創価教育研究第2号 講i 演 歴史的対談 を写す 戸 刀口 日 水 これ か ら、 歴 史 的 な池 田先 生 と トイ ン ビー博 士 の 「『21世紀 へ の対 話 』30周 年 」 と い うこ と で講 演 が ご ざ い ます 。 私 は短 時 間 、前 座 を務 め させ て いた だ きた い と思 いま す 。 この世 界 的 な東 西 の両 巨 匠 が ロ ン ドン で 、2年 に ま たが り、延 べ!0日 間 の対 話 を な さい ま し た。 す で に30年 前 の 出来 事 とい うこ とに な ります けれ ども 、 これ は決 して30年 前 の こ とで は な い。 む しろ 、 これ か ら さ らに歴 史 的 に も、 ま た 文 明 的 に も 、 ます ます 光 彩 を放 って い く、 そ う い う出 来事 で は な か っ た か と思 い ます 。 私 は 、報 道 カ メ ラマ ン にな りた い 、 とい う念 願 を持 っ てお りま した が、聖 教新 聞社 の 写 真 局 ・ グ ラフ編 集 部 に入 社 して11年 目に な りま した 時 に 、 特派 員 の命 を い た だ き ま した。 そ して 、 ロ ン ドンの オ ー ク ウ ッ ドに あ る 、 トイ ン ビー 博 士 の お 宅 で行 われ た対 談 の 写真 記 録 を させ て い た だ い た わ け で ご ざい ま す 。 ア ー ノル ド ・ジ ョセ ブ ・トイ ン ビー 博 士 とい う方 は 、 ヨー ロ ッパ が"世 紀 の碩 学"と 誇 る最 高 の 知 性 の お 一 人 で あ り、「人 類 の 巨 大 な財 産 」と も評 され てお られ ま した 。池 田先 生 か ら は 「こ の 対 談 は 、 将 来 、 貴 重 な 記 録 に な る」、 「この 取 材 は 絶 対 に 失 敗 は許 され な い 」 と何 度 も言 われ て お りま した 。 正 直 言 い ま して 、 私 に と って はそ の プ レ ッシ ャ ー と緊 張感 で 、本 当 に 死 ぬ よ う な思 い で 毎 日 を過 ご しま した 。 連 日、 「 聖 教 」 の紙 面 で 使 用 す る写 真 を伝 送 す る仕 事 が あ りま した。 そ の 上 、写真 の ペ ー ジ 、 同時 に、 当時 の 「聖 教 グ ラ フ」、 それ に 写真 集 も出版 す る とい うこ とに な っ てお りま した の で 、 対 談 の様 子 をカ ラー とモ ノ ク ロ とで 撮 影 す る とい う仕 事 を、一 生 懸 命 や らせ て い た だ き ま した。 現 在 の よ うにデ ジ タル カ メ ラ とい った 便 利 な も の は ご ざい ま せ ん 。 ま た 、今 日で こそ カ ラー フ ィル ムは 、ISO800と か1600と い う高 感 度 の も の が あ りま す が 、 当時 は200と か100と か 低 い も の で した 。 しか も 、私 が 使 用 し ま した も の は 、ISO100、50、25と い う非 常 に感 度 の 低 い フ ィル ム で ご ざい ま した 。 お ま け に博 士 の ご 自宅 は 、他 の ヨー ロ ッパ の家 と同 じ様 に、 間 接 照 明 のた め 非 常 に 暗 い の で す 。 しか し、 池 田先 生 は 、博 士 が ご高 齢 で あ る とい うこ とで 、大 変 、細 か い 気 遣 い を され 、 ス トロ ボ な どの照 明 は一 切 無 しで 、何 とか撮 影 、記 録 しよ う とい うこ とにな りま した 。そ のた め 、 照 明 に は苦 労 い た しま した が 、結 局 、わ ず か500ワ ッ トのブ ル ー の ラ ン プー っ とい う中 で撮 影 を い た しま した 。 皆 さん も 、す で に何 回 もご覧 に な っ て い らっ しゃ る か も知 れ ませ ん が 、 当時 の新 聞 の記 事 と 写真 をパ ワー ポ イ ン トで 写 し出 し、簡 単 な説 明 を させ て い た だ き ます 。 これ は聖 教 新 聞 の一 面 の報 道 です 。 見 出 しは 「 池 田会 長 、 ロン ドン に到 着 」 と な っ て お りま AkiraMito(元 聖 教 新 聞 社 写 真 局 次 長) 一173一 歴史的対談 を写す す。 「 再 会 」 とい う風 にヘ ッ ドが ご ざい ます の で 、1973年 の対 談 の折 の ニ ュー ス(1973年5月17 日)で ご ざ い ます 。 記 事 の 中 で は 、池 田先 生 の こ とを 「 太 陽 を持 っ て くる男 」 と書 かれ て い ま す 。 あ の"霧 の ロ ン ドン"も 、 前年 も 、 ま た 、 こ の 時 も 、先 生 が到 着 され る と、朝 方 は曇 天 だ っ た もの が 、や が て は晴 天 に な っ た こ とか ら、 地 元 の メ ンバ ー が先 生 を称 して 「 太 陽 を持 っ て くる 男 」 と表 現 した こ とな どが 書 かれ てお ります 。 ご 自宅 に 到着 します と、 トイ ン ビー 博 士 は 、池 田先 生 との 再会 を本 当 に歓 声 を 上 げ る よ うに して 喜 ん で お られ ま した。 「あ な た と話 をす る と、私 は 、啓 発 され 、感 動 す る。本 当 の 問 題 点 を 論 じ合 え る 人 間 と この よ うに 率 直 に語 れ る こ とは最 高 に価 値 あ る こ と、学 者 と して これ 以 上 の 喜 び は な い 」 と歓 迎 され 、対 談 が 始 ま っ た の です 。 次 の記 事 で は 「会長 と トイ ン ビー博 士 の 対 談 二 日 目に」(同5月18日)と い う風 に 出 て お り ま す 。それ に よ ります と、 「白髪 、長 身 の トイ ン ビー博 士 が メ モ を 片 手 に深 々 と ソフ ァー に 腰 を お ろす 。 会 長 も、 博 士 の 老 体 を か ば うよ うに 、 す ぐ隣 に座 る」 とあ ります 。 ま た 、 「窓外 に は 、 時 折 り澄 ん だ 空 気 の な か を ハ トの飛 び 交 う姿 も見 られ 、 落 ち 着 い た ふ ん い き の住 宅街 の 一 角 、 洋 を東 西 に 分 か っ 二 人 の 哲 人 は 、 静 か に 、 しか し貴 重 な 一 瞬 一 瞬 を 刻 み な が ら、 対話 を進 めて い った 」 わ けで す 。 博 士 と先 生 の 対 談 され た部 屋 の 後 ろ には 、 大 きい 窓 が あ り朝 の 光 が差 し込 ん で お りま し た。 写 真 的 に言 えば 、 完 全 に逆 光 状 態 で 、 撮 影 に は 決 して 良 い 条 件 で は あ りま せ ん で した。 当時 、 イ ギ リス に はSGI(創 フ ィル ム は 、AP通 価 学 会 イ ン タナ シ ョナ ル)の 会 館 も ご ざい ま せ ん の で 、 この撮 影 した 信 の 暗 室 を借 りて 現 像 し、 そ こか ら東 京 に電 送 す る とい う作 業 で ご ざい ま した。 ま た 、池 田先 生 は 「この 写 真 をす ぐに大 き くプ リン トして 、 博 士 に 差 し上 げ な さい 」 と 言 われ た こ とも あ りま した 。 博 士 の ご 自宅 は 、学 問 に 関す る以 外 の 物 は 一 切 ない ので は ない か 、 と思 え るほ ど非 常 に質 素 な お宅 で ご ざい ま した 。 また 、池 田先 生 のス ピー チ 等 の 中で も何 回 か 出て ま い りま した けれ ど も、博 士 は 、6時 に起 床 して ベ ッ ドを片 付 け 、朝 食 を用 意 して 、9時 にな る と どん な時 で も書 斎 に 向 か い 、 そ して 、研 究 に入 る のだ 、 とこ の よ うに も話 を され て お られ ま した 。 長 い 時 間 に及 ん だ対 談 が終 わ る に あ た って 、博 士 は仏 法 の"中 道"を 高 く評 価 され ま した 。 トイ ン ビー博 士 は7ヶ 国語 が堪 能 とい うこ とで 、特 に 、法 華 経 につ い て はパ ー リー 語 、 原 語 の 梵語 で読 ん で い らっ しゃ り、大 変 、造 詣 の 深 い 方 で ご ざい ま す 。 「 私 は 、 ミス ター 池 田の 仏 法 の 英 知 か ら発 せ られ る一 言 一 言 に 、 自分 の学 問 の一 切 が整 理 され る し、啓 発 され る」 とい う風 に 語 っ て お られ ま した。 この 対 談 が終 わ っ た後 、池 田先 生 は 、 ブ ライ トン とい う町 に あ る 、非 常 にユ ニー ク な教 育 方 針 を と るサ セ ッ クス 大学 を視 察 され て お られ ます 。 そ して 、 翌 日に は ロン ドン か らパ リに 向 か わ れ ま した。 到 着 した そ の 日に は 、対 談 の 大成 功 を称 え る か の よ うに 、パ リの上 空 に大 き な虹 が 出 ま した 。 そ の 時 、 私 は 、 た ま た まエ ッフ ェル 塔 に昇 っ て お りま した の で 、 こ の雄 大 な 七彩 の虹 を記録 をす る こ とが 出 来 た の です 。そ の た め先 生 は、ロ ン ドン で は 「 太 陽 を持 っ て く る男 」 と して 、そ して 、パ リの友 は 「虹 をか け る男 」 を迎 え た 、 と記 事 に あ ります 。 フ ラ ン ス で は 、 ロ ワー ル 地 方 に赴 か れ た 際 、 「レオ ナ ル ド ・ダ ・ヴ ィン チ の 館 」 を見 学 され ま した 。 そ の折 、 歴 史 に残 るだ ろ う池 田 ・トイ ン ビー 対 談 を、 写真 的 に表 現 出 来 な い もの だ ろ うか と思 っ てお りま した 私 は 、 ロ ワー ル の 古 城 の 庭 園 で 一 枚 の カ ラー を撮 りま した。 朝 露 が 光 る広 い芝 生 に二 っ のデ ッ キチ ェア が 並 ん で い る写真 で す。こ の カ ラー は『平 和 へ の旅 』(第2集 、 聖 教 新 聞社 刊 、1974年)と い う写 真 集 の扉 に掲 載 され て い ま す 。 一!74一 創価教 育研究第2号 とも あれ 、時 代 が 経 て ば経 っ ほ ど、対 談 集 『二十 一 世 紀 へ の対 話 』 は 、そ の 光 彩 を さ らに未 来 の人 類 に広 げ てい く こ とは 間 違 い あ りませ ん。 こ の歴 史 的 な一 瞬 を記 録 させ て いた だ い た 私 は 、本 当 に幸 せ だ と思 って お ります 。 一175一
© Copyright 2024 ExpyDoc