先輩の色塗り作品の話

最終回 「地形図の彩色」
地図が教えてくれたこと
地形図の色塗り
図を彩色するのには大変な労力を伴
作業を行うことで、地形図の中に眠っ
う。きれいに塗ろうとすれば丸一日か
て い た 情 報 が 浮 か び 上 が っ て く る。
大門修一(昭和 16 年 3 月卒)
石川県かほく市宇野気付近(部分、原寸)
色あせない彩色地形図
「地図に命を吹き込む作業」といった
今号では、大学生の作品を紹介した
けても仕上がらないことがある。色使
い。掲載したのは、2 万 5 千分 1 地形
いにもいくつかのルールがあり、虹の
ら言い過ぎであろうか?
のもので、駒澤大学専門部歴史地理科
図を高度別に彩色したもので、多くは
色の配色の順に塗っていく。全体の色
「大学生が塗り絵?幼稚園生じゃある
の学生によるものである。地形図にレ
1 年次の実習作業で作成されたものの
のバランスを考えつつ、扇状地や河岸
まいし ...」
「色を塗るだけの卒業製作?
タリングで書かれていた名前と、卒業
ようだ。卒業製作として提出されたも
段丘、V 字谷など地形の特色が出るよ
楽な専門分野もあるものだね ...」そん
生名簿等を照合すると、昭和 16 年か
のも含んでいるかも知れない。経験者
うに色を選べば、美しい作品が仕上が
なご指摘があるかもしれない。彩色地
ら 19 年(1941 年~ 44 年)頃に卒業し
は御存知かと思われるが、1 枚の地形
る。単純な作業ではあるものの、彩色
形図が作成された背景を説明しよう。
た学生の作品であることがわかった。
今号に掲載した作品は、70 年以上前
彩色は顔料を溶いて筆で塗ったとみら
れる。地形図の左下余白に「2602」と
いうように 4 桁の数字がみられるが、
これは皇紀 2602 年(昭和 17 年、1942
年)に作画されたものであろう。また、
昭和 19 年 9 月卒業生の作品の地形図
右上には、ゴム印が押されており、
「出
願目的以外に使用せざること」とある。
戦時中は地形図が軍事機密で購入には
い
許可が必要だった。
ふ み
ひ ら
平井史生
鈴木昇空(昭和 19 年 9 月卒)
山梨県上野原CC付近(部分、原寸)
お
原田節二(昭和 19 年 9 月卒)
山梨県大月市・上野原市扇山付近(部分、原寸)
昭和 12 年、北京近郊の盧溝橋で日
中の軍事衝突が起こり、戦火はやがて
大陸に広がる。新聞は連戦連勝を伝え
ていたが、戦線は泥沼化し、米英との
対立は深まってゆく。やがて、戦火は
東南アジア及び太平洋に拡大すること
になる。昭和 16 年 10 月、大学の就業
年限を 3 か月短縮することになり、卒
業が 12 月となった。翌 17 年にはさら
榊原克己(昭和 19 年 9 月卒)
2 万 5 千分 1「上野原」25%縮小
に 9 月卒業となった。当時の大学生に
堀口禎仙(昭和 16 年 3 月卒)
新潟県津南町反里口付近(部分、原寸)
山脇敏(昭和 16 年 12 月卒)
愛知県みよし市付近(部分、原寸)
平間喜栄(昭和 16 年 3 月卒)
新潟県妙高高原付近(部分、原寸)
高野玄峰(昭和 19 年 9 月卒)
山梨県上野原市高柄山付近(部分、原寸)
井関弘太郎(昭和 19 年 9 月卒)
東京都八王子市・神奈川県相模原市
和田峠・陣馬山付近(部分、原寸)
は、卒業研究に取り組む期間はほとん
どなかっただろう。地形図の彩色を
もって、やむなく卒業を認定した例も
あったそうだ。
卒業したら徴兵検査を受け、応召さ
れるかもしれない。戦地に行けば生き
て帰れる保証はない。そういう環境で
地形図の彩色を課せられたらどうする
であろうか。自問してみた。
70 年を経ても繊細で鮮やかな地形
図には、彩色者の大切な心が入ってい
小館哀三(昭和 16 年 3 月卒)
鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原付近(部分、原寸)
る。だからこそ色あせないのだ。パソ
コンで地図を作画するようになって
も、一枚一枚の図を丁寧に気持ちを込
めて作画することはとても大切なこと
だと思う。
飽きっぽい性格の筆者が 54 回の連
載を継続できたのは奇跡に近い。締切
に追われ、妥協しようと思った時は、
大先輩の彩色地形図を思い出すように
宮本茂(昭和 16 年 3 月卒)
新潟県十日町市小海川周辺(部分、原寸)
30
2015 March 地図中心
している。
(平井史生)