ふるさと散歩 №50 H28.8.16 日立市郷土博物館 《道標シリーズ37 「川尻町 訪ね歩いてみませんか?ひたちの道標》 橋場の馬力神道標」 ■ 岩城相馬街道から友部宿への分岐点に道標 近世の岩城相馬街道は川尻宿から、十王坂方面へ真っ直ぐに北上してい ました。現在、川尻と十王坂の間は日立金属豊浦工場の広大な敷地になっ ており、昔の道をたどる事はできない状態ですが、豊浦工場の南側にあた る川尻町 4 丁目 12 番地の通称「橋場」は、かつて岩城相馬街道と友部宿へ 向かう道との分岐点になっていました。現在、付近にあった石仏・石塔が集 め祀られていて、その中に馬力神の併用道標があります。 ★橋場の馬力神道標…道標のある馬力神は、蛇紋岩(町屋石) 馬力神は右奥に 製、柱状の切り石で、頂部は寄棟形に加工してあります。 高さ 78cm、幅 24cm、奥行 18cm の竿石には、 「馬力神」と正面に刻まれ、右側 面には「当村講中」 、左側面には「寛政九年/未十一月吉日」と刻まれていま す。台石は高さ 20cm、幅 43cm、奥行 37cm の直方体で、正面に「右 左 いわき/ たなくら/道」と刻まれています。 「いわき」の「き」 、 「たなくら」の「ら」 の字の一部はコンクリートに埋もれています。右側の道は岩城相馬海道である ことを示し、左側の道は棚倉街道へつながることを示しています。水戸藩にと って岩城相馬街道と棚倉街道は、ともに重要な街道です。二つの重要な街道を 結ぶ東西の街道を示す、重要な道標です。 台石に道標があります ★問題の「寛政 9 年建立の馬力神」… 寛政 9 年は 1797 年です。民俗学に関心のある者にとって「寛政九年 の馬力神」というのは「?」と感じます。なぜなら江戸時代には「馬 力神」は存在しないということが、今までの調査体験から身について いるからです。現に日立市内では、野仏の会による悉皆調査の結果、 江戸時代の「馬力神」は1基もありません。18 世紀に「馬力神」が 存在したのでしょうか? ★「馬力神」は、いつから?… 台石写真(上)と拓本(下) 県内各地で石仏石塔調査が盛んになって、常陸太田 市の金砂郷地区の郡戸で「安政三年(1856)銘の馬櫪 神」、上竹合で「文久元年(1861)銘の馬力神」が確 認報告されています(『金砂郷村の石仏』より)。近隣市 の調査がもっと進むことを願っています。橋場の「寛 政 9 年の馬力神」は、金砂郷の馬力神より半世紀以上 も古いことから、あまりにも古すぎるとして(後世に 古い年号で、馬力神として彫られた可能性がある) 、 その存在が疑問視されています。 ★漁港川尻から棚倉街道へ…本道標を左に道をとる場合、十王町友部宿を通り、 十王川沿いに西進し多賀山地を越えれば、棚倉街道に至ります。江戸時代から、塩や海産物の輸送ルー トでした。 『日立市史』によると、川尻港では鰹節、塩辛、たたき、干物、塩魚が特産物でしたので、 多くの商品が馬の背に乗せられて、運ばれたことが想像できます。海産物を背にした人馬は川尻を出て、 第一の追分であった橋場を左折し、内陸部に向かったことでしょう。 参考文献: 『ひたちの野仏』第2集(1986) お問い合わせ先 日立市郷土博物館 『日立の石仏散歩』 (1988) ℡(23)3231 Fax(23)3230 『郷土ひたち』52(2002) 歴史資料調査員 綿引 逸雄
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