道徳教育における内容項目 「家族愛」 に関する基礎的研究

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道徳教育における内容項目「家族愛」に関する基礎的研
究
中村, 美智太郎; 藤井, 基貴
静岡大学教育実践総合センター紀要. 25, p. 11-20
2016-03-31
http://doi.org/10.14945/00009427
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静岡大学教育学部附属教育実践総合 セ ンター紀要
No25 p ll∼ 20(2016)
論文〉
〈
道徳教育 における内容項 目『家族愛」に関する基礎的研究
中村 美智太郎
A Basic Study on
a Feeling of
中.藤
井 基貴
料
Love and Respect for domesticity and members
offamily in Moral Education
Michitaro NAKAMIJRA/Motoki FUЛ
I
要旨
The purposo of thls stu″ le tO examlne the problems of moral educatlon deaLng wlth“ a feehng of10ve and
respect for domestlety and membere Of fan洒 山′ in Japan_ The present MInlstw's Currlcululll g■ ndeLne
shows that“ a Fe出 鱈 oflove and rospect for domesidw and members Of Lュ 町 "has an iり ortant phce as
the prec¨ 直 血m to ov"∞ me the aloral cゅ n]i■ or tO acq― e tho ego・ ∞ nsclousness and autOnomy in the
junlor‐ hlgh● chOol.However.五 the cases of」 apanooo moml educatlon,“ a feeLng of love and respect For
domestlclty and members of famv'haS nOt been dlscussed actlvely wlth the phiOsOphlcal and● ∝おloglcal
studles lt is therefore often o"rlooked that the idea is strongly related tO the tranefomatlon of the
tradlthnal form of falll■ y to modern one The paper discussed that schOOl teachers should have the
kn0771edge of∞ ncept based on these phllos"hal and hlstoncal ldeas so as to understand the teachlng
matemls dOeply attd seek the new approaches toward」 apanese moral educatlon
キー ワー ド :
道徳教 育
家族
家族 愛
子供
サパル タン
1.は じめに
道徳教育に関する理 論 と実践双方 には 、道徳的諸価
値 をめぐる概念や理論 の成果が多かれ少なかれ含まれ
ている。そ の道徳的諸価値 の多 くは、西洋か ら輸入 さ
れたとい う出自を持ち、かつ近代イ
ヒのプロセス におい
て変容を遂げてきた理 論的背景を前提 としている。そ
れ らの前 提 か ら、今 日における道徳教育のあ り方や
「道徳」について、原理的に問 うことは、常に時代 の
要請に応 え続 ける必要がある。教育諸機 関における教
育一般 の なかに道徳 に関わる教育が どのよ うに導入 さ
れ得 るのかとい う問題 もこ うした原理的な問い を問 う
ことな しには、論 じることは困難 であろ う。 こ うした
立場 か ら、私たちは道徳教育における道徳的価値 の分
析・ 検討 か ら、内容項 目をめぐる諸問題 について、す
でに 「寛容」 「崇高」 「長敬 の念 J「 自然愛」 とい う
議論 す る道 徳
実践で使用 され る資料か ら分析す ること (第 4節 )
を通 じて この 問 い に追 りなが ら、道徳教育にお い て
「家族愛」 を扱 う方法 につい て検討 をカロえる (第 5
節 )。 最後に道徳教育にお いて 「家族愛 Jを 扱 う際 に
求められ る視点について論 じたい (第 6節 )。
2.学習指導要領における「家族魔 J
本節 では、学習指導要領 におけ る 「道徳」及び 「家
族愛 Jの 扱 い について概観 してお く。
2015年 3月 に一部改訂 された 「小学校学習指導要
領」では第 3章 において 「特別 の教科 道徹 と位置
付け られ、その 目標 を 「よ りよく生 きるための基盤 と
'
なる道徳性 を養 うため、道徳的諸価値についての理解
を基に、自己を見つ め、物事を多面的・ 多角的 に考 え、
自己の生 き方についての考えを深める学習 を通 して 、
観点 か ら考察 してきた 本論文ではこれ らの議論 を
受 けなが ら、さらに 「家族愛」 の観点 か ら、この問題
道徳的な判断力 、心情、実践意欲を育てるJと してい
る。2015年 7月 に出された 『学習指導要領解説 特
に取 り組みたい。
道徳編」 (以 下、 「解説」)で は 「発達 の
段 階 に応 じ、答 えが一つ ではない道徳的な課題 を一人
1。
道徳 教育 において内容項 目 「家族愛」をどのよ うに
理解 し、意味付けることがで きるだろ うか。 これが本
論文 の主要な問いで ある。本論文では、まず 学習指導
要領 にお ける 「家族愛」 の位置付けを確認す る (第 2
節 )。 そ の上で、 「家族」概念 の あ りよ うを原理的に
考察す ること (第 3節 )、 さらにそれ を道徳 の教育
曹静岡大学教育学部/教 員養成 。研修高度化推進 セ ン
ター
彙
・
静岡大学教育学部
別 の教科
一人 の児童が 自分 自身 の問題 と捉え、向き合 う『 考 え
る道割 、『 議論す る道徳』 へ と転換 を図る」 とい う
方針が示 されている通 り、読み物資料の読解 に偏 るこ
とな く、授業を通 して児童生徒 の思考力や判断力を育
てる道徳教育へ と重点が多 行 していることがわか る。
また、内容項 目のま とま りを示す四つの視点 である
「主 として自分 自身に関すること」 「主 として他の人
とのかかわ りに関す ることJ「 主 として集団や社会 と
のかかわ りに関する ことJ「 主 として 自然や崇高なも
中村美智太郎 ・藤井基貴
が強調 されてい る。そ して、 『家族 の一員 としての 自
単 をもつて積極的 に協力 してい くこと」を 「自分 の課
題」であることに気付かせるよ うに留意すべ きである
の とのかかわ りに関すること」 については、二点 の変
更が加 えられた。ひ とつは、 1・ 2・ 3・ 4と 順序づ
けられていたこれ ら4つ が、A・ B・ C・ Dと い うア
ルファベ ッ ト表記に変更 されたこと、も うひ とつは、
集団・社会 に関す ることが 自然・崇高 に関す ることの
とされる。 こ うした指導においては、 「多様な家族構
成や家庭状況 があることを踏まえ、一人一人の生徒 の
前に置かれ 、順序 が変更 された こ とである。
本論文 が取 りあげる「家族愛」 については、 「家族
実態を把握 し十分な配慮 Jを 忘れないことが教員 には
求められ るとしてい る。
愛、家庭 生活 の充実」 と小見出 しが付 され、第 1学 年
及び第 2学 年では 「父母、祖父母 を敬愛 し、進 んで家
の手伝 い な どを して、家族 の役 に立つ こと」、第 3学
以上のように、改訂された学習指導要領においては、
「
4ヽ 学校でも中学校 でも、 家族愛」を道徳 とい う教科
の
において扱 う際に重要な は 「敬愛」であるとされて
いるが、特に中学校においては自立心 。自律への意歓
からくる家族に対する反抗的な意識の芽生えを前提に
する必要があることが強調されている。 これらの指導
には教員の側に多様性への配慮が求められることも指
摘されている。
こうした、学習指導要領で示される 「家族愛」が前
提とする 「家族」 とは原理的にどのように提えること
ができるだろ うか。また、「家族」 「家族愛」にはど
のような概念史的背景があるのだろうか。次節では、
これらの問題に言及 しながら、その内容と特徴を示 し
てみたい。
年及び第 4学 年 では 「父母、社 父母を敬愛 し、家族み
んなで協力 し合 つて楽 しい家庭 をつ くることJ、 第 5
学年及び第 6学 年 では 「父母、祖父母を敬愛 し、進ん
で役 に立つ こ とをすること」 と学年 ごとの発達 が強調
されている。改訂前 との相違は、第 1学 年及び第 2学
年 にみ られ る。改訂前は 「父母、祖交母を敬愛 し、進
んで家 の手伝 い などをして、家族 の役に立つ喜びを知
る」とされてお り、改訂後は 「喜びを知る」箇所が削
除されている。中学校学習指導要領においては、「父
母、祖父母を敬愛 し、家族の一員 としての自覚をもつ
て充実した家庭生活を築くこと」と、末尾に 「こと」
が付されたこと以外には変更点はない。ただし「家族
愛、家庭生活の充実」 とい う小見出しの変更が付され
てい る。 「解説」によれば、 「父母、祖父母を敬愛
し」 とは,「 尊敬」 「愛情」を持 って接す ることを意
味してい る 「解説」では 「家族」は 「親子及び兄
3.口 洋における「抽
3-1.近 代家族の形成
中
概念 の歴史
「家族」の近代以降の意味合 い は、およそ 「同一世
帯に同居 し相 互に血縁関係にある人 々を中心に形成 さ
2。
弟姉妹とい う関係により下般的に成 り立ち、その一人
れる親族集団」を意栄すると考 えられ るが 、そ もそ も
rfallily」 の語源 と目されるラテ ン語 「fanilia」 は
一人 が、誰 か と取 り替 え る こ とがで きないか けがえの
ない価値を有する存在でぁる」とされ、子供は「かけ
「ある一人の主人に帰属する使用人ない し奴隷」を強
く合意 してい る これがフランス語 「fa■ lille」 に受
け継 がれ 、 さらに ドイツ語 「Fanilie」 へ と展開 して
がえのない子供として深い愛情をもって育てられてい
ることに気付かせることJが 重要であるとされている
この気付きを通 じて、 「自分の成長を願 い無私の
愛情をもつて育ててくれた父母や祖父母」に 「敬愛」
を深めることで、家族のなかでの 「役割」や 「責任J
6。
いったが、 ドィッにおいて一般的な用語として浸透 し
たのは 18世 紀になつてからのことであつたとい う説
が二般的である。
:
S。
を果たす ことを通 じて 「家族の一員であることの自党
が高まってい く」とい う図式が描かれながらも、家庭
が 「人間関係の緊密 さなどを発端として生じるい さか
いや トラブル」によつて「子供がゆがめられる危険性
が潜む場所Jで もあることに注意が促されている。
中学校の段階においては、 「自我意識」が強まり、
「自律への意欲Jが 高まるために、「自分を支えて く
れる父母や祖父母の言動や しつ けに反抗的になりが
ち」である ところが、 「かつてのような大家族の
人間関係の中でしつけられ、喜怒哀楽を共にし、生活
の苦労を分かち合いながら、人間関係の機徴 を学んだ
近代以前にラテ ン語 ffanilia」 で表現 されていた
のは、 「主人に支配 され服従す る者」である。彼 らは
主人 とは異な り、完全な人格 を持たず、従 つて法的な
権利 を主体的に行使す ることはない。 「fanili3」 は
奴隷 だけでな く、主人の妻や子 をも含む概念であ つた。
このよ うな 「familia」 概念 は、近代 に至 って もな
お 「家族」概念 を射 程 の範囲内 にお さめてい る。 E.
ショー ター は、 こ うした家族 がいかに して形成 された
かについ て考察 した。 シ ョー ター によれ ば (16。 17
世紀までの伝統的農村 共同体にお いては、共同体の監
4。
視 が配偶者の選択に関与 していたために、一般的には
それが個人 の選択 の結果ではなか つた とい う。 か りに
り、家族 の連帯を自覚 したりする機会」が減少 してい
るので、この教科としての道徳においては 「敬愛Jを
深めるように指導 し、「家族のそれぞれの立場になっ
て考えられるよう」に、 「多面的・多角 に捉えるこ
とができる」 ことを実現できるように指導すべきこと
相対的 に自由に配偶者 を選択 す るこ とが可能であ った
としても、それは働 き者である力ゞどうか とい う観点 (
いわば 「生活 の有用性」を基準 として決定 され、 ここ
nt」
に 「ロマンス」 が介在する余地はな く、従 つて結婚生
94
道徳教育における内容項 目「家族愛」に関する基礎的研究
活 もま た 、夫に対す る妻 の服従 とい う特徴 を持 ち、
「愛」の要素 は少な くとも前面には出て こない。 この
れ てい る。 いずれ も中世末期 に発達 した ものだが 、
「コンフレ リ」 は 「村 の守護聖人を祭 る礼拝堂の維持
場合 の 「ロマ ンスJと は、 「具性 へ の愛」 「愛情」
「ロマ ンテ ィック・ ラヴ」のこ とを指 し、 これ らは後
になつて r家 族へ の配慮や実利的な考え」にとつて代
や、そ の他 公共のための宗教的活動 を務 めとす る青年
の宗教団体 Jで あ り、 「ゲ ェ」は 「軍隊組織にな らつ
わるにせ よ、伝統的 な共同体の範囲内では、い まだ大
°
きな影響力 を持 つ に至 つて はい ない 。 シ ョー ター は、
実利 中心の ものか ら感情中心の ものへ の移行、すなわ
ち男女関係 の 「ロマ ンス」へ の移行にうい て、ふたつ
の特徴があると分析 している。 ひ とつ は 「若者 が、幾
世代 も受け継 がれ てきた ものへ の忠誠 と共同体 へ の責
て、隊長、縦列行進、団旗 、一斉射撃 といつた要素を
そなえJた 『自警団」である。 これ らは後 に融合 して
ひ とつの組織 になってい くが、 これ らの若者 組織 は
「夫婦家族 にとつて、息子 たちを家族 か ら引き離す強
力なライ ヴァル 」だ った と考 えることがで きるЮ。 こ
うした集団 は、例 えば男女 の関係や結婚 の成 立を適当
と認 めることがで きるほど、家族 よりも優勢で影響カ
を持 っていた とい う。そ して結婚後も、例 えば居酒屋
任 を重視す る価値体系を捨て、個人 の幸福 と自己成長
を重視する価値体系をもつ に至ったこと」 であ り、も
うひ とつは 「男女 の求愛行為 をあや つっていた伝統社
などで引き続き この集団は維持 され、 「豊 かな文化的
世界」 を展開す ることになったがu、 このことは、出
生 。結婚・ 死 といった人生 の大 きな出来事 について、
会 の糸が切れ、互いに求めあ う男女に対す る社会的規
制 がな くなつたこと」 である。そ して 、 この男女関係
における変化は 「家族史 とい う長大な物語 の一つの要
家族 よりも伝統的な共 同体 の持つ影響力 の強 さをよく
示 している。
シ ョー ター は、 「ロマンス」 と 「仲問集団」 の双方
素 であると同時に一つの画期点」 である とシ ヨー ター
は主張する。す なわち、男女 の関係が 「ロマンス」 の
価値体系に基 づいて営まれ ることによって、 「家族 の
を重要な要素 として扱 いつつ、伝統的な共同体におけ
る夫婦 の あ りよ うを、 「表情豊 かに振 る舞 い、抱擁 し
あい 、見 つめ合 つて互いの心を確 かめる」 といつた現
代 の あ りようと比較 して 「人び とは通常愛情 ではな く
領域 に愛 が侵入す ることによつて、家族 内部にも変化
が起 こる」 ことになるのである
宮坂靖子は、 ア リエ ス・ ス トーン・ シ ョー ター・ フ
7。
財産や リネージのために結婚 したこと、夫婦 が互い を
思 いや つた り顔 をつ きあわす機会を最小限に抑 え、ま
ず生活を支えてい くために この冷淡な家族関係 をむ し
ラン ドランの 4人 による感情 に着 目した家族論 にお け
る議論 を包括的に整理 しなが ら、こうしたシ ヨー ター
の近代家族論 につい て 「近代家族化 の要因 としての夫
ろ大事に した こと、そ して、仕事 の分担や性役割 を厳
婦関係 の強調」 が顕著であると指摘 し、恋愛結婚 の誕
生 と夫婦 の性 愛 に着 日して い る8。 宮坂 の見 立てによ
れば、 シ ョー ター が描写 している「家族の近代化 のプ
格 に して 、感情 をで きるだ けもたない よ うに した こ
と」 と特徴付 けて い る2。 す でに指摘 した よ うに、 こ
のことは 「夫婦」 だけではなく「家族 Jの 形態につい
ロセスで重要なの は『 性革命』 J、 すなわち前近代に
おける 「手段的セ クシュア リテ ィ」 か ら 18世 紀にお
て も同様に当てはまる。 では、伝統的な夫婦・ 家族 と、
近代的な夫婦・ 家族 を分別するものは何か。 シ ョー タ
ー は こ の 分 別 す る も の こ そ を 「家 族 愛 」
ける 「情緒的セクシュア リティJへ の変化 である。 こ
の見 立てに従 い 、宮坂は シ ョー ターの近代家族論 を
(domesticlty)と みな してい る1ち
シ ョー ター は、 「家族愛Jを 「家族は外部か らの侵
入 に対 して、プライ ヴァシー と自立によって守 られ る
べ き貴重な情緒単位であるとい う意識 Jと 規定 して い
クシュア リテ ィ論」 と読み替えてい る。
た しかに富坂のこの見 立てはシ ョー ターの描 く新 し
'セ
い家族像 を的確 に分析す るもので ある。だが他方で、
シ ョー ターの議論 において 、 この家族像 に起 こった
るM。 この 「意識 Jは 、 「ロマ ンテ ィ ック・ ラヴ」
「母性愛」 と並んで、近代 にお ける 3つ 日の「感情革
命」を構成するもので あるとシ ョー ター は位置付 けた。
「ロマンテ ィック・ ラヴ」 によって、男女は性 関係 に
「変化」は 「実利」にも基づいていた とみな している
ことも見逃 してはな らない。 「実利 Jと は、家族 の外
部 の ある種 の共同体である。 シ ョー ター は、そ もそも
伝統的な共同体 において家族 が 「一つの情緒単位 とし
対す る共同体 の監視から解放 され、 「母性愛」 によっ
て 、女性 は共同体の関わ りか ら解放 され、 「近代家族
て確立す るのはきわめて困難だ つたJと し、 「家族 の
構成員はたえず多様な仲間集団 の もとに出は らってい
た」 と指 摘 してい る。
。 この 「仲間集団 Jは 、そ のメ
に くつ ろぎを与える安息所」を与えられた。そ して、
「家族愛」 は家族を伝統的共同体の相互 関係か ら切 り
ンパー に 「多大な時 間 と忠誠を要求 し」、 この要求は
「伝統社会 の家族 がプライ ヴァシー と団結意識 をもと
離 し、家族 の外部に位置 づ けられ る仲問集団より強い
「一体感 Jを 家族 の構成員 の間で持つ ことを可能に し
た。 この 「一体感 Jに よって近代家族は 「核家族」 と
うとしても、そ の努力 を封 して しま うほど強大なもの
だつたJと シ ョーター は考えてい る。 シ ョー ターの分
しての性質を強 めてい き、 このことと平行的に、家族
にお いて 「規族集団」の持つ重要性が高ま つた 11
析 の根 拠 は主にフランス における事例だが、例 えば
「コンフレ リ」や 「ゲ ェ」 といつた集団組織 が挙げ ら
以上 のよ うに、 シ ョー ター による家族像 の分析 にお
13
中村美智太郎 藤井基貴
いて は、 「falnilia」 概念 が示す よ うな 「従属 J「 服
従」 といつた原理が含意 され、残 され ていることが分
とに大人においては黙認 され るか、さもなければ許容
された性的なことか ら子供 の無垢を保護することJと
「性格 と理性を発達 させなが らそれを強化す るこ と」
かる。 とりわけ伝統的な共同体時代における家族は、
その伝統的な共同体それ 自体 とそ の外部に位置付けら
れる 「仲間集団Jに 「従属」 「服従」 しなが ら、 「ロ
子供期 を維持す る方向性 、他方 ではその子供期を衰退
マンテ ィ ック・ ラヴ」 と「家族愛」 といつた「感情革
命 Jに よつてそこか ら解放 されることで、近代 家族ヘ
させようとする方向性とい うふたつの異なる方向を向
いているようにみえるが、17世 紀においては無垢と
と変貌 を遂げることになる。近代家族 の誕生は実利 に
会圏」か ら 「感情」 に根 ざした内向きの
根 ざした
'社
「親密圏」へ の変容 とともにあったのである。
このよ
理性 とは互いに対 立するもので はなかった
い
うに書物 にお ても、大人 と子供の分化 が表象 された
3…
である。 一見すると、この二重 の道徳性は、一方では
22。
と理解 で きる。
子供期 の成 立はまた、学校制度 の成立に も大きく影
響を受けた。 ア リエスによれば、近代までは大人にな
2.「 子供」の誕生 と家族愛
シ ョー ター が描き出 したよ うに、近代家族は伝統的
るための訓1練 を施 し知識を与えるのは家族や学校 にあ
るとはみなされなかった。そ のた め民衆 階級 の子供は
な共同体か らの解放 によつて形成 された。 そのことは
同時に 「子供」人 のまなざしの変化 をもた らす もので
あ つた。 ア リエスによると、中世までの芸術作品にお
乳幼児期を終 えると修行や奉公 に出た。 もちろんこの
時代において も学校は存在 したが、ア リエ スはこの学
いて子供は 「小 さな大人」 として描 かれているが、近
代、 とりわけ 17世 紀になると大人 とは区別 した描写
この時代 より 「子供 だけが単独 に
が出現 して くる
描 かれ る肖像画の数 が増大 しあ りふれたもの」 とな り、
16。
校 の特徴 を 「段階化 されたプ ログラムの欠如」 「難易
性の異なる学問の同時教育」 「年齢 の無視 と学生の放
任」 と分析 している亀 これ らの特徴 が示 しているの
は、 「学校に入 つたその時か ら、子供は直ちに大人 の
世界に入 る」 とい う事態である電 しか し、14世 紀頃
の学寮 のシステムにおいて年齢別の区分 が導入 され る
r子 供 の 肖像画 よりもずつと古 い歴史を持 つ家族 の 肖
像画が子供 を中心に した構 図をとる傾向を見せ る」時
代 でもあつたV。 また、 「服装 の うえで大人か ら子供
よ うになった こと等を通 じて 、個別 の教師を有する学
を区別す るもの はなにもなか つたJが 、 17世 紀 には
「貴族 であれブルジョフであれ、少な くとも上流階級
級が徐 々に成 立 してい き、個別化 された教室を有する
よ うにな っていった。 こ うした学校 の制度化 の進展に
よって、シ ョ‐ ターの指摘 していたよ うな家族 の外部
の子供は、大人 と同 じ服装 はさせ られてい ない」よ う
にな り、 「子供 の時期に特有 の服装があ らわれ」た と
い うЮ。 これ らの分析 か ら、子供 と大人の区別が生 じ
に属す る集団 と非常によく似た形態をとつた学生団体
も成 立 していったが、この学生団体への反発を主な要
因 として、学校 の 「規律化」 もまた進展 した
る分水嶺 となるのは 17世 紀であつた とみな される。
また、 「遊び」 についての意識 にも変化がみ られる
"。
この規律化におい ては、学校 においてはいか なる身
・
分 年齢 においても共通 の規律 が適用 され るこ とで、
よ うになる。伝統的な共同体 では、 「厳格 な規律を重
視するJ一 部 の人び とは 「遊び」を不道徳なもの とみ
な したが 、 「遊 びは社会 の大部分 の人び とか らなんの
幼年期 が引き延 ぼされて青年期 と同 じカテ ゴ リー に入
ることとなる電 学校制度 に基 づ く子供 へ の新 しい意
識 の成 立 は、家族 による意識 と深い 関係 がある。例え
ば近藤弘 は、 ア リエ スの 「子供」 の 「誕生」 の議論 の
留保 も蔑視 も受 けることな く、完全 に認 め られてい
つ ま り 「圧倒的 多数派 の道徳的無関心 と、教
た」
育による教化を推進 しよ うとす るエ リー トの不寛容」
19。
テーマ は、 「可愛が り」 「甘やか し」等 が 「幼児期J
と深 く結びつ く点か らも一つの家族論 とな つてい ると
とが共存 していたわけである。 この共存 のなかにおい
て、近代 以前 の共同体 では 「遊び」は大人 と子供に共
有 されていたが、近代にお いては性質を変える。すな
た しかにア リエ スは、中世的家族・ 17世
。
紀的家族 近代的家族 の よ うに家族 が変容 しているこ
とと深 く結びつ けながら、子供 を提えた2%
指摘する
27。
わち、 「人文主義の教育者、啓蒙期 の医師、初期 の国
民主義者 たちの影響」を受けなが ら 「道徳的に問題 の
み られた遊び」は 「軍事訓練」 「体育クラブJ等 へ と
ただ し、 シ ョー ターが指 摘 していたの と同様 に、17
世紀的家族 においては、社交が重要な比重を占めてお
り、 「家族 が存在 している所 Jは 「社交関係 の中枢」
「進化 」 していつた電 この 「進化」 と並行 して 「社
会全体 に共通であつた諾 々の遊びJは 「年齢や身分 ご
「家長が命令 を下す複雑で階層的な小社会 の首都」で
あつた。近代家族 になると、 これ とは対照的に、世間
から切 り離 され 、 「孤立 した親子か らなる集団」 とい
とに分イ
ヒJし てい くことになる
さらに、書物 について も同様 の事態 が起 こつた。 17
世紀になるにつれて、 「大人 の書物 とは区別 され る、
21。
子供向け の教育的な文献 が出現」 した。 この背景 には、
子供につ いての新 しい、 しかも二重の道徳的な風土の
う性質を獲得 し、む しろ社会 と対峙することになる。
この近代家族 は 「集合的な野心」ではな く、 「子供た
ちそれぞれ の 向上」を中心に営まれ る。そ して、 これ
成立があるとされる。 つ ま り、 「生活の機れ か ら、 こ
らの変容 は、貴族・ ブル ジ ョフ・ 富裕な職人・ 富裕 な
14
道徳教育における内容項 目「家族愛」に関する基礎的研究
勤労者に限定 されてお り、人 日の大部分 を占めた貧 し
い層において は中世的家族 が維持 され、子供が親元に
4-■
.薔 み働資料 『ビデオテ ー プJ極観
同資料 は、 「わた しの主張'98」 と題 された当時の
ある中学生の作文を出典 とする読み物資料である。以
下、内容を概観 してお く3t
「ビデオテー プ」 と題 された本資料は、 「うるさい
留 まることはほ とん どなか つた。民衆 においては 、
「自宅」意識や 「家庭」意識 は存在 しなかつたが、近
代的家族 の範囲は社会 の発展 とともに徐々に拡大 して
い くこととなった。 ア リエ スは、 こ うした図式を提示
する ことを通 じて、家族愛 を含 む家族 の感情は 「多様
なあ」 とい う「親」 に向け られ る言葉 か ら始 ま り、
「中学生」 とい う時期が 「反抗期」に当たるのだ とい
性 にたいす る同一の不寛容 さの表明」お よび 「画 一性
への 同一の配慮 の表明Jと して 出現す るもの と結論付
う自党が語 り手か ら語 られ る。 ところが、 「親 Jに 対
す る 「反発」を普段感 じている語 り手は、最近 「衝撃
けてい る亀
以上 の よ うな ア リエ スの指摘 は、 「家族」 「家族
的な出来事」 を経験する。すなわち、 「家庭科 の保育
についての授 業」 で出された 「自分 の 6歳 まで の成長
愛」 とい う現象 の本質的な様相 について示唆す るもの
を記録 した レポー トを作成する」 とい う課題 に取 り組
んだ際に、 「たんすの奥で眠 つてい る母子手帳やアル
である。近代以前 において乳幼児期を脱すると大人に
なるとみな された 「小 さな大 人」 は、 17世 紀以後に
「学校」 と「家族」 のふたつの生成・ 誕生を主な契機
バム」を利用 し、 「前までは母子手帳やアル バ ムを見
て もただ懐 か しむだけだった」 が、 『戸棚 の奥のそ の
また奥 に」眠 つていた 「 1番 古 い ビデオテー プ」を再
として 「子供 Jと みなされ、 さらに家族意識 の変容 と
ともに、 「家族」 「家族愛」 の 「不寛容」 「画一性」
生 した今回は 「私 の思 つていた以上に温かかった父や
の範囲の うちで成 立 しているとい うことが明 らか とな
つた。道徳教育 における 「家族」 「家族愛」 とい う内
母 の愛情 で私 の胸 の 中は、今にもあふれそ うな くらい
いつぱいにな」 つたので ある。 この 「30分 程度 のタ
イ ムス リップJに よって、語 り手は 「小 さかった頃、
容項 目も、こ うした合意を前提 としてい ることが示唆
父や母は どんな思い で私を抱いた り、あや した りした
んだろ う」 とい う疑間を解決するだけでな く、 「親」
され る。
次節ではここまで の議論を踏まえて、わが国におけ
る道徳教育 の文脈 のなかで 「家族」 「家族愛」 の問題
について考察をすす める。
の「意見 して くる」 とい う態度 を 「わが子を幸せな方
向に導 いてあげたい とい う親 の願 いの表れ」 として捉
え直す ようになる。そして、 「反抗期 の時期」に 「親
4.道 徳教育における「家族愛」 の機われ方
ばか りが苦心 して子供の心を理解 しよ うとす る」 だけ
前節までにお いて、 「家族」 「家族愛」 の根本的な
理解 を得 よ うと試み、 これ らに基づいて西洋における
「家族」 「家族愛」概念 の外延 と内包を概略的に明 ら
でな く、「子供 の方 も何 らかの形で親 の心を理 解 しよ
かに しつつ"、 とりわけ家族及び家族愛 につ きま と う
「従属性」 の 問題 を取 り扱 つてきた。
んな温かい思 い をさせてあげよ う、いや絶対 させてあ
うと努力 しなければならな いとい うこと」 に気づ くよ
うにな り、語 り手が 「親」にな つた ら、 「子供にもこ
本節 では、 ここまでに明らかになったことを もとに、
道徳教育における内容項 目「家族愛」 について道徳教
げるんだ」 と決意する。
お よそ以上の よ うな内容 が示 され る 「ビデオテ ー
プ」 とい う読み物資料は、中学 1年 生の持つ反抗期 を
育の数材を利用 して 、具体的に分析する ことを試 みる。
前節まで の「家族愛」概念 の理解 をぶまえ、静岡県 の
軸 としながら、それ をいか にして生徒 自身が乗 り越 え
てい くか とい う問題 を主題 化 していると言える。
中学校道徳副読本『 心 ゆたかに』 (発 行 :静 岡教育出
版会)を 検討す る ことで、 「家族愛」の 内容項 目の あ
4-2.静 み物資料 『ビデオテープ」の可鮨性 と課題
り方について考察す る。 こ うした目1読 本には、 どの学
年において も内容項 目「家族愛Jに 関連す る 「読み物
資料」が一篇 ない し
′
さて、
次に 「ビデオテープ」 とぃ う教材を、道徳教
育 として道徳 の時間に実践す る場合 の可能性及 び課題
について考察す る。その際に特に 「道徳の教科化」を
が収録 されてい る。 中学校 1
年生向けにま とめられた本教材では 「ビデオテープ」
とい う読み物資料 のみが 「家族愛」を取 り扱 つてい る。
控 えて、本教材 を実際に授業のなかで 「家族愛」 とい
う価値項 目を取 り扱 う意味や留意すべ き点等につい て
中学校 2年 生向けには 「頑張るぞ俺 たち家族 !」 「母
の指」の二篇が、中学校 3年 生向けには 「宮崎 の空に
検討 を加 えたい。
本論第 ?節 において確認 したよ うに、改訂 された学
向かつて」 の一篇が収録 されているが、本節 では中学
生に とつての 「家族愛」概念 の導入 となるべ き本教材
「ビデオテー プ」 に焦点をあてて、特 に本教材 を道徳
習指導要領にお いて、小学校 と同様に中学校 の場合で
も 「家族愛」 を道徳 とい う教科 にお い て重要なのは
=篇
「敬愛」であるとされていた。 とりわけ中学校 におい
ては 「自立心」・ 「自律へ の意欲」か らくる、家族 に
対す る「反抗的」な意識 の芽生えを前提にす る必要が
あることが強調 されていた。 「うるさいなあ」 とい う
の時間に実践す る際の可能性 と今 日的な問題点を浮か
び上がらせ る ことを念頭に、考察す る。
15
中村美智太郎 ・藤井基貴
。こんな風 にアルバムが しっか りある家 ばか りではな
い。
家族 に向けられた言葉か ら始 ま り、 ビデオテー プ とい
う古 い メデ ィアに触れることを通 じて、家族 の愛情 に
改めて気付 くとい う、 この 「ビデオテー プ」 とい う教
・ 家族愛 だ けにすると,家 族愛を受けてい ない人 もい
材 の持 つ構造 もまた、当然 この学習指導要領 の要点 か
ら外れることはない。 ただ し、 「家族」像 の描写は限
るので ないか。
・ 親 がい ない子や何か家族に問題ある子 どもはクラス
に少なか らず いるので傷 つ くのではないか。 かな り配
定的 であ り、現代における多様な家族愛 の あ り方 と対
立する要素が残 されてい る。本節冒頭 において指摘 し
たよ うに、中学 1年 生が 「家族愛」 について道徳教育
慮 が必要だ。
・ 自分 の家 は自分を大事にしてくれていたか ら当時の
の文脈で考える機会は、読み物資料 としては本教材に
限定 されてい るために、家族及び家族愛 の多様性 をど
自分だ とそ うではない家 のこ とが想像できない。
・ 親 も心配だけではなく、親 の不安定 さも要因の場合
の よ うに取 り扱 うかについては、授業実施者 である教
があるか ら、そ うい う場合は このよ うに受け取れ ない。
殴 られた りしていた ら好意に思えない。
員に完全に任 されてい る。 この点においては、教員 の
力量 に依存す る構造にな つているために、家族及 び家
族愛 の もつ多様性 に朴 して教員 は自党的になる必要が
ある。 この点に この教材の持つ難易度 の高 さがあると
多様性 を認 めることそれ 自体は、ポ ジテ ィヴな ことで
もあ り得 ると思われ るが、これ らの回答 か らは、家族
言 える。
教員 にとつては、生徒各 自の家庭乗痛 に対する適切
な把握 とそれに基づ く道徳教育 を推進す るとい う明確
や家族愛 の多様性 が必 ず しもポジテ ィヴとはいえない
観点 か ら捉 えられてい ることが分かる。 さら,に 、同様
に教員養成課程 の学生に対 して、 「授業で使用す る際
にどの よ うな点に気を付 けるか」 と問 うた ところ、次
のよ うな視点へ の気付 きがみ られた。
な自党が求め られてい ると言える。教員養成・研修 の
機会 においては(前 節までに考察 してきた近代家族 の
成 立の歴史に 目を向けるな ど、家族及び家族愛 の もつ
`
多様性や変遷可能性 についての知 の構築が求め られて
い るとも言える。
片親家庭などへの配慮】
【
・ 本教材 の両親 は、アル バムや ビデオな ど子育てに積
例 えば、教員養成段階 における学生は、本教材につ
いて どの ように考 えてい るの力、 筆者 らが 2015年 に
極的であるが、誰 しもがこのよ うな両親 を持 つ わけで
はないので、アルバムな どにとらわれず 、育 てて くれ
た人 との思い 出など広い範囲から振 り返 る。
教員養成課程 に在籍す る学生を対象に した開き取 り爾
査 の結果 では、次 のよ うな回答 がみ られた。
【ビデオについての認識】
・ 今 の生徒 たちは(も しか した らビデオを知 らない か
もしれ ないので、一言説明を入れ る、
・ あつ か うのが難 しい資料 だ。
・ い ろんな人に支えられてきた ことに感謝 で きる。
・ 親 が 自分 の ことを思 つていつて言 つて くれてい るこ
【自己体験か ら振 り返る】
。本教材 の よ うに、 うるさい なぁと親 に言 つて しま う
ともわかつてい るのが反抗期 だ。
・ 反抗期 は親 だけではなく、親戚やあらゆる大人に対
ことは多 くの生徒が体験 していると思 うので、自分 の
行動 を振 り返 つて考 えさせ るようにす る。
してあるので はないか。
・親 の気持ちを理解す るだけだ と、愛をむけてい ると
はいえない。
ここで指摘 された ことは、本教材で提示 されてい る家
族愛 のイメー ジが価値 の項 目として提示 されてい ると
い う性質に由来 している可能性 がある。言 い換 えれば、
ひ とつの定ま つたス トー リ‐を持つ とい う読み物教 材
これ らの回答は、教員養成課程 の学生 にとうて、 「家
族愛」 の授業を道徳教育 に位置付けて実施することに
対 してある種の困難 さを感 じてい ることを示 している:
自体 の抱えやす い課題 ともいえる。学習指導要領 にお
いて強調 され つつ あるように 「道徳的な判断力」 を涵
養するので あれば、読み物毅材とい う資料 とは別 の教
材 あるい は 「展開後段」を活用 して話 し合 い活動に主
本論 で考察 してきた家族像 の変遷 か らも示 されるよ う
に、 よ り中学生に近 い世代に属する学生にとつては、
家族像や家族愛像 が一様 ではないこ とは自明であ りな
眼を置 い た授業展開を準備する ことも模索 されて よい。
これ らの指摘はまた、 「家族」 「家族愛」 を道徳教
育で扱 う際に、 「愛」 に対置 され る 「従属性 Jの 問題、
が ら、だか らこそ教員の立場で価値項 目としてそれ を
「指導する」場合 には、そ うした多様性 を乗 り越えた
さらには 「従属」す る者 の「声」をどのよ うに扱 うか
とい う問題が存在することを示唆 してい る。そこで次
形で の授業を実践す ることに戸惑い と難 しさを感 じて
いることが示 唆 され る。
そ うした多様性 につい ての認識は、例えば次の よう
項 では、 この問題 について検討を加 えたい。
な回答 か らも示 されてい る。
4-3.サ パル タン的主体 と「家族曖」 の問題
16
道徳教育における内容項 目「家族愛」 に関す る基礎的研究
前節まで の考察 か ら、シ ョー ター が描 き出 した伝統
的家族か ら近代家族へ の転換 とい う図式 にしても、ア
リエ ス が描 き出 した子供の誕生の図式に して も、語源
であ り、機会 さえ与えられれば、 自らの置 かれた状態
を語 り、そ して知ることがで きると主張 している。 し
か し、 スピヴァクにとっては、そ もそもサパ ル タンは
語 るこ とが可能 なのか とい うことが問題で あ る。 つ ま
としての 「fatlilia」 概念 に含 まれ る 「従属性 Jを 基
盤 としてい ることが明 らかになった。 シ ョー ターの図
り、 ここでス ピヴァクが問 うているのは、知識人 は抑
圧 された人 々が 自らを語ることを称揚するが、実はそ
式にお いて は近代家族 の形成は、家族愛 を契機のひ と
つ に して伝統的な共同体へ の「従属」か ら脱 してい く
プ ロセス とともに成 り立 っていた。 また、ア リエスの
れは暴力的な振 る舞 いで あるばか りか、知識人が抑圧
された人 々に成 り代わ って語 ってい る ことにな りは し
ないか とい う問題 である≒ ス ピヴアクに とつて、サ
バ ル タ ンは、単に読み書 きがで きれば 「知 るこ と」
「語 ること」ができるわけではない とい うことである。
図式 において も、子供は学校 における教育を契機 のひ
とつ に して労働す る大人集団へ の 「従属」か ら脱 して
自律性 を獲得 していつた。 こ うした 「従属」 か らの解
放 の物語 として描かれる 「愛」 の世界におい て 「従属
知識人 の課題はサパル タンの 「意識 の発展過程 を書
性」 もまた対概念 となつて現れ るj
「従属性」については、ポス トコロニ アルの批評家
として知 られ る C C ス ピ ヴァクが 「サバル タ ン」
き直す こと」 にあることで ある。 この知識人 の課題は
い わば 「目に見えないこ とを 目に見えるよ うにす るこ
と」であるが、この課題 の厄介な点は、この課題はす
ぐに 「個 人 を声をもつた存在 にす ること」へ とたやす
概念 を提起 して原理的に検討 してい る。 「サバ ル タ
ン」 とは、英語 の 「subaltern」 に由来す る概念であ
る。 この単語は、形容詞では 「下位 の」を意味 し、名
くス ライ ドして しま う点にあるとスピヴァクは指摘す
る37。 知識人が、 こ うした 「異種混交的なあ りよ うを
している他者」 としてのサバル タンを、 自己の場所 の
みへ と引き合 わせ る ことで 「同質的な他者 Jを 「構
詞では 「従属的状況に置 かれた者たち」を意味す るも
のだが、 もともとイギ リスでは軍隊の用語 として大尉
より下の士官 を指す表現 だつた覧 これが後 にヘ ゲモ
築」 しよ うと して も、そ うしたサパル タンの意識 を捉
えることはできない と言 う。 サパル タン と向き合 う者
ニー を握 る権力構造か ら疎外 された人々の ことを指 し
た人び とJの ことを指す と述 べ ている
さて、サパルタン問題 につい て、 スピ ヴァクは次 の
は、彼/彼 女らを 「代表する」 ことではなく、 「わた
したち自身を表象する方法を学ぶ」必要がある乳
道徳教育を「家族」「家族愛」を扱 う際に難 しいの
は、こうした 「サバ71/タ ンJで ある「子供」の可能性
をどのように考慮すればよいのかとい う点でもある。
フー コー/ド ゥルーズの立場のよ うに、教師が 「家
族J「 家族愛」の価値を伝達 し、子供をそれらの価値
を知る者 とみなすことによって、 「サバル タン」 とし
ての子供の声はむしろ陰に隠れてしまう。多様化の進
む社会において 「家族」や 「家族愛」を道徳教育で扱
う場合には、 「サパルタン」 としての子供に目を向け
よ うに問いか けてい る。
る必要がある。
示す術語 として、サパル タン・ ス タデ ィーズ・ グル ー
プの研究な どによつて広 く用 い られ るよ うになった と
い う経緯がある。 この「サバル タン研 究」か ら 20年
の経過 を経た時点で崎山政級は、サパル タン概念 につ
いて、それ が 「あくまで関係 のなかで生きるものだ と
い うことをお さえておかなければならない」 と指摘 し
た上で、 「l● 民地主義が不可避的に組み込まれた支配
がつ くりあげ再生産す る社会的諸関係 において、『 従
属的・副次的』であり
『 下層』であることを刻印され
33。
このよ うに、 「家族愛」 とい う問題を考察する際に
前提 とされるべ き 「従属性」は、スピヴァクの考察を
「そ こでわた したちとしては以下の 問い に立ち向か
わなければな らない。社会化 された資本 か ら遠 く離
導入すると、 「サパル タン」 の文脈が強 く関与す る。
そ して 「サバル タンJの 視点に立つ と、家族 の語源 と
して の 「fanilla」 が示 唆す るよ うに、家族愛 を共有
れた ところにある労働 の 国際的分業 の もう一方 の側
では、はた して、初期 の経済的テ クス トを代補す る
する構成員 が重層的に 「従属」 の状態に置 かれている
ことが浮かび上がって くる。
帝国主義的な法律 と教育 が発動す る認識 の暴力 の圏
域 の 内側お よび外側 にあって 、サバル タンは語 るこ
スピヴァクが論 じるこの従属 の多重性 は、シ ョー タ
34
とができるのか、とい う問いがそれである。」
ーやア リエスが描 くように、近代における家族 と家族
愛 の諸相 が、伝統的な家族か ら転換するとい う図式 の
なかで ある種 の 自律性を獲得 してい くとい う分析を背
この問いの背景には、 フー コー と ドゥルーズに対す る
批判 がある“。 ス ピヴァクによれば、 フー コー と ドゥ
ルーズは 、 「認識 の暴力 によ つ て隠 された圏域 の縁
(…
後 か ら補完 してい る。すなわち、伝統的家族 か ら近代
家族へ の転換 の背後にお いて、重層的に隠薇 され続 け
)に 位置す る者たち」、例 えば読み書 きので きな
る従属性が存在 してぃ るとい うことが示唆 されるので
ある。 ス ピヴァクの議論 においてとりわけ注 目すべ き
い農民たちや部族民、都市 のサブプ ロレタリアー トの
最下層 に属す る男女 といつた者たちは、被抑圧者たち
は、シ ョー ターやア リエ スが優れ て描出す る近代 家族
″‘
中村美智太郎 藤井基貴
「愛」や 「信念」 といつた個人の内面 に関わる内容を
扱 う場合 こそ、 「話 し合 うこと」 の役割や価値はある
ので あ り、そ こに 『議論す る道徳」の真価 があると考
のイメー ジの後景にはt示 唆 されはす るものあ言及 さ
れ ることのない者、そもそも自ら語 ることので きない
者 が数多 く隠薇 され得 るとい う点である。家族 を提え
る際に、また家族愛を捉える際に、 この点は看過すべ
える。
きではない と言 えるだろう。
6.お わ りに
5.家族愛を
ここまでに考察 して きたよ うに、道徳教育における
価値項 目としての 「家族愛」 に含 まれる 「家族」 とは、
そもそも一義的 に規定 されるものではなく、とりわけ
「愛」の要素 がそこに入 り込んで くるといつた 中世 か
とい う方向性
鴨 綸す る道徊
「家族愛」 を価値 として伝達す る方法 に対 して、
「家族愛」を扱 う方法 としては:例 えば谷和樹の提案
す るモ ラルジ レンマ に基づ く方法 がある。 この授業 で
は、 「お年 玉が貯ま つたので前 か ら欲 しかつたゲーム
ら近代に至るまでに確認 され る大きな転換を経 なが ら、
必然的にその形態 と内容を変 えてきたものであつた。
そ してこの構造は、現代 における「家族愛」 の形態に
ソフ トを買お うとしたら親から『 貯金 しなさい』 と言
われた」といつたテーマを立てて、 rQ l 自分がも
らつたお金だから買 う」 「Q2 親の言 うことは聞か
なくてはいけないか ら貯金する」とい う二つの選択肢
を用意 して、子供の議論を喚起することで討論授業を
対 して看過することのできない刻 印を与えている。 こ
の ことか ら明 らかになるのは、 「家族」 「家族愛」
「愛」 といつたそれぞれの概念が決 して普遍 的なもの
実施することを提案 していぅ"。 このメソッドは、道
徳のジレンマに関わる作文を子供が書きながら、討論
ではなく、少なく とも社会 の変化に応 じて同 じよ うに
変化 してい くもので あるとい うことで ある。
今 日多様化す る 「家族」像は、そ のまま 「家族愛」
を深め、それ を通 じて道徳的な判断力を養 つてい くと
い う構造を持 つている。作文 の書きにくい子供 のため
にある程度 の模範解答 を教員が準備す ることも想定 さ
像 の多様化 として捉 える必要 が あるもだ とすれば、 と
りわけ価値項 目として道徳 の時 FH5に 取 り扱 うとすれ ば、
「家族愛 Jと い う価値それ 自体を否定す ることのない
ように留意 ししなが らも、やは り同 じだけ留意すべ き
れ てお り、子供 の道徳的段階に応 じて、道徳的な判断
力 を養成する ことが可能な仕組み になつてい る。
谷の メソッ ドにおいては、必ず しも 「家族愛」 のよ
うな道徳教育 の価値項 目が前面に登場す るわけではな
い が、討論 のプロセスにおいて子供 から「家族を敬愛
点 として、今 日の 「家族」 が決 して一義的に規定 され
るものではな く、道徳教育を受 ける子供 自身 の 「家
族」及び 「家族愛」 もまた、多様であるとい うことで
す る気持 ち」 が導出され得るよ うに構成 されている。
また、構造上、子供 一人一人 が考 えを書 くことができ
るために、教員に対 して、子供 の微細な家族愛 イメー
ある。例 えば、母子家庭 の子供や施設で育て られた子
供、あるい は家族 による虐待を経験 した子供 の存在 が
前提 とされ る社会においては、 「父母や祖父母によつ
ジを取 り上げることを容易に している。
こ うした討論授業 において は、教員側 の環境整備 が
重要な役割を果 たす。具体的 には、誤 つた回答 と正 し
て家族であれば誰 にで も与えられる無償 の愛 としての
家族愛」 とい うイメージにのみ基づいた 『家族」及 び
い 回答 があるとい う想定をクラス全体の環境か ら取 り
除 くことや、あらゆる意見は受け止め られ るとい う安
う。
「家族愛」 を取 り扱 う道徳の時 間の運営は困難であろ
心感を子供が持てる ことなどである。 こ うしたメ ソッ
ドを利用 した道徳授業の多 くは授業終了時にも正答 を
示す ことがない 「オニプン■ ン ド方式」が採用 される。
学校での 日常生活 を送 りなが らも、家族に関わる間
題を抱えた子供が 自ら声を上げる ことができない場合
も少なか らずある。 こ うした子供は、ス ピヴァタが主
張す るような 「サバル タン」的な主体 であると言 える。
子供 自身 が 自らの家族 について 「語 ることができな
オ ープンエ ン ド方式による授業は扱 う価値項 目の意味
を理解 させ、行動へ と反映 させ る習得型 の授業 とは異
な つて、す でに学習 した価値 を活用す るための授業 と
い」環境 に置 かれ 、 「サバル タ ン」的な主体である場
合、 「家族愛」 を受けることが全ての人 間に とって前
しても意義 を持 つ。また、討論や意見交換 を通 じて、
個人 の体験や 心情 に基づ く価値判断 を集団や社会にお
提 であるよ うな道徳 の授業は、 「サバル タン」的な主
体 としての子供 を追 いつ める危険す らあることに、教
ける価値基準や規範 に接続 させる機会 の一つ ともなる。
「家族愛」 を扱 う授業に関 してい えば、それが本論
文 の指摘す るよ うに、従属性 を内包 した 「親密圏」 に
員 が自党的になる必要がある。家族 とは社会的な生活
を営む基盤であるとすれば、子供 にとっては、その原
義 「familぬ 」 が暗示 しているよ うに、 「従属」 しな
ければならない基盤でもある。道徳 教育 におい て 「家
おける特殊な意志や感情 の在 り方 と密接不可分である
ことを鑑みれば、なお さら学校 とい う小 さな社会 のな
かで、他者 との接続 を通 して内化 された心性 を見つめ
族愛」を取 り扱 う場合 には、 「大人」ではない存在 と
しての 「子 ども」 が多様な家族像を背景に持つ存在 と
して再び 「発見」 される こととなる。
直す機会 として重要性を担 うこととなる。学級内の レ
デ ィネス に慎重な配慮を払いつつ 、道徳教育 の なかで
この r発 見」が授業運営、具体的には授業に向けた
18
道徳教育における内容 項 目「家族愛」 に関す る基 礎的研究
レデ ィネスのなかで、教員 も含めて子供たちの間で も
慎重に理解・ 共有 され得 る道徳 の授業が、 「考える」
そ して 「議論す る」道徳教育において 目指 され る姿で
た近代小説等 に由来す る合意があるが、今 日の私たち
は、西洋語 の r愛 」 の理念それ 自体はおよそふたつに
大別 して理解できる。ひ とつは、キ リス ト教を中心 と
した宗教的な文脈 で捉えられ る神の愛 としての 「アガ
ベー 」に代表 され るような 「精神 的な愛」、もうひ と
あろ う。
1次 を参照 のこ と。藤井基貴・ 宮本敬子・ 中村美智太
つ は(特 に近 代においてフロイ トが リピ ドー概念を提
郎 「道徳教育 の 内容項 目『 寛容』 に関す る基礎 的研
究」、『 静岡大学教育学部研究報告 (人 文・ 社会 ,自
然科学篇)』 第
123‐
63号 、静岡大学教育学部、2013年 、
134頁 。藤井基貴 。中村美智太郎 「道徳教育 の 内
出 した際に着 目され るよ うな 「内体的な愛」である。
これ らの 「愛」概念 の語源 とみなす ことがで き、今 日
『愛」 と翻訳 され得 るギ リシア語 の表現には四種類、
すなわち、エ ロース (恋 愛、夫婦愛、肉体的性愛)、
ス トル ゲー (情 愛、肉親愛)、 フィ リア (友 愛、隣人
愛)、 アガペ ー (聖 愛、神的愛)の 四種類 がある。 シ
容項 目『 畏敬 の念』 に関す る基礎的研究」、『 教科開
発学論集 』第 2号 、愛知教育大学大学院教育学研究
科・ 静岡大学大学院教育学研究科、2014年 、 173‐
183頁 。藤井基貴 。中村美智太郎 「道徳教育の 内容項
ヨー ターが 「家族愛」 として取 り扱 っているのはこの
うち 「ス トル ゲー 」 に当たる。
14シ ョ_夕 _(1987)、 238頁 。
目『 自然愛』 に関す る基礎的研究」、『 教科開発学論
集』第 3号 、愛知教育大学大学院教育学研究科・ 静
16シ ョー ター (1987)、 246頁 。
岡大学大学院教育学研究科、2015年 、47・ 60頁 。
2文 部科学省 「中学校学習指導要領解説 特別 の教科
16ァ リエ ス (杉 山光信・ 杉山恵美子訳 )『 (子 供〉
の誕生――ア ンシ ャン・ レジーム期 の子供 と家族生
道徳編 」2015年 7月 、51頁 。
活』みすず書房、1980年 。
8文 部科学省 (2015)、 51頁 。
4文 部科学省 (2015)、 62頁 。
17ァ リエ ス (1980年 ):47頁 。
18ァ リエ ス (1980年 )、 50頁 以下。
10ア リエ ス (1980年 )、 78頁 以下。
5 The Pocket Oxford Lath Dict10naw,Ettted by
」ames M囀
"d OrordlNew York KOrord
20ァ リエ ス (1980年 )、 86頁 以下。
21ァ リエ ス (1980年 )、 87頁 。
Unlverslty PreO,1913/2001,p.54
6シ ョ_夕 _(田 中俊 弘・ 岩橋誠 一・ 見崎恵子・ 作道
2津 田悦 子 は、 ア リエ ス が扱 う 「子供 」 はいか な る
潤訳)『 近代家族の形成』昭和堂、1987年 、126頁
以降。
7シ ョ_夕 _(1987)、 127頁 。
年齢集 団 を対象 としてい るのか とい う問題 に 目を向 け、
それ が 「新生児期 」 と 「それ以外 の時期 Jに 三分 で き
る と主張 してい る。 津 田の こ うした 「新 生児 」 の視 点
は、ア リエス にお ける 「子供 」 を 「fam五 a」 概念 の
3宮 坂靖子 「近代 家族 に関す る社会史的研究の再検討
一一 「家族 の情緒化」 の視点 か ら」、『 奈良大学紀
原 義 との関連 におい て考 える本節 に とって示 唆的で あ
要』第 38号 、2010年 、 161頁 以下。
る。 この 問題 につ いて は以 下を参照 の こ と。津 田悦 子
「新 生児 に見 る子 ども観―― ア リエ スの論 を基点 とし
9シ ョー ター (1987)、 215頁 。
10シ ョー ター (1987)、 216頁 。
11シ ョー ター (1987)、 218頁 。 なお 、 この居酒屋
て」、『大阪大学教育学年報』第5巻 、21Xlll年 、29
∼44頁 。
の よ うな、家族 の外 部 に成 立す る共 同体 が形成す る文
化 につ い て は 、近代 にお け る国家及 び公 教育 に対抗 し
うる原理 と して市 民社会 的 「公 共性 」 の原型 とみ なす
こ ともで きる。 この 問題 につ いて は稿 を改 めて論 じる。
12シ ョ_夕 _(1987)、 56頁 。
では [家 庭愛」 と訳 され て い るが 、
21ァ リエ ス (1980年 )、 247買 以下
27近 藤弘 「『 近代 家族』 と子 ども一―
『 (子 供)の
誕生』読解 の試み」、『 立教大学教育学研究科年剰
本論 の文脈にあわせて 「家族愛」 とした。
「domest五 け」 とい う表況それ 自体は 「家庭性 Jの
よ うによ り広 い意味で理解 され得 るが、第六章では
「愛情」 (l● ve)に 基づ く 「友愛」
第 34巻 、1990年 、49‐ 6o頁 。なお近藤 の議論は、
宮澤康人 の主張を前提 としてい る。 これについては次
(con■ paコ Юnsblp)と
比較 されていることか ら、 ここ
「
では 家族愛 Jと した。なお 「愛」概念 (「 love
(英
r規 律化 」 を 「耐 え ぎる監視 J「 統治原理 と して制度
的に うちたて られ る密告 」 「体罰 を大幅 に拡大 して適
用す るこ と」 の三 点か ら説 明 してい る。
13シ ョ_夕 _(1987)、 238頁 。 なお原語
「domestlctty」
23ァ リエ ス (1980年 )、 140頁 以下。
24ァ リエ ス (1980年 )、 149頁 以 下。
26ァ リエ ス (1980年 )、 240頁 。 ア リエ ス は この
を参照のこと。宮澤康人編『 社会史 のなかの子 ども
=
一ア リエ ス以後 の (家 族 と学校の近代〉』、新曜社、
),Lebe(独 ),alnour(仏 )」 )一 般には、ギ
1988生 F。
リシア古 典や キ リス ト教、主に男女間の感情を表現 し
23ァ リエス (1980年 )、 379頁 以下。
19
中村美智太郎
20ア リエス (1980年 )、 381頁 以下。
30西 欧における家族史研究は基本的 には歴 史学 の研
究対象であつた とみることができる。二宮宏之は
1
/
37ス ピヴァク (1998年 )、 45頁 。
3Bス ピヴァク (1998年 )、 54買 以下。
"谷 和樹『 道徳の難問・ 良間 テーマ 50=1問 選択
「『 家族』の問題に一貫 して注 目してきたんほんの歴
史家の眼には奇妙に映ることだが、 ヨーロッパ近代の
歴史学は、『 家族』とか『 家』とかのテーマには概 し
て関心が薄かった」 とし、「『 個人』 と『 国家』 とい
う、二つの軸の上に成 り立っているとする近代 ヨーロ
システムーー 「考える道徳作文Jに よる討論授業づ く
り』明治図書、2013年 、104頁 以下。
ッパの理念そのものが関連 しているかもしれないJと
述べている。 これについては次を参照のこと。二宮宏
之 「歴史の中の『 家』J、 『 叢書歴史を拓 く― アナー
ル論文選 2家 の歴史社会学』新評論、1983年 。
31以 下の概要は次を参照 してまとめた。 「ビデオテ
ープ」、社団法人静岡県出版文化会他編『 中学心ゆた
かに 静岡県中学校道徳副読本 1年 』静岡教育出版
L、 20154F、 112‐ 115Jヨ 。
在
初めて使用したのは A.
"こ の概念を軍隊用語からニ
ニ政権による検閲下にあ
ムシ
ム
ソリ
グラ
である。 ッ
つた獄中のグラムシは、一元論とい う言葉でマルクス
主義を、またサバル タンとい う言葉でプ ロレタリアン
を呼ばざるを得なかつた。次を参照のこと。グラムシ
(松 田博編訳)「 グラムシ『獄中ノー ト』著作集 Ⅵ I
歴史の周辺にて『 サパルタンノー ト』J明 石書店、
2011年 。なお松田博が『 獄中ノー ト』英語校訂版編
者である 」 A プ ッティジジの言葉を引用 している
よ うに、グラムシ研究の文脈においてもこのサバル タ
ンをテーマ とする研究及び分析はきわめて不十分であ
つたと言 える。 このことは、イタリア語版 の事項索引
にも掲載 されていないことからも示される。この問題
については、次を参照のこと。松田博 「A_グ ラムシ
におけるサパル タン論の生成に関する党書」、『 立命
館産業社会論集』第 39巻 第 1号 、2003年 、151頁 以
下。
崎山攻穀『サバルタンと歴史』青土社、2∞ 1年 、
“
14頁 。
34G.C.ス ピヴァク
藤井基貴
(上 村忠男訳 )『 サバル タンは
語ることができる力Jみ すず書房、1998年 、37頁 。
35ス ピヴァクがここで取 り上げているのはフー コー
と ドゥルーズの対話の記録である。 これについては次
を参照のこと。M フーコー (蓮 責重彦訳)「 知識人
と権力」、『 ミシェル・ フーコー思考集成』筑摩書房、
1999年 、257・ 269頁 。
30崎 山攻穀 も同様 の解釈 の立場 を示 してい る。 以 下
を参 照 の こ と。崎 山政穀 (2001年 )、 48頁 以 下。 な
おフーコー/ド ゥルーズ とは異な り、スピヴァク
(1998年 、36頁 )は 「主体 としての他者」を 「階級
とい うスペク トルを横断 して広範囲にわたつて存在 し
ている一般の非専門家たち、非アカデミックな人々」
と捉えている。
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