人物伝 ~アンネ・フランク~ 教育と学習の原理 看護学部 作成者 2年 ○○萌衣 ~アンネ・フランクの生涯~ アンネは、192 9年6月12日ド イツのフランクフ ルトで、 父オッ トー・フランクと 母エーディト・フ ランクの間に次女 として生まれた。 幸せそうな一家だが、 すでにこのころナチ スは国会で第一党に のしあがり、アンネ が3歳の1933年 1月30日、ヒット ラーが首相に就任、 1934年8月2日 ついに大統領も兼ね た、総統となり、ヒ トラー独裁体制が 着々と進んでいた。 1934年3月ア ンネ5歳のとき 次々と打ち出され るヒットラーの反 ユダヤ人政策に、 先行きに不安を感 じアムステルダム に移住した。 アムステルダムでア ンネの家族はしばら く幸せな日々を過ご せた。アンネはモン テッソリー小学校に 入学。たくさんの友 達ができた。これは アンネの親友リース (イスラエル在住) が持っていた写真。 1937 左端がリース、 2番目がアンネ リースはアンネと同じ歳 で親友であった。リース 自身もホロコーストの被 害者である。そのあまり にも悲しい体験のため、 オランダ名でリースと呼 ばれることを好まない。 本名ユダヤ名で、ハナ・ ピック。この写真は1995 年、広島のホロコースト 記念館で講演をされた時 のもの。 1942年アンネ1 3歳。13歳の誕生 日にアンネは日記帳 をプレゼントされた。 アンネはこの日記帳 にキティと呼びかけ ながら、少女らしい あこがれや希望、ま た大人の世界に対す る矛盾をすなおに書 き始めた。 アンネが日記を書い た最初の日記。 使い終わると大学 ノートや、出納帳等 に書いた。 日記を書き始めて、1ヶ月も 隠れ家の3階部分の模型。手 しない7月6日、姉のマル 前が本箱の秘密のドア。右の ゴットに呼び出し状が来た。 部屋がアンネの部屋。 アンネ一家はかねてから準 備していた隠れ家に移り住 むことにした。そこは、父 オットーの会社の事務所 だった。アムステルダムは 運河の町である。アンネ達 の隠れ家は、プリンセン堀 通り263番地にあった。 運河に面して1階が倉庫や 製粉所、2階が事務所、3 階が物置、その奥にもうひ とつ「うしろの家」と呼ば れた建物が連なっており、 そこに2年間隠れ住んだ。 ・オットー・フランク ・エーディト・フランク 狭く不自由な隠れ家の 住人は、アンネの家族 4名と他4名の計8名 だった。 正確には、さ らに猫一匹である。 ・マルゴー・フランク ・アンネ・フランク ・ヘルマン・ファン・ペルス 日記では、ファンダーンのおじ さん ・アウグステン・ファン・ペル ス 日記では、ファンダーンの おばさん ・ペーター・ファン・ペルス ・フリッツ・フェファー 日記 ではアルベルト・デュッセル アンネたちを命がけでかくまっ たのは、父オットーの会社の従 業員でした。ミープ・ヒース、ヨ ハネス・クレイマン、ビクトル・ クーフレル、ベップ・フォスキュ イルの4名である。彼らは自ら の命の危険をかえりみず隠れ 家の住人を援助したのである。 ミープ・ヒースは、日本を訪れ 次のように語った。「私たちは 英雄ではありません。私たちは 人間として、当然の事をしたま でです。」と。 支援者達の努力も空 しく、1944年8 月4日、 突然、軍靴 の音がひびき、つい に恐れていたことが 起こった。 密告によ り踏み込んできた秘 密警察により8人は 捕らえられオランダ のベステルボルグに あるユダヤ人収容所 に送られたのである。 ユダヤ人狩り(ワルシャワ) ベステルボルグから、貨 車に押し込まれ9月3日、 ポーランドにある絶滅収 容所、アウシュビッツに 移送された1ヶ月後、さ らに父母を離れ姉マル ゴーと共に、ドイツのベ ルゲンベルゼン収容所に 送られた。アウシュビッ ツに到着すると人々は選 別された。15歳に満た ない子供、老人、病人、 働けない者はガス室へと 送られた。 1945年2月、チフスで姉 のマルゴーが死んだ。アンネ もついに最後の気力も尽き果 て、2月15歳8ヶ月の短い生 涯を閉じた。 ※アンネ死亡時期 これまでの公式死亡日は3月 でした。ベルゲン・ベルゼン 収容所からの生還者数名の証 言によると、アンネは2月初 旬にすでにチフスにかかって いた兆候を見せていた。チフ ス発症後は12日間で死にいた る、とのことから、アンネ・ フランク財団より新しい見解 が発表されました。 「もし神様が私を長生きさせ てくださるなら私はつまらな い人間で一生を終わりたくあ りません。わたしは世界と人 類のために働きます。」 アンネ
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