聖書解説誌 月刊レムナント 2016年7月号 諏訪御柱祭と古代

レムナント
(2015年10月号~2016年5月号まで休刊だった本
誌ですが、ここに再開後第2号をお送りいたします)
「レムナント」誌は、現代社会、私たちの人生、宗教、科学等の諸問題について、
興味深い話題を提供するために生まれました。そして「レムナント」誌は、それらの諸
問題に対する聖書の教えをも示します。読者が、「永遠のベストセラー」である聖書の
偉大な教えに対する理解を、当誌を通して深められることを期待します。
「レムナント」の名前は、聖書の次の言葉に由来しています。
とが
「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである
レ ムナント
残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜
ばれるからです」(ミカ7:18)
「その日、万軍の主は、民の残りの者にとって美しい冠、栄えの飾り輪となり・・・」(イザ
28:5)
「(神は)彼に対して何とお答えになりましたか。『バアルにひざをかがめていない男子7千
人が、わたしのために残してある』。それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者
がいます」(ロマ11:4-5)
「レムナント」(残りの者)とは、様々な試練をへてもなお、神に忠節を尽くし、神に従
い通す人々を意味しています。「レムナント」誌は、教派にかたよらず、福音的キリスト
教の信仰に基づき、聖書の福音を純粋に伝えようとするキリスト教誌の一つです。
(本誌は、伝統的プロテスタントの立場にたつものであり、「ものみの塔」「統一教会」「モルモン教」等とは関係がありませ
ん)。
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目 次
諏訪の御柱祭と 古代イスラエル
東大寺と景教
民族の起源
臨死共有体験
終末の「獣」の活動
英語で イソップ物語
お勧めの集会・講演 2016年
カタログ
レムナント誌の信仰
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諏訪の御柱祭と
古代イスラエル
諏訪大社の御柱祭も御頭祭も
古代イスラエル起源!
勇壮な御柱祭
今年は、諏訪大社(長野県)の勇壮な祭・御柱祭の年にあたり、筆者もそれを見てき
た。
御柱祭は、数えで「7年ごと」に行われる。満では6年ごとになるが、6年たったあと「7年
目」に行われている。
この年、諏訪大社の境内の四隅に立っている御柱、および宝殿が新しいものに取り替え
られる。
じつは御柱祭の起源は、結論からいうと、古代イスラエルにある。それを具体的に解説し
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ていきたいと思う。まず御柱祭そのものについて、少しみてみよう。
諏訪大社は、上社と下社からなる。上社は前宮と本宮、下社は春宮と秋宮に分かれ、
計4つの宮がある。各宮の四隅には御柱と呼ばれる「もみの木」の大木の樹幹が立てられ
ている。それらすべてを入れ替えるから、計16本必要だ。
それら御柱は、近くの山で切り出され、地域の道路等をひかれて諏訪大社へ運ばれ、そ
こに立てられる。約2ヶ月かけて実行される大祭だ。
御柱をひいていく途中には、急な下り坂もあれば、川などの難所もある。しかし大勢の運
び手たちが力をこめて、威勢のよい掛け声をかけながら引っ張っていく。
御柱の上には、多くの男たちが乗っている。柱はご神体とされているから、まるで神を慕っ
て寄り添う人々の姿のようだ。
御柱が山の斜面の急な下り坂をくだったり、川を渡ったりするときも、御柱の上に乗った男
たちは、勇敢に御柱と共に下る。それは体験者の談によれば、ジェットコースター以上にこ
わく、勇気のいるものだという。
この勇壮な祭を見るために、何十万人もの観客が訪れている。
単に柱を運ぶというだけなら、現代ならトラックで運べば済むことだろう。しかし柱は、神の
よ しろ
降臨する依り代(目標物)とされ、神そのものともみなされ、多くの人手により大切に運ばれ
てきた。
柱にたくさんの縄をつけ、大勢の氏子たちがその縄をひきながら、柱を引きずって神社まで
運ぶ。御柱は一番大きいもので重さ10トン以上もある。みな「ヨイサ!」の掛け声をかけな
がら、御柱を少しずつ引っぱっていく。
彼ら運び手たちや、先頭を行く行列、歌うたいたち、ラッパ等で神楽をかなでる者たち、そ
の他周囲の世話係等をすべて合わせると、1本の御柱を運ぶために働き手だけでも千人
近い人々がかかわっている。
さらに周囲では何万人もの観客が、その姿を見守っている。みな心を一つにし、同じ目的
のために汗を流し、拍手や歓声をあげ、喜んだり驚いたりしながら力を合わせている。
その光景をみると、神道という宗教がいかに日本人に力を与え、団結させてきたかが強く
感じられる。
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山の斜面の急な下り坂や、川渡りなどの難所においても、氏子の中には男気を見せてそ
の大役にあたりたいと、その労を志願する者が多い。
昔はよく死人や、けが人も出たという。だが、たとえ死んでも、神様の労のために死んだとさ
れて名誉とみなされた。現在はだいぶ安全対策がなされ、死者や負傷者は少なくなった
が、危険な作業であることに変わりはない(実際今年も死者が出てしまった)。
御柱は、多くの日数と労を経て諏訪大社境内に運ばれたのち、そこで垂直に立てられ、
境内の四隅を見守ることになる。
トルコ・イスタンブールの巨大なイスラム教モスク「スルタン
アフメト・モスク」。四隅に立っているのは、柱ではなく塔である。
御柱祭の起源
諏訪の御柱と、形状的に似ているものとして、トルコ・イスタンブール(旧コンスタンチノープ
ル)の巨大なイスラム教モスク「スルタンアフメト・モスク」の四隅の塔が指摘されることがあ
る。そこは元々キリスト教の大聖堂だったが、イスラムによって征服され、イスラム教のモスク
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(礼拝堂)になった。
しかし、その四隅のものは柱ではなく、塔である。人がそこにのぼり、周囲にイスラムの礼拝
時間を知らせるために建てられたもので、8世紀以降に造られた。塔のための祭があるわけ
でもない。
一方、諏訪の御柱祭は、ネパールの「柱祭」と似ているといわれることもある。やはり柱を
切り出し、地域の道路や街中をひっぱってきて、柱を立てる。
しかしネパールの柱は、祭の8日目には倒され、川に流されてしまう。これは、神社の四隅
に立ち続ける諏訪の御柱との大きな違いである。
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ネパールの柱祭。山から切り出され、人々に引
かれて町に建てられるが、祭の終わる8日後に
は倒されて、川に流される。
じつは諏訪の御柱祭の起源は、諏訪の氏子の多くも知らないことではあるが、古代イスラ
エルにある。
イスラエルではソロモン王の時代に、エルサレムに最初の神殿が建てられた(紀元前10世
紀)。その外壁等には石材も多く使われたが、内部はすべて木材だった。
レバノンから運ばれてくる「もみの木」や「杉の木」。
エルサレム神殿建設のためであり、その熱気あふ
れる光景は御柱祭のようであったろう(ドレ画)。
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神殿の内部は天井から壁、床、柱などすべてが木材であり、「石は一切見えなかった」と
聖書に記されている。
イスラエルには神殿建設のための良質な木材がなかった。それでソロモン王は、木材を北
の隣国レバノンの森林から取り寄せた。レバノンの王は快く協力してくれた。ソロモンはその
労役のために、1ヶ月交代で1万人ずつレバノンに働き手を送った(I列王記5章14節)。
ほかにも、神殿建設のための荷役人夫が7万人、石材人夫も8万人いた。膨大な人数
がたずさわってエルサレム神殿の建設が行われたわけである。
建設用の木材は、「もみの木」と「杉の木」であった(同5章8節 新改訳)。諏訪の御柱
も、もみの木である。
木材は、いかだに組まれて海路、イスラエル沿岸まで運ばれ、そののち陸路でエルサレムへ
運ばれた。諏訪と同様、途中には山あり谷あり、川ありで難所も多かった。
しかし大勢の働き手が、かけ声をかけあいながら大切に運んだ。神の木材だったからだ。そ
のときのかけ声は、イスラエル人の言葉=ヘブル語(ヘブライ語)の「エッサ!」(持ち運べ)だ
ったろう。
イスラエル人は今もその言葉を、そういう際に言う。それが若干なまって、諏訪では「ヨイサ」
になったに違いない。
周辺には、その光景を見守る観客も大勢集まった。あるときは驚き、歓声をあげ、拍手も
したであろう。それは諏訪の御柱祭のような、熱気あふれる光景だった。
こうした労を経て、ソロモン神殿はついに7年後に完成する。
「神殿のすべての部分が、その明細どおりに完成した。これを建てるのに七年かかった」(I列
王記6章37~38節)
諏訪の御柱祭も7年ごとだ。
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諏訪大社の御柱。一の御柱が一番高く、
順に低くなり、階段状になっている。神が
降りて来やすいようにという配慮である。
柱の意味
古代イスラエルではさらに、「柱」は諏訪と同じく神の霊の降臨する依り代とされ、礼拝の
場に立てられた。
イスラエル民族の父祖ヤコブは、神の啓示を受けた場所に「石の柱」を立て、それに神酒
を注いで斎場としている(創世記28章18節)。のちの指導者モーセも、イスラエルの12支族
に従って12の「石の柱」を立て、神を礼拝した(出エジプト記24章4節)。
神礼拝のための「柱」は、石の柱だけでなく「木の柱」もあった。木の柱の風習は、単にイス
ラエル民族だけでなく、広く中近東に広がった宗教的風習で、とくに異教の女神「アシラ」を
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表していた。
アシラの木柱。ヘブル語では「ハ・アシラ」
(ハはtheと同様の定冠詞)と書かれ、
これが日本語の「ハシラ」(柱)の起源となったか。
聖書には「アシラの木像」(申命記16章21節)と記されている。それは祭壇の近くに立てら
れた木の柱だった。考古学者は、木炭化したアシラ像を発見している。それは諏訪の御柱
と同様、枝を切り落とし、樹皮をはいだ生木の幹だった。
聖書のヘブル語で、アシラは「ハ・アシラ」(ハは英語のtheと同様の定冠詞)と書かれてい
る。日本語の「ハシラ」(柱)はこれが起源だろう。
かつて南北分裂時代のイスラエルにおいて、北王国イスラエルについた10支族は、異教に
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そまったため、紀元前722年、神の罰を受けてアッシリア帝国に捕囚された。彼らはこの捕
囚のとき、アシラの木柱信仰をも持っていた。
10支族はそののち東方等へ離散。シルクロード各地に末裔を残したが、やがて日本列島
に達する者たちも多かった。イスラエルの10支族は中国の開封を経て、朝鮮半島を通り、
日本列島に渡ってきた。
彼らには東方憧憬があり、「日出ずる地」への憧れがあったからである(エゼキエル書8章
16節)。
日本に来たイスラエル人は、各地に住み着いた。諏訪に到達する者も多くいた。そのた
め、その時代から諏訪に御柱信仰があった。
諏訪では古来、「モリヤ神」(洩矢神)が信仰されてきた。これは古代イスラエル人の神で
ある。
モリヤとはもともと、ソロモン神殿のあったエルサレムの「神殿の丘」をさす言葉である。イスラ
エル人にとって「モリヤの神」といえば、「イスラエルの神」のことにほかならない。
このモリヤ神信仰は、相当に古い時代から日本にあった。日本神話では、「国譲り」の際
もりや
に「タケミナカタ」が出雲から諏訪にやって来て、「モリヤ神」を信じる「洩矢族」と戦闘を交え
たとしている。
ということはモリヤ神信仰は、初代・神武天皇の即位前から諏訪にあったのである。
諏訪にはまた、物部守屋(6世紀)の落人たちも来ている。だが、モリヤ神信仰はそれより
はるか前からあった。
諏訪大社の上社は、このモリヤ神を崇拝するために建てられた神社である。その社殿はモ
リヤ山(守屋山)と呼ばれる山のふもとに建てられていて、その山をご神体とし、そこに降臨
するモリヤの神を礼拝している。
諏訪大社の境内の四隅には、御柱が立てられている。じつはその各柱の高さは、少しず
つ違っている。「一の御柱」が一番高く、他は次第に短くなる。いわば、らせん階段状だ。
これは神がそこに降臨する際、階段を経て下りやすいようにという配慮だという。このように
御柱は、単に境内の境を示すだけでなく、神の降臨を求めて設置されている。
モリヤ山(守屋山)のふもとの諏訪大社の御柱は、エルサレム・モリヤの丘のソロモン神殿
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と、イスラエル的伝統にちなみ、そこへの神の降臨を求めて設置されているのである。
守屋山山頂。向こうに見えるのが諏訪湖。諏訪大社は
この山をご神体とし、「モリヤの神」を拝している。
イスラエルの神
諏訪のモリヤ神がイスラエルの神であることは、次のことをみても明らかである。
御柱祭を行っている諏訪大社では、もう一つ「御頭祭」というのも行われている。これは旧
約聖書に記された「モリヤの丘でのアブラハムのイサク奉献」の出来事を祭化したものなの
だ。
イスラエル民族の父祖アブラハムは、あるとき神から命令を受けて「あなたのひとり子イサク
をモリヤの丘で捧げよ」といわれる。
イサクは、アブラハムの子孫は「星のように多くなる」との神の約束を受けて与えられた、ひ
とり子である。その子が死んでしまっては、その約束は無に帰してしまうことになる。
しかしアブラハムは神の真実を信じた。さらに彼は新約聖書によれば、神には人をよみが
えらせる力もあると信じていた。
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アブラハムは少年イサクを伴い、モリヤの丘に来る。アブラハムはイサクを縄でしばり、薪の
上に横たえる。アブラハムはナイフを取り出し、イサクをほふろうとする。と、その瞬間、「もう充
分だ、あなたの信仰はわかった」とばかり、天使が現れて彼の手を止める。
こうしてイサクは解放され、そののち成長してヤコブを生み、イスラエル民族の祖として諸国
の祝福の基となっていく。
イスラエル・エルサレムの「モリヤの丘」。神殿の丘とも
呼ばれる。モリヤの神といえば、聖書の神を意味する。
モリヤの地でイサクが解放されたとき、アブラハムが目を上げてみると、やぶに角をひっかけ
た一頭の雄羊がいた。アブラハムはその雄羊を捕らえ、イサクの代わりに祭壇に載せて捧げ
た。
アブラハムは以後、その地を「アドナイ・イルエ」と呼んだ。これは「主は備えて下さる」の意
味である。これはイスラエル人にとっては、非常に重要な意味を持つ出来事だった。
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じつは諏訪大社の御頭祭は、この故事を祭化したものである。現在の祭は簡略化されて
いるが、昔、明治4年まで行われていた御頭祭では、実際に少年が登場し、縄でしばられ
た。
すがえますみ
菅江真澄という江戸時代の学者が記しているが、少年が御贄柱という2メートルほどの
柱に縄でしばりつけられ、竹のむしろの上に寝かせられる。神官がナイフを取り出し、少年の
頭の上の柱木に数回、傷をつける。
そのとき別の神官がやかましく現れると、少年は解放される。少年はその後、馬に乗って
周囲の地方をめぐり、大歓迎されて諸国の祝福の基となるのである。
御頭祭ではまた、75頭の鹿が捧げられた。その中に一頭だけ、「神が備えて下さる」と信
じられた「耳裂鹿」という耳の裂けた鹿が毎年必ずいたという。
アブラハムのときは、やぶに角をひっかけた羊だったが、角をひっかければ、あばれる際に耳
が裂けただろう。耳裂鹿はそれに由来するものに違いない。日本では羊がいなかったから鹿
が用いられた。
また諏訪大社では年間75の神事が執り行われてきた。75というのは、イスラエルの失われ
た10支族の人々が大切にしてきた数字であり、彼らに特有の数字である。
75は、サマリア五書(10支族の故郷サマリアで使われていたモーセ五書)における、かつて
エジプトに下った際のヤコブ一家の人数なのである。
御頭祭は、別名「ミサク神(じん)の祭」とも呼ばれている(守矢資料館後方の「神長官
邸のみさく神境内社叢」参照)。この「ミサク神」(御左口神)が、のちに訛ってミサクジ、ミサ
クチ、ミシャクジ等ともいわれるようになった。
ミサクは、ヘブル語の「ミ・イサク」で、「イサクから」「イサクに由来する」の意味である(ミは
fromの意味)。これはイサクの祭だと、ちゃんと告げているのである。
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諏訪大社のもう一つの祭「御頭祭」。古代イスラエルの幕屋
そっくりの建物(十間廊)で執り行われる。
御頭祭で、お神輿の前に「耳裂鹿」を捧げる神官。
現在は剥製が用いられているが、昔は山で
生きた鹿を捕らえ、毎年捧げた。
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石神との関係
じん
「ミサク神」といわれているように、イサクは日本において時代を経るなかで次第に神格化さ
れ、神的なものとして信仰されるようになった。
民俗学者は、ミサク神信仰は非常に古く、紀元前の時代から日本にあったと述べてい
る。
諏訪大社の神長官・守矢家の伝えるところによると、諏訪の御柱も、ミサク神の依り代だ
という。
これに関し興味深いものが、エルサレム「神殿の丘」の「岩のドーム」内にある。「基礎石」
と呼ばれる神聖な岩だ。
そこは、アブラハムの子イサクがその上に薪をしいて横たえられ、捧げられようとした、まさに
その場所である。
ユダヤ教徒の言い伝えによれば、神は天地創造の際、この岩を中心に万物を創造したと
いう。それは世界の基礎石なのだ。基礎石はエルサレム・モリヤの丘の頂点の岩でもある。
のちのソロモン神殿もその上に建てられた。
神聖なその基礎石に、直径45センチほどの丸い穴が垂直に空いている。じつはソロモン
神殿が建てられる前は、その穴に柱が立っていたといわれている。
基礎石に立っていたその柱は、イサクの故事を人々に知らせるものだった。
イサクの故事を、古代イスラエル人は日本に来たとき、とりわけ諏訪で、御柱と共に「ミサク
神」として伝えてきたわけである。
民俗学者は、このミサク神信仰は単に諏訪だけでなく、とりわけ東日本に広がっていたと
述べている。
そしてミサクジン(ミサク神)は、なまってミシャクジともいわれた。漢字ではいろいろあるが、
「石神」と書いてシャクジと読まれ、御石神と書けば、ミシャクジだ。
東京の石神井(シャクジイ)も石神神社から来たものである。ほかにも各地に「石神神
社」がある。これはミサク神(ミシャグジ)を祭ったものといわれている。
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エルサレムの「岩のドーム」内の「基礎石」。アブラハムが
イサクを捧げようとした場所である。そこに丸い穴が開い
ている(左上)。ソロモン神殿が建つまでは、そこに柱が
立っていたという。
なぜ、ミサク神を表すのに「石神」という言葉を用いたのか?
じつは諏訪大社の本宮には、モリヤ山(守屋山)に向かって、横長の巨石が祭壇としてす
えられている。硯石とよばれている。
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諏訪大社本宮にある大きな祭壇の石(硯石)。
モリヤの神を拝むために年1回、ここで神事が執り行われた。
それは、社殿がまだなかった時代からの祭壇で、神事が行われ、今も行われている。この
祭壇を囲むようにして4本の御柱が立っている。
その巨石祭壇で年に1回、モリヤ山に向かって神事が行われ、ミサク神の降臨を迎える。
ミサク神を降ろし、モリヤの神を礼拝する。その巨石祭壇は、エルサレム・モリヤの丘の「基礎
石」のような役目を、諏訪で果たしてきた。
イサクが横たえられた祭壇である基礎石と同様、諏訪大社の巨石祭壇ではミサク神が
降ろされる。このように、イサクと石は深く結びついている。
諏訪の巨石祭壇は、刃物を当てていない自然石である。自然石を祭壇として神を礼拝
することは、古代イスラエル人の風習であった。聖書には、初代の王サウルが大きな自然石
を持ってきて、それを祭壇とし、神を礼拝したと記されている。
石や岩は聖書では、神を表すシンボルでもあった。ユダヤ人の中には、アインシュタインとい
うように「~シュタイン」という名前が多い。これは「石」の意味である。
さらに最近、興味深い情報がもたらされた。中国の「石」という姓の人物が(石 旭昊
氏)、石家につたわる資料や伝承をもとに、自分の先祖はユダヤ人だという本を中国語で
出版したのである。
せきろく
それによると石氏は、古代中国で奴隷の身から皇帝になった「石勒」(五胡十六国時
代)の第69代直系子孫である。
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中国に来た渡来人=羯胡人はユダヤ人だったという本を
著した石 旭昊氏(前列右)と、その家族(彼の著書より)。
けつこじん
そして石勒皇帝は「羯胡人」であり、羯胡人ははるばるイスラエルの地から流れてきたユダ
ヤ人であるという(胡は外国人を意味する漢字)。
本によると、羯胡人は特有の言葉を話しており、それはヘブル語であるという。
さらに大西海(地中海)に面した地(イスラエル)から東へ移動する際、多くのヘブル語の
地名を残してきた。これは、あとから来る者たちへの道標であるという。
石氏は、祖父から次のように聞かされた。
「わしらの石家の始祖は趙国の君主、高祖・石勒皇帝である。・・・われらの祖先は大西海
(地中海)に面した土地からやってきた羯胡人なのだ。・・・いろいろ苦労をし、生き抜くため
に、神はわれらの祖先に指示したのだ。『太陽が昇る東の地へ行け・・・』と」
「昔々、地中海に面したイスラエルの民族は外敵に襲われ、家族、部族は四散した。太陽
が昇る地に向かって移動し、中原に来た。当時70の大家族だった。姓は石、高、周、李、
王、崔、郭、魏、程、田、杜、路、その他、婚姻で多くなった」
石は、中国におけるユダヤ人の姓だという。これと、日本でのイスラエル由来の石神信仰
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は、はたして無関係であろうか? 興味深いところである。
つまり、中国に来たイスラエル人に「石」姓が多かったこともあって、さらに日本へ進んだイス
ラエル人の間で、神は「石」の神とも呼ばれたのではないのか?
祭神タケミナカタとは?
このようにイスラエル起源の「モリヤ神」や「ミサク神」(ミサクジン=ミシャクジ)信仰は、非常
に古い時代から日本にあった。
とりわけ諏訪大社は、「モリヤ神」を拝し、ミサク信仰を伝えてきた。ところが諏訪大社で
「祭神」として名があげられているのは、「タケミナカタ」(建御名方神)である。これは一体ど
ういうことか?
タケミナカタは、もともと出雲(島根県)出身の神である。オオクニヌシ(大国主神)の息子
だ。オオクニヌシは出雲大社で祭られている神である。
出雲大社も、じつに古代イスラエル的な神社だ。出雲大社は古くは、高い位置に上げら
れた祭壇であり、長い階段をのぼって行く高層神殿だった。
諏訪で祭神とされているタケミナカタは出雲の出身だが、出雲大社
(島根県)は、かつて高層神殿だった。これはかつて古代イスラエル
の失われた支族がつくった祭壇にそっくりである。
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これはかつて「イスラエルの失われた10支族」に属するマナセ族、ガド族、ルベン族がヨルダ
ン川の東側につくった「大きくて遠くから見える祭壇」とそっくりだった(ヨシュア記22章10節)。
タケミナカタはその出雲から、諏訪にやって来た。
タケミナカタは、いわゆる「国譲り」の際、国譲りに反対し、争ったすえ出雲から逃げ、はる
ばる諏訪に来たのである。彼は諏訪の土着民「洩矢族」と戦い、勝った。
ところが、「洩矢族」の信仰や「洩矢神」が何であるかを知る彼は、その神を認め、同じ神
を祭った。勝ったタケミナカタは諏訪大社の祭神とされたものの、洩矢族をしいたげることな
く、洩矢族と協力して諏訪大社の運営にあたったのである。
おおほおり
タケミナカタの子孫から、諏訪大社の「大祝」と呼ばれる大宮司的人物が出された。一
じんちょうかん
方、洩矢族の神官「守矢家」からは、代々、諏訪大社の祭祀をになう「神長官」が出され
ていった。いわゆる政教分離の二頭体制になったのである。
タケミナカタとは一体どういう人物だろうか? タケミナカタの子孫から出た「大祝」の「祝」
は、「ほおり」と読んでいるが元は「はふり」である。「はふり」は罪穢れを清める祭司のことであ
る。
「はふり」は、ヘブル語の「カフリ」から来たものだろう。これは贖いをする者、罪穢れを清める
者(祭司)の意味だ。
つまりタケミナカタもその子孫も、ヘブル語を知っていた。筆者は、タケミナカタもまた、イスラ
エル人のリーダーのひとりだったとみている。
というのは出雲のオオクニヌシも、その息子タケミナカタも、諏訪のミサク神(イサク)も「神」
と呼ばれてはいるが、実際は先祖の人間なのである。
古代の日本またイスラエルでは、リーダー的な人物はしばしば「神」と呼ばれた。聖書に
も、リーダー的人物が「神」と呼ばれている所が何カ所かある。たとえば、
「あなたがたは神だ」(詩篇82篇6節)
とある「あなたがた」は、イスラエル人リーダーのことである。
モーセも、「パロ(エジプト王)に対して神」とされた(出エジプト記7章1節)。
このように、同じ「神」という言葉を使っても、礼拝すべきところの神と、単に先祖の人間で
ある神とがいた。だが古代のイスラエル人も日本人も、両者を混同することなく、区別してい
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たのである。
タケミナカタやオオクニヌシ、またミサク神(イサク)も、神と呼ばれたものの、その実態は、イ
スラエル人指導者を意味していたのである。
オオクニヌシ(大国主)の名は、首長とかリーダーの意味であるし、タケミナカタ(建御名方)
も「御名を建てるお方」と書くから、神の御名をたてる人物だったと思われる。
日本に来たイスラエル人の2系統
ところで、タケミナカタが出雲を出るきっかけとなった「国譲り」とは、どんなものか?
それはいわゆる「国津神」が「天津神」に、葦原中国(日本)の統治をゆだねたとされる出
来事である(津は「の」の意味)。
国津神が先に日本にいた。だが、そのあと天津神が「天孫降臨」で日本にやって来た。
国津神は天津神に、国の統治をゆずった。
この天津神によって、天皇家によるヤマト王権が誕生した。
このことからすると、古代日本に来たイスラエル人には、大きく分けて2系統あったようであ
る。
はじめにイスラエルの失われた10支族に属するマナセ族、ガド族、ルベン族等の諸支族が
日本に来ていた(国津神)。そのあと、日本に10支族の王族「エフライム族」がやって来た
(天津神)。
このときマナセ族ら諸支族は、王族なるエフライム族に国の統治をゆずった。これが「国譲
り」である。こうしてエフライム族の子孫である天皇家が、ヤマト王権を確立していった。
天皇家がエフライム族であるというのは、ここでは詳しく述べないが、神武天皇の系図がエ
フライム族の系図に、うりふたつだからである。そのことが、天皇家はエフライム族出身である
ことを証ししている。
諏訪大社のタケミナカタは、出雲での国譲りの際、国譲りに反対した国津神のひとりだっ
た。彼は出雲を出て諏訪にやって来た。
そこで彼を迎え撃とうとしたモリヤ族(洩矢族)はイスラエル人だった。しかし一方、モリヤ族
と戦ったタケミナカタ自身も、イスラエル人だったのである。
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諏訪大社はこのように、古代日本に渡来したイスラエル人たちの信仰を、今日に伝えて
いる。御柱祭も、御頭祭も、古代イスラエル起源の祭である。そしてそこで信仰されてきたモ
リヤ神、ミサク神も、イスラエル由来である。
諏訪にモリヤ神を伝えた洩矢族はイスラエル人であり、一方、のちに出雲から来て諏訪大
社祭神とされたタケミナカタも、イスラエル人リーダーのひとりであった。
諏訪を探ると、古代日本の様相と、日本民族のルーツがみえてくる。 AK
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東大寺と景教
奈良の東大寺は
景教(ネストリウス派キリスト教)
とかかわりが深い
東大寺の修二会
東大寺と神道
日本古来の神道には、もともと罪の観念が強くあるが、その罪観念は、日本人仏教徒の
罪の自覚にも大きな影響を与えた。東大寺にもそれをみることができる。
神道の「罪」の観念は、非常に旧約聖書的である。神道の儀式に「大祓い」というのがあ
るが、大祓いで読まれる祝詞(お祈り)に列挙される罪は、旧約聖書レビ記に記された
「罪」に酷似している。ユダヤ教のラビ・マーヴィン・トケイヤーは、その著『日本・ユダヤ封印の
古代史』(徳間書店)において、大祓いでいう「罪」と、レビ記でいう「罪」の類似を解説して
いる。
つまり神道の「罪」の観念は、古代日本に来たイスラエル人に由来するものである。また
神道の確立者・秦氏のキリスト教的神道から来たものとも言える。とすれば日本仏教の特
長を形成した「罪の自覚」は、間接的にユダヤ的影響による、と言うことができるだろう。
しゅにえ
東大寺の修二会には、きわめて神道的な儀式も入っている。祭の前に僧侶たちは寺にこ
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もり、厳重な身の清めを行なわなければならない。本行の直前には、神社でよく見かける幣
帛や、お祓いまで登場する。斎戒沐浴もある。すべて神道的だ。修二会の「別火」もきわめ
て神道的だ。
いや、これらは日本神道的であるとともに、同時にきわめてユダヤ的なのである。これらの
風習はまさに、旧約聖書に記された古代イスラエルの風習と同じだ。つまり修二会の悔過
の行は、きわめてユダヤ的である。
東大寺の修二会は、旧暦(月暦)の時代には、2月1日から2週間にわたって行なわれ
ていた。どうして2月なのかというと、インドでは2月(建卯)を年の初めとしていたからだという
(宿曜経)。つまり年の初めだから、悔改めと身の清めをする。
一方、ユダヤではユダヤ暦(月暦)の7月が年の初めである。そしてユダヤでも、この年の初
めに、悔改めと身の清めを行なう。ユダヤ暦の7月10日は「大贖罪日」(ヨム・キップル)とい
う特別な日で、その日までの新年の10日間は、悔改めと身の清めに専念するのである。
達陀
ダッタンの踊りと声明
26
だったん
東大寺の修二会ではまた、「達陀」と呼ばれる行が繰り広げられる。
「だったん帽」と呼ばれる帽子をかぶった人たち(練行衆)が、袈裟を縛ったいでたちで現わ
れ、法螺貝や金剛鈴が鳴り響く中、大たいまつを振りかざし、内陣を踊りまくる。その様子
はユーモラスでさえある。その帽子にしても、その踊りにしても、およそ日本のものではないこと
は、見ればすぐわかる。
この行の起源については、古代インドの火法とも、「ダッタン人」の踊りとも言われている。
ダッタン人(韃靼人)とは、中央アジアのモンゴル系遊牧民族タタール人のことで、彼らは
昔ほとんどが景教徒だった。彼らは日本にも来ていたと思われる。アジア大陸とサハリン(樺
太)島を分ける海峡には、「タタール海峡」また「ダッタン海峡」の名がつけられている(最も狭
い部分は間宮海峡と呼ばれる)。彼らはそこを通って日本に来たと言われる。修二会の達
陀の衣装や踊りは、インドのものとは思えない。だから、それはダッタン人景教徒から来たも
のではないか。
しょうみょう
また修二会では、僧侶が「声明」を唱える。
いや、唱えるというより歌うのだ。声明は、お経に節をつけて歌う仏教音楽である。仏教音
楽というのはなかなか聴けない。東大寺ならではである。僧侶がお経に節をつけて歌い、他
の僧侶たちがそれに応えるようにコーラスをつける。いわゆる普通の読経のような暗いもので
はない。暗さはなく、生き生きとしている。けれども、これがまたじつに、東方キリスト教会に
古くから伝わる礼拝音楽にそっくりなのだ。
さらに、西方教会のグレゴリオ聖歌の感じにもよく似ている。先日、学生時代をキリスト教
私立の学校で過ごし、今は有名な音楽家となっている人が、生まれて初めて仏教の声明
を聞いたときの衝撃をラジオで語っていた。それがグレゴリオ聖歌にそっくりだったと。
けれども、もっと似ているのは、東方キリスト教会の礼拝音楽である。筆者も、しばしばそ
れを聴くが、司祭が聖書の言葉に節をつけて歌い、それに会衆が応えるようにコーラスをつ
ける。そうした東方教会の礼拝音楽形式は、キリスト教の初期から変わらずに続けられてい
るものである。
教会音楽というと、読者は「ハレルヤ・コーラス」とか、「いつくしみ深き友なるイエス」などの
讃美歌を頭に思い浮かべることだろう。しかしこれらは西方教会の近代の音楽であって、東
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方教会の伝統的なものは全く違う。
筆者は、景教と同系のシリア教会の礼拝音楽や、エジプトのコプト教会、その他の東方
キリスト教会の礼拝音楽と、東大寺の声明とを聴き比べてみたことがある。その形式や、リ
ズム、雰囲気、作法、メロディなどは、互いにじつによく似ている。聴き比べていると、東大
寺の声明は東方教会の礼拝音楽に聞こえてくるし、東方教会の礼拝音楽は東大寺の声
明に聞こえてくる。
景教も、東方キリスト教の一つであり同様の礼拝音楽を持っていた。こうした東方キリスト
教の礼拝音楽は、古代イスラエル、古代ユダヤの礼拝音楽の伝統を色濃く残したものであ
る。
じつは古代インドは、すでに紀元前10世紀、ソロモン王の時代のイスラエルと交易を行な
っていた。ソロモン王が送った船団が、はるか南インドにまで達していたのだ。その時代から
南インドにはユダヤ教会堂があり、インド人はそこで行なわれている礼拝音楽も耳にしてい
た。
また紀元後になって、東方キリスト教徒たちがインドにやってきた。彼らの礼拝音楽は、や
がてインドでバラモン教の音楽形成をうながすことになる(2~6世紀成立のバラモン教音
楽理論書『ナーティヤ・シャーストラ』など)。それが後に仏教に入って、仏教の声明として知
られるようになったのである。仏教の声明がユダヤ教や東方キリスト教の礼拝音楽に似てい
るのは、そのためである。
過去帳と景教
修二会の中では、さらに、東大寺にゆかりのある人々の名前が記された「過去帳」が読
み上げられる。それには、聖武天皇から始まって光明皇后、源頼朝から無名の下々まで、
東大寺の有縁者、また今上天皇(現在の天皇)や現首相の名も記されている。過去帳の
中には、
しょうえのにょにん
「青衣女人」
と呼ばれる無名の女性も含まれている。
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東大寺の過去帳
ある時、過去帳を読む僧侶の前に青い衣の女性が現われ、「なぜ私の名を読み落とした
の」かと詰問した。僧侶は名前が分からないまま、とっさに「青衣女人」と読みあげたので、
以来、毎年「青衣女人」と言っている。源頼朝から数えて18番目の人だ。
このように、過去帳には上の者から下の者まで、有名、無名、また生者から死者まで、
様々な人が含まれている。その人たちの名を読み上げ、冥福や幸福を願って、とりなしの
祈りを捧げるのである。これはまさに、中国で、景教徒たちが景教の寺でなしていたことと全
く同じだ。
景教徒たちは毎日、とりわけ特別な日に、景教の寺にゆかりのある人々――中国皇帝
から庶民に至るまで、様々な人の名を読み上げ、生者のためにも死者のためにも、とりなし
の祈りを捧げていた。そうしたことが景教碑からもわかる。この景教徒たちの習慣が、東大
寺にも取り入れられたのである。
以上みてきたように、東大寺といえば大仏はあるし、日本仏教の総本山というイメージが
あるが、それは純粋な仏教ではない。景教の風習や特質を多く取り入れている。そしてユダ
ヤ教的なものさえ、数多く顔をのぞかせている。
仏教は一時、日本の国教的な地位に上りつめたので、日本全体が仏教一色になったよ
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うにもみえる。また後のキリシタン迫害時代に、キリスト教的なものはすべて仏教化された。
だがそれでも、古代日本に来ていたイスラエル人や、景教徒たちの影響は、今もみられる
様々な特徴として残っているのだ。
越天楽の演奏
雅楽と景教
先ほど仏教音楽の「声明」についてみたので、ここで、日本の伝統音楽「雅楽」について
も見ておこう。そこにも景教の影響が歴然としている。
えてんらく
雅楽の中で最も有名なのは「越天楽」(越殿楽)である。これは今日も宮中をはじめ、神
社でも、また仏教の寺でも演奏される。旋律には幾つかバリエーションがあるが、むかし堀河
天皇(在位1086~1107年)のころに、仏事に際して奏するためにバリエーションの一つ
「盤渉調」が作られたことが記録にある。最も古いのは平調である。越天楽は、今もあちこ
ちで演奏されるから、読者も必ず耳にしたことがあるだろう。聴けば、「ああ、知ってる」と思う
に違いない。
越天楽については、ペルシャから伝わった景教の音楽だといわれている。それはもともと景
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教徒たちの讃美歌だったのだ。越天楽の原型は、景教徒たちの故郷ペルシャに発し、景教
の流行していた唐の時代の中国を通じて、平安時代の日本に伝わった。静岡県に伝わる
有名な民謡「黒田節」も、「越天楽」の編曲から作られたものである。つまり越天楽の旋律
に七五調四句の今様風の歌詞がつけられ、「黒田節」(静岡県民謡)になった。
明治期に入ると、越天楽は小学校の唱歌にもなったし、キリスト教会の讃美歌にもなっ
た(245番「おもいいずるも」、第二讃美歌133番「花のあけぼの」)。それほど日本人に
親しまれた越天楽であるが、それは昔、景教徒たちの讃美歌だったのである。だから私は、
神社や寺で越天楽を聴くたびに、
「昔の日本にいた景教徒たちの讃美歌は、こういう雰囲気だったんだなあ」
と思って感慨深い。越天楽のほかにも、雅楽にはいろいろな曲がある。この雅楽を昔から
最も中心的に伝えてきたのが、秦氏であった。あの秦河勝は、雅楽の名手だった。彼が仕
えた聖徳太子も、
「蕃楽(外国の音楽)を積極的に取り入れよ」
と語り、この聖徳太子のもとで、秦河勝は雅楽を広めたのである。雅楽は、最も日本的
な音楽でありながら、その実は最も国際的な音楽である。もともと中国から伝来したが、そ
のルーツは、はるかシルクロードの彼方、インドや中央アジア、イラン、さらには西アジアにまで
遡る。まさにユーラシア大陸に響きわたる伝統音楽である。
それは景教徒たちや、ユダヤ教徒たちの音楽も取り入れて成立したものである。秦氏たち
にとっても、雅楽は讃美歌だった。雅楽師の東儀秀樹氏は、その著『雅楽』(集英社新
書)の中でこう書いている。
「僕はよくシルクロードを旅する。今、日本の雅楽で使っている楽器とまったく同じものはない
が、どこにも同じような理屈の音楽があったり、形状の似た兄弟のような楽器があったりす
る。これはしごく当然のことのように僕には思える」
じつは彼の姓「東儀」のルーツは、秦氏である。雅楽界の名家「東儀氏」の始祖の名は
「秦河勝」なのだ。秦河勝には多くの子供がいて、そのうち4男と6男が秦東儀氏を名乗
り、やがて単に東儀氏と称すようになった。彼らは雅楽と舞踏に秀でていて、楽人として大
成し、これが今日の東儀家へとつながっている。
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能で有名な「世阿弥」(1363?~1443?年)も、秦河勝の子孫である。
また、日本の国歌「君が代」も、雅楽の伝統を汲んだものである。現行の君が代は、明治
10年、宮内省の雅楽課の楽師数人がつくった作品の中から選ばれたもので、林広守の作
品である(一説には林広守の子・広季と、奥好義の合作とも言われている)。君が代の曲
想は、かなり雅楽的なのだ。
君が代を作曲した人は、雅楽を学び、のちに西洋音楽を学んだ人だったからである。それ
に当時、公式な場所での楽器は、みな雅楽器だった。のちに、西洋楽譜でも演奏できるよ
うに編曲されたが、もともとは雅楽を基礎にした曲なのである。
鑑真とパリサイ派
東大寺は、かつて非常に国際的な所だった。そこでは様々な国の文化が花開いた。75
2年、東大寺で大仏が完成し、盛大な開眼供養会が行なわれたときも、インドや中国の
がんじん
僧など外国からのゲストたちが多く参列している。754年には、来日した中国の僧「鑑真」
も東大寺を訪れている。
鑑真は、中国で有名な僧であったが、かねてから日本の招待を受けて日本へ渡ろうとし
ていた。だが、幾度も暴風雨にあい、渡航は失敗していた。6回目の渡航でようやく成功
し、前年の753年に、やっとの思いで日本にたどり着いたのである。当時、鑑真はすでに6
6歳の高齢に達していた。
だが彼は、東大寺に来ると大仏を拝し、そののち天皇の信任を得て、日本に「律宗」を
伝えていった。律宗とは、戒律を重んずる宗派で、戒律を守ることが成仏の道だとする。そ
の戒律は、僧侶には250戒、尼僧には348戒ある。ただしこれは最低限のものであって、
実際はもっとある。いや、際限がないほど細かいものが存在する。それらを厳しく守ることが
要求されるのだ。
筆者は、この律宗というものを思うとき、ユダヤに昔あったパリサイ派のユダヤ教を思い起こ
す。パリサイ派も、「律法」すなわち戒律を大変重んじた。それを守ることが救いの道とした
のである。
鑑真はまた、光明皇后にならって悲田院をつくり、身寄りのない者のための救済事業も
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行なった。
羊太夫をとむらうために始まった城山の
文字焼き(群馬県富岡市 毎年8月16日)。
これが京都の大文字焼きの起源となった。
大文字焼きの起源
筆者は先に、東大寺の「過去帳」について述べたが、ここで、日本における死者の弔いの
風習について、もう少しみておこう。
東大寺の大仏が建てられるより少し前のことだが、今の群馬県吉井町(昔、多胡郡とい
ひつじだゆう
った)のあたりに、「羊太夫」という秦氏の人がいた。彼の名は、「日本の三古碑」の一つに
たごひ
数えられる「多胡碑」(711年)にも書き記されている。羊太夫はその地域のリーダーだった
だけでなく、当時の日本全体の文化の発展にも多大な功績を残していた。
彼はキリスト教徒だったようで、彼の墓の中からキリスト教の十字架、および「JNRI」(ユダ
ヤ人の王ナザレのイエス)のローマ字が発見されている(詳しくは拙著『日本の中のユダヤ文
化』学研ムーブックス 第一章)。 羊太夫はまた、高度な技術力を持った人で、あの有名な日本最初の銅銭「和同開珎」
を作った技術長官でもあった。土地の人に尊敬され、慕われた人格者だった。彼が死んだ
とき、その地の人々は羊太夫を偲んで、以来毎年、お盆の時の送り火として山で「文字焼
き」の風習を始めた。721年のことである。
33
多胡の地で、山(城山)の斜面に浮かび上がる文字焼きは、「大」の字とは限らず、「天」
だったり、また雨の少ない年は雨乞いに「雨」の字にしたりする。いろいろである。しかし羊太
夫の死以来、毎年8月16日の夜に、送り火としてそのような文字焼きが行なわれてきた。
人々は、かがり火や松明を持って集まり、点火する。それは遠くからも見える。山のふもと
では盆踊りも行なわれている。これは死者を追悼する風習なのである。点火用具は、今は
仏教式に108燈が用いられるが、昔は12束の藁であった。そして集めた柴(大きくない雑
木)の束に火をつける。ただし今も、点火は12人が行なう。12は、イスラエルの12部族や、キ
リストの12弟子を思い起こさせるユダヤ的な数字である。
また火というのは、祈りである。ユダヤ教会でも、キリスト教会でも、会堂内にローソクなど
で灯火をつけるのは、それが人々の祈りを表現したものだからだ。
昔ユダヤでは、仮庵の祭のときエルサレムのシオンの山に、人々は松明やかがり火を持って
集まった。そしてその明かりのもとで、踊った。一種の盆踊りをしたのだ。そのときシオンの山
は、夜の暗闇の中に光り輝き、浮かび上がった。その火は、死者に対する追悼の祈りとして
も、シオンの山で輝いたのである。多胡の地で、羊太夫の死と共に始まった山の文字焼き
の風習は、こうしたユダヤ的伝統から生まれたものである。
そして、じつは9世紀に、空海がこの多胡の地を訪れたことが記録にある。空海はそこで
文字焼きの風習を見た。空海は、先に述べたように中国(唐)で景教徒たちに会っている
が、日本に来てからも、多胡の地に多く住んでいた古代キリスト教徒・秦氏や、景教徒たち
とも交流したようだ。
空海は、やがてこの文字焼きの風習を取り入れ、京都で「大文字焼き」の風習を始め
た。それがあの有名な京都の大文字焼きの起源である。「大」は、両手を横に広げた人の
姿を表している。情緒あふれる日本の風流な習慣も、こうしたところから始まったのであ
る。 AK 34
民族の起源
諸民族はどのようにして分かれ、世界に広がったか
諸民族の起源
「民族の起源」についてみてみよう。
これについては、じつは聖書の記述が最も信頼できる。聖書の記述を「単なる神話」と思
っている人には理解できないことかもしれないが、聖書の記述は「単なる神話」ではない、事
実なのである。
聖書の創世記10章には、諸民族の起源について記されている。それによると世界のすべ
ての民族は、ノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテから分かれ出た。先に述べたように、大洪
水のときに助かったのはノアとその妻、および彼らの息子セム、ハム、ヤペテとその妻たち、計
8人であり、大洪水後の人類は彼らから生まれ出たのだ。
したがって現在の人類は、すべてノアの子孫であり、またすべての民族はセム、ハム、ヤペ
テの3人を先祖として、分かれ出たことになる。
セムはおもに、ユダヤ人や中近東の諸民族の先祖となった。またハムは、おもにアフリカ大
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陸や中近東の諸民族、ヤペテは欧米人やインド人等の先祖となった。では東洋人――す
なわち中国人や、モンゴル人、日本人などは、誰から生まれ出てきたのか。それらについて、
これから見ていくことにしよう。いずれにしても世界のすべての民族は、彼らから分かれ出たの
である。
「民族」とか「人種」というと、よく知られているのが、「黄色人種、黒色人種、白色人種」と
いう分類だ。が、現在はこうした肌の色で分ける分類ではなく、「モンゴロイド、ニグロイド、コ
ーカソイド」といった名称が用いられることも多い。
では、たとえば「セムは黄色人種の祖先、ハムは黒色人種の祖先、ヤペテは白色人種の
祖先」と簡単に言えるかというと、必ずしもそうではない。
結論から言って、大体において白色人種(白人)はヤペテの子孫、黒色人種(黒人)は
ハムの子孫である、と言うことはできる。しかし、黄色人種はセムの子孫かというと、必ずしも
そうとは言えない。
「黄色、黒色、白色人種」などという分類は、単に肌の色で人類を分けた、便宜的なもの
にすぎない。実際には、人類はそのように単純に3つの色で区分できるわけではない。
一般に、モンゴル人、中国人、日本人などの東洋人は、肌が中間的な色なので「黄色
人種」と呼ばれているが、中間色の人々は彼らだけではない。ほかにも中近東や、東南ア
ジアには、中間的な肌の「褐色人種」と呼ばれる人々がいる。
したがって、「黄色人種」や「褐色人種」の場合には、多少複雑な要素がからんできくる。
こうしたことを念頭において、諸民族の起源について、調べてみよう。
セムから出た民族
聖書は、世界の諸民族の起源について記している。まずセムから出た諸民族について、
詳しく調べてみよう。セム系民族は、おもに中近東の地域に移り住んだ。
聖書の創世記10章の記事から、セム、ハム、ヤペテの系図をつくってみると、次ページの
図のようになる。セムの子は、
「エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム」(創世記10章22節)
だった。はじめに3番目の「アルパクシャデ」から、見てみよう。
36
聖書によると、セムの子アルパクシャデの孫に「エベル」という人がいた(同10章24節)。この
「エベル」は、ヘブル人の先祖である(同11章14節)。すなわち「エベル」から、イスラエル人と
かユダヤ人と呼ばれる人々が出た。
また聖書によると、アルパクシャデの子孫の中には、「シェレフ」「ハツァルマベテ」「ウザル」な
どの人々もいた。
「シェレフ」は、アラビア南部に定住した民族。
「ハツァルマベテ」は、今日のアラビア半島南端の、ハドラマウト地方に定住した民族。名前
が似ているのは、この地方に移り住んだのが彼らだったからだ。
「ウザル」も、アラビア半島に移り住んだ。イエメンあたりに移り住んだのである。イエメンの首
都サヌアの旧名は「ウザル」であって、これは彼らの先祖の名に由来する。
このようにセムの子「アルパクシャデ」からは、ヘブル人以外にも、アラビア半島に住む諸民
族が出た。
セムの他の子については、どうか。セムの子「エラム」からは、メソポタミヤ各地の諸民族が
出た。
セムの子「アシュル」は、メソポタミヤの北部(今のシリア)付近に定住した民族である。有
名な「アッシリア」の名は、彼らに由来する。しかし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝
国」がセム系だったかというと、そうではない。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハ
ムの子カナンの子孫であるエモリ人だった。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者と
なった。
セムの子「ルデ」は「リディア人」(リュディア人)のことで、やはりメソポタミヤに移り住んだ。リ
ディアは、紀元前7~6世紀ごろには強国となった。
またセムの子「アラム」も、メソポタミヤやスリヤ(今のシリア)地方に定住した。彼らの言葉
「アラム語」は、紀元前1千年紀には全メソポタミヤ地方に広まり、アッシリア帝国やペルシャ
帝国の公用語となった。イエスやその弟子たちも、アラム語を話した。
考古学者の意見によると、紀元前7世紀に新バビロニア帝国(聖書でいうバビロン帝国)
を建てた「カルデヤ人」は、今のところアラムの一派と思われるという。そうであれば、新バビロ
ニア帝国はセム系であったことになるが、一方ではハム系であるとの意見もある。メソポタミヤ
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では、セム系民族とハム系民族はかなり入り乱れていたので、わからない部分も多い。
いずれにしても、このようにセムからは、ヘブル人やアラビア人、そのほか、中近東に住む
人々が出たことがわかる。
ただし、これは今日、中近東に住む人々がみなセムの子孫である、ということではない。今
日、中近東にはセムの子孫以外にも、ハムの子孫やヤペテの子孫も住んでいる。ここで述
べているのは、おもにセムの子孫は中近東に移り住んだ、ということである。
セム系の人々の肌は、だいたい黄色がかった白色か、褐色をしている。
アブラハム一家(セム系)。ジョセフ・モルナー画
ハムから出た民族
38
つぎにハムの子孫を見てみよう。ハムから出た諸民族は、おもにアフリカ大陸や、中近東、
パレスチナや、スリヤ(今のシリア)、また小アジア地方(今のトルコ)方面に移り住んだ。ハム
の子は、聖書によると、
「クシュ、ミツライム、プテ、カナン」(創世記10章6節)
であった。はじめにハムの子「クシュ」は、旧約聖書の古代訳であるアレキサンドリヤ・ギリシ
ャ語訳では「エチオピア」だ。この「クシュ」から、アフリカ大陸に移り住んだ民族ヌビア人が生
まれ出た。クシュの子孫のひとり「セバ」(同10章7節)は、エチオピアの町メロイの旧名でもあ
る(ヨセフス『ユダヤ古代史』2巻10章2節)。
つぎにハムの子「ミツライム」からは、エジプト人が出た。ミツライムの子孫「パテロス人」(創
世記10章14節)などは、今日のエジプトに定住した民族だ。同じくミツライムの子孫「レハビ
ム人」(同10章13節)は、アフリカ大陸北部のリビアあたりに定住した(同ヨセフス)。
つぎにハムの子「プテ」も、アフリカ北西岸リビア地方に移り住んだ。ハムの子孫の多くは、
アフリカ大陸に広がったのである。彼らはアフリカ北部から、しだいに南下して、やがてアフリカ
全土に広がったであろう。
したがって、いわゆるニグロイド(黒人)はハムの子孫、ということになる。しかしハムの子孫
のすべてが、アフリカ大陸に移り住んだ、というわけではない。また、ハムの子孫のすべてが黒
人、というわけでもない。
ハムの子孫の一部は、中近東にも広がった。
ことにハムの子クシュの子孫「サブタ」(創世記10章7節)は、アラビア半島南端のハドラマ
ウトに定住した。同じく「ラマ」(同10章7節)は、ハドラマウト北方に住んだランマニテ人(エ
ゼキエル書27章22節)のことだ。
またクシュの子孫「サブテカ」(同10章7節)は、ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民
族、「シェバ」(同10章7節)はアラビア半島南西部のマリブを都とする商業国の建設者、
「デダン」(同10章7節)は北方アラビア人となった人々である。ハムの子孫の中には、アラビ
ア半島に移り住んだ人々もいた。
またハムの子「クシュ」の子孫の中から、「ニムロデ」という人物が出た。彼はメソポタミヤ地
方に強大な王国をつくり、地上最初の権力者となった。ニムロデの王国は、「シヌアルの地」
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(同10章10節)にあった。歴史学のうえで有名なシュメール地方(メソポタミヤ)のことだ。
ニムロデは都市国家バベル、エレク、アカデ(アッカドのこと)を征服して支配した。彼の名は
その後も伝説的に語り継がれ、のちには神格化されて、バビロンの守護神メロダク(マルズ
ク)として崇められた。有名なハムラビ王(紀元前2000年頃)の時代には、世界最高の
神として祭られた。
このようにハム系民族の中には、メソポタミヤ地方や、アラビア半島方面に広がった人々も
いた。さらに、次に見るようにパレスチナ地方に移り住んだ人々もいた。
ハムの子ミツライムの子孫「カスルヒム人」は、ペリシテ人の先祖で(創世記10章14節)、パ
レスチナ地方に移り住んだ。「パレスチナ」の名は、彼らペリシテの名に由来する。彼らは、イ
スラエル人とたびたび戦闘を交えたので、旧約聖書にもよく出てくる。
またハムの子「カナン」から出た民族のほとんども、パレスチナ地方から小アジア地方(今の
トルコ共和国)に移り住んだ。たとえばカナンの子孫「シドン人」(同10章15節)は、フェニキ
ヤ人となった人々である。フェニキヤ地方(今日のシリア)には今も、シドンという町がある。
カナンの子孫「ヘテ人」は、ハッティ人のこと。彼らはのちに他民族――おそらくヤペテ系民
族に征服され、いわゆるヒッタイト王国の住民となった。
カナンの子孫「エブス人」(同10章16節)はエルサレムの先住民族であり、「エモリ人」(同
10章16節)はシリヤに移り住んだ民族、ヒビ人はパレスチナに移り住んだ。
同じくカナンの子孫「アルキ人」(同10章17節)はレバノン山麓テル・アルカ近辺の住人、
「アルワデ人」(同10章17節)は都市国家アルワデの住人、「ツェマリ人」(同10章18節)は
都市国家ズムラの住人、「ハマテ人」(同10章18節)は都市国家ハマテ(現ハマ)の住人と
言われている。彼らはいずれも、パレスチナや、レバノン、シリアあたりの町々の住人となっ
た。
結論としてハムの子孫は、アフリカ大陸や、アラビア半島、メソポタミヤ、パレスチナ、スリヤ
(今のシリア)、小アジア(今のトルコ)あたりの地域に移り住んだ。古代史に名立たるエジプ
ト帝国、フェニキア人、またフェニキア人の植民都市カルタゴなどはみな、ハム系である。
ハム系の人々の肌の色は、大体において黒色から、黄色がかったうすい褐色まである。
ニューギニア人、フィリピン原住民、マライ半島(マレーシア)原住民、オーストラリア原住
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民、そのほか「東南アジア・ニグロイド」とか、「オセアニア・ニグロイド」とか言われる人々も、ハ
ム系の血が濃いのではないか、と思われる。
つまりハム系の人々は、かなり東の方にまで進出し、東南アジアや、ニューギニア、オースト
ラリア方面にも移り住んだようだ。「ハム」の名は「暑い」という言葉の派生語で、実際に彼ら
は、おもに暑い地方に移り住んだのである。
ヤペテから出た民族
ヤペテ系民族については、どうか。
「ヤペテ」の名は、「広い」という言葉(パーター)の派生語である。事実、ヤペテ系民族はそ
の名のとおり、ひじょうに広い範囲に移り住んだ。ヤペテから出た諸民族は、「白人」と呼ば
れる欧米人やロシア人をはじめ、ペルシャ人、インド人などとなった。聖書によればヤペテの
子は、
「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」(創世記10章2節)
であった。まず「ゴメル」から見てみよう。
ヤペテの子「ゴメル」は小アジア地方(今のトルコ)や、ヨーロッパ地方に移り住んだ民族で
ある。聖書は「ゴメル」の子孫は、
「アシュケナズ、リファテ、トガルマ」(同10章3節)
だったと言っている。「リファテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことで(ヨセフ
ス)、今のアルメニア人の先祖である。彼らはいずれも、小アジア(今のトルコ)に移り住ん
だ。
つぎに「アシュケナズ」もおもに小アジアに移り住んだが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイ
ツにも移り住んだようだ。ユダヤ人はドイツ人を(またドイツ系ユダヤ人も)、「アシュケナズ」の
名で呼んできた。
つぎにヤペテの子「マゴグ」は、どうか。彼らはスキタイ人のことで、南ロシアの騎馬民族とな
った(ヨセフス『ユダヤ古代史1巻6章1節)。
一方ヤペテの子「マダイ」は、メデア人(メディア人)のことである。彼らはメソポタミヤにメデア
帝国をつくり、のちに兄弟民族のペルシャ人と結託して、メデア・ペルシャ帝国を築き上げ
41
た。いわゆるアーリア人は、この「マダイ」の子孫だ。アーリアの名は、メデア・ペルシャ帝国の
人々が「アーリア人」と呼ばれたことから来ている。
アーリア人はインド方面にも移り住み、インドの主要民族となった。したがってインドの主要
民族は、ヤペテ系である。さらに、いわゆるゲルマン民族も、ペルシャ人と縁つづきである。つ
まりゲルマン民族、メデア人、ペルシャ人、インド人はすべて、ヤペテ系の「マダイ」の子孫とい
うことになる。
つぎにヤペテの子「ヤワン」は、ギリシャ人のことだ。ギリシャ人は、ヘブル語で「ヤワン」なの
である。さらにギリシャ人は自分たちのことを、イオニヤ人(ギリシャ語イヤオーン)と呼んでき
た。
聖書によるとヤワンの子孫は、
「エリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人」(10章4節)
だった。「エリシャ」は、おそらくギリシャや、地中海のキプロス島に渡った人々である。
「タルシシュ」は、スペインに移り住んだ民族だった。スペインには「タルテッソ」という港がある
(ヨナ書1章3節も参照)。「キティム人」は、キプロス島に渡って、そこを占領した民族である
(ヨセフス『ユダヤ人古代史』1巻6章1節)。「ドダニム人」は、おそらく北方ギリシャ人、ダル
ダネア人、ドーリア人、またはエーゲ海東のローデア人である。
つぎにヤペテの子「トバル」は、どうか。彼らは旧ソ連の中にある、グルジヤ共和国あたりに
移り住んだ。グルジヤ共和国の首都トビリシの名は、「トバル」に由来している。
ヤペテの子「メシェク」は、モスコイ人のことで(ヘロドトス『歴史』3章94節)、旧ソ連のロシ
ア共和国付近に移り住んだ民族である。モスクワの名は、「メシェク」に由来している。
ヤペテの子「ティラス」は、エーゲ海周辺に移り住んだエトラシヤ人である(エジプト記録)。
このようにヤペテの子孫は、おもにヨーロッパや、ロシア方面に移り住み、インドにも移り住
んだ。だからヤペテ系民族は、いわゆる「インド・ヨーロッパ語族」の人々と、ほぼ同じか、ほと
んど重なる。
一般に言われている「インド・ヨーロッパ語族」とは、
〔西方系〕
スラブ系=ロシア人・ポーランド人・ユーゴスラビア人・ブルガリア人等
42
チュートン(ゲルマン)系=イギリス人・オランダ人・ドイツ人・ノルマン人
ラテン系=イタリア人・フランス人・スペイン人・ポルトガル人
ギリシャ系=ギリシャ人 〔東方系〕
インド人(アーリア人)・イラン人(ペルシャ人・メデア人)
などの民族である。これまで見てきたことから考えると、大まかに言って、
スラブ系は、マゴグ・トバル・メシェク・ゴメル
チュートン(ゲルマン)系は、マダイ・ゴメル
ラテン系・ギリシャ系は、ヤワン
東方系は、マダイの子孫
ということになるだろう。
ヤペテ系の人々の肌は、大体において白色から、黄色がかったうすい褐色をしている。
苗族の女性(中国)
東洋人は誰の子孫か
以上、あまり馴染みのない名がたくさん出てきたが、これらの多くは、高校の世界史の教
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科書や参考書にも載っているものである。考古学や歴史学の成果は、聖書の記述を否定
するのではなく、より具体的に明らかにするのに役立っている。
最後に、中国人、モンゴル人、韓国人、日本人、東南アジア人などの、いわゆる「東洋
人」は一体だれの子孫なのか、という問題を見てみよう。
この問題は、じつは容易ではない。というのは東洋人の居住地は、バベルからきわめて遠
い所にあるからだ。バベルの塔以後、人々は世界中に離散していった。しかしその際、中国
やモンゴル方面の遠い地に移り住んだ人々は、おそらくバベルの塔以後、かなり時間がたっ
てから分かれ出た人々と考えられる。
そのため東洋人の起源をたどるのは、かなり大変である。実際、東洋人はハム系である、
という人もいれば、セム系であるという人もいる。しかしハム説や、セム説は、強力な証拠が
あるわけではない。多くは憶測である。
むしろ多くの証拠は、東洋人にはヤペテ系の血がかなり混ざっていることを示している。
たとえば中国には、「ミャオ族」(苗族)という部族がいる。日本人によく似た容姿の人々だ
が、じつは彼らは昔から、原始の時代のことや、自分たちの起源に関する言い伝えを持って
いる。そしてそれを非常によく保存してきた。
その言い伝えは天地創造、人類創造、大昔の大洪水、また自分たちの民族の起源な
ど、広範囲に及ぶ。しかもその内容は、驚くほど聖書の記事に一致している。ミャオ族の間
で働いた宣教師からの報告によれば、彼らの言い伝えは韻律のかたちをとっていて、次のよ
うなものだ。
「神は、天と地を創造された日に、光の門を開かれた。神は地球に、土と石で山を築かれ
た。また空には、天体、太陽、月などを造られた。……神は地上に、ちりから人を造られ
た。……」
また大洪水についても、
「土砂降りの雨が40日間降り注いだ。……水は山々と山脈を越えた」
と述べている。ミャオ族は、聖書を与えられたユダヤ人以外の民族としては、原始のことを
最も正確に語り継げてきた民族であるようだ。彼らは昔、聖書を持たず、またユダヤ人と接
触したわけでもないのに、この言い伝えを原始の時代から、続けてきた。
44
彼らの言い伝えはさらに詳しい事柄にも及んでいる。とくに注目すべきことは、その言い伝
えによれば中国・ミャオ族の先祖は、ヤペテの子ゴメルである、ということなのだ。彼らの言い
伝えによると、漢族にも、ヤペテの血が入っている。こうした言い伝えを、彼らは先祖代々続
けてきた。
この言い伝えが真実を表すものなら、中国人や韓国人、モンゴル人などは、みな基本的
にヤペテ系であろう。いわゆる「モンゴロイド」(黄色人種)はヤペテ系だ、ということになる。
実際モンゴロイドは、今のロシアあるいは北アジア経由でやって来た人々、と一般に考えら
れている。これはヤペテ系民族の散らばった方角である。だから、モンゴロイドがヤペテ系だと
しても、決しておかしくはない。「モンゴロイド」と「コーカソイド」(白色人種)は、ヤペテから分
かれ出た二大人種に違いない。
DNA研究により、日本人の40%近い
人々は世界的にみて特殊な系統の持
ち主であることが明らかになった。
日本人の起源
では日本人はどうか。これについては最近、遺伝子研究の分野から新たな光がもたらさ
れた。
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日本人のY染色体DNAを調べると、約50%はO系統、約40%はD系統で、残り約
10%は他の系統であることが知られている(Y染色体DNAには、そうした様々な「系統」」
(ハプログループ)がある)。
このうちO系統は、中国人や韓国人の大半と共通しているものだ。O系統は典型的なア
ジア人のもので、中国人や韓国人のほとんどはO系統に属する。そのような意味で日本人
の約半分は、ヤペテ系と思われるアジア人の血を受け継いでいると言っていい。
ところがここで重要なのは、日本人の他の人々──日本人の約40%は「D系統」だという
ことである。
D系統は世界でも珍しい。中国人は韓国人等はほとんど持っていないのである。彼らに
は、あっても1%前後しかない。欧米にもない。ところが日本人は、D系統を世界最高値の
40%近くも持っている。
これは血縁的に日本人の半分近くの人々は、中国人や韓国人と全く別系統の人々で
あることを示している。
このD系統とは一体何なのか。
じつはD系統は、「E系統」と近縁・同祖であることが知られている。DもEも、YAPと呼ばれ
る特殊な遺伝子配列を持ち、じつはこの配列を持っているのは、すべての系統の中でDとE
だけだからである。DとEの系統は、同じ先祖から出たものであることが、遺伝学的に明らか
とされている。
研究によると、まず中近東に「DE系統」と呼ばれる元の系統があった。それがのちにD系
統とE系統に分かれた(遺伝子は世代を重ねる際に、遺伝子コピーにエラーが生じ、それ
が蓄積すると、系統が分かれていく)。
興味深いのは、日本人のD系統と近縁同祖であるという「E系統」は、世界中に散らばる
ユダヤ人グループに必ず見られる、ということである。E系統はユダヤ人に最も特徴的な遺伝
子なのである。
さらに、いわゆる「イスラエルの失われた10支族」の末裔とされる人々も、大半がE系統に
属している。10支族の末裔である中近東のパタン族その他の人々も、みなE系統だ。
イスラエルの失われた10支族の末裔とされる人々の多くは、E系統、ないしはD系統であ
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る。イスラエルの失われた10支族調査機関「アミシャーブ」(エルサレム)によって、「10支族の
末裔」と認定された「チャン・ミン族」(中国四川省 羌族)も、D系統を23%の高率で持っ
ている。
日本人のY染色体D系統は、こうした人々とのつながりが明らかなのである(詳しくは拙著
『日本とユダヤ運命の遺伝子』「日本とユダヤ聖徳太子の謎』(いずれも学研)を参照下さ
い)。 AK
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臨死共有体験
死にゆく者の臨死体験、死後体験を、その部屋にいる周囲の健康な者が
共有し、体験してしまう現象。
part2
臨死共有体験の存在を明らかに
したレイモンド・ムーディ医学博士
死は不思議に満ちている。
前回に続いて、死の際に起こった不思議な現象を解析してみよう。
◆お迎えを看護の人が見る
前回述べたジェイミーソン博士の場合も、メリーランド州の女性の場合も、死にゆく者の周
囲に、亡き人々が現れるという光景を目撃していた。つまり健常者が、死にゆく者への「お
迎え」を目撃したのである。
日本人の中でも、同様の体験談がある。
以下は、私が直接本人から聞いたものである。80代の女性だが、彼女は数年前にご主
人に先立たれた。彼女は夫の病床で起こったことを、次のように語ってくれた。
白い衣の老人が
「夫が亡くなる前日のことでした。
48
夫は意識のない状態で、いつ息を引き取ってもおかしくないような状況でした。
私はひとり病床に付き添っていて、部屋には他に誰もいませんでした。
部屋のドアも閉まっていました。
しかし気づいてみると、全身に白い衣をまとった老人が部屋にいるではありませんか。
彼は夫の体へ近づいてきました。それは私の知っている人ではありませんでした。
夫の知人で、すでに亡き人だったのかもしれませんが、わかりません。私は彼に、
『来ないで!』
と言いましたが、その言葉を気にも留めない様子で近づいてきました。彼は夫の体を気づ
かうような様子を見せたあと、消えてしまったのです。
私の目とその人の目が合っても、こちらを見ているのか見ていないのか、あまりはっきりしな
い感じでした。でも、それは夢や幻のようなものではありませんでした。
私の目の前で、現実の光景として起こったこととしか思えません。
お迎えだったのでしょうか。今でも鮮明に記憶しています」
一方、このような日本人の投稿もある。
背広姿の男性と着物姿のおばあさん
「母が亡くなった日に、当時16歳だった本人の孫娘が、背広姿の男性と、着物姿のおばあ
さんが来ていると語りました。
『亡くなった本人の母と息子だね』
と家族で語りました。うそをつくような子ではないので、そんな事もあるのかと・・・」
ベッド際の女性
同様の例は、アメリカの病院の看護師も報告している。
「私たちの病棟で、ある老人の臨終が近くなっていました。
私がその病室に入ると、ベッドぎわに女性がすわっていました。
しかしすぐさま、その女性は肉体を持った人ではなく霊だと、私は感じました。
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彼女は何も言わず、ただ老人を見つめていました。
私はその光景を前にし、自分の心臓が飛び出るほど驚いたのですが、だからといって、こ
わくはありませんでした。言葉にはうまく表せないのですが、すべての事柄があまりに自然だっ
たのです。
私は、なにか非常に個人的な対話の中に割り込んでしまったような気がして、驚愕しなが
ら部屋を出ました。
私はこのことを、もっと経験豊富な医療従事者に聞いてみたいと思いましたが、そうする前
に、彼女のほうから私にこう言ったのです。
『私もその女性を見たわ。こうしたことはよくあるのよ』
驚きました。しかし以来、同様の話を多く聞くようになりました。
たとえば、死者が近くに浮遊しているとか、待機しているとかいう話です」
スーツ姿の男性が
以下は、ヴァレリー・ボウズという女性が、母の臨終に付き添っていたときの体験である。
「2006年に、私の愛する母は他界しました。その臨終が間近になったとき、世話をしてくだ
さるかたがドアの所まで来て、私たち家族を母の寝ている部屋まで連れて行ってくれました。
私は、女性の世話係2名が母のベッドの足側に、またスーツ姿の男性がひとりベッド横に
ひざまずいているのを見ました。
彼らは全員部屋を出てくれたので、家族は、母にキスをしたり、『すばらしいお母さん』と呼
んだりして、水入らずの時を持ちました。
数分後、浅くなっていた母の呼吸が完全に止まりました。
母の死後、私はたまたま姉に言いました。
『私たちがこの部屋に入って来たとき、ベッドぎわにひざまずいていた男性は誰なの? あれ
は聖職者の人?』
姉は、『男性って?』というので、『スーツ姿の年配の男性よ』と私は答えました。
しかし姉は『男性なんていなかった』というのです。また『その男性はいつ部屋を出たの?』
とも聞くので、『はっきり覚えていないけど、女性の世話係が出ていった時と一緒だったと思う
50
わ』と私は答えました。
その男性に見覚えはありません。
しかしその男性に、不気味さのようなものも感じませんでした。彼がそこにいたことは、とても
自然に思えたのです。
それが亡き父だったら、あるいはすでに亡くなった愛する人だったら、という気持ちもありま
すが、彼は確かに私の知らない人でした。
じつは私の父は、母の死の3週間前に亡くなっていました。もはや医師たちにできることも
なくなり、父は余命わずかであることを知っていました。父の亡くなる2日前、私は病院の小
さな部屋で、父のそばにすわっていました。
そのときも私は、誰かが私の背後に立っていることに気づいたのです。
目の前にあるガラス窓に映る光景を見て、それを知りました。男性のようでした。私ははっ
きりその存在に気づいたので、顔を回して直視しようと思いました。
するとその存在は消え去り、以後二度と見ることがなかったのです。
以来、私はその男性が誰だったのかと、ときどき窓を見つめては、そこに映る光景を観察し
たり、いろいろしていました。
何とかそれをこの世の事柄で説明しようと、努力してきました。しかし、しだいに私に明らか
になったことは、確かに私たちと共に部屋に誰かがいたということです。
私は聖職者なので、それはキリストかとも考えましたが、むしろあの時点で私がすぐに思っ
たことは、彼は父の親戚のひとりではなかったかということです。つまり亡き親戚が、父の旅立
ちを迎えるために来たのではないか。それを強く感じています」
◆償いの日々の後に
次のものは、ジューンという女性がムーディ博士に語った体験談である。臨死共有体験の
多くの要素を含み、感動的な内容を持っている。
ジューンによれば、彼女の父は全く意地悪な父だったという。ジューンは語る。
「本当なんです。父は私に腹を立てるとか、ひどい扱いをするとかはありませんでしたが、街
の人々をひどく嫌っていました。街の人たちは、父のことを気違いと思っていました」
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ジューンの父は家族には優しく、いい父だったが、公衆の面前に出たり、誰かが家に訪ね
てくると、とたんに乱暴な態度になった。訪問者の前で父はいつもイライラし、ゆったり歩くこ
とさえめったにない。
かわいそうな母は、はたで気が気でなく、父が怒りを爆発させませんようにと、ただ祈ってい
る有り様だった。そんな家庭だったから、よく恥ずかしい目にもあった。近所の子どもたちから
はよく、「オーク街に住む意地悪じいさん」と言われた。
母も、近所に親しい友人を持つことができなかった。父の常軌を逸した行動のためであ
る。母はジューンが10歳のとき、心臓発作で亡くなった。ジューンによれば、それは父の「人
間性への嫌悪」から来るストレスのためだったという。
ジューンが38歳のとき、父はすい臓がんと診断された。余命はわずかと言われた。ジューン
が言うには、変なことかもしれないが、その診断は祝福だったという。以下は、ジューン自身
の言葉である。
「診断は普通なら悲劇でしょうが、父の場合は違いました。父の死は、思いもかけず、死後
の生命が存在するというということを、明確に教えてくれるものとなったのです。そして、そのと
き父が優しい愛に満ちた人に変容するのを、私はこの目で見ました。
このことは、彼の死の2か月前から始まりました。私が玄関のポーチにすわっていると、父が
心配そうな顔で家から出てきて、言ったのです。
『ジューン、私が長年傷つけてきたすべての人々に、私は一体どうしたら償いができるだろ
う。もうどうしようもない。
しかし昨夜、ブリット(ジューンの母)が私に現われて、言ったんだ。もうすぐ私を迎えに来る
と。また、世を去る前に償いをしなさいとね』」
ジューンの父は、霊も死後界も信じる人ではなかった。しかし、ジューンは父の言葉によっ
て、明らかに父の人格の変容を感じ取った。ジューンと父は、おそくまでポーチにすわって、父
に現われたという母の言葉について語り合った。
またどうしたら母の希望をかなえられるだろうかと。そして二人が決心したことは、二人一
52
緒に近所を一軒一軒まわり、傷つけたすべての人に謝ることだった。
翌日、二人はそれを始めた。3週間にわたってジューンと父は、思い当たる限りすべての
家々をまわって謝罪した。人々は当惑していたが、父は、
「私はもうすぐ死のうとしています。心から謝ります」
と言った。それを聞いて、長く話し込む人もいれば、謝罪を受け入れてすぐ扉を閉める人
もいた。
3週間ほどで、父の謝罪の旅は終了した。父は疲れ果てていた。だが、これでようやく死
ねる。そのときだった。ジューンは、彼女の人生を変える臨死共有体験をしたのである。
「父が亡くなった日、父は平安で穏やかな表情を浮かべていました。父は水がほしいと言い
ました。
そのとき、空中のどこかから美しい音楽が聞こえてきたのです。父にも私にも聞こえました。
父は『あの音楽が聞こえるか。あんな美しいものは聴いたことがない』と言いました。私もそう
でした。
父はソファーに横たわり、臨終を迎えたようでした。そのとき、驚いたことにその体から、父の
霊が起き上がったのです。その父は喜びの表情を浮かべていました。『さようなら』という彼の
言葉が聞こえました。
父の正面には、母とおばが立っていました。彼ら3人の霊の出現をどう表現していいのかわ
かりません。ただ言えることは、3人とも霊体の姿で現われ、母は私を見てとても喜んでいた
ことです。確かにそうでした。霊はしだいに消え去って行き、私と父の遺体だけがそこに残さ
れました」
ジューンはまた、
「ご想像の通り、私はこの体験以降、同じではあり得ませんでした。父も、母も、おばも私に
とって身近な存在となり、さらに神が身近になりました。その日を境に、私はあたかも空中を
歩いているような気分です」
と述べている。(つづく) AH
53
終末の「獣」
の活動
聖書が警告する終末時代の
「獣」(独裁者)は
どのような形で世界を荒らすのか
第三神殿想像図(現在のイスラム教「岩のドーム」
の隣接地にユダヤ第三神殿が建った場合のもの)。
「獣」は、第三神殿建設後に現れる。
「獣」の出現
聖書が警告している終末の「獣」(独裁者)は、いつ、どこから出現し、どんな活動をする
のだろうか。
まず、彼が公に出現するのは、エルサレムにユダヤ教の神殿が再建された後である。現
54
在、エルサレムにユダヤ教の神殿はない。神殿の丘(テンプル・マウント)には、イスラム教のモ
スクが建っている。
しかし昔、そこにはソロモン王が建てた神殿があった。これを「第1神殿」という。それがバビ
ロン捕囚の時代(紀元前6世紀)に破壊されたので、のちに同じ場所にゼルバベルが神殿
を再建した。これを「第2神殿」という。
紀元前2世紀にエピファネスが荒らしたのは、この第2神殿である。第2神殿はそののち、
ヘロデ王の時代に修理・増築された。つまりイエス・キリストの時代にあったのは第2神殿で
ある。しかしこの第2神殿も、やがて西暦70年にローマ帝国によって破壊された。
以後、現在まで2000年近くにわたり、ユダヤ人は神殿を持っていない。しかし、ユダヤ人
は第1神殿、また第2神殿があったと同じ場所に、もう一度神殿を再建したいと熱望してい
る。
読者は、エルサレムの「嘆きの壁」の前で、ユダヤ人が絶え間なく熱心に祈っている姿を写
真などで見たことがあるに違いない。彼らがそこで祈っている事柄の中心は、何といってもこ
の神殿の再建なのだ。あそこに神殿があったからである。将来再建されるこの神殿を、ユダ
ヤ人は「第3神殿」と呼んでいる。
「獣」が公に世界に現われるのは、この「第3神殿」が建てられた後である。なぜなら、終末
の患難時代について、イエス・キリストがこう予言されたからだ。
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ
のを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げな
さい」(マタイの福音書24章15節 新改訳)
この「聖なる所」とは神殿のことなのだ。聖書の中で「聖なる所」と呼ばれるのは、神殿以
外にないからである。かつてエピファネスが神殿を踏みにじったように、終末の「獣」(荒らす
憎むべき者)も、神殿を踏みにじるのだ。
とすれば「獣」の出現は、第3神殿が建てられた後でなければならない。私たちは、ユダヤ
の第3神殿は近未来に建てられると信じている。エルサレムにはすでに、将来第3神殿が
55
建てられたときに備えて、祭司学校や、その他の準備機関が存在している。
もちろん、今はイスラム教徒の支配下にある神殿の丘にユダヤの神殿が建つのは、不可
能にも思えることだ。無理矢理建てようとすれば、戦争になるだろう。しかし将来、状況が
変わり、そこにユダヤの神殿が建てられるようになれば、ユダヤ人はすぐにでも建て始めるだ
ろう。そして工事開始後、数年以内に神殿を完成させ、そこで、昔行なわれたような祭儀
を開始する。
聖書を信じる者は、それが必ず起こると信じている。そしてユダヤ教神殿の再建は、世界
のトップニュースになるだろう。ユダヤ人は再建を喜び、盛大な祭を行なう。そしておそらく数
年くらいは、神殿でユダヤ教祭儀を行ない続けるだろう。しかし悲しいかな、その神殿も、や
がて現われる「獣」によって踏み荒らされてしまうのである。
「獣」の出現の場所
つぎに、終末の「獣」はどこに現われるのか。
それは、かつて「ローマ帝国」があった地域である。旧約聖書の『ダニエル書』において、預
言者ダニエルはこう予言した。
「第四の獣は地上に興る第四の国(ローマ帝国)、これはすべての国に異なり、全地を食ら
い尽くし、踏みにじり、打ち砕く。十の角はこの国に立つ十人の王、そのあとにもう一人の王
が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。
彼はいと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようと
たくらむ。聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期がたつ。やがて裁きの座が
開かれ、彼はその権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、
権威、支配の力は、いと高き方の聖なる民に与えられ、その国はとこしえに続き、支配者は
すべて、彼らに仕え、彼らに従う」(7章23~27節)
詳しいことは省くが、多くの聖書学者たちの一致した見解によれば、この「第四の国」はロ
ーマ帝国のことである。なぜなら、その国が世界に君臨している時代にキリストが世に降誕
56
されると、ダニエル書が述べているからである(2章31~45節)。
第1の国はバビロン帝国、第2の国はメド・ペルシア帝国、第3の国はギリシア帝国、そし
て第4の国がローマ帝国だ。ダニエルの時代(紀元前6世紀)以後、中近東地域に、これ
らの国々が次々に君臨したのである。
この第4の国=ローマ帝国があった地域において、やがて「十人の王」すなわち10カ国の
同盟国が起こり、その後、そこに「もう一人の王が立つ」という。この「もう一人の王」が、終
末の暴君「獣」である。彼は暴虐を行ない、3時期半(3年半)にわたって活動するが、や
がて神の審判を受けて滅びる。
ローマ帝国は、地中海付近、中近東、ヨーロッパにわたる広大な地域を支配した史上最
強の帝国であった。しかしそのローマ帝国も、やがて東西に分裂。西ローマ帝国は5世紀に
ゲルマン民族の侵入を受けて、もろくも滅び、一方東ローマ帝国は、その後も約1000年
の間存続した。つまり、東ローマ帝国は15世紀まで存続したのである。
では、それでローマ帝国は完全になくなってしまったのいかというと、そうではない。「ローマ帝
国」はその後も、ヨーロッパ人やロシア人の中に永く生き続けたのである。たとえば、西ローマ
帝国の滅亡後、ローマ帝国を復興させようとする動きが、幾度か見られた。ローマ帝国が
残した世界帝国の夢は、ヨーロッパ人の間に強く息づいていたからである。
西ローマ帝国滅亡後、ヨーロッパにおいて最大の王国に成長した「フランク王国」は、その
王チャールズ大帝の時代に最盛期を迎え、その領土はほとんど西ローマ帝国の旧領に匹
敵するにいたった。そのために彼は、800年に「ローマ皇帝の帝冠」を受ける。これはフラン
ク王国において〝西ローマ帝国が復興した〟ものとして見られ、その後の世界に大きな影
響を与えた。
そしてフランク王国が分裂した後も、チャールズ大帝のローマ帝国再建の理想は、人々の
間に引き継がれていった。当時の混乱していたヨーロッパに現われたドイツのオットー一世
は、その後確固たる勢力を築き上げ、その強大な国家は、「神聖ローマ帝国」と呼ばれるよ
うになる。
この「神聖ローマ帝国」は、962年に始まって1806年にいたるまで、約1000年ものあ
いだ続いた国で、世界史の中ではつい最近まで存在していたのだ。また、神聖ローマ帝国
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が解体する2年前の1804年、フランスで帝位についたナポレオンは、ローマ皇帝の帝冠を
自分自身で載冠し、ローマ帝国の皇帝の地位についたと称した。
神聖ローマ帝国(通常「ドイツ第1帝国」とも呼ばれる)の解体後も、ヨーロッパ人の間に
は、〝ローマ帝国〟が生きていた。20世紀に入って、あのアドルフ・ヒトラーが建設しようとし
た「ドイツ第3帝国」は、ゲルマン民族の帝国であった神聖ローマ帝国を復興し、かつてのロ
ーマ帝国のような世界帝国を築き上げようとした野望だった。1940年2月17日付けのニ
ューヨーク・タイムズ紙に、カトリック司祭エドモンド・A・ウォルシ博士のナチに関する報告記
事があり、
「アドルフ・ヒトラーが、ゲルマン民族の帝国であった神聖ローマ帝国は再興されなければな
らないと語るのを、ウォルシ博士は聞いたと述べた」
と報告されている。
ヒトラー
このように西ローマ帝国滅亡以後も、〝ローマ帝国〟はヨーロッパ人の間に根強く生き続
けてきたのだ。
さらに、東ローマ帝国についていえば、その伝統はロシアにも引き継がれていた。かつてロシ
アの皇帝たちは、モスクワを「第3のローマ」と呼んでいたほどである。そしてロシア大公は、ロ
ーマ皇帝の称号「カエサル」の変形である「ツァー」を、称号として用いた。
終末の「獣」は、このローマ帝国があったところから出現する。また『ダニエル書』および『ヨハ
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ネの黙示録』の予言によれば、この「獣」が現われるとき、10カ国の軍事的同盟国も、やは
りかつてローマ帝国があった地域に、共に出現する。すなわち地中海付近、ヨーロッパ、中
近東、旧ソ連にかけての地域である。
「獣」の活動
つぎに、「獣」は出現してのち、どのようなことをなすのか。
彼は、かつてのアンティオコス・エピファネスと同様のことを、イスラエル、および聖地エルサレ
ムに対して行なうだろう。すなわちそこを侵略し、踏みにじり、聖書の神を信じる者たちを迫
害し、またエルサレムに再建されたユダヤ教神殿(第3神殿)に「荒らす憎むべきもの」を据
える。その「荒らす憎むべきもの」とは、偶像、および「獣」自身である。
「(「獣」の親衛隊長は)先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々
を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人
に命じた」(ヨハネの黙示録13章14節)
しかもこの偶像は、もの言うことさえする。
「(「獣」の親衛隊長は)獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえ
できるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた」(同13章15節)。
サタンの力がそこに現われるのだ。サタンの力による奇跡が起こる。
「そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた」
こうした惑わしにより、多くの人々が「獣」をあがめ、拝むようになる。「獣」自身、エルサレム
神殿に踏み入り、そこで傲慢にも自分を神と宣言する。
「不法の者、つまり、滅びの子(獣)は……すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗
して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する」(テサ
59
ロニケの信徒への手紙第二2章3~4節)
この「自分こそは神であると宣言する」ことに、「獣」の背後にいるサタンの性質がよく現わ
れている。かつてサタンは、「いと高き者のようになろう」といい、自分こそ神であろうとして堕
落した。サタンのその性質は、今も続いており、それが終末の「獣」の言葉として現われるの
だ。
彼はこの言葉を、エルサレム神殿の最も神聖な場所において発する。つまり彼自身が、
「荒らす憎むべきもの」である。さらに、この悪魔的人物は、いったん死んだかに見えながらも
奇跡的に生き返る。
「この獣は……死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚
いてこの獣に服従した」(ヨハネの黙示録13章3節)
単なる臨死体験程度の生き返り方ではなく、誰もが驚くような仕方で生き返るのだとい
う。そして、地上の多くの人がこの暴君をあがめ、従い、礼拝するようになる。また人々は、こ
の暴君を礼拝するだけでなく、サタン礼拝さえするようになる。
「竜(サタン)が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣
をも拝んでこう言った。『だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦う
ことができようか。』」(同13章4節)
終末の患難時代は、サタン礼拝をする者と、真の神礼拝をする者とが明確に分かたれる
ときなのだ。中間はなくなる。それは、最終的にサタンと、サタンに従う者たちが滅ぼされるた
めだと、聖書は語る。
私たちは「奇跡をみたら信じる」というのではダメなのである。サタンさえ奇跡を行なうから
だ。終末の「獣」は奇跡を行なうという。だから、それが本当の神から来たものか、サタンから
来たかを、よく見きわめなければならない。もしサタンを信じるなら、その人はサタンと共に滅
60
びるからだ。
真の神からかサタンからか、を見きわめるために必要な判断材料は、すべて聖書の中にあ
る、と筆者は感じている。読者も、ここに述べた事柄をしっかり頭と心に入れておけば、見間
違うことはないだろう。そして、神に従って生きるなら、その人には守護天使が取り囲むと、
約束されている。
「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」(詩
編91編11節)。
エルサレムを荒らしたアンティオコス・エピファネス
「獣」の刻印
終末の暴君「獣」はまた、自分の支配下にある国の民に、特殊な「刻印」を押す。
「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷
にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなけれ
ば、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその
名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるか
61
を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である」(ヨハネの
黙示録13章16~18節)
つまり「獣」の名か、または「666」の数字が、刻印として人々の右手あるいは額に押され
るという。ヘブル語やギリシア語のアルファベットは、古代から数字としても使われてきた。だか
らそれらの言語で人の名前を書き、各文字を数字としてみて合計すると、名前が数値に
変換される。これを「ゲマトリア」といい、「獣」の名のゲマトリア(数値換算)は666だというの
だ。
ちなみに、「イエス」のギリシア語ゲマトリアは、888である。それと同様の方法で、終末の
悪魔的人物の名を数値変換すると666になる。これは、「獣」が現われたとき、本当にそ
の人が予言された「獣」かどうかを知る判断材料の一つになるだろう。
666には、サタン的な意味が隠されている。それはじつにサタンらしいものだ。[詳しくは拙
著『ゲマトリア数秘術』(学研ムーブックス)を参照]。
いずれにしても、この「獣」の名、あるいは「666」の刻印がなければ、商売も移動もでき
ないという。これは、あのナチス・ドイツの支配下にあったユダヤ人が、必ず「ダビデの星」の腕
章をつけさせられたことを思い起こさせる。ただしユダヤ人の場合は、支配者から排斥された
民だったが、この場合はそうではなく、終末の患難時代には「獣」に属する人々が刻印を受
けるのである。
刻印は、それを受けた人々が「獣」の所有物であることを表す。ちょうど、家畜たちの皮膚
に、所有者が焼き印を押すことに似ている。「獣」は人々を自分の家畜のように扱うのであ
る。 AK
62
英語で
イソップ物語
「聞き流すだけで英語をマスター
イソップ物語」より
音声も聴けますよ
ウサギとカメ The Hare and the Tortoise
【音声再生】
野ウサギ(rabbitより大きい)が A HARE ある日バカにしました one day ridiculed カメの短
トータス/亀
い足とのろまなことを the short feet and slow pace of the Tortoise, カメは笑って答えました
~だけど
素早い
who replied, laughing: 「君は風のように素早いけどね "Though you be swift as the wind,
63
打ち負かす
僕のほうが勝つだろうよ I will beat you レースでは in a race."」
主張、断言
ウサギは The Hare, カメの主張は不可能と単純に思い believing her assertion to be
賛成した
simply impossible, その提案に賛同しました assented to the proposal; そして彼らは同意
しました and they agreed キツネがコースを選び that the Fox should choose the course ゴー
定める
ルを定めると and fix the goal.
決められた
レースに決められた日 On the day appointed for the race 両者は共にスタートしました
the two started together. カメは一瞬たりとも止まることなく The Tortoise never
一瞬たりとも
for a moment stopped, 進み続けました but went on ゆっくり、でも着実なペースで with a
着実な
~へまっすぐ
slow but steady pace まっすぐコースの終点に至るまで straight to the end of the course.
ウサギは The Hare, 道ばたで横になり lying down by the wayside, すっかり眠りに落ちて
しまっていました fell fast asleep. ようやく目覚め At last waking up, できる限り速く追いかけ
たのですが and moving as fast as he could, 彼は目にしたのです he saw カメがゴールに着
いていたのを the Tortoise had reached the goal, そして疲労のあとの心地よいうたた寝に入
うたた寝
疲労
っていたのを and was comfortably dozing after her fatigue.
ゆっくりでも着実な者がレースに勝つのです Slow but steady wins the race.
The Hare and the Tortoise
【音声再生】
A HARE one day ridiculed the short feet and slow pace of the Tortoise, who replied,
laughing: "Though you be swift as the wind, I will beat you in a race." The Hare,
64
believing her assertion to be simply impossible, assented to the proposal; and they
agreed that the Fox should choose the course and fix the goal. On the day appointed for
the race the two started together. The Tortoise never for a moment stopped, but went on
with a slow but steady pace straight to the end of the course. The Hare, lying down by
the wayside, fell fast asleep. At last waking up, and moving as fast as he could, he saw
the Tortoise had reached the goal, and was comfortably dozing after her fatigue. Slow
but steady wins the race.
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お勧めの集会・講演 2016年
日本ユダヤ講座 開催中!
会場が変更になりました
(東京池袋駅歩5分 マイスペース&ビジネスブースにて ドリンク付)
毎週金曜夜6:30~ 日本とユダヤ、聖書を学ぼう
主講師:久保有政 (レムナント主筆) 詳細
「武士道はキリスト起源だった」
出版記念講演会
7月1日(金) 15時30分~17時30分 文芸社サロン(東京新宿)
講 演: 著者 畠田秀生 牧師(聖書と日本フォーラム会長)
会 費: 3000円(本1冊贈呈 お茶とケーキあり)
申 込:080-9459-3991 FAX 03-6759-2986 (池川まで) 詳細
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会員募集
(本誌お勧めの団体です。
本誌主筆・久保有政もかかわっています。
同志のネットワークを築きましょう。
クリックするとホームページに行きます)
聖書と日本フォーラム
(古代日本に渡来したイスラエル人や東方キリスト教徒の足跡と影響を探ろう)
日本民族総福音化運動協議会(民福協)
(日本の伝統文化を排斥するのではなく、よく理解し、それを用いて福音を説く「文化適
応」(文脈化)の伝道を展開)
日本を愛するキリスト者の会
(「日本は悪い国であった」という偏った歴史観を改め、健全な歴史観に立った福音宣教
を目指そう)
神戸平和研究所
(宗教の違いを乗り越えて結集し、平和と繁栄のために尽くそう)
ライジングクラウド
(日本の良さを再認識し、日本と世界に社会貢献しよう)
日本イスラエル親善協会
(日本とイスラエルの架け橋となり、両国の友好と発展のために)
67
カタログ
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のみ許されております。他人のためにコピーを作成、譲渡、販売すること等は禁じられてお
りますのでご注意お願い申し上げます。
PDF版 書籍
「人は死後どこへ行くのか」(聖書的「死後の世界論」 死後
のセカンドチャンスについて)
久保有政著 「天国、よみ、地獄」とは何か。臨死体験、臨死共有体験と
聖書のかかわり。死後のセカンドチャンス(回心の機会)はあるか? あると
する立場から聖書の教えを解説。 480円
「神道のルーツとユダヤ」――日本の神道と伝統的風習の起
69
源は古代イスラエル人!
久保有政著。日本の伝統的風習、神道のルーツは古代イスラエル人が日
本に持ち込んだものだった!580円
紙の本
「 この国『深奥』の重大な歴史──ユダヤ人が唱えた古代日本ユダヤ人
渡来説 」
アビグドール・シャハン、エリ・コーヘン、ラビ・エリヤフ・アビハイル、ラ
ビ・M・トケイヤー、ヨセフ・アイデルバーグら、ユダヤ人研究者の「古代
日本イスラエル人(ユダヤ人)渡来説」を紹介する。久保有政編・著 ヒ
カルランド刊、並製、四六判380ページ。1815円
「日本とユダヤ 聖徳太子の謎 」 久保有政著 聖徳太子は仏教の教主ではなかった。太子と古代東
方キリスト教のかかわりを明らかにする。1600円
70
「死後の世界 」
永遠の生命とあの世の実在証明 久保有政著 人は死んだらどうなるの
か? 死後の世界は実在する。最新医学と臨死体験、世界の諸宗教か
ら、死後の世界の真実に迫る。
「日本とユダヤ運命の遺伝子 」
失われたイスラエル10支族と秦氏の謎。久保有政著。日本人とユダヤ人の
DNAは近縁・同祖であることが遺伝学的に明らかとなった!
「十六菊花紋の超ひみつ 」
中丸 薫、ラビ・アビハイル、小林隆利、久保有政著。「神道と皇室にユダヤ
教の流れが入っていることが明らかになりました。固定観念を捨て去る時が
とうとう来たようです!」
「永遠の別世界をかいま見る 臨死共有体験」
レイモンド・ムーディ、ポール・ペリー著 堀天作訳 死にゆく者とそこに寄り添
う健常者が臨死体験を共に分かち合う――死後生命の存在をより確実に
する驚異の事例報告。
キリスト教入門
久保有政著。人生の目的は幸福であり、その幸福は神と共に生きることに
ある。
「天地創造の謎とサムシンググレート 」
久保有政著 「インテリジェント・デザイン論」(宇宙や生物誕生の背後に
知的デザインがあったとする)と「創造論」(宇宙や生物界は聖書に記され
たような特別創造によって生まれたとする)について解説。
71
「神に愛された国・日本 」 久保有政著 日本の本当の近現代史は、輝かしい良い出来事で満ちて
いる。そこには人種平等を世界に実現した日本、アジアに近代化の支援を
行ない続けた日本、共生と共栄を目指した多くの日本人の感動的な姿が
あった。
「日本書記と日本語のユダヤ起源 」
ヨセフ・アイデルバーグ著 久保有政訳。日本語と古代ヘブル語の類似語
を500もあげているなど、まさに圧巻。
「日本の中のユダヤ文化 」
久保有政著。古代日本の神道は唯一神教であり、それは古代イスラエル
宗教および古代東方基督教に由来していた!
日本・ユダヤ封印の古代史
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著 久保有政訳 イスラエルの失われた十部族
は古代日本にやって来たか。彼らの足跡は、シルクロードにそって、またその
終点・日本に残されている。徳間書店発行。
聖書にみる死後の世界
久保有政著。 「よみ」(ハデス)と「地獄」(ゲヘナ)は、混同されてきたが、
別の場所である。旧約時代の「天国」と「よみ」、新約時代の「天国」と「よ
み」、臨死体験、キリストの「よみ」への降下、死後の回心の機会などについ
て。
死後の世界を知って生を知る
久保有政著。 「天国」「よみ」「地獄」は、どんな場所か。輪廻説やカトリッ
クの煉獄説はなぜ間違いか。動物の死後の行き先、千年王国、新エルサ
72
レム、天使等についても考察する。
終末の時代に起こること
久保有政著。終末の前兆、患難時代の様々な出来事、「獣」と呼ばれる
暴君の出現、復興ローマ帝国、またイエス・キリストの再臨、キリスト者の携
挙、世の終わりに生き残る人々について。
聖書の予言と予型
久保有政著。予言(預言)が、言葉で未来のことを指し示すのに対し、予
型は、出来事や人物によって未来のことを指し示す。神は予言と予型によ
って、ご自身の計画を明らかにしておられる。
この人の生涯に学ぶ
久保有政著。信仰と愛に生きた一一人を描く。収録人物はアンドリュー・カ
ーネギー、高山右近、キング牧師、蒋介石、ある死刑囚、ハドソン・テーラ
ー、長野政雄、内村鑑三、他。
未来の歴史
久保有政著。聖書に記された神の救いの歴史の壮大な意味を明らかにす
る。終末への歴史には、一定の法則がある。私たちの時代は、最終的な時
代にさしかかっている。
終末への歴史が見える
久保有政著。人類の始まりから、諸民族の分化、イスラエル民族の選び、
イエス・キリストの初来と再来、千年王国、新天新地など、終末への歴史
が手にとるようにわかる。
幻の橋
ヴァンミーター美子著。日本人の妻が、アメリカ人の夫に助けられながら続
73
ける日本人のルーツ探求の旅。そこに見えてきたのは、古代イスラエルとの
深いつながりだった。
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スマホや、パソコン、タブレット等で教本をみながら、音声を聞いて英語を
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74
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「仏教の成立とユダヤ・キリスト教 」
大乗仏教、日本仏教と古代東方キリスト教の交流。仏教に入ったキリス
ト教の様々な教えを解説する。久保有政著 480円
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久保有政著。「仏」と「神」、「戒律」と「律法」、「涅槃」と「永遠の生
命」、「欲望」と「罪」、「修行」と「贖い」 、「慈悲」と「愛」など、仏教とキリ
スト教の最も重要な教えを比較。
「自虐史観を脱せよ」 ――「日本は悪い国、侵略国家」 ではなかっ
た! 真の近代史を知ろう
久保有政著。「日本は悪い国、侵略国家だった」とする自虐史観の誤り
に気づき、真実の近代史を知ろう。自存自衛とアジアの解放・共栄を目
指した日本の戦争の真実を明らかにする。
【改訂版】科学の説明が聖書に近づいた-地球と生命の誕
生に関し
久保有政著。 宇宙、地球、陸・海・空の起源や、生物の起源、人類
の誕生に関する科学の説明が、聖書に近づいた。旧「地球史編」と「生
物学、人類学編」を一冊にしたもの。
Science Comes Closer to the Bible
旧「科学の説明が聖書に近づいた-地球史編」(久保有政著)の英語
版
76
レムナント誌の信仰
伝統的キリスト教の次の立場に立っています。
1.聖書原典(66巻)は、すべて神の霊感によって記された、誤りなき啓示の書である。
2.神(御父)は唯一であって、天地万物の創造主である。
3、神の御子イエス・キリストは、永遠において神より生まれ出たかたであって、神人両性を合わせ持ち、私たちを罪と滅び
から救い、義とし得る唯一の救い主である。
4、聖霊(御霊)は、御父から御子を通して信者に注がれた神の霊であり、信仰者を神とキリストとの交わりに入れさせ、ま
たキリストにある永遠の命と、聖潔、愛、力にあずからせる助け主である。
5、御父・御子・御霊の三者は、互いに区別されるが存在と本質において一体のおかたである(神の三位一体)。
[本誌記事から伝道トラクト、障害者向け音声図書、拡大写本等の制作をする場合は、本誌からのものであることを記
載すれば、本誌または著者に許諾を求めなくても結構です(営利目的を除く)]。
※レムナント出版の伝道出版事業の維持・拡大
のために、主にあるご献金をいただけると感謝です
郵便振込の場合:
口座番号 00160-2-105242 レムナント出版
(通信欄に「献金」とお書き下さい)
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(振込人名の前に「ケンキン」と入れて下さい)
クレジットカードの場合:こちらからできます
(いつもご支援、お祈りを感謝申し上げます)
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発行:レムナント出版
350-1137埼玉県川越市砂新田
4-1-23高階マンション203
TEL/FAX 049-265-3567
ホームページ http://remnant-p.com
eメール [email protected]
主筆:久保有政(くぼありまさ AK)
(東京聖書学院卒、レムナント出版/レムナント・ミニストリー代表、日本民族総福音化
運動協議会理事、日本を愛するキリスト者の会事務局長、聖書と日本フォーラム講師、
神戸平和研究所理事)
●講演にお招き下さい: 古代日本とイスラエル、古代東方キリスト教と日本、創造論、
仏教とキリスト教比較論、終末論、死後の世界論、初心者向け聖書解説、伝道/牧会メ
ッセージ、その他。気軽にお声がけください。
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