白川郷・五箇山の合掌造り集落

《高级日语听力补充讲义(视听讲义)》
(二)
(郭学咏听写译注
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江虹编辑)
世界遺産ーー自然と人との調和
構成
歴史・概要
一.白川郷・五箇山の合掌造り集落
二.日光の社寺
三. ハロン湾
四. 厳島神社
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歴史・概要
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 1.白川郷・五箇山の合掌造り集落
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白川郷・五箇山の合掌造り集落(しらかわごう・ごかやまのがっしょ
うづくりしゅうらく)は、飛騨地方の白川郷(岐阜県大野郡白川村)
と五箇山(富山県南砺市)にある合掌造りの集落で、1995年12月
9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
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合掌造りは、江戸時代から始められた養蚕のため、屋根裏に棚を
設置したのが始まりと言われている。豪雪による雪下ろしの作業
軽減と屋根裏の床面積拡大のため、急な角度を持っている特徴
的な茅葺屋根になったと考えられている。
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構造上、通常の家屋に比べて天井裏部分の容積が大きくなる。そ
の天井裏部分は風通しが良く、盛んに養蚕が行われた。 加賀藩
では五箇山の絹を重要な資金源としていたほか、蚕の糞を利用し
て焔硝の密造を行っていた。
また、合掌造りの屋根はどの家屋も東西を向いている。これは、屋
根に満遍なく日が当たるようにするため、集落の南北に細長い谷
にあり、南北それぞれの方向から強い風が吹くので、風を受ける
面積を少なくするためと言われている。
合掌造りを守る地域住民の連携形式の「結(ゆい)」により、補修や
茅葺の葺き替えが30年 - 40年に一度は行われている。屋根の葺
き替えには、多くの人手と時間(全て葺き替えるのに二日間はか
かる)を要する。
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白川郷と五箇山の集落地帯は、有数の豪雪地帯であ
ることによって、周囲との道路整備が遅れたため、奇
跡的に合掌造りの住居構造が残った。しかし、過疎化
や住民の高齢化により、「結」の活動による、合掌造り
の維持活動も限界となっている。
 戦後は林野、水源開発の影響、産業の衰退、人口の
都市部流出などもあって、多くの家屋が廃屋となった。
特に御母衣ダム建設の際に、数多くの伝統建築が取
り壊された。その後、伝統的な家屋形式を反故にして
はいけないと近隣住民を中心に資源保存の機運が高
まることになる。その後、後述の重要伝統的建造物群
保存地区選定を経、また世界遺産登録後、急激に観
光客が増加している。
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近くを走っている高速道路(東海北陸自動車道)も飛騨トンネルの完
成により2008年に全線開通しており、地域社会の生活と観光地化の
狭間で、様々な問題も発生している。例として、現住建造物問わず心
ない観光客が勝手に戸を開けるなど、住民のプライバシーを尊重しな
い重大なマナー違反等がある。
「白川郷」や「五箇山」と言われているのだが、細かく言うと白川郷の
「荻町」と、五箇山の「相倉」、「菅沼」の三つの集落がある。荻町は
1976年に、相倉と菅沼は1994年に重要伝統的建造物群保存地区に
選ばれている。 なお、名義上「白川郷・五箇山の合掌造り集落」とな
っているが、世界遺産に登録されているのはこの3集落の合掌造りの
みであり、他の集落のものについては世界遺産には登録されていな
い。
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2.日光
 世界に誇る観光地と言われている日光は、東西30キロメー
トル足らず、うなぎの寝床のような細長い街である。日光の
入口で海抜が約500メートル、市内を通りいろは坂を登り奥
日光の湯元で海抜約1,500メートルとなり、約1,000メートル
の差があるという実に複雑な地形の街である。
その中に、東照宮(とうしょうぐう)・日光山 輪王寺(にっこう
ざん りんのうじ)・二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)が鎮座
し、国宝・重要文化財の人工造形美と大自然が織りなす関
東随一の素晴らしいところが現存する。
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雨上がりの石畳の美しさ、霧の中に浮かぶ社殿・堂
塔、新緑・紅葉の山々、ここ日光は特に朝夕の自然が
美しく、朝陽は日光という名前の通り素晴らしいもので
ある。
 この日光という地名の由来についてはいろいろな説が
ある。観音菩薩の浄土(かんのんぼさつのじょうど)を補
陀洛山(ふだらくさん)というが、その補陀洛山からフタ
ラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊
笹(クマザサ)が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフ
タラになりフタラが二荒になったという説、男体山(なん
たいさん)、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れ
たのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口
付近に屏風岩(びょうぶいわ)がある。
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そこに大きな洞穴があり、「風穴」とか「雷神窟(らいじ
んくつ)」などと呼ばれており、この穴に風の神と雷獣
(らいじゅう)が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降
らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒
山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、
弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、
二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと
音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられておる。
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日光といえば東照宮が有名ですが、日光の歴史は
1,200年以上まえの奈良時代にさかのぼり、766年(天平
神護2年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)によって、四
本竜寺(しほんりゅうじ)を建てられたのが「日光」の始ま
る。
 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は栃木県日光市にあ
る神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東
照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在
である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であ
るが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と
呼ばれることが多い。
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東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮
よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営
までさかのぼりうる。さらに源頼朝がその母方の熱
田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕
府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗
教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮
造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。
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3.ハロン湾
 ハロン湾(ハロンわん、ベトナム語:Vịnh Hạ
Long, 漢喃:泳下龍)は、ベトナム北部、トンキ
ン湾北西部にある湾。漢字表記は下竜湾。クアン
ニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほ
か大小3,000もの奇岩、島々が存在する。カットバ
島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石
器時代にはわずかに人が住んでいた。また、数世紀
前までは海賊の隠れ家として利用され、また モン
ゴル軍の侵攻の際には軍事的に利用された。
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彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって
輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を
醸し出す。 地質学的には北は桂林から、南はニンビ
ンまでの広大な石灰岩台地の一角である。石灰岩台
地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。
 1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。
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4.厳島神社
 厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の
厳島(宮島)にある神社である。
 1400年の歴史をもち、日本全国に約500社ある厳
島神社の総本社である。 式内社(名神大)・安芸
国一宮で、旧社格は官幣中社(現 別表神社)。
 宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)
を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習
合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本
三弁天の一つとされている。
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厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼
ばれ、日本三景の一つとなっている。平家納経で有名。
厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の
石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日
本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)と
なっている。鳥居の高さは、16メートル。
 厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として
信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年
(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造
営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建した
のに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年)
で、延喜式神名帳では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」
と記載され、名神大社に列している。
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平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ご
ろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに
当社も盛えた。平家の守り神であった。平家滅亡後も源氏をは
じめとして時の権力者の崇敬を受けた。戦国時代に入り世の中
が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治
元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を
支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。
元就は大掛かりな社殿修復を行っている。豊臣秀吉も九州遠
征の途上で当社に参り、大経堂を建立している。
明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、明治44年(1911年)に
官幣中社に昇格した。
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一.白川郷·五箇山の合掌造り集落
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人々は雄大な自然を崇(あが)め、その中に神の存
在を信じてきました。大地に降(ふ)り注(そそ)ぐ日の
光、それは生命の源(みなもと)。豊かな営(いとな)
みとは自然を慈(いつく)しみ、ともに生きること。私た
ちの楽しみも喜びもすべては母なる自然とともにある
のです。
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合掌造り、その壮大(そうだい)な姿は厳しい自然と人と
の調和から生まれ、この山里(やまざと)の数百年という
時の流れを見つめてきました。合掌のことは忘れつつ
ある農村の姿をもいおこさせてくれます。岐阜県ひら地
方から富山県へと流れる荘川(しょうがわ)。ひらこちへ
ぼけたを源に深い谷底(たにそこ)を蛇行(だこう)しな
がら日本海へと注いでいます。合掌造りの集落はこの
荘川の川沿いに点在していました。現在三つのしゅく
で合掌造りの集落が保存され、世界遺産として登録さ
れています。
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富山県(とやまけん)五箇山地方の荘川沿いにある
上平村菅沼(かみたいらむらすがぬま)。ここには九
棟(むね)の合掌造りが残されています。山間(やま
あい)の平村相倉(たいらむらあいくら)にあるのは二
十四棟の合掌造りの集落です。そして岐阜県ひら
地方の白川郷、五十九棟の合掌造りが集まる白川
村荻町の集落があります。
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冬の夜合掌造りは幻想(げんそう)の世界を見せてく
れます。ここは多いときには四メートルを超える豪雪
地帯。冬の間は深い雪に閉(と)ざされます。悲境(ひ
きょう)と言われたこの山里(やまざと)の生活は自然と
の闘(たたか)いでもありました。日本のみんかんの中
でも特異な形を持つ合掌造りはこうした環境と生活に
適用して生まれた最も合理的な建築だったと言われ
ています。現在保存されている合掌造りのほとんどは
江戸時代に建てられたものです。
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藩制(はんせい)時代、白川郷は江戸幕府の天領(て
んりょう)。五箇山は加賀藩(かがはん)の領地(りょうち)
でした。平地(へいち)が少ないこの地方は年貢(ねん
ぐ)を米でなく、生糸(きいと)、わし、加薬(かやく)の材
料となる塩硝(えんしょう)などで納めていました。合掌
造りはこれらの年貢を作るため、生活の知恵から生
まれたみんかんなどです。
 生糸、わし、塩硝を大量に作るためには、広い空間
とたくさんの人手が必要でした。二十人から三十人
前後の大家族が一つ屋根の下で暮らし、年貢を作り
ながら生活をしていたのです。両手を合わせ、合掌
したように見える屋根が、合掌造りの一番の特徴で
す。
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二階より上屋根裏(やねうら)にあたる空間はアマと呼ば
れ、主に養蚕(ようさん)のために使われていました。ア
マには卵(かいご)の生育に不可欠な明かりを取り入れ、
風通しをよくするため、切妻(きりづま)のつまぶぶんに
障子窓があります。屋根を形作っているのは、丸太(まる
た)の骨組(ほねぐ)みを合掌の形に組んだサスという骨
組みで何トンにもよる茅(かや)の重量を支えています。
サスは釘一本使わず、縄や満作(まんさく)の茎で結ば
れています。それによって骨組みにある程度の遊びが
でき、屋根にかかる力が分散され、建物への負担が軽
くなるのです。そしてさすぎによる構造は柱など必要とし
ないので、三階、四階まで空間を広く使うことができるの
です。
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囲炉裏は暖房であり、家族が集(つど)う食卓でもありま
した。そして、囲炉裏の煙は柱や梁(はり)、茅を燻(い
ぶ)して、家屋を虫や腐食から守ります。屋根裏までま
わる囲炉裏の熱や煙は乾燥を促し、縄や満作の結び
目を引き締めるのにも役立っているのです。
 サスの構造によって、60度近くにもなる屋根の傾斜(け
いしゃ)。年間降水量の多いこの地方、合掌造りの屋
根は雪や雨をすばやく落とし、茅を長持ちさせるという
みにかざった構造でもあります。こういったことから広
い居住空間をうぎだし、大雪に耐える合掌造りは合理
的な建築と言われています。
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時代が移り、人々の生活が変わっても昔ながらの集落
の姿は自然と調和しています。合掌の里ではいつもせ
せらぎの音が聞こえます。
 集落の周りには雪崩(なだれ)や崖崩(がけくず)れを
防ぐ雪持(ゆきも)ち林も保存されています。森林は豊
かな水を蓄え、里の生活に潤(うるお)いをもたらしてき
ました。かつては水車やうすごやが生活に使われてい
ました。みんかんの前にある池や水路(すいろ)は火事
の時に燃え広がるのを防ぐ冬の間に積もった大量の
雪を閉ざすためになくてはならないものです。四月山
から冷たい雪融け水が降りてくる季節です。
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春のイベント。茅葺(かやぶき)屋根の葺(ふ)き替(か)え
が行われます。一回の葺き替えで使う茅は四トントラッ
ク十台分以上。茅の葺き替えを行うのは三十年から四
十年に一回です。また作業には一度に二百人もの人
手が必要とします。白川郷では結いと呼ばれる共同作
業(きょうどうさぎょう)が行われています。結いは手伝っ
てもらった人がそのお返しを手伝えて返すという助け
合いのことを言います。この風習はこの地方で昔から
続いてきました。村の人一人一人が受け継いできた知
恵や経験がいきのあった葺き替えの作業を可能にしま
す。合掌の集落には忘れられてきた山里の風景と人々
の営みがあります。それはここに住む人々の結びつき
によって保(たも)たれているのです。
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注:
1.慈(いつく)しむ:怜爱;疼爱,慈爱。
2.蛇(だ)行(こう):蜿蜒,弯弯曲曲地行进;河流曲折。
3.棟(むね):栋,幢。
4.天領(てんりょう):将军领地。
5.年貢(ねんぐ):地租。
6.屋(や)根(ね)裏(うら):天棚,屋顶层,顶楼层,阁楼。
7.切(きり)妻(づま):(房屋山墙的)山形部分,山形山
墙;人子形屋顶。
8.丸(まる)太(た):圆木头,木料。
9.茅(かや):茅草。
10.雪持(ゆきも)ち:挡雪檐。
11.葺(ふ)き替(か)える:重葺屋顶。
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二.日光の社寺
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関東平野(かんとうへいや)の北西(ほくせい)に連(つら)な
る日光れんざ。この山麓(さんろく)に江戸時代から人々の
信仰(しんこう)を集めてきた日光の社寺があります。大自
然に抱(いだ)かれる日光は年間およそ百万人の観光客
が訪れる日本を代表する名勝地(めいしょうち)です。およ
そ三十七キロメートルにわたって続く杉並木(すぎなみき)。
日光へと足を運ぶ人々。
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会堂をぬけるとそこに日光をみずしてけっこうという中
でたたえられる社寺が現れます。この荘厳華麗(そうご
んかれい)な建物は江戸時代の技術の粋(すい)を集
めて作られました。1617年に建立(こんりゅう)された日
光東照宮(とうしょうぐう)。江戸幕府を開いた徳川家康
の御霊(みたま)を祭るめいりょうです。家康は自分の
死後も天下太平の時代が続くことを願い、江戸を見つ
めるこの地に自らを祭るよ遺言(ゆいごん)を残したの
です。当時すでに霊山(れいざん)として知られていた
日光山。その懐(ふところ)に抱かれるように建てられた
東照宮は山の斜面(しゃめん)を利用し、階段上に建
築(けんちく)されました。
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しかし、創建(そうけん)当時は現在のような華やかな
建造物ではありませんでした。寛永(かんえい)年間に、
三代将軍家光(いえみつ)が建て替えた際、現在の精
巧華麗な佇(たたず)まいに整えられました。
 表門(おもてもん)には施されている家康のえど、虎の
彫刻。正倉院(しょうそういん)をおもしたという校倉造(
あぜくらづくり)の倉庫。象の装飾(そうしょく)を施され
た倉庫の中には装束(しょうぞく)や流鏑馬(やぶさめ)
の道具が納められています。神に仕える馬。しんばを
繋ぐ書院造(しょいんづく)りの厩(うまや)には猿のいっ
しょうが浮き彫りされています。猿は馬の守りが見てあ
り、疫病(えきびょう)を治すといったためです。この三
猿はよあたりの知恵を猿に喩(たと)えていると言われ
ます。
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本殿。拝殿(はいでん)を囲む220メートルの回廊
(かいろう)。かのうを願えた下絵に精巧なくりぼ
りを施したいちまいいたが、25枚はねこまれてい
ます。この緑と赤を主にした鮮やかな彩色(さい
しき)が日光を代表する楼門(ろうもん)――陽明
門(ようめいもん)を一層(いっそう)引(び)き立
(た)てているのです。陽明とは太陽が明るく輝
(かがや)くことを意味します。霊獣(れいじゅう)
や人物のきわめて精緻な彫刻に陽明尽くされた陽
明門。その彫刻の数は508台。終日眺めていても
みやきないことから日暮門(ひぐらしもん)と呼ば
れています。
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東照大権現(だいごんげん)の閣は後水尾(ごみずお)天
皇がもたらされました。天皇が祭る天照大神(あまのてら
すおおみかみ)に対し、家康は東を照らす神――東照大
権現になったのです。
 東照宮の中枢(ちゅうすう)、本社。拝殿と本殿の間を床
を石で作った石の間を繋いだこの建築様式は権現作り
と言われるものです。石の間はご神体が祭られる神の
世界、本殿と人間の世界、拝殿を繋ぐ重要な空間でし
た。ここを訪れるようじんを天からうかがうように天井(て
んじょう)には青い御紋(ごもん)が浮き彫りされています。
この本社から207段の石段を登ったおくしゃに家康の墓
所(ぼしょ)が鎮座(ちんざ)しているのです。
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日光の社寺の一つ、日光山輪王寺(りんのうじ)。山岳
信仰(さんがくしんこう)に基づいて、日光の男体山(な
んたいさん)、にょほう山、たろう山の三つの山をご神体
(しんたい)とする寺です。創建は平安初期とされていま
す。本堂にはご神体の本地仏。千手観音菩薩(せん
じゅかんのんぼさつ)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、
馬頭(ばとう)観音菩薩が安置されています。輪王寺の
奥にある三代将軍家光のれいりょう、大猷院(たいゆう
いん)です。死んだ後も崇拝(すうはい)する家康の近く
に仕えたいという遺言によって簡素(かんそ)ながら、東
照宮をおもした権現作りで作られました。
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東照宮の西に位置する日光二荒山神社。山岳信仰
の拠点となってきた神社です。霊峰(れいほう)二荒山
をご神体とし、日光の山々に末社(まっしゃ)をおき
祭っています。境内(けいだい)に並ぶ樹齢(じゅれ
い)700年と言われる杉の木。霊験(れいげん)あらたか
な日光山と歴史の移り変わりをつぶさに見つめて、す
でに766年七時代の僧侶勝道上人(しょうどうしょうに
ん)(735年~817年)によって開山(かいさん)された霊
山でした。修行(しゅぎょう)のため、しぼう山の薬師寺
(やくしじ)に向かった勝道上人。そのためには二荒山、
のち男体山を越えなければなりませんでした。このが
山麓を流れる大谷川(だいやがわ)にはまわれます。
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伝説によると、上人の前に、大蛇(だいじゃ)が現れ、
いよいよこたえて、橋になったと伝えられています。
そして紫(むらさき)の雲が山頂にゆうゆうと立ち昇る
のを見た上人はこの地を聖地(せいち)として堂を建
立します。それが現在の輪王寺の前身です。日光の
歴史はこの時始まったのです。
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霊峰二荒山。二荒山を音読みにすると「にこ
う」になり、これが日光の由来(ゆらい)だと言
われています。二荒山の本地仏、十一面観音菩
薩。山頂を極めた勝道上人はその後むすんだ
しょうわんに安置されました。上人は立ったま
まの木を彫って作ったと伝われる観音座。現在
でも立木(たちき)観音と呼ばれて親しまれてい
ます。
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さらに790年勝道上人は大谷川の北岸に二荒山を
ご神体とする社殿、本宮神社(ほんぐうじんじゃ)
を建立しました。これが現在の二荒山神社の創
建です。開山からおよそ1200年。山岳(さんがく)
信仰から始まった日光は一人の僧侶が息吹きを
吹き込み、天下人の偉功(いこう)によって繁栄
(はんえい)してきました。雄大な自然に抱かれ
た日光。時代を経った今も聖地(せいち)の山や
川、そして森林は少しも姿を変えることなく、
祈る人々を親しく包み込んでいます。
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注:
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1.粋(すい):精粹,精华。
2.建立(こんりゅう):修建,兴建。
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3.御霊(みたま):魂灵。
4.懐(ふところ):被环抱的地方。
5.校倉造(あぜくらづく)り:(可以防潮湿的)床架式的房屋。
6.流鏑馬(やぶさめ):骑射比武。
7.書院造(しょいんづく)り:书院式建筑。
8.厩(うまや):马棚。
9.鎮座(ちんざ):(在某处)供有……神佛。
10.境内(けいだい):(神社、庙宇的)院内,院落。
11.墓所(ぼしょ):坟地,墓地。
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三.ハロン湾
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
海の桂林(けいりん)と言われるハロン湾。その幻想
的(げんそうてき)な美しさで人々は魅了(みりょう)し
てきたインドネシアの海。島の切(き)り立(た)った崖(
がけ)は人を寄(よ)せ付(つ)けることなく、手付(てつ
)かずの自然がそのまま残されています。水面(す
いめん)に映る島々は一日の日のうつろいによって
七色(ななしょく)に変化します。
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ベトナム北部およそ1500メートルにもおよぶ海域(かい
いき)に島々が点在(てんざい)するハロン湾。島は石灰
岩(せっかいがん)とカルスト地形(ちけい)です。この地
層(ちそう)は国境(こっきょう)を越えて、遥か遠く中国
の桂林までつながっています。桂林は数億年(すうおく
ねん)前までは、海底(かいてい)にあったと言います。
地殻(ちかく)変動によって桂林が隆起(りゅうき)した時、
ハロン湾の島々にも海上に出たと考えられています。
ベトナム有数の景勝地(けいしょうち)としてハロン湾に
は世界中から観光客が集まります。カルスト特有ちっす
うの生み出す奇岩(きがん)の数々。入組んだ湾はかつて
は海賊(かいぞく)やゲリラの隠(かく)れ家(が)になった
と言います。今は観光客のめんを楽しませています。ハ
ロン湾にはある伝説があります。
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侵略者(しんりゃくしゃ)に悩まされていたこの地に、竜
(りゅう)の親子が空から舞い降り、敵にほうにょくを放
し、侵略を食(く)い止(と)めた。ほうにょくは岩に姿を
変え、竜が歩いたあとは谷となった。そしてここは竜
が降り立ったという意味のハロンと名づけられたので
す。
 ハロン湾の中心、ホンゲイ港。朝、新鮮な魚が次々と
あがってきます。市場にはあらゆる種類の魚介類(
ぎょかいるい)が並んでいます。エメラルドグリンの海。
海藻類(かいそうるい)が豊かに育ち、魚介類の宝庫(
ほうこ)です。この湾には海の上に住み、漁(りょう)をし
ながら、生活している人々がいます。

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
早朝まだ暗いうちから漁に出掛けるかず。タイさん一家
です。ハロン湾に漁をしながら生活しています。家族全
員海で生まれ、海で暮らし、何代も前から一度も陸に
住んだことがないと言います。次女のフォンさんは十三
歳。毎日お兄さんと一緒に漁を手伝っています。一日
で3キログラムから4キログラム。家族がようやく暮らして
いける最低限(さいていげん)の収穫(しゅうかく)です。
しかし、タイさん一家は海での生活を変えるつもりはあ
りません。タイさん一家が住むのは静かな入り江にある
バン·ザー村。ホンゲイ港から船で3時間。
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
ハロン湾の中ほどにあります。しかだの上に建てた
家が並ぶ海にゆかんだ村です。村ができたのは
1994年。船の上で暮らしてきた人々は次第に集まり
定住(ていじゅう)したのが村の始まりです。定住の
きっかけは魚の養殖(ようしょく)が始まったことでした。
現在人口768人。127世代の家族が海の上で暮らし
ています。
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漁を手伝っていたフォンちゃんは小学校の四年生。学
校に通いながら、家事一切を受け持つしっかりものです。
家族の中心は村のちょうどで、82歳になるヒューおじい
さん。ヒューさん夫婦とタイさんの一家。それに叔父さん
一家の12人の大家族が隣り合わせて暮らしています。
村の中の移動手段はすべて船。タケー湾で作った小さ
な船です。子供たちの通学ももちろん船です。村の中央
(ちゅうおう)にある小学校には現在一年生から五年生ま
で120人の子供通っています。授業は午前と午後のに
ぶせい。五人の先生が交替(こうたい)で教えています。
創立は1999年。マンザ村に小学校ができたことにより、
この村に定住する人も一層増えました。
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村には電気も水道もありません。しかしここで生活するた
めの必要最小限(さいしょうげん)の機能が整っています。
水や燃料を注文すると、村に一軒ある店が船で配達して
くれます。日用品や野菜はホンゲイ港から運ばれて、や
たいの船が各家にいりにきます。
 タイさんは最近魚の養殖を始めました。海で取れる魚の
量が年々減ってきたため、安定した収入を考えたことで
す。フォンちゃんは学校に行くより家族一緒に漁をするほ
うが楽しいと言います。将来はこの村で結婚して今と同じ
ように海の上で生活したいと思っているそうです。
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ここで暮らす人々は多くのものを望みません。一緒
に暮らす家族と美しい海が変わらずにそこにあるだ
けでいいそうです。ハロン湾は人々を魅了する幻想
の世界とすごくで心豊かな暮らしをもたらしてきたの
です。
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注:
 1.切(き)り立(た)つ:峭立,陡峭。
 2.手付(てつ)かず:还没使用,还没着手。
 3.ゲリラ:游击队。
 4.隠(かく)れ家(が):隐匿处。
 5.食(く)い止(と)める:防止住,阻挡住。
 6.漁(りょう):捕鱼。
 7.舞(ま)い降(お)りる:飞落下来。
 8.寄(よ)せ付(つ)ける:使…靠近,使…接近。
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四、厳島神社
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神の宿(やど)る島。厳島。古(いにしえ)から人々がその
幽霊(ゆうれい)な姿に神の存在を感じ、海の隔てた対
岸からこの島を崇(あが)めてきました。太古の人は山
のキンや岩に神が宿ると信じ、信仰の対象にしてきま
した。
 厳島には手付かずの原生林(げんせいりん)が残され
ています。長い間この島に人が住むことはなく、木を切
ることさえも禁じられていたからです。瀬戸内海(せとな
いかい)に浮かぶ厳島はやがて海の神として人々の信
仰を集めるようになります。平安時代瀬戸内海を一帯
をようせいした対岸の清盛(きよもり)は厳島を航海(こう
かい)安全な神として厚く信仰し、崇拝(すうはい)しまし
た。
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厳島神社の創建は推古(すいこ)天皇の時代と言われていま
す。その後十二世紀の半ば、平清盛(たいらのきよもり)によっ
て、社殿(しゃでん)が再建(さいけん)されました。平安時代の
建築様式(けんちくようしき)。寝殿造(しんでんづく)りの厳島
神社。海に浮かぶ社殿が清盛の時代とほとんど変わることな
く、今に伝わっています。
社殿は神聖(しんせい)な神の宿る土地を避けて海の上に建
てられました。その優美(ゆうび)な姿は竜宮(りゅうぐう)や極楽
浄土(ごくらく浄土)にもなずらえてきました。厳島神社の特徴
はそのかいほうかんにあります。通常神社の本殿は内部から
隔てた奥まった場所にあります。厳島神社は本殿はこうしと御
簾(みす)で仕切(しき)られているだけなのです。本殿には航
海安全な神として信仰されてきたいちき島姫のみことをはじ
め、さんじょしんが祭られています。
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正面に臨(のぞ)む大鳥居(おおとりい)。清盛の時代から
数えて8代目。明治時代に作られました。その高さ16
メートル。樹齢(じゅれい)千年以上のくすのきを使った柱
は海底(かいてい)に杭(くい)を打った基礎の上に、鳥居
の重さで立っているのです。
 厳島神社で最も開放的なのが回廊です。回廊の幅(は
ば)は4メートル。何度も折(お)れ曲(ま)がり、東西南北(と
うざいなんぼく)回廊のどこからでも社殿や周りの自然を
見ることができます。そして回廊の軒下(のきした)には
108個の灯篭(とうろう)が吊るされています。これは仏教
で煩悩(ぼんのう)の数とされる108に因んでいると言わ
れています。この社殿が作られた平安時代は、神道と仏
教が融合(ゆうごう)する神仏習合(しんぶつしゅうごう)が
広まった時代でした。その影響は厳島のいかるところで
見ることができます。
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神社の後ろに聳(そび)える厳島の主峰(しゅほう)――弥
山(みせん)は仏教における世界の中心須弥山(しゅみ
せん)からその名が付いたと言われています。言い伝え
によると、弘法大師(こうぼうだいし)は弥山山頂で護摩
(ごま)を焚(た)き、百日間の修行(しゅぎょう)を行ったと
言います。弥山の山頂付近に建つ霊火堂(れいかどう)。
ここには弘法大師の修行から千年以上経った今もおい
つづけているという霊火が祭られています。弥山は厳島
で最もせいなの山として仏教僧の修行の場にもなりまし
た。そして厳島神社と仏教の関係も次第に密接になっ
ていくのです。弥山の麓(ふもと)に建つ大聖院(だいしょ
ういん)。古い歴史を持つ寺院で、江戸時代まで厳島神
社の管理、運営を司(つかさど)っていた寺院です。
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観音堂(かんのんどう)に祭られている十一面観音菩薩(ぼ
さつ)は明治維新まで厳島神社の本地仏(ほんじぶつ)で
した。神仏習合では神は仏や菩薩の仮(かり)の姿と考えま
す。この十一面観音菩薩はそれを象徴している仏像(ぶ
つぞう)です。平家一門は厳島神社に極楽浄土(ごくらく
じょうど)を重ね合わせ、法華経(ほけきょう)などを奉納(ほ
うのう)しました。1177年、平清盛は千人の僧侶を厳島神
社に招き、せんそう供養(くよう)を催しました。夜松明(たい
まつ)の明かりにけらされた回廊に、千人の僧侶が並び、
祈祷供養が盛大(せいだい)に行われたと言われています。
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神仏習合によって厳島の様子も次第に変わっていき
ました。厳島神社では仏教僧によるほうえいや祈祷が
恒例化し、室町(むろまち)時代になると、神職や僧侶
が島内に住むようになります。ほうえいに集まる人々
が増え、島には市がたつようになり、一般の人々も島
に住むようになりました。そして江戸時代になると、厳
島は全国でも有数の観光地になっていくのです。
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江戸時代には一年の始まりをきよめるあかし迎えが島
民の間で行われていたと言います。現在この風習は見
られなくなりましたが、矢的武雄(やまとたけお)さんは一
日の始まりをきよめる潮汲(しおく)みを厳島神社の前の
海で毎日続けています。厳島とそれを崇める人々の思
いは千年を超える時の中で、移り変わってきました。
 自然と調和し、一層の美しさを際立(きわだ)たせる厳島
神社。日のうつろいはその景観をこくいこくど変えてい
きます。それはまるで万物を集め変化し、止まることが
ないという諸行無常(しょぎょうむじょう)の理(ことわり)を
表わしているかのようです。
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注:
 1.宿(やど)る:存在,有,寄生,寄居。
 2.寝殿造(しんでんづくり):平安时代贵族住宅的样式。
 3.仕切(しき)る:隔开,区分开。
 4.くすのき:樟木,樟树,楠木。
 5.軒下(のきした):屋檐下。
 6.神仏融合(しんぶつゆうごう):神道和佛教融合。
 7.護摩(ごま)を焚(た)く:举行护摩式仪式。
 8.司(つかさど)る:掌管,管理,主持,担任。
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9.奉納(ほうのう):(对神佛)供献,奉献。
 10.供養(くよう):供养,上供。祭祀,祭奠。
 11.松明(たいまつ):火把,火炬。
 12.明(あ)かり:灯光。
 13.諸行無常(しょぎょうむじょう):诸行无常。
 14.理(ことわり):理由,道理,理所当然。
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(終わり)
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