地理教授の根本的革新 - 創価大学機関リポジトリ

「
牧 口常 三郎 研 究 ノ ー ト」 新 蒐 集 資 料 の 覚 え書(そ の2)「
地理 教 授 の根 本 的革 新 」
「牧 ロ常 三 郎研 究 ノー ト」 新 蒐 集 資 料 の覚 え書(そ の2)
「地 理 教 授 の根 本 的革 新 」
山
口
徹
カ リキュ ラム改 訂 論 に 結 び っ け て郷 土 科 論 を展 開 して い る とい うのは
牧 口だ けだ っ た ろ う とい うふ うに 思 うん です 。
一 小 学校 長 がそ うい う独 創 性 を発 揮 す るの は 非 常 に具 合 悪 い。
帝 国 大 学 の人 間 に と って。
(佐藤 秀 夫 『牧 口常 三 郎全 集 』 第3巻 月 報 、座 談 会 「
牧 口常 三郎 の思 想 像 ・人 間像 ① 」)
雑誌 「
教 育 界 」 第15巻 第12号(1916〈 大 正5>年10月3日)に
掲 載 され た 牧 口常 三 郎(1871
-1944)の
「
地 理 教 授 の 根 本 的 革 新 」 は、 当該 雑 誌 の記 述 に拠 る と、 「
青 年 教 育 革 新會 」 とい う
団 体 の 要請 に応 じて 牧 口が 行 っ た演 説 の要 旨 で あ り、牧 口の肩 書 き は"「 人 生地 理 学 」著 者"と
な っ て い る。 「
青 年 教 育 革 新 會 」 とは 、牧 口の講 演 内容 か ら推 察す る に 、お そ ら く若 手 教 員 の集
ま りで あ ろ う。
この 講 演 と前 後 して 、 牧 口の 第3著 作 『地 理 教授 の方 法 及 内容 の研 究』(同 年9月25日
初版 、
目黒 書 店 。 以 下 『地理 教 授 』)が 発 刊 され て い る。
「
地 理 教 授 の根 本 的 改 革 」 は、 「憐 れ む べ き 状 態 に ある 地 理 教 科 」(『地理 教授 』 「
序 言 」)の 根
源 的 な変 革 を志 した 、 大 正年 間40代
の 牧 口像 を照 らす た め の 、新 た な一 資 料 で あ る。
1、 「
地 理 教 授 の根 本 的革 新 」 の 内容
(1)「 教育 実 際 家 」 よ 、現 場 の 「疑 問 」 を重 視 し、 「研 究 」 を発 表 せ よ
「
地 理 教 授 の根 本 的 革 新 」 の 内容 は 、表 題 に示 され てい る とお り、"現今 の 地理 科 の 内 容 ・教
育 方 法 は、 これ を根 本 的 に 改 造す る必 要 が あ る"と の意 見 表 明 で あ る。
ま た 、そ の改 革 は 「
地 理 学 者 」 の み に任 せ る ので はな く(任 せ られ る もの で もな く)、 「
教育
実 際 家 」、っ ま り現 場教 師 が 、 自身 の 「
疑 問 」 を 大切 に し、 「
研 究 」 を進 め どん どん発 表 して い
か な けれ ば な らない 、 との 提 言 で もあ る。
「
現 場 の教 師 こそ 、教 育 を進 め る 中心 で あ る」 との主 張 は 、「教 師 」とは 「教 育 技 師 」で あ り、
教 育 学 とは何 よ り も教 師 の技 術 を 向上 させ る た め の学 問 、 す な わ ち 「
教師のための学問」 でな
けれ ば な らない 、 との強 い 認識 の も とに綴 られ た 『創 価 教 育 学 体 系 』 ま で一 貫 してい る。
遡 れ ば 、これ よ り4年 前 に発 刊 され た 牧 口 の第2著 作 『教 授 の 統合 中 心 と して の郷 土 科 研 究 』
(1912〈 大 正 元 〉年IL月23日 初 版 、以 文 館 。 以 下 『郷 土 科研 究 』)に も、そ の 主 張 の 一 端 が 示 さ
れ て い る。『郷 土 科 研 究 』 の 「
諸 説 」 に は 、次 の よ うな牧 口独 特 の明 朗 か つ ア イ ロニ カ ル な表 現
が あ る。
ToruYamaguchi(聖
教 新 聞 記 者)
一286一
創 価教 育研究第4号
「
程 度 は高 し、 要 求 は多 し、然 る に教 授 の 時 間 は少 し、 生 徒 の心 力 はま だ 低 しと来 て居 るか ら、 此 の
間 に立 つ て真 面 目に其 の任 務 を果 さん とす る教 育実 務 者 の立 場 の 困難 な こ とは、 我 が国 大 戦 後 の経 営
時代 に於 け る大 蔵 大 臣 の それ 以 上 で あ らね ば な らぬ(中 略)然
り教 科 過 程 案 の改 良 問題 即 ち 教 材 整 理
問題 は実 に現 今 に於 け る最 緊最 急 の 問題 とな り し迄 に 時勢 は到 達 した の で あ ります 。/教 授 訓 練 の形
式 的完 全 を のみ 理 想 と し、 之 を 実行 す る に経 済 といふ こ とを度 外 視 し来 った 従 来 の教 育学 が 、 此 の如
き域 に 到達 した の は 当然 の こ とで 、遅 れ 走 せ な が ら邦 家 の為 め 、斯 道 の為 め に誠 に慶 す べ き 事 で あ り
ます 」(『牧 口常 三郎 全 集 』 第3巻12-13ペ
ー ジ、 以 下 『全 集 』)
「
教 育 実 際 家 」 「教 育 実 務 者 」 の重 視 、つ ま り"教 育 現 場 か ら の視 点"は 、それ な しで 牧 口の
著 作 物 は 一切 成 り立 た な か っ た で あ ろ う太 い 幹 で あ る。そ して 、牧 口が 教 育 現場 で発 揮 した 「現
実 を変 え るた め に 現 実 を重 視 しな けれ ば い け な い とい うリア リズ ム 」(佐 藤 秀 夫 、 『全 集 』 第3
巻 月 報9ペ ー ジ)は 、 は か らず も彼 自身 の獄 死 に至 る道 程 を象 る こ とに な る。
(2)「 教 科 書(TextBook)本
位 」 か ら 「地 図(Atlas)本
位」へ転換せ よ
具 体 的 な 内 容 に 立 ち 入 ろ う。 「地理 教 授 の根 本 的革 新 」 の 冒頭 は 、 「
今 日の 地 理 教授 は 、 誠 に
い か が は しい もの で 、」 との一 言 か ら始 ま る。
続 い て 、牧 口 自身 が 小 ・中学 時 代 、 さ らに 師範 学校 時代 に 受 け た 地理 科 の授 業 にっ い て 、 「
無
味 乾 燥 」「一本 調 子 千篇 一律 」「
誠 に馬 鹿 ら し き こ との 限 り」な ど と辛 辣 極 ま りな い述 懐 力弐続 く。
今 もそ の 内容 は変 わ らず 、「
材 料 ば か りカミ多 く な り、二十 年 一 目の如 く、教 科 書 に何 等 の 進 歩 も
な く、変 化 も な く、 今 日に至 っ てお るの で あ ります 」。 さ らに牧 口は 、 「
今 日の 小 中学 校 の教 科
書 は 、全 部 これ を焼 き捨 て て 、 別 に新 ら しい もの を作 っ てみ た い 」 とま で 語 っ て い る。
これ らの批 判 の焦 点 は 、地 理 科 の 教 育 方 法 力虹 実 生 活 と隔 た りの あ る こ と、実 に此 の 上 な い 」
とい う一 点 に絞 られ て い る。
そ して 、そ の 具 体 的 な 改 革 案 は 、 「自然 地 理 教 材 本位 か ら人 文 地理 教材 本 位 に進 み 、教 科 書 本
位 の教 授 か ら地 図本 位 の教 授 に一 転 しな かれ ば な らぬ と固 く信 じて 疑 ひ ま せ ぬ」 の 一 言 に要 さ
れ て い る。
す な わ ち 「地理 教 授 の根 本 的革 新 」の具 体 的 内容 は 、① 地理 教材 は 、自然 現 象 のみ に偏 らず 、
「人 間 生活 に 直接 関係 あ る部分 」 に重 き を置 か ね ば な らな い 、② 地理 の教 科 書 は 、文 字 テ キ ス
トは 最 小 限 に と どめ 、む しろ 「地 図 」を根 本 とせ ね ば な らない(「 地 図 を徹 底 的 に理 解 せ しむ る
が 地 理 教授 の 真義 で あ りま す 」)と の2点 に蔚 分 け され よ う(こ れ らの主 張 の根 本 に は 、 「
郷土
科 」 を 中心 とす る カ リキ ュ ラム改 革 思 想 が 横 た わ って い るが 、 この 点 は後 述 す る)。
① は、『人 生 地 理 学 』(こ の 「
人 生 」 とは 「
人 間 の生 活 」 とい う意 味 で 、い わ ゆ る 「人 の 一 生 」
とい う意 味 で は な い)で 結 実 した思 想 の、 具 体 的 な教 育 方 法へ の応 用 で あ る と看 倣 せ よ う。
② は 、『地理 教 授 』 にお け る 「
地 理 教 授 に於 け る教 具 の 本 体 を地 図 とし、文 章 を以 っ て現 は し
た る地 理 教 科 書 は其 の 地 図 を読 み 且 つ 了 解 す る方 便 物 と して 地 図 に附 属す る と云 ふ事 に 改 良 し
な けれ ば 、地 理 教授 の真 価 は発 揮 す る事 が 出 来 な い と信 じて居 る者 で あ る」(第 四 篇 「地理 教 科
書 の改 造 及 活 用 」 第 十 七 章 「
地 理 教 授 の主 眼 教 科 書 を地 図 とせ よ」。 『全 集 』 第4巻192ペ
ー ジ)
との主 張 と同趣 旨で あ る。
また、「
地 理 教 授 の根 本 的 改 革 」掲 載 の3年 後 、48歳(1919〈
大 正8>年11月)で
執 筆 し た論
文 「
学 習 経 済 よ り見 た る地 理 教 授 の改 造 」で 牧 口 は、 「
児 童 用 の地 図 を本 位 に置 き、教 師 の説 明
す る事 柄 は一 々指 導 して彼 等 自身 の持 っ て居 る 地 図 に対 照 せ しめ其 意 味 を了 解 し暗論 せ しめ る
一287一
「
牧 口常 三 郎 研 究 ノー ト」 新 蒐 集 資料 の 覚 え書(そ の2)「
地 理教 授 の根 本 的 革 新」
こ とをせ ね ば な らぬ。 そ れ の方 便 と して 、大 体 の位 置 方 向 、其 他 を説 明す る為 め に のみ 、 教 師
の掛 図 を使 用 す べ きで あ る」「
児 童 の学 習 上 に 当っ て は矢 張 り地 図本 位 とな し、地 図 を理 解 す る
とい ふ こ と を以 て 教 授 の最 も主 要 の 作 業 と した い と思 ふ の で あ る」(『全 集 』 第7巻389-390ペ
ー ジ)な ど と言及 して い る。
この 、地 理 教 授 論 の集 大 成 とも言 え る 「学 習 経 済 ∼ 」で 牧 口 は、「地 図 本位 」の内 実 につ い て 、
教室で教師が使 う 「
掛 図 」 を 中心 に授 業 構 成 を考 え るの で は な く、 あ くま で も"児 童 自身 が持
って い る地 図 帳"を 中 心 に授 業 を進 め な けれ ば な らな い と、 教 育 技 術 の側 面 か らい っそ う詳 し
く言 及 して い る の で あ る。
牧 口に とっ て 、 「
教 科 書(TextBook)本
位 」か ら 「
地 図(Atlas)本
位 」 へ の転 換 は、 無 味 乾
燥 に 羅列 され た 事 実 の 暗 記 を児 童 に 強 い る従 来 の 地 理 教 育 方 法 を改 革 す るた め に 、 欠 か す こ と
の で き な い 主 張 だ っ た。
ま た 、牧 口は1910年(明
治43年)8月
か ら1913年(大
正2年)4月
ま で 、 文 部省 図 書 局 勤 務
の 属 官 と して 、 国定 教 科 書 の編 纂 ・検 定 業 務 な ど に携 わ っ て い る。
この 間 の経 緯 に つ い て は 、『全集 』第4巻
の 「
解 題 」(中川 浩 一)に 詳 しい 。同解 題 に よる と、
牧 口が編 纂 に 関 わ っ た で あ ろ う国 定教 科 書 と して 、『尋 常 小 学 地 理 』巻 一 ・二 、『高 等 小 学 地理 』
巻 一 ・二 ・三学 年 用 、『小 学 地 理 附 図 』 尋 常 小 学 校 用 、 『小 学 地理 附 図 』 高 等 小学 校 用 の7冊 が
挙 げ られ て い る。
同解 題 で 中川 は 、私 見 と しな が らも 、 地 図 に 「附 図」 と名 づ け 、 地 図 を文 章 の付 属 品 と して
扱 っ た 当時 の教 科 書 編 纂 方 針 を 「
地理 教 育 百年 の計 を見 誤 った 大 失 策 」 と断 じて い る。
こ の方 針 の も とで(具 体 的 に は 、文 部 省 図書 編 修 官 ・喜 田貞 吉 の も とで)働 い た牧 口の 体 験
が 、 地理 教 科 書 の 「地 図本 位 」 へ の転 換 を強 く主 張 す る契 機 とも な っ た で あ ろ うこ とは 間 違 い
な い。 事 実 、『地 理 教授 』 全 編 に わた り、 当時 の国 定 教 科 書 に対 す る批 判 が散 見 され る。
な お 、 当然 な が ら、 「地 理 教 授 の根 本 的 革 新 」 の 主 張 に は他 に も、"日 本 人 の活 動 の舞 台 が格
段 に広 が った 今 日は 、 地理 科 の授 業 時 間 を増 加 す べ きで あ る"一
にっ い て は後 段 で 触 れ る一
こ の主 張 の意 味 す る と ころ
等 々 、『地 理 教 授 』 の 内容 と重 な る もの が 多 く含 まれ て い る。
(3)『 郷 土 科 研 究』 との 関連 性
「
地 理 教 授 の 根 本 的 改 革 」 に は、 「
地 理 教 授 の第 一 手 段 と して 重 要 な の は、郷 土 科 で あ る と思
ひ ます 」 「
総 じて 何 れ の科 目で も郷 土 に立 脚 し、最 後 に又 郷 土 に帰 着 す る こ とは、極 めて 必 要 な
こ とで あ るが 、 中で も地 理 科 に於 て は大 切 で あ る と思 ひ ま す 」 等 と 、郷 土 科 教 育 との 関 係 性 が
記 され て い る。
厳 密 に考 えれ ば 、 牧 口が 提 唱 した 地 理 教 授 の改 革 と 「
郷 土 科 」 の 内容 とは 、別 個 に論 ず る こ
とはで きな い 。 そ もそ も牧 口 に拠 れ ば 、 全 て の 学校 教 育 の 教科 は"教 授 の統 合 中 心 と して の郷
土 科"を 基 に体 系付 け られ るべ き で あ り、地 理 科 もそ の な か の 一 教科 で あ る。
こ こで 、 牧 口が 唱 え た 、郷 土科 を 中心 とす るカ リキ ュ ラム 改革 を概 観 せ ね ば な らない 。
先 に も少 し紹介 した 牧 口 の第2著 作 『郷 土 科研 究』(1912年)は
、「
初 等教 育 の カ リキ ュ ラ ム
の 根 本 的 な 改 革 を論 じた 書 」(佐 藤 秀 夫 『全 集 』 第3巻 解 題)、 国 定 カ リキ ュ ラム に対 す る 「
挑
戦 の 本 」(佐 藤 秀 夫 、『全 集 』 第3巻 月報9ペ
ー ジ)な
ど と評 され て い る通 り、 当時 の文 部 省 の
方針 に対す る激 しい批 判 の書 で あ る。
そ の 冒頭 は 、 「
浮 華 軽 桃 虚 飾 外 観 、以 つ て 一 時 を糊 塗す る こ と、是 れ 我 が 邦現 今 の教 授 界 、 し
か も巧妙 な りと 目指 さ され て 居 る教 授 界 に於 け る通 弊 の一 で は な りませ ん か」(第一 篇 「
郷 土科
一288一
創 価教育研究第4号
の理 論 」 第 一 章 「諸説 」、『全集 』 第3巻9ペ
詳 述 す る余 裕 が な い が 、 『全 集 』 第3巻(『
ー ジ)と の痛 烈 な一 文 か ら始 ま る。
郷 土 科 研 究 』 が 収 録)の 校 訂 担 当者 で あ っ た 佐 藤
秀 夫 が 要 した郷 土科 研 究 の意 義 を 引用 して お こ う。
「(牧口は 『郷 土 科 研 究 』 に お い て)郷 土 の さ ま ざま な 地 形 、 歴 史 と い っ た 、 子 ど もた ちに 身 近 な
郷 土 の 学習 か ら始 め 、同心 円 的 に広 げ て 、子 ど もた ち の世 界 認 識 を作 っ て い くこ とを提 唱 して い ます 。
/最 近 で は 、学 校 五 目制 に とも な い、 複 数 の教 科 を組 み 合 わせ 、 教 育 カ リキ ュ ラ ム を再 考 しよ う とい
う提 案 が聞 か れ ま す が、 これ らは牧 口の発 想 に比 べ れ ば、 次 元 の低 い も の で し ょ う。 週 休 二 日制 に よ
っ て、 授 業 時 間 が減 るか ら、 ま とめ て教 えて しま お うとい う安 易 な発 想 です 。/し か し、 牧 口の 発 想
はそ うでは な く、 学 校 で の学 習 を効 率 化 し、児 童 の 負 担 を減 らす と と も に学 校 以外 で の学 習 で は 、 子
ど も た ち の 自発 性 や 自主 性 を 生 か し て い く 、 そ こ に人 間 と して の基 礎 が 作 られ て い く とい う発 想 で
す 」(1999年6月2目
発行 「
創 価 新 報 」6面 。 ※ 「
創 価 新 報 」 は創 価 学 会 青 年 部 の 機 関紙 。 引用 文 中
の括 弧 は 引用 者)
郷 土 科研 究 は、"国定 カ リキ ュ ラム を全 面 的 に改 定 す べ し"と の牧 口の 主 張 の根 幹 を成 す もの
で あ った 。1917年1月
に発 刊 され た雑 誌 『教 育界 』 の企 画 「
岡 田文 部 に何 を望 む べ き か 」 に、
牧 口は 「
小 学校 郷 土 問題 の解 決 に一 部 の 尽力 を望 む 」 と題 した短 文 を 寄せ て い る。
ゆえ に 『地 理 教授 』の 本 文 中 に も、 「
斯 くて 次 第 に統 合 せ られ た る(地 理 科 の)知 識 体 系 は 終
に 更 に其 の 中 心 点 とな る郷 土科 の知 識 の 内 に結 合 集 中 され な けれ ば な らぬ。 之れ は郷 土 科 に於
て既 に論 じて 見 た処 で あ る 」(第 三 篇 「
教材論」第十五章 「
教材 の 統 合 」、『全 集 』 第4巻180ペ
ー ジ。 引用 文 中 の括 弧 は 引用 者)な ど と言 及 され てい る わ け だが 、両 者(地 理 教 授 と郷 土 科)
の 関係 性 に論 及 す る と、 ど う して も郷 土 科 研 究 を巡 る背 景 な どにっ い て更 に叙 述 せ ね ば な らぬ
毅 取 り とな る ので 、 こ こで は 両 者 の 関係 が密 接 不 可 分 で あ る こ とを指 摘 す る に と どめ てお く。
2、 思想 史 的位 置 づ けの た め の メ モ
(1)「 非 官学 の 先 覚 者 」 一
忘 れ られ て い た著 作
『地 理 教授 』等 に表 れ てい る牧 口の地 理 教 育 に関 す る思 想 は従 来 、『人 生 地 理 学』や 『創 価 教
育 学 体 系 』 な ど彼 の他 の 著 作 と比 べ て 、研 究 の 光 が 十分 に 当た っ て き た とは 言 い難 い。 む しろ
研 究 が 遅 れ て い る分 野 で あ る と言 わ ざる を得 な い。 特 に 『地 理 教授 』 な ど、"幻 の本"と 言 わ れ
た 時 期 もあ っ た。
そ の遠 因 を 辿 るた め に 、本稿 で は 、『全 集 』第4巻E報
の座 談 会 「
牧 口常三 郎 の思 想 像 ・人 間
像 ② 」(斎 藤 正 二 ・佐 藤i秀夫 ・中川 浩 一一)か ら、『全 集 』第4巻(『
地理 教 授 』 を収 録)の 校 注 を
担 当 した 中川 浩 一 の指 摘 を 、長 文 なが ら引用 してお こ う。
「(『
地 理 教 授 』 を 出版 した)目 黒 書 店 は 、 この 当時 、 数 多 くの 教 育 関 係 書 を 出 して お りま した し、
それ とは別 に、 中堅 ど こ の書 籍 取 次 店 と して 、 堅 実 な 商 売 を取 り沙 汰 され て い ま した 。 そ れ だ か ら こ
そ 、 明 治 中期 か ら昭 和 二 十 年 代 の半 ばま で 目黒 書 店 は 存 続 で きた とい え るで し ょ う。 余 談 に な りま す
が、 目黒 書 店 の没 落 は、 俗 にい う"唐 様 で 書 く三 代 目"を 地 で い っ た もの で 、 戦 争 直 後 、文 芸 書 を 手
広 く発 行 して 第 二 の 新 潮 社 を め ざ し て久 米 正 雄 を 社 長 に祭 りあ げた 鎌倉 文 庫 の 文 芸 誌 『人 間』 を 肩 が
わ りした の が 命 と りにな りま した 。 一
こ うした事 実 経過 を 辿 っ た 目黒 書 店 が 、 そ の 興 隆期 に 当 た っ
て 、 公 立小 学 校 長 にす ぎ な い牧 口常 三 郎 に 目をっ けた とい う点 に、 深 い 意 味 が あ る と思 い ま す」
「目黒 書 店 は 、地 理 学 関 係 の 書 物 と して野 口保 興 『帝 国 大 地 誌 』 『世 界 大 地 誌 』 を刊 行 して い ま し
一289一
「
牧 口常 三 郎研 究 ノ ー ト」 新 蒐集 資料 の覚 え書(そ の2)「 地 理 教 授 の根 本 的革 新 」
た 。 この 二 冊 は 、 文 部 省 中等 学 校 教 員 検 定 試 験(い
わ ゆる 「
文 検 」)の 参 考 書 と して 著 述 され た 大 冊
で 、 な か な か の 売 れ ゆ き だ っ た よ うに思 われ ます 。 この よ うな事 情 の も とで 、 目黒 書 店 の が わ で は 、
小 学 校 教員 の ニ ー ズ が何 で あ るか を、 か な り適 確 に 押 さえ て い た と考 え な け れ ばな りま せ ん 。 そ の 眼
鏡 に か な っ た とい うこ とは 、牧 口常 三 郎 を著 者 に 迎 え れ ば必 ず 読者 に ア ッ ピー ル す る と ころ が あ る と、
そ う睨 ん だ の で し ょ う」
「
『地理 教授 の方 法 及 内 容 の研 究 』 は 、刊 行 後 、 す ぐ再 版 が 出 て い ま す 。 正 確 に表 現 す れ ば 第 二 刷
で し ょ う。 この 当時 、 初 版 を どれ く らい 刷 る習 慣 が あ った の か を、 私 は知 り得 ま せ ん が 、 そ う多 く で
は な か った と思 いま す 。 そ れ に して も、 す ぐ二 刷 を 出 した とい うこ と は、 目黒 書 店 の が わで 予 測 した
以 上 の反 応 が、 読 者 のが わか らあ っ た と考 え て よ い はず です 。 一 年 後 に三 版 が 出 て い ます か ら、 或 る
程 度 は読 まれ 、か つ普 及 した とい え る のか も しれ ませ ん。 書 名 が 間違 っ て印 刷 され た と い う事 実 は あ
る に して も 、約 十 年 後 に 、 な お紹 介 され る く らい な の です か ら、 刊 行 当時 は 、地 理 教 育 を真 面 目に考
え て ゆ き た い とす る 小学 校 教 師 に訴 え か け る 内容 を持 ち あ わせ た書 物 だ っ た とみ て も、 それ ほ ど大 き
な 間違 い を した こ とに な りませ ん 」
「
で は 、 そ の 後 、 お そ ら くは 昭 和 に な っ て か ら、牧 口常 三 郎 の名 が 地理 教 育 界 か らなぜ 急 速 に 忘 れ
去 られ て ゆ くの か とい え ば 、 そ こに は 地 理 ジ ャー ナ リズ ム とい っ た 方 面 で の 活 動 が か らみ合 い 、 ま た
そ の風 潮 に 牧 口常 三 郎 が くみ しな か った 一
本 当は 、 地 理 ジ ャー ナ リズ ム が 牧 口常 三 郎 を無 視 した 一
一 た めだ った と、 私 は 考 えま す 。/地 理 ジ ャー ナ リズ ム は 、 小 学 校 ・中 等 学 校 教 師 を主 な読 者 とす る
地 理 教 育 雑 誌 の 刊 行 にの りだ しま した 。最 初 の存 在 は 、一 九 二 四年(大 正 十 三年)創 刊 の 『地 理 教 育 』
(中興 館 発 行)と な るの で す が、 こ の刊 行 を バ ッ ク ア ップ した の は 、 東 京 高 等 師 範 学 校 教 授 で あ り、
それ 以前 は、 文 部 省 図書 編 修 官 で あ った 内 田寛 一 だ った とい われ て い ま す 。 そ して、 具 体 的 な学 習 指
導法 や 教材 解 説 の分 野 でみ ず か ら健 筆 をふ る う一 方 、寄 稿 者 の人 選 を した の が 、東 京 高 等 師 範 学 校 附
属 小 学 校 を 中心 に教 鞭 を とっ て き た佐 藤 保 太 郎 で あ っ た の です 。 こ の あ た りの事 情 は、 東 京 教 育 大 学
教 授 を最 後 に 退 官 され た佐 藤 保 太 郎 先 生 か ら私 自身 が 聞 き と りしま し た ら、 間違 い な い と思 い ま す 。
結 局 、 地理 教育 に つ い て、 指 導 的 な役 割 をす る メ ンバ ー が 、教 員 社 会 で の ヒエ ラル キー の頂 点 に座 る
人 た ち に よっ て 固 め られ て ゆ くな か で 、牧 口常 三 郎 の名 は 忘れ られ て い っ た 、 とい え る の で し よ う」
「
ま た この 時 期 に は 、 文 検 の 出題 委員 が 東京 帝 国 大 学 の辻 村 太郎 、 東京 高 等 師範 学校(後
理 科 大 学 と兼 任)の
に東 京 文
田中 啓 爾 、 東 京 女 子 高 等 師範 学 校 の 飯 本信 之 、東 京 商科 大 学 の 佐藤 弘、 とい う よ
うに 固定 化 され て しま い 、 これ ら先 生 方 の 本 は 、 どん な もの で も よ く売 れ 、 わ か っ て もわ か らな くて
もそ の 中 に書 いて あ る こ と をそ のま ま 書 け ば合 格 す る とい う風 評 が 立 っ な か で 、 地 理 書 の著 者 は 固 定
化 され 、 そ れ 以 外 の人 た ちは 棄 てて 顧 み られ な く な る とい う状 況 が 生 ま れ ま す 。 この 状 況 が 、 牧 口常
三郎 の名 を、 忘 却 の彼 方 に押 しや った と、 私 は考 えて い ま す 。 中 興 館 につ い で 、 この 方 面 に進 出 した
古今 書 院 も 、官 学 系 の先 生 た ち で ス タ ッ フ を かた めま す し、 文 検 予 備 軍 の 面 倒 見 が よか った 帝 国 書 院
も、合 格 へ の近 道 は官 学 の傘 の 中 に入 る こ とで あ る と志 願 者 に信 じ込 ませ る なか で 、 非 官 学 の 先 覚 者
を見 棄 て て しま うの です(7-8ぺs-一
一
ジ)」
地 理 学 者 と して の 牧 口は 、 は か らず も 「非 官 学 の 先 覚者 」 と して 無 視 され た。 そ の余 波 は 戦
後 の教 育 学 界 の 岸 辺 を洗 った 。一例 を 挙 げれ ば 、1971年 に牧 口 の生 誕100周 年 を記 念 して 出版 さ
れ た 『牧 口常 三 郎
人 と思 想 』(熊 谷 一 乗 著 、第 三文 明社)の 巻 末 年 譜 に は 、『地 理 教 授 』 発
刊 の事 実 が 欠 落 して い る。
斎 藤 ・佐 藤 ・中川 の 三者 に よる座 談 会 が 収録 され た 月報 は 、1981年12月 の 日付 で あ る。現 在 、
一290一
創 価教 育研 究第4号
この 中川 の発 言 か ら20年 以 上 のA目 が 経 って い る が 、 こ の20年 間 、 牧 口の地 理 教 授 を巡 る 思想
の研 究 が 、十 分 に行 われ た と は言 え ない 。何 よ りも 、筆 者 自身 の不 勉 強 を反 省 す る も の で あ る。
(2)雑
誌 「教 育 界 」 に収 録 され た他 の 文章 との 比較
「
地 理 教 授 の根 本 的 革 新 」 が 掲 載 され た 雑 誌 「
教 育 界 」 第15巻 第12号 の 内 容 か らは 、牧 口の
当該 講 演 が 、 どの よ うに位 置 づ け され てい た のか を垣 間 見 る こ とが で き る。
同 号 目次 に は 「口絵 」 「
社説」 「
海外発 展」 「
学 術 」 「教 材 研 究 」 「
受 験 指 針 」 「新 刊 紹 介 」 な ど
の 項 目が あ り、 そ れ らの な か に 「地理 教授 の 革 新 」 とい う項 目が設 け られ て い る。 牧 口の 講 演
は 、 この 項 目の な か に 、他 の2つ の論 文
「尋 常 小 学校 に於 け る外 国 地理 の教 授 は 改 良 を要
す 」(二 宮 榮 春 ・学 習 院 助 教授)・ 「今 後 の 地 理 教 授 を如 何 にす べ きか 」(青 年 教 育革 新 會)
と と もに 収 め られ て い る。
この3っ の 文 章 を読 み 比 べ て み る と、 まず 二 宮論 文 は 、 そ の 内容 を外 国地 理 の教 授 方法 に 特
化 して い る も の の 、地 理 教 授 に 関す る散 漫 な 印象 批 評 の域 を 出ず 、 特 に見 るべ き も の は な い。
青 年 教 育革 新 會 の論 文 は、地 理 教 授 を通 して 「
愛 国 心 の発 露 」を 強調 す る の が そ の 特 徴 で 、 「
世
界 を統 一 す る使 命 を有 っ て 居 る吾 が 帝 国 民 に は 、海 外 発 展 は急 務 中 の急 務 で あ る」 との激 しい
一言 が
、 こ の集 ま りの 基本 的 な価 値 観 を あ らわ して い よ う。
上 記 の2っ の文 章 は 、 そ れ ぞ れ の 視 点 で 文 部 省 の教 育 方 針 を批判 して は い るが 、 牧 口の 「地
理 教 授 の根 本 的 革 新 」 と比 べ る と、 自 らが 属 して い る教 育 体 制 そ の もの を 「
相 対 化 」 す る視 点
に乏 しい 。 ゆ え に3っ を並 べ る と、 牧 口が 「
今 日の地 理 教 授 は、誠 にい か が わ しい 」 と言 い放
っ 尖 鋭 な表 現 と、 文 部省 の カ リキ ュ ラム を全 面 的 に否 定 ・改 革せ ん とす る論 理 が 、 際 立 っ 格 好
とな って い る。
牧 口 と青 年 教 育 革新 會 との 関係 は 、現 時 点 で は あま りわ か っ て い な い。 筆 者 は 、 この 会 の メ
ンバ ー が 、『人 生 地 理 学 』で既 に名 を馳 せ て い た 教 育 改 革者 た る牧 口に直 接 話 を 聞 き た い と依 頼
し、 牧 口は 、 快 く引 き受 けた の で は な い か と想 像 す る。
と もあ れ 、 青年 教 育革 新 會 の メ ンバ ー や 「
教 育界 」編 集 部 か ら牧 口は 、何 よ り も"日 本 が発
展 す る に従 っ て 日本 と外 国 との 関係 も深 ま り、必 然 的 に 、 地理 教 授 の範 囲 を拡 大 しな けれ ば な
らな い"と 主 張す る一 人 の教 育 者 ・研 究 者 と して 受 け入 れ られ 、か つ 期 待 され て い た こ とは 間
違 い な い。 こ の よ うな 、牧 口に対 す る他 者 認 識 、 そ して牧 口 自身 の 自己認 識 の実 像 を探 る た め
に は 、以 下 の 問題 を考 え る必要 が あ る。
(3)近
代 日本 にお ける 「植 民 」 「植 民 地 」 認 識 の 変 遷
「地理 教 授 の根 本 的 改 革 」で 牧 口 は、「
外 国 地 理 教授 の徹 底 等 は極 め て必 要 な こ とで あ ります 」
と して 、政 治 的 な 「日本 地理 」 「外 国 地 理 」 な どの 区 分 方 法 を否 定 す る。
そ して 、 「内 国 地理 」 と 「
植 民 地 理 」 とい う立 て分 け を提 示 し、 「日本 民族 の 行 っ て 活 動 して
を る所 は、 そ れ だ け国 民 活 動 の 舞 台 が 広 が っ て を る ので あ るか ら、 此所 か ら此 所 ま で は 日本 地
理 だ か ら詳 し く、又 これ 以 外 は外 国 の地 理 だ か ら簡 略 で も い い と云 ふ や うな 旧観 念 に囚 はれ ず 、
宜 し く 日本 地 理 の 一 部 と して 、其 の範 囲 を拡 張 して 、 詳密 に教授 す る必 要 が あ ら う と思 ふ の で
あ りま す 」 と主 張 し、 「
支 那 の あ る地 方 」 「
満 州 の 或 る都 会 」 「
ハ ワイ 諸 島 」 「ア メ リカ東 海 岸 の
或 る都 会 」 な どを 「
植 民 地 理 」 の具 体 例 として 挙 げ て い る。
この 叙 述 とセ ッ トで 注 目す べ き は 、「地理 教 授 の根 本 的革 新 」 と前後 して発 刊 され た 『地理 教
授 』 の 第 人篇 「
外 国地 理 の教 授 」 の 記 述 で あ る。
一291一
「
牧 口常 三 郎研 究 ノ ー ト」 新 蒐 集 資料 の 覚 え書(そ の2)「 地 理 教 授 の 根 本 的革 新 」
『地 理 教 授 』 の 冒頭 は 、"国 民教 育 に とっ て 「
立 憲 思想 の 酒養 」 と 「
対 外 思 想 の確 立 」 こそ 重
要 で あ る"と の 、 当 時 文 部 大 臣 を務 めて い た 高 田早 苗 の 発 言 引用 か ら書 き起 こ され て い る が 、
同書 の第 人 篇 「
外 国 地理 の 教授 」に は 、中 国 や ロシ ア な ど外 国 地理 の教 授 方 法 に つ い て 、 「
今目
的 尺 度 で は 、 は なは だ 不穏 当な 帝 国 主 義 的 言 辞 と解 さ な くて はな ら ない 主 張 に よ って 、 そ の 内
容 が い う ど られ て い る 」(前 述 の 中川 解 題)と 指 摘 され て い る箇 所 が あ る。
本 稿 でそ の全 て をみ る こ とは 無 理 な ので 、最 イ
邸 艮、第 八 篇 「
外 国 地 理 の教 授 」 と、 関連 す る
第 七 篇 「日本 地 理 の 教授 」 の 目次 をみ て お こ う。
「
第七篇
日本地理の教授/第 三十一章
授/○ 大 日本 帝国の概説/第 一節
題/第 三節
位置 の教授/第 二節
地勢 の教授/第 五節
気候の教授/○ 日本気 候の特質/○ 日本気候 帯新区別/第 七節
本の水産業/第 八節
区分 の教授/○ 地方 区割 の新分類/第 三十三章
関東地方 の教授/第 二節
奥羽地方 の教授/第 三十 四章
教授/○ 樺 太の産業/第 二節
教授/第 二節
東蒙古 地方の教授/第 三節
露領 亜細亜 との貿易 関係/第 五節
帝国の権力範囲内の地理教授/第 一節
青島附 山東省 の教授/第 四節
欧羅 巴諸国の教授/第 六節
印度支 那 の教 授/第 四節
北亜米利加諸国の教授/第 七節
樺太地 方の
鮮」
関東州附満州 の
露領亜 細亜の教授/○
関係 外国の教授/第 一節
地理 教材選択排列 の方針/○ 輸 出貿易総額 に基 く世界列 国の分類/第 二節
那 の教授/○ 支 那 の対外貿 易関係/第 三節
産業 の教授/○ 日
朝鮮地方 の教授/O朝
南洋諸 島の教授/第 三十六章
近海 の
内地各 地方 の教授/第 一節
帝 国拓殖地 の教授/第 一節
台湾地方の教 授/○ 台湾/第 三節
外国地理の教授/第 三十五章
日本地理総論 の教
面積及人 口の教授/○ 日本帝 国の住 民問
日本地形の教授/○ 日本 の長 さの分析 的観 察/第 四節
教授/第 六節
「
第八篇
日本地理 の組織 に就て/第 三十二章
世界
最親 関係 国 と しての支
英領 印度 の教授/第 五節
世界地理概説の教授 」
まず 「日本 地理 」 の範 疇 に 、樺 太 ・台 湾 ・朝 鮮 が 「
帝 国拓 殖 地 」 と して 含 まれ てい る。 そ し
て 、外 国 地理 は 「
帝 国 の権 力 範 囲 内」(「吾 々 大 和 民族 の準 自国 領 土 と して発 展 し得 る土 地 」『全
集 』第4巻348ペ
ー ジ)と
「関係 外 国 」 と に分 か れ 、前 者 は 「関東 州 附 満 州 」 「
東 蒙 古 地方 」 「
青
島附 山東 省 」 「
露領亜細亜」 「
南 洋 諸 島」 の5地 域 に分 類 され て い る。
第 人 篇 を貫 く認 識 は次 の よ う に要す る こ とが で き よ う。 現在(1916年)の
日本 を取 り巻 く国
際 関係 を正 確 に理解 す るた め に は 、 まず 軍 事 的 、 経 済 的 な観 点 を重 視 しな け れ ば な らな い 。 世
界 的 な生 存 競 争 の増蝸(る つ ぼ)に あ る 「目本 の 国 民生 活 」(『全集 』第4巻385ペ
ー ジ)を 守 る
た め に は 、必 然 的 に、 近 隣 の劣 った 民 族 を も守 りっ っ(「 若 し 日本 と云 ふ 力 が な かっ た な らば 、
支 那 の分 割 といふ 問題 は疾 く に起 っ て 居 る の で あ る」『全 集 』第4巻370ペ
り合 わ な けれ ば な らな い一
ー ジ)、 欧 州 列 強 と渡
。
「
若 し 日本 と云 ふ 抵 抗 力 が な かっ た な らば 、例 へ ば英 吉 利 は揚 子 江 の流 域 な る 中部 支 那 を分
割 し、仏 蘭 西 は雲 南 、 貴 州 の方 面 を侵 掠 し、露 西 亜 は 北方 を、 独 逸 は 山東 省 よ り北 支 那 を分 割
す るや うに な つ て 、悉 く欧 羅 巴 人 の 手 に落 ち て しま ふ の で あ る 」(同370ぺv-・
一
・
ジ)。 こ う した 国際
情 勢 の認 識 か ら牧 口は 、「
若 し 日本 が仮 りに盟 主 とな っ て支 那 連 邦 に容 味 す る な らば少 く と も支
那 を三 っ か 四 っ に分 割 して 、南 部 、 中部 、 北 部 、 と云 ふ位 に分 け る こ とが 統 一 も容 易 で 、 又 た
利 益 で は あ るま い か」(同371ペ ー ジ)と い う見解 も示 して い る。
こ の よ うな牧 口の考 え を 正確 に 理解 す るた め には 、 当 時 の植 民政 策 の現 実 と、一 般 国 民 が 触
れ る こ との で きた植 民 政 策 に 関 す る報道 な ど に対 す る攻 究 を避 け る こ とは で き な い。 本稿 で も
一292一
創価教育研究第4号
当然 、1900年 代 前 半 の 「
植 民政 策 」 の位 置 づ け にっ い て 触 れ て お か ね ば な らな い。
とは い え 、 大 日本 帝 国 が展 開 した植 民 政 策 の 全貌 を素 描 す るだ けで も膨 大 な分 量 とな る。
本 稿 で は 、 最 低 限 の 取 っ掛 か りと して 、 次 の2種 類 の 文 献 引用 に よ って 、 これ か ら明 か さね
ば な らな い 問 題 の全 体像 を素 描 して お きた い 。
(ア)小 熊 英 二 「
『植 民政 策 学 』 と開発 援 助 」 か ら
まず 、『単一 民族 神 話 の起 源 』(1995)『 〈日本 人 〉の境 界 』(1998)『 〈民 主 〉と〈愛 国 〉』(2002年 、
いず れ も新 曜 社)な
援助
どの 近 代 日本 思 想 史 研 究 で 知 られ る小 熊 英 二 の論 文 「
『植 民 政 策 学 』 と開発
新 渡 戸 稲 造 と矢 内原 忠雄 の思 想 」(稲 賀繁 美 編 『異 文 化 理 解 の 倫 理 にむ け て 』所 収。名 古
屋 大 学 出版 会 、2000年4月30日
初版 第1刷 発 行)を 紹 介 して お こ う。
こ の論 文 は 、新 渡 戸 稲 造 と矢 内原 忠 雄 との植 民 政 策 思 想 の共 通 点/相 違 点 を弁 別 し、「
人格 高
潔 な人 物 た ち が 、 主観 的 に は善 意 で発 展 途 上 地域 の経 済 開発 の た め に努 力 して い る の に 、結 果
と して は 『植 民 地支 配 』 を行 っ て しま っ た とい うも の だ っ た とい え る 」植 民政 策 学 の歴 史 を素
描 してい る。か っ 、そ の素 描 を通 して 、戦 前 に積 み 重 ね られ た植 民 政 策 学 史 には 、 「
現 在 で も解
決 してい ない 、 国 際的 な他 者 接 触 にお け る 問題 が 、数 多 く含 まれ て い る」 こ とを示 そ う と して
お り、1900年 代 前 半 の植 民 政策 学 に 関す る平 明 なガ イ ドブ ック とも な って い る。
以 下 、小 熊 論 文 か ら、牧 口 の時 代 に使 われ た 「
植 民 」 とい う術 語 の意 味 内容 や 、そ の背 景 を
理 解 す るた め に必 要 と思 わ れ る箇所 を 、長 文 に な るが 適 宜 引用 して お く。
まず 、 「
植 民 政 策 学 」 とい う耳慣 れ ない 術 語 が 、実 は 、現 在 使 用 され て い る 「国 際 経 済 学 」や
「
国 際 開 発 」 とほ ぼ 同義 で あ る こ とが示 され る。
「
新 渡 戸 は 戦 前 の 東 京 帝 国 大 学 に お け る初 代 の植 民 政 策 学 担 当教 授 で、 矢 内 原 が そ の 後 を つ い だ の
で す が 、 戦 後 に この 講 座 は 、 『国 際 経 済 論 』 とな っ て 残 っ た の で した 。 つ ま り、 現 在 の 『国 際 経 済 学 』
は 、戦 前 の 『植 民政 策 学』 を継 承 した もの と もい え るの で す 」(172ペ ー ジ)
「
ま ず 踏 ま え て お か な け れ ば な らな い の が、 『植 民 地 』 や 『植 民』 とい う言 葉 の 意 味 です 。 前述 し
た よ うに、 現 在 で は 『植 民 地 』 とい え ば、 『現 地 の 人 を支 配 し て搾 取 して い る 場 所 』 を意 味 す る の が
普 通 で す 。/と
こ ろ が 、20世 紀 初 め ご ろ ま で の 『植 民 地 』 と い う言 葉 は 、 そ れ とは や や 異 な り、『人
間 が移 住 して 開 拓 して い る場 所 』 とい っ た 意 味 で使 わ れ て い ま した 。 も と も と 『
植 民 地』 の言 語 は 英
語 のcolonyで す か ら、 ア メ リカ の 開 拓 移 民 の よ うに 、無 人 の荒 野 に移 住 して沃 野 に 変 え て ゆ く とい う
イ メ ー ジだ っ たの で す 」
「
当 時 で は 『植 民 地』 とい え ば 『移 住 して 開拓 す る 土 地 』、 な い し 『現 地 住 民 と協 力 して開 発 を行
っ て い る 土 地 』 の こ とで 、『植 民 』 と 『農 業移 民』 の 区別 が 明確 に っ い て い ませ ん。 当然 な が ら、『植
民 』を悪 い行 為 で あ る とみ な す感 覚 も希 薄 で した。新 渡 戸 や 矢 内原 の よ うな人 格 高潔 と され る 人物 が、
国 際 経 済 開 発 に貢 献 し よ う とい う志 を も っ て、 『植 民政 策 学 』 に打 ち込 ん で い っ た背 景 の 一 つ は こ こ
に あ ります 」
そ して 、過 去 の 「
植 民政 策 学jと 現在 の 「国 際経 済学 」 とが 、 驚 くほ ど似 通 っ た 、 いや 、 全
く同 じ構 造 の 問題 を抱 えて い る こ とが 、 「
外部の力」「
人 間 の幸 福 」 「
文 化 の 押 しつ け 」等 の視 点
か ら指 摘 され て い く。
一293一
「
牧 口常 三 郎 研 究 ノー ト」 新 蒐 集 資料 の 覚 え書(そ
の2)「 地理 教 授 の根 本 的 革新 」
「さて 、 この よ うな植 民政 策 学 、 い うなれ ば 『19世紀 の 開発 経 済 学 』 で 問題 に な っ て い た トピ ック
が 、 い くっ か あ りま レた 。 これ らの トピ ック は 、 じつ は 現 在 の 途 上 国 援 助 や 開 発 問 題 で も、 ほ とん ど
共 通 して い ま す 。/開 発 とは 、 言 葉 を換 え てい え ば 、 『外 部 か ら力 を加 え て 、 人 間 の 幸 福 の た め に 、
そ の 地 を 『開 い て』 ゆ く こ と』 だ とい えま す 。 しか しそ の場 合 に まず 問 題 にな るの は、 『外 部 の力 』
とは何 か とい うこ とです 。 具 体 的 には 、 そ れ は政 府 な の か 民 問 な の か 、 今 風 にい え ば政 府 に よ るODA
か 、 多 国籍 企 業 か 、NGOか とい っ た こ とが 問 われ る こ とに な りま す 。/次 に 問 われ るの は 、 『人 間 の 幸
福 』 とは何 か 、 とい うこ とです 。 経 済 開発 と近 代 化 が進 み 、発 展途 上 国 に も ビル が 立 ち 並び 、 みん な
が ヨー ロ ッパ 風 の 住居 に 住 ん で 洋 服 を着 る よ うに なれ ば 、 そ れ が 『幸 福 』 で し ょ うか 。 もっ と現 地 の
人 の 文化 や 伝 統 に根 ざ した 『幸福 』 も あ る はず で は な い で し ょ うか。 こ れ は 、 『入 間 』 の幸 福 や 価 値
観 は 一 つ な の か 多 様 な の か 、言 葉 を換 え て い え ば人 類 は一 元 的 な 存在 な の か 、そ れ と も特 有 の 『伝統 』
や 『民族 性 』 を背 負 っ た 多 元 的 な存 在 な の か とい う問題 とも結 び つ き ます 。/さ
らに 、現 地 を 『開 発
す る 』『開 く』 と い っ て も、何 を 対 象 とす る のか も 問題 で す 。 た と え ば 、経 済 だ け を開 発 援 助 の対 象
と して、 政 治 や 『文化 』 の 問題 に は タ ッチ しな い 、つ ま り現 地 に独 裁 体制 や 男女 差 別 、教 育 な どの 問
題 が あ る よ うに み え て も 放 置 して お く、 とい う姿i勢で よ い の で し ょ うか 。 しか し、 うっ か り先 進 国 の
NGOな どが この 問 題 に 手 を つ け る と、『内政 干 渉 』 『文 化 の押 しつ け』 とい っ た批 判 が 当然 出 て き ます 」
(174ペ ー ジ)
「
現 在 の 開発 援 助 に お い て 、現 地 の政 権 が不 安 定 で あ っ た り頼 りに な らな い とき、 どこ ま で先 進 国
側 が介 入 を して よい か は 、解 決 のつ い て い ない 問 題 です 」(180ペ ー ジ)
「
総 じて 矢 内原 の場 合 は 、 新渡 戸 と共 通 す る部 分 は多 い も の の 、 上 か らの強 権 発 動 を好 ま な い の が
特 徴 です 。 こ こ に は 両者 の性 格や 志 向 の ち が い も さ る こ とな が ら、 台湾 で 実際 に原 住 者 の抵 抗 に会 い
な が ら農 業 政 策 を推 し進 め た 新渡 戸 と、 そ う した 実 務 的 な機 会 を もた ず 大 学 で の講 義 と研 究 に終 始 し
て いた 矢 内原 の 、 体験 の相 違 も反 映 して いた か も しれ ませ ん」(188ペ ー ジ)
さ らに 、新 渡 戸 と矢 内原 との植 民政 策 観 の共 通 点/相 違 点 を脇 分 け した後 、 再度 、現 在 「国
際経 済 学」 や 「
国 際 関係 論 」 と呼 ばれ て い る 学 問 が 、過 去 の 「
植 民 政策 学」 が 直面 した 問題 と
同 じ構 造 の 問題 に挑 ん でい る様 子 を よ り詳 し く指 摘 して 、論 が結 ばれ て い る。
「二人 の植 民政 策 学 者 の 思想 は 、今 か ら70年 以 上 も前 の も の です 。 しか し再 三 述 べ て き て い る よ う
に 、 そ こ に は 、今 で も解 決 して い な い 国際 関係 に お け る多 く の 問題 が、 現 在 と は異 な る言 葉 で はあ っ
て も語 られ て い る とい っ て よい で し ょ う。/た
とえ ば発 展 途 上 国 の援 助 が行 われ る とき、 ど こま で 現
地 の社 会 に干 渉す べ き で し ょ うか。 経 済 的 な部 分 だ け、 あ るい は植 林 な ど環 境 的 な部 分 だ け に介 入 を
限 定 し よ う と して も 、 た とえ ば現 地 の社 会 階層 に よ っ て分 配 が 不均 等 な揚 合 に は 、援 助 に よ って か え
っ て貧 富 の差 が 開 い て しま っ た り、複 雑 な土 地 所 有 関 係 を無 視 して植 林 を行 っ て、 反 発 を買 っ た りす
る こ と も考 え られ ます 。 そ うか とい っ て 、社 会 階 層 や 土 地 所 有 関係 そ の も の を勝 手 に 変 え よ うとす れ
ば、 先 進 国 に よる 『侵 略 的介 入 』 とみ な され かね ま せ ん 。/現 在 で は援 助 が行 われ る場 合 で も、 人 類
学 者 な どの 手 を借 りて現 地 の慣 習調 査 を行 うの が望 ま しい と され て い ます が 、 で は調 査 を行 った と し
て、 そ の結 果 は どこ ま で 尊重 す べ き で し ょ うか。 調 査 に描 か れ た現 地 の男 女 役 割 や 階 級 関 係 は、 先 進
国側 の 基 準 か らす る と 『遅 れ て い る』 と しか み え な い こ と もあ りえ る で し ょ う。 そ の とき 、 『こ うい
う慣 習 は止 め させ る べ き だ』 とか、 あ るい は 『こ のま ま に し て お く の が彼 らな りの幸 せ な のだ 』 とい
っ た議 論 が 出 た ら、 ど うす るべ き で し ょ うか。 ま た そ もそ も、 調 査 結 果 そ の も の が、 調 査 側 が 勝 手 に
描 き 出 した 表 象 か も しれ ま せ ん 」
一294一
創 価教育研究第4号
「教 育 に 関す る援 助 は 、 もっ と複 雑 だ ろ うと考 え られ ます 。現 地 が 多 民 族 国 家 で言 語 が 複数 あ る場
合 、教 育 は何 語 で行 われ るべ き で し ょ うか 。現 地 国家 の標 準 言 語 で 教 育 を行 うとすれ ば 、 それ は 少 数
民族 の 抑 圧 に手 を貸 す こ とに な らな い で しょ うか。 『近 代 的 』 と され る 技術 を 教 え る こ とだ っ て、 現
地 の在 来 技 術 や 職 業 体 系 、 文 化 や 慣 習 な どに破 壊 的 な作 用 を も た らす か も しれ ませ ん。/現 地 の政 府
が 開発 援 助 に非 協 力 的 で あ る とか、 実 務 的 に あ て にな ら な い とい っ た ケ ー ス も あ りえ る で し ょ う。 現
地 の 自主 性 を尊 重 す る の が理 想 とは い っ て も、そ うした 場 合 、 先 進 国側 が たん に経 済 的 な部 分 のみ な
らず 、 行 政 的 な領 域 にま で 介 入 す る必 要 が 語 られ るか も しれ ま せ ん 。 政 府 間援 助 よ りもNGOに よ る民
間協 力 が望 ま しい か も しれ ま せ ん が、 現 地 政 府 が ガ タ ガ タで 治 安 も衛 生 も不 安 定 、 しか も援 助 側 に非
協 力 的 な武 装 勢 力 が い る場 合 な ど、 先 進 国 か ら軍 隊 や 治 安 部 隊 を送 り込 む ほ うが簡 単 にみ えた りす る
で し ょ う。 そ の とき 、 強 権 や 武 力 の 発 動 は 、 ど こま で 肯 定 され るべ きで し ょ うか 。 そ うな る と、 そ こ
ま で して 開 発 を進 め る こ とが 本 当 に人 類 に と って 幸福 な の か とか 、 そ うは い っ て も未 開 発 状 態 を 放 置
して お い て よい の か とい っ た議 論 が 出て き て 当然 で す 」
「こ う した 問題 は 、す べ て戦 前 の植 民政 策 学者 た ち が、 思 い悩 ん で い た こ とで もあ りま した。 彼 ら
が 行 っ た他 者 との 接 触 は 、『植 民 地 支 配 』 と い う最 悪 の 結 果 を招 い て 終 わ っ た わ け で す が 、 そ れ を乗
り越 え た と思 っ て い る われ われ に して も、彼 ら以上 の解 答 を 出せ る か とい え ぱ 、疑 問 を抱 か ざ る を え
ませ ん。(中 略)/決
定 的 な解 答 を 出 せ な い と い うこ とは 、他 者 との 交 渉 の なか で不 断 に 解答 を創 造
して ゆ く可能 性 を含 む も ので もあ る の です 」(『異 文化 理 解 の倫 理 にむ け て』!72-191ペ
ー ジ)
長 文 の 引用 とな った が 、1900年 代 前 半 に使 われ て い た 「
植 民 」及 び 「
植 民 地 」 とい う術 語 と、
2005年 現 在 に生 き る私 た ちが 使 う 「
植民」及 び 「
植 民 地 」 とい う術 語 との意 味 内 容 の 違 い を認
識 す る、 一 っ の よす が とな るの で は な か ろ うか。
さ らに小 熊 は、 矢 内 原 忠 雄 の 「
植 民 に よ りて、 原 住 者 は 植 民 者 の 搾 取 に対 抗 す べ き 実 力 を酒
養 せ しめ られ る」(『矢 内 原 全 集 』 第1巻)と
の言葉 を援 用 し、 「
『差 別 撤廃 』 とか 『独 立 』 とい
った 思 想 、 そ して 独 立 を成 し とげ る経 済 や 政 治 の 実力 を得 る こ とも、植 民 が な け れ ば あ りえな
か った 」(187ペ ー ジ)現 実 を指 摘 して い る。
矢 内原 が指 摘 した 「
原住者 」 と 「
植 民者 」 との 関係 性 が 生 み 出す 矛 盾 ・葛 藤iは、 開 国 以 降 の
明 治 期 日本 が 煩 悶 し乗 り越 え よ うと した 課 題 で あ っ た。 ま た 、21世 紀 の 人類 社 会 が直 面 して い
る 「グ ローバ ライゼ ー シ ョン」 を め ぐる矛 盾 そ の もの で もあ る。
「近代 化 」 の暴 力 か ら 自国土 の安 全 ・人 々 の生 存 を守 る た め に は 、 自 らも ま た 「
近 代 化 」せ
ざ るを得 な い。 しか しそ の 時 、そ の 国 土 に本 来属 して い た はず の 、 「
民 族 性 」や 「
アイデ ンティ
テ ィー 」 と称 され る 「か け が え の な さ」 が 、近 代 化 の受 容 過 程 そ の も の に よ って 壊 され 、失 わ
れ て しま う
こ の 、近 代 化 が 内 包 せ ざる を 得 な い 、"人類 の 宿命"と す ら言 え る難 問 を解 決 す
る た め の処 方 箋 は 、未 だ提 出 され てい な い。 新 渡 戸 や 矢 内原 な どに代 表 され る植 民 政 策 学 者 た
ち が苦 悶 した 困難 は、21世 紀 にお い て 「
先 進 国」 と 「
途 上 国 」 とが 接 触 す る と き、 しか も互 い
に 「
善 意 」 を以 て 接 触す る とき に さえ 、絶 えず 引 き起 こ され て い るの で あ る。
(イ)竹 中労 『聞 書 ・庶 民列 伝
牧 口常 三 郎 とそ の 時 代 』 か ら
も う1つ の 文 献 は 、『ザ ・ビー トル ズ レポ ー ト』『美 空 ひ ば り』『琉 球 共和 国
とせ よ!』 『聞 書 ア ラカ ンー 代
残 した ジ ャー ナ リス ト ・竹 中 労 の 『聞 書 ・庶 民列 伝 』 第3巻
発 行 。 月 刊誌 『潮 』1984年2月
汝 、花 を武器
鞍 馬 天 狗 の お じ さん は 』な ど多 くのル ポル ター ジ ュ の傑 作 を
号 ∼1985年3月
号 に連 載)。
一295一
で あ る(潮 出版 社 、 昭和61年5月
「
牧 口常 三郎 研 究 ノー ト」 新蒐 集 資 料 の 覚 え書(そ の2)「 地 理 教授 の根 本 的革 新 」
こ こ で 引用 す る竹 中 の文 章 は 、植 民思 想 につ い て の考 察 の み で は な く、牧 口の行 動 と思想 と
を 「
賎 民」 の視 点 か ら問 い か け る文 体 に、独 自の 特色 が あ る。
「
『地 理 教授 の 方 法 及 内容 の研 究 』、 第 八 篇 に集 約 され る軍 国 主 義 ・対 外 膨 張 主 義 ・侵 掠 の思 想 を 、
戦 時 下 愛 国 少年 の 心 情 に即 して 、私 は こ こで 弁護 し よ うとい う衝 動 に 駆 られ る。 昭 和 五
十
三 年(一
九
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へ
七 八)、[当 時 の 時代 背 景 は 、今 日 と著 しい 相 違 が あ り、そ うした 状 況 変 化 を考 慮 し]、第 八 篇 を割 愛 し
へ
て 本 書 は 聖 教 新 聞社 か ら復 刻 上 梓 され てい る。/や む を得 ぬ 処 置 、 で あ ろ うか?私
は 決 し て、 そ う
は 考 え な い 。 牧 口常 三郎 は む し ろ赤 裸 々 に、 一切 の矛 盾 を包 摂 して 語 られ るべ き な の で あ る 。 戦 後 的
平 和 主 義 ・非 戦 論 、牧 口 自身 の 言 葉 を か りれ ば 、 「汎 愛 虚 妄 な る」 マ イ ホ ー ム 国 際 主 義(家
内安全 ・
天 下 太 平)。 嵐 見 鶏 あ 魂 座 ふ ら明 治&大 正 を眺 め る とき 、 歴 史 は 逆 立 ちす る。 そ の 人 とそ の 時 代 を読
み ちが え、 矛 盾 を超 克 統 一 して 国 家 権 力 へ の抵 抗 に彼 が蛯 れ た 、信 心 の 白道(ジ
ン ・テ ーゼ)を 見 失
う」
「な る ほ ど、『地 理 教 授 の方 法 及 内容 の研 究 』 第 八 篇 に は 、[今 日的 尺度 で は 、 は な は だ不 穏 当 な 帝
国 主 義 的言 辞 と解 さ な く て は な らな い](第
三 文 明社 版 全 集 解 説 、 中川 浩 一)主
張 が 、 鼻 白む 調 子 で
展 開 され て い る。 い わ く、満 州 ・東 蒙 古 ・山東 省 ・露 領 亜 細 亜 ・南 洋 諸 島 は 、[吾 々 大 和民 族 の準 自
国 領 土 と して 発展 し得 る]。 「
花 練 の海 」 は 太 平洋 に 、 さ らに 内 陸 に及 ん で 、 日本 帝 国 は[東 亜 の盟 主
とな り]、他 民族 を指 導 しな くて は な らな い 。[互 に生 存 し ・活 動 し ・淘 汰 し ・進 化 し ・以 て 全 体 の 進
歩 繁 栄 を]一 個 の 超 有機 体 と して 獲 得 す る。/究 極 、 目 ざす べ き は 和 衷 の 世 界 、 心 の な ごみ あ う汎 ア
ジ ア&環 太 平 洋 共 同 体 で あ る。 そ れ は 、 大 東 亜 共 栄 圏 を先 駆 け る 展望 で あ り、 「日帝 」 のイ デ オ ロ ギ
ー と言 わ ね ば な るま い 。」
「しか し相 対 的 な 判 断 を欠 い て 、 単 に 牧 口常 三 郎 の"恥 部"、 侵 掠 的 な 言 辞 を お お い か くす こ と に
意 味 は な い 。 ま た 、[こ う した 見 方 、 考 え方 は牧 口 常 三 郎 に 固 有 の もの で は な く、 そ の 当 時 に お け る
日本 人 の 平 均 的 な 発 想 に の っ とっ て い る と見 な けれ ば な らな い だ ろ う][そ の意 味 で は 、 牧 口 常三 郎
も人 の 子 で あ り、 さ らに は 時代 の 子 で あ った 結 果 と考 え な け れ ば な らな い](前
出 ・解 説)/と
言 う
解 釈 も、 戦 前 の 日本 を絶 対 悪 と規 定 す る紋 切 型 を 出 で ず 、 牧 口常 三 郎 の"転 向"、 思 想 的 屈 折 を とき
あか す 強 い 説 得 力 を持 た な い 。 こ こで 、 看過 して は な らぬ の は 、彼 が こ の 時期 に 下 町 ス ラム窮 民街 の
教 師 で あ り、 ま ず しい 子 供 らの 未 来 を思 い 悩 ん で い た こ とで あ る。 父 母 出 生 の 肉 身 、 衆 生 に 病 む 。 国
内 に彼 らの 希 望 と幸 福 は な く、 下 層 プ ロ レ タ リア ー トと して 、社 会 の 奈落 に切 り棄 て られ る 宿 命 を 負
っ て いた 。[準 自国領 土 と して 発 展 し得 る]新 天 地 に、 福 運 が約 束 され る とす れ ば、 国家 権 力 の レア
ル ・ポ リテ ィー ク と軌 を一 に し よ うと よ い で は ない か?/人
々 は、 切 実 にま ず しか った 。 第 一 次 世 界
大戦 の庶 民世 相 と、 『地 理 教 授 の方 法 及 内 容 の研 究 』 に就 い て は 、 第 四 部 大 正 篇 で再 論 しよ う。 浪 々
十年 、金 な き に 因 して、 幸 徳 秋 水 ・平 民社 に足 を踏 み 入 れ 、 と うぜ ん 非 戦 論 に共 鳴 した 牧 口は"冬 の
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時 代"、 主 義 者 た ち と挟 を分 っ て 郷 土 会 に くわわ り、彼 の ふ る さ と ・教 育 の現 揚 へ と戻 って ゆ く」
「
ふ る さ との/か の 路傍(み
ち ば た)の す て石 よ/今 年 も 草 に埋(う ず)も れ し らむ(啄 木)/…
… 明 治 四 十 三 年 八 月 、牧 口常 三 郎 は 文 部省 図 書 局 属 に任 官 。 大 正 二 年 四 月 、 東京 市 東 盛 小学 校長 とな
るま で の お よそ 二 年 半 を 、 中 等 教 科 書 検 定 に従 事 した 。 牧 口 に とっ て そ れ は 、 労 多 く して少 し も面 白
くな い仕 事 で あっ た ら しい 。 よ うす る に、 教 科 書 版 元 の 営 業 方 針 が 保 守 的 で[独 創 の 出 版 を な し得 な
い][平 凡 で も 間違 ひ の な い と云 ふ]教 科 書 ばか りだ と、 『地 理 教 授 の 方 法 及 内 容 の 研 究 』 で 不 満 を 述
べ て い る。/お ま け に、 上 司 で あ る喜 田貞 吉(文 学 博 士 ・図 書 編 修 官)と そ りが 合 わ な い。 喜 田は 牧
口 と同年 、 の ち に 日本 古 代 史 の権 威 で あ る。 頑 固 に 自 己 中心 と言 うよ り歴 史 中心 の 学 者 で 、 地 理 は 歴
史 の補 助 課 目で あ る と称 し て揮 らな か っ た。 牧 口に してみ れ ば、 とん で も ない 暴 論 で あ る。 快 々 と し
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創 価教育研究第4号
て愉 しま ず 、 憤 漁 や る 方 な い 心 境 、 『地 理 教授 の 方 法 及 内容 の研 究 』 随 所 にみ うけ られ る。/関
心は
宮仕 え を離 れ て 、 柳 田 国 男 ら と結 成 した 「
郷 土 会 」、 山村 の 実 地 踏 査 へ む か う。 会 の 中心 で あ る新 渡
戸稲 造 は、 第 二 部 で く わ し く述 べ た よ うに 、 牧 口に とっ て の 先 達 で あ る。 台 湾総 督府 技 師 で あ った こ
ろ 、『人 生 地 理 学』 を新 渡 戸 は 読 ん で激 賞 の手 紙 を贈 り、 あ らた め て の 出会 い とな る」
「
柳 田国 男 との 交 友 は 、「あ る評 論 家 を介 して」 と言 われ て い る(M42)
。想 うに 二 つ の機縁 が あ る 、
明治 四十 三 年 六 月 、 柳 田 は法 制 局 参 事 官 兼 内 閣 書記 宮記 録 課 長 を拝 命 した 。 これ は 、 中 央 官 庁 図 書 館
長 と言 うべ き職 掌 で あ る。 多 く の若 い学 究 が お とず れ て 、史&資 料 を調 べ 学 ん で い る。 石 川 啄木 の親
友 ・金 田一 京 助 も、 そ の一 人 で あ った 。 四十 二年 で は な くそ の 翌年 、牧 口常 三郎 は紹 介 を得 て 、柳 田
を尋 ね た の で は な い か?先
立 っ 三 十 九 年 、 『大 日本 地 誌 』 刊 行 が 開 始 され 、 田 山花 袋 が 編 纂 メ ンバ
ー にな って い る。 柳 田 と 田 山 の関 係 は、 す で に記 述 した 通 り。 『人 生地 理 学』 の著 者 と、『遠 野物 語 』
の 作 者 との 遡 遁 を、 そ こ に置 け ば よ り自然 で あ る。/ち
なみ に これ ま で 、牧 口常 三 郎 は柳 田 国男 に 兄
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事 した と言 うの が 、"定 説"と
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され て い る 。 そ れ は 、 後 年 の 巨 人 伝 説 。 柳 田 のイ メエ ジ の 大 き さに 、
幻 惑 され た 錯 覚 で あ る。『人 生 地 理 学 』は 四十 二年 増 補 十 版 を重 ね て 、経 済&社 会 的 地 位 は と もあれ 、
牧 口の 名 は そ の 道 を 志 す 者 の っ と に知 る と ころ で あ った 。 柳 田 の処 女 出 版 、 『後 狩 詞 記(の
ちの か り
こ と ば のき)』 自費 わず か に 五 十 部 。 『遠 野 物 語 』 も 限定 三 百 五 十 部 、 「
郷 土 会 」 結 成 時 点 で 牧 口 は柳
田の 前 を 歩 い て い た 。/新 渡 戸稲 造 は 、 「
郷 土 会 」 メ ンバ ー を厳 選 した 。 石 黒 忠 篤(農 林 次 官)、 小 野
武 夫(農 学 博 士)、 『目本 民 俗 学 辞 典 』 『売 笑 三 千 年 史 』 等 を の ち に 著 した 中 山太 郎 、 尾 佐 竹猛(法
博 士)、 草 野 真 助(理
学博 士)な
学
ど な ど、鐸 々 た る 顔 ぶ れ 二 十 人 前 後 。 一 文 部省 属 で あ り小 学 校長 に
す ぎ な い 牧 口常 三 郎 が 、彼 らに伍 して 会 に重 き をな した 理 由 は名 著 『人 生 地 理 学 』、 こ の一 巻 に よ る
と言 って よい 」
「明治 四十 四 年 、農 商務 省 山林 局 か らの委 嘱 を うけ て 、牧 口は 九 州筑 後 川 源 流 の津 江 村(大 分 県)、
小 国村 く
熊 本 県)に
お もむ き 、 山林 実 態 調 査 を行 な っ た。 先 立 っ て 甲 州道 志 七 里(山 梨 県 道 志 村)へ
柳 田 国 男 と同 行 、 「
猿 も足 を く じ く」 と地 元 で言 われ る 険 路 を 踏 査 し、 稗 の 団子 を 常食 とす る僻 地 の
貧 苦 、学 童 教 育 の 困 難 を見 る。 大 正 元 年 、 『教 授 の統 合 中 心 と して の 郷 土 科 研 究 』 とい う大 部 の第 二
著 作 に牧 口 の"ふ る さ と考"、 『人 生 地 理 学 』 以来 の郷 土 中心 主 義 は結 実 し、 具 体 的 なカ リキ ュ ラ ム を
完 成 した」
「こ こで は 、 彼 が 再 び 教 育 の 現 揚 に戻 る決 意 を触 発 した の は、 山村 のま ず しき 人 々 、 子 供 た ち の あ
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りの ま ま の 姿 で あ っ た とい うこ と。 そ して 、超 国 家 主 義 へ の"転
向"、 海 外 に窮 民 の ユ トピ ア=和 衷
の世 界 をゆ めみ る基 点 もま た 、 衆 生 現 身 の悲 苦 に慧 依 した こ と を押 さ えて お こ う。 ふ る さ との か の 路
傍 のす て石 よ 、牧 口常 三 郎 は 人 間 の幸 福 を 土着 に求 め な が ら(求 め る が ゆ え に)、 あ え て ふ る さ と を
郷 土 を棄 て よ と言 うので あ る。 彼 自身 、[も と これ 荒 浜 の 一 寒 民 、 漂 浪 半 生 を](『 人 生 地 理 学 』 緒 論)
幼 少 か ら宿 業 に負 っ て 、 北海 道 に渡 っ た。/時
代 はか な らず しも 、人 の 思 想 を決 定 しな い。 『地 理 教
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授 の 方 法及 内 容 の 研 究 』 に露 出 した 国 家 主 義 は、 す な わ ち原 体 験 へ の 回 帰 で あ る。 彼 は 北海 道 に還 っ
へ
た 、表 裏 一 体 に そ れ は 教 育 者 と して の 再 出発 を意 味 す る 。 民 衆 を 階 級 とい う群体 と して観 念 的 に捉 え
るの で は な く、 個 別 人 間 の哀 しみ と よ ろ こび に深 くわ け 入 る こ と。 不 惑 の 齢 を む か え て 、 牧 口は 輪 廻
の扉 を ひ らく」(『聞 書 ・庶 民列 伝 』3巻 、228-233ペ ー ジ 。 引 用文 中 の傍 点 は原 文)
筆 者 は 竹 中 の 筆 致 に 共感 す る が 、 共感 を表 現 す るた め に は 、彼 一 流 の実 存 的 な表 現 を支 えた
「
論 理 」 を探 らね ば な らない と考 え る。
と もあ れ 、 牧 口常 三 郎 の 地理 教 授 思想 を解 明 して い く際 、 現在 た だ い ま 地球 的規 模 で 生 じて
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「牧 口常三 郎 研 究 ノ ー ト」新 蒐 集 資 料 の 覚 え書(そ
の2)「 地 理教 授 の根 本 的 革 新 」
い る問 題(グ ロー バ ライ ゼ ー シ ョン の矛 盾)や 、世 代 間 断 絶 に よ る術 語認 識 の 変 遷(「植 民 」「
植
民 地 」)、個別 分 野(牧
口常 三 郎 の地 理 思 想)の 研 究 段 階 な ど、 乗 り越 え るべ き"壁"を
認識 し
て お か ね ば な らな い。
本 稿 で は 如 上 の 点 を指 摘 す る に と どめ 、牧 口の植 民 観 、 植 民 政 策 観 へ の具 体 的 な攻 究 は稿 を
改 めた い 。
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『教 育 界 』 第15巻 第12号
地 理 教 授 の 根 本 的 革 新*
「
人 生 地 理 學」著 者
牧 口常 三 郎
今 目の 地理 教授 は 、誠 に い か マは しい もの で 、 自分 の 過 去 を追想 して 見 る と、小 學 校 で 習 っ
た 地理 も、又 、中學 校 や 師 範 學校 で 教 はつ た 地理 も、無 味 乾 燥 、た 寸 も う一本 調 子 千篇 一 律 で 、
然 か も其 の 問 に何 等 大 した程 度 の 差 もな く、 亦 新 ら しき 意 義 を見 出 させ られ た こ とな く、 嚴 密
に 云 へ ば 誠 に 馬 鹿 ら しき こ との 限 りで あ つ た ので あ りま す 。 然 る に多 くの 生 徒 は別 に これ に困
っ た や うな 様 子 もな く、 教 授 を 受 け て を るが 、 これ は一 見 不 可 思 議 のや うで あ るが 、 實 は何 の
こ とは な い 、前 に 二遍 も三 遍 も習 っ た こ とを 、綺 麗 サ ツパ リ と忘 れ て を るが 爲 めな の で あ ります 。
一 例 を畢 げれ ば 、私 の 北 海 道 時 代 の 地 理 書 を今 日開い て 見 る と、其 の 中 には ヤ レ岡 山 の後 樂 園
だ のヤ レ どこ そ こ の何 と云 ふ 所 だ の 、 言 っ た 風 な挿 蓋 が 、澤 山掲 げ られ て を る。 或 は それ も よ
い こ とか も知 れ ませ んが 、 さて 併 し一 歩 退 い て考 へ て見 る と、今 日の吾 々 に は、 全 農 ど う云 ふ
氣 持 ち で コ ン ナ材 料 ば か りが 力 瘤 を入 れ て掲 載 され た も の か 、 トン ト其 の意 義 を獲 見 す る に 苦
まず に は を られ な い の で あ りま す 。 ま さ か 圖 書 の 手本 の爲 め で も あ ります ま い 。 そ れ と も大 人
に なっ て か ら岡 山見 物 に行 く時 の準 備 の爲 め か?そ れ と して は除 りに時 代 の要 求 上 呑 氣 過 ぎ る
こ とで あ る し、亦 た大 人 に なっ て か ら岡 山見 物 に往 く人 は ドレ位 あ る か分 らな い が 、 マ サ カ さ
う澤 山 は あ る ま い。 して 見 る と斯 様 な挿 書 や 其 の他 、 山 の こ とや海 の こ となぞ ば か りを 以 て 、
重 要 な 内容 と され て を る 地理 書 は 、今 日今 時 の 時 勢 か ら見 て 、 誠 に 實 生活 と隔 りの あ る こ と、
實 に 此 の 上 な い もの で あ ります 。 そ こで 自分 は 常 々 これ に 封 して何 とか な らぬ で あ ら うか と、
絶 えず 頭 を悩 ま して 來 た の で あ りま す 。
然 か も これ は 決 して 小 學校 ば か りの 問 題 で は あ りま せ ん 。 中學校 の 地理 科 も、 師範 學 校 の 地
理 科 も、 高 等 女 學 校 の 地 理 科 も、 皆 さ うで あ りま す 。 と云 ふ の は、 これ に使 ふ所 の教 科 書 が 、
文 部 省 の圖 書 検 定 室 を通 過 す る際 に、 検 定 者 の頭 の規 準 に依 つ て加 朱 せ られ 、 著 作者 の 考 案 な
り、 新 しき試 み な りが 抜 き に され て 返 つ て 來 、 そ して そ れ が 検 定 濟 み の 本 と して使 は れ るか ら
で あ りま す 。 即 ち 、何 も教 へ な けれ ば な らぬ 、彼 も授 け な けれ ば な らぬ と、材 料 ば か りが 多 く
な り、二 十 年 一 目の如 く、教 科 書 に何 等 の進 歩 もな く、攣 化 も な く、今 日に 至 っ て を る の で あ
ります 。 故 に 私 は 、今 日の小 中學 校 の教 科 書 は 、全 部 これ を焼 き捨 て 》、 別 に新 ら しい も の を
作 っ て見 た い と、始 終 今 日ま で さ う思 つ て 來 た の で あ ります 。
然 らば今 後 の 地理 教 授 は ど うあ らね ば な らぬ か。 地理 の教 科 書 は 、 どん な鮎 に重 き を置 い て
編 纂 され ね ば な らぬ か と云 ふ に 、私 の考 で は 、 今 日行 は れ て を る もの とは 、甚 し く違 っ て を る
の で あ ります 。 即 ち 、 今 日の 地理 教 授 は 、 教 科 書 本位 で 、 地 圖 は輩 に 附 圖 と して 取 扱 は れ て を
るの で あ りま す が 、 私 か ら見れ ば 、恐 ら く これ は前 後 本 末 を顛
ま す 。 しか の み な らず從 來 の 地理 教材 は 、 大 攣 自然 的 方 面 の材 料 にば か りに重 き を置 い て 、 却
て 人 事 的 方 面 の 人 間 生活 に直 接 關 係 あ る部 分 を ば閑 却 して を りま す。 然 程 名 高 く もな い 山 の高
資料凡例
旧字 体 に つ い て は、 な るべ く原 文 の香 りを残 した い と い う観 点 か ら、2004年 段 階 でJISコ ー ドに登 録 さ
れ て い る もの に つ い て は 、 極 力 、 旧字 体 を用 い た。 登録 され て い な い もの に つ い て の み 、新 字 体 に変 換
した。
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「
牧 口常 三 郎研 究 ノー ト」 新蒐 集 資 料 の覚 え 書(そ の2)「 地 理 教 授 の根 本 的 革 新 」
さや 長 さを血 眼 に なっ て記 憶 させ や う と しっ Σあ る に も拘 らず 、或 は世 界 の大 勢 を教 授 す る こ
とを忽 に した り、或 は殖 産 興 業 即 ち経 濟 的 方 面 の思 想 を養 成 す る こ とを忘 れ た り、 海 外 獲 展 の
思 想 を酒 養 す る こ とを怠 っ た り、明 確 な 國産 観 念 を有 た しむ る こ とに努 力 しなか っ た り して を
る の が 、實 に今 目の地 理 教 授 の 實 状 で あ ります 。 然 しな ら私 は 、今 後 の地 理 教 授 は 、 斯 様 な も
ので あっ て は な らぬ こ とを確 く信 じて を る の で あ ります 。 即 ち 、 自然 地 理 教 材 本位 か ら人 文 地
理 教 材 本 位 に進 み 、教 科 書 本位 の 教 授 か ら地 圖 本 位 の教 授 に一 樽 しな けれ ば な らぬ と固 く信 じ
て 疑 ひ ま せ ぬ 。 此 に地 圖 本位 の 教 授 と云 ふ の は、 元 來 地 圖 は 、地 球 表 面 の 自然 的 人 事 的 事 物 を
一 葉 の紙 上 に縮 爲 し表 現 せ る もの で あ るか ら
、 これ を一 目 して 、 これ らの 實有 を 知悉 せ しむ べ
く、 地 圖 を徹 底 的 に理 解 せ しむ るが 地 理 教 授 の眞 義 で あ りま す れ ば 、彼 の教 科 書 の如 き は 、 此
の 地 圖 を十 分 に理 解 せ しむ る爲 め の 方 便 と して 、前 者 を第 一 義 と し後 者 を第 二 義 と して 教授 し
や う と試 む るの 謂 で あ ります 。 随 て 地理 教授 に於 け る地 圖 の 償 値 は從 前 に比 して敷 層 倍 の 意義
を認 め らる \繹 で あ りま す。 又 、斯 様 な 見 地 か らす る と、 教則 に示 され た地 理 教 授 の要 旨な ど
も、 甚 だ し く不 完 全 な もの が あ る で は な い か と思 は れ る の で あ りま す。 要 す る に今 日は 自然 地
理 時 代 で は な くて 、 實 に人 文 地 理 の 時 代 に進 ん で ゐ るの で あ ります 。
次 に 地理 教 授 の 實 際 に就 い て も 、外 國 地理 教授 の徹 底 等 は極 め て必 要 な こ とで あ りま す 。 唯
だ 私 は政 治 的 匪 劃 に依 て 、地 理 を 日本 地 理 ・外 國 地理 と匿別 す る こ とは 、如 何 な もの か と疑 つ
て を る者 で あ ります 。 今 日の時 勢 か ら見 て 、外 國 地理 、就 中政 治 経 濟 殖 民 等 に關 す る人 文 地理
的材 料 を以 て見 童 の地 理 思 想 を豊 富 な ら しむ る こ とは 、極 々大 事 な こ と 》考 へ られ るの で あ り
ます 。 弦 に私 の 内 國地 理 と外 國 地 理 とを 匪別 す る こ との或 は ど うか と云 ふ の は 、彼 の 英 國 の如
く、世 界 の至 る所 に廣 大 な る殖 民 地 を有 つ て を る國 に見 る が如 く、 内國 とか 外 國 とか 云 ふ 政 治
的 匠別 は 、殆 ど無 意 義 に近 い も のが あ るか ら で あ りま す 。 故 に英 國 の如 き は 、 内 國 地 理 と殖 民
地 理 とに分 て を る と云 ふ こ とで あ りま す 。 これ と同様 我 が 國 に在 て も 目本 民族 の行 つ て 活 動 し
て を る所 は 、 それ だ け國 民 活 動 の舞 毫 が 接 が っ て を る ので あ るか ら、 此所 か ら此所 ま で は 日本
地 理 だ か ら詳 し く、又 これ 以外 は 外 國 の 地 理 だ か ら簡 略 で もいyと 云 ふや うな蕾 観 念 に 囚 はれ
ず 、 宜 し く 日本 地 理 の 一 部 と して 、其 の範 園 を接 張 して 、 詳密 に教 授 す る必 要 が あ ら う と思 ふ
ので あ りま す 。 此 の 意 義 に於 て 、 自分 は今 後 の 地理 科 に於 け る 日本 地理 教 材 範 園 の鑛 張 論 を大
い に主 張す る もの で あ ります 。
實 際 これ を今 日の 例 に就 い て見 ま して も、内地 の 山問 の小 都 會 な どを詳細 に教授 す る よ りか 、
支 那 の あ る地 方 で あ る とか 、満 洲 の或 る都 會 で あ る とか 、ハ ワイ諸 島 で あ る とか 、 其 の他 ア メ
リカ東 海 岸 の 或 る都 會 だ とか云 ふ 所 は 、これ を念 入 れ て 教 授 して 置 く必 要 が あ る の で あ りま す。
然 るに從 來 の 地理 は 、 これ らの 鮎 に就 い て 、 甚 だ粗 雑 な嫌 ひ が あっ た の で あ ります 。
四
択 て 此 に一 っ の 問題 が起 りま す 。そ れ は 地 理 教授 の 時 間 で あ りま す。全 農 今 の 教 授 時 敷 即 ち、
歴 史 と共 に三 時 間 を當 て て あ る ので あ ります が 、 これ は吾 が 國 の面 積 が 二 萬 方 里 で あ つ た 時 代
の配 當 時 間 で 、殆 ど今 日の 四萬 方 里 の 面 積 か ら見 る と半 分 しか ない 時 の 教授 時 間 な の で あ りま
す 。 又 、貿 易 額 の如 き も 、昔 日の 比 で は あ りませ ん。 斯 くの如 く、 國 家 が有 らゆ る黒占に 於 て 膨
脹 し教 材 が 増 して を る に も拘 らず
教 授 時 間 だ け は依 然 と して 元 の ま ンに な っ て を りま す 。 所
詮 、今 目の地 理 教 授 は、 授 くべ き新 材 料 が 後 か ら一
と績 出 して 來 るの に僅 か に毎 週 一 時 間 半
と云 ふ 從 前 通 りの時 間 を以 て あ て が は れ て を るの で あ るか ら、 間 口だ け 廣 くて 上た べ り した 教
授 に な る は 已む を得 ぬ こ とか と思 は れ ま す 。 今 日の 地 理 教 授 の数 果 の あ が らぬ の も 、誠 に 故 あ
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創 価教育研究第4号
る こ と ㌻云 は な け れ ば な りま せ ん。 これ 至 急 何 とか 解 決 を な さ ね ば な らぬ 問題 で あ ら う と思 は
れます。
地 理 教授 の 第 一 手 段 と して 重 要 な の は 、郷 土 科 で あ る と思 ひ ます 。然 る に 、此 の郷 土 地 理 は 、
随 分 喧 ま し く唱 へ られ た に も拘 らず 、今 だ に不 徹 底 な状 態 に あ る は 、實 に遺 憾 な こ と で あ りま
す 。 幸 ひ 東 京 市 の 如 き は 、二 三 年 前 既 に郷 土 科 細 目を編 纂 し、大 攣 参 考 に なっ て を る が 、 併 し
ま だ 既 に これ を如 何 に地 理 科 の 中 に統 合 す る か 、換 言 せ ば 、此 の郷 土科 細 目に依 て郷 土 地理 を
課 す る こ と \な る と、地 理 科 の教 材 が大 攣 増 加 して 、い と 瑚 寺間 に不 足 を來 たす こ と 」な る繹
で あ るが 、 これ らの時 間不 足 と教 材 過 剰 とを 如何 にす る か。 そ れ らの黒占が ま だ研 究問 題 と して
残 され て を る ので あ ります 。 勿 論 自分 は 、 此 の郷 土科 細 目、編 制 當 時 、 次 の鮎 に就 い て 疑 問 を
もっ て をっ た の で あ る が 、其 の時 は 當 然 將 來 地 理 科 の 時 間 に關 す る 問題 が起 るべ き を豫 想 して 、
黙 っ て ゐた や うな次 第 で あ る が 、 此 の 時 間 の 問題 が決 定 されず に ゐ る間 は 、折 角 の郷 土科 細 目
も其 の利 用 の敷 果 甚 だ薄 い こ と 墨思 はれ ま す 。
五
総 じて何 れ の科 目で も郷 土 に 立脚 し、 最 後 に又郷 土 に蹄 着す る こ とは 、 極 め て 必要 な こ とで
あ る が 、 中 で も地理 科 に 於 て は 大切 で あ る と思 ひ ます 。 何 とな れ ば 地 理 科 は 、 基礎 的 観 念 薄 弱
な れ ば 、到 底 其 の 教授 の 結 果 を確 實 な ら しむ る こ と能 は ざ る もの だ か らで あ ります 。 或 る時 私
は 、尋 常 五年 の 一 見 童 に高 知 縣 の 産 物 を問 ひ し時 、 其 の見 童 は 土 佐 紙 、 鰹 節 、 鯨 等 と敷 へ ま し
た 。 私 は 、 そ れ な らば 鰹 節 は 其 の 他 の 所 に も産 ず るの か 、 乃 至 は高 知 縣 にば か り産す るの か と
質 した 所 が 、 見 童 の 答 へ に は、 土 佐 潜 か ら捕 れ るの だ か ら高 知 縣 に のみ 産 す るの です 。 と答 へ
ま した 。又 米 は 岐 阜 に産 す る と言 へ ば、 良米 を産 す る とか 、 多 く産 す る とい ふ 意 味 で あ るが 、
見 童 は 、 其 の 米 の 副 詞 や 形 容 詞 を抜 き に して 考 へ て を る。 これ らは ホ ン の一 例 に過 ぎ ぬ こ とで
あ りま せ うが 、 斯 様 な誤 っ た考 を有 っ に至 つ た の は、 地 理 の基 礎 的 観 念 が 薄 弱 だ か らで あ りま
す 。尤 も教 科 書 の 文 章 の 記 述 に も罪 が あ るで あ りませ う。故 に これ らの誤 つ た 理 解 を避 くる爲 め
に は、 豫 め郷 土 地 理 教 授 の 際 に、確 な 観念 を與 へ て置 か な けれ ば な らん ので あ ります 。
六
以 上 二 三 秩 序 も な く申 上 げ ま した が 、要 す
く
ママラ
も に今 目の地 理 科 拉 に其 の教 授 は 、根 本 的 に改
造 す る必 要 が あ る と思 ひ ま す 。 然 ら ざれ ば 地理 科 は 盆 々 實 人 生 と 遽脱蓉 っ て 、 重 大 な 教 育 的 、
使 命 を有 て を る に も拘 らず 、何 ら活 知 識 を人 間 生活 に提 供 せ ぬ こ と ンな り、愈 々盆 々 ツ マ ラヌ
もの とな り了 す る か らで あ ります 。 それ に就 い て 、 吾等 教 育實 際 家 た る もの は 、 此 の地 理 科 の
改 造 を地 理 學 者 に の み委 せ ず 、進 ん で諸 種 の 疑 問 な り研 究 な り を獲 表 し、 雨 々相 侯 て 完 全 な も
の 、即 ち時 代 の要 求 に適 合 した も の を 作 る 心掛 が必 要 で は な い か と思 ふ の で あ ります 。(青年 教
育革 新 會 に於 け る演 説 要 旨)
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