日本文学の近代化(1868-1912) 漱石における我執の研究

 アインシャムス大学
外国語学部
日本語学科
大学院文学
日本文学の近代化(1868-1912)
漱石における我執の研究
修士論
研究者
アラー・アブデルバーセト
指導教官
今井雅晴教授 アハマド・ファトヒー准教授 2014 目
次
I 目
次
前書き はじめに 第1章:漱石の我執と写生文の相関関係 第1節:日本文学における近代小説の
導入 第2節:漱石の我執 第3節:漱石の反近代化の象徴(ジャン
ル、写生文)
第2章:後期三部作からの『行人』 第1節:語り手(二郎と H さん) 第2節:構造的分裂 第3節:三角関係
第4節:漱石の我執 第3章:後期三部作からの『こころ』 第1節:語り手(私) 第2節:構造的分裂 第3節:三角関係 第4節:漱石の我執 結論 参考文献
I I I 1 1 15 29 50 52 61 68 73 90 92 100 105 114 121 132 前書き
II 前書き
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専門分野 重要性 テーマ 目的 先行研究と本論の相違 批評分析対象の作品 方法論 研究計画 結論 1. 専門分野 日本近代文学・明治文学(1868-1912)。夏目漱石
(1867-1916)における我執を中心とする。論文のおも
なテーマは 2 点である。それは主題と文体である。 主題:まず、我執と自我という概念の相違を明らかに
してから、漱石による我執の存在論と倫理論を解明して
みる。 文体:漱石の文学作品に於いて写生文の特徴である筋
の不在と作者の心理状態を論じてみる。 2. 重要性 東洋的な「我執」と西洋的な「自我」の対立関係を明
瞭化することによって、この論文を通じて、我々エジプ
ト人の西洋的な概念である「自我」および「個人主義」
の認識や受容を再考したい。 II エジプト社会の知識人は西洋的な「自我」および「個
人主義」を自明な概念のように標榜する。一方、保守主
義者はそうした西洋的な概念に抵抗する。明治開化は
「和魂洋才」に象徴される。「和魂」は儒教、尊王、国
粋主義と様々な形式を取る。そうした「和魂」の形態は
「洋才」の「自我」を否定していた。漱石は早期に「洋
才」の「自我」および「個人主義」の受容の必然性と困
難性を認識した。彼は「自我」を持つべき近代知識人と、
この「自我」を否定する日本文化の根本的要素である
「我執」との間の自己分裂に悩んだ。日本の作家・思想
家である漱石の悲劇を紹介することによって、我々の西
洋的「自我」の理解を確認したい。 一方、論文の文体については、日本文学の研究者によ
る「写生文」という概念を紹介したい。「写生文」は明
治文学の一つの源泉となり、漱石だけでなく、自然主義
派の文学を理解するための鍵と思われる。 3. テーマ 以下の 2 点に分けられる: 主題(モチーフ) 文体(エクレチュール) 主題(モチーフ):「我執」という言葉の起源と定
義を説明した上で、「自我」という概念との相違を明ら
かにする。「自我」は西洋文学の基本的な主題である。
明治末の自然主義派の主な問題とされたことから、江藤
淳は自然主義者の文学は西洋文学の「脚註」と比喩し、
非難した。ただし、漱石は西洋的「自我」でなく、日本
的「我執」を認識し、作品で描写した。そのため江藤淳
は、漱石は明治日本社会の現実の創始発見者である、と
III 位置づけた。漱石に於ける我執には、以下の二つの特徴
が存在する。 I. 存在論的特徴(アイデンティティの喪失) II. 倫理的特徴(暗い、醜い存在) I. 存在論的特徴(アイデンティティの喪失) 日本文化起源の研究者であるルース・ベネディク
トの『菊と刀』では、日本文化と西洋文化の「恥と
罪」および「集団主義と個人主義」という根本的な
相違は、西洋の記憶に保存される唯一神とそうでな
い日本によるとする。西洋において、個人主義は可
能であるが、唯一神のいない日本では、個人主義は
「集団主義による恥」の文化に気化されてしまい、
不可能である。そのために、日本の「我執」は本来
アイデンティティの喪失された存在と言えそうであ
る。 漱石にこの事実を認識させたのは、乳幼児期の養
子体験であると考えても良い。柄谷行人は、漱石に
とっての家族制度をソシュールの言語制度と比喩す
る。柄谷によって、例えば、漱石に於ける「母」は
ソシュールの記号内容「シニフィエ」に当たる。そ
うであるなら、自然な記号表現「シニフィアン」は
生母チエであるべきだ。しかし、漱石の場合シニフ
ィアンは養母ヤスに取り替えられてしまった。シニ
フィエとシニフィアンの結びつきの自然性は取替え
の禁止から来る。漱石の養子体験の場合、シニフィ
アンは恣意性にさらされてしまった。そのために、
彼は普通の子供のように家族を「自然」として受け
取れなかった。彼の不安はこの自然性の欠如が原因
となる。 IV 従って、柄谷は「彼にとってはアイデンティティ
(同一性)はありえない。なぜなら、アイデンティ
ティは制度の派生物を「自然」として受け取ること
に他ならない。彼の生涯の不安は、このような「取
替え」の根源性を察知せざるを得ない」ことから来
る、と思考する。本論において、アイデンティティ
(同一性)のない存在は「我執」と呼び、「自我」
ではない。「自我」の定義では、同一性は条件とな
るからである。本論で、漱石による「我執」の存在
論的特徴(アイデンティティの喪失される存在)を
彼の後期作品『行人』、『こころ』の主人公の内面
に追及してみる。 II. 倫理的特徴:優越性から切り離された醜い存在 ルース・ベネディクトは、日本的な優越性と唯
一神との相違を指摘した。すなわち「唯一神のな
い優越性においては、唯一神の元で実現されるよ
うな優越性への収斂は、現実ではなく、仮構の世
界においてのみ可能であるはずである」。漱石を
はじめとする明治知識人の教養は儒教や漢文に基
づいていた。彼らは明治国家を信用し、日本の近
代知識人の価値は国家主義や儒教に結び付けられ
た。 漱石にとっては、儒教や明治国家は絶対的な優
越性となる。彼は自分が意識せざるを得なかった
アイデンティティの喪失された我執から逃避して、
儒教や明治国家の絶対性を隠れ家とした。しかし、
ロンドン留学(1900-1902)によって、近代文学
の目的は自己表現であり、国家や儒教を理想化す
るためのものではないと理解し、隠れ家としてき
V た絶対性は粉砕された。それによって、自己は優
越性から切り離された醜い、どうすることもでき
ない存在(我執)に目覚めたのである。 その結果、ロンドンにおいて二つの矛盾した自
己観が成立することとなる。すなわち、現実的自
己観と伝統的自己観である。前者は積極的な面で
あり、近代知識人の独立性を持つ「自我」である。
後者は消極的な面であり、優越性から切り離され
た価値のない醜い存在「我執」である。漱石は二
つの自己観の間で自己分裂に悩み続き、神経症に
かかった。彼は自分の悩みを初期作品でユーモア
で表現し、後期作品で三角関係の主題によって描
写した。本論では、漱石による我執の倫理的特徴
を後期作品の『行人』および『こころ』での三角
関係に於いて追求してみる。 文体(エクレチュール): 漱石は小説家としてよりも、思想家として評価
される。それは彼の反近代的な文学態度によるも
のであると、当時の文壇に非難された。漱石の文
体「エクレチュール」は novel の確立以前に存在
した文学形態「genre」に属する。フライ(1919-
1991)は『批評解剖』で genre を 4 つに分ける。
Romance, confession, anatomy, novel である。 19 世紀後半、novel は普遍的な文体となり、他
の genre は減滅された。明治文壇の自然主義派は
novel を中心とした。漱石はこの文学風潮と離れ
て、新しい文学傾向をとった。彼の文学作品は写
生文に基づいた genre と言えよう。彼の作家活動
VI 初期には、写生文の特性が明らかな romance と anatomy の作品を書き、ホトトギスに連載した。
朝日新聞で職業作家になってから、我執を主題と
した confession を書いた。 本論では、後期新聞作品の『行人』(大正 2)、
『こころ』(大正 3)を分析対象にした。それぞれの
作品の文体を分析する際に、それらの作品におけ
る漱石の写生文の性質を論じてみる。なお、漱石
による写生文の考察は、写生文という概念を始め
て用いた正岡子規(俳句の改善を目指したもの)
と、その後継者である高浜虚子(小説を目指した
もの)の影響を受けている。 漱石に於ける写生文には 2 つの特徴がある。 I. 筋の不在 II. 作者の心的態度 I. 筋の不在 筋は novel の第 1 要件とされるが、漱石は筋を
否定した。彼は言う、「筋とは何だ。世の中は筋
のないものだ。筋のないものに筋を立ててみたっ
て、始まらないじゃないか」(写生文)。筋の不
在は漱石の作品において二つの技法で実践される。 一つは現在形である。Novel は通常過去形で書
かれる。しかし、漱石は現在を書き、過去形の
「た」を拒否することによって、全体を集約する
ような視点を拒む。もう一つの技法は解釈である。
漱石にはプロットを外れて、登場人物の精神を解
釈し、観察する癖がある。そのため、作品の構成
VII 上、分裂が生じてしまう。このような文学態度は
写生文の筋の不在によるものである。本論では、
批評分析対象の作品における構成分裂を、写生文
の筋の不在によって説明してみる。 II. 作者の心的態度 Novel の客観性は語り手の中性化(消去)から生
じる。しかし、漱石は作者の心的態度を主張する
ことによって、語り手の露出を認める。漱石は写
生文の本質を、世界に対する「作者の心的態度」
に求める。それは親が子供に対して取るような態
度である。正岡子規は「写生文」をどのように書
くかを問題の中心としたが、漱石は「語るべき対
象との距離」を主にした。作者(語り手)がメタ
レベルとして、主人公を上から見る。ナレーター
がメタレベルとして露出することが、「写生文」
の最も重要な特徴だと漱石は考えていた。 作品で作者の心的態度は二つの技法によって実
践される。それは、ユーモアと回想の文体技術で
ある。ユーモアは初期作品『我輩は猫である』と
『坊ちゃん』に明らかに見られ、自然主義派のア
イロニーとは相違している。また、回想は後期作
品『こころ』および『道草』の構成上に認められ
る。本論では、『行人』および『こころ』におけ
る語り手の機能と役割を写生文の「作者の心的態
度」によって解明してみる。 4. 目的  漱石の後期作品『行人』および『こころ』のモ
チーフ「我執」を分析することによって、2 作
VIII に於ける漱石の「我執」の存在論的特徴と倫理
的特徴を追究してみる。  2 作の文体を分析することによって、それぞれ
の作品に於ける漱石の写生文の特徴を把握して
みる。  2 作のモチーフと文体の分析の目的は 19 世紀後
半から普遍的になった novel よりも、写生文に
基づいた genre のほうが、漱石の我執を描写す
るのに適当であったことを証明することである。
漱石の文学態度は反近代的とみなされたが、漱
石は正直に我執を表現するために、風潮の
novel を無視して、自分なりの文体を書いた。 5. 先行研究と本論の相違 小説家夏目漱石の文学生活は 10 年間(1905‐1916)
であり、三つの段階に分けられる。第 1 段階
(1905‐1907)では、写生文に基づいた初期作品を
執筆し、ユーモア、ファンタジー、文明批評のテーマ
を持ったことから、反自然主義、または余裕派とみな
された。第 2 段階(1907-1915)では、職業作家に
なった後、漱石の文学態度は現実的な傾向をみせたが、
自然主義派の novel でなく、genre の告白作品を執筆
する。本論の分析対象作品『行人』および『こころ』
はこの段階に属する。第 3 段階(1916)で執筆した
後期最後の 2 作『道草』および『明暗』は、当時の文
壇から novel と評価された。 漱石の文体をテーマにした先行研究の多くは、初期
作品の写生文、あるいは第 3 段階の novel の性質を主
とした論考であり、第 2 段階の作品は写生文と novel
の橋掛けと位置づけられていた。言い換えれば、新聞
IX 小説家になってから近代小説を執筆したのであって、
第 2 段階は漱石の文学生活にとって、転換期と思われ
る。そのために、この段階の作品の重要性は、文体よ
りも、モチーフ「我執」が主とされる。先行研究の多
くは、この段階の文体に触れる際、作品構造は複雑で
わかりにくいとし、また、ナラトロジーが安定せず客
観性と主観性が揺らいでいるなどと指摘して、正面か
ら文体を分析していない。本論では、この段階の作品
は novel ではなく、漱石における写生文の性質に基づ
いた genre であることを解明してみる。そこで、この
段階の作品の文体を漱石の主題「我執」によって再評
価してみる。 「我執」をテーマとした漱石論考のうち、多くは精
神分析の手法を用い、漱石の神経症に焦点を当てて、
主人公の我執を分析する。一方、漱石を文明批評家と
みなして、主人公は明治日本の比喩であり、近代化を
急ぐ明治日本の我執を描出することに成功した偉大な
国民作家と高く評価する論考もある。しかし、漱石を
病気の作家、もしくは国民作家と捉えることによる
「我執」の解釈は、矛盾した結論を生み出した。これ
ら膨大な漱石論を前にすると、読者は一人の作家につ
いてではなく、何人かの作家について書かれた論考で
あるように思ってしまう。 本論では、以上の分析方法を批判し、病気や国民作
家といった従来のイメージにとらわれず、我執の主題
を漱石自身の乳幼児体験およびロンドン留学経験によ
って生み出されたものとみなして、小説家としての漱
石像を再評価してみる。 X 6. 批評分析対象の作品 後期作品『行人』(大正2年)、『こころ』(大正3
年)。2作は相次いで朝日新聞に連載され、我執を主題
とする。 『行人』を選んだ理由は、この作品ほど漱石の我執と
いう課題を明確に描出した作品はないと思われたからで
ある。『行人』の重要性は概念にあって、文体にはない。
文体の側面では失敗作と批判される。しかし、『行人』
に於いて、漱石の我執の存在論的特徴は他の作品よりも
明確に描写される。また、文体にみられる欠点は、漱石
の写生文の特性から生じた作品構成である。本論では、
『行人』の文体を漱石に於ける我執の性質に基いて再評
価してみる。 『行人』は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の
4 章から構成される。最初の 3 章では自己本位に行動す
る主人公一郎とその妻との間に生じた不安が、弟である
二郎の視点を通して描写される。第 4 章は作品として明
らかに分裂している。ここにおいては、一郎という近代
知識人が我執の追求によって感じる苦悩よりも、むしろ
我執からの解放の困難さを主人公の同僚 H さんの視点を
通して描出される。
ついで、『こころ』を選んだ理由は、漱石に於ける我
執の倫理的特徴が明確に描出されていて、そこにこの作
品の魅力があるからである。『こころ』の構造はうまく
できていると思われるが、「先生の自殺」は伏線外れで
あり、この問題を漱石に於ける我執の存在論によって解
決してみる。
XI 『こころ』を読むと、「私」という語り手は作品の第
一章〈先生と私〉と第 2 章〈両親と私〉に顕著である。
しかし、「私」は第 3 章〈先生と遺書〉では消えて、主
人公が一人称を使って、過去を手紙の形で告白して、
「私」に送る。また、『こころ』では、我執の主題がド
ラマチェックに、且つ感傷的に描写されている。主人公
である「先生」は親友である「K」を出し抜いて、お嬢
さんに結婚を申し込む。それを知って、K は自殺する。
お嬢さんと結婚してから先生は罪悪感に悩み続き、毎月
K の墓参りする。最後に明治天皇崩御につづく乃木大将
の殉死を機会にして、自殺する。 7. 方法論
『行人』と『こころ』の文体に於いて欠点とされる
語り手の露出(客観性の欠如)と作品形成分裂は、漱
石による写生文の特性に起因することを明らかにする。
この反近代的な漱石特有の文体(エクレチュール)は
novel で は な く 、 写 生 文 を 基 礎 と す る genre
(confession 告白)である。この文体は漱石に於ける
我執の存在論的特徴、倫理的特徴を描写するのに適当
であった、という結論に達してみたい。
各作品の批評分析は、以下の 4 つの方法によって
行う。  語り手の機能と役割を、漱石に於ける
写生文の特性「作者の心的態度」によ
って論じてみる。  構造分裂を、漱石に於ける写生文の特
性「筋の不在」によって明確にしてみ
る。 XII