《高级日语听力补充讲义(视听讲义)》 (二) (郭学咏听写译注 1 江虹编辑) 世界遺産ーー自然と人との調和 構成 歴史・概要 一.白川郷・五箇山の合掌造り集落 二.日光の社寺 三. ハロン湾 四. 厳島神社 2 歴史・概要 3 1.白川郷・五箇山の合掌造り集落 白川郷・五箇山の合掌造り集落(しらかわごう・ごかやまのがっしょ うづくりしゅうらく)は、飛騨地方の白川郷(岐阜県大野郡白川村) と五箇山(富山県南砺市)にある合掌造りの集落で、1995年12月 9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 合掌造りは、江戸時代から始められた養蚕のため、屋根裏に棚を 設置したのが始まりと言われている。豪雪による雪下ろしの作業 軽減と屋根裏の床面積拡大のため、急な角度を持っている特徴 的な茅葺屋根になったと考えられている。 4 構造上、通常の家屋に比べて天井裏部分の容積が大きくなる。そ の天井裏部分は風通しが良く、盛んに養蚕が行われた。 加賀藩 では五箇山の絹を重要な資金源としていたほか、蚕の糞を利用し て焔硝の密造を行っていた。 また、合掌造りの屋根はどの家屋も東西を向いている。これは、屋 根に満遍なく日が当たるようにするため、集落の南北に細長い谷 にあり、南北それぞれの方向から強い風が吹くので、風を受ける 面積を少なくするためと言われている。 合掌造りを守る地域住民の連携形式の「結(ゆい)」により、補修や 茅葺の葺き替えが30年 - 40年に一度は行われている。屋根の葺 き替えには、多くの人手と時間(全て葺き替えるのに二日間はか かる)を要する。 5 白川郷と五箇山の集落地帯は、有数の豪雪地帯であ ることによって、周囲との道路整備が遅れたため、奇 跡的に合掌造りの住居構造が残った。しかし、過疎化 や住民の高齢化により、「結」の活動による、合掌造り の維持活動も限界となっている。 戦後は林野、水源開発の影響、産業の衰退、人口の 都市部流出などもあって、多くの家屋が廃屋となった。 特に御母衣ダム建設の際に、数多くの伝統建築が取 り壊された。その後、伝統的な家屋形式を反故にして はいけないと近隣住民を中心に資源保存の機運が高 まることになる。その後、後述の重要伝統的建造物群 保存地区選定を経、また世界遺産登録後、急激に観 光客が増加している。 6 近くを走っている高速道路(東海北陸自動車道)も飛騨トンネルの完 成により2008年に全線開通しており、地域社会の生活と観光地化の 狭間で、様々な問題も発生している。例として、現住建造物問わず心 ない観光客が勝手に戸を開けるなど、住民のプライバシーを尊重しな い重大なマナー違反等がある。 「白川郷」や「五箇山」と言われているのだが、細かく言うと白川郷の 「荻町」と、五箇山の「相倉」、「菅沼」の三つの集落がある。荻町は 1976年に、相倉と菅沼は1994年に重要伝統的建造物群保存地区に 選ばれている。 なお、名義上「白川郷・五箇山の合掌造り集落」とな っているが、世界遺産に登録されているのはこの3集落の合掌造りの みであり、他の集落のものについては世界遺産には登録されていな い。 7 2.日光 世界に誇る観光地と言われている日光は、東西30キロメー トル足らず、うなぎの寝床のような細長い街である。日光の 入口で海抜が約500メートル、市内を通りいろは坂を登り奥 日光の湯元で海抜約1,500メートルとなり、約1,000メートル の差があるという実に複雑な地形の街である。 その中に、東照宮(とうしょうぐう)・日光山 輪王寺(にっこう ざん りんのうじ)・二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)が鎮座 し、国宝・重要文化財の人工造形美と大自然が織りなす関 東随一の素晴らしいところが現存する。 8 雨上がりの石畳の美しさ、霧の中に浮かぶ社殿・堂 塔、新緑・紅葉の山々、ここ日光は特に朝夕の自然が 美しく、朝陽は日光という名前の通り素晴らしいもので ある。 この日光という地名の由来についてはいろいろな説が ある。観音菩薩の浄土(かんのんぼさつのじょうど)を補 陀洛山(ふだらくさん)というが、その補陀洛山からフタ ラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊 笹(クマザサ)が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフ タラになりフタラが二荒になったという説、男体山(なん たいさん)、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れ たのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口 付近に屏風岩(びょうぶいわ)がある。 9 そこに大きな洞穴があり、「風穴」とか「雷神窟(らいじ んくつ)」などと呼ばれており、この穴に風の神と雷獣 (らいじゅう)が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降 らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒 山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、 弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、 二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと 音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられておる。 10 日光といえば東照宮が有名ですが、日光の歴史は 1,200年以上まえの奈良時代にさかのぼり、766年(天平 神護2年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)によって、四 本竜寺(しほんりゅうじ)を建てられたのが「日光」の始ま る。 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は栃木県日光市にあ る神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東 照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在 である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であ るが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と 呼ばれることが多い。 11 東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮 よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営 までさかのぼりうる。さらに源頼朝がその母方の熱 田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕 府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗 教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮 造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。 12 3.ハロン湾 ハロン湾(ハロンわん、ベトナム語:Vịnh Hạ Long, 漢喃:泳下龍)は、ベトナム北部、トンキ ン湾北西部にある湾。漢字表記は下竜湾。クアン ニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほ か大小3,000もの奇岩、島々が存在する。カットバ 島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石 器時代にはわずかに人が住んでいた。また、数世紀 前までは海賊の隠れ家として利用され、また モン ゴル軍の侵攻の際には軍事的に利用された。 13 彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって 輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を 醸し出す。 地質学的には北は桂林から、南はニンビ ンまでの広大な石灰岩台地の一角である。石灰岩台 地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。 1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。 14 4.厳島神社 厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の 厳島(宮島)にある神社である。 1400年の歴史をもち、日本全国に約500社ある厳 島神社の総本社である。 式内社(名神大)・安芸 国一宮で、旧社格は官幣中社(現 別表神社)。 宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命) を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習 合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本 三弁天の一つとされている。 15 厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼 ばれ、日本三景の一つとなっている。平家納経で有名。 厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の 石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日 本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)と なっている。鳥居の高さは、16メートル。 厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として 信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年 (593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造 営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建した のに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年) で、延喜式神名帳では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」 と記載され、名神大社に列している。 16 平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ご ろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに 当社も盛えた。平家の守り神であった。平家滅亡後も源氏をは じめとして時の権力者の崇敬を受けた。戦国時代に入り世の中 が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治 元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を 支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。 元就は大掛かりな社殿修復を行っている。豊臣秀吉も九州遠 征の途上で当社に参り、大経堂を建立している。 明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、明治44年(1911年)に 官幣中社に昇格した。 17 一.白川郷·五箇山の合掌造り集落 18 人々は雄大な自然を崇(あが)め、その中に神の存 在を信じてきました。大地に降(ふ)り注(そそ)ぐ日の 光、それは生命の源(みなもと)。豊かな営(いとな) みとは自然を慈(いつく)しみ、ともに生きること。私た ちの楽しみも喜びもすべては母なる自然とともにある のです。 19 合掌造り、その壮大(そうだい)な姿は厳しい自然と人と の調和から生まれ、この山里(やまざと)の数百年という 時の流れを見つめてきました。合掌のことは忘れつつ ある農村の姿をもいおこさせてくれます。岐阜県ひら地 方から富山県へと流れる荘川(しょうがわ)。ひらこちへ ぼけたを源に深い谷底(たにそこ)を蛇行(だこう)しな がら日本海へと注いでいます。合掌造りの集落はこの 荘川の川沿いに点在していました。現在三つのしゅく で合掌造りの集落が保存され、世界遺産として登録さ れています。 20 富山県(とやまけん)五箇山地方の荘川沿いにある 上平村菅沼(かみたいらむらすがぬま)。ここには九 棟(むね)の合掌造りが残されています。山間(やま あい)の平村相倉(たいらむらあいくら)にあるのは二 十四棟の合掌造りの集落です。そして岐阜県ひら 地方の白川郷、五十九棟の合掌造りが集まる白川 村荻町の集落があります。 21 冬の夜合掌造りは幻想(げんそう)の世界を見せてく れます。ここは多いときには四メートルを超える豪雪 地帯。冬の間は深い雪に閉(と)ざされます。悲境(ひ きょう)と言われたこの山里(やまざと)の生活は自然と の闘(たたか)いでもありました。日本のみんかんの中 でも特異な形を持つ合掌造りはこうした環境と生活に 適用して生まれた最も合理的な建築だったと言われ ています。現在保存されている合掌造りのほとんどは 江戸時代に建てられたものです。 22 藩制(はんせい)時代、白川郷は江戸幕府の天領(て んりょう)。五箇山は加賀藩(かがはん)の領地(りょうち) でした。平地(へいち)が少ないこの地方は年貢(ねん ぐ)を米でなく、生糸(きいと)、わし、加薬(かやく)の材 料となる塩硝(えんしょう)などで納めていました。合掌 造りはこれらの年貢を作るため、生活の知恵から生 まれたみんかんなどです。 生糸、わし、塩硝を大量に作るためには、広い空間 とたくさんの人手が必要でした。二十人から三十人 前後の大家族が一つ屋根の下で暮らし、年貢を作り ながら生活をしていたのです。両手を合わせ、合掌 したように見える屋根が、合掌造りの一番の特徴で す。 23 二階より上屋根裏(やねうら)にあたる空間はアマと呼ば れ、主に養蚕(ようさん)のために使われていました。ア マには卵(かいご)の生育に不可欠な明かりを取り入れ、 風通しをよくするため、切妻(きりづま)のつまぶぶんに 障子窓があります。屋根を形作っているのは、丸太(まる た)の骨組(ほねぐ)みを合掌の形に組んだサスという骨 組みで何トンにもよる茅(かや)の重量を支えています。 サスは釘一本使わず、縄や満作(まんさく)の茎で結ば れています。それによって骨組みにある程度の遊びが でき、屋根にかかる力が分散され、建物への負担が軽 くなるのです。そしてさすぎによる構造は柱など必要とし ないので、三階、四階まで空間を広く使うことができるの です。 24 囲炉裏は暖房であり、家族が集(つど)う食卓でもありま した。そして、囲炉裏の煙は柱や梁(はり)、茅を燻(い ぶ)して、家屋を虫や腐食から守ります。屋根裏までま わる囲炉裏の熱や煙は乾燥を促し、縄や満作の結び 目を引き締めるのにも役立っているのです。 サスの構造によって、60度近くにもなる屋根の傾斜(け いしゃ)。年間降水量の多いこの地方、合掌造りの屋 根は雪や雨をすばやく落とし、茅を長持ちさせるという みにかざった構造でもあります。こういったことから広 い居住空間をうぎだし、大雪に耐える合掌造りは合理 的な建築と言われています。 25 時代が移り、人々の生活が変わっても昔ながらの集落 の姿は自然と調和しています。合掌の里ではいつもせ せらぎの音が聞こえます。 集落の周りには雪崩(なだれ)や崖崩(がけくず)れを 防ぐ雪持(ゆきも)ち林も保存されています。森林は豊 かな水を蓄え、里の生活に潤(うるお)いをもたらしてき ました。かつては水車やうすごやが生活に使われてい ました。みんかんの前にある池や水路(すいろ)は火事 の時に燃え広がるのを防ぐ冬の間に積もった大量の 雪を閉ざすためになくてはならないものです。四月山 から冷たい雪融け水が降りてくる季節です。 26 春のイベント。茅葺(かやぶき)屋根の葺(ふ)き替(か)え が行われます。一回の葺き替えで使う茅は四トントラッ ク十台分以上。茅の葺き替えを行うのは三十年から四 十年に一回です。また作業には一度に二百人もの人 手が必要とします。白川郷では結いと呼ばれる共同作 業(きょうどうさぎょう)が行われています。結いは手伝っ てもらった人がそのお返しを手伝えて返すという助け 合いのことを言います。この風習はこの地方で昔から 続いてきました。村の人一人一人が受け継いできた知 恵や経験がいきのあった葺き替えの作業を可能にしま す。合掌の集落には忘れられてきた山里の風景と人々 の営みがあります。それはここに住む人々の結びつき によって保(たも)たれているのです。 27 注: 1.慈(いつく)しむ:怜爱;疼爱,慈爱。 2.蛇(だ)行(こう):蜿蜒,弯弯曲曲地行进;河流曲折。 3.棟(むね):栋,幢。 4.天領(てんりょう):将军领地。 5.年貢(ねんぐ):地租。 6.屋(や)根(ね)裏(うら):天棚,屋顶层,顶楼层,阁楼。 7.切(きり)妻(づま):(房屋山墙的)山形部分,山形山 墙;人子形屋顶。 8.丸(まる)太(た):圆木头,木料。 9.茅(かや):茅草。 10.雪持(ゆきも)ち:挡雪檐。 11.葺(ふ)き替(か)える:重葺屋顶。 28 二.日光の社寺 29 関東平野(かんとうへいや)の北西(ほくせい)に連(つら)な る日光れんざ。この山麓(さんろく)に江戸時代から人々の 信仰(しんこう)を集めてきた日光の社寺があります。大自 然に抱(いだ)かれる日光は年間およそ百万人の観光客 が訪れる日本を代表する名勝地(めいしょうち)です。およ そ三十七キロメートルにわたって続く杉並木(すぎなみき)。 日光へと足を運ぶ人々。 30 会堂をぬけるとそこに日光をみずしてけっこうという中 でたたえられる社寺が現れます。この荘厳華麗(そうご んかれい)な建物は江戸時代の技術の粋(すい)を集 めて作られました。1617年に建立(こんりゅう)された日 光東照宮(とうしょうぐう)。江戸幕府を開いた徳川家康 の御霊(みたま)を祭るめいりょうです。家康は自分の 死後も天下太平の時代が続くことを願い、江戸を見つ めるこの地に自らを祭るよ遺言(ゆいごん)を残したの です。当時すでに霊山(れいざん)として知られていた 日光山。その懐(ふところ)に抱かれるように建てられた 東照宮は山の斜面(しゃめん)を利用し、階段上に建 築(けんちく)されました。 31 しかし、創建(そうけん)当時は現在のような華やかな 建造物ではありませんでした。寛永(かんえい)年間に、 三代将軍家光(いえみつ)が建て替えた際、現在の精 巧華麗な佇(たたず)まいに整えられました。 表門(おもてもん)には施されている家康のえど、虎の 彫刻。正倉院(しょうそういん)をおもしたという校倉造( あぜくらづくり)の倉庫。象の装飾(そうしょく)を施され た倉庫の中には装束(しょうぞく)や流鏑馬(やぶさめ) の道具が納められています。神に仕える馬。しんばを 繋ぐ書院造(しょいんづく)りの厩(うまや)には猿のいっ しょうが浮き彫りされています。猿は馬の守りが見てあ り、疫病(えきびょう)を治すといったためです。この三 猿はよあたりの知恵を猿に喩(たと)えていると言われ ます。 32 本殿。拝殿(はいでん)を囲む220メートルの回廊 (かいろう)。かのうを願えた下絵に精巧なくりぼ りを施したいちまいいたが、25枚はねこまれてい ます。この緑と赤を主にした鮮やかな彩色(さい しき)が日光を代表する楼門(ろうもん)――陽明 門(ようめいもん)を一層(いっそう)引(び)き立 (た)てているのです。陽明とは太陽が明るく輝 (かがや)くことを意味します。霊獣(れいじゅう) や人物のきわめて精緻な彫刻に陽明尽くされた陽 明門。その彫刻の数は508台。終日眺めていても みやきないことから日暮門(ひぐらしもん)と呼ば れています。 33 東照大権現(だいごんげん)の閣は後水尾(ごみずお)天 皇がもたらされました。天皇が祭る天照大神(あまのてら すおおみかみ)に対し、家康は東を照らす神――東照大 権現になったのです。 東照宮の中枢(ちゅうすう)、本社。拝殿と本殿の間を床 を石で作った石の間を繋いだこの建築様式は権現作り と言われるものです。石の間はご神体が祭られる神の 世界、本殿と人間の世界、拝殿を繋ぐ重要な空間でし た。ここを訪れるようじんを天からうかがうように天井(て んじょう)には青い御紋(ごもん)が浮き彫りされています。 この本社から207段の石段を登ったおくしゃに家康の墓 所(ぼしょ)が鎮座(ちんざ)しているのです。 34 日光の社寺の一つ、日光山輪王寺(りんのうじ)。山岳 信仰(さんがくしんこう)に基づいて、日光の男体山(な んたいさん)、にょほう山、たろう山の三つの山をご神体 (しんたい)とする寺です。創建は平安初期とされていま す。本堂にはご神体の本地仏。千手観音菩薩(せん じゅかんのんぼさつ)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、 馬頭(ばとう)観音菩薩が安置されています。輪王寺の 奥にある三代将軍家光のれいりょう、大猷院(たいゆう いん)です。死んだ後も崇拝(すうはい)する家康の近く に仕えたいという遺言によって簡素(かんそ)ながら、東 照宮をおもした権現作りで作られました。 35 東照宮の西に位置する日光二荒山神社。山岳信仰 の拠点となってきた神社です。霊峰(れいほう)二荒山 をご神体とし、日光の山々に末社(まっしゃ)をおき 祭っています。境内(けいだい)に並ぶ樹齢(じゅれ い)700年と言われる杉の木。霊験(れいげん)あらたか な日光山と歴史の移り変わりをつぶさに見つめて、す でに766年七時代の僧侶勝道上人(しょうどうしょうに ん)(735年~817年)によって開山(かいさん)された霊 山でした。修行(しゅぎょう)のため、しぼう山の薬師寺 (やくしじ)に向かった勝道上人。そのためには二荒山、 のち男体山を越えなければなりませんでした。このが 山麓を流れる大谷川(だいやがわ)にはまわれます。 36 伝説によると、上人の前に、大蛇(だいじゃ)が現れ、 いよいよこたえて、橋になったと伝えられています。 そして紫(むらさき)の雲が山頂にゆうゆうと立ち昇る のを見た上人はこの地を聖地(せいち)として堂を建 立します。それが現在の輪王寺の前身です。日光の 歴史はこの時始まったのです。 37 霊峰二荒山。二荒山を音読みにすると「にこ う」になり、これが日光の由来(ゆらい)だと言 われています。二荒山の本地仏、十一面観音菩 薩。山頂を極めた勝道上人はその後むすんだ しょうわんに安置されました。上人は立ったま まの木を彫って作ったと伝われる観音座。現在 でも立木(たちき)観音と呼ばれて親しまれてい ます。 38 さらに790年勝道上人は大谷川の北岸に二荒山を ご神体とする社殿、本宮神社(ほんぐうじんじゃ) を建立しました。これが現在の二荒山神社の創 建です。開山からおよそ1200年。山岳(さんがく) 信仰から始まった日光は一人の僧侶が息吹きを 吹き込み、天下人の偉功(いこう)によって繁栄 (はんえい)してきました。雄大な自然に抱かれ た日光。時代を経った今も聖地(せいち)の山や 川、そして森林は少しも姿を変えることなく、 祈る人々を親しく包み込んでいます。 39 注: 1.粋(すい):精粹,精华。 2.建立(こんりゅう):修建,兴建。 3.御霊(みたま):魂灵。 4.懐(ふところ):被环抱的地方。 5.校倉造(あぜくらづく)り:(可以防潮湿的)床架式的房屋。 6.流鏑馬(やぶさめ):骑射比武。 7.書院造(しょいんづく)り:书院式建筑。 8.厩(うまや):马棚。 9.鎮座(ちんざ):(在某处)供有……神佛。 10.境内(けいだい):(神社、庙宇的)院内,院落。 11.墓所(ぼしょ):坟地,墓地。 40 三.ハロン湾 41 海の桂林(けいりん)と言われるハロン湾。その幻想 的(げんそうてき)な美しさで人々は魅了(みりょう)し てきたインドネシアの海。島の切(き)り立(た)った崖( がけ)は人を寄(よ)せ付(つ)けることなく、手付(てつ )かずの自然がそのまま残されています。水面(す いめん)に映る島々は一日の日のうつろいによって 七色(ななしょく)に変化します。 42 ベトナム北部およそ1500メートルにもおよぶ海域(かい いき)に島々が点在(てんざい)するハロン湾。島は石灰 岩(せっかいがん)とカルスト地形(ちけい)です。この地 層(ちそう)は国境(こっきょう)を越えて、遥か遠く中国 の桂林までつながっています。桂林は数億年(すうおく ねん)前までは、海底(かいてい)にあったと言います。 地殻(ちかく)変動によって桂林が隆起(りゅうき)した時、 ハロン湾の島々にも海上に出たと考えられています。 ベトナム有数の景勝地(けいしょうち)としてハロン湾に は世界中から観光客が集まります。カルスト特有ちっす うの生み出す奇岩(きがん)の数々。入組んだ湾はかつて は海賊(かいぞく)やゲリラの隠(かく)れ家(が)になった と言います。今は観光客のめんを楽しませています。ハ ロン湾にはある伝説があります。 43 侵略者(しんりゃくしゃ)に悩まされていたこの地に、竜 (りゅう)の親子が空から舞い降り、敵にほうにょくを放 し、侵略を食(く)い止(と)めた。ほうにょくは岩に姿を 変え、竜が歩いたあとは谷となった。そしてここは竜 が降り立ったという意味のハロンと名づけられたので す。 ハロン湾の中心、ホンゲイ港。朝、新鮮な魚が次々と あがってきます。市場にはあらゆる種類の魚介類( ぎょかいるい)が並んでいます。エメラルドグリンの海。 海藻類(かいそうるい)が豊かに育ち、魚介類の宝庫( ほうこ)です。この湾には海の上に住み、漁(りょう)をし ながら、生活している人々がいます。 44 早朝まだ暗いうちから漁に出掛けるかず。タイさん一家 です。ハロン湾に漁をしながら生活しています。家族全 員海で生まれ、海で暮らし、何代も前から一度も陸に 住んだことがないと言います。次女のフォンさんは十三 歳。毎日お兄さんと一緒に漁を手伝っています。一日 で3キログラムから4キログラム。家族がようやく暮らして いける最低限(さいていげん)の収穫(しゅうかく)です。 しかし、タイさん一家は海での生活を変えるつもりはあ りません。タイさん一家が住むのは静かな入り江にある バン·ザー村。ホンゲイ港から船で3時間。 45 ハロン湾の中ほどにあります。しかだの上に建てた 家が並ぶ海にゆかんだ村です。村ができたのは 1994年。船の上で暮らしてきた人々は次第に集まり 定住(ていじゅう)したのが村の始まりです。定住の きっかけは魚の養殖(ようしょく)が始まったことでした。 現在人口768人。127世代の家族が海の上で暮らし ています。 46 漁を手伝っていたフォンちゃんは小学校の四年生。学 校に通いながら、家事一切を受け持つしっかりものです。 家族の中心は村のちょうどで、82歳になるヒューおじい さん。ヒューさん夫婦とタイさんの一家。それに叔父さん 一家の12人の大家族が隣り合わせて暮らしています。 村の中の移動手段はすべて船。タケー湾で作った小さ な船です。子供たちの通学ももちろん船です。村の中央 (ちゅうおう)にある小学校には現在一年生から五年生ま で120人の子供通っています。授業は午前と午後のに ぶせい。五人の先生が交替(こうたい)で教えています。 創立は1999年。マンザ村に小学校ができたことにより、 この村に定住する人も一層増えました。 47 村には電気も水道もありません。しかしここで生活するた めの必要最小限(さいしょうげん)の機能が整っています。 水や燃料を注文すると、村に一軒ある店が船で配達して くれます。日用品や野菜はホンゲイ港から運ばれて、や たいの船が各家にいりにきます。 タイさんは最近魚の養殖を始めました。海で取れる魚の 量が年々減ってきたため、安定した収入を考えたことで す。フォンちゃんは学校に行くより家族一緒に漁をするほ うが楽しいと言います。将来はこの村で結婚して今と同じ ように海の上で生活したいと思っているそうです。 48 ここで暮らす人々は多くのものを望みません。一緒 に暮らす家族と美しい海が変わらずにそこにあるだ けでいいそうです。ハロン湾は人々を魅了する幻想 の世界とすごくで心豊かな暮らしをもたらしてきたの です。 49 注: 1.切(き)り立(た)つ:峭立,陡峭。 2.手付(てつ)かず:还没使用,还没着手。 3.ゲリラ:游击队。 4.隠(かく)れ家(が):隐匿处。 5.食(く)い止(と)める:防止住,阻挡住。 6.漁(りょう):捕鱼。 7.舞(ま)い降(お)りる:飞落下来。 8.寄(よ)せ付(つ)ける:使…靠近,使…接近。 50 四、厳島神社 51 神の宿(やど)る島。厳島。古(いにしえ)から人々がその 幽霊(ゆうれい)な姿に神の存在を感じ、海の隔てた対 岸からこの島を崇(あが)めてきました。太古の人は山 のキンや岩に神が宿ると信じ、信仰の対象にしてきま した。 厳島には手付かずの原生林(げんせいりん)が残され ています。長い間この島に人が住むことはなく、木を切 ることさえも禁じられていたからです。瀬戸内海(せとな いかい)に浮かぶ厳島はやがて海の神として人々の信 仰を集めるようになります。平安時代瀬戸内海を一帯 をようせいした対岸の清盛(きよもり)は厳島を航海(こう かい)安全な神として厚く信仰し、崇拝(すうはい)しまし た。 52 厳島神社の創建は推古(すいこ)天皇の時代と言われていま す。その後十二世紀の半ば、平清盛(たいらのきよもり)によっ て、社殿(しゃでん)が再建(さいけん)されました。平安時代の 建築様式(けんちくようしき)。寝殿造(しんでんづく)りの厳島 神社。海に浮かぶ社殿が清盛の時代とほとんど変わることな く、今に伝わっています。 社殿は神聖(しんせい)な神の宿る土地を避けて海の上に建 てられました。その優美(ゆうび)な姿は竜宮(りゅうぐう)や極楽 浄土(ごくらく浄土)にもなずらえてきました。厳島神社の特徴 はそのかいほうかんにあります。通常神社の本殿は内部から 隔てた奥まった場所にあります。厳島神社は本殿はこうしと御 簾(みす)で仕切(しき)られているだけなのです。本殿には航 海安全な神として信仰されてきたいちき島姫のみことをはじ め、さんじょしんが祭られています。 53 正面に臨(のぞ)む大鳥居(おおとりい)。清盛の時代から 数えて8代目。明治時代に作られました。その高さ16 メートル。樹齢(じゅれい)千年以上のくすのきを使った柱 は海底(かいてい)に杭(くい)を打った基礎の上に、鳥居 の重さで立っているのです。 厳島神社で最も開放的なのが回廊です。回廊の幅(は ば)は4メートル。何度も折(お)れ曲(ま)がり、東西南北(と うざいなんぼく)回廊のどこからでも社殿や周りの自然を 見ることができます。そして回廊の軒下(のきした)には 108個の灯篭(とうろう)が吊るされています。これは仏教 で煩悩(ぼんのう)の数とされる108に因んでいると言わ れています。この社殿が作られた平安時代は、神道と仏 教が融合(ゆうごう)する神仏習合(しんぶつしゅうごう)が 広まった時代でした。その影響は厳島のいかるところで 見ることができます。 54 神社の後ろに聳(そび)える厳島の主峰(しゅほう)――弥 山(みせん)は仏教における世界の中心須弥山(しゅみ せん)からその名が付いたと言われています。言い伝え によると、弘法大師(こうぼうだいし)は弥山山頂で護摩 (ごま)を焚(た)き、百日間の修行(しゅぎょう)を行ったと 言います。弥山の山頂付近に建つ霊火堂(れいかどう)。 ここには弘法大師の修行から千年以上経った今もおい つづけているという霊火が祭られています。弥山は厳島 で最もせいなの山として仏教僧の修行の場にもなりまし た。そして厳島神社と仏教の関係も次第に密接になっ ていくのです。弥山の麓(ふもと)に建つ大聖院(だいしょ ういん)。古い歴史を持つ寺院で、江戸時代まで厳島神 社の管理、運営を司(つかさど)っていた寺院です。 55 観音堂(かんのんどう)に祭られている十一面観音菩薩(ぼ さつ)は明治維新まで厳島神社の本地仏(ほんじぶつ)で した。神仏習合では神は仏や菩薩の仮(かり)の姿と考えま す。この十一面観音菩薩はそれを象徴している仏像(ぶ つぞう)です。平家一門は厳島神社に極楽浄土(ごくらく じょうど)を重ね合わせ、法華経(ほけきょう)などを奉納(ほ うのう)しました。1177年、平清盛は千人の僧侶を厳島神 社に招き、せんそう供養(くよう)を催しました。夜松明(たい まつ)の明かりにけらされた回廊に、千人の僧侶が並び、 祈祷供養が盛大(せいだい)に行われたと言われています。 56 神仏習合によって厳島の様子も次第に変わっていき ました。厳島神社では仏教僧によるほうえいや祈祷が 恒例化し、室町(むろまち)時代になると、神職や僧侶 が島内に住むようになります。ほうえいに集まる人々 が増え、島には市がたつようになり、一般の人々も島 に住むようになりました。そして江戸時代になると、厳 島は全国でも有数の観光地になっていくのです。 57 江戸時代には一年の始まりをきよめるあかし迎えが島 民の間で行われていたと言います。現在この風習は見 られなくなりましたが、矢的武雄(やまとたけお)さんは一 日の始まりをきよめる潮汲(しおく)みを厳島神社の前の 海で毎日続けています。厳島とそれを崇める人々の思 いは千年を超える時の中で、移り変わってきました。 自然と調和し、一層の美しさを際立(きわだ)たせる厳島 神社。日のうつろいはその景観をこくいこくど変えてい きます。それはまるで万物を集め変化し、止まることが ないという諸行無常(しょぎょうむじょう)の理(ことわり)を 表わしているかのようです。 58 注: 1.宿(やど)る:存在,有,寄生,寄居。 2.寝殿造(しんでんづくり):平安时代贵族住宅的样式。 3.仕切(しき)る:隔开,区分开。 4.くすのき:樟木,樟树,楠木。 5.軒下(のきした):屋檐下。 6.神仏融合(しんぶつゆうごう):神道和佛教融合。 7.護摩(ごま)を焚(た)く:举行护摩式仪式。 8.司(つかさど)る:掌管,管理,主持,担任。 59 9.奉納(ほうのう):(对神佛)供献,奉献。 10.供養(くよう):供养,上供。祭祀,祭奠。 11.松明(たいまつ):火把,火炬。 12.明(あ)かり:灯光。 13.諸行無常(しょぎょうむじょう):诸行无常。 14.理(ことわり):理由,道理,理所当然。 (終わり) 60
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