁よ。久しぶり﹂ 入り口にもたれながら、中を見まわす。あまり広い部屋でもない が、様々な年代の女が数人、そばで立ったまま談笑していた。午後 の陽差しが窓から入り、部屋を柔らかく照らしている。サロンのよ うな雰囲気だった。 ﹁⋮⋮何? 床屋やってんの?﹂ ﹁おう。大盛況だぜ﹂ 喋りながらも、工藤は滞りなく手を動かしていく。髪のまとめ方 や、はさみの持ち方などに、素人離れした雰囲気があった。 ﹁お前も切ってやるから、夜に来いよ。久しぶりに飯でも食おうぜ﹂ ﹁⋮⋮おー。サンキュ⋮⋮?﹂ 488 雄介は首をかしげながら、部屋を後にした。 ◇ 言われた通り、夜の七時過ぎに部屋に向かうと、ちょうど最後の 客だったらしい。初老のおばさんに、工藤が鏡で仕上がりを見せて いた。女は笑顔でうなずき、工藤もそれに笑顔で応えている。驚く ほど素直な笑い方だった。 女はこちらにまで頭を下げ、待っていた同年代の女と一緒に、楽 しそうに喋りながら部屋を出て行った。二人が遠ざかると、部屋は 静かになった。 一息ついた工藤が、入り口に立つ雄介を目ざとく見つけた。 ﹁よし、来たな。座れ﹂ ﹁おう⋮⋮﹂ 戸惑いながらも椅子に腰かける雄介に、工藤は慣れた様子で覆い 布を被せる。首元を留める手つきもよどみない。横の小野寺に顔を 向けながら、 ﹁明日はメンズデーにするか。女ばっかで男が来づらくなってそう だ﹂ ﹁いいかもね。散髪したい男の人も多いと思うし﹂ 答える小野寺は、助手のようなことをしているらしい。ポットへ のお湯の準備や、濡れタオル、床の掃除などで、細々と働いている。 その様子をながめながら、雄介は意外そうな口ぶりで言った。 ﹁っていうか、工藤⋮⋮お前、髪切れたんだな。元美容師とか?﹂ ﹁んー⋮⋮まあな⋮⋮﹂ 489 少し口ごもる。 ﹁⋮⋮髪型の希望とかある?﹂ ﹁伸びてるとこだけ、適当に短くしてくれ﹂ ﹁適当な。りょーかい﹂ 軽く答えると、霧吹きで髪を湿らせていく。指で挟んだ髪をまと め、鏡を見ながら、カット後のイメージを固めているようだった。 その様子を鏡を通して見ながら、 ﹁でも意外だな。生産的というか、工藤にこんな特技があるっての﹂ ﹁ですよね。初めて聞いたときは驚きました﹂ 二人の言葉に、工藤は苦笑いを浮かべる。 ﹁俺だっていろいろあるっつーの﹂ ﹁いつか言ってたなー。人に歴史ありって。あれか?﹂ 社長について語っていたときに、工藤がつぶやいた言葉だ。 ﹁ああ⋮⋮まあな。俺も、もともとこっちが仕事だったんだよ。⋮ ⋮あんま向いてなかったけどな﹂ ﹁ふーん⋮⋮?﹂ 喋りながらも、はさみはサクサクと音を立てて、髪を切り落とし ていく。繊細な手つきで微調整を繰り返しながら、全体的な雰囲気 は変えず、形を整えていく。プロの仕事だった。 工藤はしばらく無言でいたが、疑問の残る空気を察したのか、口 を開いた。 490 ﹁自分で言うのもなんだけど、技術は悪くないぜ。ただ⋮⋮客とト ラブル起こしてな﹂ ﹁トラブル?﹂ 工藤は少し沈黙したあと、手を動かしはじめた。 ﹁⋮⋮店に入って三年目ぐらいかな。めちゃくちゃイヤミなオバは んが来てさ﹂ カットを続けながら、 ﹁担当についた新人の女の子が泣かされてなあ⋮⋮。見た目は確か にパーだったけど、努力家で、いい子だったのにな﹂ 一度手を止め、整えた髪の形を、鏡で確認する。 ﹁しょうがないから俺が代わったけど。やっぱムカつくからさ。髪 洗ってるときに、痒いところないですかーつって、水ん中に突っこ んでやった。もがもが言って手足バタバタさせて、何喋ってんのか わかんなかったけどな! 傑作だったぜ、あれは﹂ そこで工藤は一息つき、 ﹁⋮⋮ま、当然クビになるわな﹂ ﹁なるなー⋮⋮﹂ ﹁なりますね⋮⋮﹂ ﹁髪切るのは好きだけど、あれで客商売に向いてねえってわかった から、再就職も面倒になってな。で、社長さんの世話で、土方はじ めた。こっちはまだ素人だけど、俺としては性に合ってる﹂ 491 ﹁ふーん⋮⋮。で、なんでまた髪を?﹂ 工藤は恥ずかしそうに、 ﹁いや、こいつがやれって言うからさ⋮⋮﹂ ﹁せっかく技術があるのに、もったいないと思って。みんな喜んで ましたよね、武村さん﹂ ﹁ああ、人いっぱい来てたしなあ⋮⋮。なんか、市役所の雰囲気も 良くなってたし。地味だけどかなり重要な仕事かもよ。これで食っ てけるんじゃね?﹂ ﹁⋮⋮こんなもんおまけだよ、おまけ﹂ 言いながらも、工藤も満更でもなさそうな雰囲気だった。 小野寺がしみじみとつぶやく。 ﹁本当に、人は見かけによらないっていうか⋮⋮。工藤さん、難し い本も読んでましたし﹂ ﹁ええー⋮⋮嘘だろ。見えねえ⋮⋮﹂ 雄介のうさんくさそうな視線に、工藤は髪を切りながら、 ﹁ただの歴史小説だって⋮⋮。中国だから漢字が多いだけで、別に 難しくもなんともねーよ。いろんな奴がチャンバラしてるだけだ﹂ ﹁漫画じゃない時点で意外だな﹂ ﹁ですよね﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁おい、髪はちゃんと切れよ。もういいもういい! いらんことす んな!﹂ 髪型で攻防する二人を見て、小野寺が噴き出す。 492 その後はとりとめもない雑談が続いた。 カットが終わりに近づくと、工藤が思いだしたように言った。 ﹁そういや、明日の夜は空いてっか?﹂ ﹁別になんもねーけど﹂ にや、と工藤は笑みを浮かべる。 ﹁じゃあさー、飲み会やろうぜ﹂ ﹁飲み会?﹂ ﹁髪切った女二人と、合コンっぽいのやろうって話になってな。武 村が来るなら、もう一人連れてきてくれるってよ。酒はちょっとし かねーけど、こういうのはノリだしな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮エロいこともできるかも﹂ 雄介は黙って、布の下から右手を差しだした。 その手を、工藤ががっちりと握りしめる。 ﹁やるじゃん﹂ ﹁任せろよ﹂ 工藤はさわやかな笑みを浮かべた。 小野寺は苦笑しながら、それをながめている。 布を取り、落ちた髪の毛を払っていると、入り口に人影が現れた。 ﹁あ、こちらにいらしたんですか﹂ 白衣姿の牧浦だった。雄介を探していたらしい。 493 ﹁先生も髪切っていきます? 今ならタダっすよ﹂ ﹁髪、ですか? いえ、私は⋮⋮﹂ 牧浦は戸惑った様子を見せたが、簡易的な美容室となっている部 屋をながめて、自分の髪を手でたぐりよせる。枝先をじっと見つめ たあと、雄介に視線を向けた。 ﹁⋮⋮武村さんも切ってもらったんですか?﹂ ﹁おう。さっぱりした﹂ ﹁⋮⋮それでは、お願いしてもいいでしょうか﹂ ﹁任せてくださいって。椅子にどーぞ﹂ 言われるまま、おずおずといった様子で腰を下ろす。 正面の鏡を見て、牧浦は不思議そうな表情を浮かべた。いきなり 戻った日常的な光景に、戸惑っているらしい。雄介はその様子を見 ながら、 ﹁そういや俺になんか用か? 探してたみたいだけど﹂ ﹁ああ、会議で決まったことがありまして。後でお話しします﹂ ﹁ふーん﹂ 布が被せられ、鏡の位置が調整される。 ﹁カタログでもあればいいんすけどね。たいていの髪型はできます よ。どうしましょ﹂ 工藤の言葉に、牧浦は黙りこむ。それから鏡ごしに、こちらをう かがうように、 ﹁⋮⋮武村さんは、どんな髪型がお好きなんですか?﹂ 494 ﹁俺?﹂ ﹁ええ。短い方がいいとか⋮⋮﹂ ﹁いや⋮⋮別に。特にはねーかな﹂ ﹁うーん⋮⋮そうですか﹂ 牧浦は首をかしげながら、鏡に映した髪を、手でいじっている。 雄介はふいに、横から注がれる、工藤と小野寺の視線に気づいた。 二人は驚いたような表情で、こちらをながめていた。 ﹁⋮⋮?﹂ 困惑する雄介をよそに、工藤の顔が面白がるような表情に変わる。 問いただす間もなく、肩を抱かれ、物陰に連れて行かれた。 工藤は小声で、 ﹁⋮⋮さっきは変なこと言って悪かったな。飲み会の話は無しだ﹂ ﹁へっ?﹂ ﹁いやー、知らなかったからさ。ほんと悪いな。二人で行ってくる わ﹂ ﹁お、おい⋮⋮﹂ 工藤は席に戻り、牧浦の要望を聞いて、カットの準備を始める。 雄介は呆気に取られたまま、それをながめた。 ◇ しばらく廊下のベンチで時間を潰していると、牧浦が部屋から姿 を現した。 ﹁あの⋮⋮どうでしょう?﹂ 495 牧浦は恥ずかしげに首元を押さえながら、伏目がちにこちらを見 上げてくる。長い黒髪が整い、綺麗な顔の輪郭が出て、すっきりと した雰囲気になっていた。目の下の隈さえなければ、相当な美人に なるだろう。 ﹁いいんじゃないか?﹂ ﹁そうですか? 良かったです﹂ 牧浦はかすかに微笑んだ。 ﹁それじゃ、行きましょうか﹂ ﹁医務室か?﹂ ﹁はい。荷物の整理がまだ終わっていないので﹂ ﹁オーケー。わかってるよ。手伝う﹂ ﹁そうですよ。しばらくは、借りを返していただかないと﹂ 歩きながら、牧浦はくすくす笑った。手術のあとに雄介が言った、 借りができた、という言葉を指しているのだ。 雄介はため息をつき、 ﹁しがらみってのは、ままならんよなあ⋮⋮﹂ 隆司が回復したことで、雄介の心にあった引っかかりは消えてい る。野外センターへの移住が成功したら、この集団から離れても構 わないとさえ思っていた。 医者を含む、安定したコミュニティという構想は、ほぼ実現しつ つあるのだ。適当に街で暮らし、必要なものができたら、山に取引 に行けばいい。以前に考えた、交易商人のような立場だ。 496 ︵あとはあいつらか⋮⋮︶ 残る懸念は、ゾンビの知性体たちだ。集団に対してだけでなく、 雄介に対しても危険になりうる。 考えこむ様子を見せる雄介に、牧浦は慌てたように言った。 ﹁あの、借りといっても、あまり本気にされなくても大丈夫ですよ。 こちらも助けられたので⋮⋮。その、お忙しいなら⋮⋮﹂ ﹁ああ? いや、違う違う。それは気にしなくていい。なんかある なら、今のうちに言ってくれ﹂ その言葉を、牧浦は神妙な面持ちで受けとめていた。 医務室に到着したあと、医薬品や器材の仕分けを始めながら、牧 浦は会議でのことを話した。 ﹁野外センターへの移動、決まりました。道中の安全次第ではあり ますけど⋮⋮﹂ ﹁へー⋮⋮。じゃあ、さっさと船探さないとな﹂ ﹁⋮⋮また街へ?﹂ ﹁ああ。キー付きの船に、操縦の練習も見込んで⋮⋮一週間ぐらい はかかるか﹂ ﹁⋮⋮﹂ ふと見ると、牧浦の手が止まっていた。 ﹁⋮⋮やっぱり、危険だと思うんです。今まで武村さんに頼ってお いて、今さらですけど﹂ ﹁ほんとに今さらだな﹂ ﹁そうですね⋮⋮﹂ 497 牧浦は苦笑し、立ち上がった。リストとの照合が済んだ医薬品を 棚に並べ、取り扱いに注意が必要なものは、奥の控え室に運びこん でいく。簡単な手術ができるだけの器具も持ちこんであった。 牧浦は背を向けたまま、 ﹁私が言うのもおこがましいですけど、気をつけてくださいね。本 当に替えがきかないのは、武村さんのような人の気がするんです﹂ その言葉に、雄介は横目で、牧浦を観察する。 淡々と整理をする牧浦の表情からは、その内心はうかがえない。 自分の秘密に勘づいたのかとも思ったが、そうでもなさそうだ。 ﹁なんでそう思うんだ?﹂ ﹁⋮⋮わかりません。なんででしょう? 目的意識かな⋮⋮。たぶ ん、今のような状況では、安定を求めるだけでは駄目なんでしょう ね。周りに動きを与えられる人が必要なんだと思います。⋮⋮私に 足りなかったのは、それか⋮⋮﹂ 後半はほとんど独り言になっていた。自責の念というわけでもな く、ただ、ふと気づいた、というような口調だった。 雄介は特に返事をすることもなく、作業を続けた。沈黙がおりる が、気まずいものではない。 以前のカウンセリングでは、言葉を交わしながらもピリピリした ものが漂っていたが、今は、気安い空気とすら言えた。病院での出 来事で、お互いに底が割れている。牧浦自身、今さら格好つけても 仕方がない、というような雰囲気だった。 ふと、牧浦が口を開いた。 ﹁ああ、そうだ。部屋割りの変更も、会議で決まりました。明日、 また連絡がまわると思いますが﹂ 498 ﹁部屋割り?﹂ ﹁今の部屋割りは、救助が来るまでの暫定的なものでしたから。元 から市役所に居た方々と、放送を聞いて新しく来られた方たちとで、 垣根があるのは否めません。新しく警備班に協力してくださるとい う方々もいますし、この際、移住の前に部屋割りを変えてみて、野 外センターでの参考にしようかと﹂ ﹁へえ⋮⋮﹂ 人間関係は、どうしても合う合わないが出てくる。問題のないグ ループもあれば、いざこざのたえないグループもあるだろう。それ を移住前に、試験的に洗い出しておこうというのだ。 ︵それに⋮⋮︶ 救助が来ないという事実は、避難民に相当な不安を与えるはずだ。 そんなときに、委員会が何も計画を提示できないというのはまず い。市役所内の空気は鬱屈し、すぐに統制が取れなくなるだろう。 山への移住計画があっさり承認されたのも、何か目標が必要だった からかもしれない。 仕分けを続ける途中で、雄介は見慣れない箱を見つけた。 ﹁ん? こんなん入れたっけ﹂ ﹁あ、それは⋮⋮﹂ 取り出した小箱の中には、カラフルなパッケージが詰めこまれて いた。その一つを手に取って、眼前にかざす。 コンドームだった。 牧浦は顔を少し赤くし、気まずそうに目をそらすが、すぐに平静 な声で言った。 499 ﹁⋮⋮女性陣に配ろうと思いまして。こればかりは、駄目と言って 禁じられることでもないですから。せめて、女性側に自衛して貰わ なければ﹂ ﹁ああ⋮⋮なるほど﹂ 市役所内での風紀のことを言っているのだろう。危機的、閉塞的 な状況にあって、若い男女が居れば、必然的に起こることだった。 かといって妊娠はリスクが高い。それを避妊具で防ごうというのだ。 産科医らしい気配りだった。 ︵そーいや俺の手持ちってあったっけ⋮⋮ダンプに置いたまんまか。 しばらくやってねーしなー。時子ちゃん元気にしてるかな⋮⋮︶ そんなことを考えながらパッケージをながめていると、牧浦の声 がかかった。 ﹁⋮⋮良ければお一つどうぞ﹂ ﹁え、いや⋮⋮いいよ﹂ ﹁そうですか?﹂ ﹁⋮⋮じゃあ貰うけど﹂ 小さなそのパッケージを、懐に入れる。 牧浦はこちらを見ずに、 ﹁限りがあるので、無節操に使わないでくださいね﹂ ﹁無節操って⋮⋮﹂ ﹁お誘い、残念でしたね﹂ すぐに思いあたった。工藤の飲み会のことだ。 500 ︵聞いてたのかよ⋮⋮︶ 風紀委員にエロ本を見つかったような気分だった。 ﹁⋮⋮ああ、残念でしたよ。誰かさんのおかげで﹂ ﹁⋮⋮﹂ ふてくされたように答えるが、返事はない。 視線をやると、牧浦は自分の手元を見つめていた。所在なさげに 両手を組み、 ﹁⋮⋮すみません。こんないやみを言うつもりではなくて⋮⋮その﹂ 牧浦の瞳が、こちらを見つめる。 焦点が揺れている。様子がおかしかった。 ﹁⋮⋮おい、大丈夫か?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 屈みこんで作業をしていた牧浦の、その体勢が崩れ、床に手をつ いた。 顔色が悪い。 牧浦はうつむいたまま、とぎれとぎれの声で、 ﹁⋮⋮たぶん、離脱症状です⋮⋮ぶりかえして⋮⋮﹂ ﹁ああ、薬のか﹂ 雄介は舌打ちする。 牧浦が服用していたのは、徐放性のモルヒネだ。医療用麻薬で、 ガン患者の緩和ケアなどに使われる。苦痛を抑えるために使うなら 501 問題はないが、牧浦のように精神的に依存してしまうと、中毒に陥 ってしまう。 今起きているのは、急に薬を減らしたことによる禁断症状だった。 ただ、依存が比較的軽かったため、熱や悪寒、頭痛や吐き気など、 風邪を引いたような症状だけで済んでいる。病院をたつ前にピーク が来て、それから少し落ちついていたが、またぶり返してきたらし い。 ﹁とりあえず奥で休んで⋮⋮いや、薬のむか?﹂ 牧浦はかすかに首を振る。量を減らしたモルヒネで症状を抑える ことができるが、それに頼るほどではないらしい。 奥に運ぼうとしたところで、ドアをノックする音が響いた。 牧浦は、雄介の手を支えに立ち上がり、デスクにもたれて、部屋 の外の人間に応えた。扉が開かれ、女が顔を出す。 ﹁遅くにすみません。夕ごはんを吐いた人がいて、先生に診ていた だきたいんですが⋮⋮﹂ ﹁大丈夫です。こちらに連れて来ることはできますか?﹂ 困ったような女の表情に、牧浦は小さくうなずいた。 ﹁わかりました。向かいます﹂ ﹁おい⋮⋮﹂ 雄介の言葉に、牧浦は首を振り、それから平静をよそった声で言 った。 ﹁⋮⋮良ければ、ついてきていただけると﹂ ﹁わかった。荷物持ちだな﹂ 502 ﹁⋮⋮助かります﹂ 往診用の鞄に薬をいくつかまとめ、二人は女の後に続いた。 ◇ 患者は五十代の男で、熱もなく、牧浦の診察では、単なる食あた りだろうということだった。念のためにいくつか薬を処方し、説明 をしたあと、大部屋を出る。 医務室へと戻る、その途中でのことだった。 市役所の照明のほとんどは落ち、あたりは薄暗い。人通りも少な いはずなのに、廊下の先の中央ロビーには、大勢の人間の気配があ った。静かなざわめきと光が、廊下に漏れ出している。 雄介が疑問を覚えていると、牧浦がつぶやくように、 ﹁ああ⋮⋮映画です﹂ ﹁映画?﹂ ロビーは意図的に照明が落とされているらしく、あたりは暗がり に沈んでいた。その中で、たくさんの人影が座っていた。壁の一角 だけが広く照らされ、そこに外国の街並みが映っている。 プロジェクターで映画を上映しているらしい。床に敷かれたシー トに、花見のように三々五々と人が座り、壁のスクリーンを見つめ ている。 ︵この寒いのに⋮⋮︶ 身を寄せあって毛布をかぶる姿を見て、雄介はそう思ったが、ロ ビーの上映会は、明るい雰囲気に満ちていた。 壁ぎわのパイプ椅子に座り、小声でお喋りに興じている人間もい 503 れば、通りがかりに足を止めて、じっとながめている人間もいる。 出入り自由で、一人で隅にいてもその空気を楽しめる、祭りのよう なものだった。避難民の慰撫が目的だろうが、室内にしなかったの は、庁舎内の一体感を優先したのかもしれない。 ︵いろいろ考えてんだな⋮⋮︶ ふと、観衆の中に、見知った小さな影を見つけて、雄介は視線を とめた。 隆司だった。今朝に別れたばかりだが、その後も体調は良さそう で、夢中で映画をながめている。 横には、駐屯地で見つけた女の子が寄り添っていた。人の多いと ころが苦手なのか、落ちつかなげに周囲を見まわしている。警戒す るような仕草だった。 その隣にいた細身の影が、女の子に耳打ちするように、身を寄せ た。 深月だ。 闇に沈んで表情は見えない。 手を差し伸べている。 女の子は躊躇したが、恐る恐るその手を握ると、スクリーンに視 線を戻した。今度は映画に集中している。 隣に座っていた男の影が、深月に何事かを話しかけた。深月はか すかにうなずき、男が楽しそうに身を揺する。 その四人は、どこかしっくりときていた。 まわりは微笑ましそうに、羨ましそうに、その光景をながめてい る。 理由はすぐにわかった。 今この場には、家族で生き残っている人間は少ない。みな散り散 りになった者たちだ。寄る辺ない集団とも言えた。 いくら祭りの雰囲気をかもしだしても、その寂寥感はぬぐえない。 504 あの四人を通して周囲が見ているのは、今はもう貴重となった、 かつての家族の、団欒の光景だった。 ︵⋮⋮︶ 視線を感じたのか、深月がこちらを振り向こうとする。 歩き出すとき、横にいる牧浦の視線を強く感じた。 505 44﹁居場所﹂◆ 牧浦を控え室に寝かせたあと、雄介は、目録の清書のためにペン を走らせていた。 すでに時間は深夜だ。作業はあまり進んでいない。 デスクライトの明かりだけが、部屋の中を照らしている。 ﹁はー⋮⋮﹂ ため息をつき、伸びをする。 諦めてライトを消し、窓に歩み寄った。ブラインドを上げると、 月明かりにおぼろげに浮かぶ公園の様子が目に入った。川沿いには 警備班の見張りもいるはずだが、木陰に隠れて姿は見えない。 梢の下の、その場所をながめながら、雄介は物思いにふけった。 隆司の手術は成功した。薬剤も器具も確保できている。よほどの ことがない限り大丈夫だろう。 もう墓は増えない。 ﹃なんで⋮⋮守ってくれなかったんですか?﹄ スーパーでの深月の言葉が、ふっと頭をよぎった。 ︵義理は果たしたよな⋮⋮︶ 特に心残りもない。貸し借りについて一席ぶった手前、牧浦には それなりに手を貸すつもりでいたが、それも長くはかからないだろ う。山が軌道に乗るまでだ。 そのあとは⋮⋮ 506 ﹁適当にやるかあ﹂ 街に戻って、以前のような生活をする。残骸を漁り、美人のゾン ビでも囲って、無為に日々を過ごせばいい。知性体もどうにかなる だろう。 決めると、心の霧は晴れた。 空腹感を思い出し、デスクに戻って、桃の缶詰を手に取る。床の ダンボールには、消化に良さそうなものが大量に入っていた。体調 の悪い牧浦あての食料だ。 蓋を開け、割り箸で桃を口に運んでいると、控え室からかすかな 物音が聞こえた。牧浦が起きたらしい。 身支度の気配のあと、ほどなくして扉が開く。 牧浦はこちらを見つけると、ぼんやりした様子のまま、ドアに寄 りかかった。 ﹁もう大丈夫なんか?﹂ ﹁⋮⋮ええ、だいぶ良くなりました﹂ 寝ていたのは数時間ほどだが、気分は持ち直したらしい。今は白 衣も着ておらず、セーターとロングスカートの私服姿だ。 雄介は桃缶をかかげ、 ﹁食う? っていうか勝手に食ってるけど﹂ ﹁⋮⋮いただきます﹂ 近づく足取りはしっかりしていた。それなりに復調したらしい。 缶詰を渡すと、雄介はデスクライトをつけ、目録の清書に戻った。 牧浦は缶詰を受けとったあとも、手をつけず、そばの椅子に座り、 作業する雄介をじっと見つめていた。 507 手元の缶詰と、雄介の作業を交互にながめながら、なにか考え事 をしているようだった。 静かな部屋に、しばらくペンの走る音だけが続く。 ふいに牧浦が言った。 ﹁⋮⋮武村さんは、ここを出て行くつもりなんですか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 唐突なそれに、雄介は手を止め、黙りこんだ。 その反応で、牧浦は確信を深めたようだった。桃缶を置き、こち らに身を乗り出してくる。 ﹁⋮⋮今日の雰囲気で、なんとなくわかりました。ここを離れたが っているのが。やはりそうなんですね﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮なぜですか?﹂ 雄介は鬱陶しそうに言った。 ﹁別に、今すぐ出て行ったりはしねーよ﹂ ﹁野外センターへ移ったら、ですか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦は困惑の表情で、 ﹁どうしてですか? ここは安全で、食べ物も水もあります。いろ んな人がいて、助けあえます。⋮⋮いえ、武村さんなら、一人でも どうにかなるのかもしれません。でも⋮⋮﹂ 牧浦は言葉を切り、踏みこむ覚悟を決めたように言った。 508 ﹁どうして、一人になろうとするんですか? ⋮⋮他人と一緒にい るのは、嫌いですか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮居場所がないと感じているんですか? ここには自分の居場 所がないと。だから、心を開かないんですか?﹂ ︵自由に生きてるって言えよ。てめーらは足手まといなんだよ︶ 牧浦の口調が気に障り、反射的に言い返しそうになったが、結局 言葉にはしなかった。どう転んでも、牧浦はこちらに踏みこんでく るだろう。 牧浦はしばらくこちらの表情をながめたあと、視線を落として続 けた。 ﹁⋮⋮もし、居場所がないと感じているなら⋮⋮それは、心を開か ないと作れません。壁を作り、仮面を被っていては、辛くなるだけ です⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 沈黙の空気が張りつめていく。 雄介は椅子から立ち上がり、扉に向かった。これ以上、カウンセ リングの真似事に付きあう気はなかった。 扉に手をかけたところで、牧浦の足音が近づき、背中に柔らかい ものが押しつけられた。体の前面に、牧浦の細い両腕がまわされて くる。遠慮がちに触れてくる腕に、ゆっくりと力がこめられた。 牧浦に背後から抱きしめられていた。 ﹁⋮⋮﹂ 509 雄介は戸惑ったまま、身動きせずにいた。 牧浦も何も言わない。 五本の指が、雄介の体をなぞるように、かすかに動く。 か細い声で、 ﹁知りたいんです。あなたのことを﹂ その言葉に、雄介はゆっくりと体の力を抜いた。 ﹁⋮⋮ならさあ、人を可哀そうな奴扱いすんのはやめてくれよ﹂ ﹁⋮⋮すみません﹂ 言いながらも、腕を離そうとしない。牧浦の柔らかい抱擁を受け ながら、雄介はその感覚に戸惑った。一人の女としての牧浦の存在 が、強く意識された。 牧浦は背中に顔をうずめたまま、 ﹁私も、私にもわかるんです。薬に逃げて、このありさまですから ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮たぶんさ、もし俺に問題があるとしてもよ、お前とは全然違 うと思うけど﹂ ﹁それでも、一人よりは⋮⋮﹂ 腕に力がこめられる。 柔らかい体を押しつけられ、妙な気分になりそうになったとき、 牧浦がか細い声でつぶやいた。 ﹁⋮⋮武村さんは、私に、興味はありませんか?﹂ 不安を含んだ声音だった。 510 ﹁そりゃ⋮⋮ある、けど﹂ ﹁⋮⋮その興味が、私の勘違いでなければ、いいんですけど﹂ ﹁⋮⋮何が﹂ ﹁⋮⋮美人って、言ってくれたこと⋮⋮みたいな﹂ ﹁あー⋮⋮いや、勘違いじゃない⋮⋮マジ﹂ ﹁ほんとですか?﹂ ﹁ああ﹂ しばらくの沈黙のあと、牧浦はくすぐるように言った。 ﹁⋮⋮奥の部屋に行きません?﹂ 控え室に入ると、背後で鍵の締まる音がした。 雄介は振りかえり、背を向けていた牧浦をかるく抱き寄せる。首 すじに鼻面を埋めると、かすかな汗の匂いがした。 牧浦は焦ったように、 ﹁あっ、待って⋮⋮!﹂ ﹁いやお前、あれだけ挑発しといて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮お、奥にマットもありますから、そこで⋮⋮﹂ 部屋の奥、机やキャビネットで陰になる場所に、マットが敷かれ ていた。畳んだ毛布も置かれている。牧浦は小さなヒーターの向き を変え、スイッチを入れた。橙色の光が、暗い部屋の中で、足元を 照らしだす。 ﹁どうぞ、座ってください﹂ ﹁⋮⋮うん?﹂ 511 言われるままに、マットにあぐらをかくと、なぜか牧浦は膝を折 り、正座で正面に座った。スカートも綺麗に折り入れ、生真面目に こちらを見つめている。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ これはもう手を出していいのか悩んでいると、牧浦が口を開いた。 ﹁とりあえず⋮⋮その、見解を統一しておこうと思うんですが﹂ ﹁な、なに?﹂ ﹁えっと⋮⋮、そうですね。カウンセリングの基本は、なんだかわ かりますか?﹂ ﹁⋮⋮さあ?﹂ 唐突な言葉に、首をかしげる。 ﹁それは、信頼関係です。いくら傾聴の技術があっても、信頼がな いとお話は聞けません。これは人間関係の基本でもあります﹂ ﹁⋮⋮うん。それで?﹂ ﹁信頼を醸成する方法にはいろいろあって⋮⋮その、スキンシップ もその一つです。例えば⋮⋮﹂ 牧浦は握手をするように、右手を差し出してくる。雄介が釣られ て手を取ると、両手で、ふわりと包みこむように握りしめられた。 少し冷えた体温が伝わってくる。 ﹁握手もそうですが、皮膚と皮膚の触れあいは、本能的に安らぎを、 親近感を生じさせるものです。もちろん、少なくとも相手を嫌って いなければという前提はありますが﹂ 512 ﹁はあ⋮⋮﹂ ﹁男女の行為も、その延長線上にあります。欲望をただぶつけるの ではいけません。身体的なコミュニケーションを通じて、お互いに いたわりあい、理解しあうことが大事です﹂ ︵⋮⋮あれ、なんか説教されてる?︶ 雄介はぽかんと口を開けたまま、牧浦を見つめた。言葉を言いき ったことで、牧浦はなぜか満足げな表情をしている。 ﹁⋮⋮もっとこう、適当でいいんじゃね﹂ ﹁だめです。難しいのはわかりますけど、がんばってください﹂ ﹁はあ⋮⋮うん。よくわかった。皮膚と皮膚の触れあいだっけ? それで信頼を深めるんだよな。そのためには服を脱がないとな﹂ ﹁⋮⋮そ、そうですね﹂ 雄介がジャケットを脱ぎ、シャツも脱いで半袖姿になると、牧浦 もぎこちない手つきで服を脱ぎはじめた。長い髪をまとめ、セータ ーの中に入れる。それから腕を抜き、首から脱ぎ捨てると、下から 白いブラウスが現れた。 牧浦はボタンに手をかけたあと、一瞬動きを止めたが、顔を赤く したまま外していった。 ︵おお⋮⋮着痩せするタイプか︶ かすかに揺らぐブラウスの隙間から、白いレースの膨らみが見え た。ボタンがすべて外れると、牧浦はブラウスの前を片手で閉じな がら、膝に視線を落とし、動きを止めた。 ヒーターの放射熱で、あたりはじんわりとした暖かさになってい る。正直なところすぐにでも押し倒したいが、牧浦の言動への興味 513 がまさった。 ﹁んで、どうすんの? また握手すんの?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦は覚悟を決めたように顔を上げた。 ブラウスを押さえる手を放し、腰を浮かせる。こちらの膝に手を つき、三十センチもない距離から、牧浦の瞳がこちらを見つめた。 ﹁触ってください⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ その誘惑に吸引されるように、手が自然に伸びた。ブラウスを割 り開いて、白い腹部に触れる。ほっそりした脇腹をなぞると、牧浦 は身を震わせた。 ﹁んっ⋮⋮﹂ 鼻にかかった声が漏れる。 すべすべした肌に誘われ、ブラウスの下に手を滑らせる。細身だ が、皮膚の下に柔らかい弾力があった。かすかなあばらの感触をと らえるように、指をなぞっていく。 牧浦は両手を膝に置き、胸を突き出すようにして、その侵入の感 覚に耐えていた。ブラウスは完全にはだけ、白いレースが縁取る二 つの膨らみが、雄介の手の上にある。 牧浦はか細い声で、 ﹁あの、私も、いいですか⋮⋮?﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 514 うなずくと、牧浦の指がTシャツの裾から入ってきた。かすかに 冷えた指先が、脇腹を這い上がる。羽毛でなぞられるようなそれに、 ぞわりと鳥肌の立つ感覚がした。 指が優しく体を撫でながら、背中にまわっていく。 牧浦の体が近づき、半裸の胸の膨らみが、こちらの胸板に押しつ けられた。 ﹁⋮⋮ん⋮⋮﹂ 首元に口づけされる。少しかさついた唇と、控えめに差しだされ た舌の感触が、焦らすように首すじをのぼってくる。寒気に近い快 感が走った。 視界の端で、牧浦の唇がいったん離れる。ぺろりと舌先をのぞか せ、ゆっくりと口元に近づいてくる。 ﹁⋮⋮んっ﹂ 湿った唇が、こちらに重なった。 雄介はあぐらを解き、牧浦の腰を強く抱き寄せた。もたれかかる 牧浦の体と密着する形になる。 唇同士をこすらせるような軽い口づけのあと、牧浦は蠱惑的な瞳 で言った。 ﹁⋮⋮コミュニケーションの大切さ、わかってくれました?﹂ ﹁お、おう﹂ ﹁本当に?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雄介は無言で、牧浦の背中のホックを外した。 515 ﹁あっ⋮⋮﹂ 密着する体の間からブラを抜き取ると、白いものがこぼれた。押 しつぶされる柔らかい乳房の中に、尖った感触があった。下から手 ですくい上げ、指の間に挟む。その小さなつぼみを、軽く圧迫を加 えながらこすった。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 牧浦は身を震わせてこらえる。 その耳に、雄介はささやいた。 ﹁例えばさ⋮⋮さっきの理解しあうっての、どこが気持ちいいかと かそういうのも含まれてんの?﹂ 牧浦は息を荒らげながら、 ﹁えっと⋮⋮そうですね。そういう側面も⋮⋮あるかもしれません ⋮⋮﹂ ﹁じゃあ教えてくれよ。どこが気持ちいいんだ?﹂ ﹁そんなのわかりませんよ⋮⋮!﹂ ﹁自分でわからないのに理解してくれって、甘えじゃないか? ど うなんだ?﹂ ﹁うぅ⋮⋮﹂ 胸をやわやわと揉まれながら、牧浦は顔を赤くして言った。 ﹁じ、じゃあ⋮⋮武村さんが、探してください⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁やんっ!﹂ 516 押し倒されて牧浦は悲鳴を上げた。 ヒーターがかすかに照らす中、マットの上で二人は絡みあった。 牧浦の股の間に、雄介が腰を入れる。スカートがまくれあがり、ス トッキングに包まれた下着があらわになる。 揺れる乳房を手に吸いつかせながら、ブラウスを脱がしていると、 牧浦が唐突に動きを止めた。 ﹁あ⋮⋮﹂ 牧浦の視線が、雄介の左腕に注がれている。腕は小さな注射痕で まだらになっていた。 その左腕を、牧浦は裸の胸にそっと抱きしめた。うるんだ瞳でこ ちらを見上げ、 ﹁⋮⋮これ、もう痛くないですか⋮⋮?﹂ ﹁ああ、別に全然﹂ ﹁⋮⋮待って、私もします﹂ 牧浦の手が、雄介のベルトの留め金を外す。ジッパーが下ろされ、 窮屈なものが解放された。下着の上から、こわばりの輪郭をなぞる ように指が動く。布ごしに快感が走る。 ﹁か、硬いですね⋮⋮﹂ ゆっくりと、ボクサーパンツの中に、牧浦の手が潜りこむ。 その柔らかい手が雄介の先端を探り当てると、壊れ物をあつかう ように、根元からそっと包みこんだ。 硬いものがそそり立ち、牧浦の手を圧迫する。手のひらで優しく こすられ、中は先走りですぐにぬるぬるになった。 517 牧浦に覆い被さったまま、雄介は息を吐いた。 ﹁エロいなお前⋮⋮﹂ ﹁な、何がですか?﹂ ﹁何がって⋮⋮﹂ ﹁私は、武村さんが心を開いてくれればと思って、コミュニケーシ ョンを理解してくれればと思って、してるんですよ⋮⋮?﹂ ﹁うーん⋮⋮。⋮⋮俺思うんだけど、これって前戯﹂ ﹁コミュニケーション、です⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ 牧浦は恥ずかしそうに言った。 ﹁私だって、もっと時間があれば⋮⋮。でも、今の環境で、武村さ んの心を開くのは、もうこの方法しかないような気がして⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それは俺がエロい奴ってこと?﹂ ﹁あの、そうじゃなくてね⋮⋮﹂ 牧浦は困ったように笑う。 体勢を変えてスカートとストッキングを脱がせ、下着に手をかけ たところで、なぜか牧浦に抵抗された。ぎゅっと太ももを閉じ、自 分の下着を押さえて、脱がされまいとしている。 ﹁⋮⋮おい?﹂ ﹁⋮⋮こ、これはだめです﹂ ﹁いや、つけたまんまじゃできねーだろ? さすがにここで止める のは無理っていうか⋮⋮﹂ ﹁そ、それはいいですけど⋮⋮脱がせるのはだめです﹂ ﹁⋮⋮﹂ 518 雄介は手をずらし、下着の横から指を入れた。腕をつかむ牧浦の 抵抗もむなしく、指は土手の茂みをかきわけ、熱を持ったその部分 を探り当てた。 ﹁あ⋮⋮ああぁ⋮⋮﹂ 牧浦は泣きそうな顔で、そっぽを向く。 そこはどろどろに濡れていた。 ひだをなぞり、太ももまであふれる液体の感触を確かめたあと、 雄介は意地悪げに耳元でささやいた。 ﹁⋮⋮俺の心を開くために、優しい牧浦先生が、コミュニケーショ ンの仕方を教えてくれてるんだっけ? そうだよな?﹂ ﹁んぅっ!﹂ ぬかるみの中に指を入れられ、牧浦が声を漏らす。親指を割れ目 の突起に押し当て、ゆるく指の腹でこすると、小さな快感の悲鳴が あがった。 ﹁あっ、いやっ! ぅんっ⋮⋮!﹂ ﹁じゃあこれはなんなんだよ?﹂ ﹁ち⋮⋮違⋮⋮﹂ 牧浦は涙目で視線をそらす。こちらを押さえる腕にも、ろくに力 が入っていない。 二本目の指も、簡単にのみこまれた。熱くうねる膣内が、指を締 めつけてくる。指の腹でひだを探り、親指のクリと挟むようにして こすると、牧浦の腰が跳ねた。ぶるりと震えが走り、切迫した悲鳴 が漏れた。 519 ﹁ゆっ、許して⋮⋮だめなんです⋮⋮! おかしくなってて⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮﹂ こちらも我慢の限界だった。ジャケットからゴムを取り、手早く パッケージを破って装着する。 牧浦は裸の胸を両手で隠すようにして、荒く息をつきながら、そ の様子を見つめていた。太ももはゆるく開かれたままで、その中心 はヒーターの薄い明かりで、淫秘にぬめっている。 雄介が太ももの間に腰を入れると、膝が一瞬閉じかけた。それも すぐに力が抜け、ゆるやかに雄介を招き入れる。 ぬかるみの中心に先端を押し当てると、腰の奥からむず痒い欲望 がわきあがった。 太ももの付け根に手を置き、ゆっくりと牧浦の中に押し入ってい く。 ﹁あっ⋮⋮ああっ⋮⋮!﹂ 胸が反り、乳房が揺れる。 牧浦は顔をそむけ、手の甲を噛み、声を押し殺している。 中はどろどろに溶けていたが、締めつけはきつかった。根元から 搾り取られるようで、雄介は息を吐いて快感をこらえた。 牧浦の太ももを大きく押し広げ、覆いかぶさるようにして、上か らその表情をながめる。 下に広がる黒髪の中、牧浦は口に手を当て、そっぽを向きながら も、水気を多く含んだ瞳で、恥ずかしそうにこちらを盗み見ている。 その胸にときおり走る快感の震えが、膣内の痙攣を通してこちらに も伝わってきた。 ﹁⋮⋮感じすぎじゃね?﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ 520 牧浦は無言で首を振って答える。 ピクピクと刺激してくる牧浦の中を味わいながら、腰を押しつけ て密着させる。 雄介が動きを止めると、牧浦は口元で組んだ手を下げ、頬を赤く 染めながら、こちらを見上げて言った。 ﹁た、武村さんは⋮⋮気持ち⋮⋮いいですか⋮⋮?﹂ ﹁ん⋮⋮かなりいい﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦は目をうるませ、横のマットについている雄介の腕をゆっく りとなぞる。それから、雄介を迎え入れるように、両手を背中にま わした。 ﹁中、いっぱいになってます⋮⋮﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ ﹁ね、動いて⋮⋮? 私で、気持ちよくなってください⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 腰をわずかに引いて突き出す。 ﹁ひうっ!﹂ 膨らんだ亀頭が、どろどろの中をえぐっていく。 腰を叩きつけるたびに、両側に開かれた牧浦の太ももが、たぷた ぷと揺れた。マットの上で尻肉が揺すられ、ぬめる割れ目の中に抽 送が繰りかえされる。牧浦の中は柔らかく、簡単に押し入れた。引 き戻すときにはねっとりと絡みついてくる。 521 ﹁あっ、やっ、んっ!﹂ すがりついてくる手に引き寄せられ、牧浦の腕が、背中に強く巻 きついた。 横に少し潰れた乳房は汗で濡れて、胸板に触れると吸いつくよう な感触がした。桜色の突起を指で転がしながら、乳房を下から揉み しだく。接合部は熱くとろけて、腰を叩きつけるたびに粘着質な音 が鳴った。 快感で焼けつく意識の中、乱れる牧浦の姿と重なるように、かつ ての姿がよぎった。 初めて会った公園での、心もとなさそうな表情。リーダーとして の硬い微笑み。冷厳な医師の顔。控え室の暗闇でうずくまる姿。 ﹁た、武村さんっ⋮⋮﹂ こちらの頬に両手が添えられ、唇と唇を合わせるために、優しく 誘導される。 ﹁ん⋮⋮﹂ 触れた唇の隙間から、わずかに舌の先端がのぞいた。牧浦は上気 した顔で、ついばむように唇を重ねてきた。 雄介は荒い息を吐き出し、 ﹁あー⋮⋮そろそろやばい﹂ ﹁⋮⋮いいですよ⋮⋮我慢、しないで⋮⋮いつでも⋮⋮!﹂ 牧浦は揺さぶられるままに、蕩けた目でこちらを見上げている。 わき上がってきた射精感に、腰が勝手に動いた。 522 ﹁やっ! あぁっ!﹂ 牧浦の太ももが、快感をこらえるように、こちらをぎゅっと締め つけた。抵抗する門を押し開くように、腰を打ちつける。痺れるよ うな快感が、腰の奥から亀頭の先端まで走った。 牧浦の快感にうるんだ瞳と目が合った。官能的に薄く開いた唇と、 その蠱惑的な瞳の色に、限界を越えた。 ﹁いきそ⋮⋮出る⋮⋮!﹂ ﹁きて⋮⋮! きてください⋮⋮! 私の奥まで触ってください⋮ ⋮!﹂ 牧浦の腰が押しつけられる。硬いものがさらに奥深くへと誘われ る。 ぬるぬるした内壁をえぐり進む亀頭が、奥にある柔らかい壁に突 き当たった。 ﹁⋮⋮ぁっ!!﹂ 牧浦の体がびくりと震えた。 亀頭の先端をくわえられ、無数のぬめったひだで無理やり締めつ けられるような感覚に、快感がほとばしった。腰が勝手に前後する。 明滅する思考の中、溜まりきった欲望が、牧浦の中に放出されて いく。 射精は長く続いた。 ゆっくりと腰を動かし、快感の余韻を吐き出していく。 荒い息をつき、汗で濡れた体で抱き合いながら、マットに倒れこ んだ。 ﹁⋮⋮﹂ 523 しばらく二人とも無言でいた。 言葉がなくとも、満ち足りた感覚は伝わってきた。 汗が冷えてくると、雄介は寒さを感じた。ゴムを縛って処理し、 横から毛布を取って、上に広げる。 ﹁ふふっ⋮⋮﹂ 牧浦が毛布の中から顔を出し、くすくす笑い出した。 ﹁⋮⋮なんだよ?﹂ ﹁いえ⋮⋮こうしていると落ちつくなあと思って﹂ 言いながらごそごそと位置を変え、雄介の腕の中に収まる。それ から満足げに、 ﹁いいですね、これ﹂ ﹁そうか⋮⋮?﹂ ﹁男のかたにはわかりませんか。あ、腕はこっちにお願いします﹂ 強制的に右の二の腕を枕にされる。首のくぼみの下なので、大し て重さも感じないが、そのフィット感がいいらしい。 牧浦は乱れた髪を整え、こちらを見上げてきた。可笑しみを含ん だ口調で、 ﹁どうでしょう? これで相互理解を深められると思うんですが﹂ ﹁うーん⋮⋮まあいいや、なんでも。気持ち良かったし﹂ ﹁もう⋮⋮。⋮⋮でも、そうですか。良かったです﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ ﹁眠くなりました?﹂ 524 ﹁いや⋮⋮ちょっと疲れた﹂ ﹁今日は、荷物運びもお願いしてしまいましたからね。お疲れさま です﹂ ﹁何往復もしたからなあ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうだ。疲れが取れるようにマッサージしましょうか﹂ 名案を思いついたとでもいうような声音だった。 ﹁いやいいよ⋮⋮別に﹂ ﹁いいから休んでいてください。気持ちいいですよ?﹂ 牧浦が毛布の中で体勢を変え、こちらの太ももにまたがる。形の 良い乳房が正面で揺れた。 ﹁重かったら言ってくださいね﹂ 膝にうまく体重を分散しているのか、重さはそれほど感じなかっ た。どことなくはしゃいだような雰囲気だった。 牧浦は親指と手の付け根を使って、こちらの鎖骨の下から脇まで、 流すように圧迫した。 肩の筋肉はさすって温め、指先でほぐしていく。胸筋には手のひ らを使い、薄く押し広げるようにする。背中の下に手を潜り込ませ ると、背骨の両側をツボを押すように刺激していく。 自分でも気づいていなかったこわばりが、牧浦の手の下で溶けて いくようだった。温かい湯に浸かっているような気分になる。 ﹁うまいな⋮⋮﹂ ﹁でしょう? 腕をお借りします﹂ 片手ずつ、指先から二の腕に向かって、揉みほぐされていく。 525 ﹁太股も張ってますね⋮⋮﹂ 牧浦の座る位置が、足先にずれる。 ふくらはぎから太ももへ、牧浦の手がのぼってきた。痛みのない 絶妙な圧迫感で、筋肉のこわばりを溶かされていく。 手がだんだんと付け根に近づいてくると、雄介は少し気まずさを 覚えた。 目の前で揺れる乳房や、太ももへの刺激で、しおれていたペニス が持ち上がりかけている。その光景は牧浦にも見えているはずだが、 何も言わない。 そのうちに、太ももの内側をさする牧浦の手が、弛緩していた袋 をかすめた。その刺激に、雄介の足がびくっと反応する。 ﹁⋮⋮﹂ 牧浦の手が止まる。 しばらくの沈黙の間、牧浦は手慰みのように、軽く太ももをなで るだけだった。 それからこちらにゆっくりと屈みこみ、顔をのぞきこんできた。 雄介は完全に脱力したまま、それを見上げる。 牧浦は垂れかかる黒髪を片手で押さえながら、優しく微笑んで、 ﹁人間の性的興奮のスイッチ、どうやって入るか知ってます⋮⋮?﹂ ﹁いや⋮⋮﹂ ﹁陰茎が勃起するためには、副交感神経が優位にならなくてはいけ ません。簡単に言えば、リラックスした状態が必要なんです。恐怖 やストレスを強く感じていたりすると、交感神経が優位になり、ど うやっても勃起しません。外敵から身を守るために、体内に引っこ んじゃいます。⋮⋮まあ、射精の瞬間は交感神経が優位になるので、 526 一概にこうだとは言えないんですが﹂ ﹁なるほど⋮⋮わからん﹂ ﹁つまりですね⋮⋮マッサージで心身がほぐれたところに、こんな 刺激を受けると⋮⋮﹂ 股間に伸ばされた牧浦の指先が、袋のしわをなぞるように、つっ と滑った。腰の引けるようなその刺激に、ペニスに硬い芯が入った。 一直線に立ち上がる。 ﹁こうなっちゃうんですね⋮⋮﹂ 牧浦は茫洋とした瞳でささやいた。 指で作られた輪で、芯の根元をにぎられる。ゆっくりと上にしご かれ、カリの裏で締めあげられる。 ﹁うお⋮⋮﹂ ペニスの表面をコーティングするようなその刺激で、完全に勃起 した。 牧浦は体を起こし、横からゴムを取って、それに被せた。身を乗 り出し、騎乗位の体勢で腰を浮かせ、片手で押さえたペニスにゆっ くりと沈めていく。 先端が肉を割り、温かい内壁に包まれていった。 牧浦の吐息が漏れる。 ﹁ぁ⋮⋮ふ⋮⋮。こちらもほぐしますね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ゆるやかに腰が動きはじめる。ヒーターの薄明かりに照らされた 太ももが、腰の動きに合わせてかすかに上下する。 527 腕を伸ばして柔らかい尻をわしづかみにすると、牧浦はくすぐっ たそうに笑った。 ﹁だめですよ、力を込めては。楽にして⋮⋮﹂ 軽いうながしで、腕が外される。雄介は手足を投げ出したまま、 股間を包む牧浦の内側に意識を向けた。 一度出しているため、射精の欲求はそれほどない。 ただ、ほぐされた全身のこわばりが、股間の一点に集まっている ようだった。二回目なのに、先ほど以上に硬くなっている。ひだの 一つ一つが感じられるような密着感だった。 ﹁あっ⋮⋮んっ⋮⋮﹂ 牧浦はさざ波のようにゆるやかに腰を動かしながら、先ほどのマ ッサージの続きのように、胸や腕を愛撫していく。 表面を撫でるような刺激だったが、体に入る力が抜け、牧浦をえ ぐる快感が鮮明になる。 ﹁気持ちいいですか?﹂ ﹁ああ。すげーわ⋮⋮﹂ 牧浦はくすりと笑い、こちらに顔を寄せてきた。乳房が胸板に当 たり、全身が密着する。 耳元でささやかれた。 ﹁こういうことをしたいときは、言ってくれれば⋮⋮いつでも時間 を取りますから、ね? いつでも﹂ ﹁⋮⋮。⋮⋮節操なしにゴム使うなって、言ってなかったっけ。誰 かさんが﹂ 528 その揶揄に、牧浦はこちらをうかがうように微笑んだ。 ﹁それは⋮⋮他の方法もありますし⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮他の方法って?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦は頬を染め、マットに置かれていた雄介の腕を抱き寄せた。 人指し指に小さくキスをしたあと、口に含む。 舌が絡み、根元からねっとりと舐められた。何往復かすると、唾 液で指がベトベトになった。 同時に下の腰もゆっくり動いていて、ペニスを包む熱いひだに、 亀頭から根元まで刺激される。牧浦の唇を出入りする指と、ペニス の感覚が重なった。射精欲求が急激に高まる。 牧浦は舌先を離すと、恥ずかしそうにこちらを盗み見て、 ﹁⋮⋮口でなら、避妊具は要りませんよ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 腰が動いた。 牧浦の体を抱きしめ、その豊かな尻を突き上げる。上に崩れる柔 らかさの中で、太もも同士がこすれあう。 ﹁っ、だめ⋮⋮我慢してください⋮⋮﹂ ﹁できねーって⋮⋮﹂ 全身はマッサージでほぐされ、股間だけが鋭敏になっていた。牧 浦の中は熱いゼリーのようで、射精欲に突き動かされるように突き 刺し、かき混ぜていく。 529 ﹁⋮⋮あっ⋮⋮ぅっ⋮⋮!﹂ 牧浦は声を抑えながら、こちらの首にかじりついている。体は完 全に脱力し、肌は汗でぬめりをおびている。軟体動物の交尾のよう だった。 何度も抽送を繰りかえすうちに、牧浦も白い尻を上下させはじめ た。目を閉じたまま、快感をむさぼるように、こちらの動きに合わ せてくる。亀頭が深い部分に刺さり、ぬるぬるした部分にくわえら れた。その感触に、限界が訪れた。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 腰が痙攣し、どくんどくんと精液を吐き出していく。 射精中も、牧浦の腰が押しつけられ、亀頭を包むように刺激され た。柔らかい腕が体にぎゅっと巻きつく。 ﹁ぜんぶ、出して⋮⋮﹂ 腰が勝手に跳ね上がり、断続的に射精が続いた。 残った残滓まで搾り取るように、牧浦の腰がゆっくりと動く。そ のゆるい刺激に、尿道の残りまで搾り取られる。 すべてが終わると、疲労感とともに、急激に睡魔が訪れた。 ﹁ふふ⋮⋮﹂ 耳元にかすかな笑い声だけが残った。 ◇ 翌朝。 530 顔を合わせたときには、牧浦はいつもの静かな雰囲気に戻ってい た。 お互い昨夜のことには触れず、身支度と朝の作業を終わらせる。 再び二人きりになったのは、昼前のことだった。 雄介は左の肩にフィールドバッグ、右手に赤いガソリン携行缶を ぶら下げ、地下への階段を降りていた。隣には牧浦もいる。 雄介は背中だけで伸びをし、肩を回した。疲れはなかった。 ﹁⋮⋮あの部屋、寝るにはいいな。鍵かかるから落ちつく﹂ ﹁そうですね。個人で暖房も使わせてもらってますし。恵まれてい ると思います﹂ ﹁医者だからなあ。いいんじゃね。風邪引かれたら困るし﹂ ﹁⋮⋮武村さんがいてくれれば、睡眠薬もいらなそうですけどね﹂ ﹁熟睡してたな﹂ ﹁⋮⋮ええ、久しぶりに﹂ 牧浦は頬に手を当て、ふぅ、とため息をつく。 地下駐車場に到着すると、手持ちのライトを点け、牧浦の先導で 闇の中に歩きだす。 着いた先には、一台の軽自動車があった。 ﹁これか?﹂ ﹁はい。燃料の問題で、車は余っていて。これなら乗り捨てても大 丈夫です﹂ ﹁よし。船を探すにしても足がねーとな。まずは駐屯地に俺のバイ クを取りにいく﹂ ﹁⋮⋮他のバイクなら、この駐車場にもありますけど﹂ ﹁あれじゃなきゃ駄目だ﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ 531 牧浦は苦笑し、大きな子供をながめるような視線を向けてきた。 雄介は出発の準備を始める。携行缶からガソリンを補給し、荷物 を助手席に放りこんで、キーを回す。エンジンが始動し、カーナビ に光が灯った。ヘッドライトをつけると、ぽっかりと開いた地下の 空間が映しだされた。 雄介はベルトを締めて、ドアに手をかける。 牧浦を見上げ、 ﹁んじゃ行くわ。適当にやってるから、しばらく帰らなくても心配 すんなよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦はそっと周囲を見まわすと、こちらに屈みこみ、唇をかるく 合わせてきた。 ﹁お気をつけて﹂ はにかみながら、車から離れていく。 石鹸の残り香が鼻をくすぐった。 ﹁⋮⋮﹂ 気を取り直して、ドアを閉め、ロックする。ハンドブレーキを解 除し、シフトレバーをドライブに入れて、車を出口にまわす。 ︵ん⋮⋮?︶ 徐行の途中、目の端に何かがちらついた。 そちらに視線を向けると、別の階段が目に入った。誰かが慌てて 立ち去ろうとするように、光が上に遠ざかっていく。 532 雄介はブレーキを踏み、それを目で追った。 ︵⋮⋮。⋮⋮どんくさい奴だな⋮⋮転んでるし︶ ライトの転がるような金属音がして、光が跳ねた。 しばらくうずくまるような気配のあと、光はゆっくりと上階に消 えていった。 雄介は視線を戻し、考えこむ。 ︵⋮⋮見られたか?︶ 牧浦とのことだ。 あの女医は、この市役所では権力に一番近い存在だ。集団のリー ダー格で、精神的支柱でもある。色恋沙汰の対象にするには、リス キーな相手だった。 雄介が牧浦のことをあまり女として見ていなかったのも、そのあ たりに理由がある。関係がばれれば、厄介事も持ちあがるだろう。 ︵⋮⋮まあいいか。なるようになるだろ︶ ブレーキを離し、地上へのスロープを上がる。 出口は、陽の光で明るく輝いていた。 533 45﹁自殺者﹂ 雄介はまず駐屯地に向かい、バイクと、取り残しの物資を回収し た。 バイクに乗り換えたあとは、地図を見ながら、市役所につながる 川を探して合流した。かなり下流にきていたが、船を探して、さら に川ぞいに道を進んだ。 不法係留のボートが川岸にいくつかあったが、どれもキーがなく、 手を出せなかった。 一日かけて河口ちかくまで来たところで、小さな埠頭に出た。 マリーナと呼ぶほど大規模ではないが、釣り場や、ウッドデッキ 付きのレストラン、休憩所に、マリンショップも併設されている。 その中で、ようやく使えそうなボートを見つけた。沖釣りに使う ような、全長八メートルほどのクルーザーだ。ならぶ船のあいだを、 キー付きのまま漂っていた。 出航直前でトラブルがあったらしい。船体の前後にある係留ロー プのうち、船首側が外されていて、不安定に船先をゆらしていた。 持ち主の姿はなかった。 操舵席は、屋根と、透明なドアがついていて、雨の中でも動かせ そうだった。奥に短い階段があり、デッキの下の居住区、キャビン につながっている。 ハンドルは円形で、操舵席の作りはなんとなく車に似ていた。左 にシフトレバーがあり、カーナビのような機械もある。据置きの無 線機もあった。 いくつもならぶボタンはマークから想像するしかないが、燃料計 と回転計、油圧計はわかった。エンジンもキーを回すだけだ。意外 とシンプルな構造だった。 エンジンが生きていることを確認したあと、雄介はマリンショッ 534 プからライフジャケットと小型船舶免許の本を見つけて、二日かけ て操縦を試した。 運転自体はすぐにできた。シフトレバーで、前進、後退のスピー ドを調整して、ハンドルでかじを切るだけだ。曲がるときはスクリ ューのある船尾が外側に振れるので、離岸時に岸にぶつけないよう に注意するぐらいだ。 着岸が一番難しかった。 水上のため、船が一か所に留まっていないのだ。 速度を落とすと、とたんにかじが効かなくなる。慣性で横づけす るのも難しければ、ロープで係留するのも苦労した。風向きを見て、 船首と船尾で、流される方を先に留めないと、どんどん岸から離れ ていってしまう。横方向に船を動かすスラスターもあったが、いま いち感覚がつかめないでいた。 船の側面には、岸との衝突で傷つかないよう、空気を入れたボト ルのような緩衝材がいくつもぶらさがっていたが、フロートデッキ には何度もぶつけてしまった。 係留についても、もやい結びなど、ロープワークのやり方が本に のっていたが、覚えるのが面倒で、適当に巻きつけて済ませた。 着岸に苦戦しながら、それなりに慣れてきたところで、今度は雨 に降られた。 近くのマリンショップでもう一日を過ごし、川の増水がおさまる のを待ってから、雄介はようやく出発することにした。 ﹁んー⋮⋮これにするか﹂ 水面に投げこんだライフジャケットの様子を見ながら、雄介はつ ぶやく。 まだ冬だ。水は冷たく、まともに泳げるとは思えない。ライフジ ャケットなしで水に落ちたら、溺死するだろう。 運動性も考え、水に浸かるとふくらむタイプの物を、店にあるだ 535 けかき集める。 燃料のほか、メンテ用の工具や装備も拝借した。集めた荷物は船 のキャビンに放りこんでおく。ウェアや雑貨、ボート用品など、シ ョップにはいろいろ置いてあった。 船の左舷に釣り用のロッドホルダーが装備されていたので、釣り 竿もいくつか立てかけておく。野外センターには、川や、ため池も あったので、それなりに役立つだろう。 最後に、渡し板でバイクを乗せた。ビニールシートで防水して、 ロープで固定する。 これで準備は完了した。 係留ロープをといて、船にうつる。 ﹁っし、いくか﹂ 操舵席に入り、ドアを閉めて、雄介は座席にすわった。 視界は水面に近かった。岸も上にあるため、かなり低く感じる。 キースイッチを回してエンジンを入れると、後部から低いエンジ ン音が響いた。 エンジンルームの換気と、暖機運転は、すでに済ませてある。 右手でハンドルをまわしながら、左手でシフトレバーを前に倒し て、ゆっくりと岸からはなれる。 微速で動かし、川の中央まで来たところで、速度を上げた。 かじを切った方向に船体がかたむく感覚は、バイクに似ていた。 船首が波をかきわけて進む。川幅は広く、他に船もない。速度を上 げると船体も安定した。 あとは橋をくぐるときに橋脚にぶつけないよう、注意するぐらい だ。 しばらくボートを走らせ、後ろに流れていく景色を楽しんだあと、 雄介はつぶやいた。 536 ﹁いい船だけど、物を運ぶのには難があるか⋮⋮﹂ 娯楽用のプレジャーボートだ。海遊びにはもってこいだが、荷物 はあまり積めない。 これで山に人と物資を移動するとなると、何十往復もすることに なるだろう。燃料も大食いなので、ガソリンが大量に必要になって しまう。 ﹁水上バス⋮⋮見つかんねーか。水運を先に調べたほうが良かった かな﹂ とりあえず市役所に戻ろうと、川をさかのぼっていく。 数時間ほどたったころ、工場地帯にさしかかった。 ﹁ん⋮⋮? あれは⋮⋮﹂ 遠目に、土砂を運搬するような、平たい台船が目に入った。 岸壁にある浮き橋にいくつか係留されているが、どれも赤錆びて、 古ぼけている。タグボートで引く、はしけのようなものだった。緩 衝材代わりの古タイヤが、側面にいくつも吊るされている。 ﹁⋮⋮使えっかな⋮⋮﹂ 速度をおとし、ボートを近づける。 空いている場所に船をとめて、木の杭にロープをくくりつけると、 雄介は浮き橋に上がった。 一メートルほどのせまい橋の間を、足をすべらせないように気を つけながら、台船を見てまわる。 ﹁うーん⋮⋮﹂ 537 どれもあまり使われていた様子はなく、岸壁にロープでがっちり と固定されていた。 形は長方形に近く、内側の一段低くなったところに、荷物や土砂 を積みこむようになっている。広さはかなりあった。 ﹁これ動かせりゃ、一発だけどな⋮⋮。いけるか?﹂ 様子を見ながら歩いていく。 その途中で、雄介はふいに足を止めた。 ﹁⋮⋮﹂ 台船のあいだの水面に、人の死体がうつ伏せに浮かんでいた。 長い髪が水に散らばり、顔は見えない。 水面下では、服がくらげのように水をのんで漂っていた。その一 部が、そばの船底に引っかかっている。 ﹁⋮⋮ゾンビの死体か?﹂ だとすると珍しい。 ゾンビは水場にはあまり近づかない。そもそも水死するのかも不 明だ。 どこかで溺れ死んだ人間かもしれないが、死体がまだ綺麗なのが 気になった。 あまり触れたいものではないが、近くの台船から棒をとり、死体 をたぐりよせる。 死体には浮力がほとんどなく、すぐに沈みそうになった。棒の先 を服に引っかけて、橋までよせる。 538 ﹁⋮⋮﹂ 近づいた死体の様子を見て、雄介は思わず顔をしかめた。 死体は、後ろ手に手首を縛られていた。 ひっくりかえすと、無表情な女の顔がこちらを向いた。水温が低 いためか、ほとんど腐敗もしていない。 若い女だった。蝋のように青白い顔が、波をかぶりながら水面を ゆれている。 その顔を見ながら、雄介は考えこむ。 ︵⋮⋮もしこいつがゾンビだったとしても⋮⋮︶ 後ろ手の拘束は尋常ではない。 人間の死体だとすると、なお悪い。これを行った者がどこかにい ることになる。 ︵⋮⋮待てよ︶ 川の流れを考えると、上流から流されてきた可能性もある。雨で の増水もあった。市役所のことがすぐに思い浮かんだ。 雄介は急いで船に戻り、無線機のマイクをとった。 操作方法は、以前にあつかった無線機とだいたい同じだ。出力を ハイパワーにしてダイアルを回し、暗記しておいた市役所のチャン ネルに合わせる。 マイクの送信ボタンを押しながら、 ﹁こちら武村。だれか聞こえるか?﹂ 距離を考えると難しいかと思ったが、無事つながった。 539 ﹃︱︱はい。白谷です。武村さんですか? いまどちらですか? どうぞ﹄ 雑音混じりに女の声が戻った。 たしか通信班のリーダーで、ボブカットの若い女だ。会議室での 査問会じみた招集でも、顔を合わせている。 雑音抑制のスケルチをつまみで調整しながら、雄介はマイクに向 かって話を続けた。 ﹁役所の下流でボートを見つけた。今から戻ろうと思ってる。そっ ちは異常ないか?﹂ ﹃いえ、特には。何かありましたか?﹄ それを聞いて、雄介は、どう伝えるか考えこむ。 ﹁あー⋮⋮何もないならいい。女の死体があったんで、一応確認し ておきたかった﹂ ﹃死体⋮⋮ですか﹄ ﹁まだ綺麗だったから、そっちから流れてきたかと思った。それだ けだ﹂ ﹃わかりました。一応、全員の安否を確認しておきます﹄ ﹁たのむ﹂ ﹃はい。⋮⋮先生、寂しがってましたよ。早めに帰ってあげてくだ さいね﹄ ﹁⋮⋮﹂ ﹃それでは﹄ 閉口する雄介を残して、無線はとぎれた。 ﹁暇なのかよ⋮⋮﹂ 540 うんざりとつぶやき、雄介はマイクを戻した。 ◇ 翌日。 市役所への到着前に、雄介は無線で連絡を入れた。 ボートで台船を曳航していたため、一人での着岸はさすがに不可 能だった。調達班に人手を要請する。 遊覧船用の小さな船着場は、市役所の下流にあった。一ブロック ほど離れた場所だ。 近づくと、桟橋にはすでに数人が待機していた。上の道路には、 何台かの車と見張りもいる。 中州内とはいえ、このあたりはゾンビを掃除しているわけではな いから、気は抜けない。 雄介は操舵室のハンドルをにぎったまま、後ろを向いた。長い曳 航ロープの先の、台船の位置を確認する。 そのままスラスターを操作し、慎重に桟橋によせていく。川の流 れに逆らいながらなので、ロープはピンと張りつめている。 何度か失敗したあと、ようやく距離が縮まった。 待機していたメンバーが台船に乗りうつり、係留ロープをとって、 桟橋に固定していく。手順はあらかじめ無線で伝えてあった。 ﹁ふー⋮⋮﹂ 神経を使う作業に、思わずため息をつく。 トラブルが起きたときはいつでも離脱できるよう、曳航ロープを 切る準備はしていたが、これだけの大物だ。早朝から移動をはじめ て、もう昼過ぎになっていた。 雄介はスロットルを閉じて、川の流れのままに、ボートを後ろの 541 台船に置いた。緩衝材代わりのタイヤが、衝撃をやわらかく吸収す る。 エンジンをつけたままデッキに出ると、工藤がロープで、ボート と台船を固定していた。 雄介は手を上げ、 ﹁サンキュ﹂ 工藤は呆れたように、こちらを見上げた。 ﹁またでかいの持ってきたな⋮⋮﹂ ﹁これなら一発でいけるだろ﹂ ﹁まあな﹂ 雄介は台船の上を歩き、アンカーを川に放りこんでいく。ロープ の先に重りのついた錨だ。適当な固定の仕方だったが、やらないよ りはマシだろう。 そのとき、ふいに視線を感じて、雄介は顔を上げた。 周りを見るが、こちらを向いている人間は誰もいない。みんな作 業に集中している。 ︵⋮⋮なんだ? 視線⋮⋮っていうか、なんだこれ⋮⋮︶ やかましい雑踏の中で、ふいに声をかけられたような。 それが周囲の雑音に負けて、聞きとれなかったような、そんな感 覚だった。 はっきりとしない違和感がつのる。 顔をめぐらせ、周囲の建物を見わたす。 川ぞいに道路が走り、その奥にはビルが密集している。 動く影は何もない。 542 ︵気のせい⋮⋮? いや⋮⋮︶ どこか覚えのある感覚だった。 こちらを探るような視線。 ﹁バイク下ろすんなら手伝うぜ﹂ 後ろからかかった工藤の言葉に、雄介は我にかえった。 ﹁⋮⋮あ、ああ。頼む﹂ ﹁中も見たけど、クルーザーか? 高そうな船だよなあ。こんなの よく操縦できたな﹂ ﹁動かすだけなら案外いける。山にはボートで行くから、あとで教 えてやるよ﹂ ﹁お、いいな。⋮⋮って、そうだ、女医さんが呼んでたぜ。着いた らすぐ来てくれって﹂ ﹁何の用だ? 無線もあんのに﹂ ﹁さあ? さっさとバイク下ろして、行ってやれよ﹂ からかうような声音だった。 雄介はため息をつき、エンジンを切るために操舵室に向かう。 一度だけ陸に顔を向けたが、もう視線は消えていた。 ◇ 牧浦は事務室の一つにいた。中では大勢の人間が動きまわってい て、慌ただしい雰囲気だった。 雄介に気づくと、牧浦はかすかに嬉しそうな顔を見せたが、すぐ に緊張した様子に戻った。そばの人間にひとことふたこと声をかけ 543 て、部屋を出る。 そのまま二人で、すこし離れた廊下まで歩く。 ひとけのない場所で立ち止まり、そこで牧浦から告げられたのは、 行方不明者が出ている、ということだった。 ﹁⋮⋮行方不明?﹂ 雄介の言葉に、牧浦はうなずく。 女が二人、所在がつかめなくなっているらしい。 昨夜に全員の安否を確認したところ、発覚したそうだ。 ﹁いつからいなかったんだ? 配給のときにわかるだろ﹂ 牧浦は壁に背をあずけたまま、悩むように口を開いた。 ﹁⋮⋮それが⋮⋮名簿から外れていて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮名簿から?﹂ ﹁三日前に、市役所内のグループ変えを行ったのですが、そのとき までは無事を確認できています。⋮⋮問題はそのあとです﹂ 野外センターへ移住する前に、新参古参で別れていたグループを 組み直して、移住後の配置の参考にするという話だった。ところが そのあとから、二人の所在がつかめなくなっているらしい。 牧浦は唇をかみ、 ﹁名簿も草稿の段階では、どちらの名前もちゃんとありました。⋮ ⋮施行の段階で、どのグループからも消えているんです。人数も調 整されていて⋮⋮。別のリストと人数が合わなくて、ようやく発覚 しました﹂ 544 雄介はしばらく沈黙し、その意味するところを考えた。 ﹁⋮⋮内部の人間のしわざか?﹂ ﹁それは⋮⋮まだわかりません﹂ 牧浦は口ごもるが、単なる記載ミスなら、すぐに気づかれたはず だ。 当の本人が失踪しているということが、不吉な予感をただよわせ た。 水死体のことが、否応なく思いだされる。 ﹁その⋮⋮武村さんの見た遺体が、行方不明の方なのかはわかりま せんが﹂ その可能性はある、ということだろう。 雄介は苦々しく口を開いた。 ﹁⋮⋮無線じゃ言ってなかったけど、死体は手を縛られてた。後ろ にな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 牧浦は黙りこむ。 重苦しい空気がたちこめる。 ﹁⋮⋮これからどうするんだ?﹂ ﹁⋮⋮今は、警備のかたに聞きこみを行っています。⋮⋮名簿の改 竄については、厳重に管理していたわけでもないので、どこまで絞 りこめるかはわかりませんが⋮⋮とにかく、情報を集めようと思い ます﹂ ﹁⋮⋮足止めされてる場合じゃねーのにな⋮⋮﹂ 545 雄介は天井を見上げながら、ため息をついた。 ◇ 市役所の屋上は風もあり、寒気がひどかった。首元まで上げたジ ャケットの隙間から、冷気が忍びこんでくる。 タンクや機械類の建ち並ぶ屋上の、その外れで、作業用の足場に 腰かけながら、雄介は地上をながめていた。 すでに日は落ちていたが、月明かりでそれなりに明るい。 手すりもないため、屋上からはまわりが綺麗に見わたせた。周辺 は特に異常もなく、橋のたもとでは、見張りがのんきにお喋りに興 じている。 それらをながめながら、雄介は物思いにふけった。 ︵昼間のあの感覚⋮⋮︶ 敵意とも殺意とも違う、こちらを探るような、無機質な感触。 理解できないものをながめるような、虚ろな視線。 それに近いものを、雄介は思い出していた。 大学キャンパスで出会った、ゾンビの知性体たちだ。 ︵あいつらに見られてんのか⋮⋮?︶ 市役所を遠巻きに監視されている。 そんな感じがした。 屋上から見える範囲では、なんの気配も感じられないが⋮⋮ ︵今度の失踪にも、あいつらが関係してる⋮⋮? いや、それはな いか︶ 546 知性体の中には、外見のまともな者もいた。服で傷を隠せば、市 役所に潜り込むことはできるかもしれない。 しかし、見慣れない人間が庁舎にいれば、すぐわかるだろう。運 営側の人間が気づかないはずがない。 それに、名簿を改竄して人をさらう、というような迂遠なことを するようにも思えなかった。 キャンパスでかいま見た、あの人間に対する憎悪は本物だ。 奴らなら、もっと苛烈な手を使う。躊躇などしないだろう。 ︵でも、だとしたら、なんで襲ってこない? 監視だけに留めて⋮ ⋮。あいつらだけなら撃退できる。それがわかってるからか?︶ 十数人の知性体。 脅威なことは確かだが、人数はこちらの方がはるかに多い。バリ ケードも、武器もそろっている。 襲われても、市役所が全滅するほどではない。 脅威という点でいうなら、ゾンビの大群に襲われるほうがまずい。 そうならないために、市役所から脱出しようとしているのだ。 ︵それとも⋮⋮俺か?︶ 獲物のそばに、わけのわからない存在がいる。 そのために躊躇しているのだろうか。 昼間の感覚を思い出す。 水面に小石を投げこみ、その波紋を確かめるような視線。 あれは、こちらが同じ仲間なのかどうかを、試そうとしていたの かもしれない。 あの場にいた人間の中で、自分だけが反応した、異様な感覚⋮⋮ そこまで考えて、雄介は眉をしかめた。 547 ︵俺は人間だっつーの⋮⋮︶ 手のひらをながめ、ゆっくりとにぎる。 心臓は動いているし、血は温かい。 間違いなく生きている。 ふいに階下がざわついた。 雄介は動きを止め、様子をうかがう。 遠くで悲鳴があがっていた。 ◇ 現場は、西庁舎の一階だった。 もともと新参者が集められていた棟だが、グループ変えで本庁舎 に合流したために、今はひとけもなくなっている。 その暗闇の一室、窓ぎわで、男が首を吊っていた。 月明かりが男を照らしている。 あたりにはすでに十人ほどの人間が集まっていた。入り口の外か ら、こわごわと中をのぞいている。 その人の群れを押しのけて、雄介は近づいた。 男の足もとではすでに数人が、体を下ろそうと苦戦している。 外壁のパイプを手掛かりにしたらしく、窓の外から伸びるロープ が、男の首に巻きついている。開いた窓の下に、靴が並べてあった。 折り畳まれた白い手紙も。 それを横目で確認しながら、ロープを解こうと苦労している男に 声をかける。 ﹁手伝う﹂ ﹁あっ、ああ、頼む!﹂ 548 窓枠に足をかけ、腰から抜いたナイフでロープを切りはなす。体 重が一気に下にかかり、吊られていた体がぐにゃりと曲がった。糞 尿の臭いが鼻をつく。 ︵手遅れか⋮⋮︶ 生きている人間の感触ではない。 下ろしている間に、警備班の人間も集まっていた。廊下にやじう まを遠のけている。カンテラで明かりが用意され、男が床に横たえ られた。目は半眼で、口元はかすかに開いている。 首を吊った男は警備班の人間だったらしく、顔見知りらしい者た ちから、うめき声やつぶやきが漏れだす。 少しして、牧浦が到着した。 誰かが連絡したのだろう。往診用の鞄を持っている。 牧浦は男のそばに膝をつき、首に手をそえた。胸に聴診器を当て、 まぶたを開き、光への反応を見る。まわりはそれを固唾をのんで見 まもる。 結果はすぐにわかった。 牧浦はうつむき、何の処置をすることもなく、のろのろと服を直 していく。 その場に、沈鬱な空気が広がった。 動揺というよりは、目をそらしていたものを見せつけられたよう な、来るべきものが来たとでもいうような雰囲気だった。 先の見えない今の世界で、自殺の理由にはことかかない。それが 雰囲気を暗くしている。 ﹁先生⋮⋮これが足もとに﹂ そばにいた男が、手紙をさしだした。 牧浦は、受けとったそれにさっと目を通し、何度か読みかえした 549 あと、顔をあげた。 物問いたげな周囲の視線に、牧浦はすこしためらってから、 ﹁⋮⋮謝罪の言葉がありました。失踪した二人の女性と関わってい たそうです。心中に失敗したと﹂ ﹁心中⋮⋮ですか?﹂ ﹁ええ⋮⋮﹂ 牧浦の説明によれば、名簿の改竄を行ったのもこの男らしい。 希望の持てない生活の中で、男は女二人に心中に誘われる。その ときは一緒に死ぬ約束をしたが、どたんばで恐怖にかられ、拘束を 解いて逃げてしまった。その後は、名簿に手を加えて事を隠蔽しよ うとするが、委員会の捜査で発覚しそうになり、追いつめられて首 を吊った⋮⋮という経緯のようだ。 それを聞いて、 ︵⋮⋮おかしくねえか? 逃げたくせに今さら首を吊るって⋮⋮。 死ぬ奴の気持ちなんてわかんねーけど、なんかつじつま合わせみた いな⋮⋮︶ 雄介と同じように、ふに落ちないといった顔をしている者もいる。 だが、ほとんどは納得しているようだ。仲間の死の衝撃が大きく、 そのことについてあまり考えたくないのかもしれない。 雄介はしぶしぶ、口を開いた。 ﹁それ、本当にそいつが書いたのか?﹂ その言葉に、周囲の視線が集まる。 遺書の捏造。 他殺ではないかという懸念だ。 550 ﹁それは⋮⋮でも﹂ 牧浦は手紙に目を落とし、顔を上げてこちらを見る。 頭のいい牧浦が他殺の可能性に気づかないはずはないのだが、こ れ以上の重荷は背負いたくない、とでもいうような雰囲気だった。 ︵気持ちはわかるけどさ⋮⋮︶ 周りの男たちに視線を向け、 ﹁市役所きたときに書かされた登録カードがあるよな。あれと筆跡 を比べたい﹂ 警備班のうち二人がうなずき、部屋を出る。 遺体の処理もあり、すぐに場は動きはじめた。 雄介も後始末を手伝いながら、 ︵嫌な感じだな⋮⋮︶ ここ数日で、変死と行方不明があいついでいる。 そのことに、妙な胸騒ぎがした。 551 46﹁餞別﹂ 雄介が市役所に戻っていることは、深月も聞いていたが、なるべ く顔を合わせないようにしていた。 まだ、どんな顔をすればいいのかわからない。 深月は無心で、洗濯の手を動かした。 水は冷たく、服の手洗いをするうちに、両手は真っ赤になってい た。ジーンズも洗っているため、今は膝丈のスカートにタイツの重 ね着で防寒していた。 洗濯場は、公園をかこむ道路の、排水溝近くにあった。そばには 川からくんだ水がポリタンクで用意されている。平桶の水にくぐら せるようにして、子供たちの小さな服をそそいでいく。 ︵優の服⋮⋮あって良かった︶ 深月はぼんやりと物思いにふける。 雄介が駐屯地から連れてきた女の子だが、替えの服がなく、ダン プに積んでいた荷物から用意した。男児用の子供服だが、女の子の 雰囲気にはよく合っていた。 最近は、隆司と一緒に、市役所のあちこちを探検しているようだ。 女の子のほうは、遊んでいるというより、安全を確認するような仕 草だったが。隆司が回復したあとも、ずっとそばにいる。 以前はもっとひどかった。隆司が手術のためにいなくなったとき は、見ていて可哀そうになるほど落ちこんでいた。膝を抱え、ずっ と座りこんでいた。 普段は鋭い雰囲気をただよわせているが、内面は違うのだろう。 当然だ。隆司とおなじ、低学年ぐらいの子供だ。毅然とした様子を 見せるほうがおかしい。 552 ︵もっと安心してほしいけど⋮⋮︶ どんな体験をしてきたのかはわからないが、大人にたいして根強 い不信感があるようだ。気をゆるめることがなく、深月にもほとん ど話しかけない。 ただ、前ほどには距離を感じなくなっている。 ︵名前⋮⋮いつか教えてくれるかな︶ かるくしぼった服と下着を、近くの木に渡されたロープに干して いく。晴天とはいえ、気温は低い。乾くのには時間がかかるだろう。 青空を見上げ、深月はきびすをかえした。 ◇ 庁舎に入り、衛生班の詰め所に向かう途中で、深月はびくりと足 を止めた。 視線のさきに、雄介と牧浦がいた。 何かを話しあっている。 深月はとっさに隠れようとしたが、それより先に雄介がこちらに 気づいた。 目が合う。 それだけで動けなくなる。 二人は話を切りあげたらしく、雄介がこちらに歩いてきた。また 外出するのか、肩からフィールドバッグをぶら下げている。 ﹁あ、の⋮⋮﹂ 深月は言葉につまるが、 553 ﹁ちょうどいい。いま時間あるか?﹂ ﹁⋮⋮は、はい﹂ ﹁ちょっとこい﹂ 階段をのぼって連れられていった先は、屋上に近い、使われてい ない一室だった。周囲にはひとけもない。 室内にならぶ事務机に、窓から日の光が当たっている。 ﹁あ⋮⋮の⋮⋮、これは⋮⋮﹂ 体に汗がにじむのを感じながら、深月は雄介の様子をうかがう。 雄介はそれにかまわず、バッグの中の荷物を机にならべはじめた。 包みが解かれると、深月は息をのんだ。 ﹁それは⋮⋮﹂ さや付きのナイフと、ホルスターに収められた自動拳銃だった。 雄介はナイフを手にとり、 ﹁後ろ向け﹂ ﹁え⋮⋮? えっ!?﹂ 強引にうしろを振り向かされ、上着のすそをまくりあげられて、 深月は動揺したように手をわたわたさせた。 ﹁た、武村さんっ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 動きをとめた雄介の顔を、深月は背中ごしに見上げる。 554 ﹁⋮⋮ち、ちゃんと説明がほしいです。これはなんですか?﹂ 雄介はすこし考えこみ、 ﹁行方不明と自殺の話は聞いたか?﹂ ﹁あ⋮⋮はい。⋮⋮心中って聞きました﹂ ﹁経緯はどうでも、死人が出てる。市役所の中も安全じゃねえ。そ れの用心だ﹂ ﹁そんな⋮⋮。⋮⋮で、でも、市役所内は、武器を持ってたら駄目 なんじゃ⋮⋮﹂ ﹁こうやって簡単に持ちこめるのにか? その気になったらなんの 意味もねーよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雄介の手で、深月のスカートのベルト部分に、ナイフがくくりつ けられる。にぎりも細く、全体が薄身のため、上着の上からではそ れとわからないだろう。 ﹁抜けるか試してみろ。ゆっくりな﹂ 雄介の言葉に、深月はうしろを見ながら、恐る恐るナイフに手を かけた。左手でさやを押さえ、右手でにぎりをつかむと、すこしの 抵抗のあと、ナイフが抜けた。 細身ながら、硬質にかがやく、鋼の刃。 その刀身を、深月は魅入られたように見つめる。 ﹁よし、もういい。次はこっちだ﹂ 雄介がナイフを戻し、拳銃を手にとる。 555 ﹁持ってみろ。弾は入ってない﹂ 渡された自動拳銃の、黒光りする鋭角なフォルムを、深月は途方 にくれたようにながめた。 ﹁安全装置と狙いかただけ覚えろ﹂ 雄介にうながされるまま、深月は射撃姿勢をとる。 両足をやや開いて、右手でグリップをにぎり、左手で包むように かまえる。 雄介が深月の腕をとり、顔をよせて、照準を修正した。 ﹁銃の先っぽに出っぱりがあるだろ。それが手前のへこみに重なる ように狙え﹂ ﹁⋮⋮こ、こうですか?﹂ 深月はうわずった声でこたえる。 ﹁右目で狙ったときと、両目で狙ったときで、照準がずれてないか ?﹂ ﹁⋮⋮同じです﹂ ﹁ならいい。引き金を引いてみろ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 人さし指を引きしぼる。 カチ、という感触とともに、反動がきた。雄介に強く押されたの だ。 ﹁わっ!?﹂ 556 深月は思わずたたらを踏む。 背中を雄介に支えられて、深月は心臓がはねるのを懸命におさえ た。 ﹁反動はこんなもんかな⋮⋮。わかってれば大したことない。とに かく撃ったときには転ぶな。それだけ注意してろ﹂ ﹁は、はい﹂ ﹁別に当てなくていい。天井に一発威嚇でもしてやりゃ、あとはか まえてるだけで相手もビビる﹂ それだけ言うと、雄介は銃を手に、フィールドバッグのところに 戻った。安全装置をかけ、マガジンを装填しながら、 ﹁銃のことは誰にも言うなよ。いざってときも、ギリギリまで使う な。最後の手段だからな﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁ナイフはお前なら護身用ってことで言い逃れできる。でも銃はま ずい。絶対に見られんな。隠すとこは⋮⋮﹂ 雄介の視線が、深月の体を、上から下まで観察する。 心もとないその感覚に、深月は落ちつかなげに、体勢を変えた。 ﹁⋮⋮服の下だな。ちょっとシャツ上げろ。ベルトを巻く﹂ ﹁え⋮⋮、あ⋮⋮、は、はい﹂ 雄介がフィールドバッグの中をかきまわし、ベルトの準備をはじ める。 それを横目に、深月はシャツをへその部分まで、おずおずとたく し上げた。 557 腰まわりが、ひんやりとした外気に晒される。 ほおが熱を持つのを感じた。 ﹁これ巻きつけろ﹂ 手渡されたのは、茶色いベルトだ。中央に、空のホルスターが固 定されている。斜め上に口が開いていて、ふたのような留め具もつ いている。これを背中にまわすらしい。 ﹁んっ、と⋮⋮﹂ 留め穴を限界まで使って、ベルトがお腹からずり落ちないように する。 ﹁いけるか?﹂ 雄介が背後に立った。 ﹁だ、大丈夫です⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あんま上だと銃が抜けなくなる。もうちょい下だ﹂ ﹁あっ⋮⋮﹂ 深月の腰骨に乗るように、ベルトの位置が調整される。雄介の手 が肌の上をかすめた。 それにびくりと震えてしまい、その大きな反応に、雄介も驚いた ように手を止めた。 気まずい沈黙がたちこめる。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 558 深月はたくし上げたシャツをにぎりしめ、うつむいた。 自己嫌悪にかられる。 意識するべきではないと思っていても、体が反応してしまった。 深月の体で、雄介に触れられていないところのほうが少ない。こ の距離の近さが、スーパーでの毎夜のことを思いださせた。 ﹁⋮⋮ぁ⋮⋮の⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 心臓が脈打つ。 周囲にひとけはない。 雄介の手が、迷うように、ベルトをなぞる。 右手が腰にそえられ、肌の記憶を確かめるように、そっとなでら れた。 ﹁っ⋮⋮!﹂ それだけで、深月の中はかき乱された。 押し殺した吐息がもれる。 その気配にあてられたように、男の、ピリピリとした欲望が伝わ ってきた。 葛藤させてしまっている。 自分のせいだ。 ︵はなれないと⋮⋮︶ 胸にうずく痛みをこらえながら、深月は思った。 地下で見た、雄介と牧浦の、親密な光景。 二人がどういう関係かは、一目でわかった。 その日はなにも考えられなかったが、日がたつにつれ、後ろむき 559 の納得感がつもった。 医者であり、市役所の柱となっている牧浦と、一人でなんでもこ なせてしまう雄介。 深月からしても、良い組みあわせだと思った。性格や雰囲気は正 反対だが、どちらも市役所の行方を左右する存在だ。 それにたいして、自分は⋮⋮ 水仕事であかぎれた手が目に入る。 ︵だめだ⋮⋮私じゃ⋮⋮︶ 余計なことをしたら、二人の邪魔になってしまう。 それは、自分が惨めだった。 意を決して動こうとしたとき。 ふっと空気がゆるんだ。 雄介の手が離れていく。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 二人は無言で距離をとった。 雄介は背中を向け、机の銃を手にとる。 ﹁⋮⋮とりあえず銃入れとくから、一回ホルスターから抜いてみろ﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ それからは、なるべく平静にふるまった。 雄介が背中に収めた銃に、そっと右手をそえる。 グリップをにぎり、親指で留め具を開けて、ゆっくりと斜め上に 引き抜く。 引き金と安全装置に触れないように注意しながら、深月は銃を両 560 手で抱えた。 その冷たい鉄のかたまりは、手のひらにずしりとくいこんだ。 ﹁最後の手段だけどな。使うときは躊躇するなよ。もし見つかった ら俺の名前出せ﹂ ︵⋮⋮︶ 銃を見つめながら、ひとつだけ疑問が残った。 雄介を見上げ、小さく口を開く。 ﹁⋮⋮武村さんは、なんでこれを私に⋮⋮?﹂ ﹁さっき言っただろ﹂ ﹁⋮⋮そうじゃ、なくて⋮⋮。もう別々に行動してる、他人なのに、 どうして⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 沈黙が続いた。 雄介の視線が、過去を探るように宙をさまよった。 やがて、ぽつりと、 ﹁あんときさ⋮⋮﹂ そこで途切れる。 深月はじっと待つが、それ以上の言葉は出なかった。 雄介は、ため息を押しだすように、 ﹁⋮⋮別に、深い意味はねーよ﹂ ﹁⋮⋮そうですか﹂ ﹁餞別だ。お前の言うとおり、他人だからな。自分の身は自分で守 561 れ﹂ 餞別。 この先、もう関わることはないのだろう。 さまざまに去来する思いを、深月は封じこめた。 銃を胸元に抱きしめ、深々と頭を下げる。声が震えないように祈 りながら、 ﹁ありがとう、ございました。今まで⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮まあ、元気でやれよ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 雄介が荷物をかたづけるあいだも、深月は顔を見られたくなくて、 じっとうつむいていた。 562 47﹁野外センター﹂ 西庁舎で出た自殺者については、雄介の言葉もあり、できる範囲 での調査がされた。しかし、筆跡も登録カードと同じもので、疑念 は残るが、それ以上言いたてる雰囲気でもなく、雄介は引き下がっ た。 微妙な空気のただよう中、雄介たちは本命のルート開拓をはじめ た。ボートには十分な広さがあったので、調達班の全員で山へと向 かう。ライフジャケットをつけて、船着場から乗りこみ、野外セン ターへと出発する。 川をさかのぼる途中、雄介は操舵室でハンドルをにぎりながら、 となりの工藤にも操作を教えた。何度か操船を交代したが、飲みこ みは早く、川を移動するだけならすぐできそうだった。 上流に行くにしたがって、川はだんだん細く、浅くなっていった。 緑地公園のそばにきたところで、陸に上がった。ここなら民家は 遠いし、大勢の移動でもゾンビを警戒しやすい。 隣接する大きな倉庫の、ひらけた敷地を通り、山へ続く裏道へと 入る。一応舗装されてはいるが、車線も別れていない。 まわりは木がおいしげり、見通しは悪かった。一行は警戒しなが ら進んだが、さいわい、ゾンビとは出くわさなかった。 途中で神社を見つけたので、一休みする。 それぞれサバイバル用の装備で固め、山で使う機器も運んでいる ので、疲労はあった。ただでさえ山登りだ。 汗を乾かせながら休んでいると、猫が何匹か、境内でひなたぼっ こしているのが目に入った。 こちらには特に興味もないようだ。 ︵あいつらなに食ってんだろ⋮⋮ねずみか?︶ 563 屋外のゴミはすぐに腐りきってしまうだろう。屋内に侵入できる ねずみが繁殖して、それを獲物に、野良猫が増える⋮⋮ ︵春になったら猫の町になってたりして︶ ゾンビは動物を襲わない。存在には気づくようだが、何かしよう としているところは見たことがない。 そのうち、山の野生動物もおりてくるかもしれない。平野を支配 していた人間はもういないのだ。 休憩が終わると、工藤がバックパックを背負いながら、うんざり したように言った。 ﹁センターで車見つけようぜ。生身は神経使うわ﹂ ﹁あー、何台かあるといいな。川との往復に使える﹂ 市役所から調達班の車を持ってこられれば良いのだが、ごちゃご ちゃした市街地を通ることになる。リスクが高かった。 隊列を整えて、ふたたび坂道をのぼりはじめる。 その道すがら、社長がぽつりと言った。 ﹁今のうちに移動して良かったかもなあ⋮⋮ガソリンもそのうち使 えなくなる﹂ ﹁え、そうなんすか?﹂ 工藤が驚いたように振りむく。 ﹁劣化するからな。保存にもよるが⋮⋮二年ぐらいでエンジンがか からなくなる。軽油なら問題ないんだが⋮⋮﹂ ﹁二年っすか⋮⋮。それまでサバイバルとか想像したくねえなあ⋮ 564 ⋮﹂ ﹁ディーゼルを見つけたいですね。発電機も﹂ 佐々木が言った。小銃をスリングで肩にかけ、会話のあいだも周 囲を警戒している。 元自衛官の佐々木には、小銃のひとつを渡していた。もともと自 衛隊の武器だ。 ボートの中で簡単な整備もしてもらったが、なるべく撃たないほ うがいいと釘を刺された。試射してからでないと危険らしい。 ただ、銃剣をとりつけているので、槍代わりにはなる。雄介もス リングで肩にかけていた。とりまわしを考えると、近接武器として は優秀だろう。 工藤がうらやましそうに、 ﹁⋮⋮もうねーの? そいつ。駐屯地に行ったんだろ?﹂ ﹁部品取り用のはあるけど⋮⋮弾があんまなかったからさ。かさば るし。筒だけ持って帰ってもな﹂ ﹁音のこともある。使わないにこしたことはない﹂ 佐々木が締めくくった。 ◇ 野外センターのゾンビについては、すでに雄介が掃除していたの で、ほとんど姿はなかった。 中央ロッジを中心に、森の中に小道が伸びている。ログハウスや キャンプ場が広がり、野外炊飯場や、体育館もある。南には川とた め池もあって、かなりの広さだった。 ただ、全体を活動範囲とするには、防御に不安が残る。 中央ロッジだけでも、市役所の人間が住むには十分なのだ。 565 二階建ての屋内は、二段ベッドをならべた宿泊室で、ホテルのよ うになっている。一階には、食堂や浴場、集会室があり、暖炉のあ る落ちついたラウンジもあった。すぐ近くに、工作室付きの倉庫も 建っている。 社長が感心したように、 ﹁かなりいいな。せまいが、うまくまとまってる﹂ ﹁ここなら守りやすいっすね﹂ 一階に入り口が複数あるが、いくつかはふさいでしまえばいいだ ろう。いざというときは屋上からも脱出できる。 全員が入ると宿泊室がすし詰めになるので、長期的には難しいか もしれないが、一、二ヶ月ぐらいなら十分だった。 ﹁とりあえずここを拠点にしよう。余裕ができたら、まわりも使え ばいい﹂ ﹁了解っす﹂ そのあとは駐車場で車を見つけ、雄介が拠点にしようとしていた ログハウスから物資を運びこんだ。食料や水のいくらかと、農作業 用の種や肥料に、工具や電化製品のたぐいだ。 雄介にはあつかえなかった太陽光発電の一式もある。調達班の人 間なら、なんとかできるかもしれない。 その夜はロッジの防御を固め、二階で休んだ。 市役所との無線で、野外センターの環境や設備を伝えると、向こ うもわいていた。希望の気配だった。 ◇ 翌日、小銃の試射を行った。 566 屋上がちょうどひらけていたので、銃や標的を持ちこむ。 音にひかれてゾンビが現れる可能性もあるので、それにそなえて 他の人間も待機していた。いざというときは、ロッジにたてこもっ て撃退する作戦だ。周辺の山にゾンビがいる可能性もあるので、確 認にはちょうどいい。 小銃の基本的なあつかい方や、射撃姿勢については、佐々木から すでに教わっていた。 ﹁はじめようか﹂ 佐々木に伏射の手本を見せられたあと、雄介も見よう見まねで従 う。コンクリートに腹ばいになり、銃をかまえる。 黒でつや消しされた、アサルトライフルだ。 銃身には、熱を持っても左手で支えられるように、強化プラスチ ック製のハンドガードが被せられている。放熱用の穴がいくつも空 いているそれを、砂袋の上に乗せ、銃口がぶれないようにする。 先端は、開いた二脚で床に固定されている。折り畳み式なので、 普段はしまえるようになっていた。 佐々木が、雄介の姿勢をチェックしていく。 ﹁つま先を外に。足はかるく開いて。床に張りつけるんだ﹂ 言われたとおりに姿勢を調整する。 ﹁グリップは強く握るな。肩に引きつけるぐらいでいい﹂ かるく力を抜き、銃床を右肩につける。ストックと呼ばれる肩付 け台だ。 それに横から頬をあてて、照門をのぞきこむ。 小さい穴の先に、標的が見えた。手製の、紙に同心円が描かれた 567 的だ。三十メートルほど先にある。 ﹁照門におかしな影は出ていないか?﹂ ﹁いや﹂ ﹁ならいい。零点規正をはじめよう。見ててくれ﹂ 佐々木がすこし離れたところで、伏射の姿勢をとった。 雄介と同じように、砂袋と二脚で銃を固定する。ボルトハンドル を引いて初弾を装填し、セレクターを単発に合わせ、標的を狙う。 ﹁⋮⋮﹂ パン、という射撃音とともに、的に穴が空いた。 中心からすこし左上だ。 銃声の残響が、森の奥に消えていく。 続いて二発目、三発目と、弾痕がうがたれる。ほぼ同じ場所に当 たっているが、全体的に左にずれていた。 佐々木は銃を固定したまま、照門の左右のつまみを回す。 照準の調整が終わると、引き金に指をかける。 撃った。 今度は真芯に命中した。 佐々木は顔を上げ、 ﹁弾の余裕もないし、これで済ませよう。次は武村君の番だ﹂ ﹁俺が調整やってもいいのか?﹂ 佐々木はすこし考えこみ、 ﹁人に向けて銃を撃つのは、かなり抵抗があると思う。動きをなる べく体に染みこませておいたほうがいい。伏射でこの距離なら、大 568 丈夫だろう﹂ ﹁りょーかい﹂ 雄介はライフルを肩付けしながら、 ︵いまさらだよなあ⋮⋮︶ 皮肉に思った。 深月とスーパーにいたころは、人の形をしたものを傷つけること には、たしかに抵抗があった。たとえそれがゾンビだろうと。 この野外センターの掃除をしたときも、ゾンビを捕まえてダンプ に乗せ、適当に街まで運んでいたものだ。 ︵今なら⋮⋮死体にして積んでるかな︶ いつからこうなったのかはわからない。 ただ、人間だろうとゾンビだろうと、敵なら平気で撃てるだろう。 大した感慨もなくそう思った。 雄介の零点規正は、弾倉の半分ほどを使って終わった。三発撃っ て、ばらけた弾痕の中心に照準をあわせ、次の三発を撃つ。一発ご とに姿勢や動作を直され、最後には満足に当たるようになった。 ﹁もっと遠距離での調整もしたいが⋮⋮今日はここまでにしよう﹂ ﹁ふいー、サンキュ。助かったわ﹂ ﹁いや。こいつも貰ったしな。お互いさまだ﹂ マガジンを外した小銃を抱え、佐々木はかるく笑った。 ﹁あとは⋮⋮そうだな。空気銃もあればいいんだが⋮⋮﹂ ﹁空気銃? おもちゃじゃねーの?﹂ 569 ﹁いや、エアガンとは別物だ。圧縮した空気で弾を撃つんだが、鳥 ぐらいなら軽く落とせる。音も小さい﹂ ﹁そんなのあるのか⋮⋮﹂ ﹁狩猟にはうってつけだ。私も一丁持っていた。山で生活するなら、 あると便利だな﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ ︵こんど探しに行くか⋮⋮。銃砲店か? そうか、猟銃とかもある な︶ 空気銃でも猟銃でもかき集めれば、センターの防御はさらに固い ものになるだろう。重機で堀も作れば、防衛もしやすい。春に向け て備えておくのも良さそうだ。 そのとき、 ﹁おい、出たぞ﹂ 押し殺した声がかかった。 近くで作業をしていた工藤だ。 見れば、遠い木々のあいだに、人影があった。 地上をゆっくりとこちらに近づいてくる。 ﹁ゾンビか?﹂ ﹁だろーな。右足が骨だ。服もボロボロ﹂ 若い男だった。山中を長くさまよっていたのか、土と泥で薄汚れ ている。太ももはえぐれ、白骨化した大腿部が見えている。 銃声にひかれたのか、右足を引きずって、まっすぐこちらに歩い ていた。 570 ﹁一階のバリケードでやる。先に行くぜ﹂ 槍を手に、歩きだそうとする工藤に、 ﹁ちょい待った。⋮⋮俺にやらせてくれ。練習したい﹂ ライフルと砂袋を持ち、屋上を移動する。 手すりのない裸のへりに砂袋を置き、膝撃ちの体勢で、ライフル を固定した。撃ち下ろしなので、二脚は畳んだままだ。 ゾンビがある程度まで近づいたところで、ボルトハンドルを引い た。マガジンから初弾が装填される。銃の右側にあるセレクターに 指をかけ、レバーを安全から単発まで回す。 準備ができると、照門をのぞいた。 穴の中心に、照星を合わせる。 目と銃口をつなぐ、その照準線で、ゾンビを狙った。 望遠もついていないアイアンサイトでは、ゾンビの姿は小さかっ た。あまり細かくは狙えそうにない。 ﹁まだ遠い﹂ 後ろから、佐々木の声がかかった。 ﹁百メートルはある。もうすこし引きつけたほうがいい﹂ ﹁ラジャー﹂ ゾンビはもうこちらを認識しているようで、顔を歪めながら、よ たよたと近づいてくる。 それをじっと、照準の先で追いかける。 やがて、木々のあいだを抜け、遊歩道に出た。 571 ﹁⋮⋮よし。いいぞ﹂ 雄介はそっと息を止めた。 正確な照準には必要なことだが、あまり長いと、酸素不足で視力 が低下する。その前に撃たなければならない。 自分が銃の固定台になったようなイメージで、ゾンビの歩くすこ し先に、照準を置いた。 銃身は砂袋で固定されている。こちらがよけいな動きを与えなけ れば、狙いが外れることはない。 ゾンビの頭が重なる。 撃った。 ︵あ、くそ︶ 銃声とともに、ゾンビのこめかみがパッと弾けた。血肉が飛び散 り、体がよろけたように倒れる。 かすり傷だ。 りきみが入った。引き金を引くときに、横に引っぱってしまった。 照準をずらし、うずくまって起き上がろうとしているゾンビを狙 う。その後頭部に、視線をキリのようにしぼりこむ。 ︵引き金は触るだけ⋮⋮︶ 指先を重りにして、そっと後ろに沈める。 押し出されるように、銃声が響いた。 視線の先で、ゾンビが、後ろから突きとばされたように倒れた。 ︵ビンゴ︶ 地面につっぷしたまま、それきり微動だにしない。 572 弾は後頭部を撃ち抜いていた。 銃声がうすれ、静けさが戻ってくる。 数秒間、そのまま照準を続けたあと、 ﹁⋮⋮ふう﹂ 息を吐き出し、雄介は顔を上げた。 セレクターを安全の位置に戻し、振りかえる。 ﹁どうよ﹂ ﹁⋮⋮すげえな﹂ 工藤はライフルの威力を見て、呆れたようにつぶやく。 隣の佐々木は、複雑な表情でゾンビの死体を見つめていた。 やがて、小さくうなずき、 ﹁⋮⋮後始末しようか。下に降りよう﹂ ﹁了解﹂ スリングで肩に戻し、的や砂袋などのかたづけに入る。 工藤がそれを手伝いながら、 ﹁頼もしいけど気をつけろよ。暴発とかシャレになんねえ﹂ ﹁わかってるって。⋮⋮しかしあれだな。これクセになりそうだ﹂ ﹁⋮⋮こえーこと言うなよ⋮⋮﹂ ﹁冗談だって。さっさと死体かたづけようぜ﹂ 肩をかるく殴られる。 雄介は笑いながら階段へと向かった。 573 ◇ その後は、センター内でのこまごまとした作業が続き、日が落ち てからロッジに戻った。 戸締りを確認してから、それぞれ作業や見張り、休憩などで別れ る。 雄介はロッジの一角、暖炉の前にいた。 ﹁お、ついた﹂ 薪が炎を上げる。 火付けにした新聞紙を中に放りこみ、雄介は腰を上げた。 一階のラウンジには、赤レンガながら真新しい作りの暖炉が設置 されていた。そばにはソファーも置かれ、談話室のようになってい る。 やわらかい明かりと熱が、それらを照らしだした。 大きくなる火に、そばにいた工藤が手をすりあわせながら、 ﹁暖炉はありがたいな⋮⋮。倉庫にも薪いっぱいあったけど、どっ かで切ってんのかな? 乾燥とかさせるんだろ?﹂ ﹁よそから買うんだろ。自然が売りの野外センターで、木を切り倒 してどうすんだよ⋮⋮﹂ ﹁それもそうか⋮⋮﹂ ﹁まあ、薪は準備しといたほうがいいかもな。切るのはしんどそう だけど﹂ ﹁チェーンソー探そうぜ。ゾンビにも使える﹂ ﹁使えねーよ⋮⋮﹂ 炎をながめながら、二人で無駄話をしていると、小野寺も姿を見 せた。 574 なにかの荷物を両手に抱えている。 ﹁あ、ちょっと火を借りていいですか? 上も暗くて﹂ ﹁いいぜ。ってか、それは?﹂ ﹁懐中電灯が調子悪いらしくて。様子を見てくれって頼まれたんで す﹂ ﹁へー。すげえじゃん。直せんの?﹂ ﹁いや⋮⋮そうでもないんだけど。工作室を調べてたら、お前なら できそうって言われて。ハンダごてもあったんで、とりあえず分解 してみようかと﹂ ﹁ああ、眼鏡かけてるしな。たしかにそんな感じ﹂ ﹁⋮⋮それはあんまり関係ないよね⋮⋮﹂ 小野寺は苦笑いしながら、ソファーのそばに座りこんだ。 工具箱から、ドライバーやテスター、ペンチやハンダごてなどを 取り出し、広げた新聞紙の上で分解をはじめる。あまり苦労してい るようには見えなかった。 工藤はそれを、興味津々にのぞきこむ。 ﹁やっぱできるんじゃん﹂ ﹁⋮⋮そういえば小学生のときは、こういうのよくやってたかな。 今まで忘れてたけど﹂ ﹁メカ少年って感じか﹂ 小野寺は作業を続けながら、 ﹁昔は科学者になりたかったんだよね。あの白衣にあこがれて。雑 誌の付録とかで、よく遊んでた。なんか機械いじりしてるのが格好 よくて﹂ ﹁へー⋮⋮。でもそれ、科学者っていうか⋮⋮メカニック?﹂ 575 ﹁今思えばそうかな⋮⋮。まあ、子供のことだし﹂ 小野寺は笑い、ハンダごてを暖炉の柵にかけた。先端を火の近く に向け、熱であぶる。 ハンダごては、熱した先端で金属のハンダを溶かして、回路の配 線などを固着させる道具だが、電気がないので、火で代用している らしい。 それを見ながら、 ﹁子供のころか⋮⋮﹂ 工藤が遠い目でつぶやく。 ﹁俺はヒーローだったな﹂ ﹁ヒーロー⋮⋮ですか﹂ 小野寺が目をまたたかせる。 ﹁チビだったからさー。あの、悪党をなぎたおしてく場面にあこが れてたんだよな﹂ それを聞いて雄介は、工藤に髪を切ってもらっていたときのこと を思いだした。 ソファーの背にもたれながら、 ﹁そういえば、お前の読んでた本もそうか。昔の中国っぽいの﹂ ﹁ああ、たしかにあれも、ヒーロー大集合みたいなもんだ。こんど 貸してやるよ﹂ ﹁いらねー。漢字が多すぎると頭が痛くなる﹂ ﹁⋮⋮今の若いやつはこれだからよ⋮⋮﹂ 576 工藤はため息をつく。頬づえをつき、暖炉の炎を見つめながら、 ﹁⋮⋮でもまあ、昔の英雄って、みんな軽いサイコパスだったって 聞いたことあるな﹂ ﹁なんだそりゃ﹂ ﹁普通のやつは、他人を傷つけられないんだよ。どっかでブレーキ がかかる。それが外れてるやつが、戦争とかで活躍して、英雄って 呼ばれるんだと﹂ ﹁⋮⋮なんかロマンがねーな﹂ ﹁悪党も同じだからな。要は、その力を仲間のために使うかどうか だ﹂ すこし沈黙が混じる。 ﹁仲間のため⋮⋮ね﹂ ﹁ああ﹂ 不穏な気配を感じたのか、小野寺が顔を上げた。 雄介は口を開く。 ﹁仲間のために殺しまくるほうが怖くねーか? 自分のためのが理 解できるけどな﹂ ﹁⋮⋮そうかもな﹂ ﹁だいたい仲間のためって、使いっぱしりにされてもしょーがねえ だろ。こっちに得がありゃ別だけどさ。危険を押しつけられてもな。 生き残りたけりゃ、自分でどうにかしねーと﹂ ﹁そこは見解の相違ってやつだな﹂ 工藤は暖炉を向いたまま、 577 ﹁⋮⋮そうだな。たしかに市役所のやつらは、羊の群れみたいに縮 こまってる。でもな、それが普通で、そういうもんだ。動けって言 っても無理なんだよ。だから、俺らがやるしかねえ。外に出てって ゾンビぶっ殺すのはな。良い悪いじゃなくて、単に人の作りが違う だけだ﹂ ﹁⋮⋮俺らが異常者みたいな言いかただな﹂ 工藤は唇のはしをゆがめた。 ﹁別に卑下してるわけじゃねーぜ。昔のだらだらした毎日にも、不 満なんてなかったが⋮⋮今の立ち位置も、そんなに悪いとは思って ない。⋮⋮まあ、なんもしないでゴチャゴチャ言うやつはムカつく けどな。その点、小野寺は立派だぜ﹂ ﹁え!?﹂ いきなり名前を出されて、小野寺はとまどう。 ﹁お前はまだ慣れてないだけで、こっち側だろ。こういうのは見た 目じゃわかんねーもんだな﹂ ﹁うーん⋮⋮よくわからないけど。でも、がんばりたいとは思って るよ﹂ ﹁だろ﹂ 工藤がこちらを見た。 ﹁お前もそういう気持ちはあるだろ? でなきゃ、ここにいないぜ﹂ ﹁⋮⋮さあ﹂ ﹁俺はさ、お前のこと、すごいと思ってる。だから、なんていうか ⋮⋮。不安とも⋮⋮心配とも違うんだけど⋮⋮。⋮⋮なんかうまく 578 言えねーや﹂ 工藤は頭をかき、 ﹁すまん。忘れてくれ。俺よりお前のがよっぽど動いてるのにな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雄介は答えず、暖炉の炎を見つめながら、小さく息を吐いた。 ﹁ん⋮⋮?﹂ 工藤が怪訝な声をあげる。 二階から、慌ただしい物音がしていた。 様子をうかがっていると、調達班のメンバーが降りてきた。ばら していたはずの荷物や武器を持っている。 社長がこちらを見て、硬い声で言った。 ﹁役所から無線が来た。荷物まとめろ。すぐ戻るぞ﹂ ﹁⋮⋮なんかあったんすか?﹂ ﹁死人が出てるらしい。むこうがパニックになってる﹂ 雄介は立ち上がった。 ﹁⋮⋮ゾンビか?﹂ ﹁わからん。いや⋮⋮ゾンビとは違うようだが、無線の相手もよく わかってない雰囲気だった。船は夜でも動かせるか?﹂ ﹁ああ。速度は出せねーけど、ライトで照らせば⋮⋮﹂ ﹁よし﹂ 慌ただしく出発の準備をして、車に向かう。 579 並木道は明るく、満月が出ていた。 不吉な明るさだった。 580 48﹁崩壊﹂︵前書き︶ 残酷な描写があります。 581 48﹁崩壊﹂ 医務室での作業の途中、ガラス窓に映った自分の顔を見て、牧浦 はふと手を止めた。 外はすでに暗い。 蛍光灯の光を反射して、窓は室内を映しだしている。 顔を近づけ、指で目の下をなぞり、しげしげとながめる。 ︵⋮⋮クマ、薄くなってきたかな?︶ 横から声がかかる。 ﹁先生、よければどうぞ﹂ ふりむくと、ボブカットの若い女、白谷が、コンパクトを差し出 していた。 彼女は通信班のリーダーだが、今はシフト外で牧浦の作業を手伝 ってくれている。 ﹁ありがとうございます﹂ おとなしく受け取り、鏡をのぞきこむ。 肌の疲れは隠しようもないが、以前よりはマシになっている気が する。 白谷がニコニコと、 ﹁大変ですよね。化粧もできないし⋮⋮。でも、先生は元がすごく いいんだから大丈夫ですよ! うらやましいです﹂ 582 ﹁⋮⋮あまりからかわないでください﹂ 牧浦は恥ずかしそうに視線をそらす。 机の上にはダンボール箱があり、中には書類が詰め込まれている。 市役所の本部事務所にあったもので、中は用済みになったリストや、 覚え書きのたぐいだ。 そのチェックを二人はしていた。 数日前に、庁舎内の女二人が行方不明になっていることが発覚し た。 その捜査でいっとき市役所は騒然となったが、新たに男の自殺者 が出たことで、騒ぎは収束した。心中の失敗を懺悔する遺書が残さ れていたためだ。 男一人、女二人の心中事件。 その結論で、運営本部の捜査はすでに止まっている。 調査を続けているのは、牧浦と白谷の二人だけだった。 机に並んで書類に目を通しながら、白谷がすこし重い口調で言っ た。 ﹁わたし、たぶん⋮⋮今回のこと、変な事情はないんじゃないかっ て思います。だって、仕方ないじゃないですか。こんな状況で⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうですね﹂ 内心は、牧浦も同じ気持ちだった。 カウンセリングも担当していた牧浦としては忸怩たる思いもある が、すべての人間に目を配ることはできない。 家族も、帰る場所も失い、化け物たちに囲まれ、世界の先行きす らわからないこの状況だ。救助が来ないと聞いて、死に向かおうと する人間が出ても不思議ではない。 牧浦自身、精神的にもギリギリのところを、職責に支えられてや ってきたのだ。 583 雄介のように、飄々と生きていける人間ばかりではない。牧浦は そう思った。 ﹁でも、武村さんも気にされていましたし。できることはしておこ うと思います﹂ それを聞き、白谷はくすっと笑った。 ﹁先生も、良かったですね﹂ ﹁⋮⋮何がですか﹂ 白谷のからかうような声音に、牧浦は視線を外して答えた。 ﹁んふふふ﹂ ﹁⋮⋮やめてください。気持ち悪いです﹂ ﹁それです! 先生、わたしにも普通に喋ってくれるようになった じゃないですか。お医者さんって感じじゃなくて。それが嬉しいん です。先生には失礼かもしれませんけど﹂ ﹁⋮⋮いえ、いいですが﹂ 牧浦は苦笑を浮かべ、 ﹁そうですね。たしかに⋮⋮。こちらこそ、これからは仲良くして くださると嬉しいです﹂ ﹁はい! もちろんです﹂ 元気いっぱいに答える白谷。 その後も書類のチェックは続いたが、これといった情報は得られ なかった。 そもそも自殺者は警備班の人間で、書類に関与する面は少ない。 584 他の人間の書いたシフト表や班分けに名前が出るぐらいで、筆跡の 確認もおぼつかない。他にどんな情報を求めるべきかもわかってい なかった。 ついに未確認のものがなくなると、白谷は残念そうに言った。 ﹁直前に話をした人でもいたら良かったんですけどね﹂ ﹁ええ⋮⋮﹂ ﹁でも、これだけ調べれば、武村さんも納得してくれると思います よ。これ以上は調べようがないですし﹂ ﹁だと良いのですが⋮⋮﹂ 牧浦はため息をついて書類を置き、机によけていたカルテを手に とった。 自殺者の男の物だ。 こちらは調査を初めたときに、まっさきに確認している。 目立った怪我や病気もなく、精神的に不安定ということもない。 社交的なほうではないが、トラブルは一度も起こしていない。警備 班の仲間とは、それなりに付き合いがあったように見える。 不審な点はない。 行方不明の二人のカルテも確認したが、心中を企むような人間に は見えなかった。 だが、それはカルテの上では、だ。 やはり自分が、萌芽を見逃したのだろうか。 ︵もっとこまめに話を聞いていれば、あるいは⋮⋮︶ ﹁先生、お茶をいれますので、すこし休憩しませんか?﹂ ﹁⋮⋮ええ、そうですね⋮⋮﹂ 白谷が気をつかって言ってくれているのはわかっていたが、牧浦 585 は生返事でそれに答えた。 ぼんやりとカルテをながめる。 ︵⋮⋮⋮⋮?︶ ふと、はっきりとしない違和感が浮かんだ。 カルテは牧浦が書いたものだから、本人の書いた登録カードと筆 跡が違うのは当然だ。 名前も年齢も合っている。 だが⋮⋮ ︵⋮⋮これは⋮⋮︶ 慌てて横から登録カードをとり、二つを見比べる。 気配を察知したのか、白谷が声をかけた。 ﹁⋮⋮先生? どうしました?﹂ 牧浦は答えない。 しばらく沈黙が続いたあと、牧浦は顔を上げた。 ﹁⋮⋮すみません、白谷さん。各班のリーダーを会議室に呼んでも らえますか? 緊急会議を開きます﹂ ﹁あ、はい。お急ぎでしたら、放送で﹂ ﹁いえ、直接ことづてを。私もまわります。時間がかかっても構い ません。他のかたにはなるべく知らせないように⋮⋮お願いできま すか?﹂ ﹁は、はい⋮⋮﹂ 牧浦の異様な雰囲気を察したのか、白谷はすこし緊張した面持ち 586 で答えた。 ◇ 一時間後、会長の水橋をはじめとして、会議室には全員がそろっ ていた。 調達班は野外センターに出ているので、それ以外のリーダーたち だ。通信班の白谷も含まれている。 ﹁名前の漢字がちがう?﹂ 牧浦の話を聞いた一人が、怪訝そうに言った。 ﹁同じように見えますが⋮⋮﹂ テーブルに並べられたカルテと登録カードを見比べ、男は首をか しげる。 ﹁これを見てください﹂ 牧浦はホワイトボードに、自殺者の名前の一文字を書いた。その 横にもうひとつ同じ漢字を書くが、そちらはかすかに形が違ってい た。 ﹁異体字です。この漢字は通常、上の横棒が長く書かれますが、私 のカルテでは逆に、下の方が長くなっています﹂ ﹁⋮⋮それがなにか、問題なのですか?﹂ わずかに線の長短が違うだけで、急いで書けばいくらでもありそ うな差だった。 587 ﹁それは⋮⋮﹂ 牧浦は口元に手をやり、考え込むような姿勢を見せる。 男は困惑しながらも、横の人間にふたつの書類を渡していく。 書類がテーブルを回り、全員がそれを確認しおわると、牧浦は口 を開いた。 ﹁⋮⋮病院などでも、管理システムに登録される名前と、本人の手 書きで漢字が違うというのはよくあります。異体字は多く、コンピ ューターではそれを再現できないためです﹂ 牧浦は続けた。 ﹁ですが、このカルテは、問診の前に登録カードを参考にして私が 書いたんです。名前の書き損じかと思って本人にも確認しました。 ですが、この書き方で正しいと。手書きではそれが癖になっている と⋮⋮。今になって思い出しました⋮⋮。でも、その本人が書いた 登録カードが、いま見ると普通の書き方になっている。私の書き写 したカルテと字体が違うんです﹂ ﹁ということは⋮⋮﹂ ﹁登録カードが書き換えられています﹂ ざわめきが起きた。 ﹁じゃあ⋮⋮あの遺書は? 筆跡はこれで確認したんでしょう?﹂ ﹁⋮⋮あれはつまり、他の誰かが⋮⋮なんてことだ⋮⋮﹂ 遺書の捏造。 ただの自殺ではない可能性が出てきたことで、空気は騒然となっ 588 た。 そんな中、会長の水橋が口を開いた。牧浦を見ながら、 ﹁どうしますか?﹂ 牧浦は一瞬沈黙し、 ﹁⋮⋮市役所の人間、全員に、なにかのアンケートを配りましょう。 そこからカードの筆跡と近いものを探します。犯人が用心深ければ 意図的に変えているかもしれませんが、目星はつかめるはずです﹂ ﹁わかりました。なるべく早いほうがいいですね﹂ 水橋がうなずく。厳しい顔はしているが、あまり動揺は見られな い。五十代の元高校教諭という来歴だったはずだが、意外と近くに 傑物がいたのかもしれないな、と牧浦はちらりと思った。 会議室の扉が開く音がした。 ふりむくと、男が二人、入ってくるところだった。 警備班の腕章をつけている。 ﹁なんだ? いま会議中だ。用事なら後に⋮⋮﹂ 喋りかけた警備班のリーダーが、轟音とともに後ろに吹き飛んだ。 爆発音がビリビリと空気を振動させ、会議室の中を跳ねまわる。 テーブルについていた全員が凍りついた。 男は、木製のストックに黒い筒のついたもの⋮⋮狩猟に使うよう な散弾銃を構えていた。男が銃身の下をスライドさせて次弾を装填 すると、排出された薬莢が床に落ちた。 倒れた警備班のリーダーの胸元は真っ赤に染まり、テーブルにも 血が飛び散っていた。ぴくりとも身動きしない。 男が口を開いた。 589 ﹁動いた奴から撃つ﹂ ﹁ひ⋮⋮﹂ 逃げるように身をよじらせた一人に、すっと銃口が向いた。 ﹁! 待ちなさいッ!﹂ 立ち上がった水橋が、素早く向いたショットガンの銃撃を受けて 机から引き剥がされた。ハケでペンキを振るったように血潮が跳ね 飛び、体が床に叩きつけられる。 耳がまだ麻痺しているのか、二度目の銃声は奇妙に小さく聞こえ た。 牧浦は凍りついたように、それらをながめていた。 ﹁⋮⋮﹂ 銃声と耳鳴りが遠のいていく。 警備班のリーダーも、会長の水橋も、床に倒れ伏したまま、身動 きひとつしない。 他の人間は席についたまま、男たちに視線を向けて、硬直してい た。 男は三十代ぐらいだった。腰丈のビジネスコート姿で、閉じた襟 元からはグレーのセーターとYシャツがのぞいている。 人相も凶悪なものではなく、すこしくたびれた普通のサラリーマ ンといった風情だが、右手にはショットガンを構えていた。 ﹁あ⋮⋮﹂ 誰かが漏らした声に、ショットガンが反応した。向けられた銃口 590 に、悲鳴が辛うじて飲み込まれる。 ﹁喋っても撃つ。言う通りにしろ﹂ 平坦な声だった。 麻痺したような思考の中、牧浦は、男の素性に思いあたった。 班替えのすこし前に、警備班への協力を申し出てきた、新参者の 一人。 さらには自殺の現場で、雄介が遺書の筆跡の確認を言いだしたと き、真っ先に反応して動いた警備班の一人だ。そうだ、あの場にい た⋮⋮ ビジネスコートの男は、ホワイトボードに書かれた牧浦の文字を 見て、疲れたように言った。 ﹁先生も、半端に鋭いから困るな⋮⋮。死人が増える﹂ ﹁ヘッ﹂ もう一人の男が鼻で笑った。 こちらはフード付きのパーカーで、十代後半ぐらいの若さだ。ざ んばらに切った黒髪の下から、ニヤニヤと笑顔を見せている。 少年は右手にぶら下げていた大きなスポーツバッグを下ろし、道 具を取り出しはじめた。 重ねられたタオルとガムテープ、それに結束バンドの束だ。 コートの男が、会議室を睥睨して言った。 ﹁全員、両手を椅子の後ろにまわせ﹂ 反応は遅かった。ショットガンの矢先を顔に向けられ、みな弾か れたバネのように指示に従う。 牧浦はホワイトボードの近くで立ちつくしたまま、身動きできず 591 にいる。 ﹁動くなよー﹂ 少年がパイプ椅子の後ろを歩き、メンバーの手足を結束バンドで 拘束していく。コードをまとめるときに使うプラスチック製の細い 帯だ。ハサミでならすぐ切れるが、自力ではまず外せない。 さらに口にはガムテープを、首にはタオルを巻きつけていく。絞 殺が頭をよぎるが、タオルは緩くかけられているだけのようだった。 ﹁いいぜ﹂ メンバーの拘束が終わると、コートの男は銃を下げた。前すそを 開いて腰の弾帯から散弾をふたつ取り、銃の下部から中に装填して いく。プラスチック製の円筒形のカートリッジが、ベルトにずらり と刺さっているのが見えた。 ﹁準備してくれ﹂ ﹁あいあい﹂ 少年がスポーツバッグの奥から、荷物を取り出しはじめた。 現れたのは、不思議な形をした三つの部品だった。極端に反りか えったスキー板のような物がふたつ、弧の緩いブーメランのような 物がひとつ。こちらは中央に握り手があり、中抜きの穴で軽量化さ れている。 少年が、素早くそれらを組み立てていく。 弦が張られたところで、それが弓だとわかった。中央に握り手が あり、上下に弧が伸びている。金属製で、全長一メートルは超えて いた。複雑な部品をいくつも備えた、競技に使われるような弓だっ た。 592 組み立てが終わると、少年は布をパーカーの左そでに巻きつけ、 たるみを絞り込んだ。指貫グローブをはめ、何度か拳をにぎって調 子を確かめる。右腰にまわした矢筒には、矢羽根とシャフトが数十 本見えていた。 ﹁お? 誰か来た﹂ 足音が廊下の外から近づいてくる。 先ほどの銃声を聞きつけて、近くの人間がやってきたらしい。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦の手に汗がにじむ。 テーブルに寄りかかっていたコートの男の視線が、牧浦を向いた。 ショットガンはまだその手にある。 扉がノックされると、男がふらりと入り口に近づいた。 ﹃大きな物音が聞こえたようなのですが、何かありましたか?﹄ 男が無感動な声で答える。 ﹁こちらは大丈夫です。いま大事な会議中なので、調査してあとで 報告していただけますか﹂ ﹃わかりました。こちらで調べてみます﹄ 会話のあいだも、コートの男はずっと牧浦を見ていた。右手のシ ョットガンは外の人影に向けられ、人差し指はいつでも撃てるよう トリガーにかかっている。 牧浦は何もできなかった。 足音が会議室から遠ざかっていく。 593 それを聞き届けると、男がぼそりと言った。 ﹁さて⋮⋮こっちは先生がいれば十分だ﹂ ﹁はいよ﹂ 少年が腰から大振りのナイフを抜いた。拘束されているメンバー の方に無造作に歩みよる。 最初の一人は反応できなかった。 髪をつかまれ、空いた喉の上をナイフが滑った。 噴き出した血は、少年が引き上げたタオルに塞がれた。隙間から 血が滴り落ちる。 ﹁逃げるなって﹂ 二人目は、もがくうちに椅子ごと床に倒れた。 そこに少年が馬乗りになり、ナイフを走らせる。 体がビクンと痙攣した。 たちこめる血臭。 会議室の中で、ガムテープに塞がれたいくつものうめき声と叫び 声が上がった。パイプ椅子が悲鳴のように軋み、床の上でガタガタ と鳴る。 牧浦は制止の声を上げようとして、膝が崩れた。腰が床に落ちる。 ﹁あ⋮⋮﹂ あっさりと二人の命が奪われたことが信じられなかった。この男 たちが来てからはすでに四人。 パーカーの少年が、会議室の人間の喉をかき切っていく。タオル が吸いきれなかった血が床に広がる。 ずっと市役所の運営を共にしてきた仲間たちが、殺されていく。 594 ガタン、と近くで椅子の倒れる音がした。 ﹁⋮⋮ぅ⋮⋮ぅ⋮⋮﹂ 倒れた白谷と目があった。 口を塞がれたまま、真っ赤な顔をグシャグシャに歪めて泣いてい る。 床に、失禁の水たまりが広がっていく。 その髪に少年の手がかかったとき、男の制止の声が届いた。 ﹁そいつはいい﹂ ﹁ん? そう?﹂ パーカーの少年はまわりを見渡し、他に動く人間がいないのを見 ると、大儀そうに伸びをした。 ﹁んーじゃあこれでいいか。リーダー全滅! ここもおしまいっと﹂ ﹁気を抜くなよ。まだあいつらがいる﹂ ﹁はいはい﹂ 少年はナイフの先で白谷を指し、 ﹁そっちはなんで? 使いものにならなそうだけど﹂ ﹁いい。この二人を人質にする。これから西棟に移動するが、どち らかが逃げたらもう一方を殺す。抵抗しても同じ。いいな?﹂ 口を塞がれたまま泣きじゃくる白谷と、呆然としたままの牧浦。 返事も求めていないのか、男はすぐに視線を外した。 弓を抱えたパーカーの少年が、会議室の扉を開ける。 595 ﹁さて行くか。新天地へ出発! あいつらはうまくやってるかな﹂ 男たちに後ろからうながされ、牧浦と白谷はおぼつかない足どり で、会議室を後にした。 596 49﹁反転﹂ 響くような音が、市役所のどこか遠いところで聞こえた。 深月は顔を上げ、耳をすます。 ﹁⋮⋮?﹂ 続く音はなかった。 同じ資材室の人間も何人か、怪訝そうに、音のした方向に顔を向 けている。 そばにいた小さな女の子が立ち上がろうとして、深月は慌ててそ の手を握った。 五、六歳ぐらいの、雄介が駐屯地で保護したという女の子だ。グ チャグチャだった髪は洗ってとかされ、綺麗に背中を流れている。 こざっぱりした格好をとると、とても可愛らしい姿になった。 だが、その眼光の鋭さは、預かったときとまったく変わっていな い。今も異変に反応して、様子を見に行こうとしている。 ﹁だめ、危ないから﹂ 女の子は不満そうな顔で、深月を見上げる。 ﹁見張りの人もいるから大丈夫だよ。あとで私が見てくるから、ね ?﹂ 女の子は唇を噛みしめていたが、しぶしぶうなずく。隆司の横に 寄りそい、部屋の入り口を凝視する。 弟の隆司も、無言で外の気配をうかがっていた。二人とも警戒し 597 ているのだ。 子供の順応性がこんな方向に使われていることに深月は暗い気持 ちになるが、すぐに頭を切り換える。様子を見て何事もなかったと 教えれば、また安心できるだろう。 資材室での手伝いを済ませたあと、深月は袋を抱え、 ﹁あの、靴下、ありがとうございました﹂ ﹁いいのいいの。余ったはぎれで作ったんだから﹂ 子供用の靴下があまりなく、それを知った資材室の人が作ってく れたのだ。深月は頭を下げ、二人を連れて部屋を出ようとした。 そのとき、戸口に見知った少年が顔を出した。 ﹁あ、深月﹂ 幼なじみの少年、敦志だった。 警備班の、見張りのシフトに当たっていたはずだが。 隣に女が立っていた。 ﹁⋮⋮どうしたの?﹂ ﹁いや、この人が深月に用があるって。ちょうど交代の時間だった から連れてきた﹂ それを聞いて、深月は視線を向ける。 髪を後ろで引っ詰めにした、気弱そうな若い女だった。一応笑顔 を浮かべてはいるが、あまり他人が得意でないのか、引きつったよ うな表情になっている。 ﹁なんでしょうか?﹂ ﹁⋮⋮せ、先生に頼まれて、人を集めてるんだけど⋮⋮来てくれな 598 い⋮⋮?﹂ ﹁牧浦先生が? ⋮⋮さっきの音ですか? ケガ人が出たとか﹂ ﹁あ⋮⋮そうかも﹂ 女は曖昧に笑った。 ﹁わかりました。この子たちもいるので、一度部屋に戻ってから向 かいます﹂ ﹁あ、いいから! 一緒に来て。急いでるから!﹂ 急に必死になった声音に、深月は不可解なものを感じつつもうな ずいた。 ◇ 女の先導で向かった先は、渡り廊下をすぎた、西庁舎の二階の一 室だった。深月たちが市役所にたどり着いたとき、最初に住居とし て案内された場所だ。 中はうす暗い。すみにあるカンテラの明かりは壁際まで届かず、 おぼろげなシルエットだけが浮かび上がっている。 ひとけの少なさを怪訝に思いながら、部屋に入ろうとしたところ で、袖を引っぱられた。 後ろについていた女の子だ。 深月の方は見ずに、横にいる引っ詰めの女に、視線を向けている。 女が引きつったような笑みを浮かべた。 ﹁ど、どうしたの?﹂ 戸口で止まった深月と女の子のあいだで、挙動不審に視線を動か している。 599 ︵⋮⋮この人⋮⋮?︶ どこかおかしいと感じたとき、室内の暗闇で、気配が動いた。 ︵⋮⋮っ!?︶ とっさにあとずさったことで、暗闇から伸びてきた腕を間一髪で 避けた。横にいた女とぶつかってもつれ込む。 ﹁なっ⋮⋮﹂ 部屋から出てきたのは、見覚えのない男だった。 こちらを捕まえようと手を伸ばしてくる。 明らかな敵意があった。 隣の隆司が、抵抗の気配を見せた。既視感のあるその光景に、深 月はゾッとなった。 ﹁だめ! 離れてっ!﹂ 後ろに行かせないよう、反射的に前に出た。相手の正体もわから ないままの、恐怖と怒りによる盲目的な行動だったが、思わぬ反撃 だったらしく、男の体勢も崩れた。打ちつけた肩と頭に強い痛みが 走る。触れた男のおぞましさを肌で感じながら、深月は床を這いず るように距離をとり、 ︵あ、ナイフ⋮⋮ッ!︶ 雄介から貰った武器がある。構えれば相手も躊躇するだろう。 ベルトの後ろに手を入れようとしたところで、騒ぎの音を聞きつ 600 けたのか、渡り廊下の先から警備の男が走り寄ってきた。深月はと っさに、 ﹁助けてくださいっ!﹂ その声に、男は反応しなかった。必死の形相でこちらに向かって くる。 途中で男がつんのめった。 後ろから衝撃を受けたような格好だった。男は驚いたような表情 で立ち止まっている。 次の瞬間、ヒュン、と風切り音をたてて飛来した何かが、その背 中に吸い込まれた。 突き飛ばされたように男の体が倒れる。 床に崩れた男の背中には、二本の矢が刺さっていた。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 一瞬、思考が止まった。 渡り廊下の奥に、複数の人間が姿を現した。 ビジネスコートの男が、床にへたりこんでいる人影を引きずって、 こちらに歩いてくる。 男がふりかえり、後方に向けて銃を撃った。炸裂するいくつもの 爆発音が、こだまをもって響く。遠く見える中央ホールには、何人 もの人間が倒れているのが見えた。赤い色が目にチラつく。 男に引きずられているのは、泣きじゃくる白谷だった。 牧浦も壁によりかかりながら、這いずるように歩いている。どち らも後ろ手に拘束されていた。 ︵⋮⋮!︶ 601 心臓が強く脈打ち、思考がパニックに陥りそうになる。 何が起きているのかはわからないが、後ろの二人をつれて逃げる べきだ。階段を降り、一階のどこかから脱出する。 身をひるがえそうとしたそのとき、腕を強くつかまれた。 ﹁⋮⋮っ!?﹂ 女の引きつったような笑顔。 振りほどこうとしても離れない。指ががっちりと深月の腕にくい こんでいる。 そのあいだにも、男たちが近づいてくる。視線がこちらを向いた。 銃口が持ち上がる。 逃げられない。 服の下の、背中にある拳銃の存在が、強く感じられた。 ︵これを抜いて、向ければ⋮⋮、でも、ああ、ダメだ⋮⋮︶ 男の持つ銃は大きく、存在感も圧倒的だった。はっきりとした射 程の差はわからずとも、すぐに射殺される光景しか浮かばなかった。 雄介からは、あくまで威嚇用として持たされたのだ。 深月は動きを止め、後ろの二人にささやいた。 ﹁行って⋮⋮!﹂ 深月が体ごと押しやると、女の子は数歩後ずさりし、駆け出した。 隆司を引きずり、角の奥に遠ざかっていく。隆司のすがるような視 線を感じ、それを強引に連れて逃げてくれた女の子に、深月は感謝 した。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 602 部屋にいた男がそばに立ち、肩をつかんだ。渡り廊下の男たちも 近づいてくる。 深月は力なく、その場に立ちつくした。 ◇ 犯人グループは男が四人、女が一人だった。 監禁部屋には、牧浦と白谷の他に、二人の若い女もいた。深月の 前に捕らえられたらしく、合わせて五人、全員が人質となっている。 拘束され、壁際に座らされていた。 そばでは男が二人、ニヤニヤと笑っていた。コートの男の仲間た ちらしいが、どこか余裕のない、張りつめたような雰囲気があった。 弓を持ったパーカーの少年の姿はない。外で警戒しているようだ。 主犯格らしいコートの男は、すみに寄せられた机に向かい、左耳 にイヤホンを付けて、ずっと何かをうかがっていた。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 深月は視線だけで、そっと部屋の様子を見渡した。 牧浦は周囲と目を合わせず、肩を落としてうつむいている。白谷 のほうは虚ろに視線をさまよわせるだけだ。他の二人も怯えて、似 たようなものだった。 深月もわけのわからない状態に恐怖を覚えてはいたが、子供たち を逃がせたことで、わずかに希望を繋げていた。 ︵⋮⋮まだ⋮⋮︶ 武器もある。隙を見て、拘束を解ければ⋮⋮ それからの、室内を流れる時間は遅かった。 603 男たちは交代で外の様子を見に行っている。緊張しているのか、 じっとしていられないといった雰囲気だった。 しばらくして、窓の外から、かすかなエンジン音が聞こえてきた。 コートの男が窓辺に立ち、ブラインドの隙間から外をながめる。 野外センターに行っていた調達班のボートが帰ってきたのだ。 それが船着場に着いた頃合いを見計らって、男が無線機を取り出 した。 ﹁調達班か。話は聞いてるか?﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ 返答はない。無音のままだ。 男が再び発信した。 ﹁手早く進めよう。他のリーダー連中は殺した。医者の先生もこっ ちにいる﹂ 調達班のリーダーの、怒りを押し殺した声が返った。 ﹃⋮⋮なぜこんなことをした? 目的はなんだ﹄ ﹁ああ⋮⋮山の整備ご苦労さん。悪いが、向こうは俺たちが使わせ てもらう。ここにもそろそろウンザリしてきた。⋮⋮船を操縦して いる奴だけ残せ。他は陸に上がれ﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ ﹁わかったな? これから船に移るが、邪魔を感じたら⋮⋮こっち は人質がいる。下手な真似はやめろ﹂ 無線の相手が代わった。 雄介の声だ。深月はハッと顔を上げた。 604 ﹃勝手に話を進めんなよ。船の操縦なんかしねーぞ。山についたら 用済みで始末されるんだろ? 誰が行くかよ﹄ ﹁そんなもったいない事はしない。使える人間は使う﹂ ﹃そーかい。勝手にのたれ死ね﹄ ﹁⋮⋮女からも頼んでもらうか﹂ 近づいてきた男にマイクを突き出され、深月は息をのんだが、す ぐに必死の声で呼びかけた。 ﹁犯人は五人ですっ! 一人が銃をっ⋮⋮﹂ 横から殴りつけられ、無線機を取りあげられた。 男の声が再開される。 ﹁武村だな? 名簿で見たぞ。こいつと一緒に役所に来てるな。あ んまり酷いところは見たくないんじゃないか?﹂ 雄介は沈黙している。 しばらくして、返答が返った。 ﹃⋮⋮だから?﹄ 男は不思議そうに、無線機のマイクを見つめた。 そのとまどったような雰囲気が、なぜかいっそう危険に見えた。 ﹁なあ﹂ 男は友人に呼びかけるような声音で言った。 ﹁勘違いされると困るんだが、べつに人間を殺すのが好きなわけじ 605 ゃないんだ。ゾンビだっていっぱい殺したさ。仲間を守るためにな。 プラマイゼロで、まだ人間に貢献してるほうだと思う⋮⋮だから⋮ ⋮仲良くしよう⋮⋮おまえはゾンビをバラしたことあるか?﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ ﹁あいつら不思議だよな。弱点を探ろうと思ってやったが、なんで 動いてるのか最後までわからなかった。アジの開きみたいになって も、まだ内臓がピクピクしてるんだ。気持ち悪かったなぁ⋮⋮﹂ すみにいた仲間の女が、頭を抱えてうずくまった。子供のように 震えている。他の二人の男も、気味悪そうに男を見つめていた。 ﹁人間のことも調べてみたよ。血液が大事なんだ。ナイフで刻んで も、出血を止めておけばなかなか死なない。わかるか?﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮﹄ ﹁五、六時間は生きてられるぞ。コツはつかんでる。別にこっちは 急いじゃいないんだ。それとも他の女のほうがいいか?﹂ 無線機は沈黙している。 拘束されていた白谷が、恐怖に耐えかねたように吐瀉物を吐いた。 内容物のほとんどないオレンジ色の胃液が、服から床に飛び散る。 男はそれをちらりと見たあと、言葉を続けた。 ﹁おまえが言うことを聞くなら誰でもいい。大事にあつかってやる。 選べ。早く﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮気持ち悪いんだよ、おまえ⋮⋮﹄ ﹁そうか﹂ 銃声が響いた。 ◇ 606 ﹃一人減ったぞ。よく考えろ。五分やる﹄ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 船の無線はとぎれた。 雄介は無線機を持った手を下げ、ぼんやりとそれを見つめた。 工藤が硬い声で言った。 ﹁俺が船に残る﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁ひとまず山まで連れてって⋮⋮あとはなんとかする。それでいい だろ﹂ 工藤の表情は、雄介が人質を見殺しにしたことへの反感と、へた に下手に出るべきではないという理性の葛藤で揺れている。 雄介はそれを無視して、ポケットからキーチェーンを取り出し、 社長に投げ渡した。反射的に上がった社長の手のひらに収まる。 ﹁⋮⋮これは?﹂ ﹁地下のダンプの鍵だ。運転席の後ろにガンケースがある。拳銃三 つと弾薬が入ってる。そっちのライフルも合わせればやれるだろ﹂ 雄介は無線機を口に寄せてスイッチを入れ、 ﹁今から船にガソリンを補給する。地下に取りにいって往復で三十 分はかかる。急げっつっても無理だからな﹂ ﹃︱︱﹄ ﹁うるせー黙れ﹂ 無線機がふたたび沈黙する。 607 雄介は物思いにふけるように、その場にたたずんでいる。 社長が口を開く。 ﹁人質がいるぞ﹂ ﹁⋮⋮見逃すんならそれでもいいけどな。いま船もってかれたら終 わりだろ。人質ったってどうせ、⋮⋮どっちでもいいか。もう勝手 にやってくれ﹂ 捨て鉢に言う雄介に、工藤がとまどう。 ﹁⋮⋮なんだよ、勝手にって﹂ ﹁うんざりなんだよどいつもこいつも。好きなだけ人間同士で殺し あってろ﹂ ﹁なに言ってんだおまえ。どうしたんだ?﹂ ﹁知るか⋮⋮﹂ 吐き捨て、背を向けた。 胃の腑にわだかまる嫌悪感に耐えながら、船着場の階段をのぼり、 道路に出る。 周囲のビル街は静まりかえっていた。 物音ひとつしない。 だが⋮⋮ ︵いるな⋮⋮︶ 今は市役所の防備も崩れている。 知性体が仕掛けてくるなら、絶好の機会だろう。 雄介はライフルのスリングを抱え直し、足早に市役所へと歩きだ した。 608 50﹁勇気﹂ 監禁部屋から死体が片づけられる間も、残った血や肉のかけらを 女がバケツと雑巾で掃除する間も、他の人質の女たちは一言も喋ら なかった。 舞台に間違って上げられた観客のような気分なのだ。この状況に 実感が持てない。すぐ近くで死人が出てさえ。 深月はうつむいたまま、唇をかみしめた。 ︵私は⋮⋮何かできたのに⋮⋮︶ 抵抗すればすぐ殺されただろうと分かってはいたが、それでも葛 藤は強かった。 隣に座る牧浦は、ぼんやりと人形のような瞳で、視線を落として いる。虚脱状態に見えた。 男たちが無線で話していたことが事実だとすると、リーダー格の 大半が殺されてしまったらしい。牧浦とは長い付き合いもあったは ずだ。衝撃も強いのだろう。 それとも、雄介との無線で、牧浦のことが一顧だにされなかった ことに、ショックを受けているのだろうか。 ︵違うんです⋮⋮︶ あそこで名前を出せば、雄介に対するカードとして、いいように 使われていた。雄介は牧浦をかばったのだ、と深月は思った。 自分とは違う。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 609 おそらく雄介は、深月に期待などしていない。 自分でも、何かができるとは思えない。 しかし、武器を与えられながら、状況に流されるまま何もしなか った人間となるのは、そういった目で見られるのは怖かった。 ︵⋮⋮でも、できるの⋮⋮私に?︶ もし武器を取り上げられていれば、深月もこんな葛藤に苦しむこ とはなかった。無力に怯える人質のままでいられたのに。 今は動いてもどうにもならない。 しかし、これからもし機会を得たとして、本当に勇気を出して行 動できるのか。 自分の正体を突きつけられる、その瞬間が恐ろしかった。 ◇ しばらくして、無線が再び入った。 スーツの男が小声でやりとりしている。船の準備が終わったよう だ。 しかし、男は動く様子もなく、椅子に背を預け、窓の方をながめ たままでいる。 仲間の男が、焦れたように言った。 ﹁行かないのか?﹂ ﹁⋮⋮しばらく待たせる。出発は明け方だ﹂ ﹁なんでだ? 早く行こうぜ。いつまでここにいるんだ?﹂ イライラしたような声音。 スーツの男は無表情のまま、 610 ﹁移動中がいちばん無防備になる。待ち伏せがあるとしたら船に移 るときだ。しばらく焦らして疲れさせる。適当に移動の気配だけ見 せておけ﹂ ﹁⋮⋮そうか。いや、ならいいけど。人質もいるのに待ち伏せか?﹂ ﹁念のためだ。しばらく休んでいていい﹂ 男はしぶしぶうなずいた。 そのまま、しばらく時間が流れた。 時計もないため、どれだけ経ったのかもわからない。 たまに入る無線に、スーツの男が、一言、二言、答えるだけだ。 手持ちぶさたになった二人の男のうち、背の高い方が、ずっと人 質の女たちの前を行き来していた。やがてスーツの男に向き直り、 ﹁ちょっと遊んでていいか?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ スーツの男の視線が、すみを向く。そちらには、じっと縮こまっ ている仲間の女の姿があった。三角座りでうつむいている。 男は弁解するように、 ﹁あいつにも飽きたからさ、いいだろ?﹂ スーツの男は興味なさげにため息をついた。それを承諾と受け取 ったようで、男は牧浦の前で立ち止まった。深月のすぐ隣だ。品定 めするような視線が注がれる。 ﹁へへ﹂ ﹁⋮⋮どうして﹂ 611 牧浦の唇から、虚ろな声が漏れる。 ﹁どうしてこんなことを⋮⋮なんで⋮⋮﹂ 男は意外そうな表情で言った。 ﹁ああ⋮⋮そうか。先生にはわかんないでしょうねえ、俺らの気持 ちなんて。さんざん厄介者あつかいしやがって⋮⋮。そっちは上で 好き勝手してたんだろ? でもな、最後は平等だ。みんな死ぬんだ よ! それまで俺らも好き勝手やるだけだ﹂ ﹁わ、私は⋮⋮ちがいます⋮⋮みなさんのために⋮⋮﹂ ﹁うるせえ﹂ 牧浦が引きずり出され、押し倒された。 男が上からのしかかる。牧浦は顔をそむけ、ぐったりと体を横た えている。男が拘束されたままの足をつかみ、ロングスカートをま くり上げようとする。もう一人の男も薄笑いを浮かべながら、肩を 押さえにかかっていた。 すぐ隣で行われるその蛮行に、深月はうつむいたまま、痛いほど 高鳴る心臓を必死で抑えていた。緊張に吐き気がした。 牧浦が犯されようとしている。 動くとしたら今しかなかった。 しかし、部屋には男が三人いて、ショットガンはまだスーツの男 の手にある。 助ければ自分が死ぬ。 牧浦の、懇願するようなか細い悲鳴が聞こえた。 言葉が口をついて出た。 ﹁あ、の⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 612 男たちが無言で視線を向けてくる。水を差され、どちらも剣呑な 雰囲気だった。 深月は必死で、続く言葉を考えた。 ﹁⋮⋮と、トイレに⋮⋮行かせてください﹂ 男が眉をしかめる。 ﹁ああ? そこでしろ。もう漏らしてる奴もいるだろ﹂ ﹁お、お腹が痛くて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 男たちは顔を見合わせる。 背の低い方が、深月の顔をジロジロと舐めまわすようにながめた。 そして、ニヤッと笑った。 ﹁こいつ、この女をかばおうとしたんだ。可愛いじゃないか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月はうつむいたまま答えない。 ﹁⋮⋮俺、こいつにする。気に入った。顔も全然負けてないぞ。ト イレか? つれてってやる。そっちでやっててくれ﹂ 背の低い方が立ち上がり、深月を連れ出そうとした。足の拘束が 引っかかってつんのめる。 ﹁おい﹂ 613 スーツの男が口を挟んだ。 ﹁二人で行け。ちゃんと見張れ﹂ ﹁⋮⋮わかったよ﹂ 背の高い方も、しぶしぶ身を起こす。 牧浦から離れ、深月を両側から抱えるように持つ。 ﹁いいだろ、行こうぜ。あいつ、どこでキレるかわからないからな ⋮⋮﹂ ぼそぼそとしたつぶやきを後に、男たちは部屋を離れた。 ◇ ﹁順番だからな﹂ 当然のように、男子トイレに連れこまれた。 二人組のうち一人が外に残り、背の低いほうが深月と同じ個室に 入った。突き飛ばされるように座らされる。両手は後ろで縛られた ままだ。 扉が閉まる。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 腰かけた深月の両足は、男の前に無防備に差し出されている。タ イツを履いてはいるが、その上にはスカートの薄い布地しかない。 隙間に男の視線が絡みつく。 ﹁へ⋮⋮へへ﹂ 614 男の手が、膝を撫でまわすように触れた。 タイツ越しでも、総毛立つような感触だった。 ﹁手伝ってやる。自分じゃ脱げないよな﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月が無言でいると、男はなかば弁解するような口調で言った。 ﹁あのな、イヤだとか思うなよ。部屋のあいつに比べれば、俺なん て優しいんだからな。あいつは完全にいかれてる。殺すのが好きな んだ。殺人鬼だぜ⋮⋮まともじゃない﹂ 男は空恐ろしそうに、スーツの男のことを語った。元は気が弱い のかもしれない。一人になると虚勢が目立った。 深月は視線を下げたまま、小声で、 ﹁⋮⋮仲間じゃ、ないんですか?﹂ その反応に気を良くしたのか、男は続けた。 ﹁俺たち二人は誘われただけだ。あいつには正直ついていけねえけ ど⋮⋮いろいろうまい目もある。だから、な。俺の言うこと聞けば、 ちゃんと守って、いい目を見させてやるから。な?﹂ 脅しながらも媚びを売るような声音だったが、深月は黙っていた。 男の手が、足をのぼる。 スカートのひだを押し上げながら、下着に近づこうとする。 その虫の這いずるような感触に耐えながら、深月はゆっくりと息 を吐き出した。 615 背中の結束バンドを一気に断ち切り、不器用に握りしめていたナ イフの柄を左手に持ち替える。 男は深月の太ももに夢中で、気づいてもいない。 ﹁⋮⋮ッ!﹂ そのこめかみに、振りかぶった柄の先端を叩きつけた。 ﹁ぉっ⋮⋮﹂ 鈍い声が漏れた。男は壁に叩きつけられ、床にずるずると滑り落 ちる。 ﹁あ⋮⋮? え⋮⋮?﹂ 男は何が起こったのかもわからないまま、痛打を受けたこめかみ を押さえてうずくまっている。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ 急激な動きに、跳ねる心臓を押さえながら、深月は立ち上がった。 足の拘束も断ち、男を見下ろす。 動けないよう、どこか手足を傷つけておくべきかと考えて、 ︵ぅぐ⋮⋮︶ その思考の異質さに眩暈がした。手には、ひしゃげる肉の嫌な感 触が残っている。 外から声がかかった。 616 ﹁おい、どした? 開けるぞ﹂ 鍵はかかっていない。 トイレのドアがゆっくりと開かれる。 思考の前に体が動いた。壁に下がり、服のすそから背中に手を差 しこむ。ホルスターの留め金を外して銃把を握りしめ、引き抜いて 前方に向ける。 ﹁なん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 自分の胸にまっすぐ向けられている拳銃を見て、男が絶句した。 黒光りする鋭角的なフォルムを持つ、オートマチックの拳銃だ。 ﹁だ⋮⋮よ⋮⋮﹂ 深月が安全装置を指で弾いて解除すると、男があとずさった。 そのまま押し出すように、個室の外まで出る。 背後が気になった。 早くしないと挟まれてしまう。 ︵早く⋮⋮何を⋮⋮︶ 目の前の男の無力化。 殺害。 ふいに力が抜け、拳銃をにぎる腕が下がった。狙いがそれ、慌て て構えなおす。両腕が震えていた。 それを見て、こちらがただの若い女であることを思い出したのか、 男が引きつった笑みで言った。 617 ﹁⋮⋮わ、わかった。逃がしてやるから⋮⋮だから、それはこっち に渡せ⋮⋮な?﹂ 男の手が、こちらの様子をうかがいながら、そろそろと近づいて くる。 深月は無言のまま、心の中を荒れ狂う嵐に耐えた。 発砲。 ﹁ごッ⋮⋮﹂ 左足を撃ち抜かれた男が、絶叫を上げた。 この距離なら外しようがなかった。太ももの怪我は失血死の可能 性があったか⋮⋮思い出せない。それよりも、今の発砲音が気にな った。中を反響して廊下にも漏れだしている。残りの二人に気づか れてしまう。いや、もう気づかれている。 床でのたうちまわる、男の悲鳴が気にさわった。黙らせたいと一 瞬考えて、男がこちらから逃げようと奥に這いずっているのに気づ く。ごく自然にとどめのことを考えていた自分に戦慄し、そんな心 の動きが自分にあったことに驚く。 深月は男を無視し、トイレの出入り口へ向かった。他の人質に危 害がおよぶ前に動かなければならない。 あふれ出る涙を袖でぬぐい、深月は拳銃を握りしめた。 ︵力を貸してください⋮⋮!︶ 見捨てられたと思ったが、そうではなかったのかもしれない。手 の中のそれがひどく重く感じられた。 ◇ 618 廊下はうす暗かった。後方からは、男の悲鳴がとぎれとぎれに聞 こえてくる。 監禁部屋まで近づくと、扉の前に、人質の女がへたりこんでいる のが見えた。 ︵⋮⋮?︶ 不審に思うと同時に、扉から銃口がこちらに突き出された。 ドン、という発砲音。 辛うじて柱の陰に隠れたが、衝撃の余波が体を叩いた。壁がえぐ れて破片が飛び散る。 撃ち返すことはできない。人質に当たる。 拳銃で狙える距離でもない。 ︵⋮⋮くぅ⋮⋮︶ スーツの男が、こちらに半身を見せた。人質の頭にショットガン の銃口を突きつけている。 手詰まりに陥ったそのとき、奥から複数の大きな喚声が上がった。 本庁舎とをつなぐ渡り廊下の方だ。 そちらに気を取られた瞬間、監禁部屋の中から、窓ガラスの割れ る音が響いた。 ﹁ッ!?﹂ スーツの男がハッと部屋の中を振り向く。ショットガンを向けよ うとして、それより早く中から火線が走った。男の体がたたらを踏 むようによろめく。 ライフルを腰だめに構えた男が、部屋の中から飛び出してきた。 銃のストックで顔を殴りつけ、ひるんだところに肩を入れて壁に叩 619 きつける。胸からメキリと鈍い音がし、うめき声が上がった。 調達班のメンバー、佐々木だった。床に崩れて動かなくなった男 から離れ、転がったショットガンを拾い上げる。銃身のポンプを前 後させて残弾を排出する。 深月を見て一瞬身構えるが、すぐに正体を悟って視線を外す。う ずくまっていた人質の女を乱暴に部屋に引きずりこみ、手振りで深 月にも下がるように指示した。そのまま渡り廊下の方へ走っていく。 ﹁⋮⋮あ﹂ 我に返ると、深月は急いで部屋の中に入った。人質の拘束を解か なければならない。 そこでナイフが手元にないことに気づいた。何か道具をと見渡し たところで、部屋のすみのその人影に目が止まった。 犯人の仲間の女だ。抵抗の意思も見せず、ただうつむいて座って いる。 そばに、スーツの男の使っていたスポーツバッグがある。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 無言で近づいてかがみこみ、中を探る。雑多な道具類の中から、 小さなサバイバルナイフを見つけた。 ﹁⋮⋮助けてよ⋮⋮﹂ 哀れっぽい懇願の声。記憶の中で何かに繋がりそうになるが、深 月はそれを無視した。 ◇ 620 人質を全員解放すると、ふらつく牧浦を肩で支えて、深月は本庁 舎の方へ向かった。 渡り廊下の方でも戦闘が起きていたようだ。適当に積み上げられ たバリケードの後ろで、パーカーの少年が蜂の巣になって転がって いた。口から襟元を血で汚し、虚ろな視線を虚空に向けている。火 薬の臭いが鼻についた。 調達班の側にも負傷者が出ていた。矢を防ぐために盾代わりにし た板を、あっさり貫通されたらしい。男の一人が胸に矢を受けて呻 いている。佐々木が応急処置をしようとかがみこんでいた。 ﹁先生、ご無事でしたか!﹂ 通りがかった牧浦に、視線が集まる。 牧浦は怯えたように身をすくませたが、かすかにうなずき、負傷 者のそばに膝をついた。 手が空いた深月は、なんとはなしに月明かりの方に視線を向けた。 ストレスと疲労で全身が気だるかったが、頭は妙に冴えわたってい る。興奮が抜けていない。 渡り廊下の窓からは、地上の様子が見えた。 ﹁えっ⋮⋮?﹂ 西庁舎の地上の角に、逃がしたはずの弟たちの姿を見つけて、深 月は凍りついた。 ﹁なんであんなところに⋮⋮!﹂ 逃げなかったのだ。深月たちのいる部屋を、調達班に知らせてい たのだろう。だから奇襲ができたのだ。 弟たちの後ろを、ふらふらと人影が追っている。 621 足を引きずって歩いていた。 さらにもう一人、人影が増えた。こちらもぎこちない動きながら、 徐々に速度を上げている。 ゾンビだ。 その正体に気づき、深月は窓にすがりついて叫んだ。 ﹁⋮⋮! 誰か、下にっ!﹂ タタタッという銃撃音。人影が足をもつれさせて倒れた。 本庁舎の西口の陰から、雄介が銃撃していた。 近くのゾンビを掃射したあと、すぐに物陰に引っこむ。弟たちも 慌ててそちらに走り、建物の中に姿を消した。 混乱する思考のまま、深月は周囲を見回した。 佐々木の腰の無線機が鳴った。社長の怒声が流れ出る。 ﹃みんな外に出るな! ゾンビだ! なにか変だぞ!﹄ 市役所の周りから、何体ものゾンビが姿を現していた。 622 51﹁負傷﹂ 市役所のまわりに、複数のゾンビが近づいていた。ざっと見ただ けでも十匹は超えている。 橋の見張りからの警告はなかった。騒ぎで持ち場を離れたか、ゾ ンビに気づかず喰われたかだろう。 隆司と女の子の二人が後ろを追ってきているのを確認して、雄介 は歩みを早めた。 突然、右側から窓ガラスの割れる音がした。 市民向けのカウンターの向こうに、職員のデスクが並んでいる。 その奥の窓に、人影が見えた。 ﹁そっちにいろ﹂ 雄介の言葉に、二人ともカウンターの陰に隠れる。 トリガーに指をかけ、カウンターをまわりこんだ。 人影は乱暴にガラスを砕き、鍵を外し、横にスライドして窓を開 けようとしている。 その動きで察しはついたが、雄介はさらに近づいてライフルを構 えた。ストックを肩に付けてサイトを合わせる。 ﹁おい﹂ 床に降り立った人影に声をかける。 初老の男だ。血で汚れたベストを羽織っている。こちらに反応し て顔を上げた。 胴体に三発。銃弾を撃ちこんだ。 よろけて倒れたそれに素早く近づき、頭に銃口を向ける。床に手 623 をついて立ち上がろうとしているところに、さらに三発。男は脳漿 とドス黒い血液を垂れ流し、動かなくなった。 知性体だ。 庁舎の反対側でも一人、始末している。どちらも他のゾンビの襲 撃に乗じて、ひとけの少ないところから侵入しようとしていた。狡 猾な動きだった。 雄介はそれらを狙って排除していた。 ただのゾンビなら雄介の脅威にはならない。まず知性体を減らす つもりだった。 ︵銃さえありゃいけるな⋮⋮あとは弾の問題か︶ ライフルの弾倉を換えて、ボルトを引く。腰には予備があとひと つしかない。いかにも心もとなかった。髑髏男などの危険な連中は まだ姿を見せていないのだ。 普通のゾンビも集まってきている。血の臭いにひかれて近場から やってきたのかもしれないが、それだけではないように思えた。 ︵なんかやりやがったな⋮⋮︶ 得体の知れない感触があった。 弾が切れた後はどうするべきかも決めかねている。知性体との接 近戦はリスクが大きすぎる。敗色濃厚になる前に引くべきだが、ど こまで介入を続けるのか。 思考と警戒を続けながら、雄介は二人を連れて、上への階段に急 いだ。 ◇ 二階は大混乱に陥っていた。 624 リーダー連中が殺され、西庁舎に犯人が立てこもっている中で、 さらにはゾンビだ。中央ホールの警備班の詰め所には、状況の説明 を求める人だかりができていた。 ︵ヤバい︶ 怯えて逃げようとしている人間ばかりで、パニックの雪崩が起き る寸前のような気配だ。 数人残っていた警備班も機能していない。ゾンビの襲撃にそなえ た計画はあったはずなのだが、まとめられる人間がいないことで士 気が崩壊しかけている。 そのとき、館内放送のスイッチが入った。 ﹃人質は取り戻した!﹄ 社長の野太い声が響く。 ﹃西庁舎は制圧した。牧浦先生も無事だ!﹄ その言葉にあたりが一瞬静まり返り、ざわめきが起きた。 放送は続いた。 ﹃まだ緊急事態は続いている。これから指示を出す。落ち着いて行 動してほしい﹄ すぐに社長の指揮が始まった。 個別に名前を呼びながら、配置の指示を出している。名簿でも手 元に置いているのかもしれない。混乱状態では、名指しの命令のほ うが強いと判断したのだろう。 まず階段を封鎖し、上の安全を確保したあと、避難民を一カ所に 625 集めて防衛する、そんな計画のようだ。 とりあえず、子供らをどうにかしなければならない。 深月を探しに行こうとして、雄介はふいに足を止めた。 後ろを見る。 二人とも緊張した表情で、周囲をうかがっている。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 結局はこいつらも死ぬのかもしれない、とふと思った。 何か、唐突に歯車が外れたような、熱中していたゲームからふい に醒めたような、そんな感覚があった。 市役所のコミュニティは大打撃を受けた。ここからは敗戦処理の ようなものだ。全滅もありえるだろう。 安定した集団を維持するという雄介のプランは完全に崩れている。 それも同じ人間の手によって。 ︵クソ野郎︶ あの無線の男と話したときに感じた、正体不明の嫌悪感。 腹の底に、ねっとりとヘドロのようにたまる重苦しさ。 大学キャンパスのビデオや、スーパーでの夜のこと。人間の殺し 殺される光景が、いくつも浮かんで消えた。 ひどい徒労感を覚えた。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ そのとき、隆司が走り出した。 ﹁おねえちゃん!﹂ 626 見れば、遠くに人影が見えた。暗くてわからないが、家族ならで はの直感で察したのだろう。 女の子もあとに続こうとしたが、何を思ったのか急ブレーキをか け、こちらに顔を向けた。じっと無言で見上げてくる。 ﹁⋮⋮なんだよ﹂ 女の子は答えない。 ﹁行けよ。あいつらから離れるな﹂ その言葉に、女の子はようやく走り出した。 雄介はしばらくその姿を見送っていたが、遠くで三人が合流する のを見て、きびすを返した。 ︵⋮⋮減らせるだけ減らすか⋮⋮︶ たしかに、知性体を始末できる好機ではある。まわりに囮がたく さんいるのだ。 周囲に混乱は残っていたが、各人の動きには方向性が生まれてい た。 警備班の数人が得物を持って、雄介と同じように階段に集まって くる。雄介の銃剣付きのライフルを見て、 ﹁一階の入り口をまだ仲間が守ってる! 封鎖の前に迎えに!﹂ 雄介はかるくうなずく。 男たちに混じって下に降りようとしたところで、足元の赤黒い線 に気づいた。 中央ホールから階段に、血の跡が伸びている。 627 ﹁⋮⋮?﹂ そこで、その違和感に気づいた。騒乱で死人が出ていたはずだが、 ホールに死体の姿はない。血溜まりだけが残されている。 ﹁ここは誰かが片づけたのか?﹂ ﹁い、いや⋮⋮﹂ その死体を引きずったような跡は、階段の下へと続いていた。 ◇ 一階に降りたところからは、広いロビーと、庁舎の入り口が見渡 せた。 玄関の自動ドアは開きっぱなしだ。 外に、遮蔽物代わりの乗用車が横付けされている。そのボンネッ トの上に、人影が立っていた。 遠くて判然としないが、周囲にゾンビが群がっているのは見えた。 襲われているのかとも思ったが、どうも様子が違った。 ﹁ドア閉めろ﹂ 緊張に尖った雄介の声に、周囲が慌ただしく動く。防火扉が強い 力で引き出され、ゆっくりとフロアと階段を塞ぐ。 ライフルが目に見える武力になっているらしく、同行する人間も 雄介の言葉におとなしく従っていた。 ﹁様子を見てくる﹂ 628 ライフルを構え、扉のすきまから一人でフロアに出る。 足音を殺して近づくにつれ、様子がはっきりと見えてきた。 車に立つ男は、服装からまだ若く、青年のように見えた。 最初は、何をしているのかわからなかった。足元に引きずる袋状 のネットから、肉片のような物をまわりに放り投げている。そこに 手を伸ばして群がるゾンビたち。 遠い道路の方にも、乱暴に放り投げていた。近づくゾンビの姿が 増えている。 撒き餌だった。 知性体の手による、ゾンビの誘引。 周囲に、生きた人間の姿はない。 目が暗がりに慣れてくると、フロアの陰に、マグロのように横た わるいくつかの死体が見えた。人の形を留めていないものもある。 ︵⋮⋮これか⋮⋮︶ おそらく最初は、騒ぎで浮足立っていた外周の見張りを使われた のだろう。人間の死体を餌にゾンビを呼びこみ、市役所を襲わせて いるのだ。放っておけばどんどん増えていく。 ︵ヤバいな⋮⋮︶ 知性体は狡猾だとわかってはいたが。 確実にこちらを全滅させるつもりなのだ。 ここで仕留めなければならない。 雄介は柱の陰からフロアに腹這いになり、伏射の姿勢でライフル を構えた。 知性体の青年は、まだこちらに気づいていない。 アイアンサイトをその後頭部に合わせ、息を止めてトリガーに触 れる。 629 ゆっくりと絞りこんだ。 突然、殺意に反応したかのように青年が振り向いた。 ﹁っ!﹂ 発砲は外れた。 青年はネットをこちらに放り投げ、ボンネットから飛び下りた。 床に人体の欠片がバラバラに転がる。それを追って、ゾンビたちが 車を乗りこえてくる。 ゾンビの群れの無秩序な動きが、速度を増していく。フロアの死 体に気づいたのか、人影がバラけ始める。この暗がりの中では、あ の知性体が混じって近づいてきても、すぐには気づけそうにない。 ︵くそ⋮⋮!︶ 階段まで撤退するしかなかった。 ◇ ゾンビたちは、すぐに防火扉に殺到してきた。 扉はケースハンドルで鍵を閉められるようになっていたが、階段 側に開くようになっていたのが災いした。殺到するゾンビの重みで、 内側に軋みをあげながら開く。 ﹁下がれっ!﹂ 体をねじ込むように侵入してきたゾンビが転げ、そのゾンビを踏 みつけて、次のゾンビが現れる。互いに体をぶつけながら、物欲し げに腕を伸ばしてくる。 階段を這い上がるように進んでくる、ゾンビの群れ。 630 隙を狙って銃剣を突き出すが、暗がりでまともに狙えず、鎖骨を えぐっただけだった。ゾンビの勢いは止まらない。 周囲の怯えが伝わった。 群れにのみこまれそうになっている。 ︵クソがっ!︶ 諦めて数段上がり、雄介はライフルを下に向けてフルオートで掃 射した。マズルフラッシュの閃光が弾ける。連続的な発砲音が反響 し、耳が痺れたようになる。火薬の臭いが鼻につく。 ひざを砕かれて転げ落ちるゾンビや、頭を撃ち抜かれて動かなく なるゾンビ。 死者たちの血肉が飛び散る。 ゾンビたちの勢いが、一瞬止まった。 それに勇気づけられたのか、上から槍衾が一斉に突き出された。 男たちの怒声とともに、立ち上がろうとしていたゾンビたちの腹や 胸に、鉄パイプが突き刺さる。階段を転げ落ちていく。 それを横目に、雄介は踊り場に上がった。 ﹁弾を換える! しばらく持たせろ!﹂ ﹁おう!﹂ 腰から予備弾倉を取り出しながら、 ︵もったいねえ⋮⋮!︶ トリガーを引きっぱなしにしたせいで、数秒で弾倉は空になって いた。貴重な予備を使うはめになってしまった。 だが、まだ階段を明け渡すわけにはいかない。避難が終わってい ない階にゾンビが乱入すれば、酷いことになるだろう。 631 誰かが叫ぶ。 ﹁もっと人手呼んでこい! 正面階段にまわせ!﹂ 雄介は歯噛みする。ゾンビ相手には無敵のつもりだったが、この 混戦では勢いを止められない。野生動物の暴走を、槍一本で止めよ うとするようなものだ。 弾倉を入れ換え、前に戻ろうとしたところで、ふいに、不自然な ほどの静寂が走った。 視線を向けると、槍を突き出していた男たちの動きが止まってい る。 かすれたつぶやき声が聞こえた。 ﹁⋮⋮小西⋮⋮?﹂ 下から現れた新しい人影に、周囲の視線が集まっていた。 警備班の腕章をつけている。 ゾンビ化した、かつての仲間だった。 表情は抜け落ち、他のゾンビと同じように、ふらふらとこちらに 近づいてくる。 命がけの戦闘の、狂騒じみた空気が、水をかけられたように冷え るのを感じた。 化け物ではなく、死そのものが形をとって現れたような、そんな 光景だった。 ︵ヤバいっ︶ ﹁う、うわあああああああぁぁぁぁっ!﹂ 一人から恐怖の悲鳴があがった。槍を捨てて上に逃げていく。 632 他の人間は持ちこたえたが、顔は蒼白だ。突つけば崩れそうにな っている。 雄介はライフルを肩付けし、元凶を狙った。雄介にとってはただ のゾンビでしかない。 そのとき、視界のすみを影が動いた。 あまりにも自然な動きで、誰も反応できなかった。 槍衾を作っていた男の一人が、声を漏らす。 ﹁あ⋮⋮?﹂ 男の腹に、ナイフが突き刺さっていた。 槍の下に何かがいる。 それは、階段に張りついた蜘蛛のような姿をしていた。 ナイフを持つ右腕だけを上に伸ばし、ぬるりと笑みを浮かべる。 知性体のあの青年だった。 四つんばいのまま階段を這い上がってきて、男を刺したのだ。 ぞわりと鳥肌が立った。 ﹁どけっ!﹂ ライフルで狙うが、青年はナイフもそのままに、槍を持つ男の手 をつかんで階下に引きずりこんだ。男は姿勢を崩して転げ落ちてい く。 まわりのゾンビがそこに殺到し、すぐに見えなくなった。 ﹁ひっ⋮⋮﹂ また一人逃げた。 ︵あいつだけでも⋮⋮!︶ 633 銃口の先に青年を捉えようとするが、ただでさえ暗がりだ。ゾン ビの群れに隠れて見えなくなる。 せまるゾンビを突き落とし、単発の大雑把な照準で撃ちながら、 前面に出て敵の姿を探した。踏みとどまるその姿に、他の仲間から も援護が入る。 上から大声が響いた。 ﹁加勢するぞっ! 立て直せ!﹂ 聞いた声だった。 調達班が来たらしい。 それに気を取られて、手すりの外から伸びる腕に気づかなかった。 左腕をつかまれていた。 階段から引きずり落とされる。 ﹁武村っ!?﹂ 工藤の声が届くが、耳はそれを聞いていなかった。体を打ちつけ た痛みも感じない。明かりの届かない階下で、うごめくゾンビに周 りを囲まれながら、雄介は知性体と揉みあっていた。 ︵死ね死ね死ね死ね!︶ その殺意がどちらのものだったのか、雄介にはわからなかった。 脳内を不協和音のような言葉が駆けめぐる。不思議なほどに怯えは なかった。 振り下ろされる白刃のきらめきを手首ごとつかみ、ひざ蹴りを相 手の腹に入れる。体は浮いたが手応えはほとんど感じられず、ナイ フを押さえていた左手に激痛が走った。 634 ︵噛まれた︶ 冷然とした意識でそう思った。 思考が冷えていく。 不協和音が遠ざかる。 知性体の、人間性を歪めたような動きを見たせいで、頭に血がの ぼっていた。だが、結局はこいつもゾンビでしかない。 スリングで腕に引っかかっていたライフルをたぐりよせ、先端を 相手の顔に叩きつけた。体がぶれたところで、勢いのままに体勢を 入れ換え、馬乗りになる。 知性体はこちらの手に噛みついたまま、放そうとしない。 まるで獣だ。 雄介はトリガーを引いた。 暗がりの中で、青年の顔が弾けた。 ◇ 調達班の援軍、特に佐々木が来たことで、正面階段は守りきるこ とができた。 数の暴力にはかなわないが、周囲の援護があれば、佐々木の的確 な攻撃がゾンビの数をどんどん減らしていく。銃剣を槍代わりに使 い、射撃も併せて、その活躍は際立っていた。 ﹁生きてるとは思わなかったぜ⋮⋮﹂ 槍を抱えて壁に寄りかかりながら、工藤が笑った。拳銃を撃ちき ったあとは、工藤も前線で戦っていた。 ﹁ああ⋮⋮﹂ 635 雄介は憔悴しきった状態で、壁際に座りこんでいた。 ゾンビが一階まで押し返されたあと、生きた雄介の姿が階下から 現れると、驚きの声があがった。 幸いな事に、あの暗がりの混戦で、何が起きていたかは誰もわか っていなかった。ただ幸運だったのだと見られている。 知性体は、あの青年を最後に現れなかった。 髑髏男や、槍を持った少女など、特に危険な雰囲気のあった連中 も姿を見せていない。 それが不思議だった。 一階にはまだゾンビの気配があるが、ほとんどはぐれのようなも のだ。休憩を挟み、態勢を整えてから掃除することになった。 ︵一気に来ると思ったけどな⋮⋮︶ ぼんやりと物思いにふけっていると、全体の指揮を取っていた社 長が現れた。現状把握に来たらしい。供を数人連れて、無線機で今 も指示を続けている。 ﹁二階に救護を下ろす。怪我人は見てもらえ!﹂ 社長の声は硬い。 緊張があった。 ︵ああ⋮⋮そうか︶ ゾンビとの戦いなのだ。負傷者の管理を徹底しないと、内部にま た危険が生まれる。社長はそれを懸念しているのだ。 嫌な仕事だが、誰かがやらなければならない。 636 ︵俺も見られたらマズいな⋮⋮︶ 左手には、知性体につけられた咬み傷がある。 雄介の特性を知らなければ、勘違いされるだろう。 ポケットに手を隠し、立ち上がった。包帯でも貰うつもりだった。 そこで、急に立ちくらみがした。 ふらつく体を壁で支える。 疲労が強い。 ︵⋮⋮どっかで休むか⋮⋮︶ 視線を巡らせ、そこで、社長の視線が自分に注がれているのに気 づいた。 そばには何人かいて、その話を聞きながら、目だけはこちらを向 いている。 雄介の様子に、不審を覚えているのだろう。あるいは、階下に落 とされたことも聞いているのかもしれない。ゾンビに負傷させられ た可能性が高い、と見ているのか。 ふいに、ひざから力が抜け、慌てて手をつき、体を支えた。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 手の傷が目の前にあった。 肉がえぐれ、じくじくと痛んでいる。 乾いた血が、甲から手首まで張りついている。 ゾンビに噛まれた傷。 ︵いや⋮⋮︶ 心臓がゆっくりとペースを早める。 637 強い眩暈に目を閉じる。 吐き気がした。 体調は加速度的に悪くなっている。 ︵⋮⋮嘘だろ⋮⋮︶ 考えたくはないことだったが。 もしも、社長の懸念が、正しいものであったとしたら。 体に起きている不調に、雄介は、先ほどの戦闘でもなかった恐怖 を覚えた。 ︵平気なはずだ⋮⋮ゾンビに噛まれても、俺には免疫が⋮⋮︶ そこで、自分の考えになんの保証もないことに気づく。 ゾンビ化の過程など誰にもわからないのだ。ウイルスも免疫も、 すべて仮定の話でしかない。 ︵⋮⋮ただの思いこみだった? それとも知性体に噛まれたらダメ なのか⋮⋮、⋮⋮クソ、考えられねえ⋮⋮︶ 眩暈と悪寒がひどい。 熱が出ている。 あるいは以前のように、数日のあいだ昏倒するだけで済むかもし れない。しかし、ゾンビの感染を警戒している今の状況で、そんな ことになったら⋮⋮ 経過を見守るような悠長なことをするだろうか。 意識を失った時点で処分される可能性もある。致死率百パーセン トなのだ。あの社長は冷酷ではないが、必要なことはやる。あるい は慈悲として。 638 ︵ヤバいヤバいヤバい⋮⋮︶ 壁にすがりながら、のろのろと歩みを進める。 中央ホールには、仮設の救護所ができていた。 見覚えのある姿が、遠目に見えた。 ︵深月⋮⋮︶ こちらに気づき、駆け寄ってくる。 何かを必死に話しかけているようだが、口の動きしか見えなかっ た。 耳がごうごうと鳴り、何も聞こえない。 ﹁さわんな⋮⋮﹂ 体が床に崩れる。 意識はそこでとぎれた。 639 52﹁狂乱﹂ 意識を失い、倒れた雄介は、すぐに中央ホールの救護所に運ばれ た。 断熱シートがひかれた場所で、淡々と怪我人の治療をおこなって いた牧浦だが、雄介が運ばれてくると、弾かれたように顔を上げた。 その左手にある傷を見て、顔が蒼白になる。 手の甲に歯形がつき、肉がえぐれている。 何によるものかは明白だった。 ゾンビの咬み傷だ。 ︵⋮⋮え⋮⋮︶ 深月も怪我には気づいていたが、目の前で雄介が倒れたことによ る動揺で、それどころではなかった。 あらためて傷をまのあたりにし、牧浦の表情の変化を前にして、 深月の心にも、じわじわと恐怖が忍びよってくる。 雄介は血の気の失せた顔で、ぐったりと身を横たえていた。 他にもゾンビとの戦闘で怪我を負い、意識を失った人間が二人い たが、どちらも高熱を発し、昏倒していた。 いつかのニュースで見た言葉が、深月の頭の中を駆けめぐる。 新型狂犬病。 噛まれた人間は感染し、高熱の中で死亡する。 そしてまた動き出す。 ﹁あ⋮⋮先生、治療を⋮⋮﹂ 深月が震える声で言うと、牧浦はのろのろと手当てを始めた。 640 傷口を洗って消毒し、軟膏を塗ってガーゼを張り、包帯を巻きつ けていく。輸液パックで点滴を入れ、抗菌薬も投与するが、できる のはそこまでだった。 牧浦は薬鞄の中を探るが、何を求めているのか本人もわかってい ないような雰囲気だった。 ﹁先生! こっちがまずい感じだ!﹂ 近くで寝かされていた男の方で、声があがった。 雄介と同じ、ゾンビに手傷を負わされた人間だ。 こちらは足首を噛みつかれていた。床を這いずるゾンビに襲われ たらしい。靴下は脱がされ、血で汚れたズボンの裾もまくりあげら れている。 先ほどから続いていた男の震えが、今は止まっていた。 牧浦がそばにひざまずき、脈をはかる。 しばらくして、首を振った。 その仕草はうつむき、頼りなげだった。 ﹁手足を縛れ。よそに移そう﹂ 社長の言葉に、見守っていた人間たちが、苦渋に満ちた表情で作 業を始める。 運んだ先で何が行われるのか、その場の全員に察しがついていた が、誰も、何も言わなかった。 ︵⋮⋮なに⋮⋮これ⋮⋮︶ 雄介と自分の身に、だんだんと近づいてきている何か。 その破局の気配に、深月は怯えた。 ふいに騒ぎが起きた。 641 ホールに通じる通路の一角から、ふらふらとゾンビが現れたのだ。 周囲の人間が、慌てて武器を取った。 ﹁どっから入ってきたんだ!?﹂ ﹁いいからいくぞっ!﹂ 佐々木がすぐに向かった。調達班とまわりの男手がそれに続く。 幸い、ゾンビは一体だけで、すぐに行動不能にできた。正面から 他の人間が気をひいているあいだに、まわりこんだ佐々木が脚を突 いて転倒させ、そのまま仕留めた。 倒れたゾンビは、すぐに運ばれていった。 戻ってきた男たちの一人が、緊張のままに聞いた。 ﹁東階段からですか? 防衛に行ったほうが⋮⋮﹂ ﹁違う﹂ 無線での通信を終えた社長が、かぶりを振って答えた。 ﹁階段は無事だった。怪我人だ。ゾンビに噛まれでもしたんだ。手 当てを受けたらバレると思って、どこかに隠れてたんだろう⋮⋮﹂ その言葉に、沈黙が広がる。 ﹁この階をチェックし直す。空いた手で点呼を取ろう。いない人間 のことも、聞き込みでできるだけ追跡する﹂ 社長の指示が飛び、階にいくつかの班が分かれた。 深月はずっと雄介のそばについていたが、好転の気配もなく、じ りじりとした時間は続いた。 牧浦からの指示も切れている。 642 もうできることはないのだ。 しばらくして、救護所で昏睡状態にあった、もう一人が息をひき とった。 今度の作業は素早かった。 ロープで体を縛られ、中央ホールから運ばれていく。ゾンビに対 する静かな恐怖が、ホールに蔓延していた。 残っているのは雄介だけだ。 そばにいる深月の目にも、どんどん体調が悪化しているのはわか った。顔は青白く生気がない。悪寒のような震えが走っている。 近くには、雄介と親しかった人間が集まっていた。 まるで何かを看取るように。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ やがて、何かに気づいたように、牧浦が動きを止めた。 雄介の体を確かめた社長が、悔しそうにいった。 ﹁ダメだ⋮⋮。呼吸が止まった﹂ その言葉を、深月はどこか遠いところで聞いていた。 工藤がうなだれ、壁を蹴りつける。 ﹁くそッ! くそ⋮⋮﹂ 眼鏡の青年、小野寺も、沈痛な面持ちで雄介の顔を見下ろしてい た。調達班の中でも、特に仲の良かった二人だ。 ︵⋮⋮うそ⋮⋮︶ 深月は雄介の体にすがりつき、はだけた服から胸に耳を当てた。 643 下にある体温はぞっとするほど冷たかったが、その奥に、かすかに 動くものが感じられた。 心臓の鼓動。 深月は顔を上げた。 ﹁まだ! まだ大丈夫です! もう少し様子を!﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 社長が無言で、手を振った。 人の輪から、数人が重い足どりで歩み出る。雄介の体のそばにか がみ、手足を拘束していく。 深月は必死の表情で、牧浦に言った。 ﹁先生、とめてください! 先生!?﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ 深月の声に、牧浦は顔を上げた。 救いを求めるように、周りを見まわす。 周囲には、雄介と親しい者以外にも、何人もの人間が遠巻きに集 まっていた。ゾンビに噛まれた犠牲者を見つめる、いくつもの視線。 恐怖と同情、それに、自分でなくて良かったという安堵が混じった ような、複雑な表情があった。 調達班の人間たちも、やるせなさそうに雄介を見つめている。何 度も雄介と共闘した彼らでも、どうしようもないとわかっているの だ。 ﹁⋮⋮私、は⋮⋮﹂ 牧浦の言葉はとぎれた。 周囲から、いくつもの視線が突き刺さっていた。 644 みな言葉には出さずとも、断固とした行動を求めていた。集団の 安全のために。指導者としての行動を。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 牧浦は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。 やがて、諦めたように、力なくうなだれた。 その姿に、深月は衝撃を受けた。 ︵⋮⋮そんな⋮⋮そんな!︶ 味方はいない。 この場には、雄介を殺そうとする人間しかいない。 それを理解すると同時に、深月の思考が冷えた。 世界が裏返った。 ﹁向こうでやろう。⋮⋮動きだす前に。残念だが⋮⋮﹂ 社長の言葉。 横たわる雄介に、手をかけようとする人間たち。 深月は、腰の後ろから拳銃を引き抜くと、近くの窓に向けてトリ ガーを引いた。 パン、という発砲音。 ガラスの割れる破砕音。 ホールの空気を引き裂いたそれに、周囲が固まった。 全員が身動きを止め、拳銃を構える深月を凝視している。 ﹁離れて﹂ 深月はまわりの人間を追い散らすように、銃口を向けた。射線に 645 いた者たちが、慌てて下がっていく。 社長が後ずさりながら怒鳴った。 ﹁やめろ! それを下ろせ! もう手遅れなんだ!﹂ 威圧感を含んだその言葉にも、深月は表情さえ変えなかった。拳 銃を片手に持ち替えて、雄介の乗るシートをじりじりと引きずり、 距離を取ろうとする。 工藤が追いすがるように言った。 ﹁おいよせ! 俺だって気持ちはわかる、でもな⋮⋮!﹂ ﹁ッ! 誰がっ⋮⋮! 離れなさいっ! 近づけば撃ちます!﹂ 躊躇なく拳銃が向けられる。狂乱状態にある深月に、工藤も下が らざるをえなかった。 そこに他の声がかかる。 ﹁深月!? 何してるんだ!? 狂ったのか!?﹂ 人の輪から上がった驚愕の声は、深月の幼なじみ、敦史のものだ った。 それに気づくと、深月は泣き笑いのように顔を歪めた。 ﹁狂った⋮⋮? みんな、どうやったらそんなに普通でいられるの ⋮⋮? ⋮⋮近づかないでってば!﹂ 隙をうかがうように一歩踏み出した男が、銃口を向けられ、慌て て跳びすさる。 社長がさらに言いつのった。 646 ﹁仲間を危険にさらしてるんだぞ! わかってるのか!?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 深月は唇のはしを、かすかに歪めた。 仲間。 その言葉が虚しく響いた。 彼らは雄介を切り捨てても、しばらく悲しみに暮れたあとで、ま た集団生活を続けていけるのだろう。 ︵私には無理だ⋮⋮︶ 思考は凍てついているが、感情は奔流のように荒れ狂っている。 このボロボロの世界で、辛うじて深月に残されていたものを、彼 らは奪い取ろうとしているのだ。 なら、それはもう仲間ではない。 暗い思考でそう思った。 騒ぎの物音を聞きつけて、上階からおりていた避難民も集まって きた。拳銃でまわりを威嚇する深月の姿に、遠まきにざわついてい る。 その人ごみの中から、小さな影がふたつ飛び出してきた。 隆司と女の子だ。 詳しい事情はわかっていないだろうが、深月と雄介が市役所の人 間に囲まれているのを見て、駆け寄ってきたのだ。何も聞かずに雄 介のシートに取りつき、深月を助けるように引きずりはじめる。 その、なんの打算もない無垢な姿を見て、 ︵⋮⋮ぅ︶ 初めて、深い悔恨が深月を襲った。 二人を巻き込んでしまった。 647 だが、もう後には引けない。 深月は拳銃でまわりを牽制しながら、雄介を引きずって、近くの 部屋に逃げこんだ。 ◇ 扉をふさいだあと、部屋の奥に雄介を横たえ、体を調べた。 ︵冷えてきてる⋮⋮︶ ひたいは熱いほどなのに、手足は冷たくなっている。 ︵何かかけるもの⋮⋮シーツ⋮⋮ないよ⋮⋮︶ ただの事務室だ。衣服になりそうなものもすべて回収されている。 部屋の外から、足音が近づいてきた。 深月は慌てて拳銃を取り、扉に向かった。 人数は一人だ。 緊張のまま待ち受けていた深月に向かって、声がかけられた。 ﹃お嬢ちゃん。聞こえるか?﹄ 社長の声だった。 ﹁⋮⋮なんですか﹂ 深月の硬い返答に、社長の冷たい声が返った。 ﹃あのな⋮⋮、ちゃんとケジメはつけろよ。早けりゃすぐにでも動 きだす。近くに子供もいるんだ﹄ 648 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹃どういう関係だったかは知らんが⋮⋮。えらいことをしたな。俺 でも庇えんぞ﹄ 深月は答えなかった。 ﹃じゃあな﹄ 足音が遠ざかっていく。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 深月は深く息を吐き出し、拳銃を持つ腕をだらりと下げた。 雄介のもとに戻り、ぺたんと腰を下ろす。 けじめ。 ︵この銃で⋮⋮?︶ ぼんやりと手の中のそれを見つめていると、そばに人影が立った。 雄介を見下ろし、 ﹁かまれたの⋮⋮?﹂ かぼそい、可憐な声だった。 女の子が、雄介と深月を交互に見つめていた。 初めて聞いたその声に、深月は顔を上げるが、唇を噛みしめてう つむいた。何も答えられなかった。 女の子はしばらく、雄介の横たわる姿を見つめていたが、やがて 言った。 649 ﹁⋮⋮見ないほうがいいとおもう。⋮⋮かわっちゃうから﹂ 深月はとっさに反論しようとして、できなかった。 変わっちゃう、という言葉が、ぐちゃぐちゃになっていた深月の 心に、ストンと落ちた。 ︵⋮⋮ああ⋮⋮そうか。もうダメなんだ⋮⋮︶ 深月はしばらくうつむいていたが、顔を上げて言った。 ﹁⋮⋮うん。でも⋮⋮、ごめんね﹂ ﹁いいよ﹂ 女の子はかすかな微笑みを見せた。深月の悲しみとやるせなさに 共感するような、大人びた表情だった。 近くで心配げに見守っていた隆司の手を取り、女の子は部屋の奥 に探索に向かう。二人きりにしてくれたのかもしれない、と深月は 思った。 雄介の体をすこしでも温めるため、上半身を後ろから抱きかかえ た。下に膝を置き、腕で抱きしめる。 手足は縛られたままで、見るからに痛々しかったが、外すことは できなかった。 拳銃を持つ右手を近くにそえて、まわした左腕で、雄介の胸の鼓 動を確かめる。 鼓動はゆっくりと弱ってきている。 結末は見えていたのだ。 ︵⋮⋮それでも⋮⋮︶ あの場で渡さなくて良かった。 650 このわずかな時間のためだけでも、そう思えた。 涙は出なかった。 腕の中に消えかけている温もりを感じ、眠る雄介の顔を真上から 見下ろしながら、深月はじっと、その時を待った。 651 53﹁黒い夢﹂ 大学キャンパスの処刑場にいた。 ◇ 空腹に目が覚めた。 雄介はかすかに目を開け、すぐに閉じた。 あたりはずっと暗闇に閉ざされている。目を開けても開けなくて も、どちらでも同じことだ。 もう何日も食べていない。空腹というより、胃に石を詰められた ような重い感覚だけがあった。 手足は動かない。 極限の飢餓におちいった人間がどうなるかなど、想像もしていな かった。力の入れ方がわからず、もう這いずることもできない。食 糧を探すために立ち上がることもかなわず、このまま緩やかに餓死 していくのだろう。 もっとも、立ち上がったところで、ここに食糧はないが。 ︵腹へったなぁ⋮⋮︶ 他に何を考えることもできない。エネルギー不足の体が、脳への 供給をしぼっている。 水も尽き、唇はかさかさに乾いていた。いくつかあったペットボ トルもとっくに空だ。楽屋に残っていたお茶やジュースを一滴ずつ 舐めるようにして水分補給していたが、それもずいぶん前に無くな った。 652 ︵逃げ道さえあればなー⋮⋮︶ ぼんやりと考える。 ホールからの脱出手段はなかった。ゾンビを閉じ込めるために用 意された空間なのだから、当然だが。 ふと、足音が聞こえた。 誰かが舞台に登ってきた。 暗幕の後ろに、隠れるように横たわっていた雄介の方向へ、その 足音は近づいてくる。 裸足だ。 その軽い運びに、記憶から当たりをつけた。 ボロきれのようなセーラー服を着た、吊り目がちの少女だ。あい つが落とされたのは何日前のことだろう? 襲いくるゾンビに必死 で抵抗して、その光景は監禁者たちを喜ばせたが、すぐに意識を失 い、動かなくなった。落とされる前からゾンビに噛まれていたらし く、それで、見目のいい女なのに処分されたのだろう。 しばらくして彼女も、暗闇を徘徊する者たちの仲間入りをした。 そのペタペタとした足音が、寝ている雄介のすぐそばで止まった。 気配から、こちらを見下ろしているようだ。 ︵⋮⋮?︶ 不審に思う。 少女は、ゾンビだ。 雄介に構うことなど、ないはずだが。 空気が動いた。 こちらに屈みこんできている。 ︵ついに喰われるのか︶ 653 朦朧とした意識の中で、そう思った。今までゾンビが雄介を襲う ことはなかったが、その幸運もここまでらしい。 だが、予想は外れた。 少女は、手に持った何かを、こちらの口元に押しつけている。顔 にベタベタしたものが当たり、細い指先が頬をかすめる。 ︵なんだよ⋮⋮︶ 不快な感触に、かすかに首を振った。 雄介が反応しないのを見て、少女は手を引っこめた。 それから間があった。 しばらくして、肩に手がかかった。少女がこちらにのしかかるよ うに身を乗り出している。 柔らかく濡れた感触が、唇に押しつけられた。舌がこちらの歯の あいだにねじ込まれる。 ドロドロに咀嚼されたものが、口移しで流し込まれた。 それが食べ物だと気づくと、喉がむさぼるように動いた。ろくに 噛まずに飲み込む。生にすがりつこうとする、本能的な動きだった。 心地よい感触が食道を通過していく。 それから、思考が戻ってくる。 いま食べたもの。 肉だ。 どこから手に入れたのか⋮⋮ 考えて、思い当たった。 ︵人間の⋮⋮︶ 衝撃はあった。思わず吐き出そうとしたが、生存本能が勝った。 久しぶりに与えられた食物を消化しようと、体に血が巡りはじめる。 新鮮さから考えて、昨日落ちてきた犠牲者のものだろう。 654 ︵⋮⋮いまさらか⋮⋮︶ 禁忌への拒否感は、あっさり消えた。 キャンパスでの生活で、人間性はとっくに磨耗している。そもそ もこの処刑場には、人間の手で落とされたのだ。 生肉を食べて腹を壊さないか、おかしな病気にならないか、そち らの方が心配だった。 雄介だけではない。 ゾンビも人間を食べる。 ◇ それから何日も過ぎた。 何人もの生贄が落とされた。 雄介はゆっくりと、その場のゾンビたちに、何が起きているかを 理解していった。 ある日、いつものように、暗闇に光が差し込んだ。 二階の、コントロールルームにつながる扉が開いていた。そこか ら人影が押し出されてくる。後ろには、刃物や鈍器を構えた人間が 数人、続いている。 今日の生贄が現れたのだ。 監禁者たちの操作で、暗闇に閉ざされていたホールに照明が満ち る。 雄介はまぶしげに目を細めた。 暗闇での生活に慣れていたため、目がなかなか順応しない。 騒がしくなる上の様子に、億劫さを覚えながら雄介は立ち上がっ た。人間という餌が現れたのに隅で座ったままでは、どうしても目 をつけられる。 上では馬鹿笑いが起きていた。 655 ︵うるせえな⋮⋮︶ すでに仲間は、飽和状態に達している。 十二人。 ゾンビの群れだ。 力はそれぞれまちまちだ。 初期に落ちた者のほうが損傷も少なく、多くの人間を喰らってい る。力も増していた。 その変化に、監禁者たちは気づいていない。 いつものように、処刑は長引いた。 すぐには落とさず、もがく姿を楽しむのが彼らのやり方だ。ビデ オカメラを持った男が、後ろで録画している。記録係だ。趣味でや っているらしく、いつも同じ人間なので、もう顔も覚えている。 だが、それも今日までだ。 雄介は白けた表情で、その馬鹿騒ぎをながめた。 生贄が、処刑台の先に追い立てられる。 そのとき、どこからか、焦げくさい臭いが鼻についた。 ︵やっとか︶ 照明の至近に布が巻きつけられていると、防炎剤があっても発火 する。舞台のライトがじりじりと熱を上げているのだ。 監禁者たちは、まだ気づいていない。 火がどこまで広がるかはわからなかった。 隙をついて逃げ出せればよし。 逃げられなくても、焼死はそれほど悪い選択肢ではない。監禁者 たちを喜ばせるのも飽きた。すべてが灰になれば、いっそせいせい するだろう。 突然、停電が起きた。 656 ︵お?︶ ホールが暗闇に閉ざされる。 監禁者たちのあいだで、混乱が起きた。 生死の境目にいた生贄の動きは、必死だった。手を縛られたまま 廊下側に逃げようとするが、前を塞いでいた監禁者の一人とぶつか った。怒りの声が上がる。 揉みあううちに、もろとも下に落ちた。どちらのものとも知れな い悲鳴が漏れる。 慌てたように、上でマグライトの光がともった。 群れの仲間が動いた。 照らされた明かりの中で、生贄の男がゾンビに足をつかまれ、暗 闇に引きずり出されていく。 ︵食うのはそっちだけなー︶ 雄介の思考に応えるように、ゾンビが殺到する。 残されたもう一人の男は、床にへたりこんだまま、奇声をあげな がら武器を振り回している。手にしているのはただのこん棒だ。落 ちたときにどこか痛めたのか、動きはぎこちない。 ゾンビたちは生贄の男の方に食らいつきながら、遠巻きにそれを 眺めている。 襲いかかる者はいない。 ︵それでいい︶ 雄介はぼんやりと突っ立っていた。 明かりは少なく、雄介に注目する者はいない。 落ちた男は、必死で助けを求めている。 657 何人かが身を乗り出して、一階を見下ろしていた。なぜゾンビが 襲いかからないのか疑問に思ったかもしれないが、すぐにロープの 端が投げ落とされた。無防備な行動だ。ゾンビには登れないと思っ ているのかもしれない。 ︵ひひひっ︶ 暗幕の裏で、火の手が上がった。 停電は予想外だったが、充分な熱量はこもっていたようだ。 暗闇の中で、炎は目立った。 上の監禁者たちが、こちらから一瞬、目を離す。 ︵行け!︶ 落ちた男に、仲間たちが殺到した。悲鳴があがる前に喉に食いつ く。すぐにゾンビの下に埋もれる。 それを尻目に、雄介はロープに飛びつき、両手の力だけでぐいぐ いと登った。 体が軽い。 思わぬ僥倖に、心が浮き立っていた。 ロープを切られる前に⋮⋮ もしかすると、もしかするかもしれない。 てすりに手がかかった。 監禁者たちが、ようやくこちらに気づいた。呆気に取られたよう に見つめてくる。 雄介は体を持ち上げ、てすりに腰かけた。 二階の通路からは、ホールの様子がよく見渡せた。暗闇ではずい ぶん広く感じたものだが、こうして見るとわずかなものだ。 血と死体と、腐肉の掃き溜め。 ようやく抜け出せた。 658 ﹁んばぁ﹂ 満面の笑みが浮かんだ。 ﹁はははははァ!!﹂ 停電はまだ続いている。マグライトのわずかな明かりだけが光源 だ。雄介は哄笑をあげながら、光の射さない通路の暗闇に消えた。 監禁者たちの戸惑いが大きくなる。 ゾンビは喋らないはずだからだ。雄介の挙動に、度肝を抜かれて いる。 その隙に、群れの仲間がもう一人、ロープを登りきった。 そこからは乱戦になった。 向こうは武器を持っている。しかし、しょせんは高見の見物を決 め込んでいた人間たちだ。不意打ちには弱かった。 監禁者の一人が、蹴りを受けて通路から落ちる。 下の仲間たちが取り囲み、なぶり殺しにした。 食欲よりも殺意がまさっている。 止める気はなかった。 コントロールルームの扉に、雄介を含めて三人が突入した。 中に一人いた。 こちらを見て逃げようとする。 雄介はとっさに、壁に立てかけられていた鉈を手に取り、男の背 中に叩きつけた。背骨の折れる音がし、鈍いうめき声をあげて倒れ る。その後頭部に鉈を振り下ろす。硬い殻の砕けるような感触に、 手に痺れが残る。 男が動かなくなるのを見届けたあと、雄介はギラつく瞳で周囲を 見回した。 659 ﹁鍵だ! 探せっ!﹂ あたりがかき回される。キャビネットがこじ開けられ、物入れが かたっぱしから引き出される。 脳の後ろを引かれるような感覚に、振り向くと、仲間の一人が小 さな鍵を投げ渡してきた。 片手で受け取り、タグを見る。 ホール正面の、扉の鍵。 ︵ぃよしっ!︶ ガッツポーズを取り、通路に飛び出る。手すりを乗り越え、屈伸 をきかせて一階に着地する。 足早に扉に向かい、鍵を強引に回して、蹴り開けた。 熱気のこもった風が、外に吹いた。 廊下は暗く、静かだった。 清潔な空気が肺を満たす。血と腐臭で満たされていた空気が、ゆ っくりと体から抜けていく。 冷たい月明かりだけが、その場を照らしている。 阻むものは何もない。 ︵自由だ⋮⋮︶ 後ろにいる仲間たちから、声なき歓喜の声があがった。 強烈な殺意が吹き上げてくる。 ︵好きにしろ︶ いくつもの影が、雄介の横を通りすぎ、獣のような勢いで散らば っていく。 660 キャンパスには、まだ大勢の人間がいる。 それらを始末するのだ。 このキャンパスでは、監禁者たちが武力と強権で大多数を従えて いた。処刑場に関わりのない人間も、大勢いる。 だが、もうこうなっては関係ない。 群れが欲している。 それだけで十分だ。 ﹁ひひひひひっ﹂ 爆発的な喜びが、胸を突き上げてくる。 鼻歌でも歌えそうな気分だ。 またこんな幸せな気持ちになれるとは。 至福の時間は、廊下を逃げてくる足音に邪魔された。雄介はいら だたしげに、視線を向ける。 角から、必死の形相をした男が現れた。武器も持っていない。群 れの誰かから逃げてきたらしい。こちらに気づいて、足をもつれさ せる。 見覚えのある顔だった。 処刑前の人間を玩具にして、遊んでいた。 よく覚えている。 雄介は自分から踏み込んで、鉈を振った。手にあった刃が、直線 に走った。 かばうように突き出された男の腕に、垂直に刺さった。ゴキリと 叩き折る。 男の口が絶叫を形作るが、音は聞こえない。 雄介はそれを疑問にも思わず、再び鉈を振った。 ︵骨ってかてーな︶ 661 刃の形状から、突き刺すのには向いていない。致命傷は与えづら かった。 仕方なく、なます切りにした。 意外としぶとかった。 血まみれになった死体を放り出し、荒い息を整えながら顔を上げ ると、槍を手に持った少女が、目の前に立っていた。 破けた血袋のようになった男の姿を見下ろしたあと、こちらに視 線を上げ、ニィ、と笑った。 雄介もおかしくなった。 仲間と気持ちが通じ合っている。 幸せな気持ちになった。 ﹁皆殺しだぁ﹂ 鉈を指揮棒のように振り上げ、肩に乗せて廊下を進んだ。 三人殺した。 キャンパスは大混乱に陥っていた。 群れの興奮が伝わってくる。 あちこちで殺戮が起きていた。 そのたびに、欠けていた心が満たされていく。 槍の少女を従え、次の獲物を探している途中、 唐突にその姿が目に入った。 ︵⋮⋮あ?︶ 廊下の先。 人影が立っていた。 モスグリーンの、迷彩のレインコートを着て、フードを目深に被 っている。 顔は影になって見えない。 662 口元だけがのぞいている。 フードからこぼれた三つ編みの黒髪が、胸の前に垂れ下がってい る。 女だ。 まるで死人のような静けさで、こちらを見つめている。 なぜか、ひやりとしたものを感じた。 ︵⋮⋮こんな奴いたか?︶ 知らない女だ。 だが、自分と繋がりがある。 ということは、群れの仲間だ。 しかし、あのホールにこんな女はいなかったはずだ。 足が止まる。 記憶に混乱が起きた。 ︵なんだ?︶ 後ろの方から、ピリピリした気配が近づいてくる。 槍を持った少女の、強い視線が、背中に注がれている。 それを痛いほどに感じた。 何かを警戒している。 ︵何を?︶ 突然、なんの前触れもなく、横のガラス窓が割れた。ひび割れが 広がり、破片がボロボロと落ちていく。その不可解な壊れ方に、目 を取られる。 窓を通した視線の先、遠い中庭に、大量の死体の山ができていた。 無念の表情を浮かべた人間たちが、塊となって闇に浮かんでいる。 663 ︵⋮⋮︶ その光景に、既視感と、疑問を覚える。 キャンパスの制圧には、まだ時間がかかるはずだ。 あんな山ができるほどではない。 順序立てた論理が失われている。 ︵なんか⋮⋮︶ 月に雲がかかった。 明かりがかげり、窓枠に残っていたガラス片が、廊下をかすかに 反射してきらめく。 そこに映る、肉のこそげた自分の顔を、雄介はぼんやりとながめ た。 ︵⋮⋮なんだこいつ⋮⋮︶ 手で顔をなぞってみる。 歯茎が剥き出しになり、肉のない頬骨が手に当たった。鼻も落ち ている。カサカサした骨の感触だけがあった。 ゾンビだ。 ︵いつからだ?︶ 疑問を覚えたとたん、何かから引き剥がされるような感覚がした。 群れとの繋がりが失われていく。 何が起きているのかわからず、混乱のまま周りを見渡した。 いつのまにか、視界が入れ変わっていた。 数メートル先、先ほどまで雄介が立っていた場所に、背の高い人 664 影があった。 ボロボロのコートを着て、手には鉈を持っている。 先ほどまで雄介だった男。 髑髏男だ。 鬼火のような瞳で、じっとこちらを凝視している。 先ほどの繋がりが嘘のように、強烈な敵意を叩きつけられた。 それはそうだ。雄介は、群れの仲間を何人も殺したのだから。 ︵⋮⋮そうか。そうだった︶ ようやく、失われていた見当識が戻ってきた。 自分は今まで、何をしていたのか。 何になりかけていたのか。 呆然と立ちつくす雄介の隣に、あの女が立った。 ささくれた記憶を引っかく、迷彩のレインコート姿。 フードがこちらに傾き、横顔がのぞく。 三つ編みがこぼれる。 ﹁︱︱﹂ 不思議な色をした瞳が、こちらを見上げる。 そこで雄介は、夢から覚めた。 665 54﹁暴露﹂ 雄介はまぶたを開く。 暗い天井と、それにかかる人影が見えた。 誰かがこちらをのぞきこんでいた。長い髪が流れ、視界をさえぎ っている。 市役所の一室だ。 今度こそ現実に目覚めたと理解すると同時に、体の芯から、おこ りのように震えが走った。 体温が低下しすぎていた。制御できない痙攣が広がり、喉の奥か らうめき声が漏れる。 身をよじると、体が床に落ちた。硬い感触に転げる。 ﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂ 床に突っ伏しながら、雄介は荒く息をつく。 全身をめぐる血液が熱いほどだった。体のこわばりをほぐそうと して、失敗する。身動きができないと思ったら、手足を縛られてい た。 ︵なんだこれ⋮⋮︶ 顔を上げると、暗闇の中に、深月の姿があった。 もがく雄介のすぐ隣にひざまずき、こちらを見下ろしている。 形容しがたい瞳だった。 追いつめられた獣のような。それでいて救いを求めるような。 右手には拳銃が握られている。 じっとそれを握りしめている。 666 雄介は無言でそれを見つめたあと、視線を上げた。 ﹁⋮⋮これ外してくれよ﹂ 深月の目が見開かれる。震える声がかかった。 ﹁⋮⋮た、武村さんですか? 私が⋮⋮わかりますか?﹂ ﹁なに言ってんだ⋮⋮? いいから外せって⋮⋮﹂ ﹁っ!﹂ 次の瞬間、強く抱きつかれていた。巻きついた腕が絡まる。 ﹁おい⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ、⋮⋮ぅ、く﹂ 押し殺すような吐息が、首すじに当たる。冷えた体に、深月の体 温が伝わる。それで、深月もまた強く震えているのに気づいた。 ﹁⋮⋮﹂ 雄介は諦めて、体の力を抜いた。状況が把握できないまま、天井 を見上げながら、ゆっくりと記憶を掘り起こす。 階段の戦闘でゾンビの知性体に噛まれ、中央ホールで倒れたのだ。 左手には包帯が巻かれていた。 ︵結局、感染はしなかったか⋮⋮。にしても、あの夢は⋮⋮︶ ただの夢ではないだろう。 あの場で感じていた不思議な感覚は、自分の内側にまだ残ってい る。 667 知性体が何を意図して動いていたかも、おぼろげながら分かって きた。自分がもう、安全圏にいないことも。 ︵厳しくなるな︶ 雄介は目を閉じ、束の間、体を休めた。 ◇ 深月が落ちつくと、ようやく手足の拘束が外された。 弟の隆司と、駐屯地で拾った女の子も、部屋の奥から現れた。無 事な雄介の様子に、隆司はパッと笑顔を浮かべ、女の子は驚いたよ うに目を丸くしていた。 他に人の姿はない。この四人だけだ。市役所の一室のようだが、 状況があまり理解できなかった。 雄介が体を起こすと、深月が心配そうに言った。 ﹁まだ寝ていたほうが⋮⋮。顔色がわるいです﹂ ﹁いい⋮⋮。こっちのが目が覚める﹂ 雄介は壁によりかかりながら、 ﹁⋮⋮で、今どうなってるんだ? ここは﹂ 雄介は壁によりかかりながら、深月から話を聞いた。 そして、自分が倒れていた間に起きた事を知った。 ﹁撃ったのか⋮⋮? あいつらに?﹂ 雄介は愕然としながら聞いた。 668 深月はうつむいたまま、うなずく。 ゾンビに噛まれた雄介が処分されそうになり、それを深月が拳銃 で威嚇し、この部屋に立てこもったという。 後ろにいる子供二人の姿が、雄介の思考を沸騰させた。 ﹁っ、バカ野郎っ! んなことのために銃渡したんじゃねーぞ! おまえら、これからどうなると⋮⋮﹂ 雄介の言葉は、尻すぼみに消えた。 深月は青い顔をしてうつむいている。 頭が冷えていく。 ︵⋮⋮。俺がミスったせいか︶ 雄介は声のトーンを落とし、 ﹁⋮⋮俺が動けなくなったあと、マジで始末されそうになってたの か?﹂ 深月は目線を合わせず、無言で応えた。 雄介が仲間に殺されかけたということを、あまり繰り返したくな いのかもしれない。 ︵助けられたのか⋮⋮︶ 雄介は顔を片手で覆って、ため息をつく。 拳銃で威嚇したとなると、コミュニティとの対立は決定的だ。大 勢の人間が死んだ直後に、仲間に銃を向けたのだ。排斥は避けられ ない。 たとえ雄介が無事な姿を見せても、しこりは残る。深月の立場は 669 変わらないだろう。 ︵どうする⋮⋮︶ いくつもの選択肢が、浮かんでは消えていく。 雄介についても、ゾンビに噛まれた手は大勢に見られている。疑 念は残るだろう。 しばらくの思考のあと、雄介は腹を決めた。 ︵潮時だな︶ 立ち上がり、言った。 ﹁ついてこい。話をつけにいく﹂ ◇ 雄介たちがホールに姿を見せると、その場にいた人並みに緊張が 走った。 監視のためか、調達班の面々も残っている。 距離を置いて、対峙した。 ﹁よう﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 社長は呆気にとられたような表情をしていた。 自然体で立つ雄介に視線を走らせ、人間であること、ゾンビ化し ていないことを確信したようだ。 ﹁⋮⋮無事だったのか﹂ 670 ﹁おかげさまでな。話は聞いた﹂ 後ろの深月にかぶりを振っての、皮肉げな声音に、社長が言葉に つまる。 しばらくして、口を開いた。 ﹁⋮⋮すまなかった。あの場では、あれが最善だと思った。噛まれ て助かるとは⋮⋮﹂ そこまで言って、社長の顔色が変わった。処分した他の感染者の ことを思い出したのだろう。 雄介は手を振り、 ﹁いや、謝らなくていい。処分の判断も良かった。ただ、俺も言っ てないことがある﹂ ﹁なに?﹂ ﹁⋮⋮うーん、そうだなあ⋮⋮﹂ 雄介は考え込むように周囲を見まわし、壁際に立つ佐々木に、目 をとめた。 ﹁そいつを貸してくれ﹂ 雄介が指さしたのは、佐々木が肩にかけていたショットガンだ。 西庁舎に立てこもっていた犯人が使っていた物だ。足元にはバッグ も置かれている。この非常時で、使える物はなんでも使うつもりな のだろう。 佐々木が、うかがうように社長の方に視線を走らせる。不審な雄 介の態度に、渡していいか決めかねているのだ。 社長は言った。 671 ﹁⋮⋮なぜだ? なんに使う?﹂ ﹁まずは手元に武器が欲しい。これからの生き残りに関わる情報を 持ってる。それを教える代わりだ﹂ ﹁⋮⋮いや⋮⋮﹂ 複雑化した状況に、社長は即答できないでいる。 雄介はうんざりしたように続けた。 ﹁拳銃もやった。ライフルもやった。ボートも持ってきた。ショッ トガンひとつ安いもんだ。仲間だろ?﹂ 仲間、という言葉に、社長は悩むように沈黙したあと、口を開い た。 ﹁⋮⋮それで和解してくれるか﹂ ﹁ああ。弾も﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ 佐々木が近づく。 ショットガンとバッグを受け取るときに、後ろに立つ深月の方に 鋭い視線が走った。拳銃のありかを確認しているのだろう。深月は 目を伏せたままだ。 雄介は銃の操作を確認したあと、バッグから円筒形の弾薬を鷲掴 みにしてポケットに入れた。そのうち二つを機関部の下にある挿入 口から差し入れ、ポンプを引く。弾が装填される。 ﹁さて⋮⋮﹂ 周囲の視線が集まる。 672 雄介の異様な雰囲気に、ホールの空気は固まっている。 ﹁これでもう用済みだな﹂ 雄介は後ろに下がり、深月を、前に押し出すように蹴り飛ばした。 ﹁きゃっ!?﹂ 深月がバランスを崩して床に倒れる。 ﹁え、えっ⋮⋮?﹂ 手をついて身を起こし、混乱した様子で雄介を見上げる。 ﹁なにをしてるっ!?﹂ 鋭い声があがった。人の輪から一歩こちらに踏み出したのは、深 月の幼なじみとかいう少年だ。 雄介は答えず、ショットガンを斜めに構えたまま、ゆっくりと移 動した。深月たちと市役所の人間から、それぞれ距離を取る。 ﹁⋮⋮なんのつもりだ﹂ こちらを追う社長の言葉に、雄介はうすく笑いながら答えた。 ﹁用済みって言っただろ。おまえらに肩入れすんのもここまでだ。 もうズタボロだしな。いつ全滅するかもわからん所にいる意味ねー だろ? 俺は俺でやってくよ。あとは適当にがんばってくれ﹂ ﹁なにを言ってる⋮⋮? ⋮⋮。いや、一人でどうにかなると思っ てるのか? それともなにか要求してるのか? わかりやすく言っ 673 てくれ。できる限り応える﹂ ﹁別に、なにも。これだけで充分だよ﹂ ショットガンをかるく叩く雄介に、 ﹁⋮⋮本気なのか。一人で﹂ ﹁ああ﹂ ﹁⋮⋮自殺行為だ。おまえは今、あいつらに噛まれたショックで錯 乱してるだけだ。早まった行動はやめろ﹂ 雄介は、笑みを浮かべた。 ﹁さっき、言ってないことがあるって言ったよなあ﹂ ﹁⋮⋮? ああ﹂ ﹁こういうことだ﹂ 雄介は窓に近づき、ショットガンを、市役所前の道路に向けて撃 ち放った。強い反動とともに、爆音が鼓膜を震わせる。 道路の近くにいたゾンビが、こちらを見上げた。ふらりと周囲を 見回したあと、庁舎の玄関に歩いていく。 ︵⋮⋮やっぱまわりに人間がいると気づくか︶ ポンプを引いてリロードし、ポケットの弾を装填しながら考える。 ゾンビは、ゾンビの立てる音には反応しない。同じように、雄介 の音にも反応しなかった。 しかし、近くに他の人間がいれば、ちゃんと誘引できるようだ。 音だけでなく、なにか別のものでも気配をとらえているのだろう。 そのうち、階段の防火扉のむこうが騒がしくなった。 一階をさまよっていたはぐれゾンビが、音にひかれて上ってきた 674 のだ。 ﹁どいてろ﹂ ショットガンの銃口でまわりを追い散らし、防火扉に向かう。佐 々木が予備のライフルを手に、こちらを注視している。銃口は下が っているが、いつでも撃てる態勢だ。 ︵あっちも弾は残ってるか⋮⋮︶ 横目で見ながら、くぐり戸のケースハンドルを回して鍵を開ける。 乱暴に蹴り開け、数歩下がる。 戸口に現れた人影に、トリガーを引いた。 弾丸の霰が飛び、ゾンビの一部を吹き飛ばした。体ごと捻じれ飛 ぶようにして、奥の階段に落ちていく。 圧倒的な暴力の発露。 もう一匹、現れた。 今度は銃口を下げ、膝を吹き飛ばした。ゾンビはつんのめるよう に床に倒れる。 その襟首をつかみ、くぐり戸から引きずり出した。扉のケースハ ンドルを回し、これ以上入ってこないように鍵を閉める。 今さらながらに、後ろで悲鳴があがった。 倒れたゾンビは足を砕かれ、膝から先は、皮でつながっているよ うな状態だ。それでも凶悪に歪んだ表情は変わらず、上体だけで這 いずりながら、ホールの中央に向かおうとする。 すぐそばに立つ雄介を無視して。 ﹁おーお。しぶといな﹂ ゾンビは両手で床をつかむようにして、フロアに血の跡をつけな 675 がら、のろのろと這いずっていく。 雄介はゆっくりと、その後を追った。 周囲の動きが乱れる。 混乱したような雰囲気だ。 戦える人間はとっさに武器をとっているが、身動きすることもな く、こちらを凝視している。 ゾンビが進むごとに、人の輪が下がっていく。 中央まで来たところで、雄介はその頭を踏みにじり、動きを止め た。床に押さえつけられ、ゾンビの首が歪む。 その目は爛々と輝いているが、自分を踏みつけにする雄介ではな く、ホールの人間に向けられている。 もがく手も、雄介にかかる様子はない。 ﹁わかるか?﹂ その光景の意味が、まわりに浸透するのを、じっと待った。 ﹁前に﹂ 雄介は続けた。 ﹁前にも噛まれたことがある。ゾンビに﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ 社長のかすれた声。 ﹁俺が噛まれたのは、これで二回目だ。ずっと前に⋮⋮このパンデ ミックが起きた直後にも、噛まれた。でも俺は、こいつらの仲間に はならなかった﹂ ﹁⋮⋮二回目⋮⋮? 噛まれて無事だったのか⋮⋮?﹂ 676 ﹁ああ。なんでゾンビにならなかったのか、理由は聞くなよ。俺も わかんねえ。ただ⋮⋮まあ、一応は感染してるんだろうな。あれか ら俺は、ゾンビに無視されるようになった。こいつみたいに﹂ そう言って、雄介はゾンビの頭を、足で床に叩きつけた。ゴツッ と鈍い音がするが、ゾンビはまるで知らぬようにもがき、周囲に飢 えた視線を向けている。 その様子に、雄介はおかしみを含んだ口調で言った。 ﹁仲間だと思われてんのかね?﹂ 社長の声が漏れた。 ﹁信じられん⋮⋮﹂ ﹁信じろよ。今まで俺が、市役所の外を一人で動けてたのはなんで だと思う? 勇気があるから? 行動力があるから? 違う。ゾン ビなんぞ、俺にとっちゃ脅威でもなんでもなかったからだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁バイクだけで、ゾンビのうようよしてる街中に出ていこうとかさ。 普通は考えないだろ。それがゾンビに無視されるんなら、散歩みた いなもんだ﹂ 社長は無言で立ちつくしている。 周囲も。 ﹁なんなら誰かこっちに来い。試してみろ。このゾンビが特別じゃ ないってわかる﹂ 佐々木が、慎重な足どりで近づいてきた。 ゾンビはすぐに反応した。佐々木を睨みつけ、罠にかかった猛獣 677 のように、両腕でもがきはじめた。上に立つ雄介には見向きもしな い。 佐々木は足を止め、社長に視線を向ける。疑念と確信が入り交じ った、複雑な表情だった。 社長が口を開いた。 ﹁⋮⋮わかった。それは⋮⋮信じがたいが⋮⋮﹂ ﹁オーケー﹂ 雄介は足を下ろし、トリガーを引いた。爆音とともにゾンビの後 頭部が吹き飛ぶ。悲鳴があがった。 社長は、動かなくなったゾンビをじっと見つめていた。 それから口元を引き締め、顔を上げた。 ﹁⋮⋮だが、なんで今なんだ。なぜ今まで黙ってた?﹂ ﹁そりゃ、いいように利用されんのが嫌だったからさ﹂ ﹁⋮⋮利用されるのが⋮⋮? それだけか?﹂ ﹁ああ﹂ そこで雄介は、深月に視線を向けた。 深月は床にへたりこんだまま、びくりと震える。 顔は真っ青だ。 立て続けの出来事に、思考が追いつかないのだろう。 近くには子供たちと、あの幼なじみの少年もついている。 雄介は続けた。 ﹁そいつにも食い物を要求された。ここに来る前、スーパーで助け たときな。でもな、使い走りにされるのはごめんだ。だから黙って た﹂ 678 雄介は笑い、 ﹁食い物の代わりに体をよこせっつったよ﹂ ﹁⋮⋮ッ! てめぇっ!﹂ 少年が激昂した。立ち上がり、こちらに向かってくる。 その顔に、雄介は銃口を向けた。 ゾンビを吹き飛ばした銃に見つめられ、金縛りにあったように、 少年の動きが止まる。 ﹁⋮⋮っ⋮⋮﹂ ﹁なんだよ? 文句あるなら言ってみろ﹂ ﹁おまえ⋮⋮おまえっ!﹂ 血が出そうなほど歯を噛みしめながら、少年は雄介を睨みつける。 ﹁ふん⋮⋮。そいつはそれでも、俺に恩を感じてたみたいだけどな。 犬ころにエサをやるようなもんだ。くだらねえ﹂ 社長は重苦しげに黙りこんだ。 それから、痛みをこらえるように、絞り出すように言った。 ﹁そうか⋮⋮。おまえは、そういう奴だったんだな﹂ ﹁そうだ﹂ 周囲の空気が、怒りにざわついた。 一人で市役所の外を行動する雄介には、今までどこか畏怖の感情 が向けられていた。それが、たんにゾンビに襲われないものである とわかって、反転した。 679 ﹁一人で好き勝手してたんだ⋮⋮﹂ ﹁何人死んだと思ってるんだ! あいつのせいで⋮⋮﹂ 雄介は不思議そうに、そちらに顔を向けた。 ﹁俺のせい? 俺のせいじゃないだろ﹂ ﹁違う、おまえ、他の人間、守れただろ!﹂ ﹁⋮⋮あー、つまり、俺に外のゾンビを殺せって言ってるのか?﹂ ﹁簡単だろうがっ!﹂ ﹁⋮⋮やっぱそうなるよな。ここの安全のために、一人でゾンビを 掃除してこいって。わかってるわかってる﹂ 雄介は、手のショットガンに視線を下ろし、言った。 ﹁⋮⋮それでさあ、俺が、俺だけが始末を押しつけられて、外のゾ ンビを殺しまくって、そのうちどうなると思う?﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁区別がつかなくなるんだよ。おまえらと、あいつらが﹂ あの知性体の夢は、雄介の記憶ではなかった。 しかし、夢の中で行動していたのは、間違いなく雄介自身だ。 あの虐殺の光景も。 今ならわかる。 西庁舎に立てこもっていた犯人と、無線で話したときに感じた、 正体不明の嫌悪感。 あれは、同族嫌悪だ。 ﹁なんであいつらを殺して、おまえらを助けなきゃならないんだろ う、ってなあ⋮⋮﹂ 680 あの男の言葉。 ﹃まだ人間に貢献してるほうだと思う﹄ あの男は、そのバランスが崩れたのだ。 周囲に広がる絶句をよそに、雄介は続けた。 ﹁言っとくが、ここでゴチャゴチャしてる暇はねーぞ。あいつらは また来る﹂ ﹁⋮⋮どういうことだ﹂ 社長の目を見ながら、 ﹁あいつらの中に、何匹かヤバいのがいる。さっきのは小手調べだ。 今度は本格的に来る。死にたくないならさっさと逃げろ﹂ ﹁⋮⋮なぜわかる。⋮⋮いや、前に言ってたな。ゾンビの中におか しなのがいるって、あれか?﹂ ﹁ああ。人間みてーに知恵の働く奴がいる。何してくるかわかんね え。そいつら相手だと、俺も狙われる﹂ その言葉に、わずかに戸惑ったような雰囲気が流れた。 雄介が、市役所を守る戦いで負傷したのを思い出したのだ。 社長は難しい表情で、 ﹁⋮⋮今はとても移動できない。ここで守る﹂ ﹁全滅するぞ﹂ 二人は睨みあう。 そこに、声がかかった。 681 ﹁武村⋮⋮﹂ 工藤だ。 ﹁ひとつだけ、聞かせてくれ⋮⋮﹂ ﹁なんだ﹂ 工藤は思いつめたような表情で、言った。 ﹁物流センターに行ったとき、一緒に戦ったよな。必死で⋮⋮。あ のときも、おまえだけは安全だって、わかってたのか?﹂ ﹁あたりまえだろ。でなきゃ誰が行くか﹂ ﹁⋮⋮自分だけ平気ってわかってて、一人だけ高みの見物を決めこ んで、ついてきたのか⋮⋮?﹂ ﹁そうだよ。そう言ってるだろ。⋮⋮ああ、それに、人間がどこま でゾンビと戦えるのか、興味もあったからな。見物させてもらった。 いろいろ参考になったぜ﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 怒気を含んだ工藤が近づく。 雄介は先ほどと同じように、その顔にショットガンを向けた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 工藤は一瞬立ち止まり、銃口を見つめた。 しかし、再び歩みを進めた。こちらと視線をあわせ、銃口に身を 晒しながら、ゆっくりと銃に手の届くところまで歩み寄る。それか ら静かに、銃身の先を右によけた。 雄介はそれらを、呆気にとられたように見ていた。 頬に衝撃。 682 殴られていた。 雄介はたたらを踏んで、体勢を立て直す。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 熱のあとに、痛みが広がる。 雄介は不思議そうに頬をなぞり、それから工藤を見つめた。 ﹁ダチだと思ってたぜ﹂ 工藤は吐きすて、背を向けた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介はそれを無言で見送ると、社長に視線を戻した。 工藤とのやりとりに何かを感じるところがあったのか、社長は複 雑な表情を見せている。 ﹁⋮⋮準備だけはしておく﹂ 会話はそれで終わった。 社長にうながされて、ホールの人間が散らばっていく。 寒々とした空気が広がる。 ふいに、深月と目があった。 まわりの人間に、いたわるように支えられながら、呆然とこちら を見つめている。 雄介は無言で視線を外し、バッグを拾って、ホールを後にした。 683 55﹁心の底﹂◆ ゾンビの襲撃のあと、市庁舎の人間は一ヶ所に集まった。 以前に食事会があった、市議会議場だ。そこでなら全員を収容す ることができた。 入り口と近くの階段には見張りがついているので、一応の安全は 確保されている。 下ではまだ作業が続いていたが、怪我をした人間や、疲労の激し い者は議場で休むことになった。 深月たち三人も、他の人間に混じってそこにいた。 子供らは興奮が冷めないのか、しばらくピリピリした空気でいた が、そのうち隆司がすとんと眠りに落ち、女の子も隣でうつらうつ らしはじめた。 そんな二人の様子を、深月はぼんやりと膝を抱えながら、ながめ ていた。 ︵⋮⋮︶ 議場は広く、暖房もないため、巻きつけた毛布から冷気が染みい ってくる。 まわりには大勢の人間がいたが、みな疲れきって横になっていた。 暗闇のほうぼうで、ささやき声が聞こえる。押し殺したような泣き 声も。 襲撃の騒ぎはまだ収まっていない。一時的な休止でしかなかった。 確認できただけでも、犠牲者は十数人を超えている。朝になれば さらに増えるだろう。行方不明者も多く出ている。 朝日が出たあと、市庁舎の後始末をすることになる。血まみれの 市庁舎を。 684 これからここで、また生活していけるのか。多くの死人が出たこ の場所で。 深月には不可能に思えた。 あいつらはまた来る、と雄介は言った。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 銃を手に、動けないゾンビを足蹴にし、傲岸にまわりを睥睨して いた雄介。 人が変わったように︱︱とは思わない。雄介にそういった面があ ることを、深月は知っていた。そもそも出会った時から、善良とは ほど遠い人間だった。 スーパーでの記憶が、いくつも蘇ってきた。 なぜやすやすと食料を取ってこられたのか。 なぜゾンビに対する恐怖をほとんど見せなかったのか。 もし、襲われないというのが本当だとしたら。 答えはあったのだ。 重苦しい感情が形を取りそうになるが、すぐに霧散した。 かわりに空虚感だけが強くなる。 ふと頬に視線を感じ、深月は顔を上げた。 幼なじみの少年、敦史が、こちらをじっと見つめていた。 目が合うと、気まずそうに目を伏せ、 ﹁⋮⋮あのさ﹂ 口を開く。 ﹁俺は、気にしてないから﹂ その言葉の意味がわからず、しばらくして思い当たった。食料の 685 代わりに深月に体を差し出させていたという、雄介の言葉を指して のことだろう。 すこしの沈黙のあと、深月はぽつりとつぶやいた。 ﹁ごめんね﹂ ﹁謝るなよ!﹂ 敦史は怒ったような表情で、 ﹁隆司たちもいたんだ。仕方ねえよ⋮⋮﹂ その言葉は、自分に言い聞かせるような口調だった。 ︵⋮⋮そうじゃないの⋮⋮︶ 深月は心の中でつぶやく。 ほぼ無意識の動作で、右手を腰にやっていた。服の背に収められ た拳銃はまだそこにある。弾も残っている。あの騒ぎでうやむやに なったままだ。 ︵早くしないと⋮⋮︶ 誰かが回収しに来るかもしれない。 ふいに足音が近づいてきた。 暗がりから、警備班の男が現れた。深月はかすかに身構えたが、 敦史が立って、小声で何かを話しはじめた。 それからこちらに振り返る。 ﹁深月、思い出したくないかもしれないけど、警備の人が聞きたい って言ってる。人質を取ってた奴ら⋮⋮犯人側に、女がいたんだよ 686 な?﹂ 深月はうなずいた。 敦史と警備の男は、深刻な様子で相談をはじめた。すぐに男が立 ち去る。 ﹁深月、ごめん。俺も行ってくる﹂ そう言って、敦史も議場を出て行った。 深月はぼんやりとそれを見送った。 ﹁あなた、大丈夫?﹂ 横から、気づかうような声がかかった。 顔を向けると、以前に衛生班で一緒だった年上の女性だった。心 配そうにこちらを見つめている。 そばには何人か、同じような表情の人間がいる。市役所での仕事 で仲良くなった人たちばかりだ。男たちの、腫れ物に触るようなぎ こちない態度とは違って、いかにも同情的だった。 ﹁大丈夫です﹂ 深月は短く答えた。 こちらの錯綜した立場については、面と向かって詮索する人間は いない。まだ浸透していないだけかもしれないが⋮⋮ まわりの人間が寝静まるまで、暗い夜の粘ついた時間を、深月は ひたすら待ち続けた。 ◇ 687 市庁舎の暗闇の中を、雄介は一人で行動していた。 ショットガンを持っているため、たまにすれ違う男たちも関わろ うとはしてこない。遠巻きに避けるままだ。 地下のバイクに燃料を補給し、荷物をまとめたあと、三階に向か った。近隣の地図を手に入れるためだ。 観光課の一室に入り、机にロードマップやパンフレットを積み上 げて、安全なルートを探す。街から出るまでがもっとも危険だ。知 性体には目をつけられている。 なるべく大きな道を選んで、立ち往生のリスクは避けたい。移動 はずっとバイクになる。 マンションの自室で、街の地図に書き込みをしていたころが思い 出された。 ︵振り出しに戻るか⋮⋮いや、悪くなってんな︶ かつては人間の生き残りを気にするだけでよかったのが、今は、 知性体に明確に命を狙われている。 他の街にも、知性体と似たような存在がいないとも限らない。安 全な場所を探しての旅は、長くなるだろう。 ライトで照らしながら隣県への移動ルートを決め、予備も含めて いくつかの経路をチェックしたあと、雄介は一息ついた。 安物の椅子に背中を預け、気が抜けたように宙をながめる。 ﹃︱︱こっちにはいない︱︱﹄ ﹃︱︱船の確認を︱︱﹄ バッグに入れっぱなしの無線機からは、市役所で交わされている 無線の様子がもれ聞こえてくる。 ショットガンと同様、西庁舎で暴れた男の所持品だった。人質奪 回のときには無線も沈黙していたが、今はひっきりなしに交信が行 688 われている。何か問題が起きているようだが、あまり興味はひかれ なかった。こちらに敵対するのでなければ、どうでもいい。 天井を見上げ、大きくため息をつく。 ﹁はーあ⋮⋮だる⋮⋮﹂ 徒労感が強かった。 知性体に噛まれるという自分のミスが原因ではあるが、あれだけ 苦労して、結局は身一つで逃げ出すハメになっている。 日がな一日かかって作り上げた砂の城が、波にさらわれたような 気分だった。 かといって、もう期待するようなものも残っていない。 ゾンビに追い詰められての結果なら、まだ良かった。 しかし、今度の崩壊も、人間同士の争いが発端だった。 自分の心の置き場が、どんどん人間側から離れている。そのこと に気づいてはいたが、失望感は隠せなかった。 ︵クソボケ︶ 無性に腹が立ち、デスクの書類立てを蹴りつける。文具が散らば り、盛大な音をたてた。 それに反応する気配があった。 振り向くと、扉に人影が立っていた。 深月だ。 うつむき加減に握りしめられた両手の中には、拳銃のシルエット がある。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 雄介は無言で、デスクに立てかけていたショットガンを手に取っ 689 た。 その挙動は見えていただろうが、深月に動きはない。 雄介は静かに声をかけた。 ﹁やめとけ。おまえは撃ちたくない﹂ 深月は答えない。 拳銃を握る手も、微動だにしない。 うなだれたまま、沈黙が続いた。 じれた雄介が立ち上がり、ショットガン片手に近づいても、深月 はなんの動きも見せなかった。 数歩の距離で立ち止まる。 ﹁なんとか言えよ﹂ しばらくして、伏せた顔の下から、かすれた声が返った。 ﹁なんで⋮⋮﹂ そこで途切れた。 しばらく待ったが、言葉が続く様子はない。 雄介は口を開いた。 ﹁言っとくが、悪いとは思ってないからな。俺は俺のやりたいよう にやっただけだ﹂ 深月の手が跳ねるように動いた。 持ち上がろうとする銃口を、雄介はとっさに手元で押さえた。深 月の両腕と雄介の左腕で、力が拮抗する。 690 ﹁ふ、う、ぅぅっ⋮⋮!﹂ 深月は食いしばるように吐息を漏らしながら、こちらを睨みつけ てくる。 泣き出す寸前のような瞳だ。 ﹁はなしてっ⋮⋮!﹂ 暴れようとする深月がバランスを崩し、床に倒れこんだ。雄介も それに釣られる形で馬乗りになる。ショットガンを手放し、両腕を 床に押さえつける。 深月はしばらくもがいていたが、やがて観念したように力を抜く と、視線を外し、動きを止めた。抵抗が完全に無くなるまで待って から、ゆっくりと手を放す。 乱れた黒髪の中に、深月の両腕が無防備に広げられている。見え ない鎖で床に磔になったような姿だ。呼吸に合わせて、胸がかすか に上下する。 ﹁動くなよ﹂ 床に落ちていた拳銃を拾う。 安全装置はかかっていた。 以前に渡した、オートマチックの拳銃だ。 ﹁⋮⋮﹂ マガジンを抜いてスライドを引き、中を空にしてからポケットに 収める。 そのあいだも、深月はこちらの視線を避けながら、じっと横たわ っていた。 691 ﹁気が済んだら帰れ。勝手に歩きまわるな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁まだ何かあんのか﹂ 答えはない。 ﹁⋮⋮裏切られたとでも思ってんのか? そもそも助けてくれとか 頼んでねえよ。おまえが暴走しただけだ﹂ 雄介は吐き捨てるように、 ﹁おまえにやってた食い物はな、いくらでも手に入れられたんだよ。 命がけってのも嘘っぱちだ。おまえを利用してただけだ。変な期待 はすんな﹂ ﹁そんな事はどうでもいいのっ!﹂ 激昂の声が返った。 雄介は一瞬、呆気にとられる。 ﹁⋮⋮なに?﹂ 深月は震える自分の体を抱きしめ、冷たく床を見つめた。 ﹁わからないならいいです⋮⋮もう⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おい、言いたいことがあるならはっきり言え。グダグダして んなうっとうしい﹂ 深月は怒りを瞳に閃かせて、まっすぐこちらを睨みつけてきた。 692 ﹁なら言います。助けたのが先生だったら、一人で出て行こうとな んてしなかったでしょう?﹂ 雄介は言葉に詰まり、 ﹁⋮⋮なんであいつが出てくんだよ﹂ 深月は聞いていなかった。 ﹁私だって、先生が助けてくれればどんなに⋮⋮。でも、私がやる しかなかった、あの時はそうするしかなかったんです!﹂ ほとんど支離滅裂の言葉に、雄介は沈黙する。 深月は身をすくめたまま、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。 ﹁な、なんで⋮⋮あんなことしたんですか⋮⋮? 秘密なんて知り たくなかった⋮⋮。どうして黙って、一緒に逃げてくれなかったん ですか⋮⋮? そんなに私が足手まといでしたか⋮⋮?﹂ 思わぬ言葉に雄介が絶句すると、その表情を見てとったのか、深 月は顔をゆがめて言った。 ﹁ほ、本当にわからなかったんですか? 食べ物の恩だけで、あん なことをしたと思ってるんですか?﹂ 深月は、泣き顔を両腕でかばうように隠し、しゃくり上げはじめ た。 ﹁じ、自分が、情けない⋮⋮です⋮⋮。ぜ、ぜんぜん、伝わってな かった⋮⋮﹂ 693 その姿を見下ろしながら、雄介はつぶやく。 ﹁⋮⋮意味わかんねーよ﹂ 深月は嗚咽をこらえながら、 ﹁ま、まだわからないの? 意気地なし⋮⋮ひきょうものっ⋮⋮!﹂ ﹁はあ⋮⋮?﹂ ﹁し、仕方ないじゃないですか⋮⋮。く、悔しいけど、悲しいけど ⋮⋮好きなんだから⋮⋮﹂ 絶望を吐露するような声音だった。 押し殺した泣き声だけが響く。 雄介は困惑するままに、 ﹁⋮⋮なんだそりゃ。タダでいいように使われてたんだぞ。恨まれ るんならわかるけどよ⋮⋮﹂ 深月は叫ぶように、 ﹁そんなこともう関係ないのっ! 利用されてるなんて最初からわ かってたっ! で、でも、あのとき一緒にいてくれたのは誰? 優 が、あの子があんなことになって、それでも隣にいてくれたのは誰 ⋮⋮誰ですか⋮⋮。あのときの気持ち⋮⋮他に誰がわかるの⋮⋮﹂ その表情が、くしゃりと歪んだ。 不意を突くように身を起こし、こちらの首元にすがりついてくる。 ﹁好き、好き、好きなのっ! どうしようもないのっ!﹂ 694 ﹁おい待て、今さら⋮⋮﹂ 首すじに、熱に浮かされたような吐息がかかる。 涙にぬれた深月の瞳が、蠱惑するように近づいた。 ﹁さ、最後に、したくないですか? 私じゃだめですか?﹂ あのプライドの高い深月が、怒りを一転させ、すがるように、あ からさまな媚態を見せている。 それは痛々しいほどだった。 深月は上目遣いで、 ﹁つ、捕まったときだって、何もされてない。無理やりされかけた けど、抵抗しました。ちゃんと逃げました﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁と、トイレに連れこまれて、太もも触られて⋮⋮﹂ 語尾に奇妙な熱がこもっていた。 ﹁⋮⋮挑発してんのか?﹂ ﹁なにが⋮⋮ですか⋮⋮﹂ スカートごしに太ももに触れると、跳ねるような嬌声が漏れた。 ﹁んぅっ!﹂ 軽く表面を撫でただけで、深月の太ももがガクガクと震える。 引けた腰で、こちらの片脚をはさむように密着してくる。 ﹁ぁ、ぁっ⋮⋮!﹂ 695 柔らかな胸が押しつけられる。 劣情をかき出す深月の声と、その感触。流されるなという理性と、 どうせ最後だという自暴自棄な感情が入り混じる。失望と腹立ちの ままに、 ﹁⋮⋮もう知らねーぞ!﹂ ﹁あっ⋮⋮!﹂ 捨て鉢に押し倒すと、歓喜の悲鳴が上がった。 深月の両腕が、こちらの背中を這いまわる。抱きつくだけでは足 りないとでもいうように体の形をなぞるその動きに、ゾクゾクとし たものが走る。 タイツに手をかけようとすると、深月の切羽詰まった声がかかっ た。 ﹁破いてっ⋮⋮! そのままでいいからっ⋮⋮!﹂ こちらの凶暴性を引き出すような、媚びた声音だった。 無理やり縫い目から引きちぎり、下着を露出させる。 そこは水気を含み、濡れきっていた。 横にずらすと、熱くとろけた秘肉が、指先をやすやすとのみこん だ。 深月の体が、電撃を受けたように反り返る。 ﹁っ⋮⋮! ⋮⋮早くぅっ⋮⋮!﹂ 深月は自分の両脚を抱え、捧げ持っていた。スカートはめくれ上 がり、破れたタイツと、ずらされた下着の隙間から、深月の秘部が むき出しになる。 696 雄介は下を脱ぐ時間ももどかしく、ファスナーを下ろして飛び出 たそれを、深月の体ごと引き寄せるようにして突き込んだ。 熱く溶けたぬかるみに、これ以上ないほど硬くなったものが突き 刺さった。 ﹁んあぅっ!﹂ 中の肉がギュッと収縮した。 深月が体を反らせ、ビクビクと体を震わせながら、腰を押しつけ てくる。先端まで圧迫するように包まれる。 生の粘膜同士がこすれる快感と、溶けるような居心地の良さ。 ﹁いっ⋮⋮く⋮⋮いっちゃうっ⋮⋮!﹂ 深月はあっという間に高まっていった。串刺しになった接合部を 自らこすりつけ、中に刺さったものをグリグリと刺激し、そのたび に下腹部を震わせる。 ﹁ッ!!﹂ 秘部にペニスをくわえこんだまま、深月のお腹だけが跳ねた。背 中が弓なりになり、声の出ない喉が、息を求めるように開閉する。 同時に、ドロドロになった深月の内部が、強くペニスを締め上げ た。 ﹁くぅ⋮⋮!﹂ これまでに感じたことのないような熱さだった。 水気は多くグチャグチャに濡れているのに、熱でとろみをもった ような内部。極限まで柔らかくなったヒダが、無数に絡みつく。 697 息を吐いて射精をこらえながら、ゆっくりと腰を引く。 カリが中をえぐるその刺激に、深月の体がビクビクと跳ねる。そ のたびに断続的な締めつけが起きた。あまりの具合の良さに、射精 をこらえるのもギリギリだった。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ ﹁ぅ⋮⋮っ⋮⋮ふ、あ⋮⋮ぁ⋮⋮﹂ 深月の胸が荒く上下する。 苦しそうに息をつきながら、呆然とこちらを見上げてくる。 肌はゆるやかに色づき、ひたいや首には玉のような汗が浮いてい た。 力なく落ちていた深月の両腕が持ち上がり、こちらの首に回され る。 ﹁⋮⋮好き、好き⋮⋮好きぃ⋮⋮﹂ 引き寄せられるように、口元が重なった。 唇の形を確かめるようなぎこちない愛撫は、すぐにむさぼるよう な動きに変わった。舌先が、こちらを口内に迎え入れるように絡み つく。 味蕾をこすりつけ、相手の味を感じながら唾液を絡ませる。深月 の体が、快感をこらえるようにたわんだ。口内で溶けるような愛撫 に反応し、膣穴がきつく絞られる。深月の押し殺した吐息が漏れる。 前戯どころではなかった。体はとっくに出来上がっていて、それ をぶちまけるだけのような交尾。脳そのものが絡んでいるような、 深月の剥き出しになった心を、直接犯しているような感覚。 膣内がキュウキュウと締まる。 ﹁ぁ、ぁ、あ⋮⋮っ!﹂ 698 深月がまたイった。 快感に唇を合わせられなくなり、ピンと張り詰めた体がぶるぶる とわななく。か細い悲鳴のような声。 ﹁いく、いくぅ⋮⋮﹂ 奥が収縮し、亀頭を締めつけてくる。 ドロドロの熱い粘膜が、深月の、腹の奥からの快感を示すように、 ピクピクと痙攣する。 ﹁ぁ、は、っ⋮⋮、は、ぁっ⋮⋮!﹂ 浅い呼吸で懸命に息を継ぎながら、 ﹁ほしいっ⋮⋮ください⋮⋮おねがいっ⋮⋮!﹂ グリグリと腰を押しつけてくる。 濡れて張り付いた草むらの下で、ペニスが根元までのみ込まれて いる。あふれた愛液で、接合部はグチャグチャに泡立って汚れてい た。 ﹁んっ、ぅ⋮⋮﹂ 深月に頭を抱えられ、再び口付けされる。舌が入りこむ。 上と下で、敏感な粘膜をヌルヌルとなぶられる。欲情をそのまま ぶつけてくるような深月の愛撫に、快感で脳みそが溶かされていく。 限界が訪れた。 とっさに腰を引こうとする動きを察して、深月が動いた。 699 ﹁⋮⋮っ! 抜かないでっ!﹂ 腕がきつく背中に回される。 こちらの吐精を受け入れるように、深月の腰が密着する。決壊寸 前のペニスが、深月の柔らかい胎内に突き刺さる。 ﹁おねがい⋮⋮! 中に⋮⋮っ!﹂ 自ら子宮を差し出すようなその体勢に、理性が持たなかった。 ﹁くぅっ!﹂ 快感が脳を焼き、押しとどめていた堰があふれた。 溜まりきった欲望が、ドクドクと噴き出る。 先端を突き立てた先の、深月の無垢なベッドの中に、子種が撒き 散らされる。少女の部分を汚していく。 ペニスがきつく包まれた。 ﹁ぁ、あっ、あ⋮⋮! だめ、だめっ! あっ、ああああぁ⋮⋮っ !!﹂ 深月の体が絶頂に張りつめた。 体の距離を無くそうとでもするかのように、強く密着してくる深 月。 そのドロドロの体内の奥に、精液を吐きだしていく。 体の境目がなくなるような、相手に溶けていくような一体感。経 験したことのない快感だった。 時間の感覚がなくなるほどの、長い恍惚感のあと。 すべてを吐きだし終えると、目の前の光景が戻ってきた。 荒く息をつく。 700 ﹁は⋮⋮ふぅ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂ ﹁ぅ⋮⋮⋮⋮ぁ⋮⋮⋮⋮﹂ 身を起こすと、深月はかすかに声を漏らしながらも目を閉じ、な かば気を失っていた。 まだ快感の波があるのか、ピク、ピク、と身を震わせている。 ﹁⋮⋮はぁ⋮⋮﹂ 弛緩する深月の、太ももの間から、ゆっくりと腰を引く。 中を満たしていたものが抜き取られ、秘裂が糸を引く。その下端 から、ドロリと白濁液があふれた。 ﹁⋮⋮ぁ⋮⋮﹂ 意識を取り戻した深月は、こちらが離れたのを見ると、けだるげ に姿勢を変えた。 片肘をついて身を起こし、胎児のように膝を引き上げ、こちらに 尻を見せつけるような格好になる。 柔らかい尻肉が上下に重なり、たわんだその間に、抽送で泡立っ た秘裂が見えていた。深月は引っかかっていた下着に手を添え、そ の隙間を広げた。 あらわになったピンク色の陰唇から、白濁液がゴポリとこぼれ、 太ももに垂れ落ちていく。 深月は茫洋とした瞳で言った。 ﹁⋮⋮もう一回⋮⋮します⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 701 しばらく沈黙が続いた。 雄介が動かずにいると、深月は裏切られたような表情を浮かべた。 こちらの目を見て、そこに望むものがないと悟ると、暗い瞳でうな だれた。 そして嗚咽を漏らしはじめた。 ﹁⋮⋮⋮⋮、⋮⋮。ごめんなさい⋮⋮、わかってました⋮⋮。忘れ て⋮⋮ください⋮⋮﹂ 今度の沈黙は長かった。 服を直したあとも、雄介はあぐらをかいて、じっとそれを見下ろ していた。 心を丸裸にした少女の、深い慟哭。 それを見るうちに、言葉がぽつりと漏れた。 ﹁おまえだけなら連れてったさ﹂ 深月が動きを止めた。 涙に濡れた瞳で、ゆっくりとこちらを見上げる。 中央ホールの戦いで知性体に噛まれたあと、深月に助けられたと 知ったときの、頭に浮かんだいくつもの選択肢。 それらを思い出した。 ﹁でもな、小さいのがいるだろ。あいつらはどうすんだよ。他に安 全な場所があるかもわかんねえ。落ち着くまで何年かかるんだ? 隆司なんか、たかが盲腸で死にかけたんだぞ。なんかあっても責任 とれねーよ﹂ 雄介は、噛んでふくめるように言った。 702 ﹁俺は、二度と、ガキの面倒を見る気はない。見えない所でくたば るなら関係ねー。でもな、そばで見るのはごめんだ﹂ 深月に視線を向ける。 ﹁それともあの二人捨ててくるか。それなら連れてってやるよ﹂ 聞こえているのかいないのか、深月はぼんやりとした表情で、こ ちらを見上げていた。 やがて、はっきりと首を振った。 雄介はうなずく。 ﹁だろ﹂ 深月の涙は止まっていた。 身を起こし、呆然としている。 その姿を見るうち、ふと雄介の眼差しが弱まった。 ﹁⋮⋮彼氏んとこに帰れよ。今ならまだうやむやにできるだろ。あ いつに守ってもらえ﹂ 深月はまだ思考がまとまらないのか、のろのろとした様子で、 ﹁⋮⋮彼⋮⋮氏? ⋮⋮高崎君のこと⋮⋮ですか?﹂ ﹁名前は忘れたけど⋮⋮なんかいただろ、隣に。つきあってるって 聞いたぞ﹂ ﹁⋮⋮え⋮⋮﹂ 深月は衝撃を受けたように黙り込んだ。 言葉の意味を吟味するように視線を落としていたが、その内心を 703 示すように、表情が変わっていく。顔色が蒼白になる。 それから、呆然とつぶやいた。 ﹁⋮⋮だから⋮⋮だから私と別れたんですか? そう言われたから ⋮⋮ここに来たとき、すぐに⋮⋮? ずっとそう思って⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮? ああ﹂ ﹁⋮⋮うそ⋮⋮﹂ うつむいていた深月が、ぱっと顔を上げた。 ﹁なんで聞いてくれなかったんですかっ!? ただの幼なじみなの にっ! つきあってるなんて一言もっ!﹂ 荒い語気の深月に、困惑する雄介。 その態度に、深月は我を取り戻した。 ﹁あ⋮⋮、そ⋮⋮そうでした。⋮⋮あのときはただの同行人で、そ んなこと聞くような関係じゃ⋮⋮﹂ そのままうなだれ、 ﹁⋮⋮そう、なんで⋮⋮私はいつも⋮⋮。⋮⋮人任せで⋮⋮﹂ 両手で、赤面する顔を隠すように覆った。震える声が漏れる。 ﹁恥ずかしい⋮⋮﹂ 深月はしばらくそうしていたが、やがて覚悟を決めたように、居 住まいを正した。 頬の涙をぬぐい、スカートを直し、正座で向き直る。 704 こちらを見る深月の姿は、憑き物が落ちたように、静かな雰囲気 に戻っていた。 ﹁⋮⋮ごめんなさい。まずこの話からさせてください。スーパーで、 私たちが襲われていたとき⋮⋮、覚えてますか?﹂ ﹁⋮⋮ああ﹂ 優が殺されたときのことだ。 深月はまっすぐこちらを見つめ、 ﹁あのとき⋮⋮あんなことを言って、本当にごめんなさい。⋮⋮守 ってくれなかったなんて﹂ 言いながら、ふかぶかと頭を下げる。 ﹁今まで、ちゃんとお礼を言えていませんでした。⋮⋮あのとき私 たちを守ってくれて、ありがとうございます。おかげで、私と弟は 助かりました。⋮⋮ずっと、そう言いたかったです﹂ その、不安を抱えながらも正面からぶつかるような瞳に、雄介は 居心地悪そうに視線をそらした。 ﹁まあ、気にすんな﹂ 深月は首を振り、懺悔するように言った。 ﹁私⋮⋮たぶん、自分の責任から逃げてて⋮⋮。それが、こんなに 傷つけてるとは思わなくて⋮⋮。本当に、ごめんなさい⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮変な言いかたすんなよ。面倒なのは嫌ってだけだ﹂ 705 気持ち悪そうな雄介の言葉に、深月は泣き笑いのような表情を浮 かべた。 ﹁⋮⋮。⋮⋮でも、ちゃんとお話しできてよかった。ずいぶん遠回 りしましたけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 考えてみれば、スーパーでの優の死から、ろくに話しもせずに別 れている。 たまに顔を合わせても、お互いに距離があった。そのわだかまり の原因、消化しきれていなかった亀裂に、初めて気づいたような気 分だった。 雄介は立て膝に頬杖をつき、頭をかきながら、 ﹁⋮⋮まあ、なー⋮⋮。変な嘘もつかれたみたいだしな。もうどう でもいいけど⋮⋮﹂ 膝に、柔らかく手が置かれた。 深月が身を乗り出してくる。 顔に影がかかり、唇に柔らかいものが押しつけられた。かすかに 涙の残る瞳が、至近距離から覗きこむ。 ﹁⋮⋮これも、さっきが初めてです。本当に⋮⋮﹂ くすぐるような吐息がかかる。薄く開いた唇が、こちらの口元を かすめるようになぞっていく。 それに反応しようとして、踏みとどまった。 ﹁おい待て。それとこれとは話が別だ﹂ 706 気持ちを伝えられても、深月たちを置いていくという決心は変わ っていない。足手まといには変わりなく、それをひるがえすつもり もない。 ここでの出来事はもう自分の手を離れている。すべて終わったこ とだ。 だが、深月はつぶやくように言った。 ﹁わかってます、考えてること。⋮⋮でも、そうじゃないんです﹂ 深月は手を離し、立ち上がった。 両足でしっかりと、床を踏みしめる。 それから言った。 ﹁私たちはここで生き残ります。何を利用してでも。⋮⋮あの子た ちは私が守ります。心配しないでください﹂ ﹁⋮⋮心配なんてしてないっつか⋮⋮俺は出てくからもう関係ねー けど⋮⋮。今の状況わかってんのか? 生き残るったって、おまえ 一人でどうすんだよ﹂ ﹁どうにかします﹂ その瞳には強烈な生命力が宿っていた。 ﹁私、スーパーのあのときから、自分で動くべきだった。⋮⋮生き 残るために、周りに目を閉ざさずに。できることは、たくさんあっ たのに⋮⋮﹂ 独白するように続けた。 ﹁今ならわかります。自分の力で生きるってこと。武村さんがどん な風に世界を見ているか、なんとなくわかりました﹂ 707 ﹁⋮⋮。⋮⋮それで?﹂ 深月は媚びも何もない、柔らかな笑みを見せた。 ﹁私一人にもできることは多いんです。今回のことだって⋮⋮。そ れを自覚するだけで良かったんだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 西庁舎と中央ホール、惨劇の夜の経験が深月を変えたのか、今ま でにない瞳だった。 雄介はポケットを探り、拳銃のグリップを引き出した。 ﹁⋮⋮持ってけよ﹂ 深月は首を振った。 ﹁それは武村さんが持っていてください。私は私の方法で戦います﹂ ﹁⋮⋮。そうかい﹂ ふいに深月が声を漏らす。 ﹁あ﹂ お腹に手をやり、頬を染める。 ﹁⋮⋮垂れてきました﹂ ﹁⋮⋮﹂ 恥ずかしそうに小さく笑う。 それから切なそうに目を伏せ、 708 ﹁もっと早く気づいていれば、私も⋮⋮、⋮⋮いえ﹂ 言葉を切り、顔を上げた。 ﹁⋮⋮お別れです。お体には気をつけて。さようなら。⋮⋮⋮⋮﹂ 最後の言葉は形にはならず、やるせなげな瞳に飲み込まれて消え た。 深月は振り返らずに立ち去った。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 部屋に一人残される。 渡しそびれた銃のグリップを、雄介は無言でながめた。 ﹁どうにか⋮⋮? なるかよ⋮⋮﹂ 小さくつぶやいた。 709 56﹁包囲﹂︵前書き︶ 2016/08/15 第56話を投稿 2016/08/15 第57話を投稿 ストーリーを覚えている方は、あらすじは飛ばしてください。 ◆簡単なあらすじ ゾンビから逃れた避難民たちは、市役所に逃げこんで共同生活を 送っていた。 山の野外活動センターに移動する計画がもちあがり、船も用意さ れる。 しかし、避難民の中に潜伏していた犯罪者グループが、市役所の 主要メンバーを殺害して、西庁舎にたてこもる。市役所側の人間が 強襲して人質を取り返すが、この混乱に乗じて、知性体ゾンビが市 役所を襲う。 雄介も戦うが、知性体に噛まれて昏倒する。ゾンビの感染を恐れ て仲間から処分されそうになるが、深月がかばって孤立する。 目覚めた雄介は、全員に自分の秘密をばらす。普通のゾンビには 襲われない体質。雄介は市役所の人間とたもとを分かつが、深月は 納得できず主人公に会いに行き、自分の気持ちを伝える。 ◆登場人物 武村雄介︵主人公︶ 深月︵ヒロイン︶ 牧浦︵女医︶ 社長︵ 調達班のリーダー︶ 佐々木︵元自衛隊員︶ 工藤︵金髪ポニテ︶ 710 56﹁包囲﹂ 西庁舎の一室。 市役所の崩壊の発端となった男は、そこにいた。 大怪我を負い、手足も拘束されていたが、まだ生きていた。 会議室を襲撃し、多くの人間を殺した男。 深月たちを監禁し、無線機ごしに要求を突きつけてきたその声に、 雄介は激しい嫌悪感を覚えたが、実際に姿を見てみると、凶悪な殺 人鬼には見えなかった。ややくたびれたビジネスコートを着た、ど こにでもいそうな男だった。 男は痛みをこらえるようにうずくまっていたが、雄介が部屋に入 ると、わずかに顔を上げた。口元から胸は、吐血で赤黒く汚れてい る。表情は苦痛に歪んでいるが、瞳は暗い。何も映していないよう だった。 ﹁⋮⋮﹂ 雄介は無言で、その姿を見下ろした。 右手のショットガンを見ても、男はなんの反応も見せない。 部屋の壁には、飛び散った血がこびりついている。この男に、こ のショットガンによって射殺された人質のものだ。雄介はその女の 顔も知らないままだった。 脱出前に、男の始末をつけておこうと足を運んだ。 だが、その顔を見て、雄介は殺意が萎えていくのを感じた。 佐々木はこの男を殺さなかったようだが、顔は青白く、もうすで に死にかけている。内臓を傷つけているらしく、おびただしい吐血 の量だった。 711 ﹁⋮⋮が⋮⋮っ⋮⋮﹂ 男が激しく咳きこむ。鮮血が飛び散る。 雄介はそれを無視し、肩にかけていたバッグを下ろして、壁際に 座りこんだ。 つけっぱなしのイヤホンから流れる無線は、市役所で飛び交って いる交信を拾っている。バッグには小型ラジオもあり、そちらから は雑音混じりの音声が流れていた。男が市庁舎に設置した盗聴器の 信号だ。運営本部や会議室を盗聴し、襲撃の計画を練ったらしい。 雄介はため息をついた。ここまで悪意を持って動かれるとどうに もならない。 奥にならんだ窓ガラスは、何枚かが割られている。調達班がこの 部屋を襲撃した時のものだろう。淡い月明かりが全体に差しこんで いて、雄介はぼんやりと、それらに視線をさまよわせた。 ﹁⋮⋮逃げないのか⋮⋮﹂ 男が、絞り出すように言った。 雄介は言葉を返した。 ﹁そんなに殺したかったか﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁理解できねえな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうか?﹂ 含みのある声音だった。 西庁舎で暴れた男のことを思い出したのは、地下駐車場へ向かう 途中のことだった。深月と別れたあと、ずっとわだかまるものがあ った。そのもやもやしたものを消そうと、男を殺しに来た。 だが、男は雄介が手を下すまでもなく、目の前で死にかけている。 712 それは、鏡を通して自分の死にざまを見るような不快感だった。 この男は殺人鬼だが、この男の気が触れているというなら、自分 も気が触れているだろう。どちらも人間を物のように見ている。男 の思考や行動をなぞってみても、自分が市役所を落とすならこうす る、という行動を取っていた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 無言の雄介に、男は何も言わなかった。 無線機では、社長が懸命に統制を取ろうとしている。 守りを固めて、まだ脱出するつもりはないようだ。 雄介はため息をつき、知性体のことを考えた。 ︵あいつらが攻撃を控えているのは、仲間の消耗を嫌ったからだ︶ 最初の襲撃では、雄介が知性体を三人殺している。小手調べでそ れだけ失ったのだ。数の少ない向こうにしてみれば痛手だろう。 知性体の同胞意識は強い。噛まれて昏倒した時に見た夢の中で、 雄介も感じていた。あの群れとしての一体感。 今度は仲間に損害を出さないよう、大群で来るはずだ。 死体の撒き餌によるゾンビの誘引方法はもう覚えただろう。ある いはその死体を確保するための、最初の襲撃だったのかもしれない が。 市役所の人間が脱出するのは今をおいて無いのだが、あれだけの 死人が出たあとだ。リーダーとなった社長は、行動を起こすことに 躊躇している。 今度は酷いことになるだろう。 ︵この状況で生き残るったってな⋮⋮︶ 713 深月の、別れ際の言葉を思い出す。 どうにかして生き残ると言ったが、ここからはもう、個人の力で どうにかなる状況ではない。女子供も区別なく死ぬだろう。 しかし、深月の目は真剣だった。 ︵⋮⋮あいつがな⋮⋮︶ 最初にスーパーで出会ったころは、甘ったれたガキにしか見えな かった。 それが、いつの間にか変わっていた。 誰かを利用するのでも、何かを求めるのでもない。深月の告白は、 死を前にしたこの極限の状況で、ただ自分の気持ちを伝えようとす るものだった。それは同族嫌悪すら感じる目の前の男のそれと、対 極にあるものだ。 ︵⋮⋮⋮⋮︶ 窓から部屋に視線を戻す。 男は声もなく死んでいた。 拘束された体が、突っ伏すように崩れている。その瞳は見開かれ たままで、生前と同様、何も映してはいなかった。 雄介はショットガンを手に、億劫げに立ち上がった。 ◇ ﹁それは本当かっ!?﹂ 社長の怒声が、廊下に響く。 船着き場に向かった調達班から、対岸にゾンビの大群がいると報 告が入ったのだ。 714 脱出用の船が無事か確かめるため、調達班の半数が向かっていた のだが、そこから知らされたのは、危機的な状況だった。 ﹁すぐ戻れ! 守りを固める!﹂ ﹃そんな話の数じゃない! 屋上から見ろ! やばいぞ!﹄ 相手の声もうわずっている。 絶句した社長は、すぐに見張りの人間をやる。それから自分もテ ラスに出て、地上を見ようとした。 そこで、先客の少女を見つけた。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 手すりを握りしめ、遠くをじっとながめている。長い黒髪は風に なびき、感情を押し殺したような表情をしている。 地上の様子はあまり遠くまでは見渡せなかったが、少女の視線の 先、橋の向こうで、餌を求める虫の群れのように不規則に集まって くる人影を見ることはできた。 その数が尋常ではないことも。 屋上からの無線で、反対側も同じような状況になっていることが わかった。 ﹁防御を⋮⋮﹂ 言いかけてとぎれる。 先の戦いで生き残っている者はみな、極度の疲労と睡眠不足で弱 っている。階段の多い二階では守りきれないだろう。 非戦闘員は四階の市議会議場に集められているから、そこまで後 退して守ることになるが、押し返せるような数ではない。籠城して 耐えられたとしても、四階には食料も水もない。なまじ人数が多い 715 分、数日とたたずに地獄絵図になるだろう。 社長は歯がみする。 ︵こうなることを知ってたのか?︶ 雄介の、醒めたような表情を思い出す。 手詰まりになりかけている状況、それへの焦りに、思考が麻痺し たようになる。 しかし、横にいる少女の、思いつめたような表情に、すぐに我に 返った。今指示を出せる人間は自分しかいない。女医の牧浦は、雄 介の離反からほとんど抜け殻のようになっている。 ﹁西階段を地下まで確保しろ! 全員を誘導する!﹂ 屋内に戻り、無線で警備の配置を換えて、残っていたわずかな人 手を使う。 全員を守る方法はもうない。 あとは、どれだけの人間が生きのびられるかだった。 ◇ 地下駐車場にあるトラックに分乗しての、市役所からの脱出。 船着き場のメンバーに伝えられたのは、その計画だった。 調達班が運搬に使っていたトラックを数台。それに避難民を詰め こみ、船着き場まで向かう。停泊しているプレジャーボートと、そ れに牽引される台船に乗り移り、川に逃れる。台船は土砂運搬用の ものだから、安全性を度外視すれば、一気に全員を乗せることがで きる。 ただ、トラックはバン型の貨物用で、それに人間を詰めこむのだ から、移動するだけで怪我人が出る。船着き場での混乱も予想でき 716 た。 一階のゾンビはまだ完全に掃討されておらず、地下の安全も確保 されていない。調達班の半分は船着き場にいて、戦力も少ない。 それでも、他に方法がないだろうことはわかった。 船着き場から見えるのは、対岸をすこしずつ市役所に近づいてく る、ゾンビの大集団だ。船の離岸準備はしているが、どうしても浮 き足立つ。 船着き場の周りに車両を置いて、すこしでも盾になるようにして いるが、大群が現れたらひとたまりもない。 双眼鏡をのぞいていた佐々木が、息をのんだ。 無言で渡された双眼鏡を工藤は受け取り、佐々木が指さす方向を ながめる。 対岸とを結ぶ橋の、欄干の下に、死体がいくつもぶら下がってい た。 獲物の血抜きをするように、逆さまになった人間が首をかき斬ら れている。垂れ流しになった血は川下に流れていた。 どす黒いものが工藤の胸中を襲った。 こちらへの悪意が形を取ったような光景だった。 ﹁まずい﹂ 佐々木のつぶやきに我に返る。 視線を上げると、すでにゾンビが橋を渡り始めていた。このまま 道路にあふれると、トラックでも突破できなくなる。密集したとこ ろに乗り上げれば、横転して大惨事になるだろう。 佐々木が無線機に急ぐように怒鳴っているが、避難民の動きはに ぶい。 最初の襲撃を生きのび、不安の中でやっと体を休めていたところ だ。夜が明けるまであと数時間、人間がもっとも緩慢になる時間帯 だった。 717 ◇ ﹁急げ急げ! 走れ!﹂ 怒鳴り声の中を、避難民がトラックに乗りこむ。 暗闇の駐車場、おぼろげに光るテールライトの前を、人間たちの 影が横切っていく。 社長の移動計画はすぐに伝えられたが、一部の人間が移動を拒み、 議場に残ろうとしたことで、大幅に時間を削られた。社長は説得を 諦め、罵声を浴びせて力づくで動かした。恨みは買っただろうが、 その決死の迫力に対抗できる人間はいなかった。 全員が地下に集まったところで、階段を守っていた人間も呼び戻 した。 社長は助手席に乗りこみ、無線機に怒鳴りつける。 ﹁出るぞ!﹂ ﹃待て! もう役所の前まで来てる! 数が多すぎる! 突破は無 理だ!﹄ ﹁な⋮⋮﹂ ﹃囮を出して引きつけろ! 途中で止まった車は捨てろ!﹄ その極限の言葉に、一瞬、社長の脳裏を走馬灯のように、さまざ まな思いが流れた。 運転席に座っていた仲間と目があう。 長い付き合いの部下だが、引き留めるようにこちらを見ている。 すぐに決断した。 トラックを降り、調達班の使っていたワンボックスのバンに向か う。 自分が囮になるつもりだった。自分の判断の遅れがこの窮地を招 718 いたのだ。 運転席に乗りこみ、発進しようとしたそのとき、 ﹃一分だけ待ってください! サイレンで引きつけます!﹄ 無線機に飛びこんできたその声に、社長は度肝を抜かれた。この 場にそぐわない少女の声だった。 問い返す間もなく、次の瞬間、にぶいサイレンの音が聞こえてき た。 市役所の屋上にあるスピーカーからのものだ。 四階の防災課にいる誰かが、設備を操作したのだ。 そのことに社長はぞっとした。 ﹁何してる! まさかまだ上にいるのか!?﹂ 答えは返ってこない。 生き残りの点呼をする余裕もなく、目視で全員を集めたが、それ が裏目に出た。まだ人が残っていたのだ。 遠いサイレンの音だけが、壁ごしに響く。 社長は無線機に何度も呼びかけたが、返答はなかった。 しばらくして、少女の声が言った。 ﹃発車してください! 前の道路が空きました!﹄ ﹁おまえはどうする!? 早く降りてこい!﹂ ﹃あとで合流します! 行ってください!﹄ その断固とした口調に、どうやって、という言葉を飲みこむ。後 ろには、脱出させるべき大量の避難民がいる。 ﹁⋮⋮くそっ!﹂ 719 社長はアクセルを踏みこんだ。 720 57﹁脱出﹂︵前書き︶ 2016/08/15 第56話を投稿 2016/08/15 第57話を投稿 721 57﹁脱出﹂ 無人の市庁舎は静まりかえっていたが、四階の緑化テラスでは、 サイレン音が鳴り響いていた。 深月は庁舎前の道路を見下ろしながら、社長と交信していた無線 機を下ろした。 屋上のスピーカーから流れるのは、神経を逆なでする緊急避難用 のサイレンだ。大音量のそれにひかれるように、道路に散らばって いた影が市役所に集まってきている。バリケードを乗り越え、玄関 や窓に取りつこうとしている。 その動きで空いた車線に、バンが躍り出た。何体かゾンビを引っ かけるが、そのまま弾き飛ばしていく。 あとに数台のトラックが続く。橋からの流入は続いていたが、密 度の薄いところを突破に成功した。 船着き場に向かうその車列の姿を、深月は視線で見送った。 一番前のトラックには、幼い弟と、ついに名前を聞けなかった女 の子の二人が乗っている。必ず合流するからと言い聞かせ、トラッ クに乗せた。そのときの二人の顔を思い出し、深月は手すりを握り しめてうつむいた。 深月に車列を追う手段はない。 脱出できるかも賭けだった。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 自身を鼓舞するように顔を上げて、深月はきびすを返した。 一階の道路側は、もうゾンビに侵入されている。裏口に向かうた めに、無人の廊下を走った。 すこし前まで多くの避難民が生活していた市庁舎は、荒れ果て、 722 見る影もなかった。開けっ放しの扉に、打ち捨てられた私物。転が ったダンボールから配布途中の物資がこぼれ、壁に張られたままの 掲示物には血痕がこびりついている。 下の階からは、死者たちのうごめく音が聞こえた。 二階と三階には、市庁舎で続いた惨劇の、濃厚な血臭が残ってい る。ゾンビたちが上ってくるのも時間の問題だった。 深月は入り口からもっとも遠い階段を選び、踊り場に飛び降りる ようにして下っていった。危うくバランスを取りながら、ようやく 一階が見えたところで、下の廊下を黒い影が横切った。 とっさに手すりをつかんで立ち止まる。 足音の残響がわずかに残っていたが、影は反応しなかった。 引きずるような足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。 一階をうろついていたゾンビだろう。 速くなる呼吸をおさえながら、深月はすくみかけた手足に力をこ めた。一番怖いのは怪我でもなんでもなく、恐怖で動けなくなるこ とだ。そのことは西庁舎で思い知っていた。 しばらく待ってから、一階に下り、慎重に左右を見渡した。 人影はない。 エントランスの方からは、侵入したゾンビたちの物音が続いてい る。あまり時間はない。 裏口の付近は職員用のエリアのため、通路はせまく、殺風景だっ た。足音をおさえて歩きながら、ガラス張りの喫煙室と、自動販売 機のならぶ休憩スペースに出る。 そのとき視界のはしで、何かが動いた。 ︵っ!?︶ 光の消えた自動販売機の、わずかな隙間に隠れるように、女が座 りこんでいた。 ゾンビではない。怯えた形相でこちらを見ている。 723 顔に見覚えがあった。 西庁舎で立てこもった男たちの中にいた、犯罪者グループの女だ。 ︵逃げてなかったの!?︶ 西庁舎の鎮圧後、行方不明になっていたのは知っていた。市役所 の人間が探していたが、まさかまだ残っていたとは。 ︵一緒に逃げれば良かったのにっ︶ 殺されると思ったのか。自分から投降していれば、ここよりは安 全だったろうに。 サイレンは鳴り響いている。 ゾンビは近づいている。 深月は見捨てようとした。 助ければ数秒のロスになる。 ︵⋮⋮くっ!︶ 自分たちを害そうとした人間だ。自業自得だと思った。思ったが、 深月がゾンビを市庁舎に引きつけたことで、この女のわずかな生存 の時間をせばめたのは確かだった。 ﹁こっち! 早く!﹂ 深月が足を踏み出すと、女は悲鳴をあげて逆方向に走り出した。 気が触れたような仕草で、転げるように駆けていく。 ﹁違う! そっちは!﹂ 724 エントランスに向かっている。すでに大量のゾンビが入りこんで いる方角だ。 追いかけようとして、踏みとどまった。これ以上は助けられない。 振り向いて駆け出そうとして、裏口への通路の先に、人影が見え た。ボロボロの服装から、正体は一目でわかった。ゾンビだ。 通路はせまく、すり抜ける余裕もない。 奥からさらに一体が現れた。 遠回りになるが、もうひとつの出口を使うしかない。駆け出そう として固まった。先ほど階段の下でやり過ごした相手が、角からこ ちらに回りこんできていた。 後ろから女の絶叫が聞こえた。 エントランス側も戻れる状況ではない。 逃げ道を塞ぐようにゾンビたちが近づく。こちらを見つけると、 声もなく咆吼するように口を開け、突進してくる。 逃げ場所は近くのドアしかなかった。転げるように入り、音を立 てて閉める。 ガラス張りの喫煙室だ。 深月は後ずさり、周囲を見渡した。 他に出口もなく、長椅子と灰皿があるだけだ。武器になるような ものもない。銃やナイフがあったとしても同じことだ。深月の腕で は威嚇にしかならない。恐怖を覚えないゾンビが相手では役に立た ない。 扉は鍵もない内開きで、ドアノブを回せば簡単に開く。一体のゾ ンビがドアに、二体がガラスに張りつき、中に入ろうともがいてい る。傷つき白濁した目がこちらを睨んでいる。赤いペンキを塗りた くるように、血の跡がガラスを汚していく。 無線機が鳴った。手の中に握りしめたままだった。 ﹃サイレンを鳴らした奴、聞いてるか! 船着き場についた! ち ゃんと合流するんだろうな!? こっちにも近づいてる! いつま 725 でもは待てんぞ!﹄ 社長の焦ったような声。 返事を返そうとして、言うべき言葉がないことに気づいた。 こちらの合流するという言葉を信じて、ぎりぎりまで待つつもり なのだ。 深月は無線機を握りしめたまま、その場に立ちつくした。 扉はゾンビの圧力できしんでいる。開けて逃げようとしても、そ の前になだれこんでくるだろう。取るべき方法が思いつかなかった。 脱出を諦めて、船のためにそれを伝えるべきなのか。心が恐怖に支 配されそうになる。 ︵いやだっ!︶ 死にたくなかった。黒塗りの恐怖を、意志の力で塗り潰した。一 か八か、身を固めてドアから逃げようとした。 そのとき、外から爆音が響いた。 ガラスに張りついていたゾンビの一体が、衝撃に引き剥がされた。 銃声だった。 再び爆音。残っていた二体がまとめて吹き飛ばされた。ガラスに 白いヒビが入る。 通路の奥から、人影が現れた。 バッグを肩にかけたまま、ショットガンをポンプ操作し、ポケッ トから取り出したカートリッジを装填している。 そのままゆっくりとした足取りで、喫煙室のドアを開く。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 暗がりで表情は見えない。耳につけていたイヤホンを外し、深月 が何を言う間もなく、強引に手を取って歩き出した。 726 雄介だった。 廊下の物音が激しくなる。ゾンビたちが銃声に反応したのだろう。 雄介は無表情のまま、深月を引きずるように歩いた。 怒りをこらえているようにも見えた。 ﹁あっ、あのっ!﹂ 雄介はちらりと視線を下ろし、深月の握りしめていた無線機を、 むりやり取り上げた。そのまま口元に当て、固い声で発信する。 ﹁聞いてるか? 船を出せ。裏の公園の岸に寄せろ。そっちで合流 する﹂ ﹃なっ⋮⋮武村か!﹄ ﹁ライトで合図する。ちゃんと見つけろよ﹂ 交信を打ち切り、深月を振り返る。 ﹁これでいいんだろ?﹂ ﹁⋮⋮は、はい⋮⋮﹂ そのまま雄介に硬く手を握られて、走る。 とっくに市庁舎を離れたと思っていた。 状況の変化に頭がついていかなかった。 ふわふわと、足元もおぼつかない。 裏口の通用路から、公園に出る。 あたりは暗く、木立の陰からいつゾンビが出てくるともわからな い。危険な状況だったが、不安を感じる余裕もなかった。 雄介は向かう場所をはっきり知っているようだった。足取りは迷 いなく、合流地点に向かっている。 やがて見えてきたのは、川沿いの遊歩道で、市役所の人間が水く 727 みに使っていた場所だ。ロープのくくりつけられたバケツが、手す りにそって置かれている。 深月はこのロープを使って、川面のボートに合流するつもりだっ た。 思わず雄介に聞いた。 ﹁な、なんでわかったんですか?﹂ 給水班で働いていた時の記憶から、とっさに思いついたものだ。 危険だが、全員が生き残るにはそれしかないと思った。深月の頭の 中にしかない計画だった。 ﹁よく水くみしてただろ﹂ ぶっきらぼうなその言葉に、一瞬、声に詰まった。 会話どころか、ほとんど顔を合わせることもなかった時期のこと だ。 それでも知っていてくれた。わかってくれた。 その思いが、深月の言葉を失わせた。 遠くから、プレジャーボートのエンジン音が近づいてくる。 雄介は右手にショットガンを構えて、周囲を警戒したまま、左手 のライトを回し、ボートに合図を送る。 こちらに気づいたのか、ボートと、それに引かれた台船が、ゆっ くりと岸壁に寄ってくる。台船は水面に浮かぶ箱といった風情で、 それに人が密集している光景はいかにも危うげに見えた。 雄介の手で、深月の腰にロープが巻かれる。一気に落ちないよう、 手すりにも巻きつけて摩擦を作っていく。 されるがままの深月を、雄介が腰から抱き上げて言った ﹁下ろすぞ。ロープちゃんと握ってろ。⋮⋮もうムチャすんなよ﹂ 728 言葉が思いつかなかった。言われるがままロープにしがみつき、 手すりを越えて下ろされる。雄介の手繰りでロープが伸ばされ、岸 がゆっくりと頭上に遠ざかる。船から照らされるライトが深月に集 中した。 ロープは不安定に揺れたが、下の台船からいくつも腕が伸び、降 りる深月を受けとめた。緩衝材の古タイヤが岸壁に当たり、暗い水 面が波打っている。恐怖を感じる状況だったが、深月はただ、頭上 の雄介を見つめることしかできなかった。 操舵席でハンドルを握る工藤も、デッキから身を乗り出す佐々木 も、台船で不安げに身を寄せ合う避難民たちも、すべてが、暗がり に立つ雄介を見つめていた。 ﹁武村! おまえも来い!﹂ 社長の怒鳴り声。 簡潔なその言葉に、雄介は苦笑したように見えた。 ﹁厄介な奴らがいるって言っただろ! あいつらに山まで追われた ら終わりだ! どうせスピードも出ないだろ﹂ プレジャーボートだけならともかく、台船を曳航している。ほと んど速度は出せなかった。 ﹁こっちで引きつけといてやるよ﹂ 雄介はショットガンを肩に、市庁舎を遠目に見る。 船に乗るすべての人間が見守る中、雄介は、ゾンビたちの巣窟と なった場所へ、あっさりときびすを返した。川べりから離れ、その 姿が見えなくなる。 729 消えた幻影を追うように、深月はしばらく呆然としていたが、我 に返り叫んだ。 ﹁⋮⋮ま、待ってます! ずっと待ってますからっ!﹂ その声は無人の岸壁の下で、川面を響き渡って消えていった。 730 57﹁脱出﹂︵後書き︶ 8月12日に、ノクスノベルス様より、書籍版の第2巻が発売され ました。 1巻ともどもよろしくお願いいたします。 731 PDF小説ネット発足にあたって http://novel18.syosetu.com/n3271bm/ ゾンビのあふれた世界で俺だけが襲われない 2016年8月15日21時06分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 732
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