史跡の概要 ①

第1章 史跡の概要
第1章 史跡の概要
第1節 史跡佐渡金山遺跡の概要
佐渡島は日本海に浮かび、大佐渡、小佐渡の2つの山地とその中央に広
がる国仲平野よりなる島である。
佐渡は古代より国仲平野を中心に国分寺や国府が建てられ、海・山の幸
ともに豊富で人々の営みも盛んであった。佐渡の金山については『今昔物語」】
にもでてくるように、12世紀はじめには金が取られていたと思われる。し
かし、本格的に全国へ知られるようになったのは、天文11年(1542)鶴子
銀山(佐和田町)が越後寺泊の商人外山茂右衛門によって発見されてからで
ある。佐渡はその後、関ケ原の戦いをはさみ慶長5年(1600)、上杉氏の飯
地から幕府直轄領(天領)となり、本格的に開発が始まり、佐渡での収入は
初期幕府の歳入の2割を越えるものであったという。鉱山の開発とともに
幕府は相川に奉行所を置き、初代奉行には大久保石見守長安を任命し、大
久保長安は港を造り、港に突き出た大地の先端に陣屋を設け、相川金銀山
までの尾根筋に計画道路を通し、その両側に町割りも作った。また、石見
の銀山衆を相川に送り込み、他からも工業技術を導入し、積極的な開発を
行った。この結果、上相川には鉱山集落が形成され、最盛期の人口は10万
人ともいわれている。
相川金銀山の開発された頃は奉行所は山師、買石といった鉱山の事業主
を通して金銀を得ていたが、後に大半を直営化し、貨幣の鋳造まで奉行所
で行い、鋳造されたものは江戸まで運ばれるシステムが確立された。この
とき同時に以前行われていた砂金採取ではなく、坑道掘りによる鉱石採取
の方法へかわった。これにより大量生産が可能になり、相川で採鉱、選鉱、
製錬、鋳貨という一連の作業を行うことが可能になった。しかし同時に坑
道が地中にのびていくに伴い、排水の問題が深刻化し、それまで手繰水替
のみで行われていたが、排水用坑道を掘ることが慶長年間から行われた。
特に大規模なものは寛永3年∼11年にかけて掘られた水金沢の疎水(837
m)、元禄4年∼10年(1691∼1697)、14年∼15年さらに延長して掘ら
れた南沢疎水(計1,113m)、天保2年(1831)には中尾水貢(排水坑道)
が完成している。このように佐渡には日本で最新技術が投入されており、
幕府の中でも重要な位置を占めていたことが判る。
しかし、天保年間の上納高2万両という出来高を最後に産出量も減り、
最盛期の元和年間(1615∼1624)には1年間に400kg以上の金を産出して
いたものが、幕末にはその20分の1の20kgに落ち込んでいた。
明治維新後は明治政府のものとなり、外国人技師を雇い、当時の最新技
術の導入・近代化を図ったが、最新の技術ですぐに結果はでなかった。粁
余曲解を経て、明治10年に至りようやく操業が安定し、日本一の金山となっ
たのであった。明治以降は国営(工部省→農商務省→大蔵省)となった後、
明治29年、民間に払い下げられ三菱鉱業により操業が続けられていたが、
年々産出量も減り、平成元年(1889)3月末日をもって休山した。
現在、相川には近世より近代まで佐渡金山に関する遺跡が数多く残され
第1章 史跡の概要
ている。昭和33年3月には、新潟県の文化財(史跡)として、「道遊の割戸」、
「宗太夫間歩」、「南沢疎水道」、「佐渡奉行所跡」、「御料局佐渡支庁跡」、「大
久保長安逆襲塔・河村彦左衛門供養塔」、「錯楼」の7ケ所を一括して「佐
渡金山遺跡」として指定し、平成6年5月には国史跡として指定された。
図2一史跡佐渡金山遺跡位置図
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第1章 史跡の概要
第2節 鐘楼(時鐘堂)の概要
■時鐘と鐘楼の社会史一佐渡相川の「時の鐘」−
1.時報史の原風景
「相川八景」のひとつに、「弾誓寺晩鐘」がある。佐渡奉行だった田村景
とま 彪が「泊りふね うきねの苫や おおふらん 磯山寺の 鐘のひびきに」
の歌を残している。四町目の弾讐寺は山里にあって、かつ海辺に近いから
「磯山寺」と詠んだらしく、臨海鉱山都市として賑やかだった相川にも、一
ひな 見ミレーの晩鐘を想い出させるような都びた美しい風景が存在した。八景
しょうしょう
に錦を欠かせないのは、中国の満湘八景の中の「遠寺晩鐘」に準じたため
である。
日本では仏教伝来の初期から、寺と錆との結びつきができていたらしく、
鐘といえば「お寺の鐘」が人々の心と暮しに関係した。除夜の鐘もそうだし、
「夕焼小焼で日が暮れて」の童謡も、山寺の鐘である。
もっとも寺の鏡は、元来時を知らせるのが本命でなく、知らせたとして
も「明け六ツ」「昼九ツ」「暮六ツ」の1日3回くらいだったようで、本来
は宗教的な功徳をよびさますのが主目的だった。梵鐘に仏、菩薩、飛天な
どを陽刻したり、仏法や鋳鐘の功徳を韻文でたたえた銘文(経文の一部な
ども)が多いことでもわかる。梵鐘という名前も梵語の音訳だといわれて
いて、神聖とか清浄の意味があった。
相川味噌屋町の「時の鐘」(報時鐘とも善かれた)もむろん梵鐘であり、
もともと時報用の鐘が特別に造られていたわけではなく、諸国のどの時鐘
.】∴トこl も、梵鐘を転用したものであった。相川のこの鐘に、そうした仏くさい銘
文や仏像が刻まれてないのは、あらかじめ鋳物師たちにその用途が説明さ
れていたし、製作の時期も比較的新しいためだったかも知れない。が、後
りゆうIlt′ノきぎ 述のように龍頭や乳、撞座を荘厳した八乗の蓮華文様など、梵鐘の基本で
ある所定の形式は、もちろん守られている。
鉱山町として生まれた相川は、生産都市であって、かつ大きな消費都市
であり、城下町に近い形の発展をとげていて、1700年代初頭には、早くも
時刻を測る時計(機械時計)が持ち込まれている。地理的には隔絶された離
島だが、政治・経済的には、文明の先進地でもあり、とりわけ鉱山は世界
の先端技術が集まった所でもあった。時計に次いで高名な荻原重秀によっ
て時報用の太鼓が江戸から運びこまれ、正徳2年(1712)には、いま述べ
た味噌屋町の高台から、初めて時の鐘が打ち鳴らされた。時計から太鼓へ、
そして時の鐘へと続いた時報の順序は、日本の時報の歴史が辿ってきた道
であり、そうした意味では日本時報史の原風景を、相川で見ることができる。
江戸時代に広く行なわれていた、不定時法による鐘の撞き方は、のちほ
とき どもふれるが、1日を12時で割ったもので、現在の2時間ごとに鐘が撞か
れていた。「夜明け」と「日暮」を昼間・夜間の分界点とする制度でもあり、
まず夜半を「夜の九ツ」とし、順次に、九、八、七、六、五、四と、逆進
する数次呼称で各時点を呼んでいた。「夜明け」はちょうど六になるから、
これを「明け六ツ」と称し、四の次は三ではなく、再び九にもどり、次い
で八、七、六、五と進める。「九ツ」は昼間にあたるので、夜の九ツと区別
するために「昼の九ツ」とした。打ち鳴らす太鼓や錨の数によって、時刻
3
第1貴 史跡の概要
を区別する必要から生まれた呼称であろうと思われる。
上しあさら
ところで奉行川路聖講の佐渡在勤日記『島根のすさみ』に、大変珍しい
記述がある。
ヽ 佐州は金づまると申すことを忌みて、時のかねなども、未をつめては
打たぬ也
と書いてある。時の錆は、捨鐘といって前に三つほど余計に打ってから、
すてが山 時刻の数を打ち始めるのが諸国の通例である。この島ではその「捨錆」は
すてかね 「捨金」に通じると忌み嫌って打つことをしない。他国から来た人は、その
ために往々戸惑った、というのである。
II
かく世智がしこく、利のみ走るくに故、奉行交代の時参り、こみ合の
ついで 序をみて奉行のものを盗みゆくなど、いかにも恐るべき国也
と、手きびしい。
捨鐘3打のあとに、時の数を撞く場合、どこまでが捨鏡で、どこからが
時刻の鏡なのか、途中から聞いた者にはわかりにくい。そこで佐渡ではこ
の煩雑を避けるために、捨掩は省略した、と解されなくもないから、川路
のこの記述には、意外に思えた人も多かったと思われる。
ところが江戸では、3打の捨鐘の内、1打目は長くし、2打、3打目は
続ける。次に間をあけてから時刻の数を撞き、1打毎に速くしていった、
という話を、最近浦井祥子氏が『江戸の時刻と時の鐘』(岩田書院刊)の中
で報告している。このように撞き方に変化をつければ、途中から聞いても
おおよそ見当がつくのであって、この捨鐘は、いまでも使われているよう
な時報の「ピッ・ピッ・ピッ・ボーン」という、最初の3音に当たると思
えばよかろう、と浦井氏は書いておられる。こうした工夫した撞き方の実
用性を、佐渡の人たちが知っていて、なお故意に省略したとすれば、川路
の批評が適格だったと思えなくもない。加えて捨鐘で三つ打つ意味は、3
種の煩悩を捨てるためのものという、仏教的押由からもきていたらしい。
ぷ こうなると島の人たちには、ますます歩が悪い。
表1一昔と今の時刻
酉吉 申羞 未彗 午三 巳み 辰弓 卯う 寅吉 丑2 子ね 十
亥い 戊這
の
の
の
刻
刻
の
刻 刻
のじ の
刻
刻
の
の
の
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刻 支
刻 刻 刻 刻 刻
名
塵ヒ
四 五 暮
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時
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六
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時
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七 八
九
四 五
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時 時 時 時 時
明
六
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七 八 夜 時
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時 時
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九 刻 今
ツ 名 の 時
刻
午 午 午 午 午 正 午 午 午 午 午 夜
後 後 後 後 後 午
十 八 六
時 時 時 時 時
四
前 前 前
六 四
時 時 時 時 時 時
現
在
第1章 史跡の概要
しかし川路のこの捨鐘の記述は、別の意味で重要で、少なくともこの日
とき 記が書かれた天保12年(1840)の時点での相川では、1日を12時に分け
た時刻が、ほぼその数通りに撞かれていたらしいことが、推定できるから
である。川路はだからこそ、捨鐘が省略されていることにはっと気がつく
ことになったと思われる。
相川の町は周囲が4km四方、市街地面積は2km四方ほどの小さな町であ
り、時の鐘ができた18世紀初頭の町の人口は、13,701人(正徳5年の宗
門人別帳)であった。人口密度がかなり高いことも加えて、町中央部の台
地上にある時の鐘の音は、ほぼ全町にゆき渡っていたと思われる。人口の
内「銀山内諸役人」が1,731人。「銀山内人口」が1,037人とあって、あ
とは町人。奉行所に勤務する諸役人については「家数二百六十軒」と記さ
れている。侍たちの内には島内の各浦目付所や番所に配置されている者も
いたが、多くは奉行所の周辺に住んでいて、役所への出仕の時刻や、公的
な勤務時間の報知に時の鐘は不可欠であった。
さらに鉱山で働く人々には、入坑の時刻がわりときびしく定められてい
て「明け六ツ」(午前6時)の入山が「一番方」、「四ツ時」(午前10時)か
らの入山が「二番方」。また「八ツ」(午後2時)から「暮六ツ」(午後6時)
までの入山が「三番方」で、夜間の稼ぎもほぼこれに準じた(『金銀山取扱
一件』)。測り知れない恩恵を時の鐘から受けたことであろう。
ひようびょう
味噌屋町は、西に標形として日本海が広がる台地上にあって、隣接して
八百屋町、米屋町、四十物町、同心町、奉行所のある広間町など、鉱山草
創期の古い町名や歴史を持つ町並が多い。格子戸のある京町の長い通りも、
この鐘楼のある町まで家並がのびてきていて、北側は明治に建てられた赤
い煉瓦塀の裁判所跡に接続する。「佐渡の平安京」と呼ぶ人もいて、新潟県
最古の司法建築である。
鐘楼は、屋根が切妻形式で、二階建ての望楼様式になっていて、鐘は二
階に吊してある。天保5年(1834)の上町大火で焼失し、改築のさい従来の
石垣の高さを「三尺」さらに高くして造ったという。この望楼風のひとき
わ高い木造建築が、付近一帯の古い町並をさらに美しく修景していて、旅
人の旅情をさそうのである。
建立してから、鐘楼はいくどか火災にあい、改装されたが、鐘は290年
ほどの歳月を経て、いまに残った。鉱山町の数多い遺構・遺跡とともに、
国の史跡に指定されている。
2.陣屋内に
『佐渡相川志』(永弘寺松堂編)という書物に、
「大壷支の間」
昔ハ御陣屋廿四塁ノ間ニ、太穀ヲ置テ時ヲ知ラス。因テ太穀ノ間卜言
とある。「廿四塁ノ間」は、後述のように「大広間」をさすらしい。この太
鼓は、味噌屋町に時鐘が初めてお目見えする迄は打ち鳴らされていて、『佐
渡国略記』(伊藤三右衛門編)という書物では、正徳2年(1712)の項に、
5
第1章 史跡の概要
これ (五月)五目、此迄御広間こて毎日太鼓こて刻限を打
とある。そして岩木撰は『相川町誌』(昭和2年刊)の中で、「宝永六年四月、
奉行荻原重秀ハ、太鼓ヲ江戸ヨリ送致シ、奉行所内二掛置、毎時之ヲ打テ
時間ヲ知ラシムルコトトセリ。是レ報時鐘ノ起レル濫腸ナリ」とし、奉行
所の太鼓の起りを、荻原重秀の時代としている。荻原の佐渡奉行就任は元
禄3年(1690)のことであるから、宝永6年(1709)といえば、就任して19
年後のころに江戸から佐渡に運ばれたことになる。
日本で最初に時を知らせた道具は、鐘と太鼓であったといい、平安時代
の『延書式』(陰陽寮)に、次のような規定があるという。
たついぬ
ねうまうしひつじとらさるうとり 子午のときは九つ、丑羊には八つ、寅申には七つ、卯酉には六つ、辰戊
みい には五つ、巳亥には四つ、太鼓を鳴らす
『暦と時の事典』(内田正男著)にそう紹介されていいて、『延書式』がで
きた延長5年(927)のころには、すでに時を知らせるのに太鼓が打ち鳴ら
されていた。
やぐら 江戸時代になると、江戸城の「太鼓櫓」が知られていて、城中に時を知
らせていた。
とけい
上野秀恒の『時の表情』(雄山閣)によると、城中には『土圭の間』があって、
大きな時計(櫓時計)があり、時計師がこれを管理した。定刻が近づくと「土
圭坊主」がその旨を「太鼓坊主」に知らせる。太鼓坊主は自分のところに
ある時計で時刻を再確認したうえで太鼓を打った。
廃藩置県(明治4年7月)によって薄がなくなる。武士は登城する必要
がなくなったから、各藩とも太鼓を打たなくなった。が、江戸城の太鼓は
翌明治5年10月まで続けられたという。一方それまで使われていた太陰暦
を廃して太陽暦を用いることが、明治5年に布告される。旧暦の明治5年
の12月3日を、太陽暦による明治6年(1873)1月1日と改正し、それま
での不定時法(昼夜をそれぞれ6等分)が、西洋式の「定時法」(1日を24
等分)に変わることになる。
ところで、前記の江戸城内のしきたりでもわかるが、太鼓を管理する坊
主は、土圭坊主のところにある時計で時刻を合わせ、さらに自分のところ
の小時計で時刻を確認してから、太鼓を打った。城中に時を知らせるのは
太鼓であるが、時刻をはかるのは時計であり、時計の方が第一義的な役割
を果たすのである。
さて佐渡に、この時計が運ばれたのは、いつのことであろうか。『佐渡年
代記』(上巻)に、
御役所(奉行所)の時計は、慶長年中大久保石見守持来たりて、正保
四亥年類焼の時損せしにより、正徳の頃に至り、古かね商人へ払ひ、天
和年中鈴木三郎九郎江戸表より持参せし時計なり
とある。『佐渡国略記』はさらに具体的に、次のように記している。
第1章 史跡の概要
御広間之時計、慶長年中大久保石見守様御支配之節より有之候処、正
保四亥年六月朔日御陣屋焼失之節痛、御土蔵二有之候所、正徳年中三町
目古かね買八郎兵衛二御払被成候ヲ、同所酒屋嘉兵衛求、四町目かざり
屋三左衛門直シ候得共成就不致、今ノ時計ハ天和年中御奉行鈴木三郎左
衛門様江戸ヨリ御持参こて、御陣屋二御差置被成候
この2つの記事を要約すると、こうなる。
奉行所にあった古い時計は、慶長年間(1596∼1615)に奉行大久保石見
守(当時は佐渡代官)が持参し、そのころからあったものである。が、正保
年間の相川大火で御陣屋が類焼したさいに痛んで、以来土蔵内に保管して
あった。正徳年間になって三町目の古かね商人八郎兵衛という者に払下げ
られ、これを同町の酒屋嘉兵衛が買求め、四町目のかざり屋三左衛門とい
うものに修理してもらったが、うまくいかなかった。いま御広間にある時
計は、天和年間に奉行鈴木三郎九郎が江戸から持参して、御陣屋に備えた
ものである。おおよそそのようにとれる内容である。
正保4年(1647)の「御陣屋焼失」というのは、相川を最初に襲った大火
をいい、この年の6月1日朝寅ノ刻(午前4時)、新五郎町の若狭輿次兵衛
宅から出火した。『佐渡名勝志』などによると強い山瀬風(東風)と、数日
来の炎天続きで火の廻りが早く、新五郎町から京町通り、六右衛門町、左
門町、八百屋町、味噌屋町、四十物町、同心町、米屋町、夕白町、弥十郎町、
勘四郎町、籠坂など上町一帯を残らず焼きつくし、大工町、諏訪町、次助
町、庄右衛門町、間ノ山も焼けた。この大火で陣屋とそれに付属する運上屋、
後藤役所はじめ、広間役の岡林伝右衛門、久保新右衛門、町奉行の坪井六
右衛門、古幡嘉兵衛宅をふくめた役人の住宅37軒を焼失、焼失家屋は632
軒に及んだとされる。このころ大火を早鐘で知らせるおおやけの警報装置
などなかった。後述のように「遠見火の番」も兼ねた時の鐘が味噌屋町に
建つのは、正徳3年(1713)のことで、大火から60年も後になってからで
ある。
大久保長安が慶長年間に「持ち来たりて」(『佐渡年代記』)、御広間に置
いたとされる時計がこのときに被災し、60年余も経て、正徳年間に土蔵か
ら運び出される。おそらく正徳2年に、荻原の裁許を得て時の鐘の鋳造が
現実のものになったので、払下げが決まったのであろうと思われる。すで
に30年ほど前の天和年間には鈴木三郎九郎による新しい時計も設置されて
いたから、「長安時計」は「無用の長物」にもなっていた。
その長安時計も、古かね屋八郎兵衛が払下げを受けたあと、四町目のか
ざり屋三左衛門によって修理が試みられたが、結局用をなさなかった。残
念ながらその現物は後世には伝わらず、どんな構造の時計で、どんな経路
でこれを長安が入手し得たのかもわからないままである。
3.「長安時計」と
日本の時計
広瀬秀雄氏の『暦』(近藤出版社刊)によると、西洋の機械時計が日本に
入ってくる事情について2、3の史料が紹介されている。
そのひとつは、天文20年(1551)にフランシスコ・ザヴィエルが、戦国
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第1章 史跡の概要
大名で山口の大内義隆に面会したとき、義隆に進呈した贈物の中に「大き
い精巧な時計」があった。『日本西教史』の訳文では、この時計が「自噴鐘」
となっているという。このことに相応する日本側の史料としては『大内義
隆記』があるが、ここには「十二時ヲ司ルニ、夜ル昼ルノ長短ヲチガへズ
響鐘ノ声」とあって、時計とか自鳴鐘とかいうことばは、まだなかった。
その後、江戸時代初期まで日本に持ちこまれた西洋式機械時計の記録は
いくつかあるが、中で特記されるのは、当時スペイン領であったメキシコ
総督が、前フィリピン総督ドン・ロドリコの海難救助の感謝大使として日
本に派遣したビスカイノが、慶長17年(1612)6月に静岡で徳川家康に面
とけい
接したおりの贈物中に『異国日記』に記すところによると「斗景一箇」が
見えるという。これは現在久能山の東照宮に所蔵されているものだとされ
ていて、現物の銘板には、「ハンス・デ・エバロによって、1581年にマドリー
ドで作られた」との刻銘がある。「ゼンマイ時計で、捧テンプを使い、時針
だけあるものである」と広瀬氏は述べておられる。
なお、平川祐弘氏の『マテオ・リッチ伝』によると、カトリック神父だっ
たマテオ・リッチが、中国の宮廷にくいこみ、北京在留を許可(1601年の
こと)されたことがあった。このときにリッチは、西洋機械時計の「大小二
架」を、宮廷に贈っていたという。広瀬氏はこの話を紹介していて「ヨーロッ
パの機械時計は、当時の中国や日本では、希代の珍品であったに違いない」
と述べている。日本でのカトリックの布教の広がりとヨーロッパの時計の
到来が深くかかわっていたことがわかる。
こうした異国の珍らしい機械が、一般の職人の問で模倣製作されるよう
になり、本来は定時法を目指すべき機械時計が、日本的な不定時法を指示
するように改変され、のちに「和時計」と呼ばれる、独特の時計の誕生に
つながっていくのである。
日本の機械時計製作の初めについては、くわしいことはわからないが、
天保3年(1832)の『尾張志』によると、名古屋の時計師だった津田助左衛
門政載の先祖の助左衛門政之が、京都に住んでいたとき、徳川家康へ朝鮮
じめいけい
から献上した「白鳴繋」が破損したのを修理する間に、模倣品をひとつ作っ
た。このことは慶長3年(1598)以前のことで、慶長3年にはすでに政之
は時計製作の功によって徳川家に召抱えられていた、と津田家の『由緒書』
にあるという。また元和9年(1623)には、尾州候のために「おもりどけい」
を作ったという記録もあるらしく「これを信ずるなら、津田政之は日本時
計師の元祖ということになる。津田家は代々尾州家の御時計師兼鍛冶頭と
して明治まで至った家柄である。」と、広瀬秀雄氏は『日本の時計』(山口
隆三著)の記事をも紹介しつつ、自著『暦』の中でも詳細に説明している。
きたい
佐渡に初めてお目見えした大久保長安の時計が、西洋産の「稀代の珍品」
か、改良された和時計だったのか、よくはわからない。ただ機械時計だっ
たことは容易に想像でき、当時機械時計といえば、前記のように大変珍ら
しく、それを所蔵する人も特権階級に近い人たちに限られていて、時計と
いえば、「大名時計」の別称さえあったといわれる。
さて、大久保長安は、家康政権のもとで、慶長8年(1603)から、同18
年に駿府で没するまでの10年間、佐渡代官としてこの島を支配していた。
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第1章 史跡の概要
いつ彼は、時計を佐渡に運んだのだろうか。
実際に来島したのは、相川湾を見下ろす海抜約50mの台地上に、陣屋
が始めて完成した慶長9年(1604)で「今年四月十日、佐渡国松ケ崎へ着岸、
おわ 夫より相川へ移り、所々巡見して銀山と地方の事を沙汰し、畢って八月十
ますます 日伏見に至り、佐渡国の山岳金銀を出す事益々彩敷旨(家康に)言上すと
云」(『佐渡年代記』上巻)と記されている。当時小木湊はまだ公津と定め
られておらず、渡海場としての機能をもっていなかった。慶長9年といえば、
家康が江戸に幕府を開いた翌年である。
2度目の来島は、慶長13年(1608)のことで「今年二月、大久保石見守
ひとし 佐州に渡海し、金山を検断する所、掘返し地形と海の深サ均きゆえ、水湧
すべ 出て金穿等も詮方なく、其術を失ふ趣、書を呈して言上すと云」とあって、
そのまま佐渡に留まり、翌年の夏越後、信濃を経て美濃国を按検して帰った、
と記されている。
初回は4ケ月はどの滞在、2度目の来島は、翌年の夏まで1年と7ケ月
ほど佐渡にとどまっていた。初回は銀山の未曾有の大盛りと、佐渡陣屋の
落成が、伏見の家康に報告されていて、2度目は銀山が地底深く掘り進ん
だことで、坑内湧水の処理が緊急の課題になっていた。それらが、長安渡
海の背景にあったと思われる。時計の運搬は、この2度にわたる来島時の、
どちらかであったのではあるまいか。
元来大久保長安は、後藤庄三郎(金座支配)や茶屋四郎(京都の政商)と
ともに、家康側近のひとりであったとされていて、とりわけ石見・伊豆・
佐渡の金銀山を管理する立場にあったこともあって、家康がいた伏見や駿
府にいることがとくに多かった。前述した家康と外来時計とのかかわりか
らも、機械の入手や、その情報がいち早く彼の耳に入っただろうし、佐渡
鉱山で水銀を用いたアマルガム精錬を、諸国の鉱山に先がけて実施するな
ど、西洋技術の導入や知識に、かなり恵まれた立場にあった。長安が非常
に早い段階で、時計を入手し、支配地の佐渡に運んだとしても、何の不思
議もないように思える。
総じて「長安時計」は、佐渡の人たちが目にした最初のもので、この島
の機械時計のはしりではないかと思われる。
60余年も、陣屋の土蔵に眠っていた「長安時計」の払い下げを受けた「三
4.八郎兵衛と
三左衛門
町目古かね商人・八郎兵衛」という人物は、それほど詳しい来歴はわかっ
ていない。
ただこの人については安永3年(1774)の7月「佐州浜川流請負、三町目
八郎兵衛」という者が、小者1人をつれて、「羽州(山形県)最上川辺」へ「砂
金試稼之儀」の目的で出向いた、という記述(『佐渡国略記』『佐渡年代記』)
を想い起こさせる。正徳年間から60年余後のことだが、同じ三町目でしか
も同名であるから「浜川流請負・八郎兵衛」の先祖が「古かね商人八郎兵衛」
であったのだと思われる。この人は10月に帰国していて、当時35歳、小
者の名は「勘助」とある。最上川左岸の村々を砂金採収の指導で回ったも
のらしい。
次いで3年後の安永6年(1777)5月、八郎兵衛はこんどは小者2人を同
9
第1章 史跡の概要
伴して越後岩船郡高根村(小笠原友右衛門代官所管内)へ、同じ目的の砂金
流しの見分(指導)に出向いている。高根村は現在の朝日村高根で、この集
落から北東(約10km)の所には鳴海山を主鉱とする鳴海金山があった。古
い鉱山で元和7年(1621)の堀直寄書状には「公儀金山」と記されている。
幕末に近い天明年間(1781∼89)には、有名な蒲原郡の市島家が、ここの
砂金採掘に関係していたことが同家の家蔵史料からも知られている。
「浜川流請負人」というのは、相川海岸の砂浜(合金砂礫層)を掘り下げて、
ゆり板などで比重選鉱をし、砂金をとる仕事とその請負いをいい、「稼方功
者」が買われて諸国の砂金山や砂金が出る河川敷などに出張指導に出向く。
八郎兵衛の場合は、当時幕府の勘定奉行だった石谷備後守(清昌)が、幕府
直轄地の砂金の増産や開発のために、当時の佐渡奉行高尾孫兵衛(佐渡勤番)
に頼んで、出羽と越後に出張してもらったもので、石谷は元佐渡奉行だっ
たから、相川の浜川流しの作業も、むろんつぶさに知っていた。
正徳のころの「浜川流」と、安永のころの「古かね商人」は、厳密には
職種が違ったのかもしれないが「古かね」の「かね」は、「砂金」の「金」、
ないしは「鉄」などと同義語に用いられたこともあり、「古かね」とあるか
ら総じて金属などを扱う商人を指したらしい。「古かね商」も「浜川流」も、
どちらかといえば鉱山に関係した仕事であり、八郎兵衛は代々世襲でその
ような仕事を勤めるような家柄だったらしい。安永年間にやや近い文政9
年(1826)の『相川町々墨引』(町絵図)を見ると、三町目表町南側に「浜
川流引請人・八郎兵衛」とあって、その所在地がわかる。金比羅さんの通
りである。この人の先祖が、まず「長安時計」を払い下げてもらったので
ある。
しかし、この時計は、なぜか同じ町の「酒屋嘉兵衛」によって買い取られ、
金比羅通りをひとつ隔てた四町目の「かざり屋三左衛門」によって修理が
行なわれた。「三左衛門直シ候得共、成就不致」とあるから、修繕は失敗に
終わった。一度火をかぶった時計であるのに加えて、満足な部品などもむ
ろんなかっただろうから、三左衛門にとっても、難しい作業だったと思わ
れる。
次に三左衛門という人物の来歴については、かなり詳細な資料が残って
いる。『佐渡相川志』には、こう記録されている。
江戸三左衛門 江戸馬喰町二町目庄三店。延宝二寅年七月、由アリテ
当国へ流刑セラル。四町日本町西側二住ス。総シテ金物細工二堪フ。正
徳五未年十月御赦免二依テ江戸へ赴ク。再ビ此地へ帰リテ後、享保ノ初
つばあまね ヨリ大小ノ鍔ヲ練ル。自他国普ク売弘ム。三左衛門鍔卜言フ。延享四卯
年十一月十四日二病死ス。今マデ三代相続セリ。
この記録だと、三左衛門の先祖は江戸馬喰町の人で、延宝2年(1674)の
7月、故あって佐渡へ流されてきた。四町日の本町西側に住んでいて、と
くに金物細工に秀でていた。40年ほど過ぎた正徳5年(1715)の10月、赦
免になって江戸へ帰ったが、再び相川へきて、享保年間(1716∼36)の初
つば めころから大小の鍔を作り、佐渡以外にも売り広めて、世に三左衛門鍔と
10
第1章 史跡の概要
もいった。延事4年(1747)11月14日に病死したが、子孫は今まで三代続
いている。おおよそそう記されている。
なお『在相川医師諸町人由緒』(教育財団文庫)という書物には「かざり
屋、江戸三左衛門、延享四年卯十一月十四日卒、秀円、米屋町願泉寺二葬
ル」とあって、屋号が初代から「かざり屋」だったことがわかる。赦免前
の職業は「金物細工」師だったが、赦免以降は、刀の鍔で名を成し、世に
「三左衛門鍔」といわれて、内外に広く取引されたというのである。鍔は多
く脇差用の鉄鍔で、今日各地に残る刻銘から、初代が「好古」と刻み、二
代が「利英」、三代が「利貞」、四代が「利姓」と続いたらしく、話題の「長
安時計」の修繕にいどんだのは、三代の「利貞」であったことが『佐渡相
川志』という書物の「今マデ三代相続セリ」の記事からほぼ判明する。宝
暦期(1751∼64)に成立した書物であるからである。加えて四代までの、
鍔師としての全盛期は、その作風や諸記録によって「好古」(享保)「利英」
(享保∼元文)「利貞」(宝暦)「利姓」(安永)と見るのが、一般的のようで
ある。いうまでもなく「好古」(初代)が、流人・三左衛門をさすことになる。
さて、利貞。この三代目については『佐渡四民風俗』(本文・宝暦6年
刊)という書物に「鍔師三左衛門細工の儀、先代三左衛門、先々代三左衛門、
当時と三代の内にて、前二代の細工は抜群に勝れ申し候由」とある。また
同書の続編(追加・天保10年刊)には「本文に当時三左衛門とこれあり候は、
銘を利貞と切り、其の子平吉=利姓=相応に細工致し候へども、両人とも
鉄味先代程には至り申さず」としている。初代好古と二代利貞の鍔は抜群
によかったけれども三代、四代は不評で、とりわけ当時の三左衛門(利貞)
は「細工手際、鉄味とも前代より殊の外劣り候由にて、最初打ち出し候節は、
あつら 挑ひ候者も手を引き候程の儀に候」(続編)ときびしい批評を加えている。
この『佐渡四民風俗』は「本文」を奉行所広間役の高田備寛が、「追加」
を同じ広間役の原田久通が、奉行から求められて書き綴った書物ある。
なお、『佐渡名勝志』という書物によると、初代の流人三左衛門が、奉行
所で発行していた「印銀」(島内だけに通用させた秤量貨幣)の鋳造のさい
「真二打つ極印、並二布目形印」の細工をする職人として、奉行所から雇わ
れていたことが書いてある。宝永7年(1710)のことらしく、当時まだ赦免
の通知を受けていなかった流罪人を公儀で雇うような例は、その作業がと
りわけ貨幣の鋳造だけに、あまり例を見ないことであった。この人の細工
にまさる職人が、市中一般にいなかったことを示している。さらに『佐渡
つくろ 四民風俗』では、利貞のあとを継いだ平吉(利姓)が「文化の末、御武器繕
ひ御用達」として、奉行所に雇われていたことが記録されている。当時相
川には金物細工師、鍛冶職人が数多くいたことが『佐渡相川志』(「金物細工」
の項)にも見えいているが、中でも流人の三左衛門が抜きん出た存在とし
て好遇されていたことをしのばせる史料といえる。が、三代利貞による「長
安時計」の修繕は、前記のように時計そのものが被災していた上、技術の
未熟さや、数10年も年月を経たあとの修理で、結局は用を足さず、再び時
を刻むことはなかった。
「長安時計」に代わって、新しい時計を奉行所に運んだ鈴木三郎九郎(重
祐)は、延宝8年(1680)に曽根五郎兵衛(真野御陵の創設者)の後役とし
11
第1貴 史跡の概要
て赴任し、元禄3年(1690)まで勤めて、後述する荻原彦次郎(重秀)と交
代した奉行で、前職は大和(奈良)の代官で知行1000石の旗本である。「今
ノ時計は、天和年中御奉行鈴木三郎九郎様、江戸より御持参こて、御陣屋
に御差置」(前掲)によれば、奉行就任の1、2年後に、江戸から運んだこ
とになる。「長安時計」と同じく、この時計の構造や制作元は伝わっていな
い。天和年中(1681∼84)の持参であるから「長安時計」が大火で被災し
た正保4年(1647)から数えて、35年ほど経ていた。この時計が、いつこ
ろまで奉行所で機能していたかは、これまた記録もなく未詳である。
5.時鐘楼と荻原重秀
味噌屋町に、時の鐘がお目見えするまでには、以上のように若干の経緯
があった。『佐渡国略記』の正徳2年(1712)の項に、そのドラマチックな
経緯を示す次の記事がある。
ここまで
同(正徳二年)五月、此迄御広間こて毎日太鼓こて刻限ヲ打。然所同
六月七日下山之神こて時ノ鐘を鋳、丸山二堂を立。同十一月此所江為登
候て、昼夜刻限ヲ打候得共、遠方こて鐘音御広間江不聞候二付、味噌屋
町今之所江堂ヲ御引被成候二付、六助卜云鐘付打摸し候間、又下戸浜こ
て四町目三左衛門、八幡村平兵衛鋳直し候得共成就不致、依之翌年巳五
(家) 月朔日河野、神保御支配之節、右之場所こて越後高田・藤右衛門宗次弟
子七人召連来り鋳直シ成就す
これだと、正徳2年の5月迄は、御広間で毎日太鼓を打って刻限を知ら
せていた。6月7日になって、下山之神町において時の鐘を鋳、前後して
丸山(六右衛門町の地名)に鐘堂が建った。過ぎて11月に、この場所へ鐘
を運び、昼夜刻限を知らせたが、奉行所から遠方のため、御広間まで鐘の
音が聞こえなかった。そこで味噌屋町のいまの場所に堂を移したが、六助
という鐘付が、誤って鐘を打ち損じてしまった。そこでこんどは下戸浜で
四町目の三左衛門と八幡村の平兵衛に頼んで鋳直してもらったが、これは
成就しなかった。このため翌正徳3年の5月1日、河野と神保の両奉行の
代に、越後高田の藤右衛門家次が弟子7人をつれてきて、同じ下戸浜で鋳
直してもらった。これで成就した。
おおよそそのようにとれる内容である。
「四町目三左衛門」は「長安時計」の修繕を頼まれた前掲の「かざり屋三
左衛門」であり、時の鐘の鋳造にも、白羽の矢が立ったらしい。これに、「八
幡村平兵衛」という者が相棒として加わっている。この記述では、先に山
之神町で鋳た鐘の製造者が書かれてないが、おそらく両度とも三左衛門と
平兵衛の2人で鋳られたのであろう。最初の鐘は「六助」という鐘撞きが「打
ち損じ」て破れたらしく、再度いどんだ鋳造も、ものにならなかった。
八幡村の平兵衛という者については、佐渡の史料にあまり記録したもの
がない。ただ『佐渡国略記』の天和2年(1682)の項に、
戊三月廿六日、山之神大乗寺釣鐘、八幡村平兵衛鋳、此鐘延宝六年五
月、羽田町広永寺より相調、此度鋳直ス。鍛冶平兵衛先祖越後柏崎ノ者
12
第1章 史跡の概要
とした記録がある。
また、4年前の延宝6年(1678)の項には、
つきかね
午五月、羽田町広永寺へ撞錆越後より来ル。当寺ノ古鐘ハ、山之神大
乗寺へ売払。此鐘其後鋳直シ候て、天和二成年鍛冶越後ノ住人平兵衛卜
有之
と記されている。これだと、羽田町の広永寺(浄土真宗)へ、越後から釣鐘
(梵鐘)職人がやってきた。延宝6年5月のことである。広永寺で新しい鐘
を鋳ることになったためで、同寺の古い鐘は山之神の大乗寺(真言宗)へ売
り払った。鋳工の者は越後の住人鍛冶平兵衛で、大乗寺の鐘が古くなった
ので天和2年3月に平兵衛が鋳直した。そのときの銘に「天和二年鍛冶越
後の住人平兵衛」と彫られている。そう判読される記述である。平兵衛は
柏崎の人で、以後八幡町に住みつくようなったらしい。が、平兵衛の技術
を残す300年余り前の広永寺の鐘も、大乗寺のそれも、戦時中に供出され
て残っていない。
柏崎といえば、沢根で斑紫銅の銅器を作った本間琢斎(幼名文平、号琢斎)
は、柏崎に近い越後刈羽郡大久保村(現柏崎市)の銅器師、原得斎の長男で、
天保年間(1830∼44)に国防用の大砲の鋳造のために来島した。この人も
また、かたわら梵鐘を鋳たといわれている。沢根の円福寺などにその記録
を残している。300年余り前に佐渡へ渡った鍛冶平兵衛と琢斎は同郷であ
り、先祖同志の技術系譜には、つながりがあったかもしれない。
ところで、三左衛門と平兵衛によって、初めて時の鐘が鋳られた正徳2
年(1712)には、驚天動地ともいえる事態が、幕閣と佐渡で起こっていた。
勘定奉行と佐渡奉行を兼帯していた荻原近江守重秀が、突如「御役御免」
となったためである。同年9月11日のことである。重秀が行った有名な「貨
幣の改鋳」が、新井筑後守(白石)に、経済政策の失敗として指弾されたの
が失脚の原因とされ、『佐渡年代記』(上巻)によれば、「才あるものは徳あ
らず(中略)金銀吹替えの事により私の計らひ多く、元禄の時、金には銀
この 料を増し、銀には銅料を加へて改造せられしより此かた、世人その品の高
あたい 下を論じて終には諸書の価平らかならざる」結果を招来することになった。
荻原の改鋳によって、幕府財政は一たんはよくなったが、その結果起こっ
たインフレーションが、世上の強い批判をまき起こすことになった、とも
解される辛辣な評である。
9月11日御役御免、同26日には後任の佐渡奉行として元御目付役の河
野勘右衛門(道重)と、元寄合の神保新左衛門(長治)の2人が任命された。
2人の佐渡着任は、翌正徳3年(1713)の7月である。佐渡奉行二人制の始
まりであった。
繰り返すが『佐渡国略記』の前掲の記述では、正徳2年6月7日に、下
山之神町で時の鐘が鋳造された。そして丸山六右衛門町に鐘堂ができ、11
月に鐘がここへ運び上られる。下山之神は町の東北端の高台であって、市
街地への眺望がきいたが、奉行所からだと北沢の沢を隔てて遠い。音が届
きにくいので、奉行所にも近く、町のほぼ中央部の台地である味噌屋町に
13
第1章 史跡の概要
場所を移した。ところが折角でき上った鐘を、六助という鐘撞きの「打損じ」
によって再鋳造されることになった。
荻原重秀の「御役御免」は、この年の9月であるから、六右衛門町に鐘
堂ができる2ケ月ほど前に、失脚したことになる。が、鐘の鋳造そのもの
は、6月7日には始まっていたから、時の鐘の設置を指示したのは、荻原
の在任中のことであり、下山之神の高台で、最初の鐘が打ち鳴らされたのは、
河野と神保の新奉行が決まった後このことであった。ただし両奉行が実際
に相川へ着任したのは、翌年の7月であり、後述のように越後高田の鋳物師、
土肥藤右衛門一行による、3度目の鐘の鋳造は、その2ケ月前の5月には
完成していた。荻原の意志を受けた佐渡奉行所の役人たちによって、とも
かくも現在残る時の鐘が、完成したことになる。荻原が江戸表で56歳で没
したのは、同年の10月25日であり、鐘の完成の5ケ月後のことであった。
そうした劇的な時期に、この鐘は誕生したが、荻原が佐渡に残した最後の
置土産が、まさしくこの、時の鐘の設置だったことなるのである。
前述したが、岩木横は『相川町誌』(昭和2年刊)の中で「宝永六年四月、
奉行荻原重秀ハ、太鼓ヲ江戸ヨリ送致シ奉行所内二掛置キ、毎日之ヲ打テ
時間ヲ知ラシムルコトトセリ、是レ報時鐘ノ起レル濫鰻ナリ」とし、これ
に加えて「其後正徳二年六月、同奉行ハ更二命シテ巨鐘ヲ鋳テ、町民一般
二時刻ヲ知シムルコトトセリ。是二於テ山ノ神平二於テー鐘ヲ鋳テ是を丸
山六右衛門町二据付、毎時之ヲ撞キテ時刻を報スルコトトナリ、是ヲ相川
二於ル時ノ鐘ノ始メトス」と記して、この奉行の業蹟を回顧している。
在任中の荻原の大きな業蹟の一つに「南沢疎水」の開削がある。長さ約
1kmにおよぶ排水坑道で、数万人の労働力と、4年10ケ月の歳月をついや
して、元禄10年(1697)に完通させた。鉱山の地底にたまった水を、地下
暗水路をくりぬくことで、相川湾に自然排水させるという画期的な工事で、
起点(鉱山)と終点(南沢)の間に等間隔で2本の竪穴を掘り下げて鉱区を
3区分し、合計6カ所から迎掘りを開始させ、元禄時代としては「世界的
な工法」と、後世賞賛された。この完成によって地底にたまった水はいち
どきに相川湾に流れ出し、佐渡鉱山は「元禄の大盛り」といわれる繁栄の
時期を迎える。
荻原の失脚から、20数年を経て、嫡子の、佐渡奉行荻原源八郎(乗秀)が、
西ノ丸御納戸頭から、佐渡奉行に任命された。享保19年(1734)のことで、
「あはれ君 かからん後も ながらへは いとどむかしや 恋しからまし」
という追悼歌を献じたのは、佐渡奉行の高官(広間役)だった辻守継で「源
八郎元重(乗秀)、後二至リテ佐渡奉行を命ぜらる。是、重秀が佐渡におい
ての飴徳なるべし」(『佐渡年代記』)と守継は記している。守継の父の守遊は、
荻原奉行の下で、南沢疎水工事推進の総指揮に当たっていた。
荻原は、江戸谷中の長明寺という寺に葬られたが、その死を伝え聞いた
佐渡奉行所の役人たちは、相川下寺町の本典寺(日蓮宗)に、もうひとつの
墓(供養塔)を築いて法事を続けた。これは、五輪塔で「至誠院殿重源日秀
居士」とこの人の戒名が刻まれている。均勢のとれた美しい五輪塔で、こ
の父の石塔と並んで、笠塔婆形式の大きな墓が、寄り添うように建っている。
源八郎のもので、この人は在任中に相川で没していて、「覚夢院殿哲岸日到
14
第1章 史跡の概要
居士」という戒名が刻まれてある。春から夏にかけて、この境内の奥まっ
たあたりは樹間をかけぬける鴬の声が切れ目なく聞える。
いまの時鐘が越後高田の鋳物師、土肥藤右衛門尉藤原家次によって、鋳
6.味噌屋町の時鐘
と構造
造されていく経緯を、次に述べておきたい。この人は高田から海を渡って
来島した。出張して別の地で鋳るのを一般に「出吹き」といった。
まず、時鐘の構造であるが、高さが4尺4寸(133cm)、厚みが3寸2分(9.7
Cm)、外径が8尺5寸(258cm)、口経が2尺5寸5分(77.3cm)と『佐渡相川志』
などに記録されている。ただ『佐渡国略記』では、口径を「二尺七寸五分」
(83.3cm)とする。重量は記録したものがないが、約700kgといわれている。
正徳三乗巳年五月朔日
越後国高田住土肥藤右衛門尉
藤 原 家 次
と刻んであるのは「池の間」といわれる一区で、計37字が3行にして陰刻
してある。鋳型をこわして取り出した鐘の表面を、きれいにみがいてから
タガネを打ち込んで文字を刻んだらしい。「池の間」には文字のはかに仏像
などを刻む例もあるが、ここでは完成の年月と、作者が刻まれて残った。
りゆうず
器体の頂上、笠形(饅頭型)の上部につけてあるのが「龍頭」で、諸国の
はり どの梵鐘にも見られる2頭分の龍の頭部である。元来龍頭は、梁に吊すた
めに釣鐘の頭部を、龍の顔に図案化したもので、2頭は男女をあらわすと
さている。龍が鐘身をくわえたような形で飾られていて、この龍頭は正し
ほろう くは「蒲牢」というとされている。余談だが蒲牢は龍の子で、鯨をおそれ
てこれに襲われると、大声で鳴く。そういう伝説があって、鐘がよく鳴る
ようにと、こういう名前がつけられた、などの説もあるという。「池の間」
ち の上部には「乳の間」があって、突起した108個の「乳」(にゆう)を配列
させている。ひとつの突起部分の高さは約2.8cm、幅3cmほどで、人の乳
首に似ているためだろうか。「乳の問」は周囲四区に分けられていて、各一
区に縦横5段5列に計25個、合計100個が数えられる。ほかに縦帯の上部、
区と区のはぎまに計2個づつあって、この8個を加えると合わせて108個
となる。乳の間の下が「池の間」(銘文帯)であり、先程の作者と年月が陰
刻されている場所である。
すべての鐘が、108個の乳を刻むとは限らず、乳のない梵鐘すらあると
ぼんのう
いう。108個は、仏教の煩悩にちなんだもので、梵鐘の音が108の煩悩を
けちえん
滅して衆生を救い、生あるものに結線する、とされた。そうした宗教的意
あぴこ
味を持っていて、室町時代の未ころから、摂津(大坂)の我孫子の鋳物師に
よって乳の数108個の鐘が造られるようになったとされ、この鐘で現存す
るもっとも古いのは、慶長7年(1602)の大津の園城寺の鐘であり、摂津我
孫子の杉本出雲守家次が鋳たものといわれる。
ひさし 龍頭の下の笠型と、器体上帯に、やや目立つように外側に飛び出した廟
状が設けられており、後述するが、梵鐘研究の大家、坪井良一氏も、これ
に注意している。これは笠型と鐘身の接合点に見られることから、鋳型継
15
第1毒 虫跡の概要
目であろうと思われる。
鐘を撞くときの「鐘座」は、表裏2カ所にあり、径が16cmほど。円形の
いわゆる車輪型で、これは輪宝ともいわれていて、わりと美しい八角・蓮
れんぺん
華文のふちどりがしてあって、八乗の蓮弁ともいう。
鐘をうち鳴らす「撞木」は、幸い古くからのものが宝物のまま残っていて、
これは丸棒で、鐘の横に水平に吊されている。丸棒の径は13cmほど、長さ
しゆろ が180cmほどで、一見してすぐにわかる様相の木である。一般に撞木の樹
かしけやき
種はいろいろで、樫、棒、松なども使われていた。その大きさは、一般に
口径の4分の1、長さは太さの10倍くらい、などとされていた。
さて、下戸浜で鋳られたこの鐘は、正徳3年(1713)の6月6日から、味
噌屋町で最初の鐘撞きが始まっている。『佐渡相川志』によると、
(家) 高田ノ鍛冶、藤右衛門久次、弟子七人卜共二渡テ、此所(下戸浜)ニ
テ鋳ルニ、能ク出来ケレバ、六月六日二味噌屋町へ登セ、其日ノ九ツヨ
およ り撞始メタリ。両度ノ入用凡ソ式十貫目余ナリ。
時鐘側面
16