専門家は社会とどう向き合うべきか

巻 頭 言
事故から学ぶ,
専門家は社会とどう向き合うべきか
甲斐 倫明
Kai Michiaki
(大分県立看護科学大学)
放射線影響・ 防 護 に 関 わ る 専 門 家 は 社会とどう向き合うべきか。この問いは福島事故 以
後,社会から信 頼 を 失 っ た 専 門 家 集 団 の社会との関係を立て直す上で考えるべき課題で あ
る。しかし,実 際 に は 多 く の 専 門 家 は ,一般社会が放射線の知識に欠けているために混 乱
や不安が生じた の で あ り , 専 門 家 間 で の意見の違いはあっても専門家自身に問題はなか っ
たと捉えている 放 射 線 関 係 者 は 少 な く ないように見える。これは,放射線防護がサイエ ン
スだけでなく, 過 去 の 経 験 , さ ら に は 社会的判断からなることが理解されていないから か
もしれない。
事 故 は 非 日 常 で あ る 。 日 常 の リ ス ク 論 が そ の ま ま 通 用 し な い と I CRP は 考 え て い る こ と
は理解されに く い 。 従 来 の 放 射 線 管 理で行われてきた保守的な放射線防護を非日常に適 用
すると,そこ に 生 じ う る 新 た な リ ス クを抱え込むだけでなく,社会的混乱や不安を増幅 す
る恐れがある 。 サ イ エ ン ス は 価 値 フ リーに世界を記述することであるとすると,常に不 確
かさや不完全 さ を 伴 う 。 一 方 , 放 射 線防護の考え方は社会的判断を含む。例えば予防の た
めには保守的 に 考 え る こ と が 一 般 的 なコンセンサスとなっている。サイエンスと放射線 防
護にはギャッ プ が 存 在 す る こ と が あ る。純粋に科学だけで決まる問題は少なく,社会的 な
判断が常に伴 う か ら で あ る 。 放 射 線 以外のリスク管理にも当てはまることであるが,こ の
ギャップが大 き い と 社 会 的 混 乱 が 大 きくなるようだ。
100 mSv 問題 ,1 mSv 問 題 な ど ,事 故後 5 年間に社会が経験した意見対立や誤解はほ と
んどがリスク評価の意義と限界から生じているようだ。100 mSv が安全ならばなぜさらに
線量低減化が必要なのか。年 1 mSv が日常の限度であるならば,なぜ早急にこのレベル以
下に下げる対策 が で き な い の か 。 こ の ギャップを埋めるためにある専門家は過剰な放射 線
防護に間違いが あ る と い い , あ る 専 門 家は逆にサイエンスの解釈,あるいは放射線防護 の
理解に間違いが あ る と い う 。 し か し 両 者のメッセージを共に受け入れるとするならば, そ
れぞれのメッセ ー ジ の 意 味 と 限 界 を 常 に社会に伝える必要があった。例えば,放射線防 護
は,本当に起き る 可 能 性 は 小 さ く 正 確 にはわからないが,社会はより高い安全を求める た
めにリスクを想 定 し て 対 応 し て い る と いったことである。サイエンスはこのようなデー タ
の性質を把握し て き た が , 詳 細 に つ い ては不確かな点も多いために,サイエンスが明確 な
線引きをするこ と は な か っ た こ と も 基 礎的なデータを示して社会に伝える努力も必要だ 。
放射線の専門 家 間 で 一 定 の コ ン セ ン サスがなくては,社会は誰を信じてよいのかわか ら
ず, 専 門 家 と の 信 頼 関 係 で し か 判 断 で き な い 状 況 を 生 み 出 す。 少 な く と も, 現 在 の I C R P
を中心とした 国 際 的 に 合 意 を 得 た 放 射 線防護の考え方の理解であり,その底辺にある放 射
線影響に対す る 認 識 で あ る 。 現 行 の 放 射線防護やサイエンスに対して専門家としてのコ メ
ントや異なる 認 識 は 当 然 あ ろ う 。 そ れ でもこれまでに築いてきたサイエンスとそれを基 礎
にしながらも 経 験 や 社 会 的 判 断 も 重 視 してきた放射線防護であるがその課題を認識しつ つ
も 一 定 の 理 解 を す る か ら こ そ ,“ 専 門 家 ” と い え る の で は な い か 。 専 門 家 は 知 識 や 情 報 を
伝達するだけ の 存 在 で は な く , 社 会 や 地域の人々と共に考え,人々と社会を支援してい く
存在であるこ と が 放 射 線 防 護 で は 求 め られている。
Isotope News 2016 年 8 月号 No.746
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