ラオス紹介 - 日本AALA

国旗
国章
ラオス紹介
2016年9月ラオス訪問団用
日本AALA
2016年8月30日
《注》 本資料は、雑多な情報源からまとめています。矛盾する内容や最新でない情報、誤った情報を含んでいるかも知れません。
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詳しくお知りになりたい方は、ラオス訪問の際機会があれば、現地で関係者に質問ください。
概要
●ASEAN唯一の内陸国
●ラオ族は、中国から南下してきた
(タイ、ビルマ、カンボジアの諸民族同様)
●1975年に現在の「ラオス人民民主共和国」成立
●ASEANの中で、カンボジア、ミャンマーと共に「低開発国」に属す
●2016年は、ラオスと日本の国交樹立61周年
●2016年、ラオスはASEANの議長国
●2020年の最貧国脱出を目指す
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Ⅰ 歴史
Ⅰ-1
Ⅰ-2
Ⅰ-3
Ⅰ-4
地図と民族大移動
東南アジアの王朝史
フランス植民地時代
抗米救国闘争時代
3
ラオス地図
主要都市と川の名称
県の名称
4
民族大移動
先史時代の遺跡
ジャール平原の石壺
先史時代の遺物
メコン流域の銅鼓
石壺は、埋葬のための瓶
だったと言われている。
8世紀に始まったタイ諸族の南方大移動
中国昆明地方から始まり、
北部ベトナム、東南アジア
全域に広がった片面の楽
器。
●ミャンマーのシャン族とタイ人は親戚
●タイの精霊信仰とラオスの精霊信仰は、
共に「ピー」で同じ。
★ラーオ族のルーツは、タイ族と同じ
5
【注】ラフな図なので
その積もりでご覧ください
ラオスと周辺国の王朝史
世紀
ビルマ
南部
タイ
中央
西部
東部
ラオス
中部
北部
カンボジア
南部
6世紀
ベトナム
中部
南部
真臘王国
北部
前漢の支配
7世紀
チャンパ王国
8世紀
中国からラオ族の大量南下開始
9世紀
クメール王朝
10世紀
11世紀
李(り)朝
パガン王朝
12世紀
13世紀
スコータイ朝
ベグー朝
14世紀
ピンヤー朝
アバー朝
アユタヤ朝
ランサン王朝建国
タイの
アユタヤ朝
15世紀
王朝の暗黒時代
明の支配
鄭(チン)氏政権
16世紀
黎(レ)朝
タウングー朝
ビルマの
タウングー朝
17世紀
ランサン
王国
18世紀
コンパウン朝
チャクリー朝
ルアンパ
パーン王国
ビエンチャン王
国
シャムの支配下に入る
19世紀
阮(グエン)朝
英国植民地
仏植民地:インドシナ連邦「ラオス」
仏植民地
仏植民地
ラオス王国
ラオス人民民主共和国
カンボジア王国
クメール共和国
ベトナム社会主義共和国
20世紀
ビルマ独立
民主化後のタイ
6
独立・中立のラオスを作った7傑
●ファーグム ランサン王国の創始者(建国650年の2003年に建造)
●アヌ王 シャム支配への抵抗、アヌ王は反乱の英雄
●パビ 仏軍人、帝国主義、植民地主義
シャムからラオスをインドシナへ編入し、「ラオス」の領域がほぼ形成。
●ベッサラート ラオスナショナリズムの父。1940年代の「刷新運動」を指導。
1945年10月、ラオス人で構成された初の政府ラオ・イッサラ(自由ラオス)を樹立。
●スパーヌヴォン 赤い殿下。完全独立をめざす。
ベトナムの支援による抗仏・抗米のパテト・ラオ(ラオス国家)のシンボルに
●スワンナ・プーマ ベッサラートの弟 仏連合内の「独立」をめざす。
3次にわたる連合政府の首班をつとめた「中立」のシンボル
●カイソーン 人民革命党の指導者。抗仏、抗米闘争、「解放区」の建設を指導、
1975年ラオス人民民主共和国の成立後、国家主席に就任、
当初の「社会主義の建設」路線と、
その後の市場経済化路線(新思考路線)まで国内建設を指導。
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仏植民地支配の特徴
●仏ナショナリズムの「失地回復」運動と共和主義の思想
●18~60歳まで人頭税。
10~20日の賦役または5フランの支払い、
不動産税、アヘン売却税、家畜・荷車税など。
ラオ人官吏が俸給のかわりに10%を先取り。
王国政府と歳入を折半したが、財政は赤字で、
インドシナ連邦の一般会計から補てん(8割~5割)
●下級官吏にベトナム人を多く採用。
少数部族の反乱鎮圧に、ベトナム兵やカンボジア兵を使って分断支配。
ラオ人の官吏登用は、仏語、ベトナム語の習得必要。ラオ語は公用語でない。
小学校はわずか(1937年に93)、中学校以上は生徒の六割がベトナム人。
ハノイのインドシナ大学に在籍は2人(1937年)。
インフラや学校の建設にはラオス人の賦役がつかわれ、
プランテーションや錫鉱山は仏人の所有で、労働者はベトナム人、
生産物は華僑を通じて輸出され、利益は仏人が独占。
現地人を締め出すような支配構造がつくられた。
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フランス植民地時代
○仏の統治体制:ルアンパバーンを中心とした「上ラオス」と、
コーンを中心とした旧ビェンチャン・旧チャムバーサックの領域の「下ラオス」とに
行政区分し、サヴァナケットに理事長官を常駐させ支配を統括した。
○1899年の仏領インドシナ編入後:ラオス国内は10省に再編成
(その1省がルアンパバーン王国)、各省に弁務官が配置され行政を担当。
省・県・郡・村という地方行政階層。
★1901年、中部ラオス:ラーオ人の小首長ポアー・カ・ドゥアトが蜂起。農民150人が死亡。
★下ラオスのボロバン高原:カー族が蜂起。一時はボロバン高原全域をおおう勢い。
⇒1910年末に仏当局の弾圧により一時的に収束。
⇒カー族は、プー・ルアンを中心に抵抗を継続。⇒1939年に完全鎮圧。
★1914年、ラオス北部のムアン・シン:プラ・オン・シン小首長が仏人の弁務官を殺害。
同じころ、ラオス北部でルー族、タイ諸族、ラーオ人が一連の反乱を起こし、
1914年には仏人の警察署長を殺した。⇒仏は1917年になってやっと鎮圧。
★1919年7月~1921年3月:シエンクアーン・ルアンパバーン・ホアパンのメオ族が反乱。
○これら反乱の原因:過度の税金、仏官吏の下で直接支配したラーオ人・ベトナム人への不満。
○仏の鎮圧方針:カー族の反乱←カンボジア人狙撃兵、ルー族←ベトナム兵、
メオ族←カー族民兵やベトナム兵を向かわせる、という民族分断政策。
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第2次大戦前後のフランス統治
○仏支配継続のための情宣活動:「知的ラオス青年文化協会」を設立。新聞『ラオ・ニャイ(大ラオス)』
を発刊。ラーオ人の祖国を宣揚する愛国的な内容の記事や文化関係の記事を多く載せた。
★上記情宣・新聞活動は、仏の意図した親仏派の育成とは逆に、反仏的な若者を多く養成する結果となり、
第二次大戦終了後の仏復帰に反対するラーオ・イッサラ(自由ラオス)参加につながった。
1946年11月、仏は、1941年にタイに割譲した2省をラオス王国に返還(ワシントン条約)
1947年5月11日、 新憲法公布
1949年7月19日、 「フランス-ラオス協定」調印。仏連合内の協同国として独立。
1949年10月24日、「ラーオ・イッサラ政府」解散
1950年8月13日、ラオス国内各階層・少数民族を150人の代表を集め「ラオス人民代表者会議(第1回全国大会)」
を開き、『ネーオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)』を結成。
⇒臨時抗戦政府樹立を決定。 ⇒「ラオス革命12大政策」を発表。
「ラオス革命12大政策」:①フランス植民地主義者・反動ラオス人の打倒、②独立・統一のラオス、
③連合政府の樹立、④企業国有化、⑤公平な税制、⑥民族教育、⑦民族の平等、⑧統一戦線の結成、
⑨ベトナム・クメール両民族との団結、など。
『ネーオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)』の本拠地:サムヌーア省。
シェンクアーン省、ポーンサーリー省も解放区に。
⇒後のディエンビエンフー勝利につながった。
1953年10月、ラオス王国政府と仏が「フランス-ラオス友好連合条約」を締結。ラオス完全独立の法的保障。
1954年8月、ジュネーブ協定の「ラオス条項」:①ベトミン軍、フランス軍の撤退、②仏軍の内、教官1500名、
施設要員3500名は残留できる、③パテート・ラオ部隊は、ポーンサーリー・サムヌーア両省に
移動・集結する、④国際休戦監視委員会の設置。
王国政府の宣言:⑤いかなる軍事同盟・軍事協定にも加入しない、
⑥国内統一のための総選挙の実施。
10
日本軍時代のラオス
1940年9月:日本軍、北部仏印進駐(ラオスには進駐せず)
ラオス統治の枠組みに変化が無かった
(ベトナム人の官吏が主に統治)
1945年3月9日:日本軍が(タイ、ベトナムから)ラオスに進駐
⇒メコン河沿岸の諸都市を占領⇒ルアンパバーンを占領
「フランスに依存しようとした王家」と
「日本軍を利用して王家に対抗しようとしたペサラートを
中心とした副王家」が対立
⇒日本軍は、親日的なペサラートに首相を続けさせ、
フランス時代より実質的な行政権を与えた
(ラオス人が行政に携わる範囲が増えた)
⇒ペサラート首相は、ベトナム人官吏を追放
1945年4月8日:「ルアンパバーン王国」の形式的独立
《日本軍の仏印進駐のころ》
●ベトミンによるラオス国内の越橋の組織化が進んだ
●カイソーンは、ベトナムで中等教育を受け、
1943年、ハノイのインドシナ大学法学部に入学。
1944年12月、カイソーンは、青年の(反仏、反日)救国組織に参加。 11
米国の介入(まとめ)
●米国はジュネーブ協定の調印を拒否して、1955年から右派王国政府(ビエ
ンチャン)に直接援助を開始。1961年まで2億3000万ドル。その4分の3は王
国軍2万5千人の給料
●ホーチミンルートと「解放区」への爆撃。1964年から1973年まで209万2900
トンの爆弾投下(第2次大戦で欧州と太平洋戦線の両方で米空軍が使用した
量に匹敵)。1968年の北爆停止後は、解放区への爆撃を集中。1970年には
一日平均630派の空爆、69年末から70年初めにかけて、一日平均、3000トン
の爆弾投下。74年までに70万人の難民。
●パテト・ラオ「解放区」の特徴、住民は昼洞窟で眠り、夜、農作業して抵抗。
指導部を非エリートラオ族、王族やエリート、少数民族指導者で構成し「民族
間の平等」を実践し、少数民族をはじめて「国民」として扱った。
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抗米救国闘争(1/2)
1954年8月6日、第1次ジュネーブ協定
●米国が、第1次ジュネーブ協定の最終宣言に参加せず。
●米国は、東南アジア条約機構(SEATO)を発足させた。
⇒1955年から、米国は、ラオスへの軍事援助を開始。SEATOは、ラオスを保護区域に組み込んだ。
○1956年8月、プーマ首相は、中国・ベトナムを訪問。
「ラオスが今後平和・中立政策をとるという共同声明」を発表。
☆1958年7月:国際休戦監視委員会は、無期限の休会を決定。
○1957年11月2日、王国政府とスパヌウォンの間に「ビエンチャン協定」が成立。
①北部2省の編入、②外国との軍事同盟・基地の厳禁、③パテート・ラオ軍の王国軍への統合、
④軍事資材の引き渡し、⑤新政党ラオス愛国戦線の公認
○1959年5月、北部2省で補充選挙を実施。⇒ラオスの国内統一戦線が完成。
★1960年8月9日、コーン・レーン大尉によるクーデター発生
★ノーサワン将軍は、南部サバナケートでアメリカ・タイの支援を得てプーマ政権打倒を目指した。
⇒プーマ首相は、カンボジアに亡命。
★ソ連は、コーン・レー軍とパテート・ラオ軍に空輸による緊急援助を開始。ラオス内戦に介入。
★ラオス内戦は、東西の対立構造が反映し代理戦争に。⇒1954年のジュネーブ協定が破綻。
●アメリカのラオス援助額(55年1月~60年6月):約2億3000万ドル[3/4は王国軍の給与]
⇒ラオス政府高官の私腹に。
●1961年段階での米軍駐留:約800人の軍事顧問団、約400人の民間軍事要員
○1961年5月:三派間で停戦が実現。
○1961年6月:暫定的な三派連合政府樹立で合意(チューリッヒ協定)
◇1961年5月:パテート・ラオ軍によるルアン・ナムター省の省都占領。
その後、米第7艦隊の出動、タイ軍の国境集結があったが
○1962年6月:暫定連合政府組織に関する協定に調印(ジャール平原協定)
○1962年6月23日:第二次連合政府発足。
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抗米救国闘争(2/2)
☆1962年7月23日:第2次ジュネーブ協定調印。
⇒米国は、ジュネーブ協定に従って軍事要員1066人を撤退させた。
しかし、米国はその後で、大使館・国際開発局(USAID)・広報文化局(USIS)などの職員の肩書で
軍事要員が再入国。国王軍を支援。
○1963年4月:第二次連合政府崩壊。
●1964年5月:プーマ首相は、米国に「パテート・ラオ地区の偵察飛行」を要請。
⇒米軍は、偵察を口実に、ホーチミン・ルートを爆撃。(62年から米軍は秘密裏に爆撃していた。)
●米軍は、1968年のベトナムへの北爆停止後、ラオス解放区の破壊に空軍力を集中させた。
69年末~70年には、1日平均約630波の爆撃を実施。1日平均3000トンの爆弾を投下。
⇒65年までに約43万人の難民。74年までに約70万人の難民を生み出した。
●王国軍の総兵力:7万4000人。国内16省の省都と周囲20kmほどを守備しているだけ。
●米国は、王国軍とは別に「メオ族」を中心とした特殊部隊3万人を作り上げ、
ジャール平原のローンチェン等に配置。
●米国は、63年~69年までに6億4700万ドルの援助を与え、ラオス財政は米国の丸抱えに。
●日本は、1957年に対日賠償請求権を放棄したラオスに対し、10億円の経済援助を供与。
◇愛国戦線は、(メコン川ぞい、地方都市を除き)全土に強固な解放区を建設。
ラオス人口の半分近くを擁していた。
○1974年4月:第三次連合政府樹立。
○1975年4月:ラオスの国民議会が解散。
◇1975年5・6月:ビエンチャンで、反右派・反タイ・反米デモが発生。
アメリカ国際開発局などが占拠された。⇒米国は、機関を閉鎖し、撤収。
◇メコン川ぞいの南部ラオス都市には解放軍が無血進駐。1975年6月に、解放軍のビエンチャン進駐。
愛国戦線は、全土を制圧し、各地に行政委員会と人民評議会が成立した。
◇1975年10月12日:サムヌーア省で、ラオス人民革命党主催の「独立30周年記念式典」が挙行。
◇1975年12月1・2日:ビエンチャンで、「全国人民代表大会」(264名出席)が開催。
「ラオス人民民主共和国」樹立を採択。(移行は、平和的に行われた。)
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独立への始動期
スパーヌヴォン殿下
(Souphanouvong)
1909年7月13日
~1995年1月9日
「赤い殿下」
スワンナ・プーマ殿下
(Souvanna Phouma)
1901年10月7日
~1984年1月10日)
・1945年、ラーオ・イッサラ(自由ラオス運動)を組織者の一人、
反仏運動を指揮
・1945年10月、ラーオ・イッサラ抗戦政府が樹立。通信大臣に就任。
後に、外務大臣、ラーオ・イッサラ軍総司令官となる。
・1949年、フランス連合内でラオス王国が成立。
⇒スパーヌヴォンら左派とスワンナ・プーマら右派に分裂。
・1950年8月、ネーオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)を結成。
同中央委員会議長に選出。抗戦政府の首相に就任。
・1953年10月のラオス王国完全独立後、内戦が勃発。
スパーヌヴォンは左派の指導者に。
・1957年、第1次連合政府で、計画・建設・都市開発大臣に就任。
・1959年、親米右派プイ・サナニコーン内閣により、逮捕・投獄。
⇒1960年5月、脱獄に成功。
・1972年2月にラオス人民革命党第2回党大会で、党政治局員に
選出(序列3位)。
・1974年4月5日、第3次連合政府が樹立。全国政治協議会の議長
に就任。
・1975年12月、初代ラオス人民民主共和国主席、最高人民議会
議長(国会議長。
・ルアンパバーン王国の最後の副王
・第二次世界大戦末、ラーオ・イッサラ(自由ラオス)
運動に参加
・1951年、プーマは首相となり、1954年まで務めた。
・1956年3月21日、プーマが再び首相に就任。
同年7月31日より、プーマ首相は、異母弟スパー
ヌウォンとの間で、パテート・ラーオの王国政府
への統合について、交渉を始めた。
1957年5月、プーマは辞職に追い込まれた。
・1957年7月7日、首相に就任。同年11月18日、
第一次連合政府樹立、引き続き首相を務めた。
・1962年6月23日、プーマを首相とした第2次連合
政府が樹立され、国防相と退役軍人・社会活動
相を兼務。
・1974年4月5日、協定に基づき、プーマを首相と
する臨時連合政府(第3次連合政府)が樹立。
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三派の分立史
自由ラオス運動
1945年 (ラーオ・イッサラ)
1949年
ラーオ・イッサラ
亡命政府
1958年 王国政府
王国政府
クーデター
1960年 王国政府
傀儡政府
(サバナケット)
王国連合政府
1961年
王国連合政府
左派
右派
中立派
左派
右派
右派
中立右派
中立派
右派
中立派
右派
左派
中立派
王国連合政府
中立左派
中立右派
臨時連合政権
中立派
左派
1964年
1973年
急進民族派
穏健妥協派
ラオス自由戦線
(ネオ・ラーオ
1950年
・イッサラ)
臨時抗戦政府
1955年 王国政府
王国連合政府
1957年
1963年
民族派
ペサラート
プーマ
スパァヌヴォン
ペサラート首相
スパァヌヴォン
プーマ
サソリット
スパァヌヴォン(議長)
プーミー(副首相)
カイソーン(国防相)
ヌーハック(蔵相)、他
サソリット首相
プーマ(首相)
スパァヌヴォン 他
サナニコーン首相
ソムサニット首相
コーン・レー大尉
プーマ首相
ヴン・ウム
ノサヴァン将軍
プーマ首相
ヴン・ウム
スパァヌヴォン
ポルセナー外相
(左派の離脱)
パテト・ラオへ吸収
王国軍へ復帰
(右派の崩壊)
プーマ(首相)
スパァヌヴォン(議長)
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Ⅱ 政治
Ⅱ-1
Ⅱ-2
Ⅱ-3
Ⅱ-4
独立を追求した政党
ラオス人民革命党
ラオスの政府組織
新思考という政策
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自由ラオス(ラオ・イッサラ)
●日本軍の仏印進駐(1940年9月)と仏印処理(1945年3月)により、フランスの権威が失墜。ラオス指導者
の間で独立の気運が高まった。即時独立派は「自由ラオス(ラオ・イッサラ)」を組織し、ビエンチャンに臨時
政府を樹立。シー・サワンウォン国王を戴いた。フランスの復帰と共に、自由ラオスはバンコクに脱出。
1949年7月フランスと「フランス連合の枠内でのラオス王国の独立」で協定が結ばれた。亡命政府内では、
ベトミン共闘派(スパーヌオン殿下)と、民族独自路線派(プーマ殿下)に分かれた。
●ラオス愛国戦線
ラオス自由戦線(ネーオ・ラオ・イッサラ)が、1956年1月、ラオス北部のサムヌーアで開かれ政治綱領が採
択された大会で、ラオス愛国戦線と改称した。
1954年8月第一次ジュネーブ協定を経て1957年11月19日に成立した第1次連合政府(スヴァナ・プーマ内
閣)で一旦、新政党として公認される。
パテト・ラオはラオス愛国戦線の戦闘部隊。
●スパヌヴォン(1907~1995年1月9日)
元ラオス人民民主共和国大統領。
1931年からフランスに留学。1938年に帰国し、土木技師。
1945年ラオ・イッサラ(自由ラオ運動)を率い反仏民族解放闘争を展開。
1950年には、新組織「ラオス自由戦線(ネーオ・ラオ・イッサラ)を結成し、解放闘争を継続指導した。
1957年の第1次連合政府で計画相として入閣。しかし翌1958年発足した右派単独政権(プイ・サナニコーン内閣)
の下、1959年逮捕・投獄された後、脱獄し、愛国戦線を率い、ラオス革命を導いた。王族出身であったことから「赤
い殿下」と呼ばれた。
1975年12月、ラオス人民民主共和国成立後、大統領、最高人民評議会議長、国家建設戦線議長に就任。その後
病気により第一線から退き、1991年8月には大統領職を辞任。
スヴァナ・プーマ(元ラオス王国首相)は異母兄。
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ラオス人民革命党(パテート・ラオ)の歴史
●ラオス人民革命党(パテート・ラオ)
①インドシナ共産党ラオス地方委員会の党員であったカイソーン・ポムウィハーン
らによって『ラオス人民党』結成。
1955年3月22日に結党大会を開催。
②1972年2月の第2回党大会において、党名を『ラオス人民革命党』に改称。
③1975年12月2日、ラオス人民民主共和国を建国。
④建国当初、ラオス人民革命党は急進的にラオスの社会主義化を進めたが、
その結果、経済は破綻。
⑤1986年11月に開催された第4回党大会において、
カイソーン・ポムウィハーン書記長は、社会主義の枠内での経済の自由・開放化
を認める「チンタナカーン・マイ(新思考)」を提唱し、党の指導思想とした。
⑥現在もマルクス・レーニン主義を堅持し、一党独裁制・民主集中制を敷いている。
⑦党員数:26万8431人(人口比 約3.8%)
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ラオス人民革命党(パテート・ラオ)の歴代党首
①カイソーン・ポムウィハーン
(1955年3月22日~1992年11月21日)
②カムタイ・シーパンドーン
(1992年11月24日~
2006年3月21日)
④ブンニャン・ウォーラチット
(2016年1月22日~
現職)
③チュンマリー・
サイニャソーン
(2006年3月21日~
2016年1月21日)
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ラオス人民革命党(パテート・ラオ)指導部
●党幹部(2016年1月の第10回党大会で発足した第10期指導部)
★中央委員会書記長:ブンニャン・ウォーラチット
ラオス人民革命党 (第10期) 政治局員
氏名
序列
役職(選出時)
1
プンニャン・ウォラチット
党書記局常任/国家副主席
2
トーンルン・シースリット
副首相/外務大臣
3
パニー・ヤートートゥー
国会議長
4
ブントーン・チットマニー
政府検査機構長/反汚職機構長/党・国家検査委員会長
5
パンカム・ウィパーワン
副首相/教育・スポーツ大臣
6
チャンシー・ポーシーカム
党組織委員会委員長
7
サイソムポーン・ポムヴィハーン
国会副議長
8
チャンサモーン・チャンニャラート
国防副大臣
9
カムパン・ポムマタット
党中央事務局長
10
シンラウォン・クットパイトゥーン
首都ヴィエンチャン知事
11
ソーンサイ・シーパンドーン
政府官房長官
ラオス人民革命党 (第10期) 書記局員
氏名
序列
役職(選出時)
1
プンニャン・ウォラチット
党書記局常任/国家副主席
4
ブントーン・チットマニー
政府検査機構長/反汚職機構長/党・国家検査委員会長
5
パンカム・ウィパーワン(常任)
副首相/教育・スポーツ大臣
6
チャンシー・ポーシーカム
党組織委員会委員長
9
カムパン・ポムマタット
党中央事務局長
12
セーンヌアン・サイニャラート
国防大臣
13
キケーオ・カイカムピトゥーン
党中央宣伝・訓練委員会委員長
14
ソムケーオ・シーラウォン
公安大臣
15
ウィライ・ラーカムフォーン
国防副大臣
21
ラオス政府組織
2016年4月20日選出
国家主席:ブンニャン・ヴォーラチット (H.E.Mr. Bounnhang VORACHIT)
首相:トンルン・シースリット
(H.E. Dr. Thongloun Sisoulith)
ラオス政府の内閣
役職
序列
氏名
プンニャン・ウォラチット
役職
序列
党中央の役員
政治局員
14
氏名
党中央の役員
エネルギー・鉱業大臣
カムマニー・インティラート
中央執行委員
15
工業・商業大臣
ケムマニー・ポンセーナー
中央執行委員
16
科学・技術省大臣
ボーヴィアンカム・ウォンダーラー
中央執行委員
1
首相
2
副首相兼政府検査機構長兼
反汚職機構長
ブントーン・チットマニー
政治局/書記局員
17
外務大臣
サルームサイ・コマシット
中央執行委員
3
副首相
ソーンサイ・シーパンドーン
政治局員
18
教育・スポーツ大臣
セーンドゥアン・ラーチャンタブーン
中央執行委員
4
副首相兼財務大臣
ソムディー・ドゥアンディー
中央執行委員
19
ラオス銀行総裁
ソムバーオ・パイシット
中央執行委員
5
国防大臣
チャンサモーン・チャンニャラート
政治局員
20
郵便・コミュニケーション大臣
タンサマイ・コマシット
中央執行委員
6
公安大臣
ソムケーオ・シーラウォン
中央執行委員
21
公共事業・運輸大臣
ブンチャン・シンタウォン
中央執行委員
7
内務大臣
カムマン・スーンヴィルート
中央執行委員
22
計画・投資大臣
スパン・ケーオミーサイ
中央執行委員
8
天然資源・環境大臣
ソムマート・ポンセーナー
中央執行委員
23
保健大臣
ブンコーン・シーハーウォン
なし
9
情報・文化・観光大臣
ボーセンカム・ウォンダーラー
中央執行委員
24
首相府大臣・首相府官房長官 ペット・ポムピパック
中央執行委員
10
農林大臣
リアン・ティケーオ
中央執行委員
25
首相府大臣
チャルーン・イアパオフー
中央執行委員
11
司法大臣
シーサイ・ルーデートムーンソーン
中央執行委員
26
首相府大臣
プンクート・サンコムサック
なし
12
労働・社会福祉大臣
カムペーン・サイソムペーン
中央執行委員
27
首相府大臣
アルンケーオ・キッティクン
なし
13
国家主席府大臣
カムムーン・ポンタディー
中央執行委員
28
首相府大臣
スワンペン・ブッパヌウォン
なし
22
チンタナカーン・マイ(新思考)
1975年~社会主義国家建設。農業集団化の失敗。仏教を規制するなど、
問題点多発。
1986年、ベトナム共産党第6回党大会でドイモイ(刷新)政策採択。
1986年、ラオスでも第4回党大会で『チンタナカーン・マイ(新思考)』
を唱えた。
1989年(マルタ会談で)冷戦終結。1991年ソ連崩壊。と続いた世界情勢
の変化が、ラオスの『チンタナカーン・マイ(新思考)』における
市場経済路線への転換の具体化を後押しした。
2006年、第8回党大会で、「工業化」と「近代化」の準備段階から、
具体的な実施段階に入ったとの認識を示した。
市場経済化を推進し、経済発展を最優先するとの方針。
23
1991年憲法
(1991年3月末の人民革命党第5回大会で「将来社会主義へと進むが、当面の目標は人民民主的体制の確立することにある、
とした。このため党が指導的中核となり政治・経済・社会の刷新を続けていく」ことが決まった。)
1991年8月14日、最高人民会議が憲法草案を承認。翌日、憲法公布。
●党の指導的役割は残っているものの、
立法、司法、行政の3権分立が明確に
●国会は、法律の制定、正副大統領、閣僚、最高人民法廷委員長、
検事総長の選出および任免をおこなう。
●「国会選挙法」は、国会議員の立候補資格について
ある種制限を設けている。
●憲法では、地方議会や地方首長の選出について何の規定も無い。
⇒省知事や市長は、大統領の任命、副知事、福市長、区長は首相が任命。
(地方議会、地方首長の選挙制は廃止)
2003年5月28日、1991年憲法の一部を改正
http://www.moj.go.jp/content/000010380.pdf
《注》 憲法前文「多民族からなるラオス国民は、数千年もの間、この愛する土地に住み、発展してきた。14世紀中
葉から、我々の祖先、特にファ・グム王は、人々を指導してランサン王国を建国し、その統一と繁栄をもたらした。」
は、史実と異なっているとの指摘も。それぐらい、国内の統一を強調したい、現政権の姿勢が現れている。
24
ラオス地方行政組織
◎ラオスは元々地方の自立性が高く、歴史的にも中央集権を達成してこなかった。
王朝時代は、ランサーン王国も多くのムアン(現在の県の下位の行政区分=郡)に分割されていたし、その後も北
部、中部、南部に別々の王朝があったり、仏植民地時代も、地域ごとに異なった統治を行う分割統治をしていた。
◎建国後の課題:「近代国家として」「一党支配体制国家として」地方を統合し、
中央集権体制を確立すること
①建国直後の地方管理体制:地域別管理体制
②1980年代中頃以降:セクター別管理体制(セクター長に県党執行委員をあてる)
出典:アジア経済研究所、山田紀彦「ラオス人民革命党支配の確立 ~地方管理体制の構築過程から~」
中央集権的
計画経済
実施の必要性
1970年代から
改革に着手
25
外交に生きる「中立」主義
●人口少なく、四方を大国に囲まれた内陸国が生きる道
●ジュネーブ協定と第一次連合政府、プーマ首相の中立宣言と政府協定
「軍事同盟と基地の禁止」第2次連合政府の中立宣言と議定書
建国直後:ソ連、東欧、ベトナムなど、社会主義国中心だった。
・ベトナムとは「特別な関係」
・中越関係が悪化すると、
それまで一定の関係を維持してきた中国への非難を開始。
1980年代末:ベトナムがカンボジア問題の解決に乗り出すと、
ラオスもASEANや中国との関係を改善。
●ソ連崩壊後、全方位外交への転換
1991年:カンボジア問題が解決すると、
ラオスも1992年にタイと友好協力条約を締結。
ASEANにオブザーバー参加。
1997年:ASEANに正式加盟。
●東南アジアで生きる
以後、ASEANを通じた外交に舵を切った。
2000年:夏、カムタイ国家主席が、初めて中国を公式訪問。秋、江沢民主席がラオ
スを訪問。
26
2004年:ビエンチャンで「第10回ASEAN首脳会議」を開催
ラオスの独立と平和への知恵
●フランスによる植民地化も、メコン河がラオス南部の「コーンパペンの
滝」に遮られて船の航行できず、物流が制限されたため、植民地経営が赤
字ぎみでフランスがメリットを感じなかった。
●独立後の反仏、反米闘争の時代も、バンドン会議(1955年)直後の1962
年にジュネーブ協定に関連してラオス政府が「中立宣言」を行った。
●右派、中立派、左派の政権が目まぐるしく入れ代わる中、左派は、粘り
強く中立派との連立を指向した。(第一次~第三次連立政権)
●1975年のラオス人民民主共和国成立の時も、武力による政権奪取ではな
く、中立派を取り込んだ平和的な政権移行を行った。
●旧共産圏を中心とした世界情勢の変化に対しても、リアルに事態を見つ
め、プラグマティックに対応した。
27
第9回党大会が定めた目標
スローガン:4つの突破
① 思考面の突破
② 人材開発面の突破
③ 行政・管理面の突破
④ 人民の貧困問題を解決することにおける突破
2015年までの目標
政治
・政治的安定を確固たるものにする
・国民の一枚岩的団結と民族間の融和・団結を堅固にする
・社会は平静で秩序を基本的に維持する
経済
・年鑑GDP成長率は8%以上、一人当たりGDPは1700ドルに到達する
・経済開発や環境保全と社会、文化面の開発とのバランスをとり、持続的な開発に転換する
・工業化と近代化に転換する戦略を実施する
貧困削減
・2015年には貧困世帯率は全世帯の10%を越えない
・初等義務教育体制を完全に実現し、多くの市民が前期中等教育を修了する
・平均寿命は68.3歳となる
・国連ミレニアム開発目標(MDGs)を達成する
・国民の文化が素晴らしい価値を保ち、より豊かになるように振興する
外交
・国際的に多くの友人を持ち、地域や国際統合プロセスに主体的に参加する
・地域や世界における平和、友好、開発強力事業に積極的に貢献する
28
第10回党大会の報告から
◇9回大会~10回大会の間に起きた、いくつかの事件や問題:
①カムプーイ事件:複数政党制導入要求
②2014年の飛行機墜落事故:指導幹部4人の死亡
③プーペット政府官房大臣の拘束
④サイソムブーン地域での襲撃・銃撃事件
⑤ソーシャルメディアの普及:新たな政治言説空間の誕生
◆5カ年の問題点
・思想面の緩みが、党・国家幹部の汚職や不正の拡大をもたらした
・経済面では、天然資源への依存、付加価値生産性の低さ、持続的かつ環境にやさしくない開発、
公共投資管理における厳格性の欠如、国家予算の漏洩、不十分な財務規律、不明瞭で長期の
債務、汚職の蔓延、等
◆刷新路線執行のための「6つの原則」(2015年版):
①社会主義の目的を堅持する
②マルクス・レーニン主義の創造的適用と我が国の特徴への適合を堅持する
③党指導を堅持し、民主集中原則と党路線に基づき党内の統一的団結を向上する
④民主主義と諸民族人民の主人権を促進し、全人民の団結力と統一ラオス民族の一体性を構築する
⑤人民民主主義権力制度の権威を向上し、人民の力に依拠し、人民のために、すべての形態の官僚
主義に反対する
⑥時勢と結びつき、主体的独立心を向上する
29
第10回党大会までの成果
●(前党大会から5年間で)順調な経済発展を遂げた
○経済成長率 7.9%を達成。GDP/人も1700ドルの目標を上回り1970ドルに。
○投資は目標(127兆キープ)を大きく越え236兆キープに
・外国からの直接投資は、2014年は2011年の2倍=約7億ドルにのぼった
・電力セクター:発電所38カ所、(3倍増の)333億KWh/年
○貧困率が改善など国連のミレニアム目標をかなりクリアした
・貧困郡:53郡(2011年)⇒23郡、貧困村:3175村⇒1736村、
貧困世帯:19万8678世帯⇒7万6604世帯(全世帯の6.59%)
項目
GDP平均成長率
GDP/人
インフレ率
対US$為替レート
対バーツ為替レート
輸出の成長率
輸入の成長率
歳入(GDP比)
歳出(GDP比)
外貨準備高
投資
貯蓄残高/GDP比(2014年)
新規労働力
4年平均
7.9%
1970ドル
5.0%
-0.72%
-0.67%
28%
26.3%
24.37%
28.47%
輸入の5.4カ月
236兆キープ
49%
20万7611人
MDG全体目標
15年目標
ラオス
24%
20.5%
98%
96.8%
100%
91%
乳児死亡率の削減(5歳児以下)
80
79
妊産婦の健康の改善(妊婦死亡率)
260
220
HIV/他疾病の蔓延防止(HIV/エーズ)
1%
0.28%
環境の持続可能性の確保(森林破壊率)
65%
極度の貧困と飢餓の撲滅(貧困率)
普遍的な初等教育の達成
(小学校の就学率)
性平等の推進と女性の地位向上
(小学校の女子児童率)
開発のためのGlobal Partnership推進
不発弾の影響の削減
30
今後の方針
『ビジョン2030(2016~2030年)』の目標:
①知的経済、グリーン及び持続的発展をした上位中所得国
②15年間でGDP/人を4倍の8000ドルにする
(注)キープ高が続くことを前提としおり、ASEANの中で現在この水準にあるのがシンガポール、ブルネイ、マレーシアの3カ国しかなく、
識者は実現を困難視している
③工業、社会主義的な市場経済を基盤とした磐石な経済
④平和、民主、文明、そして所得、地域格差が縮小していく社会
⑤国民の生活、人的資源の質が向上し、国民の権利が法律で保護される
⑥3つの建設に基づく行政
⑦資源の効率的な利用
⑧主体的に地域統合、国際を押し進める
「10年開発計画(2016~2025年)」の方針:
①4つの突破に基づく経済・社会開発計画の展開
②2020年までの低開発国の脱却と、グリーン・持続的な発展
③経済、文化・社会、環境が融合した開発
④法の支配による行政
⑤地域統合と国際化の促進
目標:
党を中心とする安定した政治体制
②年率7.5%以上の成長、GDP/人が2倍
③貧困率が5%以下
④適齢期の国民が中学校を修了、平均寿命73歳の達成と
必要な労働者、研究者、科学者の輩出
⑤森林被覆率70%以上
⑥多くの国と友好関係を築き、生産ネットワークにおける競争
力の確保及び、積極的に地域統合と国際化を押し進める
「第8次経済・社会開発5カ年計画
(2016~2020年)」の目標:
GDP平均成長率
GDP/人
HAI人的資源指数
EVI経済貧弱性指数
インフレ率
輸出の成長率
歳入(GDP比)
歳出(GDP比)
財政赤字(GDP比)
外貨準備高
投資(GDP比)
7.5%以上
3190ドル
66以上
32以下
6%以下
年平均15%以上
23~25%
28%以下
5% 以下
輸入の5カ月以上
223兆キープ 31
直近のラオス動向
16年07月 シングルストップ検査で通関の円滑化目指す
16年05月 閣僚人事と第8期社会経済開発5ヵ年計画を承認
16年05月 2015年の縫製品輸出、EU向けが2年続けて減少
16年04月 原産地証明書の電子申請が近く可能に
16年04月 国境近くに立地、「タイプラスワン」型の企業が多く進出
16年03月 ラオス米を中国へ輸出、高級化戦略を図る
16年02月 ビエンチャン郊外で中国ラオス鉄道の定礎式
16年02月 高まる購買力、外資スーパーが首都に進出
15年12月 自動車物品税、排気量重点の課税方式に改正
15年12月 中国からの投資はタイに次いで2位
15年12月 成長する観光業、第2の外貨収入源に
15年12月 ラオス初の通信衛星、中国で打ち上げ
15年10月 大型商業施設建設への外資参入条件を明確化
15年07月 輸出入ともタイ、中国、ベトナム3ヵ国に依存
15年07月 卸・小売り外資規制を緩和
15年04月 徴税強化目指し懸賞付き領収書を試験的に発行
15年04月 ビタパークとサワン・セノSEZの整備進む
14年12月 ラオス・ミャンマー友好橋、15年03月の完成見込み
14年12月 ラオス・タイ第5友好橋の資金協力で両国首相が協議
14年12月 動き出す中国ラオス鉄道建設計画
14年10月 ビエンチャンで中国系資本が相次いで不動産開発
14年10月 サワン・ラオバオ鉄道、2018年までに着工へ
14年09月 タイ政府、ラオス人不法就労者15万人に暫定労働許可証
14年07月 ベトナムと結ぶラライ国際国境ゲートが開通
13年12月 ラオス・タイ第4友好橋が開通
13年10月 2番目のメコン川本流ダム建設を決定、生態系への懸念も
13年06月 悪路のラオス国道9号線で補修工事が開始
12年10月 WTOへの加盟が承認
-投資・貿易環境改善がなお課題
12年09月 ビエンチャンに米国商工会議所が設立
12年08月 ベトナムなどからの銀行進出が活発化
12年08月 ビエンチャン初の工業団地が本格稼働
12年04月 雲南省からの投資が加速
11年07月 15年までの社会経済5ヵ年計画を承認
11年06月 現地通貨キープと人民元の取引始まる
11年03月 今後5年間は8%以上の成長維持が目標
11年01月 世界最小の証券取引所が売買を開始
10年09月 メコン川第3友好橋、11年101月に開通へ
10年08月 証券市場、11年01月11日に取引開始へ
09年12月 ビエンチャン日本人商工会議所を設立
09年07月 中国側高速道路の整備が急進展、
ラオス区間では未整備個所も散見
09年04月 08年度の対内直接投資は4割減
-工業・手工業が第1位に
09年03月 ラオス中部・ベトナム北部へのアクセス改善を
目指す-第3メコン国際橋の定礎式
08年11月 ビエンチャン・プノンペン間の輸送インフラ整備進む
08年08月 日・ラオス投資協定、08月3日に発効
08年06月 輸出堅調で貿易黒字に転換
07年10月 王子製紙が大規模な植林
-ベトナム経由で日本へ輸出
32
【出典】 : JETRO HP
Ⅲ 社会・文化
Ⅲ-1 民族と宗教
Ⅲ-2 教育制度
Ⅲ-3 その他
33
民族
大分類
ラオ・ルム
(低地ラオ人)
ラオ・トゥン
(山腹ラオ人)
分布
言語と細分類民族
メコン川沿いの平
野などを中心に
住み、水田で稲
作を行う。主食は
もち米。家屋は、
高床の家。仏教
徒。
ラオ、プアン、タイ・ダム(黒タ
イ)、タイ・カーオ(白タイ)、タ
イ・デーン(赤タイ)、プータ
イ、ニュアン、ルー、ニョー、
セーク、ヤイなどに言語上分
かれる。山地に住むタイ系諸
族も、ラオ・ルムに含まれてい
る。
北ラオスの南亜語族は、カム
族のほか、マル(ティン)族、
ムラブリ族、ピュオ族、ポン
族、ハット族などカム系と、ラ
メット族、カオ族などパラウ
ン・ワ系に言語から分類され
ている。南ラオスの南亜語族
は、ソー・スエイ系、ラヴェン・
ブラオ系、バナル・セダン系に
言語学上分けられている。
ラオスの地の先
住民族と考えら
れているが、後か
ら入ってきたラオ
ルムに追いやら
れて、山の中腹に
住むようになった
といわれる。
民族系統と細民族名
その他・備考
ラオ族、タイ・ルー族、黒タイ族、 ラオ族はラオスで人口
白タイ族、フーアン族、フータイ の半分以上を占め、一
番中心となっている民
族など
族。ラオルムの人たち
は、ラオスの政治・文化
の主流を担っており、彼
らの話す言葉(ラオ語)
がラオスの国語。
ラオ・トゥンは伝統的に
【インドネシア系】
カー族、タ・オイ族、ラーベ族、 焼畑移動耕作、集会所
を中心とする環状集落、
ラーベン族、ナ・フン族、ゲー
族、タ・リエン族、アラク族、カタ ロングハウス、水牛供犠
ン族、タ・リエウ族、カムー族、 を特色とするが、ラオル
ムとラオスーンの社会
フー族、ノイ族、コー族、ビット
に挟まれ、両者から政
族、カー・セン族、クイ族など
治的、経済的に搾取さ
【クメール系】
れてきた。
セダン族など
【N/A】
ムオン族、ルー族など
ラオ・スーン
(高地ラオ人)
主にラオスの中
部から北部の、山
岳部でも高地に
暮らす。山で焼畑
による稲作。精霊
信仰。家は土間。
19世紀以降から中国南部、
ヴェトナムより移住してきたシ
ナ・チベット語族のモン族
(Hmong)とヤオ族などを指
す。ラオスの中での個別の民
族集団としては、数の多い民
族である。
【中国系】
モン族、ヤオ族、マン族、ホー
族、ロロ族、ムースー族、ランテ
ン族、など
【ベトナム系】
N/A
34
ラオスの民族一覧
1
2
3
4
5
6
7
8
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
2000年8月の民族名
1995年国勢調査人口
①Lao-Tai(ラーオ・タイ)語族8
Lao
ラオ
2,403,891
Phuthai
プータイ
472,458
Tai
タイ
Thai Neua
タイ・ヌア
Lue
ルー
119,191
Nyuan
ニュアン
260,239
Yang
ヤン
4,630
Saek
セーク
2,745
②Mon-Khmer(モーン・クメール)語族32
Khmu
クム(カムー)
500,957
Katang
カターン
95,440
Makong
マコーン
92,321
Suay
スウェイ
45,498
Yru
ユル
40,519
Taoy
タオーイ
30,876
Trieng
トゥリアン
23,091
Tri
トゥリー
20,906
Phong
ポーン
21,395
Idou
イードゥ
Brao
プラオ
17,544
Katu
カトゥ
17,024
Lamet
ラメート
16,740
Prai
プライ
23,193
Arak
アラク
16,594
Pako
パコ
13,224
Oy
オイ
14,947
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
1
2
1
2
3
4
5
6
7
2000年8月の民族名
1995年国勢調査人口
Krieng
クリアン
12,189
Cheng
チェン
6,511
Nyahuen
ニャフーン
5,152
Yae
イェ
8,013
Samtao
サームターオ
2,213
Singmun
シンムン
5,834
Tum
トゥム
2,510
Mon
モーン
217
Bit
ピット
1,509
Nguan
グアン
1,344
Sadang
サダーン
786
Lavi
ラヴィー
538
Khmer
クメール
3,902
Kri
クリー
739
Then
テン
③Hmong-Mien(モン・ミエン)語族2 (モン・ヤオ語族)
Hmong
モン(フモン)
315,465
Iu-Mien
イウ・ミエン
22,665
④Tibet-Burmese(チベット・ビルマ)語族7
Akha
アカ
67,747
Singsili
シンシリ
35,635
Lahu
ラフー
14,988
Sila
シーラー
1,772
Lolo
ロロ
1,407
Hayi
ハーイー
1,122
Ho
ホー
8,900
出典: ラオス文化研究所編 『ラオス概説』(2003.7)
35
ラオスにおける宗教
《仏教》
1975年の革命直後、仏教儀礼は禁止されなかったが、托鉢を禁止。
僧にもマルクス・レーニン主義の学習が強要された。
僧侶の組織=サンガが解体され、党の指導下に新しい僧侶組織を再編成。
喜捨ができないことは、民衆が徳を積めないこと。不満が高まった。
1976年、米の喜捨を許可。⇒年末、全面的に托鉢を許可。
1980年ごろには、ラオス人民革命党員の一時的な出家も許されるように。
1980年代、仏教を国家の文化的アイデンティティーとして利用する方向に舵を切った。
現在は、党の幹部が仏教のお祭りには必ず参加。
国章にタートルアンがデザインされるまでに。
2000年現在:僧7,293人。20歳未満の修行僧9,093人。
寺院数:1,723寺院
《精霊信仰》
ラオ族の精霊信仰。精霊=ピー。精霊の祠=ホーピー。
森羅万象がピーととらえられている。
《少数民族の信仰》
上記以外に、国民の約半分を占める少数民族の宗教もある。
出典:『ラオスを知るための60章』など
36
ラオスの教育制度
【学校制度】: 5・4・3・4制
【幼稚園】:都市部でだけ普及 (3~5歳児の就学率 43.2%)
【義務教育期間】:6歳~10歳(1学年~5学年)
義務教育の就学状況:小学校:6歳~10歳、1学年~5学年までの5年制。
入学率は84.2%、退学率は平均8.9%(第1学年では34.1%)と高い。
義務教育段階の学費:授業料は無料であるが、
施設修繕費として負担を求められる場合がある。
【中等教育前期】
中学校(Lower Secondary):1年~4年 11歳~14歳 (就学率 87.1%)
【中等教育後期】
高等学校(Upper Secondary):1年~3年 15歳~17歳
職業学校:1年~3年 14歳~16歳 (学生数6万4671人/2014年度)
教員養成学校(小学教員養成):1年~3年 15歳~17歳
【高等教育】
国立大学:1年~4年 18歳~21歳 (学生数3万6721人/2014年度)
技術学校:1年~3年 18歳~20歳
教員養成学校(小学教員養成):1年 18歳
教員養成学校(中学教員養成):1年~3年 18歳~20歳
【最近の動向】
※建国の指導者「カイソーン・ボムヴィハーン思想」を強調
37
Ⅳ 経済
Ⅳ-1
Ⅳ-2
Ⅳ-3
Ⅳ-4
経済指標
GDPとGDP構成
財政とODA
輸出入
38
ラオスの経済指標
経済一般の姿
基礎的経済指標(2014年)
実質GDP成長率
4.13(%)
名目GDP総額
$11.7Bil.
一人当の名目GDP
1,692.65(ドル)
消費者物価上昇率
輸出額
4.13(%)
$4,685.19Mil.
対日輸出額
$105.60Mil.
輸入額
$7,948.46Mil.
対日輸入額
$151.97Mil.
外貨準備高
$875.10Mil.
対外債務残高
$12,181Mil.
対米$為替レート
2014年
8,049(キープ)
名目GDP
GDP構成比
貿易額
輸出構造
主要輸出先
輸入構造
主要輸入先
為替管理制度
本邦金融機関
本邦総合商社
84.6兆 キ ー プ (107.9億 ド ル )、 一 人 当
た り G D P 1,594ド ル
サ ー ビ ス 業 38.3% 農 林 水 産 業
24.7% 製 造 業 10.1%
輸 出 26.6億 ド ル (G D P 比 22.6% )、
輸 入 42.7億 ド ル (G D P 比 36.3% )
鉱 物 48.3% 、 電 力 21.4% 、 衣 類
7.6% 、 農 林 産 品 6.1% 、 木 製 品 5.0%
中 国 34.9% 、 タ イ 28.0% 、 ベ ト ナ ム
13.9% 、 イ ン ド 2.3% 、 日 本 1.2%
投 資 財 29.6% 、 消 費 財 23.4% 、 電 力
1.8%
タ イ 55.2% 、 中 国 25.6% 、 ベ ト ナ ム
6.6% 、 韓 国 2.2% 、 日 本 1.9%
管理フロート制
三 井 住 友 海 上 火 災 、 三 菱 住 友 UFJ銀 行
(タ イ ・ ア ユ タ ヤ 銀 行 経 由 の 支 店 )
三井物産、住友商事、丸紅、豊田通
商、双日
出典:(財)国際金融情報センター
出典:JETRO
39
ラオスのGDP額
GDP額
$70B
ラオス
$60B
ミャンマー
カンボジア
$50B
$40B
$30B
$20B
8.1
4.2
5.3
6.8
3.5
5.6
2.7
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
$10B
9.4
10.8
11.7
12.5
2013年
2014年
2015年
$0B
2012年
40
ラオスのGDP/人
一人当GDP
$2,000
1,779
1,695
ラオス
$1,750
1,594
ミャンマー
$1,500
1,414
カンボジア
1,236
$1,250
1,070
$1,000
862
891
2008年
2009年
701
$750
602
469
$500
$250
$0
2005年
2006年
2007年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年
41
ラオスGDPの構成
2012年
ラオスGDPの構成比
2012年
26%
31%
37%
6%
農業
工業
1998年
52.1%
21.7%
25.1%
0.2%
サービス
その他
輸入関税
1988年
64.4%
0%
10%
20%
30%
12.5%
40%
50%
60%
70%
22.5%
80%
4.5%
90%
100%
42
ラオスGDPの詳細構成比
1998年
ラオスGDPの詳細構成比
農産物
畜産・水産
林業
鉱業
1998年
27.2%
19.4%
5.5%
16.6%
2.7%
5.7%
10.3%
3.0% 0.2%
製造業
建設
電気・水道
輸送・倉庫・通信
卸・小売業
銀行・保険・不動産
家屋賃貸業
1988年
38.3%
8.0%
18.1%
7.6% 3.2% 4.3%
8.3%
3.7% 4.5%
公共サービス
非営利機関
ホテル・レストラン
その他
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
80%
90%
100%
輸入関税
43
ラオスへのODA
ラオスへのODA純額
$500M
496
$450M
472
$400M
419
396
$350M
414
398
409
421
364
$300M
302
全世界からのODA
$250M
日本からのODA
$200M
$150M
121
$100M
54
64
81
92
88
66
103
76
49
$50M
$0M
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2013年のラオスへのODA総額:
1位 日本79.84 2位 オーストラリア49.22 3位 ドイツ27.98 4位 韓国27.12 5位 スイス24.55(百万$)
世界からのODA総額は、2014年GDP=$11.7Bil.の4.0%に相当。FDI= =$913Mil.の51%に相当。
⇒自律的経済発展が課題
44
ラオスの輸出品目、輸出先
2014年
ラオスの輸出構成
0%
10%
20%
鉱物
電力
衣類
農林産品
木製品
その他
輸出構成
30%
40%
50%
60%
48.3%
70%
21.4%
80%
7.6%
90%
6.1%
5.0%
100%
11.6%
ラオスの輸出先
0%
10%
20%
中国
タイ
ベトナム
インド
日本
その他
輸出先
30%
40%
34.9%
50%
60%
28.0%
70%
80%
13.9%
2.3%
1.2%
90%
100%
19.7%
45
ラオスの輸入品目、輸入
2014年
ラオスの輸入構成
0%
10%
輸入構成
20%
30%
29.6%
40%
50%
23.4%
60%
70%
1.8%
80%
45.2%
90%
100%
投資財
消費財
電力
その他
ラオスの輸入先
0%
輸入先
10%
タイ
中国
ベトナム
韓国
日本
その他
20%
30%
55.2%
40%
50%
60%
70%
25.6%
80%
90%
6.6% 2.2%
1.9%
100%
8.5%
46
Ⅴ 付録
Ⅴ-1 参考文献
Ⅴ-2 版図の変遷
Ⅴ-3 歴史年表
47
参考文献
(1)地球の歩き方編集室『地球の歩き方 ラオス』(ダイヤモンド社、2015/12)
(2)藤田昭雄編『ラオス観光公式ガイド』(めこん、2013/01)
(3)太田亨『仏の里・ラオス』(東方出版、1999年5月)
(4)『南ラオス・山河紀行』(シャンティ国際ボランティア会、2000年9月)
(5)谷克二『タイ/ラオス歴史紀行 世界遺産とアジア文化の旅』(日経BP企画、2008/04)
(6)菊池陽子編著『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010/12)
(7)桃木至朗編『東南アジアを知る事典』(平凡社、2008/06)
(8)竹内正右『ラオスは戦場だった』(めこん、2004/12)
(9)綾部恒雄編『もっと知りたいラオス』(弘文堂、1996/07)
(10)新井綾香『ラオス 豊かさと「貧しさ」のあいだ』(コモンズ、2010年6月)
(11)上東輝夫『ラオスの歴史』(同文館出版、1990/09)
(12)青山利勝著『ラオス~インドシナ緩衝国家の肖像』(中公新書、1995年5月)
(13)『東南アジア現代史3 世界現代史 7』(山川出版社、1988/12)
(14)『岩波講座 東南アジア史8』(岩波書店、2002年)
(15)『岩波講座 東南アジア史9』(岩波書店、2002年)
(16)古田元夫ほか編『写真記録 東南アジア5』(ほるぷ出版、1997年)
(17)ラオス文化研究所編『ラオス概説』(めこん、2003年)
(18)ラオス人民革命党 第10回党大会の概要 (アジア経済研究所)
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Kidou/2016_laos.html
(19)ラオスの憲法 (外務省仮訳)
http://www.moj.go.jp/content/000010380.pdf
【注】 (8)は、反動の立場で書かれた文献である。(11)(12)は外務省職員の書いたもの。
48
タイトル
49
タイトル
50
ラオス概略史
世紀
年代
ラオスでの出来事
BC20C~BC10C
ラーオ族が西安の北西、重慶、長沙などに都市国家を建国
BC9C
BC843年
タタール族南進により西安北西のラーオ族が重慶へ移住
BC3C
BC215年
漢族の侵攻を受け、現在の昆明の東にムアン・ペーガイを建国
BC2C
BC110年
ムアン・ペーガイのクン・メン王と前漢の武帝の対立が始まる
BC1C
BC87年
ムアン・ペーガイが漢の支配下になる
1世紀
9年
漢よりムアン・ペーガイが独立するも50年、再び漢の支配下となる
4世紀
395年
ラーオ族の六詔と唐の対立が始まる
729年
南詔が六詔を統一し、南詔王国を建国する
8世紀ごろ
ラーオ族の大量南下が始まる
1238年
スコータイ王朝が建国される
1283年
南詔王国が滅亡する
1296年
チェンマイ王国が建国される
1353年
ランサン王国建国。首都はルアンパバン
1350年代
クメールから仏教が伝わる
1560年
都をビエンチャンに遷都
1566年
ビエンチャンのタート・ルアン寺院建立
1707年
ルアンパバン王国がランサン王国から独立、
ルアンパバン王国とビエンチャン王国に
1713年
ビエンチャン王国からチャンパサック王国が分離独立
1770年代
3王国すべてがシャムの支配下に入る
1820~40年
モン族(Hmong)のラオスへの移住が始まる
1893年
フランス・シャム条約に基づき、3王国の宗主権フランスに
1899年
インドシナ連邦「ラオス」誕生
1934年
インドシナ共産党ラオス支部誕生
1945年
日本軍によるラオス進駐/ラオス独立宣言/
日本の敗戦後、中華民国による進駐/自由ラオスの結成など
1946年
フランスによる再度の植民地化
1950年
フランス連合内ラオス王国誕生
1953年
ラオス王国独立
1954年
インドシナ休戦(ジュネーブ条約)締結
1975年
ラオス人民民主共和国成立
1986年
市場経済化政策が採択される
8世紀
13世紀
14世紀
16世紀
18世紀
19世紀
20世紀
51
フランス植民地時代
フランス植民地時代の歴史
1861年
仏人、アンリ・ムオのラオス踏査
1866年
ドゥ・ラグレとフランシス・ガルニエによるメコン川調査
1986年
仏が、シャムに仏領事のルアンプラバン駐在を認めさせる
1986年
オーギュスト・パヴィが副領事として赴任
1987年
ホー族のルアンプラバン襲撃が発生。ウン・カム王が仏の保護をパヴィに要請
1941年
仏軍が下ラオスのコーン一帯をメコン左岸を占領
1893年10月3日
シャム・仏条約に基づき、ラーンサーン三王国の宗主権をフランスが獲得する
1894年
仏、ルアンプラバンに弁務官を常駐さす
1899年
獲得した地域をインドシナ連邦に編入する。以降ラオスと呼称
1901年
中部ラオスで、ラーオ人小首長ポアー・カ・ドゥアトの蜂起発生
1905年
フランスによるルアンパバーン王国再編
1907年
フランス領ラオスとシャム間の国境線改定
1918~22年
モン族独立国家を目指したパーチャイの反乱
1923年
ヴィエンチャンに「住民諮問会議」を創設 (最終決定権は理事長官が掌握)
1934年
インドシナ共産党ラオス支部が結成される
1941年
東京条約に基づき、チャンパーサック、サイニャブリ両州をシャムに返還
1941年6月
仏当局「ラオス住民諮問会議混合委員会」を発足さす
1941年8月29日
仏とルアンプラバン王国が「保護条約」を再締結
仏、ヴィエンチャンに「知的ラオス青年文化協会」を設立
仏、ラオスにおける最初の新聞『ラーオ・ニャイ(大ラオス)』を発刊
1945年3月9日
日本軍によるラオス進駐が開始される
1945年4月8日
シー・サワンウォンによるラオス独立宣言
1945年8月15日
日本の第二次世界大戦降伏
1945年8月15日
中華民国政府による日本の武装解除を求めたラオス進駐が開始される
1945年
ペラサート首相が、各地に「ラーオ・イッサラ」委員会を発足さす
1945年9月15日
フランスの支配に反対した「ラーオ・イッサラ(自由ラオス)」結成
1946年4月23日
シーサヴァーン・ヴォン国王復位 (ラーオ・イッサラ政府承認を条件に)
1946年4月24日
フランス軍がヴィエンチャンを占領
1946年4月25日
「ラーオ・イッサラ政府」タイに亡命
1946年5月13日
フランス軍がルアンパバーンを占領
1946年8月26日
フランス・ラオス間でラオスの統一暫定地位協定が結ばれる
1946年9月23日
フランス、ラオス全土を掌握
1947年5月11日
ラオス王国憲法制定
1947年8月
ラオス国民議会選挙。スヴァンナラート政府成立 (ラオス初の政府)
1948年2月20日
ラオス、フランス連合に加入
1948年12月
タイ亡命のラーオ・イッサラの多くが王国政府に帰順
1949年1月20日
抗仏共闘団体「パテート・ラーオ」が結成
1950年8月13日
「ラオス人民代表者会議(第1回全国大会)」を開催
1950年8月
「ネーオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)」を結成
1953年10月
「仏-ラオス友好連合条約」を締結し、ラオスが独立。英、米が独立を承認
52
ラオス王国(抗米救国)時代
年月
ラオス王国時代の歴史
1949年7月19日
フランス連合の枠内においてラオス王国誕生
1950年10月24日
ラオ・イサラ暫定政府が解散し、新政府樹立
1951年3月11日
パテート・ラオら抗仏団体による「抗仏連合戦線組織」結成
1953年10月22日
ラオス王国としてフランスより正式独立
1954年7月21日
インドシナ休戦(ジュネーヴ協定)に調印
1955年12月19日
ラオス王国、国連に加盟
1955年12月25日
ラオス初となる統一選挙が実施(ラオス愛国戦線は参加せず)
1956年1月16日
ネオ・ラーオ・イッサラが第2回大会で、ラオス愛国戦線(NLHS)と改称
1957年11月12日
王国政府とラオス愛国戦線がヴィエンチャン協定締結
1957年11月19日
第1次プーマ連合政府発足
1958年5月22日
プーマ首相、ICC国際監視管理委員会の解散を要請(⇒7月解散、8月引揚げ)
1958年8月15日
プイ・サナニコーン内閣発足
1960年8月9日
コン・レー大尉によるクーデター発生
1960年9月2日
プーマ内閣発足
1960年10月7日
ソビエト連邦と国交樹立
1960年12月2日
ブン・ウム内閣発足
1961年2月
ラオス愛国戦線がシエンクワーンなどの諸都市を占領。内戦激化
1961年5月16日
ラオス和平に関するジュネーヴ国際会議が開会
1962年6月12日
トロイカ方式による第2次連合政府発足
1962年7月23日
ラオス和平に関しての協定調印とラオス中立宣言が採択
1962年9月29日
北ベトナム、中国と国交樹立
1963年4月19日
シーホー将軍らによるクーデター発生
1964年4月17日
ラオス愛国戦線、第2回全国大会開催。(10項目 政治綱領を採択)
1965年2月7日
アメリカによる爆撃開始。以降アメリカとラオス愛国戦線との戦闘激化
1965年7月25日
ラオス愛国戦線、ラオス問題解決の4項目提案
1965年10月1日
ラオス愛国戦線が「人民解放軍」へ名称変更
1966年8月28日
メコン川の大氾濫
1966年10月21日
タオ・マー空軍司令官によるクーデター発生
1967年8月
米軍当局、1964年以来、米軍機のラオス爆撃参加を認める
1968年1月16日
ラオス国営通信社(KPL)開設
1970年2月21日
ラオス愛国戦線、北ベトナム軍、ジャール平原を再制圧
1971年1月11日
ラオス愛国戦線、新紙幣を発行
1971年2月
南ベトナム軍がホーチミンルート切断のためラムソン719作戦を行い、致命的敗北
1971年8月9日
米国務省、在ラオス・タイ志願兵の存在を認める
1972年1月2日
ラオス総選挙実施(第7期) 愛国戦線側は不参加
1972年2月3日
ラオス人民党(ラオス人民革命党に改称) 第2回党大会開催
1972年12月
ラオス政府と愛国戦線が相互に和平協定案を提示
1973年2月21日
「ラオスにおける平和の回復および民族和解の達成に関する協定」成立
1973年2月22日
正午に 停戦が発効
1973年4月16日
プーマ首相がアメリカに爆撃再開を要請
1974年4月5日
暫定国民連合政府(第3次連合政府)発足
1974年6月3日
アメリカ軍ラオス引き揚げ
1975年 5月1日
首都で2万人規模の反右派デモ、右派閣僚五名が辞職
1975年5月21日
アメリカ国際開発局(USIDA)ビルがデモ隊に占拠される
1975年5月27日
アメリカ政府USIDA撤収に合意
1975年8月11日
ラオス人民革命党機関紙 『人民の声』 発刊
1975年12月2日
全国人民代表大会において王政の廃止と人民民主共和国の樹立が決定
53
ラオス人民民主共和国時代
年月
ラオス人民民主共和国時代の歴史
1975年8月23日
人民解放軍、ビエンチャン進駐
1975年9月
銀行、ホテル等の接収、国有化が始まる
1975年12月2日
全国人民代表大会において王政の廃止と人民民主共和国の樹立が決定
1976年
ラオス人民民主共和国、社会主義革命路線を開始
1976年4月25日
サムケー刑務所より約600人の囚人が逃走する事件が発生
1976年6月15日
ラオス通貨改正を実施(旧キープ貨から解放キープ貨に)
1976年7月
旱魃により米生産減少
1978年1月
暫定3ケ年計画の開始(第5党中央委員会決議)
1978年5月4日
農業組合計画(農業集団化)を公表
1979年7月
農業集団化計画を中止
1979年7月20日
ラオス愛国戦線に代わり、ラオス建国戦線(ラーオ・サーンサート)を設立
1979年12月20日
キープ通貨、100対1のデノミネーションを実施
1980年6月20日
ラオス国立銀行、新通貨を発行
1982年4月27日
第3回党大会開催
1983年12月1日
ラオス国営テレビ局の放送開始
1984年3月21日
ラオス婦人連盟第1回全国大会開催
1984年6月6日
ラオスとタイ間での深刻な国境紛争「3つの村事件」が勃発
1986年11月15日
第4回党大会開催。市場経済化に基づく「チンタナカーン・マイ(新思考)」を提唱
1988年5月8日
開放的な「外国投資法」採択
1990年6月4日
ラオス憲法草案を発表
1990年11月29日
最高人民会議、ラオス国籍法、労働法、保険法、契約法など7法案を可決
1991年
ASEANオブザーバーに
1991年3月27日
第4回党大会開催。市場経済移行政策を継続
1991年8月14日
(最高人民議会、憲法草案を8月13日に採択) 1991年憲法公布
1992年7月
ラオス全国の各地で旱魃が深刻に
1993年
経済改革法、環境保護法を採決
1994年4月
投資法の改正。エネルギーと鉱業分野を除いて100%外資の投資を受け入れ
1994年4月8日
メコン河の「タイ-ラオス友好橋」が開通
1997年7月23日
ASEAN正式加盟
1998年
ルアンパバーンがUNESCOにより世界遺産に指定さる
1998年
ラオスもアジア通貨危機の影響を受ける
1999年
ラオス観光年「Visit laos Yaer」
2001年3月12日
第7回党大会開催
2003年5月28日
1991年憲法の一部を改正
2004年11月29日
第10回ASEANサミット議長国
2006年4月
第8回党大会開催。経済発展を優先する方針を採択
2006年12月20日
サバンナケート県で「ラオス-タイ第2友好橋」が開通
2011年4月
第9回党大会開催
2016年2月
第10回党大会開催
54
ラオスーベトナム、米国、関係史
ラオス-ベトナム関係史
年月
1962年9月7日
ラオスが北ベトナムを正式承認
1972年8月25日
ラオス愛国戦線、ハノイに代表部を設置
1976年2月5日
ラオス人民革命党・政府代表団(カイソーン首相団長)、ハノイ訪問
1976年7月18日
ラオス・ベトナム友好協力条約の調印
1977年7月15日
ベトナムの党・政府代表団ラオス訪問(友好協力条約、国境画定協定、援助協定に調印)
1978年7月22日
ベトナムのカンボジア侵攻につき、ラオスはベトナム支持を表明
1979年2月18日
ラオス政府、中国・ベトナム紛争に関する声明発表 (事態を憂慮、平和的解決を)
1979年3月6日
ラオス政府、対中国非難声明 (ラオス・中国国境地域での中国の軍事行動を非難)
1985年5月22日
チュオン・チン越国家評議会議長、ラオス訪問
1986年8月17日
ラオス・ベトナム科学技術協力協定(5カ年)の調印
1986年9月19日
ラオス・ベトナム国境画定条約批准
1988年11月23日
ラオス外務省、「ラオス駐留のベトナム兵は全て撤退」と発表
1989年7月2日
ラオス・ベトナム党・政府首脳会議 (ビエンチャン)
1991年10月12日
カイソーン国家主席、ベトナム訪問
1993年4月1日
カムタイ首相、ベトナム訪問
1993年11月1日
アイン・ベトナム国家主席、ラオス訪問
ラオス-米国関係史
年月
1954年11月27日
カターイ・ドーン・サソリット政府成立、親アメリカ政策を推進
1958年1月13日
プーマー首相、アメリカ訪問 (援助要請)
1959年9月9日
アメリカ・ラオス王国政府、経済協力協定締結
1960年10月
アメリカ、対ラオス軍事援助を停止
1960年10月17日
アメリカ、対ラオス援助を再開
1961年3月23日
J・F・ケネディ大統領、「中立で独立した」ラオスへの支持を表明
1963年4月20日
アメリカ、国家安全保障会議開催 (ラオス問題を討議)
1963年5月20日
イギリス・アメリカ、プーマー首相に共同書簡 (3派首脳会談を提唱)
1964年1月1日
ラオス経済安定計画を実施 (外国為替操作基金の設置。米、英、仏、豪)
1965年1月18日
アメリカ国務省声明 (共産側のジュネーブ協定侵犯に対し、・・・)
1967年8月
米軍当局、1964年以来、米軍機のラオス爆撃参加を認める
1969年5月
アメリカ爆撃機、ジャール平原空爆
1969年12月15日
米上院、国防省支出権限法案を可決 (米軍地上部隊のラオス導入経費に支出)
1970年3月6日
ラオス問題に関するニクソン声明発表
1971年2月8日
米軍の支援を受けた南ベトナム軍が、南部ラオスに侵攻 (ラムソン719作戦)
1971年8月9日
米国務省、在ラオス・タイ志願兵の存在を認める
1972年1月26日
ニクソン大統領の8項目提案
1973年2月9日
キッシンジャー米国大統領補佐官、ビエンチャン訪問
1975年5月28日
学生らが、ラオスのアメリカ大使館を占拠
1977年3月19日
MIA(行方不明米兵)調査団、ラオス訪問
1992年4月24日
米上院議員団、ラオス訪問
2004年
アメリカとラオスの間に、正規の貿易関係樹立
55
ラオスータイ、フランス、関係史
ラオス-タイ関係史
年月
1950年12月21日
ラオス・タイ国交樹立
1966年1月10日
タイ内務省、ラオスとの国境通過禁止令を布告
1975年11月17日
メコン川国境で、ラオス・タイ銃撃戦。タイ側、国境閉鎖
1978年3月25日
タイ・ラオス共同声明 (紛争の平和的解決)
1979年1月4日
クリアンサック・タイ首相、ラオス訪問 (友好、内政不干渉、平和・友好のメコン川に)
1979年4月1日
カイソーン首相、タイ訪問
1980年6月14日
メコン川でラオス・タイ軍事衝突 (7月3日、タイ側国境を閉鎖)
1981年2月3日
メコン川でラオス・タイ間発砲事件 (タイ側、メコン川国境を全面封鎖、3月解除)
1983年1月1日
メコン川国境で発砲事件
1984年6月6日
ラオス、タイ、国境地域3村の領有をめぐり軍事衝突
1984年10月3日
ラオス政府、国連に対しラオス・タイ国境問題につき安保理開催を要請
1984年10月15日
タイ側、紛争の3村からタイ軍撤退を発表
1985年7月31日
ラオス・タイ国境紛争の協議再開 (ビエンチャン)
1987年8月
タイ・ラオス国境沿いで新たな紛争発生
1987年12月
ラオス・タイ国境紛争の再発 (サイニャブリー県とピサヌローク県の国境地域)
1988年11月24日
チャートチャイ・タイ首相、ビエンチャン訪問
1988年12月28日
ラオス・タイ合同国境委員会議 (バンコク)
1989年11月21日
タイ、対ラオス「戦略物資」の禁輸解禁
1990年3月15日
シリントーン・タイ王女、初のラオス訪問
1991年3月11日
ラオス・タイ両軍、紛争地域村よりの引き離しに合意
1992年1月6日
カイソーン国家主席、タイ訪問
1992年2月18日
カムタイ首相、タイ訪問 (ラオス・タイ友好協力条約調印)
1993年11月9日
シリントーン・タイ王女、ラオス訪問
1994年4月8日
メコン河の「タイ-ラオス友好橋」が開通
2000年5月26日
タイのチュアン・リークパイ首相、ビエンチャン訪問
2003年11月
タイ電力公社(EGAT)、ナムトゥン第2パワーカンパニーと買電契約に調印
2008年
友好橋を越えて、ラオスとタイを結ぶ鉄道が開通
2006年12月20日
サバンナケート県で「ラオス-タイ第2友好橋」が開通
年月
ラオス-フランス関係史
1946年4月25日
フランス軍、ビエンチャン進駐。「ラーオ・イッサラ政府」タイに亡命
1946年9月23日
フランス、ラオス全土を掌握
1948年2月20日
ラオス、フランス連合に加入
1949年7月19日
フランス・ラオス協定 (フランス連合の枠内でのラオス独立) 署名
1953年10月22日
フランス・ラオス王国友好連合条約等に調印
1978年8月21日
ラオス外務省、在ラオス・フランス大使館の閉鎖を要求
1981年12月8日
ラオス、フランス連合に加入フランスとの外交関係回復に合意
56
ラオスー中国、ソ連、関係史
ラオス-中国関係史
年月
1955年8月19日
プーマー首相、中国訪問
1956年8月25日
ラオス・中国共同声明 (平和5原則)
1961年4月25日
プーマー・周恩来、共同声明 (両国外交関係の樹立)(北京)
1962年1月16日
中華人民共和国、パテート・ラオに対する軍事援助協定に署名
1962年9月7日
ラオスが中華人民共和国を正式承認 (中華民国は、ラオスと断交)
1962年11月22日
ノーサヴァン副首相、ソ連・中国・北ベトナムを訪問 (援助要請)
1963年4月16日
中国政府声明 (14ケ国国際会議開催要請)
1964年9月28日
スパーヌヴォン殿下、モスクワ・北京を訪問
1976年3月15日
ラオス党・政府代表団、訪中 (経済・技術協力協定)
1979年2月18日
ラオス政府、中国・ベトナム紛争に関する声明発表 (事態を憂慮、平和的解決を)
1979年3月6日
ラオス政府、対中国非難声明 (ラオス・中国国境地域での中国の軍事行動を非難)
1987年11月30日
中国・ラオス外交関係の全面回復
1990年12月15日
李鵬中国首相のラオス訪問 (経済協力の再開)
1991年1月20日
ヌーハック最高人民議会議長、中国訪問
1991年10月22日
カムタイ首相、中国訪問 (ラオス・中国国境協定に調印)
1992年3月13日
ラオス・中国・ミャンマー3国国境画定会議開催
1992年4月27日
カイソーン国家主席、中国訪問
1993年1月30日
銭・中国外相、ラオス訪問 (国境条約、投資促進保護協定に署名)
1993年12月3日
カムタイ首相、中国訪問
2008年
国道3号線の建設によりシンガポールから北京までをつなぐ道路が完成
ラオス-ソ連関係史
年月
1960年10月7日
プーマー政府、ソ連と国交樹立 (アメリカの対ラオス援助停止に対抗)
1960年10月27日
プーマー政府、ソ連援助の受け入れ開始
1962年11月22日
ノーサヴァン副首相、ソ連・中国・北ベトナムを訪問 (援助要請)
1963年2月11日
シーサヴァーン・ヴァッタナー国王、ジュネーブ協定署名国(ソ連など)を歴訪
1964年9月28日
スパヌボン殿下、モスクワ、北京を訪問
1966年1月15日
スパヌボン殿下、イギリス・ソ連共同議長国に書簡 (米軍のラオス介入に抗議)
1966年5月15日
シーサヴァーン・ヴァッタナー国王、プーマー首相、ソ連訪問
1976年9月4日
ラオスの党・政府代表団(カイソーン首相団長)、ソ連・東欧諸国訪問
1983年9月5日
カイソーン首相、ソ連訪問
1987年3月8日
シュワルナゼ・ソ連外相、ラオス訪問
1991年12月
ソ連崩壊。⇒ロシアからの対ラオス援助が激減。⇒ラオスの外交政策見直へ
57
ラオスーASEAN、カンボジア、関係史
ラオス-ASEAN関係史
年月
1976年8月
スパノボン国家主席、第5回非同盟諸国首脳会議(コロンボ)に出席
1991年
ASEANオブザーバーに
1997年7月23日
ASEAN正式加盟
2000年12月11日
EU・ASEAN閣僚会合が、ラオスとフランスの共同議長で開催
2004年10月7日
ラオス、ハノイにおけるASEM首脳会合に初参加
2004年11月29日
第10回ASEANサミット議長国
2005年7月
ビエンチャンでASEAN地域フォーラム(ARF)会合を開催
2016年
ASEAN議長国
年月
ラオス-カンボジア関係史
1977年12月17日
スパヌボン国家主席、プノンペン訪問
1979年1月9日
ラオス政府、カンボジア人民革命評議会を唯一合法政府として承認
1979年8月20日
ヘン・サムリン・カンボジア人民革命評議会議長、ラオス訪問
1993年7月28日
ラナリット・フンセン (カンボジア共同首相) ラオス訪問
1993年11月4日
カムタイ首相、カンボジア訪問
1995年12月6日
ノロドム・シアヌーク殿下、ビエンチャン訪問
2000年4月24日
シーサヴァート・ケーオブンパン首相、カンボジア訪問
2006年3月14日
カンボジアのノロドム・シハモニ国王、ビエンチャンを初訪問
58
ラオスー日本、関係史
ラオス-日本関係史
年月
1945年3月9日
日本軍による「仏印処理」開始
1945年8月~9月
日本軍の武装解除
1957年3月11日
ラオス、対日賠償請求権放棄
1967年9月28日
佐藤総理、ラオス訪問
1989年11月7日
カイソーン首相、訪日
2000年8月2日
パークセーのメコン川にかかる日本とラオスの友好橋開通
2002年8月
ソムサワート・ラオス副首相兼外務大臣の来日
2003年1月
ブアソーン・ラオス副首相の来日
2003年12月
日・ラオス技術協力協定
2006年5月
ブアソーン・ラオス首相の来日
2007年1月
ラオス政府の日本人短期滞在者に対する査証免除措置
2007年5月
チュンマリー・ラオス国家主席兼党書記長の来日
2007年6月
ソムサワート・ラオス常任副首相の来日
2008年1月
日・ラオス投資協定の署名
2009年11月
ブアソーン・ラオス首相の日メコン首脳会議出席
2010年3月
チュンマリー・ラオス国家主席の来日
2010年5月20日
ブアソーン・ラオス首相の来日
2011年8月
トンルン・ラオス副首相兼外務大臣夫妻の訪日
2012年2月22日
ソンプー・ラオス日本友好議員連盟会長一行来日
2012年11月4日
野田総理大臣の第9回アジア欧州会合(ASEM)首脳会合等出席
2013年3月8日
(キズナ強化プロジェクト)ラオス青少年訪日団の来日
2013年5月20日
トンルン・シースリット・ラオス副首相兼外務大臣の来日
2013年11月16日
安倍総理大臣のカンボジア・ラオス訪問
2013年11月17日
日本政府、ラオス国民に対する数次ビザの発給
2013年12月14日
日・ASEAN特別首脳会議
2014年4月23日
第1回日本・ラオス安全保障対話の開催
2014年12月19日
ラオスの不発弾除去に関する日米協力の実施
2015年1月16日
日・ラオス航空協定の署名
2015年3月4日
トンシン・ラオス人民民主共和国首相の来日
2015年7月4日
第8回日本・メコン地域諸国首脳会議
2015年11月20日
日・ラオス首脳会談
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