コチラ - 東北歴史博物館

第 10 回館長講座 『日本の博物館』
○司会:館長講座の最終回となっております。第 10 回の講座『日本の博物館』と題しまして、鷹野館長
よりお話をしていただきます。最後まで、どうぞ、ごゆっくりお聴き下さい。
それでは、鷹野館長、よろしくお願いします。
○館長:こんにちは。いよいよ 10 回目で今年度の最終回です。
今日は、『日本の博物館』と題しまして、最近注目される博物館の役割とか、あるいは、多様な形態、
活動を振り返ってみることにします。
まず、もっと景気が良くなってほしいという思いから、企業へのエールも込めて、楽しい博物館の代
表としても取り上げられる“企業博物館”
、それから、博物館の機能として非常に注目されるようになっ
てきている“地域回想法と博物館”
、そして、5 年経ちましたけれども、まだまだ、私たちの記憶の中に
大きく残っている東日本大震災を踏まえて“災害と博物館”
、最後は、私、もともと考古学が専門ですの
で、考古学との関わりの中で“遺跡と博物館”について紹介していきます。
その前に、まずは博物館の現況などについて、3 年に 1 回程度で行われている文部科学省の「社会教育
調査」の統計によって見ていきます。
博物館の総数、グラフの一番上の線になりますけれども、これはずっと右肩上がりで増えてきました
が、平成 23 年度の調査で初めて減少しまして、その前の調査時点である平成 20 年度から 28 館ほど減っ
た 5,747 館となっています。
これは、ひとつには市町村合併の影響が非常に大きいですが、あとは長引く不況の影響、財政の悪化
などということがあるのではないかと言われております。
この統計は 3 年に 1 回の調査ですので、平成 26 年度に行われていいはずでしたが、なぜか平成 27 年
度に調査が行われており、まだ結果は出されておりません。
また、これは館種別の内訳については、いずれの年度でも一番多いのは歴史系というか、身近な市町
村立の郷土博物館といった類のものが多い結果となっています。
なお、しばしば話題になる水族館については、よくニュースなどで報道されますが、数としては日本
全国で 83 か所しかないというのか、あるというのか、そういう状況になっています。
次に、今回のテーマに入る前に、まだこんなところがあるんだ、という例を紹介します。具体的など
こという名前は申し上げません。
パワーポイントの画面に出ているところは、多分、市町村合併の影響だと思っていますけれども、平
成 24 年の 11 月 30 日に閉館したところですが、閉館直前まではこんな状況でした。
見ていただきたいのは、展示してある資料の扱いなんですね。
と
展示資料そのものが壁に画びょうで、留められています。画びょうに近いものを使うことはあると思
1
いますが、虫ピンのようなもので、見えないようにして貼るということはしますけど、あからさまに画
びょうが見えており、しかも、資料を傷つけて展示しています。
それから、これも同じ資料館ですが、資料に説明が付けられて、資料に説明が施されるのは当然なん
ですけれども、ひらがなで、
「はじき」と書いてあるので、これは説明・解説を意図しているのでしょう
が、資料そのものに解説が書いてあります。
考古学の資料の場合、注記されていない資料というのは、考古学上、発掘された資料というふうに見
なされませんから、どこから出土したかということを資料そのものに注記はしますが、しかしなら、こ
れはちょっとやりすぎです。
下の写真 2 枚ですが、モノがおかれていますが、これ見ると、ここ収蔵庫ですかというふうに見間違
くく
えてしまうほど、ラベルが括り付けられているわけです。括り付けられているラベルに、これはどこか
ら寄贈していただいたものだとか書いてあるわけですけれども、このように資料だけが展示室の中にポ
ンと置かれていて、説明も何もないというようなところや、または、資料があって、その解説はついて
いるけれども、解説と資料の場所がかけ離れた場所にあるなど、見学する人の側に、いろいろと考えて
もらわなければならない展示ケースというのが、遺憾ながら、まだ、たくさんあるようです。
これは別の博物館ですが、これは、
「触っちゃいけませんよ」というサインで、こちらは「触ってみて
ください」というサインです。同じように、これは「これ、触っちゃいけませんよ」という紙の資料で
しょうね。多分、復元して丸めたんでしょうけれども、これを見て、どうしたらいいんでしょう。
「どこ
触っていいの?触っちゃいけないの?」と見学する人の側が考えざるを得ない対応となっています。
そして、これはちょっとびっくりしたのですが、ある貝塚から見つかった 3000 年前のものです。
「触
ってみてください (大事に扱ってくださいね)」というキャプションが下に置いてありますが、ヒトはヒ
トですよね。いくら貝塚から出た骨だからといっても、人骨というとモノになってはいますが、ヒトで
すからね。骨だけになってしまったとはいえ、遺骸を見世物にするということについては、私は非常に
抵抗感があります。
ちなみに、東北歴史博物館の展示室にも縄紋時代の骨がありますが、あれは実物ではありません。ち
ゃんと確認しておきました。
次にこれは海岸沿いにある新しくできた美術館です。設計者が海岸地帯の明るい光をふんだんに建物
の中に取り入れるという設計をしまして、天井に穴が開いていて、こういう感じで光が入ります。
光が入って、時間の推移と共に天井からの光が壁の中を伝って動いていく、これも一種の展示だとい
うようなコンセプトだったものかもしれません。
しかし、天井だけじゃなく壁にも穴があるのですけれども、建築としては良いものであっても、絵画
を展示する施設として、こういうことはやってはいけません。
建物の設計と建物の機能がマッチしないということが、よくあります。こういう光だけの問題ではな
く、建物の曲面の問題がありますね。これを上手く使った建物としては、デザインなど高く評価される
ものであっても、博物館としてはどうなんだということが、まだまだたくさんあるようです。
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さて、最初の「企業博物館」です。
「企業博物館とは、何とかである」という時の定義というのは、あまりはっきりしていないんですね。
企業・会社、あるいは会社・企業が中心になって作られた財団法人が運営している博物館なのですが、
中には、テーマパーク化したところ、一例を挙げれば、横浜の「ラーメン博物館」などがあります。そ
ういったものとか、それから会社の創業者のコレクションの公開の場になっているところ、これは美術
館が多く、代表的なものとして「サントリー美術館」の例がありますが、こういう類のものは、ここで
いう企業博物館としては見ないことにします。
分類してみると、主な目的がその企業の歴史を語る場であったり、あるいは企業内に残された古い貴
重な資料を公開・活用するという場として作られているところがあり、中には、特定の分野の企業が合
同して運営するというようなところもあります。
代表的な例で言うと、東京の王子にある「紙の博物館」という博物館ですが、これはもともと、
『王子
製紙』が設立したものだったんですが、これを企業、紙の会社がまとまって公益法人化し、運営される
ようになったものです。
それから、企業の PR の場として、設けられているところというのもあるわけですね。この中には、工
場見学などを積極的に取り入れるところなんかもあります。
こうした中で、私自身が体験したところを中心に、結構面白かったなと思ったところを紹介します。
かみそり
まず、企業や産業の歴史というところの博物館ですが、カミソリの『フェザー安全剃刀』
、カミソリと
せき
いうと、『フェザー』ですけれども、そこが運営している博物館が岐阜県関市にあります。
2000 年の 5 月に開館しまして、一番新しいホームページを見ますと、「今、閉館中です。今年の 3 月
13 日に改めてオープンします」と出ており、もうリニューアルオープンされていると思いますが、ここ
ではリニューアル前のあれこれを紹介していきます。
それから、この手の博物館として楽しかったところですが、
『味の素』の「食と暮らしの小さな博物館」
や、万年筆会社の『パイロット』が「パイロット・ペン・ステーション」というのをギャラリーみたい
な感じですけれども銀座の真ん中に設けています。
さて、カミソリ文化伝承館・フェザーミュージアムの展示です。
そ
最初に「ヒゲ剃りの始まり」で始まっていまして、ヒゲの生えたマスコットがありますけれども、旧
石器時代からの石器を展示していまして、これは刃物ですので、利器ですよね。それと、髭剃りと結び
付けるのかなぁと思ったんですけれども、縄紋時代あるいは、旧石器時代の人がヒゲを剃ったのかどう
か、残念ながら誰も見ておらず、ヒゲを剃った証拠がないんですが、生活していくのに不便な部分とい
うのは排除されるでしょうし、あまりヒゲが伸びたら切っただろうということは考えられるでしょうか
ら、そういう刃物ということで示してあります。
それから、途中いろいろあるんですが、明治時代の刃物というか、ヒゲ剃り、明治時代の偉い人の似
顔絵なんかがあります。明治時代の偉い人というのは、ヒゲが多いですよね。お札に使われる人の顔に
は、大体、明治時代くらいの偉い人というか、偉人と言われる人が描かれていますけれども、聖徳太子
以後、お札に使われる理由として、ヒゲがあるからというのが、大きいようですね、理由は偽造防止で
3
す。懐かしい百円札の板垣退助はありますね、岩倉具視はヒゲがなかったような気がするんですが、そ
れから、最近の人たちも、今はあんまりヒゲはないですが、伊藤博文なんかまさにヒゲで使われたとい
うことを聞いたことがあります。
また、床屋さんで使うカミソリのあれこれ、実物資料がたくさん並んでいました。
同じく床屋さんでシンボルとなっている赤白青のサインポールですが、この赤白青の意味が書いてあ
りまして、ちょっと恐ろしかったのですが、赤は動脈、血の色ですね。青は静脈、これも血の色ですけ
れども、白は包帯となっています。赤と青の動脈と静脈はまだいいけど、それに包帯がくっ付くと、し
かも床屋さんで剃刀使っているというと、
「ええっ!」とちょっとギョッとするんですが、こういう説も
あるということで、紹介されています。
あとは床屋さんの椅子ですね。ズラッと並んでいて、所狭しです。
それからまた、
『フェザー』ですから安全カミソリの歴史というので、安全カミソリのケースがありま
した。
また、カミソリの使いみち、用途というのが、ずい分広がっており、いろんなところに使われている
ということで、髭剃りだけじゃないカミソリがたくさん紹介されています。
さらにカミソリという刃物ですね、この広がりということで、医療面での刃物の活躍ぶりというのが
紹介されていました。メスですね、このところ、医療ということでの、もろもろの使用の展示があって、
ともかく、刃物というのが、たくさん集められていました。
それから、多少、趣味に走りますが、
「日本の酒情報館」が、官庁街からちょっと外れたところですけ
れども、東京の霞が関にありまして、中身は入っていなかったと思いますが、日本各地の酒瓶がズラッ
と並んでいます。
うんちく
ちなみに、つまらない薀蓄ですが、日本の都道府県のうち、日本酒の醸造所、要するに酒蔵のないと
ころがつい最近まで1ヶ所ありました。沖縄県を連想しがちですが、沖縄県にはかなり前から日本酒の
しょうちゅう
醸造所がありまして、なかったのは 焼 酎 の本場の鹿児島県でした。ところが、鹿児島県でも、5 年ほど
前でしょうか、焼酎のメーカーが、日本酒を造ってしまいましたので、現在では、日本列島には日本酒
を醸造していない都道府県はないことになっています。
この日本の酒情報館では、情報ということで、一部、お酒の造り方とまではいきませんが、少しだけ
お酒造りに関わる情報、お米の精米にからんだ実物資料が置かれています。
大きな空間ではなくて、博物館というほどの博物館でもないんですが、東京の真ん中というか、官庁
街にもこんなものがあるんだということで、ちょっと感心した次第です。
次に、企業の中の資料の公開というので、薬の博物館を紹介します。
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他にも、東京の営団地下鉄、今は、東京メトロと言いますが、その「地下鉄博物館」もそうですし、
それから、ちょっと企業博物館というには、まだ、時間が経っていないかもしれませんが、ついこの前
までは、国営だったJR東日本の「鉄道博物館」が大宮にあります。それも、鉄道の企業博物館になり
ますし、それから酒屋さんですね、これはあとでまとめて見ますが、酒屋さんの古くから残っている醸
造用具なんかを公開するところというのも、いくつもあります。
ないとうとよ じ
まず、1971 年に『エ―ザイ』という会社の創業者の内藤豊次という方が作った「内藤記念くすり博物
かがみがはら
館」が、岐阜県の各務原市にあります。
「薬学・薬業の発展を伝える貴重な史資料が失われ、後世に悔いを残すおそれがある」ということを
考えまして、博物館を作っています。
主な活動内容は、薬の歴史、それから、文化に関わる資料や図書の収集や保存、調査・展示・普及活
動ということと、薬草園の管理と一般公開というようなことをしています。
まず、薬を作るというコーナー、薬を作るための道具、これはもちろん今のではなく江戸時代までで、
や げん
がんやく
薬研というのがありますけれども、それから、丸薬を作る方法であったり、そのための道具が展示され
ています。
らんぽう
ここは、「蘭方医学の伝来」というので、ここにあるのは、この前、『医は仁術』展でも展示されてい
じょうりゅう
ましたけれども、 蒸 溜 用の器具だとか、大学で使う薬を作るための道具などが展示されています。
す ぎ た げん ぱく
せいしゅう
それから、ここはシーボルトのコーナーで、これを受けて、杉田玄白ですね、一番こちらが華岡青 洲
のところですけれども、
「麻酔と華岡青洲」という蘭学の流れなどが説明されています。
こういう絵は、大体複製ですけれども、さまざまな実物資料、これは麻酔で手術をする時の道具など
が並べられていましたし、これらを見ると、
『医は仁術』展の時が懐かしくなりしまして、この同じよう
なものが展示されていましたし、「宮崎彧解剖図」というテーマで、解剖図の絵巻が置かれていました。
いっかく
薬を使ったテーマとするというと、話は健康ということにつながっていくわけで、左上は、
「一角おじ
かいじゅう
さんに聞いてみよう」というキャプションがあるのですが、一角というのは角のすごく長い海 獣 ですが、
昔、一角の角というのは薬に使われていた、というところから出てきたのだと思います。健康に関わる
いろんなこと、血圧とか握力とか、こういったものが自分で測定できるというコーナーがありまして、
「薬
から健康へ」というのがテーマでした。
そして、企業博物館ですので、「社史コーナー」です。ここで初めて、『エーザイ』は、どうしてエー
ザイなのかというのが分かりました。
『エーザイ』という会社の歴史が並んで書かれているわけで、こち
らのところに、
『日本エーザイ株式会社』設立とあります。
エーザイのエイは、衛生の衛、ザイは材料・材質の材。多分、衛生材料というのを省略して衛材。そ
れをカタカナにして現在の『エーザイ』という社名になったのだろうと思います。
左側に主な薬があります。ここにある『チョコラ BB』は、私は口内炎になりやすいたちなんですけれ
ども、その時にはこの『チョコラ BB』を特効薬として飲むことにしています。
5
なかとみ
それから、もう一つ、同じく薬関係で、今度は、
『久光製薬』の「中富記念くすり博物館」です。
と
す
ここには行ったのですが、写真を撮って来なかったので、パンフレットからの図です。佐賀県の鳥栖市
にあります。もともと、この鳥栖市の一帯というのは、売薬、薬を売ることが盛んだったわけで、それ
を記念して『久光製薬』がここに博物館を作ったんです。
1階の展示室には、現在の薬に関する情報提供ということと同時に、19 世紀末のロンドンの『アトキ
ン薬局』
、薬屋さん、これを移設再現しています。2 階の展示室は「田代売薬」を中心に、日本の薬の歴
史に関する資料を展示しています。時代を越えて、先人たちの遺した知恵、貴重な遺産というものに触
れてもらう。命の尊さ、健康への願いというようなことを改めて感じてもらう、ということを意図して
います。
『ケロリン』という薬、ありますね、その袋がずらっと並んでおりまして、会社によってちょっとず
つ違うんですね。どこが商標権持っているのか、商標権を侵さないように少しずつ似たデザインの『ケ
ロリン』の袋が並んでいたのが印象的でした。
それから、これ企業ではないんですが、釣り具のコレクションが釣り文化資料館で公開されています。
び
く
この館の開設趣旨が書いてあるのですが、読んでみますと、
「和竿や魚籠など、名工の手による伝統的釣
ひん
り具は次第に影をひそめようとしています。散逸の危機に瀕したそれらの釣り具や関係資料を保存し後
世に残したいという思いから、
『週刊つりニュース』、を創設した船津重人が 1989 年に釣り分野では全国
初の本格的な公開施設として『釣り文化資料館』を開設しました。」とあります
釣りの好きな船津さんが情報誌を作っていく中で資料を収集し、それを公開するという場ですね、こ
れも東京の真ん中で、東京の四谷です。
中は、和竿、釣竿などがあり、あと、魚籠が並んでいます。それから、エサ入れ、こういったものが、
そんなに広いスペースじゃないんですけれども、集めた人の情熱というのが、感じ取れるような展示室
でもありました。
それから、3 つ目の企業の PR の場としての博物館ですが、これは、原子力発電所の PR センターとい
うのが典型かも知れませんね。
ここに紹介するのは、ウイスキーなんですが、ウイスキーの博物館というのは、日本の 2 大メーカー
と言っていいのかな、
『サントリー』と『ニッカ』
、それぞれあります。
よ いち
これは『ニッカ』のほうですが、北海道の余市にあり、
『ニッカウヰスキー』の余市醸造所に作られた
博物館で、1998 年にできています。
この建物はウイスキーが眠っていた貯蔵庫を改装したもので、蒸留酒やウイスキーの歴史・製法・種
類などを展示したウイスキー館で、それからニッカウヰスキーの生い立ちから現在までの歴史を紹介す
るニッカ館、があり、ウイスキー館とニッカ館の 2 つからなっていまして、これはウイスキー館です。
上のほうもウイスキー館、左はニッカ館ですが、ウイスキーの蒸溜のことが出て来て、再現等もされ
ていますし、それからニッカの歴史というのでは、最近、NHK の朝ドラで、さんざん話題になったニッ
カの竹鶴さんと、その奥さんも出て来ています。
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多分、あの朝ドラをやっている時には、ドッと人が押し寄せたんじゃないかと思いますが、パネルで
ニッカウヰスキーの歴史を紹介しています。
宮城県には、企業博物館がどのくらいあるのか探ってみたんですが、電力会社、
『東北電力』の関係の
ところが 4 ヵ所ありました。
仙台の「東北電力グリーンプラザ」
、これは博物館ですと言うほど博物館らしくないところだと思うん
ですけど、
『宮城県博物館等連絡協議会』という宮城県の博物館の集まりの中に入っています。この協議
会には入っていないんですが、三居沢の「電気百年館」
、女川の「原子力 PR センター」
、「新仙台火力発
電所ふれあい館」は『東北電力』が運営しているところです。
それから、お酒の一ノ蔵の醸造会社が開設した大崎市の「松山酒ミュージアム」がありますし、仙台
駅の近くに『七十七銀行』の「金融資料館」が、本店の 4 階にあります。
きょう
ここで、 興 に乗って、東北地方にお酒関係の博物館が、もっとあるかなと調べたところ、この辺は、
とうこう
私の趣味にまかせてということですけれども、米沢の『東光酒造』の資料館、寒河江の『澤政宗』の古
澤酒造酒造資料館、それから、鶴岡、
『出羽ノ雪』酒造資料館、酒田の東北銘醸蔵探訪館、これは『初孫』
ですね、これは喜んで買ったことがありますけれども、ちなみに来月の始め頃、二人目の孫ができそう
です。あと、
『銀嶺月山』の月山酒蔵資料館、もありますし、こうやって見ると、山形県はけっこうある
んですね。会津若松の『宮泉』の会津酒造歴史館もあります。
さくらまさむね
神戸・灘の酒屋さんは大体、こういうところがありまして、酒の銘柄だけみますと、『 櫻 正宗』、『日
本盛』
、『白鷹』
、『白鶴』、
『白鹿』、
『沢の鶴』
、『菊正宗』などは、大体、それぞれの資料館なり博物館な
りを持っています。
『白鶴』や『菊正宗』は阪神大震災の時に全部つぶれまして、その後、再興されています。
次に博物館の新しい役割、というと変ですけれども、脚光を浴びつつある役割として、地域回想法と
いうこととの関わりをみます。
回想法とは何なのかということですが、これは主に高齢者に対して、過去の思い出を思い出すように
働きかけることで、情動の安定といった心理的な効果を導く対人援助手段であり、また回想法の基本的
な目的というのは、高齢者に対して、生活の質を高めるような楽しい経験を提供することです。
グループでこの回想法を行う場合には、高齢者のコミュニケーションのスキルの改善だとか、それか
ら、社会的交流を促すことを重視するわけです。よく、若い人には、お年寄りは話が下手で長くてしょ
うがないということを言われますが、この辺のスキルの改善にもつながるものと考えられます。
ここで回想することの対象となるのは、前向きな思い出であり、楽しかったこととか、あまり暗いこ
とじゃないことです。それらを参加者から自発的に語られるように促していく、そういう場とすること
が大切です。
聞き手のほうは、その話してくれる個人の歴史とか思い出に共感を持って耳を傾けるということは当
然あるんですけれども、それだからといって過去を詮索するということはしないという立場で、関わる
こととなります。
特に認知症の高齢者に対する「グループ回想法」というのは、これが医療現場において急速に普及し
て、発展を遂げております。
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この回想法の担い手というのは、保健・医療・福祉の専門職にとどまらない特別養護老人ホームや老
人保健施設、あるいはグループホームだけではなくて、在宅ケアをサポートするような場にも、こうい
ったやり方が非常に有効だと考えられています。
お年寄り、高齢者たちが、この回想法で、こういう中で語り合うことで気持ちが若返るとか、生き生
きとしてくるというところが、結果として良く見られるところです。
高齢者の生涯学習を行う施設で行われることがありますし、テレビ番組がこの回想法をテーマにして
作成されることもありました。
こういう回想法を治療や何かに取り入れていく中で、博物館にある資料というのが非常に有効である
ということが言われ、博物館もそういう場として脚光を浴びて来ているところです。
このことで、最初に脚光を浴びたのが、現在の『北名古屋市歴史民俗資料館』の活動です。合併前は
しかつちょう
師勝町といった町で『師勝町歴史民俗資料館』の活動として博物館の世界でも脚光を浴びました。
この資料館は 1990 年に開館していまして、失われていく昭和 30 年代の生活用品、これを収集して何
回か展覧会を開いています。
回想法を軸にして収蔵品を通じて来館者が懐かしさを満喫する、特に昭和 30 年代の資料というのを中
心に収集し、展示しており、来館者同士がお互いの思い出を語り合う場としての機能を加えています。
そういう中で、誰もが、別にグループ回想法だけでなく、その場で誰もが回想法に取り組めるような
回想法キットを作ったりしています。
回想法キットとして用意されるものには、かつては日常的に使っていた洗濯板とか、たらいとか、お
釡、こういう生活用具、これらをテーマ別に詰合せて、20 箱ほど用意していて貸し出すという活動もさ
れています。
それから、デイサービスなどに参加する高齢者たちにこの博物館に来てもらっており、
「お出かけ回想
法」なんて言っています。
そのためのマニュアルも作られていますし、こういったところから、この博物館は自ら「昭和日常博
物館」と銘打って、もちろん回想法だけでなく、昭和の日常の生活というのを再現し、体験しようとい
う博物館になっています。
これは受付のところなのですが、これは入り口でこうやって迎えてくれるんですけれども、ちょっと
昭和かなぁと思いました。もしかしたら、大正ロマンのようにも感じたりもしますが、一応、テーマは
昭和 30 年代で、こちらの女性のズボン、パンタロンなんというのが、流行りましたよね。
入り口を入ってすぐ、こんな情景が迎えてくれます。
バイク屋さんの店先だったり、駄菓子屋さんだったり、たばこ屋さんだったり。この右下の駄菓子屋
さんなのですが、残念ながら中には入れませんで、外から見るだけです。当館の常設展示室の最後のと
ころに、やはりこういう展示がありますが、あれは非常に懐かしいという評判をよく聞きますね。
それから同じく情景展示がされていまして、昭和 30 年代の路地裏とかですね、路地の塀に囲まれた家
の中とか、その空間が実物によって展開されています。
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こういう情景展示の後、ものの展示、資料の展示があるわけですけども、ここのところは、上にテー
マが書いてありますが、
「朝、歯磨きと洗顔」で、それに関する昭和 30 年代に使っていたものがあって、
その隣、
「朝食はご飯、それともパン?」。ここは「おはようの朝」、ということで、目覚まし時計です。
左へ行って、ここは「今日も元気で学校へ」
。これから学校へ行くしたくのところ。それからこれは学
校の制服などですね。それから、
「放課後は僕らの天下だ」という解説があり、左下は、牛乳配達で牛乳
のパックとか瓶とかがあります。ここのところは、斜めになっており、買い物かごが並んでいます。
これは、キッチン、あれこれの台所用品があり、ここには、ビール瓶がありますが、
「晩酌はビール?
それとも?」と書いてあります。
例えば、回想法というのをここでちょっとやってみようと思うんですけど、これ、見えにくいかも知
れませんけれど、
「赤玉ポートワイン」とあります。今ほどワインが普及していないころ、私たちの親の
世代ですけれど、ワインというと、大抵、これだったようで、うちの親なんか、
「ワイン飲む?」なんて
言うと、
「ワイン、あの甘いのだろ。いやだ」とよく言っていました。
これだけ見ても、今のように話が弾むわけですね、皆さんなりにも、そういう思いが出てくると思い
ますし、こういう、私たちがかつて、しばらく前に使っていたものとかあったものを目の前にして語り
合うってことができる。それによって昔のことをまた思い出し、脳が活性化する、という効果があるん
だということなんです。
さらにまたその奥に行きますと、ここからが、常設展示なのか、分からないんですけれども、土間が
再現されていて、それから居間の情景、昭和 30 年代の情景となっています。
ひ ゅう ま
いってつ
昭和 30 年代というと、必ずこの丸テーブルが出て来ますね。「巨人の星」の星飛雄馬の父、星一徹が
ひっくり返すテーブルですけれども、四角いのはなく、私が子どもの時も丸いテーブルでしたね。
残念ながら、ここも「入ってはいけません」
、になっています。
こんな昭和 30 年代の情景と資料というのを、「昭和日常博物館」が、この回想法というのを取り入れ
た中で先駆的なものでした。
その他、各地に回想法と展示というのを組み合わせたところがありまして、いくつか紹介します。
ひ
み
富山県の「氷見市立博物館」では、
「地域回想法で高齢者に笑顔を」というテーマで、市内の介護施設
と連携して、地域回想法の取組みをしています。
事前に申請のあった介護施設の利用者と職員については、入館料は免除されており、介護施設で地域
回想法が実践できるように、昭和 30 年代に氷見で使われていた民具、ここでは、おひつ、アルマイトの
弁当箱、わらじ、湯たんぽ、藤箕(フジミ)というんですかね、唐箕(トウミ)というものでしょうか、
こういったものを集めた思い出箱がひとつになったセットを貸し出し、そして、昔の民具についての施
設職員向けの研修も行っています。
老人介護施設に勤めていらっしゃるかたは、若い人が多いので、こういうもの見ても、実感がないよ
うなものがたくさんあると思うので、そういった人に対しての研修などを行う。
こういう活動を通じて、博物館と地域福祉という分野での、協働、新たな可能性が生まれたとされて
います。
9
それから、
「和歌山市立博物館」の回想プログラムです。ここではまず昔の生活道具の見学から始まり、
これは博物館の中の民具などの生活用品の展示室となっています。
それから、この右下のほうにいって、昔の道具に実際に触れることをしようとしており、湯たんぽ、
黒電話がありました。
電話は、昔はダイヤルを回すという言葉があったわけですが、今はダイヤルを回すという言葉は、言
葉としてはあるかも知れませんが、実際そういうことはないですね。
同じように、テレビのチャンネルについても、昔は、チャンネルの回し合いとかでしたが、今はなん
て言うんだろう、チャンネルを飛ばすと言うのでしょうか。
この博物館で触われる資料の一例として、このような釡と浴槽と一緒になった鉄砲風呂があり、それ
から、昭和 30 年代の洗濯機、白黒テレビ、掃除機、電気こたつ、また、戦前の教科書と紙芝居、昔の遊
び道具、扇風機、蓄音機などが触れる資料として用意されております。
もうひとつ、熊本県の「熊本博物館」の回想法シナリオです。
まず、高齢者の方が集まっていまして、指導者というか援助者というのでしょうか、ひとり立って、
はじめの挨拶で「こんにちは。今日は皆さんに昔のこと、懐かしい思い出を教えていただこうと思いま
す」ということで始めて、それぞれのかたに自己紹介をしていただくことになります。
話の中身は何でもいいんでしょうけど、楽しかった思い出でしょうか、恋愛まではいいとして、結婚
から先は楽しいことばかりでしょうかね、それから、子育て、これも大変だったことたくさんあるけど、
今になってみると、子どもとこんなことしたなということもあるでしょう、そして、3 つ目には、この回
は「着物の思い出」というテーマでしたが、テーマを設けて、それについて話してもらっています。
今回は、そこで使う道具が、針刺しとか、火のし、それから、炭火アイロンや電気アイロンを使った
んですが、さすがに、火のしは高齢者といっても、かなりもっと上の高齢者、後期高齢者よりもっと上
の人たちが使ったのではないかと思うんですが、火のし、それから、炭入れアイロンもですね、こうい
った道具を実際に持って来て、それについて実際に触ってみる、それから持ってみる、使ってみるとい
うことをしてもらった上で、この道具見たことありますか?使ったことありますか?と聞いていく。
そして、針刺しから話が進めば、女性ならば、裁縫でどんなものを使っていましたか?それから、裁
縫だけでなく、ミシンも裁縫に使いますので、ミシンはいつ頃から使ったんでしょうか?どんなものを
作りましたか?というようなことを話し合い、話を聞き出したり、あるいは、自分から話してもらうと
いうようなことをしていくのだそうです。
また、最後のほうでは、気分転換というので、レクリエーション、歌を歌ったりもします。最後は、
「あ
りがとうございました」で終わるんですけれども、歌を歌うということも、今の若い人たちは、みんな
で歌うということをあまりしないんでしょうね。
カラオケ文化だと思うんですが、私が学生の頃はとにかく、ちょっとお酒飲むとみんなで歌を歌うと
いうことをよくやっていましたし、あの頃は、また、回想に入ってしまいますけれども、あの頃という
のは、みんなが歌える歌を知っていたんですね。
はやり歌にしても、流行歌にしても、みんな知っている歌があったのですが、今の人たち、どうなん
10
でしょう、誰もが歌える歌を持っているのかな?
例えば今ここで『高校三年生』歌いましょうと言ったら、おそらく 3 番までは無理にしても、大抵の
かたは一緒に歌ってくださると思うのですが。やりませんがね(笑)。そういうところから、みんなで盛り
上がる場が作れる。そういうことが、回想法で、とにかく博物館にあるさまざまな資料、具体的な資料
というのが、この回想法の中で、非常に役立つものである、有用なものであるということで、この活動
というのが、博物館で注目されて来ているところです。
それから、次のテーマの「災害と博物館」です。
「災害と博物館」ということでは、博物館の役割として、災害の記憶をしっかり留めておくこと、そ
れを後世に伝えることと、それからもう一つ、
「昔、こんなことがあった」だけではなく、その教訓を踏
まえて、我々はどうしたらいいかということを考えるひとつの場として、防災センターとか、防災教育
センターというような役割もあります。
まず、戦災ということですが、この戦災に関係するような博物館については、なぜか、北のほう、東
北地方、北海道というのは、あまり目立ちませんで、仙台市の「戦災復興記念館」くらいしか拾い上げ
られなかったんですが、茨城県の予科練平和記念館、埼玉県平和記念館、それから靖国神社のすぐ隣に
しょうい
は「昭和館」があり、
「しょうけい館」というのは、傷痍軍人関係のところです。わだつみのこえ記念館
は戦没学生、東京大空襲・戦災資料センターは東京の江東区にあります。
それから、長野県から満蒙開拓団として出て行ってさまざまな悲劇に遭遇した「満蒙開拓平和記念館」
あ
ち
が長野県の阿智村にあります。
「戦没した船と海員の資料館」は、全日本海員組合、これは労働組合でも
ありますけれども、そこがやっているわけで、戦没した船を主に取り扱っています。ほかに、平和祈念
展示資料館、神奈川県立地球市民かながわプラザ、川崎市平和館、浜松戦災復興記念館、滋賀県平和祈
念館、立命館大学国際平和ミュージアム、ピースおおさか(大阪国際平和センター)
、堺市立平和と人権
資料館(フェニックスミュージアム)、吹田市平和祈念資料館、舞鶴引揚記念館、姫路市平和資料館、神
戸災害と戦災資料館、を名前だけですが紹介します。
ほかに戦災に関係する博物館は、原爆関係の広島・長崎には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、広
島平和記念資料館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館、長崎原爆資料館がありますし、九州方面では、
ち らん
まんせい
たちあらい
特攻隊との関係での知覧・万世、それから筑前の大刀洗平和記念館、佐世保の浦頭引揚記念資料館、沖
縄の沖縄県平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館などです。
つしままる
「対馬丸記念館」は、ご存知の方も多いと思いますけれど、沖縄の那覇市にあります。これは沖縄か
ら、子ども達を集団で本土に疎開させようとしたわけですが、対馬丸という船に乗って、学童 800 人以
上乗っていまして、子どもだけではなくて、1400 人くらいその他に乗船していたんですが、それがアメ
リカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けまして、沈没してしまいます。もう一瞬の間に沈没したんですが、学
童が 780 人亡くなっています。これはそういう子ども達を運んでいる船だということを承知の上でやら
れたのか、アメリカは決してそうだって言いませんけれども、非常に悲惨なこととして、語り継がれて
いる、その事件の博物館であります。
11
次にこれは行かれた方、ご存知の方もあるかと思いますけれども、
「仙台市戦災復興記念館」です。仙
台の空襲と復興事業の記録を保存して、その全容を後世に伝える、その為に仙台市の戦災復興事業の締
めくくりとして建設されたというものです。
仙台の街を、城下町時代から、戦災までの仙台、戦時中の暮らし、空襲の様子、それから戦後の仙台
の移り変わりについて、実物模型、それから写真が非常に多いですが、これを交えて解説している資料
展示室です。
この右上は、防空壕が再現されているところですが、最近の仙台の移り変わりというのも、非常に激
しいところがあるようで、廊下まで展示物がはみ出していました。
それから、火山噴火の災害については、これもたくさんありますが、ふたつだけ紹介します。
いぶすき
コ
コ
鹿児島県の指宿市にあります「指宿市考古博物館 COCCOはしむれ」という博物館です。COCCO は
ちょっと意味不明なのですが、イタリア語風で楽しい所というふうな意味合いを持たせる言葉だそうで、
はし む
れ がわ
「はしむれ」というのは、この博物館が橋牟礼川遺跡という遺跡のところにありまして、そこから名前
を取っています。幾つかテーマがありますが、その中の一つに、九州の南はしにある開聞岳が 874 年に
噴火をしまして、その噴火で、この橋牟礼川遺跡も埋没しているんですけれども、その関係の展示があ
じょうがん
ります。ちなみに 874 年、その 5 年前の 869 年が、 貞 観の三陸の大津波だった年です。
ここには、火山災害遺跡というパネルがあります。右上は私の撮った写真ですが、開聞岳の姿。左上
のパネルには、火山災害遺跡とは、ということで、火山灰によってある日の都市や集落などが一瞬にし
て埋められているので、その時の都市や集落がはっきり残ります。どのような災害を受けて、当時の人々
がその災害をどのようにして乗り越えようとしたのか、これを知ることができるという意味だと、つま
り、過去の自然災害を知ることは、自然と共に生きる為の大切な第一歩であるということがここに書か
れています。
とら
この写真は、液状化現象によって噴射、地上に砂が噴き出して来る、その状況が遺跡でよく捉えられ
ています。それをこの、
「はぎ取り標本」という形で残して展示してあります。
それから、これは空洞があったので、建物と思われる空洞があったので、ここに、ちょうどポンペイ
で人型を取ったのと同じように、石膏を流してみたところ、どうも柱だろうというのが得られて展示が
されています。
うんぜん
ふ げん だけ
最近のことですが、雲仙の普賢岳の噴火がありました。普賢岳の噴火は 1990 年から 1995 年にかけて
の火山活動でした。その中で、平成 3 年に大きな噴火がありまして、溶岩ドームができてそれが崩れ落
ちるというようなことで、火砕流・土石流が発生していたわけです。
この溶岩ドームが 5 月 20 日にできて、最初に崩れた 5 月 26 日、それから 6 月 3 日、これはこの溶岩
ドームが壊れて火砕流が発生しまして、死者・行方不明者 43 名っていう悲劇を生みました。
この、平成 3 年 6 月 3 日の大火砕流による死傷者が生じましたが、堆積した大量の火山灰で土石流の
発生がしやすい状態になっていたという中で、二次災害も起こりました。
ふかえちょう
お お の こ ば
右上の写真は保存されることになった深江町の大野木場小学校、そのまま残されています。
この土砂災害の記憶を保持して行こうということで、
「雲仙岳災害記念館」ができまして、通称「がま
12
だすドーム」と呼ばれる博物館が作られています。自然の驚異、それから災害の教訓というのを、風化
させることなくできるだけ正確に後世に伝えようということで作られています。
こういう展示物の他、大迫力のドーム型スクリーンで火砕流・土石流を疑似体験できる「平成大噴火
シアター」というのがあったり、火山、それから防災について 11 のゾーンに分けた展示がされています。
うた
見て、触れて、リアルに体験する、ということを謳っています。
ここに示した写真は、火砕流が起きて、飲み込まれた実際の資料の数々です。ここには 3 回ほど行っ
ていますけれども、行くたびに新たな資料が追加されていました。
噴火の様子というか、火山の仕組みとかいうようなことについてのゾーンもありまして、これは本の
ような体裁で、パネルが作られたりしています。
右下の本、噴火してますけれども、このページはめくることができまして、これめくった後に火山が
ボーンと噴火する、そういった仕組みの解説が付けられています。
それから、普賢岳の溶岩ドームができて、だんだん成長していって壊れるという成長のありさまをパ
ネルで示していました。
また、火砕流の速さを体験してもらおうというので、アクリル板の下に空間がありまして、この中を
火砕流が動いた速さで赤い光が、バーッと走るという火砕流の速さを体験できるという場がありました。
これはついでですが、溶岩ドームカレーというのがあり、かなり辛いんじゃないかなと推察しました
が、お昼時じゃなかったので、私は体験しておりません(笑)。
それから、洪水についてですが、手持ちの資料あまりなかったので、洪水の展示を見てみました。
りょうすいひょう
滋賀県の「県立琵琶湖博物館」の展示室ですが、明治 29 年の大洪水の展示です。琵琶湖に 量 水 標 、
水量を測る量水標というのがあります。これは明治 7 年に作られたそうですけれども、その後、明治 29
年の 9 月 13 日の大洪水では、最大の洪水に見舞われ、琵琶湖の基準水位よりも 3.76 メートル上昇して
いって、琵琶湖の沿岸はほとんど水没したということです。
8 か月間も水が引かなかったところもあったということですね。展示室の真ん中に柱が立っていまして、
ここが 1 メートルですね、2 メートルのところちょっと隠れているんですが、ここ 3 メートル、ここが 4
メートルと、表示があります。
ここにぶら下がっているものがありますので、この展示室に入った時は、
「何だ、これ?」と思ったん
ふすま
ですが、壁を見ると、ずうっとうえにありまして、 襖 があって、これ 2 階か 3 階の、ここまで水が来た
よということを示しているんですね。つまりこの高さで、ここまで水がきたということが、この部屋の
中でいる人はどのくらい気付いたのか、わからないですけれども、水の恐ろしさというか、この時の洪
水のすごさ、激しさというのを見せてくれています。
次に地震ですが、新潟県の中越大地震の記憶ということで、小千谷市にある「おぢや震災ミュージア
ム」にある展示ですが、発生の時、それから、発生から 3 時間後、3 日後、3 か月後、そして 3 年後、と
13
いう小千谷の街の様子を展示しています。震災・災害の体験からいろんなことを学ぼうということを、
それぞれの段階で、どのようなことが起きて、どのようなことに取り組むことで、そこからの復興を実
現できたかということを学んでいこう、という場になっています。
そして、津波ですが、津波に直接関係する博物館的な所というのは、小さいところはあるのかも知れ
ませんが、取りあえず 4 つ拾い上げました。
おくしりとう
北海道の「奥尻島津波館」ですが、これは平成 5 年 7 月 12 日に、北海道南西沖地震がありまして、そ
の直後に奥尻島を襲った大津波の記憶、これを後世に伝える施設として作られたものです。
それから、
「唐桑半島ビジターセンター」
、これはまた後で紹介します。
おおふなと
大船渡に、
「津波伝承館」が、震災から 2 年目の平成 25 年の 3 月 11 日に、仮オープンしています。
『さ
いとう製菓』という工場の一部を借りて開館しているというところで、語り部による津波映像の解説と
被災体験談などがあり、もちろん映像を見ることもでき、パネル展示もあるというところです。
それから、和歌山県の「広川町津波防災教育センター」、通称「稲むら火の館」というのが、これは 2007
年の 4 月に作られています。これは江戸時代の末の 1854 年の安政南海地震の津波の時のことを取り扱ったと
は ま ぐ ち ご りょう
ころです。この安政南海地震の時の津波では、土地の濱口梧 陵 という人が、稲むらに火を付けて、人を誘導
して、安全な高台に避難させたのですが、これを、小泉八雲が『稲むらの火』という題で紹介していまして、
有名になったことです。ここにも、防災体験室がありまして、来るべき災害に備えて、津波災害から命を守る
というための応急・復旧・予防の 3 つの知恵を学ぶ場として作られています。
唐桑半島の自然、あるいは人々の暮らしを紹介している「ビジターセンター」
、これは気仙沼ですけれども、
ここに津波体験館があります。
昭和 59 年に開館していますが、この映像自体は、平成 25 年にリニューアルされまして、今、その映像が流
されています。唐桑半島の自然や暮らし、それから、津波の歴史の展示、それから、四季を彩る植物などが紹
介されているところでありまして、この体験館では、津波をテーマに、実際に即してストーリー化した映像と、
それから音響と振動と、送風、風、が組み合わされた津波疑似体験館です。
津波疑似体験館というから、水をかぶるのかなとちょっとびびって行ったのですが、幸いそうではなくて、
風で表現していて、また座っていると、突然、揺れ始めまして、これは震度 3 くらいの揺れだということのお
断りがあらかじめありました。
正直なところ、迫力に欠けるな、もっと激しく揺れてもいいんじゃないかなと、体験というからにはですね、
そんな感想を持ってしまいました。
たてやま
それから、防災ということと現状の監視ということを含めてですが、「富山県立山カルデラ砂防博物館」を
紹介します。
じょうがん じ
これは富山平野を流れる 常 願寺川の源流の近くにあるのですが、ここの土地の浸食作用によって、立山カ
ルデラが作られています。そのカルデラが、しばし崩壊するんですね。安政 5(1858)年、これは江戸所代の末
ひ えつ
期ですが、飛越地震で、飛騨の飛と、越中の越ですね、このカルデラの一部が大崩壊しまして、土砂が富山平
野を襲いました。それをきっかけにしまして、防災ということが考えられていきました。
明治 39(1906)年から立山カルデラの砂防工事を行っていって、途中、中断もあったのですが大正 15 年、1926
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年から、国の事業として営々として今日まで、砂防工事が続けられています。
そういう中にある、この博物館ですが、立山及び立山カルデラの自然と歴史、それから砂防事業の理解を深
めるための博物館としてあります。
左側は氷河の、クレバスの疑似体験、クレバスの探検ができるという展示でした。
展示室は、安政の飛越地震とその災害のことが展示モデルなどで示されていまして、2 度の大土石流をもた
らして、その土砂が今なお、その富山平野の脅威となっているということが、書かれています。
それからこれは「安政の大災害シアター」で、アニメーションの映像でその時の様子を語ってくれます。
このスライドの左側は立山カルデラの模型となっており、また、火山地帯ですので、温泉地帯というのが火
山列島である日本列島の中にたくさんあるわけですが、火山というのは災害ももたらすけれども、同時にこう
いう温泉というものももたらしてくれるというところでしょうか。
それから活断層というテーマが、右下の写真にはあります。
防災体験学習施設、防災館・防災センター防災センターということで、これもいろんな自治体の取り組みが
あるわけですが、大体、共通してあるのは、体験学習施設になっているところで、初期消火、煙の中の避難の
様子、避難の時の注意事項だとか、それから地震の時の防災行動、救急処置の疑似体験ということが体験でき
るというところであります。
地震の様子とか、地震の時の模範行動を映像で見せるシアターがあったり、立体映像で振動する座席なんか
で、地震とかの被害を疑似体験します。
あとは、消防や防火用品の設備などが展示されているようなのが、共通項としてあります。
その中で、「気仙沼・本吉広域防災センター」が気仙沼市にありますが、ここは、消防本部と消防署のとこ
ろにあるんですね。消防署があって、そこに防災センター、展示ホールというのがあります。
平常時は地震・煙・消火などの体験学習とか、それからいろいろの展示を通して、防災行動力や防災知識の
向上を図るということであります。
災害時には、ここが災害対策活動の拠点として、情報提供だとか、連絡調整を行う場としてあります。
中は、ここが震災の記録のこと、それから、この上が、ここが、津波のコーナー、それから、地震コーナー、
ゆらゆら揺れる地震体験車があったりします。それから、火災について、消防士になりきり体験コーナーがあ
りましたが、行った時には、私だけじゃなくて、他に誰もいなくて、何もできませんでした。ここは、集団・
団体向けのところなのかなというふうに思いました。
最後に、遺跡博物館のあれこれについて、ちょっと最近だしました『地域を活かす遺跡と博物館』の本の宣
伝させていただきます。
日本列島には、46 万ヶ所の遺跡があるといわれています。私が学生時代には、日本列島には 30 万ヶ所の遺
跡があるといわれていたんですが、16 万ヶ所増えています。これは、扱う時代も増えていることと、それか
15
ら、日本列島中の遺跡の分布調査が非常に進んだということだろうと思います。
遺跡の発掘調査は、大まかに言いますと、考古学上の研究を目的として実施される学術調査というのと、そ
れから、何らかの建設工事に先立って行われる緊急調査、行政調査とも言われますが、これらに分けられます。
特に後者の場合には、調査の結果、遺跡の維持というのが認められ保存されることになりますと、遺跡公園
や遺跡博物館として活用が図られますし、また遺跡そのものが地域のシンボルとなっていくこともあります。
その緊急調査といわれる調査の主な調査原因なんですが、皆さんご存知の静岡県の登呂遺跡、あそこも緊急
調査なんですね。戦時中、軍の飛行機のプロペラ工場を作るのに先立って調査され、その結果弥生時代のああ
いう遺跡が見つかったというものでもありました。
1958 年に始まりました名神高速道路の建設の頃から、この緊急調査というのが盛んに行われるようになっ
ていきますが、名神高速道路の時には、路線にかかった遺跡は全て破壊されています。
1960 年代までの発掘調査の原因を、日本考古学協会というところでまとめた結果、宅地造成と農業改善事
業に伴う調査と、それから首都圏と近畿圏を結ぶ鉄道や道路建設事業、これらが発掘調査の主な原因のビッグ
3だと挙げていますし、60 年代までですけれども、70 年代以降はこれらがさらに進んでいきました。
これは文化庁に届けられている「発掘届け件数の推移」なんですが、下に何年というのを記すのを忘れてし
まいました。このあたりが 1972 年頃です。この年がどういう年かといいますと、田中角栄が日本列島改造論
を引っさげて、山を削って海を埋めて、平地を作ってということをさんざんやった。その頃から、このグラフ
が双曲線のようにガラッと上がって来ます。ここがオイルショックだったかな。若干、減ったところもありま
すけれども、大体、大まかな傾向として右肩上がりです。
学術調査については、ほとんど変わりません。だからこの件数の増加というのは、もうほとんど、緊急調査
の増加を物語るのですね。
その後の「発掘届け件数」から言いますと、宅地造成・住宅建設、水道・ガス管・電気・電話線埋設、その他建
物建設、道路建設、農地関係開発、確認・試掘調査、学校建設関係、土地区画整理、土砂採取工事、ほかにダ
ム建設・河川改修・遺跡整備保存・工場用地造成工場建設・娯楽施設観光開発
などの項目が原因として挙がっ
て来ています。
発掘の結果、重要であるということが認められて保存されますと、大体、国の史跡だとかというようなもの
に指定されて、保存が図られるわけです。
史跡に指定されますと、今度は、公有地化が図られるわけですね。つまり、国有化なり、県有化なり、市有
化なり、要するに、買い上げるわけです。当然ながら、買い上げる、つまり公有地化する為には、税金が使わ
れるわけですね。税金が使われて所有された土地を遺跡だからといって、そのままの状態で放っておくことは
できない、という風潮が非常に強くなりまして、史跡となった土地を積極的に利用する、活用するということ
が要求されるようになっていきます。
文化庁では前身の文化財保護委員会の時代の昭和 40 年度から史跡の公有地化に補助金を出し、さらに公有
地化された遺跡について、史跡公園にするということについての補助事業を展開しています。その第 1 号の、
ひらかたし
くだら じ
国による史跡の国有化整備事業は、大阪の枚方市にあります特別史跡の「百済寺跡」です。百済寺跡は、行
16
き だん
ってみるとただの公園なんですね。もちろん、建物の跡が、基壇が作られたりしていますけれども、そ
れだけで、あとは子どもの遊具が並んでいたりする公園なんです。税金を投下したところを、ただ公園
にしておく、ただというわけじゃないんですけれども、公園というのも何だな、ということになって、
遺跡そのものをもっと活用するそのために遺跡博物館を作って、遺跡と博物館と一体となったものとし
て活用していこうということで、遺跡博物館が重要になって来ています。
先程の本の中で、古代までという限定なんですが、遺跡博物館として、319 ヶ所がリストアップでき
ました。
その中で、東北各県のものを挙げてみますが、青森県に 6 遺跡 8 ヶ所、岩手県には 7 ヶ所、次のペー
ジにいって、宮城県には 6 遺跡 7 ヶ所、それから秋田県に 3 ヶ所、山形県に 3 ヶ所、福島県に 6 ヶ所と、
合計 31 遺跡、34 ヶ所の遺跡博物館をリストアップしました。
さん ないまるやま
これ かわ
こ ま き の
ご しょ の
この中で、青森県の三内丸山、それから亀ヶ岡、是川、小牧野、御所野、御所野は岩手県か、次の秋
い せどう たい
田県の大湯と伊勢堂岱遺跡、これらは世界遺産登録を目指している、北海道・北東北の縄紋遺跡群とい
うものの構成遺跡になっています。この赤いところが、これですね。果たして、世界遺跡に登録できる
んでしょうか?なかなか難しいところがあるのではないかなと思います。
さて、そういう遺跡博物館ですが、これからということ考えますと、遺跡博物館ができてからその後、
その遺跡博物館で活発な資料収集活動が行われるかというと、あまり期待できないんですね。だって、
保存する為の遺跡を活用する為の博物館ですから、対象となる遺跡は保存されるんです。保存されると
いうことは、新たに発掘をするということはしないという前提ですね。そうすると、新たな資料という
のは、あまり出て来ないだろう、と。
ただ、博物館に新しい資料が収集されていくということは、博物館の活発な活動を招くのだというこ
ち けん
とがよく言われます。新たな資料に対する研究が進められることによって、新しい知見が生まれる。研
究成果が、展示とか、研究紀要、あるいは、学会誌などに発表されて、場合によってはメディアにも紹
介されて、人々の関心を呼ぶ、特に地域の人々の関心を呼ぶ。それによって、入館者も増える。博物館
も活性化する。
そういうサイクルが期待されるわけですが、その、最初の新たな資料ということが期待できない遺跡
博物館は、どうしたらいいんだろう。
これは既存の資料をより深く研究するというのは当然のことですけれども、それに加えて、教育活動
を活発に行うことをもっと期待したいところですね。
当館でもそのひとつとして、3 階の歴史体験室(子ども歴史館)で、火おこし体験だったり、いろいろ
な体験事業をしますけれども、勾玉作り・土器作り・火おこし体験、がそういう体験事業のビッグ3と
して、挙げられています。
その他、石器作りがあったり、発掘体験があったり、田植えから収穫にいたるまでの米作り体験とか、
ですね。あとは、縄紋クッキー作り、編布(アンギン)編みなんかも、メニューとして取り上げられて
いるところがあります。
遺跡のある空間を使った「何とか祭り」というのがあったり、竪穴住居でのお泊り体験というのを実
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施しているところもありました。
こういうような、地域活動につながるような体験を主とした教育活動の展開っていうのが、これから
ますます遺跡博物館に期待できるし、そういうところにもっと力を注いでいっていいのではないか、と
いうふうに思います。
以上です。
今年度は今回で終わりです。今日も、どうもありがとうございました。
(拍手)
○司会:1年間の館長講座、今の話で最後となりました。1年間、10 回にわたりまして、鷹野館長、ど
うもありがとうございました。
続きまして連絡申し上げます。次年度は同じく鷹野館長より全 15 回の館長講座を予定しております。
1 回目は、もう1か月後に迫りましたが、4 月 23 日、土曜日です。2 回目は 5 月 21 日、毎月、土曜日
を予定しております。次年度につきましては、縄紋時代をテーマに全 15 回を予定しております。
詳しくは、インフォメーションなどでお受け取りいただければと思いますが、
「催事カレンダー」に載
っておりますので、ご覧いただければと思います。
また、次年度もお会いできれば、と思います。今日は、どうもありがとうございました。
(拍手)
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