米山梅吉記念館 と「幻 の 米山記念講堂」

青山学院の歴史をたどる建築探訪
庫こども図書館として
文庫を継承し、米山文
長泉小学校に寄贈した
らは、米山さんが町立
物が建っている。こち
議な二階建て六角の建
に敷地庭園部分に不思
建てられ、本館とは別
された米山家旧敷地に
念し、ご遺族から寄贈
親の米山梅吉さんを記
岡 小 学 校、 青 山 学 院 緑 岡 幼 稚 園 で
が終生心血を注いだのが青山学院緑
という人も増えるだろう。米山さん
あれば、ここで子育てをしてみたい
ことがない。こんな図書館が近隣に
ビー・ベッドを供えた図書館は見た
ベビー・ベッドが置かれている。ベ
床に座して本を読めるよう工夫され、
古風な外観と異なり、内部はとて
も開放的で明るい。子供たちが木の
地域の方々が利用するだけである。
が、 こ ど も 図 書 館 は 緑 の 中 に 佇 み、
いるので訪れた方もおられると思う
杉浦 勢之
大学総合文化政策学部教授 復 活 し た 旧 館 で あ る。
あ っ た こ と を 思 え ば、 ロ ー タ リ ー
SUGIURA Seishi
カ国
歳で父を亡くすと、母
れてきた青年」は、帰国時にはすで
政治学・法学を学んだ 。 時 代 に 「 遅
ハイオ州のウェスレア ン 大 学 な ど で
前身である東京英和学 校 で 学 び 、 オ
夢見、沼津中学を中退 、 青 山 学 院 の
遠ざかる「時代」を追 っ た 。 渡 米 を
米山さんは、この学 校 で 世 界 に 目
を開かれ、潮引くよう に こ の 地 か ら
であった。
山家の養子となった「神童」梅吉少年
な る。 そこに進学してきたのが、米
う後身の学校は残され 、 沼 津 中 学 と
京に移転されたものの 、 集 成 舎 と い
な学校はすぐに新政府 に 摂 取 さ れ 東
逸 材 が 輩 出 し て い る。 こ の 「 危 険 」
連ね、田口卯吉や島田 三 郎 と い っ た
中村正直や山岡鉄舟が 教 授 陣 に 名 を
学校の一つである。初 代 校 長 は 西 周 、
が創立した沼津兵学校 も そ の よ う な
た。江原素六(後に麻布学園を創設)
の知性に学ぶ奇跡的な 機 会 が 生 ま れ
た。この時静岡の若者 に 、 日 本 最 高
事業の展開など、同時代の企業人に
起、三井報恩会の組織化による社会
日本におけるロータリークラブの発
で人生の目的を顧みる機会を持った。
代」を追い続けてきた青年は、ここ
例外ではなかった。前のめりに「時
局論に夢中であった米山さんもその
魅力から離れ難くなる。勝海舟の大
院長と出逢った若者は、その人格的
たと米山さんは回顧している。本多
二語をさり気なく伝え、諭してくれ
あろう。滞米中「巧遅」
、
「拙速」の
自らに通ずる「想い」を感じたので
だ本多院長は、この若者にかつての
への志を教育に昇華させる道を選ん
で、 若 き 日 に 燃 え 滾 ら せ た「 時 代 」
出された。キリスト教と出逢うこと
「 生 き 残 り 」 と な り、 新 時 代 に 投 げ
を投じ、余りにも若くして旧体制の
多院長は、若年にして戊辰戦争に身
た本多庸一院長との交流である。本
て「時代」を「早駆けた少年」であっ
一つの人生のかたちに出逢う。かつ
さん死後の 年、初等部米山記念講
空襲で罹災した後、改修され、米山
とんどの人が驚く。緑岡小学校講堂。
その米山さんを記念した講堂が青
山キャンパスにあったと聞くと、ほ
なく米山さんであった。
一貫教育の礎を据えたのは、紛れも
して切り盛りしている。青山学院の
さん(青山女学院卒)が幼稚園長と
山さんが小学校長、米山夫人のはる
の私財によって
緑岡幼稚園、緑岡小学校も米山さん
多 く を 米 山 さ ん の 力 に 負 っ て い る。
た。戦前の学院の財政基盤は、その
多庸一の学校」にのめり込んでいっ
彦さんが没すると、米山さんは「本
青山学院を支えてきた後輩の間島弟
帰ってきた。青山学院は、米山さん
礼拝堂が置かれ、米山さんは青山に
初等部校舎新設とともに、米山記念
を通じ、今ひとたび三島や世界の人々
と結ばれることになったのである。
Yoneyama Umekichi
米山 梅吉
1868(明治元)年~1946(昭和 )年。
信託株式会社初代社長、日本のロータリー創始
青山学院の前身である東京英和学校出身。三井
21
JR「三島駅」北口から車で 5 分
者。財政面・教育面で青山学院を支えた大功労
日本大学
国際関係学部・
短期大学部
者。
「青山学院緑岡小学校」校長。
Access
日本大学三島
高等学校・
中学校
堂と称する。初等部移転にともない、
年頃に解体、米山さんの名前は一
緑岡小学校講堂 1938(昭和 13)年
時青山キャンパスの建物から消える
に「時代」に追いつき、その波頭に
は収まらない活動がその後の米山さ
東レ三島工場体育館
37
ことになった。しかし2007年の
立っていた。三井入社 後 の 米 山 さ ん
んを彩っていく。
勤労者
体育センター
JR御
殿場線
三島駅
東海道新幹線
22
21
米山梅吉記念館
52
年に創設され、米
の金融マンとしての活 動 は 、 時 代 に
年
65
たぎ
先んじ、一部は現代に ま で 及 ぶ 。 ア
輝かしい事績とは裏腹に、晩年の
米 山 さ ん に は 哀 し み が 寄 り 添 っ た。
には次男駿二さんが亡くなる。
年
メリカでの体験が、米 山 さ ん を 大 き
旧幕臣は当代きっての知識人であっ
た勝海舟をはじめ、静岡に参集した
校が設立された。米山さんが私淑し
たちが静岡に移住、子弟のための藩
徳川宗家の移封にともない、旧幕臣
に、押し寄せた。政権を明け渡した
かな田園地帯に暮らす少年の周り
の 波 は、 と て も 奇 妙 な 形 で こ の 静
の生地静岡県三島に移住した。維新
に生まれ、
米山さんは「遅れてきた青年」だっ
た。王政復古直後、高取藩士和田家
に「散種」されている。
さんの「子どもたち」は世界
学団体だ。三島の地に限らず、米山
を支給し支援する民間最大の国際奨
称え、外国人留学生を対象に奨学金
山記念奨学会は、米山さんの功績を
いることに心温まる。ロータリー米
種子が三島の地に播かれ、根づいて
ク ラ ブ の 人 々 を 通 じ、 学 院 と 同 じ
米山梅吉記念館と「幻の米山記念講堂」
JR三島駅から車で
五分、宅地が開けつつ
ある静岡県駿東郡長泉
町に米山梅吉記念館が
ある。三井信託の設立
者であり、日本のロー
新館はロータリークラ
タリークラブの生みの
ブの「聖地」となって
123
1921年長男東一郎さんが、
そのアメリカで、米 山 さ ん は も う
〒 411-0941 静岡県駿東郡長泉町上土狩 346-1
米山文庫こども図書館
く飛躍させていたので あ る 。
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青山学報 256 Summer 2016
青山学報 256 Summer 2016
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米山梅吉記念館