Page 1 MI I " A HI ÚT – I T R I D. 首都大学東京機関リポジトリ | Tokyo

Title
Author(s)
媒体としての詩人 : コクトーの『オルフェ』をめぐ
る考察
久津間, 靖英
Citation
Issue Date
URL
2013-03-25
http://hdl.handle.net/10748/6214
DOI
Rights
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
publisher
http://www.tmu.ac.jp/
首都大学東京 機関リポジトリ
修士学位論文
選重名号象メ木しして一〇台苔ノ㌧、コクトー.o
課かレフニ到をφぐる名案
買1∼
買〔r
掲欝教員
西山雄二准匁後
平蔵準率
1一周 一〇目讃蓄出・
人文科学蝦究科丈イし関般論 専攻
学…鯵…番督 1i8ワ3105
く つ も 椚かで
ポが竜一久孝I間’堵失
要旨
詩、小説、評論、戯曲、映画、美術など様々な分野で活躍し多くの傑作を産み出したジャン・
コクトーは、生涯詩人であることにこだわり続けた。本論文では、コクトー作品のうち神話上
の詩人であるオルフェを題材として書かれた戯曲rオルフェ』と映画rオルフェ』に焦点を絞
り、これらめ作品の考察を通じてコクトーの言う詩人とはいかなる存在であるかを明らかにし
ていく。
まず第一部では、作品は1’inComu(未知なるもの)からもたらされるというコクトーの基本
的文学観について述べる。コクトーと同時代に活躍したシュルレアリストたちをはじめとした
多くの文学者たちと同様に、コクトーも死や夢などのもつ未知性に魅了された。第一章では、
両作品で描かれている鏡の通過の場面や、戯曲『オルフェ』の死神と映画『オルフェ』のプリ
ンセスの違いなどに注目し、これらの作品において死の世界が詩人に他所の存在を約束するも
のとして扱われていることを明らかにする。
しかし、未知なるものという言葉は単に外的な存在だけを表しているわけではない。確かに
未知なるものは詩人の外部に存在するものであるが、それは同時に詩人の内部に存在するもの
でもある。第二章では、オルフェの「僕の夜だ」という台詞に注目し、未知なるものの内部性
について述べる。そして、作品は詩人の内部に存在する未知の領域から産み出されるというコ
クトーの基本的概念であるexpirationについて説明する。
次に第二部では、映画『オルフェ』の考察を通じて、未知なるものを前にしたときの詩人の
姿について検討する。コクトーの詩人にとって創作行為とは習慣にまみれた現実に対する反抗
を意味する。しかし同時に、彼が未知に詩を見いだそうとするかぎり、彼は服従の姿勢をとる
ことをも余儀なくされる。第一章では、映画『オルフェ』におけるオルフェとプリンセスの関
係の検討を得て、詩人が反抗と服従との板挟みの状態にあることを明らかにする。そして、媒
体としての詩人というコクトーの基本的概念について確認する。
ところで、オルフェに服従を強いるプリンセスもまた死者の世界においては命令に従い、上
位の存在に服従する者として描かれている。第二章ではプリンセスと戯曲r地獄の機械』のス
フィンクスの類似性に注目し、未知の世界の住人である彼女たちも詩人と同様の板挟み的状況
にあることを明らかにする。そして、一 「知の世界における頂点の見えないヒエラルキーについ
て指摘し、そうした未知の世界と関わる詩人の自由意志の問題について検討する。
最後に第三部では、戯曲『オルフェ』、『地獄の機械』、オペラ=コミック『ポールとヴィルジ
ニー』の終結部におけ亭類似の展開について、第一部と第二部で明らかにしたことをもとに考
察していく。第一セクションと第二セクションでは、これら三作品の終結部において共通して
新たな世界の唐突な出現が描かれていること、そして主人公たちがその世界に到達することで、
それまで彼らを苦しめていた実現不可能な愛が成就していることを指摘する。第三セクション、
第四セクション、第五セクションではそれらの世界の持つ未知性に注目し、第一部と第二部で
見てきたコクトー作品における詩人像の観点からこれら三作品の終結部について考察する。最
後に第六七クショシでは第五セクションで取り上げた非現実的な現実という側面から、コクト
ー作品における死の役割について検討する。
以上の考察によって、私たちはコクトー作品で描かれている詩人が、綱の上でバランスをと
り続ける軽業師と同じような状況にあることを明らかにする。コクトーの詩人は詩人であるか
ぎり、現実と未知、反抗と服従の狭間に留まり、未知の領域から伝えられる声の媒体であり続
けなくてはならない。何の支えも存在しない中間的な空間で宙づりの状態に留まり続けること
ができたときに始まりだす、未知なるものとの共同作動によって詩人の魂から流れ出る汗こそ
が詩人の産み出す作品なのである。
R6sum6
Jean Cocteau cr6ait d−es㏄uvres en d−ivers genres:po6sie,roman,
critique,th6倉tre,cin6ma,beaux−arts,etc.Mais i1s’est affirm6comme poさte
toute sa vie.Dans cette6tud.e,nous traitons d−e1a piさ。e0ψム6θet du fi1m
0Ψゐ6θ,tous deux bas6s sur1e mythe d一’0rph6e,et consid−6rons1e po6tique
se1on Cocteau.
Dans1a premiさre partie,nous exp1iquons1a vision1itt6raire
fond−amenta1e d−e Cocteau se1on1aque11e1es oeuvres sortent d.e rinconnu.I1
6tait sous1e charme d−e1’inconnu d−e1a mort et du r6ve comme beaucoup
d一’6crivainsヲnotamment1es surr6a1istes.Dans1e premier chapitre,nous
traitons d一’abord−des scさnes d−e passage査travers1e miroir,puis de1a
d−i雌rence entre La Mort d−e1a piさ。e et1a Princesse d−u fi1m,pour montrer que
d−ans ces oeuvres1e mond−e d.e1a mort a pour fonction d−e promettre1’existence
d.’autres1ieux au poさte.
Mais1e mot《1’inconnu ll ne d6signe pas seu1ement1’existence
d一’autres1ieux.L’inconnu existe主1a fois en d−ehors d−u poさte et en d−ed−ans d−e
1ui−mεme.Dans1e second.chapitre,nous citons1es mots d’0rph6e《Ma
nuit!》 pour d−iscuter d−e 1’int6riorit6 d−e 1’inconnu et r6皿6chir au
mot《expirationl〉d.e Cocteau.
Dans1a second−e partie,nous traitons d.u fi1m0ψゐ6θet consid.6rons
1’attitude du poさte face主1’inconnu.Pour Cocteau,1a cr6ation signifie1a
d−6sob6issance,1a1utte contre1a r6a1it6recouverte d−e coutumes.lMais i1ob6it
主1’inconnu en tant qu’i1cherche1a po6sie d−ans1’inconnu.Dans1e premier
chapitre,nous consid.6rons1a re1ation entre Orph6e et1a Princesse pour
montrer.que1e poさte est d.evant un d.i1emme.Nous traitons ensuite巾mot
〈〈v6hicu1e〉〉.
Cepend.ant1a Princesse qui gouverne Orph6e d.oit ob6ir主d−es ord−res
venus d−e personnes p1us haut p1ac6es.Dans1e second.chapitre,nous traitons
d−e1a ressemb1ance entre1a Princesse et1e Sphinx d−e Z∂M夏。力血θ∠刀危m∂ノθ
qui sont1es habitants d一’un autre monde,pour montrer qu’e11es aussi se
1aissent enfermer d−ans un mεme d.i1emme que ce1ui d一’Orph6e.Puis nous
prenons en consid−6ration1e1ibre arbitre d−u poさte face主une hi6rarchie sans
Iimite d−ans un mond.e inconnu.
Dans1a troisiさme partie,nous traitons des fins simi1aires d.e1a piさ。e
0ζρゐ6θ,de Z∂雌。ゐノ刀θノ刀危rη∂ノθet d−e∫乞αノθ6”初’刀メθ,seIon nos r6且exions
ant6rieures.Dans1es premiさres et secondes sections,nous montrons que d−e
nouveaux mondes apParaissent devant1esh6ros d−e ces㏄uvres,et1es amours
impossib1es qui1es tourmentent sont dues査1eur apParence.Dans1es
troisiさme,quatriさmeetcinquiさme sections,nous consid−6rons1’inconnu d−e ces
mond.es d−u point d.e vue d一’une po6tique coct61ieme.Dans1a sixiさme section,
nous montrons1e r61e d−e1a mort d.ans ses ceuvres,c’est一圭一d.ire que1a mort est
〈〈une r6a1it6irr6e11e〉〉d.ans ses o∋uvres.
Au travers des ces consid−6rations,nous montrons que1’6tat du poさte
coct61ien ressemb1e主。e1ui d.e1’acrobate qui marche sur une corde.Ce poさte
doit rester1e m6d−ianentre r6a1it6etirr6a1it6,ob6issance et d−6sob6issance,et
y gard−er1’6qui1ibre,c’est一圭一d−ir♀6tre1e v6hicu1e de1’inconnu.L’㏄uvre d.u
P・さt・,・’・・t1・・u・{・d・・…ff・・tp・u・g・・d・・1’6qui1ib・・.
凡例
一、戯曲『オルフェ』と映画『オルフェ』は同じ題名であるので、混同を避けるためにこの二
作品に限っては本文中でも省略記号を用いる。
一、『詩人の血』と『オルフェの遺言』にはpoさte(詩人)という人物が登場する。本論文では
詩人という言葉が頻出するので、登場人物としての「詩人」について論じる際には一重鉤括弧
r」を用いてr詩人」と表記する。
一、コクトー作品の登場人物たちの名前はフランス語読みに従って訳す。例えば、古代ギリシ
ア語にもとづく通例の日本語表記「オルフェウス」は「オルフェ」、「エウリディーケー」は「ユ
ーリディス」、「オイディプス」は「エディプ」、「アンチゴネー」は「アンティゴーヌ」と記さ
れる。
一、訳文中の亀甲括弧〔〕は引用者による補足である。
一、訳文中の[…]、引用されたフランス語原文中の[...]は引用者による中略を示す。
一、原文の訳出にあたっては、既存の日本語訳を参照しつつ、筆者の手で行った。引用の際は、
以下の省略記号を用いる。
Jean Cocteau
刀〃:Z∂刀脇bαノ66m施,dans五P0皿 r存在困難』朝吹三音訳、rジャン・コクトー全集』第
五巻、東京創元杜、1987年。『ぼく自身あるいは困難な存在』秋山和夫訳、筑摩書房、1996
年。
刀0:扱かθ血θη∬〃ノθo曲6伽∂Co騨即加,Ed−itionsduRocher,2003.『シネマトグラフをめぐる
対話』高橋洋一訳、松村書館、1982年。
∬:ゐα〃∂〃七月並。o〃刀α,Grasset,2003.『知られざる者の日記』高山鉄男訳、『ジャン・コク
トー全集』第六巻、東京創元杜、1985年。
”:Z2ノθα〃8鎚θ〃θβo∂刀ゐノθ,dans00孤 r青春とスキャンダル』大浜市訳、rジャン・コ
クトー全集』第四巻、東京創元杜、1980年。
M7:Z∂M身。心血θ血色㎜2ノθ,dansπ 『地獄の機械』渡辺守章訳、『ジャン・コクトー全集』第
七巻、東京創元杜、1983年。
00五X:0弛㎜θ800〃μ挑θβdθゐ舳0ooCθ∂α,vq1.IX,Mlarguerat,1950.
0ノ:0ψゐ6θ,piさ。e,dansπ 『オルフェ』堀口大學訳、『ジャン・コクトー全集』第七巻、東
京創元社、1983年。
02:0Ψ必6θ,昼1m,Andr6Bonne,1961.『オルフェ』三好郁朗訳、『ジャン・コクトー全集』第
八巻、東京創元杜、1987年。
ア0∫:月。63ゴθc〃血gαa∫,Ga11imard一,1959.
アγ:此〃θC吸卿bゴθ,danS”0 『ポールとヴィルジニー』江口清訳、『レーモン・ラディゲ金
集』、東京創元社、1976年。
児P00:児。伽2〃島月。68ゴθ易αα〃θ8並肥雌θβ,Ie Livre d−e Poche,1995.
80P:Zθ晶〃8杓〃ρo舶,dans児P0〃 r詩人の血』岩崎力訳、rジャン・コクトー全集』第八
巻、東京創元杜、1987年。
〃:エθ8θo蝪μo勉8ゴ。〃〃θμans P0∫.『職業の秘密』佐藤朔訳、『ジャン・コクトー全集』
第四巻、東京創元杜、1980年。
”0:m66かθco〃ρ企らGa11imard一,2003.
㎜0:Zθ蛇娩〃θ〃〃りψゐ6θ,dans五P0り.『オルフェの遺言』三好郁朗訳、『ジャン・コク
トー全集』第八巻、東京創元杜、1987年。
目次
序文1頁
第一部 未知なるもの
第一章 外部に存在する未知
1)鏡の通過 3頁
2)死神とプリンセス 8頁
第二章 内部に存在する未知
1)inspirationとexpiration12頁
2)オルフェの過ち 14頁
第二部 服従と不服従
第一章 オルフェの服従
1)反抗としての創作 16頁
2)追い求めひざまずくオルフェ 17頁
3)知ろうとしすぎること 23頁
4)媒体としての詩人 25頁
第二章I vリンセスの服従
1)役人のような死者たち 29頁
2)生者の世界に魅了されるプリンセス 30頁
3)不完全な神スフィンクス 32頁
4)人間としての反抗34頁
5)栄光を失ったエディプとミューズを奪われたオルフェ 36頁
6)人間性の剥奪 40頁
7)自己の意味を見いだすことの無意味さ 43頁
第三部 新たな世界の出現
1)唐突な世界の出現 47頁
(1)戯曲『オルフェ』 47頁
(2)『ポールとヴィルジニー』 51頁
(3)『地獄の機械』 54頁
2)実現不可能な愛の成就 57頁
3)詩人の発見 63頁
4)非現実的な現実 66頁
5)受け入れること 69頁
6)自分の死 73頁
結論 詩人と軽業師77頁
参考文献82頁
序文
20世紀フランスを代表する文学者の一人であるジャン・コクトーは、生涯幅広い分野で活躍
し続けた。処女詩集『アラジンのランプ』(1909年)によって詩人として文壇にデビューした彼
であるが、その8年後にはバレエ『バラード』(1917年)でスキャンダルを巻き起こし、さら
に1年後には評論『雄鶏とアルルカン』で注目を浴びている。それから約10年の間に彼は『喜
望峰』(1919年)、『ポエジー 1917−1920』(1920年)、『用語集』(1922年)、『平調曲』て1923
年)、rポエジー 1916−1922』(1925年)、rオペラ』(1927年)などの詩集を発表し続ける一方
で、詩以外の分野においても小説『ポトマック』(1919年)、バレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』
(1921年)、評論r職業の秘密』(1922年)、小説r山師トマ』(1923年)、評論rジャック・マ
ルタンヘの手紙』(1926年)、戯曲『オルフェ』(1926年)などの代表作を執筆している。作品
の羅列はこれで終わりにするが、彼が文学に留まらず、映画、絵画、美術などの分野において
も傑作を残していることも最後に付け加えておこう。
このようにあらゆるジャンルにおいて活躍したコクトーであるが、彼自身は「詩人」である
ことに生涯こだわり続けた。彼が自身の作品を分類分けする際に用いた、po6sie ae th6atre(演
劇の詩)、po6sie deroman(小説の詩)、po6sie decritique(批評の詩)などの名称からも、詩
人であることへの彼の強い信念を感じとることができる’ セろう。
そうした詩人コクトーを魅了したものの一つがオルフェの神話である。彼は戯曲『オルフェ』
を執筆して以来、生涯にわたってこの神話を題材とした作品を作り続けた。戯曲『オルフェ』
を書き上げた1925年にはパステル画『オルフェとユーリディス』を、翌年1926年にはデッサ
ン『オルフェの頭部』を彼は制作している。また1926年には、po6sie p1astique(造形の詩)
と彼白身が命名した、針金や厚紙などでつくられた小型のオブジェをパリのカトル=シュマン
画廊の展覧会に出品しているが、その中にはオルフェを題材とした作品が存在した。1944年に
はコクトー自身の手によるリトグラフが挿入された戯曲rオルフェ』の台本が出版されている。
また同年には、演出家のローラン・プティらとrオルフェ』と題したバレエを制作する計画が
あった。1947年にはデッサンr竪琴を持つオルフェ』、1950年には戯曲rオルフェ』のアレン
ジとも言える映画『オルフェ』と再び『オルフェとユーリディス』というパステル画を制作し
ている。翌年には『月桂樹を飾られたオルフェ』や『葉を飾られたオルフェ』などの絵画を描
いており、1960年にはコクトー自身が主役を演じた映画『オルフェの遺言』を公開している。
もちろんオルフェの神話に魅了された芸術家たちは山のようにいるが、コクトーのように生涯
を通してこの神話を扱い続けた芸術家は珍しいと言えるだろう。
生涯詩人であることにこだわり続けたコクトーにとって、神話上の詩人オルフェはまさに最
適な題材であったのかもしれない。1951年に行われたアンドレ・フレニョーとの対話の中で、
1
コクトーはオルフェの神話に関して次のように述べている。
私の道徳的な歩みはびっこを惹いた男の歩みです。片方の足は生の中にあり、もう片方の
足は死の中にあります。だから、私が生と死が向かい合う神話へと至ったのは当然のこと
でした1。
後に『知られざる者の日記』(1953年)の中でコクトーが「詩とは道徳である」と述べているこ
とを思い返すならば、この記述はコクトーの詩人観とオルフェの神話が、生と死というテーマ
において密接に結びついていたことを示していると言えるのではないだろうか。
本論文では、オルフェを題材として書かれた作品のうち戯曲『オルフェ』(以下α)と映画
『オルフェ』(以下09に焦点を絞り、これらの作品の考察を通じてコクトーの言う詩人とは
いかなる存在であるかを明らかにしていく。まず第一部では、コクトー的詩人の追い求める
1’inConnu(未知なるもの)について述べる。作品は未知なるものからもたらされるというのが
コクトーの基本的文学観であるが、未知なるものという言葉は単に外的な存在を表しているわ
けではない。確かに未知なるものは詩人の外部に存在するものであるが、それは同時に詩人の
内部に存在するものでもある。ここでは、未知なるものの一つである死の世界が両作品におい
てどのように描かれているのかに注目し、未知の外部性と内部性について明らかにしていく。
次に第二部では、未知なるものを前にしたときの詩人の姿について検討する。ここでは、現実
に対する反抗としての創作というコクトーの基本的姿勢を確認したうえで、02のオルフェとプ
リンセス、戯曲『地獄の機械』のエディプとスフィンクスの関係の考察を通じて、詩人の服従
の必要性を明らかにする。最後に第三部では、0ノ、『地獄の機械』、オペラ=コミック『ポール
とヴィルジニー』の終結部に見られる類似について、第一部と第二部で明らかにしたことをも
とに考察していく。なお、これらの作品の終結部に注目するという方法は松田和之の論文2から
着想を得ている。私たちは松田が用いたコクトーの死生観という観点からではなく、コクトー
的詩人像という観点からこれらの作品の終結部を眺めることによって、彼の論考ではあまり触
れられていなかった、これらの作品の終結部が持つ別の側面について論じていく。
111Ma d6marche mora1e6tant ce11e d’un homme qui boite,un pied dans1a vie et un pied dans Ia mort,i16tait
norma1que j’en arrivasse主un mythe o亡1a vie et1a mort s’a脆。nt.1)刀q p.79.
2C£松田和之「ジャン・コクトーにおけるオイディプスの変貌一〈生者の国〉からく死者の国〉へ一」、『フランス語
フランス文学研究』、第53号、1988年、73−83頁。松田和之「『恐るべき子供たち』試論」、『GALLIA』、第31号、1991
年、284−293頁。KazuyukiMatsuda,llLam6tamorphosed’0rph6echezCocteau−Sur1epassage du加。棚ゐdθ8
㎡昭批8au〃。皿みる8〃。rお一}),Ga11ia,No28.1989,pp.51−58.Kazuyuki Matsuda,《La Mort sous1a飴rme d’une
jeune femme chez Cocteau_sur1a genさse du personnage de1a Princesse du fi1m0ψ石6θ一}),GaI1ia,No40.2001,
pp.219−226.
第一部
未知なるもの
第一章 、外部に存在する未知
1)鏡の通過
まずは、02の主人公であるオルフェについて見てみよう。トラキアの詩人オルフェは、太陽
を崇拝する宗教の司祭であり、その指導者でもあった。この土地で彼の栄光は絶頂にあり、町
中の人々が彼の詩を暗唱していた。しかし、ある日一匹の馬と出会ったことで彼の生活は一変
する。彼は司祭の地位を捨て、馬や、妻のユーリディスともに世間から離れ田舎に隠遁する。
しかし、彼は詩の創作を放棄したわけではない。彼は馬が蹄を打ち鳴らす回数をアルファベッ
トに置き換え、それを写し取ることで詩を創作する。
馬との出会いはオルフェの詩作に対する考えを変化させる。馬との出会い以前、オルフェが
どのような創作をしていたのかは明確には書かれていない。ただ、彼の作品は人々によって暗
唱される程愛されていたという事実から、以前の彼の作品は万人に理解されうるものであった
ことが想像されるだけである。
こうしたオルフェの行為を見て、「まじめじゃない」と言う妻ユーリディスに対して、彼は次
のように応える。
オルフェ:まじめじゃないって? 僕の人生は風味が出始め、ほどよく熟し、成功と死の
においが漂い始めたんだ。僕は太陽と月を同じ袋の中に入れてやる。僕には夜
が残っている。そして他のやつらの夜じゃない! 僕の夜だ。この馬は僕の夜
に入り込み、潜水夫のようにそこから出てくる。こいつはそこから言葉を持つ.
てくる。これらの言葉のうち最も短いものでさえあらゆる詩より驚くべきもの
であることを君は感じ取らないのかい? 貝殻の中に海の音を聞くように僕が
そこから自分の声を聞くこれらの短い言葉のうち、たった一つのためでも僕の
全作品を引き換えに渡すだろう。まじめじやないって? 何が必要だっていう
んだい、愛しい人よ。僕は世界を見つけるんだ。自分の皮膚をひっくり返すん
だ。この未知なるものを追いつめてやる3。
30rph6e:Pas s6rieux?Ma vie commengait註se faisander,主6tre主point,査puer1a r6ussite et1a mort.Je mets1e
so1ei1et1a1une dans1e m6me sac.I1me reste1a mit.Et pas1a nuit des autres1Ma nuit.Ce cheva1
entエe dans ma nuit et i1en sort comme un p1ongeur.I1en rapporte des phrases.Ne sens−tu pas que1a
moindre de ces phrases est p1us6tomante que tous1es poさmes?Je donnerais mesα∋uvres comp1さtes
pour une seu1e de ces petites phrases o白je m’6coute comme on6coute1a mer dans un coqui11age.Pas
s6rieux?Que te曲ut−i1,ma petite?Je d6couvre un monde.Je retoume ma peau.Je traque1’inconnu.
0−Z,pp,391−392、
3
オルフェはこの馬を通じて、未知なる言葉を引き出そうとしている。この馬の言葉こそが彼に
とって本当の詩であり、これらの言葉に比べたら彼が今まで書いてきた作品はほとんど価値が
ない。彼にとって詩とは未知の領域に属するものなのである。ここでは彼はこの領域のことを
manuit(僕の夜)と表現しているが、第一場の他の箇所でオルフェは詩のことをpoさmedurεve
(夢の詩)や且eur du fond de1a mort(死の奥底に咲く花)とも表現している。夜、夢、死、
これらの言葉は詩の根源である未知なる領域を指し示す言葉として使われているのである。
興味深いことに、上の引用箇所で使われているtraquer I’inComu(未知なるものを追いつめ
る)という表現は、評論『知られざる者の日記』(1953年)においてコクトーが彼白身の詩論を
述べる際にも用いられている。
私には次のように思われる。未知なるものを追いつめることが、詩人の仕事なのである。
例えば、私の戯曲の馬や、映画のロールス・ロイスがオルフェをだましたように、未知な
るものが詩人をだましたとしても、それでもオルフェは、偶然ではあるが未知なるものの
領域に入り込んだのだ4。
私たちがオルフェに見てきた、未知なる領域に惹かれる詩人としての姿は、作者コクトーのそ
れが反映されたものであると言うこともできるだろう。
ところで、夜、夢、死、これらのものは古今東西のあらゆる芸術家たちを魅了し続けて来た。
コクトーと同時代に活躍したシュルレアリストたちも、夢や眠りに多大な影響を受けている。
夢や死が持つ未知性に詩を求める詩人ρ姿はあまりにもありふれており、これらのシンボルが
持つ未知の魅力から完全に解放されている詩人を見つける方が難しいと言えるだろう。しかし、
ありふれているからといってそれを軽視することはできない。本論文の目的は、このありふれ
た詩人像がいかにコクトー作品の独自性を成しているかを明らかにすることと言っても過言で
はないだろう。
0ノにおいて、詩の根源を未知なる領域に求めるオルフェの姿を最も明らかにしているのは、
第七場における、鏡の通過の場面であると言えるだろう。07において鏡は現世と死者たちの世
界の境界として描かれている。この場面は亡き妻を求めて冥界に下る神話上のオルフェの姿の
単なる焼き直しではない。「死の奥底に咲く花」を求めていたオルフェが、鏡をくぐり抜けて、
死の世界へ侵入するこの場面は、彼が理想としていた詩人像を体現化したものであると言える
だろう。なお、ウルドビーズは、死者の国へと向かったオルフェとユーリディスのことを、I1s
dorment(彼らは眠っているのです)と表現している。鏡の先は死の世界であるとともに、夢の
4{{C’est,i1mesemb1e,1at査。hedupoさtequedetraquer1’incomuet,si1’incomu1epipe,commei1pipeOrph6e,par
1e cheva1de ma piさ。e et par1a Ro11s de mon fi1m,0rph6e ne s’en trouve pas moins engag6dans son rさgne.》凪pp.
117_118.
4
世界であり、夜の世界なのである。
0ノ以後の作品でも、コクトーは鏡の通過の場面をしばしば用いている。映画『詩人の血』(1932
公開)の主人公である「詩人」は、動き出した女性の彫像に誘われて鏡を通過する5。鏡の内部
はnuit(夜)である。「詩人」は進み続け、1’h6te1des Fo1ies−Dramatiques(劇的な狂気のホテ
ル)と呼ばれる場所に着き、そこでいくつもの不可思議な光景を目にする。『詩人の血』のあと
がきにおいて、コクトーはこの場面に関して次のように述べている6。
まず、「詩人」という登場人物が鏡の中に入っていくのをあなた方はご覧になるでしょう。
次に、彼はある世界の中を泳ぎます。それは私が想像する世界なのですが、私たちのうち
誰もその世界のことを知りません。この鏡は彼をある廊下へと導き奏す。そのときの彼の
歩みは、夢におけるそれなのです7。
コクトーは、鏡の向こう側の世界を誰も知らない世界と表現する。07と同様、『詩人の血』に
おいても鏡の先は未知の領域として描かれているのである。ここでVouS(あなた方)ではなく、
nouS(私たち)という言葉が使われていることに注目しよう。「私たち」の中には、もちろん作
者コクトー自身も含まれている。コクトーは「私たち」という言葉を使うことで、この世界の
絶対的な未知性を強調しているのである。詩人が惹かれる領域の絶対的な未知性については、
第二部で詳しく見ていくことにしよう。
なお、r詩人の血』のあとがきには、次のような記述もある。
ウィリアムソン兄弟が海底をすみずみまで探索したように、『詩人の血』において、私は詩
を探索しようと試みました。彼らが海の中に降ろした釣鐘型潜水器を、私自身の内部にあ
る海溝へと降ろすことが問題でした。詩的状態を捕まえることが問題だったのです。詩的
状態など存在せず、それは自発的な興奮状態の一種であると多くの人たちが思っています。
5その際、次のような会話が交わされる。
詩人のアップ。彼は話す:「鏡の中には入れない」
彫像のアップ:「おめでたいことね。鏡の中に入った、とあなたは書いた。でも、あなたはそれを信じていない」
Gros p1an du poさ七e.I1par1e:《0〃刀わηかθρ棚あ刀β’ノθ88泊。θ&》
Gros p1an de1a statue:《ゐノθ眉〃。ゴ君θ.肪∂86αゴCσ〃わ刀θ〃か虹C山刀βゐβ8泊。θ8θ“〃〃ケαoyaゴ8ρ∂&》
皿フ戸p.1286.
r鏡の中に入った、とあなたは書いた」という台詞は、明らかにαのことを指している。r詩人の血』において、コク
トーは、作者である彼自身を登場人物に投影している。こうした手法は、後に『オルフェの遺言』においてより明確な
形で使われる。
6このあとがきは、1932年1月、ヴィユー・コロンブレ座において『詩人の血』が上映された際、コクトーによって行
われた講演に基づくものである。そのため、ここでは講演の口調で訳すことにする。
7《D’abord,vous verrez1e personnage du poさte entrer dans une glace.Ensuite,i1nage dans un monde que nous ne
connaissons ni1es uns ni Ies autres,mais que j’imagine.Cette g1ace1e mさne dans un cou1oir,et sa d6marche es七
。e11e des rεves。})北ゴ♂,p.1311、
5
しかし、自分たちは詩的状態からもっとも遠くにいると思い込んでいるような人たちでさ
え、そうした状態を知っているのです。深い喪の悲しみやひどい疲れを、彼らが思い出し
ますように。彼らは炉の前てかがみ込み・まどろんでいますが・しかし・眠ってはいま芦
ん。その直後に、彼らの内部で結びつきが生じ始めます。それらは、概念やイメージや記
憶の結びつきではありません。むしろ、それは交尾する怪物たちであり、光の中を通り過
ぎる秘密であり、あいまいで謎めいたひとつの世界全体なのです[…コ8。
創作行為や詩的状態に関するこの記述は、私たちが最初に引用したオルフェの台詞と類似して
いる。まず、どちらにおいても創作行為は潜水に例えられており、詩人の内部に存在する領域
はun monde(一つの世界)と表現されている。また、オルフェはこの世界をinConm(未知の)
と形容し、コクトーは6quiVoque(あいまいな)や6nigmatique(謎めいた)と形容している。
そして、前者はこうした世界をretoumer(ひっくり返す)と言い、後者はtOumer(すみずみ
まで探索する)と言う。この二つの文書から読み取れる詩論は同じものであると言えるだろう。
話しを鏡の通過に戻そう。0ノとほぼ同じように物語が展開する02においても、鏡は生者の
世界と死者の世界を行き交うための道具として登場する。ただし、02では生者の世界と死者の
世界の狭間にゾーンと呼ばれる中間地帯が設けられているという点や、鏡を通過する際のオル
フェの意識が07と02では異なるという点など、両作品における通過の場面にはいくつか違い
も見られる。この違いについては後に詳しく見ていくことにしよう。
なお、07と02では通過の場面以外にも、鏡が生と死の境目を表す道具として使われている
場面が他にもある。オルフェたちは左右反対に書かれた手紙を鏡に映して読むことで、彼らの
身に危険が訪れていることを知り、そして両者とも手紙の警告や芦迫の通りバッカスの女たち
や前衛詩人たちの襲撃によって死ぬ。これらの手紙は死を予言し伝達するものであるが、それ
らの伝達者としての役割は、鏡による反転によって初めて成立する。つまり、鐘もまたオルフ
ェたちに死を宣告する役割を帯びているのである。また、02では、オルフェは車のバックミラ
ーを介してユーリディスの顔を見てしまい、彼女は再び死者の国へと消え去ることにも注目し
よう。これらの場面において、鏡は登場人物たちに直接的であれ、間接的であれ死を与える道
具として描かれているのである。
このように、コクトーにおいて鏡とは未知なる世界への入り口である。こうした鏡の使われ
方を見た者は、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を思い出さずにはいられないだろう。
8.Dans Z∬舳M0〃αVP0〃㎎j’essaye detoumer1a po6sie,comme1es舳resWi11iamsontoument1efond de1a
meL I1s’agissait de descendre en moi−m6me1a c1㏄he qu’i1s descendent dans1a m叫主de grandes profondeurs.I1
s’agissait de surprendre1’6tat po6tique.Beaucoup de gens s’imaginent que1’6tat po6tique n’existe pas,que c’est une
sorte d’excitation vo1ontaire.0巧m6me1es personnes qui se croient1e p1us1oin de1’6tat po6tique,1e connaissent.
Qu’e1es se souviement d’un grand deui1,d’me grande fatigue.E11es se courbent devant1e飽u,e1王es somno1ent,
mais e1Ies ne dorment pas.Aussit6t commencent en e11es des associations qui ne sont pas des associations d’id6es,
ni d’images,ni de souvenirs.Ce sont p1ut6t des monstres qui s’a㏄oup1ent,des secrets qui passent dans1a1umiさre,
tout un monde6quivQque,6nigmatique[..、].))乃批,p.1310。
6
コクトーと親しい間柄にあった作家のモーリス・サックスが、コクトーが0ノの執筆を行ってい
た1925年にキャロルの作品を翻訳していたことが既に明らかになっており、コクトーがキャロ
ルの作品から影響を受けたと考えることも十分可能であろう9。メルシオール=ホネも『鏡の文
化史』の「鏡の通り抜け」という箇所においてコクトーとキャロルの作品を並べて取り上げて
いる。彼女はそこでオルフェとアリスの鏡の通過について、「通り抜けはひとつの違反行為でも
あり、それは子供と詩人だけが信ずることのできる前代未聞の冒険」と述べている。同じ箇所
で、彼女は02について次のように述べている。
ノーマンズランド
銃は、毎日の具体的生活と夢想部分とのあいだの中間地帯である。詩人は好きなときにそ
こを超えることができ、そして気が狂っているわけではないので、言葉の魔術によって鏡
のこのふたつの側面を絶えず結び付けることができる。鏡を「水のようにする」ことが可
能な手袋を考えだしたコクトーは、鏡とはr死神が出入りする扉」だと言っているが、こ
こでの死神とは、無に至らせる死神ではなく、他所の約束、現実世界の彼方にあって詩的
世界に至らしめる、光り輝く夜の約束なのである10。
コクトーにおいて、鏡の向こうにある死の世界は虚無の世界ではない。既に述べたように、死
の虚無性ではなく、死の他所性や未知性にこそ詩人は魅力を感じるのである。ホネが言うよう
に鏡が「現実の重みと罪悪感の圧迫とが取り除かれた世界」への扉であるならば、死の未知性
に惹かれたコクトーが鏡の向こう側を死の世界に設定したことは自然であると言えるだろう。
ところで、詩人によって鏡が「水のように」なったとしても、水に潜る際必ず抵抗が生じる
ように、鏡の通過は困難さを必ず伴うものでもあるということを見逃してはならない。たしか
に、鏡の通過を信じることができる数少ない存在である詩人と子供は「好きなときにそこを超
えること」ができる。しかし、いくら彼らと言えども、鏡を通過することは「現実世界の境界
標が道しるべとはならない行路を進む冒険」なのである。
『詩人の血』において、鏡の向こう側にある「劇的な狂気のホテル」の廊下を「詩人」が歩
く場面では次のようなトリックが用いられている。一クトーは廊下の壁に当たる部分を床に設
け、「詩人」を演じる役者にその上を這いずらせる。そして、それを上からカメラで撮影するこ
とで、コクトーは「詩人」の歩みぶりを独特なものとして表現している。『詩人の血』のあとが
きで、コクトーはこのトリックについて説明しながら、次のように述べている。
[…]あなた方はとても辛く、とても奇妙な方法で歩く男をご覧になるでしょう。彼の揺
9ジャン=ジャック・キム、エリザベス・スプリッジ、アンリ・C・ベラールr評伝ジャン・コクトー』秋山和夫訳、筑
摩書房、1995年、162頁。
・oサビーヌ・メルシオール=ホネr鏡の文化史』竹中のぞみ訳、法政大学出版局、2003年、283頁。
7
れ動く筋肉は、その歩みの努力とは対応していません11。
鏡の中の「詩人」の歩みは「辛く」て「奇妙」なものなのである。
『詩人の血』で用いたこのトリックをコクトーは、02の中でオルフェとウルドビーズたちが
生と死の世界の狭間であるゾーンを進み行く場面でも一部用いている。加えて、02ではスロー
モーションの技法が用いられることによって、オルフェの独特な歩みぶりはより一層強調され
ている。この場面に関してさらに言うならば、オルフェとウルドビーズの歩き方が対照的であ
ることも見逃すことはできない。ウルドビーズが体を全く動かず楽々と進み続ける一方で、オ
ルフェの歩みは遅々として進まない。どんどん先に行ってしまうウルドビーズにオルフェは、
「ついていくので精一杯だ」と声をあげる。ウルドビーズとの対比によって、オルフェの歩み
の困難さは一層強調されているのである。
戯曲である07では鏡のこちら側の世界しか描かれていないため、鏡の向こう側でのオルフェ
の様子を見ることはできない。しかし、彼が鏡を通過する直前に、ウルドビーズは彼に「始め
のうちは少し辛いでしょう」と説明している。αにおいても、鏡を通過することは決して容易
なことではないと言えるだろう。
このように、コクトーは鏡の通過を困難なものとして描いている。コクトーの詩人たちは鏡
の中を楽々と歩くことはできない。鏡の中での歩みは辛く苦しいものであり、地上における人々
の歩みとは全く別物なのである。こうした鏡の中での詩人の歩みぶりは、未知なる領域を前に
した詩人の姿であるとも言える。このことについては、第二部で詳しく論じることにしよう。
2)死神とプリンセス
既に述べたように、07と02では鏡を通過する際のオルフェの意識に違いが見られる。α
のオルフェは亡き妻との再会を欲して死の世界に赴く。鏡を通過する前の場面で、オルフェの
口から語られることはユーリディスのことばかりであり、詩や詩作活動について彼は何も語っ
ていない。台詞から読み取れるオルフェの意識のレベルで言うならば、彼は亡き妻との再会を
求める夫として鏡を通過するのであって、詩人として鏡を通過するわけではないのである12。
それどころか、私たちが前に引用した第一幕の台詞以降、未知に関するオルフェの台詞はな
い。登場人物たちの意識のレベルで見る限り、未知なるものに惹かれる詩人のテーマは第一幕
以降鳴りを潜めてしまうのである。この点は07と02の大きな違いであると言える。というの
も、0ノでは断片的にしか見ることのできなかったそのテーマは、他方02では物語の根幹をな
すテーマとなっているのである。そして、この違いの大きな要因の一つとなっているのは、02
1ユ《[...]vous voyez un homme qui marche de faCon trさs p6nib1e et trさs6trange,et dont1a muscu1ature mouvante ne
correspond pas主1’e脆rt de sa promenade、})50βp.1311.
12Cf.Pieere Dubourg,刀蝪〃∂ω惚b dθ北∂刀0go施∂α,Grasset,1954,p.259.
8
におけるプリンセスという登場人物の存在である。
02のプリンセスは07の死神を下書きとして作られた人物である。物語の展開において、0ノ
の死神と02のプリンセスは、ユーリディスを死者の世界に連れて行くという点では同じ働きを
する。他にも両者の共通点として、ドレスを着た若い女性であること、部下を連れていること
などが挙げられる。しかし、彼女たちのオルフェとの関わり方には大きな違いが見られる。
0ノの死神は第六場にしか登場しない。かつてユーリディスが所属していた月の教団の代表者
であるアグラオニースの罠にかかり、オルフェが留守の間にユーリディスは封筒の糊にしこま
れた毒を舐めて瀕死の状態になる。すると、鏡の中から死神が助手のアズラエルとラファエル
を伴って現れ、ユーリディスを死者の国へ連れて行く。その後、オルフェはユーリディスを探
しに鏡を通過し、死者の世界で死神と出会うが、既に述べたように、0ノでは鏡のこちら側の世
界しか描かれていないので、オルフェと死神の出会いを私たちは直接見ることができない。そ
の後、ユーリディスと共に死者の世界から帰ってきたオルフェの台詞によると、彼は死神が部
屋に忘れていった手袋を返した見返りとして、今後二度とユーリディスの姿を見ないという条
件付きでユーリディスを連れて帰る許可を与えられた。
以上が0ノにおける死神の行動である。物語上、オルフェと死神の接点は一度しかなく、唯一
彼らが直接出会う場面もオルフェの口から間接的に語られるだけで、舞台上で直接演じられは
しない。オルフェにとって死神は妻を冥界へ連れて行った存在以外の何者でもないのである。
02におけるオルフェとプリンセスの関わりはそれとは全く異なる。物語中、彼らは四回出会
う。一度目は干映画の冒頭である。02のオルフェはαのオルフェとは異なり、司祭という役
職にはついておらず著名な詩人という肩書きのみを担っている。そうした彼の状況は物語の冒
頭、カフェで起こった事件に巻き込まれることで変化していく。カフェにいた前衛詩人たちの
一人であるセジェストが、詩人たちと警官の争いのさなかバイクにひかれて死ぬ。事故の現場
にいたオルフェはセジェストのパトロンであるプリンセスによって半ば強制的に、彼女の山荘
へと連れて行かれる。その道中、彼はカーラジオから聞こえてくる奇妙なメッセージを耳にし、
山荘についた後にも、部屋にあるラジオからメッセージが流れてくるのを聞く。彼は自分のい
る状況を把握できず混乱し、さらにプリンセスと死んだはずのセジェストが鏡の中に入ってい
くという光景を目撃して気を失う。その後、ウルドビーズとともに帰宅した後、彼は0ノのオル
フェと同様の奇行に走る。彼はラジオから聞こえてくるメッセージを彼に向けて送られている
ものだと思い、必死になってそれを書き写す。馬がカーラジオに変わった以外、07と02のオ
ルフェたちの行為には大きな差は見られない。オルフェとプリンセスの一度目の出会いは、07
では描かれていないオルフェと馬の出会いに相当すると言えるだろう。
二度目の出会いの場面において、オルフェがプリンセスに対して惹かれていることが示され
る。ただし、正確に言うとこの場面は出会いの場面とは言えない。オルフェはセジェストの箏
9
件の証人として警視のもとへ向かう途中でプリンセスを見かけ、彼女を必死に追いかけるが見
失ってしまう。
三度目の出会いは、鏡の向こう側の世界で行われる。鏡をくぐり、ゾーンと呼ばれる場所を
通過したオルフェは死者の国の裁判所に到着する。そこでオルフェはプリンセスも彼のことを
愛していたことを知る。互いに愛情を確かめ合った彼らは、再び出会うことを誓い、そして別
れる。
彼らの四度目の出会いは、オルフェの死後になされる。オルフェがセジェストの死に関わっ
ていると思い込んだ前衛詩人たちの襲撃によって死んだ彼は、再びウルドビーズに連れられて
鏡をくぐる。そこでオルフェは、彼のことを待っていたプリンセスとゾーンで再会を果たす。
彼らは再会を喜ぶが、その後、プリンセスは半ば強制的な形でオルフェを地上に返す。
以上のように、プリンセスは物語の主要な登場人物として、作品の始まりから終わりまで登
場し、オルフェと関わり続ける。そして、彼らは互いに愛し合っている。オルフェのプリンセ
スヘの愛情は02の主要なテーマとなっているのである。
注目すべきは、オルフェのプリンセスに対する愛情の強さである。オルフェとユーリディス
は元々「模範的な夫婦」であり、ユーリディスによれば、オルフェが朝になるまで家に帰って
来ないなどということは一度もなかった。しかし、プリンセスと出会った後のオルフェは一変
してしまい、妊娠の報告をするユーリディスを軽くあしらう程にまでなってしまう。それほど
までに、プリンセスとの出会いはオルフェにとって決定的なものだったのである。彼の愛の強
さがもっとも表れているのは、ユーリディスを交通事故で亡くした彼が死者の国に赴こうと決
意する場面だろう。
オルフェ
ウルドビーズ…… またユーリディスと一緒になりたいんだ。
ウルトビーズ: あなたが私に懇願なんかするべきじゃありません。私があなたに申し出て
いるんです。(オルフェの肩に両手を置きながら)オルフェ、私の目を見て
下さい。あなたがもう一度一緒になりたいのはユーリディスなのですか、
それともあなたの死なのですか?
オルフェ
だけど……
ウルトビーズ: 私ははっきりした質問をしているんですよ、忘れないで下さい。あなたは
死と一緒になりたいのですか、それともユーリディスなのですか?
オルフェ
(目をそらしながら)二人ともだ……
ウルトビーズ: ・・そして、可能ならば二人とも欺きたいのですね……13
130rph6e :Heurtebise...Je veux rejoindre Eurydice.
Heurtebise:Vbus n’avez pas査me suppher.Je vous roffre.(月。醐批βθ8〃∂血β舳rノθβ6ρ棚ノθ8aりΨゐ6θ)0rph6e,
regardez−moi dans1es yeux.D6sirez−vous rejoindre Eurydice ou1a mort?
10
そもそもこの場面のオルフェは、妻を亡くし嘆き悲しむ神話上のオルフェの書き換えである。
神話ではオルフェはその悲しみの強さ故に通常人間には成し遂げることのできない冥界下りを
なす。02のオルフェもユーリディスの死を知ったとき、取り乱す程嘆き、ウルドビーズに助け
を求める。それにもかかわらず、彼はウルドビーズの質問に動揺してしまう。彼は0ノのオルフ
ェのようにユーリディスだけを求めて死の世界に向かうのではない。プリンセスヘの愛が、彼
が死者の世界へ赴こうとする要因の一つとなっていることは明らかである。
こうした彼の愛情の強さを、プリンセスの女性としての魅力だけで説明することはできない
だろう。彼の愛1音の強さは、プリンセスの正体が1amort(死)であることと大きく関わってい
ると言える。というのも、ウルドビーズから質問される直前にオルフェはプリンセスが死であ
ることを告げられるのだが、そのとき彼は次のように応えている。
オルフェ:僕はそれについて話していた。それを夢見ていた。それを詩によって讃えてい
た。僕は死のことがわかっていると思っていた。だけど、わかってはいなかっ
たんだ……14
この台詞から、オルフェが以前から詩作のテーマとして死を取り上げていたことがわかる。自
分の前に突如現れた女性が、実は自分が長年追い求めていた死であることを知り、オルフェの
プリンセスに対する愛情は一層強くなる。オルフェは女性としてのプリンセスに男性として惹
かれただけではなく、詩人として追い求めるべき対象を彼女に見出していたのである。コクト
ーは02のまえがきで、オルフェのプリンセスに対する愛1音について次のように端的に述べてい
る。
彼女のオルフェに対する愛とオルフェの彼女に対する愛は、詩人たちが自分たちの住む世
界を越えるあらゆるものに対して感じるあの深い引力や、私たちがそれにはっきりした形
を与えることも働かすこともできない私たちに取り掻いた無数の天性を私たちから削除し
てしまう不自由さを克服しようとする詩人たちの執拗さを表わしている15。
Orph6e :lM1ais、..
Heurtebise:Je vous pose une question pr6cise,ne1’oub1iez pas.Est−ce1a mort que vous d6sirez rejoindre ou
1≡:urydice?...
0rph6e (d6tournant1e regard):Les deux...
Heurtebise:...Et,si possib1e,tromper1’une avec1’autre...
0尾pp.68−69.
ユ40rph6e:J’en par1ais.J’en r6vais.Je1a chantais.Je croyais1a connaitre.Je ne1a connaissais pas...
乃ゴ♂,P.66.
15くくSon amour pour Orph6e et1’amour d’0rph6e pour eue figurent cette profonde attraction des poさtes pour tout ce
qui d6passe1e monde qu’i1s habitent,1eur achamement査vaincre rinfirmit6qui nous ampute d’une fou1e d’instincts
qui nous hanten七sans que nous puissions leur donner une危rme pr6cise ni1es agir.}1冊〃.
11
オルフェのプリンセスに対する愛は、未知の世界に対して詩人が感じる引力そのものである。
詩人の天性は未知の存在なくしては成立しない。メルシオール=ホネが述べていたように、死
の世界の住人であるプリンセスは、オルフェにとって「他所の約東」であり、「現実世界の彼方
にあって詩的世界に至らしめる、光り輝く夜の約束」に他ならないのである。
第二章 内部に存在する未知
1)inspirationとexpiration
今まで見てきたように、詩人は死や夢のもつ未知性に魅了される。詩人にとってそれらは、
別の世界の存在を約束するものに他ならない。ところで、それならば「詩人」の創作活動とは
ここではないどこかへの逃避にすぎないのだろうか。オルフェたちが向かう死の世界は、現実
からの避難場所にすぎないのだろうか。そこで改めてコクトーの作品に戻ると、私たちはそこ
で描かれている死や夢が単なる隠れ家ではないことに気づくだろう。そして、コクトー作品に
描かれている未知の領域はその他所性だけに価値を持つような存在ではなく、より多面的な存
在であることを見いだすことになるだろう。この章では、それらの領域のもう一つの側面につ
いて詳しく見ていこう。
0ノのオルフェは、夜という領域について次のように述べている。
オルフェ:[…コ僕には夜が残っている。そして他の者たちの夜じゃない1 僕の夜だ16。
ここでは、未知の領域である夜が、ma nuit(僕の夜)、つまりオルフェ自身の夜であることが
強調されている。これと同様のことは02のプリンセスについても言える。プリンセスはただの
死ではなく、オルフェの死であり、セジェストやユーリディスたちの死でもある。というのも、
セジェストやユーリディスはその死後、プリンセスのことをmamort(私の死)と呼んでおり、
また、オルフェがプリンセスに出会う三度目の場面で、プリンセスはナレーションによって1a
mort d’un poさte(詩人[オルフェ]の死)と述べられている。また、まえがきで、コクトーは
彼女について次のように説明している。
プリンセスは死を象徴してはいない。なぜならばこの映画に象徴はないからだ。スチュワ
ーデスが天使ではないのと同じょうに彼女は死ではない。彼女は手ルヲ土あ売であり、そ
160ノ,p.391、
12
れは彼女がやがてセジェストの死やユーリディスの死となるの一と同じことである。彼女は
数えきれない程いる死の役人のひとりなのだ。私たちはそれぞれ自分の死を持っており、
誕生以来それに見張られているのだ17。
「私たちはそれぞれ自分の死を持っており、誕生以来それに見張られている」という死生観は
大変興味深いものであり、そのことについては第三部で詳しく触れることになるが、ここで注
目すべきはプリンセスが死そのものを具現化した存在ではなく、オルフェたち固有の死である
ことがわざわざ強調されているという点である。
0ノでも02でも、詩の根源である領域は詩人自身の領域であることが強調されている。こう
した強調は、私たちが既に見た、『詩人の血』のあとがきにおけるコクトー自身の記述の中にも
見られると言えるだろう。彼はそこでenmoi−mεme(私自身の内部へ)と降りていくことが重
要であり、また詩的状態とはene11eS(彼ら[人々]の中で)生じるものであるとも述べている。
これらのことからわかるように、コクトーにおいて重要となるのは詩の根源となる領域が現
実の外部にある未知な存在であるとともに、それが詩人自身の内部にあるということなのであ
る18。
それゆえ、コクトーは詩人の霊感を表すinspirationという言葉を使うとき、とても慎重にな
る。次の言葉は、コクトーが02のまえがきでオルフェについて述べたものである。
17《La Princesse ne symbo1ise pas1a mort puisque ce丘1m est sans symbo1es.E11e n’est pas p1us1a mort qu’une
h6tesse de1’air n’est un ange.E11e est屈〃〃后♂りψゐ6θ,comme e11e d6cidera d’εtre ce11e de C6geste et ceI1e
d’Eurydice.E11e est une des innombrab1es缶nctiomaires de1a mort.Chacun de nous possさde sa mort qui1e
survei11e depuis sa naissance1})02
18Laurence Scb脆mは02のオルフェの鏡の通過と『詩人の血』の「詩人」の鏡の通過の両者に共通するモチーフと
して、descentein愉ieure(内的な降下)を挙げている。Schifanoによれば、鏡の先にあるゾーンとは「内部空間と個
人的な神話の独創的な表象」であり、鏡を通過することは自己の中へと進みいくことである。
〔マラルメとは〕反対に、オルフェの鏡の不法侵入は、夢と記憶の中での危険な歩みを通じて、取り戻され再
統合された自我への帰路を彼に開く。
《 Ue附action du miroir par Orph6e1ui ouwe au contraire,主travers1a marche p6ri11euse dans1es songes et
1es souvenirs,1a voie d’un retour査un Moi reconquis et r6uni丘6.〉)L.Schifano,0ψゐ6θdθ0go加舳,At1ande,
2002,p.71.
コクトー作品における鏡の通過を考える上で、Schifanoの指摘はとても魅力的なものである。だが、テキストに書かれ
たことだけを視野に入れるならば、02のゾーンをオルフェ自身の「夢と記憶」の領域として捉えるSchifanoの解釈は
いささか不正確なものであると言えるだろう。ウルドビーズによれば、ゾーンとは「人間たちの記憶と彼らの習慣の廃
壇」からできた世界であり、その「人間たち」とは死者たちのことに他ならない。ゾーンはオルフェだけの世界ではな
いのである。詩人の内的領域への降下を強調するという点でSchifanoと私たちはとても近い立場にいるが、ゾーンの彼
の解釈に賛同することは私たちにはできない。私たちにとってゾーンとは、コクトー自身が述べているように、生と死
の世界の中間地帯に他ならない。
ゾーンはいかなる教義とも関係がない。それは生のはっきりしない境目である。生と死の間の中間地域。そこ
では、人々は完全に死んでもいないし、完全に生きてもいない。
《 La Zone n’a rien主voir avec aucun dogme.C’est une frange de1a vie.Un no man’s1and entre1a vie et1e
mort.On n’y est ni tout査fait mort,ni tout倉fait vivant.})02
詩人が内面へと視線を向けることを強調するために、ゾーンを持ち出し、それを曲解する必要はない。オルフェが自分
自身の死であるプリンセスに詩人として惹かれているという事実だけで私たちには十分である。
13
インスピレーションのテーマ。inspirationではなくexpirationと言うべきだろう。私たち
がインスピレーションと呼ぶものは私走ちホら、.私走もあ凌永ら辛らそ乗るのであり、外
から、神と称されるもうひとつの夜から来るのではない。オルフェが彼自身のメッセージ
を放棄し外部からのメッセージを受け取ることを許したときにこそ、全てが悪化するので
ある。オルフェをだまし、セジェストによって送られたメッセージはセジェストからやっ
て来たものであり彼岸から来たものではない〔傍点部筆者〕19。
inspirerという動詞は、「の中へ」を意味する接頭辞in一と、「呼吸、霊魂」を意味する語基一spir一
からなる。つまりinspirerという語は外側から内側へ吹き込む動作を表しており、霊感を意味
するinspirationという単語は外から与えられたものというニュアンスを持つ。こうしたニュア
ンスをコクトーは否定する。彼にとって、詩は外から与えられるものではなくて、詩人白身の
内部から産み出されるものでなくてはならない。だからコクトーはinspirationという単語を否
定し、expiration、つまり内側から外側へ息を吹き出すことを意味する単語を選ぶ。expiration、
つまり詩人の内部に存在する未知なる領域から吐き出された言葉こそが、コクトーの理想とす
る詩なのである。
2)オルフェの過ち
オルフェが詩を見いだしたカーラジオのメッセージは、実はそれらがセジェストによって作
られた作品であることからもわかるように、詩人の外部からやってきたもの、つまりinspiration
である。オルフェは意図的にセジェストの作品を盗作したわけではないが、しかしどこから来
るのかもわからないラジオのメッセージに詩を見いだした時点で、彼は詩人が本来頼るべき
expirationを裏切ってしまっているのである。前の引用個所においてコクトーは、そうした
expirationに対する裏切りによってオルフェは破滅へと向かうと述べている。事実オルフェは、
彼あ作り出した詩がセジェストのものであることに気づき怒り狂った前衛詩人たちの襲撃にあ
い、そして死ぬ。いわば、彼の死は彼が犯した詩人としての過ちによって引き起こされている
のである。
上で見たinspirationとexpirationをめぐる同様の記述をコクトーは1922年に出版された評
論『職業の秘密』の中で既に行っている20.0ノを書いている時点で、詩人のinspirationと
expirationをめぐる考察はコクトーの念頭にあったのであり、私たちが02のオルフェで行った
19《Le thさme de1’inspiration.On ne devrait pas dire inspiration mais expiration.Ce qu’on nomme1’inspiration
vient de nous,de notre nuit et non du dehors,d’une autre nuiもsoi−disant divine.C’est1orsqu’Orph6e reI1ohce主son
propre message et a㏄epte de recevoir des messages de1’ext6rie叫que tout se g飢e.Les messages qui1e dupent et
envoy6s par C6geste sortent de C6geste et non de1’au・de1主.}}北ゴ♂
20「もはやinspirationが問題となっているのではないのだからなおのことだ。inspirationとはexpirationなのだろう。
多かれ少なかれ、それは電流の流量であり、また大量の放電なのだ。」
{くSurtout qu’i1ne s’agit p1us de1’inspirationI L’inspiration sera expiration,1e p1us ou moins de d6bit du courant
61ectrique,1a plus ou moins grosse d6charge.》朋p.52.
14
のと同様に、expirationという観点からαのオルフェを眺めてみることも妥当だろう。つまり、
馬の言葉に詩を見いだしたαのオルフェもまた、詩人のexpirationを裏切っているのである。
そして彼もまた、このexpirationへの裏切りによって作り出した詩がきっかけとなってバッカ
スの女たちに襲われ死ぬ。
私たちは内在的な未知の領域について考察を進めるうちに、オルフェたちが犯しているある
過ちにたどり着いた。こうして問題は詩人が求める未知の世界のあり方から、未知の世界を前
にしたときの詩人の姿勢へと移り変わっていく。ところで、詩人の姿勢を見るにあたって、一
つ強調しておかなくてはならないことがある。たしかに、expirationという観点から見たら、
馬やラジオに頼ったオルフェたちの行為は過ちであると言える。だが、馬やラジオに限らず、
コクトー作品の主人公たちは未知の世界に至るためにしばしば他者の力を借りているという事
実を見過ごすことはできない。例えば、オルフェや「詩人」たちの鏡の通過は、ウルドビーズ
や彫像の手助けや指示によって初めて可能となる。また、第三部で詳しく見ていくことになる
が、0ノでも02でも、オルフェたちは物語の結末部において愛する女性たちによって新たな世
界に導かれている。未知を前にした詩人たちの姿勢について考えるにあたって、詩人たちと彼
の近くにいる人々の関係を見過ごすことはできないと言えるだろう。続く第二部では、02のオ
ルフェとプリンセスの関係の考察を通じてこのことについて詳しく見ていこう。
15
第二部 服従と不服従
第一章 オルフェの服従
1)反抗としての創作
詩人は未知なる世界に詩を見いだそうとする。ところで、なぜ彼は未知の世界に惹かれるの
だろうか。そして、そもそもなぜ詩人は詩を作ろうとするのだろうか。
未知へと向かう詩人の姿は、一見すると現実からの逃避を意味しているように思われるかも
しれない。詩人が現実の世界よりも知られざる世界に価値を感じているのは確かであり、あた
りまえのことだが、彼には未知に向かうために一度現実から離れる必要があるのも事実である。
しかし、はたして詩人の現実からの離脱は単に逃避を意味しているのだろうか。メルシオール
=ホネの言葉に従うならば、「最終的には幻想や想像の側で、つまり現実の重みと罪悪感の圧迫
とが取り除かれた世界で生きたい、という魅惑的な希望」21を持って、オルフェは現実から離れ
ていくのだろうか。αのオルフェは詩の創作に関して次のように述べている。
オルフェ:爆弾を投げる必要があるんだ。スキャンダルを作り出さなくてはいけない。空
気を一新させるこれらの嵐が一つ必要なんだ。みんな息を詰まらせている。も
はや息をすることができないんだ22。
この台詞からわかるように、オルフェの目は未知なるものにだけ向けられているわけではない。・
創作において彼は未知の世界だけではなく、現実をも意識しているのである。もちろん、未知
と現実に対する彼の意識は全く別物である。彼は現実に魅力を見いだすことはない。しかし、
彼はつまらない現実から魅力的な未知へ逃げ込もうとしているのではない。彼は詩を作り出す
ことで、新鮮な空気を現実に吹きかけ、それを蘇らせようと試みているのである。
詩人にとって問題となるのは、現実から逃げ出すことではなく、現実の貧しさを乗り越え、
その可能性を広げることにある。映画『オルフェの遺言』(1960年公開)においても、・こうした
詩人の姿は現れている。この物語の主人公である「詩人」は、創作行為をdomer1’apparencede
1ar6a1it6主I’irr6eI(非現実に現実の外観を与えること)と述べ、非現実について。equid6borde
nos pauvres1imites(私たちのあわれな限界を越えるもの)と説明している。オルフェと「詩
人」の言葉はほぼ同一のものであると言えるだろう。彼らの目には、現実の世界は限界によっ
て閉塞された貧しいものとして写っており、彼らの希望は、現実を超えた未知の世界、非現実
21サビーヌ・メルシオール=ホネ『鏡の文化史』前掲、281頁。
220rph6e:I1faut jeter une bombe.I1faut obtenir un scanda1e.I1faut un de ces orages qui rafraichissent1’air.0n
6touffe.0n ne respire p1us.
0ノ,p.392.
16
の世界にある。彼らはその世界で見たものに言葉によって形を与えようとする。詩人によって
形を与えられることで、非現実の存在は現実の世界において存在することが可能となり、詩人
でない人々にとっても可視的なものへと変化し、その新しさは人々に衝撃を与える。詩は人々
の世界に対する認識を破壊し、一変させる爆弾なのである。
詩という爆弾を作り上げ、現実の壁を破壊しようとしている詩人の行為を逃避などと形容す
ることがはたしてできるだろうか。こうした彼の姿を見てもなおメルシオール=ホネのように、
彼が「幻想や想像の側で、つまり現実の重みと罪悪感の圧迫とが取り除かれた世界で」生きる
ことを望んでいると主張することは可能だろうか。少なくとも私たちにはできない。それでは、
こうした詩人の姿勢を何と呼ぶべきであるだろうか。私たちはその言葉を、「詩人」の次の台詞
の中に見つけることができる。
詩人:おそらく、私が住んでいるこの世界に対する疲れと、習慣に対する恐れゆえに。ま
た、大胆さがそれによって諸規則に対抗する不服従と、反抗精神……人間固有の反抗
精神のうち最高の形である創造の精神ゆえにです23。
「詩人」は現実の諸規則や習慣に対して「疲れ」と「恐れ」を感じている。彼らは現実の壁を
乗り越えようと試みるが、それは現実から逃げ出すためではなく、偏狭な現実の壁を壊すため
の行為なのである。だから、創作行為とは現実からの「逃避」ではなく、現実への「不服従」
であり「反抗」であるのだ。
このように、コクトーにおいて詩人とは常に反抗する者でなければならないのである。詩人
の姿勢について考察するにあたって、私たちはまずこのことを確認しておかなくてはならない。
2)追い求めひざまずくオルフェ
詩人の創作は現実に対する反抗から始まる。それでは、現実の壁を乗り越えて未知を見いだ
したとき、詩人が次にとるべき姿勢とはどのようなものなのだろうか。つまり、現実に対して
不服従の態度をとらなくてはならない詩人は、未知の領域を前にしたとき何をするべきなのだ
ろうか。そのことを考えるにあたって、私たちはまず02のオルフェとプリンセスの関係の考察
からはじめてみよう。
「さあ、そんなところで石みたいに突っ立てないで!」、これはプリンセスがオルフェに対し
て初めて言った台詞である。初めての出会いにも関わらず、オルフェはプリンセスからいきな
り命令されている。つまり、出会いの場面において既に、プリンセスとオルフェの力関係は一
・3Le Poさte:Sans doute par fatigue du monde quej’habite et par horreur des habitudes.Aussi par cette
d6sob6issance que1’audace oppose aux rさgIes et par cet esprit de cr6ation qui est1a pIus haute缶rme
de1’esprit de contradiction...propre aux humains。
クソフCし,p.1344.
17
方的なものとして定められているのである。試しに、出会いからプリンセスの館に着く場面ま
での間(0名pp.10−14)における、オルフェに対するプリンセスの言葉を並べてみよう。
「そう、あなた! あなたよ! 手を貸してください」「証人になってほしいの。乗ってr
早く乗って」「ハンカチを渡してください」「無駄なことは言わないで……」「私がこの子を
病院に連れて行くとでも思っていたの……」「さわらないで!」「いつになったらあなたは、
ご自分に関係のあることだけに専念してくださるの? いつになったら他人のことに手を
出すのをやめてくださるの?」「静かにしてくれません?」「力づくにでも黙らせなきゃだ
めなのかしら?」「あなたは馬鹿なのかしら? お願いですから、もう質商しないでくださ
い」
く〈0ui,vous!Vous!Rend−ez−vous utiIe.〉〉くくJ’ai besoin d−e votre t6moignage.Montez!
Mlontez vite.〉〉〈〈Passez−moi votre mouchoiU〉く〈Ne dites donc「
垂≠刀@d−e choses inutiIes...〉〉
く〈Vous n’imaginez pas que je vais conduire㏄t enfant主1’h6pitaI...〉〉〈くNe Ie touchez
pas!》({Quand vous occuperez−vous de ce qui vous regarde?Quand cesserez−vous de
vous o㏄uper des affaires d−es autres?1〉〈〈Vous tairez−vous?〉1〈・Faudra−t−i1que je vous
ob1ige主vous七aire?》ll Seriez−vous bεte?Je vous prie d−e ne p}us me poser de
queStiOnS.〉〉
このように、彼らの一度目の出会いの場面において、プリンセスは終始命令する人物として描
かれている。彼らの間において、主導権は常にプリンセスにあるのである。
こうしたプリンセスの一方的な態度は、彼らの二回目の出会いにおいても変わらない。既に
第一部でこのことについては軽く触れていたが、警視から出頭要請を受けて家を出たオルフェ
は、その道中でプリンセスの姿を見かける。一度目の出会い以降、彼女のことが気になってい
たオルフェは彼女に話しかけようとするが、彼女は彼に目も留めず、早足でどこかに向かって
しまい、結局彼は彼女を見失ってしまう。この時、プリンセスがオルフェの前に意図的に姿を
現したのか、それとも彼の存在に全く気がついていなかったのかは定かではない。いずれにせ
よ、この場面において彼らの立場が対等なものとして描かれていないのは明らかであろう。オ
ルフェは追い求める人物であり、プリンセスは追い求められる人物なのである。
プリンセスの高圧的な態度は、三回目の出会いの場面において軟化する。判事たちによって
尋問される彼女はオルフェを愛していることを彼の前で告白する。その後、彼らは別室で二人
きりになり、互いの愛を確かめ合う。しかし、その時の彼らの会話を見てみると、彼らが対等
な立場に立ってはいないことに容易に気がつくだろう。
18
オルフェ
君は全能だ。
プリンセス: あなたから見たらね。私たちの所には若者や年寄りの外見をした数えきれな
いほどの死がいて、彼らは命令を受けているのよ・・…
オルフェ
じゃあ、もし君がそれらの命令に背いたらどうなるんだい? 彼らには君を
殺すことはできないだろう…… 殺すのは君だから……
プリンセス: もっと悪いことが彼らにはできるのよ……
オルフェ
どこから命令は伝えられるんだい?
プリンセス: たくさんの見張り番だちがそれを互いに伝え合っているの。それらはあなた
たちの世界ではアフリカの部族の太鼓だったり、やまびこだったり、森の葉を
ざわめかせる風だったりするわ。
オルフェ
そんな命令をする奴のところまで行ってやるさ。
プリンセス: 愛しい人・…・・、彼はどこにも住んでいないわ。ある者たちは彼が私たちのこ
とを考えていると信じ、別の者たちは彼が私たちに思いを巡らせていると信じ
ている。彼が眠っていて私たちは彼の夢、彼のいやな夢なのだと信じている者
たちもいる。
オルフェ
僕たちは自由にされたんだから、僕はもう君を離さない。
プリンセス: 自由ですって?[…]
オルフェ
もう君と別れたくない。
プリンセス: あなたと別れることになるでしょう。でもまた一緒になる方法を見つけてみ
せるとあなたに誓います。
オルフェ
「永遠に」と言ってくれ。
プリンセス: 永遠に。
オルフェ
誓ってくれ。
プリンセス: 誓うわ。
オルフェ
だが、今は……今は……?[…]
プリンセス: 今は……彼らの警察がいるわ。
オルフェ
奇跡が起こるさ……
プリンセス: 奇跡はあなたたちの世界でしか起こらない。
オルフェ
みんな愛によって感動する。
プリンセス: 私たちの世界では、誰も感動なんかしないわ。みんな裁判から裁判へと向か
う24。
240rph6e ‘ :Tu es toute・Puissante.
La Princesse:Avos yeux.Chez nous,i1y a des丘gures innombrab1es de1a mort,des jeunes,des viei11es qui
工egoiventdesordres...
19
これらの会話は、オルフェがまずプリンセスに意見や質問を述べ、プリンセスがそれに応じる
という形式から成り立っている。第一と第二の出会いにおいてオルフェに応答することのなか
ったプリンセスが、この第三の出会いでオルフェの呼びかけに初めて応じるようになる。しか
し、あくまでもプリンセスは応える側の人間にとどまり、自分から発言しようとは決してしな
い。依然として、オルフェが追い求める側であり、プリンセスは追い求められる側なのであり、
主導権はプリンセスが握っているのである。それを象徴するかのように、この会話を始める直
前、プリンセスはソファーに座り込みオルフェは彼女の前にひざまずいている。
四回目の出会いの場面において、彼らの立場はよりフラットなものとして描かれている。ゾ
ーンでオルフェがくるのをセジェストと共に待っていたプリンセスは、彼が姿を現すと彼のも
とへととびだし、「私を強く抱きしめて、オルフェ。強く抱きしめて……」と述べる。
まず、ここで注目すべきは、オルフェを待つプリンセスの姿が初めて画面に映されていると
いうことである。それまでの出会いの場面において、後から姿を現すのは常にプリンセスであ
った。第一の出会いの場面では、カフェでオルフェが前衛詩人たちを見物していたところに、
プリンセスを乗せた車が突然現れ、車の中から彼女が降りてくる。第二の出会いにおいても、
プリンセスは警視のもとに向かっていたオルフェの前に不意に姿を現す。第三の出会いでも後
から現れているのはプリンセスである。ゾーンを通過したオルフェたちは、裁判が行われてい
る部屋に到着する。そのとき行われていたセジェストの尋問が終わり、彼か退出すると、判事
たちは次にプリンセスを部屋の中に連れてこさせ、彼女がオルフェの前に登場する。このよう
に、それまでの三度の出会いの場面は全てオルフェの視点から描かれている。彼らの出会いは、
オルフェの眼前にプリンセスが現れることで成り立っているのであり、彼らが出会うことがで
0rph6e :Et si tu d6sob6issais註。es ordres?I1s ne peuvent pas te tuer...C’est toi qui tues、..
、La Princesse:Ce qu’i1s peuvent es七pire...
Orph6e :D’o白viennent ces ordres?
La Princesse:Tant de sentine11es se1es transme七tent que c’est1e tam−tam de vos tribus d’AErique,1’6cho de vos
montagnes,1e vent des feui11es de vos for6ts.
0rph6e :J’irai jusqu’主。e1ui qui donne ces ordres.
La Princesse:Mon pauvre amour...I1n’habitenu11e part.Les ms croient qu’i1pense主nous,d’autres qu’i1nous
pense.D’autres qu’i1dort et que nous sommes son r6ve...son mauvais r6ve.
0rph6e :Je t’arracherai d’ici puisqu’on nous1aisse1ibres.
La Princesse:Libres?[...]
0rph6e :Je ne veux p1us te quitter
La Princesse:Je vais te quitter mais je te jure que je trouverai1e moyen de nous r6unir...
0rph6e :Dis:pour toujours.
ra Princesse:Pour toujours.
0rpf6e :Jere−1e...
La Princesse:Je1e jure.
0rph6e :1Mlais maintenant...maintenant?...[..。]
La Princesse:Maintenant...i1y a Ieur po1ice.
0rph6e :I1arrivera un mirac1e、..
La Princesse:Les mirac1es ne se produisent que chez vous...
0rph6e :Tous1es mondes sont6mus par1’amour.
La Princesse:Dans notre monde,on n’6meut persome.0n va de tribunaI en tribuna1...
0名pp.82−84.
20
きるかどうかはオルフェのいる場所に後からやってくるプリンセスの意志次第であると言って
も過言ではないだろう。いわば、これらの場面においてオルフェは待つ側の人間なのである。
ところが、今見ている第四の出会いの場面で待っているのは明らかにプリンセスである。こ
こにきて、彼らの出会いは初めてプリンセスの視点から描かれているようになり、出会いの直
前のプリンセスの心情が「独り言」という形で私たちに始めて伝えられる。
プリンセス:セジェスト……
セジェスト:マダム……?
プリンセス:時間という概念をこれほどまでに感じたのは初めてよ。人間たちにとって、
待つということは恐ろしいことなのでしょうね……
セジェスト:私はもう覚えていません。
プリンセス:たいくつ?
セジェスト:なんのことですか?……(沈黙)
プリンセス:ごめんなさい、独り言よ25。
’これまではオルフェを翻弄し彼をじらすばかりだったプリンセスが、ここではオルフェの到着
を待ちわびその不安な気持ちを吐露している。待たせる側として描かれていたプリンセスが、
一転して待つ側として描かれているのであり、この立場の交換は主導権の移譲であるとも言え
るだろう。
この場面において注目すべきもう一つの点は、プリンセスがオルフェに対して自分の意志を
積極的に示しているということである。第三の出会いを見た際に述べたように、オルフェとプ
リンセスの関係において、彼女は呼びかけられる側の人物であった。懇願するのはオルフェで
あり、彼女はそれに対して禁止、無視、応答などの反応を示すばかりだった。ところが、この
場面でプリンセスはオルフェに対して、「私を強く抱きしめて、オルフェ。強く抱きしめて・一・」
という強い意志を自ら示している。画面上に映される互いに向かい合う彼らの姿が示すように、
彼らの立場は対等なものとなったのである。 ・ /
しかし、こうした第四の出会いにおける立場の変化は一時的なものにすぎず、彼らの関係を
決定的に変えるまでには至っていないという点を見過ごしてはならない。というのも、抱擁し
25La Princesse:C6geste...
C6geste :Madame?...
La Princesse :C’est1a premiさre fois que j’ai presque1a notion du temps.Ce doit6tre affreux,pour1es hommes,
d,attendre.、.
C6geste :Je ne me1e rapPe11e p1us.
La Princesse :Vous vous ennuyez?...
C6geste :Qu’est・ce que c’est?、..刮7θ棚。a
La Princesse:Excusez・moi,je me par1ais主moi−mεme.
ノろゴ♂,P.エ06.
21
合った後、プリンセスはオルフェに「私の言うことを聞いてくれる?」と尋ね、次のように述
べている。
プリンセス:あなたを愛しているわ。私の言うことを聞いてくれる?
オルフェ 君の言うことを聞くよ。
プリンセス:何を要求しようとも?
オルフェ 何を要求されても。
プリンセス:たとえ不本意なことをあなたに強制しても? たとえあなたをひどく苦しめ
ようとも?
オルフェ 僕は君のものだ。そして。もう君から離れない。
プリンセス:永遠にね。[…]26
対等な立場に立ったかのように見えた彼らの関係はすぐさま元に戻り、主導権はプリンセスに
あることが再び明らかとなる。オルフェはプリンセスに「何を要求されても」従うと言い、自
分はプリンセスの所有物であると宣言する。その後、プリンセスとウルドビーズたちはオルフ
ェをユーリディスの待つ地上に帰す作業を、彼にはその意図を伝えず半ば強制的に行う。ウル
ドビーズはオルフェを廃塘の壁の側に連れていき、「銃殺される者たち」のように立たせ、彼の
目と口を手で塞ぎ、動かないようにさせる。オルフェはあらがおうとするが、プリンセスの「オ
ルフェ、動かないで! じっとしていて! 約束したでしょ」という台詞を聞くと彼女に従い
おとなしくなり、プリンセスたちは作業を再開し彼を地上に戻す。このように、最後の最後で
オルフェとプリンセスの従う者と従わせる者という関係が再び明らかになり、そのまま物語は
終わるのである。
これら四つの場面を見て明らかなように、プリンセスを前にしてオルフェが主導権を持つこ
とはほとんどない。ほとんどの場合、プリンセスは彼より上位に存在しており、時には彼に発
言を禁じ、時には彼に命令し、時には彼を無視し、時には彼の呼びかけに応答する。こうした
高圧的ともきまぐれとも言えるプリンセスの性格が、彼女の女性としての魅力の一つであるこ
とは否定し得ないだろう。しかし、オルフェとプリンセスのこうした関係を考える際、彼にと
って彼女は単に魅力的な女性であるだけではなく、彼自身の死、すなわち詩人として彼が追い
求めるべき未知の世界を具現化した存在であることを私たちは念頭に置いておかなければなら
26La Princesse:Je t’aime.Tu m’ob6iras?
0rph6e :Je t’ob6irai.
La Princesse:Quoi que je te demande?
0rph6e :QuOi que tu me demandes・
La Princesse:1M6me sije te condamnais,si je te torturais?
Orph6e :Je t’apPartiens et j ne te quitterai p1us.
La Princesse:P1us jamais.[...]
ノろゴ♂,pp.108−109.
22
ない。
詩人としてのオルフェの新たな試みは、くくJe traque1’incomu(この未知のものを追いつめ
てやる)。〉という彼の勇ましい宣言と共に開始する27.traquerという動詞が示すように、この
時オルフェは狩人なのであり、彼の目的は未知という獲物を追い回し、追いつめ、撃ち殺し、
自分の手中におさめることにある。しかし、プリンセスと出会うや否や、勇ましい狩人として
の彼の姿は消えてしまう。そのかわりに私たちが目にするのは、獲物であるはずのプリンセス
に翻弄され、彼女に命令され、彼女の前にひざまずき、最後には自分が彼女の所有物であるこ
とを告げる彼の姿である。現実に対する終わりなき反抗を掲げる詩人がいざ未知を前にしたと
き、彼に行うことができるのは服従の姿勢を示し、その言葉を命令として受け取ることだけな
のである。
3)知ろうとしすぎること
プリンセスの命令が続く第一の出会いの場面において、山荘に彼らがついた際の、llVous
cherchez敏。p註。omprendrecequisepasse,cherMonsie岨C’estungraved6faut(ムッシュ
ー、あなたは起きたことを理解しようとしすぎる。それは重大な欠点よ)1♪という彼女の発言は
注目すべきものである。というのも、オルフェはその後の場面でもこれとほぼ同じことを別の
人物から言われている。オルフェがウルドビーズと共に始めて死者の国に向かう道中で、質問
を繰り返すオルフェにウルドビーズは、・Pourquoi...㎜oujourspourquoi.Nemeposezp1usde
queStionS(なぜ…… いつもなぜ。もう私に質問しないでください)》と発言する。
オルフェにこれらの発言をするプリンセスとウルドビーズ、彼らが両者とも死者の世界、つ
まり未知の領域に属する人物たちであることを忘れてはならない。オルフェは未知の人物たち
に質問を繰り返す。ここはどこなのか、彼らは何をしようとしているのか、私に何をさせよう
としているのか等々。しかし、彼はその都度答められる。未知の世界は詩人に質問を繰り返す
ことを禁じるのである。
こうした質問の繰り返しを答められる詩人の姿は、02に限って見られるものではない。ここ
ではその一例として、『オルフェの遺言』を取り上げることにしよう。作者コクトー自身によっ
て演じられる主人公「詩人」は、作品の始まりの方で次のように述べている。
詩人:[…]私は詳しく知ろうとしすぎました。大変軽はずみなことを犯してしまいました。
27オルフェ:まじめじゃないって? 僕の人生は風味がにじみ始め、成功と死のにおいが漂い始めてたんだ。こ一れらの
言葉のうち最も短いものでさえあらゆる僕の詩よりも驚くべきものであるということが君には分からな
いのかい。これらの言葉のうち一つのためでも僕の全作品を引さ換えに渡すだろう。この未知のものを追
いつめてやる。
0rph6e:Pas s6rieux?Mavie commengait主sa faisande巧註puer−1a r6ussite et1a mort.Ne comprends−tu pas que1a
moindre de ces pbrases est p1us6tonnante que tous mes poさmes.Je donneI・ais mon o∋uvre entiさre pour
une de ces petites phrases.Je七raque1’inconnu.
ノろゴa,pp.39−40、
23
その代償を払っているのです。私は時空の中で迷ってしまいました。あなたを探し求
めていたのです。たやすいことではありませんでした28。
この文では彼が何を知ろうとしたのかは示されていないが、今までの私たちの議論に従うなら
ば、それが未知の世界であることは想像に難くない。事実、後の裁判の場面で、「詩人」は「あ
なたの世界ではない世界へ不法にも侵入しようと欲した罪」と「純粋さという罪」を宣告され
ている。ここで注目すべきことは、「詩人」が異世界への侵入とぞρ理解を幾度も望んだ人物と
して描かれているという点と、彼のその行為が「軽はずみなこと」であり、罪として宣告され
ているという点である。
『オルフェの遺言』において、vouIoirsavoir trop(知ろうとしすぎること)は「詩人」の特
徴的な性格の一つであるとともに責められるべき行為であり、02で使われていた言葉を持ち出
すならば、彼の「重大な欠点」なのである。なお、この「重大な欠点」という言い回しは『オ
ルフェの遺言』においても、02からの引用という形で用いられている。物語の前半で「詩人」
はジプシーから、02の登場人物であるセジェストの破れた写真を渡される。その後、海岸に到
着した「詩人」がその写真を海へ投じると、突如セジェストが海の中から姿を現す。「詩人」が
セジェストに問いかけると、彼は次のように応える。
セジェスト:なぜ。いつもなぜ。あなたは理解しようとしすぎる。それは重大な欠点です。
詩人 :以前そのフレーズを聞いたことがある。
セジェスト:あなたがそれを書いたのです。[…]29
セジェストの最初の台詞は、私たちが既に引用したプリンセスとウルドビーズの台詞を組み合
わせたものに他ならない。つまりこの箇所では、史実において02の作者であるコクトーが演じ
る「詩人」が、02の作者として02の登場人物であるセジェストと出会い、02に関して言及
し合うというとても興味深い現象が生じているのだが、私たちにとって今問題となっているの
は『オルフェの遺言』という作品の持つメタ性ではない。繰り返しになるが、ここで注目すべ
きは、創造者である「詩人」が問い続ける人物として描かれているということと、同時にそれ
が彼の欠点として指摘されているという事実である。
vou1oirtrop savoir(知ろうとしすぎること)、cherchertrop査。omprendre(理解しようとし
28Le Poさte:[...]J’ai vou1uとn savoir trop1ong.J’ai commis une grave imprudence.Je1a paye.Je me suis6gar6
dans1’espace−temps.J’6tais註votre recherche,non sans peine.
ZOC、,p.1336.
29C6geste:Pourquoi.Toujours pourquoi.Vous cherchez trop主。omprendre.C’est un grave d6faut.
Le Poさte:J’ai d6j主entendu cette phrase.
C6geste :Vous1’avez6crite.[...]
北九乙,p.1340.
24
すぎること)、これらはオルフェと「詩人」に共通した性格である。詩人にとって創作行為とは
現実に対する反抗であることを見た私たちにとって、彼ら詩人たちが「知ろうとしすぎる」者、
あるいは「理解しようとしすぎる」者として描かれていることは容易に頷けるだろう。改めて
確認すると、現実に対する詩人の反抗とは、未知の存在に言葉によって形を与え、それを現実
世界に投げつけることである。だから、詩人はまず未知を見いだす必要がある。オルフェたち
が馬やカーラジオのメッセージと出会ったことによって物語が動き出すように、詩人が未知の
存在を知ることによって、彼の創作活動は始まる。いわば未知を知ることは詩人にとっての第
一原則なのである。
私たちにとって問題となっているのは、こうした行為が詩人の「重大な欠点」として描かれ
ているということである。なぜ、未知を知ることを使命とする詩人たちは、未知そのものから
質問を禁じられるのだろうか。なぜ、知らなくてはならない彼らが、知ろうとし寺ぎそぽなら
ないのだろうか。こうした問いについて考えることは、私たちが前に見たオルフェとプリンセ
スの関係、つまり従う者と従わせる者という関係の考察と通じるものがあるだろう。すなわち、
現実に対する勇ましい反抗を掲げて出発した詩人が、なぜ未知を前にしたとき頭を垂れなくて
はならないのだろうか。
4)媒体としての詩人
詩人が立たされているこの板挟みの状況をより詳細に見ていくためには、詩人が追い求めて
いる未知の領域そのものに改めて目を向ける必要があるだろう。コクトーは評論『知られざる
者の日記』の中で、フロイトと彼白身を比較しながら、未知の領域について次のように述べて
いる。
私が話している夜と、フロイトが患者たちに降りていくように促している夜とを混同し
てはならない。フロイトは貧しいアパルトマンに押し入った。彼はそこからいくつかの平
凡な家具とエロティックな写真を持ち出した。彼が異常なものを超越したものとして神聖
視することは決してなかった。彼は偉大な無秩序に敬意を表さなかった。彼は厄介者たち
に告解場を提供したのだ。[…]
フロイトは理解しやすい。彼の言う地獄(煉獄)は大多数の者に釣り合ったものだ。私
たちの調査とは反対に、彼は見えるものしか探さない。
私が取り組んでいる夜は別物だ。それは財宝を秘めた洞窟だ。大胆さと魔法の言葉がそ
れを開く。開けるのは医者でもなければ、神経症でもない。もし財宝によって私たちが魔
法の言葉を忘れるならば、それは危険な洞窟となる30。
30くく I1ne血udrait pas con{bndre1a nuit dont je par1e e七。e11e oさFreud invitait ses ma1ades主descendre.Freud
25
コクトーはフロイトの夜、より一般的に言うならば無意識への接し方を非難している。フロイ
トは夜の豊かさをなしているその異常さを無視し、性という誰の目にもつきやすい観点にだけ
注目し夜を解釈しているとコクトーは述べる。上の引用と同じ文脈の中に書かれている、〈〈Le
simp1es’ybaptisecomp1exe(フロイトにおいては、単純なものがコンプレックスと名付けられ
ている〔ここで。omp1exeという言葉は、精神分析の用語を示すと同時に、「複雑なもの」を意
味している〕)〉〉という皮肉の言葉が示すように、夢の解釈による夜の単純化をコクトーは拒否
している。詩人にとって未知の領域とは「超越したもの」であり、「神聖視」すべきものであり、
解釈して一 P純化してよいものではない。詩人はそうした洞窟に「押し入り」そこに秘められた
財宝を「平凡な家具」に変えて持ち出すのではなく、その豊かさを尊重し、それに「敬意」を
示さなくてはならないのである。
注意すべきことは、未知の洞窟の中へと向かいそこを調べること自体は詩人にも許されてい
るという点である。詩人の目的はそこにある財宝なのだから、危険な洞窟に「大胆」にも足を
運び、そこを「調査」する必要が彼にはある。しかし、その「調査上が度をすぎて「解釈」と
なってしまってはいけない。患者の治療を使命とする医者であれば、解釈することは責められ
るべき行為とはならないだろが、しかし詩人は医者ではない。
それでは、詩人はどのような存在として未知と接するのか。『知られざる者の日記』で、コク
トーは次のように述べている。
これ〔詩人は詩を作り出すのか、それとも聖職者として命令を受け取るのかという間い〕
はインスピレーションに関する使い古された決まり文句である。inspiration(霊感)は
expiration(息を吐き出すこと)にすぎない。なぜならば、詩人が命令を受け取るというの
は真実であるが、しかし、数世紀を通じて彼の人格の内部に積み重ねられた夜からそれら
の命令を受け取るのだから。彼はそこに降りていくことができない。夜が光に向かってい
こうと欲するのであり、詩人は夜のみすぼらしい媒体にすぎない。
詩人は、この媒体を彼に要求された奇妙な仕事に適したものにするためにも、たえずそ
れを手入れし、洗い、オイリングし、見届け、制御しなくてはならない。私が独自の道徳
と呼ぶものは、この媒体を制御することなのだ(それをまどろませては決してならない)[…コ
31。
cambrio1ait de pauwes appartements.I1en d6m6nageait que1ques meub1es m6diocres et des photographies
6rotiques,I1ne consacrajamais1’anorma1en tant que transcendance.I1ne sa1ua pas1es grands d6sordres.I1
procurait un confessionna1aux f註。heux.[...]
Freud est d’a㏄さs faci1e,Son enfer(son purgatoire)est註1a mesure du grand nombre.A1’encontre de notre6tude,
i1ne recherche que1a visibi1it6.
La nuit dcnt je m’o㏄upe est di価6rente.E11e est une grotte aux tr6sors.Une audace1’ouvre et un86鯛伽θ.Non
pas un docteur ni une n6vrose.Grotte dangereuse si1es tr6sors nous font oub1ier1e S6same.〉〉刀pp.42−43.
31くく C’est1a−viei11e rengaine de1’inspiration,qui n’est qu’expiration,Puisqu’i1es七vrai que1e poさte reCoit des
26
フロイトが無意識の観察者であるのに対し、詩人は夜の命令の伝達者にすぎない。詩人の務め
は夜を暴くことではなく、夜の媒体であやことなのである。「媒体」と訳したv6hicu1eという単
語はラテン語のvehicu1um(運搬手段)という単語からきており、車などの交通手段を意味す
る。コクトーにおいて、詩人は詩の運搬手段にすぎないのである。だから、詩人は媒体である
ことを自覚し、媒体としての技術を磨き続けなくてはならない。それが詩人というSaCerdoCe(聖
職)に就く者にとっての道徳的な義務なのである。
私たちが見てきたオルフェと「詩人」の板挟み的な状況、これは『知られざる者の日記』で
描かれている媒体とレての詩人の姿そのものであると言えるだろう。知ろうとし寺ぎること、
彼らにとって問題となっているのはバランスをとることなのである。現実への反抗心がいきす
ぎ、未知への不服従を忘れないように気をつけること、未知への探究心が度をすぎ、それを知
ろうとしすぎてしまわないように注意を払うこと、つまりほどよい反抗心と探究心を保つこと
を媒体である詩人たちは求められているのである。
第三部で詳しく見ていくことになるが、私たちが取り上げている作品は全て、詩人たちが媒
体として均衡を保つ過程の物語であるとも言える。ここではその一例として、『知られざる者の
日記』の「詩の誕生」という章に描かれている詩人が媒体としてのバランスを保つまでの過程
を見ておこう。コクトーはそこで詩篇『天使ウルドビーズ』(1925年)の創作について記述しよ
うとするが、彼の回想は順調には進まない。
私の詩の一つである『天使ウルドビーズ』は、意識と無意識、可視と不可視の諸関係を描
くのに適していると思えたので、その誕生について検討しようと決心したのだが、それを
書くことができないということに私は気づいた。傷ついた細胞のように、語は枯渇し、押
し合い、もつれ合い、寄り集まり、反逆していた。私のペンの下でそれらは、ぴったりと
はまりこみ、一つの文を成すのを妨げるような配置をとっていた。こうした事態を、自分
の夜に対抗させようとしているまがい物の洞察力あせいにしながら、私は意固地になった。
とうとう私は、白々は決して自由にはなれないか、あるいは年月によって私の媒体が錆つ
いてしまったと思い込むまでになった。もし後者の場合ならば、より悪いことになっただ
ろう。なぜならば、自由であるにしろ不自由であるにしろ、いかなる仕事であれその達成
を望むことができないということを私は理解していたからである。私は消し、引き裂き、
再び始めた。しかし、そのたびに同じ袋小路が現れた。毎度私は同じ障害物にぶつかって
。rdres,mais qu’i11es reCoit d’une nuit que1es siさ。1es accumu1ent en sa personne,o心i1ne peut descendre,qui veut
a11er註1a1umiさre,et dont i1n’est que1’humb1e v6hicu1e.
C’est ce v6hicu1e qu’i1・devra soigne4nettoyer,hui1er,surveiner,contr61er sans cesse,afin de1e rendre apte au
service6trange qu’on1ui demande.Et c’est1e contr61e de ce v6hicu1e(qui ne doi七jamais s’assoupir)quej’apPe11e
mora1e particuhさre[...]))北ゴ♂,P.22.
27
いたのである32。
この記述を遠い昔のことを思い出すことのできない男の嘆きと見なしてはならない。ここで描
かれているのは夜の絶対的な未知を前にした詩人の苦しむ姿なのである。ここで本当に問題と
なっているのは、彼の「洞察力」がまがい物であるかどうかでも、彼の「媒体」が錆ついてい
るかどうかでもない。彼のペンの動きを妨げているのは、「意固地」という彼の態度そのものな
のである。その態度を変えない限り、彼は6Cartさ1ement(八つ裂きの刑)さながらの苦痛を感
じ続ける。
途方に暮れていたコクトーは机におかれていた自著の『阿片』(1930年)を見つける。その中
に書かれた『天使ウルドビーズ』に関するエピソードをきっかけにして、彼は今自分が直面し
ている苦痛が、『天使ウルドビーズ』の創作時に感じたそれと同じものであることを思い出す。
今日、私はきわめて穏やかな沿岸で過ごしているために、あの時期の詳細と不名誉な徴
候を回想することは難しい。自分を保護してくれるものである、苦痛を忘れさせる能力を
私たちは持っている。ただし、深部の記憶は目覚めている。そのせいで、私たちは実行し
たばかりの行為よりも、子供時代の言動のほうをよく覚えているのである。この二重の記
憶を刺激することによって、詩人という私たちの聖職に従事していない人々には想像もつ
かないような状態に、私は再び身を置くに至った。そして、この聖職に対して完全な不服
従の態度をとり、自分は自由であると自負していた私は再び命令に従う。すると、私のペ
ンは走る。もはや何もそれを停滞させない33。
『天使ウルドビーズ』執筆時の記憶に触れたコクトーは、未知なるものを前にしたときに詩人
がとるべき態度を改めて見いだす。詩人に求められているのは夜の命令の媒体となることなの
である。未知に対する自由という幻影を捨て、服従の態度を取ることで、彼のペンは動き出す。
ところで、コクトーは媒体という状態を「詩人という私たちの聖職に従事していない人々に
は想像もつかないような状態」と称している。そこで、この想像もつかないような媒体という
32({Ayan七d6cid6de mettre主1’6tude1a naissance d’un de mes poさmesノル絆Hθ〃后θろ危θ,propre,me semb1ait−i1,主
d6peindre Ies rapPorts de1a conscience et de rinconscience,du visibIe et de rinvisib1e,je m’aperCus que je ne
pouvais pas6crire.Les mots se dess6chaient,se bouscu1aient,s’enchevεtraient,s’agg1om6raient,s’insurgeaient,主
1a maniさre de ce11u1es ma1ades.I1s affectaient sous ma p1ume des positions qui1es empεchaient de s’emboiter et de
faire une phrase.Je m’en胤ai,mettant ce1a sur1e compte de cette c1airvoyance factice que j’essaye d’opposer註ma
nuit,J’en arrivai註。ro並e que je ne serais jamais libre,ou que1’倉ge roui11e mon v6hicu1e,ce qui serait pire,Puisque
1ibre ou pas1ibre,je me voyais incapab1e de pr銚endre主n’importe que1travai1.J’e批aCai,d6chirai,recommengai.
Chaque的is se pr6sen七ait1a mεme impasse.Je butais chaque fois contre1e mεme obstac1e.1)乃批,pp.47−48.
33({ Aujourd’hui,sur une c6te si douce,j’ai peine主revivre1es d6tai1s de cette p6riode,et ses ignob1es sympt6mes.
Nous poss6dons une facu1t6d’oub1ier1e ma1qui est notre sauvegarde.Seu1e㎜ent notre m6moire profonde vei116,et
c’
?唐煤@pourquoi nous nous souvenons mieux d’un geste de notre en血nce que d’un acte que nous venons d’a㏄omp1ir
J’arrive,en excitant cette doub1e m6moire,査me remettre dans un6tat inconcevab1e pour ceux qui n’exercent pas
notre sacerdoce.Et soumoisement,moi qui me vantais d’εtre1ibre,en p1eine d6sob6issance envers ce sacerdoce,je
me retmuve aux ordres et ma p工u㎜e court.P1us rien ne1a para工yse.))乃〃,p.52、
28
状況がいかなるものなのかを明らかにするために、私たちは一度詩人から離れ、彼に服従の態
度をとらせる者へと、すなわち詩人に命令を与える者へと考察を進めなければならない。そこ
で次の章では、オルフェの服従の対象であるプリンセスについて詳しく見ていくことにしよう。
第二章
プリンセスの服従
1)役人のような死者たち
プリンセスについて考察するためには、まず彼女が所属する死者の世界がどのような世界な
のか理解する必要がある。そこで、改めてオルフェとプリンセスの三度目の出会いの場面の会
話を見てみよう。
オルフェ
君は全能だ。
プリンセス: あなたから見たらね。私たちの所には若者や年寄りの外見をした数えきれな
いほどの死がいて、彼らは命令を受けているのよ……
オルフェ
じゃあ、もし君がそれらの命令に背いたらどうなるんだい? 彼らには君を
殺すことはできないだろう…… 殺すのは君だから……
プリンセス: もっと悪いことが彼らにはできるのよ…・・
オルフェ
どこから命令は伝えられるんだい?
プリンセス: たくさんの見張り番だちがそれを互いに伝え合っているの。それらはあなた
たちの世界ではアフリカの部族の太鼓だったり、やまびこだったり、森の葉を
ざわめかせる風だったりするわ。
オルフェ
そんな命令をする奴のところまで行ってやるさ。
プリンセス: 愛しい人……、彼はどこにも住んでいないわ。ある者たちは彼が私たちのこ
とを考えていると信じ、別の者たちは彼が私たちに思いを巡らせていると信じ
ている。彼が眠っていて私たちは彼の夢、彼のいやな夢なのだと信じている者
たちもいる。
オルフェ
僕たちは自由にされたんだから、僕はもう君を離さない。
プリンセス: 自由ですって?
[…]
オルフェ
奇跡が起こるさ……
プリンセス: 奇跡はあなたたちの世界でしか起こらない。
オルフェ
みんな愛によって感動する。
29
プリンセス:私たちの世界では、誰も感動なんかしないわ。みんな裁判から裁判へと向か
う。
死者の世界の基本は命令である。死者の世界では全てが命令によって行われ、あらかじめ定め
られた通りに事が進まなければならない。このことは上の引用個所に限らず、02の様々な箇所
で示唆されている。例えば、プリンセスがユーリディスを死者の国に連れて行こうとして彼女
とウルドビーズが口論する場面で問題となっているのは、プリンセスに命令が与えられたかど
うかであり、その際ウルドビーズは{く0nn’6chappepas白1arさg1e(誰も規則から逃れることは
できない)・と発言している。また、後の裁判の場面で判事たちが問うているのも、彼女に命令
に反する行為をする意識があったかどうかである。事情があってユーリディスを連れてきたと
供述するプリンセスに対する、判事の「事情などありえませんよ。命令があるのです」という
反論はこの世界の本質を端的に表していると言えるだろう。
死者の世界に住む者たちは命令だけに則って行動しなくてはならない。彼らに要求されてい
るのは、作者の言葉を使うならば、fonctionnaire(役人)のように与えられた命令を完壁にこ
なし、彼らに命令を与えた一「どこにも住んでいない」者の計画を破綻させないことなのである。
だから、彼らに自分の意志や感情に従って行動する権利はない。彼らに自由はないのである。
象徴的なのは、作品の様々な場面で登場するオートバイ乗りたちの存在である。ヘルメット
とサングラスを身につけ真っ黒な衣装で身を包んだ彼らは、基本的にはプリンセスの部下とし
て登場するが、裁判の場面では判事たちの指示通りに動く使いであり、ラストシーンではプリ
ンセスとウルドビーズを連行する警官でもある。これらの場面において、彼らは皆無表情であ
り、言葉をほとんど発しない。彼らの言動からその心情を読み取ることはほとんどできないと
言えるだろう。意志や感情を隠し、与えられた仕事をこなすことに徹する彼らは、死者の世界
における模範生なのだろう。
2)生者の世界に魅了されるプリンセス
命令が絶対の死者の世界において、プリンセスは命令外の行動をとり罰せられる。そこで、
まず彼女が行った不正行為について詳しく見てみよう。作中、プリンセスは二度命令外の行動
をする。一つ目は、ユーリディスを無断で死者の国に連れてきたことである。プリンセスは生
者の世界から自分の部下にする青年を一人連れてくるという命令を受け、それに従いセジエス
トを殺し部下とするのであるが、彼女はその過程でオルフェに近づく。やがて彼女は、彼の妻
ユーリディスを死者にすることで厄介払いをし、彼を独占しようとする。彼女はこの行為によ
って裁判にかけられ、その結果仮釈放を認められる。二つ目の行動は、死んだオルフェとユー
リディスを不死にして地上に戻したことである。オルフェが前衛詩人たちの襲撃にあい死んだ
30
際、プリンセスはセジェストと共にゾーンでオルフェを待つ。再会を果たした後に、彼女はウ
ルドビーズに命令しオルフェを地上に戻そうとする。彼女たちの行為が終わるや否やオートバ
イの男たちが現れ、彼女たちを連行していく。なお、彼女がウルドビーズに命令する際に、ウ
ルドビーズがrどんな世界にも、これ以上深刻なことはないですよ」と発言していることから、
彼女のこの行為は死者の世界において相当の重罪であることが伺われる。
プリンセスは、一方では愛するオルフェを独占したいという自己中心的な動機から行動し、
他方では愛するオルフェにユーリディスとの幸福な家庭生活を取り戻させてあげたいという利
他的な動機から行動する。これらの行為はその目的こそ正反対ではあるが、根底にオルフェヘ
の愛情があるという点では同じものなのであると言えるだろう。
ところで、オルフェがプリンセスに対して抱いている愛情が単なる異性愛ではないことを私
たちは既に見た。それでは、プリンセスのオルフェに対する愛情の場合はどうなのだろうか。
02のまえがきにおけるコクトーの言葉を再び見てみよう。
彼女あ手ルヲ三た寿寺る壷とオルフェの彼女に対する愛は、詩人たちが自分たちの住む世
界を越えるあらゆるものに対して感じるあの深い引力や、私たちがそれにはっきりした形
を与えることも働かすこともできない私たちに取り掻いた無数の天性を私たちから削除し
てしまう不自由さを克服しようとする詩人たちの執拗さを表わしている〔傍点部筆者〕。
コクトーのこの言葉に従うならば、プリンセスの愛もまた未知なる世界に対するものであるこ
とになる。つまり、死者の世界の住人であるプリンセスは生者の世界にあこがれ魅了されてい
るのである。このことは本文中でも次のように表れている。プリンセスがゾーンでオルフェと
の最後の出会いを果たすとき、彼女は彼を抱きしめながら次のように述べている。
プリンセス:あなたにはまだ人間の暖かみがある。良いわね34。
このときオルフェは既に生者ではないが、プリンセスは彼の中に生きていた頃の暖かみを感じ、
それに感動を覚えている。物語の最後の最後でプリンセスは、思わず発せられたつぶやきを通
じて自分が生者の世界に惹かれていたことを告白するのである。
以上の確認を通じて、私たちはプリンセスを死者の世界における異端児と呼ぶことができる
だろう。彼女は命令が絶対の世界で己の意志に従い行動するという点と、死者でありながら異
世界である生者の世界に魅力を感じるという点で死者の世界の枠組みから外れている。プリン
セスは死者でありながら死者になりきることができないのである。
34La Princesse:Tu as encore1a chaIeur humaine,C’est bon.
0名p.108.
31
3)不完全な神スフィンクス
まえがきでコクトーがプリンセスについて「かつて、彼ら〔プリンセスとウルドビーズ〕が
所属していた人間界は、依然として彼らに影響を与えている」と述べているように、彼女には
死者の要素と生者の要素がある。いわば彼女は生者と死者の中間的存在であるのだが、こうし
た種類の登場人物を私たちはコクトーの他の作品においても見ることができる。それは戯曲『地
獄の機械』(1934年上演)に登場するスフィンクスである。
ここでスフィンクスがどのような人物なのか説明する必要がある。スフィンクスはプリンセ
スと同様にドレスを着た若い女性の姿をしている。彼女と死者の神アニュビスは神々の命令を
受け、テーバイの街の門が開いている間は街道に留まり、彼女の前に現れた青年たちに問いを
与える。そして、もし彼らがそれに答えられなければ、彼女は彼らを殺さなくてはならず、も
し彼らが答えることができた場合、彼女は死ななくてはならない。しかし、彼女は殺人行為を
嫌い、この命令に従うことに不満を感じている。旅人と出会わないうちにその日の職務を終わ
らそうとする’彼女は、閉門を告げる三度目の鐘が実際には鳴っていないのもかかわらず、既に
鳴ったとアニュビスに繰り返し主張する。
殺人行為に対する彼女の嫌悪は、彼女の気の弱さや人の良さからきているわけではない。彼
女はその理由を次のように述べている。
スフィンクス:そうかもしれない。でもここでは、神としての私たちの計算は私たちの埼
外にあるわ……ここでは、私たちは殺すの。ここでは、死者たちは死ぬ。
ここでは、私は殺すのよ!35
彼女は生け賛を殺すことを、アニュビスが述べるように石版の上に書かれた数字を消すことと
して捉えることができず、殺人を行うことに抵抗を感じてしまう。つまり、神として殺人行為
を認識することが彼女にはできないのである。
と’ごろで、彼女が本来属している神々の世界とはそもそもどのようなものなのだろうか。命
令に従うことを拒む彼女に対してアニュビスは次のように述べている。
アニュビス:従いましょう。不可思議には彼らの不可思議がある。神々には彼らの神々が
いる。私たちには私たちの神々が、そして彼らにも彼らの神々がいる。これこ
35Le Sphinx:C’estpossib1e.Mais ici,nos ca1cu1s de dieuxnous6chappent...Ici,nous tuons.Ici1es morts meurent.
ICi,je tue!
ノ皿pp.495−496、
32
そが無限と呼ばれているものなのです36。
彼の言葉は神的存在であるスフィンクスとアニュビスたちの上位に存在する神々も、彼らのさ
らに上位にいる神々の命令に従っているということを暗示している。彼によればこうした神々
のヒエラルキーは無限に続いており、それゆえ、スフィンクスたちは与えられた命令の出所や
それを発した者の真意を知ることができない。彼らにできることは自分に下された命令に従い、
それを遂行することだけなのである。こうした神々の世界の者たちの筆は、私たちが既に見て
きた02の死者の世界の住人たちのそれと類似していると言うことができるだろう。
ところが、スフィンクスはアニュビスに次のように述べる。
スフィンクス: なぜ私たちは目的も、終わりもなく、理解することもなしにいつまでも行
動するの? 例えば、アニュビス、なぜあなたはそんなふうに犬の頭をし
ているの? なぜ死者たちの神が、信じやすい人間たちが予想するような
外見をしているの? なぜギリシアにエジプトの神がいるの? なぜ犬の
頭をした神なの?
アニュビス
問いかけることが問題となっていたときに、あなたに女性の姿をとらせた
者のことを感心してしまいますよ37。
アニュビスの忠告にもかかわらずスフィンクスは、神々によって与えられた不可思議な命令に
ついて疑問を抱く。アニュビスの皮肉を込めた返答からもわかるように、誰にも知ることので
きない神々の命令の意図を知ろうとする彼女に神としての姿をみることはできない。そこある
のは、旅人たちに問いかける神話上の怪物スフィンクスの恐ろしい姿ではなく、一人の口やか
ましい女性の姿にすぎない。つまり、完全に死者にはなりきれていないプリンセスが死者たち
の命令と己の人間的な感情の間に立たされていたように、不完全な神であるスフィンクスも
神々の命令と己の人間的な感情の狭間に位置しているのである。
スフィンクスはこうした状況を打開することのできる人物、彼女の問いに答え彼女を倒すこ
とのできる人物の出現を望む。
スフィンクス:ねえ。これが私の願い、そして、それを最後に私が台座に上ることになる
36A皿ubis:0b6issons.Le mystさre a ses mystさres.Les dieux possさdent1eurs dieux.Nous avons1es n6tres,I1s ont
1es1eurs.C’est ce qui s’apPe11e1’inini.
皿ノ。こ,P.495.
37Le Sphinx:Pourquoi toujours agir sans but,sans terme,sans comprendre?Ainsi,par exemp1e,Anubis,
pourquoi ta t6te de chien?Pourquoi1e dieu des morts sous1’apparence que1ui supposent1es hommes
cr6duIes?Pourquoi en Grさ。e un dieu d’Egypte?Pourquoi un dieu主tεte de chien?
Anubis :Jヨadmire ce qui vous a fait prendre une丘gure de femme1orsqu’i1s’agissait de poser des questions.
Zろノ♂,P.495.
33
であろう状況よ。ある若者が丘を登ってくる。私は彼を愛す。彼は全く恐
れていない。私の出した問いに対して、彼は対等な人物として答える。彼
は答えるのよ、アニュビス。そして私はばたりと死ぬの38。
ここで興味深いことは、状況を一変させることのできる人物への彼女の思いが、愛情と結びつ
いているという点である。この愛’1音が感謝の気持ちから生じたものなのかどうかは明確には描
かれていないが、その人物が彼女の問いに答える程の知恵を持った人物であれば誰でもよいと
いうわけではないことは少なくとも明らかである。彼女は自分が愛する人物が、彼女と「対等」
であるかのように振る舞うことのできる人物であることを望んでいる。彼女と対等に話す人物
とは、不完全とはいえ人間から見たら十分神のような存在である彼女を前にしても、恐れや伝
えを見せない人物のことであり、すなわち英雄に他ならない。プリンセスが生者たちの中でも
っとも死者の世界の近くにいる詩人を愛したように、スフィンクスも人間たちの中でもっとも
神々に近い英雄を愛するのである。
しかし、上のスフィンクスの発言は彼女の性向の一面しか表していない。
スフィンクス:あなたは何にでもすぐに答えるのね。ああ1 とういのも、エディプ、あ
なたには教えてあげますが、私には弱点があります。一私は弱いものたちが
好きなの[…]39。
彼女は自分と対等に振る舞う人物を愛すると発言する一方で、他方では子供のように弱々しい
男性を愛する傾向にもある。彼女は英雄のような力強さと子供のような弱々しさをかねそろえ
た男性を求めている。そして、そんな彼女の前に望み通りの人物であるエディプが姿を現す。
4)人間としての反抗
エディプが登場すると、スフィンクスは自分の正体を隠し若い娘として彼と会話をし、彼の
身の上を知る。コリントの王子として育てられた彼は与えられた栄光の座に満足しておらず、
ある日神託で実の父親の殺害と実の母親との同会を宣告されたことをきっかけに、自らの力で
栄光を勝ち取るためにコリントを離れた。
彼女やアニュビスたちから見てもr若い神」と思えるような彼の肉体、彼の持つ王族の血筋、
38Le Sphinx:Ecoute.Voi1主1e vceu que je forme et1es circonstances dans1esque11es i1me serait possib1e de monter
une derniさre危is sur mon soc1e.Unjeune homme gravirait1a co11ine.Je1’aimerais.II n’aurait
aucme crainte.A1a question que je pose i1r6pondrait comme un6ga1.I1r6pondrait,Anubis,etje
tomberais morte.
皿ゴ♂,P.500.
39Le Sphinx:Vous avez r6ponse註tout.H61as!car,vous1’avouerai−je,O団dipe,j’ai une faib1esse:1es faib1es me
p1aisent[...].
皿ゴ♂,P,505.
34
そして人生とは栄光そのものであるという彼の断言によって、スフィンクスは彼が望み通りの
英雄的な人物であることを知る。その他方、かつて一度だけ犯した殺人のことを恐ろしげに語
り、コリントの賢者たちに教育された自分ならばどんな問いにも答えることができると信じて
やまない彼には子供らしさも見られる。スフィンクスは「テーバイのどの美少年」とも違う英
雄らしさと子供らしさをかねそろえた彼を気に入り、彼に問いを出す決意をする。そして、ス
フィンクスが怪物の本性を表すや否や、エディプは子供のように恐れだし彼女に助けを乞う。
その時、スフィンクスはある不正を犯す。彼女はエディプに問いを出す前にその答えを彼に告
げてしまうのである。
その際の彼女の長台詞も極めて特徴的なものではあるが40、私たちは彼女の行った不正それ自
体に注目する必要がある。既に見たように、彼女は愛する人物によって、神々に強いられてい
る板挟み的状況が打破されることを望んでいた。そんな彼女の前に彼女が愛するに値する男性
が現れた。後はエディプが問いに答えれば彼女の望みは達成される。そこで、彼女は彼に答え
を教え、自分の望みを自らの力でかなえようとする。いわば、彼女はこの不正行為を通じて神々
の世界の秩序に反抗しているのである。
スフィンクスの不正に対するこの考察は、プリンセスのそれにも当てはめてみることができ
るだろう。不完全な死者である彼女は、生者の世界に惹かれオルフェを愛してしまう。そして
彼女は命令外の行動をとり、自らその愛を実現化させようとする。生者と死者の世界の間で苦
しんでいた彼女は、死者たちに反抗し、自らに残された人間的な感情に従う道を選んだのであ
る。
神々や死者の世界の住人でありながら半ば人間的な存在であるスフィンクスとプリンセス、
人間的感情の影響を強く受ける彼女たちはその感情ゆえに自らの所属する世界に反抗する。こ
こで改めて『オルフェの遺言』の「詩人」の言葉を思い起こしてみよう。
詩人:おそらく、私が住んでいるこの世界に対する疲れと、習慣に対する恐れゆえに。ま
た、大胆さがそれによって諸規則に対抗する不服従と、反抗病柚・:・・二・入商由右あ反抗
病神のうち最高の形である創造の精神ゆえにです〔傍点部筆者〕。
4oプレイヤッド版の注で、Pirrre Caizerguesはこの長台詞について次のように述べている。
「神業であり見せどころであるこの長台詞は解釈者や注釈者を魅惑する。この台詞は二つのイメージ、根気強い
クモのイメージと電圧が上がり運動が加速する機械のイメージから構成されている。それは口から機械的に発せ
られる言葉の波を具象化しているようだ。有無を言わせぬが脆いおしゃべりによって、台詞は聞いている人を不
安にさせ酔わせると同時に、半ば喜劇的でもある。崩れる危険を冒しながら、この台詞は力を語る。」
《Tour d−e force et卿。rceau d−e bravoure,eI1e[tirade]fascine1es interprさtes et commenta七eurs.
E11e est s七ructur6e par d−eux images:ce11e d’une araign6e infatigab1e et ce11e d’une machine
survo1t6e dont1e rythme s’a㏄61さre.E11e semb1e mat6ria1iser1e且。t de paro1es,au七〇matiques,qui
s’6chappe d一’une bouche.E11e est主1a fois inqui6tante,6tourd−issan七e et presque comique dans sa
vo1ubi1it6p6remptoire et fragi1e.E11e d−it1e pouvoi4au risque d−e se rompre.》
ク1q p,1693.
35
「詩人」は反抗精神とは人間固有の精神だと述べている。言うなれば、反抗することは人間で
あることの証明なのである。「詩人」のこの言葉に従うならば、彼女たちはこの反抗によって、
自分たちが未だ人間的存在であることを証明していると考えることができるのではないだろう
か。
5)栄光を失ったエディプとミューズを奪われたオルフェ
中間的存在であるプリンセスとスフィンクスは彼女たちに残された人間性のために反抗する。
ところで、彼女たちのこうした行為は当然のことながらオルフェとエディプたちにも影響を及ぼ
す。そこで、私たちはプリンセスとスフィンクスから一度離れ、彼女たちの行為がオルフェやエ
ディプにとってどのような意味を持っているのか明らかにしていくことにしよう。
エディプとはどんな人物だろうか。既に触れたが、彼にとって彼が私生児だという不愉快な噂
や父親の殺害と母親との近親相姦を告げる恐ろしい神託は、「陰欝な宮廷生活」や「多すぎる好
意や安楽」から逃れるためのきっかけにすぎなかった。彼は自分の中に巣食う「何かよくわから
ない冒険の悪魔」に身を委ね、「未知の渇き」を満たすことを決意しコリントを去る。住み慣れ
た世界に嫌気を感じ未知の世界へと向かうエディプの姿に、私たちが今まで見てきた詩人の姿を
重ねて考える’こともできるだろうが、ここではひとまずエディプの人となりを続けて確認してい
こう。
エディプが栄光を強く欲する人物であるということも見逃すことはできない。彼にとって栄光
がいかに大きな価値を持っているか、彼はスフィンクスとのやり取りの中で次のように告白して
いる。
スフィンクス: でもねえ、少し前に私が陰から突然出てくるのを見たとき、あなた、敵と
戦いたがっている人にしては、警戒がなってなかったように思うわよ。
エアイフ
まさにそうです! 僕は栄光を夢見ていました。そして怪物はその瞬間襲
ってかも知れません。明日、テーバイで装備を整えて1狩りを始めます。
スフィンクス: 栄光がお好きなの?
エアイフ
栄光が好きかどうかはわかりません。僕が好きなのは、足を踏み鳴らす民
衆、トランペット、はためく旗、人々が振る椋欄の枝、太陽、黄金、緋色
の布、幸福、機会、つまりは生きることなんです。
スフィンクス: あなたはそれらを生きることと言うのね。
エアイフ
あなたはどうなんですか?
スフィンクス: 私は違います。はっきり言って、私は人生についてまったく違う考えを特
36
っています。
エディプ どんな考え?
スフィンクス:愛すること。愛する人から愛されること。
エディプ 僕は僕の民衆を愛し、彼らは僕を愛するでしょう。
スフィンクス:公共の場は家庭ではないわ。
エデイプ 公共の場が不都合になることはありません。テーバイでは、人々が一人の
男を求めています。もしスフィンクスを倒したら、僕がその男になるので
す。ジョカスト王妃は未亡人ですから、僕が彼女と結婚するのです……41
「足を踏み鳴らす民衆、トランペット、はためく旗、人々が振る椋欄の枝、太陽、黄金、緋色の
布、幸福、機会」、これらは全て栄光の象徴であると言える。エディプにとって栄光を得ること
と生きることは同義なのである。そんな彼にとっては愛さえも栄光で得られるものの一つにすぎ
ない。栄光と結びついていない愛など彼にとっては存在しないのである。
そしてエディプはスフィンクスを倒し、ジョカストを妻にする。婚姻の日の夜、テイレシアス
は一介の旅人であるエディプが王妃を要り王となることは、既成の法典や規則では考えられない
出来事だと述べる。しかし、エディプにはこうした異例の方法によって王になる必要があった。
エディプ:分類されるものはすべて死の臭いを放っていることを知れ。テイレシアスよ、
分類からはずれ、列から出る必要がある。それは傑作と英雄の証なのだ。分類
から外れたもの、それこそが驚かし、支配するものなのだ42。
もし、エディプが王となり「足を踏み鳴らす民衆、トランペット、はためく旗、人々が振る椋欄
の枝、太陽、黄金、緋色の布、幸福、機会」を手に入れることを望んでいるだけであったならば、
41Le Sphinx:Mlais,dites,i1me semb1e que,tout身1’heure,enme voyant surgir de1’ombre,vous paraissiez ma1sur
vos gardes,pour un homme qui souhaite se mesurer avec1’ememi.
⑯dipe :C’estjuste!Je r6vais de g1oire et1a b6te m’edt pris en d6faut,Demain,註Thさbes,je m’6quipe et1a
chasse commence.
Le Sphinx:Vbus aimez1a g1o止e?
①dipe :Je ne sais pas sij’aime1a g1oire;j’aime1es缶u1es qui pi6tinent,1es trompettes,1es oriiammes qui
c1aquent,1es pa1mes qu’on agite,1e so1ei1,1’or,1a pourpre,1e bonheur,1a chance,vivre en丘n!
Le Sphinx:Vous apPe1ez ce1a vivre.
CEdipe :1≡】t vous?
Le Sphinx:Moi norL J’avoue avoir une id6e toute di脆rente de1avie.
(Edipe :Laque11e?
Le Sphinx:Aimer Etre aim6de qui on aime.
㏄dipe :J’aimerai mon peup1e,i1m’aimera.
Le Sphinx:La p1ace pub1ique n’est pas un缶yer
①dipe :La p1ace pub1ique n’emp6che rien−AThさbes,1e peup1e cherche un homme.Sije tue1e Sphinx,je serai
cet homme.La reine Jocaste est veuve,je1’6pouserai...
ノ吻pp.502−503.
42㏄dipe:Apprenez que tout ce qui se c1asse empeste1a mort.I1曲ut se d6c1asser,Tir6sias,sortir du rang.C’est1e
signe des chefs−d’ceuvre et des h6ros.Un d6c1ass6,voi1主。e qui6tonne et ce qui rさgne.
ノZゴ♂,p.518.
37
彼はコリントに留まり続け、父親の地位が与えられるのを待つだけでよかった。しかしそれでは
彼の中にいる「冒険の悪魔」は満足しない。彼には己の未知の渇望を癒し、そして栄光を手に入
れるために、王子が地位を継承するという決まりきった方法で王になるのではなく、未だかつて
なされたことがないような、既成の概念では分類分けすることのできない異例の方法で王になる
必要があった。スフィンクスを倒しジョカストを要るという道を選ぶことは、彼の性格上必然の
ものであったのである。
しかし、彼はジョカストと結婚することで近親相姦という忌まわしい罪を犯すことになる。そ
の結果、彼は王の地位を捨て、かつてあれほど愛されまた彼自身も愛していたテーバイの民衆た
ちから離れることを余儀なくされる。汚れた罪人となった彼のことを受け入れてくれるような国
はないだろう。クレオンが述べているように、この先彼を待ち受けているのは「不名誉」と「恥」
だけである。彼は栄光を手に入れるために自ら選んだ行為によって、栄光を永々に失うことにな
ったのである。
ただし、エディプは近親相姦者という決定的に分類外の存在となることで、人々を支配する者
ではなくなったが、人々を驚かせる人物になることには成功している。ある意味では、彼の望み
はかなっているとも言えるだろう。テイレシアスの言葉を使うならば、彼は「古典的な栄光」を
失い、「暗い栄光」を手に入れたのである。エディプの結末については第三部で改めて取り上げ
ることにしよう。
さて、エディプの簡単な説明は以上で終わりにして次にオルフェを見ることにするが、彼につ
いて私たちは既に何度も見てきたので、改めて彼の人となりを改めて確認する必要は無いだろう。
ここでは以下の二点に注目する。
一点目はオルフェに送られてくるメッセージである。彼はプリンセスの山荘に向かう車中と山
荘の部屋で計二度ラジオから送られてくるメッセージを聞く。そして彼はそれらのメッセージに
新たな詩の可能性を見いだす。彼はウルドビーズによって自宅に送られた後、その車を自宅のガ
レージに入れさせ、その後日々カーラジオの前でメッセージが再び流れてくるのを待つ。しかし、
その後ラジオから流れてきたメッセージはプリンセスがセジェストに自作の詩を読み上げさせ
たものであった。オルフェはそれらを書きとめ、自作の詩として発表してしまう。新たな詩を創
りだそうとしたオルフェは、新たなものを作り出すどころか、他人の手による詩を見いだすこと
しかできなかった。結果的に彼は盗作をしてしまうのである。それによって彼は詩人としての名
声を失うだけでなく、命をも落としてしまう。皮肉なことに、物語の冒頭、前衛詩人たちが集ま
るカフェでセジェストの詩を読んだオルフェは「ばかばかしい」と評している。彼は自ら「ばか
ばかしい」と呼んだものに未知を見いだした気になっていたのである。
二点目は彼の不死化である。物語の最後にオルフェとユーリディスはプリンセスたちによって
蘇らされ、自宅の寝室に戻るのだが、その際彼ら夫婦は仲睦ましく会話している。オルフェは子
38
供を身ごもっているユーリディスを案じ、ユーリディスは仕事のことでオルフェを気遣う。
ところで、物語中彼らが親しく会話するのはこの場面だけである。この場面を除いて、彼らの
会話は必ずけんかで終わってしまう。ただ、彼らの仲がもともと悪かったわけでは決してない。
オルフェとユーリディスは人々から「模範的な夫婦」と呼ばれる程までに円満な家庭生活を築き
上げており、夫婦そろって雑誌の取材を受けるほど彼らの家庭生活は規範的なものだったのであ
る。しかし、そうした彼らの家庭生活はオルフェとプリンセスの出会いによって一変する。オル
フェは新たな詩を創作するために、プリンセスやラジオのメッセージのことばかりを気にかけ、
ユーリディスのことを顧みないようになる。プリンセスと出会って以降、オルフェにとって創作
行為とユーリディスヘの愛は両立不可能なものだったのである。しかし、最後の場面でオルフェ
の態度はなぜか再び急変し、彼は親身になってユーリディスに接するようになる。
注目すべきことに、寝室の場面でオルフェとユーリディスは自分たちの冒険を一度も振り返っ
ていない。プリンセス、ウルドビーズ、セジェスト、カーラジオのメッセージ、夫婦喧嘩、鏡、
死者の世界、これら物語中に登場したあらゆるものについて、彼らは何も言わない。まるで物語
で起きたいかなる出来事も、もはや彼らの記憶にはないかのようである43。オルフェの結末につ
いてコクトーはr知られざる者の日記』で次のように述べている。
神々は、オルフェを不死にし、盲目にするために自殺するようオルフェの死〔プリンセス〕
をたきつける。失しそ、夫あ結東彼ぽミ三二文を毒もれる44。
私たちは後に改めてこの記述を見ることになるが、ここではコクトー自身によってわざわざ強調
されている最後の箇所に注目してみよう。r失しそ、夫あ結臭稜ぽミ三二支を会もれる」、この文
章は私たちの考察をより一層確かなものとしてくれる。オルフェに新たな詩の可能性を発見させ
るきっかけとなったプリンセスは、彼にとってミューズに他ならない。死の未知性に惹かれた彼
は彼女のことを追い求め、最後には彼女と対等に接することに成功する。しかし、それと同時に
彼は彼女によって不死にされ、その結果彼女に関わるあらゆる記憶を失ってしまう。ミューズと
の出会いを望み続けた彼は、望み通り出会いを果たしたことによってミューズを永遠に失ってし
まうのである。
本筋へと戻ることにしよう。エディプとオルフェは望みを達成するために行動し、それによっ
て破滅を決定づけられる。スフィンクスの退治やプリンセスとの出会いはあらゆる意味において
彼らの人生の転機なのである。ところが、既に見たように、彼らのこうした行為はスフィンクス
やプリンセスのおかげで達成される。スフィンクスがエディプに問いの答を教えず、またプリン
43Cf Pieere Dubourg,oρd左,pp.266−267.
44《Les dieux souf打ent主1a mort d’0rph6e de se perdre pour rendre Orph6e immorte1,aveug1e,θゆ。αγ加ρ㎡γθr aθ
醐加蝸θ.ll,刀P.45.
39
セスがオルフェに接触し続け、ラジオを通じて彼にメッセージを送り続けなければ、エディプと
オルフェたちの望みが叶うこともなかったし、望んだものを永遠に失うこともなかった。つまり、
彼らの人生を決定づけているのは彼自身の意志ではなく、彼女たちの意志なのである。
エディプとオルフェたちの悲劇は二つある。一つ目は、彼ら自身の本性に従って行動した結果、
彼らにとって破滅的とも言える事態が生じてしまったことであり、二つ目はそれらの行動が達成
される瞬間、そこには彼らの意志は全く関与していないということである。そして、彼らにこう
した悲劇的な状況をもたらしたものこそスフィンクスとプリンセスたちの反抗行為なのである。
6)人間性の剥奪
己の人間的側面の表明であるスフィンクスとプリンセスたちの反抗行為は、エディプとオルフ
ェたちの悲劇を作り上げる。それでは、これらの反抗の結果、彼女たち自身はどうなったのだろ
うか。彼女たちは板挟みの状態から脱することができたのだろうか。
まずはスフィンクスについて見てみよう。エディプによって問いを解かれたことで彼女は倒れ
るが、しかし彼女は死なない。彼女に目もくれず怪物を倒したことを知らせに街へとかけていく
エディプを見て、彼女は怒り彼に復讐を望む。しかし、その後彼が彼女のもとに戻ってくるのを
見た彼女は、彼が思い直して自分のことを愛してくれるようになったと喜ぶが、彼が怪物を倒し
た証拠として彼女の遺体を持っていくために戻ってきたのだとわかり、諦めた彼女は自分の少女
の体を彼に渡す。すると、彼女の外見は虹色のヴェールをまとった巨大な形となり、彼女はネメ
シスヘと変化する。
彼女の反抗は、三つの点で彼女が望んでいなかった結末を引き起こしていると言うことができ
るだろう。一つ目は、彼女の愛情がエディプに通じなかったという点である。彼女はエディプを
彼の望亭通り英雄とすることで、彼から感謝され憂されることを目論んでいたが、エディプはス
フィンクスの気持ちに気づくこともなくテーバイヘと向かってしまい、そこでジョカストの夫と
なる。ジョカストの寝室で初夜を過ごす際、エディプはジョカストに請われスフィンクスを退治
したときの話しをするが、実際に起きたことは隠し嘘をでっち上げる。また、ジョカストと共に
うたた寝をした際、彼はスフィンクスやアニュビスが登場する悪夢を見る。エディプにとってス
フィンクスとの出会いの記憶は恐るべきものであり、一刻も早く忘れ去りたいものなのである。
そして、まるでそれに成功したかのように、スフィンクスとの出会いから17年が経った第四幕
で彼はスフィンクスのことについて一言も述べていない。
二つ目は、エディプのためを思ってした彼女の行為が逆に彼を破滅へと導いてしまうという点
である。rこの姿で生きたいと私が望むのは、彼を幸せにするためではないの?」という彼女の
思いとは裏腹に、スフィンクスを倒しテーバイの英雄となったことでエディプはジョカストと結
40
婚し、おぞましい神託を完成させてしまう45。
三つ目は、エディプに倒されたことで彼女が完全な神へと変化したという点である。スフィン
クスとして倒され、少女の体をエディプに渡したことで、彼女は神と人間の中間的な状態を脱し
完全な神であるネメシスヘと変貌を遂げる。この点に関してはスフィンクスの望みはかなってい
るとも言える。というのも、彼女はネメシスとなったことで、今まで彼女を苦しめていた不完全
な神の状態から抜け出しているからである。しか.し、それは同時に彼女のエディプに対する愛そ
のものが消えてしまったことを意味するのではないだろうか。
アニ三ビスからエディプを待ち受ける運命を教えられた彼女は、スフィンクスの遺体を掲げ、
意気揚々とテーバイヘと向かうエディプを見て次のように発言する。
ネメシス:哀れな、哀れな、本当に哀れな人間たち……もうだめ、アニュビス……息が詰
まるわ。地上から離れましょう46。
ここで注目すべきは、ネメシスがエディプー人を憐れんでいるのではなく、全ての人間を憐れん
でいるという点である。彼女はエディプの背中に、かつて愛した者が破滅へと向かう様を見てい
るのではなく、神々によって作られた「地獄の機械」のような運命によって弄ばれる人間たちの
姿を見ているのである。
『地獄の機械』の第二幕は彼女のこの台詞と、エディプの「僕は王になる!」という台詞によ
って幕を閉じる。その後ネメシスが舞台上に現れることはないが、第三幕でテイレシアスの台詞
を通して彼女は一度だけ登場する。エディプとジョカストの婚姻の日、ネメシスは再び少女の姿
をしてテイレシアスのもとを訪れ、第二幕でエディプから渡された彼のベルトを渡す。テイレシ
アスによるとその際彼女は、エディプが彼女にベルトを渡すときに言った「僕が怪物を倒したと
き、このベルトによってあなたは私のもとを訪れることができるでしょう」という言葉を、テイ
レシアスがエディプにベルトを渡すときに一字一句変えずに繰り返すように命じ、高笑いをしな
がら消えていった。このときネメシスがエディプのことを愛しているのかどうか判断することは
できないが、少なくとも、彼女が彼に抱いている気持ちがかつて抱いていたものと異質なもので
あることは明らかであると言えるだろう。スフィンクスの死とともに、彼女が抱いていた愛情も
消えてしまったのである。
かってスフィンクスであった頃、彼女は愛による板挟み的状況からの脱出を望んでいた。神と
人間の中間的存在であった彼女は、神々の命令に従うのではなく、己の人間的な感情に従うこと
45エディプによる実の父ライユス王の殺害は、エディプとスフィンクスの出会い以前に既に行われているため、このこ
とに関してスフィンクスは無関係である。
46N6m6sis,阿雌θ:Les pauvres,Pauvres,Pauvres hommes...Je n’en peux p1us,Aαubis...J’6tou甜e.Quittons1a
terre.
MZP.514.
・41
を選んだのである。しかし、結果的に彼女は完全な神になり、彼女が抱いていたエディプヘの愛
情も消えた。彼女は神々の世界の正当な一員となったのである。こうした結末は彼女が望々でい
たものと真逆のものであると言うことができるのではないだろうか。
このようにして、スフィンクスは反抗することによって、自ら望まざる結末をもたらしてしま
う。ところで、もう一人のヒロインであるプリンセスの場合はどうだろうか。一度目の反抗であ
るユーリディスの殺害は彼女にとって望ましい結果を引き起こしたと言えるだろう。ユーリディ
スを亡くしたことで、オルフェは彼女のことをおろそかにしていた自分の行為を悔やみ、彼女を
連れ戻すために死者の世界に下る。しかし、私たちはこのことを既に見てきたが、それによって
彼のプリンセスヘの愛情が弱くなったわけではない。そして、オルフェとプリンセスはプリンセ
スを裁くための裁判で出会い、互いの愛を告白する。プリンセスはユーリディスを殺したことで、
結果的にオルフェとの再会を果たし、オルフェの愛を確かめることに成功したのである。また、
彼女はこの行為について裁かれるが、仮釈放という彼女にとっては有利な処遇を受けている。
もう一つの反抗であるオルフェの不死化であるが、プリンセスたちが連行される場面で物語は
終わってしまうため、私たちにはプリンセスやオルフェのその後を見ることができない。ウルド
ビーズの「これ以上深刻なことはないですよ」という発言から、彼女に下される刑が重いもので
あることは想像されるが、それがどのようなものなのか知る術は私たちにはない。私たちに知る
ことができるのは、彼女のこの行為によってオルフェはユーリディスと共に蘇り、彼女との幸せ
な家庭生活を取り戻すことができたということだけである。以上のことから、二度目の反抗も彼
女に望み通りの結末をもたらしたと言えるだろう。
ところで、02から約10年後に撮影された『オルフェの遺言』でコクトーはセジェスト、ウ
ルドビーズ、プリンセスたちを再登場させ、彼らのその後について描いている。そして、興味深
いことにそこではプリンセスの反抗は失敗したものとして描かれているのである。
ウルドビーズとプリンセスたちは判事として登場し、「詩人」に尋問を行う。既に述べたよう
に「詩人」は02の作者として設定されているのだが、裁判が終わった後、彼はウルドビーズに
その後彼らの身に起きたことを尋ねる。するとウルドビーズは、その後プリンセスと彼は再び裁
判にかけられ、「裁判官になり、他人を裁く」刑を受けたこと、そしてオルフェとユーリディス
の蘇りは「まやかし」であり、二人とも死者の世界の住人になったことを告げる。プリンセスに
よる不死化は失敗したのである。
オルフェの結末とは別に注目すべきもう一つの点は、プリンセスが裁判官として登場している
ということである。02で命令に違反し裁かれる者であった彼女が、rオルフェの遺言』では裁
く側へと立場を変える。こうした彼女の立場の変化は、スフィンクスの不完全な神から完全な神
への変化と似ていると言えるだろう。所属する世界の中で異質な存在であった彼女たちは、その
異質性のために世界に反抗し、その結果世界の完全な一員となる。そして、彼女たちの異質性を
42
なす要素であった人間性は消滅する。反抗を通じて己の中に残っている人間性を表明した彼女た
ちは、その行為によって中間的存在ではなくなり、人間性を失ってしまうのである。
7)自己の意味を見いだすことの無意味さ
オルフェたちに決定的な行為を選ばせ、彼らに望まざる結末をもたらしたプリンセスたちも、
自ら選んだ行為によって彼女たちにとって望まざる結末を引き起こしてしまう。これまでの考察
によって私たちはオルフェたちとプリンセスたちとのこうした関係を明らかにしてきたわけで
あるが、それではプリンセスたちと彼女たちの上位にいる者たちとの関係はどのようなものなの
だろうか。すなわち、プリンセスたちの行為も、オルフェたちの選択が彼女たちの関与を受けて
いたように、彼女たちの上位にいる存在によって選択させられたものなのだろうか。
この点については、オルフェたちとプリンセスたちの関係ほど明確には描かれていない。物語
中、上位の者たちが彼女たちの反抗の決意に関与しているような描写は存在しないため、彼女た
ちの行為は始めから最後まで彼女たち自身の意志によってなされてものであるよ一うに思われる。
しかし、コクトーは『知られざる者の日記』において大変興味深いことを述べている。この箇
所については既に一部引用したため繰り返しにはなるが、改めてここで取り上げることにしよう。
私は『地獄の機械』において、スフィンクスに対するエディプの勝利を創作することで
残虐な笑劇を複雑にした。その見せかけの勝利はエディプの傲慢さと、半ば神であり、半
ば女性である動物スフィンクの弱さによって生じた。彼女は彼に死を免れさせるために謎
の解答を漏らしてしまう。私の映画『オルフェ』に登場するプリンセスが、自由意志の罪
で有罪の判決を受けたと思い込んだとき行動するように、スフィンクスも行動する。神々
と人間の中間に位置するスフィンクスは神々によってだまされている。彼らは、スフィン
クスを破滅させるだけのために、スフィンクスを自由にさせるふりをし、エディプを助け
るようにスフィンクスにささやく。
ギリシア的観念においてドラマはいかにエディプの外部に存在しているかということを、
私はまさしくスフィンクスの裏切りによって強調した。こうした概念を私は『オルフェ』
において発展させた。神々は、オルフェを不死にし、盲目にするために自殺するようオル
フェの死〔プリンセス〕にささやく。失しそ、夫あ結臭稜ぽミ三二支を奪われる。
フロイトの過ちは、私たちの夜を価値のない家具置場にしてしまったこと、そして、こ
の夜は底なしてちょっと開くことさえできないにも関わらず、それを開けてしまったこと
である47。
47く{ J’ai comp1iqu61’atroce farce dans加M優幽血θ血色rη∂ノθ,en faisant de1a victoire d’(Edipe sur Sphinx,une
victo止e postiche n6e de son orguei1et de1a faib1esse du persomage Sphinx,anima1mi−divin,mi一挺minin,qui1ui
1ivre1a so1ution de1’6nigme pour1ui6vit?r1a mort,Le Sphinx agit comme agira1a Princesse dans mon fi1m0Ψ必6θ,
43
コクトーは、スフィンクスは神々によって「だまされている」と述べている。すなわち、エディ
プに謎の答えを教えるという彼女の行為は、オルフェを助けたいという彼女の「自由意志」によ
ってなされたものであるかのように見え、また彼女自身もそう信じ込んでいるが、実のところ彼
女は神々によってそう行動するように吹込まれていたのであり、彼女の自由は見せかけにすぎな
かった。そして、コクトーはスフィンクスのこうした状況は、プリンセスと同じものであると述
べている。
もちろん、『知られざる者の日記』のこの記述が、02と『地獄の機械』においてそれぞれ描
かれているものを忠実に再現したものであると断言することはあまりにも無邪気すぎる。既に述
べたように、それぞれの作品において死者たちや神々の意図を読み取ることのできるような箇所
はほとんどないため、はたして彼らがプリンセスたちを「自由にさせるふり」をしていたかどう
か私たちには判断することができない48。ただ、彼らがプリンセスたちを意図的に自由にさせた
のは少なくとも事実である。例えば、ユーリディスを勝手に死者の国に連れてきたプリンセスに
対して、判事たちは仮釈放を認めている。また、神々の命によってスフィンクスの助手を務めて
いたアニュビスは、彼女とエディプが会話をしている間、近くの廃塘に姿を隠し、彼女が命令に
従うかどうか監視している。彼はスフィンクスがエディプに問いを出す直前、彼女に呼ばれて舞
台上に姿を現すのだが、興味深いことに、すぐ近くで彼女をずっと見張っていたはずの彼がスフ
ィンクスの犯した不正についてはその際何も言わないのである。彼は彼女の行為を答めるどころ
か、早くエディプに問いを出すように彼女をけしかける。このように、死者たちや神々はプリン
セスたちを監視し続けながらも、彼女たちに一定の自由を与えているのである。
いずれにせよ、『知られざる者の日記』の記述と過去の作品の整合性を問うことはごこでは問
題ではない。私たちが今注目すべきは、『知られざる者の日記』の記述においてオルフェたちの
立場がより一層複雑なものとして描かれているということである。つまり、もし死者や神々がプ
リンセスたちの行為に関与していたとするならば、彼女たちによって翻弄されるオルフェたちは
誰の意図に従って行動したのかもはや明確にすることができなくなってしまうのである。
こうしたオルフェたちの状況を強調するかのように、コクトーはそれぞれの作品において、プ
リンセスたちの上位に位置する死者たちや神々について曖昧な形でしか描いていない。例えば、
プリンセスに命令を出す者について、次のように述べられている。
1orsqu’e11e se croit condamn6e pour crime de1ibre arbitre.Le Sphinx,interm6diaire entre1es dieux et1es hommes,
est jou6par1es dieux qui危ignent de1e1aisser1ibre,et1ui souf且ent de sauver Oヨdipeえseu1e丘n de1e perdre.
C’estjustement par1a trahison du Sphinx queje sou1igne combien1e drame reste ext6rieur主①dipe dans1’id6e
grecque,id6e queje d6ve1oppe dε㎜s0ψ比6θ、Les dieux sou肥ent査1a mort d’0rph6e de se perdre pour rendre
Orph6e immorte1,aveug1e,θφ伽r加ρ㎡陥rゐ醐伽鵬θ.
La faute de Freud est d’avoir fait de notre nuitun garde−meub1es qui1a discr6dite,de1’avoir ouverte a1ors qu’e11e
est sans肪nd et ne peut m6me pas s’entrouvriUl,以pp.44−45.
48Cf.Pieere Dubourg,oμo必,p.264.
44
オルフェ
どこから命令は伝えられるんだい?
プリンセス: たくさんの見張り番だちがそれを互いに伝え合っているの。それらはあなた
たちの世界ではアフリカの部族の太鼓だったり、やまびこだったり、森の葉を
ざわめかせる風だったりするわ。
オルフェ
そんな命令をする奴のところまで行ってやるさ。
プリンセス: 愛しい人……、彼はどこにも住んでいないわ。ある者たちは彼が私たちのこ
とを考えていると信じ、別の者たち彼が私たちに思いを巡らせていると信じて
いる。彼が眠っていて私たちは彼の夢、彼めいやな夢なのだと信じている者た
ちもいる。
また、r地獄の機械』で神々は次のように説明される。
アニュビス:従いましょう。不可思議には彼らの不可思議がある。神々には彼らの神々が
いる。私たちには私たちの神々が、そして彼らにも彼らの神々がいる。これこ
そが無限と呼ばれているものなのです
プリンセスやアニュビスの答えは、彼らの上にいる存在についてはっきりしたことを教えてくれ
ない。プリンセスは命令を出す者は「どこにも住んでいない」と言い、アニュビスはスフィンク
スたちに任務を与えた神々について、彼らにも「彼らの神々」がいて、そうした上限関係は無限
に続いていると言う。死者や神々の世界の住人たちは、誰によって与えられたのかもわからない
命令に従い、どこ’の誰だかもわからない者の意図に従って行動するのである。そして、このこと
はこれらの世界に関わるオルフェやエディプたちにも当てはまる。彼らを襲った悲劇が誰によっ
てもたらされてものなのか私たちには判断することができない。わかることは、それらの悲劇を
最終的に完成させたのは彼ら自身の行為であること、しかしそれらの悲劇は彼らとは全く関係の
ない者たちによって仕組まれたものであるということ、そしてそれらの人物について知ることは
絶対に不可能だということだけである。オルフェたちを襲う悲劇は彼らの「外部に存在している」
のである。
そして、『知られざる者の日記』のこの箇所に関して私たちがもっとも注目しなくてはならな
いのは、この記述が詩人の夜、すなわち未知の世界に関する文脈の中に位置していることである。
つまり、詩人は未知の領域を前にしたとき、オルフェやエディプと同じような状況に立たされる
のである。その時、詩人は二度自己の意味を失うと言えよう。まず、媒体となることで自分の自
由を捨てるという卓で詩人は白已の意味を失う。そして、彼は自分が何の媒体となるのかわから
ないという点で再度自己の意味を失う。もし、自分が誰に服従するのかが明白であるならば、服
45
促する者は服従させる者との関係の中で独自の立場を見いだすことができるだろう。オルフェと
プリンセスの関係が彼らだけで完結するものであるならば、彼は自分のことを愛する人の所有物
として認識することができるし、事実オルフェはそのように認識していた。しかし、彼がそのよ
うに認識しているとき、彼は「見せかけ」にだまされている。なぜならば、オルフェがプリンセ
スの背後にいる死者たちの存在を知らなかったように、詩人は未知のごくわずかな部分しか見る
ことができないからである。オルフェとエディプたちのように、未知の世界と関わる者にとって、
自己の意味を見いだそうとする行為は何の役にも立たない。未知の媒体であることが彼の持つ唯
一の意味なのである。コクトーの言う「詩人という私たちの聖職に従事していない人々には想像
もつかないような状態」とはこうした状態のことではないだろうか。
46
第三部 新たな世界の出現
前の章で私たちは、02のオルフェ、プリンセス、エディプ、スフィンクスたちが立たされて
いる状況の類似性を指摘し、詩人と未知との関係について考察してきた。そこでここでは、も
う一人のオルフェ、つまり0ノのオルフェに焦点を当てることにしよう。
前の章で02と『地獄の機械』を比較したように、ここでもいくつかの作品を比較しながら論
。を進めていきたいと思う。私たちがこれから見るのは、07、オペラ・コミック『ポールとヴィ
ルジニー』、『地獄の機械』の三作品の終結部である。これら三作品の終結部では共通して新た
な世界の唐突な出現が描かれている。以下、私たちはそれらの新たな世界と主人公たちがそこ
に至るまでの過程に注目し、今までとは別の角度から詩人と未知の領域について考察していく。
なお、これらの作品の終結部の類似は既に松田和之によって指摘されており、これらの作品
を比較し論じるという方法は彼に多くを負っている。松田はコクトー作品で描かれているエデ
ィプとオルフ’エの類似を指摘し、そこにコクトー独自の死生観を読み取ろうとしている。彼は
0ノのオルフェと『地獄の機械』のエディプが両者とも作品の終結部において、「生者の世界」
を出発点として、「闇の世界」と「中間的世界」を経由し、最終的に「死者の世界」に到着する
という同じ経路をたどっていることを明らかにしている。上記の二作品のみならず、コクトー
作品の研究において通常注目される機会の少ない『ポールとヴィルジニー』にも光を当てた松
田の一連の試みは極めて意義深いものである。そこで、私たちは松田とは別の角度から、すな
わちコクトーの死生観ではなくコクトー的詩人像という観点からこれらの作品の終結部を眺め
ることによって、松田の論考ではあまり触れられていなかった、これらの作品の終結部が持つ
別の側面について論じていくことにする。
1)唐突な世界の出現
07、『ポールとヴィルジニー』、『地獄の機械』の三作品は、その終結部において、それまで描
かれることのなかった新たな世界が登場するという点で一致している。ここでは、まずそれぞ
れの作品の終結部について順番に見ていくことから始めよう。
(1)戯曲『オルフェ』
最後の場面である第十三場の冒頭には次のようなト書きが書かれている。
舞台が空に昇る。ユーリディスとオルフェが、鏡の中から部屋に入ってくる。ウルドビー
ズが彼らを先導している。彼らは家を、まるで初めて見たかのように眺める49。
49{{re d6cor mon七e au cie1.Entrent par1a g1ace:Ewydice et Orph6e,Heurtebise1es mさne.I1s regardent1eur
47
ここでもオルフェたちは鏡を通過している。ただし、第十三場における鏡の通過は私たちが第
一部で見たものとは異なると言えるだろう。それまで鏡は生者の世界と死者の世界の境界であ
った。しかし、第十三場において、鏡が結んでいる世界は生者の世界と死者の世界ではないの
である。
舞台上には登場しない鏡の向こう側の世界について詳しく把握することはできない。しかし、
第十場において、鏡の向こう側から死者であるユーリディスが現れたことや、死んだオルフェ
が彼女に導かれながら鏡を通過したことから、鏡の向こう側の世界はそれまでと同様に死者の
世界であることが推測される。
世界が変化したのは鏡のこちら側の世界、つまり舞台上の世界である。「舞台が空に昇る」や
「まるで初めて見たかのように」という台詞からは、第十三場において舞台の場所が変化しだ
ということが読み取れる。オルフェの家は生者の世界から別の世界へと変化しているのである。
この別の世界がどのようなものなのかは第十三場におけるオルフェの祈りの台詞で明らかにさ
れている。
オルフェ:神よ、あなたが私たちに私たちの住まいと私たちの家庭を唯一の天国として与
えて下さったことを、そしてあなたの天国の扉を私たちに対して開いて下さっ
たことを私たちは感謝します。あなたが私たちのもとにウルドビーズを送って
くださったことを感謝し、それにも関わらず私たちの守護天使の存在を私たち
が認めていなかったことの罪を認めます。あなたがユーリディスを救って下さ
ったことを感謝します。彼女は愛によって馬の形をした悪魔を殺し、そして彼
女も愛によって死んだがために救われたのです。あなたが私を救って下さった
ことを感謝します。私が詩を愛していたがために、そしてあなたこそが詩であ
るがためにわたしは救われたのです。アーメン50。
オルフェはこの新しい世界のことをparadis(天国)と表現している。舞台上の世界は空に昇っ
たことにより、地上の世界から空の世界、つまり天国へと変化しているのである。第十三場の
以前では、鏡の通過は生者の世界から死者の世界への、死者の世界から生者の世界への移動で
あったが、ここでは死者の世界から天国への移動となっている。
maison comme s’i1s1a voyaient pour1a premiさre fois.》0ユ,p,422,
500rph6e:Mon Dieu,mus vous remercions de nous avoir assign6notre demeure et notre m6nage comme seu1
paradis et de nous avoir ouvert votre paradis.Nous vous remercions de nous avoir envoy6Heurtebise et
nous nous a㏄usons de n’avoir pas reconnu notre ange gardien.Nous vous remercions d’avoir sauv6
Eurydice parce que,par amour,e1Ie a tu61e diab1e sous1a forme d’un cheva1et qu’e11e en est morte.
Nous vous remercions de m’avoir sauv6parce que j’adorais1a po6sie et que1a po6sie c’est vous.Ainsi
SOit−i1.
乃〃,P.422、、
48
ところで、オルフェは彼らの家が天国と変化したのは神の救いによるものであると述べてい
る。言うまでもなく、ここでの神とはキリスト教における神であるのだが、作品においてDieu
(神)という言葉はそれまで一度も使われていない51。つまり、第十三場において神という概念
は何の前置きもなく、それまでの物語の流れとは全く無関係に突然用いられているのである。
そこで、オルフェが死に天国へ至るまでの過程を簡潔に確認してみよう。
第九場でバッカスの女たちに襲撃に気づいたとき、ウルドビーズはオルフェに逃げるよう説
得するが、オルフェはそれを断る。その際、彼らは次のような会話を行う。
ウルドビーズ:あなたはもう不可能なことをやりました。
オルフェ :不可能なことをこそ僕はやらなくてはいけない。
ウルドビーズ:あなたはいくつかの陰謀に耐えました。
オルフェ :まだ血が出るほどではない。
ウルドビーズ:あなたがおそろしい……。(ウルドビーズの表情に超人間的な喜びが表れる。)
オルフェ :彫刻家によって傑作へと削られている大理石は何を思うだろうか? 彼ばこ
う考える。「僕はたたかれている、傷つけられている、侮辱されている、砕か
れている、もうだめだ」この大理石は愚か者だ。人生が僕を削っているんだ、
ウルドビーズよ! 人生が傑作を作っているんだ。その打撃を理解せずに耐
えなくてはならない。身構えなくちゃいけないんだ。受け入れて、落ち着い
たまま、むしろそいつを手伝って、協力して、仕事を終わらせてやらなきゃ
いけないんだ52。
この台詞については後に詳しく見ていくのでここでは深くは触れないが、いずれにせよ、この
台詞において神という言葉は一度も使われていない。ましてや、オルフェは神に救いなど求め
てはいないのである。そして、この台詞の後、オルフェはバルコニーから落下し、女たちによ
って体を引き裂かれる。続く第十場では、部屋に投げ込まれたオルフェの首が次のように言う。
51第一場において、オルフェが詩作行為のことを「神々との隠れん坊」に例える場面があるが(乃〃,p.392)、そこで
使われているのは複数形のdieuxであり、大文字のDieuではない。そのときオルフェの念頭にあるのはミューズを始
めとしたギリシア神話の神々であり、キリスト教の神であるとは考えられない。
52Heurtebise:Vous avez d6j査fait1’impossib1e.
Orph6e :A1’impossibIe je suis tenu.
Heurtebise:Vbus avez r6sist6主d’autres caba1es.
0rph6e :Je n’ai pas encore r6sist6jusqu’au sang.
Heurtebise:Vous m’e愉ayez...(石θ向β∂8θ♂慨舳r加わ由θθ理由血θ口〃θカゴθ舳功α㎜∂血θ。)
0rph6e :Que pense1e marbre dans1eque1un scu1p七ew tai11e un che向’鵬uvre?I1pense:{{0n me frappe,on
m’abime,on m’insu工te,on me brise,je suis perdu、》Ce marbre estidiot.La vie me tai11e,Heurtebise!
Eue fait un chef−d’o∋uwe.I1faut queje supporte ses coups sans1es comprendre.I1faut que je me
raidisse.I1faut que j’accepte,que je me tienne tranqui11e,que je1’aide,que je co11abore,que je1ui
Iaisse finir son travai1、
”♂,PP・414・415・
49
オルフェの首(重傷者の声で話す):ここはどこなんだ? なんて真っ暗なんだ。なんて頭
の重いことだ。それに体が、体がひどく痛い。僕はバルコンから落ちたはず
だ。とても高くから、そうとてもとても高くから頭を下にして落ちたはずだ。
ところで僕の頭は……? そうだ、そう……ひとまず頭だ……どこだ、僕の
頭は? ユーリディス1 ウルドビーズ! 助けてくれ1 君たちはどこに
いるんだ? 明かりをつけてくれ。ユーリディス!体が見えない。頭も見
つからない。僕にはもう頭も件もない。もう分からない。からっぽだ、僕は
どこもかしこもからっぽだ。説明してくれ。起こしてくれ。助けてくれ!助
けてくれ! ユーリディス! (うめき声のように)ユーリディス……ユー
リディス……ユーリディス……ユーリディス……ユーリディス……53
ここでオルフェは初めて助けを求める。ただし、ここで彼が助けを求めているのは神ではなく
ユーリディスである。そして、この後彼を助けに現れるのは神でも守護天使であるウルドビー
ズでもなく、ユーリディスである。なお、その際彼女はオルフェに「あなたを連れて行く許し
はもらったわ」と述べる。第十三場でこの許しは神によって与えられたもので、オルフェが連
れて行かれた場所は天国であったことが明らかになるのだが、少なくともこの第十場において
はこの許しに関して詳細は何も語られていない。
このように、第十三場の展開はそれまでの流れと関係なく唐突に行われている。第十三場で
登場する天国についても神についても、それ以前には一度も言及されていない。オルフェたち
は作品の末尾において突然現れた新しい世界に導かれるのである54。
この時のオルフェの反応は興味深い。「まるで初めて見たかのように」部屋を見渡すオルフェ
の姿からは、住み慣れた家が天国へと変わったことに対する彼の驚きが読み取れる。しかし、
彼は突如現れた天国の存在を決して疑わない。彼は神が自分たちを天国に導いた理由も、自分
の犯した過ちについても理解している。この瞬間、神や天国が存在することも、神とは詩であ
ることも、彼やユーリディスにとっては当たり前のことなのである。つまり、第十三場では舞
台の場所が突然変化するだけでなく、物語の世界観自体も知らないうちに変化しているのであ
53La t銚e d’0rph6e,θ〃θμ〃θ舳θoム㎜血♂七〃郭2刀ゴるる舶4:0缶suis−je?Comme i1fait noir_Comme j’ai1a tεte
1ourde.Et mon corps,mon corps me fait si ma1.J’ai砒tomber du ba1con.J’ai砒tomber de
trさs haut,de trさs haut,trさs haut sur1a tεte,Et ma t6te...?au fait,oui...je par1e de ma tεte...
○亡est−e11e,ma t6te?Eurydice!Heurtebise!んdez−moi!o雌tes−vous?A11umez1a1ampe.
Eurydice!Je ne vois pas mon corps.Je ne trouve p1us ma t6te.Je n’ai p1us ni t6te ni corps.Je
ne domprends p1us.Et j’ai du vide,j’ai du vide partout.Exp1iquez−moi.R6vei11ez−moi.Au
secours!Au secours!Eurydice!(0o伽〃θα刀θρ狛血旭)Eurydice...Eurydice...Eurydice...
Eurydice...Eurydice.、.
北ノ♂,pp.415−416.
54PierreDubourgはこうした0ユの終わり方を「妖精物語の終わり方」と称している(C£Pieere Dubourg,oμo危,p.
43)。興味深いことに、同名の妖精物語を題材として作られた映画『美女と野獣』(1946年上映)は、ベルと王子に戻っ
た野獣が宙に浮き、王子の王国へと向かっていく場面で終わっている。『美女と野獣』においても舞台は最後には空を上
っていくのである。
50
る。そして、オルフェやユーリディスたちはこの突然の変化を何事もなかったかのように受け
止めてしまう。
なお本筋からはややそれるが、07の成立過程を見ることによってこうした世界観の突然の変
化にある程度の説明を与えることはできるだろう。『知られざる者の日記』において、コクトー
は次のように述べている。
私の戯曲『オルフェ』は、最初は聖母とヨセフの物語になるはずだった。天使(見習い
大工)のおかげで彼らが耐え忍ぶ悪口、説明不可能な妊娠に直面したナザレの悪意、村の
悪意によって夫婦たちが逃げざるを得なくなったことなどの物語になるはずだった。
この筋書きは多くの誤解を受けそうだったので、私はそれをあきらめた。それをオルフ
ェのテーマに置き換えたのだ。そこでは、詩の説明不可能な誕生が神の子のそれと代わっ
た55。
この記述からは、0ノが当初はキリスト教の物語を題材とした作品となる予定であったことがわ
かる。そこから、07におけるキリスト教的世界の存在は、作品執筆以前にコクトーが想定して
いた筋書きの名残であると言うこともできるだろう。死神や守護天使といったキリスト教的な
シンボルが登場する点からも、0ノはギリシア神話の世界とキリスト教の世界が交錯した作品で
あるとも言える。
しかし、0ノ以外の作品にも目を向けてみると、こうした物語の終結部における新たな世界の
突然の出現は07だけにしか見ることのできないものではないことがわかる。私たちが今問題と
しているのはこうした展開の類似性を詳細に見ていくことであり、作品の成立過程から作品を
説明しようとすることが目的ではないことを改めて強調しておこう。
(2)rポールとヴィルジニー』
1920年、0ノの執筆に先立って、コクトーはラディゲとともにベルナルダン・ド・サン=ピ
エールの『ポールとヴィルジニー』を原作としたオペラ・コミックの台本を創作している。コ
クトーたちの『ポールとヴィルジニー』は全三幕からなっており、それぞれ、Leparadisperdu
(失われた楽園)、Chez1es sauvages(野蛮人たちの国で)、Le vrai paradis(本当の楽園)と
いう副題が付けられている。おおまかなあらすじは原作のものとほとんど変わらないが、第三
幕における展開は原作のものとは大きく異なる。ここでは、第三幕の第四場以降の展開につい
55《 Ma piさ。e0ψゐ6θdevait銚re primitivemen七une histoire de Ia Vierge et de Joseph,des ragots qu’i1s subirent
主。ause de1’ange(aide−charpentier),de1a ma1vei11ance de Nazareth en face d’une grossesse inexp1icab1e,de
1’ob1igation o亡。ette ma1vei11ance d’un vi11age mit1e coup1e de prendre1a∼ite.
Lintrigue se pr6tait主de te11es m6prises quej’y renongai.Je1ui substituai1e thさme orphique o白1a naissance
inexp1icab1e des poさmes remp1acerait ce11e de1’Enfant Divin.))皿p.50.
51
て見ていこう。第三幕第四場はヴィルジニーの死を知らされたポールが舞台上に現れるところ
から始まる。小屋を出るとポールは死んだはずのヴィルジニーと出会う。そして、彼らは次の
ような会話を交わす。
ポール
まさか、君は死んでなかったのか? みんなに教えに行くよ。
ヴィルジニー: みんなにはまだ私を見ることはできないわ。私を見るためには死んでなく
てはいけない。
ポール
だけど、僕は……?
ヴィルジニー: あなたは死んでいるわ。
ポール
冗談だろ。僕は死のうとしていた。だけど、君にまた会えたし、いたって
元気だ。
ヴィルジニー: 死は取るに足らないことよ。あなたは死んでいる。私も死んでいる。私た
ち満足よ。死んだ後には、もう死ぬことはできない。みんなが好きな場所
で、いつも一緒に暮らすことができるわ。
ポール
なんてすてきな遊びだ!
ヴィルジニー: 私たちがやっていた楽しい隠れん坊遊びを思い出して。
ポール
隠れあって、見つけあう(ヴィルジニーを抱きしめる)。こんなに楽しいこ
とは一度もなかった。
ヴィルジニー: どうやって遊ぶか教えてあげるから、手を貸して56。
ポール白身が主張しているように、物語の展開上、ポールはまだ生きているはずである。しか
し彼は気づかないうちに生者から死者になる。この移行は観客にも知らされずに行われている
のであり、観客はポールと同じようにヴィルジニーの台詞よって初めて彼の死を知らされるの
である。
あまりにも唐突に描かれるポールの死の背景には、次のような死生観がある。
生は裏で死は表/常に同じ世界の上57
56Pau1 :Tuゴes donc pas morte?Je cours pr6venir tout1e mon−e.
Virginie:I1ne peuvent pas me voir encore.n faut6tre mort pour me voir.
Pau1 :Mais moi?..、
Virginie:Tu es mort.
Pau1 :Tu p1aisantes.J’a11ais mouri4mais je te revois et je me porte主mervei11e.
Virginie:La mort est peu de chose.Tu es mort.Je suis morte et nous sommes contents.Aprさs1a mort on ne peut
p1us mourir On vit toujours ensemb1e dans1’endroit qu’on pr6胎re.
Pau1 :Que1jo1i jeu!
Virginie:Souviens−toi de nos bonnes parties de cache−cache.
Pau1 :On se cherche,on se trouve¢伽わ蝪醐舳后吸昭和jθノJe ne me suis jamais tant amus6.
Viriginie:Donne−moi1a main que je t’apPreme comment onjoue.
」9K pp.141−142.
52
これはポールとヴィルジニーの会話に続くヴィルジニーの歌の歌詞である。彼女は歌の中で、
生と死は同じ世界の裏と表であることをポールに告げる。07では生と死の世界は鏡を境界とす
る別々の世界であったが、『ポールとヴィルジニー』において生と死の世界は同じ一つの世界と
して描かれている。ポールがヴィルジニーの言葉によって初めて自分の死に気づいたように、
この世界において生と死は視点の違いに他ならない。見る角度を変えた者だけが、はじめて死
の世界の存在に気づくのである。
ここで注目すべきは、こうした死生観について物語中言及されることはそれまで一度もない
という点である。それまでの物語の展開は原作のものとほとんど変わらない。しかし、この終
結部において、物語の世界観は突然変わり、死者たちが舞台上に姿を現すようになる。オルフ
ェが突如現れた天国に疑問を持たないように、ポールも死者の世界をすんなりと受け止めてし
まうのである。物語の末尾において世界観が突然変化する、あるいはそれまで伏せられていた
世界観が突如展開されるという点においてこの二作品は共通していると言えるだろう。
rポールとヴィルジニー』の各幕につけられている副題に改めて注目してみよう。第一幕と
第三幕の副題では、paradis(楽園)という言葉が使われている。しかし、第一幕の副題と第三
幕の副題の中で使われているこの楽園という言葉はそれぞれ別の場所を表していると考えられ
る。第一幕の副題である「失われた楽園」が意味しているのはポールたちの住むフランス島の
ことである。アフリカの孤島であるフランス島の人々は土着的な生活を営んでおり、洗練され
た都パリの人々から見ると彼らは野蛮人に見える。しかし、ポールたちにとっては生まれて以
来親しんできたこの島こそが楽園であり、彼らからすると政治的な駆け引きが渦巻くパリの社
交界こそが野蛮と言うにふさわしい。ヴィルジニーにとってパリヘ向かうことは、楽園を離れ
て野蛮人たちの世界で暮らすことを意味している。だからポールとヴィルジニーが別れ離れに
なる第一幕は「失われた楽園」と名付けられ、パリでのヴィルジニーの生活が描かれている第
二幕は「野蛮人たちの国で」と名付けられているのである。上と同じように、第三幕の副題で
ある「本当の楽園」が指し示しているのもフランス島であると見なすのも妥当であろう。しか
し、Vrai(本当の)という形容詞がわざわざ使われていること、第三幕では死者たちの世界と言
う新しい空間が提示されていること、そしてその空間がポールたちにとって好ましい空間とし
て描かれていることなどを考えると、「本当の楽園」とは死者たちの世界のことだとも考えるこ
とができるのではないだろうか。ポールとヴィルジニーたちもオルフェとユーリディスと同様
に最後にはparadisに至るのである。
ところで、0ノの天国はオルフェたちが今まで住んでいた部屋であった。つまり、この天国の
特徴として、姿形は慣れ親しんだ生の世界のものであるにもかかわらず、それまでの世界とは
57{{Z∂向θθβ左2ノセ刀曲0ノ君ノ2〃0rCθ8Cづノちηγθr8/クb功0u雌8αアノθ〃コ6五ηθα刀ゴγθr8》皿ゴ♂,p.142.
53
別の世界であることが挙げられる。この特徴は『ポールとヴィルジニー』の本当の楽園につい
ても当てはまるだろう。生者と死者が隔てられているように生の世界と死の世界は確かに別の
世界である。しかし、同時にそれらは同じ一つの世界の上に存在しており、同じ空間上に展開
されている’だからこそポールとヴィルジニーたちは「みんなが好きな場所で、いつも一緒に
暮らすことができる」のである。『ポールとヴィルジニー』において生と死の世界は空間や境界
によって区別されてはいない。それらの隔てはポールたちの意識によって生じているのである。
(3)『地獄の機械』
『地獄の機械』の最後の幕である第四幕は次のように展開する。ジョカストがスカーフで首
を吊っているのを見つけ取り乱すエディプは、自分がライユスとジョカストの子供であること
を知らされ、ジョカストの髪留めで自ら目をつぶす。すると、死んだはずのジョカストがエデ
ィプを助けるために彼の前に現れる。エディプとテイレシアスは彼女の姿に気づくが、クレオ
ンやアンティゴーヌは彼女を見ることができない。そして、ジョカストとエディプは街を追放
された彼についていこうとするアンティゴーヌとともに舞台を去っていく。
目をつぶしたエディプを見て、クレオンとテイレシアスは次のような会話を交わす。
クレオン :彼に街を通らせることはできない。そんなことをすれば、恐ろしいスキャ
ンダルになってしまうだろう。
テイレシアス(声をひそめて):ペストの街のことか? それならば、あなたもご存知の通
り、彼らはエディプがそうでありたいと思っていた王を見ていたのだ。今
の彼では彼らの目には入らないだろう。
クレオン :盲目になったから、彼は見えなくなるとあなたは言うのか。
テイレシアス:ほとんどその通り。
クレオン :ああ1 あなたの謎掛けや象徴にはづんざりだ。私の頭は肩の上にあるし、
この私の足は大地の方を向いている。命令を出そう。
テイレシアス:あなたの警察はよくできているよ、クレオン。だが、この男がいる場所で
は、彼らにはもはやささいな権力すらないだろう58。
58Cr6on :I1est impossib1e qu’on1e1aisse traverser1a vi11e,ce serait un scanda1e6pouvantabIe.
Thir6sias,加β:Une vi11e de peste?Et puis,vous savez,i1s voyaient1e roi qu’0珊ipe vou1ait6tre;i1e ne verront
pas ce1ui qu’i1est.
Cr6on :Vous pr6tendez qu’i1deviendra invisib1e parce qu’i1est aveug1e.
Thir6sias:Presque,
Cr6on :Eb bien!j’en ai assez de vos devinettes et de vos symbo1es.J’ai ma t6te sur mes6pau1es,moi,et1es
pieds par terre.Je vais donner des ordres.
Thir6sias:Vbtre pohce est bien faite,Cr6on;mais oh cet homme se trouve,e11e n’aurait p1us Ie moindre pouvoir
凪pp.540−541.
54
変わり果てたエディプの姿を民衆たちが見て騒ぎになることを恐れるクレオンに対して、テイ
レシアスは、理想的な王の姿しか民衆たちは見ないから、誰も今のエディプには気づかないと
言う。
ここで注目すべきはテイレシアスの最後の台詞である。彼は、エディプはもはやクレオンた
ちのいる場所、つまり権力者たちが支配する地上の世界とは別の場所にいると述べている。エ
ディプと、彼の前に姿を現したジョカストたちが交わす次の会話にも注目してみよう。
エテイフ
ジョカスト! 君だ1 君が生きている!
ショカスト: いいえ、エディプ。私は死んでいるわ。盲目だから、あなたには私が見える
の。他の人々には私のことは見えないわ。
エテイフ
テイレシアスは盲目だ…・
ショカスト: たぶん、彼には少しは見えるわ・・…・でも、彼は私のことを愛しているから、
何も言わないでしょう。
エアイフ
妻よ!私に触れるな…・・
ショカスト: あなたの妻は首を吊って死んだわ、エディプ。私はあなたの母よ。あなたを
助けにきたのは、あなたの母なのよ……この階段を一人で降りることだけでも、
どうするっていうの、坊や?
エテイフ
お母さん!
ショカスト: ぞうよ、坊や、わたしのかわいい坊や……人間には憎むべきことに思われる
物事も、私のいる場所ではどれだけささいなことか、あなたが知っていればい
いのに。
エテイフ
僕はまだ地上にいます。
ショカスト: かろうじてね……59
この会話においても、ジョカストが人間たちのいる場所とは別の場所にいること、そしてエデ
ィプもまたその場所に至ろうとしていることがはっきりと述べられている。
590≡】dipe:Jocaste!Toi!Toi vivante!
Jocaste:Non,αdipe,Je suis morte.Tu me voir parce que tu es aveug1e;1es autres ne peuvent p1us me voir
(Edipe :Tir6sias est aveug1e...
Jocaste:Peut・銚re me voit−i1un peu...mais i1m’aime,i1ne dira rien...
個dipe:Femme!ne me touche pas... 一
Jocaste:Ta femme est morte pendue,O団dipe.Je suis ta mさre,C’est ta mさre qui vient註ton aide...Comment
ferais−tu,rien que pour des㏄ndre seu1cet escaIier,mon pauvre petit?
㏄dipe:Mamさre!
Jocaste:Oui,mon enfan七,mon petit enfant...Les choses qui paraissent abominab1es aux humains,si tu savais,
de1’endroit o心j’habite,si tu savais comme e11es on七peu d’importance.
O≡】dipe :Je suis encore sur1a terre.
Jocaste:Apeine_
北ゴ♂,p.541.
55
それでは、彼らのいる場所とはどのような場所なのだろうか。テイレシアスはエディプたち
のいる場所には権力者であるクレオンも警察たちも立ち入ることはできず、〈くI1S Sont SouS
bome garde(彼らは完全に守られている)》と述べる。つまり、エディプたちのいる場所はク
レオンのいる場所から区別されているだけではなく、その間には乗り越えがたい壁が存在して
いるのである。地上においてクレオンが有している権力を持ってしても、その境界を乗り越え
ることはできない。エディプたちのいる世界は人間たちの政治的、社会的秩序から守られてい
るのである。このことはジョカストの台詞からも読み取れる。彼女は自分のいる場所では近親
相姦という人間にとって忌むべき罪は意味を成さないと述べている。彼女のいる場所では人間
の倫理的秩序も通用しないのである。つまり、エディプたちのいる場所とは人間の作り出すあ
らゆる秩序から隔てられた別の世界であり、それは人間にとっての未知の世界であると言うこ
とができるだろう。
ところで、『地獄の機械』には未知の世界といえる世界が三つ存在する。一つ目は、第一幕で
ライユスの亡霊によって述べられる死者の世界である。二つ目は、第二幕に登場するスフィン
クスとアニュビスたちが属する神々の世界である。そして三つ目の世界こそ、私たちが今見て
いるエディプとジョカストたちのい.る世界である。
人々が生きる地上の世界とは異なるという点は、これら三つの世界に共通している。また、
これらの世界は共通して不可視性を持つ。本来、生者には死者の姿が見えず、そのためライユ
スの亡霊はかつて生者であった頃の姿をとることでジョカストたちの前に現れようとする。神
的存在であるスフィンクスも少女の姿をすることで、生者たちと接触することを可能とする。
第四幕でエディプとジョカストたちが至る三つ目の世界に関しても、テイレシアスとクレオン
の会話において不可視性を孕んだ世界として描かれている。この未知の世界にいるエディプの
姿を街の人々は見ることができないと述べられていたことを思い出そう。
しかし、私たちが今見ている三つ目の未知の世界は、他の二つの世界とはいささか毛色が異
なる。一つ目と二つ目の未知の世界に関して言えば、それらの世界に所属する者たちは明らか
である。一つ目の世界に住むのは死者たちであり、二つ目の世界に住むのは神々である。地上
の世界とこの二つの世界の関係は、それぞれ生と死の関係、人と神の関係であり、そこには明
確な境界線が引かれている。ところが、三つ目の世界と地上の世界の境界は前者二つのものと
比べると曖昧に設定されている。エディプがアンティゴーヌを連れて街から出て行くことを引
き止める義務が自分にはあるというクレオンに対して、テイレシアスは次のように言う。
テイレシアス:義務だと! 彼らはもはやあなたには属していない。もはやあなたの権力
には服従していないのだ。
クレオン では、誰に属しているのだ?
56
テイレシアス:民衆に、詩人たちに、純粋な心に60。
クレオンの言葉によれば、エディプたちのいる世界は民衆の、詩人たちの、そして純粋な心を
持つ者たちの世界となる。しかし、テイレシアスのこの言葉はエディプのいる場所がクレオン
のいる地上から隔絶されている理由を十分に説明していない。死や神は人間の力を超えた存在
であるのだから、死者や神々が地上とは別の世界に住むものとして描かれるのは十分納得でき
るだろう。だが、民衆、詩人、心清らかであることは、死者や神であることに比べるとさほど
絶対的なことではないと言えるだろう。それに加えて、「民衆」、「詩人」、「純粋な心」という言
葉に関する具体的な言及は作中においてそれまで一度もない。コクトーは物語の中でこれらの
言葉に特別な意味付けを行うことなく、いきなりこれらの言葉を世界の境界を示すものとして
用いているのである。こうしたことから、物語の末尾においてエディプは何の前触れもなく、
突如、不可解な世界へと移動していると言うことができるだろう。
2)実現不可能な愛の成就
このように、これらの三作品は物語の終盤に新たな世界が登場し、主人公たちがそこに到達
するという点で一致している。私たちは後にこれらの世界について、コクトー的詩人の観点か
ら考察していくことになるが、その前に、これらの世界への主人公たちの到達が物語において
重要な役割を担っているという点についても指摘しておくべきだろう。
天国にたどり着いたオルフェとユーリディスは、そこで互いの愛を確かめ合う。オルフェは
祈りの台詞の中で、それまでのユーリディスの行為は彼に対する愛1音から生じたものであるこ
とを認めている。ところで、オルフェがユーリディスに理解を示す場面はこの第十三場をのぞ
くと作中ほとんどない。第十三場以前では、ユーリディスのあらゆる行為はオルフェをいらだ
たせる。彼女が馬のことを悪く言うことも、アグラオニースのことを話題に挙げることも、ウ
ルドビーズと仲良くやっていることも、オルフェにとっては全て気に食わない。このことはユ
ーリディスについても当てはまる。彼女もオルフェの行為を理解しようとしない。ユーリディ
スは新たな詩を創作しようとするオルフェの行諦を「まじめじゃない」と非難してきた。
このようにオルフェとユーリディスたちは劇中終始反発し合うのだが、そうした彼らの仲違
いは彼らの性質的な違いから生じていると言うことができるだろう。結論から言うならば、オ
ルフェは未知に深く関わる人物なのであり、ユーリディスは未知と縁のない人物なのである。一
ユーリディスが未知と関わりを持たない人物であることをもっとも明らかにしているのが次
の会話である。ウルドビーズが宙に浮くのを目撃した彼女は彼に対して次のように述べる。
60Tir6sias:La devoir!I1s ne t’appartiennent p1us.I1s ne reIさvent p1us de ta puissance.
Cr6on :Et査qui apPartiendraient−i1s?
Tir6sias:Au peup1e,aux poさtes,aux co∋urs purs、
ノろゴ♂,p.542.
57
ユーリディス:嘘をつがないで、ウルドビーズ! 私は見たんです。この目ではっきりと
見たんです。やっとのことで叫び声をこらえました。この気違いたちの家
で、あなたは私の最後のよりどころでした。あなたは私をおびえさせない
唯一の人で、あなたのそばにいると私は心のバランスを取ρ戻すものでし
た。でも、いくらしゃべる馬と一緒に暮らしているからといっても、宙に
浮く友人は怪しいものにかわりありません。近づかないで! さしずめ、
あなたが背負っているガラスの光にさえ、鳥肌が立ちます。説明してくだ
さい、ウルドビーズ。どうぞ、話してください61。
彼女の詰問に対して、ウルドビーズは彼女が夢を見ていただの、彼女の見た光景は目の錯覚に
すぎないだの言い逃れをする。しかし、ユーリディスは納得しない。
ユーリディス:縁日のからくりなんてもんじゃなかったわ。あの光景は美しくもあり、恐
ろしくもありました。あの瞬間、私にはあなたが、事故みたいに恐ろしく、
虹のように美しく見えました。あなたは窓から落ちる男の叫び声であり、
星々の沈黙でした。あなたが怖いです。私はあまりにも率直なので、その
ことをはっきりと言います。もし黙っていたいなら、黙っていてください。
でも、私たちの関係が以前のものと同じであることはもはや不可能です。
あなたは単純だと信じていましたが、あなたは複雑だったのです。あなた
は私のような人種の側にいると信じていましたが、この馬の側にいたので
す62。
彼女は自分が「素直」で「単純」な人間であると自覚している。彼女は、言葉を発する馬や、
その馬のことを可愛がるオルフェや、宙に浮くウルドビーズたちのような「複雑」な者たちを
理解できず、彼らに恐怖さえ感じてしまう。彼女は、人間の言葉では説明できない超自然的な
61Eurydice:Ne mentez pas,Heurtebise!Je vous ai vu,de mes yeux vu.J’ai eu toutes1es peines du monde主
6touffer un cri.Dans cette maison de fbus,vous6tiez mon dernier refuge,1a seu1e personne qui ne
m’effrayait pas,auprさs de1aque11eje r色trouvais mon6qui1ibre.Mais on a beau vivre avec m cheva1
qui par1e,un ami qui且。tte en1’air devient forc6ment su苧pect・Ne m’apProcbez pas!Jusqu’主nouve1
ordre,m6me votre1umiさre dans1e dos me donne1a chair de pou1e.Exp1iquez−vous,Heurtebise:je
VOuS6COute.
0ユ,p.398.
62Eurydice:I1ne s’agissait pas d’une machine,C’est beau et atroce.Lespace d’une seconde je vous ai vu atroce
comme un accident et beau comme1’arc−en−cie1.Vous6tiez1e cri d’uh homme qui tombe par1a fen6tre
e七1e si1ence des6toi1es.Vous me faites peur Je suis trop缶anche pour ne pas vous1e dire.Si vous
vou1ez vous taire,taisez−vous;mais nos rapPorts ne peuvent p1usさtre1es m6mes.Je vous croyais
simpユe,vous6tes compIiqu6,Je vous croyais de㎜a race,vousεtes de ceue du Cheva工.
ノろゴ♂,pp.398−399.
58
出来事に反発する人物なのである。だから、彼女には超自然的なものに詩を求めるオルフェの
行為が理解できず、彼を非難し続ける。逆にオルフェにとってユーリディスは人知を超えた詩
を理解し得ない者たちの一人であり、彼の就く聖職の邪魔をする者たちの一人であり、彼自身
の言葉に従うならば、彼を「迫害する」者たちの一人なのである。
Fi1ipowskaはこうしたオルフェとユーリディスの関係に注目し、「彼〔オルフェ〕の悲劇は、
彼を取り巻く者たちや、彼を愛する者(ユーリディス)の無理解がなす逃れ得ない宿命の中で、
彼の持つ詩の天性を現実化することの不可能性にある63」と述べている。Fi1ipowskaによれば、
コクトーは詩的精神に対する普通の人々の無理解を表現するために馬を登場させる。オルフェ
のようなpo6tique(詩的)な人物はこの馬をペガサスと捉え、ユーリディスのようなnon
po6tique(非一詩的)な人物はそれを怪物と見なす。ウルドビーズは両者の間にいる人物であり、
詩的な世界と非一詩的な世界の仲裁をなすことが天使である彼に与えられた使命なのである64。
このようにオルフェとユーリディスは、本質的に相容れない者同士である。そもそも、人物
設定からして彼らの対称性は明らかである。オルフェは太陽を崇拝する教団の司祭であり、ユ
ーリディスはアグラオニース率いる月の教団の元信者である。作中においても、オルフェは月
という言葉に敏感に反応する人物として描かれている。詩人としてのオルフェにとっても、司
祭としてのオルフェにとっても、ユーリディスは対時する世界の住人なのであり、彼女が彼の
仕事の障害として扱われるのも当然であると言えよう。
しかし、彼らは対照的であると同時に、深く愛し合っている。彼らの愛情は反発し合う者同
士が抱く矛盾した愛情であると言えるだろう。Fi1ipowskaはコクトーの劇作品における愛につ
いて次のように述べている。
幸福な愛を実現することの不可自筆性は、コクトーの言う存在することの困難さのもう一つ
の要因である。彼にとって、愛における一致は存在しない。コクトーの作品において、愛
は常に悲劇的である。『コクトー』の中でジャン=ジャック・キムは、「毎回、死や乗り越
えがたい壁が愛し合う者たちを切り離しにやってくる」と述べてバる。仲違いと愛を切り
離して考えることはできないのである65。
オルフェは詩の実現と愛の実現という両立し得ない二つの選択肢の狭間にいるのであり、彼の
苦悩はそこから生じているのである。
63く{Sa trag6die est rimpossibi1it6de r6a1iser sa vocation po6tique dans sa condition humaine faite de
1’incompr6hension de ceux qui1’entourent et1’aiment(Eurydice).ルIrena Fi1ipowska,〃θ加θ刀おが像8ヵ雌8幽伽ノθ
肋崩加θゐ北∂刀0ooCθ〃,Poznan,universit6Adam Mickiewicz,s6rie ll Phi1o1ogie romane)),no4.1976,p.87,
64Cf皿ゴ♂,P.87.
65《Limpossibi1it6de r6a1iser un amour heureux est un autre facteur de1a di箇。u1t6d’6tre de Cocteau.Pour1ui,
1’unit6dans1’amour n’existe pas.Chez Cocteau1’amour est toujours tragique:・Chaque fbis1a mort ou que1que mur
in赴anchissab1e vient s6parer1es amants)16crit Jean Jacques鳴hm dans son Cocteau(J.J.Kihm,0oo云θ刎,p.91).
La rupture est ins6parab1e de1’amour.〉♪北ゴゴ,p.128.
59
彼のこうした状況は第十三場において一気に解消される。オルフェとユーリディスは神を介
することによって、天国へと変化した自宅で円満な夫婦生活を送ることができるようになる。
また、オルフェはそれ自身詩である神と出会うことによって、馬の言葉に詩を見いだそうとし
ていたことが過ちであったことに気づき、詩人としての正しい道を歩み始める。神と天国の登
場はオルフェの実現不可能な愛を成就させるのである。
こうした実現不可能な愛の突然の成就は『地獄の機械』においても見ることができる。エデ
ィプとジョカストは親子であり、彼らが異性愛によって結ばれることは許されざることである。
オルフェの愛の困難さが詩作行為との関わりから生じているのとは異なり、エディプの愛はそ
れ自体が禁じられたものであると言える。・
ここで、エディプのジョカストに対する愛について少し述べておこう。既に第二部で見たよ
うに、彼の愛は栄光を求める気持ちと結びついている。第二幕において、エディプとスフィン
クスは愛をめぐって次のような会話をする。
スフィンクス
栄光がお好きなの?
エアイフ
栄光が好きかどうかはわかりません。僕が好きなのは、足を踏み鳴らす民
衆、トランペット、はためく旗、人々が振る椋欄の枝、太陽、黄金、緋色の
布、幸福、機会、つまりは生きることなんです。
スフィンクス
あなたはそれらを生きることと言うのね。
エテイフ
あなたはどうなんですか?
スフィンクス .私は違います。はっきり言って、私は人生についてまったく違う考えを持
っています。
エアイブ
どんな考え?
ス.フィンクス
愛すること。愛する人から愛されること。
エアイフ
僕は僕の民衆を愛し、彼らは僕を愛するでしょう。
スフィンクス
公共の場は家庭ではないわ。
エアイプ
.公共の場が不都合になることはありません。テーバイでは、人々が一人の
男を求めています。もしスフィンクスを倒したら、僕がその男になるので
す。ジョカスト王妃は未亡人ですから、僕が彼女と結婚するのです……66
66Le Sphinx:Vbus aimez1a g1oire?
①dipe :Je ne sais pas sij’aime1a g1oire;j’aime1es缶u1es qui pi6tinent,1es trompettes,1es orif1ammes qui
c1aquent,1es pa1mes qu’on agite,1e so1ei1,1’or,1a pourpre,1e bonheur,1a chance,viwe enfin!
Le Sphinx:Vous apPe1ez ce1a vivre.
0ヨdipe :Et vous?
Le Sphinx:1M1oi non.J’avoue avoir une id6e toute dif挺rente de1a vie.
(Edipe :Laque11e?
Le Sphinx:A=m肌Etre aim6de qui on aime.
αdipe :J’aimerai mon peup王e,i1m’aimera.
Le Sphinx:La p1ace pubIique n’est pas un foyer
60
エディプにとって、人生で最も重要なことは栄光を得ることであり、愛について語る際にもそ
れは例外ではない。既に見たように、愛と栄光は不可分なものであり、栄光なくして愛される
ことはあり得ないのである。この時点の彼にとってジョカストを要ることは民衆たちのあげる
歓声と同様に、英雄であることの証にすぎない。
こうしたエディプの考え方はジョカストと実際に出会うことで変化する。もはや彼にとって
ジョカストは民衆たちの歓声や緋色の衣と同じものではない。彼はジョカストという一人の女
性を、「全身を打ち込んで」愛しているのである。しかし、だからといって栄光が彼にとってど
うでも良くなったという訳ではない。もしジョカストが王妃でなかったなら彼女のことを愛し
たかどうかと尋ねるテイレシアスに対して、エディプは次のように答える。
エディプ:いくども出された愚かな問いだ。もし、私が年老いていて、醜くかったら、そ
して見知らぬところからやってこなかったのならば、彼女は私を愛しただろう
か? 黄金や緋色の布に触れたとき、人々は恋の病にかかることはありえない
とでもあなたは思うのか? あなたの言う特権はジョカストの本質そのもので
あり、分離することはできないほどに、それらと彼女の身体は密接に入り組ん
ているのではないだろうか。ずっと前から、私たちは互いに身を任せてきたの
だ。彼女の腹は緋色のマントのひだやしわを隠している。それらは彼女が肩に
かけているマントのものよりもずっと高貴だ。私は彼女を愛している。強く愛
しているのだ、テイレシアスよ。彼女のそばにいると、私のいるべき本当の場
所をやっと占めている気がする。彼女は私の妻だ、私の王妃だ。私は彼女を手
に入れた、放しはしない、彼女を取り戻したんだ。だから懇願によっても、脅
迫によっても、どこから来たのかわからない命令に私を従わせることは、あな
たにはできないのだ67。
ジョカストの女性的魅力と栄光の魅力は複雑に結びついている。エディプがかつて手に入れる
ことを望んでいた栄光は、今やジョカストの身体によって具現化される。エディプにとって、
αdipe :La p1ace pub1ique n’empεche rien.AThさbes,1e peup1e cherche un homme.Sije tue1e Sphinx,je serai
cet homme.La reine Jocaste est veuve,je1’6pouserai...
ノ吻pp.502−503.
67(Edipe:Ques七ion stupide et cent fois pos6e,Jocaste m’aimerait−e11e sij’6tais vieux,Iaid,sije ne sortais pas de
1’inconnu?Croyez・vous qu’on ne puisse prendre1e ma1d’amour en touchant1’or et1a pourpre?Les
privi1さges dont vous par1ez ne sont−i1s pas1a substance m6me de Jocaste et si6troitement enchev6tr6s主
ses organes qu’onnepuisse1es d6sunir De toute6ternit6nous apPartenions1’un主1’autre.Sonventre
cache1es p1is et rep1is d’un manteau de pourpre beaucoup p1us roya1que ce1ui qu’e11e agrafe sur ses
6pau1es.Je1’aime,je1’adore,Tir6sias;auprさs d’e11e,i1me semb1e que j’occupe enfin ma vraie p1ace.C’est
ma femme,c’est ma reineI Je1’ai,je1a garde,je1e retrouve,et ni par1es priさres ni par1es menaces,vous
n’obtiendrez que j’ob6isse主des ordres venus je ne sais d’oさ.
乃ゴ♂,P.520。
61
王妃であることはジョカストの本質そのものであり、それ抜きの彼女のことなど彼には想像で
きない。彼にとって王妃でないジョカストも、ジョカストでない王妃も存在しないのである。
こうしたエディプの愛はジョカストとの婚姻によって実現されたかのように見える。しかし、
彼らが母と子の関係にある限り、彼らの愛は許されざるものである。第三幕から第四幕の間に
経った17年は「偽の幸福」にすぎない。彼の愛の破綻は最初から約束されているのだから、い
くら幸福な夫婦生活が続こうともそれはかりそめのものなのである。さらに、彼の悲劇は愛の
実現不可能性にあるだけではなく、彼があれほどまでに望んでいた栄光の実現不可能性にもあ
る。彼が栄光を手に入れるためにはスフィンクスを倒しテーバイの英雄となり、王妃であるジ
ョカストと結婚しなければならない。しかし、同時に彼はおぞましい近親相姦の罪を犯すこと
になり、それによって彼は街から追放されるまでに至る。王となることで彼が手に入れた栄光
は最初からすでにその崩壊が決定づけられているのである。その崩壊は、「地獄の神々によって
作られた最も完壁な機械」のように、一分の狂いもなく進んでいく。
オルフェが詩作行為とユーリディスヘの愛の両立不可能性を意識していたのに対して、エデ
ィプとジョカストたちは自分たちの本当の関係を物語の終盤まで知らないため、自分たちの愛
が実現不可能だとは思っていない。彼は絶対的な実現不可能性の中にありながら、最後の瞬間
までそのことに気がつかない。第四幕においても、エディプの犯した罪を最後に知るのは彼自
身である。そのことはエディプの悲劇性をよりいっそう強調する。決定的な運命の中にありな
がら、自分の自由を信じているエディプの姿が語られれば語られる程、全てが明らかになった
ときの衝撃は大きい。『地獄の機械』の序文に書かれているコクトー白身の言葉を使うならば、
「神々が大いに楽しむためには、彼らの生け贅が高いところから落ちる必要がある」のである。
しかし、愛の実現不可能性がエディプを一挙に襲い、神々によって仕組まれた悲劇が完成さ
れた後に突如奇妙なことが生じる。盲目となったエディプの前に死んだジョカストが現れ、彼
を未知の世界へと導く。既に見たように、この新たな世界において、近親相姦という概念は存
在しない。息子と母親が愛し合い結婚するという忌むべき行為も、この世界では母子の間の親
愛の情の表れへと変化する。新たな世界の登場によって、エディプの実現不可能な愛は形を変
えて成就するのである。
厳密に言うと、オルフェとエディプの愛を同じ部類にまとめることはできない。オルフェの
愛の実現不可能性は、詩人という枠組みの中で生じている。彼が詩人であることをやめれば、
彼はユーリディスと結ばれることができる。オルフェの愛の実現不可能性は後天的なものであ
る。それに対して、エディプの愛の実現不可能性は先天的なものである。彼は生まれながらに
してジョカストと結ばれることができない。
ポールの愛についてはどうだろうか。彼とヴィルジニーの愛を邪魔するものは身分である。
フランス島で、母親たちとともに暮らすポールとヴィルジニーは、互いを兄弟のよう一に愛して
62
いた。しかし、ヴィルジニーの母親ラ・トゥール夫人は貴族の血筋を憩いている。夫人の父親
が無くなると、夫人の叔母はヴィルジニーをパリに呼び寄せる。ここからはコクトーたち独自
の展開だが、叔母はある伯爵と結託し、ヴィルジニーを王族と結婚させることで地位を手に入
れようとしているのである。叔母の策略によってヴィルジニーは乳母と共にフランス島を離れ
パリヘと向かうことになる。離ればなれになったポールとヴィルジニーはますます互いのこと
を愛するようになる。ポールのことが忘れられず、陰謀渦巻く「野蛮な」パリの生活に耐えら
れないヴィルジニーは乳母ともにこっそり船に乗り込み、フランス島へと向かうが、嵐に襲わ
れた船は沈没し、ヴィルジニーは死んでしまう。
貴族の血筋を引くことによって、ヴィルジニーはフランス島を離れポールと別れ離れになる。
ヴィルジニーの血筋が彼らの愛を実現困難なものとしているのである。さらにヴィルジニーが
売ぬことによって、その愛は完全に実現不可能なものとなる。しかし、そのすぐ後に、突如ポ
ールたちは本当の楽園に至り、彼らの愛は成就する。
このように、作品の終結部に現れる新たな世界は実現不可能な(あるいは実現困難な)愛を
成就させる空間として描かれている。この世界の存在なくして、彼らの愛は成就することはで
きないと言えよう。彼らが実現不可能な愛の苦しみから解放されるためにはこの空間は必要不
可欠なものなのである。
しかし、この世界はそれほどまでの重要性を持つにも関わらず、不明確な世界として描かれ
ている。既に見たように、この世界の出現は唐突なものであり、その出現の理由や、主人公た
ちがその世界に到達した理由は曖昧にしか語られていない。そこで、これらの世界が持つ未知
性と重要性について、私たちが今まで見てきたコクトー的詩人という観点から、改めて考察し
ていこう。
3)詩人の発見
このように、これらの三作品は物語の終盤に新たな世界が登場し、主人公たちがそこに到達
するという点で一致している。何度も述べてきたように、ここで注目すべきはその世界の未知
性と、その登場の唐突きである。07の「天国」も、『ポールとヴィルジニー』の「本当の楽園」
も、『地獄の機械』の「民衆、詩人、純粋な心」の世界も、それまでの物語の流れとは無関係に
主人公たちの前に突然現れる。主人公たちがその世界に到達することができた理由は作中で一
応は示されている。オルフェは創作行為を通じて、詩そのものである神を愛していたから救わ
れ、天国に至ることができる。生と死は一つの世界にすぎないので、ポールはヴィルジニーと
再会することができる。エディプは盲目になり、また民衆や詩人たちの持つ純粋な心を持って
いたがために、ジョカストの姿を見ることができる。しかし、これらの説明は新たな世界が登
場した後に初めて語られるものであり、それ以前の箇所にその登場を予感させるような記述や、
63
その伏線となるような記述はほとんど見られないのである。
また、これらの説明は極めて曖昧なものであり、それらの世界を明確に定義づけできるもの
ではない。例えば、αの天国に関しても、私たちはオルフェの祈りの台詞によって、その輪郭
をぼんやりと掴むことしかできない。そもそも、この説明はオルフェ自身が述べているもので
あり、神が直接舞台上に登場して説明しているわけではない。彼の述べていることは、はたし
て本当なのだろうか。馬の言葉を自分の詩と勘違いしていたように、オルフェは再び過ちを犯
しているのではないだろうか。このように、オルフェたちがたどり着いた新たな世界は、最後
まで謎に包まれている。
つまり、これらの世界は不可解なものとして登場し、その後も不可解なままであり続けてい
るのである。これらの世界を前にしたとき、それを理解しようとすることはまるで問題になら
ない。それを最も強く表しているのが、これらの世界に対する主人公たちの態度である。彼ら
はこれらの世界を見つけた瞬間には驚くが、その驚きはすぐに消えてしまい、これらの存在を
すんなりと受け入れてしまう。オルフェは神に対して祈りを捧げ、ポールは母親たちを次々と
死者の世界に迎え入れ、食卓につく。エディプはジョカストやアンティゴーヌと共に街を出て
行く。この時、彼らにとって問題なのはその世界について詳細を問うことではなく、その世界
を見つけ、そこに到達したことなのではないだろうか。
こうした彼らの姿に未知なる世界に惹かれる詩人の姿を見ることは容易であろう。未知に詩
を見いだそうとする詩人にとって問題となるのは未知の世界を「まず見つける」ことである。『知
られざる者の日記』には次のような記述がある。
こうして、私は支離滅裂なことを言っている。私は、これらの覚え書きを捧げている学
者〔物理学者のルネ・ベルトラン〕にふさわしくなりたいと思っていた。しかし、それは
不可能だ。私は彼に謝る。彼が対立の理論の賛同者であり、詩人とはまず発見し、その後
にのみ探求するのだと彼が私に断言してくれているにもかかわらず、あまりにも多くの矛
盾に彼は驚くに違いない68。
また、コクトーは別の箇所で次のように簡潔に述べている。
まず見つける。その後に探す69。
第二部で引用したフロイトに関するコクトーの言及からわかるように、詩人にとって夜とは探
68《 Voi1主que je divague.Je vou1ais me rendre digne du savant auque1je consacre ces notes.C’est impossib1e.Je
1ui pr6sente mes excuses.Trop de contradictions1e doivent surprendre,bien qu’i1soit un adepte de Ia th6orie des
contraires,et bien qu’i1m’affirme que1es poさtes trouvent d’abord et ne cherchent qu’aprさs.》,凪p.156.
69くくTrouver a’abord.Chercher aprさs.》ノ拉♂,p.203、
64
末し得る領域ではない。詩人の仕事とは、夜を調べ尽くすことではなく、まず夜を発見し、そ
してその声を聞き、それに形を与えることなのである。そうした詩人の姿勢が詩人であるオル
フェはもちろん、詩人ではないポールやエディプたちにも反映されていると言うことができる
のではないだろうか。彼らにとって問題となるのは未知の世界を発見することであり、それを
探求することは二の次に他ならない。ましてや、自らが発見する限りその世界は存在するのだ
から、それを疑うこともその詳細を問うことも彼らにとっては必要ないのである。
逆に疑い、困惑する者は、未知を見いだすことのできない者たちである。鏡を通過し未知の
世界に至ることができるのは詩人と子供たちだけであったように、これらの作品においても突
如現れた世界を見いだすことができる者たちは限られている。0ノの警視、『ポールとヴィルジ
ニー』のラ・ブルドネ侯爵、『地獄の機械』のクレオン、彼らは最後まで未知の世界の存在に気
づくことができない。彼らは未知と縁のない者たちなのである。発見した主人公たちの幸福と、
詩人ではない者たちの困惑の対比は、これらの作品において共通していると言えるだろう。
こうした、未知の世界を発見することのできない者たちの困惑は、詩人が産み出した作品に
対する読者や観客の反応と通じるものがある。次の文章は1925年に行われた講演『青春とスキ
ャンダル』で取り上げられた、バレエ『バラード』70初演時の挿話である。
1917年、シャトレ座における『バラード』のスキャンダルは大変なものでした。劇は20
分間続きました。幕が降りた後に続いて起こった、劇場での15分間の事件の後、観客たち
は乳歯を始めました。桟敷で待っているピカソとサティに会うために、私がアポリネール
ーと一緒に廊下を通っているとき、一人の太った女性歌手が私を見つけました。「あそこに一
人いるわ!」と彼女は叫びました。彼女は作者の一人と言いたかったのです。そして、彼
女は帽子のピンを振り回しながら、私の目をくりぬくために、飛びかかってきました。
このハッカテータの夫とギヨーム・アポリネールが大変苦労しながら、私を助け出しま
した。
その後、私たちは桟敷での方で、もっとも美しい賛辞にも等しい、とても奇妙な言葉を
聞きました。一人の紳士が彼の妻にこう言いました。「こんなにも馬鹿げていると知ってい
たら、子供たちを連れて来ただろう。」まるでフォランの絵の説明文のようです。現代の公
衆に欠けているのは、まさに子供のような観察眼であり、大人として扱われることを望ん
ているために、この公衆はもはや退屈さにしか耐えることができないということに、この
紳士は気づいていなかったのです71。
701917年、ロシア・バレエ団によって上演された。コクトーが台本を、サティが音楽を、ピカソが美術と衣装を担当
した。
7111Le scanaa工e de此〃dθau Ch飢e1et en1917他t immense.La piさ。e durait vingt minutes.Aprさs1es quhze
minutes de曲ame dans1a sa11e qui suivirent}e baisser du rideau,des spectateurs en vinrent aux mains.Je
traversais1es cou1oirs avec Apo11inaire pour rejoindre Picasso et Satie qui m’attendaient dans une1oge1orsqu’une
65
子供のまなざし、つまり詩人のまなざしを忘れた観客たちは誰でも理解することのできる退屈
な作品にしか満足しない。だから、彼らは詩人の見た世界をそのままに伝える作品を見て、困
惑し、驚き、反発する。詩人にとって、作品が引き起こすこうした反応は、自分の作品が本当
の詩であることの証明に他ならず、作品が引き起こすスキャンダルは、作品に対する賛辞に等
しいのである。
観客たちの困惑によって作品の正当性が証明されるように、未知の世界に取り残された者た
ちの困惑はその世界の未知性を証明する。警視、ラ・ブルドネ侯爵、クレオンたちの存在によ
って、オルフェたちが到達した世界の未知性は強調されているのである。既に触れたように、
警視、ラ・ブルドネ侯爵、クレオン、彼らは皆行政や治安を司る側の人間である。『地獄の機械』
の言葉を使うならば、彼らは「地上」に生きる人々の代表であるとも言える。こうした人々の
困惑と主人公たちの幸福の対比は、地上と未知なる世界の関係を示しているとも言える。未知
なる世界は人間が生きる地上から隔てられており、そこに至ることができるのは詩人(オルフ
ェ)と子供(ポール、エディプ72)たちだけなのである。
4)非現実的な現実
ところで、私たちが今まで見てきた未知の世界には他にも共通点がある。αの「天国」はオ
ルフェの家が変化したものであるように、オルフェ、エディプ、ポールたちが発見した新たな
世界は、彼らが住み慣れた場所に存在していた。彼らが発見した未知の世界は、彼らの住み慣
れた場所と同じ空間上に存在しているのである。
もちろんこのことは、これらの作品が全て戯曲であることと無関係ではない。戯曲である以
上、これらの作品は舞台という一つの空間上で展開されなければならない。しかし、私たちが
ここで注目しなくてはならないのはそうした技術的な問題ではない。
このことについて見るにあたって、私たちは今一度、コクトーにおいて詩が持つ役割を考察
していかなくてはならない。既に第二部の第一章で私たちは、詩人の創作は現実に対する反抗
であることを確認した。詩人の詩は現実の貧しい壁を破壊し、現実の空気を一新させる。詩に
よって人々は今まで見ることのできなかったものを見るようになる。このことについて、『職業
の秘密』では次のように書かれている。
grossechanteusemereco㎜ut.《Envoi1主un!))s’6cria−t−e11e.E11evou1aitdireundesauteurs.Ete11esejetasurmoi
pour me crever1es yeux en brandissant une6ping1e主。hapeau.L
Le mari de cette ba㏄han七e et Gui11aumeApo11inaire eurent toutes1es peines du monde倉me sauver,
Aprさs nous entendimes,en haut,une phrase trさs dr61e et qui6quiva1ait au p1us be161oge.Un monsieur disait主
sa femme:《Sij’avais su que c’6tait si bεte,j’aurais amen61es enfants.1)0n dirait une16gende de Forain.Ce
monsieur ne se doutait pas que c’estjustement1e coup d’cei1enfantin qui manque au pubIic血。deme et qu’主肪rce de
vou1oir qu’on1e traite en grande personne,ce pub王ic ne supporte p1us que1’ennui.》凋pp.323−324.
72エディプがジョカストと再会するとき、彼が彼女の夫としてではなく、彼女の子供として描かれていたことを忘れて
はならない。
66
ところで、突然、自分の名前に直面し、それがまるで他人のものであるかのように感じ
る驚きをあなたたちは知っているだろうか。いわば、長年の親しみがもたらす、目も耳も
ふさぐ習慣なしに、名前の形を見て、その音節の音を聞いたときに感じる驚きである。例
えば、とてもよく知られていると私たちが思っている単語を、商人が知らなかったときの
感情が、私たちの目を開き、耳の栓を取り除く。杖の一振りは、平凡な場所を再び生き生
きとさせる。
同じ現象が、物体や動物に関して生じることもある。一瞬の間、私たちは犬や辻馬車や
家を、初めて見るかの上うに見る。それらが見せる特別で、途方もなく、滑稽で、美しい
全てのものはで私たちを圧倒する。しかし、その後即座に、習慣が消しゴムでこの力強い
イメージをこすってしまう。私たちは犬をなで、辻馬車をとめ、家で暮らす。それらをも
はや見ていない。
ここに詩の役割がある。それは、語のあらゆる力の中で、ヴェールを取る。私たちを取
り巻き、私たちの感覚が機械的に記録する驚くべき物事を、無気力を揺さぶる光のもとで、
裸にしてみせる。
目覚めたばかりの眠っていた人を驚かすために、奇妙な感情や物を遠くで探すことは無
駄である。それは、悪い詩人の方法であり、異国趣味に値する。
重要なのは、日々、彼の心や目がその上を滑っているものを、初めて見たり、感動した
りするかのように思われる角度や早さで見せることである。
これが、人間に許された唯一の創造なのである73。
限られた現実の中で生活する人々は習慣というヴェールに覆われてしまっている。だから詩人
は詩によってそのヴェールを剥ぎ、自らが発見した未知の世界を人々に明らかにしてみせる。
その時、人々が慣れ親しんでいた現実の風景は別のものへと変化する。詩によって、彼らは既
に見てきたものをまるで「初めて見るかのように見る」ことができる。このpour1apremiさrefois
73《 Maintenant,comaissez−vous1a surprise qui consiste主se trouver soudain en face de son propre nom comme
s’i1appartenait主un autre,主voi巧pour ainsi dire,sa飾rme et主entendre Ie bruit de ses sy11abes sans1’habitude
aveug1e et sourde que donne une1ongue intimit6.Le sentiment qu’un foumisseur,Par exemp1e,ne connait pas un
mot qui nous parait si connu,nous ouvre1es yeux,nous d6bouche1es orei11es.Un coup de.baguette fait revivre1e
工ieu COmmun.
I1arrive que1e m6me ph6nomさne se produise pour un objet,un anima1.Lespace d’un6c1air,nousγ卯。㎜5un
chien,un fiacre,une maisonρoαrゐμθ㎜お鵬危由Tout ce qu’iIs pr6sentent de sp6cia1,de缶u,de ridicu1e,de beau
nous a㏄abIe.Imm6diatement aprさs,1’habitude frotte cette image puissantd avec sa gomme.Nous caressons1e
chien,nous arretons1e丘acre,nous habitons1a maison.Nous ne1es voyons p1us.
Voi1主1e r61e de1a po6sie.E11e d6voi1e,dans tou七e1a缶rce du terme.E11e montre nue,sous une1umiさre qui secoue
1a torpeur,1es choses suI・Prenantes qui nous environnent et que nos sens enregistraient machina1ement.
Inuti1e de chercher au1oin des objets et des sentiments bizarres pour surprendre1e dormeur6vei116.C’est1主
systさme du mauvais poさte et ce qui nous vaut1’exotisme.
I1s’agit de1ui montrer ce sur quoi son coeu4son oei1g1issent chaquもjo叫sous un ang1e et avec une vitesse te1s
qu’i11ui parait1e voir et s’en6mouvoir pour1a premiさre£ois.
VbiI主bien1a−seu1e cr6ation permiseえ1a cr6ature.}}朋pp.508−509.
67
(初めて)という言葉はαにおいても使われていたことを思い出そう74。天国に変化した我が
家に戻ってきたオルフェはまるで初めて見るかのように部屋を眺める。彼のこの反応は、詩に
よって現実の新たな世界を見せられた読者の反応そのものであると言えよう。この時のオルフ
ェは新たな世界を発見した詩人であるとともに、詩を読み驚く読者をも代表しているのではな
かろうか。だから、住み慣れた部屋を天国へと変えた神はオルフェにとって詩そのものに他な
らない75。
このようにして、詩は人々が良く知っているはずの世界をまるで初めて見るかのように見せ
る。詩の驚異はそこにある。そのため、そのことを取り違え、ただ人々を驚かせたり、スキャ
ンダルを引き起こすことを唯一の目的と捉え、奇妙なやり方を用いたり、異国趣味を作品に取
り入れたりすることは詩人にとって誤りとなる。馬やラジオのメッセージを詩と取り違えたオ
ルフェたちや、02に登場する何も書いてない紙を詩と称する前衛詩人たちのやり方は「悪い詩
人の方法」なのである。そのようにして作られた詩はコクトーにとって、r6Verie(夢想)や
fantaisie(空想)にすぎない。『知られざる者の日記』では、空想について次のように書かれて
いる。
だから、空想は憎むべきものなのである。人々は、空想と、差恥心ゆえに自らの代数の上
に服を着ている詩を混同する。詩のリアリズムとは、詩人固有の、異様な現実に関するリ
アリズムである。詩人は、そうした現実を発見し、それを絶対に裏切らないように努める76。
詩人は詩を作るために奇を荷う必要はない。なぜならば、詩人が見つけるべき世界は日々彼の
周りに存在しているからである。こうした詩と空想の区別の仕方は、inspirationとexpiration
について述べた際、既に私たちが見てきたものと同じものであると言える。inspirationと空想
は出所が詩人から遠くはなれた場所にあるという点で一致している。詩人は向こうやってきた
ものに頼ってはならない。重要なのは詩人自身が発見したものなのである77。
このように、詩人が見いだす領域は未知のものであると同時に、詩人の周りに現実に存在す
740ノ,p.422.
75「あなたそのものである詩」
{く[.、.]la po6sie c’est vous》0ノ,p.422.
76{{C’est pourquoi1a fantaisie est haissab1e.Les gens1a con的ndent avec1a po6sie dont1a pudeur consiste査
。ostumer ses a1gさbres.Son r6a1isme est ce1ui d’une r6a1it6inso1ite,inh6rente au poさte qui1a d6couvre et qu’i1
s’efforce de ne point trahir})刀p.19.
77上で引用した『職業の秘密』の記述には作者によって次のような脚注が付けられている。
「ブレーズ・サンドラールの異国趣味は正当なものだ。サンドラールは旅をした。だから、彼は自然の材料
を用いているのだ。」
《Uex〇七isme de BIaise Cendrars est16gitime.Cendrars avoyag6:i1emp1oi6des mat6riaux nature1s.))
肥,P.509.
コクトーが嫌う異国趣味とは、異国での体験を実際にしていない詩人が用いる異国趣味なのである。この脚注からも、
詩人本人による発見を重視するコクトーの姿勢が読み取れる。
68
るものでなくてはならない。だからこそ、オルフェたちが到達した世界も不可解な世界である
と同時に、彼らが住み慣れた場所に存在するのである。私たちはこれらの世界を、コクトーが
『職業の秘密』で用いている言葉に従って、r6a1it6irr6e11e(非現実的な現実)と呼ぶこともで
きるだろう78。これらの世界はそれが未知であるという点において非現実的な世界であるが、そ
れらを見いだす者たちの近くに存在するという点において、あるいはそれらを見いだす者たち
が実際に存在するという点において現実的な世界なのである。
5)受け入れること
これらの作品に描かれている未知の世界は主人公たち自身によって発見されるからこそ重要
なものであると言える。それでは、彼らはどのようにしてそれらの世界を見いだすのだろうか。
ここからは、彼らが見いだす未知の世界そのものから離れ、彼らがそれを発見するに至る過程
について見ていこう。
オルフェが天国へと至る過程は彼がバッカスの女たちの襲撃に気づくところから始まる。第
九場で怒り狂う女たちが近づいてくることに気づいたウルドビーズはオルフェに逃げるよう説
得するが、オルフェは断る。その際、彼らは次のような会話を行う。
ウルドビーズ:あなたはもう不可能なことをやりました。
オルフェ :不可能なことをこそ僕はやらなくてはいけない。
ウルドビーズ:あなたはいくつかの陰謀に耐えました。
オルフェ :まだ血が出るほどではない。
ウルドビーズ:あなたがおそろしい一・・。(ウルドビーズの表情に超人間的な喜びが表れる。)
オルフェ :彫刻家によって傑作へと削られている大理石は何を思うだろうか? 彼ばこ
う考える。「僕はたたかれている、傷つけられている、侮辱されている、砕か
れている、もうだめだ」この大理石は愚か者だ。人生が僕を削っているんだ、
ウルドビーズよ! 人生が傑作を作っているんだ。その打撃を理解せずに耐
えなくてはならない。身構えなくちゃいけないんだ。受け入れて、落ち着い
たまま、むしろそいつを手伝って、協力して、仕事を終わらせてやらなきゃ
いけないんだ79。
78ノろゴ♂,P.494.
79Heurtebise:Vous avez d6j倉fait1’impossib1e,
Orph6e :A1’impossib1e je suis tenu.
Heurtebise:Vbus avez r6sist6主d’autres caba1es.
Orph6e :Je n’ai pas encore r6sist6jusqu’au sang.
Heurtebise:Vbus m’e鮒ayez...(Zθ澁婚θ♂〃ωrCθるるθθΨ㎡〃θα〃θカゴθ舳油u〃∂血a)
0rph6e :Que pense1e marbre dans1eque1un scu1pteur tai11e un che£d’oeuvre?I1pense:《0n me frapPe,on
m’abime,on m’insu1te,on me brise,je suis perdu。))Ce marbre est idiot,La vie me tai11e,Heurtebise!
E11e fait un che縦’ceuvre.II faut queje supporte ses coups sans1es comprendre.I1faut que je me
raidisse.I1faut que j’accepte,que je me tienne tranqui11e,que je1’aide,que je co11abore,que je Iui
69
既に私たちはこの会話においてオルフェが神に救いを求めていないという点に注目した。それ
では、ここでオルフェは何を成そうとしているのだろうか。彼は今から成そうとすることにつ
いて、「その打撃を理解せずに耐え辛くてはならない。身構えなくちゃいけないんだ。受け入れ
て、落ち着いたまま、むしろそいつを手伝って、協力して、仕事を終わ亭せてやらなきゃいけ
ないんだ」と述べている。ここで注目すべきは、オルフェが女たちの襲撃の責任は自分にある
などとは全く考えていないという点である。.彼は、この襲撃は「人生」、つまり彼の力を超えた
ところに存在する運命のようなものによってもたらされたものだと述べている。彫刻が彫刻家
の行う作業が終わるまで自分の身が削られていくのを黙って受け入れることしかできないよう
に、彼は超越的なものによって仕組まれた悲劇を完成させるために、人生が彼に加える打撃を
受け入れようとしているのである。
彼のこの行為を諦めや達観などと称することは誤りであろう。彼の行為にはそうしたネガテ
ィブなニュアンスはない。彼は「人生」のもたらす悲劇を受け入れることは、「人生」の行おう
としていることに「協力」することだと考えている。彼は受け入れるという姿勢をとることで、
「人生」が行おうとしている「不可能なこと」を共に成し遂げようとしているのである。いわ
ば、それは彼と「人生」との共同作業なのである。「不可能なこと」を成し遂げようとする意志
があるかぎり、彼の姿勢を消極的なものとして評価することはできない。オルフェのこうした
姿勢を能動的かつ受動的な姿勢と称することができるだろう。
『地獄の機械』のエディプもまた超越的なものによってもたらされた悲劇の完成のために、
与えられた暴力を受け入れていると言えるだろう。物語の終盤エディプの正体が次々と明らか
になる中、クレオンが口を出そうとするたびにテイレシアスは次のように言い彼を制する。
テイレシアス:動いてはだめだ。数世紀の奥底から嵐がやってくるのだ。雷があの男を狙
っている。お願いだ、クレオンよ、雷が気まぐれに従うのにまかせ、動か
ずに待ち、何も余計なことはしないでくれ80。
テイレシアス:ここにいるんだ……神官があなたにそれを命ずる。それが非人間的なこと
は私も知っている。だが、輪は閉じようとしている。私たちは黙って、こ
こにいなくてはならない。
クレオン 兄弟に関することだったら、あなただって手出しすることを禁じはしない
1aiSSe丘nir SOn traVai1.
07,pp.414−415.
80Tir6sias’:Ne bougez pas.Un orage arrive du fond des siさ。Ies.La foudre vise cet homme et je vous demande,
Cr6on,de1aisser1a飴udre suiwe ses caprices,d’attendre immobi1e,de ne vous m61er de rien.
MZP.538.
70
だろう…・・
テイレシアス:禁じる1 神話に手を出してはならない。余計なことをしてはならないの
だ81。
テイレシアス:いや、私が禁じる。言っただろう、クレオン。恐ろしさの傑作が完成する
のだ。一言も発してはならないし、少しも動いてはならない。私たちの影
が少しかかることさえ、無礼だと言えよう82。
テイレシアスはエディプを襲う悲劇のことを人間には手出しのできない「神話」や「恐ろしさ
の傑作」と捉えている。彼はその傑作の結末の「雷」のような到来、「輪」の完成を望んでおり、
クレオンにその邪魔をすることを禁ずる。このことについては既に第二部で見ているが、『地獄
の機械』においても主人公たちを襲う悲劇は超人間的なものによって作られたものなのであり、
そしてその悲劇の筋書きは神託という形で登場人物たちに伝えられているのである。
しかし、第二部で既に見たように、エディプは自分に下された神託の言葉を真剣に受け止め
ようとはしなかった。彼にとって神託の言葉とは、退屈な王宮の暮らしから抜け出し、自分の
中にある「未知の渇き」を癒すための良いきっかけにすぎなかった。彼にとって神々の存在な
ど、己の野心に比べれば取るに足らないものだったのである。
そして、自らが犯した行為の本当の意味が明らかになったとき、彼は神託の正しさを、つま
り神々によって仕組まれた悲劇の存在を肯定せざるを得なくなり、白ら己の目をつぶす。彼の
この行為はソフォクレスの描いたオイディプスのそれと同じものであるが、彼らの行為が持つ
意味は別物であると言えるだろう。ソフォクレスのオイディプスは目をつぶすという行為につ
いて次のように述べている。
オイディプス:こうなったのはアポロンのため、現しき友らよ。それはアポロンー
さだめ
このわしの こんな苦しい受難の運命をもたらしたのは。
だが両の眼を突き刺したのは ほかならぬみじめなわし自身。
げに目が見えたとて 何になったろう、
見てたのしいものは 何ひとつないのに83。、
81Tir6sias:Restez...1e pr6tre vous1’ordonne.C’est inhumain,je1e sais;mais1e cerc1e se ferme;nous devons nous
七aire et reSter Iえ.
Cr6on :Vbus n’emp6cherez pas un frさre...
Tir6sias:J’emp6cherai!Laissez1a fab1e tranqui11e.Ne vous en m6Iez pas.
ノろゴ♂,p,538.
82Tir6sias:Si!je vous emp6cherai.Je vous1e dis,Cr6on,un che阯’鵬uvre d’horreur s’achさve.Pas un mot,pas un
geste.I1serait ma1honn6te de poser une seu1e ombre de nous.
ノZゴ♂,p.540.
83ソポクレス『オイディプス王』藤沢令夫訳、岩波書店、1967年、119−120頁。
71
オイディプスは、父の殺害と母との近親相姦というおぞましき行為は神々によって仕組まれた
ものであるが、両目をつぶすというこの行為は彼白身の意志に従って行ったものであると言う。
いわば、神々によって避けることのできない悲劇の主人公に仕立てられたオイディプスは、こ
の行為によって自らの意志の存在を主張しているのである。
一方、r地獄の機械』のエデイプは自ら目をつぶした後、テイレシアスに対して次のように述
べている。
エディプ:[…]覚えているか、18年前、私はお前の瞳に、自分が盲目となるのを見たが、
私には理解することができなかった。今ならはっきりとわかるぞ、ティレジア
スよ[…]84。
彼が述べている18年前の出来事とは第三幕で起きた次のエピソードのことである。ジョカスト
との結婚について言い争っている際、エディプはテイレシアスの瞳に自分の未来の姿が映って
いることに気づき、それを無理矢理見ようとする。彼は自分がジョカストと共に幸せな家庭を
築いている姿までは見ることができるが、途中でテイレシアスの瞳に映る映像は急にぼやけて
しまう。テイレシアスはそこから先は神々がまだ隠していることだから見ることはできないと
主張するが、エディプは彼の忠告を無視し何としてでもその先の未来を見ようとする。すると、
突然彼は目に「無数のピン」で刺されたかのような強烈な痛みを感じ、床を転げ回る。
このように、エディプが盲目となることは18年前から神々によって定められていた。テイレ
シアスの言う「恐ろしさの傑作」とはエディプの犯した忌まわしい行為が明るみになった時点
で完結するのではなく、エディプが盲目となることよって完成に至るのである。そして18年前
の時点ではそのことを理解することのできなかったエディプだが、悲劇が完成しようとする間
際になって彼はそれを理解し、目を貫くことによって自ら悲劇に終止符を打つ。ソフォクレス
のオイディプスが己の意志の存在を主張するために目をつぶしたのに対して、『地獄の機械』’の
エディプの自傷行為は神々によって作られた逃れることのできない絶対的な悲劇の存在の受け
入れを意味しているのである。
このように、オルフェとエディプたちは人知を超えたものによって作られた悲劇の存在を受
け入れ、自らの手でそれを完成させる。彼らのこうした姿勢は私たちが第二部で見た媒体とし
ての詩人のそれを思わせるが、ここで注目すべきは受け入れることを決意した彼らがその後二
人とも未知なる世界に到達しているという点である。受け入れることは未知なる世界に至るた
84(Edipe:[..、]Souvenez−vous,i1y a dix−huit ans,j’ai vu dans vos yeux que je deviendrais aveug1e et je n’ai pas su
comprendre.J’y vois c1a辻,Tir6sias[..一].
MZP.540.
72
めのイニシエーションなのではないだろうか。
オルフェとエディプたちが白ら悲劇を受け入れたときに彼らの周囲にいる人物が示す反応か
らも、エディプたちの行為が重要な意味を持っていることは理解できる。オルフェがバッカス
の女たちの襲撃から逃げないことを決意したとき、ウルドビーズは「超人間的な喜び」を顔に
浮かべる。また、それまでエディプの行為を非難し、彼と敵対的な関係にあったテイレシアス
は、エディプが白ら目をつぶした後には、彼を擁護する側へと立場を変える。神の使者である
守護天使ウルドビーズと神々の世界の秘密を見ることのできる予言者テイレシアス、一彼らは二
人とも未知の世界に近い人物であると言えるだろう。彼らのこうした反応はオルフェとエディ
プたちが受け入れたことで未知の世界への道を歩み始めたことに対する喜びから生じているの
ではないだろうか。
しかし、受け入れることを決意したといっても、オルフェとエディプたちは独力で未知の世
界へと至ることができるようになったわけではない。彼らは二人とも盲目の状態になり、強烈
な苦痛を味わう。すると、彼らの前に彼らの愛する無き女性たちが姿を現し、彼らを未知の世
界へと導いていく。ユーリディスの「あなたを連れて行く許しはもらったわ」という台詞から
もわかるように、彼女たちは未知の世界から送られてきた使者なのである。受け入れるという
行為を成したことで、オルフェとエディプたちは未知の世界に入るための許しを得たのだと言
えるだろう。
ところで、それまで未知の世界とは何の縁もなかったユーリディスとジョカストが未知の世
界の使者となっている点は大変興味深いと言えるだろう。この瞬間、彼女たちは守護天使であ
るウルドビーズや予言の力を持つテイレシアスたち以上に、未知の世界に精通した存在へと変
化しているのである。彼女たちのこうした変化は、とりわけユーリディスの変化は不可解であ
るとすら言えるだろう。既に見たように、彼女は元来、未知の存在を嫌悪する者であった。い
ささか曲解ではあるが、宙に浮くという奇跡を起こしたウルドビーズに詰め寄る彼女の姿はウ
ルドビーズに尋問する警視の姿と同じものであると言える。そうした、未知からかけ離れた存
在であるユーリディスが、作品の結末において未知の世界の使者として再登場するのである。
なぜ彼女たちは変化したのか。この問いについて考える際、彼女たちが既に死んでいるという
ことを見逃すことはできないだろう。
6)自分の死
オルフェたちが見知らぬ領域を発見する過程を見ると、そこで死が大きな役割を果たしてい
ることがわかる。オルフェは女たちの襲撃に向かい合い、彼女たちに襲われて死ぬ。ポールは
ヴィルジニーの死を知り、自らも死のうとしていたところでヴィルジニーと出会い、彼自身も
いつのまにか死んでいることを告げられる。未知の世界に至るためには、彼らは死ななくては
73
ならない。エディプは自ら両目をつぶすという悲惨な状況にあるが、まだ死んではいない。だ
から、彼はまだ、「かろうじて」地上にいるのである。また、上で述べたように、オルフェたち
を未知の世界に導く女性たちも死んでいる。死ぬことと未知の世界に至ることは密接に結びつ
いているのである。
天国に行くためには死ななくてはならないという陳腐な言い回しを私たちは確認しているわ
けではない。ここで問題となっているのは自らの死と向かい合うということなのである。『存在
困難』のr死について」という章は次のような言葉で始まる。
あまりにも堪え難い時期を生きてきたので、私にとって死は何か心地よいもののように思
われる。それによって、死を恐れず、向かい合ってそれを観察する習慣を私は身につけた85。
また、同じ章においてコクトーは次のように述べている。
死という主題に関して、述べるべきことはたくさん残っているが、多くの人々が死につい
て辛く思っていることに私は驚いている。なぜならば、死は常に私たちの中に存在してお
り、人々は諦めてそれを受け取らなくてはならないからだ。共に暮らし、私たちの実体と
密接に混じり合った人物に対して、なぜ、それほどまでに恐れを抱くのだろうか? だが、
それはこういうわけだ。人々は死を寓話化し、外側からそれを判断することに慣れてしま
っている。生まれることで、人は死と結婚し、例え死の性格が陰険なものであってもそれ
と仲良くやると、自分に言い聞かせる方がより意味があるだろう。なぜならば、死は自分
のことを忘れさせ、もはや死は家にはいないと私たちに信じ込ませる術を知っているから
である。各人は自分の死を収容し、死について考えだしたこと、つまり、死は最後の段階
にしか現れない寓話的な象徴であると考えることで安心している86。
02のまえがきにおいて、「私たちはそれぞれ自分の死を持っており、誕生以来それに見張られ
ているのだ」とコクトーが述べているように、人間は生まれて以来、自分の死と共に生活して
いる。死は人生の最後の瞬間に訪れるものではない。死はいかなる瞬間においても、私たちの
そばにいて、私たちを見張っている。私たちの死は生と表裏一体をなし、私たちを作り上げて
85{{J’ai travers6des p6riodes te11ement insupportal〕1es que1a mort me semb1ait que1que chose de d61icieux.J’y ai
pris1’habitude de ne pas1a craindre et de1’observer face査face.》,刀喝p.917.
86・Sur1e chapitre de1a mort,i1me reste beaucoup註dire,etje m’6tome que tant de gens s’en a舖ectent puisqu’e11e
est en nous chaque seconde et qu’i1s devraient1a prendre en r6signation.En quoi aurait・on si grande peur d’une
personne avec1aque11e on cohabite,6troitement mε16e主notre substance?Mais voi1主.0n s’est habitu6主en faire
une fab1e et註1ajuger du dehors.Mieuxvaudraitse dire qu’ennaissanton1’6pouse et s’arranger de soncaractさre,si
fourbe soit−i1,Car eue sait se faire oub1ier et nous1aisser croire qu’e11e n’habite p1us1a maison.Chacun1oge sa mort
et se rassure par ce qu’i1en invente,註savoir qu’e11e est une figure a116gorique n’apParaissant qu’au dernier acte.}}
ノZ∼ゴ♂,P.919、
74
いる。コクトーにおいて、死とは生と同じように、あるいはそれ以上に確かに存在するものな
のである。なお、Dubourgは02の序文を取り上げながら次のように述べている。
死、それは詩人に霊感を与える偉大なものである。なぜならば、私たちの誕生以来、死は
私たちを見張っており、私たちの持つ唯一の確実さである。フランソワ・ヴィヨンからア
ンリ・ミショーに至るまで、死は最も高貴な調べを書き取らせていた87。
この世に死なない人間はいない。私たちは産まれたとき、既に死を決定づけられており、いつ
かは死ぬという事実以上に確かなことは存在しないのである。
しかし、死はこれほどまでに生と強く結びついたものであるにもかかわらず、それは常に隠
れた存在である。『職業の秘密』において、コクトーは次のように述べている。
死は生の裏である。このために、私たちは死を直視することができない。しかし、死が私
たちの織物の横糸を形作っているという感覚は、常に私たちにつきまとっている。私たち
の死が私たちの近くにいるのを感じながら、あらゆる交信を妨げるようなものの存在を感
じることがある。表しか読めないぺ一ジの裏に印刷されているために、私たちには続きを
読むことができないテキストを想像していただきたい8戸。
私たちの生と死は、一枚の紙の表と裏の関係にある。だから、生の状態にある私たちには死の
姿を見ることはできない。せいぜい、鏡に映る老いいく自分の顔に、その影をかいま見ること
しかできない89。織物を形作る横糸のように、死は私たち自身の一部ではあるが、常に隠れた存
在である。いわば、死は知られざる私たち自身なのである。
確かにそこに存在するが、通常見ることができないもの。死の持つこの特徴は私たちがこれ
まで見てきた非現実的な現実の特徴と一致すると言えるだろう。自分の死と向かい合うことは、
非現実的な現実を発見することに通じているのである。だからこそ、白ら死を受け入れたオル
フェたちは未和の世界に至り、亡きユーリディスたちは未知の世界の使者として現れているの
87《La mort:9rande inspiratrice des poさtes,Puisque’e11e nous guette depuis notre naissance et qu’e11e est notre
seu1e certitude.De Frangois Vi11on主HenriMichaux,e11e a dict61es a㏄ents1es p1us nob1es.》Pieere Dubourg,ψ.
cゴ庄,p.256.
88《La mort est renvers de1a vie.Ce1a est cause que nous ne pouvons1’envisage巧mais1e sentiment qu’e11e危rme1a
trame de notre tissu nous obsさde toujours.I1nous arrive de sentir nos morts contre nous e七,cependant,d’une sorte
qui empεche toute correspondance.Imaginez un texte dont nous ne pourrions connaitre1a suite,parce qu’i1est
imprim6主1・envers d・une page que nous ne pouvons1ire qu省1’endroit.))朋p.511.
8902の序文で、コクトーは次のように書いている。
「鏡のテーマを忘れるところだった。人々は鏡に老いいく自分の姿を見る。鏡は私たちを死に近づけさせる。」
{くJ’a11ais oub1ier1e thさme de miroirs o亡1’on se voit viei11ir et qui nous rapprochent de1a mort.》,02
鏡は生と死の境界であり、私たちを死に限りなく近づけさせる。しかし、誰も鏡をくぐって、死と出会うことはで
きない。それができるのは、詩人だけなのである。
75
ではないだろうか。興味深いことに、私たちが今まで見てきた作品において、死んだ者たちが
そのまま舞台上から消えることは無い。コクトーにおいて、死ぬことは消滅なのではなく、未
知の世界への移動なのではないだろうか。死の瞬間、彼らは非現実的な現実に至る扉を開いた
のである。
逆に言うならば、非現実的な現実から言葉を産み出す詩人は、必然的に生と死の狭間に身を
置かなくてはならない。序文でも引用した『シネマトグラフをめぐる対話』の記述を再度見て
みよう。
私の道徳的な歩みはびっこを惹いた男の歩みです。片方の足は生の中にあり、もう片方の
足は死の中にあります。だから、私が生と死が向かい合う神話へと至ったのは当然のこと
でした。
また、02のまえがきでもコクトーは「詩人は生まれるために何度も死ななくてはならない」と
述べている。コクトーにおいて、死は憧憬の対象でもなければ、避難場所でもない。習慣のヴ
ェールに覆われた現実において、死とは生産的な言葉をもたらす数少ない空間の一つなのであ
る。『職業の秘密』でコクトーは次のように続けている。
ところで、裏と表、これは人間的な方法で説明するためには有用だが、超人間的なものに
おいては、疑いもなく意味を持たない。しかし、この漠然とした裏は、私たちの行動、言
葉、ささいな言動の周りに、いくつかのテラスの欄干が吐き気を催させるように、魂に吐
き気を催させる空虚をうがっている。
詩はこの不快感を活発化し、それを風景、愛、眠り、そして喜びに混ぜる。
詩人は夢を見ない。そうではなくて、計算するのだ。だが、彼は流動する砂の上を歩い
ており、時折、足を死の中に突っ込む90。
死は現実のあちこちに「空虚」をうがっている。しかし、それらの「空虚」は無ではない。そ
れらの「空虚」は詩人の魂に「吐き気」を催させる。そして、詩人はその「吐き気」に現実の
「風景、愛、眠り、そして喜び」を混ぜ合わせ形を与え、それによって詩を産み出すのである。
90くl Or1’envers et1’endroit,uti1es pour s’exprimer主1a mode humaine,n’ayant sans doute aucun sens dans1e
surhumain,ce verso vague,creuse autour de nos actes,de nos paroIes,de nos moindres gestes un vide qui toume
1’倉me comme certains parapets toument1e coeur.
La po6sie active ce ma1aise,1e m6Iange aux paysages,麦1’amour,au sommei1,主nos p1aisirs.
Le poさte ne rεve pas:i1compte.Mais i1marcbe sur des sab1es mouvants et que1que飴is sajambe en危nce dans1a
mort.1)朋P.511.
76
結論 詩人と軽業師
私たちが今まで見てきたコクトー的詩人の姿についてまとめてみよう。
コクトーにおいて、創造することは現実に反抗することに他ならない。習慣のヴェールに覆
われた現実を一新するために、詩人は未知に向かう。しかし、その未知は現実からかけ離れた
ものであってはならない。未知は現実に存在する。現実に確かに存在するものだからこそ、そ
れは衝撃を人々にもたらすことができるのであり、ゆえにそれは詩人が一人で勝手に作り出し
た空想であってはならない。
未知の世界、それは文字通り誰にも理解し得ない世界である。だから、詩人はそれを理解し
ようとしてはいけない。また、詩人は未知と自分との間に媒体であること以外のいかなる関係
性も持とうとしてはならない。詩人が媒体という彼に許された唯一の姿勢をとることに成功し
たとき、始めて彼は未知の声を聞き取ることができるのである。
詩人のこうした姿勢は、現実と未知という二つの領域の中間地点の高見に座しながら周囲を
見渡すことでもなく、また二つの領域を自由奔放に行き交うことでもない。様々な分野で活躍
し、また作品を通じてスキャンダルを起こし続けたコクトーは、Iしばしばacrobate(軽業師)
に例えられてきた。この軽業師という言葉はコクトー自身によって詩人を形容するための言葉
として用いられることもしばしばある。しかし、コクトーの作品において軽業師という言葉が
用いられるとき、そこには別のニュアンスが込められている。
私たちが軽業師呼ばわりされるのは、がらりとした空間の上に張られたこの糸のために
ちがいないし、私たちが手品師扱いされるのは、本物の考古学者の作業のように、私たち
の秘密が光のもとにさらされるためにちがいない91。
詩人は常に糸の上で複雑なバランスをとり続けている。コクトーが軽業師という言葉を使うと
き、そこにあるのは困難な技を次々と軽やかにこなしていく軽業師のイメージではない。コク
トーにおける詩人=軽業師は観衆たちの好奇な視線に囲まれる中で、いつ落ちるとも知れない
危険な状況にあるのである。能動と受動のバランスを少しでも崩してしまえば、彼はオルフェ
たちのように破滅する。
私たちが今まで見てきた物語は、媒体としてのバランスをめぐるドラマであると言えよう。
第三部で見てきたように、0ノのオルフェは能動がつ受動の姿勢をとることを決意したからこそ、
未知の世界に至ることができたとのである。いわば、彼は最後にはバランスをとることに成功
したのである。第二部で引用したr知られざる者の日記』の記述をもう一度見てみよう。
91《 Ce doitεtre ce fi1au−dessus du vide qui mus fait traiter d’acrobates,et1e passage de nos secret主1a1umiさre,
v6ritab1e travai1d’arch6o1ogue,qui nous fait prendre pour des prestidigitateurs.))刀p.23.
77
この二重の記憶を刺激することによって、詩人という私たちの聖職に従事していない人々
には想像もつかないような状態に、私は再び身を置くに至った。そして、この聖職に対し
て完全な不服従の態度をとり、自分は自由であると自負していた私は再び命令に従う。す
ると、私のペンは走る。もはや何もそれを停滞させない。
詩人は、現実に対する不服従と未知の領域に対する服従の間でバランスをとったとき、初めて
未知と共同作業を行うことができる。『知られざる者の日記』の「作者」のペンが動き出したよ
うに、オルフェのペンも動き出したばかりなのである。物語中、オルフェを欺く悪魔である馬
によってもたらされたメッセージをのぞいて、オルフェは一度も自作の詩を披露していない。
つまり、オルフェ白身の手によって、より正確に言うならばオルフェ自身の夜と彼との共同作
業によって作られる本物の詩が誕生しようとする場面で07の物語は終わるのであり、だからこ
そこの作品は「詩の説明不可能な誕生」の物語なのである。
エディプの歩みも始まったばかりである。受け入れることを決意し、白ら盲目となり、生と
死、可視と不可視、地上と未知、現実と非現実の狭間でバランスを保つことに成功したエディ
プはジョカストらと共に街を去る。だが、安心はできない。『地獄の機械』は次のような会話で
締めくくられる。
クレオン だが、彼らが街を出て行くのを認めたところで、誰が彼らを引き受けるの
だ? 誰が引き取るのだ?
テイレシアス:栄光が。
クレオン むしろ不名誉、恥と言うべきだ……
テイレシアス:そうかもな92。
エディプの栄光は確かなものとはなっていない。彼はこれから先、命がけの綱渡りを続けなく
てはならない。完成された作品の続きを考えることなど愚の骨頂だろうが、彼はこの後どうな
るのだろうか。ソポクレスは『コロノスのオイディプス』において、彼のオイディプスに終点
を与えた。では、コクトーの場合はどうだろうか。少なくとも、彼は『地獄の機械』以降、オ
イディプスの神話を題材としたオリジナルの作品を創作していない93。だが、彼は晩年の作品で
92Cr6on :Et en admettant qu’i1s sortent de1a vi11e,qui s’en chargera,qui1es recuei11era?...
Tir6sias:La g1oiI・e.
Cr6on :Dites p1ut6t1e d6shonneu41a honte...
Tir6sias:Qui sait?
MZP.542.
93正確に言うならば、¶地獄の機械』(1934年上演)以後、コクトーは戯曲『オイディプス王』(1938年上演)、戯曲『ア
ンティゴーヌ』(1943年上演、オネゲルが音楽を担当)、オペラ『オイディプス王』(1952年上演、ストラヴィンスキー
78
あるrオルフェの遺言』にエディプを再び登場させている。
エディプのショット。
盲目のエディプが、アンティゴーヌに支えられ、不可解な言葉をつぶやきながら、テー
バイの門の一つから出てくる。彼は「詩人」とすれ違うが、「詩人」は彼のことを見ること
なく遠ざかっていく94。
ここでもエディプは出発したばかりである。彼の結末が描かれることはない。コクトーのエデ
ィプの歩みに終点はないのである。
作品が詩人と未知との共同作業であるかぎり、詩人は作品の所有権を独占することができな
い。詩人は作品を自分の存在の根拠とすることができないのである。詩人をして詩人たらしめ
るものは、媒体という状態に他ならないのであり、詩人は詩人であるかぎり媒体であり続けな
くてはならない。詩人がいつまでも綱を渡り続けるように、エディプもアンティゴーヌと杖に
支えられることで均衡を保ちながら、二つの領域の狭間を歩み続けるのである。
『オルフェの遺言』でエディプとすれ違う「詩人」もまた、バランスをとり続ける者である
ことを忘れてはならない。映画の冒頭、「詩人」は時空をさまよう者として登場する。彼はその
原因を次のように述べる。
詩人:[…]私は詳しく知ろうとしすぎました。大変軽はずみなことを犯してしまいました。
その代償を払っているのです。
Vgu1oirSaVoirかψ(知ろうとし寺ぎること)、ここでも問題となっているのはバランスである。
非現実的な現実を求める「詩人」は時には「自分の時代」とその他の時代の狭間を歩かなくて
はならなかった。それは常に「危険」を伴う作業である。そして均衡を保てなかった「詩人」
は綱から落ち、時空をさまよう。一度綱から落ちた「詩人」は、もう二度と綱の上には戻ろう
とはしない。彼は教授の手を借りて「自分の時代」に戻ろうとする。しかし、教授の力を持っ
てしても、彼は「自分の時代」で「血肉をもった状態で再び生きる」には至らない。そうして、
彼のr自分の時代」に戻るための旅が始まる。
彼の旅はどのような結末を迎えただろうか。映画の終盤、一人で道を歩いていた「詩人」は
警官たちの職務質間にあう。そのとき、旅の途中まで「詩人」の道案内をしていたセジェスト
が音楽を担当)を発表している。しかし、これらの作品の展開はソポクレスの原作とほとんど変わらず、『地獄の機械』
程にはコクトーの独創性は見られない。
94 p1an d’O∋dipe.
O∋dipe aveug1e,appuy6sur Antigone sort d’une des portes de Thさbes en chuchotant des paro1es
incompr6hensib1es.I1croise1e poさte qui s’61oigne sans1’avoir vu.
”フCろp.1361、
79
が再び姿を現し、r詩人」に向かって次のように叫ぶ。
セジェスト(嵐のようなものの中から叫ぶ):結局のところ、地上はあなたの祖国ではない
のですg5。
そして、彼らは警官たちの気がつかないうちに姿を消す。r詩人」たちが向かった場所は作中に
は描かれていない。しかし、それを推測する事は可能である。『オルフェの遺言』においてセジ
ェストは、02に登場していたセジェストとして登場する。02のラストシーンでセジェストは、
プリンセスとウルドビーズが死者の世界の使いたちに連行されていく中、彼一人だけ生と死の
中間地点であるゾーンに取り残される。『オルフェの遺言』でセジェストはそこに取り残された
苦痛を02の作者である「詩人」に訴えかけている。つまり、セジェストがいる場所はゾーンで
あり、彼がr詩人」と共に向かった場所もゾーンであると考えることは十分可能であろう。
彼らが向かった場所がゾーンであろうとなかろうと、いずれにせよ作品の結末において彼ら
が安住する地を持たない中間的な存在として描かれていることは間違いないだろう。こうして、
「自分の時代」に戻ろうとする「詩人」の旅は失敗する。セジェストに詩人の本分を諭された
r詩人」は再び危険な綱の上に戻るのである。
私たちが今まで見てきた主人公たちの中で唯一綱の上から降りた者が02のオルフェである。
彼を蘇らせた後、ウルドビーズはr彼らを汚れた水に戻してやるべきだったのです」と発言す
る。このウルドビーズの台詞に対してコクトーはまえがきで次のように述べている。
「彼らを汚れた水に戻してやるべきだったのです」という文は、彼らの地上での愛に関す
るものではなく、単に「地上に」を意味している96。
0ノのオルフェ、『地獄の機械』のエディプ、『オルフェの遺言』の「詩人」たちが人間の住む地
上とは別の空間で物語の結末を迎えたのに対して、02のオルフェは最後には人間たちの住む地
上に戻る。彼はこれからも詩を書き続け、民衆たちから愛され続けるだろうが、コクトー的詩
人の観点から見たら人々に驚きを与えることを忘れた彼は詩人とは言えない。綱の上から降り
た彼を詩人と呼ぶことはもはやできない。彼はミューズを奪われたのである。
コクトーにおける詩人の歩み、それは終わりのない綱渡りである。何の支えも存在しない中
間的な空間で宙づりの状態に留まり続けることができたとき、初めて詩人と未知との共同作動
が可能になり、作品が産まれる。彼のバランスはささいな事で崩れてしまう。オルフェやエテ
95C6geste(c虹∂刀C d2刀8〃刀θ80”Cθdθ后θ〃ψ6左θ):La terre aprさs tout n’est pas votre patrie・
北ゴ♂,p.1361,
96くくLa phrase:《I1fanait1es remettre dans1eur eau sa1e})ne veut pas dire dans1ew amour terrestre,mais
simp1ement ll sur1a terre l)、1),乃”.
80
イフが自分の力を過信しすぎたり、あるいはその反対に外部の存在に依存したりしたために破
滅したように、少しでも気を緩めれば詩人は落下してしまう。それゆえに、詩人は自らの行動
原則や道徳の確立と、その遵守を迫られる。『知られざる者の日記』には次のような記述がある。
詩とは道徳である。密やかな行動や、定言的命令、装置を狂わせるような命令を拒絶す
る人の気質に従って作られ導かれる規律のことを、私は道徳と呼ぶ。[…]
私はこの道徳から流れる汗を作品と呼ぶ97。
バランスをとるための不断の努力から生じる汗こそが、詩人の作品に他ならない。だが、繰り
返しになるが、一度生れ落ちた作品は詩人とは何の関係性も持たない。『知られざる者の日記』
に描かれていた『天使ウルドビーズ』の制作過程の挿話が示していたように、一度生まれた作
品は詩人の手から離れていく。より正確に言うならば、それが詩人の手のうちにあったことは
一度もないと言うべきだろう。rオルフェの遺言』のラストシーンで、一輪のハイビスカスの花
を画面上に残して「詩人」はセジェストと共に消えていくように、コクトー的詩人たちは作品
を後に残したまま綱の上を渡り続けるのである。
97《 La po6sie est une mora1e.J’apPe11e une mora1e un comportement secret,une discip1ine construite et
conduite se1on1es aptitudes d’unhomme re血sant I’imp6ratifcat6gorique,imp6ratifqui fausse des m6canismes.[...]
J’appe11e une o∋uvre1a sueur de cette mora1e.}}以pp.20−21.
81
参考文献
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北∂〃 0oc6θ2α 一 ゐ。gαθ8 雌ガ佃血∫ 0b〃θξρo〃d∂刀。θ 一Z923−7963 (avec Zθ6かθ 身 ゐgαθ5
雌ガ6虹刀 et万6ρo㎜βθ6 北∂刀 0oc6θ∂α),6d一.Mliche1Bresso1ette et Pierre G1audes,
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『美女と野獣 ある.映画の日記』秋山和夫訳、筑摩書房、1991年。
『占領下日記 1942−1945』全三巻 秋山和夫訳、筑摩書房、1993年。
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『ユリイカ』「特集 ジャン・コクトー」1977年2月号。
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Kazuyuki Matsuda,《LaMort sous Ia forme d一’unejeune femme chez Cocteau_sur1a genさse
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松田和之rジャン・コクトーにおけるオイディプスの変貌一〈生者の国〉からく死者の国〉へ
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3)その他の文献
lMlitsutaka Od−agiri,北㎡如rθ5ρ∂万㎜ρ5θβ6θ80αノθ8肋64かθ方醐血。〃8並2刀g虹8θβゴu。㎜y肋θ
”榊θ,L’Harmattan,2001.
Eva Kushner,工θMヶ秘θ♂りΨゐ6θdm8ゐ〃左6〃施”θ血舳g地8θco〃θ〃ρo〃加θ,Nizet,1961.
AmWroe,0ψ必θαポ皿θ8oη8o肌施,Jonathan Cape,2011.
Zθ児θg∂rd♂0ψ左6θリθ3〃y泌θ8方κ6〃血θ3dθノ「0odaθ〃ちdir Bernadette Bricout,Seui1.
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稲垣良典『天使論序説』、講談杜、1996年。
上山安敏『フロイトとユングー精神分析運動とヨーロッパ知識社会』、岩波書店、2007年。
ルドルフ・オットーr聖なるもの』久松英二訳、岩波書店、2010年。
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談杜、1990年。
ロジェ・カイヨワ『人間と聖なるもの』塚原史他訳、せりか書房、1994年。
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ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』柳瀬尚紀訳、筑摩書房、1988年。
ソポクレス『オイディプス王』藤沢令夫訳、岩波書店、1967年。
rギリシア悲劇I ソポクレスj高津春繁他訳、筑摩書房、1986年。
『レーモン・ラディゲ全集』江口清訳、東京創元杜、1976年。
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