21号 - 北海道医師会

●
ノ
第 21号
2000
室蘭市 医師親交会誌
●
′
第 21号
2000
室蘭市 医師親交会誌
︰ 加 藤
清
一・
一・
治 良 ・
・ ・ 0 7
9
1
ム佃 白
民
︰ 鴨 井
清
9
加 藤
エンルム風物誌 矢尻
︰ 鴨 井
・ 表 紙
東 北大 医学 部 艮陵 同窓 会 室 蘭 支 部 小 史
■ 日小 田 切 醇 ・
2
︲
冶 良
大 辻 祐 太 郎 先 生 の追 憶 日 0 日 B 日 日 ■
行 彦 ・
o
加 藤
大 吉 清 先 生 と私 日 ■ D D D B D D B D
故 堀 尾
士口 廣 ・
カ ット
一生を振 り返 って 平成十 一年秋 DD B
⋮ 開 田
4
︲
・
5
︲
0
. 1
故 深瀬政俊 先生を偲 ん で 日 0日a 日
・
座 談
三村 ・斉藤 D鴨井 ・松村 ・吉井 ・柳川︶
編集委員 ︵
加藤治良 。上田智夫 ・加賀谷秀夫 ・小玉俊典
︿富 電脳医療事始 。⋮ ・。・⋮ 。・。・
清 孝 ・
想
次
・曽 根
目
﹁
電信 浜 ﹂娘 へ ﹁
父 の 日 に﹂ 娘 よ り
随
詩
θ
事
務
局 喬 橋︶
お ろしや国見聞録 。・。・・・・
医療機関 に て事件発生 ・・・・。
私 が室蘭地方 に来 た ころ ・。・・
・鴨 井
・上 田
。国 本
・千 葉
清 貴
智 夫
孝 夫
壽 良
。・・ ・
平成十 二年度 MMMCド ライブ会
・斉 藤 甲斐 之助
あ ん ら く い す 。・ ・・⋮
ボ ルボ と私 。・。・・・・・・・
新会 員 ・自 己紹 介 ・。・・⋮ 。
赤 保 内 良 和 ・横 山 貴 康 ・堀 川 正 己
近 況報 告
親 交 会 の主 な 行 事
会 員 異動
編集後記 ・
1■
編 集 室 へのお便 り
・斉 藤 甲斐 之助 ・
25
45
41
59
6
エンル ム風物誌
じ
り
加 藤
治 良
︵
加 藤 内 科 医院 ︶
最後 のドカ雪が消え た。
室薗 社 の頂 上 から中腹 にかけ て斑ら に残 って いる雪 の表 情 に
も冷た さは感じられな い。
磯 の香 に、濡 れた 土 の匂 いがま じり合 った春 の体臭 が 日 一日
と強さを増 し てく る。
。
、
鼻 ご んご んが店 に現れ る頃だと じ ろう は思う 一岬超え た
。
部落 から、鼻 ご んご んは春 風ととも にや って来 る 背 が低 く細
っこ いアイ ヌの爺 さ んだ。磯 回り の小漁師 で婆 さ んと 二人暮 ら
。
し、まだまだ達者な のだが、な にせ焼酎 には目が無 か った
じ ろう には待 つだけ の理由 があ った のだ。
﹁
やあ 、しぱらくだ ったネ﹂
ほら、鼻 ご んご ん の声 だ。
一人 か い。どう した の? ばあ さんは﹂
﹁
おや、
、
﹁
腰 いため てしま った。な に た いした ことな い﹂
じ いさん 一人 で産物市場 に行くわけ。大文夫 か い﹂
﹁
﹁
た いち ょぷだ。帰り にま た寄 るからネ 、ぱ んとう し ゃん﹂
、
呑 頭 の松山 さ んと 、 そ んな やりとりを しな がら 女 中 の澄ち
。
やんが持 ってき た小鍋 に岩海苔を分け る。 ウ エも少 しば かり
、
﹁
ほれ、 いいノリたよ。 ゥ エはまだだけど おまけ﹂
。
片 れ薄 でやわらかく、早春 の磯 の陽光をき っちり蓄え て いる
結構 な値 が つく時季 だ から、量 目は少 なく とも毎年 早 々に岬
を 超え 、祝津 、小橋内 の町並 みを過ぎ て海岸 町 の産物市 場 へ担
、 カジ カなど市場
いでゆく 。 そ の後 も時 々、 いい値 が付く磯魚
に持参す る のだ が、 これは婆 さん の役目だ。
、
たま には爺 さ んも い っし ょにや って来 て 婆 さ んが戻 るま で
。
の二時間近くを、じ ろう の店 でゆ っくりと焼酎をた のしむ
﹁
呑 頭さん、 二杯ま でだよ﹂
そ の都度 の念押 しを婆 さんは忘 れな い。
。
﹃
鼻 ご んご ん﹄ は店 のあ んち ゃん の富 やんが つけた名だ 富 や
。
ん自身も客 の 一人 から ﹃ソボ ロあ んこ﹄ の名 を貰 って いる 顔
。
一面 に点 々の薄 いソバカ スがあ るからだ
。
鼻 ご んご ん の話方 はおも し ろ い。愛 嬌 があ る も とも と 濁音
がほと んど消え て いる上 に、鼻 にかか った半 濁音 が 一種 独特 な
響き方をす るためな のだ。
ごま塩 の髭 は頭 の毛 、眉毛 とも つなが って いて野性 的な 風貌
、
は相当 なも のだ が、小柄 で人 の好 い爺 さ ん の鼻 ご んご んは 店
、
の人達 からも 好 かれ て いた。婆 さ んも似合 いの背格好 で 日 の
。
周り にく っきり青 い入れ墨を し て いた
産物市場から戻 ってきた爺さんは、店 の上がり台 の板敷き に
、
腰をかけ焼酎 コップ の最初 の 一杯を両手 にはさんで 茶 の間に
-1-
尻
や
矢
声 をかけ る。
﹁
た いぶ、 ぬくくな ったネ 、おか みし ゃん。汗 か いてしま った
﹁
お や、もう終 わり か い。
一杯 目だ よ﹂
﹁こち そさん﹂
いて、ち ゅ っと吸 った。
ヨ﹂ ひと 口すす って ﹁
坊 やし ゃんは、 こんと何年 し ぇ いにな る
松山 さんが驚 いた声 を かけ る。
﹁
婆さんに、ごし ゃかれるからナ。き ょは これ で、 こちそさん﹂
んだ ったけかネ﹂
五年生な の、じ ろう の母が応え る。
声 は出 さず に 口だけ で突 つた。
﹁
松山 さ ん、 四合瓶持 たせ てあげ て。矢 尻 のおL
じ ろう は由
承 ﹂んご ん の懐を気 にし て いた。 い つも なら婆 さ
んに決 められた定量以 上を せがむとき に取り出す のだ が、今 日
﹁いや いや、おかみし ゃん。とうもとうも ﹂
を撫 でる。上がり台 のじ ろう の方 が少 し高 か った。
に腕をと おす 。毛 むく じ ゃら の剛 い手 が、じ ろう のイガグ リ頭
腰を上げ て土間 に立 った鼻 ご んご んは、山犬 の毛皮 の袖無 し
は今年初 め ての見参 な のだ 。・・・。
し ょう か い、もう 五年 し え いにな る のか い﹂
﹁
もう 一度 、し ょう か い、と領き コ ップを横 に置 いて手招きを
す る。 そ の手を懐 に入れ て、
じ ろう は矢尻を握 って表 に飛び出した。
﹁で つか いヤチリだ ヨ。ほら!﹂
じ ろう は息を呑 んだ。本当だ。
春 風 に吹 かれ て鼻 ご んご んが歩 いて行く。
□あぶ り出 し の画
陽炎 に包ま れ て、小 さく揺 れ て いた。
そ の頃はもう 、 エト モのチ ャシ跡から満 足な形 の矢 尻を見 つ
け るな ん てこと は思 いも よらなか った。じ ろう 達 には欠 け割 れ
の 一片 でさえ自慢 でき る宝物だ った のだ。
鼻 ご んご ん の手掌 に の っか って いる のは、柄 の部分も 入れ て
十 センチはた つぶり、と いう 見事 な矢 の根だ った。
の事 なんだと思わせた。
もなく、キ リリと引き絞 られ て獲物を ねら つた のは、 つい昨 日
小学生が 一人
バ スの後 から ト コト コ歩 いてく る
煉瓦倉庫﹂前
小橋内 ﹁
祝津行き のバ スが停ま る
﹁
立派だな ぁ﹂松山さんと富 やんもう な った。
霜降 の半ズ ボ ンに下駄ばき
濡 れた海炭 のよう に艶 やかな黒光 り、そ の先端 は 一分 の欠 け
学校 の職貝室 に飾 ってあ る額 の中 に並 べて入 れ ても 、見劣り
しな いぞ。笠 原 のテ ソち ゃん達 にも見 せ てやるんだ。と ても新
小さな バケ ツを手 に
細 い釣竿を肩 に
近づ いてく る 九 い顔
学期ま では待 てな い。
鼻 ご んご んは、逆さ にした コツプを手 のひら にト ント ンと 叩
-2-
あ れ っ 見覚え があ る
あ そうだ
あ の子 に違 いな い
鈴木 の家だ った
上 田幽 医者 さんと こ の ト モオさ んな の
たしか 鈴木 のお ふく ろさんが
そう 言 って いた
バ スが動き出す
丸 い顔 が遠 の いて
ト コト コ歩 いてく る
チカ釣りだ ナ
ケー ソンに行く んだ ナ
たく さん釣れる ョ バヶ ツが小さすぎ る ョ
現在 はな し︶ の長 男と は、絵 画部など で仲良 し
鈴 木歯医 者 ︵
。
だ った ので、中学生 の頃 よく遊び に行 って いた のです
来 し方﹄ にまと めら れた [ヨー
上 田先 生 が昨年 上梓 された ﹁
、
、
ロ ッパ旅行 記]を改 め て楽 しく読 ん で いるう ち に ふと 浮 か
び 上 がり 、鮮 明な画面 にな った のが、 昭和拾 四年夏 の土曜 日 の
一コマな んです。
︱釣 竿を一
肩に、 バケ ツを提げ て
霜降半ズ ボ ンに下駄ばき姿︱
。
こ の心 のスタイ ルで毎 年 ヨー ロ ッパを 訪 れ て いた ん です ね
これは小生 の勝手な領き解釈 。
、
も う 一枚 の画 があ りま す 。 可愛 ら し い少 女 が い つの間 にか
。
先生と 一緒 に並 ん でト コト コ歩 いて いる のです
。
終わり︶
小 さな バケ ツを手 に提げ て 。・・・ ︵
井 清
東 北 大医 学部 長陵 同 窓会
室蘭 支部 小史
鴨
一
鴨 井 外 科 整 形外 科 医 院 ︶
︵
、
室蘭市、
東 北大 艮陵 同窓会室蘭支部会員 は 明治以来当地方 ︵
。
伊 達市 地区︶ の医療活動 に貢献をし てきた
、
そ し て、特 に室 蘭出身 、東 北大医 学部内科 中沢房吉 教授 の
後援 もあ って、昭和初期 、中期 、市 立室蘭病院第 十 五代斉藤豊 3
.
、
治院 長 より第 十七代柘植 重夫院 長 に至 る約 四十 六年 間 当院奉 一
、
職医 の多 く は東 北大医 出身 者 であ って 当 地方 で開業医 を含 め
、
、
て約 四十名以 上 の艮陵会員 が活 躍し 母校 より内科 外科等 教
授 が来蘭 、室蘭市医 師会 、艮陵会 に特別講演 を行 な って盛大 で
、
、
あ つた が、其 の後 、同院 退職 老衰 退会等 により 毎 年会員減
、
少 し、 現在 、年 一回 の総会 と 、年数 会 の夜 間例会を 市内 中央
町浪花 屋 にお いて行 な って いる。
、
次 に、明治 より 平成時代ま で、永年活 躍 した先 達 及び 会貝
︵
三年 以上︶を列挙す る。
0年 卒 、明治 ︲年 ∼
l 水科 吉郎 仙台医 学専 門学校 、明治 4
4
昭和 7年、市立室蘭病院 、小児科 、
和 6年 、市 立室蘭病院長、内科 、函館検疫 所
2
7年 市内小橋内町 開業 、平
室 蘭支所長 、 昭和 2
成 元年逝去
、
2
2
死
重
東
北
帝大医 学部 、大 正 4
1年 卒 昭和 1年 ∼昭
︲ 米 川 一
7年 、内科、室蘭保健所長、市内本町開業 、
和4
7年 逝去
昭和 4
市内 浜町開業 、室蘭医師会長、京都、逝去
4年 卒 、大 正 9年 ∼
2 小野 誠 仙台医 学専 門学校 、明治 4
7年 、市 立室蘭病院 、眼科 、市内幸 町開
昭和 1
業、逝去
、
、
3
4
4
︲ 高松 豊 東 北帝大医学 部 大 正 1年 卒 大 正 1年 ∼昭
7年 、市立室蘭病院 、内科 、東京 開業 、逝
和1
8 志賀 信 一 東 北帝大医 学 部、 昭和 5年 卒 、昭和 7年 ∼昭
︲
3年 、市 立室蘭病院 、眼科 、新庄市 開業 、
和1
逝去
9 日田岩太郎 東 北帝大医 学部 、 昭和 5年卒 、 昭和 H年 ∼昭
︲
年逝去
、
、
5
5
4
︲ 熊谷 太 一 東 北帝大医 学部 大 正 1年 卒 昭和 2年 ∼昭
、
9 、
逝
年
室
蘭
保
健
所
長
去
和3
、
、
5
︲ 今井 寅雄 東北帝 大医 学部 昭和 3年 卒 昭和 8年 ∼昭
7 、
院
院
年
市
立
室
蘭
病
長 、外科 、 昭和 7
和1
副
1
2年鎌倉市 転居、逝
年市内常盤 町開業 、 昭和 4
去、
6 内海 隆治 東 北帝大医 学部 、 昭和 4年 卒 、 昭和 8年 ∼昭
︲
6年 、市内 本町開業 、内科 、逝去
和1
、
、
5
7
︲ 長 田 広 東 北帝大医 学部 昭和 4年 卒 昭和 1年 ∼昭
︲年
和 0年 、市 立室蘭病院 、産 婦人科 、昭和 2
2
、
市内 本 町開業 、 昭和 4
5年市 川市 転居 平成 6
逝去
和 7年 、市 立室 蘭病院 、眼科 、帯 広市 開業 、
3 工藤市太郎 東 北帝大医学部専 門部 、大 正 2年 卒 、大 正 6
︲年 、内科、市内 東 町開業 、逝去
年 ∼昭和 2
4 小幡金之助 東 北帝大医学 部専 門部 、大 正 4年 卒、大 正 4
、
、
、
年 ∼昭和 9
1年 市立室蘭病院 こ 昇咽喉科
市内 千歳 町開業 、帰 郷、逝去
5 石井 安 輌 東 北〒大医 学部専 門部 、大 正 4年 卒 、大 正 8
、
、
、
年 ∼昭和 9
1年 内科 市内輪 西町開業 逝芸
6 國本 一
元平 東 北帝大医学部専 門部、大 正 5年卒 、大 正 6
年 ∼大 正 8年 、 日本 製鋼 所病院 、耳鼻 科 、大
9年 逝去
正 8年市内大 町開業 、昭和 4
7 金谷 稔 東 北帝大医 学部専 門部、大 正 5年 卒 、大 正 8
、
、
、
年 ∼昭和 9
1年 内科 ・外科 市内大 町開業
逝去
8 関谷利 一郎 東 北帝大医 学 部専 門部 、大 正 7年卒 、大 正 0
1
年 ∼昭和 7年 、内科、市内大町開業 、逝去
9 稲葉竜 三郎 東 北 帝 大 医 学 部 、 大 正 8年 卒 、 大 正 3
1年 ∼
昭和 3年 、外科 、市立室蘭病院 副院 長、逝去
、
、
0
1 斉藤 豊治 東 北帝 大 医 学 部 大 正 8年 卒 昭和 3年 ∼
昭 5年 、産婦 人科 、市 立室蘭病院 長 、逝去
和
1
6年 ∼昭
4年卒 、 昭和 1
H 阿部 新 一 東 北帝大医学部 、大正 1
-4-
去
、
、
5
0
2 柘植 重夫 東 北帝大医 学部 昭和 5年 卒 昭和 1年 ∼昭
、 昭和 2年市内
、
2 、
院
科
内
立
室
蘭
病
年
市
和2
2
8年 、市 立室 蘭病
7年 ∼昭和 4
幸 町開業 、 昭和 2
院長 、室蘭市医 師会副会長、平成 6年 逝去
、
、
︲
2 堀 平 八郎 東 北帝大医 学部 昭和 6年 卒 昭和 7年 ∼昭
、
、
、
、
和2
1年 市 立室蘭病院 耳鼻科 仙台 開業
逝去
、
、
2
昭
2 森脇 茂 東 北帝 大医 学 部 昭和 6年 卒 昭和 9年 ∼
︲年 、市 立室蘭 病院 、小児科 、岩 国市 、逝
和2
去
、
、
2
3
2 岡 廣 東 北帝大医 学 部 昭和 6年 卒 昭和 1年 ∼昭
5年 、市 立室 蘭病院 、内 科 、仙台 北保健 所
和1
長、昭和 2
5年逝去
、
、
3
4
2 五十嵐進 一 東京医 学専 門学校 昭和 5年 卒 昭和 1年 ∼
5年 、市 立室 蘭 病院 、 眼科 、新 潟 県在 住
昭和 3
、
、
5
5
2 片岡 直人 東 北帝 大医 学 部 昭和 8年 卒 昭和 1年 ∼昭
5年 、市 立室 蘭病院 副院 長 、 耳鼻 科 、 川越
和3
9
逝
年
去
市転居、 昭和 4
、
、
7
6
2 澁 田 八郎 東 北帝 大医 学部 昭和 8年 卒 昭和 1年 ∼昭
6年 、市 立室蘭病 院 副院 長 、外科 、道 立診
和3
療所長、札幌市転居、平成 4年逝去
、
、
7
2 斉藤 一雄 東 北帝大医 学 部 昭和 ■年 卒 昭和 H年 ∼昭
0年 、市 立室蘭 病院 、内 科 、伊 達市 開業 、
和2
平成 8年逝去
、
8
8 中島 勝美 東 北帝大医 学 部 、 昭和 2
1年 卒 昭和 1年 ∼昭
2
4年 、市 立室蘭病 院 、内 科 、 昭和 4年 市内
和2
2
5年 逝去
輪 西町開業 、室 蘭市医 師会 長 、 昭和 4
4
9 塩澤 直人 東 北帝大医 学 部 、 昭和 2年 卒 、 昭和 2
昭
年
∼
1
2
3
3 、
院 長 、内 科 、 昭和 4
院
立
室
蘭
病
副
年
市
和4
7
逝
去
年
年 市内 東 町開業 、 昭和 5
、
、
6
2
0
内
3 米澤 堡 東 北帝 大医 学 部 昭和 1年 卒 昭和 2年市
中央 町開業 、産婦人科 、平成 9年 逝去
、昭
、
、
2
︲
3 佐藤 菩弘 岩手医 学専 門学校 昭和 1年 卒 耳鼻 科
、 平成
4年逝去
7年 市 内幸 町 開業 、室蘭市医 師会 長
和2
、
、
5
4
2
3 矢 野 恒由 東 北帝 大医 学 部 昭和 1年 卒 昭和 1年 ∼昭
︲年 、市立室蘭病院 、小児科 、豊浦 町開業、
和2
昭和 3年 逝去
6
、
5 ∼昭
、
5
3
3 河島 文夫 東 北帝大医 学部 昭和 1年 卒 昭和 1年
、
、
︲ 、
開業
木
県
院
科
栃
内
室
蘭
病
立
年
市
和2
、
、
8 ∼昭
5
4
3 大 辻祐太郎 東 北帝大医 学 部 昭和 1年 卒 昭和 2年
︲年 市内
︲年 、市 立室蘭病院 、内科 、 昭和 3
和3
中央 町開業、平成 H年逝去
、
、
0
6
5
昭
3 守谷 学而 東 北帝大医 学 部 昭和 1年卒 昭和 2年 ∼
、
、
、
、
和3
2年 市立室蘭病院 婦人科 伊達市開業
昭和 6
5年 逝去
、
、
7
6
6
3 水 野谷貞寛 日本医 科大 学 昭和 1年 卒 昭和 1年 ∼昭和
、
、
3 、
2年 市 立 室 蘭 病 院 皮 膚 泌 尿 器 科 昭和
、
2
3
2年市内 浜町開業 昭和 4年 逝去
、
、
7
6
7
3 宮内 茂樹 岩手医 学専 門学校 昭和 1年 卒 昭和 1年 ∼
、
9 、
4
昭和 9
1年 昭和 3年 ∼昭和 3年 市立室 蘭病
-5-
院 、産婦人科、青森市民病院 、鶴見総合病院、
鉢曇 柱
、
、
6
4
8
3 竹内 隆 一 東 北帝大医 学部 昭和 1年 卒 昭和 3年 ∼昭
0
0年 、 日本製鋼所病院 、産婦 人科 、 昭和 4
和4
年市内母恋北町開業 、平成 7年 逝去
、
、
8
5
9
3 木村 寛治 東北帝大医 学部 昭和 1年 卒 昭和 2年 ∼昭
︲年 、市立室蘭病院 、放射線科 、仙台市 立
和3
病院、宮 城県労働衛生医学協会
、
、
8
8
0
4 遠藤孝 二郎 東 北帝大医学専 門部 昭和 1年卒 昭和 1年
6年 、市立室蘭病院 、内科 、昭和 6年
∼昭和 2
2
、
市内 母恋南 町開業 、平成 0
1年 廃院 札幌在 住
、
、
0
9
︲
4 鴨井 清 一 東 北帝 大医 学部 昭和 1年 卒 昭和 2年 ∼昭
4年 、市 立室蘭病院 、 昭和 2年市 内中央 町
和2
3
開業
、
、
0
︲
2
4 一方井卓四郎 東 北帝 大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 3年 ∼昭
8年 、市立室蘭病院 副院長 、放射 線科 、静
和4
岡済生会病院、静岡市在住
、
、
︲
2
3
4 元岡 一平 東 北帝大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 2年 ∼昭
7年 、市立室蘭病院 、内科 、虻 田町幸清会
和2
0年 逝去
病院、譲仁会 理事長、平成 1
、
、
5
3
4
4 有路 智彦 東 北大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 4年 ∼昭和
6年 、産婦人科 、市内本輪 西町開業 、北湯 沢
5
病院長
、
、
4
3
5
4 木 戸就 一郎 東 北大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 2年 ∼昭和
、
2 、
4
0 、
3年 昭和 3年 ∼昭和 4年 市立室蘭病院
3年市内水 元町開業 、平成 0
外科 、 昭和 4
1年 逝
6
4 高橋
7
4 曽根
8
4 鴨井
去
、
5
3
卒
昭
希 一 東 北大医 学 部、 昭和 2
年
和
2年 ∼昭和
、
0 、
7 、
9
2年 昭和 3年 ∼昭和 4年 市 立室蘭病院
外科 、東 北公済病院 、仙台市在住
8年卒 、 昭和 3年
清 孝 京 城帝大医学専 門部 、 昭和 1
2
5年 、市 立室蘭病院 、皮膚泌 尿器科 、
∼昭和 2
5年市内 中央 町開業
昭和 2
4年 卒 、 昭和 ︲年 ∼
清 成 東 北大医学 専 門部 、 昭和 2
3
6年 、市 立室蘭病院 、内科 、 昭和 6年市
昭和 3
3
内栄町開業
、
、
5
9
4
4 新島 昭 二 東 北大医 学専 門部 昭和 2年 卒 昭和 2年 ∼
︲年 、 昭和 4年 ∼昭和 9年 、市 立室蘭病
昭和 3
3
3
院 、外科 、鹿沼市 開業
、
、
7
6
0
5 原 田 一洋 東 北大医 学部 昭和 2年卒 昭和 2年 ∼昭和
、
9 、
0 、
6
3年 昭和 3年 ∼昭和 3年 市 立室 蘭病院
9年市内東 町開業 、室蘭市医師会
外科 、昭和 3
長
、
、
2
6
︲
5 福永 文 二 東 北大医 学 部 昭和 2年 卒 昭和 3年 ∼昭和
、
、
4
4 、
3年 市 立室蘭 総合病院 内科 昭和 3年市
内輪西町開業 、平成 6年逝去
、
、
2
6
2
5 藤兼 和男 東 北大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 3年 ∼昭和
、
、
0
0 、
4年 市立室蘭総合病院 内科 昭和 4年市
内輪 西町開業
、
、
3
9
3
5 阿部 昭治 東 北大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 3年市内 小
0 逝
年
去
橋内 町開業 、内科、平成 1
、
、
7
9
4
5 吉 田勝太郎 東 北大医 学部 昭和 2年 卒 昭和 3年 ∼昭和
-6-
5
5 沢 田 公任
6 大内 謙 二
5
7
5 加 藤 嗣郎
8
5 西 里 弘 二
9 山 本 馨
5
4年 ∼
4年 、市 立室蘭 総合病院 、内科 、 昭和 4
4
平成 4年 、平成 6年 ∼平成 H年 、市内幸 町開
業
︲年
0 卒 、昭和 3
年
岩手医科大学医 学 部、 昭和 3
8 、
、
0
∼昭和 4
3年 昭和 4年 ∼昭和 4年 市 立室 蘭
病院 、外科 、県立胆沢病院、水 沢市 開業
2年 卒 、 昭和 9
東 北大医 学部 、 昭和 3
3年 ∼昭和
、
、
5 、
4年 市 立室蘭 総合病院 外 科 釜 石市 立 病
院、公立刈 田病院
9年伊 達市
8年卒 、 昭和 4
東 北大医 学 部 、 昭和 3
開業 、内科
5年 ゝ昭和
5年 卒 、 昭和 4
東 北大医 学 部 、 昭和 4
8年 、市 立室蘭 総合病院 、内 科、 昭和 8
5年 市
4
内高砂町開業
、
東北大医 学 部 、 昭和 6
4年 卒 平成 3年 ∼平成
0年 、留 寿 都診療 所 長 、内科 、平成 1
1年 倶 知
1
安 町開業
大 辻祐 太 郎 先 生 の追憶
鴨
井 清
一
鴨 井 外 科 整 形 外 科 医院 ︶
︵
、
、
約 四十 五余年 の音を追憶するに、函館出身 山形高校 東北
、
大医学部卒業後、東北大抗酸菌研究所 に於 いて 結核 の世界的
、
、
権威、熊谷代蔵先生 の薫陶をうけ て 研鑽 学位を授与された
、
先輩 の大辻先生が、市立室蘭病院 に赴任された のは 昭和 二十
八年 の春 の事 でした。そ の三年後、当時 の大町に開業し て結核
、
の専門医とし て、評判が良く、医院を拡張せんとし て 昭和三
、
十四年暮 に当時浜町 の室蘭市医師会所有 の建物を買収し 昭和
。
三十五年 に移転した のが現在 の大辻内科医院 であ った
、
そし て買収時、銀行から の融資借り入れ の保証人 に関し て
知己親族 のいな い当地 に於 いて、快く保証人とな ってくれた時
昭和 四十五年 に室蘭市医師会長 に就任︶を生
の佐藤善弘先生 ︵
涯 の大恩人 であ ると語 っていた。
、
又、仕事熱心な先生は、正し い診断治療 には 正確な検査が
必要なりと の考え から、検査 セ ンターの無 い時代 に臨床検査技
師を採用し、又市立病院医局学術発表会 に進んで出席して研鑽
に励 み、息者院内 に溢れる盛業 で、毎年高額所得者 に発表され
ていた。
-7-
尚 、先 生 の次 弟 、大 辻賢次 郎先 生と は、小 生 共 に弘 前高 校 、
東 北大医 学部卒 で、第 二外科研究室もまた 一緒 で、十年来無 二
の同級 生 であり 、米沢市 に て、外 科医院を 開院 し盛業 であ った
が、晩年心不全を息 い、先年急 変 し てこ の世を去 って いる。
そし て、祐太郎先生と承 は同じ町内 に医院 開業 中 であ った の
で、特 に親 しみ の中 にも 、畏敬 の念を持 って交 際を 願 って来た
のであ る。
又、大 辻先生夫妻 は、毎 日昼 には、同伴 し て散 歩 し、町内 に
て昼食を取 られ て町民と親 しく歓談を共 にされ、時 には御夫妻
に て海外 旅行を楽 しま れ、昭和 五十 五年 私も シ ンガポ ー ル、 マ
レー半島 旅行 に御 一緒 した事 があり 、当時 の元気 な姿 が思 い出
目目 一
人人 レ
23 マ
-8-
され てならな い。
尚 、室蘭市医師会、役員と し て理事 、監事 や、艮陵 同窓会支
部長をも永 らく務 められ、地域社会 、市 民 の医療 に貢献 され室
蘭市政功労者賞 、北海道医 師会並び に室蘭市医師会 の表彰を受
けられ て居 る のであ る。
晩年 の先生 は、腰痛 に悩ま され、変形性 腰椎症 に て東京 慶應
よ よ
右右
テ
前後
テ
院 に入院加療 されたが、平成十 一年 十 二月 四日老衰 に て幽明界
る事 なく続 いて居りますが、姦 にて筆を相きた いと思 います。
以上、過去半 世紀近く にわたり御厚情を 賜り 、思 い出 は尽き
を異す るに至り行年 八十九歳 の師走 の事 であ った。
病院 にて手術 、施療を受 け、又心 不全症 に て、市立室蘭総合病
大辻祐太郎医師
鴨井清 ―医師、大辻医師夫人
半島ベ ナン蛇 寺 昭和 55年 末
大 吉 清 先 生 と私
小田切 醇
小 田切 耳 鼻 咽喉 科 医 院 ︶
︵
、
平成 十 一年 十 二月十 四日、敬愛 す る大吉 先生 が 心疾息 のた
。
め忽然と他界されま した。謹 ん で哀悼 の意 を表 します
現新 日鐵病院 ︶ に就職 した のが 昭和 三十 三
私 が富 士鉄病院 ︵
年 。先 生 はそ の二年 前 より 、当 地方初 め て の整形外 科専 門医 と
し て、富士鉄病 院 で敏腕を 発揮 し ておりま した。爾来 四十余 年
、
のお付き 合 いでした が、始 め の頃 は 学 問 に厳 しく妥 協を 許 さ
。
ぬ先 生 は、鬼 の大吉 の異 名をと って近寄り難 い存 在 でした こ
、
の距離を縮 めた のはゴ ル フでした。 昭和 四十年 病 院 の中 でゴ
、
ル フブ ー ムが起 こり 、当 時 乗 用 車 を 持 って いた のが私だ け で
運 転手 がわり にゴ ル フに誘 わ れたも のです 。イ タ ンキゴ ル フ場
の最後 の年 でした が、 しば しば朝 がけと称 し て早朝 ゴ ル フに励
み、 そ の年秋 に開場 した白 鳥ゴ ル フ場 に移 ってからも よく 一緒
にプ レーしたも のです。病院 の医 師 、職貝を集 め て相会 と いう
同好 会を作り 、ゴ ル フ熱を煽 りま した。 昭和 四十 二年 七月先 生
、
に連 れら れ て輪厚 ゴ ル フ場 でプ レーしま した が 当 日宇宙 船 ア
ポ ロの月面着 陸 が テレビ の画面 に写 しだ され て いた のが印象 に
残 って います。
俺 こんど開業す るから
昭和 五十 六年夏頃 のゴ ル フプ レー中、 ﹁
。
開業 術を 教え てく れ﹂ と突然 の申 し入れ に驚 かさ れま した 当
、
時大吉 先生 は新 日鐵病院 の院 長職 にあり 任期もま だかなり残
、
つて いる状態 で、何 があ ったか詳細 は知 る由も な いが 開業 の
先達 と し て、経験 した ノウ ハゥを披 露 し て少 し でも力 にな ろう
、
かと いう こと になりま した。室蘭 で初 め て のビ ル開業 しかも
。
外 科系 な のに無床診 療 所と し て出発 した いと のこと 何 せ健康
、
保険 に ついても 全く 関心 のな か った先生だ から 健康 保険 の仕
。
組 み、種 類 、給 付 の割 合 から勉 強を 始 めなけ れば なりま せ ん
、
診療 所 のレイ アウト、薬品 や診療 材料 など の流通関係 銀行と
、
、
の付き合 い、診療 所 開設 の手 続き等 々 私 の知 る限り 失敗 例
。
や反省点を 踏まえ て伝 授す る こと になりま した 一番大 変だ っ
た のが レセプ ト作成。今 は レセ コンもあ るから余 リ ミ スも な い
が、当 時 は手 書き レセプ ト。職貝総 がかり で作 成 した レセプ ト
は、約 三分 の 一は書き直 しを要す る程 でした。夕 方 から始 めた
、
総括集計 が十 一時 頃 にな ってや っと終 了 し 一同疲労困傾 ふら
ふら にな った ことを覚え て います。
しら
そ のべ﹂ や ﹁
レセプ ト事 務を終え た後 、街 に出 て会食。 ﹁
かば﹂ が定席 でしたが、 二次会 と し て スナ ック ヘ繰りだす こと
、
もあ りま した。飲 み食 いしな がら の情報交換 取りと め のな い
。
四方山話も 、先 生 にと って息 抜き の場 であ ったよう です 六 ヶ
、 そ ろそ ろ立ち
月も 過ぎ て、 レセプ ト業 務 にも憤 れた ろう から
会 いを止 め よう と申 し出た が、 いやず っと続 け てほし いと言わ
れ、ず るず る十七年 間、 月 一回 の大吉医 院 通 いが続 いたわけ で
した。
、
さすがに三年前 の狭心症発作以来、酒をひかえ 二次会も中
-9-
止 しま したが、酒 の席 でよく聞 かされた のは病院長時代 の苦労
話。当時院長 の 一番 の仕事 は医 師集 め、 いわ ゆる人買 いで、大
学病院 に出向 いて教授 に出張医 の派遣を 頼むも 、仲 々色 よ い返
事を も らえず 、 三度 三度と足を運ば なけ れば なりま せ ん。あ ら
かじめ アポイ ントをと って出向 いても 、 二、 三時間も待 た され
ること が常。誰も いなくな った待合室 で独り じ っと待 つ間、 こ
んな時 間 があ った らど れだ け息 者 を診 る こと が でき た ろう と 、
一生 を 振 り返 って
平成十 一年 秋
尾 行
彦
息 者を診 ること が生き が いと自他 共 に認 め る先生 は、開業以
し ても 、待 たされる辛 さが分り 、優 しく接す ること が でき るよ
う にな ったと述懐 し て いま した。
た のは幸 せ の始 め でした。社宅 の 一員と し て皆様 と喜怒哀楽を
たと思 いま す。 昭和 三十 三年 新 日鐵職員と し て登別市 民と なれ
私 は良き友 、良き 妻、良き 子供達 に恵ま れ、幸 福 な 一生だ っ
故 堀
来 、親 の葬式 で二日休 んだく ら いで、ま し て遊び のため の休 暇
師会 の皆様 に親交を頂 いた事 を感謝 します。又、堀尾医院従業
︵
堀 尾 医院 ︶
などと った ことも なく 、切望 し て いた全 国学会 の出席も 見合わ
せ、ひたすら診療 に打ち こんだ姿 は敬服す るば かり です。ま た
員 の皆 さ ん、頼 りな い私 に絶 対 の信頼を寄 せ て下さ った息 者 さ
涙を 流す こと再 三 であ ったと。 そ の経験 が製薬会社 のMRに対
日 々の勉強も怠 らず 、暇 さえ あ れば医学雑誌を 読 ん で、新 し い
ん達 に志半ば にし て信頼を裏 切 った事を 深謝 します。
共 にでき 、開 田先生 、飯鳥先生 、堂谷先生 、故益 田院長始 め医
知識 の吸収 に努 め て いま した。自 ら ノル マを課 し て、枕 元 には
くなり足も遠 のいてしま いま した。 三月 三十 日突然血便 があり、
二十年 以 上毎朝毎晩散歩を欠 かさず に居た のに、昨秋 から急
日鋼記念病院 で噴 門部癌 があり 、肝臓 の 一部 に転移 があ ると言
常 に医学雑誌を置 いて目を通す毎 日 であ ったよう です。 これが
四十年余 り の交 遊を 通じ て、か っての鬼 の大吉 から仏 の大吉
に歩 けなく な りま した が、年 齢 的 なも のと 思 っておりま した。
への変遷を つぶさ に拝見 し、啓発 させら れる こと が多 か ったと
われま したが、不思議と心 の動揺も悲し みも感 じま せん でした。
単 に息者 さん に親 切 であ った のみな らず 、多 く の人 々の信望を
感慨 ひと しお であります。先生 の葬儀 の際、友 人代表 の弔辞を
心 配 し て親友 達 が見舞 いに参 ら れま した が、 コ 呑 元気 だ った
本年 に入 ってから 五十歳 から続け て いた碁会所通 いも根気 が無
述 べる機会を失 しま した ので、今 回波久鳥 の紙面を 借り て大吉
今ま でが順調 過ぎ た為 で
お前 がどう した﹂ と言 わ れた時も 、 ﹁
かちえ た所以かと考え られます。
清先生を偲 ん で駄文を認めま した。
な いか﹂ と笑 つて返事 が できま した。
四年 前胃 カ メ ラと大 腸 の検査 を した時 異常 が無 か った のに、
-10-
そ の後 、 兄 が胃 で手 術を した のに、七十歳 過ぎ た から等 と 言 っ
、
て胃 カ メ ラを受 け な か った のが悪 か ったと 思 いま した 。 然 し
喩え 三年前 胃癌を発 見出来 ても 、胃 の全道を受 け て いた ら人生
った事 は申 し訳 にも ならな いかも 知 れま せ ん。 出来 れば 七十 七
、
歳位 ま で生き て いたか った よう な気も し て います 。 そし て ぽ
かと 思わ れた命 が六 ヶ月以上も殆 んど苦痛無 し で仕事 を楽 しん
と いう事 は不幸 な事 ではな いと 思 います。 おま け に後 三 ヶ月位
っくり 死ねたら 一番だと思 って いま した。
。
七十 四歳 ま で生き た んだ から特 に短命 と いう 訳 ではな い 七
、
十 四歳ま で健康 に生き 、仕事 を し て 結末 のあ る病気 にな った
楽 しんだ し、昨年 夏ま で皆 さ んと ゴ ル フも 囲碁も 診療 も楽 しめ
た のだから、考え よう によ っては幸福だ ったと 思 っております。
で いる のは奇蹟 に近 いと思 います。
は全 く変わ って いたかも しれま せ ん。昨年 は 三回も 内地旅行を
そし て何も隠す事 無く 言 って下さ った事 を心 から有 難く感謝 し
︵
平成十 二年 一月 三十 日逝去︶
ております。
病状六
引 用文 の引 用 で申 し訳ござ いま せ んが、正 岡子規 の ﹁
悟りと いう事 は如何な る
尺﹂ の中 に次 の 一文 があ るそう です。 ﹁
、
場合 にも 平気 で死 ぬる事 かと 思 って いた のは間違 いで 如 何 な
-11-
る場合 にも平気 で生き て いる事 であ った﹂。
災難 にあ る時節 には
良寛 の書信 の中 の 一節 に次 の文 があ る。 ﹁
災 難 にあ るが良く候 。 死 ぬ時節 には死 ぬが良 く候。是 は これ災
難をま ぬが るる妙法 に候﹂。
年を と るとだ
大往 生﹂ には次 の 一節 があります。 ﹁
永 六輔 の ﹁
んだ ん世 の中 が つま らなく見え てく るん です よ① つま らなく な
らなき ゃ未練 があ って死ね やしま せん﹂。
、
私 は七十 四歳 で 一応 子供 三人も 成 人 し て独 立 し 長 男 は私 の
作 った診療 所を 継 いでく れ て いる。妻 は元気 で優 しく私を看 取
つてく れ て いる。
一応 住 居など は充 分 であ る。孫 六人も皆 良 い
、
子 であ る。友 人も多 く暖 か い目 で見 送 ってく れ て いるせ いか
死を 宣告 され ても 恐怖 はほと んど感 じ て いな い。恵ま れ過ぎ て
いたから多少 の苦痛 は仕方がな いと思 って います。
強 いて言え ば毎年 胃 カ メラ位 は受 け て いる べき だ ったと 思 い
ます。職業 が医 師 な のだ から人 には注意 し てお いて自 分 に甘 か
Jヽ/シ
ン
ソウ
ヽ
、
′
故 深瀬 政 俊 先 生 を 偲 ん で
開 田 士口 廣
︵
開 田医院 ︶
は愚息 に、 ﹁
俺 の体 はお前 に任す から宜 しく 頼む﹂ と云う のが
先生 の口癖 の様 でした。
先生 は私 の後を受 け、室蘭市医 師会 の理事 となり 、当時種 々
問題と な って いた夜 間診療 ・乳幼児検 診 ・予防接種等 々の件 に
非 常 に心を砕 かれ御蓋力 され て いた様 でした。特 に当直医 の問
題 では、たま たま当 直医 が欠 勤 した時等 は自 ら代 行 さ れ る等 、
不眠不休 の活躍を し て居りま した。
ゴ ル フが大変好き で各 地 に気 の合 った友 と遠 征 し て いた様 で
起 こし ク ラブが握 れなくなり 、 これはゴ ル フ アー にと つては致
した が、平成 六年 頃 かと 思 います が、両手掌 の腱鞘炎 ︵
?︶を
先生とは不思議なご縁 があ って、私 が ニセ コ病院 に勤務 し て
命 的 でした。色 々治療を し て いた様 です が、遂 に完治す る こと
先生 は、真 面目 で責任感 の旺盛 な人 で、前 述 した様 に医師会
幌 別︶ に転 居
いた頃、知人 のKと云う高校生 が、此 の度登 別 ︵
の先生 が居 るかどう か、名簿を探 し て いる中 に、深瀬と云ヽ
つ先
の理事 と し て、山積す る難問を処理し つつ、市 の医療業務 にも、
なく、先生 にとり残念 な こと ゝ何時も 同情 し て居りま した。
生が丁度幌別 に開業 し て いることを知り 、先生と は 一面 識も な
す ること にな った ことを告げ に来ま した。若 しかあ の辺 に知人
か った のです が、同窓 であ った ので早速 Kに深瀬先 生宛 の紹介
年 間を 通じ て大変 な仕事 の量を こな し、自 ら の診療を投げう っ
て、与え られた仕事を全う され て居りま した。
そ の後 偶 然 にも 私も 昭和 三十 七年 幌 別 で開業 す る こと にな
先 生 に、我 々は 一度検査を受 け る様 再 三す ゝめま したが、先生
平成十年前後 から でし ょう か、胃 の不調を訴え る様 にな った
状を書 いて渡 しま した。
り、勿論 そ こでKと再会 した のです が、実 は Kは深瀬先 生と は
の頑くな ゝ気性 は検査 等 は 一切拒否 し続けま した。
した。 そ の後も体 調 は芳 しく なく 、歩行も や っとと云 った状態
で、時 には診察椅 子より滑り落ち る様 な ことも あ った様 でした。
し か し 平 静 を 装 い乍 らも 内 外 の仕事 は続 け て居 ら れま し た
が、遂 に力蓋き市 の医療 業務 に対 し辞退 の止む なき を申 し出ま
遠縁 にあたり、後 でそ のことを知 り、余計 なおせ っか いを した
も のと憩愧 に堪え ま せんでした。
私 の開業 した場所が深瀬先生 の所と 三百 m位 しか離 れ て居な
いこともあ って、何かと交 流が深まり、子供達も未 だ お互 いに
小さか った為 、或時 は両家 で音楽会 に行 ったり、 又洞爺 湖温泉
です が、諸検査 や入院等 は頑と し て拒否 し続 け、聴 下障害 、貧
或 る日先生 は愚息 を招 かれ、病状 そ の他 に ついて相談 した様
平成 五年 愚息 が私と共 に診療す べく帰 って参 りま した。勿論
血も 強く 、対症療法 を し乍 らも 何と か 一度胃 カ メラ検査 でも と
一泊旅行等 した想 い出があります。
登別市医師協議会 の 一員となりま したが、会合 があ る度 に先 生
-12-
こ の時点 でまだ多少意 識 は
愚息 に病状 の電話 を隣室 より掛 け ︵
、
あ った様 でした︶ 、愚息 は待機 の状態 で居りま した が 遂 に馳
せ参 じ、 二十九 日午前 零時 十 五分、先生 の御臨終を 見と ヾけ さ
せ て いた ヾきま した。
、
最後 迄周 囲 に気を 配り、迫 り来 る死をも気 にせず 二十九 日
。全 く
午 前 零 時 十 五分 、 逍 遥 と し て黄 泉 へと 旅 立 た れま した
我 々には真似 の出来な い素晴 らし い最後 ではなか った かと 思わ
れます。
-13-
改 め て先生 の御 冥福を祈り 、想 い出 の 一端 と させ て いた ヾき
ます。
1/多
`
力│ヤ ン
レ
グ
、
す ゝめ、先生も納得したかに見えましたが結局検査も せず せ
め て血液検査を時 々した位 でした。 この時点 で貧血が非常 に強
か った様 です。
、
体力 の限界を知 った先生は、それ でも尚休診す ることなく
午前中 のみの診療をして居りました。時 々愚息が先生 の所 に御
診療 ではなく︶。そ の中
見舞傍 々色 々と話をし ていた様 です ︵
時 々お見舞
に吐血、下血が続き、貧血も強くなり、戸塚先生 ︵
に来 ておられました︶を交え ての相談 の結果、診療は全く無 理
、
と云う こと で休診を決意、輸血 の為と云う こと で 六月十 二日
より入院、 この間GFを強行、戸塚先生 によると、もう手術も
、
全く不可能と云う こと で、輸血 のみで小康を得た ので退院 再
び自宅療養を行う こと になりました。 この時点 で先生は最悪 の
状態を察知し ておられ、そ の後は愚息と従業員 の婦長さん の協
、
力 で、中心静脈より高 カ ロリーの輸液を続け 飯島先生と私が
、
お見舞 に行 った頃は、平素と変わりな い位 の元気 さ で 顔はむ
浮腫 ではな い︶。元
しろ普段より肥り気味 にさえ見え ました ︵
気 に世間話をし て帰 って来ましたが、間もなく最悪 の状態を迎
え る人 の様 にはと ても思われませんでした。飯島先生と共 にそ
の精神力 の偉大さに感動すら覚死 て参りました。
若し夜間 に病状が急変し ても、開田先生
先生は平素より、 ﹁
等 には決し て知らせ てはならぬ。 これは俺 の遺言 であ るから必
、
ず守 ってくれる様 に﹂と、そ の様な事迄細心 の気配りをし 固
く家人 に申し て居られた様 でした。最後迄従容とし て死を迎え
様とし て居られる様 でした。然し平成十 二年九月二十八日夜半
、
より、危篤状態 にな った様 ですが、奥様始め周囲 の方 々 特 に
、
婦長さんは、この状況を見 て、無我夢中 で、先生 の遺言を破り
ŕr,
﹃電信 浜﹄。娘 ヘ
︵
曽根医院︶
曽 根 清 孝
いさか いで帰り し娘と 二人し て、
電信浜 の潮 騒を聞く。
フ ェリ ー の着 く レ スト ラ ン、
傷 心 の娘 と 昼 の コー ヒー飲 む 。
涙し て吾 に訴う娘よあわれ、
なぐさめ の言葉浮かばず。
傷心 の娘 の訴え 聞くだけ の、
吾 に いらだ つ。
幼き 日 の娘 が浮かびく る、
傷心 の娘 の姿あわれ。
五月は鬼門か いやな こと が、
次 々と吾を悩ます。
娘 の書 いた メ モな んども 出 し て、
讀 みかえ す 吾 。
二人 し て飛 機 に乗 る、
楽 しき旅 になれば尚 よ いのに。
あわれあわれ傷心 の娘 よ、
吾 になぐさめ の言葉浮かばず。
﹃父 の 日 に。﹄ 娘 よ り 年
父 の日おめ でとう ござ います。
小さ いころの、人魚姫 や、幸せ の王子や、
マッチ売り の少女 の、お父さ ん のお話を
思 い出 します。ありがとう の心を こめ て
い つま でも 、お元気 で。
-14-
座 談 会
電 脳 医療 事始
治 良・ 上 田
加 賀 谷 秀 夫 □小 玉
加藤
智夫
俊典
編集委員 (三 村・ 斉藤・ 鴨井・松村・ 吉井・柳川)
事 務 局 (高 橋)
平成 12年 7月 26日
於 :ホ テ ルサ ンル ー ト室蘭
加藤治良
上田智夫
加賀谷秀 夫
小 玉俊典
-15-
はじ め に
三村 お忙 し いと ころお集まり頂きまし
ます 。
は考え てみると人間が作 った道具 でしかな
い。自動車 が人間 の足 の延長 であり、聴診
十年 間、 や ってま いりま し て、
加藤 一一
お蔭様 で楽 しませ て頂きました。なかなか、
斉藤一 前編集委員長から。
三百
兼ねながら、
し訳ござ いませんが。どなたか に。乾杯を
会を行 いた いと思 って います。お客様 で申
状態 です。短 い時間 ですけど、楽し い座談
かと思 いますけど、私はま ったく解らな い
くご存知 で、諸先生方も非常 に造詣が深 い
ターズ ゴ ルフ大会 で成績集計し て頂き、良
今 日は医 療 と コンピ ュータ ーと いう 事
で、特 に小玉先生は、 この間も北海道ドク
て います。
け て行 チ
﹂
ゝ
つと いう のが、私達 の総意と思 っ
な のですがこ の波久鳥が続けられる限り続
県、澤山、村井各先生が引退され、新体制
ても 五十 近 いでし ょう か ね 、 小 玉 先 生 に。
を お招 き し て、若 手 の代表 に、若手 と 言 っ
生だ と 思ゝ
つので、 こ の先 輩 世代 の先 生 三人
ピ ュー タ ーを利 用 され て いる立 場 にあ る先
言 った ら失 礼 です け ど 、実 は 日頃 一番 コン
いと 思 った事 と 、加賀 谷 先 生 は お年 寄 り と
出 て来 ても ら つて、色 々と 話を し て頂き た
先 輩 であ る上 田先 生 、加藤 先 生 には是非
話 し て いただき た いと 思 い、 ゲ ストを 選ば
せ て頂き ま した 。
か にした のだ ろう かと 、 こう いう テー マで
ー に自 き換え 、 コンピ ュータ ーは医 療 を 豊
え つ つあ る段 階 です 。科 学 を コンピ ュー タ
コンピ ュータ ーが これだ け普 及 し医療 を 変
け れ ば いけ な いと か 色 々出 た の です け ど 。
時 に アナ ログ が良 いだ と か 、 デジ タ ルでな
豊 か にした か﹂ と いヽ
2 アー マでした。 そ の
科 学 は 人 間を
斉藤 何年 か前 の座 談会 ﹁
ので、計算尺 のお化け みた いなも の、 アナ
ログ の コンピ ューターが有 った のです。そ
があれば出来 る のです が、当時はなか った
て撃たなければならな い。 コンピ ユーター
いる、そう いうも のを考え て弾道計算を し
ちます。相手も動 いて いる、地球も動 いて
に船は動 いて いる訳 です。そし て大砲を撃
ど、あ の当時海 軍 で一
一
言えば、戦争す るとき
斉藤 テクノ ロジー の進歩はやはり戦争
です。太平洋戦争は、我 々は知りませんけ
のと ころをち ょ つと説明し てくださ い。
ナログのコンピ ューターが実ば有 ったのです。
ンピ ューターは征い
か つたと思 いますが、 ア
先生方 の時代 で言 いますと、デジ タルのコ
意外と コンピ ューター の歴史 は古く、上 田
とす るのは単純な計算 とか、記憶な のです。
力と いう のはま ったく無 いですけど、得意
す。今、 コンピ ューターと いう のは考え る
道 具と捉え れば良 いのではな いかと思 いま
乾杯
これからも辛 いよう ですけど、ゼ ン コの方
こ の四人 の方 にお話 し し て頂き た いと いう
のが今 回 の趣向 です 。
の続きとし てアメリカで エニア ックと いヽ
つ
器が耳 の延長 であ る のと同じ様 に考え ます
と、 コンピ ューターは頭脳 の延長とし ての
でもね。期待す ると いうと変な格好 ですけ
先 輩方 は そ んな物 使 わ な いよと いう方 も
機械 が開発 され、完成 した のが 1946年
コ ン ピ ュー タ ー と は
ど、周りがね。非常 に楽 しみにし て居りま
す。座談会 の廻 って来た紙を見ますと、ゲ
ヽ
娑 いです けど 、 コンピ ュータ ーと いう も の
て有り難う ござ います。加藤、上田、大久
ストとな って いる。初め ての事 でし て、今
三村 そ の辺 の、 デジタルと、 アナ ログ
日はゲ ストらしく、お話を伺 いた いと思 い
-16-
療 の中 で知らな いうち に使 って いる部分は
ではな いかと思 います が、実際 に日常 の診
けな い、万歳だ よと いう のがおそらく実感
身も そう です し、先輩方 にはと ても追 いつ
れるよう にな ったと いう事だと思 います。
最近 の進歩 があまり にも 早過ぎ て、僕自
も のが戦争だけ ではなく て、民間 でも使わ
六千本使われ て いたそう です。 そう い った
デジ タ ル計算機と いう事 で、真空管 が 一万
です から、もう 半 世紀 以 上前 のこと です 。
ンピ ューターと いう のは、凄 い計算す る能
れも凄 いなと思 って いて、僕ら にと って コ
ようなも のを作 っただけなんですけど、 こ
を電子計算機 で計算 し て体 の中を見 させる
なん てことはな い、ただ単 にX線 の透過率
な い機械 が出 て来 て、何が凄 いかと言うと
を使う よう にな った。
そ のうち にCT スキ ャンと いうと んでも
る のに楽 ではな いかと いう事 で電子計算機
されるよう にな ってき て、 データ ベー ス作
を や ってく れ て、そ のう ちプ リ ント アウト
システム化、乃至は解析 に必ず 入 って来 る
きま した ので、出 て参りました。
医療 は科学 の 一部門であ る以上は、必ず
いのであ ろうと いう事 で、再度ご指名を頂
た のです が。解らな い奴が出 て来 る のが良
であ ろゝ
つと いう事 で 一度はお断り申 し上げ
上 田 多少喋 っても よろし いですか。正
時 に上田先生は施設長をなさ って いた ので
すね。
ユ争で口火を切 って頂きた い。
︼
小玉先生から、医療と コンピ ューターと い
い世代 になりますと、 コンピ ューターが無
医療 は成り立たな いと思 います。 これが若
斉藤一 電気が無ければ、おそらく現代 の
てはならな いも のにな っているのが現状です。
鉛筆と消しゴ ムと 三角定規と同じ で、なく
コンピ ューターは医療 の中 では、ほんと に
力を持 って いて、尚且 つそれを忘 れな いと
いう 、大変驚きだ った のです。私 にと って
然今お話があ ったよう に、ド ンド ン進 んで
とは関係無 いけど、 こう いう 風に見 て いく
方法もあ ると非常 に新鮮な感覚 でした。当
臓器 の関連を見 て い った。 コンピ ューター
した のです。正 に今 のCTの横から切 って
解剖 の先生が冷凍保存し て置 いて輪切り に
だ つた訳 です。戦後 にな って、横浜市大 の
直言 いまし て、 こ の会は私 に非常 に不適当
多 いのではな いかと思 います。
的な つながりを実感 した のは、検査 データ
ですね。昔、私は病 理を や ったり、生化学
ければ医療が成り立たな いと いう 認識 にな
行く、理解 に ついては私は臥日 ですが、ま
先輩 から いき なり は大変 でし ょう から、
だ ろうと、そう いう事 に対し ては否定も し
ま せん。先ほどCT のお話がありま したけ
ど、私達、最初 に習 った時はシ ステム解剖
を や って いたも のですから。あ の当時 は比
って来たんだなと思 います。
算機、それがもうビ ックリす るくら い関数
テキサ コかな んか の、所謂ポ ータブ ルの電
計算 し ていた のですが、当時出 てきた のが、
つ
あ の頃、 セ ンター の コンピ ュータ化と いヽ
か昭和 四十 五年創 立 ですね、今 の施設 に移
った のが昭和 五十 八年だと思 います。多 分
と ころで、医師会臨床検査 セ ンターは確
し て頂きますと、良 い、悪 いは別 にしまし
検査 セ ンターの件をち ょ っとだけ触 れさ
小玉 私 が医療と コンピ ューター の直接
コ ン ピ ュー タ ー と の 出 会 い
一々手 で
色計 でアナ ログ データな のです。
が入 って いる。 タ ッチを押すと 四則計算だ
も のに手を付けられたはず ですが。そ の当
と思 います。
います。 これは逃れられな い逗命 であ ろう
だまだ これから進 ん で行く のであ ろうと思
け ではなく て、 ログ計算 から、全 ての計算
-17-
でした。それから いろんな事 がありました。
手書きなど では駄目だし、 日立なり、東芝
なり、何処か のを入れ てデータを集積し て
で創立しました。 や って いくとどう し ても、
﹂う と いう 考え 方 でし
ベー スを や って いテ
た。そう いヽ
2て た方 で道内 で二∼三番 目位
いては、共同 の研究を やりながら、共同 の
居ました。医師会と いうも のは共同 の検査
て、当時はやはり武見太郎と いう怪物 が昔
生方 に敬意を表 した い。現在、それを利用
来 ていると いう印象 でした。立ち上げた先
ステムが非常 にうまく立ち上が っている事
です。内容 が良く出来 ており、使 い易く出
な い環境 で仕事 され て いて。
加賀谷 健診 セ ンターに来 て二年経ちまし
たけれど、来 て 一番印象を 受 けた のは、 シ
と いうか、 コンピ ューター無 し で済まされ
先生、実際毎 日 コンピ ューターを駆使 し て
て来たと思 います。どう でし ょう、加賀谷
コンピ ューターを駆使し て健診業務 に当 っ
な関係を持 っている のが健診 セ ンターです
ね。十六年間ズー ツと 一階と 二階 の関係 で
斉 藤 将来 的 には そう な ると 思 いま す
が、医師会臨床検査 セ ンターと非常 に密接
のに将来的 にはなる のですね。
薬を変更したり、大変な ストレスだ った。
査 を 入力 したり、点滴内容を変更 したり、
ります。それが終わ ってから他 の入院 し て
様 子を見 て離れられる のが七時くら いにな
る のです けど 、なかなか旨 く いき ま せ ん。
なか入力出来な いのです。必死 にな ってや
処方だとか、事務的な内容と いう のはなか
来ます が、新 しく 入力 させ る所見だと か、
たも のをまた打 つ時はボ タ ン 一つで直ぐ出
ったも のが入 ったなと思 って いました。確
ターで指示す ると、自動的 に色 んなも のが
大企業が業界 に入 って来 て、シ ステム集約
させ て頂 いて数多く の健診を こなせるのは
にな って いますけど、当時何十年 か前 にお
いかなければならな いだ ろうと、私自身 は
と ても駄日 でしたから、知 って いる方達 に
か に結果出 る のは早 いですし、
一回入力 し
手術が終わ つて息者 さんが麻酔から覚 め て
いる患者さん のデータを見たり、翌日 の検
使 いこなす には非常 に難 し いのです が、
い量 にな って来たと いう のがそ の時代だ っ
直ぐ、印字され て出 てきます ので、午前中
全部出 てきます し、 こちら で出した所見も
ズ ー ッと記憶し て いますから、人間 では不
さが凄 いですね。憤れるま では大変 ですけ
ど、
一度使 ったら、なんでも好き に出来 る。
一旦憶え たら、ほんと に楽なも のです。早
たかと思 います。検査 セ ンターが現在苦し
は診察 し て、昼からデータを全部使 って受
お願 いして、回路を作 ってい ったと いう事
出来上がると いう のですけど、実際 には困
の大型化とな って いくとどう し ても太刀打
コンピ ューター のおかげな のです。画面 に
セ ンターと いうも のを持ち、今 は逆 の流れ
斉藤一 医療情報が人間 の力 では こなせな
ち できな い状況が出 て来た訳 です。
い立場 にあ る こと はご指摘 の通り です が、
三村 病院 に居たら、若 いドクターは コ
可能 ですが。前 の経過を見 る のにも楽 です
し、比較出来ますし、大 いに医療と関係が
ンピ ューター使わなき ゃ、使 いも のになら
診者 に説明す ることが出来ます。非常 に効
東札幌 に札幌社会保険総合病院 が出来ま
それはまた別 のお話だと思 います。
した時 に、オーダーリ ングシ ステムを取り
一
一
軍つよう な時代 にな って います。柳
な いと一
一
これから益 々深くな ってくるかなと思 います。
データでも直ぐ呼び出し てく る形 にな るの
入れました。外来も病棟も全 て コンピ ュー
率 の良 いシステムにな って います。
でし ょうね。そうす ると 一つの検査 セ ンタ
上 田 よく判らな いけど、画面 で何処 の
ーと言 って いる場合 ではなく て、共通 のも
-18-
て いる でし ょう し。 コンピ ューターが無 い
も 現在 オーダ ーリ ング システムを取り入れ
た。 ですから、 コンピ ューターがどう のこ
ゝ
つのと言われ ても 、当たり前 にな ってしま
い、何も思 いつかな い状況 です。
三村 松村先生はどう です か。市立病院
ノ ー ト のよう な も のにな ってしま いま し
事 が出来 なく な ってしま いま し て、鉛筆 、
川先生はどう でし ょう ?
柳川 医者 にな って三年 か四年 目くら い
には、 ほと んど ヨンピ ューターが無 いと仕
と、意識す る必要がな いよう な時代が来 る。
技術と いう のが、ド ンド ン成熟 し てきます
ューター化 され て いる ので、意 識 しな い、
はな いかと思 います。 これらは全 て コンピ
ーと いう のは電話と、 テレビと、電気釜 で
規と言 った のですけど、今 の コンピ ュータ
小玉 先 ほど、鉛筆、消しゴ ム、三角定
ている のですけど。
る のではな いかと いう事を こ の頃特 に感 じ
入れな い人は取り残される時代 にな って い
ま います。医療も コンピ ューター の世界 に
ているじ ゃな いかと。新しく、皆さん身構
てしまえば俺も随分 コンピ ューターを使 っ
使 いこなし ているんだよと いう事も 、考え
で生活 し て いるのだと、それを自分が充分
て いな い物は少な い訳 です。そ のよう な中
つて いる物 の中 で コンピ ューターに関わ っ
だし、カ メラにも 入 って いる訳 です。今 や
にした って コンピ ューターが入 って いる訳
いら っし ゃると思 いますけど、電子ジ ャー
ューターと一
一
一
一
軍つと、凄く達和感を持 つ方が
吉井 確かに三村先生 の言う様 に コンピ
松村 そう ですね、毎 日 の病棟 でも外来
とかと いうも のではなく て、現実 がそう い
段 に対し て、遅れ て いるとか、進 ん で いる
ジ ーではなく て、単な る手段な のです。手
来 ても らう 訳 です。見積もりを出し て貰 っ
て、見積もりを出したらもう 一度来る訳 で
す。それを単 に画面 でや ってしまおうと い
も、発注す る のに電話を掛け て問屋さんに
イ ンフオメーシ ョンテクノ ロジーにし て
え てしまう必要はな いだ ろうと。
でも息者 さん の検査 データを コンピ ュータ
うも のであ るから。確 か にそ の時代、たと
えば戦争があ った時代 で飛行機が戦争 に活
う話だけなんです。北海道 の営業所は要ら
コンピ ュータは僕ら にと っては テクノ ロ
ーで見 る様 になりま した。外来 では、 カル
躍し て いたみた いに取り残 され て いた人が
と仕事 が出来な い?
テを見 てデータを説明す る事 の方が少な い
です。
一
軍つと、 パ ソコンとか、そ
ンピ ューターと一
一
一
な い。僕なんかは遅れ て いる方な ので、 コ
ず、 コンピ ューターを使わな いと人間 では
てお話を聞 いてき た のです が、医療 に限ら
三村 昨 日も NTT のパ ソコン講座 に出
と思 いますけど。
される人は いな いと思 います。今は狭間だ
ーター の持 つテクノ ロジーに対し て取り残
は居な いわけ で、将来は同じ様 に コンピ ュ
筆 、消しゴ ム、三角定規 に取り残 される人
たと捉え な い方 が良 いと思 います。今は鉛
進 んだ事 によ って、色 んな問題が起き て来
居 るかも知れません。 でも そ の事を技術が
斉藤 イ ンターネ ット で買 い物も出来ま
Tな のです。
日後 にはCDは手 に入る のです。それがI
し いと言えば、後 は全部 や ってくれ て、三
ば自分 のクレジ ットカードから、 これが欲
から買 ってしまゝ
つ。端末 でト ント ンと やれ
の基本な のです。私はCDなどは アメリカ
な いのです。そ の様な感覚 が今 のIT革命
便 利 な 手段
の言葉自体 がよく判らな いで、唖然と し て
いる。非常 に勉強しなく てはと見構え てし
-19-
店 に行 って品物を見比 べて、店員と話を し
て、そ の方が楽 し いし、幸せ であ ると いう
すと いう話、加藤先生は買 い物と いう のは、
のは、と にかく現場 の変化を見 ろと。現場
教授 にデータを集 め て出すと、彼 が言 った
の事件と何か象徴的なも のを感じた。岡田
知りた い事 の人割が出た場合 に、それもち
ょ っと怖 いなと いう気もす る。
から。
一般内科 の場合は。それが端末機 に
う いうと ころで我 々は苦労 し て いる訳 です
理したり、手前勝手 に遣 っている のですけ
ど、オトイ レ、WCではなく てね。音入れ、
島 の四季 ですけど、人ミリ のフィルム、整
味 の方だけ、前から撮り貯め て いた絵輌半
私は医療とし ては全然使 って いません。趣
出来なくな ってしまう だ ろう 、面白 く て。
止めました。 これを買 ったら他 の事 が何も
興味を持 って、買おう かなと、半年考え て
も か にも早 いのです。非常 に不安 、早過ぎ
る。 パ ソコンが普及し始める時 に、非常 に
後半、 ついこの問から パ ッパ ッパ ッと、何
が医者 にな った年代 から、今ま で考え ても、
加藤 な にか不安 な のよね。今 の便利さ
のす べて、非常 にテンポが早 いでし ょ、私
が。高度な コンピ ューター社会をご覧 にな
って。
知りたくなりますから、そうす るとまた画
面 に出 て貰 って、そし て次 にどう したら良
いのだと、それじ ゃどう したら良 いのかと
眺めると、俺 の病気は こうだと、肝臓が悪
家庭 には端末機が有 って、ホームページを
加藤 あ る種 の人達 の理想 は、 みんな、
斉藤 何処ま でも行く のではな いでし ょ
ヽ
つか。
ま で行く訳 ですか?
なく ても良 いんじ ゃな いかと、 これは何処
どう な る のだ ろうと、我 々の 一般内科が居
査結果も出 てく る。 これはズ ー ッと行くと
も見事 に分析し、見事 に分類 し、見事 に検
ランケと相対す ると いう事 、今 はあまり に
に現場 です よね、現場と いう ことは結局 ク
わな い。私達 の医療 の場と いう のは、完全
化と いうも のを大事 に思わな い、丁寧 に扱
ても 、現場から離れ過ぎ て いる。現場 の変
結局、どう いゝ
つ企業 のシステムであ るにし
私が漠然と考え て いる のは、そ こ へ行くま
うも のは技術的 なも ので行くと 思 います。
で、先ほど先生方が言われ て いる、 テク エ
ツク、 それから メ ソ ッド ︵
方法 ︶、 それか
上 田 私も 同 じ様 な事 を 考え て いる の
きが不安と いう のはそう で ュ予な のです。
﹂え てこな け れば 駄 日 です
う の話声 が聞 レ
よ。相手と会話が少なくな ってく る。先行
間は人間 の顔を見 て、日 つきを見 て、向 こ
コンに向 か い合 ってどう かなと、やはり人
ンが無くな って来 る。小学校 の時から パ ソ
と いうも のが、生 の声 の コミ ュニケーシ ョ
ットと称す る世界 であ って、人間と の対話
ど。そうす ると、自分 の向 い側 にあ るも の
が、 コンピ ューターと称す る、イ ンターネ
ターネ ット で遣 ってしまうと言う のですけ
書 いて いますね。ち ょ っとした選挙はイ ン
加藤 韓国はイ ンターネ ット世界 一だと
ような気持ちをお持ち でな いかと思 います
トーキーにす る為 に、今非常 に便利なも の
いか、さ っき 言 った 一般内科は、無くな っ
でのメンタルな部分 であ るとか、そこ へ行
訳 です。
解析︶、 そう い
ら有 る部分 のアナリ シ ス ︵
人 間 と の関 わ り
が出 て いる のです。 五、六年前 辺りから。
て良 いのではな いかと思うと ころです。そ
に行 って、そし てあ の格好 で歩 いて いる訳
です。なるほどなと思 った のです。雪印も
最近、ち ょ っと思ゝ
つのは、 みんな画面 に
これは コンピ ューター の操作 で遣 って いる
向 か い合 って いますね。有珠 の噴火と雪印
-20-
ると いう事 が私達 の世界 の中 では絶対必要
な のです。心 の世界 に関し ては、何も機械
が入らな い状態、心 の秘密も そう な のです
ム機 に溺れる、人間 の構造を破壊す る機械
だと思う。心 の問題と いう のは、人間と人
間 の結び つき の中 で育 って いくも のだと、
者 に値す る のだ ろう か。そう で つと ころに
漠然た る不安を持 って いる所があ る。特 に
、
小学校 みた いなと ころから テク ノ ロジ ー
形 の医者と いう のが、果たし て全人的な医
ま って、 メンタ ルの部分が抜 け てしま った
ピ ューターを駆使し て いて情報が見え てい
が っていく。も し、分裂 の息者 さんが コン
世界 で起き る行動が非常 に異常な世界 に広
は伝達障害な のです。情報を得られな いた
一
言つならば、分裂病 の世界
私達 の領域 で一
ど、限られたデータな のです。それを利用
画面 で︶ データは見 て いますけ
加賀谷 ︵
今更言うま でも な い事 だと思 います けど 、
つ形 で、ド ンド ン進 ん で
テクノ ロジ ーと いゝ
たならば、そう いう 世界 に入らな いだ ろう
けどそんな に簡単 には開け てくれません。
行く、それは充分考え られ て いる事だと思
と いう息者 さんも現実 に居ます。 コンピ ュ
ーターを使 っている息者さんは、最近状態
したけれど、部屋 に入 ってく る息者さん の
外科 ですから、随分救急息者を扱 ってきま
す ると いうだけ の話 です。たとえば、僕は
画 面 を み つめ て
ではな いかと思 って います。
特 に医学 の世界 では各科 に通じ て言え る事
いますけど、どうも漠然と我 々みた いな年
が良くな る。数人 の息者 さん の中 で経験し
くプ ロセ スの問題だとか、特 に精神的な問
題 であ ると か、そう いうと ころが飛 ん でし
、
ま つて、特 に医学教育を受 ける人達 の中 で
あまり にも テクノ ロジ ー の部分が進 ん でし
寄り にはち ょ っと不安 みた いなと ころ、私
る事 は本当かどうか、見た瞬間に判ります。
そし て絞 って検査 して診断し て、治療 に当
表情を見れば何処が具合悪 いか 一発 で見当
が つく のです。 スタイ ル、顔色、言 って い
たる のですけど、 データが いくらあ つても
、
そう で ユ子は出来な いと思 います。例えば
ま した。同時 に、私も そう いう事 に接 した
めに起き る視 野が狭くな る中 で自 分だけ の
達 はそう考え る所 です。老人 のあれな ので
な って来た。
物を買う にし ても、ち ょ っと今壁紙を見 て
から コンピ ューターを しなければ いけなく
分裂病 の息者さんは幼児期 にお母さんと
の繋 がり の中 で、 スト ロークにな って、愛
すけど。
も無 い中 で、伝達を得 る事を忘 れ て居 ると
を作 って いく中 で重大視 され て いる事 な の
です。三歳ま でとか の問題 ではなく て、ズ
いう のか、精神分裂病 に限らず今 の問題児
斉藤 僕 は今 日、そう いう 話を聞き たく
て先輩方 に是非参加 し て頂きた いと思 いま
した。
若 い先生は これ無 しにや って いられな い
と いう し、経験積 んだ先生方から見 ると非
常 に危 な っかし いと 、画面ば っかり見 て息
者 さん の話を聞かな いのではな いかと、批
子供が コンピ ューターに陥 って いく事も
ー ッと繋 が って いく ことだと思 います。
危険 です。お互 いの意思 の無 い中 で、ゲー
判も当然あ ると思 います。精神科 の立助か
ら、三村先正はど のようにお考え でしょうか。
三村 人間 の状態 は会 って医者が認識し
ーに頼らな いで、あくま でも主体 は人間
いますけど、新 し い壁紙を張替え しようと
した時 に、色 々 コンピ ューターで見 て いま
、
すけど 、実 際 には手触り なり、感触 なり
色合 いなり、人間 の日と いう のは非常 に感
覚 が鋭 いも のです。だから、 コンピ ュータ
、
つ。会 って対話す
な いと いけな い事 だと思ゝ
-21-
コンピ ューターは補助手段と いう形 で進め
いかに利用す るかだと。
めになる方法を考え ていく のか、要す るに
てしまえ と いヽ
2て えは多 分 こ こ に参 加 さ れ
吉 井 ま ず 、 コンピ ユータ ー に全 部任 せ
て いる先 生 達 一人も そう 思 って いな いと 思
ですけど、見た事 が出来 るような経験が出
時代 ではな いか。情報を いかに活用す るか
くさん提供し てくれるのが コンピ ューター
学生 ですら、 コンピ ューターでドクターを
ました。 二年前 の出来事な のですけど。中
秋 で非常 に非難し ていると いう記事 が有り
事をポー ンと出したと、そ のことを文芸春
素中毒 の可能性 が一
口
向いと コンピ ュータが返
は食中毒 ではな いと、薬物 中毒 でしかも砒
ん達 の症状をイ ンプ ツトしま したら、それ
社 のホームページ にアクセ スし て、患者さ
ー スを見たあ る中学生が、 BMLと いう会
と ころが分からなか った のです。そ の ニュ
んたちを診 て治療 に当 た った訳 です けど、
な バタバタ倒れ て救急病院 に担ぎ込まれま
した。救急病院 のドクター達は直接息者 さ
っぱ い居り 、全 部 同 じ ではな い。自 分なり
に近 いも のと 思 います 。 コンダ クタ ーは い
ターと いヽ
つのはあ ら ゆる点 で コンダ クタ ー
ば オ ー ケ スト ラ の コング ク ター、私 は ド ク
男 の子 で 一度 や ってみた いも のに、例え
貰 いた いなと 一
一
言つ意 味 です 。
ンタ ルなと こ ろを ド クタ ー に考え て い って
います 。 ただ 、医 学 部 の中 でも もう少 し メ
上 田 お っし ゃる事 は そ のと おり だ と 思
と 思 ったり しま す 。
が満 足 いく よう な話 の聞き 方 が出来 るかな
さ ん の情報 をも っと得 ら れ ると 、息 者 さ ん
し よう も無 いです けど 、診 断 す る上 で息 者
斉藤 今 のお話を象徴 す る出来事と いう
のは、 二年前、砒素 カレー事件 の時、 みん
ていかな いと間違 った事 にな ってしまう。
小 玉 私も CRT、画面を見 ている方が
多 いのかも知れませんけど、自分達が情報
来 るのです。 これがこれから の時代だと思
非難す る事 が可能 にな って来た。現在 のコ
いま す 。 コンピ ュータ ーも 一つの手 段 と し
て、手 段を それ の全 部 にし てしまう と どう
れば良 いのかと いヽ
つと、 コンピ ューターを
ンピ ューター社会 の実情 ではな いかと思 い
を得 る手段が増え てきた。電話 より、 FA
いか に私達が マネ ージ メントす るかと いう
の解 釈 を し て、自 分 なり の コンダ クト の中
で、 オ ーケ スト ラを 仕 上げ て い って、人 に
が判断す る訳、じ ゃそ の中 で私達がどうす
ターに教え込めば、あ る程度 の事 は向 ∼
﹂
う
います。それと同時 に、 これを コンピ ュー
い人 でも、 バーチ ャルリ アリ ティではな い
はも っと色 んな病気を、
一度も見た ことな
と いう のは、 これから の問題だと思 います
けど、情報を広くす ること によ つて、私達
Xよりもも っと広 い手段、私達 に情報をた
事 が大事な のです。 コンピ ユーターと いう
楽 器 にし ても メカ ニック の所 は ド ンド ン
アピ ー ルし て いる訳 です 。 それ らを医 者 に
上げた メンタ ルなも の、それから シ ンキ ン
進 ん で行 く のは 一向 に構 わ な いと 思う 。 た
ます。恐 ろし い事 です。
のは僕 にと っては道具 であり、情報を介在
グプ ロセスみた いなも の、そう いうと ころ
だ 、最後 のシ ン フオ エーを主 催 し て行 く事
持 って貰 いた い。
に コンピ ューターは追 い付 いて行け る ので
を忘 れな いで行 けば 問題はな いと 思 います。
上 田 メカ ニカル乃至は メソ ッド的なも
あ ろう か?
のはそ の類だと思う のです。もう 一つ申 し
し てくれるも のな ので、情報を いかに利用
す るかと いう のは僕達 の仕事 な のかなと 、
人間が コンピ ューターに使われ るのではな
く て、 コンピ ューターを いかに人間が使 っ
て医療をより良くす る のか、息者さん のた
-22-
人 間 のデ ジ タ ル 化
、
加藤 私 の所は勿論爺 さん 婆さんが多
。
いけど、偶 に若 い衆が来ます、 二十歳代 の
どう し
そうす ると私と会話 が通じな い。 ﹁
﹂
うが
何処悪 いの﹂ と いう時、向 >
た の﹂ ﹁
つなる。非常 に話 が早 い
※◇ *□ ∴☆と こゝ
。
の です 、 名 詞 と 用 語 の区 別 が つか な い
どん
え ぇ﹂と言う、 ﹁
﹁
風邪引 いた の﹂ ﹁
な症状﹂、ど んな症状と いう 聞かれ方はお
。
そらく普段無 いと 思う 。症状 と いう のは
一
言えな い、
表 現が今 は非常 に弱 いですから、一
ギ ャー﹂と
言葉 が無 い、見 る本が浸画 の ﹁
か 司ヒー﹂ でし ょ、頭 にあ る のは。文章力
れ るかどう か。
科 学 の進 歩 と いう のはどう いう 形 で出 てく
て いま す から 、 ソビ エト が崩壊 した のも そ
、
、
う でし ょう 。 五年 経 って 十 年 経 った ら
が極端 に弱くな って いるから、そ の割合 が
非常 に増え て来 て いる。段 々も っと増え る
で考 え な いと 先 に行 け な いです が
ら かと いう と暖味 さ の社 会 です 。良 いのか
る社 会 です 。 アジ ア の社会 と いう のはどち
、
イ エス、 ノーを 言 わ な いと良 く な いと され
特 に ア メ リ カ 人 の考 え 方 は デジ タ ルです
、
、
欧
米
。
吉井 先 生大丈 夫 です よ。今 は デジ タ ル
るか、 知恵 のあ る力 強 い人達 が出 てき てく
のではな いかと いう気 がす る。小学校から
パ ソ コンを眺め て いたら、喋らなく て良 い
から、そ の辺を上手 にテンポを緩 め て時代
、
を流してくれな いかなと思う。速 いですよ
。
テンポが、たかだか ここ二∼三十年 でし ょ
悪 いのか解 ら な い、 でも 、 それ で文化 が進
す か ら、もう ち ょ っとす ると曖 味 さ が メイ
科 学 は 医 療 を 豊 か に す る のか ?
ンにな って来 ます から、 アジ アが ト ップ に
ん で来 て いる のです 。 コンピ ュータ ー の進
斉藤 科学技術 にはプ ラスの面と マイナ
、
スの面とが常 にあ るとは思 いますけど 先
輩方も科学者とし て、科学 は常 に進歩しな
立 てま す 。
ち ょ つと考え てから でな いと、そんな時代
2て たに立 って
ければ いけな いと、そう いヽ
上 の白 人とし ての、 これはどう し ても好き
れな いだ ろう か などと 、常 に進 歩 をと 考え
、
です か ら、 レ ントゲ ン写真 を 見 ると も っ
、
と 綺一
麗な 写真 が撮 れな いだ ろう か C Tを
一枚 撮 る のに十秒 も 掛 か る、も っと 早く撮
る のだと いう お話 でしたけど
ん で いる道 は曖味 な方向 に進 ん で来 て いま
来た のではな いかと思う のですけど。
斉藤 科 学技 術 が進 歩す る のはむ し ろ困
、僕 は内科医
にな ってしま って いる。
一
一
一
Fつボキ ャブ ラリー
吉井 症状を自 分 で一
ヽ
つん﹂ か ﹁いいえ﹂ と い
が征い
いのです。 ﹁
つにしな いと。 チ ャ
う答え で答え られるよヽ
ート式 で聞 いてあげな いと。
加藤 科学 はあまり進歩しなく ても良 い
になれな いのです。 ョー ロッパが少 し年寄
る のです が、 上 田先 生 は内 科医 と し てはど
来 の欧米人 の主導 で遣 ってきました。彼ら
には優越主義と いう のがあります。地球 の
り臭くな ったかと思 ったら、 アメリカが張
のよヽ
つにお考え です か。
、
上 田 科学 の進 歩 と いう のは 嘗 て の拠
り切 って いますし、 日本が戦争 に負け てか
ら、最近特 にアメリカ の属州 みた いに呈し
と思 って いた。科学と いう のは産業革命以
加藤 全部聞かな いと いけな い。
。
小 玉 そう 、 そう 、 デ ジ タ ル です よ
痰 が出 る
咳 出 る の﹂ ﹁
﹁のど 痛 いの﹂ ﹁
熱は﹂と言
の﹂ と聞かな いと いけな い。 ﹁
ど のく ら
う ︱ん、熱は有 る﹂ 、 ﹁
う と、 ﹁
いの熱、 人度 か い、九度 か い﹂と言わなけ
れば駄目な のです。
加藤 ﹁のど痛 いょう な気がす る﹂と言
、
う から、ど の程度 の痛 みと いう か 程度 の
-23-
りますけど。
し てしま ったと思 います。解らな い所があ
プ ルな形 で救 いを求め て いく所を科学 は殺
何処 でも神を殺し てしま った。最後 にシン
ト教然り、辛うじ て生き絶え 絶え に残 って
いる のが アラブ のも のだけ で、ほと んど の
榊様 を殺し てしま った。日本 でも そうだし、
り所 であ る神様を殺 し てしま った。キリ ス
上 田 でも 、 ギ リ シ ャのあ れ から 、プ ロ
た感覚 と全然 二
亭つ見方 を し て居り ま す。
っており ます ので、 上 田先 生 が さ っき 仰 っ
も 確 固と したも のに作 り 上げ て欲 し いと 思
病 因論 か ら始ま って、治 療 ま でを 現在 より
探 求 、知 ら れ て いな い事 を 明 ら か にし て、
進 歩 し て欲 し いと 思 っておりま す 。も っと
加賀 谷 医 療 に関係 し て いるも のはも っと
す か。
柳川 電話と辞書 のよう に早く使 ってし
感じ ております。
くれる ので、時代 が進歩し て いると、毎 日
で明日 の手術がどう いヽ
2と同で見え るかと
か、遠近感を含 め て完全 に処理し て見 せ て
ピ ューターは優れ て いまし て、三次 元画像
と一
一
一
一
甲つか手術 のシミ ュレーシ ョンでは コン
科医 の立場 で一
一
言つと バーチ ャルリ アルティ
ら、 そ んな考え 方 を す る のかも 知 れま せ ん
域 を 侵 さな いかと いう 話 があ り ま した け
ど、 テクノ ロジーが進 んでも神様 が居なき
メ ティウ スが探 し出 したも のが果 た し て人
れが不安だと いう気がします。十年経 った
けど 。
ゃち ょ っと 困 るよと いう 部 分 があ る ので
す。そこ の部分は テクノ ロジーと別 に考え
一神教だか
加藤 あ の人たち の考え は、
ら、彼らは結論 が欲し い、究極、最後、進
ら、どうなるだ ろう。小中学校 はパ ソコン
松 村 脳外 科 を や って いると 、年 代 に関
てや っていかなければ いけな い。最終的 に
ま った方 が良 いと思 います。息者 さん側が
コンピ ュー タ ーを使う よう にな って来 る
と、思者 さん の方が知識有 って、医者 が知
を持 つだ ろう か。
何で
係 なく 、息 者 さ んは私 の神 経検 査 で ﹁
は神頼 みと一
一
言つ部分はあ る のですから、私
間 に幸 福 をも た ら し て来 た のかと いう 大 き
全員 そうなるでし ょう。
も な い﹂ と いうも の を 求 め て来 て いる ので
は上手く利用し ていこうと考え て居ります。
歩 の最後、其れ に向 か って進 んで いる。究
加藤 そ の分だけ メンタ ルな会話 が少な
はなく て、 C Tが何 でも な い事 、 M R Iが
斉藤 三十代から七十代ま で幅広 い年代
らな いと、まず い面もあります ので、防御
く な る。
何 でもな い事を求め て来 て いる。幸 せだと
の先生方 に、新 し い文明 の利器、 コンピ ュ
と言 って良 いのか判らな いですけど。
鴨 井 必 ず 持 つ、先 生 も 要 ら な く な る。
思う のは、ど んど ん進歩 し て います から、
加 賀谷 僕 は そ こま で深 い考え を持 って い
ただ 、
一日あ れ に向 か って いる のがどう な
以前 は浸襲的な検査 しか出来なか った、
一
ータに ついて色 々とお話 し いただき、た い
な命 題 は 別 に有 る訳 です 。
のか。
へん意義深 い区談会でなか つたかと思 います。
極は何かと いう事。其れに向か って進む こ
加藤 あ んな便 利 なも の無 いだ ろう し。
時間かか った検査が短時間 ででき る。
ド ンド ン進歩すればす るほど息者 さんに
吉井 サイ エンスが進 んで行くと神 の領
三村 欧米 では そう な って いる。
みし
ざ いました。
本日はお忙し いところ有難↓
ま せ んけど 、 イ エスか ノーか近 い方 です か
斉 藤 加賀 谷 先 生 は最 近 の進歩 、勿論 コ
良 いも のが提供出来 る のだ ろうと。後は外
とを進歩と いう、は っきり した考え 方、其
ンピ ュー タ ーを含 め てど のよう にお考え で
-24-
田西田W一W口W一W一W一W一W一=一
W田W旧田旧田旧
W一W一W一
ネが室蘭 地方 に
来 た ころ
語良
千葉 一
それから先は凸凹道 で運転 手はなる べく平
に近 い所を選んで運転す る のが当たり前 に
な って いました。今考え ると不思議な気が
します。中古 のフォード には私と臨月 の薬
剤師 であ る妻と 三歳 の良夫、他 に義母七十
歳を超えた老婆 の四名 で私もそれなり に心
配したも のです。もう 一台 のト ラ ックには
た。途中義母は気分が悪くなり 二回程車を
停め嘔吐しました。
出 来 るだ け の荷 物 を 積 ん で後 に続き ま し
私が縁あ って鷲別 に病院創設と いう使命
着 いた所は鷲別駅前道路 の元宍戸工業株
︵
三愛病院︶
を持 ってこの地方 に来た のは昭和三十年十
式会社 の社長宅。鷲別は砂鉄 が比較的豊富
にあり 一回採取した後 で、新 し い機械を入
前金 で半ダー ス
て来 て下さ いと云うと、 ﹁
引 っ越 し当初とりあえず夕食と云う事 で
グ ル マヤと云う店 にビ ー ルを 一ダー ス持 っ
後 の散歩等 は思 いもよらなか った のであり
ます。
一
冬 えて肌に刺す様 に冷たく当たる為、か食
平洋より室蘭港 に抜ける風があり、砂鉄を
碁 えて い
ックで断熱材は皆無 、庭も次第 に一
き私も平岸から持 ってきた牡丹、有薬等 は
一年 で無くなりました。段 々分 った事 は大
いていましたが、結局家 は内地造り のバラ
れ二回取 って いました。家は当時 では珍 し
い瓦葺き の大きなも の、それに大庭園が付
二月 八日であります。 それま では約八年 間
市立札幌病院 の分院 であ る平岸静療院 に勤
務 し ておりま した。学生時代も 三年程北大
精神科 の教室 に出入りを許し て貰 って いた
ので、今考え ると若 いと云えば若 いし良く
思 い切 ったも のだと自分乍ら感心し ており
ます。只、 いず れは自 分 で思う ような病院
を創 ろうと考え て いたし、練習を兼 ねる等
と勝手な理由もありま した。市立札幌病院
院長 の九山幸太郎先生も良く事情を呑 み込
んで ﹁
上手く行 かなか ったら何時帰 って来
ても良 いんだ。﹂と云 って下さ いま したが、
そ の様な事 は考え ては無 か った にし ても有
り難 い御言葉 でした。
当 時 の室蘭街道 は、千歳 迄は舗装 さ れ、
-25-
牛肉 は何処 にも売 って無く、只魚類は豊富
ならお届けしまし ょう。﹂と言 い張 る始末。
″は進行麻
も懐かしく思 い出します。 C・
そ の中 でも幕 西から来た ″句の 息者 は今 で
開院以来、外来も入院も想像以上 でしたが、
べる事も 、飲む事も 心配な いので思 いきり
年 が若 いと行動範囲も広く、寝 る事も 、食
1999年 人月三十 一日午前十 一時三十
分、事件 の始まりだ った。
︵
くにもと皮膚科医院︶
国本 孝夫
ほんとにこんな事が起き るんだ ね ぇ!﹀
︿
医 療 機 関 に て事 件 発 生
遊びホき ま した。 こ の事 は機会 があれば書
いてみた いと思 います。
でした。
痺︶
薬屋は親成 であり、よく札幌 で遊 んで い
病院は約七十床、木造平屋造り で殆ど完
成 に近か ったが、電気が何回も停電 にな る
たホシ伊藤から全部仕入れました。今 のよ
る時急 にリ ンゲ ル液 が必要 になり、従業員
ので大変 でした。原因は簡単な事 で営業 の
病院建築反対組が いたらしくう るさく北電
に連絡を入れたり、電気 が切られ、切られ
お宅 には売ら
が多 田薬局 に買 いに行くと ﹁
う に宅急便 がな いので松浦君がリ ュックサ
ックをか つぎ汽車 で運 んでくれました。あ
たら又繋ぐと云う状態 でありました。 これ
な い﹂と云われたと帰 って来た事 がありま
電力は全 て盗電 であり、地元 の人 の中 には
等 の事は いくら でもありましたが、開院 は
す 。 ほら私 の出 番 だ と 思 い薬 屋 に行 く と
ても駄日 です よ。﹂等と云われましたが私
今月 二回目︶ の
を出した。 Aさんは再診 ︵
A︶さんが受 け付け に健康保険証
息者 ︵
は分 って黙 って帰 ってき た事 も あ り ま し
た。又、保健所 に元 々精神衛生係 の年配 の
しかし云 っておきますが鷲別 では何を や っ
﹁
先生が来られたら、ち ゃんと売りますよ。
十 二月十 五日と云う事 にし てオープ ンセレ
モ ニーを常盤 で行 いました。 これには元医
師会長上田智夫先生 の父 であ る上田米三郎
先生 には全 ての点 で御世話 になり この誌面
を借り て厚く御礼を申し上げます。
先生が居 ること で直接、間接的 にも力 にな
りました。先生は教育 委員長を や っておら
れ、日大歯学部 の北海道同窓会会長 であり、
御好意 で ロー テーシ ョンの精神科医 が来 る
一応軌道 に乗りました。
よう になり、
が直ぐ来 てくれたし、医大 の元中川教授 の
された事も思 い出します。医局は加藤先生
に思われた のだ ろう 。受付 に問 い合せ て健
く待 って いて、名前 が呼ばれな いので不審
女性がおり、時 に優しく、時 に厳 しく指導
りました。常盤 での開院式が終わ ると、米
一番楽 しか った事 は 一年 間無休 で働く変
のであ る。受付 の者 は仰天したが、周り の
米三郎先生とは同期 であり又同門 でもあ
先生も始め何を云ヽ
つつもり
三郎先生から ﹁
わり に 一年 に 一ヶ月 の休 みを頂く事 で、始
めは連絡船 で、後から飛行機 で妻と子供と
も のに確認し、受け取 って いな いことを A
息者さんであ る。 Aさんが出したはずな の
に、受付 の者、および近く に居た者は誰も
だ つたかよく分らなか ったが最後 のまとめ
又は 一人 で内 地旅行を した事 であります。
康保険証がなくな っていることが分か った
受け取 っておらず、またそ の保険証を見た
者すらも居な いのであ る。 Aさんはしばら
がきち んと し て いて良 か った。
﹂等 と心配
し てくれ て いました。
室蘭地方 にこの種 の病院 がなか った ので
―-26
親切 にも、すぐ に届け てくれると言われた
ので、皆 で待 つ事 にな った。保険証が届 い
務長が翌日届け ると言 ってしま って いたよ
電話 での要求内容を私 に伝え た。どうも事
私 の実印を押 した書面 の提出を求め てき た
らし い。午後 の診察終了近く に、事務長 が
た息者 ︵
B︶ さんが見 つか った のであ る。
た のは午後 一時 三十分頃 であ った。 Aさん
う な ので、内心ギ ョッとした。先 に私は本
掛か って来たそうだ。数回掛か って来た電
話 に対応 した のは、全 て事 務長 であ った。
能性があ る ので、そ の十 一時 三十分頃 に受
一同 で玄 関 に見 送 り に出 て、 私 は 、
を、
人 に、そ のたぐ いを書く事を断 って いた の
状況を考え ると、どう やらAさんが保険証
診 した息者さんに問 い合 せを開始 した。そ
﹁こう いう 事 が再 び 発 生 しな いよう に皆
さんに告げた。そこ いら に置かれ て いな い
う混 み合 っては いなか った ので、可能性 の
注意 しまし ょう﹂と、締 めくくりを述 べた。
一応事務長から手渡され
で釈然としな い。
こ基
付 の不備を詫び る内容と、悪用され て い
﹂
ゝ
つし て いる
あ る人は数名 であ った。そう チ
事 務長 は ﹁
御迷惑を お掛 け しま した ので、
た走り書きを作文したが、要求内容を検討
を出した時 に、偶 々会計を し て いた Bさん
内 に、 大さんは、保険証 の悪用を恐れ、も
明 日菓 子折 りを 持 って伺 いま す﹂ と 言 っ
か探し始めると共 に、まずはカ ルテを出し、
しそ の場合は私が全責任を取 ると いう書面
全 ︶まず連絡をと った警
考慮 した結果。
た場合 、全 ての責任を取 る事 を したため、
を こ の場 で書く事を求めた。状況 が良く分
察 に問 い合わせる。 全一 駄目な場合は医
が自 分 の物と 誤認 し て持ち帰 ったらし い。
からな いので、ど のよう な責任 があ る のか
た。私は、保険証が悪用される危険 があ る
事を知 って いる のであれば こそ、ち ゃんと
つこと にしたらし い。カ
診 祭を受 け てもらヽ
ルテが届き 、 Aさん の診察を始 めた時 に、
不明 であ るし、ま し てや、そう い った内容
手渡 さなか った Aさ ん の方 が不注意だ し、
師会 に相談す る。 全 ゛ それ で解決しな い
時は弁護 士さんに相談す る。などを決め て
私も そ の事を知 った。誰かが持ち帰 った可
を 軽 々し く 保 証 は 出 来 な い の で、 当 然 、
再診 で月初め でもな いのだから診察券 で良
か つたはずな のにと思 ったが、まあ、そ の
を こなさなければならな いから、明 日は大
す る事 にし、帰宅した。色 々な人 に相談し、
﹁
今 は何も 書けま せん﹂と、 お断り した。
しかしAさんは、医院長な のだからと いう
位 の誠意を見せるくら いは、医院内 で起き
た事件だから仕方が無 いのかな ぁと、考え
向 いてく れた Bさん には感謝感激 であ る。
生え 薬を使 ったと ころ脱毛が生じ てしま っ
事を思 い出した。 レセプト業務 が始ま るの
だ つた。それと昼休 みには先約があり、毛
応は事務長 に頼む事 に決めた。
翌九月 一日、眠れぬ朝を迦え て、大事な
けながらは到底無 理 であ る ので、電話 の対
にし にな るだ ろL
つ。 Aさんから の電話を受
寝 る事 にした。患者 さんを診ながら、 これ
理由 で、責任を取 って貰 いた いと主張を続
け る。医院内 の事 に ついては、全 て私 に責
ず警察 に問 い合わせ る事 にした。警察 では
民事 であ るので、受け てくれな いかも しれ
これを悪用す るよう な人なら届け てくれる
たも のだ った。 Aさんも、素直 に帰られた
ので、内心 ホ ッとした。わざ わざ届け に出
な いと懸念 したが、遺失物など の扱 いで話
任があ ると思われ て いるようだ。埒 があか
を聞 いて貰え るようだ った。当方から受付
祭
の者と事 務長、そし てAさん の三人 で警二
訳がな い。
しか し、 これ で終 った のではなか った。
午後 の診療 が始ま って、 Aさんから電話が
に向 かおう とす る直前 であ った。持ち帰 っ
-27-
つ一
く る日だ った のだ。めま いがし て、もゝ
た患者 さん の事 で、製薬会社 の人が訪ね て
せ ︶ 御 迷惑 を お かけ しま したと 言 った事
が、 ミ スを認めたと一
一
言≧ 思味 に、取られた
した事 があ る。 Aさ ん には ︵
時 間をと ら
は せず 。 正確 に Bさ ん ︵の実 名 を 明 記 し
る。書く内容は事実 のみ、謂 れ のな い謝罪
度床 の中 に潜り込 みたくな る のを我慢 し起
診察時間は迫 って いる。警察 は見 つか った
握 り しめ て各 方 面 に相談を 開始 し て いた。
九月 一日午前 八時 三十分、医院 の電話を
てみ てはどう かと、医師会長 の考え を伝え
会 より道医師会 の顧問弁護士さんに相談 し
こちなく診療を こなし て いたと ころ、医師
のだ ろう か?
不安な気持ち に、ど っぷり浸か って、ぎ
医院 のミスでは無 い事 、それと時間が限定
押すだけ で良 い教え ら れた。 これ により 、
る事を明記し て、医院 の横判と私 の認印を
て いた場合 は、医院 が誠意を持 って対処す
持 し て いた時間 に限定 し て、不都合 が生じ
て︶ が 、も ち 帰 ら れ て いた時 間を 記 入す
る。最後 に、 BさんがAさん の保険証を所
物 に ついては遺失 届けも、民事 の苦情 に つ
てきた。もう藁 にもすがり つきた い思 いで、
あ るそうだ。菓子折りなどを持 って行く行
き上が った。
いても、受 つけられな いそうだ。地元 の医
札幌 に電話を掛けた頃は、事務長が Aさん
に約束し ていた時間をとう に過ぎ、電話 で
される点は、医院側 にと って好まし い事 で
師会 では現在、専属 の弁護士さんが決ま っ
ておらず、役 に立 てな いそうだ。法務局 に
ん でこんな に混 んで いるんだと叫びたくな
伝え 、診療を 開始 した。より によ って、な
め、事務長 にはAさんに待 って貰う よう に
んに話をす るま では、返事 は出来な いと決
の束は厚くな って いた。と にかく弁護士さ
事行き詰ま ったよう に思え 、す でにカ ルテ
一時 三十分頃だ そうだ。 こ の時点 では、万
合わせたが不在 で、出 てこられる のは午後
以前 に会 った事 のあ るS弁護士さんに問 い
士 さ んだ。 やはり地 元が 一番便 利な ので、
っては貰え な いと の事らし い。最後 は弁護
良 い点もあ ると の事だ った。事務長は、書
覚え書きを書 いて渡 し てお いた方が都合 が
だし、ど こにも 届けを出し ていな い場合は、
何も書面を渡す必要は無 いと言われた。た
や っと札幌 のK弁護士さんから電話があ
つた。事情を正確 に再現し て話したと ころ、
しか仕方がな い。
旱つ
頻回にかか ってきたようだが、待 って世
の後も 、Aさんから失 の様な催促 の電話 が
るよう にお願 いし、事 の顛末を伝え た。そ
だ出 てき て いな いそうだ。電話を掛け て来
何度 か遣 り 取 り が始 ま って いた よう だ っ
た。 しかし、またし ても弁護士さんは、ま
はな いそうだ。今は印影 から簡単 に模造が
の内容が実印 にま で及んで いる のは尋常 で
ンと地元 のS弁護士さんにも見 て貰 ってか
ら、Aさんに届け るよう に指示した。要求
届けようとす るが、後 の事を考え て、キチ
事務長は、作成したばかり の覚書を慌 てて
覚書な のかも しれな い。
がは っきり明記され ている場合は、無用な
察 に遺失届けなどが出され て、それに時間
認め てしまう様なも のだ そうだ。す でに警
為は、以 ての外 で、それは こちら のミ スを
つたが、 い つも のよう に待合室 に息者 さん
いて欲 しそうだ った ので、文面 の添削を依
でき、ど のよヽ
つに使われ ても おかしく無 い
も当た ってみたが、そう 言 った相談 には の
大 変 お待 たせ し て申 し
を 迎え に い った。 ﹁
頼す る事 にした。表題は、 ︿覚書 ﹀、 であ
書 ︵
見た事 は無 いが︶ のごとく に積 みあが
り、息者さんは待合室 に溢れ ているようだ。
電話から戻 ってみると、カルテは六法全
訳あり ま せ ん⋮⋮⋮﹂。と 、 こ こで思 い出
-28-
と 、 K弁 護 士 さ ん に注意 さ れ て いた のだ っ
た。
いる患者さんに不安を与え る のではなか ろ
う かと懸念を始めた頃合 に、堪り兼ねた事
務長が、私 に助けを求め て来た。さ て、ど
し て下さ い、と な る のだ ろう か。
てしま って、後 は訴え るなり好 き な よう に
脱 兎 のごと く に出掛 け て行 った。 さ てAさ
んが受 け取 ってく れ るか、 それとも 決 裂 し
刻も 早く 届 けた い事 務長 は、僕 に伝え ると 、
会社 と の話 が終 わ る頃だ った。 Aさ ん に 一
長 が連 絡を受 け た時 、私 は脱 毛 の件 で製 薬
士 さんに電話 したが、今 日も昼近くま で出
て来れな いらし い。 S弁護士事務所 に全 て
て欲し いなどと無茶な話だ。すぐ にS弁護
し い。それも今 日 の午前中 に全 てやり遂げ
で実印を押し て欲 し いと言 って来 て いるら
文を手書き にし て、さら にAさん の目 の前
わ ったと 言う 。表 題を ︿念 書 ﹀と訂正 し、
ら電話が掛か って来 て、昨 日とは要求が変
おかし い。聞 いてみると、先ほど 大さんか
載す る予定 の原稿を練 って いたり、紹介状
の返事を作 って いると、事務長 の様子が又
い出した。 テープ の提出を求められた ので、
の上 のテープ レ コーダ ーに気が付 いたよう
で、断り無く録音す る のは違法行為だと言
はありません﹂等 の遣り取りをした後、机
あ な た が責任 を取 る べき じ ゃな いのです
か?﹂私 ﹁いいえ 、全 ての責任を取 る訳 で
医院長な のだから、
は い﹂ 、 Aさん ﹁
私 ﹁
これが誠意ある態 度な のですか?﹂
Aさん ﹁
を押 し て待合室 より Aさんを招き 入れた。
を記録す るため に、カセ ット テープーレ コ
ーダーを診療室 の机上 に置き、録昔ボタ ン
う したも のかと思案 した私は、自分 の発言
しか し、 そう す んなり と は、ど ち ら にも
を 一任 した い事をお願 いしたと ころ、契約
確信が持 てな いまま従 ったと ころ、カセ ッ
思 いだ った。
翌九月 二日、医院 に辿り着 いた のは人時
二十分頃 であ った。頼ま れ て いた新聞 に掲
な ら な か った。 Aさ んが、ま た変 更を 求 め
を取り交 わ し文書を作成 し て居な いので、
ト の中身 のテープをそ の場 で引き抜かれ壊
昼休 み、 や っと S弁護 士 さ んと 連 絡 がと
全 面 的 に対 処す る﹂
も って対 処す る﹂ を ﹁
今 はま だ受 け ら れ な いと留 守 香 の方 が言
れ、 こ の覚 書 で概 ね良 いでし ょう と 、事務
にかえ てほ し いと の希 望 だ った。謝 罪 の文
誠意 を
てき た のだ 。文 中 に使 わ れ て いる ﹁
や実印 の方 は、どう やら諦 めた ら し い。再
と し て貰 っていく事を告げられ て、さら に
違法 に録音をした事 の念書を、 この場 で書
され てしま った。破壊された テープは証拠
び S弁 護 士 さ ん に問 い合 わ せ ると 、意 味 は
う。 S弁護士さん に連絡がとれるま で待 つ
事 にし て、午前 の診療を始めた。しかしま
同 じだ から 、変え る必要 は無 いと 言う 。 K
弁 護 士 さ んは、 同 じ意 味 だ から変え ても 構
しかし て、今 のAさん の行為 は、器物損壊
もなく、断りもなく Aさんが受付 に現われ
て、事務長を呼び出した。待合室 に対応 に
三階 の事
出た事務長 が、裏玄関 に回 って ︵
務長室か院長室 に︶入 って貰う よう に話し
たら、拒否され、待合室 での話 し合 いにな
に当 た る のじ ゃなか ろう かとも考え たが、
わ な いと 言う 。事 務 長 の顔 を 見 て、私 は後
ったそうだ。段 々大きな声 が診療 室 にも聞
事態を混乱させたく無 いので、 ﹁では、あ
いて欲 し いと言 い出 した。今は、掛か って
来 た 電話 を 録 音 す る のは 日常茶 飯事 だ か
ら、そんな事 は無 か ろうと思 い断 った。も
いた。事務長はAさんに明日届ける事を 連
こえ るよう になり、 このまま では待合室 に
者 を 選 んだ のだ った。 訂 正 し、押印 した頃
絡し て、胸を撫 で下ろした のだ った。 これ
には 、もう 午 後 の診療 も 終 り に近く な って
で 一件落着したなと、私も肩 の荷がおりた
-29-
案 し ていたら、電話を掛け る途中 で、今 日
る のを待 った。 これはどう したも のかと思
欲 し いと一
一
言つので、貸 し与え 、電話が終わ
連絡 した いと ころがあ るから電話を貸 し て
﹂ と告げたと ころ、拒否 された。 Aさんは
ら た め て録 音す る事 を 了承 し て貰 いた い
り願 った。
が いく ので、そ の場 でサイ ンし てお引き取
の覚書 に自署し て欲し いと いう事だ。納得
のであ ると証明 できな いので、せめ て今 こ
日指示された覚書 では、私本人が書 いたも
した事務長 の印象とは段違 いなよう だ。昨
じ ゃなく筋 が通 って いる。前 日に会 って話
きな いと断 る事。
さんに相談す る。それま では何も約束 で
妨害 しに来た訳 でもな いから、息者 さんを
るよう に薦め、 これからは私自身 で全 て対
七十︶事務長 には、翌 日から有給休暇を取
今年 、齢
苦労をかけ疲労困億し て いる ︵
ず 、黙 って勝手 にさ せ ておけば 、 上記 にな
ち帰 ると強 盗 と な るよう だ 。安 易 に承諾 せ
を無 断 で持 ち帰 ると窃 盗 、強 引 に奪 って持
りだ さ れた のは、 やはり 器物 損壊 で、 それ
ても 違 法 ではな いそう だ 。 テープ を引 っ張
P S 当 事 者 間 の録 音 は 、 特 に断 ら な く
な ったと 思う べし。
、 ぎ
一
一
甲え な く
一
0 日本 も 安 易 に
巨 83 ヽと は 一
は先生 に話 しに来た訳 では無 いし、営業を
診 て下さ いと言 い出すじ ゃな いか、な んだ
処す るしかな いと心 に誓 った。
呼び出された兄が現われ、私と話がした い
まずは安心した。そ の後、Aさんに電話 で
否 し て良く 、録音 の件も心 配な いと聞き 、
成り行きを伝えたと ころ、 こちらは全 て拒
の備え にな ると思 って いる。
す る事と した。費用は勉強料と考え 、次回
保 険 証 が悪 用 さ れ て いる事 はな いと 思う
が、やはり S弁護士さんに全面的 にお願 い
護士さんが必要 であ る事を痛感 した。今回、
こヽ
ついう体験を し てみ て、すぐ に頼める弁
笑︶︶
︵
ここ に、認 め印 が いるかな ぁ ︵
く にも と皮 膚 科医 院 国本孝 夫
つて いた かも しれな い。
か訳が分からな い。それ ではと、三階 に移
と言 って いると事務長 が言 って来 た ので、
︿教訓 ﹀
まだ全 てが終 った訳 ではな いが、実際 に
診祭を中断し て会う事 にした。 こ の時点 で
●無間 に謝 っては いけな いし、不確かな非
● 被害を受けたと思 ってる人 には警察 に行
-30-
動し て貰 った。 S弁護士さんが不在な ので、
札幌 のK弁護士さんに連絡をと って、事 の
は ﹁
そちら の好き なよう にし て下さ い。後
● 当事者同士 で、なんとかしようとは思わ
を認め ては いけな い。
は診療 の邪魔 になる ので、お引き取り願 い
向くと、まずは身分を名乗 って いる ので聞
な い事 。ま し てや、とりあえず菓子折り
た い﹂ と伝え る事を決め ていた。 三階 に出
いてみると、地元 の医療機関 に勤め ている
そうだ。名刺を見 てみると、確か にそうな
ので、言 い分を聞 いて見 る事 にした。 Aさ
って届けを出し て貰 い、 こちらは弁護士
などとは考え な い事。
ん本人とは相当違 い、話す内容は支離減裂
マイ
ッルッタ
お ろ し や国 見 関 録
上 田 智 夫
︵
上 田医院︶
︵
ペ テルブ ルグ を 中 心 に︶
ロシヤ事 情
室蘭を代表す る経済人 で、 シベリ ア鉄道
千歳空
に乗 ったり、北方圏空港 の視察 で ︵
港は雪、風 に弱 い︶、再三 ロシヤを訪 れた
人が、必要が無ければ行きたくな い土地だ
と言 って いた。
﹁
地球 の歩き方、 ロシヤ編﹂ の最新版 で
ト レの紙は新聞紙なみ、 ロールペ
も、 ﹁
イ
カードは使えな い、現金
ーパーを用意﹂ ﹁
ミネ ラルウォーターを
はド ルのみ通用﹂ ﹁
ボ ー ル ペンを何本 か持参﹂ など、
用意﹂ ﹁
未開地旅行なみ の注意だ。
一人 に 一籠ず つウ ェルカム フルー
とか で、
ツと ロシヤ ンク ッキー、 モスク ワではバ ス
料理は日本人 の口に合うも のが多 いのだ
ボ ルシチ﹂ は、 日本 では肉も多 く メ
が、 ﹁
な話 しをし て いたが、室蘭 に帰 ったら酒販
店 の棚 に並んで いて、ガ ッカリ。
寅さんも前 回 のア エロフロート では、食
ローブま で備付け てあ った。
ピロ
を主体 にしたあ っさりした スープ。 ﹁
美 術
生演奏し ていた。
おか ゆ﹂ ま であり 、
より豪 華 な感 じ で、 ﹁
モスクワの朝 の食事時 には女性が ハープを
ホテルのバイキ ングは品数も多く、 日本
もよく出 て来た。
町 のセルフサービ ス店 のも のが美味しか っ
た。 この他 ロシヤ式水ギ ョウザ ﹁ペリメ ニ﹂
シキ﹂も ロシヤ風揚げ パンと思 っていたが、
必ずしも揚げ ては いな いで種類も多′\ 下
イ ンディ ッシ ュで、ト マトジ ュースやピ ュ
赤 か ぶ﹂
ーレーを使う が、本場 の其 れは ﹁
事 は コンビ ニな み のボ ック ス ・ランチ、ト
イ レは水浸し、 アル コー ルは無 しと散 々だ
つたが、今回は毎食 のメ ニューも印刷され、
アル コールも 一応出た。 モスク ワでド アの
閉まらな いバ スに乗 った記憶があ るが、今
度 は冷 暖 房 完 備 のシ テ ィバ スにな ってお
ンヤも変わ った。ただ し高給取り の
り、 口ヽ
人達 に ついては、と の コメ ント付 ではあ る
が。
食 事 ・酒
ホ テルのウ ェルカムドリ ンクから、 レス
ト ランま で至 る所 でウ ォ ッカが出る。 日本
館自体 が旧王官 で、 ロマノ フ家 の訊頭 の鷲
館 の見学 で、室蘭から八人参加 した。美術
今回 の旅行 の主眼は エルミタージ ュ美術
が、 ツアー の御 一行様 のお目当 ては ﹁スタ
ルカ﹂。何 やら強 そう な名前 だ が、ブ ラ ン
お ろしや
を テー マにした シ ャンデリ ア、 ﹁
人 には透明な ﹁ストリチヤナ﹂ が好まれる
デイーと果物 の新芽を加え て熟成 し て いる
は不眠不休 で 一点 一分間 で見 つゞけ ても、
ーナ の金馬車などを含 め て、収蔵 三百万点
とか で、良 い香りとわずかな甘味が絶妙 で、
一軒 一軒値
な酒屋 でよう やく見 つけたが、
国酔夢諄﹂ のド ラ マにも登場した エテカリ
段 が﹂
尋つ。 やれ二十円高 か ったなどと ケチ
味を覚えた人も多 いようだ。地下道 の小さ
ト スリ ッパ完備、 ロー ルペーパーは白 い上
局か った の
し か し ツアー のグ レード が一
不ラルウ オーター、 フ ェル
か、 ホ テルは ミヽ
質紙 、 ペテルブ ルグ では森首相も宿泊 した
-31-
﹂、 マチ ス の ﹁
画家 の家 族﹂ 、 ル ノ ワー
五年以上か ゝるとか
o
結 局 ダビ ンチと ラ フ ァ エロの ﹁
聖母 子
ザ ンヌ ﹁
サ ント ・ビ クト ワー ル山﹂ 、 モネ
傘を持 つ女﹂ 、セ
イナ﹂ 、 ロート レ ック ﹁
ンコルド広場﹂ 、ゴーギ ャン ﹁
ビ テイ ・テ
から持ち去 った ︵
掠奪!← 名品、ドガ ﹁コ
ルの ﹁
ジ ャンヌ ・サ マリー の肖像﹂ など、
ント﹂ 、ゴ ツホ ﹁
家と農夫 の見え る風皇
歴
などなど総計 二十万点︱ ロシヤは返却しな
﹁
ルーアンのセー ヌ川﹂ 、ピ カ ソ ﹁
アブサ
巡回中とかだが ︵
資金集 め︶、 ループ ル同
いと明言し て いると か で、北方領土を返さ
美術画集 に良く掲載されるも のを見 て廻る
だけ。同じ マチ スの ﹁
ダ ンス﹂ は世界中を
様少なくとも 二、三回は見学 した いなあ。
な い論理と似 ている。 これ では世界有数 の
美術館 になるわなあ。
寅 の記憶 では、絵画 コレクシ ョンは、 フ
ランド ル派 のも のが多く、印象派 はそれほ
ど でな いと思 って いたが、 NHKスペシ ャ
ルを見 て納得した。ドイ ツを中心 に占領地
文 学
プ ーシキ ンと いう名を 聞くと、ただち
﹁
に思 い浮 ぶ のは ロシヤ の国民詩人と いう考
え だ﹂ゴーゴリ。 ペテルブ ルグを中心 にプ
ーシキ ンの銅像 は多 い。近郊 の ﹁ツアー ル
皇帝 の村︶﹂ は、彼がこ ゝ
ス コエ ・セ ロ ︵
の学習院 の 一回生な のも 記念 し て、プ ーシ
キ ン市と 改名され ている。
-32-
文学散歩など で観光客がよく訪 れる ﹁
文
学喫茶﹂は、プーシキ ンがこ ゝから決間 に
出かけたと いう 。喫茶と は いう が、 フル コ
ラス コ リエコ フの下 宿
工 カテ リーナ女王 の馬車
マチス「画家の家族」
れる森 の美女﹂を見 に駆け つける。初 日を
除 いて実質 二泊 の中 で、両方を見学した の
︱ スの料 理や生演奏もあり、グ ルジ アワイ
ンを飲 んだが、料金 は結構高 いけれど雰囲
の歴史を有す る品格 のあ る劇場。 チ ャイ コ
雑然とし ており、イ ンフラの整備も こ ゝま
の 一等寝台は、 日本 の二等寝台 より狭く て
白樺︶号
る。夜行寝台急行 ベリ ョー スカ ︵
都 市 の名 ︶ へ劇 場 から そ のま ゝ駆 け つけ
ロシヤ の駅名は行先
当夜は モスク ワ駅 ︵
客 の目が厳し い。
コケたそう であ る︶ポピ ュラーなも のは、
バレリーナが踊り で コヶた のが直ぐわか っ
た。 ︵
詳 しく見 て いた人 によると、 二回も
は珍 し いらし い。よく知られた バレーだけ
に、主役 の二人 のパ ・ド ・ドウで、プ リ マ
もう 一人 ゆかり の人 にド スト エフスキー
が いる。晩年 の住ま いに彼 の記念館があ る
し、 ﹁ラス コリ エコフの下宿﹂な るアパー
罪と邑 中 の
トが現存す る。勿論、彼は ﹁
架空 の人物 であ るが、 ロシヤ人 のガイド氏
日本 の中世史 が専攻だと いう大学 教授 、
︵
森 さん 一行 の主席通訳官。応仁 の乱などは
若 い人 は知 ら な いであ ろう ︶ の言う のに
は、ど の街角を曲 が って、ど のド アから入
ま で小説 と
り、階段が何段あ ってと いち占い
現在も この 一角 は、浮浪者、売春婦、麻
同じ であ ると いう。
薬密売人などが多 いと の事 で、小説中 の老
広ま った。
前夜 ホ テルでチケ ットを手配し て貰 った
が、外 国人 には高く て約 五十 ド ル、演目が
ス ・ゴド ノ フ﹂ などは、 こ ゝから世界中 に
眠れる森 の美女﹂ ﹁
く るみ割
フスキー の ﹁
ボリ
り人形﹂ 、 ムソグ ルスキー のオ ペラ ﹁
婆 の部 屋 の前 で声 高 に話 し合 って いたら、
静かにしなさ
本当 に婆さんが顔を出し て ﹁
い﹂と言 った のにはビ ックリした。わざと
其れらし い人を住まわせ ているんじ ゃな い
だ ろうな。
突然変わ ることがあり、当 日も オ ペラ ﹁ル
チ ア﹂ に変更されたが、 ツアー添乗員 が ス
翌日は ペテルブ ルグ最後 のディナーも そ
音 楽 ・バ レ ー など
ペテルブ ルグ の ﹁マリイ ンスキー劇場﹂
眠
こそ こに、 ﹁
ム ソグ ルスキー劇場﹂ に ﹁
トーリーを説明し てくれ て助か った。
は レ ニング ラードバレー の聖地、百五十年
チ ャイ コフス キ ーの 墓
-33-
気はあ る。
マ リイ ンスキ ー劇場
有名 人 の墓 が多 いアレクサ ンド ル ・ネ フ
び、祖国 の新生 に尽くした話は有名 であ る。
ギ リ スな ど で船大 工と し て造船技 術 を 学
を隠 し、随員 の 一人とし て、オ ランダ、イ
て近代化を成 し込げた様 に︶彼自身 は身分
スキー修道院 の墓地 には、ド スト エフスキ
ピ ヨート ルの
ザ ンクト ・ペテルブ ルグ ︵
ではまだ。
ー、チ ャイ コフスキー、 ムソグ ルスキーな
ど の墓があり、中 でも女性陣 に 一番人気は、
ネヴ ァ河 の岸、海 軍博物館 の隣 に、人類
街︶は、 バルト海 への出 口と、 スウ ェーデ
学 ・民俗学鷺物格“︵
ク ンスト ・カーメラ︶
﹁
チ ャイ様﹂ こと チ ャイ コフスキー の墓 、
があ る。天明 二年 ︵
1782年︶、 アリ ュ
ン ヘの備えと し て五稜郭 によく似た ペト ロ
ーシ ヤンに漂着 した大黒 屋光太夫 の遺品 が
﹁コーダイ フ﹂と一
一
一
一
写つと、 これは直ぐ解 っ
それぞれ に 一輪 の花を手向 け て誇らしげ で
収 められ ている。当 日 の買 い物 ツアーをキ
ヤンセ ルし て0さ んと 二人 で見学 に行く 。
てケー スを示し てくれた。彼 が永 いロシヤ
パウ ロフスク要塞が作られた。大帝 は国民
前夜個人 タクシーと交渉 し、朝十時 ホテル、
あ った。 シ ョーでは、 レスト ラン ﹁
カリ ン
らし い︶ では、 ディナーと ワイ ン ︵
イ タリ
十 一時半 にク ンスト ・カー メラに迎え に来
生活から帰国 に際し て残 した、箸 、椀、団
一
扇、拠 相、鈴 であ る。
に尊敬 され、 デカプリ スト広場 に エカテリ
ア のモ ンタ ルチ ー ノ︶も な かな かだ った
ると いう条件 で折合 ったが、当 日は開館 が
エカ テリーナ宮殿はプ ーシキ ン市 にあ る
カ 。マリ ンカ﹂ はまあ普 通 のロシヤ ンシ ョ
が、シ ョーが素晴らしか つた。鍛え ぬかれ
た コサ ック ・ダ ンス、器楽、ボーカ ルも抜
十 一時、時間変更も時 々あ るらし い、 ロシ
ピ ヨート
ーナ女王が建 てた ﹁
青銅 の騎士 ︵
群だ った。同席 のカナダ人に、バカ ンス 一
一ヶ月も休 んだ
週間だけと呆れられたが、
ヤ の小学生 が多 数引率 され て来 て いた が、
が、ドイ ツ軍 に掠奪された壮麗な ﹁
琥珀 の
間﹂など の話は省略し て、ドイ ツから皇妃
現在 は教職員
ーだが、か つての貴族 の館 ︵
ら病院 が残 っていな いよ。
日本人は我 々二人。英語 の通じる人は数人
と し て迎え られ、 のち夫を退け て女王とし
ル大帝像︶﹂ があ る。
古 いロシヤがイ ワン雷帝 によ つて ﹁
タタ
しか居らず、説明 テキ ストも ロシヤ語 のみ、
て君臨 した エカ テリーナ の時代 、光太夫 は
組合が管理運営し ていると いう のも ロシヤ
ールの朝﹂を脱 し てから、近代化 に向 かう
のがピ ヨート ル大帝 の時代。皇帝とな った
しかも時間は三十分しかなく、大汗をかき
シベリアを通 って、 モスクワ、 ペテルブ ル
許 せ !︶ に、
て いて、 見 張 り の婆 さ ん ︵
明治
彼 は、大使節団を西欧 に派遣す る。 ︵
ながら廻 つた。日本 コーナーは割 に充実 し
歴 史
政府 の西欧視察団が、制度、文物を移 入し
-34-
グ、 ツアールスコエ ・セ ロま でや って来 て、
玉座 の間 で帰国を願 い出た。女帝 が ﹁ベト
可哀想 に︶﹂と言 って、十年近
ニヤシカ ︵
く の異 国 での苦労 に思 いを いたし、彼 に帰
北桂 聞
国を 計 す次 第 は 、幕 府 の調査 書 ﹁
お ろし や国酔 夢
略 ﹂ よりも 、井 上靖 の ﹁
しかし本格的な社会主義革命 は、 191
ラスプ ーチ ンが青酸
ツアー の 一人が、 ﹁
7年巡洋艦オー ロラ号 の発砲を合 図とし て
衆 に、軍隊が発砲 し、更 に同年 六月 ェィゼ
戦艦
ンシ ュタイ ン監督 の映画 で有名な、 ﹁
カリで死ななか った のは、彼 が胃 の無酸症
だ ったため﹂と い ったが、彼 の不可解な生
涯、死 の謎 には古来多く の異説があ る。
このオー ロラ号、実 は日本海海戦 で日本
始ま った。
ポチ ョムキ ン﹂ の反乱が起 こる。
実録 ラスプ ー
ブ ライ アン ・モイナ ハン ﹁
チ ン﹂ によれば、遺体 には三 ヶ所 の弾痕が
あり、肺 に少 し の水が入 って いたが、三発
目 の銃弾が致命傷と思われる。毒物 の痕跡
命記念 のモ ニュメントとし て、ネ フカ川 に
海軍 に大穴を空けられた のだが、現在も草
秘密警察 オ フラーナ
は認められなか った ︵
繋がれ ている。
諄﹂ に詳 し い。
ペテルブ ルグ のモイカ運河沿 いに、 ユス
の報と塁 こ ﹂とあ る。
ロシ ヤ 正 教
ボ フ公爵邸がある。 これが官殿と見間違う
1905年、皇帝 の慈悲 による食物と自
豪 華 さ で、 三百 席 の専 用 劇 場 ま であ る。
こ ゝで怪僧 ラスプ ーチ ンが暗殺される。 ロ
由を求め てネ フスキー大通りを行進した民
、
ロシヤがキリ スト教を受入れるのは キ
1000年
エフ大公 ウラジ ミー ルの時代 ︵
、
前後︶ であ る。大公は、イ スラム教徒 ユ
ダヤ教徒、カトリ ック教徒を宮殿 に招 いて、
そ のPRに耳を傾けた。
ンヤ人 の好物 の豚と酒
イ スラム教は、 口ヽ
を禁 じ、 ユダヤ教は祖国 のな い群集 の宗教
であり、カトリ ック教は威厳が足りな いと
、
何 れも落第。結 局約 爛た る ソフィヤ寺院
暴 平な宮殿、 いかめし い聖職者と荘重な儀
一
式など、たく さん の付録 の付 いたギリシ ャ
正教が大公 の気 に入り、ギリシ ャ正教が国
中央公
教とし て取り上げられたと言う。 ︵
-35-
シヤ のプーチ ン大統領はこ の 一族 で、 この
名 を 嫌 ってプ ーチ ンと したと いう 噂 も あ
Z
O。
ロマノ フ王朝 の崩壊と社会主義革命 の引
き金となる、 このスキ ャング ラスな事件 は、
ニコライ ニ世 の皇妃 アレクサ ンド ラが、皇
太子 アレクセイ の血友病 の治療 に関し て彼
を信心 し、皇帝 の前線出動から、首相、大
臣、軍司令官 に至 るま で、彼 の進言 で数 ヶ
、
月 で交代させ て国民 の怒りをか い 黒幕と
し ての彼 の暗殺計画とな って、 ュスボ ス邸
に誘 い出される。 こ ゝで青酸 カリを飲ませ
られるが死亡 せず、三発 の銃弾 でも命を絶
つ事 が出来ず、凍 ったネ ヴ ァ河 に沈め てや
っと暗殺したと いう のが流布 される通説。
巡洋艦 オ ーロラ
堂、 ペト ロパウ ロフスク聖堂など有名なも
の塔が象徴 的 であ る。 こ のほか、カザ ン聖
あ る聖 ワシリー聖堂 に似 ており、ねぎ坊主
のでこの名 があ る。 モスクワの赤 の広場 に
教会。農奴制を廃止した開明的な アレクサ
ンド ルニ世が暗殺 された場所 に建 てられた
内などが極端 に少な い。 ロシヤ語を理解出
く にし ては、英語 の路線図 や、駅 の内部某
気 にか ゝる。 これから観光 に力を入れ てゆ
祖国戦争 ︵
独 ソ戦︶ の描写などが多 いのが
イク、彫像など中 々見事だが、レー ニン像、
争時代 の防空壕を想定 したも の。駅 のモザ
大砲 の皇帝﹂と ﹁
クレムリ ンの、 ﹁
鐘の
来 ぬ者 には、簡単 に利用 しにく い点があ る。
速 エスカレーターで地下深くもぐり、核戦
のも多 いが、体 香臭 い話はこ のあたり で。
モ スク ワ
皇帝﹂。前者 は十六世紀末 に作られ、 口径
八十九 セ ンチ、重量 四十ト ン、実用品と い
﹁北 桂 聞略﹂ や、 ﹁
環海異 聞﹂ に鐘 が火
-36-
旅行 は ペテ ルブ ルグ が主 眼 であ った の
で、 モスク ワは点描 にと ゞめた い。 K先生
う より威 嚇兵器 で 一回も発砲 された事 がな
い。 ﹁
北椎聞略﹂ に、 ﹁
大銃 一門あり、長
さ二間半余 、銃腹 の内 に入り、仰 に臥し て
述され、昔から知られ て いた のがわかる。
の話 では、昔イ ンツーリ スト紹介 のホ テル
で、在室 のルームの鍵を外 からかけられた
とか、信 じがた いが本当 にあ つたそう であ
0。
フ
﹁
鐘 の皇 帝﹂ は重 量 三百 ト ン、 同様 に
の ニコライ堂 に少 し似 て いるが、世界 の聖
事 で焼け落ち た事 が書かれ ている。実はこ
手を伸 るに指 さき少 し支 ゆるとなり﹂と記
ペテルブ ルグで宿泊した アストリアホテ
モスクワ ッ子 の自慢 の 一つ地下鉄は、高
堂 で三番目 の巨大さ で、三十階建 てのビ ル
の火事 の時、あわ て者が水をかけた為、鐘
ッカ で ﹁
カ ンパイ﹂ 。帰国後 の検査 が気 に
た ので、当方も両国 の親善を祈 って、 ウ オ
工妃 の服装 で出迎え 、歓迎 のお言葉があ っ
昼食 のレスト ランでは、 スタ ッフが皇帝、
聞 いた人が無 いとか であ る。
の高 さ、建築 に四十年か ゝった。 ペテルブ
スパー スナヤ ・グ ラビ ー教会。
一名血 の
装など見る者を圧倒す る。
ポ ルだけ で金百キ ロ以上、内部 の聖画、内
そ の上 に花尚岩などを敷 いた。中央 のクー
込まれた杭が、一
剛、後合わせ て二万四千本、
にひ ヾが入 って 一部欠け落ち、誰も 音色を
鐘 の皇 帝
ルグが沼地を埋め立 てた土地な ので、打ち
なあ。
ルの目 の前 がイサク聖堂 であ る。お茶 の水
論、世界 の歴史︶なんか出来過ぎ のようだ
イサ ク聖 堂
な るな あ 。夜 のホ テルで、 ロシヤと のお別
ド ライブを敢行 した。
行不能となり、曽 田先生と小生が十勝 への
途中、片側 二車線を 二台 のト ラ ックが左
右 に、白 い箱型 のスポー ティーな車が 一台、
か ったと考え る。
前を遮 っていた。 ややしばらく し て抜き去
れと 、当 日誕生 日だ った寅 さ んともう 一人
土︶天候曇り
平成十 二年七月 二十九 日 ︵
ロング ヘアー の元気 そう なお嬢さんが 一人
午後界時 三十分室蘭駅前出発、午後零時
ヘ着く 、数 分 し て曽 田先 生御 一家 が到着。
で運転し、ト ラ ック の助手席 より力を乗り
の人 のお祝 パ ー テ ィー、 最後 はポ ルト ワイ
コー スの打合 せを し、愛車と記念撮影を し
る時 に気づ いた のだが、白 い車 の方は茶髪
ク レ ムリ ンの赤 の広 場 、武 器庫 、 レー ニ
て午後 一時 二分前 に出発。
出し て若者がビ デオ撮影をし て いた。今時
の世間を垣間見 るような思 いだ った。
五十分集合地点 であ る登別 ・室蘭イ ンター
ン廟 、教会 、近 く にあ るグ ム百貨店 など は、
曇り空 の中、道央自動車道を曽 田先生 の
日勝峠 の上りは、はじめ遠く雲 の切れ間
ンでしめく ゝってお開き 。
機会 があ れば と した い。
ランド ローバーを先頭 に、我が愛車、 ロー
も見られ、十勝は晴れかなと期待させたが、
峠近く になると想像以上 の霧 で、二十 ∼三
そ こから 一般道 へ。国道 274号線 に入り、
出発。高速は夕張イ ンターま で続 いており、
って遊 ぶ。写真撮影を済ませ、十五分後 に
東 自 動 車 道 キ ウ スパ ーキ ング エリ アに着
く。 ここでトイ レタイ ム、子供達が走り回
ら現われ、それを横目 にまた、霧 の中 へと
た看板を持 った作業員 が、所 々に霧 の中か
特 に頂上付近 では ﹁
徐行﹂と大きく書かれ
中、何度も 工事 中 の為 スト ップ させられ、
やはり いつも の日勝峠 のまま であ った。途
超え の安定走行 で午後 一時 四十 五分過ぎ道
レルメダリ ストが続く。平均時速百 臨/ h
千 成 十 二年 皮
M M M C ド ラ イデ 会
紅葉山 の分岐点を少 し過ぎた所 で光と水と
突 っ込 ん で いくと先行車 が停止 し ており、
十 m離 れると先行車 が消え てしまう 程 で、
ガ ラスの森 にて休憩予定だ ったが、現在 は
急 ブレーキを踏む事も 何度かあ った。
室蘭市医師会 モータリストクラブ会長
昨年 は、医師親交会旅行会と合同し、朝
工芸館は無く、物産店 のみが営業 し ていた。
ここでしばらく夕張 の上産品を物色 し、飲
る ローバーを見 つけ、慌 てて急ブ レーキを
佳ぢ て いると吹き抜けト ンネ ルを抜け て左
特 に 一度だけ、少し離され追 いつこゝ
つと
鴨 井 外 科整 形外 科 医院 ︶
︵
鴨 井 清 貴
里川温泉ま でのド ライブ往路を、鳴井清成
先生、堀尾昌司先生と共 に、雨 のち晴れと
料 を飲 み、十五分後 に再度出発。穂別国
水
m/ h程度 で進む。
一
道を時速 四十 ∼六十 k
時間弱 で日高町 の交差点 に至 る①特 にトイ
踏 んで列 に加わ った のだが、 二十 ∼三十 m
い った天気 の中、楽しむ事 が出来た。
今年は、昨年より幹事とし て参加し て頂
駆 ランド﹂ へのド ライブ会を企画した。少
レタイ ムも無く、日勝峠 へ向 かう。曇 った
前より少 しず つ徐行 し て間隔を つめ ている
にカーブす る所 で、数十 m先 に停車し てい
し遠方過ぎた為か小人数となり、さら に直
まま の天気 であ ったが、ド ライブはしやす
十勝 四
いた曽 田光彦先生 の提案 により、 ﹁
前 には、斎藤光史先生が足 の怪我 の為 、同
-37-
午後 五時十 五分到着。 セ ンター ハウ スで
ンプ場 の中心部だ った。
クがやはり急停車し てもう少し でぶ つかり
受付を済ま せ、曽 田 一家 はキ ャンプ場 へ。
時、 バ ックミラーを見ると、後続 のト ラ ッ
そう になり、右側 に ハンド ルを切 って難を
逃れた のを見 てビ ックリした。 やはり先行
で来 て いたら、
一台は追突等 の事故が起き
今回は特 に事故 はなか ったが、十台以上
は好 天となり、夏らし い休 日を過ごせたも
は雨も少 し降 ったと の事 であ ったが、翌日
当 日は、終 日霧 に覆われ ており、夜半 に
小生は ロ ッジ白樺 へ向 か った。約 四時間強
のド ライブ であ った。
て いた のではと少 し日勝峠 の恐 ろしさを実
のと安堵す る。午前 八時半過ぎ、写真撮影
車が見え なか った為だ ろヽ
つ。
感 した。
ボ ルボ と ネ
斉 藤 甲斐 之助
若草内科 クリ ニック︶
︵
我 々の世代 の子供時代と いう のは昭和三
知 る由も無 いのですがと にかく戦争 で日本
が無 一文 にな って間も無 い時代 に小学校 、
十年代、太平洋戦争 の何たるかはま ったく
来年 は、春先 に フ ェリーを使 って、早春
中学校と過ごしたわけ です。車 はおろか テ
をし て散会した。
弘前をド ライブした いと考え て います。是
-38-
峠を超え ても霧は相変わらず で、ド ライ
ブイ ンも見 つけられなか った為 に 一度路肩
非、会員 の方 々の御参 加をお待ちし て いま
我が父親 の教育方針 のため でもあ った ので
す が近所 の医者 の家 に夕方 にな っては テレ
レビと いヽ
つも のが家 にはなか った。 これは
で止まり、子供さん のトイ レタイ ムを取 っ
たが、霧と熊笹 の為かうまく出な い為、再
す。 では、そ の時を楽 しみに ペンを掴きま
す。
出発した。驚 いた事 に、十勝平野は 一面 の
ビを見せ てもら いに行く娘と息子 の哀 れな
霧世界 で、そ の下に緑 の革原 や、畑地が続
いて いると い った景色 であ った。十勝清水
け で車種を当 てることが出来たと いう のは
り乗り物 です。ト ョタや日産 の車 は見ただ
となりましたが男 の子 の好きなも のは やは
機会を逸 し て我が家 には遂 に縁 の無 いも の
言えば結局父親は免許をと る
車 に ついて一
一
て います。
のには ややしばらくかか つた ことを記憶し
レビを購入しました。 これが カラーになる
姿を み て父親は方針をあ っさりと転換し テ
より高速 に入り、途中、十勝平原サービ ス
エリアでトイ レタイ ムとな った。今度 は大
文夫 のよう であ る。午後 四時を過ぎ ていた
が、ここでロッジと連絡を取 ったり、小休
止し て子供達を遊ばせる。再度、高速道路
を音更帯広イ ンターま で進 み、 ここより 一
般道を北上し、音更川を東 に渡 ってまもな
︲号線 ︵
音更池 田線︶ に入
く右折し、道 々3
m少 し進 んだ所 で四駆 ラ ンド の看
る。 五 k
板を見 つけ、小さ い丘を上るとそこはキ ャ
/
=レ
74ヽヽ
/汁 1女
なる のは何時頃からだ った でし ょうか。
ありました。自家用車 が当たり前 のこと に
当時 の子供たち であれば当 たり前 のこと で
父親 は中古 の国産 車 を 買 い与え てく れま し
なりま した。 そ の頃 には私も 免 許 を 取得 し
試験 は フリ ー パ ス、無 事学 部 に進 む こと と
ち にふた たび ボ ルボ は私と 関係 のな いも の
にな ってしま いま した。 国産車 の倍以 上 の
業試 験 、国家試 験と忙 し い日 々を過 ごすう
夏休 みが終 わり 札幌 に戻リ ポ リ クリ、卒
イ、優美な デザイ ン、覗き見ると素敵 なイ
ン製 の鋼 鉄 で作 ら れた 深 い色 合 いのボ デ
ルボだ ったに相違ありません。 スウ ェーデ
った のでし ょう か。き っと近く の医者 のボ
め てボ ルボを目にしま した。誰 のボ ルボだ
宿舎 で高校生活を送 ること にな った私は初
4 0シリ ーズ の 一つ前 1 4 0 シリーズ の筈
たと 記 憶 し て いま す 。今 考え ると有 名 な 2
のボ ルボを 手 に入れた のでした。 中古 だ っ
た のです が K先 生 はち ょう ど そ の時 に憧 れ
医 K先 生 が私 たち医 学 生 の相手 を し てく れ
ま した 。胸 部外 科 出身 の腕 利き の心 臓外 科
国 立帯 広療 養 所 で研修 ?を す る こと になり
学 部も 三年 の夏 休 み、 私 は仲 間と と も に
た って生産 が つづけ ら れ、 ク ラシカ ルな デ
ズ にな った後 19 93年 ま で十九年 間 にわ
0 シリ ーズ が生産 中止 になり 9 40 シリー
74年 に発売 さ れた 2 4 0シリ ーズ は 74
と進化 し て いき ま した。 面白 いこと に 19
0シリ ーズ から 740、 9 40 シリ ーズ ヘ
何 よりも お金 が無 い。当 時 のボ ルボ は 24
価格 に見合う 価値 があ る のか 、 それ よりも
た。
ンテリ ア、そ の頃 の国産車とは 一線を画し
昭和 四十三年 から三年間画館 の高校 の寄
た別次元 の車は強く高校生 の印象 に残 った
室 を 過ぎ て鹿 追 ま で の真 っ直 ぐ な道 を K先
のボ ルボ で然 別湖 ま で行 った のでした。芽
4気筒 SO HCと いう 国産車 であ れば 商 用
当時 の最先端 、 ハイ テク ノ ロジ ー の産 物 で
4バ ルブ ターボ過給機付き と いう も ので
C2
昭和 六十 一年 に登 別市 で内科 医院を 開業
こと が 可能 でした。
ザ イ ンのボ ルボ 2 40を新 車 で手 に入れ る
のです がそ の後 の受験勉強、灰色 の予備校
です 。 函館 で目 にした ボ ルボと 同 じも ので
し ょヽ
つ。私 は生 ま れ て初 め てボ ルボ に乗 せ
生活 です っかりと忘れ てしま いました。
れ て医学部 に入学を許され て医者 の道を目
指す こととなりま した。本当 のと ころは物
車 にしか使 わ れな いよう な ロウ テク ノ ロジ
した私 は国産 の高 級車 を愛 用 し ておりま し
理学がま ったく駄日 で大好きな工学をあき
m以 上 の スピ ード でド ライ ブ した の
生 は百 k
です が、室 内 の静 か な こと に感心 し、鹿 追
ー で馬力も た った の1 1 5馬力 、 ス ペ ック
て貰 った わ け です 。大事 な ボ ルボ です から
ら め て生物 学 に進 んだと いう のが真 相 で
から然 別湖 へと向 かう 山道 、当 時 はま だ 砂
つよ
だ け み て いると どう な って いる のと いゝ
運転 させ てく れ るわけ はあ り ま せ ん、後 ろ
す。医学部進学課程 に物理学と いうも のが
利道 でした が そ の悪 路 を安 定 し て力強 く 進
う な代物 です 。ち な み にガ ソリ ン エンジ ン
さ て、 テレビ や車 のことを恨 みに思 った
あ ると いう ことを知 った のは入学した後 の
む こと に感 心 し 、 さす が は外 車 、 国産車 と
には O HVと いう も のも あ ってこれ が今 で
た が こ の車 の エンジ ンは V型 6気筒 DO H
こと です。前期試験 で真 っ赤な点を貰 い蒼
は違う と何 だ か ひど く感 心 し てば かり いま
に乗 せ ても ら つた のです 。 何と 運 転手 付き
くな った私 ですが何と いう幸 せ、物理学 T
した。
わけ ではな いのですが昭和 四十七年 私は晴
教授 は釣り に夢中 にな った挙げ句 に某 河川
す 。 対す るボ ルボ 24 0 の エンジ ンは直 列
にて密漁 で捕らわれ マス コミに叩かれ後期
-39-
中古とは いえ 頑丈なボ ディと上質なイ ン
会 です。
てしま いました。 これが私とボ ルボと の再
な ったそ の値段 に妙 に納得し て衝動買 いし
ダ ンを見 つけた私はさら にリーズ ナブ ルに
ーラーで二年落ち のスカイブ ルー の中古 セ
ても そ のク ラシカ ルな デザ イ ンにあ り ま
す。製造中止 にな って 一年後 に月寒 のディ
は不可能となりました。
に遂 に製造は中止、新車 で手 に入れること
うと こ の古臭 いエンジ ンを積 んだ車をわざ
わざ 買 いたくはな いなあと い って いるうち
0はさすが に国産車 の信と いう よう な価格
ではなくな っていましたがどう勧められよ
閑話休題、 モデル末期 の頃 のボ ルボ 24
で保守的な のでし ょう。
三十年前 のOHV エンジ ンで商売をし て い
ます。イギリ ス人は アメリカ人よりも頑固
ールスロイ ス、 レイ ンジ ローバーは今 でも
国 の誇 る四輪駆動車、か の有名な砂漠 のロ
車 ですらもう使 っては いな いのです が、英
機 の エンジ ンに使われるくら いでアメリカ
はも っとも旧 いテクノ ロジーです。芝刈り
こと に合 理的 です。ボデイの頑丈 さ、衝突
キは最初から装備し て いると いう 具合 でま
ですが、 エアバ ッグと アンチ ロツクブ レー
た のでこれは後 から取り寄せ てもら つた の
整も何と手動 です。時計も付 いていなか っ
調節 はもち ろん手動 です がド アミラー の調
てくれるよう に頼も しく みえます。座席 の
レストは いか にも追突され ても首を保護 し
大柄な スウ ェーデ ン人が乗 っても良 いので
し ょう が小柄な私 にも非常 に具合がよ ろし
く、 アメリカで評判をと ったと いう ヘッド
は スウ エーデンの車 です。大き目 の座席は
を振らな い仕組 みにな って います。さすが
雪道 ではさら に有用 で容易な こと ではお尻
気 にさせられます。 この非力な エンジ ンは
コント ロールす ることが可能 であ るよう な
ポ ンスがま こと に穏 やか で 一側刻 みで車を
った の4気筒 です が アクセルに対す るレ ス
あれば大抵 の用は足り てしまう のです。た
にう るさ い。ト ルクがあ る ので二千回転も
転以上回 ることはまずな いと言 って いいの
です。回ること にな っては いる のですが実
また実 に渋 い。普通 に運転 し て いて三千回
す。馬鹿 にし て いた エンジ ンです がこれが
閉める音と いう表 現 でよ ろし いと思われま
れ て いる のではな いかと さえ 思ゝ
つのですが
たごとごとと いう サ スペンシ ョンに 一瞬壊
ボ に乗りかえ ると ノイジーな エンジ ン、が
嬌 です。 こ の新型 のボ ルボから旧型 のボ ル
に入れるとき には手を伸ば し てょ っこらし
ょと折りたたまなければならな いのはご愛
る仕掛けが付 いておらず タ ワーパーキ ング
にな って いましたがミラーを電動 で格納す
がにド アミラーは電動 で調整 でき る仕組 み
ボ過給機付き で馬力もあり静か です。さす
を し てああ、恥ずかし い。 エンジ ンは基本
入れま した。真 っ赤な ワゴ ンです。 いい年
て四年前 に940 エステートを新車 で手 に
動︶ボ ルボはこれが最後 ですよと脅かされ
そ の後ボ ルボ のディーラーに FR ︵
後輪駆
ボ ルボ 240の魅力 に取り付かれた私は
うなあと気 の毒 にな ってしま います。
よう に大きなボ ディはご苦労なさるであ ろ
いると北海道 であればとも かく東京 であ の
苦労 しません。最近 の大柄な国産車を み て
mと 小 型車並 な ので取 り 回 し にはあ ま り
mと長 い
ボ ルボ 240は全長 こそ 4 m8
7c
︲ 硼と スリ ムで四角
のです が全 幅 は l m7
いボディの見切りが良く最小回転半径が 5
こと にまだ試した ことはありません。
的 に同じ構造 です が新 し いだけあ ってター
テリアはそ の後七年近く経ちますがほとん
安全性 に ついては折り紙付き です が幸 いな
ボ ルボ240シリーズ の魅力 は何と い っ
ど変わることなくド アの閉ま る音は金庫を
-40-
百 メート ルと 走 ら な いう ち に旧 いボ ルボ に
納 得 さ せ ら れ てしま いま す 。 これがボ ルボ
だ 。 のんき な ボ ルボだ 、と。 スウ ェー デ ン
で作 ら れた ヒ ュー マンタ ッチあ ふれ るボ ル
ボ は車 と いヽ
つよりも 何だ か人 生 の伴 侶 のよ
う な気 がす ると い ったら言 い過ぎ でし ょう
か。
二十 世紀 、 人 々 の夢 を のせ て自 動車 と い
新 会 員 。自 己 紹 介
赤 保内 良 和
︵
市立室蘭総合病院︶
ほと んどは札幌 で生活 し て いました。 昭和
十 三期︶ 、
四十 一年札幌医科大学を卒業 ︵
同病院 でイ ンター ン終了後、札幌医科大学
内科学︶ に入学、昭和 四十六年 に
大学院 ︵
卒業 し、和 田武雄教授 の主催す る第 一内科
に入局しました。
学生時代は流動す る歴史 の中 に身を置 い
ていた感じ で、入学直後 の安保聞争 、卒業
争 のお陰 で掛け替え のな い親友を持 つこと
後 のイ ンター ン聞争 ・医師国家試験ボイ コ
ット、大学院終了時 の学園紛争と慌ただし
昨年九月 に市立室蘭総合病院内科 に赴任
が でき、苦労も数多くしましたが実 に有意
う 道 具 は つく ら れ てき ま した。 三十年 前 の
少年 の日 に目 にした異 文化 の自 動車 、北欧
し、今年 四月から木 下先生 の後任と し て院
長を拝命 しま した。優秀な スタ ッフと充実
義な学生時代 でした。
後 の京大 ウイ ルス研所長︶ のグ ルー
教授 ︵
プ の先 生方 が学 生 のた め にセ ミ ナ ーを 設
け、バーネ ット のク ローン選択説、抗体分
子生物学がそ の芽を出し始めた頃 で、植竹
第 一内科を選 んだ理由は いろ いろな意味
で和田教授 に惹かれたから です。当時は分
い時代を過ごしました。結果的 にはこの紛
の車 、 ボ ルボ は今 でも 私を 魅 了 し てや みま
した医療 設備 に恵まれた素晴らし い環境 で
せ ん。
医療 に従事出来 ることを非常 に幸せ に思 っ
ております が、自治体病院 の使命 であ る良
質 の医療を提供 し て地域住民 の エーズ に応
え得 る、また地域医療 の向 上 に貢献し得 る
病院 にし てゆかねばならな いと考え るとき
そ の責任 の重さを痛感 し て います。医療事
子 の構造とそ の多様 性、 DNAを鋳型 にし
た蛋白質 の合成など当時とし ては最新 の分
子生物的手法を解析し てくれ、私 にと って
情が厳 し いなか でこのよう な立派な病院 の
建設を理解し てくれた市民 の皆様 に感謝 の
気持ちを持ち続け、微力 ではありますが諸
先生 のご指導 ・ご鞭撻を得 て信頼される病
せられた感じがしま した。基礎 から臨床 の
講義 に移り診断学 や臨床講義 が始ま ってか
は初め て医学研究 の素晴 らしさに目を開か
院を目指 しそ の運営 に当たりた いと思 いま
す。
、
私は昭和十 五年生れ、小樽市出身 ですが
-41-
ンパ系血液疾息となりました。新入医局員
節リウ マチに代表される自 己免疫疾患 やリ
液学 でした ので、臨床 の専 門分野も慢性関
病学 が主流 ですが、私 の興味は免疫学 ・血
を教え られ、第 一内科 で勉強し てみた い気
持ち にさせられました。第 一内科は消化器
も分子生物学 に関連した研究が出来 ること
ブリノーゲ ンの講義 は私が臨床医 にな って
教授 の恩師 であ る中川諭学長 のクリオ フィ
教授 の マク ログ ロブリ ン血症 の講義 や和田
らは毎 日退屈 の日々が続きましたが、和 田
レ ツキ ングがブームです ので、体調を考え
出と し て残 っています。最近は中高年 のト
さを学びと ることが でき今 でも楽 し い思 い
ともありま したが、忍耐 の後 の喜び の大き
みたく ﹁
熊 に食 われ ても いい﹂と思 った こ
gのキ ス
は体 重 五十 唯 の私 にと って二十 k
リ ングザ ツクは非常 に重く、登山途中 で休
斜里岳 ・知床連山縦走、大雪山縦走など で
ーゲ ル部 が創 設 され少 し活動 しま したが、
ま した。大学 に入学したとき ワンダー フオ
ま るぞ﹂と 野次られ てから内 野手 に専念 し
の対抗試合 で私 の投球 に対し て ﹁ハエが止
耳鼻咽喉科を開院 させ て いただきま した。
平成十 二年 五月十七 日に登別市吝
昌士町 に
︵
よこやま耳鼻咽喉科
クリ ニック︶
横 山 重
貝康
と し てが んば ります
地域 密着 型 の耳鼻 科 医
時代から三十年以上お つき合 いし て いる息
な がら挑 戦 し てみ よう かとも 考え て いま
す。ゴ ル フはド ライ バー の飛距離 が命と考
主 任 医 長 と し て三年 間勤 務 し ておりま し
た。遠軽町周辺 には北は紋別、南は北見 に
あります ので余 暇を見 つけ ては訪 れ てみた
室蘭市周辺には風光明媚な場所が数多 く
さ ん に求 めら れな がら の診 療 が出来 ま し
た。地域 に根差 した診療 に憧れを抱く こと
開院前はJA遠軽厚生病院 に耳鼻咽喉科
た 二十年以上診療 させ て いただ いた患者 さ
可能性があれば敢然と グリー ンを狙 います
え て います ので上達はしま せん。 五%でも
行くま で耳鼻咽喉科が無く、遠軽 では息者
何卒宜しくお願 い申し上げます。
んが三十人前後 いました ので、これら の息
のでまだ枯れた境地 には達 し ていません。
SLE、PNH︶おり、ま
者さんが二人 ︵
者さんから医師 であ ること の幸 せを感じさ
趣味は音楽鑑賞と スポ ー ツです。中学生
せていただきました。
の時放送部 に所属し ていたため訳も分から
が出来ま した。また遠軽町 の近郊 には川釣
んあり、オホー ツク海が近 いため船 での海
いと思 っております。今後とも よろしく お
蟹など の魚貝類が豊富なため居酒屋さんが
り の穴場 や、安く て広 いゴ ルフ場がたくさ
から モー ツアルト派 へ変心 できました。 ス
充実 し て いるなど レジ ャーも 最高 でした。
願 いいたします。
ポー ツは下手な横好き で いろ いろやりまし
たが、子供 の頃から野球が好き で投手か三
︵
残念ながら、私は釣りもゴ ル フも趣味 に
ず ク ラシ ック音楽 を たく さ ん聴 き ま し た
が、最近 にな ってよう やく ベートーベン派
塁手 でした。第 一内科 では 二年間位 お情け
釣りが出来、牡蠣、帆立 や北海縞海老、毛
で投手を やらせてもら いま したが、学生と
-42-
し て いなか った為、満喫す ることが出来ま
せんでしたが⋮︶今も趣味と い った趣味 は
持 って いな いのですが、高校時代 に美術部
で油絵を描 いたことがあり、イ タ ンキ浜 や
地球岬など の風景を スケ ッチ出来たら良 い
なと考え ております。
こ の度、登別市 にクリ ニックを開設した
登別市幌別地区 には、耳鼻咽喉科、
のは、 ﹁
の建物 です。息者さん用駐車場が前面にあ
るため少 し奥ま って いますが、三角屋根 の
さ
ポーチが目印 です。イ メージカ ラーは ﹁
桜﹂をイ メージし て
くら色﹂ で、内装は ﹁
花﹂、受付
作りました。待合椅子が桜 の ﹁
木﹂ 、小児用待合室 の本棚
カウンターが ﹁
は ﹁
葉﹂ 、 小 児 用 待 合 室 のカ ー ペ ット は
新 会 員 。自 己 紹 介
堀 川 正己
︵
北海道室蘭保健所︶
目﹂ に特徴があ る
耳 と ﹁
﹂
と限科 のため ﹁
う さぎち ゃ
かわ いい動物となると やはり ﹁
中 での異動 であり、これからど のよう に対
今回 の異動は、有珠山噴火 のま さに真 っ直
﹁
空 ﹂ を イ メージ し た色 にしま し た。 キ
ャラクターは ﹁
ゝ
つさぎち やん﹂ です。本年
ん﹂ でした。眼科開設後 のクリ ニック名は
策を進め ていくかを車中 で考え ながら のも
限科がとも に開設され て いなか った為、 こ
四月 一日付人事異動 で、稚内保健所から
﹁
よこやま耳鼻咽喉科 ・眼科 クリ エック﹂
室蘭保健所 に赴任した堀川 でござ います。
に改 名 す る予定 です 。 当 ク リ ニ ック では
十 二月 には眼科 の開設も考え 、耳鼻咽喉科
科専門医 であ る妻 の生まれ育 った場所 であ
気候は比較的温暖 で雪も少なく過ご
り、 ﹁
の地域 の皆さんが遠方 の耳鼻咽喉科 や眼科
鼻
しやす い﹂ ことも契機となりました。耳一
に通院され大変 であ った﹂ ことが大きな契
咽喉科開業医 の役割とし て、地域 に密着し
親 切 な﹂ ﹁丁寧 な﹂ 外 来を
﹁明 るく﹂ ﹁
職員全員 で目指 し ております。今後とも宜
現在 は ほぼ平常 に戻 っており ます 。 何 か
﹁夏 草 や兵 ども が夢 の跡﹂ の感 が し てお
ります。
さ て、室蘭市医師親交会から自己紹介を
と の依頼があり、筆 無精 の私と し ては誠 に
大変な のではありますが、新 入会員 の責務
とし て筆を執 ること にしました。
現在 の砂川市︶ で昭和 二十
私は砂川町 ︵
年十 二月 に生まれ、高校卒業ま で砂川市 で
暮らしま した。札幌医大を昭和 四十六年 に
卒業し、直ち に第 二病 理学教室 に研究生と
-43-
機となりま した。また、登別室蘭地域 は眼
た診療 が出来たらと考え ております。 アレ
しくお願 い申し上げます。
―
のでありました。あ の頃 の喧騒は今はなく、
ルギ ー性鼻 炎 ・急 性 中 耳炎 ・滲 出性 中 耳
いわ ゆる蓄膿症︶ ・め
炎 ・慢性副鼻腔炎 ︵
ま い症 ・風邪症状などをはじめ比較的軽症
の疾患を持たれた患者さんに充分 に満足 い
ただくと共 に、重症な息者さん の早期発見、
紹介も重要と考え て います。
クリ エックは、 JR幌別駅前通り であ る
富士橋商店街︶﹂ に面
﹁
ら いば公園通り ︵
し ております。全体的 に ﹁
白﹂ のイ メージ
●
●
稚内保健所 に勤務。
五.平成 十 一年 の腸炎ビブリオによる食中
萌保健所 に勤務。
四.平成十年 四月 の保健所統廃合 の時 には、
できなくなりま した。今 は、家 でゴ ロゴ ロ
そし て趣味 ですが、 これと い ったも のは
なく、強 いて一
言えば囲碁と登山 でし ょう が、
一
も しれません。
支え ら れな がら研 究 生活 を 送 る こと が で
私も行政にお世話 にな ってから、はや九年 、
るとは思 っても みませんでした。とは いえ、
全く公衆衛生学 には興味がなく、しば しば
健所行 政 の道 に入りま した。学生時代 は、
平成三年 人月、公衆衛生 の道を志し て保
からな いよう に保健所行政を推進 し てま い
れら に適切 に対処し、先生方 にご迷惑 がか
が次 から次 へと押し寄 せるでし ょうが、そ
神保健法が平成七年 に精神保健福祉法 へと
改正され、本当 に目まぐ るし い九年間 であ
りました。 これからも保健所 には大きな波
一年 四月 一日に感染症予防法 へ、そし て精
健 所法 が平 成 六年 七 月 一日 に地域 保 健法
へ、百年以上続 いた伝染病予防法 が平成十
介とします。
力を賜りますよう心よりお願 いし、自己紹
ては保健所行政 に対しま し てご支援、ご協
最後 に、今後とも諸先生方 におかれま し
し て いる のが 一番 の趣味とも一
一
言えな い趣味
登山も椎問板 ヘル ニアを息 ってからは全く
す。娘達 に感謝をしなければならな いのか
き 、今 でも本当 に良き財産とな って います。
毒大発生 の時 には、稚内保健所 に勤務。
六.平成十 二年 三月 の有珠山噴火対策時 に
し て入局しま した。研究生活は六年間と短
そ の後、昭和 五十 二年 四月から十 五年 間
ほど内科医とし て臨床 に身を置き、道内 の
な のかも しれません。
いも のでしたが、多く の良き先輩、後輩 に
医療機関を数 力所経験しましたが、昭和六
本当 に早 いも のです。 この間、色 々な こと
りた いと思 って います。
そ の他、保健所 のバイブ ルとも いえ る保
廃止が予定 され て いる。
は、室蘭保健所 に勤務。
七.平成十三年 四月 には、七保健所支所 の
十三年 三月頃 に突然体調が悪化 し、こ の後
も臨床を続け ていく ことが でき る のかどう
か不安 となり、妻とも相談 し、結果と し て
がありましたが特 に心 に残 って いる事項を
次 に、保健所 にお世話 にな って 一番驚 い
臨床を続け ていく ことを断念 しました。
箇条書き にし てみます。
一.平成 五年七月 の南西沖地震 の時 には、
た ことは単身赴 任者 の多 いこと です。課長
サボ っていた この私がこの世界 に身を投じ
人雲保健所と今金保健所 ︵
兼務︶ に勤
以上 の殆どは単身 です。そ の中 にあ って私
人 の娘が本州 の大学 に入 ったから でありま
は三年前 から単身生活 に終止符を打 つこと
が できました。それが可能 にな った のも 二
務。
二.平成七年 の不正経理問題 の時 には、留
萌保健所 に勤務。
三.平成 八年 の0157騒動 の時 には、留
-44-
城 信 一に就 ては 、札幌 、九 州 、函館 の日本
自 分 のテー マであ った初代 室 蘭 病 院 長赤
医地区 で、知人 の紹介 で村役場を訪れたと
鷲別町 に移 ってき て、 五十年以上 になりま
す。当時は幌別村字鷲別 でした。同地は無
暮 ら し て いま す 。
医 史 学会 で発表 した ほか 、作 家 吉 村 昭氏
ころ、村長から是非来 て欲し いと懇願され
て、何 の縁もな い土地 で開業す る事 になり
近 況 報 告
の近作 ﹁
夜 明 け の雷鳴 、文 芸 春 秋社 刊 、高
池 田 洋 輔
池 田 み みはな のど ク リ ニ ック
現在ま で居座 っています。
いるのは人 々の素朴な気心 に引かれたも の
です。そんな訳 で長年 の開業 にもか ヽわら
費を払え な い人が多く経営も細 々でよう や
く生活す る有様 でした。何とか永続き し て
漁業 のみ の住民は貧しく受診し ても医療
松 凌雲 を 書 いた作 口
世 にも 引 用を 明記 し て
﹁
未来 ︵
あ した︶え キ ラキ ラ﹂ の選考委員
平成十年 には、白鳥大橋完成記念 の讃歌
いた ゞ いた。
耳鼻咽喉科 と風管食道科 ・アレルギ ー科
西暦 2000年となり、心気 一転、頑張
長を つと めたほか、室蘭地方史研究会会長
っています。
1990年 は最悪 の年 でした。一
局血圧、
とし て盛岡 に南部藩と の連携を進め に行 っ
長と し て、地域 の文芸作品 にも目を通した
りと、結構忙しくし ています。
市 の老人病院 に勤務し ているよう ですが私
長男は希望 で札医大 に進学させ現在札幌
ず蓄財など殆どありませんが満足し ていま
す。
最近は児玉先生と同行す ることが多 い寅
の後継ぎ の気持ちは無 いよう です。夫婦 二
たり、十 二年 目にな る平林文学賞選考委員
腰椎骨折と次 々と やられ、息者 の苦しみが、
実感とし て体験し、診療 にも反映 できまし
た。更 に加え て、人間関係 の非情さも 、実
に身 にお み て理解 させられました。 ︵
看護
婦問題等、諸 々︶
さん の旅行も、ポ ルトガ ル、 ペテルブ ルグ
大岩 昌生
過ごし ています。あと何年生きなければな
ますが、諸先生 の温か い援護 で つ ゝがなく
と続 いて いる ので、何とか書かせ て いた ゞ
人 でこ の地 の上と な る覚 悟 で市営 墓 地 に
は、私達 の入る墓も建 ててあります。
大岩医院
らな いのやら。近隣地域は老人が多く、特
きた いと思 っています。
内科
に独 居老 人 の孤独 死な ど で死体 検案 があ
り、多く取り扱わされ て います。
現在 は、読書、音楽 の世界が私 の人生 で
無﹂ に等 しく、中
す。 アル コールは殆ど ﹁
室蘭市医師会加入から永年経ち議長 に指
私は大正九年生れ で今年 で八十歳 になり
私 の女房が脳梗塞 で障害者となり家庭内
命 され、又医師親交会 の副会長も勤め てい
ました。空知 の芦 別から現在居住 の登別市
島 町 の店 は ﹁
0﹂となりました。とりあえ
ず近況をご報告させ て戴きま した。
上 田 智 夫
上 田医院
内科
室医、道医 の公職を離れ てから、気楽 に
-45-
は、旅行 が好き で夫 婦 で ヨー ロ ッパ に出 か
介 護 を よぎ なく さ れ て いま す。 私 の若 い頃
けと な ってしま った 。
し て今 は十 七年 間 生存 し て いる ﹁
チビ﹂ だ
り、風光明媚な土地柄、 二人 であち こちと
行し てくれ単身赴任を免れた のは幸 いであ
て遠 出 は無 理 です 。特 に将来 の希 望も な い
け た事も あり ま し た が、近年 は足腰 が弱 っ
抗
るよう にな ってき た 。 これか らは 日 々 ﹁
老 い﹂ を 実感 す
足腰 が弱 ってき て日 々、 ﹁
あ り た いと 願 って いるが 、 こ の歳 にな ると
人 はだ れ でも い つま でも 心身 共 に元気 で
りをした のだ ったが、 これが適わなくな っ
に 一度は泊まり に来 ようと楽 しみに心づも
山頂 にあ って洞爺湖を 一望 のもと に見渡 せ
るゴ ージ ャスなホ テル ・エイ ペ ックス、年
ド ライブを十分 に堪能 させ て いただ いた。
のです が 一日 一日を のんびり暮 らす つも り
老﹂ の気 持 ちをも って常 に前 向 き 思考 で頑
た のは葱愧 に耐えな い。
世人 の医療 への期待 は著 しく高まり、そ
れだけ に注文 や物 言 いが陸続と し て いる。
紛争 にため息を つきながら、世 の人 々に確
日 々絶え ることなく報道 される医療事故 ・
日鋼 記念病院
解 いただき、医療 に信頼を回復す るにはど
率と可能性を基盤とす る現在 の医療をご理
岩見沢市立 から 日銅記念病院 へと勤務地
外科
大平 整爾
張 って行 き た いと 思 って いる。
です。
大鹿 徳洋
大鹿 耳鼻旧喉科医院
耳鼻旧喉科
大学を卒業し てはや四十年 にな った。 二
十歳台 の青年 から六十 五歳 の老年 にな った
が家 でも色 々な事 があ った。 二人 の孫が で
じじ﹂と呼ばれるよう
き、私もとうとう ﹁
五年前還暦を迎えたが、 この五年 間 に我
を控え るよヽ
つにな った。
であ つた。それからは紅灯 の巷 への出入り
一週間位歩行も出来な い程
をおこし以後、
た ってあ る朝突然、 いわ ゆる ︿痛風発作 ﹀
リ の出来 る方 々が少 しず つ増え 、ご厚情 に
医師会 の先生方 の中 にも気 さく におし ゃベ
認知 し てく れ て いると感 じ るから であ る。
しず つこの地 の人間 にな ってき て、それを
るよう にな って、嬉 し い限り であ った。少
の人 々や子供達が朝 に夕 に挨拶を し てくれ
ばかり であ つた。
一年 が過ぎ る頃から近所
な経験をさせ て いただき 、真 に目 の廻らん
この間 にこれま でに無 か った種 々の貴重
込 む こと に いた そう か。
.
m
B 薫 室 a σ< 仔 ∽oュ コ∞ 留 ュ 浄 出∽ ︶ を 信 じ
薫o
一節 ︰理想 を 失 う 時 初 め て老 いる ︵
唖然とす るが、サ ミウル ・ウル マンの詩 の
の道を歩 み つつあ る自分 に気が付 いて時 に
さ て、自分 のこと ︰く巳口∞oEから 0巨 ヘ
難 し い仕事 だ が やり 遂 げ な け れば な るま
持 つことを 、根幹とす べき な のであ ろう 。
う対処すれば よ いのかを模索す る日々であ
る。胸襟を開き、襟を正し つつ自浄作用を
にな った。また長年飼 って いた三匹 の猫 の
常 日頃感謝し て いる。女房殿がこ の地 に同
を変え て、早 いも ので三年 が経過した。
うち ﹁ニコ﹂ が二十三年 の生涯を終え 、 こ
のだから、これま で色 々の事 があ った。約
八年前、それま での暴飲暴食と不摂生がた
の二月 には ﹁コロ﹂ が 二十 一年 で病死、そ
-46-
小 田切 醇
小 田切 耳鼻旧喉科医院
。
開 業 し てか ら 三 十 年 、 千 編 一律 の生 活
、 そ ろそ ろ
企業も 人も 三十年 と いわ れ るが
リ タイ ア の時期 か。 でも ゴ ル フのでき る間
。
はもう少 し頑張 るか、迷う こと しき り そ
、
のゴ ル フも 足、腰 の衰え が日立ち 健 康 の
、机 上 のト
た めと割 り 切り 、 週 一回白 鳥 コー ス ヘ通 っ
て いる。
趣味 の囲碁も 、実 戦 が少 なく
囲碁 研 究﹂ 誌 の段 級
ング が多 い。 ﹁
レ
エ
ー
、布 石、
、百 点満 点
位 認定 テ スト に毎 月応 募 し て いるが
中盤 、手筋 、死活 、 ヨセ の十 間
一度 は百点 を 取
に対 し、最高 は九 十 四点 。
つてみた い。
開 田 博 之
開 田医院
消化器科 ・内科 ・小児科
、
当 地 に戻 って七年 目、 父親と 共 に診療 を
し ております 。
有 床 診 療 所 と し て続 け て参 り ま し た が
新 規建 て替え を検 討 す る中 で入院診 療 の継
続 が困難 にな る事 が予想 され、計画を中断
し ております。諸先生方から適切な アドバ
。
イ スを頂ければと思 います
私自身 は、 日常 の診療と介護保険 に関わ
る仕事を し て いる関係 で時間外 の拘束も結
構あり、折角 の木曜半ド ンも自由な時間が
とれにくくな って います。
冬 は時間があ れば 一人 でも スキーに出か
け ておりますが、夏場は これと い った趣味
も なく 何 か身 体 に い い事 でも し なけ れば
、
と、時 にゴ ルフの打ち っぱなし へ スト レ
ス解消をと行 ってはみ ても帰り には ストレ
スはますます溜ま るばかり。以前は妻と 二
人 でテ ニスを嗜 んでおりましたが最近は相
手 にも されず。
そ こで誰 にも迷惑をかけず しかも心肺機
能 に断然効果的なも のと思 った訳 ではあり
ませんが、ひ ょんな事 から マウ ンテンバイ
子供 に譲 ってくれたも の︶
クを手 に入れ ︵
が方小高 い丘 の方 へ自転車を走らせ ており
ます。何も後 ろめた い事をし て いるわけ で
はありませんが少 し でも 目立たな い格好を
、
と考え 、 Tシ ャツにスパ ソツ サ ング ラス
をし て帽子を 目深 にかぶり、通り の少な い
方 へ向 か います。先 日も 又出かけようと自
宅を出 てしばらく走 った所、近所 のおばさ
あ ︱ら、先 生 !﹂ と声 を かけ ら れ
んから ﹁
、
てしま いま した。 これから は 知 ってる顔
を み つけ た ら こち らから手 を振 る事 にしま
す。
加藤 治良
加藤内科医院
内科 ・小児科
天眼鏡をた 手に
イ エスの遺伝子﹄
○昨年読んだ中 では、 ﹁
文明 の衝突﹄ S ・ハンチ
M ・コーディ、 ﹃
、
科 学 の終 焉 ﹄ J 。オ ー ガ ン
ント ン、 ﹁
東 京 セブ ン
﹃
沈 ま ぬ太 陽﹄ 山崎豊 子 、 ﹁
ローズ ﹄井上ひさし。
中国五千年﹄陳舜臣、
○今年 に入 っては、 ﹁
仏教 の思想﹄梅原猛。
﹃
海女と天皇﹄ ﹃
大菩薩峠﹄中里
○読 み続け て いる のは、 ﹃
双詞 ・平家物語﹄橋本治。
介山、 ﹃
新潮 45﹄
○月刊誌は ﹃ニュート ン﹄ ﹃
い つ完 成 す るかわ か ら ぬ作 業 があ りま
す。 三十年間 の人ミリシネ フィルムと スラ
、
イ ドを デジ タ ルビ デオ テープ に コピ ーし
楽 風物詩 。モル エラ
編集 ・アフレ コ← 翌日
ン﹂ のシリーズ。それと中途半端なまま の
-47-
画布 、 エト モ半島 の風景 が 二十枚ば かり。
以上 です。
で、何気なく首 に触れたと ころ、右鎖骨上
部 に三 側くら いのしこりを触れた のが始ま
国本 鎮 雄
国本 耳鼻旧喉科 医院
りだ った。そ のときはあまり気 にせず 、午
長寿国 日本 の良 い環境 に恵まれ て、私は
いた。机 に肘を ついて鎖骨を挙上させると、
中 に隠 れ てしまう ので、 ”きを つけ rの姿
勢をとらな い限り気 が付 かな いしこりだ っ
た。触診上表面はす べす べし て いて、単な
て見 てみると、明らかにしこりは存在 し て
後 の診療を終え て、帰宅後、鏡 の前 に立 っ
耳鼻旧喉科
有難 い事 に、今年元気 に喜寿を迎えました。
るリ ンパ節腫脹 のよう に思え るが、あまり
鴨井 清貴
並 べて楽 しめますし、良 い遊びだと思 って
も無 い。頭 によぎ るのは、上部消化管 の何
平成 二年 四月、名寄 での激務を終え 、当
整形外科 ・形成外科 。皮膚科
鴨井外科整形外科医院
います。
かか、原発性 の腫瘍か?しかし、胸焼けや
囲碁 は相手 のいな い時 でも、独り で碁 石を
私 の趣味 は、朝夕 の散歩と 、囲碁 です。
地 での地域医療 に携わ って、早十年。
散歩は、歩 いたり、自転車 に乗 ったり し
て、輪西 の町を 一回りします。
愁訴 に対処し ております。
書道 。日本画 ・旅行 など、賑 やか です。
夫婦元気 に、金婚 の日を祝う ことが出来
ました。
と一
一
言つのに、耳鼻科と消化 器内科 の両方 一
従兄弟 が勤め て いるおかげ で、土曜 日だ
十 二月十八日
■事にした。
ヽ
の増減も なく、全く元気だ。従兄弟 に頼 ん
で、新 日鐵病院 の耳鼻科と内科 で見 てもら
吐き気、痛 みなど の症状は皆昼い
だし、体重
に巨大 で堅く ふれる のに、全然痛くも岸く
整形外科医と し て、腰痛 、膝痛 、一
屑痛 、
骨、関節を中心 に、日々地域 の患者 さん の
今年古稀を迎え た妻は多趣味 で、華道 。
昨年 より、 ロータリー活動 にも参加す る
事となり、さらに奉仕、福祉 の面 で社会貢
献が出来たらと考え ております。
く にも と皮膚 科医院
国本 孝 夫
わかくさ眼科 クリ エック
北 川 正樹
眼科
度 に受診 でき、さらに エコーやCTなども、
そ の日 の内 に受 け る事 が でき た。 しかし、
こ の日の検査 では、何か腫瘍があ る事 以外
に、た いした所見は得られなか った。しか
進行性食道癌、 ステージ Ⅳ a
皮膚科
夏休 みは道北を旅行す る心算 な のです
が、先立 つも の ︵
お金︶があるかどうかi。
暖房が効き過ぎ て いた所為 か、はたまた
たがな いので、翌週月曜 日に胃 の内視鏡を
l999年十 二月十六 日
昼食 の豚汁 の所為 か、したたか汗ば んだ の
-48-
つこと にした。
朝 一番 にや っても らヽ
僕は麻
一度目 のとき に、危うく食道憩室 ︵
雀牌 二個分くら いに巨大な のを持 っている
の内視鏡をう ける のは、三度 目な のだけど、
何 にも集中 できな い憂鬱な 一日だ った。胃
イビ ング旅行 に行く事 にした。そ の時点 で、
ので、以前 より予定 し ていた年末年始 のダ
た いした検査も治療も できな いと言う事 な
に分か ると一
一
一
一
でつ。年末も近く、年明けま で
できた。病 理検査 の結果は十 二月 二十三日
ジ Ⅲ以上 の状況 であ ることは、すぐ に理解
節転移 があ る訳だから、少なくとも ステー
消化器内科医 で無くとも 、首 へのリ ンパ
のでは無 いだ ろう かと、突然考え が変わ っ
時間を少し でも長く得 る事 が、より大切な
る人達 の事を考え 、辛 い日を凌 いで有効な
人 の感情 に流される時 では無 い事 に気 が つ
いた。苦しくとも延命を はか って、残され
れる事 にな ってしまう こと になる。自 分 一
人 々が、それぞれ の人生 の分岐点 に立たさ
出 ると いう事 に思 いが至 った。少なからぬ
ではすまされず、周り の色 々な人 に影響 が
間中央値 の比較が の っていた。ぼんやりと
んです︶を やぶ って経 目的気管支鏡をされ
は っき りと した事 は断定 でき なか ったが、
た のだ った。不自由を我慢し て、現在 一番
フ アイ バーを自分
と僕自身 は思 ったが、 ︵
そう になり 中断 した経 験 が有 った のだ っ
た。そ のことを N先生 に告げ、慎重 にや っ
進行性 の食道癌 でリ ンパ節 に転移 し て いる
眺め ている内 に、 ふと突然、僕が進行癌 に
てもらヽ
つこと にな った。
状況 では、治療す る のも放置す る のも 、 つ
で抜 いてしま おう かと 一瞬思 ったが︶逆ら
フアイ バーを飲 みこんだ直後 に、脳天を
を はか る のも 、例え 延命を犠牲 にし ても 、
な ってしま った事 は、自 分 一人だけ の問題
ハン マー で 一撃された様な映像が、日 に飛
治療をせず に普通 に暮らせ る日を楽 しむ の
ダイビ ング ツアーより帰国後 、リ ンパ節
わず に終 るのを待 った。
び込 んで来た。そ の巨大な食道憩室 のなか
に、凄く悪そう な顔をした、専門外 でも 一
も、選択は個人 の自由 では無 いだ ろう かと
腫脹 に変化 はみられず、自覚症状も、幸運
十 二月 二十 日
日 で進行性 のも のと分かる、おおき な腫瘍
思 って いた のだ った。性格上、実は後者を
一
言つの
な事 にまだ無 い。見た目 にも冬だと一
前 日 の日曜 日は、あれこれ考え てしま い、
が写し出された のだ った。色素を散布 し て
選 ぶ つもり で居た のだ った。
2000年 一月 四日
有 効 と 考え ら れ る治療 を受 け る事 に決 め
た。
みると、腫瘤 のまわり にも広く進行 し てお
まり治療 の苦 しさ に苛ま れ てわずか に廷命
り、さら に ファイ バーを進め て いくと、食
入院をすすめられたが、少 々の事 は我慢す
に真 っ黒く 日焼けし て、健康人そ のも のだ。
十 二月 二十 一日
道 下部 にも広範囲 に表在性と思われる腫瘍
が写し出され ていた。自覚症状が、全く出
検査終 了時点 では、遠隔臓器 への転移 や浸
る事を告げ て、連 日通院 し て検査を受けた。
なか った のは、 これをみ て良く 理解 できた。
従兄弟 が、仕事 が終 ったら会 いた いと言
って来た。そし て 一つの文献を みせられた。
潤はなさそうだと いう ことが唯 一の光だ っ
た。大動脈 や気管支 への浸潤も 一歩手前 の
室 の中 に発育 し ていたためだ った のだ。も
腫瘤は通過障害 が起きな いよう な位置。憩
進行性食道癌 の放射線化学療法 の文献だ っ
た。色 々な治療 による五年生存率、生存期
う 、 そ の下 の胃袋を見 る必要 はもう な い、
-49-
状態だ った。
一月十 三 日
日鋼 記念病 院 で、放射 線療 法 が始ま った。
構 手 術 死 のば ら つき があ り 、 二十 %か ら
問題は、誰 に執 刀 し ても らう か であ る。
に決心した。
コピ ーを融通し てもら つた のだ った。外科
数 %位 の大きな隔たりが有 るようだ。極端
に協力をあお いで、カ ルテやレントゲ ンの
の先生 に聞きたか った事 は 二 つあ った。
一
つは、放射線化学療法後 に、さら に手術を
を 、単 独 で行 なう事 にな った。後 で考え る
院 より紹 介 された伊 達 日赤 の主治医 の考え
で、まず は通院 で治療 可能 な放射 線 の治療
較し て、数値 に変化は無 いと のことだ った。
で放射線化学療法だけを行 った データと比
稀 に長期延命者が出 るが、手術を しな い
手 術 の場合 は特 に術者を選 ぶと いう事 が、
機関 により、かなり差 が有 るよう だ。 こ の
が た め に死 ん でしまう事 も 有 ると いう 事
だ。それ に術後合併症 の発生頻度も、医療
な話 では無く、五人 に 一人は手術を受 けた
文献を読 んでみると、各医療機関 により結
う け る事 によ つて五年 生存率 や生存期間中
と 、 こ の主治医 の決断 が、 現在 の状 況 の布
手術死 や合併症を考え ると デメリ ットとな
と ても大事 であ る事を 強く感じた のであ っ
た。
当 初 、放射 線 と化 学療法 を 同時 に始 め るも
のと 私 は思 って いた のだ った が、新 日鐵病
石 にな った のだ った。 通院 であ れば 、 いろ
る事態もあり得 るそうだ。 二 つめは、 こ の
央値 に変化が有 る のかどう か?⋮答え はN
︹
︶。
んなと こ ろに出 かけ て、話を 聞 け る のだ っ
固な吐き気 が続き、気管 が犯されると絶え
一日入
ロリーメイトだけは疼痛が起きず、
た。
間 の無 い咳 や呼 吸困難 の可能性が高くな る
∼九本飲 んで体力を維持し て いた。僕 の病
二月十 二日
旭川 に いる従兄弟 の紹介 で札幌医大 の外
と い った、あまり有り難く無 い末期を迎え
気を知 った大学 の友人達 が会 いた いと連絡
放射線照射 は四十 五G vと なり、食道炎
科助教授 に、手術 の可能性 に ついて話を聞
る事 になりそう な のだ った。⋮答え は、そ
し て来た ので、北海道ま でわざ わざ来 ても
病気 の末期、終末 の状態を、手術を受 ける
事 により変ゝ
るつるかどう か? つまり、 いま
き に行く事 にな った。実は、 ここに辿り着
の終末を変化 させ る事 は、おお いに期待 で
僕は岩手医大 の卒業生な のであ る。 いろ い
の放射線療法と化学療法後 に腫瘍 が残 った
く のが結構 た い へんだ った のであ る。 セカ
ンドオピ ニオ ンの考え は、既 に、ど の医療
き るそうだ。有り難 い。足を逗んだ甲斐 が
あ つた。人間、誰 でも苦 しむ のは嫌だ。腫
ろ話を し て いる内 に、母校 の 一外科助教授
場合 の終末 は、物 が食 べられなくなり、頑
機関にも、ど の医者 にも当たり前 の事だと
瘍 による疼痛は、ほと んど麻薬 で コント ロ
が食道癌を専 門に治療 し て いると一
言 つ話題
一月 二十九日
僕は思 って いた のだが、伊達 日赤 の主治医
は、息者さんが、色 々な意見 にふりまわさ
ー ルでき るから、終末 の状態を変えう ると
にな った。名前を聞 いてび っくり した。な
症状が進 んで、ほとんど の食品は痛 みで飲
み込 めなくな ってしま っていた。唯 一、カ
れ て、利す る事が少な いと いゝ
2て え方 のた
一
言つ可能性だけ で、手術を受 ける事を 即座
らう のはた い へんな ので、盛岡 に出かけた。
め、資料を借り出す のが難俵だ った のであ
る。しかたが無 いので新 日鐵病院 のN医師
-50-
一時 期 同じ病
んと 良 く 知 って いる先 輩 で、
院 で 一緒 に働 い て いた 事 が あ った 人 な の
だ。
岩手医大 の 一外科を受診 した。事前 に電
二月 二十 二日
だ いた
話を いれ、病名を告げたとたん。 ﹁
い、お前ら酒 の飲 み過ぎなんだ!﹂と叱ら
ら、部屋が無 いので、しばらく整形外科 の
病棟 に入れられる事 にな った。 て っきり化
三月 二十七 日
ICUで目が覚 めた。おそるおそる右手
を動かし てみたら、なんと か動く。感触が
おかしく て、力もあまり入らな いが、と に
かく動く。ほ っとした。まだ抜管され てお
学療法を術前 に行なうも のと思 い込 んで い
たら、右鎖骨上部 のリ ンパ節が癒着す る前
に手術をした方が、右上肢 が不自由 になる
苦し いので自発呼吸を試 みて ファイトし て
らず、 レスピ レーターに つなげられ て いる。
腕神経 への影響 が少な い︶ の
確率 が低 い ︵
で、先 に手術を やろヽ
つと いう事 にな った。
しまうも のだから、ますます苦 しくな って
さくな っており、幸運な事 に、未だ に癒着
な って いた。右鎖骨上 のリ ンパ節は やや小
点 で、す でに放射線 の総量は 五十 五G vと
疾息 の日で、先輩が外来係だ った。 こ の時
者が増え ているらし い。毎 週火曜日が食道
用食道 の胃管を作り、周囲 のリ ンパ節廓清
正中切開され て、胃 の大湾側を利用し て代
食道切除と リ ンパ節廓清を行 い、次 に腹を
開胸され第 五肋骨をはず し て視野 に広げ て
投与された事以外 に全く 記憶が無 いが、右
手術 日 であ る。自分自身は麻酔前投薬を
臓 の周り の脂肪もと ってお いたからな。﹂
全部きれ いにと ったぞ。 ついでに心
医は ﹁
後輩三人︶と執刀医 が来 て
病棟主 治医連 ︵
いて、もう抜管 しようと言 っている。執刀
思 ったも のだ った。周囲 の看護帰が慌 てて
眠らせ てく れた。 三度 め に目が覚 めたら、
んなら、ひとおも いに殺し てくれと本気 で
も が いてしま つた。思わず こんな に苦し い
遠隔臓器 に
を免 れ ていた。診察 の結果は ﹁
を したそうだ。さら に頚部前方半周をきら
とか言 って いる。
三月 二十三日
転移 や浸 潤 がな いから今 な ら手 術 でと れ
れ て、問題 の右鎖骨上 リ ンパ節切除と周囲
れ てしま った。どうも最近食道癌 になる医
る。とらず に放射線化学療法を や っても完
五 日間も 人 工呼 吸 器 に つな が って いる
込 みと痰 の排出 で、疲労 困なと な ったが、
管後 の咳き込 みは、想像を絶す る程 の苦し
一日中咳き
さだ つた。日覚 めた この日は、
のリ ンパ節廓清 の後、後縦郭 にそ つて持ち
上げ た胃管を 頚部食 道と縫合 したそう だ。
c、
手 術時間七 ・五時 間、出血量 七百 五十 c
手術室滞在時間十 二時間。岩手医大第 一外
と、相当肺 の抹消 に痰がたま るようだ。抜
科 での食道癌手術死は、わずか に〇 ・五%
主治医達は、経過が いいから、明日はIC
治す る例は、ほと んどは女性 ︵
おんな︶だ
ぞ。﹂と いう。良く知 った仲だから、話が
れるだけ で満足だから手術を受けた いと言
だそう であ る。とは言 っても執 刀し て いる
早 い。自分 の希望は、終末 の状態を変え ら
つたら、 でき るだけ早く入院 しろと いう事
Uから出そうと言 って いる。腹部 に経腸栄
の切開創 にも 二本 のチ ューヴ、そし て背骨
養 の管、胸 には胸水抜去 の管 が四本、頚部
僕 の先輩︶ で、 五百
のはほと んど ひとり ︵
例を こえ る食道 の手術を てがけ ているそう
だ。
にな った。
三月六日
入院 の準備 を し て外 科 の外 来 に言 った
-51-
見 るも無残な状態だと思え る のに、明 日は
はならな い導尿留置カテー テル。それと 四
肢 にぶら 下が って いる点滴用 のチ ューヴ。
にも疼痛 のブ ロック用 の管、それ に忘 れ て
どぐ て寝 れな いし、術後 の熱発∫ 、なかな
トゲ ン上、左 の肺野は真 っ白 。右胸部ドレ
c前後 の胸水 が出 てき
ー ンからは毎 日五百 c
てなかなか抜管 できず。夜は咳き込 みがひ
いたら、翌日から胸水が溜り始 め て、 レン
ル テを盗 み見 し に行 って分 か った事 であ っ
これら の事は 、だ いぶ後 にな ってか ら、 カ
9/配で赤 血 球 数 も 三 百 万 を 切 って いれ
ば 、立 って歩 け る のが不 思議 かも 知 れな い。
部 は リ ンパ節 廓清 のた め潰 れ て征い
気 肺 にな
こ の所業 も 、 翌 日には主 治医 の耳 に入り 、
つてお り 、 さ ら に ヘモグ ロビ ンは 人 ・五
回復室 に移そうと言 って いる。
か治ま ってくれな い。従 って歩行 の許可が
た。
らな い赤面 の日が続 いた のだ った。
おりず、毎 日浣腸を、お願 いしなければな
三月 二十 八日
回復室 のベ ッドは、と ても 固 い。 ICU
きな いので、お尻は犠牲 にな ってしまう の
す ると激し い咳込 みが起き るので、どう し
ても起座位 の姿勢 でなければ、眠る事も で
お尻が痛くならなか った のに、回復室 のベ
ッドはせんべ い布団 のよう に堅く て、尻 に
廉爛が でき てしま つた。背もたれを平ら に
吸困難がおき る。夜中 に主治医を呼 んでも
を開始 したと ころ、 やはり喘息もどき の呼
主治医よりお叱りを受 けた。 ふたたび吸引
困難が続き、右胸部 のド レー ンの吸引をと
れたようだ。しかし、右鎖骨上部 のリ ンパ
検出されず、放射線療法が劇的 に効 いてく
病巣部と そ の周囲 のリ ンパ節から癌細胞は
術後 の病理検査 の結果が でた。食道 の主
お叱 り を受 けた 。 や っぱ り 入院 息 者 が カ ル
だ った。さ て明日も これが続く のかと心配
ら つて、そ の状況を 見 ても ら つたと ころ、
はウオーターベ ッドだ ったよう で、背中 や
し ていたら、主治医 が来 て、 ﹁
これだけ元
節 には、まだ癌細胞が残 っており、さら に
胃 周 辺 の リ ン パ 節 ︵一、 三 ︶ か ら も
あ。
あれよあれよと思う間 に、手術前 の 一般
ゼーゼーと息 が切れ る。た った 二週間寝 て
が、まもなく右胸部 にも胸水が溜りだした。
しかし、室内 のた った数歩を歩く のでも、
毒性と の戦 いのはじまりだ。
き気と倦怠感 に脱毛、そし て骨髄抑制 に腎
U︶を ニクール行う事 にな った。猛烈な吐
四月十 一日
病室 に運び込まれ てしま つた。しかし順調
いただけ でも 相当筋 力 が落 ち るそう だ が、
め てみたら改善す る ので、勝手 に止めたら、
テ室 に出 入りす る のは、ちと 困 るだ ろう な
気なら明 日 一般病床 に移りまし ょう。﹂と
胸水 の排 出 が少 な く な っては いな か った
が、右胸 部 のド レー ンも抜く事 にな った。
ン
ミ弱H
hな癌細胞 が検出 された。 リ ンパ節
四月五日
か一
一
一
一
軍つじ ゃな いか。回復室 には 一日しか泊
おかげ で夜中 の呼吸は楽 にな ったし膀脱 の
四日程前 から、夜間 に喘息もどき の呼 吸
まらせてくれな いようだ。
留置 カ テーテルも抜け て歩行 可能とな った
へのジ ャ ンピ ング メタと いう こと だ そう
だ。そこで化学療法 ︵
シ スプ ラチ ン+5F
のよう に思われた のはここま でだ った。経
c位 の胸水 がたま って いて、右 の肺先
二千 c
三月二十九 日
過が良 いと思われ て左胸部 のドレー ンを抜
-52-
四月十七日
化学療法が始ま った。腎毒性をさけ るた
六月七 日
待 つ方針を告げられた。
ありそう に思われたが、自然 に抜 け る のを
行痛 のステージ Ⅳ a、五年生存率は極稀 で
した。術前診断は、TNM分類上、食道進
千台そこそこ、血小板も十万台を ふらぶら
し て いた。しかし ﹁
少 しだ るく て、食欲 が
くさん飲 めな いのだからしかたが無 い。 ゆ
量 しか食 べられず。水分も い っぺんにはた
ま った。胃袋が無 い状態な ので、わずかな
は腹部 の経腸栄養 の管も抜き去られた。 翌
日から、毎 日 一唯∼五百 gの体重減少 が始
IVHを抜き 、点滴中止。そ の数 日後 に
一
● F麻︶
∽
<Jをあせらな いこと!
●ヽ
不アカで いること︱
の課題だが、そ の 一番 の方法は、
と のことだ。免疫力を高める のがこれから
した ので、今後、経過を観察す るしかな い
立証された治療法は、手術を含 め全 て完了
にあがるそうだ。現時点 で出来 る科学的 に
無ければ 五年生存率 の確率 は七十%くら い
数十人 に 一人か 二人、ただし三年 間再発が
cの点滴が開始さ
め、毎 日二千 五百 ∼三千 c
れ、 シスプ ラチ ン投与 日には、かなり の量
無 いかな ぁ?﹂と思ゝ
つくら いで微熟が 一ク
ー ルロ に出 た ほか は何 ご とも 起 き な か っ
た。ほぼ必発と思われた吐き気も脱毛も起
う 門 の狭窄 があ るため、他 の人よりも食 べ
の制吐剤 の投与も行われた。白血球数は三
きなか った のであ る。化学療法中 に、外来
られる量が、なかなか増え な いのだそう だ。
何 の症状も無く、元気 一杯 で仕事 にも遊
に徹す ること!
●O中
o
ヨ
彊
ミ
£
だそうだ。
を ふら ふら散歩し ていたら、執 刀医 に見 つ
か って ﹁
おまえ 、化学療法中くら い、大人
に気が ついた時 には、もう既 に立派な ステ
び にも励 んで いて、ただたんに首 のしこり
体重 は 六十 六 唯か ら 五十 八 唯 に低 下し
た。咳もまだ止まらず、起座位 でなければ
ージ Ⅳ aの痛 が完 成 し て いたと いう 訳だ
六月十 八日
眠る事 が できな い。階段を登 ると、すぐ に
しく寝 てろ。﹂と、お叱りを受け てしま っ
た。実は寝床 に仰臥す ると、咳がとまらな
くな ってしまう ので、立 って いる時 が 一番
いな い。まし てや五年以内 に死 んでしまう
咳が出な いため、しかたなく ふらふら歩 い
球 は相 変わらず 三千台 だ し貧 血も 高度だ。
かも しれな いと言われ ても、実 は全然 そう
息 切れが起き て へたり込 んでしまヽ
つ。白血
胸水もまだたま っている。 でも退院す る事
は思 っていな い。 やりた い事 が残 っている
て いた のであ る。
にした。 入院 し て いても自宅療養 し ても 、
内は死んでたま るかと思 っている。ただし、
が、突然事故 で死んでしまう事も有 る世 の
中だから、僕自身は別に悲し いとも感じ て
少 しず つしか良くはな っていかな いと のこ
七週後、無事 ニクールを終了し、様子を
見 て いたが、なかなか引かな い胸水 に根負
とだから、主治医 が退院 し ても良 いと言 っ
そう旨く行かなか った場合 に、迷惑をかけ
かなければ、死 にき れるも のでは無 い。な
るであ ろう妻 や周囲 の人達 の事を考え てお
た 二日後 に出 る事 にした。
先輩︶と腹を割 って話を
最後 に執刀医 ︵
けし て、 や っとド レー ンで右胸部 の水を抜
cも でた。
いてもらう事 にな った。見事 に千 c
念 のため、 こ の胸水 の腫 瘍 マーカーを測定
し てもら つたが、特 に異常はみられなか っ
た。
c位
左 の胸水はレントゲン上三百∼四百 c
-53-
しくなければ死ぬ のは恐く無 い。そ の時は
ち ょ っと勉強などし て暮らす つもりだ。苦
イビ ング三味 にあけく れ、少 し飽き たら、
を整 理し ておき、残り の時間は、好きなダ
るつる、 でき るだけ の事
るべく今 の内 に考ゞ
が って ︵
?︶おります。
骨粗慈症と色気 のな い話 でワイ ワイ盛り上
医大卒 です︶ へい っても老眼、更年期障害、
立ちます。大学 のクラス会 ︵
私は東京女子
十歳を過ぎ てから やはりあち こち老化が目
若 い頃は多少 の無 理もききましたが、五
月 で し た 。 皆 さ ん お 世 話 にな り 有 難 う ご ざ
いま し た 。
斉 藤 美知 子
若草内科 クリ ニック
内科
初め て家庭菜園も試 み ています。向か いの
今年 は、木 々草花 など、植 栽を増 やし、
斉藤外科 医院
斎 藤 修 弥
麻薬 の楽しさを堪能す る つもりだ。
なぜか不思議な事 に、僕 の寿命 はまだま
だだよ。と、体 の中から声 が聞 >
﹂
え てく る。
ホー マックに置 いてあ る、鶏糞、牛糞 、骨
粉 、油粕 、腐 葉 土、ピ ート モスなど 、 い
のですが、少し触 れただけ で葉はボ ロボ ロ
きく育ち、
一見、生育 はよさそう にみえ る
と思ゝ
つとき には、茎はド ンド ン伸び葉は大
合 し て試 し てみると、窒素分が効き 過ぎた
したが、園芸 の本を読 ん で、少 しず つそれ
ら の違 いがわか ってきま した。 いろ いろ調
まま ではそれぞれ の用途 がわかりませんで
六 月 一日 か ら 七 月 二 日ま で の スケ ジ ュー
木︶地域産保センター健康相
六月 一日 ︵
談、六月四日 ︵
日︶郡市医師会長協議会
︵
札幌︶、六月五日 ︵
月︶北海道 ドクタ
火︶
ーズゴルフ大会全体会議、六月六日 ︵
三役会、六月九日 ︵
金︶学術講演会、六月
一三日 ︵
火︶理事会、衆議院議員選挙公示、
六月十九 日 ︵
月︶国立登別病院再編成会
繊維 がし っかり し、も ろさがなくなり落葉
の理科実験 の様相も帯び てき て、土壊 のP
-54-
栗林 博 子
栗林 眼科
医師親交会 の行事 には、忘年会 に出席さ
せ て頂く位 で、ご無沙汰ばかりし ており申
し訳ござ いません。
市立病院退職後、寿町 に限科医院を開業
開業当時、小さか った子供達 に目が届く
日︶衆議院議員選挙投
議、六月二十五日 ︵
票日、六月二十八日 ︵
木︶室蘭地域産業保
落ち てしま いました。あ るとき 、思 いつい
て、カリ成分 の肥料を加え てからは、結合
よう にと、自宅と診療所を 一緒 にしま した
が、最初 の頃は患者 さんが自宅玄関から居
園芸 の楽 しみは、さながら、小学校 のとき
事場は別 々にすれば良か つたと思 った事も
懐かし い思 い出 です。
は止まりました。 こ のことを経験し てから、
間 にあが つてき てしま ったりと、び っくり
健センター拡充センター説明会、七月 一日
︵
土︶看護研修会、北海道ドクターズゴル
Hを調整したり、窒素、リ ン酸、カリ の歩
︵
お互 い︶す る事も多く、やはり自宅と仕
日︶北海道ドク
フ大会前夜祭、七月二日 ︵
ターズゴルフ大会、忙がしく充実した 一ヶ
し て十九年近ぐ経ちました。
ル
合を変化 させたり、 いろ いろ試 し てみて い
ます。肥料を やりすぎ て枯れた木 々も数え
切れませんが、失敗し てもあまり深刻 にな
何 かあ り ま したら 、
〓 8 B 言 ⑥ 沼 8 ︻①日 8 B ・
甲 B ”μF︻
B
・
にお便りくださ い。
せ
へ 気 軽
曽根 清孝
曽根医院
皮膚科
何 でも 一番は淋しきも のよ。
私も とう とう 開業 五十年 目と なり ま し
た。 そ の頃 の開業医 は居 なくなりま した。
角 哲雄
恵愛病院
又私 の所属し ている、室蘭 ライオ ンズ クラ
らなく ても良 いのが、素人園芸 の良 いと こ
ろです。
精神科
今年 は胡瓜、茄子、ト マト、枝豆、ジ ャ
ガイ モ、ピ ー マン、南瓜、西八などが収穫
は増加 の 一途。 これも世相 の反映だ ろうが
つ多忙 。 こころ病む人が増え て外来患者数
真帳を出し て楽しく皆 で騒 いだ頃が大変懐
なり、甚だ沐し いも ん です。だから昔 の写
しま いましま した。又油絵 のチ ャーチル会
や、三時会 でも当初より居る のも私だけと
ブ のチ ャーターメンバーも私 一人とな つて
社会全体 の事を考え れば患者が増えたと単
登別 に単身
となり、週末 の帰宅が楽 しみ ︵
高橋 医院
高橋 陽夫
又女性 にも。
かしく感ず る次第 です。
ラブ の芝 ︵
小生 の経験 したゴ ルフ場 の中 で
趣味は芝作り。今年 は小樽 カ ントリーク
純 に喜 ぶわけ には いかな い。
平 々凡 々な毎 日。ただ仕事面 では順調か
でき る予定 ですが、市場価格よりはるかに
高価なも のになり そう です。五年後 にはイ
ングリ ッシ ュガーデ ン ︵
ワイ ルド フラワー
ガーデ ン?︶ にな って いる予定 です。
塩澤 英光
東室蘭 医院
介護保険認定審査会 の委員 に、任命 され
赴任中 です︶。当地 でおぼえ たゴル フは伸
内科 。小児科
は最良 の芝︶ に匹敵す るよう な立派な芝生
アタ フタし て います。 工業大学 のパ ソコン
び悩 み。練習 に行く回数もめ っきり減 って
内科
入門講座 に申 し込 んだり、休 み の日は、白
ただ いま天寿九十有 五年、気 が ついたら
シング ルの夢は遠 のくばかり。
たりし て います。肥満体 のため長生き出来
ここま で来 て いた のであ る。診療は昨年 入
老 のイ ンクラの滝 にトレ ッキ ングに出かけ
そう にな いので、そ の分残り少な い人生を
月以降休止し て いる。本年 六月からは介護
保険 で要介護 1に認定され、そ のお世話 に
な って いる。
自由 に生き てみた いと考え ています。
本業 の方は、振 るわず、 いささか開き直
り の感じを拭 い切れませんがi。
-55-
ど 解 読 したり 、庭 に出 て季 節 の花を撮 った
。
ノ
広
W
新 聞 は隅 々ま で目を 通 し、 ス ペイ ン語な
明 るさ、気負 いの無 い開放的な言動 に今ま
す、最近 のオリ ンピ ツク のメグリ スト達 の
青少年 の引起す異様な事件とは対極をな
精神神経科
三愛病院
千葉 泰 二
九 十 二歳 の夏 、十 回目 の富 士 山登 頂を 果
日 々仕事 に追われる毎 日です。 スト レス
解消 は、なかなか進歩 しな いゴ ルフをす る
こと、家庭菜園を つく ること、子供と遊 ぶ
らな いこと です。今後は健康的な食事と テ
こと です。
一番 の悩 みはなかなか体重 が減
登別中央病院
田中 豊 典
でに無 いそ の強 さを 感 じ る今 日 こ の頃 で
す。
た し、横綱 に推薦 さ れた が、今 思え ば 夢 の
よヽ
つだ 。
毎 朝毎 夕 、仏壇 の前 に端 座 し、 ﹁
色 即是
空﹂ を 唱え 、恵ま れ た余 生を 深謝 す る こと
を忘 れな い。
ニスなど ハードな スポー ツに取り組 んで痩
室蘭船員保険診療所
東 浩
せようと考え ております。
内科
家族。 二人共生活習慣病 ︵
高血圧、高脂血
八十 五才︶、妻 ︵
私 ︵
七十九才︶ の二人
新 日鐵室南総合病院
症︶ で服薬中 であ る。
高橋 基夫
外科
私は昭和六十 二年 七月以来、特例許可老
三回勤務 し、院 長 の指 示 のもと 、看護婦 、
現職 室蘭船貝保険診療所所長。
外科 ・内科
室蘭 に来 て、早や十六年経過、東室 蘭 の街
介護員等と協力 し て、高齢者 ︵
特 に老婆 が
公職 室蘭市教育委員会 委員長、室蘭市
人病院 ︵
百三十床︶ に非常勤医師とし て週
並 みは十六年前と大差ありませんが、体重、
九十 %を占める︶ の疾病予防、治療 に努 め
平素、御無沙汰し て居ります。札幌 より
血圧が気 になる毎 日です。
池 に飼 った五匹 の鯉 のヽ
つち 一匹が現在も約
約 二十年前住居を新築した際、造成した
って いる。人 口十人万人から十万台 に減少
五年 四月から 一年毎 の定年延長 で現在 にな
昭和 三十九年十月から勤 め て いるが平成
介護保険認定審査会会長。
う のですが、進行す る医療改革 の中、気忙
し い昨今 です。毎年 六月、
一年交代 で来 る
七十 硼位 に成長 し家族 の 一員と し て可愛 が
した室蘭市 の栄粘盛衰を見 てきたと同時 に
て いる。
卒後 一∼三年 目 の前期研修医 の目 の輝きは
って いる。そ の他温室 の植木鉢、庭 の草木
港 の老廃物 になり つつあ る。
世 の中、根本的 には変わり様が無 いと思
以前と変わらず、そ の溌刺とした様 に元気
等 の管 理をし て いる。
平成 四年十月に妻を亡くし て以来、独り
づけられ、医療 の基本はこれからも変わら
な い事を 確信させ てくれます。
-56-
身 で、 日常生活は全 て自立。自炊も楽 しみ
ながらし ているが、所詮山岳部料理 の廷長
に過ぎな い。 テ ニス、 スキーも遊び の範 囲
内。今後 の生活設計まだ決まらず付和雷同
の毎 日であ るが、現在 の望 みは早く仕事を
辞めた い、長生きはしたくな い、介護保険
の世話 にはなりたくな い。願望が叶え られ
ることを祈 っている。
堀 尾 昌 司
堀尾医院
外科 。整形外科 。内科
堀尾昌司 です 。 昭和 三十年 七月生ま れ。
六歳、十 二歳︶。旭川医大
妻と子供 二人 ︵
グ ロ ス ー ー 0 あ た り で足 踏 み 状
ルフ ︵
学校合唱団﹂ に所属、 パートは “協o 、ゴ
北辰 緑 ヶ丘合 唱 団﹂
今も室蘭 の ﹁
合唱 ︵
めだか の
と、松 田幹人先生 が主催 される ﹁
え にな っています。
、
趣味 は ド ライブ、 スキ ー、温泉 めぐ り
も 通 い続け てくだ さる事 が何より の心 の支
療 にこだわ った父 の肉筆 がたくさん残 って
いて、又、父を慕 って いた息者さんが いま
大 工 の手 元を や ったり、或 いは材料逗び、
まだ充分 でな い状態 で休 日は毎 週奮闘し て
おります。
更 に小生 の体 のこと ですが、時折新築 の
、
る所 にや っと納ま った状態 であります が
を建 てて、人月十 日入居し て以来、引越し
の荷物 の整理に追われ て、最近は物が納ま
最近 の近況報告を書きますと、新築 の家
内科 ・精神科
三村病院
三村 博 通
息者さん の人生相談も や って います。
結 構 い つも 暇 です が︶
態 ︶ 、 暇な時 は ︵
ゃb砕″
;⑥増oおい
︼仲
“砕酬∽
は Fo
口。﹂
W︰
Ц
0で
日”
。
す。ゴ ルフで私と同等 の実力 の方 の挑戦を
お待ちし て います。
掃除などを手伝だ っているうち に左上腕か
ら左 肩 にかけ て疼痛 が走 り挙 上困 難 にな
り、ゴ ル フのプ レイが全く出来なくなり休
んで いる所 です。
市立室蘭 総合病院
に一
戻りた いと思 っている今 日この頃 です。
ピ ック スです。今ま で通り の普通 のリズ ム
この二 つのことが小生 にと って大きなト
脳神経外科
松村 茂樹
一度だけ大
控え 投手。
代は準硬式野球部 ︵
三期生 で同医大第 一外科出身 です。学生時
リーグボ ー ルー号を投げ た事 があります。
投げた本人が 一番び っくりしました。︶と
脳卒中 の予防 に役立 てて いきた いと思 って
います。ゴ ル フはや っと白鳥 コー スにも慣
新病院 になり脳外科 が新 設され三年 が経
、
ちました。今年 は新しく MRIが導入され
産婦人科
村井 ス 乙
合唱団を掛け持ち でや って いました。
れ てきました。
平成十年 に、七十歳定年 で血液 セ ンター
室蘭赤十字血液 センタ ー
父は昭和 四十 三年 より登別市 で内科医院
を開業 し ており、平成 六年から私も開業医
と し て父と 一緒 に診療 し て参りました。そ
これからも よろしくお願 いします。
の父も平成 十 二年 一月 に他界し寂 し い想 い
をしま したが、カ ルテには死 の直前ま で診
-57-
画 か ら スタ ートま で、書 類 の多 い事 が最も
文 明 。国家 が成 立 した事 に特 に興味を 引 か
趣 味 は、十 六年前 よリ テ エスを や って い
所長を退任し、赤十字本社より何ら恩典 の
勝手知 ったる職場 に居座り、現在嘱託医 の
ま す が、何時 ま で出来 るか が問題 です 。 四
れま す 。
扱 いだが、そ の実態はゴ ル フ代、馬券代を
む ろら ん オ ーキ ツト ・ク ラブ﹂ に
月 より ﹁
大 変 でした。
稼ぐだけ の薄給 アルバイター。幸 いにうち
入り ま した が、余 り 熱 心 な方 ではあ りま せ
ん。
無い ﹁
名誉所長﹂ の称号を受けた。以後は
のお内儀様 が、自 ら アパート業を興し、そ
のテナ ント料 や賃貸料 のあがりから小遣 い
′♂
を いただく髪結 いの亭主 に成り 下が ったが
不満は無 い。
柳川内科医院
柳 川 譲
寄 る年波 には勝 てず、 ハ ・メ ・ナ ントカ
に難聴も加わり、お次はボケかと近頃憂鬱。
内科
-58-
されば飲 めぬ身 で夜 のススキ ノを徘徊 し、
保持せんと
時 には悪所 に潜入し てFσ菖24
はるか︶ が
︿近況 ﹀ ︵一︶昨年 長女遥 ︵
誕生しま した。 全 じ 平成九年 に室蘭 に戻
って以来借家暮らし でしたが、現在医院裏
に自宅を新築中 です。
︿現在 取 り 組 ん で いる事 ﹀検 査 デ ー タ
︵
内 視鏡 、超 音 波 を 主 にし て︶ のデ ータ
は特 に地中海 ∼小 アジ ア地域 の古代 ∼中世
卯 フレをラン
ド
耐
す る傍 い努力もも の悲しさを募らせる。 い
や∼変な事書 いち ゃ ったなあ。
柳 川 志公
柳川内科医院
ーベー ス作製。元 々 コンピ ューターを いじ
アウトを始 終 変 更 し て いるた め、作 製 は
内科 ・小児科 。消化器科
平成九年七月より、長男譲が東京 より引
る のが趣味 です ので、データベー スのレイ
き揚げ て来た為、二人体制となり、消化器
遅 々とし て進まな い状況 です。
︿趣味 ﹀元 々歴史が好き でしたが、最近
今年 四月 一日より、医療型療養型病床群
に関す る書物を読 んで います。多種多様 な
科が加わりました。
一般 五床 でや っています。 こ の計
十 二床、
ぬ
編 集 室 へのお 便 り
図書資料等ご寄贈 のお礼 に ついて
時 下ますますご清祥 のことと存 じ、お慶
び申 し上げます。
さ て、 この度は図書資料等を港 の文学館
へご寄贈賜り、厚くお礼申 し上げます。
?た、広く市民 の方 々
早速、整理保存 のゝ
にご利用頂く所存 でござ います。
何分 にも、皆様 お 一人お 一人 のご協力 で
成 っております この港 の文学館 でござ いま
す ので、今後ともよ ろしくお力添えくださ
いますよう 、お願 い申 し上げます。
ありがとうござ いました。
︵
十 一・十 一。二十七︶
港 の文学館
室蘭市海岸町三十 六︱十 二
前略
波久鳥 二十号﹂拝読致しま した。
此 の度 ﹁
十 三十 人
札幌市白石区菊水 一条 一一
一〇〇五
広瀬 欽也
︵
十 一・十 一・二十 人︶
暖かな気候も漸 やく過ぎ て念 々本格的な
拝復
冬 が訪 れ て来た様 に思われます。
波久鳥﹂ 二十号を御恵送
此 の度はまた ﹁
頂きま し て誠 に有り難う ござ いました。創
刊 の頃 お手 伝 いに狩 り 出 さ れま した事 な
ど、また和気 溢れる医師会、親交会など の
集 いに参加させ て頂き ました事ども ,。懐
かしく思 い出し て居ります。
敬具
編集長加藤先生を始 め各先生 のご活躍ご
健勝を祈り上げ て居ります。
札幌市中央区宮 の森 一条
十 五丁目 一番十 五号
小國 親久
︵
十 一 ・十 一。二十九︶
拝啓 時 下益 々御清栄 のこととお慶び申 し
有り難うござ いま した。小生在宅酸素 で行
動制限あり元気 です が、す っかり不義理を
上げます。
こ のたびは刊行 物を御寄贈賜りま し てあ
し て申し訳なく思 っております。
貴会 の益 々のご発展を祈 って居ります。
りがたく、厚く御礼申し上げます。
貴重な研究資料とし て永く保存 し利用さ
敬具
せ て いただきます。
なお、今後とも発刊 の折は御恵贈 下さ い
ますよう お願 い申し上げます。
砂川市西四条北 二丁目 一番 一号
砂川市立病院 院長 小熊 豊
︵
十 一。十 一・二十九︶
医師会 々員 の皆様 にはますますご健勝 の
拝啓
御事とお慶び申 し上げます。
波久鳥﹂第 二十号をお送り い
この度 は ﹁
ただき ま し て誠 にあ り がとう ござ いま し
た。丁度 一周忌を数 日後 に控え 、早速 に仏
前 に報告させ て いただきました。厚くお礼
申 し上げます。
かしこ
室蘭市医師会、親交会 の益 々のご発展を
お祈り申し上げ て居ります。
室蘭市増市町 一︱十 七十 二十 四
号久代
九 田 一
︵
十 一。十 二 。こ
-59-
拝啓一 時 下ますますご清祥 のことと お慶び
申 し上げます。
親 交 会 の主 な 行 事
○受 賞 祝 賀 会 及び 忘 年 パ ー テ ィ ー
平 成 十 一年 十 二月 十 日
終 室 蘭 プ リ ン スホ テ ル
○平成十 一年度定期 総会 ・懇親会
平成 十 二年 五月十 八日
於 ホ テルサ ンルート室蘭
月
行 彬史 貴 正政
清彦 男和 康 己俊
北 海 道 室 蘭保健 所
深瀬医院
さ てこ の度 は刊行物をご恵贈 下さ いま し
てま こと に有り難うござ いま した。貴重な
資料とし て当院図書室 に保存 し、末永く活
用させ ていただきたく存じます。
敬具
なお、今後ともよ ろしくお願 い申 し上げ
ます。
医療法人社団 日鋼記念病院
○親 睦旅行
平成 十 二年 七 月 人 ∼九 日
於 登 別 温 泉 第 一滝 本 館
○行 楽 会
平 成 十 二年 九 月 七 日
於 ビ ヤ レ スト ラン プ ロビ デ ンス
年
2 2
1 ・ 1 3 5 5 9 9
1
2 2 2 2 2 2
1 ■ 1 ・ ︲ ︲ ・ ︲
-60-
院長 大平 整爾
︵
十 一。十 二 。こ
﹁
波久鳥﹂ 二十号お送り いただき有難う
ござ いました。発行から 二十年、毎年 充実
した内容 で途切れることなく、続 いた のは
加藤先生を始め編集委員 の諸先生 のご苦労
の賜物 で敬服 にたえま せん。益 々の御発展
を祈ります。
静岡市大谷三人〇〇十九 二
一方井 卓 四郎
︵
十 一・十 二 二 一
12年 10月 末 現 在 会貝 104名
平成
医 療 機 関 名
元 大 辻 内科 医 院
大 吉 整 形外 科 医 院
堀尾 医 院
北 海 道 室 蘭保健 所
市 立 室 蘭総 合 病 院
よこやま耳鼻咽喉科クリニ ック
名
祐太郎
氏
大 辻
大 吉
堀 尾
大 宮
赤保 内
横
山
川
堀
深 瀬
事由
逝去
逝去
逝去
退会
入会
入会
入会
逝去
11年 10月 ∼平 成 12年 10月
平成
動
異
員
会
有り難 いお言葉を残 し て 一斉 に引退 しま し
た。頼りな い小生を見 かね て慈悲深 い三村
外 から見守 って下さる﹂ と いう
先生方 が ﹁
長 い間、本誌 の編集 に携わ ってこられた
はな いと 思 いま した。 生 と 死 はま さ に我 々
り ま し ても行 間 か ら読 み取 れ るも の少 なく
く だ さ います 。異 な った世代 の先 生方 にと
共 有 し た仲 間 が 思 い出 深 い事 々を披 露 し て
し い先 生方 が去 って いき ます 。 そ の時代 を
上 田先生、加藤先生、曽根先生 には毎 回
も のを引き継ぎ つつ新 し い機軸を盛り込む
︲世紀 に向 け てのスタートを切
と いう形 で2
れた のではな いかと思 います。
の活発な情報交換 の場 にな るも のと期待し
域 に散 らば って活躍す る親交会 の緒先生方
﹂
うま で広 い地
登別温泉から白鳥大橋 の向 >
博
通
﹁
波 久 鳥 ﹂ 二十 一号 編 集委 員
村
かも 知 れま せ ん。
さ て、年 月を 重 ね る にした が い避 け ら れ
先生が編集委員長と し て残 ってくださり新
医 者 の永 遠 の課 題 です 。 それ に正面 から取
編集後記
世代 の先生方 に参加 し て いただき新 し い委
り 組 み 闘 病 の記 を 寄 せ て 下 さ った 国 本 先
な い、仕 方 のな いこと ではあ り ます が懐 か
員会を スタート させ ること が出来 ま した。
ど めず 友 人 、知 人あ る いは息 者 さ ん にも 是
生 、堀 尾 先 生 の手 記 は本 誌 の読 者 だ け にと
大胆 に変革す べきか委員会 では様 々な議
非 読 ん で頂 き た いと 深 く 感 銘 を 受 け ま し
紙面をお借りし てお礼申 し上げます。
論 がありま したが先人 の残 し てく れた良 い
見事 な才能 にただただ恐れ入ります が国本
ております。今号 で登場しなか った先生 に
稿 のほど切 にお願 い申 し上げます。
︵
斉藤 甲斐之 助記︶
こ の号 より近況報 告欄をもう けま した。
事件発生﹂ 、あ る いは千葉先生 に
先生 の ﹁
た。
よる昭和 三十年代 の鷲別 の情景、などなど
波久鳥なら では のも のと思 いま した。波久
は来号是非お願 いした いと思 います。
2号発刊
︲世紀 、波久鳥 2
来年 は いよ いよ 2
に向け て気 が早 いと言われそう ですがご寄
鳥を読む こと により親交会 の 一年 が分かり
ますが、そればかり ではなく寄稿 された文
を読む こと により会貝 の人となりが深く理
解 されます。お互 いの親交を深める、波久
鳥 の存在意義 は某外 そんなと ころにあ る の
ボ
誌 波久鳥
塑会 ハ
発行 日 平成十 二年十 二月 一日
発行所 室蘭市 医師親交会
印刷所 室蘭印刷株式会社
-61-
三
柳 吉 福 松 曽 堀 開 鴨 生 角 斉
藤
川 井 永 村 田 尾 田 井 田
甲
茂 光 昌 博 清 茂 哲
大
斐
譲 介 純 樹 彦 司 之 貴 夫 雄 助