書簡集(明治39年)

書
簡
集
︵明治三十九年︶
一月六日 ︵土︶午後四時︱六時 本郷区駒込千駄木町五
牛込区市谷砂土原町三丁目十八番地内田貢
こう む
イワンの馬鹿御寄贈を 蒙 り深謝︑さっそく読
十七番地より
へ
拝啓
そろ
了 い た し 候 ︒ 小生 浅 学 に てイ ワ ン の 原 書 を よ ま ざ り し た
め︑かへって一段の興味を覚え候︒どうかしてイワンの
や う な 大 馬 鹿に 逢 っ て み た い と 存 じ 候 ︒
できるならば一日でもなってみたいと存じ候︒近ごろ
たの も
少々感ずることこれあり︑イワンがたいへん頼母しく相
5
成り候︒イワンの教訓は西洋的にあらずむしろ東洋的と
とんしゆ
金 之 助
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
啓︑長い手紙を頂戴︒面白く拝見致しました︒お世辞
松へ
十七番地より
一 月 八 日 ︵ 月︶ 午 前︵ 以 下 不 明︶ 本 郷 区 駒 込 千 駄 木 町 五
魯 庵 兄
一月五日夜
存じ候︒右取りあへず御礼まで草々︒頓首
6
にも小生の書簡が君に多少の影響を与えたとあるのは嬉
ありがた
し い ︒ そ れ ほ ど 小 生 の 愚 存 に 重 き を 置 か れ る の は 難有 い
というわけです︒小生は人に手紙をかくことと人から手
紙をもらうことが大すきである︒そこでまた一本進呈し
ます︒
﹁野菊﹂をお読みのよし︒詳細の御評拝見御もっともの
ことばかりです︒今度作者に逢ったら見せてやります︒
さだめし喜こぶでしょう︒あの男は職業は牛乳屋で子規
存生のみぎりいっしょに歌を研究して︑今でもアシビと
いう雑誌を出している︒小生は二三度会したぎり交際も
7
な い 人 で す ︒ あ の 作 も 一 句 々 々 吟味 す る と 技 巧 の う え で
せ
ぎりよう
たの も
です︒むしろ月並 臭 を脱しない︒しかし仰せのごとく
つき な み し ゆ う
ところだと思うが︑どうです︒趣向は仰せのごとく陳腐
おお
似非芸術的なものにしてしまうと思う︒そこが頼母しい
え
あれだけの材料を普通の小説家がとり扱ったならもっと
もって作者が事件を徹頭徹尾描き出している点である︒
価値がある︒たゞ野菊に取るべきところは真率の態度を
とか﹁ 竜 舌蘭﹂とかいう作のほうがはるかに技倆上の
りゆう ぜつ らん
はりまえのホトトギスに出た寺田寅彦という人の﹁団栗﹂
どんぐり
はだいぶ足らぬところがあると思う︒君は読むまいがや
8
つきなみくさ
月並臭くないからいゝ︒それから君の非難をする個所は
一々もっともである︒僕も多少そう思う︒たゞし女が死
んでからの一段はあれでいゝ︑実際です︒もっとも君の
いうようにすれば死というものに対して吾人の態度が違
ってあらわれてくるばかりである︒死に崇高の感を持た
せようとするときは︑そのほうを用いるがよいと思うが︑
死に可燐の情を持たせるのは︑あれでなくてはいかぬ︒
野菊の行きがかりからいうてあれでなくてはものになら
ない︒調和せんと思う︒死は一つである︒しかし吾人の
死に対する態度はいろいろある︒この態度いかんで読者
9
い
く
かぶ
な態度が皆真
大手腕が入る︒前後の関係からいって︑写真
つら
ち付きができるという点から見ればなんにもかかないよ
を握っていたので一種の趣意が貫ぬいて︑女の病死に落
はな か
く
たないでそれ以上の感じを起させるがいゝ︒しかしそれ
稚 で す ︒ も っ と上 等 に ゆ け ば そ ん な 目 に 見 え る も の を 持
すると思う︒女が死んで写真を持っているのはむしろ幼
妙ですよ︒つまり君のいうごとく︑あんなところで活動
女が猿股をいやがるところや︑笠を被らないところは
さる また
ということがいえると思う︒
の感じが違ってくる︒しかもそのいろ
10
り善い︒
わく らば
病葉について一言蛇足を添えるが︑主人公がなんだか
むずかしい本を読んでいる︒あれは必要があるのですか︒
ぶ
き
ざ
突 然 あれ を 読 む と ︑ 故意 に あ んな本 を読 ませ て い る よう
う
な︑初心な気障な感じがする︒もっと長いもので主人公
が一種の人物であんなものを読むべき傾向を有している
か︒またはあの本があの短編中に一種の関係を有してい
るなら故意とは思われなかったろう︒もっとも後段にち
ょっと関係が出るがあれだけでは︑あんな本をよます必
要はないと思う︒
11
こ
容赦なくいえば君は文に凝りすぎて失敗しそうな懸念
ぬけ め
あまりに神経的︑心配的︑人の心を予想しすぎるような
輩 で あ る ︒決 し て 僕 に 対 し て気を 置い てはな ら ぬ ︒ 君 は
の先生かもしれないが個人として文章などをかく時は同
の代り悪口をいっても怒ってはいけません︒大学では君
すかぎり︑心づくかぎりは愚評を加えるつもりです︒そ
僕は君の文が出るたびに読みます︒そうして時間の許
てい根気がつゞかないと思う︒
窮屈な苦しい感じがするでしょう︒第一長いものはとう
が 僕 に あ る ︒ あ ま り 凝 る と 抜 目 が な い 代 り に な ん とな く
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傾向がありはせんかと思う︒他人に対してはとにかく僕
に対してはそうせんほうがいゝ︒君も気楽でいゝでしょ
金 之 助
う︒野村伝四などは気楽なものである︒あまり長くなる
十七番地より
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
一月十日 ︵水︶午後二時︱三時 本郷区駒込千駄木町五
森 田 兄
一月七日
からこれでやめます︒不一
13
松へ
く
また手紙をあげます︒もう少し立っといろ
多忙に
こころも
頼母しい心持ち
もら
たまえ︒僕は読むのを楽しみにしている︒その代り必ず
間があったらいつでも僕のところへいって寄こしてくれ
で読みました︒なにか不平でも気炎でも洩したい時に時
んな労力を費やさしたと思うとなか
く
けかくのはだいぶ時間をとるに相違ない︒僕のためにそ
君はだいぶ長い手紙をかいてよこしましたね︒あれだ
少々ひまのあるのをさいわいにこれをかきます︒
な っ て と う て い 返 事 ら し い も の は か け な い か ら ︑ ただ 今
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それに匹敵する長い返事は出されないかもしれません︒
野菊の墓の評をかいてくださるよし︑さだめし本人︵す
なわち牛乳屋の主人︶はよろこぶだろう︒どうかかいて
やってください︒左千夫なんて聞いたこともない人だか
ら誰も相手にしてはくれん︒せっかく出色の文字でも誰
も相手にせんでははなはだ気の毒である︒君が評をして
やれば僕もなんだか愉快な気がする︒しかも君の評は十
中八九まで僕と同様であると思うからなおさら愉快であ
る︒しかしわるいと感じたところは遠慮なくいうてやっ
てください︒本 人の参考になります︒
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牛乳屋が気に入ったというのは見上げたものです︒牛
であったろう︒夏休みに金がなくって大学の寄宿に籠城
かった︒これが今日の君のようであったらやはり大煩悶
は別になんという考もなかったから︑さほど驚きもしな
か ら 私 立 学 校 を 教 え て 卒 業 ま で や り 通 し た が ︑ そ の 時分
いるようだが︑御もっともです︒僕も貧乏で十八九の時
君は衣食のために十分学問ができんのを苦痛に感じて
でもない︒
う︒顔もすこぶる雅な顔ですよ︒あんなものがかけそう
乳屋の主人のほうが大学の講師よりも気韻があると思
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したことがある︒そして同室のものの置き去りにして行
のみ
あ
す
おき つ
っ た 蚤 を 一 身 に 引 き 受 け た の に は閉 口 し た ︒ そ の 時今 の
かわ かばん
大塚 君が新しい革 鞄 を買って帰って来て明日から興津
へ行くんだと吹聴に及ばれたのは羨やましかった︒やが
て先生は旅行先きで美人に惚れられたという話を聞いた
らなおうらやましかった︒
僕 も そ の 時 分 か ら 真 の 勉強 ︵ 君 の い わ ゆ る ウ ィ ス ド ム
を得る工夫︶でも熱心にしたら今はもう少し人間らしく
なっているだろうと思う︒その時分は本の名前を覚えて
人に吹聴するのが学者だと思っていた︒趣味なども低い
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ものであった︒物の道理も今の若い人ほどはとうていわ
ようでは駄目だね︒失楽園の訳者土井晩翠ともあるべき
にならんかというから﹁人間も教授や博士を名誉と思う
っています︒先だって晩翠が年始状をよこしてまだ教授
ばん す い
がしたい︒したがってどうか大学をやめたいとばかり思
僕もそれだから大いに聡明な人になりたい︒学問読書
った︒
下げる見識で自分が証得したポジチーブの見識ではなか
なお愚物であった︒もっとも見識はあったが︑たゞ人を
からなかった︒要するに今でも愚物であるが当時はなお
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ものがそんなことを真面目にいうのはよくない︒漱石は
乞食になっても漱石だ⁝⁝﹂というようなことをかいて
やりました︒あとでなるほど小供らしい気炎だと気がつ
いた︒
君が人の作を読む態度ははなはだよろしいと思う︒そ
れでなければクリチシズムはできない︒たゞ人の長所を
傷 け な い だ け の 公 平 眼 は ぜ ひ と も お 互 に 養成 し な け れ ば
ならん︒僕は人の作に対してたゞ面白く読みたい︒よん
でやりたいという気が先へ起る︒しかし読んでしまって
これは敬服したというようなものはあまり少ない︒やは
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り西洋人のほうがそんな感じを引き起させることが多
き
はやはり天性の趣味の相違でありましょう︒
ら ん ︒ む し ろ 好 意 を も っ て 迎 え よ む の で あ る ︒ こ んな の
こう感ずるが僕は鏡花に対して憎悪心もなにも有してお
んある︒あれをなぜもっとうまく繋げないのかと思う︒
っていて嫌だという感じがあった︒警句はむろんたくさ
起 ら な か っ た ︒ そ れ か ら 彼 の文 章 の か き方 が い やに 気 取
んで驚ろいた︒どうも馬鹿々々しいという感よりほかに
のではない︒二三日まえ鏡花の海異記とかいうものをよ
かい い
い ︒ し か し 西 洋 人 だ か ら と い っ て決 し て 一 目 置 い て 読 む
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つら
君の手紙をよむと君の人間を貫ぬいて見るような心持
わか
い
ちがします︒君と二三月交際しても︑あれほどには分る
せ
まい︒人に自己を打ち明けるということは放胆の所為で
ある︒打ち明けられた人はその放胆をほめるのではない︒
他に打ち明けぬものを自分にのみ打ち明けてくれたとい
う特許を喜ぶのである︒
自分の弱点に対しては二様に取り扱う方法がある︒一
はこれを隠して自己の虚栄心を失望させまいとする︒こ
れは誰でもやっています︒僕もやっています︒しかし決
して満足が得られるものではない︒一はコンフェッショ
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ンである︒しかし無用の人もしくはこのコンフェッショ
とすれば僕も愉快である︒
おいて君は愉快である︒僕が君の自白を聞き得たる相手
嘗中に自己の弱点を構わず吐露したとすれば︑その点に
を覚えるのみならず︑相手も快よく思う︒君がもし君の
その時ははなはだ愉快を覚えるものだ︒単に本人が愉快
を垂れて訓戒してやろうと思う人に自白するのである︒
た
合には己れの信ずる人︑もしくは敬する人︑あるいは 教
おしえ
を加えようとする人には自白したくない︒だからこの場
ソをきいてこれを軽蔑する人もしくはこれを利用して害
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これからはいそがしくなるといつこんな長い手紙をあ
かくひつ
金 之 助
げられるか分らない︒ひとまずこれで擱筆とします︒
一月九日夜
森 田 兄
拝啓
十七番地より
芝区琴平町二番地朝陽館野間真綱へ
二月三日 ︵土︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄木町五
以上
23
先日皆川君のうちへ行く約束はしなかった︒都合によ
ではない︒放蕩をつゞけると放蕩のほうの憂鬱病が出て
い て い の 憂 鬱 病 は き っ と 全 快 す る ︒ 放 蕩 は長 く 続 く も の
金を百円ばかり借りて大いに青楼に遊んでみたまえ︒た
その病気のところが感心だ︒君の憂鬱病はどうなった︒
は い わ れ な い ︒ 人 は あ れ を 精 神 病 と い う が ︑ 精 神 病な ら
人は感心なものだ︒あのくらいな決心がなくては豪傑と
段 で 毎 日 を 送 っ て い る ︒ こ れ を 思 う と 河 上 肇な ど と い う
毒である︒小生例のごとく毎日を消光︒人間は皆姑息手
こ そく
ったら行くと申してやった︒しかし待っていたのは気の
24
くる︒そうしたらまた勉強をする︒また憂鬱病になる︒
またなにか道楽をやる︒これでたくさんだ︒これを姑息
手段という︒普通の人間はたいがいやる︒君はこの姑息
手段さえやらんから病気になるのである︒
ありがた
近 ご ろ は 訪 問 者 が 少 々 減 じ て 難有 い ︒ 忙 し い こ と は 依
大
しているのもまた
然として忙がしい︒生涯この有様であろう︒そして生涯
く
落ちつくことはない︒僕のキュー
く
姑息手段にすぎぬ︒要するに大俗物になってます
俗物たらんとアセルのだね︒これではどこがえらいか分
らない︒人間は他がなんといっても自分だけ安心してエ
25
とん しゆ
ライというところを把持してゆかなければ安心も宗教も
で
金
広島市猿楽町鈴木三重吉へ
お目出たい︒男爵の娘だなんてそんなものが山の中で役
め
昨夜君の手紙がつきました︒加計君が結婚をしたのは
木町五十七番地より
二月十一日 ︵日︶午前十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
真 綱 様
二月三日
哲学も文学もあったものではない︒頓首
26
に立つでしょうか︒しかしそれはよけいなことだ︒とに
な 雑 誌 屋 やな に
かくお目出たい︒君小説をかいたら送りたまえ︒はやく
く
拝見つかまつりたい︒近ごろはいろ
か来ていやになってしまう︒文章も作るひまがない︒芝
居はこれからやるのですね︒東京でも坪内さんの門下生
おし いれ
がやりますよ︒押入のなかで三味線をひくのは近世奇人
伝にでもありそうだ︒そんなことができれば病気はまず
ねこ ち ゆ う
な 人 が あ る も のだ ︒ 大 町 とい う 男が 猫 を よ
大丈夫ですね︒猫の原書をかいにくるのは猫 中 の材料
く
だ︒いろ
んで作者は気の小さい陰気な少し洒落気のある男だと二
27
度 も 三度 も 繰 り 返 し て い る ︒ 人 民 新 聞 と い う の に は 僕 が
正誤しないと心持ち
僕の悪口を
いうものが出て来ます︒しまいには漱石は昨日死んだそ
れから文章でもかいてながくいるとます
く
がわるかった︒今ではかえって面白い心持ちがする︒こ
こんなことが気にかゝっていち
く
僕もこれくらい有名になれば申分はないと思う︒昔は
て迷惑しているそうだとある男に話したそうだ︒
け る ︒ 内 田 魯 庵 と い う 男 は 夏 目 君 は 金 田 夫 人に 談 判 され
す る と 高 等 学 校 で そ の き り 抜 き を 大 事 に 校 長 に お 目に か
猫を作って以来細君と仲が悪るくなったとあるそうだ︒
28
ふう てん いん
うだ︒いや瘋癲院へはいった︒華族のお嬢さんから惚れ
られたなんて妙なのが出て来るでしょう︒
今日は紀元節でいゝ天気です︒一昨日は雪でね︒たい
へん積った︒今日も道がわるい︒昨夜は中川やなにか四
人ばかり来 て夕飯をくって快談をして暮らしました︒
広島という所はどんな所か行ってみたい︒広島のもの
には僕の朋友が少々ある︒昔はだいぶつき合ったものだ︒
猫のうちにある甘木先生も広島の人だ︒毎日役々として
くらすのが人間の目的だとあきらめてしまったが︑本も
よめず︑楽に坐ってることもできないとなるとちょっと
29
弱りますね︒
もっとなにかかこうと思うがいやになったからやめ︒
金
加計によろしくいってくれたまえ︒妻君は美人ですか︒
二月十一日紀元節朝
三重吉様
五十七番地より
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方森田
二月十三日 ︵火︶午前八時︱九時 本郷区駒込千駄木町
以上
30
米松へ
尊書拝見
君の心の状態がはたして君のいうところのごとくなれ
ば君は少々病気に相違ない︒病気がわるいともいわぬ︒
よいとも申さぬがつまり自分が苦しむだけ不幸といわね
ばなるまい︒前の手紙にもいうたごとく君はあまり感じ
ふけ
が強すぎるので︑その鋭敏な感じに耽りすぎた結果今日
に至ったのであろう︒そんな時には人が意見をしたって
なお
慰めたって容易に癒るものではない︒自然に任せておい
て同時に気を晴らすよりほかに方法はない︒そんな時に
31
神 経 質な 文 学 書 な ど を 読 む とな お い け な い ︒ な る べ く 方
はげしくなる︒さればといって冷淡な返事を
ことをいったらなんの効能もないこととなる︒これには
すればやはりわるくなる︒あるいは月並な説教がましい
はます
く
言を並べると君は多少頼りになるかもしれないが︑病気
ごと
こしたのかもしれないが︑さて僕が君に同情を表して泣
なき
洩らすがいゝと思う︒君は最後の手段に訴えて手紙をよ
て放蕩をしてみたり︑あるいは人に手紙を出して鬱気を
うつ き
んだり︑もしくは人と喧嘩をしたり︑あるいは借金をし
面の違った人間と話したりまるで趣味の違った書物を読
32
僕も少々弱るな︒
僕も昔は非常に馬鹿で薄志で剛慢でしかも世人がたい
へん恐ろしかったが︑今はだいぶ変化してしまった︒性
格はこの三四年以来いらじるしく変化した︒たゞ気分だ
けはやはり若くて学生なんか友達のような気がする︒
く
それで近来は僕が文章をかくものだから人がいろ
なことをいう︒大町なんかは僕の悪口を二度も繰り返し
ている︒人民新聞 では僕が猫をかいて細君と仲がわるく
な っ た と か い た そ う だ ︒ あ る 人 は 僕 が 金 田夫 人 に 強 迫 さ
れて迷惑していると話したそうだ︒これが十余年前なら
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真面目に弁解するところだが︑今日ではそんな気は少し
いか︒
で通してゆけばそれで一人前なのだからかまわんではな
いと崇拝する人間は一人もない︒だから君も君で一人前
格 は な い ︒ し か し 世 の 中 に こ んな え ら い 人 に な っ て み た
相違ない︒人間として僕は決して君の師表たるような資
しかし昔より太平である︒人間は太平のほうが難有いに
ありがた
になったか分らない︒またこれがいゝとも断言しない︒
てなにをかこうとかまわないときめている︒なぜこんな
もない︒桂月なんて馬鹿だと頭から思ってる︒新聞なん
34
うん ぬん
人が笑うから云々というのはもっともだが今の文壇で
人の笑うに価せざるものばかりを作る人はほとんどな
い︒ちょうど朋友その他の知人中において馬鹿の分子を
含んでおらんものは一人もないと同じことであろう︒
まず最前の大町桂月のようなのは馬鹿の第一位に位す
ちく ふう
るものだ︒竹風先生だってあんなものだ︒樗牛なんて崇
拝 者 は た く さ ん あ る が あ んな キ ザ な 文 士 は な い ︒ し か し
おし
みんな押を強くして平気でいる︒なにも君一人が閉口す
る必要はない︒つまらないと感じて文壇を退くなら分っ
てるが︑なにもそんなに自分だけを妙に考える必要はあ
35
るまい︒僕なんかは蔭ではやはり僕が桂月その他を目す
いなりに死ぬまでやるのである︒やりたくなくったって
君弱いことをいってはいけない︒僕も弱い男だが︑弱
っこう差支はあるまいと思う︒
の理由がない人には僕はこの心で対している︒それでい
また決して己以下にはるかに劣ったものではない︒特別
他人は決して 己 以上はるかに卓絶したものではない︒
おのれ
やになるまでかいて死ぬつもりである︒
ん︒蔭でいうことなんかはどうでもよろしい︒文章もい
るごとく批評されてるのである︒しかしちっともかまわ
36
やらなければならん︒君もそのとおりである︒死ぬのも
よい︒しかし死ぬより美しい女の同情でも得て死ぬ気が
なくなるほうがよかろう︒
先だって憂鬱病だといった男にこう答えてやった︒﹁借
金を百円ばかりして放蕩をやれば憂鬱はなおる︒もし放
蕩を永くつゞけると放蕩のほうで憂鬱病が出る︒そうし
たらまた放蕩をやめて勉強をする︒これが普通の人問の
とるもっとも自然の方法である︒これは姑息手段である
が誰にでもできる︒しかしそんな面倒なことをやったり
やめ たりせんで一度に天下太平になるのは︑死ぬだけの
37
覚悟でもって大いに考え込んで近ごろはやる自覚でもし
森 田 様
十三日
金 之 助
れは拝見のうえにてまたなんとか申し上げよう︒以上
僕の文章の評をしてくれたそうでまことに難有い︒そ
⁝⁝﹂
自 覚 に な る と 僕 は 知 ら な い こ と だ か ら 一 言 も い えな い
な く て はな る ま い ︒
38
げい えん
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方森田
二月十三日 ︵火︶午後五時︱六時 本郷区駒込千駄木町
五十七番地より
米松へ
きよう
今日帰宅のうえ芸苑を拝見した︒僕の文の批評は結構
め
であります︒あれはすこぶる比例という点からいっては
まる だ
丸駄目の作である︒趣味の遺伝という趣味は男女相愛す
るという趣味の意味です︒猫は世の中があきたなどとい
うことはない︒二三の気短かな連中がそんなことをいい
たがるのだ︒猫の読者はそんなに急にあきやしない︒僕
のつむじは真直なものさ︒猫をかくのは立派な考だと思
39
すか︒頓首
二月十四日
森 田 君
く
湧いて出ては来ない︒ただむや
金
のがよいか︒森田君︑君この問題を考えたことがありま
ず︒しかも己れほど頼みにならぬものはない︒どうする
天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあら
おの
みにかいてるとあんなものができるのです︒
ってる︒決してブク
40
二月十五日 ︵木︶本郷区駒込千駄木町五十七番地より
今日は学校で立談の際お互の意志の通ぜぬとこ
小石川区指ケ谷町七十八番地姉崎正治へ
拝啓
ろもあるから改めて手紙で愚存を申し上げる︒実は○○
けい し
さんが逢いたいとかまたは折り返して罫紙入りの半官文
的のものをよこすとまた面倒だから君まで申しておく︒
英語学試験嘱托辞任のことはあれで済んだことと思っ
あいすま
ていたところ︑はからずも君等に御心配をかけて相済ん︒
これは大いに僕の謝するところである︒謝するところで
あるから︑腹蔵のないところを話して判断をしてもらお
41
う︒
辞任の理由は多忙ということに帰着する︒僕は一週間
とり あ つ か
のほうではそうは思わんかもしれんが︑ 僕のほうではそ
教授以上叮 重 に取 扱 われてもよいと考えている︒大学
てい ち よ う
、客
、分
、と認定する︒大学から普通の
らないが︑僕はまあお
次に僕は講師である︒講師というのはどんなものか知
のは 佯 りのないところでもっともな理由である︒
いつわ
事がある︒読書もしなければならぬ︒だから多忙という
れば米塩の資に窮するのである︒そしてそれ以外にも用
に 三 十 時 間 近く の 課 業 を も っ てい る ︒ こ れ だ け 持 たな け
42
う解釈している︒したがって担任させた仕事以外にはな
るべく面倒をかけぬのが礼である︒
その代り講師には教授などのような権力がない︒自分
の教えること以外のことに口は出せない︒それ等は皆教
授会でかってにきめている︒語学試験の規則だっても講
師たる僕はいっこうあずかり知らん︒いつのまにかあん
あが
なものができ上っているのである︒
だからあんなものから生ずる面倒はこれをきめた先生
がたと当局の講師が処理してゆくのが至当である︒自分
たちが面倒なことをかってに製造しておいて︑その労力
43
だけは関係のないお客分の講師にやれという理屈はな
の際だから御免 蒙 るのはあたり前である︒
こうむ
進 り候ふなりというような命令なら僕だってこの多忙
たてま つ
れがなくて単に⁝⁝嘱托に相成り 候 ふあひだ右申し
さふら
か︑敬礼か︑依頼か︑なんらかの報酬が必要である︒そ
僕のようなものに手数︵担任以外の︶をかけるには金銭
うだ︒その解釈は至当である︒僕自身もそう考えている︒
もって報酬がないからやらんのだと教授会で報告したそ
もっとも相談ずくならそれでもよい︒○○○○は僕を
い︒
44
もし僕の辞任に対して学長はじめその他の教授が不穏
当 と 認め る な ら ば そ れ 等 の 人 々 は 講 師 とい う も の の解 釈
かんが え
に お い て 全 然僕 と 考 を異にしているのだ︒僕の考では
講師を使うには教授を使うよりも遠慮しなくてはなら
ん︒見たまえ︒講師は教授会のことについてなんらの権
利ももっておらんではないか︒俸給の点からいっても無
給のさえあるではないか︒講師は教授に比すればかくの
ごとく特権が与えられておらんのであるからして︑講師
のほうでは担任以外のことを命令的に押しつけられてヘ
イヘイいうだけの義理がないじゃないか︒
45
僕は僕の担任する六時間の講義さえしておれば講師と
心配してくれるし︑井上さんもそ
でとにかく今回は御免蒙るよ︒
うだというから一応僕の考を述べて英断を仰ぐわけだ︒
君は親切にいろ
く
ことしか言いえないのである︒
い の で あ る ︒ 文 科 大 学 御 中 と し て は あ れ だ け の表 面 上 の
たのだから個人に対するような愛嬌のある文句はかけな
わるいというならこれにも理由がある︒文科大学から来
だからして文科大学あてで断り状を出した︒もし文句が
しての義務はそれ以外にはないものと信じている︒それ
46
つかえ
この手紙は○○さんに見せても井上さんに見せても︑
さ
ないしは教授会で朗読してくれても差し 支 ない︒君も
金 之 助
迷惑だろうが︑妙に引きかゝったもんだからよろしく取
五十七番地より
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方森田
二月十五日 ︵木︶午後二時︱三時 本郷区駒込千駄木町
姉 崎 兄
二月十五日
計ってください︒以上
47
米松へ
また手紙をあげます︒
自分の作物に対して後悔するのは芸術的良心の鋭敏な
りよう けん
のは必ず一足飛びに大作はできるとはかぎっておらん︒
物かが分らなかったのである︒小説とかなんとかいうも
派な作を出した例はたくさんある︒それまでは自分の何
らちっとも文芸に志さなかったものが急に筆を執って立
自分で自分の価値は容易に分るものではない︒古来か
文 学者 に な る 資 格 はな い と 思 う ︒
のでこれほど結構なことはない︒この 量 見がなければ
48
突然うまいものをかくのは天分の十分に発揮されべき機
が熟した時にかぎるので他の人は書きつつも熟しつゝも
進 んでゆく の である︒
僕のようなものがとうてい文学者の例にはならない
が ︑ 僕 は 君 く ら い の 年輩 の と き に は 今 君 が か く 三分 一 の
ものもかけなかった︒その思想はすこぶる浅薄なもので
きよう あい きわ
かつ 狭 隘極まるものであった︒僕が二十三四にかきか
けた小説が十五六枚残っていた︒よんでみると馬鹿気て
ご
まずいものだ︒あまり恥かしいから先だって妻に命じて
ほ
反古にしてしまった︒
49
もちろん今でも御覧のとおりのものしかできぬが︑し
思想も浮 んでくる︒まず前回くら
君なども死ぬまで進歩するつもりでやればいゝではな
のである︒
のなかにはどれくらいのものがあるか自分にも分らない
いなものはできる︒すべてやり遂げてみないと自分の頭
いざとなるとだん
く
と︶この次にはもうかくことがあるまいと思う︒しかし
それから今日のことを申すと︵たとえば猫を一節かく
から僕は死ぬまで進歩するつもりでぃる︒
かし当時からくらべるとよほど進歩したものだ︒それだ
50
いか︒作に対したら一生懸命に自分のあらんかぎりの力
をつくしてやればいゝではないか︒後悔は結構だが︑こ
れは自己の芸術的良心に対しての話で世間の批評家やな
にかに対して後悔する必要はあるまい︒
君は自我の縮小を嘆じていると同時に君の手紙中には
と嘆息するのは必
大いに自我を立てている︒君の手紙のごとく我が立って
く
いながらそれでもみずから小さい
こも
竟いくぶんかのウソが籠っている︒
コンフェッションの文学は結構である︒コンフェッシ
ョンの文学ほど人に教えるものはない︒それでたくさん
51
い
う
ある︒それだけでも君は一種の宝石
いいまわ
く
君の批評を見ると普通の雑誌記者などよりもはるかに
死にたいなどは振ったものだ︒
ふる
な言語もある︒ドブ鼠のように音もたてずに凍りついて
まくかきこなしたものだ︒君の手紙のうちには形容の妙
まいところがある︒仙 人が後悔せぬところを恨む辺はう
を有している︒君の手紙を見ると言回し方のなか
な警句がところ
ぐ
君の文章には君くらいの年輩の人にしてはと思うよう
い︒君はまだその方面において雄飛してみないのである︒
だから立派なものを書けばよい︒容れられないことはな
52
見識が見える︒よくよんでいる︒だから自分の作物上に
でもその見識は応用されうるに相違ない︒
僕は君において以上の長所を認めている︒なにゆえに
萎縮するのである︒今日大なる作物ができんのは生涯で
きんという意味にはならない︒たとい立派なものができ
たって世間が受けるか受けないかそんなことはだれだっ
て受け合われやしない︒たゞやるだけやる分のことであ
る︒
衣食はむろん窮することくらい覚悟しなければならな
ぜい たく
い︒そんなに贅沢をしてみたり名文をかいてみたりして
53
みよう り
なお
し
い︒ほんとに笑ってるのである︒
て 勉強 し た ま え ︒ 以上
二月十五日
金 之 助
この手紙に対してべつだん返事はいらない︒たゞ奮っ
ふる
のである︒猫は苦しいのをしいて笑ってるばかりじゃな
僕の旋毛は直きこと砥のごとし︒世の中が曲っている
つむじ
をさがして田舎へ行けばよい︒
む︒ 当 前である︒それがいやなら︑すぐに中学校の口
あ た り まえ
この夏は君は卒業する︒卒業すればパンのために苦し
は 冥 利がわるい︒
54
森 田 兄
小石川 区指ケ谷町七十八番地姉崎正治へ
二月十七日 ︵土︶午後四時︱五時 本郷区駒込千駄木町
五十七番地より
拝啓
ありがた
君の返事は拝見した︒個人としての御忠告は難有感謝
する︒決して悪意をもって見るようなことはしない︒た
さし ず
し か し 学長 か ら も う 一 返な ん と か い っ て き た 時 に な ん
いつぺん
とい指図であっても決して怒りはせん︒
55
と挨拶するかはあらかじめ君に受合うわけにゆかん︒の
こうでい
ぎよう き
だ︒二十世紀は澆季だからしようがないが俗吏社会︑無
それでは悪るいというのは形式に拘泥した澆季の風習
わ
淡泊なものだ︒世の中はそれでたくさんである︒
ゆえで毎々辞することがある︒それでそれぎりになる︒
よく僕の宅へ依頼にくることがある︒しかし僕は多忙の
高等学校の入学試験が毎年ある︒その折には学校長が
おり
する 考 からではないから誤解してくれては困る︒
かんが え
断わらんともかぎらない︒これは決して君の親切を無に
みならず僕自身にも分らない︒時と場合にょっては断然
56
学社会ならとにかく学者のおそろいの大学でそんなこと
を む ず か し く い う の は 大 学 が お 屋 敷風 お大 名 風 お 役 人 風
になってるからだよ︒
大学で語学試験を嘱托する︑僕が多忙だから断わる︒
その間になんらの文句は入らない︒もしそれが僕の一身
上の不利益になったり英文科の不利益になれば僕のわる
いのじゃない︒大学がわるいのだ︒
語学試験なんか多忙で困ってる僕なんか引きずり出さ
僕なんかは多忙のうちに少しでもひまがあれば書物を
な く っ た っ て 手 の あ い て い る教授 で 十 分 間 に 合う のだ ︒
57
一頁でも読むほうが自分のためにも英文学科の将来のた
だよ︒頓首
二月十七日
金 之 助
のごとくにはならないということを承知させるがいゝの
の 中 の 人間 は こ ん な 妙 な 奴 が お っ て 講 師 で も そ んな に 意
ものはたゞ歴史の大家になったって駄目だよ︒少しは世
ほうが人間というものが理解されていゝのだ︒学長たる
なんと思ったって困りゃしない︒少々こんな謝絶に逢う
しからんと思うなら随意に思うがよい︒○○さんなんか
めにもなると思っている︒語学試験を引き受けないでけ
58
姉 崎 兄
東京帝国大学坪井九馬三へ︹封筒表の
二月二十三日 ︵金︶午後四時︱五時 本郷区駒込千駄木
町五十七番地より
宛 名 に ﹁ 文科 大 学長 坪 井 九 馬 三 殿﹂ と あ り ︺
拝啓
昨 日 は 小 生 英 語 学 試 験 委 員 辞 退 の 件に つ き ︑ 再 応 教 授
すゝ
会 の 御 意 見 を 御 代表 に て お 勧 め に 相成 ま し て ︑ ま ず 一 通
り貴意のあるところは分りました︒
59
何度も御心配をかけて御迷惑のことと存じます︒その
もう しの
わらず︑しいて小生に委員たれと御依頼になるのは小生
に対して謝するところであります︒しかしそれにもかゝ
認められたそうでありますが︑これは小生の深く教授会
昨日のお話では教授会では小生の辞退の理由を至当と
上ます︒
多忙中かえって御迷惑と思いますから書面にて今一応申
会のうえ思うとおりを陳述いたしたいと存じますが︑御
引 き 取 り は な は だ 不 本 意 に 存 じ ま す ︒ 右に つ き 再 び 御 面
節 は 卑 見 を 十 分 申 述 べ る 暇 もな く 御授 業 時 間 切 迫 の た め
60
にとって非常の光栄とは思いますが︑この光栄たる少々
みずから双肩に担うを恐れたく思うのであります︒お話
の模様では教授中には適当の人物なきゆえ英語に関係深
き小生を推すやに理解いたしましたが︑これは小生にと
し
ってはいたみ入る御謙遜のお言葉と存じます︒教授のう
ひい
ちには多年欧米に留学せられて︑普通の語学者よりも斯
どう
道にかけて秀でたる人々多しとは︑単に小生の思うのみ
ならず一般の公論であります︒さればこそ今回の試験委
員中にも一名の教授がお加わりに相成って試験を御監督
に 相 成 る こ と と 存 じ ま す ︒ た ゞ 御監 督に 相成 る と こ ろ を
61
一 歩 御 奮 発 下 さ っ て 答 案 を 御覧 下 さ る れ ば ︑ こ の 問 題 は
く
がめ い
うに存ぜられます︒教授会では教授中に適当な人がない
御試験になるほうがもっとも学生の実力が分りやすいよ
が進 んで委員とな るよりも︑教授のかた
ぐ
私よりうまく読めましょう︒かくのごとく小生ごとき者
りも明かに分ります︒ギボンも歴史家によませるほうが
に思います︒ミルなどは哲学者がよむほうが小生などよ
ろ︑ミルの論文やギボンの歴史などがあげてあったよう
で試験の程度を示した書名一二を拝見いたしましたとこ
一も二もなく解決のできることと存じます︒昨日事務室
62
との仰せでむりにも小生をとの御命令ではありましょう
が︑小生の見るところではまったく反対で︑かえってそ
の専門の教授がたが担任せらるるほうが好成績が出るに
相違ないと思います︒のみならずすでに一名の西洋人が
委 員 と な っ て 実 用 的 英 語 の ほ う は そ ち ら で 間 に 合い ま す
から︑どっちからいうても小生の必要は認められません︒
こう申すとなにかむやみに頑固を主張するようではなは
だ済みませんが︑私のほうから教授会の御意見を伺うと︑
教授会のほうが無理を言っていらっしゃるように聞えま
す︒実際出ないでも済むものをむりに出して二百人の答
63
案をしらべさせるなどは人が悪いじゃありませんか︒ど
夏目金之助
村伝四へ﹇はがき
町五十七番地より
署名に﹁なつめの金公﹂とあり︺
本 郷 区 本 郷 六 丁 目 二 十 五 番 地 藪 中 方野
三月三日 ︵土︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千駄木
虎皮下
坪井先生
二月二十三日
うかお助けください︒以上
64
し
未明君独り感慨を催している︒読者は
ひと
早稲田文学の三号の小説評︵先刻は失礼︒アレカラス
お
ない︒
な
こ
大塚楠緒子作
お ぐり ふう よう
小栗風葉作
なにをかいたものやら︒あれよりホトト
小説のうちの傑作である︒
ません︒あの人の作としては 上 乗 であります︒三
じようじよう
学を考えたものであります︒思いつきもわるくあり
筆 が 器 用 に で き て い る ︒ す こ ぶ る文 章
なんともない︒あんなに感じを人に強いるものじゃ
小川未明氏作
グ読ンダ︶
65
だ
そろ
ギスの投書の写生文をよむほうよろしくと存じ候︒
だ さく
駄作の駄の字であります︒
︹左上の隅に細字にて︺
かい ろ こう
僕の薤露行を十二ヘン読んだ人がある︒僕は感謝の手
御手紙拝見︒中央公論にはなるべくかこうと思うがな
本郷区駒込西片町十番地反省社内滝田哲太郎へ
三月十七日 ︵土︶本郷区駒込千駄木町五十七番地より
紙ヲ出シタヨ︒
66
そろ
んとも受け合われない︒たゞいまホトトギスの分を三十
した ゝ
とゝの
枚余 認 めたところ︒なんだか長くなりそうで弱わり候︒
きよう
白帆の見える川べりでもあるき
それに腹案も思うように 調 わず閉口の体に候︒実を申
く
すと今日などはぶら
ありがた
たいところに候︒文章も職業になるとあまり難有からず︒
また職業になるくらいでないと張合がなし︒厄介なもの
よう きよ しゆう
夏目金之助
に候︒漾虚 集 はまだ校正が回ってこず︒拝借の天外先
三月十七日
まずは右御返事まで︒草々
生の文章も拝見のひまなく候︒
67
滝田哲太郎様
三月二十三日 ︵金︶午後四時︱五時 本郷区駒込千駄木
麹町 区富士見町四丁目八番地高浜清へ
︶存外長いものになり︑事件
注﹁ 坊っ
ちゃん﹂
発展たゞいま百〇九枚のところです︒もう山
新作小説︵
町五十七番地より
拝啓
く
やるつもりで
す︒もしうまくしぜんに大尾に至れば名作︑しからずん
がなくて急ぎすぎたから今度はゆる
く
を二つ三つかけば千秋楽になります︒趣味の遺伝で時間
がだん
68
き
ば失敗︑こ ゝが肝心の急 所ですからしば らく待ってちょ
で
うだい︒出来次第電話をかけます︒松山だかなんだか分
らない言葉が多いので閉口︑どうぞ一読のうえ御修正を
十七番地より
金
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
四月一日︵日︶ 午後五時︱六時 本郷区駒込千駄木町五
虚子先生
願いたいものですが︑おひまはないでしょうか︒艸々
69
松へ
げい えん
そろ
芸苑毎度御贈にあずかり謝し奉り候︒小生は君の作が
ら半分ほどよみました︒第一気に入ったのは文章であり
つまらなくてもかまわない︒買って来たのです︒それか
て来 ました︒これはたゞ買 って来たのです︒面白く ても
に対してもぜひ一部買わねばならぬ気になり︑すぐ買っ
って二年とか三年とか苦心したと聞いて︑急に島崎先生
が来て︑破戒の著者はこの著述をやるために裏店へはい
う ら だな
な か っ た で す か ︒ 破 戒 は 二 三 日 前買 い ま し た ︒ 先 日 紅 緑
こうろく
出るか出るかと思うて待っているが出ない︒今度もかか
70
︑すた
く
書いてあるとこ
ます︒普通の小説家のように人工的なよけいな細工がな
く
い︒そして真面目にすら
ろがすこぶるよろしい︒いわゆる大家の文辞のように装
飾だくさんでないから愉快だ︒それから気に入ったのは
け
ゆう とう じ
事柄が真面目で︑人生というものに触れていて︑いたず
し ふん
らな脂粉の気がない︒単に通人や遊蕩児や︑いわゆる文
おろ
士がかき下すものと大いに趣を異にしているからです︒
まだ後半はよまないから批評はできないが︑おそらく傑
作 で し ょ う ︒ 今 ま で の 日 本 の 小 説 界に こ んな 種 類 の も の
はなかろうと思うのです︒たゞ一編のモチーブが少々弱
71
いかと思う︒
軽薄なものばかり読んで小説だと思っている社会にこ
思う︒
まえ︒以上
四月一日
森 田 兄
なものに窮
僕ホトトギスに坊っちゃんなるものをかく︒どうかお
金
す︒君は金に窮するよし︒もし必要なら少々取りに来た
僕多忙︑採点に窮し来客に窮し︑いろ
く
んな真面目なのが出現するのははなはだうれしいことと
72
ついで
序 の節よんでください︒しかしとうてい君がほめてく
れそうなものでないから困る︒実は藤村先生とは正反対
のものです︒
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
四月三日 ︵火︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町五
十七番地より
松へ︹はがき︺
破戒読了︒明治の小説として後世に伝うべき名編なり︒
金色夜叉のごときは二三十年の後は忘れられてしかるべ
73
きものなり︒破戒はしからず︒僕多く小説を読まず︒し
な雑用にて御無沙
御清適賀し奉り候︒小生もちょっ
本郷 区駒込曙町十一番地大谷正信へ
く
く
と伺ひたしと存じながらついいろ
春暖の候︑いよ
十七番地より
四月四日 ︵水︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町五
すべし︒
んと思う︒君四月の芸苑において大いに藤村先生を紹介
か し 明 治 の 代 に 小 説 ら し き 小 説 が 出 た と す れ ば 破 戒な ら
74
いたり
︶御推賞にあづかり感謝の 至 に堪へず侯︒
注﹁ 坊っ
ちゃん﹂
汰い たしをり候 ︒
せつ ぶん
拙文︵
山嵐のごときは中学のみならず高等学校にも大学にもを
らぬことと存じ候︒しかしノダのごときは累々然として
コロがりをり候︒小生も中学にてこの類型を二三目撃い
はげ
た し 候 ︒ サ ス ガ 高 等 学 校 に は こ れ ほど 劇 し き 奴 は こ れ な
く︵もっとも同類はたくさんこれあり︶候︒要するに高
等学校は校長などにむやみにとり入る必要なきゆゑと存
じ候︒山嵐や坊っちゃんのごときものがをらぬのは︑人
間として存在せざるにあらず︑をれば免職になるからを
75
らぬわけに候︒貴意いかゞ︒
み
な
卑見まで︒か
僕は教育者として適任と見倣さるる狸や赤シャツより
たいけい
ぐ
大兄も御同感と存じ候︒右お礼かた
くのごとくに侯︒以上
四月四日
繞 石 兄
金
も 不適 任 な る山 嵐 や坊 っ ち ゃ ん を 愛 し候 ︒
76
広島市江波村築島内鈴木三重吉へ
四月十一日 ︵火︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
木町五十七番地より
お 手 紙 も 小 説 も 届 い て た ゞ い ま 両 方 と も 拝 見︑ 千 鳥 は
傑作である︒こういうふうにかいたものは普通の小説家
に と う て い 望 め な い ︒ は な は だ 面 白 い ︒ し い て 難を い え
ば段落と順 序が整然としておらん︒第一回の藤さんと瀬
ふる
川さんの会話が少々振わない︵その代りあとの会話はこ
と ご と く 活 動 し て い る ︶︒ 最 後 に 舟 を 望 ん で 藤 さ ん を 想
たもと
像するところは少しくどすぎる︵その代り 袂 の貝をな
げ る と こ ろ な ぞ は う ま い も の だ ︶︒ そ れ か ら 法 学 士 と の
77
問 答 もな い ほ う が い ゝ ︒ 絵 本 の お姫 さ ま は 前 後 と も な い
く結構であ
くうまい︒会話
ぐ
へ 出 そ う と 思 う が た ぶ ん 御異 存 はな い だ ろ う ︒ 構 い ま す
い︒三重吉君万歳だ︒そこで千鳥をこの次のホトトギス
ってなにかかこうとしてもとうていこんなには書けま
からいわない︒総体が活動している︒僕が島へ遊びに行
る︒一つ二つ取り出していうとほかがまずいようになる
といい︑所作といい︑仕草といい︑こと
るいほうだが︑それを除いてはこと
ぐ
壁の画がぬけ出すのも考えものだ︒以上は僕の感じたわ
え
ほうが明瞭である︒もっともあれば妙な趣味は生ずる︒
78
まいな︒もっとも緒言はぬくつもりだ︒
へつぽこぶん し
どうか面白いものをもっとたくさんかいて屁鉾文士を
きのう
驚ろかしてくれたまえ︒僕多忙でこまる︒昨日から講義
をかきかけたら半ページできた︒講義を書くより千鳥を
よ む ほ う が 面 白 い ︒ 加計 の 緑 談 は 破 談 と や ら ︑ 気 の 毒 な
じようず
こ と だ ︒ 藤 さ ん で も 貰 っ て や り た ま え ︒ 血統 な ん て 構 や
べつ ぴん
しないよ︒別嬪でバイオリンが上手ならわるい病気なん
か出やしない︒大丈夫なものさ︒先祖代々の血統を吟味
したら日本中に確たる家柄は一軒もなくなるわけだ︒つ
いでによろしく︒以上
79
四月十一日夜
三重吉様
金
四月十一日 ︵水︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
麹町 区富士見町四丁目八番地高浜清
僕名作を得たり︒これをホトトギスへ献上せん
木町五十七番地より
へ
拝啓
三重吉君︒たゞいま休学郷里広島にあり︒僕に見せるた
とす︒ずゐぶんながいものなり︒作者は文科大学生鈴木
80
く
めにわざ
かいたものなり︒僕の門下生からこんな面
金
白いものをかく人が出るかと思ふと先生は顔色なし︒ま
づ は 御報 知 ま で ︒ 艸 々
四月十一日
虚子先生
座下
木町五十七番地より
広島市江波村築島内鈴木三重吉へ
○四月十五日 ︵日︶午前十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
81
拝啓
二三日前君に手紙を出すと同時に虚子に手紙を
だし全編を通じて若い男女の会話はあまり上出来にあら
っ つ け た ら 下 女 やな に か の 田 舎 言 葉 が 引 き 立 つ ま い ︒ た
子のいうところ一理あり︒しかし主人公が田舎言葉でや
掛 合 を し た ら も っ と 活 動 す る か も し れ ん ︒︵ 漱 石 曰 く 虚
いわ
が多すぎる︒藤さんが田舎言葉で瀬川さんが田舎言葉で
○全編を通じて会話が振っておらん︒藤さんのホヽヽゝ
ふる
考のためにちょっと申し上げる︒
千鳥を朗読した︒そこで虚子大人の意 見なるものを御参
たいじん
出して名作ができたと知らせてやったら︑大将今日来て
82
ずと思う︶
ざん しん
○虚子曰く︑章坊の写真や電話は嶄新ならず︒もっと活
動 が 欲 し い ︒︵ 漱 石 曰 く ︑ 章 坊 の 写 真 も 電 話 も 写 生 的 に
面白くできている︶
ところ
○女と男が池の 処 へしゃがんで対話するところ未だ室
に 入 ら ず ︒ か つ そ の 景 色 が 陳 腐 な り ︒︵ 漱 石 曰 く 会 話 は
ふな
あのくらいで上の部なるべし︒池の景色鮒の動静ことご
とく写生なり︒陳腐な らず ︶
○虚子曰く︑若い男女が相会して互に思うはありふれた
趣向なり︒たゞし二日間の出来事というに重きを置いて︑
83
それを読者にわからせるようにつとめたところがよし︒
うたがい
に 写 生 的 の 分 子 多 き た め に 不自 然
て ぎわ
ては結構足らずと主張す︒漱石は普通の小説家にこれほ
要するに虚子は写生文としては写生足らず︑小説とし
も の な り ︒︵ 漱 石 曰 く ︑ 全 編 お お む ね は あ の 調 子 な り ︶
虚子曰く︑狐の話面白し全編あの調子でゆけばえらい
をちょっと忘れさせるが手際なり︶
り︒しかしところ
点はどうしても作り物であるといふ 疑 を起す点にあ
ぐ
ともなし︒要するに技倆いかんにて極る︒この編の大欠
きま
︵漱石曰く︑趣向は陳腐にもあらず︑また陳腐でなきこ
84
ど写生趣味を解したるものなしと主張す︒
以上は虚子の評なり︒君はもとより僕に示すだけのつ
もりだろうが僕以外の人の説も参考に聞くほうが将来の
作のうえに利益があると思うからちょっと報知する︒虚
子という男は文章に熱心だからこんなことをいうので︑
ぜん ふれ
僕が名作を得たと前触が大きすぎたためかえって欠点を
挙げるようになったので︑いゝ点は認めているのである︒
それで原稿は一度君の許諾を得たうえでと思ったが︑
虚子が持って帰るといったからやりましたよ︒もっとも
長いから少々削るかもしれない︒これも不平をいわずに
85
我慢してくれたまえ︒以上
四月十四日夜
三重吉様
金
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
五月五日 ︵土︶午後四時︱五時 本郷区駒込千駄木町五
十七番地より
松へ
君の手紙は昨日拝見つかまつった︒実はこのまえ二度
手紙を出しても返事がないから︑君は当分手紙をかかな
86
いのかと思っていたら︑また突然長い奴が来て少々驚ろ
い た ︒ 翻 訳 の こ と は 実 は 僕 に 訳 せ とい う か ら︑ 末 松 著 で
下傾きをするなら食うものに困った時でなくてはいや
君と栗原
だ︒しかし末松さんより上手な文章家を周旋してくれと
く
いうなら教えてやると威張った結果︑とう
君の所へ持ってゆくことになった︒原稿料が高いって本
屋などに嬉しい顔を見せてはいけない︒壱円五拾銭では
い や だ が ︑ 夏 目 か ら た の ま れ て 仕方 がな い か ら や っ て や
る と い う よ う な 顔 付 を し て 少 々本 屋 を 恐 れ 入 ら せ て や る
がいゝと思う︒
87
ありがた
猫 の 御批 評 難 有 く 頂 戴 ︒ も う 一 回 で や め る つ も り で い
れは僕のかくのでないから︑時々は僕も悪口したくなる︒
ホトトギスの挿絵の攻撃は降参をしてもよろしい︒あ
す︒大いに嬉しいのです︒
には降参をしない︒ほめてくれたところは賛成でありま
坊っちゃんも読んでくだされたよし難有う︒君の抗議
すのはいつのことか分らない︒
わか
せるつもりだけは成算ができている︒しかし実際驚ろか
、実
、
ますが︑忙がしくて書けないから閉口だ︒いわゆる写
、極
、致
、というやつをのべつに御覧に入れてアッと驚ろか
の
88
しかし君小杉先生の雲は特別ですよ︒あれはたまらない
ものだ︒
左千夫が晶子を評したのを明星で﹁これほど本人の魯
鈍を発表せるものなし﹂とかいうている︒左千夫が見た
ら怒るよ︒元来左千夫なんて歌論などできる男ではない︒
たゞ子規ばかり難有がってみずから愚なうたを大事そう
に作っている︒
破戒の批評も拝見した︒あのくらい思い切ってほめて
やれば藤村先生も感謝していゝと思う︒それでも過ぎた
るはなんとかいうなら話せない男だ︒詩人じゃない偽人
89
だ︒実は破戒が出ても精細な評が出ないから気の毒に思
出している︒
多忙﹁坊っちゃん﹂をかく
かた づ
べて十有九人︒伝四のごときは御丁寧に二冊つゞきを呈
どころにあらず︒今日ようやく古城先生を片付けた︒す
僕論文を見るのでなか
く
る︒これはいつもよりも遠慮がないからだろう︒
君のこんどの手紙はいっものよりも親しい感じがあ
ばもうたくさんだと思う︒藤村先生瞑して可なり︒
めい
も読売には前後して三回も出たのを見た︒こう続々出れ
っていたが︑君のを見ると同時に太陽のも早稲田文学の
90
し かた
先だってから食後に腹が痛くって仕方がない︒学生が
おど か
それは胃ガンだと 嚇 したので驚ろいて服薬を始めた︒
こ れ は 慢 性 胃 カ タ ー ル だ そ う だ ︒ 腹 が 重くて ︑ 鈍 痛 で ︑
背や胸がひきつって苦しくて生きてるのが退儀千万にな
野 武 士
っ た ︒ 近 々 人間 を 辞 職 し て 冥 土 へ 転 居 し よ う と思 う ︒
五月五日
白楊先生
芸苑は君もくれるし︑社からもくれる︒相な るべくは
こと
君からだけ貰うことにして本社のほうは断わりたい︒
91
麹町 区富士見町四丁目八番地高浜清
五月十九日 ︵土︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
木町五十七番地より
へ
そろ
閲 読 はな は だ 多
虚子先生行春の感慨御同様惜しきものに候︒しかると
く
はつがつお
大いに気分壮快のほうに候︒いつか諸賢を会して惜春の
散 々 な 体 ︒ 服 薬 の お 蔭 に て 昨今は 腹 の 鈍 痛だ け は 直 り ︑
沢もできず閉居の体︒のみならず目がわるく胃がわるく︑
てい
忙︑したがって初 袷 の好 時節も若葉の初 鰹 のと申す贅
はつあわせ
こ ろ ︑ 小 生 卒 業論文 に て 毎 日 ギ ュ ー
92
あん ぎや
宴でも張らんかと存じ候えども当分駄目︒ちょっと伺い
きた
ますが︑碧梧桐君はもう東京へは来らんですぐ行脚にと
りかゝりますか︒
卒 業 論 文 を よ ん で ぃ る と頭 脳 が 論 文 的 に な っ て ︑ し ま
いには自分もなにか英語で論文でも書いてみたくなりま
す︒決して猫や狸のことは考えられません︒僕はなんで
金
も人の真似がしたくなる男と見える︒泥棒と三日いれば
虚子先生
五月十九目
必ず泥棒になります︒以上
93
五月二十六日 ︵土︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄木
広島市猿楽町鈴木三重吉へ
漾虚 集 ができました︒一部あげます︒諸々方
よう きよ し ゆ う
町五十七番地より
拝啓
しかし世の中には駄目なことが分り切っていても目が
分 ら な い ︒ 君 ど う ぞ 勉強 し て や っ て く れ た ま え ︒
人間の価値はなにかやってみないとどのくらいあるか
ちょうだい︒
方に誤字があり誤植があるようだから見当ったら教えて
94
く
見えないのでうん
やってる奴がある︒そんなものは
ねん ば
教えてやっても説諭してやっても分りっこない︒やはり
たお
自分が斃れるまでやって念晴らしができないと気が済ま
さと
んものである︒かつてに覚りがつくまでやらせるがいゝ
びんぜん
が︑はたから見ると憫然なものだ︒これはこのあいだじ
ゅうからたった一人で感じていることだが誰にもいわな
い︒しかし文芸上のことでもな んでもない︒
君にやりたまえというのは文学のことだ︒自分でなに
か作ってみないと︑どのくらい作れるものか自身にもわ
からない︒いくら作っても︑そのつぎの自分はどんなふ
95
うにあらわれるか決して分るものでないから︑君も千鳥
ま たな ん ぞ か く つ も り で い る ︒ 以 上
五月二十六日
鈴木三重吉君
て 僕 な ど よ り も は る か に 適 任 者 に な る ︒ し か も 生 意 気な
ちばんえらい︒あの人は勉強すると今に大学の教師とし
先日来卒業論文をようやく読みおわった︒中川のがい
夏 目 金之 助
僕も漾虚集だけでつきたわけでもないから︑これから
望する︒
のあとに万島でも億鳥でも大いにかきたまわんことを希
96
ところが毫もない︒まことにゆかしい人である︒たゞ気
が弱いのが弱点である︒
広島市猿楽町鈴木三重吉へ
さ
六月七日 ︵木︶︵時間不明︶本郷区駒込千駄木町五十七番
地より
け
昨夜君のところへ手紙をかいたところ︑今朝君のを受
うけとり
けとったから書き直す︒原稿料は遠慮なくお受取しかる
漾虚集の誤字誤植御親切に御教示を蒙り難有く候︒
べし︒小生などははじめからあてにして原稿をかきます︒
97
あやま り
と定めることに致そうと思っている︒
弱かときいてしかりと答えたら︑普通の徳義心ある人間
なることと存じ候︒これから人に逢うたびに君は神経衰
る世の中には正しき人でありさえすれば必ず神経衰弱に
る べ く ︑ 結 構 に 侯 ︒ し か し 現 下 の ご と き 愚な る 間 違 っ た
ま ちが
君 は 九 月 上 京 の こ と と思 う ︒ 神 経 衰 弱 は 全 快 の こ とな
構だ︒どうかついでにあとも教えてください︒
お蔭にて僕の見落したる分をだいぶ直すことができて結
いたくらい︑人が見たらさだめし見苦しきことなるべし︒
実は僕も訂正のつもりで一度よんで 誤 の多いので驚ろ
98
今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか︑
無教育の無良心の徒か︑さらずば︑二十世紀の軽薄に満
足するひょうろく玉に候︒
もし死ぬならば神経衰弱で死んだら名誉だろうと思
う︒時があったら神経衰弱諭を草して天下の犬どもに犬
であることを自覚させてやりたいと思う︒
せつ たく たゝみ がえ
だいぶあつくなった︒拙宅 畳 替なり︒書斎を加える
金
時は大騒ぎ ︒ 中川先生 とい ま一 人を手伝に たのみたいと
六月六日
思う︒艸々不一
99
三重吉様
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる
六月二十三日 ︵土︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千
駄木町五十七番地より
末松の訳完結のよし︑本屋よりもその旨申し来
方森田米松へ
拝啓
げ だい
座でやりそうじゃないか︒青 萍 先生も存外話せない男
せい ひ よ う
を改めて夏の夢日本の面影としたそうだ︒なんだか本郷
り候︒原稿料もお受取のよし承知いたし候︒末松先生外題
100
だ︒
論語をおよみのよし︑小生はまるで忘れたり︒ニーチ
ェと論語とを比較してみたまえ︒両人とも人間である︒
口述試験に惨憺たるものは君のみにあらず︒学問ので
きる中川と平然たる伝四とをほかにしては︑たいがいは
惨憺たるものである︒サンタンあに君のみならんや︒試
験官たる小生が受験者とならばやはりサンタンたるの
み︒僕はあの試験をして深く感じたことがある︒多数の
人は逆境に立てば皆サンタンたるものだ︒得意の境に立
てば愚うたらたる小生のごときものもまた普通の試験官
101
かぶ
たり︒人間を見るのは逆境においてするに限る︒得意に
やつ
学生を駆ってこゝに至らしめたるか︑または神経衰弱な
か
神経衰弱に罹っている︒これは二十世紀の潮流がしぜん
かゝ
いま一つ感じたことがある︒純文学の学生はたいてい
天下に求むべきものありとすれば禍のパーゲトリなり︒
を珠玉にせんがためなり︒禍はないかな︒禍はないかな︒
ていれば立派な人になれる︒天の 禍 を下す︑下せる人
わざわい
ら修業ができる︒サンタンたる諸先生も毎日試験を受け
いる︒気の毒なものである︒逆境を踏んだ人はおのずか
お る 奴 を 見 る と 大 い に 買 い 被 る ︒当 人 自 身 が買 い 被っ て
102
らざれば純文学が専門にできぬのか︑まだ研究せず︒諸
君すでに神経衰弱なれば試験官たる拙者のごときは大神
経衰弱者ならざるべからず︒しかも当人自身は現に神経
衰弱をもって自任しつゝあり︒神経衰弱なるかな︒神経
金
衰弱会を組織して大いに文運を鼓吹せんとす︒白楊先生
白楊先生
六月二十三日
もっていかんとなす︒頓首
103
七月三日 ︵火︶午後二時︱三時 本郷区駒込千駄木町五
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
いたし候︒昨日ホトトギスを拝見したるところ︑
きのう
その後御無沙汰︑小生ようやく点数しらべ結了︑
十七番地より
啓上
く
ぐらいずつなんだか漫然と感興が湧いて参り候︒たゞ漫
よみはじめました︒スルと奇体なものにて十分に三十秒
き たい
実は論文的のあたまを回復せんためこのごろは小説を
侯︒思わず微笑を催したる次第に侯︒
今度の号には猫のつゞきを依頼したくと存じ候とかあり
のう
104
然と湧くのだからどうせまとまらない︒しかし十分に三
引 き の ば し て長 い も の に 出来 か す 時 日 と 根
︵ママ ︶
十秒くらいだからたくさんなものに候︒この漫然たるも
く
のをいち
気があれば日本一の大文豪に候︒このうちにて物になる
のは百に一つくらいに侯︒草花の種でも千万粒のうち一
つくらいが生育するものに候︒しかしとにかく妙な気分
になり候︒小生はこれを称して人工的インスピレーショ
ぼ
た
あて
ンとなづけ候︒小生ごときものは天来のインスピレーシ
たな
ョンは棚のお牡丹と同じことで当にならないから人巧的
にインスピレーションを製造するのであります︒近ごろ
105
は器械で卵をかえすインキュベトーというものがありま
月に入ってからかきだすつもりです︒
び
す
るつもりだが︑講義という奴は一と苦労です︒これは八
ひ
来学年の講義を作らなければ大雄編をかくか大読書をや
その辺はまだ自分でも考えていないのであります︒実は
は一つもない︒どれを纏めようか︑またどう纏めようか
まと
れのようなものは雲のごとくあるがさてまとまったもの
編ばかりかくつもりです︒まえにいう漫然たる恵比寿ぎ
え
のももっともでしょう︒そこでこの七月にはなんでも四
す︒文明の今日だから人為的インスピレーションのある
106
伝四は文学士になり侯︒小生も文学士に侯︒してみる
と伝四と僕とは同輩に候︒同輩である以上はこれから御
わ りま え
馳走の節は万 事割前にいたそうかと存じ侯︒
小生は生涯に文章がいくつかけるかそれが楽しみに
たのしみ
侯︒また喧嘩がなん年できるかそれが 楽 に候︒人間は
自分の力も自分で試してみないうちは分らぬものに候︒
握力などは一分でためすことができ候えども︑自分の忍
耐力や文学上の力や強情の度合やなんかはやれるだけや
ってみないと自分で自分に見当のつかぬものに候︒古来
の 人 間 は た い が い 自 己 を 十分 に 発 揮 す る 機 会 がな く て 死
107
んだろうと思われ候︒惜しいことに候︒機会はなんでも
恐れ入りましたね︒まだだいぶ残っています
しかし人間と生れた以上は猫などを翻訳するよりも自分
で百ページばかりよこしました︒難有いことであります︒
猫を英訳したものがあります︒見てくれというて郵便
か︒
はいよ
く
ね︒しかも坊っちゃんが下落して四十銭になるに至って
坊っちゃんを毎号御広告に相成るのは恐れ入りました
ばんかと存じ候︒
避けないで︑そのまゝに自分の力量を試験するのがいち
108
のものを一頁でもかいたほうが人間と生れた価値がある
かと思います︒
小生はなにをしても自分は自分流にするのが自分に対
す る 義 務 で あ り ︑ か つ 天 と 親 とに 対 す る 義 務 だ と思 い ま
す︒天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間
で生きておれという意味よりほかに解釈しようがない︒
コンナ人間以上にも以下にもどうすることもできないの
をしいてどうかしようと思うのは︑当然天の責任を自分
が背負って苦労するようなものだと思います︒この論法
からいうと親と喧嘩をしても十分自己の義務を尽してい
109
そむ
っ て み たい ︒ 世 界 総 体 を 相 手 に し て ハ リ ツ ケ に で も な っ
今の 考 はまったく別であります︒どうかそんな人にな
かんが え
汚名をきて罪に処せられるほど悲惨な事はあるまいと︒
昔はコンナことを考えた時期があります︒正しい人が
ます︒
ぎ ま し た ね ︒ 少 々 ひ まに な っ た か ら よ け い な こ と を 書 き
に義理が立つわけであります︒これではちと気炎が高す
民 や な い し 世 界 全 体 の 人 の意 思 に 背 い て も 自 分 に は 立 派
のであります︒いわんや隣り近所や東京市民や︒日本人
るのであります︒天に背いても自分の義務を尽している
110
てハリツケの上から下を見てこの馬鹿野郎と心のうちで
軽蔑して死んでみたい︒もっとも僕は臆病だから︑ほん
とうのハリツケは少々恐れ入る︒絞罪ぐらいなところで
文 章 論 を か きだ し ま し たね ︒ あ れ
いゝなら進んで願いたい︒
し ほう だ
く
四方太先生いよ
を何号もつゞけたらよかろう︒もっとも文章論と申すほ
どな筋の通ったものではないまったく文話というくらい
かものですな︒鳴雪老人のは例によって読みません︒漾
虚集を御批評くださってありがたい︒ことに野菜づくし
の
はありがたい︒中央公論にね大魚に呑まれたる人という
111
ぎん げつ
新しい
かきましたね︒いくらでもかけばいくらでも
ませんか︒頓首
七月二日
虚子大人
夏
金 生
どうです︒一日どこかで清遊をつかまつろうじゃあり
書けるがまずよしましょう︒
いろ
く
でごらんな さい︒
形容の言葉があって刺激の強い文章です︒ついでに読ん
ずいぶん妙なことをかきますね︒しかしなか
く
小説がありますよ︒伊藤銀月という人のかいたものです︒
112
福岡県京都郡犀川村小宮豊隆へ
七月十八日 ︵水︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
五十七番地より
あゆ
お手紙拝見︒川へ行って鮎をとるのは面白いだろう︒
たい び
僕も随行の栄を得たい︒猫の大尾をかいた︒八月のホト
トギスには出るだろうと思うから読んでくれたまえ︒夏
は閑 静 で奇麗な 田舎へ行っ て御馳走をたべ て自雲を見て
本をよんでいたい︒大磯や箱根は大きらい︒あつくなる
とぼんやりして気が遠くなる︑そこへ人が来てのべつに
113
入れ替り攻撃をやると︑とうてい持ち切れない︒お客か
えん せい か
薤露行をたいへん面白がってくれる青年が往々ある︒
かい ろ こ う
い︒
ぬよりいやだ︑それを考えると大学は辞職つかまつりた
来月は講義をかかなければならん︒講義を作るのは死
なれないのはどういうものだろう︒
大心配ができたような気がする︒読書はこれほど熱心に
胃が堅くなる︒外の事はなにも考えられなくなる︒一
と愉快だが︑かいてるうちは苦しいものだ︒
ら見たら病人か厭世家のようだろう︒文章もかきあげる
114
ある人手紙を寄せて薤露行の一編吾において聖書よりも
きわ
尊しとかいてきた︒文士の名誉もこゝに至って極まるわ
け だ ︒ し か し あ ん な も の は 発 句を 重ね て ゆ く よ う な 心 持
ちで骨が折れていかない︒
僕も国があって山があって河があって家があって最後
に 金 が あ っ た ら さ ぞ よ か ろ う ︒ し か ら ず んば 胃 病 で 近 々
夏目金之助
かあ
おばゝ様の御病気を大事になさい︒お母さんによろし
小宮豊隆様
七月十七日
往生つかまつるべく候︒頓首
115
く
さふらふ
小石川区竹早町百二十番地愛知社内中
七月二十四日 ︵火︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木
町五十七番地より
川 芳太郎 へ
ご めん どう
毎 々 御面 倒 相 願 ひ 候 ところさっそく神田の方へお送
学校を卒業して一日のうちに世の中が恐ろしくなった
なにか御馳走いたすべく候︒
そろ
り く だ さ れ 候 よ し 多 謝 の 至 り ︑ い づ れ 印税 が は い っ た ら
116
から︑これから︑よほど注意を周密にするよし︑結構に
候︒
しかし周密といふ意味に上等と下等あり︒自己の知力
にてできうるかぎり考へ︑自己の感情にてできうるかぎ
り感じ︑しかして相手と自己とに不都合の破綻なきやう
に先を制するやうなことを得意にする︑
にするを上等といひ︑たゞ人を見て泥棒のごとく疑ひな
く
んでもコソ
これを下等の周密といふ︒
君の感じたるはいかなる方面においての意味なるやを
知らず︒もし前者ならば賢のはうヘ一歩進みたるなり︒
117
もし後者ならば愚のはうヘ一歩進みたるなり︒世上幾多
り君は世の中を恐れすぎてゐるなり︒君は家にをってお
からぬものなり︒もし君の弊を言はば学校にゐるときよ
世の中が 恐 しきよし︑恐しきやうなれど存外恐ろし
お そろ
どいやな現象なし︒
からはすこぶるワイズになったと考うる人多し︒これほ
て世の中にゐる時のはうがよほど下等なり︒しかもみづ
よ︒学校にゐるうちのはうがはるかに上等にして卒業し
害の関係なき三者より忌憚なくこれ等の人を評してみ
き たん
の才子は愚に近づきつゝみづから賢に進むと思へり︒利
118
やぢを恐れすぎ︑学校で朋友を恐れすぎ︑卒業して世間
と先生とを恐れすぐ︒その上に世の中の恐しきを悟った
らかへって困るくらゐなり︒恐ろしきを悟るものは用心
す︒用心はたいがい人格を下落せしむるものなり︒世上
のいはゆる用心家を見よ︒世を渡ることはすなはちこれ
あらん︒親友となしうべきか︒大事を托しうべきか︒利
たゝ
害以上の恩慮を闘かはすに足るべきか︒
おそ
世 を 恐 る る は 非 な り ︒ 生 れ た る 世 が 恐 し く て は肩 身 が
余は君にもっと大胆なれと勧む︒世の中を恐るるなと
よ
狭くて生きてゐるのが苦しかるべし︒
119
べん せん べん せん
勉旃々々
︵ママ︶
七月二十五日
なほ
金
者はそれ以上に恐ろしき理由を口にせずんば恥辱なり︒
あるひは恐ろしきものかもしれず︒天下の士︑一代の学
に あ ら ず ︒ 免 職 と 増 給 以 外に 人生 の 目 的な く んば 天 下 は
なるべきものにあらず︒どこまで行っても恐るべきもの
個所の地位ができるかできぬくらゐにて天下は恐ろしく
恐 る べ き も のに あ ら ず ︑ 存 外 太 平 な る も のな り ︒ た ゞ 一
んといふ気性を養へと勧む︒天下は君の 考 うるごとく
かん が
すゝむ︒みづから反して直き千万人といへどもわれ行か
120
芳太郎様
千 業 県 安 房 郡 北 条 町 浜 小 松 岩 谷 別 荘内 浜 武 元次
七月二十七日 ︹三十九年?︺本郷区駒込干駄木町五十七
番地より
へ﹁うつし﹂
再度の御手紙本日拝見︒御親切に御勧誘ふかくお礼申
そろ
し上げ候︒僕も君の手紙を見たらむかし房州へ遊んだこ
とを憶い出してはなはだ愉快である︒このごろは風景の
い
いゝ所へ往ったことがないからぜひ行きたいと思うが︑
121
く
小説をかいている︒例のごと
来客が多くてしかも僕は
日は午後五 時から大学の御殿で御馳走をくう︒二三日雨
客が 嫌 でないから思うようにもかけないので困る︒今
き らい
さ︒ところで僕も最もなか
く
んと申したところで昨日からいゝ加減な調子で始めたの
かいてしまわないと義理がわるいものでね︒毎日うんう
今かいてるものはね︑でき損なってもかまわないがぜひ
そく
鹿遊びをして暮らしてしまうにきまっている︒ところが
けであるが︑君といっしょじゃ朝から晩まで馬鹿話と馬
くそういう景色のいゝ所で筆をとるほうが書きやすいわ
あいにくたゞいまうん
122
しの
こ みな と
で少々凌ぎいゝ︒君房州を向側へつきぬけて小湊の方へ
行ってみたまえ︒面白いよ︒元来君は誰の別荘をごまか
すわ
して借りたのかね︒岩谷というのは松平君じゃないか︒
あとがま
○○が君の後釜へ据り込もうというので運動を開始した
ろう︒君のところへ手紙が行きゃしないか︒兵隊にゆく
金 之 助
とひどい目に逢うから今のうちせっかく遊んでおきたま
浜武様
七月二十七日
え︒草々頓首
123
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
八月六日 ︵月︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町五
十七番地より
松へ
さっそく御返事をかくなり︒漾虚集の評はすぐさま拝
候︒しかし僕のばかりが必ずしも人格を発揮した作物で
かくはうがよからうと存じ候︒人格論は僕も至極賛成に
感銘つかまつるわけである︒いま少しなんとかわる口を
じけない︒天下の評中あのくらゐ詳細なのはないと深く
見 ︒ ど う も あ ゝ 長 く か い て く れ た 御親 切 は は な は だ か た
124
ふで げい
もあるまい︒たゞし主義はいつもお話するとほり︑文章
はら げい
を作るのは腹芸で筆芸ではないから腹をこしらへてかゝ
う
︶をかい
注
﹁草枕﹂
らねば駄目といふなり︒君と同論のやうに思ふ︑いかゞ︒
や
ほかの人の評と夜雨君の作は新小説︵
てからゆるりと読むつもりなり︒手紙が来ても邪魔には
いく た
ニ
な ら ず ︒ 生 田 先 生 の 弁 解 とく に 拝 承 ︒ つい で に 申 し候 漾
しや れ
二虚 碧 を い ふ 句 よ り 来 る ︒ 御 三 君 の 文 集
たゞよフ
虚集は春水 漾
ぎ
の名はすこ ぶる洒落たものなり︒
せん だ
小生千駄木にあって文を草す︒左右前後にゐるもうろ
くどもいっさい気に喰はず朝から晩まで喧嘩なり︒この
125
中にあって名文がかけぬくらゐなら文章はやめてしまふ
かん がへ
考 なり︒この間にあって学開ができなければ学問はや
は御覧のごとく若きがゆゑに亭主もなか
く
元気がある
い ゝ 年 を し て こ んな こ と を い ふ と笑 ふ な か れ ︒ 僕 の 妻
とはな んでもなく候︒
生つかまつる覚悟なれば君が夜中遊びにくるくらゐのこ
くたばるまでは決して千駄木をうつらずして︑安々と往
つゝ︑強勉をしつゝ︑文章をかきつゝ︑もうろくどもが
げらるるやうなデリケートな文章家にあらず︒喧嘩をし
め て し ま ふ な り ︒ 手 紙 の 十本 々 二 十本 来 た っ て 詩 想 が 妨
126
なり︒まづはそれだけ︒
八︑六
白 楊先 生
金
八月七日 ︵火︶午前八時︱九時 本郷区駒込千駄木町五
本郷区駒込西片町十番地畔柳都太郎へ
商業学校はどの辺なりや︒また学士でなくては
十七番地より
拝復
ならぬにや︒実は一二年前の卒業にて久しく周旋をたの
ま れ た る 男 あ り ︒ し か し こ れ は 撰科 な り ︒ 語 学 は 比 較 的
127
本 年 の 卒 業 生 の あ る も の よ り も で き るな り ︒新 学 士 の 地
の辺は御了知くだされたく候︒あれは総体が風刺に候︒
理に侯︒決して作者の人世観の全部にこれなきゆゑ︑そ
彼等のいふ ところは皆真理に候︑ しかしたゞ一面 の真
かれ ら
存じ候︒御反対御もっともに候︒漱石先生も反対に候︒
に太平の逸民に候︒現実世界にあの主義ではいかゞかと
東 風 君 ︑ 苦 沙 弥 君 皆 か っ てな こ と を 申 し 候 ︒ そ れ ゆ ゑ
し︒たゞし語学が特別えらいとは受合かね候︒
うけあひ
交渉中なり︒もしまとまらずばこちらへ相談してもよろ
方 行 は 先 だ っ て ま で 一 名 あ り し と こ ろ ︑ た ゞ い ま長 岡 へ
128
現代にあんな風刺はもっとも適切と存じ猫中に収め候︒
もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方
の働らきかけるところを議論いたしたしと存じ候︒
︶あらはるべく︑これはぜひ
注
﹁草枕﹂
来九月の新小説に小生が芸術観および人生観の一局部
を代表したる小説︵
お読みのうへ御批評願ひたく候︒これとても全部の漱石
の趣味意見と申すわけにこれなし︒その辺はあらかじめ
お断わり申し候︒まだ脱稿せず︒十日〆切までにぜひか
なつごもり
きあぐるつもり︒それゆゑどこへも行かず︒夏 籠 の姿︑
御無 沙 汰 お ゆ る し く だ さ る べ く 候 ︒
129
八月七日
芥舟先生
金
山口県玖珂郡由宇村三国屋鈴木三重
八月十二日 ︵日︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
木町五十七番地より
吉へ︹はがき︺
ひと り
君は一人で大きな屋敷にいるよし︒お大名のようでよ
なし︒君文章をかきたいならどん
く
おかきな さい︒書
かろうと思う︒僕例のごとく多忙︑長い手紙をかく余暇
130
いてわるければその時修養がたりないとかなんとかはじ
やるべしと存じ候︒
め て わ か る な り ︒ か かな い う ち はど ん な 名 作 が で き る か
く
わからん︒なんでもどん
八月十五日 ︵水︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
広島市大手町一丁目井原市次郎へ
あ りが た
広 島 の 写 真 種 々 御恵 送 に あ づ か り 本 日 落 掌 難有
五十七番地より
拝啓
おもしろ
新聞の井原氏は大兄の御舎弟のよし︑それはちっとも
く御礼申し上げ候︒あの写真は皆面白くながめ暮らし侯︒
131
知りませんでした︒尼子さんは四郎という名です︒同町
や つ かい
すね︒しかし銅貨を落したのは慥かにあなたではありま
たし
た︒まったくあなたとは固とお話しをしたことがありま
写真拝受難有く侯︒お顔を見てはじめて思い出しまし
う認定したのです︒もっとも前歯は欠けています︒
今大学の講師をしている人だそうです︒これも世間がそ
てしまいました︒寒月というのは理学士寺田寅彦という
は定てありません︒苦沙弥は小生のことだと世間できめ
きめ
と こ ろ へ 引 合に 出 さ れ た と 申 され ま し た ︒ 迷 亭 と い う 男
ひきあい
内にいていつでも厄介になります︒先日逢ったらとんだ
132
や
せん︒もっと背の高い痩せた人のように思います︒あな
たは写真ではたいへん色が白いが小生の記憶ではもっと
黒いと思いますどうですか︒
尼子さんに逢ったらあなたのお話をしましょう︒斗作
先生に御文通の時小生のことをきいて御覧なさい︒ロン
夏目金之助
ドンの時のことでなにか面白いことをお話なさるかもし
井 原 様
八月十五日
れません︒頓首
133
134
福岡県京都郡犀川村小宮豊隆へ
八月二十八日 ︵火︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千
駄木町五十七番地より
大坂ノ滑稽新聞の写
し︒
学生が送ってくれた︒
夏だから客はないと思いのほか毎日々々繁昌で楽々昼
し まい
寐もできず閉口しているうち八月もお仕舞になって大い
しこう
に驚ろいて弱っている︒実は講義を一ページも書いてい
しか
ない︒然り 而 して十月一日発行の中央公論にかく約束
がある︒進退に窮するわけであってみれば︑講義は容易
に は 始 ま り そ う に も な い ︒ まず もっ て 十五 日 以 後二 十 日
か の う こうき ち
以内と見当をつけて御出京しかるべく侯︒今日狩野亨吉
先生に京都の模様をきいたら︑京都の法科大学などは十
月中ごろから開講するそうだ︒ずいぶんのんきなもので
ある︒僕もそのうち東京の文科大学で十二月くらいに開
講してみようと思う︒
135
ぐ
猫の批評こま
難有く候︒苦沙弥と迷亭の比較御も
る も の あ り ︒ ぜ ひ 読 ん で ち ょ う だ い ︒ こ んな 小 説 は 天 地
今度は新小説にかいた︒九月一日発行のに草枕と題す
であると︒御もっともなる攻撃に侯︒
ていない︒迷亭が喋舌っても苦沙弥が述べても同じ語気
しやべ
曰く︑終りのはうの文明の議論が人によって調子が変っ
の十一を非難せるもの二人ばかりありたり︒その一人の
い ︒ そ れ で な い と ︑ 腹 へ つめ た も の が も たれ て 困 る ︒ 猫
かしできるならばあんな馬鹿気たことを生涯かいていた
っともに候︒あれで一段落ついてまず安心いたし候︒し
136
かい びやく
開 闢 以来類のないものです︵開闢以来の傑作と誤解し
てはいけない︶︒
今度の中央公論へはなにをかこうと思うている︒今日
は久しぶりで朝から晩まで外出︑方々あるいてくたびれ
な つめ 金
八月三十日 ︵木︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
小宮豊隆先生
八月二十八日
た︒艸々
137
五十七番地より
芝区琴平町二番地朝陽館野間真綱へ
草枕を明治文壇の最大傑作というてくれる人は
︹はがき︺
拝啓
木町五十七番地より
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清
八月三十一日 ︵金︶午前十時︱十一時 本郷区駒込千駄
で高評を謝す︒
いうて笑うだろう︒だから新小説に気の毒である︒謹ん
たんとあるまい︒普通の小説の読者は第一つまらないと
138
へ
おど
先生驚ろきましたね︒僕の第三女が赤痢の模様で今日
大学病院に入院したというわけですがね︒ことによると
交通遮断になるかもしれません︒小供の病気を見ている
のは僕自身の病気よりよほどつらい︒しかも死ぬかもし
れないとなるとどうも苦痛でたまらない︒もしあの子が
死んで一年か二年かしたら小説の材料になるかもしれぬ
じようぶ
が︑傑作などはできなくても小供が丈夫でいてくれるほ
うがはるかによろしい︒とうてい草枕の筆法ではゆきま
せん︒
139
みよう ち
ばく ぜんかい
き りん
へき えき
猫の代まさに頂戴︒難有く候︒漠然会なるものができ
な
て困るからたまには交通遮断をしてみたいと思います︒
しかし交通遮断はちょっと面白い︒あまり人がきすぎ
とんだ 不義理ができる︒
の病気がわるければ僕はなにもできない︒中央公論には
はなにをかいたものやら時間がなさそうだ︒これで小供
もう九月になる︒講義は一頁もかいてない︒中央公論
した︒ふりがなはやはり本人がつけなくては駄目ですね︒
新小説は出たが振仮名の 妙 痴奇林なのには辟易しま
ふり が
るよし︑出られればいゝが︒
140
の
ま
野間先生が草枕良評して明治文壇の最大傑作というて
来ました︒最大傑作は恐れ入ります︒むしろ最珍作と申
金
す ほ う が 適 当 と 思 い ま す ︒ 実 際珍 と い う こ と に お い て は
十七番地より
神田区鈴木町十九番地ケーベル方深田康算
九月五日 ︵水︶午後四時︱五時 本郷区駒込千駄木町五
虚子先生
八月三十一日
珍だろうと思います︒
141
へ
拝啓
いたり
お手紙頂戴難有く拝見いたしました︒草枕につ
たま
直︑君のいうてくれたほどの名作とも思うておりません
嬉しいから二遍繰り返して読みました︒実際をいうと正
聴して深くお礼を申さねばならんはずと思います︒実は
まっている以上は︑ともかくもお言葉だけは真面目に拝
をかいて人を嬉しがらせるような軽薄な学者でないにき
ありますが︑しかし大兄が一個の紳士としてたゞ出放題
で ほうだい
せん︒御批評中には小生のあえて当るべからざる賛辞が
いて最も御丁寧なる御批評を承わり感銘の 至 に堪えま
142
でした︒しかしもし草枕において御批評どおりの仕事が
できなくても心掛だけはそうしたいと考えております︒
どうかこの後ともに善悪ともに遠慮のないところをお聞
かせください︒
小生小児赤痢にて大学へ入院︑なんだか気がせいて仕
事ができず︑たのまれものはかどらず閉口いたします︒
小児はようやく快方のほう︑しかし表向は明六日まで交
通遮断です︒修善寺へお出のよし︑ あすこは涼 しいと思
っていましたが︑そうでありませんか︒ケーベル先生か
ちか づき
たへも一度お近付に上がりたいと思うていますが︑なに
143
く
せ
この夏も今日に至りました︒ハルトマンのこと
で 先 生 とい わ れ る の は な ん と な く 引 け る よ う な 気 が し ま
ほうが年が多いばかりです︒しかし単に年が多いばかり
に小生よりもえらいに相違ないと思います︒たゞ小生の
哲学はむろんドイツ語その他において君の知識ははるか
から︑以後は万事同輩の格で願いたいと思います︒第一
君 は 小 生 を 先 生 と い われ ま す が︑ こ れ は 少 々 恐 縮 で す
拝見したいと存じます︒
は面白く拝見しました︒来月もつゞくことと存じます︒
おも しろ
とう
やかや取り紛れて気が急いているうえに来客のみ多くて
144
す︒
大坂の滑稽新聞に小生の肖像が出ているのを切りぬい
わ ら い ぐさ
有名になりました︒右とりあえず御礼
て送ってくれたものがあります︒お 笑 草に写しを御覧
に入れます︒
く
種々かきつらね候︒いずれくわしくお目にかゝ
小生もなか
ぐ
かた
145
り申し述べるべく候︒以上
九月五日
深 田 様
金 之 助
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森田米
九月六日 ︵木︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄木町五
十七番地より
松へ
御帰京のよし︑ 小生宅には三女赤痢にて大学医院へ 入
院︑今日まで交通遮断なり︒遮断にもかゝわらず方々出
146
あるくのみならず来客むやみに至る︒学校の講義は一ペ
ージも書かず︒十月発行の中央公論からは催促をうける︑
いやはやのはやいやで困却中なり︒
草枕を読んでくだされたよし難有い︒そのうえあっと
感心してくれたところなどはもっとも難有い︒あれはど
うしても君に気に入る場所があると思った︒今日まで草
枕について方々から批評が飛び込んで来る︒来るたびに
僕は喜こんでよむ︒しかし言語に絶しちまったものは君
じ
め
一 人 だ か ら 難 有 い ︒ 今 日 ま で受取 っ た 批 評 の う ち も っ と
ま
も長くかつ真面目なものは深田康算先生のものである︒
147
︵ママ︶
新体詩人が喧嘩をしているよ︒昔は詩人が喧嘩などをと
けん か
な風呂敷へたゝみ込んで帰って行った︒君あやめ会では
上つかまつった︒着せてみたらよく似合った︒先生大き
僕今日中川先生にロンドン製フロックコート一着を献
か持ち出さなければならなくなる︒
出版したらさっそく僕は草枕の原稿料のうえへいくぶん
たら出版したらどうですというた︒草枕批評一班として
いつぱん
て持っている︒今日中川君が来たからそのことをはなし
けたものが二三人ある︒いずれもうれしい︒僕はまとめ
もっとも驚も感情的なものは君のである︒多少けちをつ
148
さきだ
金 之 助
いったものだ︒今じゃ詩人だから衆に 先 って喧嘩をす
郎へ
十七番地より
木 郷 区 駒 込 西 片 町 十 番 地 反省 社 内 滝 田 哲太
九月十日 ︵月︶午後二時︱三時 本郷区駒込千駄木町五
森 田米 松 様
九月五日
いずれそのうち︑さようなら
るのだ︒
149
拝啓
先日来お約束の小説︑どうにかかうにかかきあ
ず さん
六 十五 枚 ほ ど に な り候 ︒これ も お ゆ るしくだ さ
ついで
まづは用事まで︒草々頓首
九月九日
滝 田 様
金 之 助
れたく候︒お 序 の節はいつにてもお渡し申すべく候︒
とう
く
加減にかきをはり申し候︒四五十枚とのお約束のところ︑
か げん
誤って違約をしてはたいへんな御迷惑になることといゝ
げ候︒まことに杜撰の作にてお恥づかしきかぎりなれど︑
150
九月十一日 ︵火︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
来 る 二 十 六 日 の 能に お招 き く だ され 難有 く 深 謝
きた
五十七番地より
拝啓
し奉り候︒西洋人もさだめてよろこぶことと存じ候︒も
つ かま つ
っとも通弁を 仕 るのは少々閉口に侯︒あの番組のうち
で一つも見たものも読んだものもありません︒橋口は兄
のほうですか︑弟のほうですか︒小児病気は日にまし快
さふら
きは
方︑小生見舞に参り 侯 へども︑いまだ一度も語を交せ
こ
たることなし︒草枕の作者の児だけありて非人情極まっ
151
たものなり︒すると今度は妻のおやぢが腎臓炎から脳を
ふ
おど
み直してみたらいっこうつまらない︒二度よみ直したら
今度の中央公諭に二百十日と申す珍物をかきました︒よ
人と思います︒しかしよく趣味を解する人であります︒
た︒あの人は面白い考を持っているがあまり学問のない
も読んでくれればいゝのに︒二六をすぐ買ってよみまし
ことなり︒この女︑猫を愛読して研究するよし︑草枕で
ろいたのは今日女記者の中島氏とか申す人が参られたる
け
に候︒小生もお客の相手で一人を暮らしてゐる様なり︒驚
︵ママ ︶
冒かされたとかなんとか申すよし︑世の中も多忙なもの
152
ずいぶん面白かった︒どういうものでしょう︒君がよん
金
だらなんというだろう︒またどうぞよんでください︒さ
五十七番地より
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
九月十八日 ︵火︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
梧下
虚 子 庵
九月十日
ようなら
153
︹はがき︺
ぼくの妻の父死んで今週は学校を休むことにした︒そ
み さき ざ
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森田
草枕の主張が第一に感覚的美にあることは貴説のとお
米松へ
五十七番地より
九月三十日 ︵日︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
もし行けたら御案内をつかまつるつもりなり︒
の外用事山 のごとし︒三崎座を見たいが行けるかしら︒
154
りである︒感覚的美は人情を含まぬものである︵見る人
からいうても見られるほうからいうても︶︒
 自 然 天 然 は 人 情 が な い ︒ 見 る 人に も 人情 がな い ︒ 双
方非人情である︒たゞ美しいと思う︒これは異議がない︒
 人間も自然の一部として見ればやはり同じことであ
る︒
 人間の情緒の活動するときは活動する人間は大いに
の態度︵これは一ト二ト同じことに帰着する︶︒
 まったく人情をすてて見る︒松や梅を見ると同様
人情を発揮する︒見る人は三様になる︒
155
156
す
 まったく人情を棄てられぬ︒同情を起したり︑反
感を起したりする︒しかし現実世界で同情したり反感
を起したりするのと異なる場合︑すなわち自己の利害
ご じん
を打算しない で純粋な る同情と反感の 場合︵吾人が普
通の芝居を見る場合︶︒
 現実世界で起す同情と反感を起して人間の活動を
見る場合︵この場合が芝居などへ切り込むと時々見物
人が舞台へ飛び上がって役者をなぐったりなどする︒
フランスで兵士の見物がオセロを拳銃で打ったことが
ある︶︒
草枕の画工の態度で異議のあるところは第三であるか
らして︑第三の か か かをきめてみればよい︒ で
はむろんない︒画工はなるべく で見ようとする︒よし
 だけで見られないでも全然 になってはもういやだと
いう男である︒だから︑一歩を譲って を離れても ま
では飛ばない︒ と の中間くらいである︒
あわ
 ﹁憐れ﹂が表情になって女の顔にあらわれるのが
で 見 て い ら れ ぬ こ と は な い ︒﹁ 憐 れ ﹂ の 表 情 が 感 覚 的 に
画題に調和するか︒またはそれ自身において気持がいゝ
表 情 か わ る い 表 情 か ︒ 換 言 す れ ば 単 に 美 か 美 でな い か と
157
いう点からして観察ができる︵画工がこの態度でいれば
り純非人情である︶︒
こゝろ もち
こうなると普通の芝居の 心 持ちである︵草枕の画
るとすれば画工にはそれだけ冷淡であった︒なんだ馬鹿
 憐れが出たのでやはり亭主に未練がある︒未練があ
工はたぶんこゝまでは人情的になっておるまいと思う︶︒
︱
たものである︒したがって画工も思わず憐れを催した︒
ら感心である︒大いに同情を寄すべき女である︒見上げ
 女の顔に憐れが出てそれが亭主のために出たのだか
ていしゆ
﹁憐れ﹂というのが人情の一部でも︑観察の態度はやは
158
ほ
馬鹿しい︒今まではおれに惚れていたのにと思うのが現
実界の態度である︒この場合には自己の利害のために乱
さるるからして︑結構な女の心いきがかえってにくらし
り よ う けん
くなる︵草枕の画工はむろんこゝにはおらぬ︶︒
さ おう
沙 翁 が ハ ム レ ッ ト を か く 時 の 了 見 は 分 ら な い が で
はないにきまっている︒ でもあるまい︒おそらくは
であろう︵すなわちハムレットを見る観客の起す了見と
同一であったろう︶︒
せつぜん
したがって︑草枕の画工の態度と沙翁とは違う︒截然
として区別がつかぬかもしれぬが傾向が違う︒沙翁は
159
○
○
○
○
である︒両方とも離れたが
で
に住する傾向がある︒画工は にもどる傾向がある︒
○
○
○
は俗人情的である︒﹂
○
て吾々日々夜々パンに汲々として喧嘩をしてくらす人間
画工は非人情的である︒沙翁は純人情的である︒そし
○ ○ ○ ○
っている︒
ある︒画工の態度は
と をならべて矢で方向を示すと沙翁の態度は
160
かん が え
ま
作家に作家の 考 があるとおり批評家に批評家の
ごう
見識がある︒君のいうことは僕の考で毫も曲ぐべ
○
○
ろう
き必要はない︒たゞ考だけをいうまでである︒
○
画工は紛々たる俗人情を陋とするのである︒ことに二
○
○
十世紀の俗人情を陋とするのである︒いなこれを陋とす
○
○
○
るの極純人情たる芝居すらもいやになった︒あきはてた
○
のである︒それだから非人情の旅をしてしばらくでも
ひ よ う ろう
飄 浪しようというのである︒たといまったく非人情で
161
押し通せなくても︑もっとも非人情に近い人情︵能を見
森田米松様
九月三十日
夏 目 金之 助
わるいから忘れてしまう︒調べておいてあげよう︒
デーのこともかいたものがあるように記憶する︒記憶が
本を取り寄せるつもりのところまだ取り寄せない︒ハー
このあいだメレディスのことをかいた人がある︒この
誘ってあげましょう︒
御能拝見のこと承知いたし候︒今度行く折があったら
おり
るときのごとき︶で人間を見ようというのである︒﹂
162
小石川 区原町十番地寺田寅彦へ︹はがき︺
十月八日 ︵月︶午前八時︱九時 本郷区駒込千駄木町五
十七番地より
いで
本 日 は 留 守 へ お 出 失 敬 ︒﹁ 二 百 十 日 ﹂ の 評 あ り が た く
拝見︒大いに弁護いたしたく候︒今度から木曜の三時か
︵ママ︶
令甥も時々つれて成されたく候︒以上
れいせい
ら を 面 会 日 と い た す に つ き 御来 遊 く だ さ れ た く 候 ︒
163
麹町 区富士見町四丁日八番地高浜清へ
十月九日 ︵火︶午前八時︱九時 本郷区駒込千駄木町五
十七番地より
二百十日をお読みくださって御批評くだされ難有う存
ね
寐てしまうところなぞは面白いじゃありません
に変化し
ている︒しかし根が呑気な人間だから深く変化するのじ
ろも弁護します︒碌さんはあのうちでいろ
く
か︒そこへ同情したまえ︒碌さんが最後に降参するとこ
グー
く
情を強いるわけにゆかない︒その代り源因を話さないで
し
ければいけません︒もっとも源因が明記してないから同
じます︒論旨に同情がないとは困ります︒ぜひ同情しな
164
ゃない︒圭さんは呑気にして頑固なるもの︒碌さんは陽
気にして︑どうでも構わないもの︒面倒になると降参し
てしまうので︑その降参に愛嬌があるのです︒圭さんは
おう よう
鷹揚でしかも堅くとって自説を変じないところが面白
こう が い か
らない慷慨家です︒あんな人間をかく
った窮屈なものができる︒また碌さんのよ
い︒余裕のある
と︑もっと
うなものをかくと︑もっと軽薄な才子ができる︒ところ
が二百十目のはわざとその弊を脱して︑しかも活動する
人間のようにできてるから愉快なのである︒滑稽が多す
ぎ る と の 非 難 も も っ と も で あ る が︑ あ ゝ しな い と 二 人に
165
あれだけの余裕ができない︒できないと普通の小説みた
こう でい
ど悟るがよろしい︒今の青年はドッチでもない︒カラ駄
は皆圭さんを見習うがよろしい︒しからずんば碌さんほ
僕思うに圭さんは現代に必要な人間である︒今の青年
ないで普通の小説のように正面から見るからである︒
と思うのは︑あのうちに滑稽の潜んでいるところを認め
が掉尾だと思って自負しているのである︒あれを不自然
とう び
以上トボケているところが眼目であります︒小生はあれ
ある︒あの降参がいかにも 飄 逸にして拘泥しない半分
ひ よ う いつ
ようになる︒最後の降参も上等な意味においての滑稽で
166
目だ ︒生意 気なばかりだ︒以上
十月七日 ︹封筒の裏に︺
虚子先生
金
能の事難有う存じます︒やはり九段であるのですか︒
いつあるのですか︒ちょっと教えてください︒正月はな
にかかいてあげたいと思います︒しかし確然と約束もで
きかねます︒まあ精々かくほうにしておきましょう︒
167
十月十日 ︵水︶本郷区駒込千駄木町五十七番地より若杉
三郎へ
二百十日についての御批評拝見︒ずいぶん思い切って
うけたま
た
公論に適しないことはない︒別に中央公論むきは柔弱主
味 は 結 構 だ ︒ 文 部 大 臣 が ど んな 主 義 で も 構 わ な い ︒ 中 央
いけない︒しかしアートだけがいゝのではない︒剛健趣
アートなどはこれまたどうでもよい︒アートが下手では
へ
読んだ人がかってにつけるのである︒アート・フォー・
小説でも象徴小説でもなんでも構わない︒そんなものは
わる口を 承 わり大いに面白く候︒ところであれは傾向
168
義というわけはない︒筆跡をまずいというがほかの大家
ぞろい
は僕よりまずい︒僕はあの二百十日︑夏目漱石がはなは
そ ゆき
だうまいと思っている︒大家 揃 じゃない小学生揃だ︒
よ
君はあれを余所行の筆跡でないというが︑僕の筆跡には
余所行も不断着もない︒いつでもあのとおりうまいので
ある︒
ほん ごう ざ
猫を女役者がやる︒本郷座だって女役者だって同じこ
とだ ︒ 猫 を や っ て 面 白 い 芝 居 が で き る ため に は 僕 自 身 が
やらなくっちゃいけない︒中川芳太郎が見てきてきわめ
て愚なものだといった︒愚ははじめから知れ切っている︒
169
猫を図書館に献上するなんてずいぶん人を馬鹿にした
て明治の文学を大成するのである︒すこぶる前途洋々た
もない時代である︒これから若い人々が大学から輩出し
望する︒明治の文学はこれからである︒今までは目も鼻
い ︒ だ か ら 駄 目 だ ろ う ︒ とに か く に 活 動 あ ら ん こ と を 希
だってマンチウスの四巻目を 誂 えておいたがまだ来な
あつら
モリエルの事に関した写真やなにかは一枚もない︒先
と猫を御覧になったらよろしかろうと思う︒
室と宮家ヘ一部ずつ献上しようかと思う︒宮様などはち
ものだ︒もっとも僕も高等学校へ献上した︒この次は皇
170
る時機である︒僕もさいわいにこの愉快な時機に生れた
みち
のだからして死ぬまで後進諸君のために路を切り開い
て︑幾多の天才のために大なる舞台の下ごしらえをして
働 き た い ︒ そ う こ う し て い る う ち に 日 は 暮 れ る ︒ 急 がな
ければならん︒一生懸命にならなければならん︒そうし
て文学というものは国務大臣のやっている事務などより
も高尚にして有益なものだということを︑日本人に知ら
せなければならん︒かのグータラの金持ちなどが大臣に
下げる頭を文学者のほうへ下げるようにしてやらなけれ
ばならん︒
171
皇太子や宮様が文学をお読みになってその主意がわか
夏目金之助
た︒君のについてごく遠慮のないことをいえばいずれも
花うづのうち君の分と生田君のある部分とを見直し
いく た
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる 方森田米松へ
十月十一日 ︵木︶本郷区駒込千駄木町五十七番地より
若 杉 兄
十月十日
る よ う に 書 い て あ げな け れ ば な ら ん ︒ さ よ う な ら
172
物足らない︒なんだか要領を得ない感じが多い︒君はで
きるだけ悲酸で深刻で皮肉な間題を捕えてくるにもかゝ
わらず︑よんだあとの感じが悲酸でも︑深刻でも皮肉で
もな い︒
その解決はどういう点にあるかちょっと考えたところ
を 参考 に 述 べ る ︒
 事件に発展がなくして︑比較的長いことを一二枚で
かいてしまう︒だから読者は君につり込まれるほど作中
これが大源因だろうと思う︒換言すれば長くかくべき
の人物に同情がない︒
173
ものを短かくかいて︑しかも長くかいたものと同様の感
 ところ
ぐ
に 奇 警 な 句 が あ る ︒ ハ ッ と思 わ せ る ほど
ではあるまいか︒
骨 を 折 っ て ︑ 叙 出 す る も の の ベ ゼ ー ル ン グ が で き ぬ ため
まいにかゝわらず感じが乗らぬのは口調や文字にばかり
態 か ら 来 る 表 情 の ご と く ベ ニ や白 粉 と は違 う ︒文 章 の う
白粉のごときものである︒真の文章は女の栄養や心的状
お し ろい
に骨を折るのである︒レトリックはむろん必要であるが︑
 君は文章に骨を折る︒しかしその骨折はレトリック
を起しうるものと仮定しているらしい︒
174
の も の が あ る ︵ お も に 人 世 上 の 観 察 ︶︒ こ れ ほ ど の 急 所
い
をつらまえている人がなぜこの句をもっと活かして使わ
ないかと思う︒たとえばそれ自身が一句でたしかに一短
おし げ
編の主意となりうるにも関わらず︑君は惜気もなく好い
加減なところへ使ってしまう︒そして全編からいうとさ
ほど奇警でない︒ある時は幼稚である︒するとなんだか
妙な気がする︒この作者は時々老成な観察をする点から
い え ば 四 十 前 後 で あ る が︑ 若 い ほう か ら い う と 二 十 を 多
く越していない︒二十三四の男と四十くらいな男が合併
しているようだ︒それがうまく調和すればいいが片手だ
175
けが四十くらいであったりなにかする︒
僕の遠慮のない批評はまさにこゝである︒要するに花
︵マ マ︶
奮発して立派な作物を苦心せられんこ
もっとも最後の二三行﹁あの人心おかみさんのいる時分
前後だけかいて肝心の嵐をかかないなんてずるい男だ︒
かん じん
寅彦の 嵐 は彼の作としてあまり秀逸じゃない︒嵐の
あ らし
新作せられんことを希望する︒
とを希望する︑もし余暇あらば正月までにぜひ両三編を
これからいよ
く
のではない︒もし前に大作があればそれは未来である︒
うづ中にある君の作は決して未来に君を重からしむるも
176
うん ぬん
云々﹂は君と絶対的反対で大賛成である︒あの下女の言
くま
葉があってはじめて熊さんの長いあいどの変化やら歴史
まと
やらが一句のうちに纏められて︑読者はうんそうかとい
う気になるのである︒短編でもし長い歴史を感ぜしむる
ためにはああいう筆法でなければいかぬ︒あれが短編の
が りよ う てん せい
落ちである︒あれがあるから画竜点睛の妙を覚えて全編
が活動してくるのである︒もしこれを不賛成というなら
大いに議論がしたい︒
委細は面語に譲る︒花うづはいゝ名だと僕も本屋に教
えてやった︒
177
夏目金之助
本屋へは川下氏の稿さしかえの義通知いたすべきかい
き
た
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
ありが と
喜多の番づけを難有う存じます︒さっそくモリ
スにやりましょう︒先だってお話のあった二百十日に関
拝啓
五十七番地より
十月十七日 ︵水︶午後零時︱一時 本郷区駒込千駄木町
白楊先生
十月十一日
なや︒草々
178
する拙翰をホトトギスへ掲載の義は承知いたしましたと
み あわ
申 し ま し た が ︑ 少 し 見 合 せ て く だ さい ︒ 近 々 ﹁ 現 代 の 青
つ
年に告ぐ﹂という文章をかくか︑またはその主意を小説
にしたいと思います︒するとそのまえにあの手紙は出し
てもらわないほうがよい︒どうでしょう︑あの主意をあ
ふ えん
なたが敷衍して︑そうして︑あなたの意見も加えてあな
たの文章とかきかえてホトトギスへ出してくださって
は︒あの手紙のうちで困るのは現代の青年はカラ駄目だ
ということと﹁普通の小説家なら⁝⁝﹂という自賛的の
語 で あ る ︒ 自 分 が 小 説 を か い て︑ 人 の 小 説 を 自 分 の に 比
179
べて攻撃するのはいやな心持ちだ︒それから現代の青年
高浜 様
十六 日
金
はりロシア主義で進歩するがよかろうと思います︒
森田流の人には当分シャボテン主義は分りません︒や
まず用事だけにしておきます︒
かくのだから﹁カラ駄目﹂じゃちと矛盾してしまいます︒
に告ぐという文章中には大いに青年を奮発させることを
180
ほ
もみじ
芝 区琴 平 町 二番 地 朝陽 館 野 間真綱 へ
十月二十日 ︵土︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄木町
か
伊香保の紅葉を貰って面白いから机の上へのせ
い
五十七番地より
拝啓
ておいたら風がさらって行ってしまった︒どこをたずね
てもない︒
きのう
近ごろは久しく逢わない︒昨日の面会日には四五人来
て十時ごろまで文学談をやって愉快であった︒
近来世の中に住んでいるのが小便壺のなかに浮いてい
るような気がする︒周囲が小便だから自分もさぞ臭いこ
とだ ろう と思う ︒
181
高等学校などへ出てももっとも簡単でもっとも純潔な
毒である︒
も知らずにワー
く
し て い る の は 天 子 様 の ため に お 気 の
未来 の日本 を作る青年が自己の責任もエライこ ともなに
のは酔漢の中に窮屈にかしこまっているようなものだ︒
た︒天下の人が 戯 れているのに自分だけ真面目でいる
たわむ
にいることに気がつかなかった時はもっと熱心であっ
からどうでも構わないという気でいる︒昔小便壺のうち
い も の は 十 分 一 く ら い だ ろ う ︒ こ んな も の に 教 え る の だ
るべき書生がだいぶアートフルである︒真正に書生らし
182
うずら かご
今日曜には遠足をする︒近日猫の中巻と 鶉 籠とそれ
からいま少しすると文学論ができる︒できたら一部あげ
る︒今の青年どもは猫をよんで生意気になるばかりだ︒
猫さえ解しかねるものが品格とか人柄とかいうことが分
真 綱 様
十月十九日
金 之 助
りようはずがない︒困ったものだ︒さようなら
183
十月二十日 ︵土︶本郷区駒込千駄木町五十七番地より
久 し く お 目 に か ゝ らない ︒先 日 野 間 が 手 紙 を よ
芝 区高 輪 車 町 四十八 番地 皆 川 正禧 へ
拝啓
か
げ
く幻影と一般タワイないものである︒こんな世
ば
ている︒真面目になりうるためには他人があまり滑稽的
界 に 住 ん で 真 面 目に 苦 し い 思 い を し て 暮 ら す の は 馬 鹿 気
こと
ぐ
な気がする︒どこを見ても真面目なものが一つもない︒
ごろは世の中に住んでぃるのが夢の中に住んでいるよう
た︒ぜひ行きたいがなんだか忙がしくて行かれない︒近
こして君の今度の家はいゝ所だ︑ぜひ行ってみろとあっ
184
である︒
僕明治大学をやめようと思う︒先日高田が来て報知新
聞へなにかかいてくれといったから明治大学をやめて新
聞屋になろうかしらん︑国民新聞でも読売でも依頼され
ている︒明治大学は土曜の四時間であるから︑土曜を四
な便宜があるように
時間つぶしてなにかかいてそうしてそれが同じくらいの
く
収入になれば新聞のほうがいろ
思う︒
明日は大森の方へ遠足をするが東洋城という青年とい
っしょだから君のうちへは寄れない︒この東洋城君なる
185
ものはすこぶる真面目な青年である︒青年は真面目がい
して人のために応接をしてやったって自分が疲労するば
来客は皆木曜にまとめてしまった︒壱週間まるつぶしに
曜の晩だからこんなくだらない手紙をかくひまがある︒
あまり御無沙汰をしたから手紙をちょっとあげる︒土
る︒
は泣くにはあまり滑稽である︒笑うにはあまり醜悪であ
くれる︒難有くも︑苦しくも︑恐ろしくもない︒世の中
な い ︒ 真 面 目に な り か け る 瞬 間 に 世 の 中 が ぶ ち壊 わ し て
い︒僕のようになると真面目になりたくてもとてもなれ
186
かりである︒草々
十月二十日
皆川正禧様
夏目金之助
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる
十月二十一日 ︵日︶午前十一時︱十二時 本郷区駒込千
駄木町五十七番地より
君のところから向い状袋の長い手紙が来ないと
方森田 米松へ
拝啓
森 田 白 楊な る も の が 死 ん でし まっ た か の 感が あ る︒ 今日
187
︵ママ︶
とをいう︒だから創作がその主義を応用するようにでき
いうほうが筋の立ったことをいう︒またわけの分ったこ
ことがあるから感服だ︒いったい君は評論をして理屈を
だ か 分 らな い ︒ さ す が に 森 田 先 生 だ け あ っ て な に か い う
ろが面白い︒普通の新聞屋などのいう評はなにをいうの
よみつゝあるかが分るからである︒あの理屈をいうとこ
わか
草枕を評するという点より君がどんな 考 をもって書を
かんが え
草枕の評は多大の興味をもって拝読した︒面白かった︒
な と思 っ た ︒
曜 早 起 き る や い な や 白 状 が あっ たの で や っ ぱり 生 き て る
188
うま
てるかと思うと︑そう旨くいっていない︒君は不平かも
しれないが︑たしかにいっていませんよ︒
したものだ︒はな
君のいつもよこす手紙はなんだかどこかに愚痴っぽい
く
ところがあったが︑今度のはサラ
こうでい
はだわが意を得ている︒愚痴を並べても愚痴に拘泥して
いない︒滔々と︑愚痴が出て来て平気である︒これがは
なはだ愉快だ︒すべて愚痴でもなんでも拘泥した奴は厭
味だね︒いくらスキのない服装でも本人がそれに拘泥し
みなり
ていると厭味が出る︒凝った身装をしてそうして凝った
ところを忘れているのがいゝじゃないか︒今度の手紙は
189
これに近い︒君の創作もどうかこの格でゆきたいと思う︒
せん とう
じゆ そ
大学を卒業して机上
は分らない︑やっぱりロシア主義でいゝのであるとかい
味を説いてくれというから僕は森田は当分サボテン趣味
などと気炎を吐いてきた︒そうして森田君にサボテン趣
で人生観を作っているからサボテン趣味が分らないのだ
報知したら︑虚子大いに激して
ラウムレーレからサボテン趣味を呪詛することを虚子に
︱
ン趣味と名づけるのである︒サボテン趣味といえば君が
じ侯︒敬具﹂などは振ったものだ︒あれを称してサボテ
今度の手紙の結末にある﹁これから銭湯に参らうかと存
190
てやった︒すると今度は虚子先生の返事に﹁実は私も社
会学や心理学方面が嫌なのではない︒できればこっちへ
も興味を持ちたい︒その代り森田君もサボテン趣味を研
究してもらいたい﹂とあった︒
た
木曜日にはサボテン党の首領は鼓の稽古日だとかいっ
のん き
し ほう だ
て来なかった︒呑気なものである︒その代り中川のヨ太
こう
公︑鈴木の三重吉︑坂本の四方太︑寺田の寒月諸先生の
うえに東洋城という法学士が来た︒この東洋城というの
は昔僕が松山で教えた生徒で僕のうちへくると先生の俳
句はカラ駄目だ︑時代後れだと攻撃をする俳諧師である︒
191
先だって来て玄関に赤い紙で面会日などを張り出すの
我を折って来たのである︒また
翁 が 承 知 し ま い か ら 駄 目 だ ︒ 文 学 部 の ほ う を やめ る と米
こめ
提出しておいた︒君を後釜に据えてやりたいが内海月杖
僕は明治大学の文学部のほうを御免蒙るように辞表を
遠足をするのである︒
松茸飯を食わせてやった︒今日この東洋城と大森の方へ
まつ たけ めし
んといったからとう
く
とをいうから︑そんなことをいわないで木曜に来てごら
日を別にこしらえてください﹂と駄々っ子みたようなこ
は ︑ は な は だ 不 快 な 感 が あ る ︒﹁ 僕 の た め に 遊 び に く る
192
びつ
く
櫃に影響する︒それからいろ
妙 な こ とだ ︒
なところへ微震を起す︒
近ごろは小便壺の中に浮いているような気がする︒小
はた
生も臭いが傍から見ても臭いだろう︒さりとて小便壺か
ら 飛 び 出 す ほ ど の 必 要 も 認め な い ︒ 昨 日 あ る 人 に 手 紙 を
つかわして曰く﹁世の中は泣くにはあまり滑稽である︑
笑 う に は あ ま り 暗 黒 で あ る ﹂﹁ 今 の 世 で 真 面 目 に な る こ
とはとうてい不可能だ︒真面目になりかけると世の中が
こ ゝ に おい て 僕 は サ ボ テ ン 党 で も ロ シ ア 党 で も な い ︒
すぐぶち壊してくれる﹂
193
ねこ とう
している︒これからさ
になるのが自然だろう︒西洋人の名前などを
くら
ことを英国趣味だなどというものがある︒糞でも食うが
くそ
じゃないか︒今の文学者は皆このアタイ連である︒僕の
真を見てアタイもこんな顔になろうたってなれやしない
そも不自然のはなはだしきものである︒君オイランの写
担いでこの人のようなものをかこうなどというのはそも
でいろ
く
き何になるか本人にも判然しない︒要するに周囲の状況
われて︑小便壺のなかでアプ
く
は芸術的でないといわれロシア党からは深刻でないとい
猫党にして滑稽的+豆腐屋主義と相成る︒サボテンから
194
いゝ︒いやしくも天地の間に一個の漱石が漱石として存
在するあいだは漱石はついに漱石にして別人とはなれま
せん︒英国趣味があるなら︑漱石が英人に似ているので
はない︒英 人が漱石に似ているのである︒
君英訳をやるってそりゃ少々むりだよ︒英文で立とう
と思うなら今から五六年そっちの丁稚奉公でもしなけり
ゃいけない︒それより英文を日本に訳すほうがいゝ︒も
十月二十一日
夏目金之助
もうかくのが厭になったからこれにて擱筆︒
かく ひつ
っとも何を訳していゝか僕にもちょっとわかりかねる︒
195
森田白楊様
本郷 区丸山福山町四番地伊藤はる方森
十月二十二日 ︵月︶午前八時︱九時 本郷区駒込千駄木
町五十七番地より
田米松へ
さめ ず
君の夜中にかいた手紙を見ていると東洋城が誘いに来
いたくずはいまだにカクシの中に丸めてある︒
川崎屋という料理屋で飯をくう時さき棄てて︑しかもさ
す
たから︑手紙は洋服のカクシヘ入れて品川の先の鮫州の
196
よ
まん こう
余 は 満腔 の 同 情 を も っ て あ の 手 紙 を よ み ︑ 満 腹 の 同 情
をもってサキ棄てた︒あの手紙を見たものは手紙の宛名
にかいてある夏目金之助だけである︒君の目的は達せら
きづかい
れて目的以外のことは決して起る気遣はない︒安心して
余の同情を受けられんことを希望する︒
余の知る人のうちに二三君と同様の境遇の人あり︒い
な 境 遇 の 人 な り と き く ︒ され ど 彼等 は皆 相 応 に 成 功 の 人
なり︒君も相応に成功の緒を得ばこの不幸を忘るるを得
んか︒余は君がこの一事を余に打ち明けたるを深く喜ぶ︒
余をそれほど重く見てくれた君の真心をよろこぶ︒同時
197
にこの一事を余に打ち明けねばならぬほど君の心を苦し
のろ
士にならざるを苦にし︑教授にならざるを苦にすると一
前に汲々たるがゆゑに進むあたはず︒かくのごときは博
一事かへって君がために一光彩を反照し来らん︒たゞ限
きた
をもって君が煩とするものぞ︒君もし大業をなさばこの
功 業 は 百 歳 の 後に 価 値 が 定 ま る ︒ 百 年 の 後 誰 か こ の 一 事
たれ
天地を懊悩するに足らんや︒君が生涯はこれからである︒
おうのう
る を 悲 し む ︒ 男 子 堂 々 た り ︒ 這 般 の こ と あに 君 が風 月 の
しや はん
余に打ち明くべく余義なくさるるほど君の神経の衰弱せ
めたる源因者︵もしあらば︶を呪ふ︒同時にこの一事を
198
般なり︒百年の後百の博士は土と化し千の教授も泥と変
わが ぶん
ず べ し ︒ 余 は 吾 文 を も っ て 百 代 の 後に 伝 へ ん と 欲 す る の
野心家なり︒近所合壁と喧嘩をするは彼等を眼中に置か
ねばなり︒彼等を眼中に置けばもっと慎んで評判をよく
することを工夫すべし︒余はそのくらゐなことがわから
いと
ぬ愚人にあらず︒たゞ一年二年もしくは十年二十年の評
ごう
判 や 狂 名 や 悪 評 は 毫 も 厭 は ざ るな り ︒ い か ん とな れ ば 余
はもっとも光輝ある未来を想像しつゝあればなり︒彼等
を限中に置くほどの小心者にはあらざるなり︒彼等に余
が本体を示すほどの愚物にはあらざるなり︒彼等が正体
199
を見あらはしうるほどな浅薄なものにあらざるなり︒余
べん せん べん せん
の雪と消え去るべし︒勉旃々々
十月二十一日夜
十一時池上より帰りて
森 田白 楊 様
︹以下余白 に朱書 ︺
夏目金之助
君の偉大なるを切実に感じうるとき這般の因果は紅炉上
こう ろ
ははじめて余の偉大なるを感ず︒君も余と同じ人なり︒
信仰を求めず︒後世の崇拝を期す︒この希望あるとき余
は隣り近所の賞賛を求めず︒天下の信仰を求む︒天下の
200
いだ
タツト
人もし向上の信を抱いて事をなす時 貴 キコト神人ヲ
ふた てん がい ち
超越シテ蓋天蓋地に自我ヲ観ズ︒天子様ノ御威光デモコ
レバカリハドウモデキン︒漱石ハ喧嘩ヲスルタビニコノ
本郷区弥生町三番地小林第一支店鈴木
さ
君の夜中にかいた手紙は今朝十一時ごろよんだ︒寺田
け
三 重 古 へ ︹ 封 筒 の 表 側 に ﹁ 第 一信 ﹂ と あ り ︺
町五十七番地より
十月二十六日 ︵金︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄木
域 に 出 入 ス ︒ 白 楊先 生 ハ イ カ ニ ︒
201
も四方太もまあ御推察のとおりの人物でしょう︒松根は
しているから妙だ︒そうしてあの
め しど き
し て 食 う ︒﹁ 今 日 も 時 刻 を ハ ズ シ テ 御 馳 走 ニ ナ ル ﹂ と か
飯を食うに︑あたかも正当のことであるかのごとき顔を
男は鷹 揚である︒人のうちへ来 て坐り込んで飯時が来て
十円の月給でキュ
く
ている︒伯爵ノ伯父や叔母や︑三井が親類でそうして三
んとも思わない︒あれがハイカラならとくにエラクなっ
してじきむきになる︒そこで四方太と合わない︒僕はな
なところがある︒しかしアタマはあまりよくない︒そう
アレデ可愛らしい男ですよ︒そうして貴族種だから上品
202
﹁どうも難有うございます﹂とかいったことがない︒自
分のうちで飯をくったようにしているからいゝ︒
君 は 森 田 の こ と だ け は 評 し てこ な い ︒ お そ ら く 君に 気
に入らんのだろう︒あの男は松根と正反対である︒一挙
と力めている︒近ごろはようやくのことあ
つと
一動人の批判を恐れている︒僕はなるべくあの男を反対
く
にしょう
れだけにした︒それでもまだあんなである︒しかるにあ
あな るまでには深い 源因がある︒それではじめ て逢った
人からは妙だが︑僕からはあれがきわめて自然であって︑
しかも大いに可愛そうである︒僕が森田をあんなにした
203
責任はもちろんない︒しかしあれを少しでももっと鷹揚
な ん と も思 わ な い ︒ 現 在 状態 が 変 化 すれ ば こ の狂態 も や
死んでから人が気違ときめてしまったって少しも恥とも
たくさんなのである︒現在状態がつゞけば気違である︒
皆方便的なことで他人から見れば気違的である︒それで
になるような 行 をしてはおらん︒僕の行為の三分二は
お こな い
僕の教訓なんて︑とんでもないことだ︒僕は人の教訓
ほどのこともないが叱られることもなかろう︒
君をしかるって︑それでたくさんだ︒そんなにほめる
に無邪気にして幸福にしてやりたいとのみ考えでいる︒
204
めるかもしれぬ︒そうしたら死んでから君子といわれる
かもしれん︒つまり一人の人間がどうでもなるところが
自分ながら愉快で人には分らないからいゝ︒気違にも︑
君子にも︑学者にも︑一日のうちにこれより以上の変化
もして見せる︒人が学者というも︑気違というも︑君子
さし つ か え
というも︑月給さえ渡っていればちっとも差 支 ない︒
ま
ね
だ か ら 僕 は 僕 一 人 の 生 活 を や っ てい る の で 人 に 手本 を示
しよ さ
夏目金之助
しているのではない︒近ごろの僕の所作を真似られちゃ
十月二十六日
たいへんだ︒草々
205
鈴木三重吉様
本郷区弥生町三番地小林第一支店鈴木三重
十 月 二 十 六 日 ︵ 金 ︶︵ 時 問 不 明 ︶ 本 郷 区 駒 込 千 駄 木 町 五
十七番地より
吉 へ ︹ 封 筒 の表 側 に ﹁ 第 二信 ﹂ と あ り ︺
たゞ一つ君に教訓したきことがある︒これは僕から教
の と 思 っ て い た ︒ 旨 い も の が 食 え る と 思 っ て い た ︒ 綺麗
うま
僕は小供のうちから青年になるまで世の中は結構なも
えてもらって決して損のないことである︒
206
な 着 物 が き ら れ る と 思 っ てい た ︒ 詩 的に 生 活 が で き てう
つくしい細君がもてて︑うつくしい家庭ができると思っ
ていた︒
もしできなければどうかして得たいと思っていた︒換
言すればこれ等の反対をできるだけ避けようとしてい
た︒しかるところ世の中にいるうちはどこをどう避けて
もそんな所はない︒世の中は自己の想像とはまったく正
反対の現象でうずまっている︒
そこで吾人の世に立つ所はキタナイものでも︑ 不愉快
なものでも︑いやなものでもいっさい避けぬ︑いな進ん
207
でその内へ飛び込まなければなんにもできぬということ
たごとく閑文字に帰着する︒俳句趣味はこの閑文字の中
この点からいうと単に美的な文字は昔の学者が冷評し
流に出なく てはいけな い︒
分のよいところを通そうとするにはどうしてもイブセン
はいけない︒あれもいゝがやはり今の世界に生存して自
き わ め て 僅 小 な 部 分 か と 思 う ︒ で草枕 のよ うな 主 人公 で
らすということは生活の意義の何分一か知らぬがやはり
たゞきれいにうつくしく暮らす︑すなわち詩人的にく
である︒
208
に逍遙して喜んでいる︒しかし大なる世の中はかゝる小
天地に寐ころんでいるようではとうてい動かせない︒し
か も 大 い に 動 か さ ざ る べ か ら ざ る 敵 が 前 後 左 右に あ る ︒
いやしくも文学をもって生命とするものならば単に美と
いうだけでは満足ができない︒ちょうど維新の当時勤王
家が困苦をなめたような了見にならなくては駄目だろう
にゆう ろう
と思う︒間違ったら神経衰弱でも気違でも 入 牢でもな
んでもする了見でなくては文学者になれまいと思う︒文
あい と お ざ
学者はノンキに︑超然と︑ウツクシがって世間と相 遠
かるような小天地ばかりにおればそれぎりだが︑大きな
209
う︒
う
はつまらない︒というて普通の小説家はあのとおりであ
まるで別世界の人間である︒あんなのばかりが文学者で
まい︒かの俳句連虚子でも四方太でもこの点においては
はい く れ ん
ろんそうはゆかぬ︒文学世界もまたそうばかりではゆく
澄ましているようになりはせぬかと思う︒現実世界はむ
す
ウ ツ ク シ イ と 思 う こ とば か り か い て︑ そ れ で文 学 者だ と
君の趣味からいうとオイラン憂い式でつまり︑自分の
うれ
れ ぬ ︒ 進 ん で 苦 痛 を 求 め る ため で な く て は な る ま い と 思
世界に出ればたゞ愉快を得るためだなどとはいうておら
210
はい かいてき
る︒僕は一面において俳諧的文学に出入すると同時に一
面において死ぬか生きるか︑命のやりとりをするような
はげ
維新の志士のごとき烈しい精神で文学をやってみたい︒
いと
それでないとなんだか難をすてて易につき劇を厭うて閑
こし ぬけ
に走るいわゆる腰抜文学者のような気がしてならん︒
破戒にとるべきところはないが︑たゞこの点においテ
く
夏 目 金之 助
出シタマエ︒以上︒
他をぬくこと数等であると思う︒しかし破戒イマダシ︒
鈴木三重吉様
十月二十六日
三重吉先生破戒以上の作ヲドン
211
十一月七日 ︵水︶午後四時︵以下不明︶本郷区駒込千駄
あやしく
仙台市第二高等学校斎藤阿具へ
さふ らふへい
く
かねて願ひ上げおき 侯 塀 ︑いよ
木町五十七番地より
拝啓
そろ
でもはいれる︒
してくれたまえ︒三方とも四方ともあやしい︒どこから
十八円なり︒この水道は君に寄付つかまつるから塀を直
日赤痢ができたゆえ︑僕奮発して水道をつけたり︒代金
相成り候︒どうか始末をしてくれたまえ︒僕のうちに先
212
ねがい
僕は君のうちにおりたいからお 願 をする︒おりたく
なければだまって越してしまう︒僕は千駄木に当分いる
日
いで
夏目金之助
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
昨日はお出かと思っていたら︑東洋城の注進で顔がは
きのう
五十七番地より
十一月九日 ︵金︶午後六時︱七時 本郷区駒込千駄木町
斎 藤阿 具 様
七
つもりだから︑どうか手入をしてくれたまえ︒以上
213
かみ ゆい どこ
○
くさ
こうろく
ぜん
わるくい
あが
たいができるか︑でき 損 うか︑またはでき上らないか
そこな
正月には非人情の反対すなわち純人情的のものがかき
○
文章談はほんの一口でつまらんものです︒
思います︒
としている︒しかし田舎の趣味があるところが面白いと
うた︒あのジヽイは僕も 嫌 だ︒通編西洋臭い︒焼直し然
きらい
アンカを四方太がほめた︒森田白楊はさん
です︒東洋城と三重吉が大いに論じていました︒紅緑の
ぐ
きました︒昨日はだいぶ大勢来ました︒しめて十三四人
おおぜい
れたというわけで髪結床も油断のならないものと気がつ
214
しり
分らない︒文債が多くて方々から尻が来て閉口です︒
坊っちゃんは依然として広告されていますね︒どうか
まぬ
正月分は︵もしできたら︶この醜態を免がれたいと思う︒
やつ
もん
僕今度は新体詩の妙な奴を作ろうと思う︒
いも
文界は依然として芋を揉んでいる︒そのなかに混じて
奮闘するのは愉快ですね︒皮がむけて肉がたゞれても愉
い
快だ︒僕もし文壇を退けば西都へ行って大学で済まして
か
講 義 を し て い ま す ︒ し か し せ っ か く 生 れ た 甲斐 に は 東 京
うちじに
いち
吉原の酉の市なんか僕も見たかった︒
とり
で花々しく打死をしたいですね︒
215
二三日漫然とあるきたい︒手紙をかくだけでもずいぶ
金
本郷区森川町一番地小吉館小宮豊隆へ
くとちょっと一仕事だが返事をよこせというから上げ
今日は長い手紙をかかなければならん日で︑四五本か
五十七番地より
十一月九日 ︵金︶午後六時︱七時 本郷区駒込千駄木町
虚子先生
十一月九日
ん骨が折れる︒以上
216
る︒
昨日は客に接すること十三四人ちょっと驚ろいた︒し
かし知った人があゝいうふうに寄って︑みんなが遠慮な
く話をするのを聞いているほどな愉快はない︒僕は木曜
日 を集 会 日 と定 め た の を い ゝ こ と と 思 う ︒
君は一人でだまっている︒だまっていても︑しゃべっ
ても同じことだが︑心に窮屈なところがあってはつまら
ない︒平気にならなければいけない︒うちへ来る人は皆
恐ろしい人じゃない︒君のほうでだまってるから口を利
かないのだ︒二三度顔を合せればすぐ話ができる︒実は
217
君のようなのが昨日の客中にもあるのだが︑それが構わ
おおせ
猛烈なところがある︒あの両人は
のだ︒今でもある人はそう思っている︒ところが大違い︒
幾人でもいる︒僕も昔は内気で大いに恥ずかしがったも
りに俳句の会へでも出ると仮定したまえ︒知らない人は
人しい連中でちっとも気兼などをする男じゃない︒君か
き がね
あれみあれぎりの好人物である︒セビロ連はもっとも大
親友である︒色の白い顔は東洋城という俳句家である︒
御仰のとおりなか
く
である︒中川という人はやさしい人であるが三重吉君は
ずに話をしていたから面白い︒君も話せば面白くなるの
218
外部こそ同じだが内心はどんな人の前でもなんとも思わ
ない︒学校などで気に喰わない教師などがいればフンと
いって鼻であしらっている︒それでたくさんなのだよ︒
世の中にエライ人がむやみに多いと思うから恥ずかしく
きま
なったり︑極りがわるくなるので︑自分の心が高雅であ
ると下等なことをするものなどはしぜんと限下に見える
からちっとも臆する必要が起らないものさ︒
こんな気炎を吐くのも木曜日に君を話させようと思う
からさ︒また来 る時は大いに弁じたまえ︒忙しいからこ
こうむ
れで御免を 蒙 る︒以上
219
十一月九日
小宮豊隆様
夏目金之助
使い持帰
十一月十一日 ︵日︶本郷区駒込千駄木町五十七番地より
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
今日は早朝から文学論の原稿を見ています︒中川とい
から少々降参をして愚痴たら
ぐ
読んでいます︒
う人に依頼したところ︑先生すこぶる名文をかくものだ
220
とうがん
今四十枚ばかり見たところへ赤い冬瓜のようなものが
もって驚ろきました︒
驚ろきました︒赤冬瓜のことは一二行であ
台所の方から来て驚ろきました︒それに長い手紙がある
く
のでいよ
く
とは自我説文学説だからいよ
御意見は面白く拝見しました︒だいぶ御謙遜のようです
があれはいけません︒しかし文章について大意見あると
ははなはだ面白い︒ぜひ伺いたいと思います︒
アン火は感じがわるいですね︒フランスあたりのいか
さま
四方太は白紙文学︑僕は堕落文学︑君はサボテン文学︑
様ものを背負い込んだのでしょう︒
221
ぐ
んでも採用するという憲法です︒
かってにやればいゝ
採用しないことにしました︒その代りほめたところはな
ら面 白 い ︒ 僕 は 人 の 攻 撃 を い く ら で も き く が ︑ たい が い
し ょ う ︒ 東 洋 城 の オ バ サ ン が 二 百 十 日 を ほめ た そ う だ か
待たれておいて大いに驚ろかすつもりで奮発してかきま
天下が僕の文を待つははなはだ愉快な御愛嬌で難有く
だからいやだ︒
いゝと思う︒ところが四方太先生は議論をしませんよ︒
のです︒それで逢えばめちゃに議論をして喧嘩をすれば
三重吉はオイラン憂い式︑それ
222
く
なんだかムズ
し て い け ま せ ん ︒ 学 校 な んど へ 出 る
のが惜しくってたまらない︒やりたいことが多くて困る︒
たお
僕は十年計画で敵を斃すつもりだったが︑近来これほど
短 気 な こ と は な い と 思 っ て 百 年 計 画 に あ ら ため ま し た ︒
二十日までにかきます︒
十一月十一日
虚子先生
夏 目 金之 助
ハムは大好物だから大いに喜んで食います︒
木曜に入らっしゃい︒
百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません︒
223
十一月十二日 ︵月︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄木
お出くだされたとこ
いで
下谷区谷中清水町五番地橋口清へ
ご れい けい
く
先日は御令兄がわざ
町五十七番地より
拝啓
外の来客があってすぐお帰りでは
て体裁を見ました︒今度の表紙の模様は上巻のより上出
昨夜服部が猫の中編の見本を持って来ました︒はじめ
なはだ失礼しました︒どうかまたお出ください︒
たところへ︑また
く
ろ︑あいにく親類のものがある用事で名古屋から来てい
224
来と思います︒あの左右にある朱字は無難にできて古い
雅味がある︵上巻の金字は悪口で失礼だがむやみにギザ
ギ ザ し て 印 と は 思 え な い ︶︒ 総 体 が 淋 し い が 落 ち 付 い て
いると思います︒扉の朱宇も上巻に比すれば数等よいと
はま
思います︒ワクの中はうまく嵌っているように思われま
す︒
うずら かご
鶉 籠の三枚の扉は先だって持って来ましたがどれも
ほ
ら
駄目だから帰しました︒それからまだ持って来ません︒
ふ せつ
浅井の画はどうですか︒不折はむやみに法螺を吹くか
え
なにをしていることやら︒
225
夏目金之助
ら近来絵をたのむのがいやになりました︒まずはお礼ま
帰してやりました︒
と も 出 ら れ ま せ ん ︒﹁ 女 学 世 界 ﹂ の 記 者 が 来 た か ら 追 い
どうも忙がしくて困ります︒こんないゝ天気にちょっ
橋口清様
十一月十一日夜
で︒草々頓首
226
十一月十六日 ︵金︶午後五時︱六時 本郷区駒込千駄木
麹町 区飯田町六丁目二十三番地滝田哲
ね
読売新聞文壇担任の義につき昨夜考えながら寐
町五十七番地より
太郎へ
拝啓
でしまった︒それゆえべつだん名答もできぬ︒
まずちょっと思い浮んだことをいうと月に六十円くら
︵ママ︶
い で 各 日 に 一 欄 も し く は 一 欄 半ず つ か く の は ち と 骨 が 折
わか
れる︒もっともやってみんから分らんが︑たぶんいやに
僕が各日にかけば高等学校か大学をやめる︒どっちか
な るだ ろ う ︒
227
やめるかといえば大学をやめる︒
ありがた
大学はべつだん難有いとも名誉とも思うておらん︒今
ら︑すぐ運動してはいろうと思うているものもあるらし
めればいゝと考えているらしい︒余がやめれば︑あとか
る︒生徒のあるものは生意気である︒ある教師は余がや
なおやめない︒高等学校の教師のあるものは生意気であ
裕を作るに便だからやめぬ︒のみならず今のところでは
高等学校は授業が容易で文学上の研究および述作の余
たとて職に堪えぬとはいわれない︒
まで三年半に余としては一人前の仕事をしている︒やめ
228
やつ ら
けい ち よ う
い ︒ こ ん な 奴 等 を 増 長 さ せ て は 世 の ため に な ら ん か ら や
かん が え
めぬ︒生徒はなんの 考 もなくたゞ軽 佻 にして生意気
な の で あ る ︒ し か し こ ん な 生 徒 を 征 伏 しな い で 学 校 を 出
ては余は生涯心持ちがわるい︒世のためになることを自
う
分の安きを得るために逃げたようではなはだ不愉快であ
る︒だから高等学校は決してやめぬ︒もっともそのうち
職員のあるもの︑もしくは生徒のあるものと衝突して事
き
件が急に発展して出るかいるか二つに極める場合が起る
かもしれぬ︒余はそんなことがあればいゝと心待ちに待
っている︒しかしそうして出るなら格別それでなければ
229
はい
出ない︒騒動を起して出るにしても僕の代りにはいりた
こで僕は躊躇する︒
の授業のために時間を奪われると大した相違はない︒そ
一日で読み捨てるもののために時間を奪われるのは大学
くも文筆をもって世に立つ以上はその覚悟である︶︒たゞ
人たる僕の力で左右するわけにはゆかぬ︒しかしいやし
として後世に残るものではない︵後世に残る残らんは当
ら八百円くれるにしても毎日新聞へかく事柄は僕の事業
大学をやめれば八百円の収入の差がある︒よし読売か
がっているものは決して入らせない︒
230
よしそれでも構わんとする︒しかし読売新聞は基礎の
堅 い 新 聞 か も し れ ぬ が 大 学 ほど 堅 く は な い ︒ も っ と も 大
学でいつ僕を免職するかもしれぬ︒僕の眼中には学生も
学 長 も 教 授 も な い か ら ︑ そ の く ら い の こ と は い つ 僕 の頭
の上へふりかゝって来るかもしれん︒しかしその懸念を
度外視するときは大学の俸給は読売よりも比較的固定し
ている︒竹越氏は政客である︒読売新聞と終始する人で
いつ たん
はなかろう︒一旦の約束である程度の機械的文学欄を引
き 受 け た と こ ろ で 竹 越 氏 と 終始 し て 去 就 す る よ う に 融 通
の利く文学者ではない︒ある時ある場合に僕は一人で立
231
場を失うようになるかもしれぬ︒竹越氏がいかに勢力家
い︒
なくてはならん︒ところが今の僕にはさほどの事情がな
かそこには未来の危険を犠牲にするだけの強烈な事情が
ひとも新聞紙上で自家の説を発表してみたい﹂とかなに
教育界に立てぬ人だから︑退かなければならん﹂とか﹁ぜ
の ほ う で そ れ だ け の モ チ ー ブ が な く て は な ら ん ︒﹁ 僕 は
ま た そ れ だ け の 覚 悟 を も っ て 最 初 か ら 入社 す る に は 僕
者を生涯引きずってあるくわけにはゆかぬ︒
でも︑いかに僕に好意を表しても︑全然方面の違う文学
232
それから︑よし︑以上の理由を念頭に置かずして御依
頼に応ずるにしたところで︑とうてい文欄が僕の当初の
所期のようにゆくものではない︒読売には読売に付属し
た在来の記者もいる︒僕が文欄を担任すれば僕の近しい
人の文字をのみ載せて︑在来の人の文字を閑却するよう
になるかもしれん︒そうすれば苦情が起る︒その他いろ
いろの事で苦情が持ち上 がる︒
もし僕の待遇をよくして月給を増して僕の進退を誘う
とすれば僕も少しは動くかもしれん︒しかし未来の危険
は依然として元のとおりである︒のみならず比較的僕が
233
過分の月給をとれば社中にまた不平が起る︒島村抱月氏
ためだろうと思う︒早々頓首
十一月十六日
夏目金之助
以上の理由だからしてまず当分は見合わすほうが僕の
ある︒
とである︒しかし事情を総合して考えるとそれも駄目で
している人にいくぶんか余裕を与えてやりたいというこ
が文壇を担任して︑僕のうちへ出入する文士の糊口に窮
こ こう
今度の御依頼についてもっとも僕の心を動かすのは僕
の日々文壇と同様の事情が起るにきまっている︒
234
滝田哲太郎様
府下巣鴨町上駒込三百八十八番
十一月二十三日 ︵金︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込
千駄木町五十七番地より
中学世界の臨時増刊にある十三年前の英文科学
地 内 海 方 野 上 豊 一郎 へ
拝啓
たくわ
生の写真中におるのはまさに僕である︒後列の左から二
び ぜん
番目に美髯を 蓄 えているのが僕です︒一番目は山川信
次郎という男である︒混同しちゃ困る︒あれは卒業した
235
く
ひげ
く
で髭も生やし立てのほや
ちよ う じやてい
てのほや
しのばず
のところを
を眼中に置いたことがない︒女の十中八九までは僕の作
幸福である︒実をいうと創作をやる時にかつて女の読者
愛読するとかいてある︒こういう異性の知己を得た僕は
なんでも商人の家に生れて云々とある︒そして僕の作を
なことをかいたものかと思ったらそうでもないようだ︒
呼んでいるのは︑ぜんたい何物ですか︒男がかりにあん
僕のことだけ夏目先生といって他の人は皆雅号をもって
同号にとし女という人が当世の文学者を評したなかに
不忍の 長 蛇亭の前で写したのである︒
236
に 同 情 を 有 し て お ら ん と 信 じ て い る ︒ そ の な か に こ んな
人がひょこりと出て来るとちょっと驚ろかされる︒そし
て風葉天外一派を罵倒している見識家だからなお驚ろ
く︒どうか西村君に逢ったらあのとし子さんのことをも
う 少 し 聞 い て お い て く れ た ま え ︒ つい でに 大 い に 感 謝 の
野上豊一郎様
十一月二十三日
夏目金之助
意を表したいものである︒まずはそれまで︒不一
237
して遅
本郷 区森川町一番地小吉館小宮
十一月二十五日 ︵日︶午前十一時︱十二時 本郷区駒込
千駄木町五十七番地より
豊隆へ
く
猫をはやく上げようと思ったが下女がぐず
で も な い ︒ た ゞ や す ん だ の さ ︒ 霊 の 感 応 で 僕 が や す むな
さればといって君が病気だからそれに対して休んだわけ
んで寐ているがいゝ︒僕がやすんだのは病気じゃない︒
はずはないのだから風邪をひいたらゆっくり葛湯でも呑
くず ゆ
などははなはだ難有い︒元来僕の講義はそんなに面白い
くなった︒風邪をひいても僕の講義だけ出席してくれる
238
んてことがあるものか︒さほどに僕を信仰してくれるの
は難有いが君がそんな傾向を発達させると︑とんでもな
いことになるよ︒僕だからまだいゝが︑女が相手だと君
はついにその女のために食い殺されてしまう︒あぶない︒
君のような性質の人はなるべく反対の性質を養成しなく
てはいけない︒君も年ごろだから今に恋をするかもしれ
ない︒その時に霊の感応なんぞばかり振り回わしている
と︑小宮豊隆なるものは地球の表面から消滅してしまう︒
僕も君くらいな年には霊の感応を担いであるいたもの
だ ︒ そ し て そ の お 蔭 で も っ と え ら く な る とこ ろ を こ んな
239
馬鹿になってしまった︒以来は決して霊の感応を担いじ
ほつ く
僕忙がしくって困る︒人にできることだと君にすけて
を し て面 白 か っ た ︒
直ったら木曜に来たまえ︒先だっては大勢来て皆々議論
て葛湯を飲んでね︑日向へ寐て発句でも作ってるがいゝ︒
ひ なた
ことはしないから君もやめなくっちゃいけない︒そうし
て君を嬉しがらせるくらいはできる︒しかしそんな罪な
うな怖い女がたくさんいる︒僕だって霊の感応を利用し
になる︒世の中には感応を担がせてひそかに冷笑するよ
ゃいけない︒ことに女に対して担いじゃたいへんなこと
240
もらうがそうはゆかない︒
君はあまり神経質だから今のうちにもう少し呑気にな
っておきたまえ︒今のうちに呑気になるのはわけはない︒
五十七番地より
夏目金之助
本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方森田
十二月八日 ︵土︶午後五時︱六時 本郷区駒込千駄木町
小宮豊隆様
十一月二十四目夜
僕がしてあげるから毎木曜に必ず出勤したまえ︒以上
241
米松へ
やま びこ
そろ
ひつ き よ う
山彦の評落手︑拝見︒一々賛成に候︒しかしデカ ダン
候︒
ホトトギス︵
︶いまだ手を下さず︒今度は今ま
注 ﹁ 野分 ﹂
執 筆 をさ す
論ぜんと思ひしところ時間なくそのまゝに相成りをり
する一派に候︒それもよろしく候︒僕文学論にてこれを
カ ダ ン は 結 構 に 候 ︒ た ゞ し 真 の た め に 美 や 道 徳 を 犠牲 に
感に候︒三重吉のほうがよほど上等に候︒君のほうのデ
駄目に候︒ボードレールなど申す 輩 のはつひに病的の
やから
派の感じはたとひいかなる文学にも散点せざれば畢 竟
242
まと
でと違ふ方面をかかうと存じ候︒しかし趣向纏まらず二
十 日 ま で に で き さ う もな し ︒ 実 はハ ム レ ッ ト を 凌ぐ や う
おど
な傑作を出して天下のモヽンガーを驚らかしてやらうと
ほねお り ぞん
思へども︑歳末多忙のうへいくらえらいものを出しても
︵ マ マ ︶ すわ
く
堕落文
決して驚ろかぬ性根を据った読者のみゆゑ骨折損と存じ
金
おやめにいたし︑これから学校のひまにポツ
白 楊 様
十二月八日
学を五六 十枚かかうと存じ候︒以上
243
つ
か
うけ あ
本日曜からホトトギスに取りかゝりま
麹町 区富士見町四丁目八番地高浜清
十二月十日 ︵月︶午前十一時︱十二時 本郷区駒込千駄
いよ
く
木町五十七番地より
へ
拝啓
は
し て く だ さ い ︒ 正 月 発 行 期 日 が 後れ て も 職 人 が 働 か な い
おく
の 朝 に は 全 部 渡 さな く て は い け ま せ ん か ︒ ち ょ っ と き か
ば傑作にして御覧に入れるがそうもゆくまい︒二十一日
えない︒しかしできるだけかいてみましょう︒時があれ
した︒学校があるから二十日までにできるかどうか受合
244
から同じことでしょうか︒
僕の家主が東京へ転任するについて僕に出ろという︒
は な は だ 厄 介 で あ る ︒ 今 時分 転 任 せ ん で も の こ と で あ る
むこう
のにと思う︒しかし 向 は所有権があるから出なければ
ならない︒君どうですか︑いゝ所を知りませんか︒あっ
夏目金之助
たら移りたいから教えてください︒あれば今年中に移っ
座下
虚子先生
十二月九日夜
てしまう︒頓首
245
十二月十三日 ︵木︶午前四時︱五時 本郷区駒込千駄木
仙台市第二高等学校斎藤阿具 へ
東京御転任につき︑小生もその後精々家宅を捜
町五十七番地より
拝啓
にしかたまち
ひき う つ り
しかるところ︑こゝに申し訳なき御相談相起り候︒先
べくと存じ候︒
ば来学期よりお差支へなく当家へお引 移 の運びに至る
さしつか
まづたぶんはそれへ引き移ることと相成るべく︑さすれ
索いたしをり候ところ︑西片町にあく家一軒これあり︑
246
便申しあげ候とほり小生自弁にてお宅へ水道をかけ候と
ころ︑これは当分御厄介になるつもりにて貴兄へ寄付す
るよし申し上げおき候︒ところが二三ケ月にして他へ移
転と申すことに相成り︑しかもその移転先も自弁にて水
道をかけたる男にて︑もし引き移るとすれば二十何円か
敷設賃を払って譲り受けねばならぬことと相成るのみな
らず︑今まではなかった敷金なるものを取られ一時に費
かさ
用が嵩むことに相成り候︒
それで先約を取り消すのははなはだ厚顔の至りゆゑ︑
しひてとは申しかね候へども︑水道のところは実費でお
247
引受を願へれば当方は非常な好都合に御座候がいかがの
ききずみ
の事情これあり万一お聞済もくだされ候は
づは右用事のみ︒草々頓首
十二月十三日
斎藤阿具様
引き移るやいなやは二三
夏 目 金之 助
日中に確定致し候へば︑きまり次第申し上ぐべく候︒ま
それから前述の宅へいよ
く
たゞし水道の実費は十八円に御座侯︒
ば︑幸甚この事に存じ候︒
もいろ
く
ものに御座候や︒これはあまりな申し条なれど︑当方に
248
む こ う はち ま き
麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
十二月十六日 ︵日︶午後四時︱五時 本郷区駒込千駄木
町五十七番地より
︹はがき︺
あく
は
つ
か
あが
︶製造中に候︒二十日までにでき上るつ
注
﹁ 野分﹂
欠びおできのよし︑小生だゞいま 向 鉢巻大頭痛にて
大傑作︵
もりなれど︑たゞいま八十枚のところにて︑予定の半分
にもいってをらぬゆゑ︑どうなることやら当人にも分り
かね候︒できねば末一二回分は二十日以後とおあきらめ
249
くだ さい︒
たち の
小生立退きを命ぜられこれまた大頭痛中に候︒
ほん がう ざ
く
下落いたし候︒残念
今度の小説は本郷座式で超ハムレット的の傑作になる
清へ﹇はがき﹈
駄木町五十七番地より
麹町区富士見町四丁目八番地高浜
十二月十六日 ︵日︶午後十一時︱十二時 本郷区駒込千
千万に候︒
はずのところ︑御催促にてだん
250
エン
タゞイマスコブル艶ナトコリヲカイテイル︒
表 題 ハ 実ハ キ マ ラ ズ ︒
人ガキタリ︑ナンカシテ一気ニ書ケ
﹁ 野 分 ﹂︑ ク ラ イ ナ ト コ ロ ガ ヨ カ ロ ウ ト 思 ヒ マ ス ︒ ド ウ
く
デショウ︒ナカ
郎へ
町五十七番地より
本郷 区台町二十七番地鳳明館中川芳太
十二月十九日 ︵水︶午後五時︱六時 本郷区駒込千駄木
ナイ︒
251
御手紙拝見︒僕今明両日中に長いものを︵
しち てん ばつ とう
︶ か
注
﹁ 野分 ﹂
うち
鈴木は病気をしたそうだ︒僕のうちでも家内中インフ
行くのを間違って僕のところへ来 たのだろう︒
文学論の校正が舞い込んで来た︒これは君のところへ
である︒
から︑降参をさせるような場所にいるほうが社会のため
も 構 ワ ナ イ ︒ 早 晩 夏 目先 生 に 降 参 す る に き ま っ て る ん だ
くださる御好意は難有いが︑あんなものはいくらあって
はおおむねきまった︒落雲館や車夫のない所をさがして
らくうん かん
き上げるので七顚八倒の苦しみお察しくだされたし︒家
252
ルエンザ︒下女は寐ている︒細君も起きたり寐たりして
いる︒僕だけ助かった︒僕が助からないと天下の大文章
経 験 す る が ︑ し ま いにい やに な る︒ もう 小説
ができ損うところであった︒万歳々々︒向鉢巻の大頭痛
く
はたび
つか
は お や め と い う 気 に さ え な る ︒ な んだ か 腹 が 痞 え て 苦 し
くって書き上げるまでは目が血走ってる︒眠たがる僕が
中川芳太郎様
十二月十九日
夏 目 金之 助
ちっとも眠くない︒夜通しでも起きていられる︒さよう
なら
253
注 ﹁野
分﹂
︶
本郷区森川町一番地小吉館小宮豊隆
十二月二十二日 ︵土︶午後五時︱六時 本郷区駒込千駄
木町五十七番地より
へ
君は長い手紙をかいたね︒ようやくホトトギス︵
らいろ
く
な 人 が く る ︒ 入 れ 代 り 立 ち代 り ︵ 鈴 木︑ 中川
晩 は 小 説 が 一 章 残 っ て 大 い に 勉強 し よ う と 思 う と 午 後 か
六本目である︒手紙も六木くらいかくと疲れる︒木曜の
を済ましたから今日は用事その他の手紙をかく︒これが
254
か
も来た︶たいていは十分くらいで帰した︒しかるに最後
はい しよ どう
にいたって債主俳書堂主人虚子が車を駆って原稿を受取
へき え き
り に き た の は い ち ば ん 辟 易 し た ︒ 僕 は ま だ 書 き上 げ て い
ない︒それから書き放しで見直してない︒それでやむを
えず虚子先生に半分朗続を頼んで︑あまり可笑しいと思
うテニヲハをちょっと直したらもう十時過ぎ︑そこへ中
央公論の滝田先生がやってくる︒なんでも十一時ごろに
なった︒それだから君が来てもやっぱり同じことであっ
僕引越をしなければ年末に諸先生を会して忘年会を開
た︒くればよかった︒
255
み あわ
こうと思うが︑手紙を出してそうして客を呼んで︑そう
ス
み
せ
子があると思うと落ち付いて騒げない︒僕はこれでも青
こ
僕をおとっさんにするのはいゝが︑そんな大きなむす
鶉 籠ができた︒今度来たら一部上げよう︒
うずらかご
く家へはいったらこのランプを買うことにいたそう︒
しくなった︒札を見たら十五円である︒今に瓦斯でも引
僕瓦斯会社出張所の前を通って見世にあるランプが欲
ガ
るといっていたが先生どうするかしらん︒
でも先だって東洋城がみずから台所へ出て指揮を 司 ど
つ かさ
して引越で見合せちゃ面白くないから控えている︒なん
256
く
年だぜ︒なか
若いんだからおとっさんには向かない ︒
兄さんにも向かない︒やっぱり先生にして友達なるもの
だね︒
︵ママ︶
おとっさんになると今日のような気分で育文館の生徒
な ん か と 喧 嘩 が で き る わ け の も の じゃ な い ︒世 の 中に な
にがつまらないって︑おとっさんになるほどつまらない
手コズッタ︒不思議なことは
ものはない︒またおとっさんを持つより厄介なことはな
ぐ
い︒僕はおやじでさん
おやじが死んでも悲しくもなんともない︒旧幕時代なら
せが れ
親不孝の罪をもって火あぶりにでもなる 伜 だね︒君は
257
女の手に生長したからそんな心細いことばかりいう︒だ
︵マ マ︶
な人からいろ
く
でどんな感じが起るか聞きたいと思う︒
く
僕はこれでいろ
り自分で自分のいうことを大袈裟に誇張することがあ
とのいえるうちは人間がつまり純粋なのである︒その代
を 打 ち あ け た 手 紙 や な に か を 受 取 る 男だ ︒ 人 に そ ん な こ
に自分の身の上
るものによませようと思って書いたものだ︒あれを読ん
のかいた小説をよんでごらん︒あれは天下の心細がって
になっていけない︒君の手紙を見て思い出した︒今度僕
んだん自分で心細くしてしまうと始終には世の中がいや
258
る︒自分は当時はそれほどと気がつかないでもあとから
そう思う︒君もそうだ︒いまに細君でももらうと大愉快
になるかもしれない︒つまらんことをかいて長くなった︒
夏 目 金之 助
これからちょっと昼寐でもしようと思う︒なんだかだる
小宮豊隆様
十二月二十二日
くていけない︒
259
芝区琴平町二番地朝陽館野間真綱へ
十二月二十四日 ︵月︶午後三時︱四時 本郷区駒込千駄
木町五十七番地より
︹は がき ︺
つき
小生駒込西片町十番地へ来る二十七日晴天ならば転宅
候︒
興行元
夏目漱石
興行に付︑なにとぞ御来援のほどひとへに願ひ上げ奉り
260
宇治山田市浦田町湯浅廉孫へ
十二月三十日 ︵日︶午後六時︱七時 本郷区駒込西片町
十番地ろノ七号より
お手紙拝見いたし候︒学友のため御尽力の段︑御もっ
せつ く
ともに存じ候︒小生もさういふことなら賛成のうへ拙句
しふ
集を出してもよけれど︑小生の俳句たるや出しても金に
ふところ
ならず︒君の学友の 懐 に金がはいらねば仕方なし︒次
に小生の句はまとめて一巻となすだけの価値なきはむろ
ん︑一巻をかたちづくるほどの量なし︒往年作るところ
けい じつ らい
のものたいがい散逸︑今わづかに十の一を存するのみに
さふら
候 へば︑たうてい句集にはなりかね候︒頃日来とんと
261
俳句に興を寄せず︒したがって作るところ絶無なればほ
へや
の事情にて
しけれど 狭 隘にてゐる室なし︒なんとかほかに工夫は
き よ う あい
勇気なし︒うちにゐて書生の代りをしてくれるものも欲
金のはいる割合に出費多く︑もとのごとく窮生を養ふの
なれどどうすることもできず︒近来いろ
く
は 卒 業 し て し ま ふ べ し ︒ 右 の 事 情 ゆ ゑ せ っ か く の 御依 頼
かもしれねど︑それを待って集を作るうちには君の友人
ければ︑あるひはホトトギスなどに一二句くらゐは出る
に候︒それからこの後句を作らぬと決心したわけでもな
とんど俳人としての漱石は死せりといふも不可なき有様
262
つかざるや︒
小生借家の持主斎藤阿具氏東京転任にて千駄木を追ひ
夏目金之助
出 さ れ ︑ 両 三日 前 表 面 の 処 に 転 住 ︒ 押 し つ ま り て い ろ い
湯 浅 兄
十二月三十日
ろ多忙︑いづれ永日を期す︒頓首
263