葉 訓話 引私案 いりの 我が恋は麻在香 毛悲し 久住麻人良 多胡の入野の 東歌 巻十四 | 三四0こ 一首の主意は、 八吾が恋は、現在も将来もかな 一十二官ロ上野 国 歌 文ム 母も かれ い。 V ということになる。﹁上野歌解ロコ万葉集金 註 右二 於ぉ 悲 で 糊口答、﹁かなし﹂を﹁愛し﹂ととる理解もあるが、 ﹁五口が恋は⋮⋮かなし﹂とっづく文脈からして、﹁ し ﹂の意にとるのがよいと思う。 ここで問題にしたいのは﹁多胡﹂にかかる枕詞﹁草枕﹂ 干可か 重 敏 コ万葉 代匠記﹂ なる語は用いられることはなかっただろう、と推定されるの すぐに﹁ 旅 ﹂が連想きれ、﹁旅 ﹂の連想なくしては﹁草枕﹂ の極めて高い歌語であったことがわかる。﹁草枕﹂といぇば れることはまずなかった。しかも﹁旅 ﹂という語との 接着度 る。﹁草枕﹂はつまり歌語であって、一般名詞として用い,ら 来るのだが、ここ以外の用例は全部﹁旅 ﹂にかかる 枕 前 であ ﹁万葉集ヒ中には四十九例の﹁草枕﹂なる語が出 だ。この歌が旅に関わりのある歌 だからではないのか。 枕﹂という枕詞があえて採用されたのかは気になると ころ している。かかり万はこれでいいとして、なぜ、ここで ﹁草 の言い出した説で、﹁万葉集私注﹂以外の現代注釈書が 支持 借りて﹁多胡﹂にかかるとしていいだろう。 ある。かかり万は、異説もあるが、﹁たび﹂の﹁た﹂ 一土日たと 森 かも悲し﹂の東歌について ﹁我が恋はまき 集 l 我が恋はまさかも悲しくきまくら多胡の入野のおふも悲 しも 萬 一 この点に関しては何とも言えないが、枕詞﹁草枕﹂があえて もし、この理解が正しいとするならば、この 一首の 登場人 である。古注釈では、この歌を旅に関わる歌と見るものが多 ﹁草枕たこの入りの、 此続きは旅行には草を枕として 寝 るも 物の ﹁旅立ち﹂は防人としての旅立ちである可能性 埜 員い 。 採用きれた理由はこれですっきりする。 の故 、草枕 と云 ふて旅の事を知らせたる也 。然れ 共此た とう 非官人である東国人の旅として考えうるケースは、納 税 のた く、 次のような理解を示している。 け たる詞は 、旅のたと 云ふ 一話 はうけ たる 共 聞ゆる 也 0 ﹂ め、あるいは衛士、造郎等のための都への旅と、防人として 徴兵されての北九州への旅、この二つのケースである。 申 @ ト @ 。 -﹁万葉童蒙抄﹂ - と 二説を挙げて旅の歌の可能性を示唆し- 後半部分が現代の理解の基礎をなしているわけだが、 その も 悲し⋮⋮将来も悲しも﹂とある如き悲観的な状況把 握 がな ﹁ま 現二 さ位 か 後、﹁人性麻人民。冠辞のみならず旅のさまを い ふめ り 。﹂ されているところからみると、任期三年︵任地への往 復 の 日 思母。夫の旅 別 の具陳もかな し 。別 -﹁万葉音ことし、﹁回茶 この文章は、従来の諸法諸説を辿って一応筋の通ったものに作ら である。 佐佐木手組日東歌Ⅰ 数は別として︶の防人としての﹁旅﹂と見るのが自然 だから 甲 @ り @ Ⅰ @ @@ -@ て末に思はれもかなしといふ也 。﹂貧 - と真潮 が旅の歌 と 見、 ﹁万葉集略解﹂﹁万葉集古義﹂がこの理解を継承した。 し、枕詞と見たのは コ 万葉集古義二だけで、他は﹁旅 のさま れてゐると読まれるであらう。また、これに続いては、 これも事新 な いふ﹂実科としてとっている。 しいことではないが、東歌の巻十四にそれと明らかにしての﹁防人 コ 万葉集古義二を引 用 して 得 お 乙う。﹁久住麻人良は 、枕詞なり、 此 属の意は 、未ダ者 。 歌 ﹂五官三五六セ @七一-があるほか、内容的に防人歌と 見られる 歌 め ず 。﹂﹁夫の旅行時、留れる妻のよめるにて、 は三、四にとどまらず、﹁﹁東歌﹂と﹁防人歌﹂と ハを 成り立たせ 某 別れに さし たりたる、今の間も悲し、しかのみに非ず、反別てのち、行 た 基盤回 は地つづき口なの ロ である﹂などとも述べるれて をり、本 しかしながら、このやうな通説的な﹁理解﹂は、すべて、結句の なってもめる。 類歌がいよいよ防人﹁旅 ﹂の歌であらうと、読む者に思はせる筋に 末を思ふにも、さてもいよⅠⅡ深く 悲 しや、とな り 。﹂ -﹁古義ヒまさか 一百中の﹁現在﹂は旅立ちの時であり、﹁将来﹂は旅中 別れ別れの時間ということである。女性の側の歌かど ,ヮ, カ︶ /キ ﹂などと 訓む 、その﹁オフ﹂てあったと考へられる 、 芳の﹁ 干﹂が﹁息が下からあがって一線につかえることを示す ﹁W, ﹂ ならぬ﹁二十二百上野国歌﹂のなかにも・しかも本題歌 のすく 次 ﹁ 盤㌍﹂を、﹁父 と 同 は韻 父に とて 久通ずれ 、或 ばは 放久 火を なり 美那 気男 妾く 蘇の入 真麻群 ら可伎 武人 伎 寝れど飽かぬ な あどか 名 にて 誤て役に作れるも知るべからた ずる 、野 多 胡 の入﹁可野 は 深 ﹂ 高る 車 匠べ 代 かせ む﹂三四 0四︶の第三旬 の ﹁伎 ﹂二字のうち上の﹁ 伎﹂は 、 付た欺 る、さ服 てて父 於母司 思母 祭とはよめし る な 己といっ 、﹁ たおふ﹂を奥 ﹁ ︶お とく 解﹂ すろ ︵ るか とら こ出た見暦本にはこれも異例の﹁毘 ﹂| ヨ%﹂とする。これは ﹁伎 ﹂ の あべ るて も﹁ こ の。 とは見られない、かならずやこの字による伝本があったことを 思 方である。 奥﹂ ﹁は ﹁、原文は諸 於本 父 ﹂す と れでは意をなさ代 な匠 い運 記 の: で⋮ 、以世 来・ 、現 近代の諸せる。﹁ 父﹂は、老男の義のとき、呉音﹁ フ﹂であり、 苗床土日にし る ﹂ ﹁い 萬葉集も同じく﹁ フ﹂である。﹁父 ﹂に同字の﹁甫 ﹂ももと より呉音 注釈はす父 べ ﹂て を久 ﹁ ﹁ ﹂に改奥 め ﹂﹁ と解し て ﹁ 韻と ﹂に と、 し﹁昔 ともに﹁ フ﹂てある。﹁族父﹂は﹁オフ﹂てある。 全 佳ヒ水 と 島い 義ふ 治新注もある父 。 ﹂ま はこ は 、お 本く 題﹂ 歌︵ ﹁於父 ﹂| ﹁おふ﹂は、名義抄に﹁ 叶 ﹂を﹁オフ、 ナゲ ク 、ウレ ﹂て にも 近﹁ い。また奥 、 ︶ ﹁ ても字形と久 し か 講 元 我 の は 漢 て ブ ハ 重文字。叶は﹁ 口 十音符干﹂の会意 兼 形声文字で、 干 か放 と同じ は 唖一 前置詞︵おいて・より︶に転用されたため、叶が干の原意︵息が 指 かえて ううと 漏れる ノ急 かのどにつかえてわあ、ああと漏れ出る く ま ︶をあらはす﹂ 箪研 漢和大@ 千卵 | ﹁叶﹂﹁工 - と解字 き れる 字 てあ つ @ 。。︵ の 仮 名 と﹁ し ﹂てある 0 の ﹂てある。旧訓も﹁父 オ ﹂フ は﹂ 、と 萬 す 葉る 集。 @ レ ふノ略し ね @ かし二回 シ。お @ かす お@ ハ色 - 唖 一Ⅰこれハ 浦 をあ許 さ ては異例て巻 あ 十る 四が 東、 歌にへ はば 、 ﹁た 新 の と 人 0 、三 駿 國河 一﹂ 四 ヲ見ヨ 。 こ きるら二 め ぽ 護の﹁ 求﹂のやうに、稀に異例のが 音あ 仮る 名。 を遣ったもの 一一 口内 ︶ノ條 から、﹁叶﹂の﹁オフ﹂といふ訓は、 けだし﹁おふし﹂︵唖 ︶の﹁お き る ふ -里 色 沖層層円次次 條 、動詞、おふす︵ 唖 ︶ オフア シ 皆紅、セ年二月唖 ﹁不ノ能ノ語 ﹂ ノ機開趺ケテ 、物吉ロフコト能 ハズ。 又 、おふトノミ 云 ノ一|一 名詞 名跡忠宏、入野とは 里能 村の 漫 なるべし、白沙にて 松 生ひ 美 大日本 謂 ゆる多胡嶺は 新手、入野 と は緑野 班野を踏みて、多胡に入る野漫 なり、 景 なり、南に高山あり、 0 万より、 黒熊-︵入野 ご 地名辞書 |上野國|多胡 郡1式美郷| - ときれる地であるが、その﹁入野のおふ﹂とは、右にもいふ ﹁高山﹂ 形 口吻 舌ロフコト能ハ ザル不具 ノ名 。 約メテ 、おし。 モ ノイハ ス。他車 二テ、オッチ。中園 二テ、イハ " ス。字鏡十四﹁盾、放下 ハの 一面口を事実上指したものであったであらう。これ といふ文脈 ﹁オホ ﹂は 、 ﹁おふ﹂の ウ 列昔 ﹁ふ﹂をオ列甲類青 化し た 、すなは 上 ・登の義の﹁ 陛 ﹂を﹁陣僧位、オホ 、 ノホル﹂と 訓 注する。この 6 名義抄に 、 志﹂倭名抄、三九﹁ 盾舟、於而立、不 ・ 。 能。盲地﹂ 三 を、 我が恋 本題歌の﹁おふ﹂は、﹁我が恋は・・・⋮おふも悲しも﹂ にある。とすれば、これは、一般には唖の義の﹁おふ﹂ の地 陸階 ﹂は 土の階段であ ち、 樽澤等 、寒風 山 ふ ﹁おふ﹂は 、高く突き出た屋地をい ふ ム﹁、富永、田谷津、浦田、百Ⅲ、 この﹁生花崎﹂の﹁ オヘ ﹂も、﹁海崖突几 ﹂﹁再起﹂ -大日本地名辞書1羽後 國|南秋田郡 -男鹿島| 肋木こ オ-, ナ の 義 での 名 埼に 在り、海岸実方として、船越津 、船Ⅲ港の間に高 起す。 を併せて、脇本村 と云ふ 。古城 乱 あり、生花︵一作雌猫 鼻 ︶ 脇本 るが、地形をい ﹁おふ﹂と同語であったと見られる。﹁ いひ えな ロの ﹁切言 フ コト 能 ハズ﹂ ﹁不ん北。語 の思ひを何らかの事情で恋の柏手にう ち出で立ち明けて い、作者が自身のその心・ ︵舌口︶﹂の丈ノ のさ Ⅱ ま士であること、の義 としていった ワ b の と 見られる であらう。あるいは、ただちにその義、心が内に﹁つか え ﹂1間 へ ておし黙るききのことの義にもいふ ﹁おふ﹂が、東国方 舌ロとしてあ ったことも考へられる。すくなくとも、作者は自身のありやう を あ たかも﹁おふⅠもし﹂だと、悲しくも思って め るのであ る 。 あったであらう。﹁堆猪鼻﹂の﹁雄 猫 ﹂は 、 であり、すなは ち、もと﹁おふ﹂ないし﹁ オホ ﹂から 出ての 誰 形で ﹁口 くさまくらり多胡の入野の﹂からただちに続く文脈にもある。 も ﹁オヒ ﹂ともなったその﹁ オヒ ﹂がさらに﹁ オィ ﹂と なって 、地 叶 ︶は 、いふ までもなく 、また、 ﹁おふ﹂は 、下へは叶の義としてであるが、上からはい まひとつの ﹁おふも悲しも﹂の﹁おふ﹂︵ 別義の﹁おふ﹂として、すなはち、両義を懸けてある のでなければ である。また、 柏に 適はせもして宛てた字である。﹁鼻 ﹂も﹁再起﹂に 通 はせた・字 ﹁オフ﹂ が ﹁オヘ ﹂と ならない。﹁入野﹂は、 ︵静岡 @ 明克 品名 のま オバネ 大分・熊本・宮崎県方言︶。⋮⋮ 窺 堅三・ オバ ⋮⋮㈲ 峰 。 オ バ イ ︵香川県木田郡万言︶。 源Ⅰ- 郡 、 山口 ハたところ U 、であったと考へられる。﹁まくら﹂は、動詞﹁まく る ﹂の四 清未然形による名詞であった。千三活動詞として 、﹁群が 沌 る。集まる﹂の義に﹁まくれる﹂といふ万言がある @ 本方言大辞典 また、草についてではないが、﹁水がⅢ底に当たり表 面 に盛り上が 8所﹂を﹁まくれ﹂といふ地方がある 省 -。たと へば ﹁ふる﹂︵触 ︶ 二方言三 ね ば な ⋮・・・①山の突き出た所︵一万 |吉| 旦長野県西筑摩 |大分県別府︶。Ⅰおばね1 県豊浦郡︶。② 峰 た 寝具、の義であった。 ﹁まくる﹂ いづれにしても﹁くさ まくら﹂は 、 寝具として造った﹁こもまくら﹂︵薦枕︶の場合、 へば ﹁拳慕摩短羅陀箇播志 過ぎ﹂武烈即位前 巴 五 ﹁ 苫枕 、すなは ち、 まくら﹂宮田 そ れが、たと 頭 ・頸を置くに程よく高くなってあるもの、そのやうな 高さに造っ ﹁まくら﹂自体、﹁まくれ﹂たもの、横にした身体の平 面 よりも、 比W ︶ ロする U、﹁まくら く ﹂︵枕 ︶ の た。いな、その﹁まくら﹂︵押 なる﹁ くき ﹂を﹁まくら﹂︵ 枕 ︶にする、といふところからであっ 通説のや う に 、単に草を枕にする、ではなく、すでに﹁ な草の高いところを探し樺 んで、それを枕の代用にする った。それが﹁たび﹂︵旅 ︶の枕詞になったのも、旅寝 にそのや ぅ 草 が群がり集まって高く盛り上がったところ、といふのが原義であ もその類ひであったであらう。 活 一つになる ﹁かくる﹂︵ 隠 ︶﹁ わ する﹂︵ 忘 ︶など、後には下二 | 峰 。山頂 繍宣 静岡、大分、熊本、宮崎︶。山の主 稜、 やぅ もわれながら悲しい、といふのが下句のい ふ意で あったとい てよい。 ﹁くさ﹂︵草 ︶の﹁ まくれ﹂ ﹁多胡Ⅰの入野の ロ ﹂にはさらに、第二一句﹁久住麻人民 ﹂が冠さ てゐる。﹁くさまくら﹂の原義は 、 行活用のものにことに多かったことはい ふ までもなく が、もと四滴で、上代では両 活用が並行ないし雁行し た 動詞が 、ラ ﹁地名用語語源辞典﹂- 豊後で サコ に対する 口 山口貞夫 u 。⋮⋮ @ 原 佑介・溝手理 太郎 の ﹁突き出 ないし 両 しがたい して、 そこなる 山 の高岸であり、その﹁おふ﹂二局崖 ︶を﹁おふ﹂︵叶 ︶に懸け おム おふ 、我が恋は多胡の入野の高屋ではないが、あたかも旺なる我があ づれにしても、﹁多胡の入野のおふ﹂はかぅ の語源的な関係の有無についてはいま逼 かには明確に 語彙﹁おふ﹂︵ 叶 ︶﹁おふ﹂︵ 高涯 ︶のそれぞれの語源、 ﹂地相であることはい ふ までもない。 派したと見られる。﹁ 峰﹂が山の一部として﹁高起 ﹂ 義をも いふ記述によれば、それはさらに﹁オハ︵1バ ︶﹂の % . と 分 た 高 が 者 て り つ れ 播磨回風土記 l週芭など、﹁たか﹂二局︶に冠されて枕詞になったの と いふ までも たもの、の義であるからのことであっだ。本題歌の﹁くさまくら﹂ % 咀っ なく、﹁まくら﹂一般がそもそも、高くなってあるもの 、一員く も、 ﹁こもまくら﹂が普通の枕より高いところから、 も、まきしくこれに同じく、その高い| ﹁たか﹂の 義 によって 、そ れど音韻相通する﹁たど﹂︵多胡︶に冠した枕詞である。冒頭に引 いた佐佐木﹁東歌口にもいふやう に、 萬 葉の枕詞﹁ くき まくら﹂︵草 枕 ︶は、すべて﹁たび﹂︵旅 ︶に冠する、そのなかにあって本題歌 た ﹂ と同じ﹁ た は異例であるが、それは﹁こもまくら| たか﹂の類ひ としてのもの である。㍉東歌口も首肯するところの、﹁たび﹂の﹁ ど ﹂の﹁ た﹂に懸けたとする従来の説は、結果的にはきうもなると いふ までのものである。 ﹁た﹂一昔に、とは、枕詞に一般にそのやう な場合もあ るにして も 、転用的に形式化した懸け方であり、﹁くさまくら﹂の本来的 実質的な義も、その懸け方では稀薄になるが、その水 来的 ・実質的 ま ﹂︵ 山 ︶の義を含みえたものにもなったといふあり かたは、 べき 君 し ハ古今集 |離別| 三上- きまくら﹂には上代いまだ見られない。﹁あきなけに見 ト ハハⅡⅩ たのまねば思ひたちぬるく きまくらなり﹂ 口たび 目た ご め ﹂と つれにし だ 含み ぅ く きまくら﹂ が、 ﹁あ く きまくら ハやまの 口 あらし︵ ア しのま ︶﹂で う な例を見るのは平安朝になってからである。﹁あしひきのあ が、 、本題歌は、枕詞﹁くさまくら﹂をはい のでは が 正しい。また、ひいては、﹁﹁ 董枕多胡の入野﹂は 奥 といふ 伍胆 いふ 説も従ふことを得ない﹂ な いは ば自立した詞であるや う に、それが 被枕 ﹁たび﹂︵ 旅 ︶の 義 のである。 ﹁麻 節するだけのため、即ち序歌であって歌の本筋には窩 係 ない﹂ 佳木口東歌ヒはまた、さきには引かなかったが、第二旬の 土屋文明﹁萬葉集上野 更歌私注ことい のである。﹁⋮・・・此所では枕詞の慣用によって旅の意に のいふ ﹁防人としての旅立ち﹂の歌であったであらうも とになるものではない。いはんや、したがって、その旅ぶⅢ日東 ただけのものであり、一首全体がそれによって旅のことをいっ ふ が、それは﹁ たど ﹂に きの﹂が﹁やま﹂を含みえた やう には﹁たび﹂をいま 、嗣続きが成り立たない、といふのも、﹁ ﹁くさまくらたどの﹂は﹁ ︵このま︶﹂は﹁あしひきの のや らし り ある しな ひ るま な歌 L た冠 こしもて い を事実上もちえたとするコ東歌口の諸注 ・﹁東歌﹂ 自 身の立言は 、 のしひきのあらし 巻十一| 近く生らないであらう。たと へば ﹁足檜刀下風吹く 夜 は ﹂ あし ひきのこのま 三六セ九- ﹁定則乃諾乃間立ち潜く﹂寡 人| 一四九五、家持などの、 枕 な義を、冠辞にとどまる﹁くさまくら﹂に着けて補填し、それ自体 "/ - ㍉ あし ひきの﹂が﹁やま﹂に冠したところから、ただち にその しくや「 記 と「「 佐 さか 万番﹂について、 は目 力は 所の意﹂と する岩波古語 ﹁ま ﹂は目、﹁ さ﹂は方向、﹁ か ﹂は所で、﹁まきか﹂ に見える所、つまり眼前、現在の意。 といふ。これは、﹁マザは目の方向。 辞典の語源解 にほぼ同じい。同辞典は、この語源解に よって﹁まさ か﹂の第一義を﹁さしあたってのム﹁。現在﹂とするが、 語源解から どのやうにしてこの第一義になるのか、すこぶる難解である。しか ﹁いまのまさか﹂はただの 重 舌口、 賢話 にな い まのまさか 花筏 ゆりも逢はむと思へこそ伊麻能麻花可も愛はしみすれ﹂ ﹁さ@ 一日日 ム 轟の @早人1匹0入八 、 る。この句は 、﹁いま﹂にかならずしも﹁まさか﹂といふまでにさ し 過 つては ゐない時と場合もあるといふ前提があっていひ うるもの である。 は、﹁目先 ノ 何方﹂ 大言巴 ではない。 何 うから迫っ ﹁まさか﹂ は、こちらから見て﹁目に見える所、眼前﹂なのでは ない。あるい て来る 、よ つ て ﹁緊急﹂の現前としての現実である。﹁まさか﹂が 、 も 、同辞典は 、 ﹁まさか﹂の第二義として、﹁物事が しばしば、 予 則 しない危急存亡の現実に、しかもそれに直面すると 目の前に迫っ て ど う にもならないこと。万一。緊急﹂とする。しかしながら、 こ と いふ場合にい はれるのも、それが直面させて急迫する事態だからで 打 消や反語と結びついて、よもや、 ある。また、 も いふ べき義 を、きらには、応答の詞として、強く否定する心の義 ﹁まさか﹂が、 の第二義の方こそ、実は﹁まきか﹂の語源義 であるとい ってよいの ﹁目の前に迫って﹂動かしえない現実ロのありかた を分化したの も、 右のや う な事態を、希望しないながらも﹁万一﹂ U 、 といふこと である。それは、﹁まさか﹂が﹁ま ﹂︵日︶﹁きか﹂︵ 迫 ︶であり、 を 語源 義 、ひいては第一義としたものであったからである。﹁まさ 的に仮定的に予想し、しかも、もとより希望しないのであるために がきらに公議 して、事態を肯定、受容する心の義ともなるのも、 の、事態の事 態 自体からする緊迫性の義は一貫してゐる。﹁まきか﹂ それを強く否宜 し拒絶するところからであり、そこにも﹁まさか﹂ か ﹂が﹁眼前、現在﹂ 1 ﹁さしあたっての 今 ﹂といった 義 にもなる つろ のは、前引﹁伊香保ろの 沿 ひの榛原﹂の歌で﹁おく﹂︵奥 ︶と対に さか なって ぬ た﹁ 麻 庄司﹂のやうに、右の語源読め 、現実 といふことか らの派生 義 としてである。それでも、その﹁現在、 定・拒絶と同 じ次元で、事態に対抗し超克するといふ逆の出方をし 否 態に ﹁さしあたり﹂ | 当面し直面きせられてゐるといふ義におい ム﹁﹂は、 或る 事 て、過去・現在・未来といふ単に見られての時間のその現在、 ム﹁で あるならば、 たところから である。 まさか すゑ ﹁あ づき ゆ み末はし知らずしかれども眞坂は君に寄りにしもの はない。﹁まさか﹂と ム﹁ー﹁いま﹂とが単なる類義語で セ を﹂ 巻十二ー二九八きの﹁まきか﹂は 、 つろ ﹁すゑ ﹂︵木 ︶ とも対に 、 平坦でなく 坂 ﹂は 、 ﹁まきか﹂の ﹁さか﹂︵迫 ︶ ﹁きしあたっての 今 ﹂といふ派生姜に傾いたいま一例で あるが、 そ れでも、その﹁さか﹂に宛てた﹁ の義を見易く見せる。﹁さか﹂︵坂 ︶は、道行く者に、 向うから高く迫るもの、﹁さく﹂︵迫 ︶もの、の 義だ からである。 山道などの﹁ き がし﹂︵ 瞼 ︶は、その﹁さく﹂︵迫 ︶ か ら ただちに ものである。 八 本題歌は、柳二旬に﹁我が恋はまさかも悲し﹂といふ。 それは だし、﹁まさか﹂の上来述べたその、派生姜よりは語 源義 ・第一 0本義を主要として、恋の栢手を現前に見ながらの悲し きないっ 逢へば鎮 まる恋では のであると見られる。﹁早行きていつしか君を相ひ見む と 念ひし @ 十一|二五セとといった 、 い、目のあたりに見ても、見ればかへって悲しいのである 。現に ム﹁ぞ 和ぎぬる﹂ 皇 ㎜たちの 敷 てゐるその柏手が 、見てゐることそのことが、作者の、心 に 迫って こみ ・さ こみず /迫扇 見 つつ言問 春日|五四六、笠 金包 といふのは・ 旅 の途にはじ ﹁柏ひ 情況に立 | その﹁ 一首は ﹁八 V﹂ 佐佐木﹁東巳 歌 と 、ム﹁の悲 きに末もの思ひやられる悲しさを単純に並立し累加していったの が 恋は、現在も将来もかなしい。 ︵叶 ︶のありゃ ぅ がまた悲しい、といったのである。 きか﹂の 非私 しいおのれの舌口田同 ふこと @b で ミご がた ノく して ぬ る﹁おふ てぬ るのである。そして、だからこそ、﹁おふも悲しも﹂ も ﹁外のみ見つつ﹂、おのが心を﹁言問はむ縁のない﹂ はず君は坐さめ ど ﹂の﹁ 肩轡 ﹂塞 十二ー二九二一この相手の前に 術な て出遭った女に対する男の心であるが、本題歌の作者は む 縁のなければ﹂ 宿りにたまほこの道の行きあひに天雲の外のみ 心 はいまだ柏手に通じてゐない情況だからである。﹁一 ニ香の原 旅 何ともしがたいために悲しいのである。それは、作者が 独り思ひ 庭 -式 -祝 @詞|廣瀬大忌祭 派生した形容詞であった 曾三九 梯 ・和訓 琶 。また、﹁ き坐す山口より秋人那多利 に下し賜ふ水を﹂ 坂 ︶は動詞﹁ さく﹂︵ 迫 ︶ ll などの﹁きくなだりに﹂も、 ﹁きく﹂1目に迫って﹁ な だる﹂ |傾 れ 口下だしるさま、である。﹁さか﹂︵ の未然形による名詞であるが、﹁さくなだりに﹂の﹁さ く ﹂は﹁ き く ﹂︵ 迫 ︶が連体詞となっての 一語形である。また、﹁ 迫 ﹂は 、名 義抄に ﹁セム、セハ サル、チカ シ、チカツケ リ ・ タチ マチ、ヲヒヤ さこⅠ追水さ アナヰサコ地名。豊後圃直入郡 |村 ﹂ -井上繭囲 ・高山 ヵス ﹂などと 訓 み、その請訓 は ﹁さく﹂︵ 迫 ︶の 核義を 委細に見せ る 。 なほ、 ﹁セ井 入迫 こ典 ﹁過 昇 ・売日底力﹁難訓辞 さ こお うぎ ﹂ 大野史朗・鹿田 豊 ﹁難読姓氏辞典巳などの 地 名 ・姓名の ところからの せこもと /迫田せこ だ ﹂ 筒 -の ﹁せこ﹂は 、 ﹁さく﹂が﹁ せ ﹁さこ﹂も、 形 ・義 ともに同じ﹁さく︵か ︶﹂の類ひで ある。﹁ 迫 本 く ﹂︵ 急 ︶﹁セム 、セバ ﹂ロシ ロ ︵ 狭 ︶と同源である け 義 た 情 な 知 見 、 の は め 思 く つ き 」 我 し で はない。今の、迫った悲しさを、その只中でのわ ねからの﹁おふ﹂ にあ へて異例の﹁ 父 ﹂が書かれ、さらには、﹁も悲しも﹂の二つの が 、 原字面、﹁於父母同条思母 ﹂と、すなは 1 ﹁父母﹂ ﹁はは﹂を思はせるか らである。 作 重ねて﹁ 母﹂で書かれてを り 、その﹁父母⋮: 母 ﹂の 字 面が 毛 ﹂とは変へ て 、ともに ﹁おふ﹂の﹁ ふ ﹂ の悲しさへと深く掘り下げていったのである。或 る意味では、﹁お ﹁も﹂が 、 ﹁まきかも悲し﹂の﹁も﹂の﹁ ち、 ふも悲しも﹂は、 ﹁まさかも悲し﹂を結果とする その原因をいって 一首を成したことにもなるものである。﹁まさかも﹂の﹁も ヒ も、 ﹁おや﹂、ことには﹁ 母 ﹂ 者はけだし、親、ことには母を悼 ﹁おふも﹂の﹁も﹂が累加の意をももつに対して は、ただちに詠歎 の嵩の色濃い係助詞であり、﹁現在も将来も﹂といふその二つの 母にも自分の男への 恋ひ 心を漏らしてゐないのである。 こそあっ かきむ ききに東歌の異例の字として﹁許求 ﹂の﹁ 求 ﹂ ゃ ﹁司書式 、 男が一・ょ し 、 ﹁かきむ た き 寝れど飽か 親 と男との間に立つ女の歌は、たと へば、 、字面によっ て意を暗示したものであったであらう、といふことも思 ひあ はされ 推されるとすれば、﹁お父母かなし母 ﹂もぼぼ同様に ね﹂男の心の歓ヨ %﹂をい ふ、それぞれ一首の意に適は せたものと あるはずだといふ、また、その﹁喜 ﹂は て ﹂、すなは ち、相手を見ることを得たいと﹁求 ﹂めて ゐる下心が 大使﹂の﹁喜 ﹂を例したが、その﹁求 ﹂は である。 いふ産な心にあるから、いはんや男の面前でも﹁おふ ﹂︵叶 ︶ た の また、 さぅ り 気を兼ねて、いまだ 父 には切生 柵、 ﹁も﹂が単なる並立・累加の意の副助詞であるの とは異なる。 本題歌は、過日出遭った柏手、その時の自分の如何とも 術 なかっ た心を思ひ返して作ったものとしてもよいが、﹁おふ﹂︵ 叶 ︶のあ りやぅを﹁悲しも﹂と現在態 にいってゐることか らも、現に ム﹁、柏 手を見ながらのものと見て自然であるかぎり、柑手に﹁まさか﹂に 直面しての作者独りの心中をその場で欺いた趣のものとする方が一 層適切である。また、作者は、相手に﹁おふ﹂のありやうになる者 として、おのづから女である。また、作者は密か に恋ふるのみであ るから、相手の男は、女からしては迫る出遭ひで 。遭った場も 、男 のみに、女・の心をはいまだ知らない情況である出 は他の者らとともにぬるとしてさ へもよい。 武本歌 らば告らせ︶ 親 ︵父母︶は知るとも 塞ニ ー三上八三、三八四 おや 鵠 ゐる礒み塞旭礒︶に生ふる名乗藻の名は告らしてよ ︵ん旧土日 分 に解しぅ るが、そこに作者の親が作者の心内のことながら介在し 赤人 - 一首は右のやう な男 と作者との関係におけるも のとだけしても充 てぬたでもあらう関係を思ってもよい。それは、 ﹁おふも悲しも﹂ 九 つつ -巻 筑波嶺の遠面北画に守部 据ゑ波 播い守れども 霊ぞ 合ひ にける -巷十四| 三三九三 ナ ー@ ナ たらちねの母にもいはず慎めりし心はよしゑ君がまにま 巻十三ー 三 二八五 よ |よ | 面積の船潜り入る八占きし母は間ふともその名は告ら じ 十一 | 二四 0 セ 、大度歌集 - おや 司業都気勢佐野の舟橋取り離し於也は離くれど我は離 かるが へ -巻十四 |二一四二 0- たらちねの母に障らばいたづらにいましも著れる事の成 るべ lま l よ 一O @ l l よ 誰れぞ この吾が星月に来呼ぶたらちねの母に噴は 吾 れを -巻十一| 二五二七- よ kれ ナ 一二、母が守らしし︵ 巷十二ー三000︶ 娠 合へ ば柑ひ 寝るものを小山田の鹿猪田守るど と も ま ー| ナ かくのみし 嵐 ひば死ぬ べみたらちねの母にも告げ はせ 巷十一| 二五セ0- ナ lよ l といった 、 なほ母に心を置き気を兼ねた心のものがあ くは、 に 巻十一| 二三六八- づ たらちねの母が手離れかくばかり術なきことはい といふ、すでに身に通じたとも禾通 とも見えるがい 男を思ふやうになったために、親に背くといふまでに 安な 親離れを覚え、そのこと自体、なほ親 と心のなか 不 き 巷十一 | 二五一 セ - @ 同1二七上 ハ0- よ |よ | いである心をいっ仁一百がある。これが、親にきへも ぬると見られる本題歌の女の、思春の娘心にもっとも 本腰 歌は、 親と男との間の女の諸敬のなかでもこのや って、すこぶる特色のあるものである。 な あし ひきの 山澤ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はせ母 は 生貝 むとも 三三八四、古歌集 - 玉垂れの小簾のすけきに入り通ひ来ねた , @0 ちねの母 が問 はさば風と申きむ筒| 宜 ーナ | 桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知る とも 同1二六八 セ男へ 転び、すなはち母には背いた心の ものがそ で 。 あ か など、心を決して つ { な ら 本題歌はしかしながら、上乗 は、一首の心を鮮明に ら、 或る女一個の詠であるかの やう に述べてきたが、 多胡の入野の﹂といふ、作者嘱目の景でもあらう土地 す か ん な ら て ミョ ょ 思 ハり @ 守 す 侶 ぁ目 尾ll % @つや 、 き れ は に い 近 ま ず 通 入 大部分であるが、それでも、 ぅえ す 「 の 酸 河の海おしへに生ふる漬 つづらいましを頼み 波播に 違 ひぬ おや 一芸、松枝に道ひぬ 巷十四 | 三三五九 - の 一角が初三 旬と 第三旬 以 わたらせたのは、 き うすることによつて、 れてゐるところからすれば、その國での産な娘の恋心をいふ べく、 下との形のう へでの不釣合ひな前句構成になるそのことで、前句が っゐ おの づと 生れた歌謡であったであらう。 私注口をも引いたや う に、つまり ほ ﹁おふ﹂︵高畠︶に懸けての﹁お ね、﹁まさかも﹂の句が﹁おふも﹂の句へ と深められるといふ 一首 そしてそのことは、その両 何が、すでに 述 べた通り、単なる 対 なら 召 右のやうに単なる対に見えがちとなることな避けるためであつた。 ふ﹂︵叶 ︶に冠して、枕詞をさ へ加へた長大な 詞 ないし 序詞である。 全体の心自体からこそのおのづ からな修辞 であ つたのである。﹁我 また、﹁くさまくら多胡の入野の﹂は、さきに 司萬葉集上野闘歌 それは、形式的で一首全体の心のための比倫になる効もないもので が恋は多胡の入野のくきまくら﹂云々のやう な通常のならぬ一見異 こひひと つ Ⅰむ 恋人が 伊藤左千夫、明治四十一年 - 只ぅやぅ やし物もいはなく を本題歌がもつのは、まことにそれなりにそれだけの理由の つたといつてよい。 白玉の憂ひを しらたま 玉の歌四百 フ巳 あることであ 例探 ある。 服 りにこの形式的な長大を救 ふ べく、より通常 の歌の体に引 き直すならば、﹁我が恋は多胡の入野のくきまくらまきかも悲しお つわ @ 原敵 の﹁ ま さかも悲し﹂ ふも 悲しも﹂となるであらうが、それでも、第二・三旬が下句の比 楡 にならないことに変りはないうへにも、 と﹁おふも悲しも﹂とが、ますます単に並立・累加的な射 になって 見えもする形になる。さらに、原形の本題歌自体、実は、 ﹁まさか﹂ ﹁おふ﹂ こ とには、 こ 義 として含み 、すなは ち、 には語源の﹁さか﹂︵ 坂 ︶ないし﹁さく︵ こ ︶﹂︵迫 ︶ を には懸けて﹁おふ﹂︵高岸︶を、それぞれ ともに地形・地租として同じ類ひの詞であり、また、 れも前引のコ地名用語語源辞典ロの ﹁おばね⋮⋮豊後 では サコ に 対 する﹂といふこともあったとすればなほさら、 ﹁まさかも﹂﹁おふ も ﹂の 両旬は 、それも見方によっては歌謡らしい修辞 といふことに つろ もならうが、さらに単なる対の息のものに見えもするであらう。 し かしながら、本題歌が一首として第三・四句に形式的で長大な詞を
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