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2016年第2期 第13課 6月25日
「わたしは、
天においても
地においても、
いっさいの
権威を
授けられた」
(マタイ 28:18)
「わたしは、
天においても
地においても、
いっさいの
権威を
授けられた」
(マタイ 28:18)
「わたしは、
天においても
地においても、
いっさいの
権威を
授けられた」
(マタイ 28:18)
「それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、
『おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。
バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか。』(マタイ 27:17)
イエス バラバ
イエス キリスト
政治的指導者
霊的指導者
人々をローマから解放
することを願った。
人々を罪から解放された。
地上での栄光を約束した。
永遠に続く栄光を
与えて下さる。
イエス様はバラバのために準備された十字架を背負いました。
バラバはイエス様の死を攻撃したこの世を象徴しています。
これは私たちがしなければならない選択です。
イエス様かこの世かということです。
「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、
サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか。』という意味である。」 (マタイ 27:46)
イエス様は詩編22:1を引用され、
罪が父からの恐ろしい離別をも
たらすことを示されました。
ただ神様だけが、自ら私たちの
罪を負い、 永遠の死、 つまり父
との永遠の別れの苦しみを、
私たちの代わりとして受けること
ができるのです。
イエス様の激しい苦痛にも
かかわらず、彼の信仰が損なわ
れることはなく、最後まで忠実
でした。 「父よ、わたしの霊を
み手にゆだねます。」
(ルカ 23:46)
「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、
眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。」
(マタイ 27:51-52)
イエス様が亡くなった時、2つの重要な出来事が起こり
ました。
1. 至聖所の幕が破れました。
 預言されていた聖所での務めの出来事が成就され
ました。動物の犠牲の血はもう必要ありません。
なぜなら神の子羊の血が注がれたからです。
2. 墓が開き人々が蘇りました。
(イエス様が[53節]の後)
 これらの人々は罪と死以上のイエスの力を証明
しています。私たちはかの日の彼らのように
蘇るでしょう。私たちは罪から解放され不死の
体となるでしょう。
「キリストはよみがえられたとき、多くのとりこをよみからおつれに
なった。キリストがなくなられるときの地震で墓が口を開き、キリストが
よみがえられると、彼らはキリストといっしょに出てきた。彼らは神と共
に働いた者、生命を犠牲にして真理のためにあかしをたてた者たちで
あった。いま彼らは、彼らを死人の中からよみがえらせてくださった
キリストの証人となるのであった。
キリストは、その公生涯の間に、死人をいのちによみがえらせられた。
彼はナインのやもめの子と、会堂司の娘とラザロをよみがえらせ
られた。しかし、彼らは不死を着せられなかった。彼らはよみがえって
からも、やはり死ぬべきからだであった。しかし、キリストの復活のとき
によみから出て来た者たちは永遠の生命によみがえったのであった。
彼らは、死とよみに対するキリストの勝利を記念する者として、
キリストと共に昇天した。この人たちはもはやサタンのとりこではない、
わたしが彼らをあがなったのだとキリストは言われた。彼らがわたしの
いるところに共にいて、決して死を見たり、悲しみを経験することがな
いように、わたしは彼をわたしの力の初穂として、よみからつれ出した
のだ。」
E.G.W. (各時代の希望81章、317頁)
「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あ
なたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがた
は、いまなお罪の中にいることになろう。[…]しか
し事実、キリストは[…]初穂として、死人の中から
よみがえったのである。」 (1 コリント 15:17, 20 )
キリストが復活されなければどうなるでしょうか。
それでは、彼は死から人々を解き放ったり罪を
屈服することができないはずです。
彼が死ぬ前に、イエス様は自分の命に力がある
と保証されました。「わたしが、自分からそれを
捨てるのである。わたしには、それを捨てる力が
あり、またそれを受ける力もある。」
(ヨハネ10:18).
イエス様の復活は私たちの最も大きな保証です。
“「わたしたちが信じているように、イエスが死んで
復活されたからには、同様に神はイエスにあって
眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して
下さるであろう。」
(1 テサロニケ 4:14).
「わたしは、天においても地においてもいっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべ
ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、」(マタイ 28:18-19)
イエス様は天に昇天される前、弟子達に
使命を与えられました。その使命とは
父の権威とともに与えられました。
「全ての権威は私に与えられた。
…それゆえ行きなさい。」
福音は人間の声によって公布される
べきです。しかし私たちは神様の権威に
よってのみそうすることができます。
私たちは王の王、主の主である君主を
受け入れるためすべての民族を招待
すべきです。
この使命は (1 コリント 15:6)の時にイエス様
に会った500人以上の弟子達だけに
与えられたものではありません。私たちも
それを果たす為に召されているのです。
「主なる神は真理に服従して聖化された
すべての者に力と恵みを供供されるという
永遠の誓いにより拘束されています。
天と地の全ての力が与えられているイエス
キリストは、日毎に「天から来る命のパン」
(ヨハネ6:33)をいただいている彼の
助け手である熱心な魂に同情して結び
つかれます。地上の教会は、天の教会と
結びついて、全ての事を成し遂げることが
出来ます。」
E.G.W. (That I may know Him, December 4)