文選語の受容 四八 されやすいか、または訓注を伴って受け入れられやすい形で存在し る漢籍がある程度普及していたこと、及びその漢語がもともと理解 その漢語が相当の表現価値を担っていること以外に、そ の出所であ 一般に、漢籍より移入した漢語が日常に定着してゆくためには、 一般語彙についても文選の影響は著しい。例えばコ今昔 物証旧L につ の故事成語等の取り入れについては既に多くの研究成果があるが、 は他書に比して格段に高い。源氏物語以来の文学作品 における文選 といい、﹁白氏文集﹂等と並ぶ本邦漢語語彙供給源としての重要性 する 親児度 といい、また詳細な六日注や豊富な文選訓 による理解 皮 あくせく・嵯峨し ・抑 々し 中村定 の大きさは、﹁和名類聚抄 ﹂や﹁類聚名義抄 ヒ等におけ る多量の文 ていたことが条件であろう。いかに美辞麗句であっても、その出所 いてみても、 連語や文選訓の採録状況にも窺う ことができる。一般読言者層に対 が稀親書であれば、故事成語集の如き何等かの介在を経ない限り、 ツル ニ、﹂︵十六・十八︶ 。男 、娘 蹄テ云ク ﹁年来、汝ヲ 片時宜 去 ル事元ク 、衰レ 二悲ク思ヒ 意的な使用に留まって、継続的に広く使用きれるとは考え難い0 の文選読の知識があったと見なければならないし、 にはコ文選日射推賦の 、﹁ 娘酩而徐来 ﹂による、㍉ 娘㍾ 集大成した昭明太子撰 0 コ文選口はその豊富な詞藻を以て本邦の作 。何ナル 事出来スラムト テ講師モ 周テ切モ本天ズ︵ 十 九 ・十四︶ ところで、中国の古代から六朝の梁までの話 ・賦 ・文ヵ 早の精粋を 文資料の宝庫として事書,辞典的な役割を果たしており、その影響 @タノ ラフ﹂ 普及することは難しいし、また晦渋難解な語であれば、一時的,盗 はじめに 彦 も、周章 @ ァヮッ 只呪テ泣キ居給へ リ ︵十九, ︵ 十 ︵兵部 賦 ︶の意味理解が定着していなければかか る 略表記はできない。また、 川 四︶ 。山ノ中ノ、 大モ 通 ハ ス 研ニ 来 レバ、 ァ 。物モ不忠シテ 呪迷 ヒデ 死 タル 者ノヤ ウニ 居タルヲ見 - 昔@ 也 ︶の 、 ハ ヌ人モ 々シ 前条は 、 ︵ 巻十九諸国宮方蜂起 ノ事 ︶ 邦国 渠 浮宝︵ 都賦劉 沃 Ⅱ コヤセルという 付 | 割二 サよ 。丁百二部白2 法衣食 之 源 英 - ︵西都賦李善注 楽人侍臣其館 歌 2目云々︶ に拠るが、恐らく注文よりは 瞼偶沈 ・・・・洞 ・順 ・派 。流 。、 意 理解であろう。後集ら、 。葺 。 鱗鍍 。甲 偶 点在二水中 群山。口目︶ @クチサシツトフ ﹂という文選読 の形で によるが、﹁ 喰偶 ﹂などの特殊語彙をそのままの形で理解して とは思えない。﹁11 していたと考えるのが実際的である。 もので これ等は文選の辞書的性格がそのまま利用され、作者は脳裏 った文選語を文意文脈に応じて適宜組み入れて編文 した 右側にも当然かかる文選語の意味理解が可能であることを前提 ている。かつて増田畝氏はコ 太平記 L と コ文選ロ との 一 父渉 を情 れて、直接的な関係の薄さを指摘されたが、故事成語のみでな かかる漢語の意味理解にまで角度を拡げるなら、そこに ﹁太平 の読者居に広汎な コ文選 L読者層を重ね合わせることが できる はないか。 このように、文選語の多くは音訓両読の文選 読 に支え ろ れて 四九 文 瞼 日 九︶ 李詩 注失 思味 表記であ 丘 などの 呪字も 、﹁ 魂侃侃 以矢庭﹂︵西都 賦 侃侃 トホルの理解による、﹁呪テ ﹂﹁ 呪迷 ヒテ﹂の 文 意 上、前後 賦︶ 公田公示 巻 五︶ ︵ ろ う。大系では共に呪を﹁ オ ソル﹂と訓じているが、 不覚のさまで、﹁ホル﹂の訓が妥当である。 ﹁太平記﹂にも文選出典 語 が多く見える。 。明王加護 ノ仰書、掲焉ナリナル用地︵巻こ ルシ ︵西京 賦 ︶。偶然 @ ホ ︵同︶ 。相摸入道鷲見 テ起 タレ 共 、偶然トシテ英二所。 知 ナシ り一ン それぞれ、。掲焉トイチジ 。帰去来右田園 将 。蕪 ︵ 巻 四十六,帰去来辞︶等の文選 による理解 ろ,ヮ。 語 である。ただ、これ等はかなり早くから日常語化していたとも 見 られるか、次の例などは改めて取り入れた文選語 であ 1白文 li衣食 英 - 。︵ 巻十二衣領 国家法事︶ 1ニ 1% 。諸キ陶朱 之 富貴 @節 。義貞 恩顧 ノ軍勢等、⋮⋮轍魚雨ヲ得テ喰隅ノ唇ヲ混ス ト、悦 ⅠⅠ中川畑 白 6 い た 記 憶 に普及し受容されていったものとⅢ足 するが、この語の普及と共に ケル︶。 亭 ン︶。 炬 @タチ モトホル︶。 瞳 々︵トシロ・ 訓の支持を必要としなくなった語も多い。その列、 タカシ︶︵ 々︵@ 。員眉 Ⅰ < ︵文安 二一年 < 五O ソ文 ロふ頃成立︶で指摘さ れて以来、 是レヲ注 スルニ小節 ・アク 寸ソ力Ⅰ @ ノセハ斗十二︶ ︵西京賦 クトチ 、 毒口 | ︵若一一一︶ ト一五 % ㎜ス ノ遅々 スルヲテヘ クルト 云 ハ冊 @ チ 、ケタ リトコ メリ レバ絡ヲ以テ物ヲ縫フ ケキコて卜ヲ 。醒醍而草画邪曲十玄 所。欽也︵兵部 賦 銃口|| ほ山 貌 ︶ 小節也輪目他為 節変域白山山ハ 上野本 訓 V ァクサ 。徒 帳下。 能 ,収二 擁麗 為 。国華ぃ独倹薔以韻煕 ニフ シ 二至り 連り 力木タル 力如 ソ 。祓僖 ︵@フミハダカル︶。 荻 々︵@タカシ︶。漫々 立っているこ 十八放歌行 飽明遠 済口11冠灰貝︶ 。 n 広 辞苑回心狭く小事にかかわること。 短侠 なさま﹂ を 。蓼虫 避 主薬茎 @習 。苦木。@ ロ。非小人自罎虻 、安和二腰 モ慎 - ︵養二 この三例はいずれも﹁小事・小節にこだわるさま、 せく﹂表記面による文選請取り入れの﹁嵯峨し﹂、文選出典が確実 。 n 日本国語大辞典し心 にゆとりがなく、目先にだけ心 なう ばわれ いう から現今の使用義 とほぼ重なる。 と思われる﹁抑 々し﹂の二%拍はついて考察を試みることとしたい。 た よ う にせわしく事を行うきま 。 ﹁日本国語大辞典﹂﹁角川・古語大辞典﹂に掲げる用例4b なお利用した訓は現在最も流布している艶文仮 による。 次に、文選語受容の具体例として、最も日常語化している﹁あく たるのが実際的である。 とから考えて、これ等の語の殆どは、文選読 による理解と受容と考 利古辺郡 Ⅱ何重五豆の如き︶が現に漢語解釈に役 ︵商賈Ⅱ 阿岐北上百族Ⅱ も 々夜伽良 販婦Ⅱ比佐岐女 コ文選ロの普及と、同和名抄ヒ以来既に成立している多数の文選訓 よらない漢語の直接理解と考えることもできる。しかし古くからの ただ、出所はすべて﹁文選﹂からとほ限らないし、また文選読に リ︶。総 連 ︵@ホカラカナリ︶。桑門︵ ノョステタルヒト︶等。 イ@ス@ 選膣醍 0%配車訴訟ナントノ落居 ﹁あくせく﹂が文選 語 であることは広く知られている。 行誉 め ﹁堵嚢抄口 せ 同文選日における使用例は次の通りである。 チカラオ ・ コシス︶。 苦刀卍 布 ︵@ ニココ二︶。 淫㍾ 味︵ @フミニジル︶ あ なお、この語も既に チ 、クルの訓は必要とされず、アク 々・ クとい う昔で定着している。アクセ キ の形も残るが、アク あくせくでかせいだ暮の餅の里︵雑俳・ 筑丈許万 句 ムロ︶ 。隊員ふても婆のあくせく︵つくりとり︶ クに 転じたのは、発音の便 伯さ 以外に、﹁狭し・急く せかせか﹂ 地勢の急峻さを形容する﹁さがし﹂の語は古くより用 いられてい 二、 さがし︵嵯峨 し ︶ 為し 能ふ所 ならむや︵志賀重昂﹁日本風景論﹂︶ 。此の火山を刻み此の流れを描かむとする者、豊に屑々握 鮭の徒の も伴って用いられ続けた例の一つとして挙げることが できる。 クセクの語は、文選語が 殆どぞの原義のまま、時には煩 雑 な表記を 要 するにこの ア サ ク からアクセ 。あくせくと 妻扇も張る二枚の戸︵歌 羅衣︶ 等からの引き付けの意識が働いていたのであろう。 門挨襄抄 L の説 。堵 きのどくしんきやと心あくせきあたまをかき︵愛染 明王影向松 Ⅰ 叫︶ 原義と、江戸期の用例とほぼ一致しているのに、 明は不審である。編者行誉は訴訟などの遅延するさま をいう﹁ テ、 通りの節目と ク ﹂と、﹁ 趣撰 @ チ、ク ﹂を強引に結びつけて解釈して いる。 李誰に ふしめ 注の ﹁小節﹂も﹁小さな行い﹂としてではなく、文字 取っているようで、それ故、糸筋を通し兼ねる例を挙げるのであろ る0 う 。文選 訓のチ、クはチ、ムと同系で縮小の義と思わ れるから、 遅 。梯立の倉持山を佐賀恵美と岩かきかねて我が手取らすも ︵記 歌謡 サガ 々する意の チ、ク はこれの派生養と見なければならない。行営 は文 セ O︶ ︵逸文肥前風土記︶ ︵組歌謡 ハ 一︶ サガ。 、 @ 。あられ降る 杵鳥 が嶽を嵯峨紫弥と草取りかねて妹が手 を 取る 。梯立の佐 餓始秋山も我妹子と二人越ゆれば宴席かも サガ クキ サ ガシケ 。梯立の倉 椅山は佐賀新部 ど妹と妹と 登れば佐 。賀 力新 。政 。 も あらず︵ 同 六九︶ 逸話﹁ 睾鮭 @チ 、ケタ リ﹂の例に注目しながらもこの解 釈は ついて は牽強に過ぎるのではないか。 降って、日星 刑凹め ﹁燕居雑話﹂に 、 文選 飽昭が 放歌行に﹁蓼虫︵略︶﹂と有て、 俗に云せ ばせば しきをアクセクと云此 昔の転ぜるなるべし と記す。﹁菱食 う虫 ﹂が慣用語となっているから、﹁ ア クセク﹂ も 上記三例文中、この箇所の﹁小人自捷雄﹂の用例から受容された 公 鼻 が大きい。 五一 。あられ降り吉美 志が嶽を険しみと 草とり放ち妹が手取 をる︵ 萬 五二 と りついて 登 説明できない上に、山坂の急峻なさまを﹁下グ ﹂とい,っ上から下へ の 一方向でのみ説明しょうとするのは筋が通らない。 る程の瞼しさなら、むしろ下から上への方向でなければ ならない。 莱 ・三八五︶ 。さかしき山越えいて でぞおのおの馬には乗る︵源氏 浮舟︶ 続いて②の漢語﹁嵯峨﹂由来訪も、 古く記紀歌謡にこ の語が見られ めしきいはねに ぬさむけてきがしき山を越ぞ えわづらふ 。道のべの 8点から成立しない。万言として神奈川県・山梨県より鹿児島県 鬼 界島 まで広く分布している生活語である点も無視でき ない。 ︵夫木集刑人・信実朝日︶ 。さき 興かいて長刀の柄もこしの韓もくだけよととま るに まきしも サヵシ サガ ソ 。 阻サ 。岬蝶 蜂也城西佐川 志 サヵシ が圧倒的である。 サカシ ・サガ シ清濁 面 形が存すること。 結局、難点の少ないのは㈹の﹁坂シ ﹂説のみである。 ま ず Ⅲ 古字書類においては、 佐 加点 ﹁新撰字鏡﹂。︵山偏に省字︶岐山 佐加 志太 加点炭 コ類聚名義抄 口 。嵯峨タカシ 。崔 。嶋 ・凝 行阿開架 之沙汰︶ この﹁きかし﹂の語源についてサ 、﹁ ヵカナセリノ 反、又サ カクタセ リノ反﹂︵名語記︶の如き説明は除いて、な 有の 力は次の 三諦である。 Ⅲ登りが急であることをう いサゲシキ︵下知︶からワ 。 豊口 通﹂。 サカ シキ カシ 鬼 元 々の清音形 。険 サグル ︵下︶から出た語で、山の下り道などを形も 容の し﹁ た国 濁音形が時に清音化して用いられたとするよりも、 タカ クサ カシ スサカシ ︶。 語の語根とその分ヒ 類 ︵大島正健他 サ カシイ ︵ 山 生 活語としての えねばならないが、これが﹁嵯峨﹂と表記きれるのは明 らかに文選 このように、﹁ ザカシ ﹂はもともと和語の﹁坂シ ﹂で @ のったと 考 坂 よりとするのが即物的かつ実際的である。 ㈲ 語構成からも﹁ 坂シ ﹂説が自然で理解しやすい。 日原・福岡県︶などの方舌口が残っている点も有利であろ が 濁音化する場合があると説明する方が容易である。 ㈲嵯峨シ欺 ︵八名語V 記さがしは字音をも訓 てとせし にや 八和訓 ㈲坂の転義 峻より八松岡静雄・﹁古語大辞V 典坂を活円 させたも の、坂シの義 八角Ⅲ・﹁日本古語大辞典 V﹂ 吉田舎費氏八 ﹁国語 意味史序説﹂V 以上三説の中山 説がまず否定されるサ 。カシという清日 士形について 嵯峨﹂の取り入れによる。 宮参差 騨 嵯峨︵甘泉 賦︶ @ サカン 霊光之 為。牧地則嵯峨 罪鬼 ︵ 魯霊光 殿賦 ︶ 界﹂ 褒斜嘩首之険 左拠二回答三 之崎 阻@ ︵西賦 都 ︶ ゐ蕗要 ないが、恐らく tサ サカ ガシ という 昔連続を避けたあ のろ でう。 峨﹂は五注 日﹁ 高貝 ﹂で、他サ のカシ訓 とぜられ語 た と同義で ﹁肥前風土 記者に﹁文選﹂の知識があは ヒ編 っ 明た らこ かと 他に 険阻 哨岬蝶 巌々友義等サカシ 選ヒではその阻 他、 % 安 岳" 安宿ニ紐都花で 宕薩恩 下嵯峨を含む広範な地域 であっ 忙中世にあっては 旧嵯峨野村はもちろん、その西北の平坦部、 す なむち同上嵯峨・天竜寺・ コ 旧地誌 口に ﹁此 加西 比率 ネ て、嵯峨・嵯峨野はぽ ぼ同一地域をさしたものと考えるれる。 ︵略︶この地名の起源については 呼びし ﹁蓋し 山地 険阿ナ ル% 以テ 嵯峨 ノ弥 起ル或云 愛宕山腹 ョリ 出 タル 称 ナリ﹂として 阪より起るとする。また コ嵯峨誌上には、 を、 恰も好しそのさがしきを形容する漢字に嵯峨のあ て、 之を使用するに至りしものならんという。なお出典不明な 見える。 がら﹁新撰京都名所図会﹂には﹁また一説には中国の首部長安 郊外の嵌群山︵嵯峨山︶の名を移したといわれる﹂とも 五三 ︵ 角 Ⅲ・﹁地名大辞典﹂︶ ぼ六卿︶ 地名起源については﹁さがしき﹂﹁阪﹂両説を挙げる が、坂シ| も見えるコ 。 大言海二で、﹁︵さがしは︶ と暗 漢合 語ス 嵯 ﹂峨 ガシ 語源 説 をとれば 畢章 両説は等しい。ただ地勢険しきが為に直 ぅように、サヵシ ・サガ シは本来﹁嵯峨﹂とはが 無ら 縁、 な 表 際して風土記繍文者によって始めて類義 にサガと呼ばれたのではなく、﹁サガシギ野﹂であった ので、 ザ 宛の て﹁ ら嵯 れ峨﹂に 野あ るいは単にサガと呼ばれるに至ったものであろう。 延喜天暦 語と﹂は半 のであろう。よって風土記歌謡の﹁嵯峨文 し選 み ば 前 のものとされる﹁嵯峨圧条里方図﹂の一によると、 栖憲幸︵ 現 することができよう。 仰都 望︶を中心とする 計㌍区画中、山・野山 9 区画に対 して 野 ・林 ね、これに関連して、同じく﹁嵯峨﹂と表 西記 郊さ のれる京 ほついて触れておきたい。 が為 区画、田畠が㏄区画を占めている。急峻な地形に直接対応し 嵯峨︵右京区︶桂川の左岸、小 に位 倉置 山す のる 東︵ 。 方略古 ︶ ム 川名であり得ないのは明らかである。そしてこの﹁ 嵯 峨 ﹂表記の の 記 と ガ ち サ た 野 狐 以 た と % な % 地 初出が 便御 親王 諒嵯峨山荘 賜 五位已上衣 被 ﹁類聚国史 ﹂延暦二十一年︵ 肌 ︶八月二十 セ日条 遊猟於的野 て、中国詩文を愛好された親王の命名表記であること とされるから 、この地に在った嵯峨天皇の親王時代の山荘の呼称が 始まりであっ はほぼ確実で ある。 三ノ下 ︶の記事が源ではないかと なお中国地 名の移入 説は ついては、これは尾張藩の儒者岡田健之 ︵安政十一年 没 ︶の コ美穂銀ロ 思われる。 、恵 市 四年賢士 嵌串山 Ⅱ 在 。 北 。 師 吉日、即 ム﹁俗所 。 五四 嵯峨野、またはその略の嵯峨と呼ばれるのが普通で、 愛 宕山麓 か 城山と 嵯 保津川に至る傾斜のゆるい段丘をなし、﹁丸腰裁宰 ﹂ ︵上林賦 野の地形の差は決定的である。 もともと﹁漢書﹂に嵌罷山 として記載され、 師古 によ って始めて ム﹁の嵯峨山 也 ﹂と注されるような稀出の地名が 、 態々 本邦の地に されるような事情も特別な背景も考え難い。もしそのよう な実態 あれば、当然命名の由来として何等かの史料や詩文等に 反映され いるはずである。 故に同乗 穂録ロ のこの指摘は畢寛筆者の単なる机上の 思い付きの を出ない。しかし 挺之 にこ う推測させるほど、この古雅な 文選 語 呼嵯峨山 呈出 と 。今平安城の北に嵯峨あるも是に準ずるなるべ 利用した﹁嵯峨﹂は歴史が古く、名勝旧蹟に富む野に対するこの 呼ばれたという資料は存しない。次に、京都のこの地 る 。しかし 愛岩山はもちろん、付近の小倉山・亀山笠6 百来 より別 ればさしあた り西北に位置する標高八九一米の愛宕山がこれに当た 桑中を視れば これを掌中に指すが如しという。これを京都に比定す 雲表に特出し、佑敵 すれば淫水滑水黄河がことどとく目前にあり、 里 ︶にある高山で によると、暁 峨山は浬湯原の北 四十里 ︵又は五十 ㈹まず、地理的条件が相違する。﹁読史方輿紀要﹂﹁挟四通志﹂等 しかし、この 説は次の点で否定される。 し。 漢書地理 志に は ら が 移 「 ㈹ 俄 事 て 域 内裏のうちに人がたなぬく 課さも業々し刑部卿︵ 紅梅千句︶ 閏ゼ ・一0 一︶ こよひ叉 両け ぅけぅしうなる。︵お湯殿の上日記・文明十四年 容 するが、その語源についてはなお検討の余地が残る。 一般に、内容に比して外観が誇大に過ぎることを、﹁ 仰 々し ﹂と 三 、抑 々 し ない適切な用字となっている。 土 を 父 自我会檜山 。ぎゃう ぎゃらしい白むく着たは討はたしてのなんの といふ ︵傾城反魂香中︶ 。束手は白布に胡僧 巻 たる ぎゃぅぎゃう しさ 諸辞書の、この語についての記載は次の通りである。 巳 指過 ギタル 事ヲギ,ゥギ,ウシょ ・ト 三ハ 何レノ字ヲ 業々卜書 ベキ脱文選二皮早業業 @タカシト コ メリ 李 。業々 敷 芸事 可。用ゾ ヘルニヤ八 %嚢抄 V 八元亀末運 歩白莫 V 善力 洋二言 ク峻貝ト云 ヘリ其ノ心叶 。希有々々 敷ゲゥゲゥシク すなわち 膨 しいこ と、 大きな ︵天正十八年木節用集︶ ギョウギョウ シイ 。凝凝ゲウゲウシ 。0三。幅ニ。ゑ 驚くべきこと、または並々ならぬこと。ぎょぅ ぎょう 事を大げさに誇張して言う八八日葡辞書 V 。げふげ ふし業々しき 成 べし文選に業々とたかしと よめり八 相 差 過ぎた 。きやりきやりし︵軽軽︶の語を軽率に差過ぎたりとさげすむ 意ょ ロぎ たなくい ふ煮 より濁音となる 実に過ぎてことどとし六大舌口海 V り 移れるなるべし り なく﹁ 希 同 類 は ﹁ぎ っ 。︵補注︶語源は明らかでないが、室町時代には﹁げぅ ﹂﹁ぎょ,﹂ と書かれており、元来は﹁仰 ﹂ではなかったらしい。 よう ︵柳二﹁ぎょ ぅ さん︵仰山︶﹂があるから、業では 有 ﹂がもとと見るべきか。八日本国語大辞典V この中、﹁ 凝 々 シ﹂は語義が全く関係しないし、﹁軽々シ﹂も軽忽 軽率の意の別 語 であるから共に除外される。従って現 祖語源とし て 残るのは、 Ⅲ業々 シ Ⅲ希有希有 シ の二説であるが、現在は専らⅢ説が支持されているょ,ヮ である。 ︵佐藤喜代治民﹁日本の漢語﹂︶ しかし、これについては次のような難点がある。 ㈹ ケウケウシ が濁音化して ゲウゲウシ となった とせね ばならないこ 次例のように﹁世にも稀な 、 有り難い、 シの語例が多く残っていてもよいはずで と 。もと ケウケウシ であれば、﹁軽々﹂の語義例を除く、キャ ウ キャ ウシ、キョウキョウ ある。 ㈹﹁希有﹂の語義からは、 筆舌に尽し難い、やっと、降しからぬ﹂等の稀少感や正負の価値 感 に連なる意味が導き出されても、外と内との乖離を強調する ﹁大 げきな﹂等の意味に連なるとは思えないこと。 。この入道股下の御一門よりこそ︵略︶中宮三所おはしましたれ 希有ノ 態 スル 阿闇 ば、まことに希有々々の御さいはひなり︵大鏡・ 道 長 ︶ 。何方 デ阿闇梨 ハ教二八 餅ヲ少ク得 サセ タルゾ 五五 梨カナ︵ ム﹁ 昔 ・世人ノ川六︶ 。稀有にして助かりたるきまにて這ふ這ふ家に入りにけり 草 ・第八十九段︶ 飛檜ムム ︵徒然 ︵西京 賦 結局、﹁暁雲抄 ﹂で既に指摘された﹁業々﹂説が語源として見直 されなければならない。 。神明・級娑、春光︵古名省略︶反手 業業 41車偏に 献字︶ 五ハ 従来この﹁業々﹂説が広く支持されなかったのは、 ㈲﹁業﹂単独で用いられた例がなく、同系の語と思われる﹁ぎゃう に ・ぎゃうきんに﹂との関連付けが困難なこと。 ㈲﹁業業﹂のような特殊な語が一般化したということに 対する 疑 念。の二点であったと思われる。しかし、Ⅲほ ついては、﹁業々﹂ Ⅰョ山ノ﹂ 二 の下略と考えることもできる。﹁希有に﹂ならばむしろ﹁士 の形になるのが普通と思われ、これが直接﹁ぎゃう に ぎゃうさん 曲 ﹂と注するからこの﹁業雫 タカウ あって伝に﹁業業、言二高大 - さる ﹁其形業業然 ﹂とする。別に詩・大雅蒸民篇に ﹁四仕業業﹂と 連は ついてはなお後考を期さねばならないが、他に有% な挙証のな として十分に説明可能である。﹁ぎゃうに・ぎゃぅさんに﹂との関 ﹁文選三の普及度及び文選読の介在を考えれば文選 詰め 一般化の例 に﹂の語源に結び付くとは考え難い。㈲については既述 のように シテ﹂という文選訓は正しい。︵ コ名義抄 Lは業に、オ うぎょうし い限り、現在では文選話 ﹁業業﹂が意味上音韻上﹁ぎょ 業業に対する人臣注を欠くが、辞綜は 屋宇が下向して反上するさ 訓を掲げる︶西京賦を含む京都の賦は文選中特に愛謂 されたところ い﹂の最も確実な語源であると断定せざるを得ない。 フゲウ ギョウの土日転化にも無理がない。抑 ﹁々し﹂はもち ある。また﹁業 ﹂は入声葉韻の ﹁逆怯切﹂︵集韻︶であるから、ゲ 太さを強調するのに﹁業業 シ﹂と形容するに至るのは極めて自然で る。しかし繰り返したように漢語使用は当然ながら読者にとっても 進展し、諸作品における漢語語彙の使用状況が精しく報土日されてい 文選読 の果 たした役割が大きいと考えた。現在、漢語研究は著しく の普及定着のあとを探り、殊に﹁あくせく﹂﹁抑 々し﹂ については 以上、﹁あくせく﹂﹁嵯峨し﹂﹁抑 々し﹂三話を例として文選語 おわりに で、この次の﹁飛槽﹂の語も ヒ ェムとしてコ和名抄L以来、﹁名義 の高大さを、 抄 ﹂﹁伊呂波字類抄﹂等に採録きれる。仰ぎ見る諸殿堂 ろん宛字ながら、この語の由来並びにニュアンスを表現するのに適 ﹁業業@ タヵ シ﹂の形容で読み慣れておれば、一歩進めて外観の壮 切 な用字といえよう。 の意味理解が可能であることを前提とする。この、作者と読者の ったのではないか。明治十八年に・刊行され、満天下の青 で 迎えられたという、東海散士の政治小説﹁佳人之奇遇 ど,ヮ して ﹂を例にと なお、本論の執筆に当って、佐藤喜代治氏の﹁日本の漢諸 口を参 ばならない。 著 させて頂いた。記して謝意を表する。また、当然触 れるべきであ は 表記のみ るのにこれを省いた論老も っある。︵広岡義隆 氏ハ サガ ︵嵯峨︶シV か八 さがし V か、漢語抵触に関する 一疑問︶﹁嵯峨﹂ 0間頭と考えたためであるがど諒恕を蜴わりたい。文中先考・不備 の点 ど 指摘頂ければ幸いである。 注 ①﹁大平 記﹂の比較文学的研究︵昭訂 ・角川書店︶ ②﹁百家説林﹂︵了一1打︶ ③他に白川 静氏 ﹁字訓﹂は、﹁ 性﹂と同根で、その内部 におそ ろべ 洛神 賦の影響はさて おいても、 故に日本の清 回 に於ける、 猶韓盧 の天象を吠ゆるが 如し ︵十六︶ ひらのさがの ﹁下げる 行 上 みゆきたえにしとよめるは山をもて彼 御事をあ の弘仁天子は嵯峨におり ゐきせたまへる故に嵯峨天皇と中 なり ⑥﹁目木随筆大成口巻十所収 ⑤﹁嵯峨 誌 ﹂所収 よ う である﹂を語源とされる。 語学と国語史 L所収︶も、お 帆p.四 pⅠ き的口四として、 理暦記念﹁ 国 ① m 崎馨氏 ﹁形容詞さかし・ き がし 考﹂︵松村明教授 回 きものを秘しているからとする説を挙げ、これを支持される。 ︵西京賦 ・ 李善注韓盧犬謂 二黒色 毛 也 。天 思えないし、また字義から推察できる語でもないから、 職臣於結末 @ 千之 駿狗也 ︶ よる﹁ 韓盧 ノイ ヌ﹂という文選読を脳裏に思い浮かべ ていたとし 考えられない。コ文選宸フ字書的役割は明治初期にまで続いてい わけであるが、漢語について音訓両様の受容を可能ならしめた 文 読の効用はかかる小説の使用語によっても改めて評価されなけれ 五 セ ヨ然 一文など、読者は態々 韓 盧の語の意義を辞書を引いて 確 かめたと 。その題名から連想されるコ文選日 年達 の熱 さや拡がりと共に部分的には文選読などの技法の普及が不可欠で る。しかるに一読して意味理解が可能であったからには識字 層の 小説などでは一々語義を確かめる余裕も必要性もなか ったはずで ちろん辞書など普通に机上に備えられていたわけはないし 、読物 般読者層にかかる漢語が理解できていたのかということである。 ならないのではないか。従来懐いてきた疑問の一つは、 通の意味理解を成立させた教養基盤の老っ 察が ム﹁後進められなけれ そ 共 は 一 も や あ 厚 る 狂 る の は に か る 選 ら はきれたり︵契沖﹁ 河 社 ﹂︶ ⑧﹁嵯峨﹂の地勢について、松本章男瓦﹁京の裏道﹂︵平凡社︶に 次の記述がある。 嵯峨とは高い山や低い 山が険しく連なるという字義だけれど も 、じっさいに広沢 や大沢の池のあたりを散策しながら眺める あるとき、市中の高いビルの窓からなに 付近の m 々はたたずま いが穏やかで、どうもそういう趣きとは 頷けない。ところが、 の前山といってよい一群の山塊が、 折り げなくこの方向へ目を やったわたしに、 烙 駝の瘤のような 双ケ 丘 のかなた遠く、愛宕 重なった稜線もあられ に、きわめて険しい姿に望まれた。距離 と気象が風物を変化させるそのきまに驚きながら、わたしはふ と、嵯峨とは都から 挑 めた叙景だったのだと思った。王朝びと はたたなづく山の姿を都から指してそう呼んだのではあるまい か。そして、その裾野 であるからこそ嵯峨野なのだろうと。 嵯峨を王朝人の直接命名とする点、及び嵯峨を前山の叙景とする 点、小論は見解を異にするが、一見平坦にみえる前山に続く裾野 の丘陵の﹁さがしき﹂は現在ではやはり遠望によってしか実感さ れないであろうという見 地からこの文章を紹介させて頂 く。 ロ@ ﹁わざわざ﹂態々業々 ソキ状、 又ハ 事々シキ収ニ 云フ語 八人 @ 海V 五八 。何かはわざわざし ぅ構へずともありなん︵蜻蛉日記 ・申 ︶ の ﹁業々 シ﹂に語源を求めることも考えられる。なお後考を期し
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