平成九年着任のころ--- version 2

のじぎく会の思い出 version 2
第 34 章
神戸大学のじぎく会の思い出---平成九年着任のころ--- version 2
神戸大学名誉教授 寺島俊雄
平成九年七月一日、私は神戸大学医学部解剖学第一講座(現
神経発生学分野)の教授として着任しました。阪神淡路大震災
の二年六カ月後のことです。それまでは都内の研究所に在籍し、
解剖学の教育とは無縁でしたから、随分と不安を抱えながら神
戸に来た記憶があります。解剖学第一講座には献体ボランティ
ア団体の神戸大学のじぎく会の事務局があります。のじぎく会
の創立は昭和五十年六月ですから、私が神戸に着任する二十年
以上も前のことです。創立者の一人の初代会長の大畑忠太郎さ
ん、第二代会長の人位秀男さんは既に病没されていて、私の着
任時は豊田喜唯さんが第三代会長を務められていたました(図
1)
。
図 1 豊田喜唯第3代会長
私の記録では最初ののじぎく会の定例役員会は平成九年九
月八日で、そのとき初めて豊田会長や他の役員の皆さまとお
会いしたと思いますが、あるいはそれより前であったかも知れません。会長の豊田さんは、
姫路師範を卒業後、小学校の教員をしながら苦学して、昭和十一年、当時の最難関校の一
つであった東京高師に合格します。卒業後、兵庫県内で高校の理科教師を務めますが、そ
の後、兵庫県教委の指導主事となり理科教育に長く携わりまし
た。豊田さんは小学校四年の理科教材としてスズムシの飼育を
推奨し、以後三十年以上もスズムシを飼育をする「鈴虫学校」
を続けました。私も豊田さんからスズムシを分けていただきま
した。またイチョウの葉から雄木と雌木を見分けることなども
教えてもらいました。豊田さんには、
「解剖の先生なのに、
(生
物の)こんなことも知らないのか」と呆れられたこともありま
した。
役員会で議論が熱くなり収拾がつかなくなると、豊田さんは
頃合いを見計らって軽い冗談を言い、一瞬にして雰囲気を
図 2 田中登美子第 4 代会長
和ませ、落としどころに議論を収束させました。その話術
は一種の芸ともいうべきで、実に感服したものです。豊田さ
んは翌年十月に田中登美子さんに会長職を譲って名誉会長に
退きました。その後、役員会や総会で何度かお会いしました
が、平成十六年の年末に亡くなられました(享年 89 歳)
。加
古川の告別式会場まで薛技術員と私が赴き、親族の皆さまに
1
図 3 献体の碑
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大学側を代表して弔辞を述べさせていただきました。豊田さんの跡を継いだ第四代会長の
田中登美子さんは、初めての女性会長として期待されましたが、病を得てお若くしてお亡
くなりになりました。私が新米教授ということもあり、田中さんには会の運営に苦労をか
けてしまったことが今でも心残りです。田中さんは献体之碑(図 3)の建立に力を注ぎまし
たので、基礎医学構内にあるこの碑を見るたびに田中さんのことを思い出します。碑文は、
役員の方たちのたってのお願いで、西塚泰美学長に揮毫していただきました。西塚先生は
何十枚も毛筆で「献体之碑」と書いてくださり、
「適当なものを選んでください」と仰って
下さいました。
揖保川町在住の中井章副会長は人柄も朗らかで、豊田会長の良きサポート役として会の
運営には欠くことができない方でした。豊田さんが引退されてからも、長い間、副会長と
して会の運営を陰で支えてくださいましたが、一昨年の五月に九十九歳で亡くなられまし
た。やはり副会長の寺田加寿さんは、なぜか私のことを神仏の化身かと思われたようで、
帰り際に両手を合わせて私を拝みます。お年寄りに手を合わされて拝礼されると、何やら
お もは
面映ゆい感じがしました。その寺田さんも六年ほど前に百歳で亡くなりました。常任理事
(会計担当)の橋本勝さんは、現役のころ経理が専門だったとみえて会計に明るく、土曜
日の夕方、一人のじぎく会の事務室に籠り、黙々と帳簿をめくっていました。平成十年、
橋本さんは八十四歳で亡くなりました。常務理事の海道進先生は、現役の時は神戸大学経
営学部の教授だった方で、労務関係や社会主義企業論などの著作がある高名な経営学者で
すが、八十三歳で亡くなりました。理事の島野清茂さんは朗らかな方で、その後も長い間、
役員として働いていただきましたが、平成十八年に九十五歳で亡くなりました。理事の住
井力さんは建築関係の仕事をされていたので、平成十三年に献体之碑を建立する際には、
私に様々な提言をしてくださいました。地鎮祭もその一つです。住井さんは眼を患ったた
め会の運営から身を引かれましたが、その後も総会には出席され、年賀状の交換も続けま
した。平成二十三年に八十五歳で亡くなりました。その他、藤井理事は平成二十三年(享
年九十五歳)
、末元晴理事は平成二十五年(享年九十二歳)、島川文子監事は平成二十五年
(享年八十七歳)
、岩花真一監事は平成十年(享年八十七歳)に病没されました。というわ
けで当時の役員の中で現在でもご存命なのは、近藤俊一理事と戸井仁子理事の二名だけで
はないでしょうか。当時の役員の方々は七十歳から八十歳台の前半で、それから既に十八
年の歳月が流れていますから、大半の方が鬼籍に入られていることはやむを得ないことで
すが、やはり寂しいものです。特に私たち解剖学を担当とする者は、死後に再び実習室で
故人に再会しますので、何とも言いがたい感情が湧きます。
着任して四か月後の平成九年十月二十五日(土)
、第二十三回のじぎく会総会が兵庫県民
会館で開催されました。それまでは総会は神戸大学の六甲キャンパス内で開催されていま
したが、会場を県民会館に移して最初の総会でした。会場を変更した理由は阪急六甲駅や
JR 六甲台駅から六甲キャンパスまでかなりの距離があり、しかも急坂だからだと思います。
ここで一つ私にとって困ったことが起きました。この年、北米神経科学学会のサテライト・
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シンポジウムの講演者として招待されていたのですが、
「のじぎく総会」と完全に日程がぶ
つかりました。海外の学会からスピーカーとして招待されることは名誉なことですし、是
非とも発表したかったのですが、教授として着任した最初ののじぎく会総会を欠席するわ
けにはいきません。泣く泣く講演を断りました。
着任したばかりということもあり、この年ののじぎく総会では自己紹介がてらに私が特
別講演をすることになりました。特別講演は、臨床の先生が病気のことについてお話する
ちんがんそだてくさ
のが通例ですが、私は「ネズミと医学研究」というタイトルで珍玩鼠育艸という古文書を
紹介することにしました。江戸時代、関西では変わりネズミを飼育することが流行しまし
た。変わりネズミというのは、今風にいえばミュータントマウス(奇形マウス)のことで
す。遺伝子に何らかの変異が生じますと、毛や目の色が変ったり、舞ネズミのようにクル
は
や
クルと回り続けることがあります。このような変わりネズミを飼育することが関西で流行
くろまなこ
りました。中でも「黒 眼 の白ネズミ」という系統が最も珍重されたようです。この「黒眼
いんげん
おうばく
の白ネズミ」は中国の隠元禅師が我が国に黄檗宗を伝えたときに、慰みに持参した変わり
ネズミです。隠元禅師はインゲンマメを日本にもたらした方でもあります。江戸時代の関
西の好事家が飼育した変わりネズミが、明治維新前後に日本からヨーロッパやアメリカに
ペットとして持ち出されました。日本人が繰り返して交配を続けていましたので、変わり
ネズミの遺伝子背景はかなり均一になっていましたから、実験動物として優れていたため
癌や免疫の研究に盛んに使われました。日本産の舞ネズミを用いた腫瘍移植の研究でノー
ベル賞をもらった学者もいます。江戸時代に関西人が趣味として飼育していた変わりネズ
ミが、外国で実験動物として使われて医学研究に役にたったというストーリーですが、後
で会員の皆さまに感想を聞くと少し難しかったようでした。
神戸大学医学部では毎年、秋、過去一年間に正常解剖・病理解剖・行政解剖に付された
方々の慰霊のために解剖体祭を行います。現在では楠キャンパス内の医学部会館シスメッ
クス講堂で行っていますが、以前は平野の五宮町にある祥福寺で解剖体祭は執り行われて
いました(図 4)。このお寺は臨済宗妙心寺
派の名刹です。平成九年十一月五日、私は解
剖体祭に参列するために祥福寺を初めて訪
れましたが、六甲山麓に広がる伽藍の配列の
じょう こう
美しさに驚かされました。祭礼では、 常 行
ざんまい
三昧というのでしょうか、十数名の修行僧が
隊列を組んで本堂の中を読経しながらぐる
ぐる回る様に度肝を抜かれました。残念なの
は庫裡がやや狭く、しかも参列者が多いため、
学生は別室でテレビによる画面でしかこの
図 4 解剖体祭(祥福寺)
厳粛な解剖体祭に立ち会えないことです。遺
族や招待者を優先するのは当然ですが、教育的観点からすればまず学生に一番良い席を与
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えたいところです。解剖体祭が終わると、住職の講話を拝
しゃ しんとう
聴し、その後に学生全員を引率して山上の舎身塔(図 5)
と納骨堂にお参りに行きます。のじぎく会の役員さんも私
たちと一緒に急な山道を登ります。舎身塔は昭和二十九年
九月二十五日に県立神戸医大により建立されたもので、以
来、現在の神戸大学医学部に至るまで、献体された方をの
御霊を慰める塔です。納骨堂は、その地下に無縁の方々の
ご遺骨を合葬するためのお堂です。この舎身塔と納骨堂に
花と線香を手向けるのですが、学生全員が線香を手向ける
まで随分と時間がかかります。この祥福寺山上から神戸港
を見下ろす風景は絶景で、東は大阪湾、西は和田岬の三菱
重工神戸造船所まで見渡すことができます。戦時中はここ
からの写真撮影は軍事機密の上から禁じられていたとのこ
図 5 舎身塔(祥福寺)
とです。全てが終わると、のじぎく会役員の皆さまと連れ
立ち、平野の五宮から大学まで歩いて帰りました。
仏式での慰霊祭では宗教上の立場から出席できないというご遺族もおられるし、本来、
学校行事は無宗教であるべきという原則を主張される方もおられます。また祥福寺の参道
の勾配はお年寄りにはきつく、また多数の参列者を迎え入れる十分なスペースもありませ
ん。そこで平成二十二年で祥福寺における解剖体祭は終わりとなり、翌年からは楠キャン
パス内の医学部講堂で開催されるようになりました。けれども舎身塔や慰霊塔のある祥福
寺のお参りをすっぱりと辞めるわけにはいきません。そこで解剖体祭の終了後に、のじぎ
く会の役員さんと神経発生学のスタッフ一同で舎身塔と納骨堂にお参りに行くことは続け
ています(図 6)
。教育は宗教から独
立していなければなりませんが、慰
霊のためには社会通念上、何らかの
宗教的な儀礼が必要で、両者の線引
きが難しいところです。
解剖体祭と宗教と云えば、こんな
ことを思い出しました。着任した年
の数年後のことでしたか、私は信仰
上の理由で解剖体祭に出席できない
場合、学生各自の信仰が求める方法
で献体者の御霊を慰霊することに
より、解剖体祭の出席に代替するこ
とにしました。そうしましたら、か
なりの学生が解剖体祭を欠席し問
図 6 平成 27 年度解剖体祭後に祥福寺慰霊塔を参
拝するのじぎく会役員と神経発生学スタッフ(前
列左より西川前会長、鈴木理事、寺島、中尾副会
長、中列左より草野理事、石川理事、崎浜、井之
口、吉川、後列左より荒川、薛、松本会長、梶本)
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題となりました。もちろん自ら信仰する宗派の教会などに行った学生もいると思いますが、
多くの学生にとっては休講をプレゼントされたようなものでした。「親の心 子知らず」と
申しますが、解剖体祭を学生各自の「魂」もしくは「良心」の問題ととらえ、信仰の自由
の原則に照らして出席を強要しないことにすると、こんな結果になります。それ以後は宗
教上の理由で参列できない学生には、別の日程で私と一緒に祥福寺の山門の手前まで行き、
そこで山上の舎身塔と納骨堂に向かって各自の望む方法で拝礼することで解剖体祭出席の
代替とすることにしました。学生個人は立派な人格の持ち主ですが、集団となると別の力
学が働くようです。泣く子と学生(地頭)にはかないません。そんなことを学びました。
私が着任した平成九年当時は一年間で八十名を超える献体がありました。現在では献体
数は年間で五十名を超えるほどですから、随分と死亡者が多かったことになります。当時
の学生は百名ばかりで、四人の学生につき一体のご遺体を二回解剖してましたから、年間
で必要なご遺体はおよそ五十体です。その結果、一部のご遺体は翌年の解剖実習に延ばせ
ざるを得ず、ご遺骨をご遺族にお返しするまでの期間が長くなりました。二年近くも待た
せる例もあって、ご遺族に心配をかけることが多くなりました。そこでのじぎく会の新規
入会者数を毎年五十名に制限することにしました。もっとも入会制限そのものは、平成元
年に既に始まっていました(年間二百名を上限)
。入会制限は多くの方の尊い御意志を否定
することになりますので、のじぎく会事務局の奥田和子さんと相談して予備登録制度を発
足させることにしました。平成十年二月ごろのことです。この制度は、入会希望者はとり
あえず予備登録扱いにして、その後、先着順に年間五十名ずつ入会を許可する制度でした
が、あっというまに予備登録者が数百名を超えてしまいました。予備登録をしても正式に
入会するのに、十年近くになってしまいます。予備登録された方が、何年もの間、入会を
許されませんし、その間に死亡する方も出てきました。早々に予備登録制度は破綻し、全
ての予備登録者を一括入会させてこの制度を中止することにしました。
以上が私が神戸大学に着任した平成九年頃の神戸大学のじぎく会の活動です。それから
十八年間、役員の皆さまと私は共同してのじぎく会の運営に当たりました。その間、意見
の相違はありましたが、のじぎく会の方は「大学あってののじぎく会」ということで最終
的には私の意見を尊重してくださいました。大学と献体団体との関係が険悪になる事例は
よくあるのですが、神戸大学ではのじぎく会の役員の見識が高いこともあり良好な関係を
続けることができました。私は解剖学の研究者であり教育者です。研究者同士の人間関係
は深いですが、たいへん狭いものです。また教育者の人間関係は、その大半が学生相手で
すから対等の人間関係はできにくいものです。つまり私は人間関係に疎く、一言で云えば
世間知らずです。この世間知らずの私が、社会と交流する唯一の窓口がのじぎく会であっ
たと思います。
末尾ですが、十八年間(正確には十八年と九カ月ですが)という長い期間、のじぎく会
の会員の皆さまには様々なご厚情を頂き、感謝申し上げます。ことに第三代会長の故豊田
喜唯さん、第四代会長の故田中登美子さん、第五代会長の故稲田邦夫さん、第六代会長の
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西川保子さん、第七代会長の松本允男さんにはお世話になりました。その他、一人一人の
お名前は記しませんが、それぞれの方を思い出しながら筆を置くことにします。有難うご
ざいました。
(平成二十八年五月十一日記)
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