天理大学人権問題研究室紀要 第 8 号 :31 一 44, 2005 安堵の聞き取り 池田上部 IKEDAヾhiro 村 とは異なった 集落として人びとの はじめに 意識に定 着していったのであ ろ つ. 安堵町は大和川の 多くの支流が 合流する 地 点に位置し,江戸時代には 川船による水運業 地域の人びとの 意識は蔑視のまなざしだけし の中継地として 栄えた町であ か生み出さなかったのだろうか。 r安堵町 史コ る。 この町には だが,「風根は異なっている」という 周辺 かって風眼 (かぜの) と呼ばれた集落があ る。 の史料-編を見れば,風眼が周辺地域と没交渉 安堵町は, 東 安堵,西安堵,窪田, 笠目 , 岡 だったというわけではなく 崎の五つの大字からなっているが ,近世にお で種々の役割を ,地域社会のなか 担っていたことは 明らかであ いて,風眼は% 安堵に附属する 枝郷であ った。 る。 とするならば ,そこには購視 のまなざし もちろん,今では 行政的にはそうした 名称も だけではなく ,時には仲間としてのまなざし 区別もない。 しかし,現在でも 人びとの間で もあ ったのではないだろうか。 北方 ( きたほ ) という呼称が 残っているよう 差異化の「まなざし」は 差別の意識しかもた に,近代以降も 風眼は 人びとの記憶に 根づい らさなかったように 語られてしま ている。 それは,地理的な 区分として残って 部落差別を差別 ノ被差別の両側から 越えるた いるだけではなく ,明治 4 年行 871 年 ) めには,風眼に 残る差別の歴史だけではなく , のい ともすれば, い やすいが, わゆる「解放令」以後も , 強い差異化の 意識 周辺地・ 域 とのつががりの 歴史にも目を 向ける と結びついている 場合があ る。 その意味で, 必要があ るのではないだろうか。 近世の風根は 今日の安堵町における 被 差別部 落の歴史的源流であ る。 こうした視点から ,北方の暮らしのあ りよ うを可能なかぎり 古い時代にまで 遡って知る 周辺の人びとがいつごろから 風根を異なっ ため主に ITG. 龍 ( しげみ), MU, M 眞 Ⅰ YN 山 たまなざしで 見るようになったのかは 明らか 千穂栄 ,Ⅹ でないが,少なくとも ,鎌倉末期にはすでに 差異化の対象となっていたことを 法隆寺文書, 取りをおこなった。 この人々を選んだのは , 4 人が偶然にも 安堵小学校の 同級生であ るうえ のⅠ嘉元 記J (1303年 ) は伝えている。 そこ に,現在,ムラに 住む最年長の 年齢階層に属 では,法隆寺にかかわる 検断を「カセ しているからであ ヒ / 」 0 人間がしていると 記録されている。 以後, 4 年もしくは 700 年にお ょぶ 歴史のなかで , 風根は普通の 昭和 天理大学人間学部(総合教育センタ 一) 3 . レイ子の 4 5 人の方々から る。 ちなみに, 4 聞き 人は大正 年け 915, 16 年 ) 生まれで, 年は 928 年 ) 3 月に卒業した 安堵尋常 Faculty@of@Human@Studies 31 安堵の聞き取り 小学校第 39 つ 頃 から行なわれて 回の卒業生であ る。 また,その集会所のような 建物が元の部落学 学校生活 明治 5 ,いつ頃まであ ったのか, 校の校舎であ たのか否かなどについては 明ら 年 (1872年 ) の学制発布以後,全国 かではない。 そして,この補習学級の記録は に小学校が開設されるが ,安堵においても 明 安堵小学校の『沿革史上にも 治 7 年 4 月に東安堵の 円通院の境内地に 小学 ただ,風眼の- 校が開設された。 だが, 風 根の子供たちはこ に残っているだけであ る。 の小学校に入学できなかったので 見当たらない。 定以上の年齢の 人びとの 記 ,隠 卒業生名簿によれば , 男 9 名の内, 5 名が ,同年 6 月 に,やむなく別に小学校を設けなければなら 高等科に進んでおり ,残り 4 名は家業従事と なかった。 いわゆる部落学校であ る。 以後, なっている。 また, 女 明治 24 年 (1891年 ) 10 月 ま で 善 照幸境内に置かれた 小学校「明倫館」に 高等女学校に 進み,残り 2 名は高等科へと 進 通っている。 ばれた奨学生であ った。 ともあ れ, 39 回卒業 風 根の子供たちは の4 名の内, 2 名が郡山 んでいる。 この 2 人は当時から「育英」と 呼 の女子は全体で 35 名いたが,女学校に 進学し 聞き取りをした 4 人が安堵尋常小学校に 入 学したのは大正 11 年 (1922年 ) 4 月であ る。 たのは 5 名であった。 その内の 2 名が北方の この時の北方の 新入学生が何名いたのか 正確 子供であ った事実は注目に にはわからないが ,卒業生名簿には 男 9 名, 穂栄さんは郡山の 女学校へ通ったが ,千穂栄 女 4 名の 13 人の名双が記載されている。 さんが進学できたのは 育英制度だけではなく 男 9 名の内の 2 名は 1 年遅れて卒業した 生徒 であ るから,同期の 男子の入学生は うことになる。 4 ただ 7 価する。 YNq 当時,千穂栄さんのお 父さんが北方の 区長を 名とい 人の記憶を総合すると 約 20 しており,ムラでも 余裕のあ る家であ ったこ とも関係していたと 思われる。 ちなみに,聞 名ぐらい いたよう であ ることからすると ,約 き取りをした 半数の子供は 卒業を待たずに 小学校をやめて レイ子の姉人は 高等科へ進んでいるが いるようであ る。 じっさい,小学校の 高学年 はしていない。 高等科へ進んだ ぐらいになると ,以前からんラ では一人双の 業したのは 男 3 名だけであ った。 稼ぎ手として 働いていた慣習があ .チ り,学校へ 4 ITO. 龍, MII, 真@ 7 K(M 仕 ・ ,卒業 名の内,卒 人の閃き取りを 通じて,学校で北方以覚 行くよりも働いて 少しでも家計を 助けるため の子供から露骨な 差別の言葉を 投げかけられ に自然と学校から 足が遠のいてしまったので たような経験を 聞かなかったことは 意外であ あ ろう。 そうした子供たちを 集めて補習をし った。 もっとも,北方では 相手のことを「わ た木田先生の 情熱は今でも 4 人の記憶に鮮明 ー」という習慣があ ったので,北方以覚の 子 に残っている。 先生は安堵小学校から 郡山の 自宅へ帰る途中, 善照寺の隣の集会所のよう ー」といってよくか 供たちから「わ ー」,「わ な建物にそうした 子供を集めて 呼ばれたり,差別的な 態度で対応されたこと 補習をしたが UG. 瀧 さんは先生に 言われて子供を 廻った経験があ ると語っている。 呼びに 本田先生の , らかわれた。 だが,今日いうような 差別語で はなかったようであ る。 ほとんどそれらしき 思い出を聞くことはなかった。 郡山の女学校 補習はほとんど 毎日のように 行なわれたとい に通った千穂栄さんも , う。 だが,残俳なことに 郡山まで一緒に 汽車で通学している 友だちか 32 ,この補習学級はい - 度,小泉の駅から ら 家のことを聞かれたときに , ム きのことを 聞かれたのかも 知れないと感じたことがあ き る る 取りによれば , 歳 上のメンバ一の 一人であ K I. 太 - 郎さんが「水平社宣言」の 文章 ㍉ が,だからといって 別にその後の 交友関係に を語っており ,同じく YN. ぅ し 支障があ ったわけでもなかつた ,という。 かし,当時,差別がなかったというわけでは 少年や YNM 少年から水平社や 西光万吉のこと ないだろう。 それは, を 聞いたのがい つ のことか定かではなが , 小 4 人の思い出を 聞いて いるうちに,北方以覚の 地域の子供と 学校覚 からも類推することができる。 とはまちがいないという。 た だ,リーダ一格のIN 少年は高等科だった と l 記憶していることからすると , 瀧 さんが 尋滞 それにしても , コア 学校で差別らしい 差別を受けた 記憶がないと い うのは不思議であ る。 聞き取りをした のことを話していたという。 瀧 さんが KM 学生であ ったこ で遊んだ経験を 聞くことが皆無に 等しいこと 春光が西光万吉 5 年生の頃 であ り,年代的には 昭和 2 年頃 推定される。 水平社が創立されて 私た 5 と 年近くが ちの方にあ る種の先入観があ るので不思議な 経っているにもかかわらず ,その運動がムラ 思いにとらわれるのだろうか。 の少年たちに 強い感銘を与え 続けたことは 特 筆に価する。 じっさい,水平社の 運動はたん 若 者 組 に事件としての 話題を提供しただけではなく 大正から昭和初期のムラの 子供たちの生活 は年齢階梯によって 組織された若者組や 娘宿 少年たちに精神的な 高揚感をもたらした。 の出会の少年たちは「目覚めよ 日 青年 ! 」とい に大きく依拠していた。 こうした若者 組 はな ラ にも被差別部落だけにみられる 組織ではない。 びを批判した。 当時の農村社会には 広くみられるものであ っ たが,同時に,被差別部落に特有の問題意識 また,「タイムス」という 名の拾等仮刷り の印刷物を発行しその 中で「遊惰安逸」と が反映していることも 事実であ る。 いう難しい言葉を 使ったことを 瀧 さんは子供 たとえば, UG. 瀧 さんの場合,「日の 出 会 」という少年団に 属していた。 リーダ一格 ながらに覚えている。 その結果, 日の出会の 少年たちは,当時,駄菓子屋の前にたかろし ポスターを作って 青年団のメンバー の夜遊 レイ子さんの 実兄であ る。 メンバーは 5, 6 ていた青年たちからにらみつけられたという。 もっとも,そうした 日の出会の少年だった 瀧 人だったという。 瀧 さんが小学校に 入学した さんたちも,青年団の 年頃になると,仕事・を のは大正Ⅱ年の 4 月であ るが,その直前とも 終えて西田中の 娘宿によく夜遊びに 出かけた いうべき という。 誤解のないように 付け加えておくが , は 2 年上級生の 3 月 3 IN . 平太郎少年で , I(AI. 日には水平社の 創立大会が京 都の岡崎公会堂で 開かれている。 また,翌12 夜遊びといっても ,仕事を終えた若者たちが 年の 3 月には水平社員と 国粋会員が乱闘する 夜 なべ仕事・をしている娘宿へ行って ,他愛の という,いわゆる 水国騒動がおこっているが , その騒ぎの折りには ,ムラからも TYY. 米一 さんを中心に 10 名位の青年が 笈 旗を立てて行 ないおしゃべりをすることであ る。 もちろん, 気が合う娘のいる 宿元へ通っているわけだか ら,そこには 好意以上の感情が 芽生こえたのは った。 瀧 さんはその光景をはっきりと 記 ,隠し 当然で,こうした 夜遊びから結婚へと 至った ているという。 つまり,水平社の運動はムラ の子供層 にも影響を与えていた。 瀧 さんの 聞 ことも少なくない 0 瀧 さんは農協に 勤める 頃 「淡水」という若 33 安堵の聞き取り レイ子さんは U 歳から18 歳で結婚する 者組に入っていたが ,この会の名前は 3 級上 KM. の MD までの約 . 末 太郎さんがつけたもので ,同氏は 5 年間,娘宿で草履表を作り 続けた 当時郡山中学校へ 通っており,後に 東京の大 が,ムラの娘たちの 多くは彼女とほぼ 同じよ 学を出て,文部省に 勤めた勤勉家であ った。 だが,その後は一度も ムラ に帰ってきたこと うな生活史をたどっている。 ただ, YN ・千 穂栄さんは娘宿の 時期に女学校に 通ったので, もなく, したがって,中学校を 卒業してから 娘宿の経験はない。 学校教育が伝統的な 若者 はこの岩者組 め メンバ一で米太郎さんに 会っ たものはいない。 男の子たちが 小学校の頃 から若者組を 組織 していたのに 対し,女の子の場合は少し事,情 せ 育成のシステムを 改変した顕著な 例である。 仕事と世界 尋常小学校を 卒業すると多くの 子供は稼ぎ はちがっていた。 それは,女の子は小学校に 手 として働きだしている。 女の子の場合は , 通いだす頃 から,子守や炊事・といった家事の 結婚までの数年間を 娘宿で草履表を 作る仕事 手伝いをさせられる 働き手として 育ったこと に従事することが 一般的であ ったのに対して , に関係するのかもしれない。 ともかく,小学 男子の場合,多いのは 校の頃に若者組をつくるのではなく ,むしろ ことであ った。 風根からは商売の 見習いとし 小学校を卒業してから 娘宿に加入している。 て大阪へ奉公に 出る者が圧倒的に 多かったが, KM . レイ子さんの 場合, 9 人きょう だい の なかには京都へ 行く者もいた。 MTr. 3 番目だったので ,小学生時分から 弟や妹の んはそうした 数少ない京都へ 奉公に出たひと 面倒をみたが ,小学校を卒業すると 娘宿に入 って稼ぎだしている。 小学校に残る 卒業生名 りだった。 真一さんは尋常卒業後,一旦は 高等科へ進 簿では高等科に 進学となっているが ,高等科 んでいるが, 1 年ぐらいで京都の に進んだ記憶はないという。 当時,宿元と 呼 た「寒村」という 毛皮屋さんへ 奉公に出され ばれる家に 5, ている。 奉公先は毛皮製品の 生産から販売ま 6 人の娘たちが 集まっては, 草履表を作った。 朝から夕方まで 本当によく ムラ を出て奉公に 行く 真一さ 柳原にあ っ で一貫して扱う 大店で,使用人は30 人 ぐらい 働いたという。 手間賃がどれぐらいだったの いたが,部落の人だけではなかった。 最初の かは覚えていないとのことだが ,奈良県部落 年季奉公があ けるまでは,月に 50 銭のお小遣 解放研究所が 行った聞き取り 調査『こうして いを貰うだけであ ったが,衣食住はすべて 店 生きてきた 労働Ⅱ コの 履物関係の記述を 総 からあ てがわれたのでそれほど 不自由を感じ 合すれば, 1 日働いて 70銭位の手間賃になっ たようだが,お 金はすべて親にわたして 家計 たことはなかったという。 当時,毛皮製品は 高級品だったので ,営業も勢いデパート 廻り を助けていた。 ただ, 夜 なべして受取った 手 が多かった。 最も多く扱ったのは 毛皮の ショ 間賃は自分の小遣いだったから ,正月やお盆, 一ルだったので ,営業の一番いそがしかった あ るいは春の法隆寺の 花会式, 飽波神社の秋 祭はそれぞれ 3 日程度の休暇だったが ,その のは秋から冬にかけてであ から 2 った。 10 月の末頃 月の中旬までは 京阪神のデパート 廻り 前のひと月ほどは 毎晩のように 夜なべに励ん だそうであ る。 正月やお盆の 休みには娘宿の 京のデパート 廻りもまかされるようになった。 仲間と一緒に 郡山や奈良へ 遊びにでかけた。 真一さんが 34 をしたが,後には「姉越」をはじめとする ムラ に戻ったのは 昭和 14, 東 5 年頃 池田 のことだったが ,その頃には月給 70 円を貰う ほどだったよ ようになっていたという。 ちなみに,昭和 11 配給の割り当てにまつわる 年 02 忘れられない 思い出として 語ってくれた 印象深い。 戦況が厳しくなってきた 頃 だから を 月 25 日,真一さんは 東京での営業活動 終え , 夜に東京を発ったが ,翌日,江ノ 島 う であ る。 戦時中の米の 供出と 苦労は多かったが , 言ぎヰょ の見物をしているさなかに 二・ニ六事件のこ とを闘いている。 真一さんが ムラへ 戻ってゴ 鮮 人の家族が住んで 耕作していたが ムの粉末で靴底を 作る仕事を親戚と 一緒にや ドタ (泥田 ) り始めた 時 ,月給が10 円だったというから , 「寒村」での働きぶりは想像に 難くない。 端に低い所だった。 にもかかわらず ,秋の大 真一さんの事例が 象徴しているように ,奉 公に出た ムラ の人は自然に 世界が広くなった。 聞き取りをした 4 人の部落覚の 同級生の男子 の大多数が農業に 従事するという 形で地元に 定着したのと 比べるとき,大阪や京都へ奉公 に出た比率の 高さは顕著な 特徴だといえるだ ろ う 。 つまり,部落同士は 歴史のなかで 独自 のネットワークをもつようになっていたが , それが奉公という 形で人の行き 来する世界を 広げていたのではないだろうか。 じじつ ,真 昭和 t8, 9 年の話であ る。村のあ る大字に 朝 で1 ,そこは 町 近く排しても 収穫率は極 字の会合で反当たり 一律に供出を 割り当てら れたので, 自分たちの食べる 分が確保できず , 瀧 さんのところへ 泣きついてきた。 離 さんは, 当時のことを 回想しながら ,「やっぱり 朝鮮 人は差別されてたんですな」と 感想、 を述べ , 「そこで,朝鮮人の 農夫に司 画 通り供出する ように説得し ,その代わり ,食料,や肥料の 配 給を大胆にその 朝鮮人の家に 廻しました」と 語ってくれた。 その話の端ばしには ,差別を 受けたムラ の人の心の奥底には ,差別を受け ている人がたとえ 部落外の人であ ろうとも, 一さんは今でも 当時のことを 回想しながら , 不当な差別の 現実を前にしたときには 被差別 狐,川瀬,白熊の 毛皮はシベリア やカ ムチャ 者への共感とともに 連帯して・差別に立ち向か 、 ソヵのものがよく うという気概が 込められていた。 まさに「人 ,豹や虎の毛皮はアフリカ のものがよいとか ,寒地の毛皮は毛足が長く の世の冷たさが , 熱帯の毛皮は 毛足が短いといったことを 語っ ものこそ,逆に 人間の尊さを 熱く求めるもの てくれたが,その世界の広さに 驚いた。 であ るという水平社宣言の 精神を見る恩 、 いで UG. 瀧 さんも高等科 1 年の途中で大阪の 御蔵跡 に奉公に出されている。 その後,事情 何 んなに冷たいか」を 知る あ る。 あ るいは,こんな 面白い話も語ってくれた。 があ って んラ に戻り,昭和6 年には安堵の 農 戦前,食糧事務所の 係官 3 人と一緒にあ る大 協につとめるようになった。 以後, 瀧 さんは 昭和 26 年に当時の農協幹部の 使い込みで破綻 字区長をしている 旧家へ米の等級検査に 行っ するまで約 20 年間一貫して 農協の仕事に 従事 た折り,ちょうど昼食時のこととて ,その家 の奥さんが「 3 人分のお昼を 用意してますの している。 龍 さんが安堵の で, 日本が向かう 様であ り,食料の増産と 戦時統 分を強調していった , という 記 ,憶が忘れられ ないという。 ところが,戦後,その大字が作 制が強められた 時代であ る。 当時,安堵村全 付けの計算違いから 供出米の数をかなり 多く 体で約400 町歩の田畑があ ったが,最大は本 報告していたことが 秋になって判明し ,その 村の岡田さんだったが ,それでも4, 修正に瀧 さんが一肌脱いで 食糧事務所からの 農協につとめた 時 期は,いわぬる満州事変から 太平洋戦争へと 5 町歩 どうぞ上がってください」と 何度も 3 人 安堵の閃き取り 了解を取り付けた 時 ,区長を勤める 旧家のお - 座敷の正面に , 人坐らされ,大字あ げての 込みご飯だったという。 持 たまそれに人参が 混じることもあ ったが,たいていは「あ ぶら お礼の接待を 受けた, という。 げ」だけの 色 ご飯であ った。 大正 8 年ごろ北 また,ムラの 女たちもそれぞれに 仕事をし て稼いでいた。 先にも述べたように ,小学校 方全体で 185 軒であ ったといわれているが を終えると,多くの 娘たちは娘宿に 入って草 に入っていた。 聞き取りを総合すると 履表を作って 家計を助けた。 結 ・婚するど娘宿 こう」を構成していた 家は ムラ の寺役の家と から出たが,仝度は ,それぞれの家で手内職 重なるようであ り,なにがしかの 田地をもつ として草履作りをする 者もいれば,行商に 出 家でもあ ったようであ る。 したがって,年輩 レイ子さんたちの 年千t@ , ま の方の聞き取りでも ,「おこう」については 家 知っている人と 知らない人に 分かれるが, る者もいた。 KM. 夫を戦争に駆り 出され,いやおうなく , - , その中で 20 数軒の家がこの「おこう」の 組織 ,「お を女手ひとつで 切り盛りせざるをえない 時4せ YTq でもあ った。 レイ子さん @よ @l 召禾 t7 年に同じ ム 「がりの 色 ご飯を寺まで 貰いに行っ の頃 ,お- ラ の KM, るという。 た記 ,隠があ 茂さんと結婚したが ,戦争が激し . 千穂栄さんやⅩM, レイ子さんは 子供 こうした習慣は 戦争中 くなると夫は 応召で軍隊にとられてしまった。 に滞ってしまい ,戦後になってもついに 再開 夫の出征 中 ,月に 3 升の米の配給を 受けたが, されることはなかった。 それだけでは 一家を養っていけないので ,百 姓仕事を手伝いながら 子供を育てた。 戦後は, ところで, 10 月 24, 25の両日は安堵の 飽波 神社の秋祭で 仕事は休みだった。 盆 正月とと 毎日のように 大阪の木津の 市場まで電車に 乗 もに春秋の祭りは 3 日の休日になり ,仕事の って買い出しに 行き,郡山をばじめ 近くの町 きつかった時代,そのこと 自体は,それなり や利へ行商に 歩いたという。 に心のはずむ 楽しいものだったという。 仲間 と一緒に郡山や 奈良へ遊びに 出かけたりもし 寺と 村祭 たという。 しかし, 飽波神社のお 祭 といって ムラ は寺を中心に 形成されてきた。 それは, 今でも年輩の 人の記憶に寺の 伺近を寺下 ( じ げ) と呼び,東に 延びた住宅地を 出垣内 (で も 神社やその周辺では 別にこれといったもの はなく,神社の 前の通りに屋台が 2, 3 町 出 がいと ) と呼ぶ慣わしが 残っていることから る程度で,それほど 賑わうものでもなかった ようであ る。 祭の日,ムラの人は撲波 神社に も窺える。 毎年10 月の報恩講は お参りに行くだけではなく ,ムラの西南にあ ムラ で一番の お祭であ り,仏教婦人会の 人たちが精進料理 のお膳を造ってお 客をもてなした。 - 方 ,毎 る 広惟神社にも参拝し ,それから明治天皇遥 拝所に行くというだけの 行事でしかなかった。 月の lR 日は,「おこう」 (御講のことで ,月々 の 報恩講のことと 思われると UG. 瀧 さんは 特に催し物というような 行事はなかった。 そ 語っている ) といっていたという。 この言い回しは と 呼んでおり, 月 当番の家が 20 んな具合だから ,よく「安堵の祭りは牛祭り」 4 人の 数 舶の家々から 米 1 合を集めては ,その米を 方すべてが 記 , 臆 している。 その意味はお 祭り もとに 3 外釜で色 ご飯を炊き, 2 時頃 にお下 といっても特別に 踊りや神輿といった 出し物 がりとして供出した 家 ごとに配分した。 色ご があ るわけでもなく ,ただ食べては寝ると ぃ 飯 といっても「あ ぶら げ」だけの質素な うところから「牛祭り」と 呼ばれていた , 炊き と 池田 いう。 本村の人たちもそういっていたという 出た人の中には ,ごくまれにだが「非部落民 ことであ るが,『安堵町 史凹 では「安堵の 祭 と結婚した人がいた。 瀧 さん よ りは提灯祭り」という 呼び方が伝承として 紹 上の KG. 介されているだけであ る。 どちらも,安堵の り 」 10 歳 ほど年 林之助さんだという。 安堵尋常小学校の 卒業生名簿によれば , 林 秋祭りは何もない 祭りだということを 言い表 之助さんは大正 しているのだが ,その表現の仕方が北方と 本 から,正確には瀧 さんたちょ 0 7 歳年長とい 村とで違っているのが 興味深い。 うことになる。 ただし,名簿には 生年月日ま それでも,村の祭りは楽しみだったという。 娘達は祭りが近づくと 毎晩のように 夜なべを では記載されていないので 正確にはわからな し, 夜 なべで稼いだ 分は祭りの日のお 小遣い に進んでいることが 卒業後の進路の 欄に記載 にあ てたが,祭りの当日は,それぞれに 着飾 されている。 彼が中学卒業後, どのような経 って奈良や郡山といった 町場へ娘組で 連れ立 歴を経たのかは 瀧 さんたちの誰も 詳しく知ら ないが,戦前・ 戦中には台湾で 働いていたと って出かけ, 日 い。 いものを食べたり ,小物を買 い求めたりした。 年 3 月の卒業となっている 林 之助さんは小学校卒業後,郡山中学校 いう。 そこで,戦前の台湾総督府が 編集した 『台湾総督府職員録団を 調べてみると , 林之 助 さんの名前が 掲載されている。 主に食料関 婚 結 .口 9 今日でも,部落や在日の人びとにとっては , 係の役所に勤務しており ,戦争末期には陸軍 結婚は一つの 壁である。 もちろん,学校や 地 施政要員として 徴用されていた。 そんな 林之 域社会での啓発の 取り組みが進むなか , 助さんが, あ る 時 ,台湾から新婚のお 嫁さん この 務庁が平成 5 年度に行った 実態調査では ,地 障壁は確実に 崩れ出している。 じっさい,総 を連れて故郷へ 戻ってきたことがあ る。 しか し,北方の実家へは 戻らずに,いわゆる 木ィ ;C. 区外との結婚が 昭和 f6[W 年度調査に比べて 増加 の KU しており,特に ,男性が30歳未満の夫婦にお こを自分の出塁だと 偽って新妻を 案内した。 いては 当時, KU 7 割近くにまで 達している。 配偶者が さんという人の 家に世話になり ,そ さんは村長をしており , 林 之助さ 地区覚ということは 必ずしも「非部落 民 」で んの兄が村会議員であ り,そうした 関係で新 はなく 出 易者の子供の " 場合もあ るという声に 婦の親代わりとして 迎えたことと 思わ 婚の づき " 配慮したとしても ,全体的にみて地区覚との 婚姻が増加したことは 事実だといえるであ ろ れる。 この KtJ さんは家に人を つ , 龍 さんも仕事の 関係でちょくちょく 訪ねたが, 呼ぶのが "好 きで,その頃,村の理協に 勤めていた UG. さすがに身元を 隠してまで結婚相手を 案内し しかし,結婚に 際してなんのトラブルもな かったのかといえば ,そうではないだろう。 た林之助さんのことを 今日でも,地区覚の人との結婚の 場合には, られたと述懐していた。 当時の日本では ,そ 本人はいうまでもないが ,家族や周りの人 び れほど「部落 民 」との結婚に 対する差別が 厳 ともそれなりの 心配と配慮をするという。 しかったのであ る。 ま 聞いて複雑な 思いにか してや,聞き 取りをした 4 人の人たちの 世A- だが, この出来事を 少し違った角度から では,ほとんどがムラ 同士の結婚であ った。 えてみると,そもそも 本村の村長が 北方の若 それでも,そんな 時代だったが ,ムラの外に 者を自分の親戚のように 迎えたのは何故かと に 考 安堵の聞き取り う 疑問が浮んでくる。 村長と北方選出の 村 会議員の息子という 関係上,議会対策のため 判 はあ るとしても, この法令が差別を 乗り越 えるひとつの 拠りどころを 人びとに与えたこ にという計算がなかったとはいえないにして とは否定できない。 それに続く学校や 軍隊の も,場合によっては ,周囲の人びとからの 反 制度は人びとを 一律に就学・ 召集し,そのこ 感を招きかれないことをするにはそれなりの とがかえって 信念がなければ 実行できないことであ ったに て社会的な混乱を 招いたことも 事実であ るが, 違いない。 あ るいは,それが被差別部落の 人 「差別/ 被差別」の両側にあ る人びとに人間 としての平等と 権利の意識を形成していった びとの置かれている 大呪に対する 同情心から 差別意識の顕在化を 呼び覚まし 出た行為であ ったとしても ,それを実行に移 すだけの覚悟と 具体的な人間関係がなければ ことも事実であ る。 出来ないことは 容易に想像できるだろう。 今 林 之助さんの事例が 特殊なケースであ ったこ となっては,それらの 当事者はすべて 故人と とは容易に想像できるであ ろう。 だからこそ, なり聞き取りできないが ,確実にいえること 逆に能さんの 記憶に鮮明な 疑問として残って は,たとえその 偽装が物のはずみから 出たこ いた。 だが,同時に,部落の外に人間として とであ るにせよ,今日考えられるほど 容易な の関係を結ぶ ことではなかったであ ろう。 にもかかわらず , た。 後年, 瀧 さんが安堵町の 初代隣保館々長 そうしたことを 可能にさせる 強い個人的人間 関係が存在していた , ということは - つの驚 もちろん,聞き取りの最後に 紹介した KG. になった 時 , 相手が存在することにも 気づい もっとも心がけたことの - つは, 地区覚との交流の 促進であ ったという。 その きであ る。 こうした点は 近代の部落 史 が見落 成果の一つが ,つい最近まで「歩こう 会 」と としていた視点ではないだろうか。 いう地域活動として 続いていたが , 龍 さんは その世話人として 先頭に立っていた。 むすびに 差別は地域社会としての 人間関係に予断と 近年,部落の歴史を地域の 歴史に結びつけ て検討し直す 試みが精力的に 行われているが , 資料・の関係もあって,それは経済ないしは 社 偏見を持ち込み ,人間関係を歪なものにした り, 断ち切ってしまったりすることがあ る。 その結果は社会の 形成にも大きな 影響を与え 会問題という 分野での見直しが 多く進められ るのは当然であ ろう。 とするならば , 瀧 さん ている。 しかし,差別という 現象が被差別者 を日常的に囲 緯 する隣人たちとの 切断された が長年にわたって 培ってきた部落内外の 人間 関係を構築する 営みは差別を 克服する上で , 人間関係であ るとみるならば ,雇用主/ 使用 もっとも確かな 方法のひとつであ ることは間 人や地主 ノ 小作といった 関係ではなく ,友人 違いない。 こうした,小さな 営みの集積が 社 としての関係や 親戚としての 関係を紡いでい 全的な偏見や 予断を打ち消し ,社会の歪みを くことが,差別の 人間関係を解消してゆく 有 正してゆくであ ろ 効な手立てであ るだろう。 明治 4 年 (1871年 ) の い わゆる「解放令」 くせ寸言 ぬ )> 部落と伝染病 は「 磯多 ・非人等」の 身分呼称を廃止するだ けで,それに伴 う 具体的な啓蒙や 施策を考え かつて寺の檀家総代や 寺役を勤めており ,そ て い なかった不十分な 法令であ の関係で,ある 時,お寺の古文書を 拝見させ るといった 批 UG. 瀧 さんと MU. 真一さんは 2 人とも, 池田 てもらう機会があ った。 本堂と離れの 間に樹 年 ともいわれる 齢30(W 立派な根上がりの あ る。 その松の木を 見ながら文書類を 松が った。 それによると 日 30 日 4 月 1 日 4 日 る。 以下にその文書を YD 12 日 二女うのゑ 同断 NM. 弥 三郎 子 女子 と免 同断 . 嘉 三郎 才 NK, 善二郎 同断 半 二郎 IR 玄 子 長男米蔵 同断 紹介する まさ乃 が,個人の名双については 一部イニシヤル 化 した。 なお,数字はすべて 算用数字に改めた。 安二郎 同断 . 留吉 NO 2 たち 4 人は文書を双に 驚きのあ まり言葉を失 ったことがあ 宇 二郎 16 才 が 記載されている。 調査に立ち会ってくださ った当時の隣保館館長芳野・博道さんを含め 私 UD. 3才 ね めたようで,役所へでも 届け出た記録の 控でもあ るのだろうか ,月日,氏名,係累等 同断 ロ才 ,明治19 年 (1886年 ) に北方で天然痘とコレラが 狙瀕 を き 28 見てい ると,その中に ,伝染病で亡くなった 人びと の記録があ 4 才 天然痘官吏 送 22 日 また, [ ] 内のタイトルは 筆者のつけたも TG . 岩吉 3才 こしゑ 同断 のであ る。 [ コレラで [天然痘で亡くなった 人 ] 2 月 17 日 KT . 善人 16 才 23 回 3月 6 日 卯 三郎 才 天然痘二テ 官吏送 日 MD . 熊舌 MT , 弥 三吉 河 00 3 打日 同断 ,兵太郎 才 MD 13 才 12 日 . 甚セ MD 日 TM , 源平 10 日 日 ID 養母なら ゑ ON . 青二郎 母こ き ん 柏 労サ " "西死 .平 化四郎 萎ま 虎刺担病 UD 日 58 才 フ 18 日 NN 44 才 こミ乃 19 字平 妻ナ 岡死 TD . 平四郎 .hl 才 同 . 牢乎 同宛 日 長男 楢市 長男源太郎 丙 同断 Ⅱ" " 偵松 64 才 藤平 同断 日 よしウ 子 焼列拉 帝戚 37 才 17 同断 . 楢吉 "M 二男好雄 初才 同断 2R 日 46 才 16 同断 MT . こと ゑ 10 才 24 日 8月 6 12 同断 母 きよ N 。T. 5l 才 長男米蔵 11 才 Ⅰ 才 五郎 日 長男手首 12才 天然痘官吏 送 10 日 7 月 27 勢 太郎 長男 定 _ 郎 MT. くな た人 YD 虎刺網;痛丙死初 長女いく 乃 4 才 天然痘二テ 官吏送 9 日 長男岩二郎 天然痘ニテ官吏 送 NZ. 2 6 月 16 D Ⅹ 83 才 同死 . 林平 蔵 ひな 同死 39 l日 . 庄プL 良に ON り 3り 20 回 同死 YD . 彦太郎 目し 日 磯松 TG. 8才 同 儀平 UG. 同 . 平五郎 26 日 TG 6 同死 . 佐セ 28 才 同死 N Ⅹ・弘二ヰ・ 公 NK, 妻 や い野 6 同死 同 MU ナ F司汐色 ・ 同 lU 8 甘| 48 才 271 ョ KD 28 MU 9才 Sf,才 同 NN. 62 才 る 伯父字音 」 ,ま ,儀平 1 日 MU. 平ニ郎 同死 . 庄 . 、 郎妻 きぬ ゑ M 46 才 虎 列拉 . 嘉 二郎 MD 長男岩太郎 . 平五郎 NM 長男与作 と は既に多くの 人から指摘されている。 ペスト・スラム ョ 神戸コレラ は伝染病とスラムと 部落を ・ の 動向を級暦に 跡付けた優れた 研究であ る。 また, 友常勉 め 「明治期の衛生政策と 東京の 子ゆき 乃 同死 9 月 子 留吉 一つの線でつなぐ 内務省の取り 締まりと世論 同死 UG In 儀平 たとえば,安保則夫の『ミナト @司 Ⅰ ヒ 釘目 母のゑ 虎 列拉病内苑 こ はい里 同死 29@El 宗 五郎 近代の部落史の 周辺には伝染病の 問題があ 同死 善七 同死 史料の背景 子 常吉 . 多 四郎 3才 . 宇 二郎 岡死 . 門口 l口 Ⅲ UD 妻こい 野 1 戦・オ 虎 列拉病 内苑 . 作ニ郎 同死 35 才・ 日 王女いと 日 R; , 冬 四郎 王女 ミっゑ 同死 UC,. 伯 ・同 2 万 ) 同托 , 弥太郎 42 才 長女方 ゑ 口Ⅱ 弥 三校 才 KD 同化 NK . 庄ニ郎 5 38 才 周 い 刑死 M 同同日 同 4 46 才 妻こね 妹 とよ NK. ロ 三吉 子 さよ 6 才 同死 ( 手判読不能 妻ミ祢 同死 . 半 二郎 NK 27 才 日 59 才 25 日 安こなを 三男 駒蔵 同死 . 平 二郎 MIT 同死 NM . 弥太郎 10 才 子磯松 (ママ ) 2 38 才 岡死 KD 同死 庄 二郎 M. 日向 . 楢 二郎 同化 22 子女 岡花 コⅡ Mn ヨ 儀平 UG. 妻 なを 2..0 才 虎 列拉病死 21l ヨ | 25T 同死 妾こレ、 そ 被差別部落」は 明治期の衛生行政と 被 差別部 落の関係を入念に 検証した研究であ 要理 ぅ らの優れた先行研究に る。 これ 共通するものは ,衛生, 池田 環境の視点から 伝染病と被差別部落をつなぐ 噂が形成され ,行政当局がそれを 利用する形 で伝染病の対策を 進めたということであ 史料を読む る。 つまり,日本における 部落への対策はまず 染病の対策として 始まったといっても でみたい。 伝 過言で はない。 明治 19 年は天然痘の 流行から始まっている。 Z 月 J7 日に始まり 4 に17 名が天然痘の 明治 19 年は伝染病が 猛威をふるった 午であ 月 22 回までの約 2 犠牲になっている。 ケ 月間 「天然 痘二テ官吏 送 」という記述が 具体的に何を 意 った。 そのことは,奈良県医師会編の F奈良 県 医師会史 年表 (1982年 ) の同年の項に 次 味しているのか 不明だが,伝染病であ ったの で役所へ届け出たということなのであ ろうか。 のように記述されている。 先に紹介した『 ぎ 』 「この年,伝染病 f 良 媒 医師会定年表団でも , が流行,県全体でコレラ 2,956 名 (死亡2,238 天然痘が流行し 県内で557 人の死者を出して 名 ), 腸チフス 1,303 名 (死亡3R4 名 ), 天然痘 いることを考えると ,ムラの中でも 大きな騒 1,172 名 (死亡557 名 ) を数えた」と。 特にコ ぎであ ったことが想像される。 しかも,死者 レラの死亡率 75t7% のほとんどが 子供であ ったことは,その 親 た と非常に高い。 コレラの 発病者に対する 死亡率の高さは ,たとえば先 にあ げた安保則夫の『ミナト 神戸コレラ・ペ ちに深 い悲しみをもたらしたに 違いない。 だが,伝染病の恐怖は春だけでは 終らなか スト・スラム』でも 神戸の羅患者 2,230 名「の った。 うち死亡者は 1,909 名r で,死亡率は85.6% に れているように 最初のコレラによる 死者が出 のぼることを 紹介している。 同様の調査は 渡 た。 その日を皮切りに ,以後, 9 月 16 回まで 辺則雄の F愛知県の疫病理一コレラ・ 天然痘・ の3 ケ 赤痢・ペスト 一コでも明治 19 年の愛知県のコ たのであ る。 もっとも, レラ思考 数 ttl,220名で,その内821名が死亡 による死者は したと紹介している。 死亡率は 68.4% という 申して出るのは ことになる。 恐怖 ちなみに,見面雅俊等のⅡ青い 白い街 一 コレラ流行と 近代ヨーロッ の 巻末年表によれば レラ患者数 @ょ 155,923 ,この年の全国の コ 名で,その内です E 者は 6 月 16 日,「虎刺網病死 初 」と記載さ 月間に 41 名もの人がコレラで 亡くなっ 2 6 月と 7 月のコレラ 人で, コレラによる 死者が集 8 月 6 日からなので ,実質的 には約 40 日ほどの間に 40 人近くの人が 亡くな っており,平均すると 1 日に 1 人が亡くなる という異常な 事態であ った。 この二つの伝染 病の死者は 7 ケ 月で司 58 人であ る。 この死者 108.405 名を数え,記録上の死者は最高であ の数が部落の 人口にどれくらいの 割合を占め ったという。 死亡率は 69.5% であ る。 るのかは,基礎となる 当時の部落の 人口が不 コレラが当時いかに 致死率の高い 伝染病で あ ったかがわかる。 結核も死亡率の 高い感染 明なので判然とはしないが ,少ない数でない ことだけは確かであ ろう。 ちなみに,本村の 症ではあ るが,これほど高い致死率ではない。 寺の前住職 (瀧 さんや真一たちと 小学校の同 それでも患者との 接触は忌避されがちだった。 級生) にお願いして ,明治19 年の死者の数を したがって, コレラに感染するや 否や,周囲 調べていただいたところ の人びとは極端に 病者やその家族との 接触を た人の総数は 19 名であった。 死因については 拒否したであ ろうことは容易に 想像できる。 判明できなかったが ,明らかな有意差を 見て このような当時の 状況をふまえて 史W. を読ん とることができる。 , 1 年間で亡くなっ 41 安堵の聞き取り 46 才 ところで,春に 天然痘で子供を 喪った親が , 夏のコレラで 後を追うようにして 他界した例 月 28 宇 二郎 UD. 日 二女うの ゑ 11d 8 月 26 UD 日 NK. 日 人の姉 にはおれない。 夫婦が共に亡くなったという 半ニ 部 長男米蔵 15d 8 月 25 2 妹はどんな人生を 歩んだのだろうかと 思わず . 宇ニ郎 NK. 日 女が亡くなったということは 長女と次女は 生 き残った可能性が 高いが,その後, 48 才 ② 4 月 12 . 庄 二郎家の場合は 9 月初旬の 3 日間に 立てつづけて 親子 3 人が亡くなっている。 二 が二例あ る。 ①3 M 半 二郎 妻こぬ い 事例は他にも 一つある。 8 月 1f 日 8 月 19 日 mD . 平四郎 妻 まき ID . 平 l回ほほ 51才 46 才 精神的に落胆していたところへ 夏のコレラ 夫の年齢から 考えて,子供たちはすでに 成 が襲いかかり ,抵抗力を失ったのであ ろうか 人していた可能性は 共に 40 代の働き盛りで 亡くなっている。 二郎 妻 きぬ ゑ が46 才で三女が 6 才だったとい 高いが,前出の M. 庄 できるような 何としては,一家が全滅したの うことを考え 合わせると,平四郎夫婦の 子供 も意外と年若いこともあ りうる。 いずれにせ ょ 事例があ ではないかと ,寄、 われ る よう 力 よ, 残った子供たちはどんな 次に , 8 月 夏のコレラの 猛威をまざまざと 想像 22 UG 日 儀平 る。 妻 こなを ム ラロ ように・ ヒ くなっている 例もある。 8 月 29 日 UG 懐平 9月 3 日 UG 懐手 子女 9 日 UG 藤平 子留吉 5 両親を見 送ったのだろうか。 なかには孫娘と 祖母とが抱 38 才 月 , 8 月 26 5 8 月 26 3才 MD 回 儀平夫婦が 8 月後半に亡くなり ,残された 子供たちも親の 後を慕うかのように 亡くなっ ている。 ちなみに,このUG. 儀 平さんは筆 三 ーナ % )と . 冬 四郎 母い里 才 MU 日 . 多 四郎 86才 冬 四郎さんは聞き 取りの世話を この MU. 真一さんと縁続きの 方であ してくれる MU, 者の聞き取りの・世話をしてくれている UG. るが,真一さんもコレラ 病死のことは 知らな 瀧 さんの縁続きの 方であるが, 瀧 さん自身も かったという " 儀平一家がコレラで 亡くなったことを 知らな かったという。 る何として次の 儀 平さん一家のような この UG. は, 他に M. 庄ニ郎さん - 何として 42 9月 4 日 M . 庄 二郎 9 5 日 M. 9月 6 日 M. 三友 ミっゑ 6才 庄 ニ郎 庄 - ,郎 ①8 月 22 日 家をあ げること ができる。 月 他にも一つの 家から 3 2 人の死者を出してい 例がある。 NM, 平五郎 妻 2 株 59 才 9 月 8 日 NM, 平五郎 長男与作 ②8 月 26 日 NK. 弥 三枚 妻 やい 野 38才 月 26 日 NK. 弘二枚 伯母 ミ乃 ③9月 1 日 MU. 平ニ郎 8 妻 きめる 妻室 う 池田 9月 1 MU. 日 平ニ 貞応 ない。 その意味では 妹 とよ y7 才 最初の①を除き ,いずれも同じ日に亡くな っており,コレラの 感染力がいかに 強力であ るかがわかる。 また,日別に 死者の数をみると , は Ⅰ日に 5 人亡くなっており , 日 , 9月 1 日 , 8 8 月 26 月 日 19 日, 22 4 日は 1 日に 3 人が亡くなっ ている。 つまり, 8 月の下句から 9 月上旬に ,明治19 年のコレラ騒動 は歴史から忘却されたと ろ うか 。 言えるのではないだ しかし,この 事件は町の公的な ら 忘却されただけではなく 歴史記録 か ,部落に住む人び との家の私的な 歴史記憶からも 消えてしまっ ている。 じっさい,聞き 取りの・世話をしてく れた 瀧 さんや量 -- さんだけではなく ,それ以 外の村の古老たちにも 聞き取りをしてみたが , かけてがコレラによる 死者のピークというこ だれ一人としてコレラ 騒動のことを 記 ,隠して とで, 8 月㎎日から 9 いない。 聞き取りをした 多くの人は大正初期 月 4 日までの 17 日間で 合計29人が亡くなっている。 しかも, 9 月に は 915 年前後) に生まれた人たちで ,明治㎎ 入ってからは ,日付の順番が入り乱れており コレラ病死のあ まりの多さに 驚博すると同時 年 といえば,いわば に混乱する ムラ の様子が史料・の中にもそのま ま ・現れている 2 6 に感じられる。 びとの 記 ,憶から消えてしまったのは何故なの かが疑問として 残った。 かつて多くの 部落は枝 利 として本村支配の 同様であ る。 先述したように 本村の死者の 数は 数 -l-年で ,人 側にこれほど 多くの犠牲者が 出たのだろうか 本刷に組み込まれていた。 安堵の部落の 場合 も が,それにもかかわらずわずか そうした聞き 取りのなかで ,何故,部落の まとめに代えて ヰ 祖父母の世代に 相当する 1 ,明治19 年の 年を通して 19 名であった という話になったとき , 人 びとの共通した 者 えの一つぼ共同井戸と 共同便所があ った。 か つて大和の村落では 多くの家が自分の 屋敷内 に自家用の井戸をもち ,それぞれの家で炊事 のに比べると ,牧村である部落の死者の 数は をしていたのに 対して,部落では自分の井戸 明らかに異常であ る。 にもかかわらず ,『安 曙町史 』には「本編」「資料編」のいずれに をもっている 家は限られており ,ほとんどが 共同井戸で,その周りで炊事もしていたとい もこの年の天然痘やコレラの 流行により多く う記憶が語られた。 同じように便所の 問題も の死者を出したことが 記載されていない。 当 共同であ り,こうした 環境が伝染病の 蔓 延を 時 ,安堵は大阪府大和国東安堵村覚四 ケ村 (第 六十八) 戸長役場という 行政単位を形成して 許したのではないかという 見方であ る。 なか に一人だけ肉を 食べる習慣を 原因の一つぼあ 17 日に最初の天然痘による 死者が げた 女 ,性がいたが,多くの場合,肉は 加熱し いた。 2 月 出たときに「天然痘ニテ 官吏送 」という記述 て食べるので ,それがどの程度関係していた があ るが, これは天然痘やコレラに る病死 者の報告が本村に 置かれた戸長役場へ 届けた のかを判断することは 離しい。 いずれにせよ ,近代化に伴う 衛生観俳の普 られたことを 指していたのであ ろう。 この声 及は部落の環境を「不潔」の 一言で財 め,以 長役場が後の 安堵村役場へと 引き継がれるの 後,「 磯ね」という近代以双の 差別観念に覆 であ るが, この年のコレラや 天然痘といった い被さるように「不潔」という 言葉が部落に 伝染病関係の 史料は『 町史 』に記載されてい 対して投げかけられた。 近代化に伴う 新たな よ 43 安堵の聞き取り 差別意識は, コレラをはじめとする 伝染病に よる死者の多さが 一つの拠りどころとなって 増幅したが,安堵におけるコレラ 騒動のなか に,部落の人びとは 新しい差別意識の 醸成プ ロセスと同じものを 感じ取ったからこそ , 人 びとはコレラの ,惨事を語り伝えることを 意図 的に忌避 し ,結果としては,部落の記憶から も消えてしまったのではないだろうか。 総務庁地域改善対策室『平成 5, 年度同和地区実態把 握等調査 全 3 冊, 1ggR 午。 コ 奈良県医師会編㌃ 奈良県医師会翌年表山奈良県医師 会, 1982 年。 安保則夫 肝 ミナト神戸コレラ・ペスト・スラム 学 田 芸出版社,1989 年。 女帯地「明治期の 衛生政策と東京の 被差別部落」上, 下 (「 @@¥ 放研究』 放研究所,1995, 安堵町史編纂委員会編正安堵町里曲全3 巻,安堵 96 年。 ペスト一0 現代企画室, 1999 年。 青い恐怖 白い街一 コレラ流行と 近代 町, 1993 年" 奈良県部落解放研究所編 こうして生きてきた 労 肝 44 ゆテ 渡辺則雄仁愛知県の 疫病児一 コレラ・天然痘・ 赤痢・ 参考文献 働 nj 8 号, 9 号 l刀 ,東日本部落 解 奈良県部落解放研究所, 1983 年。 ヨーロッパ 平凡社,1990 年。 コ
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