言語における普遍と特殊ーうなぎ文の世界

言語における普遍 と特殊-うなぎ文の世界 神田外語大学 奥津敬 一郎
私は、 「ボクハ ウナギダ」ではな くで、奥津でござい ますが、あい もかわ らぬばか ばか
しいウナギのお笑いを一席 申し上げて、おあとと交代いた したい と思いますo
お手元 にハ ン ドアウ トを差 し上げました。特別講演 というなんか立派な名前なんですが、
タイ トルは、 「
言語 における普遍 と特殊」 というこれまた大 げさなタイ トルで、サ ブタイ
トルは 「うなぎ文の世界」、あい もかわらぬ鰻の話でござい ます。
この内容は、アルクの 「日本語」 という雑誌に、8
8年 に、 2か月にわたって書いた もの
なんです。ここには、 くろ しお出版からも福西君が来てお りますか ら、ちょっとコマーシ ャ
ル をや らせていただ きます と、これが 、かの 「
ポタハ ウナギダの文法」 とい う、私の本 を
んですけれども、皐近の掛 ま、去年出ましたnそこに増補版 として、 この 「日本語」 に書
きました ものを加 えましたので、私の話 しますことは、 これに書いてあ ります。あるい は
お読みになった方 もい らっしゃるかもしれ ませんO
今 日は 「ボクハ ウナギダの文法」の文法的、あるいは言語学的な分析 を申 し上 げるわけ
ではなくて、これに関 して、 日本人の言語観、あるいは 日本人の 日本人論 とい うか、 そ う
い うような ものを申 し上げたい と思ってお ります。
ハ ンドアウ T
・
の まず最初の 「うなぎ文論争」というところです
。「ぼ くは太郎 だ」 とか
「ソクラテスは人間だ」 とい う文は、同一文などと呼ばれているわけですね.つ ま り、
rぼ くは太郎だ」 という場合、 「ぼ く」 と 「
太郎」 とい う二つの名詞 をイコールで結ぶ、
そのイコールで結ぶ ことを表すのが、 この 「だ」であるとい うように言われてい ます。そ
o
pul
aだと、こう言われていて、
ういうような論理的な意味を持 っているのが、いわゆるc
日本語ではそれが 「だ」であるし、英語ではbe
動詞であるとい うようなことなんです ね。
私 もずいぶん長い間日本語教育にも携わってお りましたけれ ども、例 えば、日本語教育
で も、たいていの教科書は、 「これは本です」とか、あるいは 「
私は 日本人です」 とかい
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うような同一文か ら始 まる。英語の教科書 も、私が習 った中学校 時代 の教科書は、 "
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とか"
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"とかい うようなものから、始 まりましたO
ところが,我々は、そうじゃない ような 「だ」の使い方 をしてい る、 とい うことなんで
すねoこれが、 日常会話 とか、コマーシャルメッセージとかなどに頻繁に使われてい ます 。
これは大分昔の話なんですけれども、金田一春彦先生が、ある時 3チ ャンネル に出てい
らっしゃも、ました.留学生 をた くさん集めまして、金田一先生が 日本語学校の校 長 さん と
い う役割で、 日本語 に関するいろいろな質問に答 えるとい う番組で した。その中で、たぶ
んインド人かパキスタン人が、金田一先生 に質問 しました。国で少 し日本語 を習 って きた、
つ まり 「これは本です」みたいな ものはもうすでに習 って きたんですね。 ところが 、東京
-やって来 まして、 日本人の友達 と一緒にそば屋 に行 った とい うんです。そ うす る と、 そ
のそば屋で、友達の 日本人が 「ぼ くはたぬ きだ」 とか 「
私ほおかめ よ」 とい うように注文
したというんですOそれで、その学生はびっくりしまして、 自分が習 って きた rこれは本
です」 とい うような同一文 とは全然違 う。ぼくイコールたぬ きとか、私 イコールおかめ、
というのはおか しい、 というようなことを、金田一先生 に質問 してい ましたo実 は、 この
-4
3-
うなぎ文 に関す ることは、私 は奉を一冊書 きましたけれ ども、その起源 をさぐると、 どう
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iさ又については、金 出-先生あた りが最初 に問題にされた ようですO我々日本人
は、 日常会話で よくこの うな ぎ文をやっているようですねo Lか し、 日本人はそれに気が
つかないで、外 国人がそれに気がつ く、ということはよくあるo これは日本語教育 を我々
はやってお りますか ら、 日常経験 していることで、 日本人が気がつかない ことを、かえっ
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=の rだ」の問題なんです〔
)それか ら、いろいろと調べて、い くつ
か論文 を書いてい くうちに、ひとつの本になったわけです.そんなわけで、 日本人は案外
気がつかないんですけれ ども、このうなぎ文 というのは、毎 u
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jの ように使 っている、これ
が 日常会泰 におけるうな ぎ宴 ということですね。
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≡れは、筑波の方などはごぞん じかと思い ますが、今東北大学にい らっ しゃる大坪 さん
という方か ら聞いた話なんですが、彼が元アメリカ U方ナダH大学 日本研究セ :
′ダーで仕
事 をしてお られた L
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一は赤坂の辺にあったんですね。そうした ら、パスで確か
虎 ノ門か ら六本木あた りに衝 くj
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が いたんですねo虎 }門か ら六本木へパ スで解 くのに、
乗 り換 えを きゃいけないんです。乗 り換えはどこですか、どこで乗 り換 えますか、とい う
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=とをある人が闘い詫言。それに対 して 「
六本木は滑油です」と答 えた とい うんですね。 こ
れ も、六本木 と漕池 は近いんですけれども、六本木イコ一両 留池では もちろんないO ギス
/に行 くのにはどこに行った らいいか とい うとt
_モスクワで乗 り換 j
きる、 とい う
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jに、 「十スタ:
-デ ー舟はモ スクワです」 とい うようなことも、 日本 人
だ っ た ら 平気で言
うわけですねoそんなわけで、日常会着の率で も、 うな ぎ文 というのはよく使われている
とい うことなんですoこれは、あげればきりがなh
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3んですけどO
まあ、その くらいに しまして、それか ら
ですが、今日ここに持 って参 りましたの
、CM
は、何年か前の新聞広告で、ちょうどお中元なんです。これは例の壇ふみさんなんですが、
「
壇 さんはコーヒー
ーです」 と書いてあります。 これは、コL
-ヒレ の会社のコマーシャルメッ
セージですね. これ もうなぎ文だろうと思いますo
テ レビでは、 もちろんた くさんあ ります。私が一番初めに気がつ きましたのは、 もうだ
いぶ前ですが、今 ジャイアンツでだいぶ格下げになって しまいました、原辰徳が東海大学
を卒業 して、ジャイアンツに入ったころですo誰で も知っている人なんです ねO車のコマー
シャルメッセージに出て参 りましたO確か背広 を着てバ ッ トを担いで出て くるんです。後
僕はスバルです」 ということを言 ったんですねoこれ
ろを車がひゅ一つと通 りまして、 「
をもし知 らない外 国人が聞けば、 「あの人はスバルさんか」 とい うように思 うで しょうねo
Lか し、 日本人な ら誰だって、これは原辰徳だっていうことは知 っているわけですか ら、
「
僕はスバルです」 とい うのは,後ろを通 っている車のメッセージである、 ということが
す ぐわか ります。
それか ら、 しば らくしまして、今度は薬のコマーシャルメッセージがあ りました。胃腸
薬 を持 って出て きまして、 「
僕は武田です」 と、こう言 ったんですね。 これは武田鉄夫が
出てきたんです。薬の会社 は武田製薬なんですね。武田製薬の胃薬 を見せて、 「
僕は武田
ー4
4-
です」 と、こう言 ったわけです。 これは、つまり 「
僕はスバルです」ではお もしろ くない
ので、 もうひとつひねった訳ですね。つまり武田鉄夫 を起用することによって、僕 イ コー
ル武田だと、こうい うことをまず言うわけです。これは自己紹介、同一文です。 しか し、
同時に薬 を見せて 「
僕は武田です」 と言いますか ら、これは 「
僕 はスバルです」 と同 じよ
うに、武田製薬のメッセージになるわけです。そんなわけで、テ レビにもめったやた らと
出てきます。
それか ら、その次は、ち ょっと高尚な話になるんですけれども、古典のうなぎ文です。
現代語で、我々はめったやた らとうなぎ文 をしゃべ ってお りますけれ ども、一体 日本 人 は
いつごろか らうなぎ文 をやったんだろうかと、これは大体 において、話 しことばに出て く
るので、あまり書 き言葉 には出てこないん じゃないかと思 うんですが、そういうこ とはな
いんです。そこで、ハ ン ドアウ トの右側 を見ていただきます と、万葉集なんです。有名 な
額田王の歌 ですO長歌 なんです。 まず、詞書があ りまして、
「
天皇、内大臣藤原朝臣に詔 して、春山の万花の艶 と秋 山の千葉の彩 とを競燐 は しめた
邑
まふ時、額置主、歌 を以 ちて判 る歌_
こうい う文脈があ ります。天皇が藤原朝臣に命 じて、家来たちに質問 をして、歌 を作 ら
せたわけですね。その質問 というのが、春の山、これはもう花が咲いて大変 きれいである、
万花の艶です。それか ら、秋の山、これはご承知の とお りで、紅葉、 もみ じが きれいで
あると、千葉の彩です。いったい春の山と、秋の山とどっちが きれいなんだろうか とい う
質問をしたわけですね。家来たちに 「お前たちどっちがいいか、答 えてみ よ」 と、 こうい
うような質問をされた。そこで、額田王が歌で答 えたわけなんです。長歌なんですが 、
「
冬 ごもり 春 きり来れば 鳴かぎ りし 鳥 も来鳴 きぬ 咲かざ りし 花 も咲けれ ど 山 を
茂み 入 りて も取 らず 草深み 取 りて も見ず」
ここまでが、春の山に対するコメン トです。つ まり春がやって参 ります と、今 まで鳴か
なかった鳥 もやって来 まして、にぎやかに鳴きます。今 まで咲かなかった花 もきれい に咲
きます。 しか し、この春、あるいは初夏で しょうか、山は木の葉が茂 って、なかなか入 っ
ていって、そこで花 を取 って鑑賞するわけにもいかない。つ まり昔の女性ですか ら、長い
もすその衣装 を着ていたんで しょうねo今の女の子みたいに、スニーカーはいてジーパ ン
でどんどん入 って行 くとい うわけにはいかない。それか ら、野原に行 きます と、 これ もま
た革が非常 に深 くはえているんですね。そういう草原に入っていって、花 を取 って見 るわ
けにもいかない。ち ょっと春の山は困ると、彼女は考えたわけですね。 ところが、秋 の山
に参 ります。
「
秋山の 木の葉 を見ては 黄葉 をば 取 りてそ しのふ 青 きをぼ 置 きてそ嘆 く」
秋山は、今度は もうそろそろ木の葉 もあまり茂 っていないので、女性たちも長い もすそ
を引 きず りなが ら、山-入 ってい くことができる。それで、紅葉 したのを取 って、 それ を
鑑賞することがで きる。あるいはまだ青いのは、そのままに してお く。結局彼女の結論 は、
「そこし恨め し」 というのは、今のお化けが言う 「うらめ し」 とい うん じゃない んだそ う
です。 これは解釈がいろいろ難 しいそうですが、要するに、秋の山は、私たち女 の子で も
山の中に入 っていって、いろいろ鑑賞することがで きるか ら、そ こがいいんだと、彼女 は
O「そ こし恨め し」です。だか ら、次が一番大事 なところで して、
考 えたわけですね
「
秋
山われは」 と、この長歌 を彼女は結んでい ます。 これは もちろん倒置文ですね。正置文 に
-
45 --
します と 「
我は秋 山ぞ」 とこうなるわけです。
つまり、現代語であれば 「
私 は秋山です」 とい うことなんですね。 この 像 は秋山です」
とい うのは、今 は西武ライオンズをやめちゃいまして、 ダイエーホークスで打 ってお りま
す、秋 山 というホームランバ ッターが言 えば、 これは もちろん同一文 なんですが、 この場
合の 「
私は秋山です」 は、 もちろん 「
私は秋L
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がいい と思い ます」 とい うような意味にな
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か らこそわかるんです。つ ま り天皇が、 「
春の山と秋 の山 とどっちがいいか」 と、 こうい
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私は秋山がい い」 とい うように天
皇 に答 えた、 とい うことにな りますo これが、
▲私が知 っているか ぎりでは、一番古い うな
ぎ文、 とい うことにな ります 。
その次が、かの有名 な枕草子 なんですOこれは、中学あた りで習 うのでb日本丸な ら誰
「
春はあけぼのo」
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春はあけぼの」 でマルですOつ ま り、現代語で
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春はあけぼのだ」 とい うことで しょTうO これは案は、ご承知,
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の 第一段、つ ま 言
プしょっぱなに出て くるわけで して 、先程の万葉集の ように、天皇 が b春
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)山 と秋の山 とどっちがいいか、と質問 した、 とい うような文教 な しに、だ しぬけに畠で
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のクラスなんかにL
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春 はめ両 君の」こい うように表われもや ;
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「やうや う しろ くな り行 く、山ぎはす こしあか りてーむ らさきだちた る雲 のほそ くたな
びきたる。」
ここで連体形 で結 んでお りますOつ ま り、山の ところに、む らさきだちた る書が、細 く
たなびいているの、が、 どうなんだ、 とい うことが、 ここに書いてないですね。つ まり述
語がないんです。名詞だけ、ぽこっと出て くるわけですね。で、段落終わっちゃい ます。
そ こで まだその謎が解 けないわけですね。その次の段落 に行 きます と、
「
夏は よる」
だ と、 こうまた出て くるわけですね。 また して もこれはわか らないですね。夏は夜が ど
うなんだとい う述語が出てこない。で、
「
月の頃は さらな り、やみ も別 ま、ほたるの多 く飛 びちが ひたる。」
と、これ また連体形で止 まってお りますので、月の頃、闇、ほた るがた くさん飛 び違 っ
ているの、が、 どうなのか、 ということが また書いてない。
「また、ただひ とつふたつな ど、ほのかにうちひか りて行 くもをか し。」
と、ここで初めて、 「をか し」 という形容詞、述語が 出て きて、文 として完成す るわけ
ですね。つ ま り、ほたるが一つ二つなど、かすかに光 って、飛 んで行 くOそれはなかなか
「をか し」大変趣が ある、なかなか よろ しい、 とい う意味にな ります ねO ここで初 めて謎
-4
6-
が解けるわけなんです。
つ まり 「
春 はあけぼのが をか し」 という、最初の文は 「をか し」 とい う述語が あったは
ずなんですね。 これが省略されているんで しょう。春はあけぼのが よろ しい。雲の細 くた
なびいているのが、 また よろ しい と。で、夏にな ります と、夏は夜が よろ しい。ほた るが
た くさん飛 んでいるのが よろ しい と、こういうことで、すべて今 まで出て きた名詞句 は、
主語であって、その主語 に対する述語は 「をかし」である。 とい うことが、やっと第二段
のここに来てわかるわけですね。 「ほのかにうちひか りて行 くもをか し」 とい うこ とにな
ります。
そのあ とは、やた らとをか しくな りまして、
「
雨など降るもをか し。」
とす ぐまた 「をか し」が 出て参 ります。あ とは省略致 しますけれ ども、
「
秋は夕暮 。」で、 もちろんまた秋は夕暮れが よろ しい、 とか、あるいは、
「
冬はつ とめて。」冬は朝早 くが よろ しい、とか、そんな具合に して、この第一段 が終
わるわけなんですね。これはまった く文腺なしに出て きます。そこで、なかなか理解 しに
くいんで しょうが、 「
春 はあけぼの」 とか 「
壇さんはコーヒーです」 とか 「コーヒーギ フ
トはAGF」 とか、 こういうような言い回 しが、 日本語 としては定着 しているんで しょう
ね。 「
花は桜木、人は武士」 とか、あげればきりがない。そんなわけで、たぶん もう一種
のパ ターンになっているので、文脈なしにいきな り 「
春 はあけぼの」 と言 って も、 「
春は
あけぼのがも1
いJとい う意味に、だいたい理解できるんで しょう。
しか し、決 していい とぽっか りは限らない と思い ますね。落語に 「まん じゅうこわい」
というのがあ ります けれ ども、これは、何がこわいかということを友達同士で話 してい ま
して、ねずみが こわいの、-びが こわいの と、こう言ってい ますね。そうすると、-そ 曲
が りの男がいて、 「
僕はまん じゆうだ」 と、こうい うわけなんです。 「
僕 はまん じゅうが
好 きだ」 とか 「おい しい」 という意味ではな くて、 「まん じゅうが こわい」 と、 こうい う
意味になるわけですねoそういう場合 もあ り得ますか ら、パ ターンとしては、春 はあけぼ
のがいい、 とか、花 は桜がいい、 とかいうことになるんで しょうけれ ど、必ず しも常 にそ
ういう意味ばか りとは限 りません。定型化 している場合 は、春 はあけぼのがいい、 と理解
されるんだろうと思います。
そんなわけで、古典の中にも、うなぎ文があった、 とい うことがわか ります。 こう して
見 ます と、 日本人 というのは、昔から現代 まで盛んにうなぎ文 を使 っていた とい うことが
裏づけ られると思い ます。
なお、 日本語教育の世界 でも、い くつかの教科書 を調べてみ ましたけれども、 うな ぎ文
がた くさん出て参 ります。例えば、私が見たのは、 もうずいぶん昔の話なんです けれ ども、
海外技術者研修協会の 「にほんごのきそ」 。あれは初級 日本語なんですが、確 か 5週 間の
コースで、全部で3
0課 ぐらいですかね。ずっと調べてみましたけれ ども、最初の方か ら終
わ りの方 まで、それぞれの課に、 うなぎ文がた くさん出て参 ります。た とえば、 「いつ 日
本 にい らっ しゃい ましたか」 「きのうです」 とか 「ここか らどこどこまで、 どの ぐらいか
か りますか」 「
30分 ですJ とか、 こんな具合にして、教科書の中に、 うな ぎ文がた くさん
出て参 ります。
ただ、 「にほんごの きそ」は、そういうことはあまり意識 しなかった と思いますが 、川
- - ・17
-
蘭 さんの作った、国際交流基金の 「日本語初歩」には、 もう意識的にうな ぎ文が取 り上げ
られてお りまして、かな りあ との方になってか らですけれども、いろいろな文型が豊示 さ
れたあ とで、文型練習の ように、うなぎ文 を作 る練習 というのが出ています。
例えば、 「
僕はコーヒーを飲みます」 という文があ ります と.
、それは 「
僕はコーヒーだ」
というんですね. うなぎ文に変えるとか、そういう練習 をさせるような課が確 かあった と
思います。
そんなわけで、 日本語教育の世界でも、無意識的に もちろんうなぎ文がた くさん出て参
ります し それか ら、意識的にそれをプラクテ ィスで取 りあげるというような教科書 も、
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が昔か ら今 までた くさん取 り上げられていた.
;ということがわか ります。
さて、先程最初に葡介 しました外画人が、このうなぎ文の存在を脊妙 に思ったんですね。
というのは、彼の頭 の中には、 「これは本です」 とか 「
私は太郎です」 というような、同
山文 としての rだ」のはた らきしかなかったわけです。つま りc
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aとい
うのは、
∵西洋の伝統 で、 このイスタンプ1粘とかもあるいはアテネとか、古代 の文化が栄
えたところで,
∴ アリス トテレスの古典論理学あた を
?で始 まったそうですけれども、
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aという言葉があるO これはラテン語でC
叩ui
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Tとい う動詞、 つまり終びつける、とい
う動詞の名詞化 だそ うですけれども、そのc
o
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aというのは、つ まり主語である名詞 と述
語である名詞を、等 しを竜もの とLて審びつける、ということか らc
c
'
pui
aとい う名前が出て
繋辞」 、つま り 「
つなぐ言葉」、 というよう
きたそうですo B本の論理学では、それを 「
に訳 してお りますoあるいは∼文法ではそのままコプラなどと優 っている0時枝文法では、
確か 「
だ」 とか 「で」 をコプラと言っていたように思いますけれ ども。英語の場合ですとi
.
天ぴん塾で、真ん中に 「だ」があって、つ ま 的 e
動詞があって、二つの名詞を結びつけk,
o
日本語は二つの名詞が最初 に出できて、最後に 卜だ」が来る。そんなような構造は違い ま
すけれ ども、要す るに 「だ」 とかbe動詞 というようなものは、c
o
pu1
aである。西洋の文法
で も、c
opul
aという言葉 を優 っている文法が多いようですねoそ うい うようなことが頭の
中に入っていますので、 日本 に来て、 「
僕はたぬきだ」 とか 「
私はおかめ よ」 なんてV,
う
と、外国人は大変奇妙 に思 うわけですo
外国人が奇妙 に思 うだけならいいんですが、そこか ら、 日本語 というのはおか しな言語
o
pul
aとい うのは、論理学の基本原則 を表す大事 な言葉であるに もかかわ ら
である、 と。c
ず、日本人は 「だ」 とい うのを、結びつかない ものを結 びつけて しまう、 とい うおか しな
ことをやっている、 と。 もっとも私の先生は西田哲学の先生で したので、塵対矛盾の自己
同一なんていうことを平気 でやるんですけれどもoそういうことで、西洋的な論理学か ら
いいます と、 日本語のうなぎ文の 「
だ」の使い方はおか しい、 ということにな ります。そ
んなことか ら、それ を一般化 して、日本語 とい うのはおか しな言語である、非論理的、非
文法的な言語である、 とい うようなことを考える人が、外国人な らまだいいんですけれ ど
も、 日本人でそうい う人がいたんです。
ここに石田先生がい らっ しゃいますけれ ども、パ リ大学で長く哲学 を教 えてい らっ しゃっ
た森有正先生 という先生がい らっしゃるんですね。有名なフランス哲学者です 。 ICUの
客貞教授で もあ りましたので、私 も 王
CUに長 く教範てお りましたが、夏の休みなんかに
なってきます と、集中講義 をして下さったので、講義をお聴 きになった方もこの中にい らっ
- 48 -
しゃると思い ます。その森有正先生がパ リ大学で哲学 を教 えてい らっ しゃったんです けれ
ども、同時に日本語 も教 えてい らっしゃった。とい うことは、ここにい らっしゃる方々は
もうご存知だろうと恩 うんですけれども、他の日本人はあま り知 らないですね。だけ ど、
森先生 も実は我々 と同業者で、日本語の先生でもあった。教科書 も書いてい らっ しゃる。
しかし、何 と言 って も本職は哲学で、その森先生が 、1
971
年に 「
経験 と思想」 とい う岩波
の 「
思想」の1
0月号にお書 きになった大変長い、むずか しい論文があ ります。私 も実 は元
の職業は哲学だったんですけれども、哲学 をやっていて さっぱ りわか らなかったんで、 こ
ち ら-迷い込んで きまして、迷い込んだ方が蘇局良かった と思 ってお りますけれ ど も、哲
学者の文章 とい うのはめったやた らとむずか しいですね。 この先生の論文 も相当むずか L
vlです。
この 「
経験 と思想」 とい う論文の中身は、森先生が フランスで 日本語 を教えてお られて、
日本語についていろいろ とお考えになられることがあったoそうい うことか ら日本 人の思
想というものを日本語を通 して考えてみ よう、とい う論文なんです。例えば、これ、 それ、
あれの ような指示詞でう とか、人称代名詞 とか、そ うい うものを通 じて、 日本人の思想 と
い うものを考 えてみ ようとい うのがこの論文です. この論文の中と、 もう一つほかの、確
か月刊 r
言語」の創刊号 に川本茂雄先生 との対談があ りました。その対談の中で、森先生
はうなぎ文にふれてお られるんです。つまり、森先生のお考 えでは、 フランス語 とい うの
は大変論理的で、フランス人の思想 というのは、明断判明であるとか、そ ういうような こ
とをい うわけなんです。それに対 して、日本語とい うのは、非明断、非判明的な言語であ
るということにな ります。つまり、同一でないもの を結びつけちゃうわけですか ら。 した
が って、 このうなぎ文の存在 というのは、森先生 にとっては、フランス語 に比べて 日本 語
というのは、非常 に非論理的な言語である、というように思われた らしいです。そ この と
ころは、大事な ところですので、ちょっと引用 させていただ きたい と思 うんですが 、 これ
は、川本茂雄先生 との対談の ところですけれども、
「『僕は魚です』 をフランス語に訳す とJestlistlnpOisson.なんですけれ ども、 どこに も
そんな ものはあ りません よね。特に西洋人の先生が非常 にお もしろが って、 日本語 は不 思
議 な言葉だ、と言って、非常に神秘的に説明しちゃうわけです よ。」
次に、 この 「
経験 と思想」の 日本語についての ところを引用致 します。まずこうい って
いるわけです。
「フランスの大学生 に日本語 を教 えることは、非常 に困難である。」
別にこれはフランスの大学生だけに限 らないと思い ます けれ ども。 どんな外国人 に教 え
るのも、大変困難であることは、言 うまで もありません。
「
普通それは記載法の相違、例えばアルファベ ッ トの代 わ りに、シラブルの記号 であ る
仮名を使用すること、のせいにされているが、それは決 して最大の困難ではない.」
と森先生はおっしゃっています。つ まり、文字が難 しい と普通はいわれているんです ね。
かなはた くさんある し、漢字は二千、三千 と覚えなければな らない。大変だといわれてい
るけれ ども、森先生 によると、決 してそれは最大の困難ではない とおっしゃってい る。 で
は何が最大の困難か とい うと、
「
私は、一番大 きい困難 は、 日本語は、文法的言語、すなわちそれ自体の中に、 自己 を
組織す る原理 を持 っている言語ではない、 という事実 にあると考 えている。」
-4
9-
と、こう書かれてい るん で、
すねo これはなかなかわか りに くい文です よ。 日本人が読ん
だって、 1回や 2回 じゃわか らない。黒坂があれば、ツ リー を書いて分析 をしたいんです
。「私 は何 だ」 とす ぐに述
が。つ まり、 「
私はJ と最初 に主語、あるいは主題が出て くる
語が出て くると、 これはわか りやすいO ところが 「
私は」 と出て きて、その次 に 「
一番大
きい困難は」 とまた主題あるいは主語が出てきます
。ト 番大 きい困難は何だ」 と出て く
れば、わか りやすいんですけれ ども、 「
私は、一番大 きい困難は、 日本語はr
jとまた 「
は」
が出て来るD三つの主語あるいは主題が連続 して出て きますので、ずーっといったあ とで、
その主語に対す る述語が三つ、ぼんぼんぽんと並んで出てこな くてはいけないですね。そ
対応す るか とい う、マ ッチ ングの作業 をや らなければな らないですねO これは大変難 しい
いうんですねL
l串心 に文が埋 め込 まれている、その外側 にまた主語述語がある、その また
外債障 主語述語があ る,と、こういうようを構造なんです。 こういうやつは 〟
審理解 しに
くいんだとい うことをチ ョムスキト
ーがま
960何年かに言 ってお ります。彼 は、英語 をあげた
んですが、英語で も日本語で もどんな言語で も、あると思い ますL
l亡 くなった方に対 し,
[
:
失礼なんですけれ どぜ
1
,
.
上森先生 はパリ大学で日本語 を数 えでい らっしゃったに もかかわ ら
ず,残 念なが ら森先 生の文 はー作文の教師 としてコ
は、ち ょっといけをいん じゃないで し ょ
うかO私だ.
二
)
た ら- もッとわか りやす く、 くだいて、教 える、書か凝 る、あるいは 自分 で
も書 くだろ うと思い ます けれ ども。
要す るに森先生 は、 日本語が鮭 Li
,
甥 は、 日本語に文法がか ′
藩 らだ、 とい うかな を
3大
胆 な発言 をなさったわけです ねOこれは もう、皆 さんは NOと答 えるに決 まってい るんで
すがO逆に言えば、森先生 の頭の中では、 フランス語 とい うのは、大変合理的な言語で、
きちんとした文法が ある、 とい うように考 えてい らっ しゃるわけですo この時は71
年です
が、私 ははずか しなが ら知 りませんで したoこれに対 して、洗剤 をしたのは、外国人で し
た,それは・
. ドメ二 コ qラガナ とい う人です。 この人はイタリー系で、国籍はア)
i
'
ゼ ンテ
ンですOた また ま日本語 にふれて、取 りつかれちゃったんですね。東学で勉強 したそ うで
す。で、 日本 にい ちして、 もうずいぶん昔の話ですけれ ど、朝 日新聞やなんか に、 「ラガ
ナ一家の 日本 日記」 とか、そ ういうのを連載 されて、それが本 になった りとか して、大変
活躍 された方ですO法政大学の教授で、何年か前に電鼓 した時には、 もう病気 で大学 には
ほ とん ど来てお られな くて、一番最近は 『これが 日本語 か』 とい う本 を出 してい らっしゃ
るんです。
これはだいたい、私 はや り玉 にあが らなかったんです けれ ども、井上和子 さんとか変形
文法で 日本語 をやってい る人たちがあげている例文が、 これが非文だ とい うのが、実は正
文であった り、正 しい と彼 らが言う文が非文であった りす ることが多いので、 ラガナ さん
は、法政大学やなんかのた くさんの学生に、調査 をしました。何千 とい う調査 をしたんで
す。その結果、 『
変形文法 と日本語』 とか、久野 さんの 『日本文法研 究』 とか、そ うい う
ところに出てい る例文の中で、 日本人の学生が見 ると、著者 はいい といってい るけれ ど、
だめ
J
・
だ、 とい うのが た くさんあるし、著者 はクエスチ ョンマークやアステ リス クがついて
いるけれども、いい、 とい うのが、80% も90% もあるんです ね。そうい うことを非常にて
-
50-
いねいに調べたのが、 『これが 日本語か』 という本 で、私たちも大いに気 をつけな きゃい
けない、と、私は胃々思います。祭訂な前ですけれ ども、なるべ くな らば、作例 に よらず
実例 をで きるだけ集めて、その上で、必要ならば作例 を作 って文法研究をやるとい うのが、
方法 としては正 しい方法だろうと思ってお ります。
975年に文春か ら出て もう絶版 になっ
このラガナさんが、森先生のこの論文を読まれて、1
た 『日本語 と私』 という、彼の論文集 とい うかエ ッセイ集、 この中に載せ られてい るんで
すけれ ども、1
970年 にペ ンクラブで講演 をされたんです。その講演の中で、ラガナ さんが
森先生のこの論文 を批判 されたんです。それは、そのまま引用 したい と思い ますが、
「ろ くにテこヲハの使い方 も心得ていない私が こんなことを言 うと、あつかましく聞 こ
えるだろうが、森氏の主張は独断のように思われてならない。最大の困難は記載法 の相違
ではな く、文法の相違である、というぐらいのことな ら、異議はあるまい。」
つ まり、森 さんは文法がない、と言ったんです けれ ども、妊 しいのほ、文法が違 うか ら
なのだとい っな ら、それならわかる、 とい っんですね。
「しか し、 日本語は文法的言語、すなわちそれ 自体の中に自己を組織する原理 を持 って
いる言語ではない、 と言われては、納得がいかない。森氏 には失礼だが、この ような断定
の裏には、 日本人をユニレクな人間とする心理が働いているように思われてな らない。私
の考 えでは、どの言語で もそれ自体の中に自己を組織する原理、法則を持っていると思う。」
このようにラガナさんは、森先生 を批判 されたわけです。つ まり、フランス語 だけ に文
法があるん じゃない。 日本語は文法がない と言うが、そんなことはない。 どんな言語で も
文法があるのであって、文法が違 うか ら難 しいんだ、 と、ごくご くあた り前のことを、言
語学の常識で しょうけれ ど、こういうことをラガナ さんはおっしゃって、森 さんを批判 さ
れたわけですね。そのとお りだというように思い ます。残念 なが ら森先生 は言語学者 では
な くて、哲学者で したか ら、そういうことに気がつかなかった。 これは私 自身の 自己批判
で もあるんですけれ ども、つまり明治以後 日本の近代化 においてほ、我々の目は西 の方 を
向いていた。なんかあっちの ものは、みんなよろ しい というように思 っていたんで しょう
ね。それが明治以後、おそ らく現代に至るまでの、 日本人の西洋観、それをひっ くり返 し
nf
e
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r
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o
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xになるん じゃ
ます と、 日本語あるいは 日本文化、 日本人に対する一種 のi
ないかと思い ます。あるいはそれを少し拡大すると、非西欧的な世界、アジアの世界 とか、
そうい うものに対す る一種のコンプレックスにもなるん じゃないかと、そ して、逆 に言 え
ば、今 日本は経済大 国ですけれども、それがアジアの諸 国に対す る優速感にもつなが って
くるん じゃないかとい う、そういうような間蓮を、実ははらんでいるんではないか と思 う
わけです。森先生 には失礼ですけれど、森先生 も、なにか彼 は明治の文明開化の時の、文
部大臣の森有礼 さんとい う方の御子孫だそうです。森文部大臣は 「日本語 をやめて英語 に
しろ」 とか言った とい うことを聞いた ことがあ りますけれども、そういうことを言 った人
の子孫でい らっしゃるので、 日本語 というものに対す る-種のコンプレックス を持 ってい
らっしゃったのか もしれ ません。 しか し、それを外 国人のラガナ さんが批判 して くれる、
というのは、負 うた子 に教 えられる、 と言 うんで しょうか、恥ずか しいような気 もします
けれど、事実ですか ら仕方がない。
それに対 して、 また、その次に、本多勝一 とい う人が、 これ また ご承知か もしれ ませ ん
が、かつて朝 日新聞の新聞記者 をやっていた。だいたい新聞記者 というのは、鼻 っ柱が 強
-
5 1
-
いんですけれども、 この人は人一倍強い人で、ベ トナム戦争の時なんかは、猛烈に反ベ ト
ナム戦争の論陣 を張 った人ですね。この本多さんは、1
97
6年 に 『日本語の作文技術』 とい
う本 を書 きましたO これは一枝は物書 きですか ら、朝 日カルチ ャーセ ンターでー非常に実
践的 ・経験的な文章論 とい うか、表現法 というクラスをやって、これ を書 きました。大学
には表現法 とい うクラスがあって、私 もこの本 を優 って、 日本女子太の時にやった ことが
あ りますo彼 らしく、その頃は果甲田にE
j不語の文法 とか、言語学の不 とかを読んでいま
して、その頃私 も彼 と会 ったんですけど。 この 『日本語の作文技術』の中で、彼は、森 さ
んの論文 と、ラガナ さんの論文 を覇介 しまして、また、 これはラガナ さんとは違って、相
当痛烈を敦華 を書いた ∠
rで
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) ナ1
,
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て泌r.
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ぎ鼻わい レ誠一
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の論文 を引摺 し、それか らラガナさんを引用 したあとで、こう言 :
>ています。
「まことにそれ 自体の中に、 自己を組織す る原理を持 っていないのは、森粛正氏 日新 だ
あろう。」
私の方 でちょっと紹介 しているだけで、私が批判 しているわけではあ 妄
プませんOこれは
う ごい ん で 璃 よ,
_
.
「日本語 をフランス語に訳す初歩的な力がはた してある0
)だろうか。その森有正氏がパ
リ大学で濃 く日本語 を教 えていたというのだか ら、ことは一学者の無知 にとどまらず、 E
i
弘両国の公的文化接触での盛大なミスキャス トでもある。 これ もまた植民地塑知識人の一
一
人をのであろう。言葉についての森粛正氏の無知 ・鈍感が彼の専門としての哲学、ひいで
は rものの考え方」の本質にまで及んでいなければ幸いだが O」
と、こう書いてあ ります。 この批判、植民地塾知識Å とい うのは、彼のキー
ーワ一
一ドですL
l
つ まり、彼の E
3
本文化論です よねo私 自身 も、かつて学生時代は_
b ドイツの哲学や ら何や
らやってお りましたので、 削 孟酉の方 を向いていた、植民地塑知識人の-,
人であったO幸
。t
j
I
い 日本語教育 をやったおかげで、日本語というものをあ らためて見直す ことができた.
本譜 というものに誇 りも持つ し、いろいろな開港 もある し、要す るに世界 中の言語はみん
な同 じようなもので、それぞれの特色があ り、文法があるんだ、 ということにやっと気が
ついた。そうい うことで、本多 さんは森先生のこの論文 を痛烈に批判 してお られた、と同
時に、これは単 なる言語の問題ではな くで、 日本人の 日本語観、 日本人観、 さらには、日
本文化観 とい うもの とつなが って くる、と、そういうことですOたった一つの うなぎ文の
間蓮が、 日本語全体、あるいは言語、文化の問題などに拡大 して行 った、一般 にはあま り
知 られていなかった論争です けれども、それが 日本の一部で小 さい論争 として行われてい
た、ということをt まず 申し上げたわけなんです。
そういうわけで、うなぎ文 というのは、これはあとで申 し上げますけれども、決 して、
日本語だけの ものではないんですが、 日本語の特色の一つであるか もしれ ません。だか ら
といって、うなぎ文があるが故 に、日本語は非文法的である、 ということは言えないであ
ろうし、うなぎ文 自体が文法的に説明がで きる、とい うことで、私はこの本 を書いたわけ
です。
す。 しか し、 うなぎ文 に気がついていたのは、元祖は私ではな くて、金E
f
L-先生 なんで
1
95
5年 に出た、例の 『
世界言語概説』 という大 きい二冊の本があ ります。 これはこの時
955年にかけての、 日本の言語学のレベル を示す、それを集大成
点での、つ まり戦前か ら1
した、大変立派 な本だと思い ます。その中に、 日本語の部分があるわけですけれども、 こ
-
52
-
れを金田一先生が担当されたO大 きな本の中の一部ですか ら、そ う詳 しい ことは書 けない
んですけれ ども、 しか し、その中で金田一先生は、断定の助動詞、 と言われてい る 「だ」
を取 り上げ られて、 うなぎ文の例 を挙 げてい らっしゃい ます。今 日それは持 って参 りませ
んでしたが、要す るに、 この 「
だ」 というのは、ふつ うは同一 を表すんだ と、で も、か な
り特殊 な用法があって、例 えば雨が降っています と、 「
雨だ」 と言 う。あるいは料 理屋 へ
」 「僕はうなぎを食 う」そう言 う代わ りに 「僕はうな ぎだ」
行 って、 「
君はなにを食 う ?
と短 く言 う。 「
僕 はうなぎを食 う、と言う代わりに」 という言葉 を彼は使 ってい ます。 こ
れがなかなかいい ヒン トなんですね。私 も 「だ」 を述語の代用 とい うように考 えるわけで
すけれ ども、 「
僕 はうなぎを食 う」 という代わ りに 「
僕 はうなぎだ」 と短 く言 う。彼 はそ
のように言ってお ります。ほんの数行なんですけれ ども、うなぎ文の例 を挙 げて、 しか も、
そのうなぎ文の解釈 をかな り的確 にやってお られた と思 うんです。私の解釈 も、結局 うな
ぎ文のポイン トは 「だ」 だと思い ますが、 「だ」 にいろいろか また らきがあるのでc
opul
a
としてのはた らきだけではな くて、述語の代用とい うか、そうい うはた らきをしてい る と
}
サヽ_ 、
ゝ.
I
_I,
i
いつU
)が、私U
)考 えカです。そついつ」こ甘、すでに金田一先生が言 ってお られ るので、
うなぎ文の元祖 は金 田一先生である、 ということを申し上げたい と思いますoその二代 目
というのか、た また ま論文 を書いているうちにで き上が りましたのが、 『ボクハ ウナギ ダ
の文法』 ということで して、 くろ しお出版の先代の岡野 さんに、三上 さんの 『
象 は鼻が 長
い』に対 して、こっちはうなぎで行 こうということにな りましたので、 じゃあ 『ボ クハ ウ
ナギダの文法』 とい うの を書 こうと言いましたら、彼は よかろうと言 うので、 こうい うう
なぎの表紙、これは決 して私が注文 したのではな くて、岡野 さんが勝手にやった んです 。
筑波大の北原さんが 『
国語学』に書評 を書いてくれましたけれ ども、北原 さんの うちの子
供がこの本 を見て、 「
漫画の本だ」 と言った とか。 どうせ漫画の本程度の もんなんです け
97
8年 ということで、幸い くろ しおか ら何版か版 を重 ね
れ ども。そ うい う本がで きたのが 1
て出してお ります。
最後は、丸谷才一 とい う人が出て くるんですけれ ども、丸谷 さんは、 ご承知の とお り、
芥川裳作家で活躍 してお られる。彼は、当然物書 きとい うこともあ りますけれ ども、 国語
問題、 日本語問題 に、大変興味を持っておられる方ですね。いろいろなことを書いてい る。
ただ しかな りコンサーバティブで、歴史的かなづかいをいまだに使 っているとい う人です
986年の、文峯春秋ですから、別 に論文 じゃないんですけれ ども、 「う
ね。彼がた また ま1
なぎ文の大研究」 とい う、エ ッセイの ようなものを書いて、ちょうど私が何回 目か に中国
-行 く直前 に、丸谷 さんか ら送って下 さいました。
これは 「うなぎ文の大研 究」 ということで、最初の うちはもっともらしく、於 下大 三郎
とか引用 しまして、 「は」 と 「
が」の関連 とかをやっているんですけれ ども、要す るに丸
谷 さんが興味をもたれたのは、このうなぎ文ですね。別 にそれは文法の間蓮ではな くて、
「
僕はうなぎだ」 とい う例文 とか 「うなぎ文」とい うのが、 日本語学、国語学の術 語 にな っ
た ようなので、そうい うものがかたっ くるしい言語学、国語学の タームとしては大 変 お も
しろい とい うことで、作家 らしくそういう点に興味 を持 って下 さった ようです。 これ は、
98
7年 に文峯春秋か ら出ました 『
夜 中の乾杯』 とい う彼のエ ッセイ集 に再録
その後 また、1
されてお ります。そのコピーが ここにあるんですけれ ども、なにかうなぎが 「
僕 は うな ぎ
だ」 と言 ってお りますねO前に猫が座 ってお りまして、つまり、激石の向こうを張 ってい
-5
3-
るんだろうと思い ますけれ ども、 「
我が輩 は猫である」 とい うのは もちろん同-文なんで
すが、 「
僕 は うな ぎだ」 は うな ぎ文ですoそうい う対照が なかなかお もしろい、 と彼 は言 っ
てお ります。
丸谷 さんが興味 を持 って くれたのは、うな ぎ文 とい う術 語 とか、 「
僕 はうなぎだ」 とい
う例文がお もしろい.なぜ そん射 こうなぎ文が はやったのか、 とい うことを、彼はい くつ
か菅いてj
Sr
)ま して 、 E
第-a
)埋田は賃へ ることがあ らゆる人間の関心畢 7
=ろ つ」 とい っ
ように書いてい ます
。「国語学者だって人の子だか ら、食べ ることに興味 を持たないはず
はない」 とい うのが第一
一ですく
つそれか ら、第二 に日本人の うなぎ好 きとい うことをあげて
います
V
「
あ れ は、 日奉 g
r
'
J
代表
申
告額喪産 なのであ るGそ巧,
観弛夏 を投 じ
来
っ
た
と こ ろ 重宝
、
例文作 りの手柄 で、 これが例/
\ば、 ぎ
僕はウ ドンだ」 とか 「
僕 はラーメンだ」では.これ
ほ どの人気 を博 さなかっただ らうJ というように書いてお りますO
日本人の うなぎ好 きは万葉集以来で して、大伴家持の数れ歌があ りますO ちょうど今、
夏ですけれ ど、 「
石磨」 、いわ まろと読むそうですけれど、 「
夏やせ によしとい うものぞ 、
むを ぎとりめせ」 とい うんですね「最初は、 ぎ
ー
石麿 に親 もと
7
)
1、夏やせ によしとい うものぞー
むなぎとを
3めせ
L
。昔は、 rむなぎj と言 ったそうですけ ど。 とい うような歌 もあ るくら
いで、 ぎ
夏にいい んだか らゝ栄養のあるうなぎを食べろ、と、お まえはやせっぽちだか ら」
とい うわけですぬoそうV巧 ことで、
.万乗以来 日本′
射,
iうな ぎが好 きだ とい うことがあ Y
,
a
ま
す
す
L
l
古
代T
h
7-マ に関 しても、 『
喜代ロ・
マの射愚書』 とい う大 き怒寒が三省堂か ら出ていま
。
紀元前300 年
ぐ
ら
いですが、これを早速、す っと見てい ました らtやっf
F
j
l空
,
3
11な さも
あ りまして、地中海で すか ら、 ;
1をぎの審理 を古代 ローマ人 も食べていたOベネチアに も
うきき適 S
・
、 とい っ過 言
タもあ るんで すC詳 しくその本 には、 つな ぎ覇選の L
/シ ピ尊
さ出 てい
まLて、どんなソース を使 う、 とい うようをことも書いてあ りますOそんなわけですか ら、
うなぎとい うのは、決 して 日本 だけではな くで、古代 ローマで も食べ ていたOあるいはイ
ス タンブールで も、食べ るで しょうかOそんなわけで、 恒t
,コ語で 「
僕 はうな ぎだ」 とい
うのは何 とい うか知 りませ んが 、 「
be
n うなぎ」 とか、be
n とい うのは、 「私」 だそ うで
すが、一夜漬けで い レコ語 を勉強 したんですけれ ども、それか ら、be
動詞 もあることはあ
るんですけれ ども、 「
私 は奥津」 とい うのは"
Be
nOkl
l
t
S
u"でいいんで しょうかねoそれか
ら母音調和 もあ りますか ら 「う、な、ぎ」 だと、 「う」 と 「ぁ」 と 「い」で、 これはち ょっ
と具合が悪いですね。つま り、f
r
o
ntv
o
we
iとba
c
kvo
we
l
とは、調和 しますので、 「うなぎ」
はち ょっと具合悪いか ら、 「うなぐ」 とか、ウムラウ トをつけまして、 「ゆぬ ぎゅ」 とか
言 えばいいんだろうと思い ます けれども、そんなわけで、 うな ぎとい うのは、世界 中で食
べていたん じゃないか と思い ますけれ ども、それは余計 な話ですが.そんなわけで、 日本
人は昔か らうな ぎが好 きだった、だか ら 「
僕はうな ぎだ」 とい う例文が よかったんだ、 と
い うように、丸谷 さんは書いています。以上が第一章の終わ りなんです。
うなぎ文の文法 については もう省略致 します。第二章の うな ぎ文の文法 については、先
程 申し上げま した ように、述語の代用 とい う考 え方で、つ ま り、 「
君 は何 を食べる ?」 と
i
s
c
o
ur
s
egr
a
mme
r談話文法ですね。前撞、あるいは文
い うような文脈があ ると、 これはd
脈があれば省略があ るo これはなにも日本語だけ じゃあ りません。 どんな言語だって、省
略 とい う現象 はある し、あるいは代用 とい う現象 もあるわけで して、それ 自身は決 して珍
-5
4-
しい言語現象ではない。それぞれの言語にそれぞれの談話文法があるわけですか ら、 どん
な場合 に省略 をし、 どんな場合に代用形を使 うか、 これは各言語によって違 うと思 い ます
けれども、要す るに、省略 とか代用 という現象自体 は、ユニバーサルな言語現象 であ る。
その言語現象の中の 日本語的な現れが、うなぎ文である、 という解釈 も成 り立つだろ う と
思 うんですね。
そこで、例 えば、天皇が 「
春の山と秋の山 とどっちがいいか」 という質問があれば、
「
私は秋の山がいい」 という代わ りに 「
私は秋の山です」 ということがで きる。あ るい は
「
君は何 を食べる ?」 という文脈があれば、 「
僕はうな ぎだ」 という 「
だ」で伝 えるこ と
ができる。 「
僕はうなぎだ」 というのは、 「だ」の位置に、最初 「
食べる」 とい うのがあ っ
て、 「
食べ る」 とい うのはもう前提 とされていますので、これは省略することがで きる 。
もちろん 「
僕はうな ぎ」 と言 うこともできます し、 「
僕 は」 とい うこともわかってい るん
ですか ら、 これ も省略可能ですね。 したが って、一番簡単なのは、 「
君は何 を食べ る ?」
「うなぎ」 これで十分です。つ まりフォーカスだけ言えばいいわけです。それに対 して、
∵
応 「
僕は」 とい うように主蓮 も入れようと、だけど 「
僕はうなぎ」だけではち ょっ とぶ っ
きらぼうで、 日本語 とい うのは、最後に述語が来ない と終わ りませんが、 「
食べ る」 とい
えば繰 り返 しですので、ただ省略する代わ りに、その 「だ」 を置 くという、 したが って、
これは述語の代用形であろうというのが、私の解釈 です。 この解釈 については、いろい ろ
な別の解釈 もあ りまして、-回目の増補版で、い くつかの説 に対 して、た とえばサ ミュエ
ル ・マーチ ンです とか、あるいは北原さんとか、池上義彦 さんとか、そうい う人た ちの説
に対する反論 を私は書 きました。あるいは柴田先生 も 「
春はあけぼの」などについ て解釈
をしてお られます し、川本先生 もそういうことをしてお られますOいろいろな説が あ る.
ただ し、うなぎ文その ものは、 もちろん日本語として正 しい として、解釈 をしてい ます 。
以上が第二章ですo
ところが、はた して うな ぎ文は日本語だけか、 とい う問題。我々は日本語教育 をや って
い ますか ら、 日本語 と同時にいろいろな言語 も、対照研究に興味 を持たざるを得 ない。言
語 とい うのは、決 して単 に日本語なら日本語が特殊 である、 とい うだけではな くて、そ の
底 にユニバーサルな ものがある。これはチ ョムスキーがず っと追求 しているところです け
れ ども、個別言語 というのは、そういうユニバーサルな もの を根底において、最近 ではパ
ラメタ-というんですか、そういうものがあって、それを適用す ると、いろいろな言語 の
特殊性 とい うものができる、 ということを言っているわけです。個々の言語は普遍 と特殊
の稔合 された ものである、という解釈 は一応成 り立つん じゃないかと思い ます。私が これ
か ら申 し上げるユニバーサルとい うのは、決 してそんな大 げさな、チ ョムスキーみたい な
深連な ものではな くて、要す るに、うなぎ文 とい うのは、案外ほかの言語にもあ るんだ、
ということをち ょっとこれか ら申し上げたい と思い ます。
まず、英語なんですけど、これは もう間違いないですO これか ら紹介致 します Hof
f
erと
D.
をとった人で、ハワイ大学で教 えていた人です。このHof
f
erが
い うのは、テキサスでPh.
宮内秀雄先生のための、三省堂か ら出た還暦記念論文集の中で、 日本語の基本文型 につ い
て書いてい ます。その最後の ところで、日本語の 「だ」 について書いてお りますO 「だ 」
はもちろん同一 を表すんですけれども、同時にうな ぎ文もあるということを書いたあ とで、
英語にもあるよ、 ということを彼は書いていますo彼が挙げた例 も料理屋 なんです けれ ど
-
55 -
も、料理屋 に行 きま して、二 人の人が注文す る、ve
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Aとい うんです か、パルメ
ザ ンチーズで子牛 を覇垂 した もので しょうか、それ と、スパゲテ ィ- を注文 したんです。
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"とこう聞 くんですね . i
ど
それをウェ- トレスが持 って きまして∴ Ẁhoi
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ですか ら、be
動詞が あ って、スパゲテ ィ-が
なたがスパゲテ ィですかJ とO この"
あ るO そう します と、一人のお客 さんが、 「
彼がスパゲ ティ-だ」 ということで ∴ ,
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三.
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なお、 もっ と注 針すべ きことは、Ho
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は、そ うい う場面だ った ら、′
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い う意味 になるんだけれ ども、例 えば、コックさん同士が L 「
誰がスパゲテ ィ-をクック
したのか」 と、 こうい うような質問が あった時 に"
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と言 えば/ ,
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i"とい う意味だ とい うんですねO 「
彼が スパゲテ i- を斜 遷 したんだ」
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, とい う輝 に、誰が その スパゲテ で山の
とい う意味 にもなるO あ るい は、絵 を措いてい る_
絵 を暗いたか とい うと、篠が播 いた、 とい う場面 もあるO要す るE
,
=、 どんな場面で も文脈
動詞を使 って∴ '
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とい うことが言 える とい
があ りさえすれば、英語 でbe
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うことを、H(
それか ら、
もその次が久野 さんです けれ ど、1
978年 は、例 の 『
談藩の文法』ですが、 まさ
に
こ
れ
は
談
話
文
法
の
問
題
で
、英語 にも日本語に も省略 とい う現象があ って、 日本語 の場合
に省略 を して、 「うな ぎを食 べ る」 なら 「
食 べる」 ∼ 「
蘭 る」 な ら 「
釣 る」 とい うのがあ っ
て、それ を省賂す る。 その省 略 した とL
=引 こ、つ ま りその空 き間にh 「だ」 を入れ る、 と
い うように彼 は言 ってお りますので、久野 さんの解釈 と、述譜代周 とい う解釈 は同 じだ と
い
う
よ う に鋸
ま思 ってい ますO そうい う解釈 を久野 さんは やってい ますO これは E
3
寓語の
うな ぎ文ですけれ どもl
ー同時 に英語で も言 えるとい うことを久野 さんは誇っていますO こ
れ もまた食べ物 なんです けれ ども、大勢 の人がハ ンバーガー店 で まとめて買 って きたいろ
いろなハ ンバ ーガーが あ るO その時に、誰が どのハ ンバ ーガ- とい う時に、'
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.
"とい うような表現が、た まに聞かれることがあ る、 とい うように書いてあ り
ます。 これは彼 の実際の経験 で Lよう。 「
僕はチ- ズハ ンバ ーガーだ よ」 とい う意味で、
英語で も言 うとい うように久野 さんは書いてt
/
1ます。
その次 の中野道雄 さん とい うのは、1
982年、 これは大修館 の国広 さんの編集の 『日英語
比較講座』第 4巻の 「
発想 と表現」 の巻なんですけれ ど、そ こに中野道雄 さんが 「
発想 と
表現 の比較」 とい う論文 を書いてい らっしゃい まして、 日本語 に うな ぎ文 は もちろんある
んです けれ ども、英語 に もあ る、 とい うことを実例 で示 してい ます。
tWal
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Tという漫画家が おりま して、
これは、皆 さん御存 じで しょうか、 アメリカのMor
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y とい う日本 で言 えば 「の らくろ」 みたいな もんです ね。「の らくろ」 は犬 で
す けれ ども、Be
e
t
l
eはt アメ リカの一番下 っ端の兵隊で、毎 日毎 日へ まなことをやる、 と
いうような漫画 なんです ね。 中野 さんか ら実物 を送 って もらい ま した 3コマの漫画ですが 、
兵隊 Aが、上官 B、C、Dに コーヒーを配 ってい る.上官 にはそれぞれ ラ ンクがあ りま し
て、 B、C、Dの順 に高 くな るんです けれども、 まずh
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が B に"
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iと、 ここで まず コー ヒー文 と言 うんで しょうか、出て
参 ります
.「あなた はブラック コーヒーですか」 とい うように聞 くわけですか ら、be動詞
- 56 -
が まさにうなぎ文的に使われているわけです。I
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"もちろん 「
砂糖入 りのブ ラ ック
.
コーヒーですか」 とい うように聞 くわけです。すると、上官 Bが"
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そうだ」 と言 っ
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て、今度は次の上官が、 これは 2コマ 目ですけれ ども、"
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"と、 こう言 うわけです 。 「
僕 はクリームとシュガー入 りのコーヒーだ よ」 と、
ここでまた'
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の"
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が、 また使 ってあ ります。 これが 2コマ 目ですね。そ してBeet
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が、
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"と言って渡す。最後の上官に向かって、"
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"と言 うわけです. じゃあ残った一つですか ら、 「
あなたはコー ヒーぬ
きのミルクと砂糖 に違いない」 と、こういうように言 うわけですね。 これ も"
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ですか ら、"
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という名詞がbeで結びつい てい る、
要するにbe
動詞が使 ってある。
こうい うわけで、最後は漫画ですから、オチがあるわけで、 このオチは、中野 さんか ら
送って もらった漫画 を見てやっとわか りましたが、 この Dというのが、大学出の将校 なん
ですね。最初の BとCが軍曹 とか、アメリカの軍隊映画 によく出てきますね、バー ト oラ
ンカスター とか、ああい うのが出てくるやつでう。最後の Dが、若い青二Aの上 官なんで
す。ですか ら、最後 に残 ったのは、あんたのような子供 は、 コーヒーを飲 まないで、 コー
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ヒーのない ミルクとお砂糖、 ということなんですねoそこで、この上官が怒っで '
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と言 う。これが この漫画のオチなんですね。それがやっとわか りま
したけれど。いずれに して も、 3コマのそれぞれに、 コーヒー文が出て くるわけです . Be
動詞がちゃんと使 ってあって、これを見 ます と、英語に も間違いな く、うなぎ文が あ る と
いうことがわか ります。
そのほか、例 を集めれば、い くらでもあ りまして、 きりがないのですが、つい最近 は、
私は今神田外語大学 に勤めてお りますが、お昼ご飯 を食べなが ら話を聞 くという会が あ り
まして、私 もなんかやれ と言われた もんですか ら、例によってうなぎ文の話 をしま した ら、
アメリカ人の英語教育専 門のデシルバ さんという人が、言って くれました。駐車場 が あ り
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"「
僕はあのベ ンツだ 」
まして、どの車が誰の車か、 という話 をする時に、'
ということが言 える、 というように彼 も言ってお りましたので、間違いな く英語の うな ぎ
文はあるだろうとい うように思います。
ここで もう一度丸谷 さんに登場 して頂かなきゃいけないんですけれ ども、丸谷 さんは、
日本語の うなぎ文 に興味 を持 ちましたが、英語にはうなぎ文がないだろうとい うように思 っ
た らしいんです ね
「うなぎ文の大研究」のエッセイの中で、テ レビの
に、"
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sTOYOTA"「フォークリフ トは トヨタです」 とい うのがあった と書いています。丸 谷 さ
んは、 これは 日本語のうなぎ文を直訳 した、間違い英語です、 と書いてい ますo Lか し、
念の為 に、彼は、イギリス人の詩人で、 日本女子大学で教 えている、デニスキー ンに質 問
した ら、やは りこれは誤 りで、"
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eTOYOTA"
が正 しい と言 って
くれたそうです。
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sSONY'
'というような電車の中づ り広告が出ていたんです ね0
それか ら、"
これも間違いだ と、丸谷 さんは書いています。更に丸谷 さんは続 けますO
「という話 を、先夜一杯 や りなが らしゃべってゐると、バーのマダムが昔、 日本航 空 の
スチュワーデスだった といふ人で、かういふ話を聞かせて くれました。新米のスチ ュワ ー
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"と訊いた。これ は もち
デスが、乗客に機内食 を配る時に、"
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ろん 「
あなたはチキ ンですか、それともステーキ ?」 といふ うな ぎ文 を直訳 した、間違 ひ
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n"と答-た といふの
英語ですが、 この時、乗客は、'
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0」
お客 さん もなかなか しゃれた人なんです。 「
私はチキンではないけれ ど、チキ ンが好 き
だか ら、チキンくだ さい」 と、こうい うわけ ですね。
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注 をつけると、 「
チキ ン」 には子供 とい う意味 もあ ります 。」
とこう書いてあ りますO'
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"「
あなたは子供ですか ?」 と開かれたので∼
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ン
】 と言ったわけです。私 も、念 の為 に辞書 を調べ まし
「いや、そ う じゃない、 だけ ど、チキンが好 きだ」 とi
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うように答 えた という、怒かなか
Lやれたお客 さんです 。.
ところが、 どうも私が調べた ところでは了 3
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"とい うのは、
いはずなんですねOそ こで、デニス 々キーンを訪ね ましたI
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丸谷 さんはこう書いてい
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芦というのは、だめですか ?」 と言 った ら、
るけれ ども、
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トこう言 って くれ ました。スチ ュワ一
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とを言 って られ ませ んか ら/ ′
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ヲで、 もちろん大丈夫だ と。
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3本譜 のわかる人の英語 とい うのは、ちょっと危険なところがあ りますけれ ども「
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リス人の詩人で、 もうや獲)ま したが、 日本女子太の英文学の教授が ちゃん と言 って くれて
いるんだか ら、多分 間違いはないだろう、 t
とい うように思い ます。 そんなことですので、
さすがの丸谷 さF
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も、英語 にうなぎ文があるというこ
∴とは気がつかなかった、 ・
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かいうのが、
英語のお語です
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英語以外の ヨし
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コツバの言語 はどうか、 とい うことも、機会がある度 に調べてみたんで
すが、国際交流基金 の海外 日本語教師研修会 というのが 、長期 わ短期、毎隼あ りまして、
私 もずーっとそれに昔か ら出てお りまして、私のクラス には韓 国人 とか、 ドイツÅ とかフ
ランス人 とか、 よく来 るんです。その 人たちに聞いてみ ましたo これ もずいぶ ん昔の藩で
すけれ ども、 フォ)
i
,
ヤ ンティさんとい う方に、 「ドイツ語で うな ぎ文があるか」 と聞いた
んですoそ う しま した ら、注文 した ものが、 コ-ヒ-とか紅茶 とかいろい ろあって、 「ど
なたが コーヒーですか ?」 と聞 きます と、お客 さんが 「
私は コー ヒー
-です」 というように
答 えることがで きる、 とい うことを言 って くれ ましたので、 ドイツ語で もたぶ ん言 えるん
じゃないか と思い ますが、その次の隼 に、 ドイツか ら来た先生 に、 「
私はコーヒーです」
.「去年来た フォルヤ ンティさんは,,
と言 えるかと間いたら、 「
言 えない」とい うんですね
言 えるって言 って ました よ」 と言った ら、 「ああ、あいつはいなか もんだか ら、あいつの
ドイツ語はだめだ」 と言 って ましたので、 ドイツ語で一体 コ-ど-文が言 えるかどうか と
い うのはわか りませ んけれ ども、言えるという人がいた ことは間違いない。 これが ドイツ
語ですね。
それか ら、 フランス語は、研 修会 に出て くる人に聞いて も、たいてい 「だめだ」 とい う
否定が多いんです よ。 ところが、元慶応大学で、今杏林大学の鈴木孝夫 さんという有名な
言語学者が、 うな ぎ文 に興味 を持ってくれて、何かみつけると私 に教 えてくれるんですが、
例 えば、 「スポーツで何 や りますか」 という着 をしてい る時に、 「
あなたはゴルフです」
というようなことが言 える、 というように彼 は言 ってい ました。メグ レ警部の例 を挙げて
-
58 -
くれまして、交換手がツーロンを呼んだ時に、 「
あなたはツーロンですか」 とい う ように
言うとか、そういうことで、 フランス語で もどうも言 えるん じゃないか、 とい うように思
いますが、 これ もわか りません。言えるという人 もいる、 とい うことは間違いない。
そうい うことで、 ヨーロッパの言語にも、けっこううなぎ文があるん じゃないか。 それ
」「私 はサ
か ら、NHKのスペイン語のテキス トを読んでいました ら、 「
何 を食べ ようか
ン ドイッチ とコーヒーだ」 というように言 うんです。ただ し、この場合はbe動詞が ない の
で、動詞が省略 されたのか、それ ともbe
動詞が省略 されたのか、わか りませんが、 ラテ ン
系の言語の中で、スペイ ン語 とか、ポル トガル語で も言 えるとい う人が実 はいたんです 。
欧米の言語で、英語はまず間違いない。そのほかの言語で、言えるとい う人がいないわ け
ではない、 とい うようなことが、ご報告できると思い ます。
そ して、あ とは、ほかの言語はどうだろうか、 とい う蔚なんですが、韓国語 ・朝鮮 語 な
んですけれ ども、そこに書 きました、 まだワープロソフ トが、ハ ングルがなかった 時 な ん
で、手で書 きましたけれ ど、ナヌンキムチイムニダと、 こう言い ます
0「ナ」 とい うのが
「
私」、次の 「ヌン」 とい うのが 「
は」にあたる係助詞ですね。その次の 「キムチ」とい
。「イムこダ」の 「イダ」 とい うのが、 日本語の
うのが、 もちろんキムチです
「だ」 にあ
たるんです。 この 「ムニ ダ」 とい うのが、ていねい体 を表す接尾辞、 とい うことで しょう
。「私はキムチです」 ということが、韓国語で言 えるかどうか、 というように、韓 国人
か
に聞きます と、間違いな く 「
言える」 とい うように答 えて くれました0
それか ら、最後は中国語なんですが、これは、遭元任 という著名な言語学者がい ます 。
UCの言語学の教授で、アメリカ言語学会の会長までやった、大変立派な言語学者 ですが 、
彼の1
968年 とい うのは、UCプレスか ら出ました"
Agr
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po
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nCh
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ne
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"とい う、
大変大 きい文法の本 なんですが、その中で、この例 を挙 げています。私の中国語の発音 は
めちゃくちゃですが、 「
他是一個美国丈夫」、 「
他」 というのは 「
彼 」 または 「
彼女」 、
。「一個」が 'a"ですね、不定冠詞.それか ら
丈夫」 とい うのが 「
夫」、 「
夫」 とい う字 が
「
美 国」が もちろん 「アメリカ」ですね。「
動詞です
「
是」 とい うのは'
'
i
s
'
'
にあたるbe
あ りますか らいいですね。この 「
他」 は、人偏 も女偏 もあるんですけれども、人偏 であ っ
で もs
heで もどち らでもいい、この文脈では、実はこの 「
他」は 「
彼女」 なんで
て も、he
す。ですか ら、直訳 します と、'
'
sh
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sa
nAme
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c
a
nh
us
ba
nd.
"「
彼女 はアメリカ人の夫 で
す」 ということにな ります
。「夫」が
「
丈夫」 とい うのは、なかなかお もしろいんで、 日
本で も 「
亭主丈夫で留守がいい」 とい うようなことを言い ますが、その 「
丈夫」 なわけで
すが、そういうわけで、 「
彼女はアメリカ人の夫です」 という、女 イコール男、 とい うこ
とですか ら、 とんでもない話なんですが、ちゃんと言える。 どういう文脈か といい ます と、
O「あなた誰と結婚 しているか」 と言 うと、
奥 さん方が集 まって話 をしている
「
私 は 日本
人 と結婚 してい ます」、 「じゃあ、彼女はどうですか」 と言 うと 「
彼女はアメリカ人の夫
です」 とい うように言 うんですね。そうい う文脈があ ります と、be
動詞にあた る 「
是」 と
。「彼女はアメリカ人の夫です」 ということが言 える。 と、遭 元
いうのがちゃんと使 える
任は書いてい ます。もちろん彼は言語学者ですから、 これは省略である、というようにち ゃ
んと解説 も加 えてい ます。ただ中国語では言えるが、英語では言 えないであろう、 とい う
ように書いてあ りますけれど、さすがの、超元任 も英語のことまで知 らなかった ようです
ねo
-
5 9
-
その次は、 日本人の大河内康憲さん、これは大阪外大の中国語の先生ですが、大阪外大
は留学生別科があ ります し、大変 日中対照研究をエネルギッシュにやっているところです
982年に、明治書院の 「
講座 日本語学」、 これの最後
けれども、その大河内廉意 さんが、1
3
が対照研究にあてられてい ます。その中で大河内さんが文
の方、全部で 13巻の 11、12、 1
法について書いてお られ まして、 日本語のうなぎ文は中国語にもある、結局遵元任 と同 じ
J.
_ヽ
▲
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_ヽヽ ですけれどoつ まり空港 で飛行磯 を待 っている.どこかへい u こ駅 まっていますか ら、そ
」「
(
,
ういう文脈で、 碓 是北京 唱 ?
唱 」 というのは、疑問の終助詞ですね 「あなたは
北京ですか」 という文 を作れるわけですねoL
=れも 「
あなたは北京 に行 きますか」 という
意味ですOそうします と、 「
鬼、葦是北京」最初の 「
是 jは
、
「ほq
y
,
、
」 とい >・書鮭h
7
%
÷
彼は 上海です」 とい うことですか ら.中国語で もう告
「私は北京です」、 「
健是上海 j 「
ぎ文があるとい うことは、大河内さんも認めてい らっしゃい ますO
最後は私の直接の経験 なんですo中国は何回も行 きまして、今、会場 にい らっしゃる坂
本先生 ともご-賭 したんですが、その時に、国慶節の休みかなんかに、北京か ら汽尊で 5
時間 ぐらいの承徳 とい う避暑地で、中国の清の時代の皇帝の別荘があった ところで、ミニ
故宮 というんで しょうか、そこに旅行 しましたO私について来て くれたのが タン君 とい う
男の子で、大変 日本語の達者 な北京譜言学院の 日本語科を卒業 したばか りの男の子で した「
。
彼 と一緒に承徳賓館 とい うホテルにチェックインしまして、キ-をもらって,
、階段 を上 り
0
7号室で、彼の部屋は3
0
8号室です。本当にタン君は、自然に、 「
衆
なが ら、
.私の部屋は3
愚3
0
8」「
僕 は3
08号壷だ」 と言d
:
)たんですねO 「
あ、うなぎ文、言った、言った」 と、こ
う言い 蓋した ら、タン
J
君が 「なるほど中国語にもうなぎ文があ りますねJ と納得 し
,
て くれ
ましたO
そんなわ右
手で、 告本譜の うなぎ文から始 まって、森先生のように、 うをぎ文があるか ら
日本語はでた らめである、文法がない.
Yという鋭、 しか し そうじゃない 、日本語にも文
法があるL、フランス語 にもすべての言語にはそれぞれの文法があるとt
l
lうこと。それか
ら、うなぎ文 も文法的な説明ができる、 しかもユニバーサルな言語現象の中の日本語的な
特殊性の一つ として、説明で きると言いましたけれ ど、実は、調べてみ ます と、ほかの言
語にもtC
O
pul
aのはずであるものが、うなぎ文的に使われている例がた くさんあるoただ
し、それぞれの言語 についてそう詳 しく調べたわけではあ りませんか ら、 日本語の ように
額繁に使われているかどうか、 という間違 とか、あるいは、そういうbe
動詞な り、主辞な
り、中国語の 「
是」、韓 国語の 「イダ」のように、そういうものが、 どうい うように文法
的に解釈で きるか、 とい うことはわか りません。そんなところまではやってお りませんけ
o
pul
aと言われているものが、 うな ぎ文的に使われている、 とい
れ ども、 とにか く、一応 c
うことは、世界の言語の うち、わずかなもんですが、ある、 とい うことです。 じゃあ、 ト
Be
nOkut
s
u.
'
'というのは同一文ですが、私の知 っている料理はキ ョフテ
ルコ語はどうか、"
と言 うのですが、肉団子ですね。"
Be
nkyo
f
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e
"とか言 えますか ?
(
セルチュク : 「
言 えます」)
ああ、言えるそうですO-つ勉強にな りましたOそ うい うわけで、 トルコ語 と日本語は、
文法的にある程度似 ている言語です し、アルタイ系の言語ですか ら、案外同 じ系統か もし
れませんが、今伺い ます と、 トルコ語にもある。そこで、終幕は、 「
徳 は敦を らず、必ず
隣あ り」 とい うことで して、非常におか しな、世界で唯一の言語であるというところか ら
ー
60-
始 まりましたけど、案外、 日本語 という特殊言語が、近 くにも遠 くにも、同 じような現象
があるんだとい うことが、うなぎ文でもわかる。そ うします と、人間の議 書ですか ら、チ ョ
ムスキーが言った ように、どこかに普遍的なものがあるだろう。 しか し、全部が まった く
普遍的であった ら、我々が何 も日本語教育で苦労す ることはないので、その普遍性が底 に
あるけれど、特殊性がそれぞれあるか らこそ、我々 日本語教師は、外国人に日本語 を教 え
るのに大変苦労 をす るわけなんですね。外国語教育、あるいは日本語教育が成立す るこ と
自体は、やは り日本語 とほかの言語の底に、普遍性があるか らであろう。ですか ら、すべ
ての言語は、普遍 と特殊が統一 された ものであろうから、我々は言語における普遍性 と特
殊性とい うものを勉強 した上で、 日本語教育 をやっていこうじゃないかとい うのが結論 で、
「
徳は孤な らず、必ず隣あ り」、 トルコ語 も実はやは り我々の隣人で、うなぎ文が あ る と
い うことを今発見数 しまして、 1時間半儲けた、 とい うことにな りまして、 どうもあ りが
とうござい ました。
-
6 1 -