パイナップルの社会史 ― ― 八重山諸島の「境界」にかんする

※ ホームページ等で公表します。
(様式1)
立教SFR-院生-報告
立教大学学術推進特別重点資金(立教SFR)
大学院学生研究
2015年度研究成果報告書
研究科名
研 究 代 表 者
(2016 年 3 月 現 在
のものを記入)
立教大学大学院
社会学
研究科
社会学
在籍研究科・専攻・学年
社会学研究科・社会学専攻・2年
氏 名
廣本
由香
印
所属・職名
指導教員
自然・人文
・社会の別
研究課題
氏 名
社会学部・教授
自然
・
関
人文
専攻
・
社会
礼子
個人・共同の別
印
個人
・
共同
名
パイナップルの社会史――八重山諸島の「境界」にかんする考察
在籍研究科・専攻・学年
社会学研究科・社会学専攻・2年
氏 名
廣本
由香
研 究 組 織
(研究代表者
・共同研究者)
※ 2016 年 3 月 現
在のものを記入
研 究 期 間
研 究 経 費
(1 円単位)
2015
年度
(支出金額)200,000円/(採択金額)200,000円
研究の概要(200~300 字で記入、図・グラフ等は使用しないこと。)
本研究は、沖縄県南西部に位置する八重山諸島で栽培されるパイナップルに焦点を当
て た「 モ ノ 研 究 」で あ る 。
「 モ ノ 研 究 」は 、特 定 の 商 品 を 選 び 、そ の 商 品 の 生 産 か ら 流 通 、
消費に至る、一連の過程を研究対象とし、考察する研究である。これまで社会学や歴史
学 、経 済 学 、地 域 研 究 な ど の 学 問 分 野 で 学 際 的 に 発 展 し て き た( 例 え ば 、鶴 見 良 行 ,1 9 8 2 ,
『 バ ナ ナ と 日 本 人 ― ― フ ィ リ ピ ン 農 園 と 食 卓 の あ い だ 』 岩 波 書 店 、 村 井 吉 敬 , 1 9 8 8 ,『 エ
ビ と 日 本 人 』 岩 波 書 店 、 宮 内 泰 介 ・ 藤 林 泰 , 2 0 1 3 『 か つ お 節 と 日 本 人 』 岩 波 書 店 な ど )。
本研究は、八重山におけるパイナップルの歴史的背景にくわえ、パイナップルの生産
から消費までの過程を社会史的に研究することで、明治期から現在に至る日本「国家」
と歴史的・地政学的に「辺境」と位置づけられた八重山「社会」の非対称な関係を浮か
び上がらせることを目的にしている。
キーワード(研究内容をよく表しているものを3項目以内で記入。)
〔パイナップル
〕 〔八重山社会
〕 〔台湾
〕
※ ホームページ等で公表します。
(様式2-1)
立教SFR-院生-報告
研究成果の概要(図・グラフ等は使用しないこと。)
1.沖縄のパイナップルの特性
日 本 や 台 湾 で パ イ ナ ッ プ ル を パ イ ン と 呼 ぶ よ う に な っ た の は 、 1935 年 台 湾 合 同 鳳 梨 株
式会社設立時に「合同鳳梨」と書いて「合同パイン」と読ませたことが始まりである。そ
れ以降、日本とその統治下にあった台湾では「パイン」という呼び名が普及した。
パ イ ン の 生 育 適 温 は 25〜 35 度 で あ り 、 15 度 以 下 に な る と 生 育 が 停 滞 し 、枯 死 す る こ と
が あ る 。さ ら に 土 壌 が 酸 性 で あ る こ と が 求 め ら れ る た め 、国 内 で は 9 9 % が 沖 縄 諸 島 で 生 産
されている。パインは、西南諸島でみられる国頭マージ、島尻マージなど赤茶色の土、つ
ま り 多 く の 農 作 物 に と っ て 不 毛 と さ れ る 土 で こ そ 育 つ 。沖 縄 の 土 地 の 5 5 % が こ の 赤 土 で あ
る。主に「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部および八重山諸島で栽培されている。アル
カ リ 性 の 強 い 本 島 南 中 部 な ど で は 栽 培 さ れ て い な い 。そ の ほ か 国 内 で は 瀬 戸 内 町 や 徳 之 島
町など奄美諸島で細々と生産されているにすぎない。
通 常 、沖 縄 で は 夏 実 は 4 月 か ら 8 月 に 収 穫 ,出 荷 さ れ る 。奄 美 諸 島 で は 、沖 縄 諸 島 よ り
気 温 が 2 ℃ ほ ど 低 い た め 秋 実 が 9 月 〜 11 月 に 収 穫 さ れ る 。そ の た め 夏 実 に 比 べ て 秋 実 は 小
ぶ り で あ る 。品 種 や 販 売 時 期 に よ っ て 販 売 価 格 に 違 い は あ る が 、沖 縄 産 に な る と ス ー パ ー
で 売 ら れ て い る フ ィ リ ピ ン 産 の 倍 以 上 の 値 を は る 。個 人 宅 配 の 場 合 は ハ ワ イ 種 2 〜 3 玉( 約
3 ㎏ ) で 3,000 円 前 後 が 相 場 で あ る .
1950〜 60 年 代 の 沖 縄 で は 、 パ イ ン は サ ト ウ キ ビ と 並 び 、 沖 縄 農 業 を 代 表 す る 作 物 だ っ
た 。 施 政 権 返 還 直 前 に は 、 石 垣 島 に 限 っ て い え ば 、 50% の 農 家 で パ イ ン が 生 産 さ れ 、 加 工
用 作 目 が 幅 広 く 農 家 経 済 を 支 え て い た 。だ が 、2005 年 に は 、主 に 生 果 用 と し て 7% の 農 家
が生産す るにす ぎな い。貿易の 自由化 に よって外 国産パ イン の輸入量 が増え たた め、沖 縄
全体で生産が減少し、パイン生産から離脱する農家が続出したからである。
2 0 1 3 年 現 在 、 石 垣 市 の パ イ ン の 生 産 量 は 生 果 1 3 6 1 t 、 加 工 11 8 t の 合 計 1 4 8 5 t 、 生 産
額 は お よ そ 3 億 円 で あ る 。 1960 年 代 の 最 盛 期 に 比 べ 生 産 量 や 耕 作 面 積 、 農 家 数 は 激 減 し
た 。生 産 状 況 を み る と 、生 食 用 の 割 合 は 92% 、加 工 用 8% で あ る 。 県 内 に 占 め る 八 重 山 の
パ イ ン 生 産 の シ ェ ア は 、 出 荷 量 で 40% と な っ て い る 。 そ の 一 方 で 、 2007 年 に 沖 縄 県 農 林
水産部は石垣市をパイン(生食用)の「拠点産地」に認定し、市もパインのブランド化を
進 め て い る 。 現 在 は 、「 パ イ ナ ッ プ ル ロ ー ド 」 と 呼 ば れ る 於 茂 登 岳 麓 の 川 原 、 開 南 、 嵩 田 、
名蔵地区を中心に生産されている。
戦前に遡ると、本格的なパイン生産は名蔵・嵩田地区で始動している。この名蔵・嵩田
地区は、戦前のマラリア被害、廃村、強制移住、大型砂糖プランテーション 進出、廃村と
い う 過 酷 な 歴 史 を 経 て 、 1930 年 代 に 台 湾 入 植 者 が パ イ ン 生 産 を 目 的 に 開 拓 し た 土 地 で あ
る。そのため、今も台湾系日本人がパインなどの果樹生産を続けている。以下で、名蔵・
嵩田地区を中心に、八重山におけるパインの社会史の概要を説明する。
2.パインの社会史
石垣島を中心に興ったパイン産業の歴史を大きく 3 期に分けて整理すると、第 1 期は、
台 湾 入 植 者 が 石 垣 島 の 中 央 部 に 位 置 す る 名 蔵 ・ 嵩 田 地 区 で パ イ ン 栽 培 を 開 始 し た 1930 年
代 か ら 1945 年 の 終 戦 ま で の 期 間 で あ る 。 第 2 期 は 、 終 戦 後 か ら 1972 年 の 沖 縄 の 施 政 権
返 還 ま で の 期 間 で 、パ イ ン 産 業 が 急 激 に 発 展 す る 時 期 あ る 。第 3 期 は 、施 政 権 返 還 後 か ら
1990 年 代 ま で の 期 間 で あ る 。 こ の 期 間 は 、 貿 易 の 自 由 化 の 影 響 で パ イ ン 缶 詰 工 場 が 次 々
と閉鎖し、パインからサトウキビに転作する農家が急増した「冬の時期」である。
(1)パ イ ン と 台 湾 入 植 者
1 9 3 0 年 代 、日 本 の 統 治 下 に あ っ た 台 湾 に は 7 5 社 の パ イ ナ ッ プ ル 会 社 が あ っ た 。し か し 、
1935 年 に 台 湾 総 督 府 指 導 の 統 制 経 済 政 策 に よ っ て 、 こ れ ら は 1 社 に 統 合 さ せ ら れ た 。 同
年、台湾 合同鳳 梨缶 詰株式会 社 が設 立さ れた。当 時は 経 済も 国家の統 制下に 置か れ、台湾
は統制経済の実験地として、パイナップル会社の統合が強力に進められた。
八 重 山 に お け る パ イ ナ ッ プ ル 生 産 の 本 格 的 な 始 ま り は 、上 記 の 缶 詰 会 社 統 合 に よ っ て 追
わ れ た 台 湾 入 植 者 が 1935 年 に 現 在 の 石 垣 島 嵩 田 地 区 に 大 同 拓 殖 株 式 会 社 を 設 立 し た こ と
まで遡る。
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(様式2-2)
立教SFR-院生-報告
研究成果の概要 つ づ き
同 社 は 戦 争 の 激 化 と と も に 1943 年 に 解 散 す る が 、 多 い 時 に は 600 人 を 越 え る 者 が 台
湾から農業者あるいは技術士として石垣島に来島した。戦前から終戦期までの台湾人の
移住に関する公的記録は残っておらず、そのため台湾移民でパイン加工工場の経営者で
あ っ た 林 発 ( リ ン パ ツ ) の 日 記 を も と に 作 成 さ れ た 『 沖 縄 パ イ ン 産 業 史 』( 1 9 8 4 ) が 唯 一
の文献史資料といえる。また、パインの発祥地と呼ばれる名蔵・嵩田地区には学術的な
調査も数多く入っているが、その大半は台湾人に関する移民研究である。なかでも最も
早く名蔵・嵩田地区の台湾系移民を対象にした学術的研究は、牛島盛光の「沖縄におけ
る 文 化 変 動 」( 1 9 7 0 ) で あ る 。 牛 島 は 、 沖 縄 本 島 の 屋 取 集 落 ( 恩 納 村 ほ か ) と 台 湾 系 移 民
の多い嵩田地区の年中行事の差異について整理した。
近年では、野入直美が台湾系移民の生活史から石垣島における台湾人と沖縄人の民族
関係の変容を検討している。本土復帰以降の台湾人の帰化への意識やその意味などを聞
き取りの事例をもとに明らかにし、台湾人社会の変容について考察している(例えば、
2000,
「 石 垣 島 の 台 湾 人 ― 生 活 史 に み る 民 族 関 係 の 変 容 ―( 一 )」
『 人 間 科 学 』5 : 1 4 1 - 1 7 0 . )。
このように台湾人の移動やアイデンティティ、土地公祭など宗教儀礼を学術的に論じ
た も の が 多 く 、パ イ ン と い う モ ノ に 焦 点 を 当 て 学 術 的 に 取 り 上 げ ら れ る こ と は な か っ た 。
(2)パ イ ン ブ ー ム
1948 年 に 、前 述 の 林 発 ら は 大 川 に 林 農 産 加 工 所 を 設 立 し た 。だ が 、 こ の 時 期 は 本 土 か
ら空き缶の輸入ができないいため、ビールの空き缶を再製して使用することで、パイン
缶 詰 の 製 造 を 開 始 し た 。パ イ ン 缶 詰 は 八 重 山 や 沖 縄 本 島 で 販 売 さ れ た 。1951 年 に 本 土 と
の貿易許可がおりたため、林農産加工所は海南商会を通じてパイン缶詰を出荷した。こ
れが本土への輸出の始まりである。この頃、大宜味村からの移民地・伊野田部落が部落
をあげてパイン栽培をはじめ、成功している。この伊野田部落の成功で、パインは儲か
るという噂が広がり、公務員や学校教員なども巻き込みながらパイン栽培が拡大した。
パイン缶詰が日本政府によって「西南諸島物資」に指定され、保護政策の対象となっ
た の を 契 機 に 、 1950 年 代 後 半 以 降 か ら 沖 縄 の パ イ ン 缶 詰 産 業 は 「 パ イ ン ブ ー ム 」 と 呼 ば
れ る 急 成 長 を 経 験 し た 。 八 重 山 全 体 の 収 穫 面 積 で い え ば 、 1955 年 に は 38ha に 過 ぎ な か
っ た が 、1 9 6 7 年 に は 1 , 6 9 3 h a に 達 し た 。八 重 山 の 移 出 総 金 額 の お よ そ 3 分 の 2 を パ イ ン
缶 詰 が 占 め た 。 1960 年 代 後 半 に は 八 重 山 に 10 の パ イ ン 缶 詰 工 場 が あ っ た 。 し か し 、 パ
イン工場のほとんどは日本資本や商社や食品会社が出資した会社だったことは留意しな
け れ ば な ら な い 。つ ま り 、 1960 年 代 に 沖 縄 の 基 幹 産 業 と 発 展 し た パ イ ン 産 業 は 、 日 本 の
法によって作られ、日本の企業によって支配されたものだった。
(3)貿 易 の 自 由 化 に よ る 危 機
1972 年 の 沖 縄 返 還 に と も な い 、こ れ ま で の「 パ イ ナ ッ プ ル 産 業 振 興 法 」か ら 本 土 の 農
業 政 策 の 一 つ で あ る 「 果 樹 農 業 振 興 特 別 措 置 法 」 の 適 用 に よ り 、「 沖 縄 県 果 樹 振 興 法 」 が
策 定 さ れ た 。 そ の 頃 か ら 安 価 な 輸 入 缶 詰 の 増 加 に お さ れ 始 め た 。 1 9 8 8 年 に 政 府 が G AT T
ウ ル グ ア イ ・ ラ ウ ン ド 交 渉 を 進 め 、1990 年 に 多 く の 農 産 物 と 同 様 に パ イ ン 缶 詰 の 輸 入 が
自由化となった。安価な輸入缶詰に対抗するため、原価価格の一層の引き下げを余儀な
くされた。その結果、パイン缶詰の生産規模は著しく縮小した。外国産との価格競争に
破 れ 、工 場 は 次 々 と 廃 業 し 、1 9 9 6 年 に は 島 内 す べ て の 工 場 が 閉 鎖 し た( 新 井・永 田 ,2 0 1 3 ,
『 復 帰 後 の 沖 縄 農 業 ― ― フ ィ ー ル ド ワ ー ク に よ る 沖 縄 農 政 論 』 農 林 統 計 協 会 )。
全 加 工 工 場 が 閉 鎖 し た 1 9 9 6 年 時 点 で 、石 垣 島 に 生 果 パ イ ン を 生 産 の 主 軸 と す る 農 家 は
ほとんどいなかった。その後、生果パインを主要作目として確立する農家が少数ながら
現れる。島内の全パイン加工工場が閉鎖されたのを機に、加工用パインの生産から生果
用 パ イ ン の 生 産 に 切 り 替 え ざ る を え な か っ た の で あ る 。こ の よ う な 国 際 政 治 や 政 策 転 換 、
グローバル化の影響を受け、石垣島の缶詰工場は生産縮小から全工場廃業まで追い込ま
れた。その後、一部の先鋭的な農家が試行錯誤の栽培過程を経て、生果用パイン生産へ
の切り替えに成功している。この先鋭的な農家のなかには、戦後の宮古からの自由移民
の子孫である農家が少なくないことが明らかになっている。
※この(様式2)に記入の成果の公表を見合わせる必要がある場合は、その理由及び差し控え期間等
を記入した調書(A4縦型横書き1枚・自由様式)を添付すること。
※ ホームページ等で公表します。
(様式3)
立教SFR-院生-報告
研究発表 (研究によって得られた研究経過・成果を発表した①~④について、該当するものを記入してください。該当するものが多い
場合は主要なものを抜粋してください。
)
①雑誌論文(著者名、論文標題、雑誌名、巻号、発行年、ページ)
②図書(著者名、出版社、書名、発行年、総ページ数)
③シンポジウム・公開講演会等の開催(会名、開催日、開催場所)
④その他(学会発表、研究報告書の印刷等)
① なし
② なし
③ なし
④ 廣 本 由 香 、 2 0 1 5 、「 パ イ ナ ッ プ ル の 社 会 史 ― ― 石 垣 市 名 蔵 ・ 嵩 田 地 区 の 農 家 の ラ イ フ ヒ
ス ト リ ー と 通 し て 」『 1 9 0 0 ㎞ の 万 華 鏡 ― ― 石 垣 島 の 民 俗 ・ 文 化 ・ 生 業 と 社 会 ― ― 』 立 教
大 学 大 学 院 社 会 学 研 究 科 2014 年 度 プ ロ ジ ェ ク ト 研 究 E「 地 域 コ ミ ュ ニ テ ィ と 環 境 」 立
教 大 学 社 会 学 研 究 科 : 53-100.