YMN000203

を 、この間に介在させれば、或は従来より幾分か明確 な線がたどれ
式の形成の過程が明確になってゐないや ぅ である。 今 、中本影 讃本
讃木
彦
人情本の様式は、構成を讃本に、素材態度や表現技法を油薄氷か
るのでなからつか。本稿の望む所はその鮎にある。
本 と申本杉
村
ら影響をぅけて成立したと見るのが通論となってゐる0 この道諦
讃本 との 窩聯を考へることは 又、幸に人情本様式楽生 に窩 する 既出
人情
ロ,
ほ、若干補ひを附して、讃本の中へ合巻物をも加へ先行の筋の小説
の諸説を再検討することにも、ある部分では一致する。
人清水と中本影
と、油薄本には滑稽本を、加へて先行の描嶌の小説とを、色々な人
--
のではない。 鼻 山人の由佳里の梅の凡例には、
本様式の成立に 窩係 あったとする説は、近代の睾者の説き初めたも
遥に 古 い安永 セ年刊の酒落木、田螺金魚の傾城 買虎の 巻が 、人情
つてよからりか。この限りではと條件を附したのは、人情本の要素
此の書の登る所は。傾城虎の巻。二筋道等の糟粕を振 うノて
玉主日
仏。
と作者自ら述べてゐる。由佳里の梅は天保元年の刊で、同十二年高
ひと
に文化。英敏徹 するに 侯し
版の際には、 窟永 春水の序文にも
換言すれば寄席演藝などの影響も人情本の成立を説くにあたって軽
て、これに徒 ふとしても、如何なる過程をたどつて、文政末や天保
一一一一
期の人情本に達したかは、既出の諸説のみをもつてしては明瞭にな
視 出来ないと忠はれるからである。今、通説の範圓に考察を限 っ
の糸脈を、先行記載文畢に求めた範園 に放いての意味で、口語文勢
作品を持つて、人情本の様式となったなど云 へぼ、こ の限りでは従
を残した中に、いくつかは、や Ⅰ見るべき結晶を得たのが、後績 め
が、種々の場合に、様々にっきムき
ロぅと試み、幾多の不出来な作品
っ てゐない。 讃木晒落木等から人情本への 具網 的な推 移 、人情本様
幸
利い
鵜 戸澤 氏 の傾
中形の 讃本を 。京旛 にては 粋書 とい ひ。中頃東都にて酒落木 とい
ひしも。早晩の程にか 呼換て 。人情本 と唱 るも
と認定し た 人情本である。しかしこの説については、
聴すべき き定説︵園女寧研究第十五輯 、田にし金魚の研究︶が既に
ぅl
した言説 が山
捕 って間 黙する所がない。ここではこの書を何故 ft
て来たか を考へる篤の封 象とする。この鳥山検校が吉原松葉室 の瀬
血身請の實話 ︵大田南畝著 半日閑話 巻十三、安永四年の條等参 昭ハ
︶
に素材し た 、眞剣 な愛情を金力にさかれて、死への道を選ぶ感傷的
本の評判 記、戯作評判花 折紙にも、 惣巻頭に据えられた。しかし酒
落や穿ちを事として喜劇的な普通の滴落木と一風 違 ふことは 何入る
認めるで あらう。 花折紙が別格にあっかりたのも、ここを考慮 して
よむもの或は 感じ
の故であ つたからかも知れない。のみならず、その相違難、感傷 桂
瀬川の博を述べて傾城 侍 受の虎の巻となづく。
或は泣きあるひはおかしく面白きにほ だ きれて
とある。最も問題はこの﹁博﹂の文字にかⅠ る。同じ金魚が 、 この
前年に著した
妓音呼子鳥は、これ實
も説 ︵平秩東著
作怪談者の枝番
一一一一一
の蜀山人附記、大田南畝著娘師努之参照︶の橘町の藝者腓天 おと
と新富の徹の葛藤を題材に選んだが、その序にも
ム﹁の雨婦の博を述 て、妓の所課、懸路の手段、放蕩者 の身の上話
みさほ
に、 ︵中略︶大壁を滅す貞女の躁、是を恨るお豊が
終始を ・どう
らく肌に書つ ビけて
。普通の酒落本には乏しい、死や殺人や怪異や情のも つれを含ん
終始の身上咄を、即ち﹁博 ﹂と檸 してゐる。そして表現は ﹁どう
く肌﹂に書くとも 云ふ。同人の淫女皮肉論︵安永セ︶は、酒落木
とっらわ
くじ
る網の初見する文献の一つであるが、通人が放蕩計と自らを檎し
︶、勧善櫻姫博 ︵明和二︶などの書名もあり、
實暦六年の北州別
の上の書名に照らすまでもなく、既に嘗時、隅田川鏡ぬ博 ︵寛延
、讃本らしい内容を指すのではなからりか。八% 得、好 遮博など
しつつあった、怪異と感傷と、貫録性と 、ストーリ 一を持つたか
水調を意味する。しからば博 とは、漸く安永の頃一つの様式を形
著した書だと序文に見える。これによれば﹁どうらく肌 ﹂とは酒
ヮで
0 意識する所あった や ・
やストリ一の重視については、作者自 <も
博の如き、吉原名妓の逸事の物語であった。金魚の二度までも斬
底酒落木 の形式を採ってゐる。 又 その方面の専門家が 鱗興しに酒落
ある。そ の 序に 、
な悲劇の 一篇は、遊里を背景とし、 曾話 睡を文章の主要部とし、
二
よ
と
だ
ら
四 校 説 戒 落 て な
先立つ二年、安永五年に現ほれた姻華清談なる一議本 は、内容は
た ﹁
博﹂とは、これ等に相通ずる讃本的内容を意味す る。虎之巻
つ 女
谷不倒氏の選樺古書解題のその條にゆづるが、遊里を背景とした
に
怪談奇事の数々を攻める。この内容から、呼子鳥や虎文巻 に至るべ
水
その鮎にかかつたのであらう。
行き万を一つに混じた試みの結果であって、その好評0所以も亦、
る。金魚のこの三善は、漸く流行せんとする酒落木 と讃本の二つの
き金魚の課題 は、最早酒落木的表現のみであるやう にすら思はれ
にする妻 なく、過渡期などにあっては、更にさぅ考へ てよいと思ふ
わぎと選んだものかも知れない。書形の如き今日からすれば、問題
みならず、書形にあっても、酒落本の小木と半紙本の讃本の中間を
見出来ない。もしこれを金魚の創意から出たものとすれば、内容の
これはむしろ中本の一種と考へてよい。人情本や後期滑稽本の中本
出きれたものと想像された。︵新潮社日本文事講座、酒落木研究︶
くは明治年代に酒落本の蒐集家が多く出た時から、 こ0%呼が用ひ
鉤錫 の捕 呼の早い頃の使用はまだ発見出来ない。朝倉無聲氏も、恐
る。が大
鏑賜氷 と裕し、この形を大商錫と 呼ぶのほ周知の如く で,の
違って、小本よりやⅠ大きく、美濃紙四半裁の大きさで、漸落木を
して営晴 一般の酒落木と等しく小本の形でありに。虎左券はそれと
に刺戟された事勿論である。これ等と虎左券とを合せ 考へると、半
比翼塚︵安永八年セ戸上演 、加 々兄山菅錦紺 ︵天明二年正月上演︶
、
照︶とそれぞれ貫録を題材に選んだ。もつとも又、各浄瑠璃の馳山
二話一言養三十八,巻四十二、三田村鳶魚著 芝居ばなし第二編等参
享保九年松平周防守家に起つた俗に鏡山のお初の敵討と云ふ 一件
小紫の一件︵大田南畝善一話一言巻 二十六等参照︶を、記念文箱は
ぅ。讃水連理橘は俗謡にも目黒に残る比翼塚とうたはれた白井権八
ら生れるのが近世の風習であったことは、多言口をき
要ないであら
が、やし文壇が安定すれば、その内容に相臆して書形 にも規格の自
形 よりは、若干大きい目のこの大駒賜彩 は、安永天明の滑稽本には
紙本の讃木が、この頃ではまだ主に上方に茂いてであるが、次第に
﹁どうらく肌﹂即ち油薄本的と述べる呼子鳥は、金魚の 他 の 作そ
珍しくなく、三席や 一九時代になっても・初刷に近い別 にはこの人
時代小説の傾向をとらうとするに謝して、世話種を選 ぶ貼が共通す
安永十年
の中本影讃本は、普通の讃本との相違を、ここに持つ て、世話中篇
話の中篇小説であることが共通する。僅かの例からであるが、初期
る。前期讃本に敷多い近い頃の奇事怪談革編集に封し ては、一部一
き きのものが残ってゐる。のみならず初期讃本の中にも 、この形を
持つものに
橘容楊黛
敵討連理
天明二年︵寛政 五高坂︶
小説の讃本 であったと、その性格を定めて見ることにする。よって
一
、何で
がある。ただしこの形は、上方では既に利他博 ︵
質暦 セ,酒︶
虎左券 は酒落木調であるが、その本質はむしろ世話申 縮小説なる韻
女敵討記念文箱
も十九論︵明和八、滑︶などに認めるが、江戸では虎2巻以前に発
一一一一一一
あらう。由佳里の梅が、虎文巻を手本としたと述べたのは、鼻山人
三・四
その人の人情本が終始讃本乃至はムロ巻の露骨匂
なひが
つて、酒落本や黄表紙の全盛期の戯作が思ひ出された時 の 一つの鈴
る。がこれは文化期に狙嫉を極めた諸本熱の反動として、文政に入
がその後篇を補綴した一事は叉この作と人情本の腕係を想起せしめ
文政九年、傾城買康之巻が常世亮之巻と改題出版され、薦永 春水
木もやはり世話讃本の一種であるからである。
作に懐いたにとどまると考へたい。その理由は後述する如く、人情
あり、實は漠然とした親近感を春水や鼻山人等は、この有名な先人
へたものは、既に鵜 月氏が否定されたが、具鱒的にはな 駝つたので
彼の嗜好からでもあったであ。
,
c
、
n
。合せて虎2巻が人情本作者に興
消えなかつた
ととなる。
本 の一であり、もしくは江戸に於ける初出であったかも知れないこ
波 と解樺すべきである。文政八年秋の妙博憲 行 ︵
稿本︶序には、
フもんなれ
ね いのくさそうしの作をたのまれしかもけさくとのち,
遊狂歌も、長の旅路の、雨風に、廃れり﹂と云ふやうな文 が見える。
属すべき作品がかなりに出現した。振鷺亭が最もこの形を喜んだ。
ム鳴をしづめ、後期讃水成立の機運漸く熟した頃、中本影の讃本に
時をおいて寛政後半、流行の酒落本の流行も、寛政の紡屋後、 や
一一
ど ︵文政元、山東京山著腹の内名所圃曾︶
小説年表類 では、油薄本に属する会曽我︵寛政八︶見通三世相︵寛
﹁
紺は。
乱 蔑 め、幽霞も、吹的の、化物と、共に古 ひ、 膝栗毛の 、地
作者とふねんはかたき打のじみをやめておもしろき三さっものば
紙 や酒落本の後刷もこの頃かと想像きれるのである。この風潮に順
の改題本も出たことは小説年表にゆづ つて、再版年次未詳の、黄表
昔にかへった様に持前のおどけた草雙紙を盛に出してめる。油薄氷
などと原山や東里山人が黄表紙風の草雙紙を書き、十退会一九も亦
ければならない。讃木の中本杉 は、一冊二冊三冊上下五冊など冊数
以上を中本形に仕立たには、何等かの意味あってのことと一考しな
政を初めとして讃水合巻物に多角的な活躍をするこの作者が 、殊に
綿助手柄談や、咄本の倉談興悟沖 雅語もこの時代の刊であらう。寛
大垣︶風俗本町列女博 ︵寛政人
頃︶、滑稽本にふさほしい内容の芳祀
解放博 ︵寛政
政 八ヵ︶白狐通 ︵寛政十二︶等、請本に属するいろは
臆して、 営時専ら先人の改作や後濱編を出して ぬた春水が、この虎
は様々ながら、瀧澤馬琴、一九、感和草鬼武バ柳亭種彦、神屋逢洲、
物議︶
左券をもその一つに選んだまででなか。
<
c@か
n。
@営時の春水の行動か
9ぜ
-通
上方でほ手塚弟月などの作者も愛好した。これ等の人々の作口
かりたくさんこしらへ候間 ︵文政元、東里山人著馬鹿
ら、金儲以外の万両を見出きぅ とすることほ、正確にはまだ困難で
じて。ここに讃本 最盛期に於ける中本杉讃木の持つ桂 格を箇條善 に
示す。中本形と定めたのほその匡廓 によってであって 、匡廓中本杉
のものの初版は中本として出版きれ、今日見る半紙本 は、恐らく貸
本屋の取扱などをおもんばかつての鳥の後刷と考へて ぬる。
第一、寛政から文化文政期 に入った江戸では、歩 くな つたが酒落
本 、盛な後期滑稽本、讃本は、各小本、中本、半紙本 と書形が一定
第二に半紙本讃本との目立つた栢違は 、中本杉のそれ の文章の平
萌さにある。わっかしい漢字に雅言の訓をふり、美辞麗句をつら
ね、故事出典を持つ文句など遥に乏しい。京侍や馬琴 の如、き讃本修
僻の教養を趺くことを自覚して ぬた一九は、好んでこ の中本影護本
を作ったが、その一 つ麹鰹天橋立後編︵文化四︶叙で、
固より蜂才 の筆 おもければ、唯英孝士の事跡・仇敵大見崎の悪行、
小雛大谷木か義気勇壮のあらましを、ロづからがへる どとくに排
設 たれば、前後違格せる事をおほかるへく、小文字の謬 誤る梢か
したと共に、その小説様式も先づは 一定した。が作者の想は必ずし
も 、その三者に判然とわかたれるもののみにばかぎ:.
支0
い4
。讃本や
らざる へし。
りがきに、猫のちょうか ひちよ づくらちよ つと、幅鼠 の上忠がち
御伽衆子ともなりつ、猫の中金の 益なきにあらずと、大弁のはし
作者もち づくり髪束、鼠の中から下に徹、またやんどとだき
、万の
鷺草の復雌猫股 屋舗 ︵文化四︶自序は
と書く。同様なことは、文政五年の遠の白波の再議にも見える。振
酒落本を案ずる場合、諸本や酒落木の規定概念から、 や L逸脱した
ものを得たとする。作者や書睡は 、これを中本形に出叛した様であ
る。振鷺亭既に然りで、三世相は浄璃瑠正本調の酒落 本 であり、列
女侍・解放博 ・手柄談は 、初期讃本のそれ等と比して 一段俗にくだ
けた中園小説の翻案であった。︵拙稿、初期
讃本と水濫 侍|画譜・
國
文十五 ノ九|参照 -馬琴の高尾船手交︵寛政セ︶は振 鷺草の作同様
の試み天羽衣︵文化五︶も亦 この形を持つてゐる。前 ポ@
一
を世
田に一ム
へ
める。石川雅望が、中園小説を日本にう つして雅文に述べた初めて
は未だその出壕を定めかねてゐるが、珍しく中園詞曲 の肥をとって
云ふ御伽草子的であったことに想倒させる。馬琴 は物芝本江戸作者
者が半紙本讃本 より一段、智識教養の低い層であり、作品は振鷺亭
して、平明の文を事としたのである。文章の平明は、封 象とする讃
と。殊にわっかしい文字を用ひる振鷺亭も、中本では手心をほどこ
っ本となし
ば、中本影の讃本は讃本的規格にしばられることなく 、自由な試み
部類で、京博の忠臣水濫博を國字稗史即ち半紙本の正 統讃本の初め
に、中園小説と浄瑠璃のくだけたなひまぜ、同人の花叙 児 ︵
文化
- 一万︶
を気軽に行へる場であったことになる。
三五
流行を作った南仙 笑楚満人の遺稿と云ふ札物語暦家花 ︵文化五︶の
文句があって、合巻を見るやぅである。草堅紙界を一愛して仇討物
0% 裁 に似る。馬琴の巷談披提庵 ︵文化五︶の如き、
挿檜 に害人の
のは、前後二編にわかれる所など、長編の出現しない以前の草籠紙
三冊より五冊をもつて完結し、三冊のものは上中下、四冊 五冊のも
る。大膿讃本の小規模なものであるが、文章は合巻物に近い。六 %
から考へて見れば、これは合巻物と半紙本の中間に位する讃本であ
中本なるが故に先んじた自己の作品をおとしめてゐる。讃者の想定
とし﹁是より先に・曲阜が高尾船手交ありと堆も、そは中本山﹂と、
︵文化
話乃至時代世話的である。自ら書いた神屋蓬洲は復讐雙二三め枢
次第益々時代小説となる半紙本型の讃本に比して、ム巻
ロ物に近く世
い。それが又黄表紙以来の博統 でもあったのである。中水彩讃本は
る。挿檜なども早い頃は極特殊なものをのぞいて時代的なものは少
様々となっても世話的乃至は時代世話的な筋のはこび を 持つて ゐ
はかつた。早い頃の合巻物も亦多く近い頃の話であり、後々時代は
あるが、創作仇討物は 、貫録僅 であって近い頃の話でなければなら
記 ︵同︶など云ふ軍記檜木との影響が多大であったか と考へるので
など寛政期 に江戸で出した檜木武王軍談︵寛政一二︶檜木棉二代車
に先立つて漸く盛であった貫録僅の創作仇討物と、北尾重政 同政美
、
ノ一よ
一一
てったもの
如き、もし遺稿と云ふを眞實とすれば、ムロ巻物とし作
九︶で
ある。やがてこの主張が讃水界にひろまって、表面的ほほ演劇の影
言葉の嚴密なる意味でほないが一種の歴史小説たるべしとの自覚で
と考へた︵おかめ八目等︶。
讃木は馬琴 にあっては國字稗史である。
寛を持つた。馬琴は讃本は演劇によらず申國の演義の鵠 をとるべし
統讃本は 、その中心であった馬琴に茂 いて殊にあぎやかに一つの自
である。初め長編讃本 はこれに多大の影響をぅけた。が半紙本の正
と表ふ。その用意の儀察すべしである。その二は演劇との深い窩係
モ万然り只童蒙 ノ観ヤスカランガ篤二設クルノ、と
下.書 ク所ノ人物 ノゴト王小一二万全 ノ裕ニ従ガ ユ共鈴器城ノゴ lP
の、挿檜の指定がなかつた為に、讃本としたかとさ へ想像される作
柄 である。嘉永五年の三都妖婦侍 は又
此一小冊は原合巻の草冊子にて刊行すべかりけるを柳か其故あり
て給人讃本のさまに製たれば文段も語路も改書では相血しからぬを
と断つてゐる。これ等をもつて両者の相近いことが推案出来るであ
らう。讃本には気かっかしさうな合巻物の多作者種差も 、中本形に
は気楽に筆をとったこと紙上に明かである。
全 一三の特色
合巻物的な讃本 であることから自ら第三に数 へ上げ%
が抽出出来る。その 一は世話物乃至は時代世話物の題材を持つこ
と。黄表紙の中に仇討物 が入り、合巻仕立が案出されたには、それ
の初め
場に若し ﹂で、緊密な交渉を演劇と持ちつづけた。中本杉讃本 はそ
審は 影を ひそめる。これに勤して合巻物は種彦の所謂﹁戯作原来戯
遊女も深情を抱くに至る悲喜明暗の懸の二道を描くにある。酒落木
故にやがては嫌はれ、中年の醜男にはその誠心故に、初めは嫌った
たその書であった"二筋道と題する所以は・色男きどりの客は己 惚
には珍らしい誠の熟を谷峨が取上げたには、師事したらしい山東京
たとの説は、肯定すべきであらう。穿ちと革偏にあきた讃者、又情
何か面白い趣向はない欺と案 して見れば讃本に浄るり立を少
とある頃 から演劇 と辞 係を保つて、 虎之 巻の如きも田螺金魚の 嗜好
っけたことも
緒と長編を希望する新しい讃者にむかへられて好評を,
麗、錦の裏、仕懸文庫の三作 に刺戟され
博の例の寛政三年の娼妓絹 @
馬 琴の高尾 船文字
云ふに及ばない。震に著きれれ第二作、第三作は 、廓の金にはつき
へ敵討連理の橘と名付侍りぬ
津 の国友 大池
る習で、實情の思慕はつのみに金の算段は苦しく、家庭生活や健康
も@
のつて 、浄瑠璃謂の文飾に富む。寛政以後も、
に先代萩 、盆石皿山 詞 ︵文化二︶と播州皿屋敷、増補
の様式を取入れることが、習慣として許 きれてゐ た様
早をわかち、
第三作宵の程は 、冬のたれ、夏のたんと、段をもつて王
㌔のみならず、この三連作には浄瑠璃の影響が濃厚 である。殊に
讃本的である。ただ曾 話を主要部とした表現のみが酒落木的であ っ
終る。﹁この情が薄くなくし﹁しつとりとした花
﹂折
︵紙︶筋は立派に
末は善意の人々は、作者からすら愛情に迎へられてめでたしで
油薄氷特有の皮肉や朗笑は影をひそめ、憂愁と哀腕の気が満ちる。
と生活面は悲惨の万両にのみ筋を追って展開する。そ こには最早、
︵文化五︶ と津 園女夫 池 、網角物語︵文化五︶と助六、高野薙髪 刀
穂木さま
そしてこの叙述の際、自らふれた如く寛政文化期 の中
から見て 、中本影 讃本は、 嵌に 讃本 と分類するが、 酒落木合巻物滑
︵文化五︶ と心中萬年草などそのあとをたたなかつた。以上の特 色
式であつ
水彩 讃本 8万、安永天明朗のそれに打績き同じ性質、世話諸本 陸を
ワ
@
Ⅱ
@
。
.
持つて ゐ 四
全篇の地の文は浄瑠璃調の調子づいたものとなってゐる。これにも
康博の三作に先縦 があると論じられてゐる。否定は出来ない説であ
の
本の連作への顧慮である。
る。しかし谷峨は、自己の作品がこれまでの普通の酒落木と相違 し
様式の成立を考へる時、無視すべからずとなってゐる
人情本
道 ︵寛政一0 ︶と っビく 廓の癖︵寛政一一︶ 、 賓の程︵ 同一
てゐることを次第に自覚して行った様である。この三連作の好評に
酒落木連作は、梅暮里谷峨 の傾
る。この二筋道とは前述の由佳里の海のもつて先輩 とし
一一始
︶まに
一一一七
した甲子夜話︵享和光︶の後編唖意姑息︵享和二︶を出した時も、
は中本と縛 してゐる姿をとらせた。又浄瑠璃の男作三雁金を題材と
した。その後篇廓の櫻 ︵享和元 -を出した時、これを大商賜即ち今
した時、﹁とうやら今から後篇をかⅠれるよふな心もち た﹂と期待
凡な作 者十返舎一九であった やう に忠はれる。小説年表類火情 本志
したの は ・特別な創造力や趣向力を持つた作者でなくして、
の要素 が醗酵して来た頃、人情本の様式に一段接近した作品 を提出
讃 本の 中で、 酒落木の連作や、世話種の中本影護本やに漸く人情本
服に 用ひた世話讃本の語の使用が許されれば、この中本杉 0 世話
三八
古手屋八郎兵衛とお妻の情事をえらんた夢之盗汗︵享和九︶の後編
部の 極初に、清談峯初花︵文政二ー︶や所縁の藤波︵文政 四1 ︶な
五
妓情返夢輝︵享和二︶を出した時も皆中本形に仕立上げた。 いづれ
自信を得たか、寛政十二年傾城貫高告鳥で、揚巻助六 の 一件に取材
も 正規な酒落木でない作柄てあって、さぅした作柄を中本形に仕立
が、す ればこれらを出ずに至る一九のこの方面の仕事を追ふ こと
ど 彼の 作品が並ぶ。この 選樺 配列が嘗を得たものと考へるの である
二三編と中本三冊物 として出されたのは、これを酒落木立にするに
梅の作者は二者に類似を認めたのはうたがひない。や かて二筋道初
本杉讃本なるものを念頭においたことは明かである。又 、由加里の
も。しかし賞讃すべき根域 のないましそれは保留するとしても、申
影響をも認めたいのであ 0。實情と浄瑠璃調、其の他 の貼に焚 いて
康博の影響の否定出来ないことを述べたか、合せて金 魚 の虎之巻の
とした漸落人であるか、やはり中本形である。ここで分峨の連作に
世話 種 の描鳥 の文事滑稽本の作者であり、前述した如く中本%讃本
向の一 つのあらはれである。それほともかく一九は 天ふまでも なく
し、日あたらしさを追って様々と趣向した。連作の酒落木も その 傾
一九は治らんが篇に戯作した作者であって、流行や世の嗜好 に順蕪
<
口
H
uⅠ
論ずる 際 ︵拙稿﹁十返舎一九 論 ﹂|國語 ・園女十六 ノ 六︶述べた 女
二︶、 野干 貧 道人︵享和二︶には 娼客寂 事間︵ 同 二︶。かって 一九を
それ等 の後編をも出した。 起承 %台︵享和二︶には滑稽遊冶 郎 ︵同
享和 二年、多くの 酒落本を出刊した彼は、流行の谷峨 に寧 んで、
最 6字
皇后識 が谷峨 にも働いたのでないであらうか。契情貫之 巻は書名か
異様なもののあるを小説出版界も感じてぬたことが十分想像出来る
の 多作 家であった。 さぅ した彼が文化九年発表した世の中 貧 一職
捧駐
か、今 0 目的の鳥の一つの万法となるわけである。
のである。そして二筋道やその他の連作晒落本の内容を 一言で言ひ
︵中本︶は、滑稽本としてほ一寸 趣が 愛ってゐる。八文字屋本 を好
らしても、怪異をあつかつた内容からしても田螺金魚0行き万を範
あらはすとすれば、やはり世話讃本 となるであらう。
現してゐる。も一つ換言すれ ば 、連作の酒落木 を、八 文字尾本
序にも
んで利用した彼ではある又
が
、、
巻こ
上れ
一
のほ
、ニ三
、は
世話
あっ、
てそ
﹁元来商家軍配といへる原本によりての
作
意
﹂
と
明
言
し讃本 としたものである。 装頓又 全く口縄のや ちふ ざ けた 以
讃本に等しい。すれば巫山夢の後に作られた貧 頑論 は丁度、酒
ぜ
利用し巻
、
れムⅠ商人國
軍︵
配正徳二︶
一
、
一一
のの
ニ、ニの
一
に勤して花街以外の滑稽を う つした田舎芝居︵天明セ︶ が 出、
な、巻下の
中の
ニ、
三は又浮世親
気仁
︵形
享保五︶
セ五
、の
ニ一
の
一
の滑稽をつら れて 膝栗毛が考案されたと相似たコース をたど つ
漢円通洞磨紀
二は
芝居農人巻
望四
のから、下は
の拍
四驚
案奇の運
縛
酒落 本の輻化したものと考へられないであらうか。
連 作柄 落
作に
の先
指行
摘が
︵
賢暦
八年小梓
説言訓︶
誼の
序話からと殆どの草
八文字屋本を借って一部の讃本らしい筋を得、更に遊里の愛慾
曾話膿もな
、甚だ八文字屋本調が濃く、膝栗
毛
な
ど
に
見
る
出来て
一般祀曾の愛慾に何 じた所に貧福論があらわれたと一九 の 創作
稽味
い。そしてストリーは文政五年に、
出滑
た
後は
篇滑
とす
共べ
に
の推移をたどることが出来る。八文字屋本を摸した滑 稽 本に 既
一愛
貫慾
しが
たか
もら
のんで
くもないが、商家のお家騒動に様々の
東京侍の指画草 ︵天明六︶があるが、これも中本影な
ることを
り。
先︵
ビ滑
こ八
れ年
よ二
となってゐる。
云稽
は本の讃本化である
つを
た︵
含
円か-大阪の旅寝に西鶴の浮世草紙の
作風
しヱ
た耐
っめ
て亜 てか知らずか、この一風繁 った作品質頑論を一九は滑積木と同
こ板
ととて七万 本杉の 仕立にした。一九はこの後も多少の混ムロの度合 を違 へて
序︶と云通
ふ俗巫夢
山︵文化刊
十︶
字は、上方の
円
意と
の常時の風に従ひ半紙本五冊の仕立人
で
あし
るて
が、その るが、様々とこの様式を試みた。文政三年の雑談紙屑籠や 、文
表
に
筋ゐつ
のる。 政でじ知に意を
十あ
っ 出講
" 本て固溶
. " 台木はの
外夙
業にはむ
げ軍縮な筋であるが
ビ、
酒
落
云木
はの内容を
ま九
文文字
屋年本
調年四年に出た所縁の藤波初編は、 貧禧論同
編の八
出た
政五
の前
つて、一通りは露木らしい観念小説らしさもある。世の中貫頑論後
これ等は一般の滑稽本と違って描 嶌を専らとせず、 筋 を 持って
せ崎
陽の衣装を着せて大阪の揚屋で遊だ
ぶと
夢い
をへ
見る
て騒い
。文章は中本影護木の如く平明で、その平明きの窟に は構成や
滑
専
ことのあり接
し所
をして立花は八文字傲
と
屋ひ
日稽
英を
にと
進行は説話 膿で 教訓やおかしみを挿入し、 きは だつた 文飾をさ
ざ
して一
騒士が放逸の事跡を著し禾
童
詞蒙
のを
道走
し
に
てらしめ
而ふ
己
んとおも
けた八文字屋本調が役立つてゐる。かくて入った常識的な教訓もあ
一年の膏 色安本丹前編など・滑稽の要素は多いがこの 傾 何 を持
中
樺 、富商の家のお家騒動であり。愛慾の葛藤がこれにまつ ぼって る
四O
似 の鋳 ながら、文一趣向が加は ってゐる。滑稽本や酒落木で手なれ
出たのほその織 とも想像される。この二つの作品の内容 の窩聯が杏
侯﹂ た編述態度が好評を拍したものであらう。貧福論 の後編 か翌年
て編候 著述二俣間色気たっぷり 二いたし外題も所縁 の藤浪
と致申
き万 こそ此方之御 得意﹂、﹁版元御好物の女中かたをはり候 つもりに
は
れ初めたのであり、溥然 たる融ムロの結果として・懸のささやき又
酒落木滑稽本の手法が、この世話讃本の中で揮然と融合して用ひら
滑稽な性格の持主でない登場人物 の曾話によって進められてゐる。
のきさやきもあれば、事件を展閲させる 一要素となることどもが、
どの中に挿入されてゐる。遊里を背景としないで、素人の男女の鱗
た曾話購が、中本影讃本本来のゆき百や一九好みの八文字屋本調な
産出来ない。しかも後者に至っては、一九ははつきり と 一九の所謂
一種の郷愛情緒をかもし出し、曾話世の筋の展開やその他の構成に
るが、前作の如き摸倣とそれにともな ふ 生硬さがない。 席 に﹁年若
お得意たる 讃者対象を定め、編述態度をも自覚して ゐ る。そのこと
参加することは、讃本 でもなく、酒落木滑稽本でもない一様式と厘
一九の万では酒落木、滑稽本、中本影讃本、そして合巻物何でも 一
則しなければならない特色となるものである。が、これを實行した
ほ前者は世の中貧福論とさも滑稽本らしく題名し 、後者は所縁の藤
浪と讃本らしく題してゐることによっても明かである。一寸した 目
さきの趣向をこらしながら摸索して来た一九はどうゃ ら 新しい 讃者
血 こなした彼のこととていとも手軽だつたに違 ひない。さぅした自
ム
白なさま Ⅰな様式の混合は述 べて来た如き歴史を持つ中本影讃本
の嗜好にさぐりをあてた様であるが、その嗜好何 の件目叩を彼は彼の
好んだ中本影護本に仕立てた。そして中本影護本 の 序 で毎々示した
と云ふ様式の中で初めて許されたことたったのである。この峯の初
花が醸し出した郷愛情緒を彼は後篇の序で、
謙退の締を、ここで は 裏がへして述べた。
予か此著述もそれ 二同じこんなものといやしめ候人 江 は貢 0 本中
色と情のふたり文字、今ひく牛の角もじの 、慰といふ種を女男の
祠 の蒔そめしより、その道ひらけて、人情のこⅠに吐る所 いづく
候 つもり 二て津山二て 有之候
と。前述の編著態度の表示と共に、漸く一風膿を得た彼の心境を物
この作品あたりから一段と明確になることは、既に年表類 に記載さ
と、人情の語が既にあらほれる。そして又、人情本の様式と情緒が
の浦も愛る事なし
仕立文 冊 題名全く中本影 讃本で ﹂のり、
語るものであらう。これより先、文政二年から四年にわたり清談峯
の 初花前後篇が刊行を見た。
内容は世話 種 で、愛慾をからますここに述べた一連の彼の作品と類
改 元︶
、同じく一九の侶客六% 問 ︵享和二︶をついだ
青棲玄庭訓︵文
文
薦尋 ︵文政元︶、一九の廓意気地︵享和二︶をつい
た未曽田の月 ︵
り讃本 であ っ
政ハ︶青楼未明
草︵文政八︶などの形も内容も中本であ
れて先人の認める所である。ただしこの序はつ ビ いて
いたる。 予校合を乞れて、取敢ずこの序のこと葉をそ ふる事とな
去年光害梓行 せしより、 畔ゐに 行れたるよしにて、今 その 次 編に
たことは既に云はれてゐる。契情意味損戸︵文政六︶でも、倉話
期滑稽本などと共に一定して来たやぅである。
よびならした。そして、その中本の形は大商錫から普通の中本へ後
木がやがて全部をしめる中本影護本を人々は何時の頃からか中本と
が中本影讃本の残碑であったことを思へば氷解するであらう。人情
の重賛をさがしもとめる武士であったりするかへの疑問は、それ等
れに先立つ佳作の一つ軒並娘 八丈︵文政セ︶の主人公オ 三が、御家
を告げる梅暦に放いて、何故に丹治郎が武士の落胤であったり、そ
を人情本がしめる様になったことは確かである。人情本様式の成立
本杉讃本の範園で次第に醜 醸し、やがて年々に出る中水彩讃本全部
ほ人情本成立については摸索期 であったのだが、人情木の要素が中
み木し永代か ビみ ︵
刊年末詳 ︶などを一面に書いてゐる春水連もな
門の博をくわしくつビりあらはしたる貫録にて﹂と注した﹁中形よ
のゆき万である。文蹊堂 の廣吉に﹁世にしられたる紀伊勘や交友衛
賀新内の明烏を題材に用ひたのも、浄瑠璃と近しかつた中本影讃本
りきらず、なほ讃水調である。春水等の明烏後正夢︵文政五︶が鶴
を用ひて情緒を出しながら、慈悲義理の説明多く完全に人情本にな
9m
とあって、一九の著でないかも知れぬ。が前篇着氷斎五粒の序は
干藪十 退会主人禍福の饗礼かくの如く、種別べからぎ Q道理を 、
僅談 の一軍に議して、 頗勧懲の意を備ふ、回り児女の耳 に馴 安く 、
口調の和き 彼先生が膝栗毛の良馬に等し
下ふ。版下 文
とこの書の性格を説明すると共に一九の著なることを一
ⅠⅠ
九の筆であ㍉ 、い づれにせよ彼の大きく 閣保 したこと ほいなめな
いであらう。
"""
一九の試みにつづいた者に二世楚擬人こと後の篇 永 春水 とその 女
人達︵神保三 % 氏 ﹁二世楚浦人作人情本についての疑問﹂
|早大国文
る 人情 咄 で、
孝 研究第十一輔 |参照︶や東里山人こと 鼻山人達があ つた。
一筆庵の松の操物語︵文政三︶は町人のお家騒動をめぐ
幅祀貧乏 神 があらはれたりする所も一九の流れを引い て滑稽本の要
素 が多いが、﹁文の俗なるをもて嬰児みやすからん窟 とするのみ﹂
とか、﹁勧懲の端 ともなれと﹂とか序や緒言に見えて中本影護本 の
後編邦字 久
四一
此度表方のすⅠめにまかせ、流行の中本の作をさ へ此ぬしにたの
む本屋
。これは 難雛菊の露 と云 ふ名吉屋出来の人情本の序の 一節であ
。この年天保二年には既に地方でも人情本をこの名で呼んで ゐ
。中本とは中本影讃本 のことてあった。天保十年里見八人博第九
ド秩左下五編に附された丈穣堂 の蔵板目録には、明かに中形給人
み本之部として、若干の滑稽本と数多くの人情本を牧録する。そ
てそれらの註には以上述べきたりたことを補助し、営時の人の意
に放いて賞讃するものがある。
世に流行中形よみ木寛政の末年より年々に出版して奇談珍説いと
多く︵中略︶わけて為永作の新板前代未聞の善美を轟せり︵奉告
鳥︶
れはその歴史を示し
これほ浄瑠璃芝居の悌をかりてまた嘗世人情の風韻 を フつしたれ
ば ︵中略︶時代を世話の物がたり例の中形木とかは
りて顔見世狂
言を見る如く︵歌舞伎織糸廼調 ︶
れはその風脚を語り、
箱根寅験 の浄るりを翻案して三千曲初花が名を嵌ても九十九館の
段の外 いさちか浄るりの趣向を借ず浮世の人情邪正を穿ちてよく
勅書の一助となすべし︵菰の字
身書
︶
四二
を重ねて、
れば
その内容を示す。これ
と等
實の
作
に
言よっ愛
て化
こ
漸
封
からの
描鳥の援助を必要とした。
をもつばら
二に酒落木・滑稽本に比
青す
棲れ
のば
高踏的
うな
がら
はみ
れで
とな
情く、
せず、世のおかしみを傍観的に求めるあ
の
出し
した
ょも
と
うのを
、幼稚ながらも直接に人生問題に何か提
閲
なか
た。そこ讃
に本やム
巻側
ロからの構成や所謂購
勧度
懲
的ろ所が
つた。
人低
々い
や女性
三が讃者象
封
る、
新しい小讃
説者
となった教養の
的と
讃
本
わいたこともあって、平明な表現をこと
しの
たむ
。本格
現もそのま
かしい文章
又、
沈銀にすぎて理解し酒
が落
た
本い
の表
0目
ム都
ロな明
、な
平表現
では従ひかねた。ここ
ニが
一的
、にも好
本表
と
と
し
あ
に
つ
Ⅹ讃者
こととする中本影護統
本
にの
従博
ふた所以であ
かた
るん
。
クタ
のイ
役ル
目ブ
をッ
希望に
薦じて、流行歌の紹介をしたり、ス
こ自
の
書
たり、世間のトピックを報告するに
博も
統、
を
由彩
なめ
ち
を
の
質がもつ
てめたのである。世の讃書家ほ下中
手で
な、
人そ
情の
本
し
一部分があまりも滑稽本的、油薄氷的、讃本的、合巻的 であること
性
と
る
る
輯
よ
し
議
に驚くであらうし、真摯な文事典研究家は、人情本の中に,のまり
も悉くの先行文寧の色彩を見出して、すつきりした系統論を立て
ぜ特色とす
ぬるであらう。それらほ 一に、人情本がさつしたこと@
中本影讃本の性質をぅけついだからの故であった。
ここ迄来たればあとには春水と所謂窟水連によってなしとげら
た人情本的な特殊な情緒のもり上げのみの課題となる。が中本影
本の中にほ、その嶌に必要であった、浄瑠璃や貫録膿小説| これ
は人情本の場合にぼ新内や富本、人情噺や世話講談など寄席藝か
述べた。かくて人情本全盛期に入っては、作者により讃水調のかつ
た作品もあるけれども、人情本以外の中本影讃本は、先 つ見出すこ
とが出来なくなった。しかし以上考察した如く歴史的に見れば人情
本は中本杉讃本の一時流行の姿てあったので、やがてその流行がお
とろへ、幕末から明治初期にかけて、小説でぼ合巻物、演劇では歌
雑伎などにも貫録物が勢力を得た時には、古来からそ 0% 時にいた
る貫録のダ イゼストを分暗したのが、實にこの自由に、何ににも用
祓
田
ひられる中本杉讃本なのであった。
ぬる。
四三
稿 のやう に簡草に系固化して済ませるかとうか、疑問を持ち始めて
と考へたいとも述べた。近頃、この離 か気になって再著したか、奮
車輌圓示しておいた。清定を次男とする通説に従って、清英を長兄
雄
来 つたと思はねばならないがーを受入れる礎地が既に あったこと
筆 を 執って 前
浅寧を暴露し
﹁竹田近江・出雲の代々﹂ 追 考
博記や注 程には 穿撃 癖の追考が約物になってゐる。
てだらしないが、気にしたすと止めとがないままに、
稿を補ひたいと思ふ。
喜稲 で兄 祀出雲集疑の三人の子、清英・滑走・平助が兄弟である
田主
か に
る
甘し
讃
ら
ら
も