KOJ000403 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

木蓮子 島 広田道世 外 の 墓帝
ー
リ
埋葬形態の類型を 中心に一
矢持
久 民枝
はじめに
広田遺跡は鹿児島県種子島南東部の
∼古墳時代の 埋葬遺跡であ
太平洋側に面した、 広田海岸の砂丘上に 立地する弥生時代後期
る。 種子島は、 南島の北部 圏 に属する薩南諸島の 島で、 南九州文化圏の m
け
にあ りながら九州北部地域の 文化的影響をも 強く受けており、 南島はもちろん、 九州の古代文化を 考
える上で注目すべき 位置にあ るといえよう。
広田遺跡は 1957 年∼ 1959 年の三ヵ年をかけ 三次にわたる 調査が実施された。 同遺跡はカルシウム
分を多く含んだ 砂丘上に位置したことから、
人骨の残存状態は 極めて良好で、 形質人類学的にも 貴重
な資W.を提供した。 また、 広田遺跡の墓制研究の 上で最も特徴的な 装飾品、 もしくは呪術的要素を 持
つ副葬品と考えられる 多様な貝 製品は質, 量 ともに大変良好な 状態で出土しており、 同遺跡の埋葬文
化の内容や、 時代的な位置づけを 考える上で重要な 遺物とされている。
これまで盛衰 尚孝 ・国分直一両氏によって 1957 年に第 1 次調査の概 報(1)が出されて以来、 研究者
の間で広田遺跡は 広く知られるようになった。
の分野からのアプローチもなされており、
また、 同遺跡の存在について 古代の墓制研究や 民俗学
その重要性はかねてより 認識されてきた。 しかし、 資料整
理や第 次調査以降の成果に 関して、 まとまった報告がなされてこなかったために、
Ⅰ
同遺跡の墓制そ
のものについて 体系的な研究を 行うに至っていないのが 現状であ る。 近年、 この遺跡の重要性を 再認
識するべく、 当時の調査資料をもとに 整理を行い、 より体系的に 広田遺跡をとらえるための
研究が進
められつつあ る。
本論では、 広田遺跡の墓制についてとりあ
容を明らかにするとともに、
げ、 埋葬形態・副葬品などから
同遺跡における 墓制の全
これまでの研究・ 報告の再検討を 行う。広田埋葬遺跡を 営んだ人々の 思
考や葬礼の痕跡の 分析をもとに、 世界観・霊魂 観 といった広田遺跡の 葬送観念を解明する 手がかりと
したい。
Ⅰ
尼三田ミ豊呂 亦の上世王室 白勺
鹿児島県熊毛郡南種子町広田に
。
雁ぷ引ョ 匂玉 員ょ箆
所在する太平洋岸の 小さな湾に面した 広田遺跡は、 海抜約 Gm の 砂
氏上に立地する。 現在、 この砂丘は崩壊が 進行しており、 雑木林や草地が 増えている。 遺跡の埋葬地
区北側には広田の 砂丘を囲む形で 広田川が太平洋に 注ぎ、南側には阿武 鋤川を有している。 水の豊富
なこの地帯は、 今日でも砂丘の 背後に湿田が 広がっており、 眼前に海を有していることから
魚介類も
豊富であ る。 現在の環境をみても、 古代より生活を 営むのに事欠かない 場所であ ったと推測される。
広田遺跡が所在する 南種子町には、 旧石器時代から 中世に至る多くの 遺跡が分布する。 種子島の島
内は縄文時代の 遺跡が最も多く 、 中でも縄文早期に 位置づけられる 遺跡が目立つ。 広田遺跡と同時
に 並行して存在すると 考えられる弥生∼古墳時代にかけての
ィ
・
ビ
遺跡には、 浜田鼠遺跡や松原遺跡、 本村
丸太遺跡などがあ げられるが、 いずれも規模が 小さく、時代的な検 ;引こ値する資料は 得られていない。
しかし、南種子町に隣接した 中種子町には、 時期的にも環境の 面においても 広田遺跡と大変類似した、
太平洋側の砂丘上に 営まれた埋葬
える上で広田遺跡とともに
跡 の 鳥 / 峯 遺跡が存在しており、
重要な遺跡となっている。
一
35
一
この地域における 古代墓制を考
IT
荷%
安己史
1) 調査の経緯と 概要
広田遺跡は、 1gRR 年の 22 号台風による 砂丘崩壊によってはじめて
発見された遺跡であ る。 この地
区に住む住人が 露出した人骨や 貝製品等を採集し、 それらの遺物を 盛園尚華氏に届け出たことが 調査
のきっかけとなった。 翌年の 1956 年、 盛園は現地で 再度、資料の採集を 行い、広田遺跡がこれまで
発見例のない 多くの具 製品を伴う遺跡であ ることを確認した。 発掘調査はその 翌年の 1957 ∼ 1959 年
の 3 年間にわたって 考古学・人類学・ 民俗学の分野から 国分直一・ 盛園尚孝
・
金関丈夫・永井昌 文
・
三島格 森 貞次郎・全開 怒 るの参加で実施され (以下、 1957 年調査を第 1 次調査とし、 1958 年を第 2
・
次調査、 1959 年を第 3 次調査と称す )、 南島の古代墓制研究において
多くの貴重な 資料を提供した。
調査内容については 国分直一により 報告された「種子島南種子町広田の 埋葬遺跡調査 概報 (以下概報
」
と
記す ) 及び当事の日誌 (2L。 以下、概報 に基づき調査概要を 簡単に記す。
第 1 調査では 第 f ∼第 3 トレンチを設定し、 埋葬 地 と生活比 の一部を調査した (3)。 この調査におい
て埋葬比の層位には 上
・
キ ・下の 3 つの文化 層 があ ることを把握しており、 この分層は後の 調査にも
適用されている。
1 次調査において 最も重点的な 調査が行われたのは 第 1 トレンチは埋葬 地 であ る。 上層では、 自然
礫やサンゴ塊で囲われた 7 群からなる 集骨が確認され、 この の 特徴的な埋葬方法として 注目された。
さらに中層においては 二次葬と 考えられる合葬 墓が 見いだされた。 下層における 埋葬は一次葬で 単葬
墓 であ ることから、 盛園 ・国分氏 はこの中層における 二次埋葬の出現は 注目すべき点であ ると指摘し
た(4)。 年代については 最下層の出土人骨が、 弥生時代中期のものと 考えられる土器を 共伴 していたこ
とから、 同遺跡の存在年代の 上限は弥生時代中期とされている。
2 次調査では、 埋葬遺構の究明を 中心にA
の @.レンチを設定し、 1 次調査の周辺を 拡大しなが
∼D
ら調査を行っている (5)。 この調査では 前年度に引き 続き A トレンチにおいて 上.層の集骨層の広がりが
確認された。 また下層埋葬についても 確認されたもののその 調査は翌年に 持ちこしとなっている。
最も重点的な 調査が行われた C トレンチについては 上
,
中 。 下すべての状況を 明らかにすることがで
き、 D トレンチについても 上層の集 骨層の状況を調査し、
これらの集合の 中に- 次葬の埋葬が、 一例
であ るが確認された。 この年の調査において 下層における 人骨の埋葬姿勢や 装身具などの 着装に男女
差があ ることが指摘されている。
そういった意味で 2 次調査は広田遺跡の 墓制研究を進める 上での基
礎が整った調査であ るといえよう。
第 2 次調査における 特記すべき事項は、 集骨層から出土した 貝 製品の中に「 山 」字形を彫刻した 貝
符 が発見されたことであ る。これについては、 今日に至るまで 文字か否かの 議論がなされてきた (9)0
第 3 次調査は、 より多角的に 調査を展開する 必要から双年度の 調査メンバ一に 加え、 人類学・先史
地理学・家畜解剖学分野からもメンバーを
揃え調査を進めた (7)。 また、 この調査においては 発掘調査
後、 広田周辺地域の 民俗学的調査もあ れせて行っている。
第 3 次調査は第 2 次調査によって 設定された A
と
∼D
トレンチの 内 、 発掘未着手であ った A トレンチ
n トレンチの 集骨層 より下部を最下層まで 掘り下げ、 また墓域の範囲確認を 行うべく西側に E トレ
ンチ、東側に F トレンチを設定した (8)。 この調査によって 広田遺跡の墓域は 南 柑こ 20m 、 東西は lom
以上あ ることが分かっている (9)。 下層埋葬の調査が 実施されたことで、 上層の二次埋葬と 違い下層は
一
36
一
原 埋葬が行われていることから
下層∼上層にかけて 葬制に変化が 見られることが 判明した。
3 次にわたる調査で、 遺跡周辺において 土器の散布は 確認されているが、 埋葬地 に対応する生活吐
は確認されないままであ
った。
また民俗調査の 実施で、 広田 跡の時代に存在したと 考えられる二次埋葬の 風習が、 現在の葬制に
もっながりが 認められるなどの 見解が出された
2) その後の研究
三次にわたる 調査を終えた 研究者の関心の 対象は広田埋葬遺跡の 文化の系譜に 集中した。
第 1 次調査の実施後、 国分・ 盛園両氏は概報の 中で、 広田遺跡について「最も 強く関心がそそられる
の ば 葬法であ る」とし、 そこで貝製品の「薬玉的形式」と
広田の埋葬の 中でもとりわけ「南島的二重
葬の形式」という 葬法上の特徴をあ げている。
概 報の中で述べられた 貝 製品の「 葬玉的形式」について、 金閣丈夫は下層から 上層に至る紋様と 埋葬
状態の変化に 注目し、 広田の墓制には、 中国揚子江以南の 文化に強くつながりが 求められることを 強
指摘している (10)。 また、 南島固有のものではなく
く
大陸の沿岸地域がそうであ
ったように広田遺跡
においても江南系の 文化潮流の影響を 受けているのではないかとしている。
「南島的二重葬の 形式」については、 高寿が現代でも 大島群島から 沖縄諸島にかけて 行われており、
洗骨の際に一部の 雑骨の焼却を 行うなどの民俗 側 に注目し、 国分は「広田の 弥生式時代の葬法は 南島
現行の葬法を 想起させる上に 多くの事例をそなえている」とした
なう墓制が南島葬法に
上で「九州に 存在する二次 葬 をとも
関連することは 疑いえないが、 その伝統を過去に 追跡すると広田の 二次葬 にゆ
き あ たる」と述べているⅠ 1)。 3 次にわたる調査を 終えた後、 広田遺跡の再 葬は ついて国分はさらに
「
大形の礫 右 によって囲んだ 石 囲いの中に再葬する 状況は、 上
集骨 群を囲む 再葬所が 2 カ所に並列して 設定されているところから
景 にあ ったのではないか」ということを
全開丈夫は「種子島広田遺跡の
のみに明らかにされた。 上層には
見て(中略)収公的な社会構造が 背
示唆した (12)0
文化」 (13)の中
で広田遺跡の 墓制について、 文化系譜全般を 視野
に入れた興味深い 見解を述べている。 今関は広田
遺跡から見いだされた
遺構・遺物を 下層・上層 そ
れそれについてそれらがどこの
文化に属するかを
示し (図 1にの中で二次埋葬の 風習は、 中国三国
時代初期の呉の 系統に属する 文化に由来するもの
⑤。
であ るだろうとした。
しかし、 ここまでに述べた 広田遺跡の二次埋葬
ほ ついての研究は 一次調査で発見された
囲 中のものを対象としたものがほとんどであ
7 群の石
図 1 広田遺跡文化系;
り、第 2 次調査・第 3 次調査において 確認された二次埋
葬については 詳しい内容は 発表されていないのが 現状であ る。
F サンゴ と 見一南島葬制覚書一山 (1めの中で、 三島格は広田遺跡の埋葬に 触れ、 埋葬を石でもって
覆 う覆 石の形式の違いについて、
鳥 / 峯遺跡において 見られる整然とした 覆 石基が、 広田遺跡には 見
られないことに 着目し (15)、 さらに南島古代の 墓においてサンゴが 多用されていることを
指摘した。
三島はここでサンゴを 墓のどの部位に 使用しているか 5 つのバターンをあ げている (16)
。 その内サン
一
37
一
ゴを 「屍体の周囲にめくらしたり 上部に積石状に 重ねて置く」、 集骨群 の 石 囲いや底荷に 使用」とい
「
広田遺跡に存在するとし、 この点においても 広田遺跡には 特有の墓制が 存在
することを明らかにした。 さらに永井昌 支は、 サンゴの使用について「南島の 古代人にとっては、 い
う
2 つの使用パターンが
折口の
説く常世へのあ こがれと、 彼等の心の底で 結びつくものがあ ったのではないか」と 述べた(17L
。 これ
っ の間にやら次第に 成長ずる
異の石であ ったはずで (中略)生きたサンゴは 他界の所属として
を受けて国分は 、 生きたサンゴを 海からあ げた背景は、 サンゴになんらかの 力 があ るとする思想が 存
在したのだろうとし (18)
、 考古学的見解のみならず
さらに、 サンゴ塊によって
被覆された男性の
民俗学的な位置づけを 行ったことが 評価される。
埋葬について、
その人骨の全関節に 関節炎を患った
形跡
が見られる事から、 障害を持った 者に対する特別の 思想があ ったことを示唆した (19)
。
下層から中層とされる 層位における 埋葬形態は、 ほぼすべてが 一次葬であ ったが、 中層に 1 例だけ
二次 葬 が行われたと 判断される埋葬が 確認されており、 これまで二次 葬 の 机現を中層としてきた。
かし、 中層と下層を
区分する基準は 主として冥府をはじめとする
という層位の 存在自体がやや
暖昧であ る。 このような状況から
の 初 現を中層に比定することはやや
し
貝製遺物の形態で 行っており、 中層
中層における 1 例のみの二次葬で、 そ
困難ではないかと 考えられ、 再検討の必要があ る。 また、 下層・
中層に見られる 一次葬の埋葬人骨の 頭位については「一定の
方位を示さない」のが
定説となっている
が 、 再度分析の余地があ ると考えられる。 これについては、 次章において 検討することにする。
下層埋葬に見られる
習俗の特徴は 前述の一次葬の
他に屈葬や抜歯、
貝 製装飾品の着用などがあ
げら
れる。 これらの特徴は 上層埋葬にも 受け継がれる 風習もあ る。 国分は下層埋葬について「埋葬姿勢に
おいても、 石をもって覆 う覆 ぃ方においても 男性と女性との 間には相違があ る」とし、 男性の屈葬姿
勢はゆるやかで、
ることを指摘した。 さらに鳥 / 峯 遺跡においては 広
触れ、 「埋葬の思想の 上で (鳥 / 峯 遺跡は) 広田とは相違
女性については 厳しい屈葬であ
田で確認されたような
男女差がなれことにも
するものを持っていたのかもしれない」という
調査に携わった
研究者の多くは、
見で一致したようであ
る
見解を示した (20)
。 また埋葬習俗の 男女差は ついて、
貝 製品を多くともなっている
女性が巫女的な 存在であ ったという意
(2lL
。 しかし、 これらは詳細な 分析がなされる 以前の見解であ り、 資料整理
がなされた段階での 検討が必要だろう。
これらの下層埋葬の 中に、 第 3 次調査において
ていると判断された 事例が確認されているが
i 体にのみ、 男性であ りながら女性的な 埋葬を行っ
(2力、 この 1 例の埋葬人骨について 金子エリカ氏が 最初
に「双性の 巫」という言葉をもってその 存在を指摘した。 国分はこれをうけて、 袋 中上人の虻琉球神
道記』の記述にあ る南島における「 双性の神人」についてふれ、 広田遺跡の埋葬に 見られた「 双牲の
巫 」の存在は世界的事例からみても 最も早い発見 側 であ ると述べている (23)
。 しかし、 この埋葬につ
いては、 今回資料整理を 進めていく中で、 その存在が本当に「 双性」とされるだけの 条件を持ってい
事が分かってきた。 このことについても 再検討を要すると 考える。
大量の具 製 装飾品については、 現在も分析が 進められている 状況であ るが、 同遺跡の貝製品の 傾向に
ついて木下尚子らによってその 傾向が明らかにされつつあ る (24)n
るのか疑問な 点が含まれる
以上が広田遺跡の
きた研究における
墓制についてなされてきた、
問題点は、
おおまかな研究の 内容であ
明らかにされてきたものの、 資
至っていないことにあ る。 本稿では現段階で 出来る
広田遺跡特有の 埋葬形態の存在っいては
料 整理がなされていなかったために
細かい分析に
限りの資料をもとに、
広田遺跡の埋葬形態について 検討してい <
一
38
る。 これまでになされて
一
の上
授の
一
OQ
一
l
骨を
広田遺跡の発掘調査より 現在に至るまで、 資料整理が遅れていたという
現状があ り、 現段階におい
検討が困難な 状況 @ あ る。 末項では、 当時の調査日誌、 図面、 また『九大
てすべての資料についての
こ
人骨集成口 (25)
の記録をもとに 埋葬状況についての 一覧表を作製した (表び 。 その際、 先にのべた理由
付
から一覧表のほぼすべての 項目を満たし 得ない資料については 今回分析の対象としていないことを
記しておく。
i 7 コ刊書。 申 7% 土塁議事の本命訃す
下層,中層に比定される埋葬は、 一般的に一次葬で 草芽墓であ る。種子島の東海岸に 位置し広田遺
跡 と立地条件を 同じくした、 鳥 / 峯遺跡において 確認されたような 整然とした 覆石墓は存在していな
い (26)
。 下層・中層で 発見された埋葬人骨の 個体数は 1 次から 3 次の調査を通して 62 体 あ ったことが
。 今回、下層,中層についての 一覧表を作製する 際に対象にする 事が出来た埋葬人骨
認められる (27)
0 個体数は 54 であ り、 全体の約 87% であ る。 男女の割合は 27 : 20 で、 さらに性別不明人骨が 7 株
有り、 そのうち 4 体は小児、 幼児骨 であ る。 以上の条件で 作製した一覧表をもとに (哀吟、 下層。中層
の 埋葬形態についての
1 一1
検討を進めていく。
頭位
・考古学的検証
広田遺跡下層に 見られる一次葬の 頭位については、 これまで「一定の 方位を示さない」とされてき
た。 鳥 / 峯 埋葬遺跡の例を 見てみると、 頭位はほぼ北西方向に 集中しており、 それから振れても 真北
と真西の間にすべてが 収まっている (28)0
ノヒ
それでは、 広田遺跡はどうであ ろうか。 下層・中層にお
ける一次葬を 対象として、 頭位が明確な 44 体、 全体の 81
九は ついて分析を 試みた。 それそれの一次葬を 示す埋葬 人
骨は ついての頭位が 8 方位のどの方位に 属するかは一覧表
に 示した通りであ
る
東
西
(表 )0 この表をもとに 頭位クラフを
Ⅰ
作製した (表 2) 。 表 2 のグラフを見ると、 頭位は 8 方位 す
べてに認められる。 確かに、 これまで言われてきたように
頭位は一定でないと 言うことは出来るだろう。
南
しかし、 頭
表2 広田遺跡下層埋葬の 頭位
位を北西にとっている 埋葬が最も多く、 さらに北西を 中心とした 北 ・酉に全体のほぼ 60% が集 申して
いることはグラフを 見ても明らかであ る。 先に述べた 鳥 / 峯遺跡の埋葬における 頭位は、 広田遺跡と
比較して 整一性が著しいと 言えるが、広田遺跡についても 鳥 / 峯 遺跡同様の傾向は 見られると言える。
また、 広田・ 鳥 / 筆画遺跡と同じく、 有蛾如こ営まれた埋葬遺跡として 知られる山口県の 土井ケ浜道
跡の埋葬状況を 頭位に着目して 見てみると、 頭位そのものはすべて 東南であ るが、 同遺跡の場合、 顔
位の多くは北西に 向けられていることもまた
興味深い事実であ
る
(29)n
広田遺跡の頭位について 傭撒 すると、 E 地区に確認される 埋葬のほとんどが 頭位を北にとっている
事 が注目される
(EII ト 1 号、 E Ⅳ 一 1
.
2 号、 EX
一
1
.
2
.
5 号 )。 いずれも中層に 比定され、 同
時期に埋葬した 可能性が考えられる。 同様に、 A 地区にも北西に 頭位をとった 埋葬の集中が 見られる
(A
一7
. 9 .
10
・
コ 、 D I 一 5 号 ) 。 いずれにしても
広町 跡は、 墓域を形成する 際になんらかの
方位に封 ずる感覚を持っており、 それを意識したことが 考えられよう。
一
40
一
。
民俗学的検証
日本には、 仏教が日本文化に 影響を及ぼす 以前より、 成文つまり北西の 方位を重んじる 風習が存在し
た。 F 日本文阜の民俗豊胸研究目の 中で三谷栄一は、 古代の方位感について 触れている。 三谷は、 大陸
の方位説 が日本列島にもたらされる
以前に、 それを受け入れるだけの 信仰的基盤の 存在があ ったとし
た。その信仰的基盤について、 夏季と冬季の 日の向かう方角のずれに 着目した三谷は、 「農耕の最も多
いときには、 北にからつ た 西に太陽の没する 季節でなければならない。 従って成文にしても、 元来西
と
考えられた来ていた 中で、 西よりや
ム
北にか ムつた 方角で、 その方角に特に 慎むべき神の 去来を考
えていた (後略 )」と述べている (30)。 さらに、 日本列島に秋から 冬にかけて吹く 北西の季節風を タマ
カゼ、 アイ / カゼと呼ぶことに注目した 柳田国男は、 それが霊魂の 去来方向を意味する 言葉と解釈し、
墓制と風位との 関係を示唆している 事も興味深い㏄ 1)。
種子島において 広田遺跡、 鳥 /
遺跡を形成した 古代の人々が、 前述したような 方位についての「 信
仰的基盤」を 持っていたかどうかは 明らかでない。 しかし、 両 遺跡における 頭位の傾向から、 自然界
の 気象現象に対して ; 何らかの意味を 見けだしていたと 考えられる。 少なくとも、 眼前に海を、 背後
に山を有す立地環境を 見ると、 自然界の諸現象を 畏怖 し 、 また崇拝するという「信仰的基盤」を
生み
たす条件を広田遺跡は 備えていると 言えるだろう。
王一 2
屈葬
今回、 広田遺跡に見られる 屈葬を 、 4 タイプに分類することを 試みた。 対象とした個体数は 一次葬で
屈葬を呈する 47 体であ る。A
屈葬の状況が 不明であ
∼D
の 4 タイプの分類基準は 次の通りであ る。なお、 発掘調査の際に 、
葬は ついては、 F タイプとする。
屈葬の分類纂 堆
図 2 四肢を極端に折り曲げた強度の屈摩臥 A タイア )
図 4 足を軽く曲げた
極めて伸展葬に 近い屈葬(C タイガ
図 3 上半身に対して足をほぼ直角に曲げた屈葬
@
D
たⅠ
翌タ
イ
異
ヰひ
ん
.@
類され
も分
@
右ノ
の
5
ど
図
B
@
タ
以上の分類基準をもとに、
下
・中層埋葬において 一次葬の埋葬についてのみ
屈葬のタイプを
一覧表
に示している (表 1)0
すべてのタイプを 通して、 A タイプは全体の 40% を 占
め 最も多く、 下層
・
D@ 9%
中層どちらの 埋葬姿勢においても
認められる (表 3)。 研究史の中で 述べたように、 これま
で A タイプに分類した 強度の屈葬は、
は 女性特有の埋葬姿勢とされてきた
白
40S
広田遺跡において
2)。
しかし、 女性
0 割合がねずかに 高いものの A タイブには 7 例の男性の
埋葬側 が認められる。 よって女性に 限って採用された 埋
葬 姿勢ではないと 言える。 また、 A タイブのすべての 埋
舞人骨が 、 何らかの 具製装飾品を伴っていることが
注目されると 同時に、 頭位にも バラ つきがみられ
ることが特徴としてあ げられる。
B
タイプは全体の
36% で、ほぼ男女ともに 平均して見られ、
多くは身体を 横に向けたひわりる
横臥
屈葬とも呼ばれる 埋葬姿勢であ る。 A タイプ と 同様に下層・ 中層どちらに 偏りもなくみられる。 この
タイプは 、 A タイブと同様、 すべての埋葬に 貝製装飾品が見られるわけではなく、
ない埋葬も見られる。 これは、 すべてのタイプを 通しても
田遺跡の墓制から 社会的な「階層」の 存在したか否かを
ロ
それらを全く 持た
タイブにしか 見られない特徴であ る。 広
考える場合、
この事実のもっ 意味合いは大き
いといえる。
伸展葬に極めて 近い C タイプは、 7 例の埋葬が確認されている。
4 つのタイプのうち C タイプが占め
る割合は全体の 15% でやや少ない。 C タイブに分類される A
7 号人骨は、 埋葬の両端にサンゴ 塊
一
による石 囲いがなされていた。 このような例は 下層・中層には 珍しい。
D タイプは D Ⅲ 一 2 号人骨の 1 例のみであ る (図 5) 。 い わゆる「双性 の 巫 」と称された 埋葬であ る。
これまでの研究で「女性的な
強度の屈葬」とされてきたが、
した A タイブとは明らかに 異なる。図 5 を見て分かるよ
この埋葬を「女性的」とすることが
出来るか否かは、
う
この埋葬に見られる 埋葬姿勢は先に
に、両足を折り曲げ 足首を交差させている。
その他の条件についても
検討が必要であ ると 考
える。 以上が、 屈葬のタイプ 別に分類した 場合の所見であ る。
1 一3
二次葬の出現
下層・中層を 通して、 明らかに二次 葬 とされる 埋
葬は中層埋葬の N l 舌人骨群であ る。 その他に下層
埋葬 C
一
l0 号人骨と中層埋葬 D 1
一3
号人骨が二次
葬の可能性が 当時の調査記録に 示唆されている。 記
録 によると、 C
一 l0
号については 頭蓋骨が破片で 採
取 されており、 この人骨を焼いたものではないかと
されている。 しかし、 図面からこれらの 状況を読み
とることが困難であ り、 二次葬であ ると断言できる
資料としては 不十分であ る。
中層埋葬の D T
号 人骨については、 同層位の n T
一 4a
一
3
人骨の頭部
一
42
ダ
図6
一
分類
D1
一
3.4 号人骨埋葬状況
側に接した形で 配置されている
D 1
一 4a
(図 6) 。 この埋葬状況を 見ると、 D1 一 3 号人骨が埋葬されたのち、
人骨の埋葬に 際して埋葬場所の 確保のため、 先に埋められた 3 号人骨を寄せ 集めたのでは
ないかと考えられる。 以上のことから、 これは何らかの 儀礼的な意味合いを 含む積極的二次葬ではな
く
、 偶然的になされたものと
解釈するのが 適当ではないだろうか。
N I 号 人骨群 に見られる埋葬についてはどうであ
ろ うか 。 N l 号人骨群は、 男性 1 体 ・女性 1
, 小児
1 体の 3 体からなる合葬 墓 であ る。 兵曹骨を並べそ
の上に頭蓋骨を 配置しており、 腕に貝輪が着装され
た 状態の骨が確認できる
(図 7) 。 小児肯は ついて
は他 2 体の埋葬の直下より 検出され、 ヤコウ 貝製の
容器に紋様の 施された オ ニ %
られていた (33)0 D 1
一3
シ製貝輪とともに
収め
号人骨と明らかに 異なる
のは、 3 体の全身の人骨が 揃っているわけではない
点であ る。 これは、 一度埋葬した 遺体になんらかの
処理を行った 結果と考えられるだろう。 また、 出土
図 7 N1 音人骨群
状況から見て、 3 林分の埋葬は 同時に行ったことが 窺える。 これらの事実を 総合すると、 Nl 号人骨
群は ついては、 明らかに二次葬の 要素を持った 埋葬と言えるだろう。
この
3 体の同時埋葬による 合葬
側に ついて問題となるのは、 その波詩音相互の関係性であ る。 同一幕坑に 男性・女性・ 小児という 組
み 合わせを単純に 考えると、 他所者ではなく 夫婦を含む血縁者という 相定 もできる。
先の研究史の 中で述べたが、 広田遺跡における 二次葬の出現は 中層とされてきた。 確かに、 N l 号
人骨群は二次的処置を 行った埋葬だと 言えるだろう。 しかし、 確認された二次 葬 がこの 1 例であ ると
すれば、 この埋葬が儀礼的意味合いを
持った二次 葬と 捉えることが 出来るかどうか、 また上層で確認
された二次 葬 との直接的な 関連牲の有無については、 検討の余地があ る。これについては、 次節の「 2)
上層埋葬の検討」において、
1 一4
その比較を試みたい。
合葬 墓
合葬墓はついては中層において、
2 例の合葬 墓が認められる。 1 例は、 前述した二次 葬と 考えられ
る N I 号 人骨群 であ る。 もう 1 例は、 男女 1 体 ずつ頭位を逆にし、 両方から向き 合わせて組み 合わせ
た様相を呈する N2 号人骨であ る。 この埋葬の北側には、 7 個のサンゴ塊を 配し、 さらに両人骨の 頭
都側には丸みを 帯びたサンゴ 塊を配している。
埋葬状況から、 東側の女性人骨は 一次葬であ
と
る
考えられるが、 西側の男性人骨については 不
明 であ る。 それぞれの 年 は 熟年の男性と 成年
の女性であ る。 図 8 の埋葬状況を 見ると西側の
男性を埋葬した 後、 東側に女性を 追葬したとい
ぅ可肯封生も考えられるだろう 0 また、 性別を異
にするこの二体の 被評者の関係は N
と
Ⅰ
号 人骨群
同じく年齢から 考えても婚姻関係にあ る者同
土の埋葬であ る可能性が考えられる。
図 8 合葬墓 (N2 号人骨群)
一
43
一
考えるとき、 前述の 2 例はその数少ない 貴重な資料であ る。下層
と中層の一次葬から、 上層で二次葬の 合葬墓が一般化するまでのプロセスの 中で、この 2 例の埋葬は、
下層から上層への 埋葬形態の移行を
る。 N1 . 2 号人骨群 より出土した 貝製装飾品で、
過渡的な要素を 持ったものであ ることは確かであ
貝符は、 その紋様構成や 形状を見ると、 上層へのつながりよりも、 むしろ
強く感じる。 中層における、 新しい埋葬形態は、 あ る意図を持って 導入されたと
とりわけその 変化が顕著な
下層とのつながりを
いうよりも、 むしろ下層の 一次葬を基盤として 偶発的に生まれたものと 解釈できないだろうか。
合葬 墓は、 二次葬 とともに中層を 初硯とする埋葬形態であ ることは明らかであ る。 しかし、 これら
の資料が上層における 合葬 墓 にどの程度影響を 及ぼすものであ ったかは、 この 2 例のみからの 検討は
難しいと言えよう。
1
一
5
遺物に見る男女差
広田遺跡において、 埋葬地 より検出した 遺物の多くは 貝製 装飾品であ る。 数例の副葬品を 持たない
埋葬が見られるが 全体の約 90% がなんらかの 具製 副葬品を持っている。 広田と同じような 砂丘上に営
まれた、 土井ケ浜埋葬遺跡の 副葬品保有率の 割合が 30% であ ることを考えると、 広田遺跡における 副
葬品保有率は 高いといえる (34)0
主な貝製装飾品には、 下 。 中層を通して 貝輪 (オオ ツタ / ハ 製、 ゴホウラ製 、 オ ニ % シ製があ る ) 。
貝符 龍楓型貝 製品・ 貝製 小玉などがあ げられる。 これらの遺物は 下
・
と 中層では若干の 変化が見ら
れる。下層埋葬にともなう 貝輪は、 主としてオオ ツタ / ハ製が中心であ り、 中層になると ゴ ホウラ製
の 貝輪が多く見られるようになる
(35)
。 また、 貝符は ついては図 9 に示したように 形状と紋様構成に
変化がみられる。
一
""
鍵
コ
"
下層クイ ブ
『
"""
中層タイプ
下層から中唐
@ の 過渡的なタイプ
下層・中層埋葬に 伴って出土する 貝 符の多くは、 2
崩 していた可能ャ生も考えられ、
∼ 4 個の穿孔があ る。 この事実から、 生前より 凧
明器的な要素よりむしろ、 実用品としての 要素も兼ね備えた 呪術的な
副葬品であ ると言える。 これらの遺物の 副葬をめぐる 男女差 は ついては、 これまでの研究を 辿ってみ
ると、 発掘当時の印象で 語られてきたことを 感じる。 ここでは、 副葬品の男女差 は ついての事実確認
をする ヒ ともに再検討を 試みる。
一
44
一
発掘調査の実施後、 調査に損ねった 研究者の一致した 見解は、 貝符 ・貝輪といった 副葬品の多くは、
主として女性に 伴うものであ るというものであ った。 双性 の 巫 」の存在も、 そうした男女差を 前提と
「
している。 しかし、 貝輪の男女保有率を 見てみると男性 @ 56% 、 女性においては 95% が副葬品に 貝
(表 4)。 さらに、 女性特有の
輪を伴っていることがわかる
物であ るとされてきた 貝符はついて統計
をとってみると、 その保有率は 女性 52% 、 男性 44% という結果が 出た (表 5)0
グラフを見ても 分かるように、 貝輪は、 ほぼ 1 : 2 の比率で女性が 保有する割合が 高い。貝符につ
いては傾向として 女性に多く見られると 言うことはできるものの、 男性についても 決して少なくな い
割合で認められるものであ
ることがわかる。 これらのデータを 見る限り、 貝符はついてはこれで 言わ
れてきたほどの 男女差は存在しないことがいえる。
貝按屈 し
凡打ぬ
頁甘
し
臆し
貝柱有り
5@
貝輪保有率
(女 )
見神保有 串 (女 )
貝輪保有率
(男 )
呉竹保有率 (笑 )
表5 丁・中層男女別貝符保有率
表 4 男女別貝輪保有率
上層埋葬の検討
2 )
上層埋葬にみられる 主な埋葬形態は 二次葬であ る。 今回分析の対象とした 埋葬側 は 23 例で、 それ
ぞれの埋葬について 分かる限りの 情報をまとめたものがこの
これらの埋葬のほとんどは
いう正確なデータがすべての
節の終わりに 記した表 6 の一覧表であ る。
合葬墓であ るが、 性別不明の人骨もあ
り、
一 埋葬に何
体 が合葬されたかと
埋葬について 把握し得ない 状況にあ る。 ここでは上層埋葬の 一般的な 埋
菱形態であ るJ 次葬はついて、 その特徴と中層で 検出されている 二次 葬 との比較分析を 試みたい。
2
一
1
腕骨を伴う _ 次葬と
㍉一
図 10 第4 人骨群
図 Ⅱ第
一
45
一
5
人骨群
一次調査において、 確認された二次 葬遺構は 7 群におよぶ。 1 ∼ 7 群の二次 葬遺構は、 長菅畳と頭
蓋骨を主体としている 様子がうかがえるが、 あ る程度の形をとどめた 頭蓋骨を持った 埋葬は、 7 群の
うち 3 群であ との 4 群については 頭蓋骨が認められないものもあ
る。 また、 これらの人骨の 配置につ
いては、 長管骨を意識的に「並べる」 か 「集める」という 形態をとっている。 第 4 人骨群と 第 5 人骨
群は ついては、 その傾向が最も 顕著であ る (図 10.11)0
7 群の埋葬遺構を 傭撤すると、 あ る程度の区画制があ ることが認められる。 区画には砂岩やサンゴ
塊を用いており、 明らかに区画の 範囲内に埋葬することを
意識したことが 考えられるだろう。 このよ
うな石、 もしくはサンゴ 塊で囲いを設けた 埋
葬施設は、 下層・中層を 通しては A
臣
こ,
" ミ軒 "" 。 "-
一7
号火
骨 (図 12) 、 DI Ⅱ 号 人骨の 2 例しか確認され
ていない (36)。 しかし、 図 12 を見て分かる
ように、 A
一
7 号人骨の南西側に 3 個、 南東
側に 1 個の石を配しているだけで、
これを 石
囲いと解釈できるかは 疑問が残る所であ る。
7 群の区画は、 一例を除いて 長軸は北西
一
南東をとっている。 この事実は、 下 ・中層に
おける頭位と 直接的なっながりがないにして
も、 北西を意識した 同遺跡の方位感を 考える
図 12
ザノコ
上 で、 大変興味深い 事実であ ると言える。
・を区画に用いた
埋葬施設 (A 一7 号人骨 )
これら 7 群の埋葬施設において、 その舞骨下 には 20cm ∼ 30cm の厚さで 焼骨 が検出されており、 埋
葬遺構から出土した 貝 製品の中にも 焼け跡の残ったものが
見られる。 この腕骨 層はついては一次調査
の概報の中で 国分,盛園両氏が「 (前略) 集骨暗主として頭骨、 長管骨を集めたのち、 他の部分或いは
部位不明になった 多数の小片を 焼いたものではなかろうか」という
見解を述べている。 この推定の根
拠 ヒ なったものは、 国分氏が熊本県天草の 埋葬習俗を民俗調査した
際に知り得た「 骨よせ」の風習や、
芳賀日出男氏が 報告した大島郡宇検村田 検墓地の、 洗骨に際して 雑骨を焼くという 風習に基づくもの
であ った (37)。
しかし、 二次調査・三次調査で 上層に比定された 二次葬 遺構からは 焼 骨を伴った二次葬は 確認され
ていない。 また、 区画と言えるような 石 囲いについても、 一次調査の 7 群の埋葬にみられるような 整
黙 さは認められない。 しかし、 1 トレンチ
南端 集 骨 や D T 区第 集骨、 DnI 区第
Ⅰ
Ⅰ
集 骨などには 石 囲いはないものの、 埋葬す
る範囲は集 骨 ごとに限定されているように
も解釈できる。
上層に比定されている「 焼骨を伴った二
次葬 」と、 それ以外の「美育」が 時代的に
前後するかどうかについては、
遺物から H;u
足 する以外に方法がないのが 現状であ る。
木下尚子分類に 基づいて、 上層埋葬につ
貝符の分類 (木下尚子良分類)
一
46
一
いて現段階で 言えることは、 7 群の人骨群の 時代的前後関係であ る。 各 群の埋葬に伴出した 貝 符は第
7 集骨 群から第 1 集骨群 に向かって単純化していく 様子がうかがえる (図 13)。 木下分類を踏襲すれば、
7 群の集骨は第 7 集骨群 が最も古く、 第 1 集骨群 に向かって新しくなるということが
考えられる (38)0
7 群以外の集 骨 遺構については、 推測の域を出ないが、 貝 符や貝輪の型式から 見て、 焼骨を伴った
7 群の二次 葬と時代的に並行して 存在した可能性も 考えられる。 しかし、 なぜこのような 埋葬形態の
差が 、 同じ墓域の中に 存在したかは 疑問が残るところであ
2
一2
る。
具 製遺物の出土状態
上層埋葬に伴 う貝製品の主な遺物は 貝 符 ・貝輪であ る。 貝符はついては、 下 ・中層で見られたタイ
プとは違い、 耐用を可能にする 穿孔が見られない。 7 群の埋葬については、 貝符が彫刻を表にして 人
骨 に接するか、 または骨上に置かれる 形で配されているという 特徴が見られる。 また、 7 群以外の埋
葬に伴う 貝符は、 全体に撒かれたような 状況がうかがえる。 これらの状況から、 上層埋葬における 貝
符の使用は装飾のための
副葬品というより、 むしろ貝符が明器的な要素を 持ったことの 現れと言える。
貝輪の出土状況で 注目されるのは、 長菅畳 に 貝輪を着装した 状態が見られることであ
しかし、 本来ならば 下 腕に通されるはずであ
る。
る貝輪が 、 脚や上腕骨に 通されているものがあ
り
(第
3 人骨群、 第 7 人骨群など )、 この状況を考えると、 なんらかの二次的処置を 施した後に着装したと 考
えられるだろう。 上層埋葬における 特徴は、 貝符 ,貝輪の出土状況からみても、埋葬形態からみても
一連の「葬送儀礼」としての
2 一3
埋葬を行ったということが
想定できる。
単葬
上層では合葬 墓が一般的であ るが、 D
一
1 5 号人骨の一例だけ 半寿 墓が見られる。 伴 出した貝 符は
明らかに上層タイプに 分類されるものであ るため、 層位的に上層であ ることには間違いない。 出土状
況から見る限り、 背骨・下肢骨が 解体しておらず、 二次葬ではなく 一次葬であ った可能性が 強い。 し
かし、上層において 他にこのような 例はなく、 また特別な遺物を 伴っているわけでもないため、
1 5 号人骨だけが、 なぜ単体で行ねれたかについての
積極的な発言をするには、
D
一
この資料のみでは 充
分でないと言えよう。
2
一4
中層二次 葬と 上層二次葬の 比較
先述の「Ⅲ 1 下 ・中層埋葬の 検討」の中で、 中層において 二次 葬 が認められることを 明らかにした。
」
上層と中層の 二次葬の明らかな 違いの一 つは、 中層においては 腕骨を伴わないことであ る。 また 石
囲いについても、 中層の N I 号 人骨盤には、 数個の配右が認められるが、 埋葬を区画する 目的を持っ
たものではないと 判断される。 中層ニ次葬では 被葬首相互の関係 牲 をたどれるものであ るのに対し、
上層二次 葬は、 個体数・性別がはっきりしないほど
一時的処置の 段階での人骨の 粉砕・分散が 見られ
その関係性をたどり 得ない。 しかし、骨の配列に着目すると、 長竜骨と頭骨を 主にしていることから、
その点での共通性は 指摘できる。
また、 貝符はついて見てみると、 中層の N l 号人骨に
伴 出した貝 符の紋様は明らかに、 下層の流れをくむもの
であ る (図 14)。 しかし、 穿孔が無くなるなどの 形態の
変化からみれば、 装飾品としての 要素から明器としての
要素への移行段階を 想定できよう。
これらの事実を 総合して、 一例の中層二次 葬と上層二
一
47
一
図 14 N
「吾人骨伴 出貝符
次葬の関連性を 考えると、 上 で 一般的となる 二次葬 に先駆けた前段階が 、 中 二次葬であ るという
可能性が考えられる。
しかし、 二次葬の検討を 行う際、 二次葬以前の一時的 処 方法の違いは 重要で
あ り、その点に着目すれば、 「骨を焼く という行為の 痕跡が認められる 上層と、 その痕跡が見られな
ゴ
い 中層の差は大きいと 言える。 よって、 中層二次 葬は、 下層,中層に 一般的な一次葬から 派生した一
つの形態であ り、 上層二次葬は 下層・中層から 部分的な影響は
を取り入れた、 独立した埋葬形態をであ
ぅ
けつつも、 より埋葬に儀礼的な 要素
ると言える。
形状
符
円
あ
り貝輪
一石
状
4 . 貝輪
囲、
が
_ 本 並べたよ
き l0
岩礫
人骨の配置
"剃って連続
男l
女
l
にサンゴ礫
この
こ 人骨が配きれ
画 的で四肢骨を
2列に並べ
長
その
Ⅰ
成人
少なくとも
貝符
Ⅰ
ぁ好製 貝輪
4 件 分 はあ
2
@な
表 6 上層埋葬状況一覧表
一
48
一
る
Ⅳ
まとめ
:
提起された問題と 残された課題
これまでの広田遺跡研究における
語られてきたことにあ
問題点は、 詳細な分析がなされる 以前に、 発掘調査当時の 印象で
る。 今回、 既存の研究を 再検討することを 目的として、 埋葬形態の類型を 中心
に分析をすすめた。 この章では、 今回の分析で 明らかになった 事実によって 提起された、 いくつかの
問題点と残された 課題について 論を進める。
広田遺跡における「 双牲の 巫」の存在は、 これまでの研究の 大きな位置を 占めるものであ った。 そ
の存在の根拠となったのは、
埋葬における 男女差であ る。 しかし今回、 屈葬や貝 製装飾品の男女保有
率などについて、 これまで指摘されてきたような
実を踏まえて、
「
男女差が存在しないことが 明らかになった。 この事
双性の 巫」の存在については 原点にかえって 再度検討を要する 問題となったと 言える。
今回の分析によって、 広田遺跡の埋葬形態には、 一次葬や二次 葬 、 単葬墓や合葬 墓 、 埋葬姿勢などは、
いくつかの特定の 型に集中する 在り方が見られることが 分かった。 これらは性や 年齢、 階層とは別個
のなんらかの 意味を持つ規則牲の 存在を窺わせるものであ
る。 これらの規則牲を 解明することで、 広
田遺跡における 墓域がどのような 集団から形成されたものであ
るかが明らかになると 言えるだろう。
また、 広田遺跡のような 砂丘上に立地する 遺跡は、 層位的な検証が 困難であ るため、 時代的な前後
関係を知る手がかりとして、
遺物に頼らざるを 得ない。 比較的その変化を 辿り得る貝輪・ 買持といっ
た 貝製装飾品の編年体系の 確立が待たれるところであ
る。
広田遺跡の墓制は、 九州本土と南西諸島との 交流のもとに 形成されたものであ ることは疑い 得ない。
その両者の間で、 いずれの文化系譜にも 属さない広田独自の 埋葬形態を確立し、 またその伝統性を 保
持したことが、 今回の分析によって 僅かながら見えてきた。
しかし筆者の 力不足から、 分析において
いくらかの 荒 削りな部分が 残されていることは 否めない。 今後、 資料整理を進めていく 段階でのさら
なる詳細な分析は 不可欠であ る。
最後に、 本稿をまとめるにあ たって、 全開丈夫、 国分直一両氏をはじめとする
先学による葬送に 係
わる一連の労作と、 貝 製品の分類をめぐる 木下尚子氏の 研究に多くの 示唆を得ることが 出来たことに
感謝の意を表したい。 天理大学在学中、 約 3 年間にわたって 広田遺跡の資料整理に 携わる機会を 得た
ことで、 多くの新しい 認識を得るきっかけとなったと
同時に、 本稿執筆の出発点となった。
この機会
を 与えてくださった 諸先生方に感謝する。
菜
圭 -一 %範
(1)国分直一・ 盛園 両拳「種子島南種子町広田の埋葬 跡調査概報 」『考古学雑誌
山
4 一 8 、 1957 (以降「概報 」とする)
(2) 当時の日誌については、 調査に携わった 諸氏の記録ノートを参照した。盛園尚孝、 国分直一、 重久七郎、金
閨怨るの日誌がそれにあ たる。
(3) 第 1 トレンチについては地表から 3.75m 程掘り下げた付近が 貝層であ ることが確認されただけで、崩壊のた
め調査は断俳されている。第 3 トレンチについては、東側の崩壊面に 1x4.5m のトレンチを設定し調査を実施
した。広田遺跡では、 墓地をいとなんだと 考えられる人々の住居を含んだ 生活吐 にあたるような遺構は検出さ
れていない。 しかし、一次調査において検出された、 貝や魚類、 獣育 といった遺物を含んだ包含層は生活の痕
跡を思わせるものであ ったため、概報 においては「生活吐 」と記載されている。
一
49
一
(め前掲 (1比 同じ
(5) 1 次調査の際に設定された第 t トレンチに沿った南側に、 山際に向かつて 4.4mX5.72m の梯型のA トレンチ
を設定した。また第 1 トレンチの 側に砂丘双縁に平行な 4.OmXl2.0m
の B トレンチと、A 、 B トレンチに
メヒ
結んだ形で C トレンチを設定した。これら全てのトレンチの長さを合わせると 27.5m となる。また前年度の調
乱された痕跡が認められたが、 その部分も含めd トレン
査後、第一トレンチの 東側は一部遺物の盗難を受け
チを設定している。 (前掲の概 報による)
(6) 令閨丈夫「種子島広田遺跡の 文化」rFUKUoKA
UNESCOJt 3 1966
「種子島広田遺跡の文化」 発掘から推理する 曲にも同じ。
田
金閣 は、 これらの論稿の中で、広田遺跡出土の山字を施したと 考えられている貝符は ついて詳しくふれている。
実物を神田喜一郎博士が鑑定し、後漢末の隷 であ るという意見を得たとし、 山」という字であると断定して
「
いる。 また、文字であ るとすれば 日本最古の文字であ ると指摘されたが、この貝符 が発見された上層は最近の
研究で当時考えられていた 弥生時代後期よりも時代的に T るという見解が示されている。
(7) 3 次調査は 1959 年度の文部省科学研究助成金を 受けた総合調査の一環として行われた
(8) E トレンチは l 0 x3m 、 F トレンチは4x 2 田を設定。 (前掲の概報 による )
(9) 東側は、台風によって 砂丘が崩壊しているので、 l Om 以上あ ったと考えられる。
(10) 前掲(6)に同じ
はけ国分直一「日本及びわが 南島における葬制上の諸問題」 現代のエスプリ』Nomll
ヴ
主文堂
(12) 国分直一「先史古代人をめくる 問題 九州車 シナ地域」より ョ旧
㏄㊤ 前掲(6Hに同じ
(14) 三島格
「サンゴと貝一南島葬制覚書 一
」
ア
南島考古』 N05
1977.12
(15) このことを最初に指摘したのは、 国分直- が 南島先史時代の研究コの 「習俗 (3) 再葬の処置を行ってい
ァ
ない埋葬」の項においてであ る。
墓
石
積
V
用
使
石
底
や
囲
石
の
@Ⅰ
子
尹伯
巳月
集
お
ねて
重
状
石
積
た
ら
捧
Ⅰ
め
囲
部
上
(1③ 三島格 が示した 5 つのパターンは次の通り。 1 : 石棺の屍床 に敷く l1:覆石基の 覆石上又は擾百中に置く
ネ土
8
平
編
員
ムム
委
念、ロ,
補記
金閣
古
土
専
|
夫
丈
文
方
南
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日
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﹂
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墓
石
覆
島
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究
﹄
学
族
民
丁
工
222
﹂
鋤機
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昔
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890
1
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文
日日
水月
夫
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佐
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2
分
国
も
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明館
タ
ン
セ
料
資
史
歴
旧ホ
自色町
鹿
(児
る
同
は様の見解をし
北汀
古墳
小生
3
(2の木下尚子 南島貝文化の研究 一 貝の道の考古学一J11996法政大学出@局において広田出土の 貝型について画
仁
期 的な分類を行っている
(25)永井昌 文 「九州大学医学部解剖学第二講座所蔵古人骨資料集成」 日本民族・文化の 生成 2
ぽ
一
50
一
日
永井昌史古稀記俳論文集
(26) 三島格ア南島考古学一南島・ 大和および華南・台湾一口第一書房 1989
(27) この個体数は、現段階で確実に 存在すると考えられるものである。 しかし、資料についてはすべての情報に
おいて充分ではなく、今回の 一
表作製においては埋葬状況についての情報が不十分なものについては、 とり
あ げていない。よって、 一覧表作製の対象となった埋葬人骨個体数は 本文に示した通りである。
(28) 種子町教育委員会・鳥 / 峯遺跡発掘調査団編 「種子島島/ 峰遺跡」
中種子町埋蔵文化財調査報告書 (2)
(29) 土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム 編
1996
Ⅱ土井ケ浜遺跡と弥生人』 1993
(30) 三谷栄一 日本文睾の民族学的研究』 1960
は
(31) 柳田国男 増補風位 考 資料四明 世堂p61
1932 において、柳田は墓制と 風の関係牲を示唆している。
ァ
白2) 前掲(21),(22)に同じ。 また、国分はぽえとのす 第 10
臼
号 197R
「広田正人の貝飾 」でも同じ見解を示して
いる。
(3力 前掲(1)に同じ
(34) 前掲(32)に同じ
㏄5) 木下尚子氏の御教示による
(36) D
Ⅲ
一
1 号人骨については 1959 調査当時の三島格 による日誌 7/30 の記載を参照した。
(37) 前掲(1)、 または前掲(21)においてさらに詳しく両葬制と第二次葬の関係についての民俗調査や報告をもとに
述べている。
(38) 木下尚子氏の御教示による。
参考 :丈 南人。参舌等度@書
斎藤忠、 r 東アジア葬 ・墓制の研究』第一書房 1987
金閣 恕 「種子島広田 跡 の 貝札 とその問題」『日本考古学大会資料』1982
木下尚子「呉竹」1?h桂 文化の研究
「
木下尚子「南海産貝輪交易 者
」
ァ
コ
雄山 閣 1987
横山浩一先生退官記念論文集ま
森 貞次郎「埋葬 と 社会」 考古学講座ょ四 「原始文化」上 1969
ぽ
三島格ァ貝をめくる考古学 畢生社 1977
刀
乗 安和二姉「西日本における 弥生人の埋葬姿勢一土井 ケ 浜遺跡出土人骨の 上肢型を中心として」
潮見 浩先生退官記念事業会編 考古論集団1993
ァ
国分直一「種子島広田遺勒;の文化をめくる問題 一 特に木村政昭教授の新知見との 関連において」
日南島考古』1992.11
ヒ
。 - 汁・メト -ブリチサ
ヵ
ド・ハンティ
げ著
池上皮正/池上富美子訳
尹
死の儀礼一葬送習俗の 人類学的研究一 』
[第 2 版 ) 未来社 1996
大林太良日葬制の起源凹角川新書 1965
酒井卯作 琉球列島における 死霊祭祀の構造 第一書房 1987
ァ
刀
大阪弥生博物館デサンゴ 礁をねたる碧の 風 一 南西諸島の中の 弥生文化 一
鹿児島県歴史資料センター 黎明館 『南九州の墳墓一 弥生,古墳時代 一 』
一
51
一
』
1994