朝鮮戦争 帰結:現在まで続く南北朝鮮の分断 二つの国家体制の固定化 朝鮮半島の戦勝国による分割占領 • 日本降伏・・・戦勝国(米ソ)の進駐 • 北緯38度線で、北はソ連、南はアメリカの占 領。 北と南の多様な民族独立運動 • それぞれに支配権をめぐり争う状況 • 冷戦の激化・米ソ対立の激化とともに、南北 それぞれで、政権樹立。 • 南北の敵対状況が固定化。 北・・・金日成(キム・イルソン) • 日本の植民地時代に満州に移住。 • そこで、抗日運動家として活躍。 • 45年10月ソ連占領下の北朝鮮に帰国。 • 同年12月 北朝鮮共産党の責任秘書 に。・・・指導者の地位を確立。 • 北朝鮮の改革を指導。 • 48年に北朝鮮の首相に。 • そのもとで、独裁体制 南・・・李承晩(イ・スンマン) • アメリカのプリンストン大学に学んだ後、ハワ イの在留朝鮮人社会を中心に独立運動。 • 日本降伏・朝鮮半島の米ソ両軍による解放 後、1945年10月米軍の斡旋で帰国。 • 48年大韓民国政府の樹立・・・初代大統領。 • 反共イデオロギーによる国民意識の統合。 • 反対勢力の徹底的弾圧…独裁体制構築。 李承晩ライン • 1952年1月、大韓民国(韓国)が自国周辺に設定 した主権水域。 • 李承晩大統領が、海洋主権宣言によって設定。 • 韓国では、平和線と呼ぶ。 • この水域を侵犯した日本漁船が多数拿捕され、 紛争が頻発した。 • 1965年日韓会談の合意により廃止。 48年 • 8月8日 南で、大韓民国(韓国)、成立。 • 9月9日 北で、朝鮮民主主義人民共和国、成 立。朝鮮全土で最高人民会議代議員選挙を したという形をとって建国。 朝鮮半島全域に統治権が及ぶことを主張。 「南朝鮮解放」論。 中国内戦 • 国民党と共産党の覇権・支配権をめぐる内戦に 毛沢東率いる共産党が勝利。大陸中国全土を 支配下に。・・・・ 1949年9月中華人民共和国成立 • 蔣介石・国民党勢力を台湾に追い込む。 • 蔣介石・国民党勢力は、台湾のみを支配下に。 • 広大な中国における共産党勝利の影響 1950年6月25日北朝鮮軍の侵攻開始 • 金日成(キム・イルソン)・南部の左派勢力と 連携して、南北の武力統一を図る。 • 北朝鮮人民軍は、軍事的優勢と政治的好機 を確信し、38度線を突破し、南部朝鮮へ侵攻。 • 一気にソウルを陥落させた。(地図参照) 韓国側…後退を続ける • ついに、臨時首都を釜山に移す。 • アメリカは軍事介入を決定。 • 1950年7月7日、ソ連が欠席した国連安全保 障理事会で、アメリカ軍主体の国連軍の結成 を認めさせた。 国連の対応 • 第二次世界大戦後の世界秩序を破壊する侵 略行為とみなし、軍事介入。 アメリカ軍主体の国連軍 • 釜山橋頭堡で、北朝鮮軍の進撃を食い止めた。対日戦の 連合国軍最高司令官マッカーサーが、国連軍を指揮。 • 9月15日 仁川上陸作戦…成功。北朝鮮軍の背後から攻 撃開始。 これにより、 • 戦局は逆転。北朝鮮軍は雪崩を打って敗走。 • 10月1日 国連軍が38度線を突破して、北朝鮮領内奥深く 進撃。 • 10月20日、米韓軍は、北朝鮮の首都・平城(ピョンヤン)を 占領。 マッカーサー、戦闘の北への拡大 • 10月25日、鴨緑江の線にアメリカ軍が迫る。 中国軍の参戦 • 10月25日、鴨緑江の線にアメリカ軍が迫るのを 見た中国が、人民義勇軍の名で参戦し、北朝鮮 を支援し、激戦。 • 事実上、戦争は、米韓対北朝鮮・中国の戦いに 拡大。 • 再び、戦線を38度線南方に押し戻す。 • 米韓軍が、再度北方に押し返す。 • その後、双方とも一進一退を繰り返した。 トルーマン、原爆使用を示唆 • 朝鮮の内戦は、米ソ両陣営の世界戦争に拡大 する気配。 • イギリスがヨーロッパでの再度の戦争勃発を怖 れ、アメリカに対して原爆使用の自制と戦争を朝 鮮半島に限定するよう説得。 • トルーマン・・・兵員の大増強と大軍拡を提案。 原爆使用を自制し、戦争を朝鮮半島に限定。 マッカーサー元帥解任 • マッカーサーは、中国本土爆撃、台湾の中国 国民党軍の使用などの強硬論を主張。 • 1951年4月11日、トルーマンによって解任され る。後任は、リッジウェー中将。 • マッカーサーの言・・・「老兵は死なず、ただ消 え去るのみ」 後任リッジウェー中将による 「逆コース」政策 • 1951年5月1日付・・・「対日講和も近づいた折から、占 領下の諸法令の再検討を承認する」との覚書を送る • 首相の私的諮問機関として、政令諮問委員会、設置。 • 石坂泰三東芝社長を座長とし、中山伊知郎らをメン バーとする。 • 追放の解除、独占禁止法の改正、労働法の改正など、 戦後改革の修正を提案。 • 占領期に作られた経済安定本部のような大きな権力 を有する行政機関の廃止。 51年7月から休戦会談、開始 • 6月23日、ソ連の国連代表マリクが、休戦会 談を提案。 • 熱い戦いは、約1年間継続したことになる。 • 停戦ラインや捕虜交換問題などをめぐり対立 が続く。 53年7月27日休戦協定 ・・・戦争終結 • この戦争は、南北政府を戦時独裁化させ、 • 南北分断の固定化へ(・・・今日に至る分断国 家)。 • アメリカは、この戦争以後、大規模な軍隊を恒常 的に維持する体制を確立し、中華人民共和国敵 視政策を固定化(70年代初めまで)。 戦争の犠牲者 • 「朝鮮人だけでも、百数十万人の死者と1000 万人の離散家族」。 • 「両軍の死者146万人(米兵33万)、民間人の 死傷者推計300万人」。 冷戦下、朝鮮戦争と日本 朝鮮戦争と日本 • 朝鮮戦争勃発・・・国連軍としてのアメリカ軍(7月7 日)・・・国連安全保障理事会。 • 在日アメリカ軍は急遽、出動準備開始。 • 7月8日、GHQマッカーサー総司令官は、日本政府に 対し、7万5000人の警察予備隊を創設し、海上保安庁 もさらに8000人を増員するよう指令。 • 「日本再軍備の指令」と憲法(平和主義・9条)の整合 性をとる道は? 朝鮮特需 • 戦争気構え・・・先を争う戦略物資の買い付け ・・・国際商品相場の急激な上昇 • 世界経済と日本経済への大きな刺激。 • 屑鉄や石炭の需要が急に活発化。 日本・・・アメリカ軍の朝鮮出動基地 • アメリカ軍の日本における軍用物資買付 • その支払いがドルで。 • 日本経済のドル収入が一挙に増加。 • 日本の輸出は、1949年に5億ドルそこそこ、50年 には8億ドル余りであったのに対し、50,51年度 通算で約6億ドル強のアメリカ軍の買い付け。そ の代金がドルで。 アメリカ軍の特需の中心 • 綿布、毛布、毛糸、建築用鋼材、有刺鉄線、 トラック、麻袋など戦場用品。 • 急のことで価格についてもうるさいことを言わ れず、特需は極めて有利な需要。 在日米軍兵站部 • 1949年8月 新設・・・対日軍需調弁の中枢機 関 • 特需の開始で、この機関によって、日本の一 部の旧軍需工場が復活。 その数…586工場(うち航空機および兵器工 場326.旧軍工廠67など)。 • これらは戦後、賠償指定工場とされていたが、 これらが復活。 日本軍需工場の復活 • 旧昭和飛行機の東京製作所 • 中日本重工業(三菱重工業)の名古屋第5工 場 • 板橋陸軍工廠 • 赤羽陸軍工廠 • 追浜の富士自動車 • 挙母(ころも)(現豊田市)のトヨタ自動車 などが主要なもの。 休暇のアメリカ軍人の消費 • ドル払い サービスまで含めた特需 • サービスをも含めたアメリカ軍の特需は、 1951年 6億ドル 52年 8億ドル 53年 8億ドル 日本の輸出の約6割から7割を占める大きな外貨 収入。 日本経済に必要な原材料の輸入が可能に。 加工貿易国家・日本。 対日講和と日米安全保障体制の成立 • 1945年9月から、日本全土の連合国(実際に はアメリカによる占領体制・・・日本の独立は いつか? • 現在の日本は、完全な意味での独立国か? あるいは、アメリカの従属国か? 対日講和へのプロセス • 中国における人民共和国成立を受けて、 アメリカの対日講和政策の進展。 トルーマン大統領・・・ジョン・フォスター・ダレス に対日講和の準備を託す。 ダレス・・・1950年初めから、下準備開始。 関係各国を精力的に歴訪。 ダレスによる講和の枠組み • 基本的条件・・・冷戦下であり、ソ連・中国の参加 を期待しない。(むしろ、対抗を前提) • アメリカおよびその友好国と日本との講和をまと める。(「全面講和」ではなく、「多数講和」) • 同時に、日米安全保障条約を結ぶ。 ソ連・中国等社会主義陣営・勢力に対する日本 の防衛およびアジア地域の防衛のため。 日本にアメリカの軍事基地を設定し、講和条約締 結後も引き続き、アメリカ軍が日本に駐留。 特に、沖縄は、アメリカの信託統治として、全面的にア メリカの軍事基地として使用する。 日本サイド・・・吉田茂首相 • アメリカの駐留を積極的に要請・・・日本防衛 をアメリカに肩代わりしてもらって、軍事費負 担を軽くし、復興を急ぐという戦略。 • 1951年1月、駐米財務官(渡辺武)に対する 吉田の命令・・・日本の財政は極めて困難で、 駆逐艦一隻たりとも建造することは難しいと アメリカ側に伝えるように、と。 オーストラリア、ニュージーランドの態度 • 二国をはじめ、太平洋諸国の対日感情・・・厳し い。 • オーストラリア、ニュージーランドは、日本に侵略 させないという保証なしには、「寛大な講和」に賛 成することに難色。 • アメリカとオーストラリア、ニュージーランドは、三 国安全保障条約(アンザス条約)を締結。 イギリス • アジアにおける貿易大国として日本が復活す ることに懸念。 フィリピン • 経済民主化を促進することを求める。 • また、賠償を要求。 • 将来の日本が大国として復活することへの懸 念を表明。 • 米比相互防衛条約の締結へ。 中国とビルマ • 「無賠償の講和」に反対。 ソ連 • 50年末、ダレスとソ連代表マリクとの折衝 • ソ連は、アメリカ案に全面的に反対。 サンフランシスコ・対日講和会議 • 1951年9月4日召集。 • 吉田茂首席全権 • 野党民主党の苫米地義三(とまべち ぎぞう) 、参議 院緑風会の徳川宗敬(むねよし)らを含む全権団。 • 1951年9月8日、講和条約、調印。 • ソ連・・外相グロムイコが出席・・厳しい非難演説 を行って議場から退場。 講和会議における吉田の演説 • 1951年9月8日 • 奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島の主権が認められたこ とに満足の意を表明 • 歯舞、色丹はもちろん、択捉、国後の4島は日本固有の領 土であると指摘。 • 海外に抑留されたままの未引揚者の帰国を切望 日米安全保障条約の調印 • サンフランシスコ講和条約調印の同じ日(19 51年9月8日)の午後5時。 • 場所は、サンフランシスコ第六兵団駐屯地。 • 調印者は、吉田茂一人。 日本国内の条約反対の論議 • ソ連、中国を除外した講和条約(「単独講和」) • アメリカとの軍事的関係を深める • 社会党・・・「全面講和、中立堅持、外国基地反 対」を左派の多数で決議していた。 • 同年(1951年)10月の臨時党大会・・・分裂。 右派は、講和条約賛成、安保条約反対。 左派は、両条約に反対。 日本言論界における反対論 • 雑誌『世界』による平和問題懇談会に属する 東大総長南原繁をはじめ、大内兵衛、丸山真 男、清水幾太郎ら学者・知識人たちは、全面 講和のみが唯一の正しい講和であるとして、 • 中立堅持、米軍駐留反対 • 吉田内閣の両条約締結に対して激しい批判 を展開。 • これに対し、吉田は、南原繁を名指しで、「曲 学阿世の徒」と非難。 独立・・・社会的対立の激化 • 左派勢力と自由党政府の対立・対決 • 吉田内閣・・・52年4月に「破壊活動防止法」 (破防法)を国会に提出。・・・「暴力主義的破 壊活動を行った団体」の規制を目的とした。 • しかし、労働組合、学生らの激しい反発。 52年4月28日 講和条約発効 • 直後の5月1日 メーデー • 使用不許可とされた皇居前広場にデモ隊が 突入。 警官隊と衝突・・・死者2名。…メーデー事件 • 7月21日、「破防法」成立…公安調査庁、設置。
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