スポーツ文化 第7回 なぜ、体育・スポーツは文化として 捉えられなかったのか。 スポーツが文化として捉えられなかった理由 「スポーツは文化である」 と言われる。 スポーツと文化 「スポーツは文化である」ということに対して、 スポーツに対する劣等感の裏返し 理論的根拠を持たずに 文化への羨望(せんぼう)的な眼差しから ただスポーツが文化であると主張するもの 羨望 = うらやましく思うこと。 日本でスポーツが 「文化」 と言われ 出したのは1970年代のこと。 (今から45年程前) 政府の文書として発表されたのは、 1990年代?のことである。 確かに日本では、体育・スポーツや運動 が文化の中にある、もっというならば、 音楽や美術などの芸術活動と体育・ス ポーツ・運動が同じジャンルにある、とい う認識が一般化したのは、 ついこの前 のことである。 体育・スポーツを文化として捉えていな い一番の例題は、 中学校・高校における 体育部と文化部や運動部と文化部 といういい方(分け方) にあるのではないだろうか。 その区別の根源はどこにあるのか。 それは、 第二次世界大戦前にまでさかのぼる。 戦前の社会は初期の資本主義段階で あって、すべての人々の欲求を十分に 満たすだけの生産力をもっていない 時代であった。 さらに社会は、階級的な序列によって 安定を保つ階級社会であった。 したがって、庶民の欲求は必要以上に 抑制されなければならなかった。 それゆえに、禁欲主義が正当な教養と された。 この教養としての禁欲主義は、伝統的な 人間観としての 心身(身心)二元論 と結びついた。 心身二元論 : ギリシャ・ローマのユベナリス 「健全な精神は健全な肉体に宿る」 「健全な精神は健全な肉体に宿る ことが望ましい」 <宿りますように> という 祈りの言葉 人間を 身体 と 精神 に区別 精神は人間の理想を実現するものとして 善であり、これを追求することは、神への 奉仕として崇高化された。 身体は、欲求のすみかである悪として否定 され、精神に仕える限りにおいて肯定される 召使いとしか考えられなかった。 心身二元論 : 文化を芸術や宗教、科学、 哲学などの高尚な精神的事柄と考える 狭い文化観 と結びついていた。 心身二元論に強く影響された文化観および 社会においては、 激しい身体活動を要求し、その根底には 遊戯性を有するスポーツが文化的に不当 な扱いを受けていた。 身体を精神の下僕として精神に隷属させ るものだった。 下僕 = 男の召使い。下男。 採点の基準 3つの要素が適切に組み込まれた文章で あること。 • 社会の状況 • 心身二元論 • スポーツ(の性格) 体育・スポーツを文化として 捉えていない、 その根源はどこにあるのか。 それは、 第二次世界大戦前にまでさかのぼる。 戦前の社会は初期の資本主義段階で あって、すべての人々の欲求を十分に 満たすだけの生産力をもっていない 時代であった。 さらに社会は、階級的な序列によって 安定を保つ階級社会であった。 したがって、庶民の欲求は必要以上に 抑制されなければならなかった。 それゆえに、禁欲主義が正当な教養と された。 この教養としての禁欲主義は、伝統的な 人間観としての 心身(身心)二元論 と結びついた。 心身二元論 : ギリシャ・ローマのユベナリス 「健全な精神は健全な肉体に宿る」 「健全な精神は健全な肉体に宿る ことが望ましい」 <宿りますように> という 祈りの言葉 人間を 身体 と 精神 に区別 精神は人間の理想を実現するものとして 善であり、これを追求することは、神への 奉仕として崇高化された。 身体は、欲求のすみかである悪として否定 され、精神に仕える限りにおいて肯定される 召使いとしか考えられなかった。 心身二元論 : 文化を芸術や宗教、科学、 哲学などの高尚な精神的事柄と考える 狭い文化観 と結びついていた。 心身二元論に強く影響された文化観および 社会においては、 (そして、)激しい身体活動を要求し、その 根底には遊戯性を有するスポーツ(は、悪 とされていたため、)が文化(として捉えられ なかった。)的に不当な扱いを受けていた。 身体を精神の下僕として精神に隷属させ るものだった。 下僕 = 男の召使い。下男。 Ⅳ.なぜ「スポーツ」は文化として捉えられな かったのか。( )内に適切な言葉を入れ て説明しなさい。 4点×7 第二次世界大戦前の社会は初期の (1) 資本主義 )段階であって、すべての人々 の欲求を十分に満たすだけの(2) 生産力 )を もっていない時代であった。 さらに社会は、階級的な序列によって安定 を保つ(3) 階級社会 )であった。 したがって、庶民の欲求は必要以上に抑 制されなければならなかった。 それゆえに、(4) 禁欲主義 )が正当な教 養とされた。 この主義は、(5) 心身二元論 )と結びつい た。そして、激しい(6) 身体活動 )を要求し、 その根底には(7) 遊戯性 )を有するス ポーツは、悪とされていたため、文化として 捉えられなかった。 サッカーが世界中に広まった理由。 ルールが簡単で用具が最小限でできる。 エネルギー発散の場になる。 国内政治の不満をそらす。 民族・部族の問題を克服できる。 国家の威信やナショナリズムを高揚させ るのに役立つ。 だから、サッカーは世界中に広まった。 「文化」には価値的なニュアンスが付着 する。 スポーツは文化から除外、あるいは、 価値序列の低いもの とされた。 体育は、訓練や鍛錬と教化の性格が強い。 教化:教え導いて善に進ませること。 学習は、軽視されていた。 それは、ドイツ系の文化哲学に端を発する。 文化は、知的・精神的な活動として限定。 技術的・物質的側面は「文明」として区別 している。 この授業での大きなテーマ スポーツ文化とは何だろうか? 人は、スポーツとどのようにかかわっ ているのだろうか? (人は、スポーツとどのようにかかわっ たらいいのだろうか?) この授業でのメインテーマ スポーツ文化 「スポーツの教養とは」、何だろうか? スポーツ文化を享受する能力とは何だ ろうか? (スポーツ文化能力は、(何を)どのよ うに身に付けていくのだろうか) 我々は、(スポーツを指導する立場とし て、)何を伝えていくのだろう。 崇高(すうこう) : けだかく偉大なこと。普通 の程度をはるかに超えて驚異・畏敬・偉大・ 悲壮などの感を与えるさま。 享受(きょうじゅ) : ①受けおさめて自分のものにすること ②精神的にすぐれたものや物質上の利益な どを、受け入れ味わいたのしむこと。 アレン・グットマン著(谷川稔他訳) 『スポーツと帝国―近代スポーツと文化帝国主義―』,昭和堂 3,045円
© Copyright 2024 ExpyDoc