両足院(建仁寺派)

両足院︵建仁寺派︶の収蔵資料について
目 次
むすび
現状、と利用.
収蔵資料︵﹁抄物﹂を中心に
は じ め に
参考書誌研究第=二号︵[九七六・八︶
五十田図三回
であるっ ﹁
徳見は、嘉元三年︵一三〇五︶二二才で丞兀し、求法生括四五
で、帰朝に際して、禅僧十七名、船主以下申国人十一名を
,三審験して、貞和五年︵塞六六才の時に帰朝した名僧
主として、 コレクションの形成、旧蔵者、資料内容、数
もとより林家は、代々仏に帰依する心が厚く、五山の諸
当時第一級の文化人との交渉も広く行なわれた関係上、そ
0方の影響も大きく自ずと有為の人材が育っていった。
したが、かって饅頭を宮中に献じてより思召しも厚く、又
三三は帰化し、子孫は奈良と京都に住して饅頭屋を業と
の先祖である林三三も加わっている。
随侍した︵﹁園太暦﹂観応元年四月十四日の条参照︶。その中に饅頭屋林家︵切離瀬︶,
僧、竜山徳見︵一二 一三八四五八︶の開基髪る禅宗︵臨済︶の名刹
両足院は、建仁寺派の一塔頭として、同毫光三十五代の
両足院と林家
以下は、その概略の報告である。
きた。
量、保存状態、目録、利用等にわたって見聞することがで
去年の秋、京都建仁寺派両足院を訪問す惹機会を得て、
︻
﹄二、
はじめに
σ
両足院と林家
)
の先徳に参じて禅を修学する徒が多かったゆ従って、篤学
刹に出家する者が多く、仮に出家しないまでも、此等一門
,篶緯罪諜鱒雛羅琳踪に爺
つた。
いわゆる﹁抄物﹂の筆録者としてのみならず、自らも講じ、
宗二は室町末期から桃山時代にかけて活躍した学者で、
又饅頭屋本節用集の編録者として、更には源氏物語の注釈
歌を三条西実隆や牡丹花肖柏から、そして、,儒学を当代の
書である﹁林逸抄五十四巻﹂の著者乏して著名である。和
名儒清原宣賢︵一四 一五七五一五〇︶からそれぞれ完だことはよ嘉
られており、、のちに彼の門に修学する者も多く現われた。
一方、両足院と林家との関係ほ、単に師檀の間柄のみな
らず、初期の歴代住持は、多くは竜山徳見の法を継ぐ林家
出身の僧によって占められている。即ち、無等以倫、文林
寿郁、空回東余坐,和仲一一、梅仙東通、利峯東鋭等で、江
戸初期まで林家の色彩が濃厚で、さながら当院ど林家とは幽
一家の如を関係であった。,
.馳こうした関係で当院には、.この林宗二の筆録本及び父の
学問を継承し、両足院の住持となった息男の梅仙東通の筆
写本がまとま、って収蔵され、’その後も林氏門下の当院の住
職め手によって保存され、今日まで残されている。
収蔵資料.︵﹁抄物﹂を中心に︶
推測して竜、奈良、平安といった古代に遡れる程ゆ古典籍
今日当院に収蔵されて.い.る資料は、右に記した経緯から
はなく、三世から近世にかけての和装の典籍が主である。’
当院備付の目録︵後患︶にまると、蔵書数鳳、タ不下ル
五山版画九〇タイトル、漢籍約八○タイトル、それに朝鮮
数にして順順、五〇〇内外、その中抄物は二四〇タイトル、
本、国書それぞれ若干ずつ含まれている。これらの他は仏
れる。 一
書が相当数を占め、ほとんどが江戸期の刊写本類と推測さ
ノ
いずれにしても、‘林宗二、梅仙父子の筆録手写にかかる.三一
、兄、江戸時代の刊写本といえど竜﹂当院歴代の学僧の手写,
抄物之認五山版および漢籍が心中の白眉といえる。とはい、.一
手沢になる典籍が多く含まれ、当院の学問に対する真摯な
姿を彷彿させている。
今回わずかに抄物を中心に披見することが許されたが、
の世情の一端を書き留めた識語などもあり、乱世に生きる,
林宗二自筆の書写奥書の中に、.擾乱にあけくれた戦国時代
それらの資料の一部を列挙して、.参考に供したい。・
姿をかい間見た思淋で、二そケ興味深いものがある。以下
抄物︵箱番号順︶
一五一番
三三抄 存巻上ノ上下、、中ノ下 三冊 片仮名交じり仮名
抄ジ式三三表紙三三
識語
上巻末︵一五三四︶
天文三年押三月八日作之此年閏正月アリ
安盛三十七才
︵一五四八︶
同年号十七年三月写之 定生十六才
蒙求抄 存巻上ノ上中下、中ノ下 四冊.片仮名交じり仮
名抄 ソ式量 茶表紙原装 筆跡後掲﹁周回抄﹂に酷
似、宗二筆か 前掲書を含め−﹁共七冊﹂と表紙に記
東回抄 二五巻 三十冊 宗二筆 片仮名交じり仮名抄
す
ソ式体 茶表紙原装
,識語
巻込末︵一五四一︶
三時天文十年三三三三二月三三隆学問寺瓦坊南台貸下
︹四十力︺
終功了 破関子 [三才
巻三末︵一五四〇︶
天文九年四月廿五日
三四末
天文十年丑八月十八日、,・
毒+垂三三三日於嚢一中終功了破學
巻
六 五
一︵
末 ︵ 一五
︶三六異筆︶
委+舞二月前三日初要占董.之林氏三関辞’
馨+華三朔半夜於南都抄之了三一
馨轟葎早三日総監
鷺+年辟+百+百終回三
三十一末.・
天文十一年寅三月廿二日一法隆寿書類去十七日
︹客力︺
木沢左京鮎漁□
巻十二首
.黎+葦閏三月晦日
天文十一年三月廿二日始之 一. 一
甦四這三百.三関四+四才
三図蕎四三天下三三三雲二三ノ木耳毒参併之思
者也
巻十五末︵二四年一五五五︶ 、
天文十一年六月晦日三法隆教寺瓦毛南証書之 破関子
四十四才
五十七才
天
文
ダ阻暮春四三八三先達三三抄纂[三関斎宗和
三一
一.
︵一五七四︶
夫正二年鑑暮春十五日早天写之詑 方生斎宗二
七十七才
ザ轟轟旦百宗二四+五才
鷲埜塵ダ音三三三三雲雨於南都野戦
− ︹宗力︺
ダ
卿抄之了 宗二
巻+九三、一 噺
□和奥書云
@雍麓疑難=脇鐘終之
・巻二十首 ・三冠
タ
.,瞠㌫四望春+三。・
六月四日始之 天文廿四年孟秋単二
\蘇鑑饗墜四及暁天書之三関斎弓
︵一五七三︶,
天正元年騰十五及夜半写之 宗二、
縫類書葎育三藁時潮而記七輪
部大略抄黒闇 宗二r六十七才
尚書抄 十三巻序一巻、十三冊 片仮名交じり仮名抄nナ
異筆を交じえる 旨
リ三体 茶表紙原装 筆跡宗二筆に酷似するも、まま
史紘列伝 八冊 宗二筆 漢文注 茶表紙原注
識語 , ’、
恐恐謎箒糖照照三井竺四点了慮日求白紙可
.﹁清書之都督﹁判
︵一五七四︶
和尚御三也 宗二︵花押︶
天正弐年霜月廿五日三条西殿御回申出湯書写了 月舟
第四三三︵一五一四︶ 一
永正十一 十二写了 ,ご五
・ 描端埜照照三音了、 一
O輪牒二年仲冬昔艶難乾熱筆記紫雲之秘伝者
也大三都叔判
一五四番 ’−
百納襖二三研宗二筆、片仮名交℃り仮名抄ソ引リ
式混体 栗皮色表紙原装、︵第一・冊のみ披見︶
古文尚書 十三巻 六冊梅,三筆
﹁清原宣賢は、唐本をもとにし累代の家本を参考にして、書写加9
二五二番
五巻,一冊、京大図書館に第七・十港の二冊を留めるのみ。該書p
点本十三巻を作った。それらはいずれ竜散逸し、現在本館に第
へ
四壁入海 五十冊 梅仙筆ヵ 片仮名交じり仮名抄
縫雛蘂無声+八日宗二六+五才抄之
は原本散逸以前に、梅仙が書写本を作成して保存したもので、
宣賢加点本の全容を知ることができる孤本。
一五五番
周回抄 上下経 六冊 宗二筆力 片仮名交じり仮名抄
ソ三体 素表紙三三 表紙副題梅仙筆と云う 二賊本
月三三 二冊 近世初期写 片仮名交じり仮名抄 ナリ式
体浅黄色表紙原装
巻十一末︵一五七二︶
巻十七末︵一五八一︶
元亀三年壬申五月十七日抄之一宗二七十五才︵花押︶
天正九年畔六月七日抄三三 宗二 八十四才、
於一乗院門□孝経読申了
巻二十末︵一五七九︶
天正三韓十月四日連送抄出了 宗ニ
タ
杜詩三田 団団三∼十一,存九冊 片仮名交じり仮名抄
ナザ三体 薄茶色表紙陣雲
識語
燈H麺二途呈二月晋夜半第一誉リ第
−. ︹三盛力︺
四巻至ヲ書写了於泉南行田孫九郎宿焼場土蔵内書之為
薪能見物南都上[目筆了 []
一五六番
ご六
昏
糞擁塁三舞難擁爪尤抄之
春秋経回伝集解 三冊 宗二筆 漢文回訓 茶表紙筆墨
春秋経伝集解︹抄︺存巻三、六∼+七、+九∼三+存三
.冊 宗二筆 片仮名交じり仮名抄 ソ式七一
識語
巻三首︵一五四〇︶
天文九三三七月一有八日三三講南禅陽雲東長老聞書
じり仮名抄 ナリ・ソ三巴体 まま濁点あり
三三環三口義 二十巻序一巻 十三冊宗二筆、片仮名交
巻三十末︵十年一五=二︶
識語
篭堂重富之環三無璽東二二旙
永正三酉九月二十電
杜詩抄 二十巻 二五冊 宗二筆 汁仮名交じり仮名抄
天文八三[書三三 閏n
濫費
三八智育廿二日三三寺李伝講演次抄之
巻十三末
欝三番育晋絵隆喬坊瓦之︵林宗二三盛︶
羽十末︵一五三九︶
也三体 茶表紙三三
識語
三二末︵一五七一︶
元亀二年辛旧正月十五日抄三三以雪嶺和尚記聞書令清
書評也
三三 末
以雪嶺多少聞書井三三三三三三 宗二
【
一
ン
巻十四末 巻十五首 巻十八首︵三年一五三四︶
閏六 廿[ 六月九日 天文甲午卯月十四日
m葺妃九月廿吾蔀功畢西大寺愛染万座執行“
薪蘇妃七三吾於蔭旧記三脚含李伝結願了
ノ朕鑑背吉於法隆寺脇坊抄之正義四+糞之
安盛
三家詩法私愚存地巻 一冊室町末期写片仮名交じり
仮名抄.ソ三体 茶表紙原装
三体詩法抄.二冊 片仮名交じり仮名抄 也・ソ式導体
素表紙三三
︵一五三七︶
識語
委六六三具百破學
E抄客受於覇染筆琴蛋鍔暦漏壷霜寓居相州
金湯山早雲寺加朱点遂一校畢 団団鷲六一三関宗和誌之
古文三三抄 一冊 近世初期写 片仮名交じり仮名抄 ナ
リヘソ式益体栗皮色表紙原装
論語旧記 十三巻 六冊 宗二筆 片仮名交じり仮名抄−
茶表紙舗装 題籏﹁融融軽量﹂ .類本は本館、・蓬左文
﹂庫、.大阪府立図書館に架蔵
山谷抄 二十巻序一巻 六冊 宗二筆 片仮名交じり仮名
山谷詩評抄 二十巻序一.巻 二二冊 宗二筆 片仮名交じ
抄ソ式体まま濁点あり茶表紙原寸
.識語
り仮名抄 ソ三体 茶表紙四三
三三︵一五六〇︶︵ママ︶
永禄三年 醇霜月晦日抄之 宗二 六十四才
叢磐船九日前藁里長器量回錐与管
巻五末︵一五六七︶
三方毎日合戦 宗二 六十九才
永禄十年卿二月五日抄之 宗二 七十才
三時多門城[口之最中也 未知落居三三
馨+年三四月忌抄三三二七を攣評之
蘇九年知能龍華更出講宗二、山ハ+架
ダ
巻十四末
巻十五末
永禄十年七月十六日於一乗院殿陣中血染 宗二七+才
永禄九年丙寅三遠十四日桜之
蕪醸寅之分+二駒之宗二六+九才 ﹁
此時於多門城依右衛門佐殿所望 六鱈講之、
垂物華分吾於棄院監之多門城郭未落居之
ダ
間也 宗ご 七十才︵花押︶
七
磯回永禄+岳八 月 三 冠 乱 中 於 棄 院 殿 抄 之
ダ
宗二 七十才,
.麓蘇年繭七月+吾申刻抄之■宗二山臥+九才
.癒奪缶九書目抄童於棄院家詑劫乱中今夜私
山谷詩抄 二十巻序一巻 二一冊層宗二筆 片仮名交じり
り
宅可有放火之如何≧≧ 宗二 満七十才 薄墨
仮名抄 ソ団体 各冊表紙に﹁方/生﹂の適職あり、
柳文園 四三巻序一巻 六冊宗二筆栗皮色表紙聖経.
︵一五六五︶、
巻末識語
永禄第八乙丑十月朔日書写之了禅昌院継□首座本借用
[宗二.六十八才 不[書之
江湖風月集抄 三冊 宗二筆 片仮名交じり仮名抄 也、
ソ式三体 茶表紙原装
巻末識語
右此抄出者以 東海霜天両大和尚御聞書所令清書也先
︹原︺
是/三関居士於相州小田□年始瑠璃灯棚転記藍紙魚期
令抄出/飯洛紅絵居士不日臥病不幾逝 臨終之刻命予
日令続抄/之任遺命従旧史碩令清書之 二大江口義之
,外不加愚意/之一言誠可謂至宝努之割高外見 今日相
当大祥忌備之□前/重拭涙痕而已
︵一五六一︶ 、 ︵方/生︶
永禄四年竜集辛酉首夏廿九 宗二︵花押︶︵印︶
現状と利用
両足院は一寺院であるから、一般的な観念で利用し、目
用を語るには、今回筆者はどのような手続きを経て拝覧の
的を果たそうとするといささか戸惑う。そこで、現状と利
ことが、℃より実情にそった報告をすることができると思う
許諾を得たか、そしてその結果はどうであったかをしるす
ので、一つの参考として以下簡単に述べる。
当院は特に公開の形式をとってはいないので、利肘の手
務、要件︵目的︶、予定日三等をやや詳しく記し、それに、
続きなど三月わからない。従って、あらかじめ、,所属、任
もし許可が得られれば公用として参りたい旨をも書き添
え、私信で問い合わせた。その結果、折返し許諾の返書を
頂戴したので、早速正式の依頼状が館から発送された、と
.約束当日、来意を告げ、収蔵庫への立入を求めた。し一か
いうのがその経緯である。
いない厳しさである。そこで﹁目録﹂を一覧の上、閲覧資
し、以前盗難事故に遇ってからは、何人をも入庫を許して
拝覧を許された次第である。
料を提示するように促され、前掲の﹁抄物﹂を中心に選び、
ここで﹁目録﹂について一言すると、何時頃作製された’
ものか詳らかではないが、薄葉の青罫紙一四八枚を半折袋
綴にし、毛筆で記されている。記載は表号、書名、冊数が
[
一ち
二八
主な事項であるが、例えば、五山版は﹁五山﹂、溌籍は﹁唐﹂
丁寧に取扱う必要があるし、.当然ながら、誰彼に無制限に、
こうした現状に鑑み、’利用の際には飽くまでも慎重に嘱
足院に課せられた緊急の課題のように思われる。
に継承していくか、・その方策を探究七確立するこ乏が、両
ようである。資料の補修一つを取上げてみても生易しい事.
栖ではないり.今後どのよう忙これらの資料を保存し、後世
しかし、・・それ燃又非常に凹田な状況爬あ渇こども事実の引
有効に諸方面σ研究に寄与されていくことが切望される。
これら先達の残ざれた足跡を可能な限り保存し、一そう8
、憾得することもでき・る℃、
又戦国時代の激動期に身をおいてめその生き様を、如実に
しての価値鳳半減するのではないか、というのが率直な感
﹁
’想である。寺の隆昌発展ま︵歴代学僧の勉学に勤しんだ事.土三
蹟どが、これらの資料を通じて読みとるこどができるし、・ 一
・両足院の現存資料は、両足院に襲蔵されてこそ意義があ
.るっもし不幸にして散逸するような事態になればへ資料と
む.・す が
らの制約も必然である。
ての種々の催七もあるζとなので人手も足らず、その方か
は、住職御夫妻がすべてを預っている様でみり、又寺とし
閲覧ざせることは禁じているよドつであ、る。加﹀監て、..当院で
と明示し、刊特別、筆者の明らかなものはその昔を掲示して
驕i野駒辮℃﹁甥重器欝灘疑亀止落餌馬蝉
た。
料の将来を慮り苦衷の表情をかくし切れない様子であっ一
、といっても過言ではない。﹂応導いただいた御住職にも、.資
い。見た限りでは、これぢの資料は危機に直面し.ている、
’両足院は今財政的にどうなっているのか、.知る由もな、・
れないよ ケ で あ る 。
こうした状態から推して、↑勿論すべての資料が伺様であ
るとは断言できないが、保存状態ば良好であるとはいい切
いる中で、文字の失われている個所に幾度か出会った。
の辺に見た思いである。その他の資料も、’識語を解読して
ている状態で、,貴重な資料の価値が失なわれていく姿を目
三冊のうち第二冊は、恰も網の目のように虫に喰い荒ざれ
が、一例をあげれば、先に掲げた﹁江湖風月集抄﹂などは、,
無論一部を見て全体を論ずるのは軽率の彩りを免れない
たゆそれは、ある程度予想していないことではなかっ.允。
ず亦の資料を披見して、著しく三三が多いのには愕然之レゴ
状を知る機会がなかった。しか七、今回﹁抄物﹂関係のわ
右のような次第で入庫は許されなかったので、保管[の現
三下識紳詩華罎︶。
唱い
追 記
本稿を草するにあたり、両足院と林家との関係については、当
補 記
当館発行の﹁貴重書解題 第七巻﹂五頁に、 ,﹁周易抄.
院の現住職であられる伊藤東慎氏の著録にかかる﹁黄龍邊韻︵両
妻に、心から御礼申上げる。
も拘らずいちいち御相手下さり、多くの御教示を賜った住職御夫
、今回の探訪に際して快よく御許可をいただぎ、又在院中繁忙に.
いことをお断りしておく。
考させていた§いたqしかし、紙幅の都合で全くの粗略にすぎな.
.足院否年史︶翻三+二年型に詳述されているの臨、大方参
六巻 六冊﹂八足利学校旧蔵本︶の書写年代を、室町時代
末期から近世初期頃の写本として略述したが、その根拠
は、巻末二賊の前にある該書の書写者と目される[滴翠亭9
子﹂の墨記が、馳雅号その他から梅仙禅師︵慶長十三年十月
︵一六〇八︶
・+吉寂醤ではないかと議したことにあった。
梅仙憶、名を東通、別号を滴翠又は南華と称し、林宗二
の息男で、両足院の住持でもあった。
を憂慮し、よりよい保存を期待する△念から記したことで、全く
るが、平常貴重書を扱っている者の一人として見て、資料の将来
報告中に、両足院にとって礼を欠いた記事があるかとも思われ
他意はない。御海容を乞う。
現在両足院に架蔵されている ﹁周易抄﹂︵本稿二六頁︶
は、当館所蔵本と全くの同類本で些些宗二の自筆と目さ
︵いがらし・きんざぶろう 人文課主査︶
れ、表紙に記す副題は、梅仙の筆といわれる。
れたのであったが、この度両足院に赴きそれ以外の梅仙の
こうし允関係で或は梅仙の写しおいた一本かとも推測さ
感じさせる特徴に、共通するところもみられるが、筆跡に・
自筆本にふれ、筆跡を精査したが、・右肩上りの、・力強さを
・疑問があり、当館本を梅仙の書写にかかるものとは速断で
きないようである。従って、書写年代も或は、・近世初期を
下るものかも知れないゆ
なお、伊藤師によると﹁滴翠﹂は、梅仙の雅号ではある
が︵禅僧の場合に﹁滴翠子﹂とはいっても﹁滴翠亭子﹂と
である。
は用いないという御教示である。大方のこ示教を乞う次第
o一