Random Walks (乱歩):偏屈老人の気侭な紀行文

Random Walks (乱歩):偏屈老人の気侭な紀行文
第 11 回
筆者:林
上醍醐寺(その2:五大堂、如意輪堂、開山堂、および感想)
久治
(記載:2016 年6月 18 日)
(1)前書き
前回(前回のサイト/f)、私(筆者の林)は上醍醐寺を「女人堂」から「薬師堂」ま
で紹介した。今回は、「上醍醐寺」の残りの伽藍(五大堂、如意輪堂、および開山
堂)を紹介し、醍醐寺と日本仏教に対する私の感想を記載する。なお、上醍醐への
登山の様子は、1)のサイト/mが詳しい。また、醍醐寺の動画は2)のサイト/Uで
視聴できる。私のサイトでは、独自の視点で上醍醐寺を以下に紹介する。
「上醍醐寺」の伽藍配置を図1に示す。本図は、前回にも掲載した。前回は、
「醍醐水」、「清滝宮拝殿」、「清滝宮本殿」、「准胝堂跡」、および「薬師堂」
を紹介した。今回は、「五大堂」、「如意輪堂」、および「開山堂」を紹介する。
(本稿では、伽藍の案内文を緑文字で、筆者(林)の研究を青文字で記載する。)
横尾大明神
醍醐水
白山大権現
上醍醐寺務所
図1.上醍醐寺の境内(本図は3)のサイト/lから借用。)
(2)五大堂の紹介
図1に示すように、「薬師堂」の先には「五大堂」がある。次ページの写真2は、
「五大堂」とその前に安置された3体の銅像である。五大堂は、醍醐天皇御願によ
り 907 年に建立されたが、再建の都度に火災にあい、1606 年豊臣秀頼再建の様式を
伝え、1940 年に再建されたものである。3体の銅像は、向かって右から、役の行者
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(634?-701)、理源大師聖宝(832-909)、および醍醐寺一世座主・観賢僧正(854925)である。なお、聖宝尊師の没後、弟子の観賢僧正が醍醐寺の第一世座主となっ
た。
写真2.五大堂前には3体の銅像が安置されている。(各々の銅像は、次ページの
写真3で紹介する。)
五大堂の案内板には、次のように書かれている。
五大堂:醍醐天皇御願により、延喜七年(907)に建立された五大堂であるが、再建の都
度に祝融にあい、慶長十一年豊臣秀頼再建の様式を伝え、昭和十五年に再建されたもので
ある。お祀りしてある不動明王、降三世夜叉明王、軍茶利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜
叉明王、国土安泰、消除不祥の御誓願をもち“五大力さん”の通称で尊崇され、毎年二月
二十三日仁王会大法要が厳修されて盗難徐、災難身代わりの霊符が授与されている。
①祝融(しゅくゆう)は、炎帝の子孫とされ火を司る。そのため火災にあう事を「祝融に
遇う」と喩える場合がある。
②五大明王(ごだいみょうおう)は、仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格であ
る明王のうち、中心的役割を担う 5 名の明王を組み合わせたものである。本来は別個の尊
格として起こった明王たちが、中心となる不動明王を元にして配置されたものである。彫
像、画像等では、不動明王が中心に位置し、東に降三世(夜叉)明王(ごうざんぜ - )、
南に軍荼利(夜叉)明王(ぐんだり - )、西に大威徳明王(だいいとく - )、北に金剛
夜叉明王(こんごうやしゃ - )を配する場合が多い。
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写真3.五大堂前に安置されている
3体の銅像。
上左:役の行者(634?-701)は、
「修験道」の開祖である。
上右:理源大師聖宝(832-909)は、
醍醐寺の開基(創立者)である。
又、一時廃れていた「修験道」を復
活させたので「修験道の再興の祖」
と呼ばれている。
下:醍醐寺一世座主・観賢僧正
(854-925)は、聖宝尊師の没後、醍
醐寺の第一世の座主となった。
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(3)如意輪堂と開山堂の紹介
図1に示すように、「五大堂」の先には「如意輪堂」と「開山堂」がある。ここ
に到着したのは、12 時過ぎであった。当日は天候も良く、風も爽やかであったので、
「開山堂」前の木陰で大阪方向を見ながら、昼食を食べた。
今回、私はうっかりして、「如意輪堂」(重要文化財)の写真を撮影していなか
った。私が撮影した「如意輪堂」の案内板は文字がかすれていて判読できない所が
多くあった。そこで、ネット上で古い記事を探して、比較的に良い状態の写真を見
つけた。その案内板には、次のように書かれている。
如意輪堂:この堂宇は、開山大師が准胝堂と共に自己の如意輪観世音菩薩を祀られた由緒
深いものであるが、再三焼失の其の都度再建され、現在の建物は慶長十一年に豊臣秀頼に
より再建されたものであるが、その木造りは全て大阪に於いておこなわれたものである。
醍醐寺新要録によれば「結構花見前代の堂に十倍」とあり、此の堂の再建当時の美麗と、
昔時の堂の簡素さがしのばれる。本尊は如意輪観音世で、豊家ゆかりの女房衆の寄進にな
るものである。
図1に示すように、「如意輪堂」の横に「開山堂」(写真4)がある。
写真4.開山堂(重文)
開山堂の案内板には、次のように書かれている。
開山堂:最初延喜年間に建立され次いで寛治六年(1092)に改築されたが、其後二回にわ
たり祝融にあい、現在の堂宇は慶長十一年(1606)豊臣秀頼の再建されたもので、雄大な
桃山時代調をよく発揮した山上最大の建造物である。其の様式に於いては注意を要する点
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が多々あるが、外観に於いては、側面前端の間の扉で、ここでは縁が切断されており、扉
が亀腹上にまで達しておることである。堂の内内陣には、中央に開山聖宝理源大師、左に
弘法大師、右に醍醐寺一世座主観賢僧正の像が奉安されてある。(林の意見:「扉の様
式」を特に強調している意味が不明である。又、弘法大師を左に控えさせ、その孫弟子の
理源大師が中央に座していることは、不遜ではなかろうか。)
(3)理源大師と修験道
図1に示すように、如意輪堂と開山堂との間に「白山大権現」の小さい社がある。
その写真を、写真5に示す。白山大権現を Wikipedia で調べた。
白山大権現:白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習
合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。
717 年、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登
って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずり
ゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現し
たのが起源。少数ではあるが、廃仏毀釈を免れて現在でも白山権現を祀る寺院が存在する。
自生山那谷寺(石川県小松市)、深雪山上醍醐寺(京都府京都市)、および書写山円教寺
(兵庫県姫路市)。
写真5.白山大権現
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醍醐寺を開山した理源大師は、修験道の開祖である役行者に私淑し、一時すたれ
ていた修験道を復興したので、「修験道の再興の祖」と呼ばれている。そのような
歴史的背景を考慮すると、上醍醐寺の開山堂の傍に、「白山大権現」の小さい社が
存在する理由を理解することが出来る。
なお、修験道の本場である「大峰山」には、「修験道の再興の祖」としての理源
大師聖宝の銅像が「聖宝ノ宿跡」に安置されているそうである。現在、この銅像は
「ヒロ男爵」の銅像サイトには収録されていない。図6に大峰山の登山地図を、写
真7に理源大師の銅像の写真を示す。
図6.大峰山の地図(本図は、4)のサイト/lより借用。)
写真7.理源大師の銅像(本写真は、
5)のサイト/から借用。)
5)のサイト/は、大峰山登山の紹介が
優れている。本サイトによれば、理源大
師は平安前期の真言宗の僧。光仁天皇の
子孫。名は恒蔭王、諱は聖宝。東大寺に
入った後、三論・法相・華厳を学び、興
福寺維摩会の講師となった。真言宗を学
び、修験道を確立する。醍醐寺・東大寺
東南院を開き、顕密二教を教化した。ま
た貞観寺座主、東大寺別当、東寺僧正・
長者等を務めた。著書に『持宝金剛次第
疏鈔』『胎蔵次第』等がある。延喜 9 年
(909)寂、77 才。
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(4)醍醐寺と日本仏教に対する私(林)の感想
本年の3月末、私は老妻の要望に従って、「醍醐の花見」で有名な下醍醐寺に初
めて参詣した。もちろん、醍醐の桜は見事であったが、伽藍の豪華さにも感動した。
例えば、国宝の五重塔は 936 年に着工し、951 年に完成している。その五重塔が現
在も残っており、京都府下で最も古い木造建築物となっている。
今回、上醍醐寺に参詣し、醍醐山頂にある立派な伽藍を多数拝見した。特に、国
宝の薬師堂は 1121 年に再建されたものが残っていた。「このような堅牢で豪華な
建物が平安時代の昔に急峻な山上に建設された」ことを目撃すると、古代日本の建
築技術の優秀さと、そのような建築を可能にした財力に、私はつくづく感心した。
本年、醍醐寺に2回参詣し、私は「理源大師聖宝という平安時代初期の僧侶が修
験道を再興し、醍醐寺を開山した」ことを初めて知った。これだけでも、素晴らし
い業績である。その上、本稿を執筆する過程で、「理源大師はこれ以外にも色々と
活躍した当時のスーパースターであった」ことが分かった。例えば、5)のサイト/
には、写真7の説明文に引用したような大師の業績が記載されている。
さらに、学士院賞を受賞した佐伯有清先生が、吉川弘文館の人物叢書で「聖宝」
と題する本を書かれていた。本書の表紙を図8左に示す。本書は 1991 年の刊行で
(価格は 1760 円)、現在は絶版になっている。幸い、私はアマゾンで本書の中古品
を 3000 円で購入することが出来ので、「林久治のHP」の「読書感想文」の欄で、
本書を紹介する予定である。又、醍醐寺自身が「聖宝物語」と題するマンガ本を出
版している(次ページの図9を参照)。
図8.左:本「聖宝」の表紙、右:醍醐天皇像(醍醐寺三宝院蔵)。
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図9.マンガ本「聖宝物語」(醍醐寺発行)
前回(前回のサイト/f)記載したように、醍醐天皇(885-930、在位 897-930)は
醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって
醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」を建設した。醍醐天皇(肖像画を図8右
に示す)の治世は 34 年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々
の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるように
なった。なお、天皇は在位中の代表的な年号を取って「延喜帝」とも称された。
「醍醐天皇」と追号されたのは、勅願寺・醍醐寺の近くに御陵があることに因む。
前回(前回のサイト/f)の写真9で、醍醐水蛇口の上に掲示された「醍醐閼伽井」
の説明板を示した。私は「閼伽井」という単語を知らなかったので、ネットで調べ
てみた。その結果、「閼伽」はサンスクリット語の argha(アルガ)のシナ語への直
訳であることが分かった。「閼伽」は「功徳水」(くどくすい)の意味である。
定年前に、私は化学研究を生業としていた。化学論文では、「水溶液」を「water
solution」とは書かず「aqueous solution」と書く。「aqueous」はラテン語の「ア
クア」から来ている。ラテン語とサンスクリット語は、同じインド・ヨーロッパ語
に属すので、「アクア」も「アルガ」も結局のところ「水」に他ならない。つまり、
「単なる水」を古代インド人が「アルガ」と書いていたのを、古代シナ人が仰々し
く「閼伽」と直訳したわけである。それを、空海らの日本人僧侶が有難く直輸入し
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て、「水」と書けばよいのに、権威主義的に「閼伽」とわざわざ書いたのである。
私はシナと日本の仏教のこのような権威主義的な態度が嫌いである。
子供の頃、私は法事における僧侶の長い読経が、嫌で嫌で仕方なかった。唱えら
れている意味がチンプンカンプンなので、「これではご先祖様は成仏できまい」と
思っていた。更に、高いお布施にも憤慨した。ルターの宗教改革における最も重要
な改革の一つは、民衆が理解不能なラテン語聖書を止め、民衆が使用しているドイ
ツ語で聖書を記述することであった。
仏教においては、サンスクリット語で書かれた経典を、シナ人僧侶達が漢字で翻
訳した。経典はサンスクリット語では日常の言語で書かれていたはずであるが、シ
ナ人達はやたら難解な漢字を用いて漢訳経典を作成したようだ。そこには、僧侶達
が一般大衆を見下した権威主義が見受けられる。古代日本の僧侶達は、当時は最先
端であった漢訳経典を有難く輸入したのである。日本の僧侶達は漢訳経典を棒読み
するだけなので、日本の一般大衆はサッパリ意味が分からないのである。これでは、
日本人が仏教を理解したことにはならない。
私は「日本仏教が、難解な漢訳経典を用いている所に問題がある。サンスクリッ
ト語で書かれた経典を、日本語に直接翻訳すべきである。」と主張したい。私は
「多くの仏教経典の中には、漢訳経典として日本にしか残っていないものがある」
ことも承知している。しかし、私は「現代日本においては、仏典は日本語に翻訳し
て用いるべきである」と考えている。
引用したサイト
1)のサイト:http://whitecaramel.chips.jp/saigoku33/kamidaigo.htm
2)のサイト:https://www.youtube.com/watch?v=e-2LkRQ_M3U
3)のサイト: http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku11a.html
4)のサイト:http://24page.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/20151122-9c91.html
5)のサイト:http://www.veryblue.org/blog/mountaineering/hakkyogatake/
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