Title 大学初年次物理教育における「よくある質問」

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Author(s)
大学初年次物理教育における「よくある質問」
望月, 隆二
Journal
東京歯科大学教養系研究紀要, 30(): 11-18
URL
http://doi.org/10.15041/tdckiyou.30.11
Right
Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College,
Available from http://ir.tdc.ac.jp/
大学初年次物理教育における「よくある質問」
望月隆二 *
1.はじめに
教育を向上させるために学習に関するデータを収集し、適切に処理、
解析することが重要であることは論を待たない。一方で、統計処理しに
くい、所謂、教員個々の経験も大切であることに反対する人も少ないで
あろう。その中でも、授業中の学生の反応や質問に来た学生との会話な
ど、学生からの直接的な情報を得る機会は少なくないが、筆者の勤務す
る東京歯科大学物理学研究室で 2003 年から採用している質問紙法 aで
は、より多くの情報を得ることが可能である。
筆者らが行っている質問紙法は、毎回の授業の後に学生全員に質問を
書いた紙を提出させるもので、筆者は質問のうち重要と思われるものを
中心に次の授業で回答する方法をとっている。この方法は、学生が批判
的に授業を受けるとともに、自分の疑問点をより明確に意識するように
仕向ける方略であり、かつ、教員が学生の理解の様子をより具体的に把
握する道具である。質問は一般に授業を受けた後に書くので、内容は授
業を受けてわからなかったところが中心になるのだが、教員から見ると
「あれだけ時間をかけて説明したのに、そこがわからないの?!」とい
う内容がしばしばあり、また、そういった内容は、授業内容を改善して
いるつもりであるにもかかわらず、毎年恒例の「よくある質問(FAQ)」
*
東京歯科大学 物理学研究室
a
「振り返り」等の名称で論じられることも多い。例えば参考文献1)。
-1-
となっている場合が多い。授業の中で質問への回答という形をとり、異
なるアプローチからの理解の仕方を提示できるものの、それだけで学生
全員に理解させることは極めて困難であると感じている。
このレポートでは、上に挙げた「説明に時間をかけているにもかかわ
らず、毎年のように現れる質問」のいくつかについて、授業では理解で
きず質問に来た学生との会話から得たヒントも含めて考察する。この考
察は統計学などによる裏打ちがない。同じような質問、同じような会話
から全く別の結論を導くことも可能であるかもしれないが、一種のケー
ススタディとして参考にしていただければ幸いである。
2.FAQ
①
摩擦のない物体は存在しないのに、なぜ摩擦を無視してよいのか。
これは、物理を大学受験科目から除外してきた学生 bが、入学
後比較的早い時期にすることが多い質問であり、この質問をしてくる学
生の多くは、「だから物理は現実的ではない」と考えているようである。
一方、ある程度の問題練習をしてきた学生にとっては、これはむしろ当
たり前cの状況設定であるが、こちらも物理の問題と現実との間にしっか
りと対応を付けているのか、となるとはなはだ怪しいといわざるを得な
い。科学には単純化、理想化が必要であり、現実の特徴を残すことと単
純化、理想化とをいかにうまくバランスしていくかが大切であるが、そ
ういった「科学の方法論」のような話を学生たちはほとんど理解してい
ないように見える。
同様の質問に、「大きさのない物体は存在しないのに、なぜ質点を考
b
実際には高校でほとんど(といって良い程)物理を学習しておらず、中学でも物理的分野は嫌い
だった、という学生が少なくない。
c
慣れている、ということ。量子力学に慣れている人が、「当たり前」と思うのに似ている。
-2-
えるのか」や「実在の気体ではなく、理想気体を考えるのはなぜか」が
あるが、学習が進むにつれて、この種の質問は減っていく。それが、物
理の問題に対する慣れからではなく、少しでも科学の方法を理解したか
らであればよいのだが。
②
(無重力状態で)ふわふわ浮いていても,質量の大きい物体は動かし
にくい、というのがわからない。
この問題については筆者の以前の報告
2)でもふれたが、根底
は、質量と重さの違いを理解していないということである。質量という
言葉を知らない学生はほとんどいないし、質量と重さは異なる概念だと
いうことも、大学入学までに繰り返し聞いていると思うのだが、両者を
混同している。重い物体を動かしにくい、というのはわかるが、ふわふ
わ浮いている、すなわち軽いのだから動かし易いはずだ、という考えが
背景になっている。これはずっと地表面で暮らしている人の経験からす
れば、尤もな考えである。しかし、だからといって遠足に宇宙旅行 dとも
いかないし、実験も難しい。となれば、まずは映像 eを見せる他にないで
あろう。その上で、質量という言葉は2つの意味、重力質量と慣性質量、
を含んでいること、運動方程式中の質量は慣性質量であることを十分に
説明して、初めて、「質量と重さは違う」ことを学生が納得し得るので
はないだろうか。
質量と重さの混同に関して、学生が新しい物理概念を習得する際に現
れる問題も考えておきたい。様々な分野で出てくる FAQ に「○○を一言
でいうと何か」というのがある。この質問からは、物理概念を数式を通
して理解する、あるいは文脈も含めて理解する、ということを放棄した
学習スタイルが伺われる。一問一答形式で暗記し、試験に備えるのであ
ろう。質量とは一言でいうと何か、という問いに対して、物体が持って
d
当分の間は、修学旅行や夏休みの星間学校でも無理だろう。
e
もちろん、真の無重力での実験ではないが、例えば参考文献3)。
-3-
いる固有の性質であるf、といった答は間違いではないがほとんど何も説
明していない。一方、質量とは重さのことである、という答は質量とい
う概念の一つの側面を不正確ではあるが表現している。後者のほうがま
だましだ、と筆者も思う。しかし、数式は苦手だから、回りくどい説明
は嫌だから、といってここで止まってしまうのであれば、そもそも物理
を勉強する意味はない。
③
加速度の+、-と加速、減速が一致しないことがわからない。
この質問は、加速度という量自体がとらえにくい、という事
も示しているが、学生が案外ベクトルの概念に慣れていないということ
も示している。高校の数学でベクトルを学んでいない、というのではな
い。学生たちは、数学の問題集に出てくるベクトルの問題であればそこ
そこできる(できなければ入学試験で不合格になってしまう)のである
が、その知識を数学以外の世界に持ち出すことができないでいる。この
理由の一つは、速度、加速度、力などのベクトル量を導入する際に、1
次元(数直線上)での例で慣れさせようとすることにあるように思われ
る。最初からとはいわないまでも、早い段階で2次元のベクトルを考え
た方が、「向き」をもった量として捉えやすく、ベクトルの大きさが非
負であることも容易に納得できるであろう。
ここではベクトルの例を考えたが、中学、高校の数学で学習した内容
を、数学以外では使えなくなってしまう学生は少なくない
5,6)。例えば、
一定量の理想気体の体積を定圧で変化させるとき、体積とセ氏温度が(比
例ではない)一次関数の関係にあることを理解している学生は少数派で
f
例えば、参考文献4)は高等学校用教科書であるが、後者は前者よりも内容が少なく、「質量は
物体に固有の量である」という説明にとどまり、前者ではそれに加えて脚注で慣性質量、重力質量
について説明している。また、「質量とは○○である」という形の説明をしていない教科書も多い。
生徒が、「質量は物体に固有の量である」という文を覚えるだけでわかった気になるのを避ける為
には、一問一答形式の説明はないほうが良いのかもしれない。
-4-
ある。さらには、物理が不得意であるという学生の中には、物理の問題
中にある未知数を文字で置けば問題を解き易くなるという、方程式の基
本中の基本の考えさえ理解していない者も散見される。どちらの場合も、
教員から指摘されればわかるのであるが、それでは意味がないようにも
思う。
④
断熱変化と等温変化はどこが違うのか。
熱力学第一法則を理想気体を題材として教えようとする際、
熱の出入りと温度の上下とが必ずしも対応しないことを最後まで理解で
きない学生が毎年数人は、いる。もちろん、授業の中では、温度と直接
対応する量が内部エネルギーであり、内部エネルギーを変化させる要因
(仕事)が熱以外にも存在することを何度も説明するし、日常生活で加熱
する大半の場合には,加熱される物が液体や固体であるから仕事を無視
できるのだということも話す。また、圧気発火器を用いた演示実験で、
加熱しなくても温度が上昇することを実際に見せもする。しかし、一部
の学生にとって、「熱の出入りと温度の上下は同じこと」という固定観
念はかなり頑固なようである。質問に来た折りに説明すれば、その場で
はわかる。しかし、時間がたつと再びもとに戻ってしまうのである。「力
が働かなければ物体は静止する」という、慣性の法則に反する固定観念
とで両横綱gというところであろうか。
この例に限らず、大学教育の中で伸び悩む学生の一つの共通点として、
柔軟に新しい考え方を受け入れられない、ということがある。新しい知
識や概念、法則に限らず、大学での勉強方法を受け入れられないことが、
成績不良の原因となっているのである。自分はこの方法で勉強してきて
大学に入学できた、今更勉強法を変える必要があるとは思えない、とい
うことなのであろう。もちろん、変える必要のない学生も多い。しかし、
g
この文章を書いている時点で、横綱は白鵬、日馬富士、鶴竜の三人である。しかし、やはり「三
人横綱」というよりは「両横綱」といったほうが言葉として座りがよかろう。
-5-
大学合格を至上の目的として、そのために極めて特化した「勉強法」は
大学では通用しない。この事実を認識させ、大学での学習に適した方法
を身につけさせることこそ、大学初年次教育の最大の目的の一つであろ
う。
⑤
電場がわからない
高校であまり物理を学んでいない学生にとって、電場という
概念を理解することはかなり難しいようである。③での考察とも関連す
るが、ここでは電場という概念自体の難しさを考えたい。
高校や大学初年次に学習する程度の力学であれば、そこに現れる量は
一般に物体に付随している。物体の質量、物体に働く力、物体の持って
いるエネルギー、といった具合である。ところが、電磁気学の比較的早
い段階で導入される、電場という概念はそうではない。電場は「場の量」
であり、(時刻と)位置に対して定義されるのである。この変化は初学
者にとって大きいもののようで、学習当初は電場の定義式は書けても、
その意味はわからないという学生が多数を占める。確かに、何もない空
間が電場という量をもっている、という考えは容易に受け入れられるも
のではあるまい。帯電体が多数ある場合の方便として、クーロンの法則
を使う代わりに電場を定義する、という教え方 hもあろうが、場は現代物
理学において最重要な概念の一つであるから、ここは時間をかけてでも
学生に理解してもらいたいところである。要領のよい学生は、そのあた
りの不思議さは脇に置いて、与えられた式を使って問題を解く。言葉で
説明する問題も、覚えてきたいくつかの文を上手につぎはぎして乗り切
る。残念ながら、問題が解けるのであればそれ以上考える必要はない、
というのが多くの学生の感覚であるから、彼ら、彼女らは「場」の概念
を理解せずに進級していくことになる。試験の点数以上の価値が学問に
は存在するということを納得してもらおうと、いろいろと試行錯誤して
h
この説明も、そう簡単に受け入れてもらえるわけではない。
-6-
いるがなかなかうまくいかない。
3.おわりに
FAQ には、次のようなものもある。
・授業内容がよくわからないので、問題練習をしたい。どのような問題
を解いたらよいか。
・物理は歯科医学を学ぶ上で、役に立つのか。
一つ目の質問は尤もなものと思われるかもしれない。しかし、多くの
場合、質問者の意図は「授業内容はわからない。だから、試験に出そう
な問題と答を暗記する。どれを覚えたらよいか。」ということであり、
彼らにとって授業の到達目標は「試験でよい点を取ること」である。物
理を専門としない歯学部の学生にとって、物理の問題を解けることが「役
に立つのか」と感じるのは、むしろ当然の疑問であろう。
本レポートで取り上げた学生たちの疑問、あるいは理解不十分な点が
あることを、試験結果などのデータから読み取るのは簡単ではない。残
念ながら、試験問題を解くことは多くの場合パターン練習でできてしま
う。あるいは、いくつか本質的な理解を必要とするような問題があった
としても、それができないからと言って合格できないというほどのこと
はないだろう。「本質的な理解」ができているかどうかは、評価が難し
いiのである。しかし、物理学科ではない学生が、この先直接に物理学の
問題を解くことを必要とすることは少ないだろう。必要となるのは、物
理の基本的な考えや法則であり、それらを個々の領域に正しく適用する
力である。「評価のない教育はない」という考え方もあろうが、評価し
にくい内容は教育しない、というのは本末転倒である
7)。学生中心の教
育を目指すのであれば、試験の平均点が上がれば良しとするのではなく、
i
筆者の言い訳に過ぎない、という見方も十分成り立つ。
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学生たち一人一人が「わかった」という喜びを得ると共に、物理学を知
恵として身につけることを目標とすべきであろう。
参考文献
1.西村塁太、新田英雄:「振り返り」を導入したピア・インストラク
ション型授業.物理教育
62、2014
2.望月隆二:物理の授業におけるクリッカーシステムの利用.東京歯
科大学教養系研究紀要
29、2015
3.NHK エデュケーショナル:物理実験・観察室 BEST100(DVD)
vol1.実教出版株式会社、2008
4.物理基礎、新編物理基礎
共に数研出版、2013
5.池上健司:歯科大学新入生の理科的知識とその後の変化.東京歯科
大学研究紀要
24、2009
6.池上健司:歯科大学新入生の理科的知識とその後の変化2.東京歯
科大学研究紀要
26、2011
7.梶田叡一:三訂版
教育評価.放送大学教育振興会、2003
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