YMN002803

﹁行る﹂ ﹁漬 る﹂の誕生
動詞﹁やる﹂ の 一考察
㈹はじめに
セ 項に
ぅ はな
場代語の助詞﹁やる﹂には、﹁する﹂に通じる用法があるとされ
。たとえば、コ日本国語大辞典口 には、その第十
ある動作や行為をする。﹁する﹂よりも俗 ないい 万 。
語釈があり、次の用例を示す。
0 とりは づしてずいとやり、何兆此にほ ひ をさるべきや
ネ。
口義山供血 八泉鏡花 V 下口
Ⅰ仮名草子・昨日は今日の物語・下口
0あんな乱暴を行 ゃ って 、
演やるって
0大坂役者がなかなか好く
ハ良人の告白八木下尚江 V前 ・二四・四口
八夏目漱石 V 一口
0 ニャーニャーと試みにやって見たが誰も来ない。
何あ
ロ輩は猫である
堀
口
口
木
ハハ
しかし、 右の 四例のすべてが俗で ないい い万 として
換えられるかというと、必ずしもそうではない。
七口
d
忌志的な
﹁商 土几
用
| をやる﹂
﹁する﹂に舌口い
﹁基礎日本垂拍 ︵森田良行︶しの﹁やる﹂の項には、﹁
の文型について、
﹁ヲ ﹂格に立つ語は行為を表す名詞で、﹁会議をやる﹂
をやる﹂﹁ゴルフをやる﹂﹁マニキュアをやる﹂等、
動作・行為によって成立する状況に限られる。﹁する﹂と 共通
﹁する﹂
P ℡︶
する面を持つが、﹁する﹂の場ムロ
に可能な無音生心的な動作 や、
状態性の名詞は﹁やる﹂で受けることができない。
と、意志的な行為にのみ限られるとあるが、その一方で
や つくり
ⅩハⅠハ
0項目には、無意志的な行為に﹁する﹂を用いる用法の 一つに、 助
作性の生理活動を表す﹁ 息 ・あくび・くしゃみ・ 咳 ・
げっぷ・おなら・まばたき⋮⋮﹂など、また、当人にとって一つの
一一一一
病気・流産
心体的経験や病歴となるような傷病関係の語﹁怪我・骨 折 ・火傷・
・下痢・便秘・はしか・疫痢・盲腸・マラリア
﹁遣る﹂
える﹂の 発
︵P Ⅲ︶
コ基礎日本 拓 L のその 頃
この類の﹁やる﹂も、古代語から連綿と現代語にいたる
を 出自とすることは、まず疑いなかろう。
あちら側へと進ませる意志的行為。
には、まず、
ころ結核
と規定があり、その八分析 IU に、
妊娠・・・⋮﹂などをあげ、その場合には、
人間行為なので﹁やる﹂を使う ことができる。﹁沿い
︵P Ⅲ︶
進ませる外へ出す1号
︵P Ⅲ︶
であるが、
@ぅ 意に発展
ヲ進 メル﹂ことを Ⅰ
した用法だとされている。はたしてそうであるかは問 題
か、それを
種類がある。
第一の用法は 、 ﹁|を|に
ⅩⅡ ヰト ス ススⅠー
|
0
聞
か
ね たつみのたまきの
の文型から分けると、次の二
向石英・一五・三六二
セ口
玉を家づとに妹に出貝むと
口万葉・一四・三三六三ロ
わが背子を大和へ複利てまっ しだす足柄山の杉の木の
︵へ︶や る ﹂の文型のものである。
古代語の動詞﹁やる﹂の用法は、そ
㈲古代講以来の﹁ ? をやる﹂
探ってみようと思う。
ともかくも、それがどんな契機によって生じたものな
とあり、この類の﹁やる﹂は、﹁行動
展 コースとは別に、行動を進める﹁やる﹂がある。
また、﹁行かせる
|
をやった﹂
説
﹁す
﹁日本語教
とある。﹁やる﹂は意志的な行為に用いる、といっても、かなり 注
ガ の頃
釈 が必要だということになる。両者の関係については、
百事曲ビのル ﹁する﹂と﹁やる﹂︵神田靖子︶
辞書の一項に 、 ﹁やる﹂は﹁する﹂の俗語だという
るが、必ずしもすべての場合に適用されるものではない
る / やる﹂それぞれに固有の用法を除外すると、置き換えの 可
能 なのは、一般的に行為することをあられす場合、﹁体 舌口を
︵P Ⅲ︶
する﹂﹁こそあど・する﹂﹁擬態語・する﹂等の場合のうちで
ある。
とあるが、このような解説に留まざるをえないことになる。︵右の
擬態語に伴 う用法については異議があるが、㈲項で述 べる。︶
特に話しことばに多用されるこの類の﹁やる﹂の性格 ほ ついて
は、未解決の点が多く残されている。本稿は、その解決を目標とす
るものではあるが、まずはその前段階として、しばら
法が生じたときれる近世の状況を見つめることを目的とする。
に負
0片
ヰ思
ハひト
を
Ⅱ馬荷向 席
ナヰ Ⅹ
はせもて越辺に夜 良は
ひとか
万葉・一八・四 0 八一口
口
から外へ移動させることをひたすら表す。この用法は、
後涼殿 にもとよりきぶらひたまふ 更衣のさ ぅし を、ほかに ぅ
0
つきせ 給ひて 、 ︵桐壺 ノ更衣 ノ ︶ う へ っ ぼ れ にたまはす。 そ
た はむかも
のように、シテが対象を、自分の所から遠くの万に、す な む ち、内
のうら
等々、もっはらつらい心情を晴らす意に用いられてきた。﹁やるせ
ナナヰ
から外へ移動させることを表す用法であり、﹁|に ︵へ︶﹂で示さ
れるものは、その移動の到達点である。第三例のよう な、心情的な
なし﹂﹁やる かたなし﹂などの慣用表現は現在に及んでいる。ただ
かしらしろきなどが、人にあんないい ひ、女房のつぼ
心 ひとつを
ⅡⅠⅠ ヰヰ
、
二己
︶我が応えたることばかりを、おのがじ し 心をやりて
Ⅰ枕草子,
やり て ︵能因 本ハ ﹁心をやりて﹂︶とききかするを
ねなど によりて、おのが身のかしこきよしなど、
︵
女八
ハ源氏物語・吊木口
人をば おとしめなど、かたはらいたき事お ぽかり。
のだが、
表現における焦点は、その到達 煮 にあるのではなく、
こかり
後の例は、﹁宮にやる﹂ことをい う のにちがいがな
先にト一下
@レ汁
Ⅰ
0
0 老いて
わずにきら け 出す、ということに用いるものも見られる。
し、この用法 のうちには、 右 とやや異なり、自分の思いを相手かま
ものを遥かな地点に到達させるという用法は、
口源氏物語・蓬生口
︵叔母ハ、夫ガ 大弐トシ デ下向スル ノ ニ坪ウ ソデ ︶ 行く 道に
心 をやりて、いと 心 ちよげなり。
自
それぞれ 連
などと、﹁ 逼 カナモノ二恩 イヲハ セル﹂という用法に発展 していっ
た。また、﹁ |に 目をやる﹂﹁ | に手をやる﹂など、
を 外なる地点に到らせるという種々様々の用法も生じ、
第二の用法は、基本的なものはすでにすたれて現代に及んでいな
あにしか
いのであるが、到達点 ﹁|に ︵へ︶﹂を問題としない用法 である。
0夜光る玉といふとも酒飲みて情を遣︵ 坤︶に
八万葉・三・三四六口
ナナ Ⅱ
ヰ ⅠⅩ
﹁ココ三留 メ ル﹂ことの反対として﹁ココカラ世乞 何 カセル・ 出テ
行しクノ三計 ス﹂ ことをいう点にある。中古以来多用される﹁車をや
り
口
万葉・四・五三一口
由
9ること 十
る ・馬をやる・ 駕籠をやる﹂などの表現も、その﹁申 ﹂などが、 シ
丈
|こ沖レ
心は
リ斗べなし
0うちひさす宮に行く児をまかなしみ留むれば
いう表現である。その到達 点 を具体的に示すことはなく、自己の内
一一一一一一
支配 卜 のものである場合には、﹁自分ノ車ヲ 、進行 サ斗
、行 クニ マカセテ 行力セル・ 逃 ガス﹂ことを表す。
俳 用語に﹁やる﹂があるが、これも、
よき
@
其 あたり前句のつ ゾきたらん
nd
異説が見えるけれども、﹁やり歌 ﹂が 、
0 これらは、
絶
、一
・
﹁他ノ
﹁@
山.
山
悶巨
三四
︵ハカヲ ヤル︶﹂と 例示がある
笘8 ﹂の項に 、 ﹁Ⅱ 笘ドp
せn
佳ぃ
仁 ︵ハカ
なお、コ目 ポ辞 重日ロの﹁Ⅱ
ガュク ︶﹂と共に﹁Ⅱおき。
っ、という 関
が、他動詞﹁やる﹂は、自動詞﹁行く﹂を使役的にい,
係 にあるのである。
以上、二つの文型について種々の用法を見たが、そのいずれにお
本 的には意志的な動作・行為を表すことは確かである。
いても、他動詞﹁やる﹂は、一般に他動詞がそうであるように、 基
きやり 候
純に ﹁コト をする﹂意の﹁する﹂に舌ロい換え可能な例は見られない。
たビ 詞にまかせて百首の中のやり寄 とは みえ侍れ
ど 、旧記おかしく侍にや。
Ⅱ千五百番歌合・ユ面一己
,ヮに
、﹁百首歌 ヲ進 メル タメノ歌 ﹂の意であったのと同 様に 、
旬ヲ進 メル タメノ句 ﹂の意味であったであろう。
二の用法もこのように多様であったが、次項以降に触れる近世
である。
どの例も﹁1を﹂と示される名詞句で表きれるのは、
す べて﹁モノ﹂
モノ ラ、
例
f
をやる﹂
,
ての
一
一つは、㈹項にも引用した﹁屈をやる﹂の用法である。
を
ひか
へて ぬ る と
口
きのふはけふの物語・下口
0さる若衆、これもとりは づ してずいとやり、
さるべきやうはなし。
こせ・≦
自
息の町・出羽口
のお小性、お目見へにあがり、次の間に軸
きに取は づし 、ぶっとやる。
0 十セハ
何共 此に ぽひ
近世になると﹁| をやる﹂の用法がいろいろと見られるが、その
㈲近世の﹁
をやる﹂という用法が成立するのはずっと後の時代であ
内力 ぅ外 へ移動サセル﹂という意味の範囲を出てはいない。﹁ コト
旦
であってけっして﹁ コト ﹂ではなく、どの﹁やる﹂の
しかし、 単
本
長紙・
ハ丈口
上か、 叉はむ っかしき
程 よく
ハ
鬼貫・ 独 こと・上口
か ら。とつけのけ侍りて、
ひ 侍らん。
をいうものであった。﹁やり 句 ﹂については、 良基 0 コ加速 抄 ﹂
、﹁難句 ナドヲ進 マセル・連句 ヲ進 メル タ メニ軽ク何% 付 ケル﹂
やりたるをやい
前句にて付がたき所を、
0 遣句は・
はん時、大切事あるべく候 。
0歌にも難題などは源氏かんよふの事侯 。なん切など
連
ど
と
は
用法は、みなこの用法につらなるもののよう
の
カセテ 行力セル・ ヤ リス コス ﹂ことを 表す。 狂
﹁やるまいぞ﹂などと多用される﹁やる﹂も同様で
、進行スルニ%
﹂ことを表すが、シテの支配下のものでない場合には
キ
の
ル
フ
メ
車
人 言
ヲ
に
の
「
ょ
諸 策 運
この﹁やる﹂は、やはり﹁四々ル モノ ラ、外へ出 ス
二表 ス﹂ こ
とをいう用法の中のものと考えられる。もっとも、﹁届 をする﹂と
いう表現も 、
可 能の ﹁やる﹂
0夫婦 彼新宅に人 て、縛 ㍗か小亦も思ふましに団 らる ち故に 、
よめ
こ
ハ
好色 禁蒙 図嚢・ 上 ・娘子り
などのように例が多く、そこで、﹁する﹂に言い換え
ひま
-
併存するが、後期のものであるだけに、これまた同様 に
る ﹂の用法とすべきかもしれない。
﹁コト を や
あ るきな
小便のわづらはしき、さのみ隙はとら れども、しき りに 催
0只
す 時は 、 ⋮
人 目を 恥
ハ
鶉衣・一徹弁口
@ 。されど、馬方,小揚の身の上のみ、
がらもやり放し、清水をけがし書にも跡をつけて、
ぬは論ずるにたらず。
六 ・下口
ト小 べん た どをお ろ しな
二
ハ
東海道中膝栗毛・
をやる﹂その
?
ま、 ⋮⋮せりふもぬれ事があっ
ぅて、つべ ⅠⅡ ひ た
、陀仏までやらずに,
中口
こ ろり
くに 立
︵
東大坂役者ともぐい評判 口
と 、やりばなしにやつて、やりこくられます。
すう
﹁なり、かんじんの時には念仏といふ物も、なんのど
ませぬ。南無阿弥さへ
口
傾城反魂香
﹁︵ セ ガ ンハ ︶四書を読み 習ひ 、論語・孟子を宙でやります
と取 ていきました︵Ⅱ 死二 マシ タ ︶﹂
0
0
0 花井あづ
近世前期から多く見られる用法の一つに、次の類の例 がある。
㈲近世の﹁
こへ とり﹁ サア やらんせんかいな﹂
なすと、一人の男﹁ ァ リヤわしさ き や る わい﹂ ト このた どの
0
の用法の中に入れられることもあるのであろうが、両者は異質な表
おれら
現だったのではなかろうか。すな れ ち、﹁屈をする﹂と い,ヮ
場合の
うちへ、ふたりながらか べんしてしもふと、
いる、とい,フ
に ﹁こく﹂
﹁屈 ﹂は﹁ 放 屈行為﹂を表し・ために﹁する﹂を用いるが 、﹁庇をや
る ﹂という 場 ムロの﹁
庇ヒは ﹁屈ソノ モノ﹂を表し、ため
に情
事
た現
とと
考し
える
はる
なこ
かと
ろう
類に
すあ
るっ表
てべ
放き
出です
をか
い。
う ﹁やる﹂を用
ハ鹿の子餅・ 尻 口
0初会のざしき、女郎 ぶ いとの 仕ぞ こない。⋮⋮客もさ るもの
ほうび
にて 、 ﹁ひったものこいとの事 か 。 コリヤ敬屈をやり山 ﹂と
一分はづ めば、
この例は﹁褒美 ヲ遣ル ﹂に掛けた特殊側 であるが、明和期 のもので
あるから、あるいは、㏄項で述べる﹁ コトをやる﹂の用法の成立後
のものとして、その 例 とすべきかもしれない。
同類の用法として、後期には﹁小便をやる﹂などの例 も見られる
が、右と 同じ事情で成立したものであろう。この場合も ﹁する﹂と
三五
六
ル
モロ
ハ
三一ノ
一Ⅹ
巾
幼稚子敵討・
に
マア やりかけて見よふ﹂
あ
ハ
浮世親仁形式・一己
くな
を、 ⋮⋮﹂
任
しま
0 ﹁・・・・・・随分と血を見ぬ様に立廻るが発明﹂と、弁に
り付ねば 、軍勢共は裏に人 て、 ﹁・・・⋮﹂と、
惣 ⅠⅠが
・
これらは、せりふや念仏など、走った文句を﹁詰め ・唱 エル﹂こと
葉にあられ
にい う。また、次のように、シテが単に自分の考えを丑口一
、 ぐにやら
ロ
花飾 二一代記
このような﹁やる﹂の用法も、前項の場合と同じく、﹁内
一表ス
ノ ラ、 外へ出 ス ・外 二表 ス﹂意の m 法であり、﹁言葉 -
を強くいう表現として成立したものであろう。この用 法は、
すたれ
は少
示すよ う に、後期になるときらに発展した種々の用法を 生む
るが、純粋に﹁話ス ・宮ウ・シャベル﹂ことをいう用法
三
り、複 ムロ
語 ﹁やりこめる﹂などを除いては、現在では
ったようである。
をやる﹂その
?
ナ
ノ Ⅰと出て行。
ふりかけたどとくにて
小 うた 上る り を
す ﹁話ス ・言ウ ・シャベル﹂ことにいう場合もある。
0 床のやりくりしもふと、山しゆがくせとし、
︵検屍
やと
㈲近世の﹁
町 」
などである。
﹁花をやる﹂ ﹁品をやる﹂﹁貿をやる﹂﹁味をやる﹂﹁幅をやる﹂
近世になっ て見られる﹁ | をやる﹂という慣用句がいくつかある。
の
口
大子 集 ・ニ ・桜口
/{
︶に花をやるなり姥桜
0 仁・
@れ
0 むかし は今の秋田や・ 博屋 にまさりて、世盛の八重桜、宏の
﹁花をやる ﹂は、その用法が多彩にわたる。
砂利 u
土て目
で項
な
こと
ぅとふ 。これあいどこのはうばいに、こちはしもふた といふ
む。
あいづのことばなり。そのうたきくより、ゆたかにやつてい
らるⅠお山しり、あわてて 一せんのはげ
ゃ。葛城がやり手に成 て出て 、
口茶屋諸分利方 記 ・床 入の曲づき井にあい づ の小う た し
0 ﹁くるわの中の頼みじ
ア、 えず。去ながらい
イ
@よ
Ⅰ
@@
ノ役人二︶請け返答をしてたも。恩に受けう﹂と 云 けれ Ⅰ
﹁あの死骸のそばへ出ることか。
ロ凪城 反魂香
云も子細らし。 いひ そこな う たら大事か。はに任せて やって
くれよ。てんぽの皮﹂と ぞ出にける。
0 ﹁こりゃ、客様 ソ達の手まへ、もちつとは 恥 かしい と 思へ。
-左嶋様 より外の屋敷はいや
ハ% 減酒番克子・一己
其やりばなしなこんじゃうで、今から多くのとのたち に、し
0 ﹁︵奉公ニ山ルツァラ
の﹂﹁奇妙な事をい ふ者では有る。それほどにいふ出な
っ
し
"
て
都 に花をやって 、 春はゆたかに 募 され、所酒のから 口
蝦の
一 ・五口
伴 して、 木辻町 の兵部 残さ
さしめを好み、 其牙 栄花に明し 、⋮: n日本永代蔵・
0 ﹁過し秋の比、南都に大臣のお
Ⅰ田鶴置土産・五・一口
ずょ びて 拾 六人、小判四 市で花 やりしが、⋮⋮﹂
ニ ・酉 Ⅲ 庄 太夫 口
ね。
﹁︵水風呂二八︶もはや入るまい。寝て花をやります﹂と、
ロ
難波の貝は伊勢の白粉・
文弥が鉢の木を耳より取出し、かは った花をやられた。
0牢人 殿 ほどなく運をひらかれて、去年はじめての顔見 世に 、
0
ずん ぎり 枕引よ せ、 火 ふきけして夢をむすび
。
仁木朋 二十不孝・一・一己
コ媚態 ヲ表ス ・媚態 ヲ示ス ﹂ことにいう。
美人紺屋と、門に人工 絶ず
のように、
﹁警をやる﹂は 、
下 ・馬場 口
0伊達染小袖は ビ広帯、尻のとがりに引かけて、ぜひ をやり 戸
・ミェヲ眼ル ﹂ことにい
口
紫のひともと・
を伸 明けて、お客をそしと待たるに、
のように、﹁ゼイタクサヲ表ス
﹁味をやる﹂は 、
0 なべての 大う ちとけがたく心をかれて、人のよりっきすくな
請出す談合をす るとひ
円満散村人性・ 野 関口
し 。 位 づめにしてあ ぢ をやらんとする内に、男はや退 屈して
め くかたぎ 也 。
0 ﹁皆是︵Ⅱ 客 カラノ手紙︶見て笑や。
つとむ
の 。 瓦町 のぬけ蔵が 、あぢ をやらる ト 。 今 おれを 勤 るも 、大
ふと
ウ ﹂ こ とにい う 。
Ⅰ好色二代男・三・五口
黒 講の掛銭をかつて、とやかく間をあはすなりをして、
ひ事をいふ﹂
ね。
口
好色盛衰記・
ニ ・四し
り、むしゃりに幅をやりて、中びくなる貝も、鼻 たか ふ見,ん
0万の商人、後さきしらずに掛先すれば、当座のくが ひ つとま
﹁幅をやる﹂は 、
のように、﹁ 味 ワイフ発揮スル・シャレテフルマ
﹁豪遊スル﹂
ハ
御前義経記・三・三口
右 はそれぞれ、﹁ 美 シク コ ソ オゥ ﹂﹁全盛ユ諸 示 スル﹂
﹁ハナサ カナ 芸ヲ 披露スル﹂﹁共寝 ヲ楽 シム﹂などの 意 だとされる
と 同じく﹁ 内
が、その原義 は 、﹁ 花 ﹂とは﹁ 美 シク咲キ誇 ル札﹂に もとづく﹁ ハ
ナ サカナ モノ﹂であり、﹁やる﹂は前項までに見たもの
誰 いふ となく
た をやぐ けしきも
ナル モノ ラ、外へ出 ス ・外 二表 ス﹂ことであって 、 ﹁ハ ナヤカナモ
ノ ラ、自 ラノ外面二表 ス﹂意であったと思われる。
﹁品をやる﹂は 、 コ記葉新棚 口に ﹁シナセル
てつくる﹂とあるが、
0 不断も加賀染の模様よく色を作り品をやれば、
艮一七
のように、﹁ ニ ラ ツ ウナ態度 ヲ示ス ・ハバ ヲキ カス﹂ ことにい う 。
ものである。
これらの場合も、やはり﹁花をやる﹂と同じく、﹁やる﹂は﹁内
ナル モノ ラ、 外へ出 ス ・外 二表 ス﹂意の用法のうちの
ただ、これらの表現で表されるものは、いずれも人の振舞であり、
それが﹁ コト をする﹂に類した用法を﹁やる﹂がもつにいたる契機
となったということは、考え得ることである。しかしながら、成立
時における意味あいは、やはり、古代語以来の意味用 法 の範囲から
出るものではなかったようである。
なお、﹁幅をやる﹂については、右のような考えにやや都合の悪
い事実がある。それは、﹁幅をやる﹂に先行して﹁幅 をする﹂があ
ったということである。
三八
四
﹁はば をやる﹂はしゃれた舌ロⅡリ
万ネ巳あったかりネし
あろ ,目
。ノ
㈹近世の﹁でをやる﹂その
近世になって見られる﹁| をやる﹂の用法は他にもある が 、その
| なしてやる﹂が ある。
ニ ・一口
滴 々手にふれし銀子を してやり、
一つの用法の基になったと思われる﹁
0 或 時は片山陰の柴かりて、
口
好色一代男・
0 帯 ・雪駄・きし櫛は、女郎に気をもたせてしてやった 物也 。
やりて
ハ
好色貝合 ・下 ・道 師 口
してやら
Ⅰ人倫糸屑・巾着 勇り
0 ﹁︵頂 ケラレタ金品 ヲ︶おなつ女郎と清十郎がぬすみ 出した
る Ⅰ事は 、
何日ポ 辞書 口
0 弓リサロ0
ロ目 ﹁E.八外面を飾り、見えを張る V
放か ﹂意に用いる。
っかと
く ひたい物を 円心
@
ハ程
ミ取ル ﹂意に用いることもあるが、多くは、﹁計略ヲ策 シテ カタリ
これらは、﹁仙人 ノ金品 ヲ我ガ物ニ スル﹂ことにいう。 単純に﹁ 盗
Ⅱ五十年忌歌念仏・中口
ぶんにして、してやる様なぐめんがなと、分別すれどあ たは
そな
@
徒 なの身のはては、 昔 、御坊をふ
何
好色貝合 ・上 ・大黒日
ぬち ゑ ﹂
0御本道様より幅をして、魚肉茶酒の備にあ づかり 、いつが 節
李 やらしらぬをとりえに、
づくるしかけなり。
そ れが、﹁花を
しかしながら、﹁ ぱば ﹂は本来﹁威勢 ノ誇示﹂の意で あり、﹁はば
をする﹂というのが当然だったのではなかろうか。
0 よばれてゆくにも、つぼ入を請るにも、
はえくはず・ 適 々何とけてしてやつても、腹にあたら,
やる﹂などの流行に影響を受け、そこから﹁はは を や る ﹂の用法が
生じたのではなかろうか。他の表現がすたれてくる中 で、﹁は ば を
気が気でなし。
Ⅰ好色訓蒙図彙・野郎 口
する﹂﹁は ば をやる﹂は後期まで用いられたが、少なくとも当初は
・きかなに猫が目八ぶん
口軽口頓作 口
八人倫糸屑・血気の勇者 ロ
0 若い時は 、 ⋮⋮食事 飽までしてやり、酒色たっし ゃ にして、
してやるぞ
0
0 ﹁又 さきへ行って 、 う ぬへ ものをしてやろふ﹂
ひ つし ゃ り
﹁我ガ 初三
ロ
東海道中膝栗毛・初口
これらは、﹁食べ物 ヲ思 イ ソ ママ二食 ウ ﹂ことにいう。
スル ﹂という点で先のような用法とつながる。
0 此 故に 、 ︵ゲジゲジガ ︶見村 けらるちといなや、
n
人倫糸屑・ 倭 入り
,ヒ口
リコンデ︶﹁ サ ア一人はして やった。
としてやらるⅠは、さても迷惑な事。
0 ︵海賊ガ下人 ヲ海二放
0闇にも光るだ んびらを、抜て突込む二階の板。上に
タ、
ハ ・中し
ぬ にしてや
八 ﹁どふ
玉 ぎる 声。してや
ったりと刃物 引抜 、⋮:n
神霊矢口渡 ・四口
0 Ⅰ八二飛ビカ カランテ︶弥次﹁アイ
億東海道中膝栗毛,
した弥次さん﹂弥次﹁ いめ へましい。ちくしやう
られた﹂
いじのたりだ
ヮ。多く 、た
,
ヲ思 イ ソ ママニヤッケル﹂ことにい
これらは、﹁柏手
ふ から、 は
たいたり痛めつけたり、傷つけたり殺したり、また、
ましたりすることに用いる。
0 え こらへぬ ぅ かれ男、﹁そちはいくつに目なんどい
やあきなひは、してや ったもの 巳
。
った 。を
す
牙つ
婆いロ
n
好 白貝合 ・下 ・
0 ︵ダマ シテ柏手 ノ弓矢 ヲ 取り上 ゲテ ︶﹁さあしてや
ム
八口
、被 かき置でしてや ったと 思ふた
日
続狂言記・禁野口
めれにくいやつの。矩はうそじや。をのれをたった一矢でい
てやら ふぞ ﹂
0 ﹁中貫の弥市を殺した事は
ハ
夏祭浪花鑑・
った ﹂の形で用いるが、この用法は、次 のように、
シ
これらは・﹁事ヲ思 イドオリ二 % ブ ・ウマク 処理スル﹂ こ とにいう。
多く﹁してや
テの おこな う行為によるのではなくても﹁事態ガ思イ ド オリニ ナッ
0 跡に御台は
ト いかふとするを
後ろへ
巳
、 正二八円
神霊矢口渡・
円
ったりと 飛か Ⅰ る 。
ハアノⅡ あぶノ
Ⅱ、長追無用とあせる内、
タ ・97 クイッ タ﹂という意の、自動詞的な用法にも発展した。
廻った徳目の兵太 、してや
0 名山﹁ ヱ、 、そんならわたしも﹂
ヰj
ヰ
て、 ﹁こりやしてや った ﹂ ト名山に取付くを、高尾引の ー
口碑人漢文手管 始 ・一口
そろノⅠはひかけ、
四 ・下口
ふ すまを
、
口
東海道中膝栗毛・
っは ねい
0弥次郎、そつとおきあがり見れば、きた八はほんと -
りしよ ふす 。してや っ たりと、
そつとあけて、
﹁してやる﹂は、このような用法をもつが、その基本的な 意味は
三九
﹁対象ヲ、自分 ノ思 イ ソ ママ 二処理スル﹂ことをいうも のであった
と 思われる。
ところで、この﹁ し﹂と﹁やる﹂とはどうような意味で
たものであろうか。
詮議シテ︶﹁ まづお まちやれ 。 きや
﹁し﹂はサ変動詞であるが、その意味は、
0 ︵鳥目ガ紛失 シタコトヲ
目庇
明水狂言・磁石 ロ
らうと
ロ虎
貫木狂言・文山立
いふ たれば、あれもそなたがやつた ︵Ⅱ逃ガシタ ︶では
,
カ﹂
などと同じく、﹁対象 ヲ、自分 ノ思 イドオリ二戦ガ物 一スル﹂こと
を表すものであり、﹁しとめる﹂などの﹁し﹂も同類 であろう。
普通、
口虎明水狂言・ 武世
﹁とてもたすくる事はなるまひ。尋常に覚悟をさしめ
﹁
| てやる﹂と用いる﹁やる﹂については問題が多い。
0
Ⅱ 卜ヰ Ⅰ ヰ
念此 にとぶらふてやら ふぞ ﹂
ヲ ︶かけたれば 、 そな
とされ、
ハ
東海道中膝栗毛・初口
0 いせ参 ﹁わしは ひだるくてなり申さない﹂弥次﹁もちでもかつ
0 ﹁是はいかな事、身共がけがに︵泥水
0
四O
ハ虎明水 狂言・水田貴 し
たはわざとおかきやる。かけどくならば身 どもⅠかけて やら
ふ﹂
﹁やいそこな者、山だちの合言葉をしらぬか。︵﹁
ィ ウ ソハ ︶あの者が財宝たからを放 てやれといふ 事ぢ や ﹂
狂言記・文山立 口
口
け@
しを
川 へはめた意趣 返
される。
一
Ⅲ
日東海道中膝栗毛・ 三 ・下口
0 ﹁こいつはいⅠことがある。おいらを
してやろふ﹂
などは、﹁菩を利として表すものⅡ標準日本文法口 ﹂と
として、少な
者が本来的な用法で後者が二次的な用法であるよう に いわれること
が多いが、受給表現全般についていう場 ムロはともかく
くとも﹁ | てやる﹂の用法においては、必ずしもその よ う には認め
がたい。後者の用例もけっして少なくなく、両者は伯
利か 菩 かは、もっぱら上の動詞で示される意味によっ て 左右きれる
が、この﹁やる﹂の基本的意味は、その行為が柏手に及 ぶことを 表
、
すというよりは、その行為を完全に遂行すること表すものであった
のではなかろうか。古代語 以来の
0 この人々も、はかなきことなどしやるまじく・
源氏物語・浮舟 口
口
月
新古今・ 雑下 ・一八二一口
ら風 まつ露の消えやらずこのひとふしを思
0 を ざふ は
をく哉
OH 日日 0 ぜが﹁pN
口。 xぎ @
ヨ 0 ペド
き%
セ ラズ ︶
︵生キ モセ ラ ス、 ル几二モ
口ロポ 苗里巳
上の動詞の示す動作・作用を﹁完全二成立 シタ状 態ニ達
もはいるよふだ﹂
0 ﹁ィヤ ときに、
セシ
宿へ かへりて、 や がて
口軽口髭 がはなし・一・一四口
一盃 やろかいな﹂
いくらで
ハ回右 ・セ ・上口
日東海道中膝栗毛・ 五 ・上口
0 弥次郎まん ぢぅ を く ひしまひ、﹁もつとや る ふか。
﹁醒睡笑・五二二 ァル 口話 ハ、終 リガ﹁おだいやる ﹂
ま Ⅰをやる﹂と ぞ申 ける。
くだんの汁にて客をよぶに、ことづて をとはれて、﹁ め しの
ふならん﹂聞えたる作意やと感じ、
ヲ ヤル﹂ ト ﹁舌ロ
ヒ遺ル ﹂︶ と のえんによⅡ ソ、こと づて汁 とい
Ⅱ﹁ 飯
れば、
いし︵Ⅱドロロ什 ヲコ卜 ドンテ汁 L
Ⅰイ占ノワケ ラ問ワレテ ︶﹁ キご
れるものもある。
近世の﹁やる﹂の用法の中には、この﹁してやる﹂の省脩 形と見
として成立したものではなかったろうか。
。そして、﹁ | なしてやる﹂も 、 ﹁| をする﹂の意を 強糊 する 表
るのと同じく、﹁| てやる﹂も一種の強調表現ではなかったろう
ル﹂ことを表す意味であって、その動詞の意味を強調するもので
が、
どという用法に直接結び付けることはかっかしいであろぅが、そ
な
れ
メ
あ
か
現
ら
﹁それならば、
単を
ヤレ ﹂ トノ・ウ ノハ ︶ 首
などは、﹁ 食 ベル﹂また﹁ 飲ム ﹂ことにい う 。
0 ソテ ﹁山 だちのことばをしらぬか。︵﹁
をりんとやれと三車じや﹂と 云 。 @ァよ
坊と云 たいものではないか﹂と 云 。
曾れ-
天理 水 狂言二ハ義 ・支出たち 口
ハ
Ⅹ虎咄 本二八﹁やれとれ﹂、肩巾 児恭二八﹁やれとⅠつへい ﹂
狂言記二八﹁あの者の財宝たからを放 てやれ﹂ トア
、よふ 身共をやったな﹂
0 ﹁ヤァ わりや勘六じやないか﹂﹁ ヲ 、弥広大様 か ﹂
かとは横道者。うぬ
見て 、
口
新版歌祭文・ 下 ・長 町の 段口
かた
チコイト やる形をする。
にぎりこよし
是 までの恨をおもつて、拳で
ら、
・上口
ろ へ、﹁ル兵
ことにい う 。
初
岩 め やう な
ロ即当笑合 ・四 ・理旧恨口
イ ソ ママニヤッケル﹂
ロセ偏人
押て悟 られた 痛サ くやしさ﹂
0 ﹁野良 セ めが仕業で、自己の天窓へのしかしり、
と 、真赤になって
などは、﹁柏手 ヤ相手 ノ休ヲ思
三人共口をそ
ェ慮外な下生めがやりおった
0 ︵小一兵衛 ノ恋文 ヲ見タ 恋敵 タチガ
小一めは 此 やしきの中間、へ、
四一
Ⅰ心中宵庚申・上口
は﹂とゑせ笑ふ
。
﹂
野呂﹁︵短冊ク
手歌
書ハ
︶何とでも自作でこじつヘ
けナ
れ
ねし
へほ
ァバ﹁なんのおれに出来る
めな
くら、気をもみは
サ。なんの
卒公なんぞは初ダ
午ノ天王様
ダノにはや
戸
八笑人・
初 ・一コ
﹁
事ヲ思
イドオリ運
ニブ・ウマク
処理スル﹂ことに
ら、いぢ
のわり
い﹂
れ は
たソ﹂、また、﹁してやる﹂に例が多い
取﹁
ル・
盗
カミ
用法がなかったわけではなかろう。
ど例
はな
、
にしても、右の
事﹁
ヲ9%ク処理スル﹂ことにいう
それ去
が
の土@
オ
﹁コト
をする﹂意に近く、これが一コ
般ト
の
を﹁
やる﹂
立に大きな影響を与えたにちがいない。
㈲近世の﹁
四二
をやる﹂その
?
五
﹁やる﹂の第十八項に﹁男女が
肉体的に
近世の慣用句には、㈹項で触れたもののほかに﹁気をやる﹂があ
﹁日本国語大辞典 ヒは、
る 。また、それに関連する﹁性行為をやる﹂がある。
﹁気をやる﹂とは、
﹂とする。
それから 伝
ねりやぅ 事の外 ひ まがいれば、
0毎日五人 セ人 、ないし二人三人、男のはだふれぬ日は なし。
客 によりてそのまつりの
とを
るから
とむなふてもきをやらねば ならず、めったに よ がれば、
せいひへに とぢこほりてその身をよはらせ、わずろふ事 たび
にて薬鍋のたゆる事なし。
き おやつ てみっよ
つつ
ふ。 そ
かどロ で よほど
Ⅰ茶屋諸分謝石 記 ・山衆末人 ま へにように行力 口
のほか 十 ついてきのゆくを、わざとひ
隙 をいれる。は づんだる客はこぐちで物もう してしま
ひま
-
0 一義の時そのまⅠ玉もんのうちへはいれず、
らであ
申
@
@にま
ことにい
う ﹁やる﹂の例は探しえなかったが、つ
近
世
じたものとがあるが、ともかくも右の語釈は修正加筆を要しょう。
の用法から発展したものであろう。なお、自動詞的に用
この種の﹁やる﹂には、﹁気をやる﹂の省略のものと、
し
こ
つ
」
の
の
語
す
し
る
は、 ﹁やる﹂
交わる行為をする。﹂とし、﹁気をやる﹂は﹁その気 になる。特に
らの例は、あるいは㈲項で㎜れた﹁味をや形
るな
﹂の
の省略情交にいう。﹂とする。﹁江戸秘語辞典︵中野栄三︶﹂
はな
れない。︶後に﹁華道をやる﹂﹁哲学をやる,
﹂ヮ
なの
どとをい﹁薄柿秘語。気をやるの略称で、交合の俗称である。
く取 「も 、 か
もこど
( な
でする
あ
「。 古
代古 そルや
れ
に
威
す
のでそ
現
かせ、きをやらするやうにしかくる女を ュし 。
口同右 り
旧
とあるよ う に、 ﹁︵男 ︶射精する。︵女 ︶絶頂に達す る 。 n正一戸垂
大辞典 口﹂ということを表すものである。さらに厳密 にいえば、 自
のような、微妙な瞬間を描写するものではない例も、性 行為をおこ
なうことをただ概括的にいつものではなかろう。
ところで、﹁気が行く﹂は省略表現で単に﹁行く﹂ともいう が 、
先 の ﹁やりと
同様に﹁気をやる﹂を単に﹁やる﹂ともいうことは、
% スル﹂ ことをいう
動詞を用いてい う ﹁気が行く﹂が﹁ 気ガ 絶頂二
むな ふてもきをやらねばならず口茶屋諸分謝石記口 ﹂ の例を始め、
の あし
蔵 をつきこみければ、
村 カンテ 銭ヲゅ咀ル﹂
コ立談 話 ・全 盛口
へか﹂とい へば、 ﹁ば から
口
無事 志有意・女郎のか ご口
北 道 が きらい
口鹿の巻筆・ 四 ・きかぬ奴の衆道 口
すね まらになる。
つこ、けつきにまかせてやるとて、すなのなかへ三寸は ど作
なれば、き ゃ つに一木させんとて、すまたをとらせけり。 や
0 やがて 庭へな し ふ せてやりければ、わかしめ、
しかしながら、この種のことをいう ﹁やる﹂には、
などと、後期のものにも例が多い。
﹁気ラサ ル﹂三掛ケル︶﹂
しい。おめ へさんばかりおやりなんし ︵Ⅱ﹁駕籠 ヲ遣ル ﹂ ヲ
﹁ヱ、 じれ っ て へ。はやくやらね
0 ︵女郎ノ カク駕籠 ガナ カナカ 進 マ スノデ ︶客もきをも んで、
ヲ ﹁突カレこ%ヲ ヤル﹂三掛ケル︶﹂
ひつか ふつかれてはやらねばならぬ︵Ⅱ﹁
ソタ ナイト 各メ っ,レタ女郎ガ ︶﹁ハ工日功、 き ふいやん
七二八
0 ︵シツ コク村イ 工米 ル乞食二銭 ヲ与 エタ コトヲ、供ノ ナ
のであるのと対照的に、﹁気をやる﹂は﹁気ヲ 絶頂三連 セシメル﹂
ことをい う のである。﹁やる﹂は、やはり﹁対象ヲ、目
二到達サセル﹂ことをい う用法のうちのものである。
Ⅰ立談話・山伏 口
ま に気を
0 山伏 づ つと八て見れば、扱も美くしい物と俄に悪心おこり、
しまひ
出て行。
外に人のなければ、無理におさへて取 かけ、思ふき
うと
やり 仕 廻、ゆ
ぢ らせ、
田間友朋・御乳母 口
0 ﹁ア、、、、それ、もつと﹂と、しりをも
だくときをやると、
などと、後期にいたるまで例は多い。
、長老ガ︶﹁ ぐ憎がはのぬけて ぜ つむひ
0 ︵﹁井 深 ク ﹂ ヲ ﹁ツビフカク ﹂ ト 発音 シタ タメ三上 % ガ 笑ッ
タ ノ ラ怒ッデ
きは、年よりのなら ひぢや に、それはお上らう衆 のきのやり
ロ
慶陵隠逸仕口
ハきのふはけふの物語:下口
やう ︵Ⅱ﹁ 気ノ廻 ショウ﹂ ノ意 三掛ケル︶がわるい﹂と
られた。
るム肌
、
四三
0
︵山衆 ハ︶玉もんのふちいつとてもかわらぎ、
きやく 五人 七
人 あふたあとへのつて、やりかけてみてもじゆうには い,らぬ
口茶屋諸分 調万記 ・山衆末人 ま へによ う に 何 分 口
へば、文房も 、﹁それはよろし う どざり ます﹂
り、﹁⋮⋮、こんやは ァノ 姿で、くはん けぼ Ⅰ、やり
0 ﹁ハテ、おら ア上総へいつて来たが、上総の女・は 貸
几
が
づ
る
はな
い 。男せ へ行けばやり放しだ﹂Ⅰ 市 Ⅲ評判図会・ 上 妹
@船日
0 ていし
かけふか﹂とい
ロ
大 寄 噺の尻馬・間遠大物語り
四四
よ う に、前期後期を通じて例は多い。かくて、
ノ息子
ガ天柱 ヲ持ッテ
明沖 な ﹁コト を や
、
︶始めて此はし
なお、﹁女をやる﹂などの用法も 、 ﹁する﹂と共に
﹁三一味線量
︵Ⅱ天神
﹂の用法は、まずはこの種の用法として生じたといえ よう。
0
ヰヰヰ
一 ・名 高き橋口
つて、
るではあるし、一番 やった
口落噺 千里数・
で夜
橋 ︶をわたりしに、いろ事 してゐる乳母にあふ た じ ゃ 。そこ
ⅠⅠ
からかの乳母を、はしの うへ
はし
天柱乳母性じや﹂
でいぢう
とい うように見られるが、これは㈹項で触れた﹁相手ヲ、ヤ ッ ケル﹂
、右の第一例・第二例のようにすでに前期から見られ る。性行
﹁気をやる﹂ことを目途とするものであり、この種の用法 をそ
い分けがあるものの、単に﹁やる﹂といえば性行為に関し たことを
ら転じたとするのは妥当であろう。もともと、性行為 をおこ な
表す ことがあるわけであり、一般に﹁やる﹂が俗語的とか下 品 とか
をやる﹂その
f
を促 したことは、確かであろう。特にかかわりが強いのは、
行 為 ・動作
第一に 、
を表 す用法があった。それらが問題の﹁ コトをやる﹂の用 法の成立
る ﹂ の語義に結び付けてながめてきたが、その中には、
上、近世に見られる﹁| をやる﹂の表現を、古代語以 来の ﹁遣
㈲近世の﹁
いわ れる一因は、この点にもあるのである。
LL
卜に卜はす
﹁ zり﹂ LⅠいう のが 並円通であり、
ら へて
ⅩⅠ ヰ Ⅹ ヰ|
﹁何とけ ふ は 珍ら敷 、楊弓 は Ⅰをしや ふ ﹂日夏萩 語 ・楊弓 口
わけ
口
好色訓蒙図彙・分たてまじき日の事 口
すべからず。月水の内にすべからず。
0 大食してすべからず。大酒してすべからず。小便をこ11
0
何間友朋・ 御 びく 尼口
へし、 何のくもなく穴をきれ
ノ Ⅱ 、ア
さらばとってくれんと、無二むざん にのっかⅠると、 下 より
0
ヱイ とはねか
いで
と、 尻をかⅠへてに げ 出る。
人
か
もあれ、﹁気をやる﹂﹁性行為をやる﹂また﹁女をや る ﹂と 使
な
ど
こと な いう 類の用法であろう。
と、色道・衆道に限らず性行為をおこなう ことをいう ものがあ
の
る
る
が
れ 為
う
は
こ
項 で述べた﹁性行為をやる﹂の刑法であったが、第二に、 ㈹項で
、と 考えられ
として、﹁ コト をやる﹂という刑法が成立したのであ 60
つつ、﹁ コト をする﹂とは一味ちがぅ表
にい う ﹁やる﹂の用法から発展した諸用法であった
﹁華山
ル﹂ こ
二運ブ ・ウマク 処理スル﹂意の﹁ し てやる﹂
省略 形 ﹁やる﹂の用法であり、第三に、口唄に述べた
べた﹁事ヲ思 イドオリ
述 ㈲
の
と
る
目界H ヲ ︶ す Ⅰりこめども間にあはず、
、事こ はし
ポタリ ⅠⅠ と
円浮世風呂・ ロ ・下口
れで取るか、斯 う 来る 、あ Ⅰ行く、 若引 たら尻からぴたり @O
0 恨ゼは
Ⅱ
感じられる
口八笑人・ ニ ・下口
二雫ぽど鍋の中へおとす。平入﹁ヤア大 へん ノ
をやったぜ﹂
﹁コトヲ 、自分 ノ思 イ ソ ママニ シ デカス﹂の意味あいが
す、といった点が強調されよ う 。
ところで、㈲項に述べた﹁定ッタ 文句 ヲ、語ル ﹂こと
﹁
かれ
ら思
、夫そ
﹁ひ塩付冶判官の姫君﹂とやりかけたら
る ﹂の用法は、後期にも多用された。
一拝して 見 ばやと・
せど
程 赤城を 少々やる
口いろは 蔵 三組盃・六口
口など ムやった所は、可愛そうに 仕 おるわい﹂
0 上方へもちと出かけ、
たより
を商売の便にして、大坂でうら店 かり、三四年もくら
ま Ⅰよ源 太 にお
ハ% 興春 の仁術・ 三 ・ちくらが油口
四五
0 ﹁いかさま、見物が多いとはりやいがある。
@
にやいう﹁
テが積極的に対象をわが物にするということをぎようぎ ようしく 表
ソ ママ 一処理スル﹂
コト をやる﹂の用法が目立って見られるよ
ことをい う用法だったからであろう。すべてこれらの例 は ﹁する﹂
にも船
口
神霊矢口渡・四口
口
出頬 題 ・時計り
つてもら
へもさ
日当世 セ癖 上戸・下口
ソコデト、かぅ 打 つ、あ
のは、この用法の出自が﹁対象 ヲ 、自分 ノ思 イ
近世後期になると、﹁
脚向は、
コトヲ、 自分 ノ思
になるが、その一つの
い換えることができるけれども、﹁やる﹂という場 合 には、 シ
に 舌口
へ上 た所が 、
わぎ
0 ﹁角を芙込めとお出なされたかつ。
たなしに、こっそりとやり てへ ﹂ ロ東海道中膝栗毛・ 発
はぅ ﹂
0 ﹁典すつ ぼ ん点 イ 。 葱ィ しこたま 人て、 かせいでや
御大名
0諸申 みんな当世風でやってのける細工人、時司を肝 へ、ある
侯兵 ﹂
はなし、是から坪℡をくり抜て、硝石人てやらかそ ふ 。 ナフ
ひいど
ら
一不審
,は
借
|れ
、﹁賭で聞へた。そんならおいらも一思 案、何
0 三人ま
次のように、﹁
ノ ママニ シデカス﹂といった意味あいを含むことである
現
れがなら ふ 。そのかはり、
,
カ﹂
て 上ったのだから、
いひぐ さは出たらめにやるが ハ ム
Ⅰ東海道中膝栗毛・ 七 ・下口
ヮと思 っ
故 、私もお 聞 申そ ,
サァお 構ひなくおやんなすつて下 せへ ﹂
0 ﹁お講釈がはじさって居た何様子
口セ偏人・ 初 ・下口
口一
ハ
ハ
東海道中膝栗毛・
六 ・上口
またそれは、﹁芝居・所作 ヲ演技スル﹂ことにもいう ようになる。
チト 大役だよ﹂
ムノ ﹂庄次﹁イヤ ノ
Ⅱ
円八笑人・ 四 ・上口
きう で ねへテ 0 独 り舞
0 ァパ ﹁そのあんばいでは、何も稽古がましい事もいらず、す
ぐにやりてもい
台 のうちが限公には
れる
いか
0野良﹁只は往れめへといふのは、何か趣向をせざ ァ成 めへト
いふ 事だ ヮ﹂はね﹁ 託 て付 は吸筒、華美にやれば芸者を の し
してそれは、﹁唄ワ ウタ ウ ﹂ことにもい う ようになる。
0 弥次﹁ナントわっちに、︵ 国 太夫 ヲ︶ひとくさり、お し へてく
つれるの サ﹂野良﹁夫は サ通例の人がする事だ ヮ 。左様 でな
ほ めて
に共通する
用法もからんでいることによるのであろう。右のうち、
﹁踊ル ﹂﹁演
は ﹁|ノ 役をやる﹂の形で も 用いる。
コト をやる﹂という用法の成立 に大きな影響
これらの用
広く一般的な﹁
なお、﹁演技スル﹂意の用法
を 与えたにちがいない。
法も、
技 スル﹂意の用法は﹁する﹂と舌口 い換えが可能であり、
ノ ラ外 二表 ス﹂意であったこと、また、﹁してやる﹂を出自とする
ル﹂といった意味あいが感じられるが、もともと﹁自分 ノ四々ルモ
のは、﹁芸能 ヲ、演ズル ﹂ということである。﹁思ィ ノ ママニ 漬 づ
ハ
これらの﹁ 語ル ・唄ウ ・弾ク ・演技スル﹂ことのすべて
コセ偏人・ 初 ・下口
沢 さんの連中を見た様なことをやりて へ のだ﹂
それ
わし
れなさる れへか ﹂上方﹁そりややすいことじやわいな。
く 何か サ面白い趣向が、ラット思ひだした、アノ池の
五 ・下口
、ふ
しがむつかしい。もふ 一ぺんやってくんな せへ ﹂
円
東海道中膝栗毛・
0 ﹁唄ッ ても能から、 唄 ひたくは随分大きな声でやんね 。とん
だ 能声だは﹂
口
浮世風呂・ コ一
・下口
六 ・上し
う よ う に な るの
もらはにや ア はりやいがね へから、こ う し ゃせぅ ﹂
ひとつやらつしやらまいか﹂北八﹁やるはやろうが、
0 あんま ﹁わしもすきだがな ァ。おどら つ せるおとをき かァず 。
らにそれは、﹁踊 りラ オドル﹂ことにもい
口
東海道中膝栗毛・
0 ﹁ソリヤも ふ 、 琴 ・三味線・胡弓、なんでもちつと
たそれは、﹁楽器 ヲ弾ク ﹂ことにもいうようになる。
ま
0﹁
此ぼんもありゃ
ぅは、馬鹿
村変之助と申て、以前は宮芝居
口
東海道中膝栗毛・
セ ・下口
@
ノ
川Ⅰ
1
レ.
の攻がたをやりおったものじやきかゑ
いら
、でけ じ ゃ Ⅰ
な﹂
る遣
のだか
0﹁
定九郎の役を為るのならだが、追剥の親分を
ら、天気の宜のに傘をて
差出ちやア往ぬへわナ
﹂
ハセ
偏人・三 ・下口
の用法から、やがて﹁大臣をやる﹂﹁八百屋をや
なる
ど﹂
という
法も生じたのであろう。
ぅ用法がよくあげられるが、
また、﹁コトをやる﹂の代表的な何として﹁スポを
ーや
ツる﹂と
、浮て
められようとはおもふが
、︵
休ギハ︶久しくやらね
へからど
ぅだらぅかサ﹂
口
八笑人・三 ・下口
どの例を見ると、これも
演﹁
ズル﹂嵩の用法から生じも
たのであ
Ⅲ近世のその他の﹁やる﹂
以上のような次第を経て、 ﹁コトをやる﹂の用法が一般的になっ
てくると、他の用法にも、シテの行為・動作を強くぎょ う ぎょう し
くいう表現として﹁やる﹂が登場することになる。
指示語﹁こ う ・そ う ﹂などに伴っていう用法がその一つ である。
ともと﹁する﹂というところに﹁やる﹂を用いるのである。
娘 ﹁アイ、 とんだ
撫 上ればい しに﹂
0
間友朋・風口
,
Ⅴ
へ
う やって すビ んでおります﹂と 、
0 親じ ﹁御ぬ しはそこで何をしていやるぞ﹂
ごよ
Ⅰ
よひ かぜがくるから、こ
0 卒八 ﹁︵鼻汁 ヲ ︶ す Ⅰらずと手のかⅠとで
Ⅱ八笑人・二丁下口
眼七 ﹁さうやればよかつたが、共用に及 ン では、どうも 当意
即妙とはいか ぬへ もんだ﹂
くなるが、この場合は 、 必ずしも﹁する﹂と舌口
ず 、両者の用法には画然とした違いがある。
で、 ぐ
はたやった︵Ⅱ
北 ﹁ツ ィ下駄
ても、
ロセ偏人・ 初 ・上口
ね けました﹂
四セ
ハ
東海道中膝栗毛・初口
踏 ミッ ケタ ︶から﹂
0 ていしの ﹁コレハ 又ど ふしてそこが
どは、﹁やる﹂が特定の用法であるから差し揖 くとし
ケ ︶ながら、
サメツ
拳固を ニツ こしらへて 、両の小畳をぐりやり︵Ⅱ 南
0 ﹁野良 セめが仕業で、自己の天窓へのしかちり、岩 のや,っな
口
きのふはけふの物語・下口
0さる若衆、これもとりは づしてずいとやり︵Ⅱ コキ ︶
い換え ることがで
擬態語・擬音語に伴って用いる﹁やる﹂の例も、後期には珍しく
@
な
き
こ
用
な
ろ
ぅへ
と、
口
同右・ ハ ・下口
こし
きぬけのしたるていに、もしや はしの
ん せず、
から、どんぶりとやり︵Ⅱ入水 シ︶はせまいかと、
ろのうちにゆだ
せづ に 、 ころりとやる︵Ⅱ
死 ヌ ︶﹂
房 となる ぽど、深ひゑ んはない
0 ﹁実や世の中に 、夫となり 女 ・
じ やて い 。所がたんのふ
ハ亜良弁 粉 ,芝居 し
おつ
0 ︵羊雲 ラ ロ二人レタ ラ ︶変な味 ゆゑ 、これは 異 だと顔をしか
はき
Ⅰ
し@
Ⅰ
j
@j
・上口
やって
ソア妙 だ ﹂ ト、
そんな
、 ﹁ヱ、イ 其様にドン
0,
干太郎は我をわすれて飛で起 、﹁妙だくコイ
はね
抜 足しながら踊り跳るを
不テ ︶ 、下へ聞えるといか れへワ ﹂ ト、
四八
ヰ
であり、シテは有情物でも無情物でもかまわない。とこ
ヰ ⅩⅠ ナ ナⅠⅠⅡ
﹂が伴う場合は、シテがその状態で事を行う、とい,
ろが ・﹁や
韮 目であり、
前項に触
そ して、 そ
テは 普通有情的に限られる。この用法の﹁やる﹂は、シ テの 貢士旧
な行為を表す意の動詞の代役をしているともいえる。
動詞は他動詞でも自動詞でもかまわないのであるから、
一エ
ヘ
口占 偏人・ 初 ・上口
、目は
た ﹁
| をやる﹂の用法よりもさらに独自性のある用法だといえよ
し
-
﹁その面は何様したんだ。畑にむせた豹の様に
その行為が他のものに及ぶものである場合には、
0
ぼやつて、
よ
アがる
口
同右・ ニ ・上口
ノⅡやって川や
0 ﹁ア、レ 、台所の戸棚をぐれた
どいつ
ヱ 、 同 奴だ ィ ﹂
ように、﹁ 目ヲ 、ショ ボショボサ セル﹂﹁川棚 ヲ 、ガタ ガタサセ
﹂という表現に 柑坐 するものであり、﹁させる﹂に相当する シテ
使役的な行為をい う用法であり、当然﹁する﹂とはい いえない。
ハ ・下口
0
なれ
一
﹁そこは ソレ 、別居るもんだから、
@
っ
セ ・上口
ス﹂
ハ
浮世風呂・ 四 ・上口
遣た様ぢやァねへ
|や
へ。ほんと う の所をい ひなせへ ﹂ 口
東海道中膝栗毛・
らで、いくらもとりあつかつてゐるから、やるもんじやァね
Ⅱ
ノ。わっちらは えどものだが、古着は 商売が
などの﹁やる﹂のところを﹁する﹂ということはできない 0 あえて
戸
東海道中膝栗毛・
が、其
・ヒ口
0 北八﹁たかい
なお、今までに述べたものとは異質な用法の﹁やる﹂もある。
ゆふべ
一けんだ﹂口占偏人・
ヰ Ⅰ ス ス トハ Ⅰ ナ
のように用いるが、それは、シテ自体がその状態を帯びる、という
筈だ。といふ訳は タ の宝船の
ヰヰ Ⅱ ヰハハ|
ト立 あがりしが、ひよ るⅠⅡとしてあるかれず 。
いえば意味が逮ってしまう。﹁する﹂の方は、
口セ偏人・ 初 ・山口
意
る
シ
的
の
れ
う
極性・攻撃性を内蔵した用法であっ
ハスハ
た。そのことが、うちわのこと
これは否定表現と共に用い、﹁シクジル﹂ことを表すが、おそらく
にいたったのだと考える。
中世から見られる﹁やり観法﹂﹁ やり
ど ﹂﹁ な 。けやり﹂など、ま
ばとして、安んじて心のうちをきらけられる場において愛用される
ヰし
は﹁へまにやる﹂﹁へまをやる﹂の類の省略形であろう。
力つ
ある。それは現在もあまり変わってはいないか
。ら
あは
る、
学生
いてあっに。大阪で行っていた誤用例研究会語
では
も何
、度
この
なく論
礒された。㈲項で触れた神田靖子さん、
の特
記に
述こ
はの
ほついてまとめられたものである。私はその
の後
﹁、
や近
る世
﹂
ながめる
うちに、このような考えをもつにいたった。
め行
る動
意を
味進
の
本稿は
、 ﹁する﹂に通じる﹁やる﹂、また、
やる﹂、などのような言い方にとても不満、
だ試
っ案
たを
私記
の
たものである。この類の﹁やる﹂の、
ル特
ーに
ツ﹁
ををやる﹂
気
出発するものと、﹁してやる﹂
彩の
め省
﹁略
やる﹂と
﹁
演
、スル﹂
の ﹁やる﹂とに求めたが、それらはいずれも的
みに
な
、、
横本来
四九
︵昭和⑪年 2 月︶
た、近世の派生語﹁やらかす﹂﹁やりつける・やつつける﹂等々 、
Ⅰ
気になる語も数多いけれども、すべ て後の課題にしたい。
才、
つ
この類の﹁やる﹂に私が関心を抱いた契機は前
、
、十
母年
国ほど
()
テ問わ
日本語を学習して来日した留学生の表現に、ず
男、
友﹁
を
スをやる﹂﹁スキーをやる﹂などがやたらに
接あ
しる
たの
こに
と
で
二
で
「
な
ひ
用
と
肛
ll口
を
「
し
に
意