備前。備 申の古代陶硯 - 円 面 現を中心に一 松尾 1 洋平 はじめに 7 世紀以降、 古代寺院の建立や 律令国家の形成に 象徴されるような 社会の変革と 軸を一にし て 、 文房具は出現し 展開してゆく。 大陸に起源をもっ 硯は、 当時生産された 須恵器の中でも 硯 面において墨を 擦るという明瞭な 機能をもち、 専用器として 位置付けられる。 古代において「す み すり 」と称された 所以であ るⅢ。 主題に掲げた 古代陶硯は形状により 日面 硯 、 円形 硯 、 楕円硯などに 分類されるが (竹岡山 県においても 出土事例の豊富な 円 面視に ついて若干の 整理を試みたいと 思う。 以下整理するに あ たり、 古代山陽道が 岡山県南部を 横断するように 地形的な連続があ り、 しかも豊富な 事例が 知られる備双、 備中を対象として 取り上げ、 両国の様相を 明らかにしていきたい。 7 世紀後半以降、 律令国家の形成と 相 侯り 、 行政実務を行う 上で文書主義が 貫徹されたこと は 言うまでもない。 文字を解し駆使する 人々の存在は、 国家とその社会を 底辺より支えていく 上で重要な役割を 担ったとはいえ、 実際に使用できる 階層は官人、 僧侶、 富裕層などごく 限ら れた人々であ ったと考えられている。 文字を駆使する 上で文房具の 存在は必要不可欠で、 10世紀に編纂された ア 延喜式』によれば 文房具を規定した 記載が知られている。 地方の国々からは 年料 別貢雑 として 筆 ・ ミ ・硯が貢納 されているが、 その中に筆は「備双国百 管 」、 「美作 国 六十管」を納めていたことが 確認できる。 また主計 式 によれば誠国から 納められる品目に 、 硯と 考えられる「 狽膝 研二ロ」の記載があ り、 備前からも「 喉膝研 十八口」が 貢 上されているのであ る③。 備前、 美作の事例を 挙げるまで もなく、 諸国より納められる 文房具は都の 文書行政を物理的に 支えていたことが 読みとれるの であ る。 11 研究 史 古代陶硯の考古学的研究は、 昭和 19年に刊行された 内藤政 恒 氏の ア 本邦 吉硯考コ による先駆 的な業績があ り、 以後の陶硯研究に 多大な影響を 与えた㈲。 本書の中には「美作国分寺古墳」 出土とされる 固定規 が 掲載され [ 第 2 図 、 県内の陶硯が 初めて確認された 事が特筆される。 コ 昭和 21 年には晴美和 一 氏により「大仙の 窯跡 5 が刊行され、 昌久白黒地群の 中でも牛窓町 」 の 寒風 窯と 山手村 奥 の 池 窯から採集された 日面 硯が 、 戦後いち早く 報告された (5)0 昭和 53年に五島美術館で 開催された「日本の 陶硯」展では 全国から多数の 古代陶硯が出展さ れ、 岡山県からも 美作国府をはじめ 平 遺跡、 勝間田遺跡、 高本遺跡等から 出土した日面 硯 、 風 字硯 、 転用 視 、 猿面 視 、 長力 視 、 形象 硯が 展示された。 一 9,7 一 この展示の図録に 掲載された「 岡 m 県 出土の陶硯」。 6)によれば、 昭和的年時点で 県内 15遺跡 の出土地が確認され、 出土点数では 寺院 3 点、 窯 ㍑ 点 、 宮 衛 関係 Hlo点 、 その他 8 点が数えられ ている。 昭和 58年に奈良国立文化財研究所から 究の成果を踏まえ 精徹 な分類基準が 刊行された「陶硯関係文献目録」はこれまでの 示され、 網羅的に陶硯関係の 文献が集成された 陶硯研 (7)0 岡山県においても 出土地不明をふくめると 4H遺跡が明らかとなり、 遺跡 別 でみると寺院 12、 窯 4, 官街 15、 集落 6 、 墳墓 1 、 散布地 6 の出土地が確認できる。 古代陶硯以外の 硯については 岡 m 市の小丸山遺跡で「長寛」 層から出土しており、 銘 入りの長刀 硯が 、 中世の包含 県内の 12∼ 16世紀までの方形 硯が 整理されている (8)。 今後、 資料の増 加 と共に中世における 硯 研究の晴天になると 思われる。 岡山県の陶硯研究は 緒についたばかりという 感があ るが、 r 本邦 吉硯考目 以来、 現在までに 出土数の増加と、 多様な 器 形の存在が明らかとなり、 遺物の比較検討や 陶硯出土遺跡の 概要を 捉えることも 可能になってきた。 辛 廿 氷寒風資料を 基に作成 硯 月面 硯 名称模式 図 美ィ 第 て因 暴害 実物は陸が存在しない 図 式 模 部 形態 脚 図 4 第 第 3 図 緑郎形態 (模式図 ) 一 j8 一 硯の属性について Ⅲ 硯の分類はすでに 多くの先行研究があ るが、 山中分類が幅広く 整理されている。 従って基本 的な分類基準を 山中分類に依拠しつっも、 近年内面硯の 断面形態から れた分類を提示してい る片桐華 浩 分類を参考に 属性の検討を 試みたい。。 )。 岡西硯の各部名称はすでに 定着しており、 それをまとめたのが 第 1 図の模式 図 であ る。 しか し、 集成作業や実物の 観察、 実測をおこなっている 間に、 脚台部については 若干の補足が 必要 であ ることを認識したため、 次の諸点を付け 加えておきたい。 脚台部 は 多様な装飾が 施される ことに特徴があ り、 脚台の上下の 位置に突 帯や沈 線を施すものがあ るので、 部位による名称を 「上方実情・ 洗練」、 「下方 突帯 ・洗練」と呼ぶことにし、 上下の突 帯 。 洗練 に 画される範囲に は長方形 通 しや、 線 列女、 波状文等の文様が 施されるためこの 部位を「文様 帯 」と称すること にする。 両面硯の硯面部は 海と陸によって 構成されるが、 特に海は円面 硯 製作時の縁の 取り付け位置 により、 貯墨 量は異なり成形時の 形態 差 となって現れている。 硯面部と縁の 位置関係を細分し、 図示したものが 第 3 図であ る。 図 3 では硯面部の 断面形を A ∼ D 類に分類しているが、 A.D 類のよ うに脚台部との 接合が明瞭で 単純な 器形や、 海を形成するために B 類は硯面の端部を 八字形 @こ 開き、 C 類は器壁を内側に 屈曲させるなど、 複雑な成形を 伴って製作される。 に着目して、 いかなる形態の 差異や偏りがあ るのかを見ていきたい まず、 この緑郎 (1。 , 。 次に脚部形態について 取り上げる。 硯を正實させるための 脚台は、 硯面部を水平に 安定させ る 役割があ り、 以下のように 脚部形態を分類した [ 第4 図 ] 。 ア類 :脚台部が直立し、 外面端部を肥厚させたりする。 ィ類 :脚台部を屈曲させ、 底部にまで 沈 線を施すものがあ る。 ウ類 :最も多い形態で、 脚台部を八字形に 広げる。 装飾技法に底部 込み、 または肥厚させるものもあ エ類 :硯面部を安定させるため、 へ 波線を施したり、 切り る。 脚台端部を屈曲させる。 筆者は脚台部の 形態差が、 成形と装飾技法に 深く関わりをもっのではないかと 考えている。 以下、 遺物の検討を 行うにあ たり綾部形態・ 脚部形態を主眼において 属性の傾向を 把握する事 にしたい。 Ⅳ 備前の円面 硯 1) 遺跡の分布と 性格 [ 第 6 図参照 ] 両面硯の分布Ⅱ ぃは 国府所在地の 上通郡を始め 赤坂部・邑久郡等、 備前南部平野に 多く認め られ [ 第 5 図 ] 、 特に 津 富札廃寺や鹿田遺跡、 馬屋遺跡、 門前 地 遺跡のように 古代山陽道に 近接 する遺跡や、 原 遺跡、 寺 部 遺跡など旭川を 媒介に分布が 確認できる遺跡も 存在している。 こうした日面 硯 出土遺跡の内、 その性格が明らかな 遺跡を列挙すると 窯跡 一花尻 南窯跡 、 寒風 窯 一 29 一 翻印は陶硯出土遺跡 0 印は国府、 駅犀 、 古代寺院を表示し、 将来的に出土が 予想される遺跡 第5 図 陶硯分布図 表1 陶硯出土遺跡 - 覧 1 坂折遺跡 14 百聞 川 岩間遺跡 27 七三本松遺跡 40 宮 / 前 遺跡 2 吉岡廃寺 15 百間別米田遺跡 28 楢本遺跡 41 蓮池尻遺跡 3 % 富 遺跡 16 服部遺跡 29 三須河原遺跡 42 池田散布地 4 門前 地遺跡 17 門田遺跡 30 %/ 奥窯跡 43 毎戸遺跡 31 杯 崎 遺跡 44 5 馬屋遺跡 Ⅰ 8 項 恵 廃寺 曲 江 遺跡 19 花尻南窯跡 32 鬼城山 7 手部遺跡 20 寒風窯跡 33 千引 7号 墳 46 省 尻 (赤蔵 地区 )遺跡 8 浮言北 遺跡 21 矢部南向遺跡 34 市溝手遺跡 47 英貨遺跡 9 鹿田遺跡 22 淳吉遺跡 35 金井戸見延遺跡 48 申殿遺跡 10 百間川原尾島遺跡 23 加茂政所遺跡 36 撞木薬師遺跡 49 西江 遺跡 Ⅱ 幡多 廃寺 24 七束遺跡 37 案多 5号 窯 12 ハ ガ 遺跡 25 州 入 遺跡 38 横手遺跡 13 雄町遺跡 26 蒼生遺跡 39 坊ケ内 遺跡 一 30 一 官 徳一 坂折 遺跡 ? 、 自問 川 米田遺跡 寺院 一 吉岡廃寺、 幡多 廃寺、 須恵廃寺、 津高 札 廃寺、 ハガ 遺跡 集落一恵 富 遺跡、 馬屋遺跡 このうち出土状況が 判明している 遺跡について 以下のとうり 説明を加えておきたい。 2 は吉岡廃寺から 出土した圏定規であ る。 吉岡廃寺は法隆寺 式 伽藍配置を採用したと 推測さ れる古代寺院で、 7 世紀後半∼ 8 世紀末までの 存続 期 が考えられている。 2 は第 6 図の伽藍中央部 から出土している 事より、 中心伽藍での 使用が想定できるであ ろう。 2 の岩壁は厚く 大型の円面 碗 で、上方 突 帯の形状だけをみれば 坂折 遺跡の上方実情 と 近似し、 "2)n 時期は 8 世紀に比定される 6 、 7 は斎宮遺跡から 出土した圏定規であ る。 約 1OOm 四方に方形区画を 巡らした集落と 考え られ、 区画内には 15棟の掘立 柱 建物が確認されている。 区画の内部には 手鎖 に 関わる土器 埋納 遺構が検出され、 出土遺物にも 丹塗り土師器、 石帯、 瓦 等 、 一般集落とは 様相を異にする 遺 ・ 物 が出土している。 6 、 7 の固定硯は方形区画内の 南西部から出土し、 時期は 8 世紀と考えられ る。 6 は区画 溝 の一部であ る「たわみ」から 出土しており、 共伴 遺物から 7 世紀末∼ 8 世紀初頭 に 比定される。 これらの国定硯は 区画 内 より出土しているが、 区画外の遺構から 転用 硯が 出土 する等、 区画を境に対照的なあ り方を示しているⅡ ,,。 8 は馬屋遺跡から 出土した圏定規であ る。 備前国分寺の 南西端から南西へ 約 160m の地点に位 冒 し、 古代山陽道推定地に 近接している。 8 世紀前半の建物が 4 棟検出され、 形状や規模から 玉 屋・割屋・倉のセットと 考えられている。 遺物は丹塗りの 土師器、 須恵器等の供膳具が 豊富に 見られ、 西部の溝からは 特に「 口我 」の墨書土器、 漆付着土器 (杯 B) が出土し注目される。 包 含 層からも 漆 付着土器 (杯 ・ 杯 B) や備前国分寺関連の 瓦・類等と合わせ 月面 硯が 出土している。 建物に伴う可能性も 否定できず、 時期は 8 世紀でも中葉頃 に推定しておきたいい。 , 。 自問 川 岩間・米田遺跡では 官 街を代表する 遺構・遺物が 出土している。 地形的には裸山山塊 の 東端に北側へ 分脈する小麦 丘が 1 ケ所と 、 標高約 15m の独立丘陵が 存在するが、 岩間遺跡は この小吏 丘 の 東 緩斜面に位置し、 包含 層 より 8 世紀前半の須恵器 杯 B 、 丹塗暗女土師器 杯 、 皿の 供膳具を始め 丸瓦・平瓦が 出土している。 巧は不整形な 溝から出土しているが、 遺構の性格は 判然としない。 この肺臓硯は 上方 突 常を 1条巡らし、 球形の脚頭が 接合されることから、 硯面 部と脚部を別々に 作り、 両者を多数の 脚で結合するものと 思われ、 時期は 8 世紀前半と考えら れるⅡ 目 。 百聞 川 米田遺跡は独立丘陵の 東側に位置している。 8 世紀代の掘立 柱 建物が 14 棟 検 出され、 建物の軸 線 配置により 5 群に分類でき、 中でも 総柱 建物を中心とする 7棟 分 に整然とし た配置が認められる。 遺物には「 上 三宅」墨書土器、 銅製帯金具、 丹塗土師器などが 出土した 事からも 官衛 的な遺構と考えられ、 れた溝から出土しており、 倉院 に比定されている。 13は建物群から 南東へ約 1OOm 離 共伴 遺物から時期は 8 世紀後半と考えられる (16)0 16 は 幡多 廃寺から出土した 圏定規であ る。 播多 廃寺は白鳳時代後半に 創建された古代寺院で 平安初期以降に 廃絶されたと 考えられている。 寺域は築地基礎部や 区画溝の検出により 東西約 123m 、 南北約 128m を測り、 その内南大門と 北 門 の一部が明らかとなり、 伽藍配置は凝灰岩製 の壇上積基壇をもつ 塔 跡を中心として、 北に第 2 基壇、西に第 3 基壇の地形 痕 が確認されるなど、 独自色の強 い 配置であ ることが判明した。 Ⅰ 6 は寺域を画する 西側築地の内側溝より 出土してい 一 31 一 4 "/ し 吉岡廃寺 口口 胃 塔 跡 堂 金 区 定 馬屋遺跡 幡多 廃寺 田 一 ' Ⅱ """" 推定南隅 服部廃寺 0 100m S@=1:4000 百聞 川 岩間。米田遺跡 第 6 図 備前門面 現出土遺構図 一 32 一 """@@ Ⅱ 守 2 , 患 片 " 「 津 6 -----一 3 4 Ⅱ"""""; 9 7 良" 5 8 に亨 Ⅰ 0 Ⅰ Ⅰ 13 Ⅰ Ⅰ 4 2 Ⅰ 6 Ⅰ Ⅰ 7 8 19 0 2 1 lオー ㏄ O Ⅱり Ⅱ ll @@@ 一 2 Ⅰ 4 一一︵ 1 S エ 白 。 @﹂ @ 硯 面 円 七 出 備 7 図 第 一 23 25 24 22 ""-穣ノ 26 32 3 3 2ア 胆 -34 28 35 29 36 30 Ⅰ 3 37 肪 ョ% 40 第8 図 備前出土門 面硯 (2) 一 34 一 る 事から、 寺域内使用を 窺わせる一方、 北門から北へ 約 28m 離れたトレンチ (NIITnでは 杯 B の 転用 硯が 出土し、 寺域外での使用を 予測させる ぃ 7)0 17 は服部廃寺から 出土した圏走破であ る。 服部廃寺は 7 世紀末に創建された 古代寺院で、 四 天王寺 式 伽藍配置を採用していたと ∼ 200m 推定される。 寺域は台形を 呈し東西最大幅 150m 、 南北 150 を測る。 17は寺域を画す 西側溝から出土しているが、 間、 梁行 2 間以上の廟 付 掘立 柱 建物が検出されている この区画 溝 のすぐ東側には 桁行 7 事から見ても、 僧坊に比定される 施設で の 使用が考えられる。 時期は供 判 遺物から 8 世紀 第 1 四半期であ ろう (18)0 昌久黒地群の 中でも著名な 寒風白黒地 群は 、 牛窓町に所在し 現在 4 基の窯 跡 が知られている。 寒風産の須恵器は 平城京にも搬入され、 最近では大阪市細工合遺跡から る 等、 生産と流通を 考える上で重要な 窯跡 と言えるであ ろう い 寒風系の鴫 尾 が出土 す 。 , 。 また邑久郡の 古代陶硯は器 形 が豊富で、 中には把手付中空門 面硯や 、 獣形 視 、 獣脚 等の特殊な遺物が 出土している 事も特 徴 として挙げられる。 23 ∼ 40 は寒風塵の 門面碗 で、 固定硯の出土地が 明らかな 2 号黒は、 杯 G. 杯 B を始め、 平瓶 、 、 鳩尾、 陶棺に至るまで 豊富な諸種が 焼成されており、 7 世紀後半と考え られる 圏足硯 3 、 中空門 面視 、 筆立て付き 円面硯 1 が知られているは。 , 。 2) 遺物の特 備前から出土した 陶硯は圏 足 硯を始め、 蹄脚視 、 中空門 面硯 、 形象 硯 の 器形 が認められ、 出 十数の多い固定規をもとに ①綾部形態。 属性を検討してみる。 ・。A 類は 3 例、 B 類は 6 例、 C 類は 7 例、 D 類は 1例に分類でき、 B 類は B2 類を主と している。 この B 類 、 C 類はともに備前国に 広く分布しているが、 邑久郡で生産の 確認され る A 類は、 現時点で主流とは 言えない状況にあ る。 ②脚部形態・・・ ア 類は 4 例、 イ 類は 2 例、 ウ 類は 15例であ り、主として ウ 類が主体を占める。 脚部形態と装飾の 関係について 見てみると ウ 類には服部廃寺 い 7) のように屈折させて つ ま み 上げる例や、 寒風 窯 (31、 33 、 35 ∼ 37) のように脚台の 底部にまで 沈 線を施すものがあ る。 ィ 類にも底部まで 波線を施す例があ る。 ①脚台装飾・・・ 上方 突 帯は二条 突帯 ・洗練のものが 多い。例えば守部遺跡 (3k、 原 遺跡 (9)、 津 高札廃寺 (l(W) など lA例にも及び、 しかも広範囲に 分布していることが 確認できる。 下方 突帯 。 洗練 は ついては残存 側 が少なく不明な 点が多いものの 幡多 廃寺 (16)や寒風雲 (27 ∼ 31 、 33 、 34H に例があ る。 透かし形状は 長方形透かしが 最も多く、 十文字や凸状を 呈するも のは少ない。 以上の結果を 整理すると備前の 円面 現 出土遺跡は古代寺院を 始め、 国府津の倉 院 とされる 百 間別米田遺跡、 すなむち 官衛 関連遺跡から 出土するケースが 圧倒的であ る。 当然墨書土器、 転 用硯 等と伴うことが 多い。 目面硯の出土位置をみると、 寺 、 須恵廃寺が挙げられ、 古代寺院では 中心伽藍から 日商 硯が 出土している 遺跡に吉岡庭 寺域内からは 播多 廃寺、 服部廃寺が確認できるが、 外からは転用 硯が 出土している。 斎宮遺跡では 区画された集落内から 播多 廃寺の寺域 固定 硯が 2 点、 区画外か ら転用 硯が 出土している。 また鹿田遺跡のように 転用 硯が 出土している 遺跡も存在している。 このように区画を 伴う古代寺院や 官 衛 での使われ方と、 その外部もしくは 一般集落での 使用 一 35 一 のあ り方に差異があ るのか、 時期による変遷が 認められるかは 注意が必要であ る。 硯の属性では 緑郎形態では B 類 ・ C 類が主流をなし、 脚部形態は ウ 類が最も多く 脚台底部まで 波線を施す例があ る。文様 帯 ではこうした 傾向よりも、 むしろ上方 突帯 。 洗練に共通 色 が表れ、 二条の突 帯 をもっ固定規 が 備前国に広く 分布している。 V 備中の円面 硯 1) 遺跡の性格と 分布 [ 第 9 図参照 ] 備中の陶硯出土遺跡の 分布は国府所在地の 賀 夜 郡を始め邦字 郡 、 窪尾部、 下道郡の備中南部 平野に集申し、 山間部では 英賀郡や哲多 郡からの出土も 認められる。 特に古代山陽道沿いに 分 布が偏ることや 別人遺跡、 菅生遺跡のような 港湾拠点にも 出土が確認できる 遺跡の性格が 判明、 もしくは推定されるものを 窯跡 一寒国 5 号 窯 、 上町 西 / 坊 1 号 灰原 ・ [第 5 図 ] 。 列挙すると 2 号広原、 末 / 奥窯 官衞 遺跡一別人遺跡、 津 守 遺跡、 横 寺 遺跡、 宮 / 前 遺跡 寺院 一 加茂政所遺跡 駄屋 一 毎戸遺跡、 古代山城一 鬼 / 城 終末期古墳一千引 7 号 墳 この内出土状況等が 判明しているものについて 以下に説明しておきたい。 44 ∼ 46 は津守遺跡中屋調査 区 で出土した圏走破 と蹄脚硯 であ る。 平行する二重の 溝によって 方形区画され、 内部には 官衞 施設が存在する。 また区画内部にも 南北の空間を 分ける二重の 溝 が検出されている。 施設には掘立 柱 建物 14棟が検出され、 方位に合わせ 整然とした配置が 認め られる。 遺物には諸種の 豊富な須恵器、 土師器をはじめ、 丸瓦,平瓦等も 出土している。 杯 B の転用 硯は方形 E 画 内の土廣から 出土したもので、 近接した位置に 南北棟の側柱建物が 存在している。 46 は方形 E 画の南東部に 位置する溝から 出土した 蹄脚碗 であ る。 また44、 45 は直接遺構に 伴わ な い 遺物であ るが官補遺構と 関連するものであ ろう。 時期は 8 世紀中葉と考えられる。 21)0 52∼ 56は 菅 生小学校裏 山遺跡から出土した 圏定規であ る。 本 遺跡は扇状地形の 緩斜面に立地 する集落遺跡で 古代∼中世の 掘立 柱 建物が十数 棟 、 溝、 谷部 等 が検出され、 谷部や低位部から 古代の土器が 多量に出土している。 56 は建物 6 に伴う溝から 出土したものであ る。 桁行 3 間 X 梁間 2 間の掘立 柱 建物の三方に「 コ 字形」の溝がめぐり、 埋土 より 10世紀代の遺物と 固定 視 、 風字硯が 共伴 していることが 注目される。 山裾部の際に 沿って検出された 溝から 7 世紀末∼ 8 世紀前半の須恵器・ 土師器が多数出土して おり、 54 もこの溝から 出土している。 この固定硯は 文様 帯に 四字形の透かしをもち、 硯面の裏 側に 線刻が 認められている @) 。 丘陵斜面から 低位部に至る 谷 B の開口部付近から、 7 世紀後半∼ 8 世紀前半にいたる 大量の須 恵器が出土し、 55 もこの 谷 部から出土している。 一 @lf 一 0 千 317 号 墳 寿 一 一Ⅰ 津s 円 5m S@=1:300 仲川㎝ 遺即、 口四 W 一 .317 一 区 谷 第 9 図 備中門 面現出土遺構図 43 42 4 Ⅰ 48 44 49 二 """"""" モ三三三三三三里 45 50 5 Ⅰ1 46 54 57 / ・ fr@ 58 56 6 Ⅰ 64 62 60 S=1:4 第 10図 備中出土門 面硯( り 一 3f 一 65 俘 ; 70 68 66 一一 """ 一 69 67 72 76 73 74 78 77 75 84 80 79 洋姉姉二二ロ ,::: 85 目 "毛 82 87 C O 83 S 第 11 図 備中出土門 面硯 (2) 一 39 Ⅰ㏄ m 一 = Ⅰ「 4 59は千引 7 号噴出土の圏定規であ る。 奥坂 遺跡群内に位置する 本 墳は石室長約 3mを測る無神 武横穴式石室を 主体とし、 墳丘は一辺約 6mの規模を有する 方墳で、 半寿 と 考えられている。 開 口部付近からは 杯 G 、 杯 B 、 椀 、 高野 と 畿内産土師器の 杯 A が出土している。 また 棺 台石と右側 壁の間には固定 硯が 玉置の状態で 出土し、 固定 硯 の 綾 部は意図的に 打ち欠いて副葬される 等、 県内では副葬品としての 類例を見ないばかりか、 陶硯の個人所有を 示す一例としても 注目され る。2 ㍉ 0 60は 鬼 / 城から出土した 圏定規であ る。 古代山城として 著名な本遺跡は 現在 4 ケ 所の城門を 中心として城郭線の 調査が進み、 城内についても 県教委の確認調査によりその 全容が明らかに なりつつあ る。 平成 9 年度に調査された 南門は間口 3 間 X 奥行き 2 間からなる掘立 桂 城門で、 細 部 においての形態 差 はあ るが 西 門と同規格であ る。 この城門が位置する 尾根上の平坦部には 約 l0x7m の不整形な土墳 が 検出された。 この 上 中 より 60の固定 硯が 須恵器 葵と共伴 して出土し 、 時期は 7 世紀末∼ 8 世紀初めと考えられる。 , 。 , 。 五島 陶 白黒 地 群は現在 20基余の須恵器 票 が知られおり 66、 67 は案出 5 号窯から出土した 圏短 視であ る。 本窯は窯 体 全長 9.㎞を測る半地下式登 黒 で、 断面観察より 3 回の補修が確認され、 無体内から 杯 H 、 壺 、 高 杯など 7 世紀第 2 四半期の遺物が 出土している。 66、 67 は 灰 原から出土 したもので、 他にも 杯 H 、 高杯 、 壺 、 平 瓶などが出土し、 時期はおおむね 7 世紀前半と考えられ る 125) 68 、 69、 72 、 73 は構音遺跡から 出土した圏定規であ る。 新本川の左岸に 位置し、 山裾から南に 延びる段丘上に 位置している。 掘立 柱 建物 12棟、 井戸、 溝、 土壌などが検出され、 7 世紀末と 考えられる掘立 柱 建物群は整然と コ 字形に配置され「 評衞 」の性格が考えられている。 72 と 73 は 建物の一部を 切る SW0lから出土している。 構音遺跡からは 実に 16個体の門面 硯が 出土してい ると言われ、 文房具の保有量が 多いことが分かる (W 。 84∼ 86は 谷尻 遺跡 ( 赤旗地区 ) から出土した 圏定規で、 英賀 廃寺の北東約 60mに位置する。 奈 長期の掘立 柱 建物が 3 棟検出されており、 南北 棟 であ る桁行 5 間 X 梁行 3 間の掘立 柱 建物と桁行 2 間 X 梁行 2 闇の総 柱 建物は、 東側の性筋を 揃え約 6m離れて配置されている。 また、 英貨廃寺の 軸線とほぼ揃 う ことも看守でき、 寺院との関連を 予測させる。 84∼ 86は建物の包含層から 出土 したものであ るが、 これまでにも 寺域外出土の 陶硯は、 しばしば転用 硯が 検出されており、 本 例のように寺院の 周辺に建物群が 展開し、 専用硯を用いる 遺跡も存在している。 さらに小型 硯 M4 と線刻 文人 86の固定規 は 、 下道 郡坊ケ内 遺跡でも 7U と 75のような近似する 形態が見られる り (2 6) 2) 遺物の特徴 備中から出土している 陶硯は圏 足硯が 圧倒的に多く、 蹄脚硯 、 中空門 面硯 がわずかに出土し ているに過ぎない。 以下に固定規 は ついての各属性を 見ていきたい。 、 D 類は 4 例が認められ、 A 類が圧倒的に 多 ①緑郎形態・・・ A 類は 22例、 B 類は 8 例、 C 類は 1ゆ Ih いことが分かる。 A 類が主流を占める 中でも A3類が 10例、 A4類が 6 例と主体的であ る。 この A 類は備中全域に 分布している。 ②脚部形態・・・ ウ 類は ¥¥例、 ア類 5 例、 エ類 3 例とつづき、 一 40 一 イ 類の確実な例はない。 特に ゃ 類は備中に広範に 分布し主流をなす 一方で、 下道 郡 、 賀陽 郡にア,エ類が認められるなど 重層的に分布する 地域があ る。 また構音遺跡 (73) や加茂政所遺跡㈹ 0k 、 上町 西 / 坊 遺 跡 (82) のように脚台の 底部付近に切り 込み、 沈 線を入れる例や 、 ウ 類においても 脚端覚 面を肥厚 (47 、 60) させるものもあ る。 ③脚台装飾・・・ 上方 突帯は 一条のものが 19例で、 備中全域に分布しているが、 三伏 突帯 は わずか 4 例にすぎない。 下方実情・洗練 は 一条が 4 例、 皆無が 7 例であ りむしろ装飾は 少な ぃ 傾向にあ る。 文様帯は長方形透かしが 最も多く、 凹状を呈したものや、 線刻 文などを施 す。 備中の窯 跡 出土 側 では案出 5 号 窯 の固定規 が 最も古く位置づけられ、 7 世紀中葉に生産が 確認 できる。 また上付 西 / 坊 遺跡や末 / 奥窯跡 のように、 上下の突帯を 含めた脚台部の 装飾が備中 に通有であ ることも押さえられる 出土遺跡の性格をみるとやはり @ ,。 官衛 関連遺跡での 出土が多く、 全体の様相が 最も明らかな 津 寺 遺跡では区画の 内部から固定 視 、 また区画に近接した 土墳から備中では 初 例の蹄 脚硯が 出土 している。 特に横手遺跡や 宮 / 前 遺跡のように 陶硯の保有量が 多 い 遺跡は、 官衞 としての実像 を 示す好例であ ろう。 谷尻 ( 赤旗地区 )遺跡は英資廃寺から 約 1OOm 離れているものの、 軸 線を揃えた建物群が 存在 し、 3 点の円面 硯が 出土している。 仮に寺院関連の 集落遺跡ならば、 両面硯の寺域外使用の 一 例 となろう。 固定硯の属性について 述べると、 まず緑郎形態をみる 限りでは A 類 (A3、 A4) が多く主流をな 脚部形態も ウ 類が主流で備前と 同じ状況であ る。 すと考えられ、 国内に広がりをみせている。 脚台装飾は上方 突帯 が一条のものが 圧倒的に多く、 下方 突 常は一条 か 皆無で、 文様 常 に長方形 透かしを施すものが 主体を占める。 また、 固定規の 器 壁は備前と較べると 管主遺跡、 加茂政所 遺跡、 金井戸見延遺跡を 挙げるまでもなく 全体的に厚手であ り、 重量感があ ることも特徴とし て 挙げられよう。 固定硯の中でも 75 と 84 のような小型で 単純な 器 形は類例がすくない。 Ⅵ まとめ 陶硯出土遺跡の 傾向として 官 街や寺院に多いということは、 研究史から導きだされる 成果で あ るが、 上述の通り備双と 備中においてもその 傾向を読みとることができた。 それ以外の図 5 で示した陶硯出土遺跡は、 木簡や墨書土器と 同等に識字層の 分布を如実に 反映しているのであ る。 ただ調査面積も 限られ、 わずかな陶硯 片 をもって、 遺跡の性格を 推し量る事は 慎重になら なければならないが、 近年の研究によれば 奈良朝の一般集落においても 陶硯、 転用硯の出土が 認められ、 官街 、 寺院のみならず 集落にもあ る程度識字 層が 浸透していたのではないかと れている (2目。 備前、 備中の集落遺跡に 不明な点が多いため、 言わ 確たることは 言えないが、 今後 は 集落の様相を 視野に入れた 比較検討が必要と 思われる (3。 )。 そうした場合、 横手遺跡のよう に遺構と遺物の 状況から 官衞と 認識される遺跡の 中には陶硯の 保有量が多い 傾向があ り、 この 点が遺跡の性格を 決定付ける一つの 判断材料となるのではあ 一 41 - るまいか。 遺物の検討では 固定硯を中心に 各属性を整理した。 その結果、 備前国では緑郎形態が B類、 C 類が主流をなし、 脚台部の上方案 帯 ・洗練が 2 条、 下方 突常 にも数案の 突帯や 洗練が施され、 器 壁も薄い状況が 窺えた。 一方の備中では 緑郎形態の A 類が圧倒的に 多く、 上方 突帯 ・洗練が 1 条 、 下方 突帯 ・洗練 は 1条 か 皆無で、 しかも 器 壁は厚手であ る。 こうした集成作業により 両国 の圏定規 を 一言でまとめると「装飾華美な 備前」「重厚でシンプルな 備中」という 印象をもつ に 至った。 しかし両国の 陶硯が 表採 、 もしくは包含 層 資料、 遺構に伴わない 遺物として取り 上 げられるケースが 多く、 現時点では 共伴 遺物による時期的な 位置付けを困難にしている。 そのため以下に 両国における 固定硯の変遷を 捉えるに留めて 終わりにしたい。 7 世紀中葉に備中の 寒 田 5 号 黒 で固定規 66.67 の生産が確認できる。 また矢部南向遺跡の 中空 月面 硯 41が出土しているが、 これらの 器彩 はいずれも定着しない。 ・ 7 世紀後葉から 8 世紀にかけて 月面 硯が 最も多く出土しており、 備中ともに主流形態をなす 中でも備前・ 多様な 器形 が出現する。 その 属性が存在している。 , 8 世紀後半∼ 9 世紀に至る固定規 は 、 量的な減少と 器 形 が縮小傾向にあ る中で、 小型の圏定規 が 出現する。 脚 端部を折り返す エ 類 や 、 文様帯も長方形透かしから 線 列女、 線 刻 山形文、 るいは方形透かしとの 組み合わせによって 文様の省略が 図られている。 あ 今回の集成作業により、 集落を含めた 遺跡の評価と 陶硯の編年、 そして新たに 出現する風字 硯、 石 硯への移行とその 背景が課題として 浮き彫りになった。 ( 岡山県総社 本論は平成 13年 4 月 市 教育委員会 ) 21日に天理考古学談話会で 発表した内容であ る。今回の集成の 発端は、 古代山城東 / 城の発掘調査で、 ょ点の圏定規が 出土したのをきっかけに 作業を行ったもので、 浅学な筆者に 日頃 から御 指導 頂いている村上幸雄氏、 古代土器の基礎的な 考え方を折りに 触れて 御 教示頂いた武田恭 彰氏 に厚くお礼申し あ げます。 また遺物の実見、 実測ならびに 末公表資料を 掲載させて頂いた 関係各市町村等の 皆様に記してお 礼 申し上げます。 伊藤晃、 大橋雅也、 岡本芳明、 鍵谷 守秀 、 草原孝典、 長谷川一英、 馬場昌一、 福永信雄、 山本忠 尚、 若松 挙史 (敬称略)、 瀬戸町教育委員会 (末 公表資料固定規 )、 倉敷市教育委員会、 岡山市教育委員会、 邑久町教育 委員会(末 公表資料固定規 )、 北房町教育委員会、 金光町教育委員会、 御津町教育委員会、 牛窓町教育委員会、 吉備考古館 (末 公表資料固定規、 中空門 面硯の把手 )、 総社面高校 (順不同 ) ネ 集成図の遺物は 各報告書から 使用し、 出典は紙面の 都合正割愛した。 託 ( m和名類聚 鉛 訓須美須利 「 エ 」 (2) 『埋蔵文化財ニュース d 41、 奈良国立文化財研究所埋蔵 文化財センター、 1983年 (3) 「新訂増補国史大系延喜式中篇目、 吉川腔文館、 昭和 12年 (4)内藤政 恒ア本邦吉 硯考』、 養徳社 、 昭和 19年 和一 「大仙/ 窯跡 5、 昭和 21年伊藤晃「岡山県出土の 陶硯」 日本の陶硯』、五島美術館、 1m78年 」 ア (6)伊藤晃「岡山県出土の 陶硯」『日本の陶硯 d、 五島美術館、 1978年 (7片:B.(2) に同じ 一 42 一 (8) 小 丸山 ( 中山中 )遺跡発掘調査報告 d、 岡山市教育委員会、 平成5 年 「 (9)片桐華浩 「香ハ @ 出土古代陶硯についての 一考察」 香川考古 こ (10) 断面観察のできた 遺物の内、 3 、 9 、 10 、 20.2l.28.58.59.64.68 は 第 4 号、 香川県考古刊行会、 1995年 ∼ 71 、 73.81 ∼ 86 は、 綾部を本体に 取り付け ている事を確認しており、 一般的な技法と 考えられる。 A ∼ D 類は片桐分類の A 、 C 、 B 、 D 型に相当する。 筆者は ABC が併行関係にあ り、 D 類が併行しつつも 後出す る 器形と考えているため 順序を入れ替えた。 また、 緑郎形態は A3 、 B2のように結果的に 差を見い出し 難 い例もあ り、 に 細分は生産地での 事例で議すべきと 思われるが地域の 様相を把握するため、 今回は試論的 細分を試みた。 ( 1) 分布図の中で 備前国は 713年に美作国の 分割を経て成立したが、 和気・ 磐梨 ・邑久郡一帯は 郡 域 が著し Ⅰ く 変動したため、 788 年以降の都域を 示している。 なお、 分布図の作成は㌃ 岡山県の考古学』 ( 吉川腔文 館、 昭和 f62、 8 、 10 、 第 168 図 ) を参照した。 (1乙 岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 49 『吉岡廃寺山岡山県教育委員会、 Ⅰ 982年 (13)岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 105 r 斎宮遺跡山岡山県教育委員会、 1996年 (14) 岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 99 r 松尾古墳 群 、 斎宮古墳 群 、 馬屋遺跡ぼか d 、 岡山県教育委員会、 1995 年 (15)奈良国立文化財研究所学報第 26 冊『平城宮発掘調査報告』 vu、 真陽社 、 昭和 51年、 三浦基 「河原城 遺跡 出土 蹄脚 月面 硯 をめくって」『河原城 遺跡 山 1 、 (財 ) 大阪府文化財調査研究センター、 2000年 (16)岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 46冊 旭川放水路 ( 自問 川 ) 改修工事に伴う 発掘調査 mⅡ、 岡山県教育委 口 員会、 1981年 (17) 幡多廃寺発掘調査報告 d、 岡山市教育委員会、 1975年 「 (18)長船町埋蔵 文化財発掘調査報告 『服部廃寺 、 長船町教育委員会、 1997 年 2 コ (19) F細工合遺跡発掘調査報告』、 (財 ) 大阪市文化財協会、 999年 ょ (20X伊藤晃「窯業」『岡山県の 考古学』、吉川腔文館、 昭和 62年、 牛窓町 史 資料編Ⅰ1 考古』、牛窓町、 1997年 口 寒風資料は吉備考古館、 邑久郷土館 、 寒風陶芸会館に 展示されている。 (21)岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 116 1r淳吉遺跡』 4、 岡山県教育委員会、 1997 年 (22)岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 81 牙山陽自動車道建設に 伴 う 発掘調査 Jl 5 、 岡山県文化財保護協会、 Ⅰ 993 年 (23m総社市 埋蔵 文化財発掘調査報告 15 1@奥坂遺跡群d、 総社布教育委員会、 1999年 (24)村上幸雄「 鬼 / 城南門跡ぼかの 調査」 総社 市 埋蔵文化財調査年報 ァ J1 8 、 1998 年 (2% 岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告 31 『黒土窯跡 ・案出黒地』、岡山県文化財保護協会、 1979年 (26) 『総社市埋蔵文化財調査年報 凹 4、 総社布教育委員会、 994 年 王 (27)北房町埋蔵 文化財発掘調査報告 4 谷尻遺跡弥蔵 地区 d、 北房町教育委員会、 1986年 「 (28)未 / 奥案 出土の圏定規 は、 吉備路郷土 餌 にて実見した。 (29)東大阪市教育委員会 福永信雄氏に 御 指摘いただいた。 近年の研究では 下記の論考があ る。望月 精司 代の硯と墨書土器」『古代北陸と 出土文字資料 ふ (社 )石川県埋蔵 文化財保存協会、 1998年 (30)第 1 回四国村落遺跡研究会「集落遺跡の 類型」、四国村落遺跡研究会、 2001年 岡山県の古代集落については、 草原氏の研究成果を 御教示頂いた。 一 43 一 「古 対 一 44 一 照表 県 2 表 備前国
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