昭和初期の竹島漁業を記した資料「ランコ行キ」の発見について 1.資料名「ランコ行キ」 2.資料作成年月 昭和 52(1977)年頃 3.所蔵者 隠岐の島町総務課竹島対策室 ※平成 26(2014)年 2 月、八幡伊三郎氏の孫智之氏より、伊三郎氏の日誌、漁具が隠岐の島町へ 寄贈された。 4.特記事項 (1) 隠岐の島町役場竹島対策室では、竹島のアシカ漁業許可者の八幡長四郎・池田幸一・橋岡忠重の 3 氏に雇われて、昭和 11(1936)年(2 回)、12、13 年の 4 回竹島へ行ってかなぎ漁をした八幡伊三 郎氏の日誌について継続的に調査を実施している。先月、昭和 51(1976)、52 年の「金銭出納簿」 のなかから、「ランコ行キ」と題する資料を新たに発見した。「ランコ」とは竹島を指す。この資 料は、昭和 52(1977)年日韓で竹島問題が顕在化した際、八幡伊三郎氏が日誌をもとにまとめたも のと考えられる。資料の内容は、基本的に日誌をもとに、竹島でのかなぎ漁の記録、すなわち、ア ワビ、サザエの漁獲量の記載のほか、日誌には出ていない内容で、記憶をもとに書かれた内容があ ることを新たに確認した。 ※これまでの調査で見つかった、八幡伊三郎氏の書いた竹島の記録は、①当時つけていた日誌、② 昭和 40 年代に日誌をもとにまとめた竹島でのかなぎ漁での漁獲量を記したメモ、 ③昭和 52 (1977) 年 3 月に書かれた竹島の手書きの地図「竹島ノ図」の 3 点が見つかっている。 (2) 新たに確認した事実の 1 点目は、隠岐の島町久見からの竹島への同行者(同船者)が出ている点 である。昭和 11(1936)年 6 月には、「トド(=アシカ)取り」として、木戸屋(=前田峯太郎氏)、 「鮑取リ」として、「中尾(=前田峯太郎氏の弟、佃祥次郎氏)ト私(=八幡伊三郎氏)二人」と、 「加茂新屋敷」(=加茂の門脇軍一氏)が出ている。昭和 12(1937)年 5 月には「木戸屋、福中(= 中川章氏)ト私行キ」とある。昭和 13(1938)年 5 月には「木戸屋、福中、加茂新屋敷、私ト行キ」 とある。聞き取り調査によれば、前田峯太郎氏は、漁業許可者の一人で、竹島のアシカ猟を差配し ていた橋岡忠重氏とともに、昭和 8(1933)年から昭和 16(1941)年まで竹島でアシカ猟をしてい たとされる。中川章氏のアシカ猟、佃祥次郎氏と八幡伊三郎氏の「かなぎ漁」は、大阪の民間放送 局製作で、昭和 40(1965)年 11 月 16 日放映「リャンコ-竹島と老人の記録-」にも出ている。さ らに、橋岡忠重氏の竹島漁業に関するメモによれば、「出漁の折りのアシカ捕り漁夫は 7,8 名で、だ いたい西郷の漁夫、アワビ捕りの漁夫(=かなぎ漁師)3,4 名で、カナギは久見、津戸、蛸木等」と ある。つまり、年により、竹島に出かけた漁師は交替があると予想されるものの、昭和初期に久見 から行ったアシカ捕りは、木戸屋、福中の 2 名程度で、残りの 5,6 名は、西郷の指向の漁師であった と考えられる。またかなぎ漁師は 3,4 名というのは、久見の八幡伊三郎氏、佃祥次郎氏と、加茂の門 脇軍一氏の 3 名程度であったと考えられる。すなわち、昭和初期における久見からの竹島渡航者の 具体像が明らかになったことが指摘できる。 (3) 2 点目は竹島のワカメの長さである。竹島がワカメも豊富な島であったことは、昭和 29(1954)年 5 月の竹島出漁を記した脇田敏氏の記録や写真などにも出ているものの、寸法は出ていない。八幡伊 三郎氏の日誌では、昭和 13(1938)年 5 月 15 日から 24 日まで、アシカ捕り、かなぎ漁師が総出で、 ワカメ刈り(かなぎ漁師が行う)、ワカメ干し(アシカ捕りが行う)をしたことが出ている。明治 39(1906)年 3 月 27 日に竹島を視察した島根県視察団の東隠岐島司の復命書では、「和布ハ稚嫩に して僅に海岸に付着せるを見るのミ」とあり、まだワカメが「稚嫩(ちどん):若くてしなやかな 時期であった」 ということが分かる。 今回見つかった資料では、 ワカメの長さ、 7~8 尺 (=210~240cm) と記載があり、この長さは聞き取り調査の結果とも符合する。隠岐のワカメはこの半分の 1m程度で あるという。 (4) 3 点目は、昭和 12(1937)年 6 月の久見の新屋敷(=八幡伊三郎氏)と加茂の新屋敷(=門脇軍一 氏)とのかなぎ漁でのライバル対決である。この件は、これまでの聞き取り調査でも出てきており、 また日誌でも昭和 12 年の記載で、加茂(西郷)の新屋敷は自分の半分も取らなかったと書いてあっ たが、今回の資料で全体像が確認できた。資料によれば、「アシカ捕りの(西郷指向の)都田によ れば、(加茂の新屋敷が)久見の新屋敷をアワビ捕りで負かすとのこと(であったので)、一緒に 連れて海に行ったが、私は 100 貫匁(=375kg)近くも取ったものの、(加茂の新屋敷は)60 貫匁(= 225kg)あまり取り、その後次第に(加茂の新屋敷は)私にかなわなくなった」とある(現在久見地 区ではアワビはよく捕れて 1 日 10kg 程度ということである)。つまり、かなぎ漁のライバル対決の 仕掛け人は、西郷の指向からアシカ捕りに出かけていた都田佐市氏であったことが分かった。さら に、このライバル対決は 6 月 7 日の「塩ナク」、そして 6 月 8 日以降に出てくる「生シ」と関係が あることが分かった。「塩ナク」とはアワビを塩漬けするための塩がなくなったという意味で、2 人 の新屋敷がアワビ捕りのライバル対決をしたため、当初の予定していた量より、はるかに多くのア ワビを捕ったため、塩漬け用の塩がなくなったと考えられる。塩がなくなった結果、アワビは竹島 で「生シ」=生かされることになったのである。竹島では、アシカを入れる木の檻、そしてかんこ 船などを利用すれば、アワビを海水につけておくことが可能であり、竹島を往復した運搬船でも舳 先に海水を入れる場所があるので、アワビを生かしていくことが可能であるということであった。 結局、この 2 人のライバル対決は、竹島での水産資源がいかに豊富であったことを示すものといえ る。 (5) 今回発見した資料は、八幡伊三郎氏の日誌とともに、昭和初期における竹島漁業の実態を示す重 要な資料であるといえる。この資料によって、昭和初期に島根県知事が隠岐の漁民に対して竹島で の漁業を許可した上で、実際隠岐の漁民が竹島で漁業活動をしていた状況を確認することができる。 一方韓国側では、1905 年以前に朝鮮王朝なり、大韓帝国が竹島に対して、竹島へ行政権を行使した 記録が一切ないばかりか、1945 年以前には、記録上、アシカ猟の人足もしくは海女として、日本人 の漁業者に雇用されて竹島に行っていただけであり、韓国人による主体的な漁業を行った記録が一 切確認されていない。これらの資料が作成されたのは、昭和 40(1965)年の日韓基本条約や、昭和 52(1977)年の韓国側による竹島領海 12 海里の設定を契機にして、竹島問題が内外で話題となり、 久見地区で報道機関による竹島問題に関する取材が多く行われたため、八幡伊三郎氏をはじめ、当 時生存していた竹島の関係者が、昭和初期を中心に資料の保存と竹島の記憶をまとめたものと考え られる。 5.その他 6 月初旬開館予定の隠岐の島町久見の竹島問題の調査研究施設「竹島資料収集施設」(愛称「久見 竹島歴史館」)では、この資料の複製版を展示する予定です。
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