Page 1 Page 2 一、本書は叡山文庫蔵、異本義経記を底本として、略注

異
異 本義 經 記
本
義
經
記
一七三
凡
例
一七四
一、 本 書 は叡 山 文 庫 藏 、 異 本 義 經 記 を底 本 と し て、 略 注 を施 し、 章 段 を設 け て、 義 經 傳 読 の研 究 に
資 せ んと す る も ので あ る。
一、 底 本 の片 假 名 を 夲 假 名 に改 め、 且 つ假 名 遣 の不 備 を補 ひ、 松 井 文 庫 舊 藏本 を 以 て誤 蛻 を 正 し、
又 漢 字 の誤 り を 訂 正 し て、 研 究 者 の便 に供 し、本 文 に句 讀 點 、 濁 點 を付 し て讀 解 に便 な ら しめ
た。
一、 本 文 中 の注 と認 む べき も の は 二字 さ げ て組 み、 本 文 と の別 を 明 確 に し たが 、 注 の成 立 時 は不 明
で あ る。
一、 本 書 の出 版 に つ いて は、 叡 山文 庫 の御 配 慮 を深 く 感謝 す る次 第 で あ る。
昭 和 四 十 五 年 九月 十 一日
卷
上
義朝子女
・
・
異本義 經 記目次
義經生立 .鞍馬入
聖門坊
、
遮 那 王貴 船 詣
,・ ・
、
,
'
橘 次 季 春 .深 栖 陸 助 重 頼
遮 那 王 海 道卞
遮那 王奥 州 下 着
鬼 一法 眼 .義 經 上洛
湛海被斬 、
經
記
増尾十郎權頭秉房
武藏 坊 護
義
重 善
常 陸 房 海 尊
本
鈴 木
異
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・
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洲七 五
一七九
一八〇
一益
一八 一
一八 二
一八 二
一
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八七
一
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八七
一九 〇
六
九 五
一九 四
充 四
晶
齟・ °一 九
卷
備前夲四郎 -
鷲 尾 三 郎 b源 八 廣 綱 心江 田 源 三 ・熊井 太 郎 ・駿 河次 郎
二〇 〇
lo o
一九 八
、
鎌 田兵 衞 娘 牛 王
二〇 三
一七六
關 原 與 一 ・牛 王 最 後
二〇五
二〇 四
鹽
二〇七
土佐房被斬
義 經鎌倉下 向
一
二 九
三 ・
六
一
二四
・
二〇八
義經都落
一
ご一
三
三 〇
靜 鎌倉下向
二二五
,
義經奥州下向
義經夲家追討
義 經 大 嘗 會前 驅
屋嶋合戰
壇浦合戰 義 經景時不和
梶原景茂靜無禮
二二六
下
義經多武峯 入
-
,
山 口太郎家任
南都勸修坊得業聖 弘
佐藤忠信討 死
堀彌太郎 景光 生捕
義經小舍人童五郎丸
守 覺法親 王述懐
常盤糺問
禪林房覺 日糺問.
二三 七
二三 六
二三五
一
一
三五
二三四
二三〇
二二九
二二七
義經室家仕女物語
義經討死
鈴木重家
二四三
二四 二
二四 二
二四〇
二三九
義經奥州下向
二四四
、
頼朝奥州征伐
二四七
景時家 人河津小 五郎
秀衡死去
二五〇
二四八
,
一七七
忠衡討死
義經首 葬
異 本義 經 記
建仁 二年蹊謀
常陸國流誅
異本義 經記 巻 上
(
義朝子女)
(一)
(二 )
左 馬 頭 義 朝 の息 男 以 上 十 人 の内 、 八 田 筑前 守 は出 生 の時 、宇 都 宮 左 衞 門 尉 知 綱 が 子 にし て、
蘿 三 署 兵種 覇
(
障謬 郎響 司蕎 早世・ 五男土佐響 司嚢 治承
義 朝 の子 の内 へは入 れ ず、 姓 も藤 原 と改 む。 義 朝 の嫡 子 、 惡 源太 義 夲夲治 二年誅、 二男中 宮 大
夫覇 長 靄
原 源 氏 と有 。
一七九
八 田 四郎 藤 原 知 家 。 七代 の後 常 陸 介 正 三位 左 中 將 治 久 代 、 尊 氏 上 洛 之 時 、 同 時 昇 殿 、 改 藤
治 元 年 二月 十 三 日卒 、 七十 五歳 。 法 名 尊 念 、 號 極 樂 寺 云去。 或 云 、 爲 八 田 權 守 宗 綱 子 、 故 號
門知綱 瓢羈 守 養育之爲子。頼朝執權之時、多誅源氏族之問、恐其權威、子孫稱藤原。康
熱 田 大宮 司 秀 範 の娘 の腹 の息 女 、 後 藤 兵 衞 實 基養 君 に し て育 て、 左馬 頭 良 保 朝 臣 の妻 室 是 也 。
(六)
鎌 田兵 衞方 に て育 て給 ふ息 女 、 李 治 の亂 の時 、 義 朝 の命 に依 て、 政 家 指 殺 し た る ぞ。 美 濃 國 青
(七)
墓 の長 者大 炊 が娘 延 壽 女 が腹 の息 女 は、 同 亂 の時 自 ら 杭 瀬 川 へ入水 有 り し そ。
(
八)
小 田 系圖 に 云、 義 朝 子 、 八 田 四郎 武 者 所 筑 前 守 左 衞 門 尉 知 家 、 李 治 沒 落 之 後 、 宇 都 宮 左 衞
黼軈 謎鞭 羅 驪 钁矇
流
ガ
叢 轄蕪 嶺
異本義經記
(
義 經 生 立 ・鞍 馬 入)
一八〇
大 夫 剣 官 伊 豫 守 從 五位 下 義 經 、 母 九 條 院 官 婢 、 常 盤 、 夲 治 元 己卯年 、 洛 北 紫 竹 に て生 ま る。
とら
父 義 朝 討 たれ し時 、常 盤 子共 を 隱 さ んが た め 、今 若 丸 八歳 、乙若 丸 六戯 、手 を 曳 き 、 牛 若 丸 二歳
(九)
な る を抱 き 、 李 治 二年 二月 九 日 の夜 、 清 水 寺 の觀 音 へ詣 う で、 義 朝 の菩 提 、 子 共 の行 末 を 所
すぐ
(一〇)
り、 其 れよ り 直 に大 和 國 宇 陀 郡 へ志 し て落 ち 行 く 。 龍 門 と云 ふ所 に常 盤 が 母 方 の叔 父 の有 り け
や
れ ば、 其 れ を頼 み て隱 れ居 た りけ る に、 京 に て常 盤 が母 を 囚 へて、 常 盤 並 び に子 共 の行 衞 を 責
全 成 ・ 後 阿 野 禪 師 と云 う た ぞ・ 乙 若 雛
鐸
圓 と て、 八 條 宮 の
め問 ふ の由 告 げ來 た り し故 、 常 盤 も遣 る瀬 なく 、 子共 三 人 引具 し て京 へ出 で た り。 常 盤 は今
(= )
ゆる
年 二十 五、 都 に名 を得 た る美 女 な り しゆ ゑ、 清 盛 思 ひ初 め て、 子 共 を も 赦 し たり と にや 。 今 若
は醍 醐 に 登 せ て出 家 さ せ・.鑒
坊 官 法 師 に て ぞ有 り け る。
九 條 院 藤 原 呈 子 、 關 白 忠 通 公 女 、 實 太政 大 臣 伊 通 公 女、 近 衞院 后 。 八 條 宮 、 後 白 河 院 皇
子 、 (三 井) 圓 滿 院 圓 惠 法 親 王 。
そだ
(一二 )
常 盤 清 盛 に馴 れ て息 女 を産 み て後 、 一條 大 藏 卿 長 成 朝 臣 の妻 室 に な り て、 爰 に ても 子 共 出 で
來 た り。 牛 若 は暫 く 繼父 長 成 朝 臣 の方 に て育 立 つ。 七 つ の歳 鞍 馬 寺 の阿 闍 梨 東 光 坊 圓 忍 の弟 子
に な り 、翌 年 二月 鞍 馬 寺 に入 る。十 四 歳 に て圓 忍 の弟 子 、禪 林房 阿 闍 梨 覺 日 が附 弟 に な り て 、改
名 、 遮 那 王 丸 ヒ云 う た ぞ 。清 盛 兼 ね て常盤 が子 供 法師 に な せ と宣 ひ た る に よ り、 兄 二人 も法 師
異 本 義 經 記
にな し てけ り 。 牛 若 も 十 三 の年 得 度 さ せ給 へと、 母 の常 盤 も 繼 父 長 成 朝 臣 も 宣 ひ け れ ば 、 圓 忍
(一三)
も 良 智 房 の快 圓 も 、 然 る べき 事 の由 宣 ひ し に、 禪 林 房 覺 日 兎 角 延 ば し て、 十 六歳 ま で得 度 な か
つやこま
り し事 、 禪 林 房 色 に愛 着 せし 故 也 とそ 。 常 盤 容 貌 美 麗 な る を 、義 朝 愛 し 妾 と し て、 三 人 の男 子
を 産 み、 遮 那 王 母 に似 て其 の艶 濃 や かな り ヒ 語。
(
聖門坊)
(一三)
其 の頃 四 條坊 門 に聖 門 房 と云 へる者 有 り 。鎌 田政 家 が 妾 の腹 の嫡 子 に て、 月 輪 院 に し て出 家
ついで
に 成 り 山門記 にば月輪寺と有 り、 諸 國 を遊 行 し て京 へ歸 り 、 四 條 坊 門 に住 みけ り 。 治 承 年中 還 俗
(一四)
し 、 鎌 田 藤 太 盛 政 と云 ひ、 弟 を 藤次 光 政 と 云 ひ て、 讃 岐 國 に て兄 弟 共 に討 死 す 。 末 は女 子 に て
牛 王 女 と云 ひ た るぞ 。 聖 門 房 折 々遮 那 王 殿 へ参 り て、 物 語 の序 に は、 御 家 を 興 し給 へと勸 め し
と メ云。
(遮那 王 貴 船 詣 )
あつ
ぎき
遮 那 王 、 早 足 飛 越 な んど し給 ふ に、 外 の人 よ り も身 輕 く有 り し そ 。 十 四歳 の秋 の頃 よ り、 惡
すぐ
いつ
ひた
僣 な ど 聚 め 、木 太 刀 に て打 合 ひ給 ふ に、 手 利 に て 四 五 人 を只 一人 し て打 勝 ち給 ふ と に や。 常 に
s
眦 沙 門 堂 へ參 り給 ひ て、 直 に 貴 布禰 へ詣 う で給 ふ事 有 り 。何 の頃 よ り か夜 毎 に 潜 と貴 船 へ參 り
給 へり 。 或 夜 禪 林 房 と同 門 葉 、 和 泉 律 師 と 示 し 合 せ、跡 に付 き て 行 き た る に、 遮 那 王、 先 づ本
一八 一
たに
くも
いとくら
一八 二
たましひ
ひや
くさむら
やうやう は う
堂 へ參 り 、 其 れ よ り 貴 船 へ詣 う で 給 ふ 。 折 篩 空 掻 暗 り、 最 闇 き に、 人 十 人 計 り の聲 し て、 山 の
上 か と 思 へば、 谿 の底 に あ り 。 又管 絃 の音 聞 ゆ 。禪 林 房 も和 泉 も 魂 を 冷 し、 叢 を 漸 々匍匐
ひそか
いささ
て寺 に 歸 り し と 云 へり 。 遮 那 王、 僣 正 が谿 に て大 天 狗 に兵 法 を習 ひ 給 ふ と寺 中 沙 汰 し あ へり。
或 時 覺 日密 に 遮 那 王 殿 に 此 の事 を尋 ね し に、 聊 か も 宣 ふ事 も な く、 只 貴 船 へ夜 毎 に詣 す と計 り
答 へら れ し と か や 。
こかねあき
(橘 次 季 春 ・深 栖 陸 助 重 頼 )
( 一亠ハ)
したし
ふか す をかの
三條 の橘 次 季 春 と 云 ふ 金商 人有 り。 後 の堀彌 太 郎 景 光 は此 の季 春 と 云 へり。 毎 年 奥 州 (へ下
ちな
う
つか
る)。 秀 衡 が方 へも出 入 す と也 。 遮那 王 、 橘 次 が參 詣 毎 に眤 み 給 ふ 。 又下 總 國 の住 人 深栖 陸助
(一七)
夜イ
重頼 と 云 へる者 、 其 の頃 大 番 に て在 京 し た り。 鞍 馬 を信 じ て、 苺 度 參 籠 す る。 遮 那 王 、 是 に も
きんだち
おて
眤 み た る ぞ 。 去年 橘 次 奥 へも下 る時 、 秀 衡 が方 へ、 京 に も住 み憂 け れ ば頼 み下 ら ぼ や と宣 ひ遣
し んだ い
いか
は さ れ け れ ば、 秀 衡 、 當時 朝 敵 の公 達 な れ ば、 尊 敬 す る事 、 上 へ其 の惶 れ も有 り な ん。 兩 國 は
秀 衡 が身 帶 な れ ば、 下 り給 は ば、 無 下 に は爭 で か計 ら ふ べき と申 し た り し ゆ ゑ に、 思 ひ 立 ち給
へり 。
(
遮那王海道下)
陸 助 重 頼 、 大 番 明 け て本 國 へ下 る に よ り、 橘 次 ど 示 し 合 せ た れ ど も、 重頼 所 勞 ゆ ゑ に 滯 り .
異 本 義 經記
(一八)
かどで
橘 次 、 遮 那 王 殿 を 相 件 ひ 、 承 安 四 年 三月 三 日 、 鞍 馬 を 首 途 、 時 に常 に住 み給 ふ障 子 に、
皈 り こ ん皈 り こ ん と は思 へ共 定 めな き 世 に定 めな け れ ば
と書 き 給 ふ ど にや 。
いつ
牛 若 丸 の影 、 鞍 馬 にあ り 。 古 翁 云 ふ、 往 昔 禪 林 房 阿 闍 梨 覺 日 、 天 性 畫 に達 す 。 牛 若 丸 の影
う しろ
を 畫 く と云 ふ。 何 の頃 紛 失 した る にや 。 鞍 馬 に其 の沙 汰 な し 。 今 有 る 處 の牛若 丸 の影 は 、
土 佐 某 畫 く 所 な り 。 児 の形 、 眉 を取 り 長絹 を 着 す 。 後 に松 竹 を 畫 く 屏 風 あ り 。 左 の方 に太
方イ
かたはら
刀 立 て掛 け て有 り 。 同 じく 下 に鳥 帽 子 筥 笛 あ り 。 又 本 堂 の 傍 に あ る申 . 魔 王 僣 正 左 、 役
の小 角 右 、 牛 若 丸 一幅 に畫 く 。 牛 若 の面 相 右 に顯 す と同 じ。 鞍 馬 寺 僣 の云 はく 、 此 の三 像
の畫 、 狩 野 元 信 に望 む の處 に、 魔 王 僣 正 の姿 を 元 信 案 ず る の時 、 心 空 に成 って、 忽 然 と魔
王 僣 正 の形 現 ず 。 元 信 奇 特 の思 ひを な し、 則 ち 筆 を 執 って此 の姿 を 寫 さ ん とす る時 、 天 井
よ り 一つの蜘 蛛 ま ひ 下 り て、 彼 の三 像 の姿 を 畫 く 如 く 糸 を 引 く 。 元 信 其 の跡 を 留 め、 成 就
す る の後 、 俄 に風 吹 き來 た り、 彼 の三 像 の畫 を 吹 き ま く り 、 盧 空 を 飛 ば し、 鞍 馬 寺 の内 陣
へ吹 き入 る る、 世 に奇 異 の思 ひを な せり 。 則 ち 三 像 の姿 を 糸 引 き た る蜘 蛛 を も 同 じ く 畫
く 。 鞍 馬 寺 の内 陣 に有 る處 の三 像 是 な り 。
(一九)
熊 坂 張 樊 と云 ふ盜 人、 加 賀 國 熊 坂 の者 と そ。 美 濃 國 赤 坂 の宿 に て夜 討 し て牛 若 丸 に討 たれ し と
一八三
云 へり。
(二〇)
傳 に曰 く 、 張 樊 の事 、十 三 の歳 、伯 父 の馬 を 盜 み市 に出 で て費 り しよ り 鍛 錬 し た る と にや 。
﹂
一八 四
やぎした
あさ ふ
あぶ
二十 一の歳 法 師 に な り、 張 良 の張 の字 と樊 喰 の樊 の字 を取 り、 張 樊 と名 乘 る。 國 々 の溢 れ
よろ こ
も てな
者 を集 め、 其 の將 た る の由 云 ひ傳 へり。 由 利 太郎 、 藤 澤 入道 、 柳下 小 六、 淺 生 松 若 、 三 國
九郎 、 壬 生小 猿 な ど 云 ふ者 、 其 の頃 の盜 人 と 云 へり。
(二 一)
遮 那 王 、 青 墓 に着 給 ひ て、 長 者 大 炊 が方 へ立寄 り給 ふ に、 大 き に歡 び て饗 し奉 り し そ。 大 炊 は
(till)
源 氏 の恩 顧 の者 也 。 大 炊 が娘 延 壽 は、 義 朝 の愛 妾 也 。 大 炊 が姉 は 六條 剣 官 爲 義 の 乙若 丸 以 下 四
わしのづ
うつみ
あらは
人 の子 共 の母 也 。 大 炊 が兄 、内 記 李 太 政 遠 は、 保 元 の亂 の時 殉 死 し た る ぞ。 大 炊 弟 、 李 三 郎 眞
ひたすら
遠 は出 家 し て、 鷲 栖 玄 光 と云 ひ て、 義 朝 を内 海 へ途 り奉 り、 長 田 が家 人 と戰 ひ、 勇 武 を顯 し た
とど
かたみ
る也 。 大 炊、 遮 那 (
王 ) 殿 に 一向 御 家 を興 し給 へと申 し た る と そ。 玄 光 を御 供 さ せ ん と云 ひ し
を、 季 春 止 め し と云 へり。
其 の楊 枝 よ り竹 と な り て、 枝 葉 茂 り て今 に有 り と
青 墓 の里 人 云 ふ、 遮那 殿 、 長 者大 炊 が庭 前 に楊 枝 を指 し て詠 歌 あ り。 さ し お く も記 念 と な
れ や後 の世 に源 氏 榮 え ば よ し竹 と な れ
云 へり。
(二三)
遮那 王、 尾 張 國熱 田大 宮 司 砧 範 の方 に て、 三月 十 二 日元 服 、 前 大 宮 司 季 範 の娘 、 義 朝 の本 妻
か ね
すべ
也 。是 頼 朝 希義 の母 公 に て、 其 の弟 今 の大宮 司 砧範 也 。 鳥 帽 子 に 小結 し て、 裝東 相 調 へ進 ら す
る 。 則 ち 源 九郎 義 經 と 號 す 。
元服 は 烏 帽 子 髮 に髮先 を か り 、
眉 毛 を剃 り落 し眉 を作 り 、黒 齒 黒 く す 。 上 臈 の元 服 都 て此 く
の如 し 。 鳥 帽 子 を 初 め て着 す ゆ ゑ に首 服 共 云 へり 。年 二 十 ま で の こと 也 。 堂 上 に は 十 三 に
異本 義 經 記
纛
纛
かぶと
ぬ
なつ
し て眉取 り、 黒 齒付 く る、 十 八歳 ま で と 云 へり 。東 妻 にて 小 結 し た る 鳥 帽 子 を 、 昔 は 號 け
篶
撃
を曳き立 てた詮 見え たり・谿
密
に・素
路 へ耋
剣
て牛 若 帽 子 と云 ふ。 又 古 代 疊 鳥 帽 子 と 云 ふ有 り 。 た ∼み た る 烏 帽 子 を 着 し 、 甲 を 脱 い で鳥
帽子 を用 ゐる時・藤
・覇
御 前 へ召 さ る・ 赤 地 の錦 の直 垂 ・ 折 鳥 撃
引 立 て と あ り。 皆 以 て疊 繕
官 基 盛 承 って向 ふ に、 淺 黄 絲 の鎧 に、 上 を り し た る 烏 帽 子 の上 に、 白 星 の甲 を着 す と あ
り・ 即 薔
子 の事 也。
前 漢 昭帝 紀、 元 鳳 四年 春 正 月 乙亥 、 帝 加元 服 。 注 、 如 淳 日、 元 服 謂 初冠 、 加 上服 也 。師 古
逗留ましまし、其 れより三河麌
矧 の長が許 に宿魏
騒。
日 、如 淳 以 爲 滾 服 之 服 。 此 説 非 也。 元 首 也。 冠 (者)首 之所 着 。 故 日元 服 。 其 下 汲 暗荊
序云、
司 の方 に四吾
上 正 元 服 。是 知 謂 冠 爲 元 服 。 如 淳臣 讃 等 漢書 注 者 之内 也 。
杳
世 に云 ひ 傳 ふ、 三 河 國 矢 矧 の宿 の長 者 が 娘 、 淨 瑠 璃 姫 、 伏 見 源 中 納 言 師 仲 卿 息 女 と云 ふ。
夲 治 二年 師 長 卿 配 所 、 室 の八 嶋 へ下 り 給 ふ時 、 三 河 の八 橋 に て、
夢 に だ に角 て三 河 の八 橋 を渡 る べし と は思 はざ り し を
と讃 み給 ひ し を聞 し召 し て、 程 なく 召 し皈 さ れ給 ふ と云 ふ。 矢 矧 に逗 留 の時 、 長 者 に相 馴
へ請 U奉 り雷
垂
み・姫も轟
き・婆
を催 す.義經姫
れ儲 け給 ふ子 と 云 へりっ 母 鳳來 寺 の藥 師 を信 じ て出 生 す る ゆ ゑ、 其 の名 を付 け た り。 美 女
有 りしに・婬諍
に て有 り け り 。
長 が許 に蘯
一八五
一八六
に密 通契 り給 ふ。 其 の後 、 重 頼 も (
出 で) 來 た り。 相 俘 ひ奥 へ下 り給 ふ。 姫 は別 れ を惜 み て勞
り 臥 し て、 絡 に空 敷 な る。 年 十 四 、 弄 ぶ所 の器 物 、 鳳 來 寺 に納 む と云 へり。
其 の時 の鏡 、 鳳 來 寺 巖 本 院 に今 に有 り 。 古 代 の物 とそ 。 義 經 笛 の器 量 有 り と云 へり 。 或 説
(二八)
まゐ
(二九)
に彈 折 義 朝 に有 り し を 、 常 盤 是 を取 り て御 曹 司 に進 ら せ し と 云 へり 。駿 河 國 有 度 郡 久能 山
とど
縁 起 に 曰 く 、 源 義 經有 笛、 號 薄 墨 、寄 進 此寺 、嘉 祿 年中 回 祿 、 笛 も 又 燒 失 す ヒ ♂。
いま
ひげ
義 經其 れ よ り も下 總 國 に 着 き給 ひ、 重頼 が方 に 逗 ま り、 橘 次 は奥 へ下 り し と そ。 義 經 深栖 が館
へきえき
ため ら
に 在 す内 、 其 の邊 の野 に馬 盜 人 有 り て、 人 々騒 ぐ。 大 の髯 男 の大 太 刀 を拔 いて待 ち掛 け た り。
うでくび
むね
したたか
重 頼 が家 人 を 初 め、 是 に辟 易 し て獪 豫 ひ居 た る處 へ、 義 經 御 曹 司 走 り來 た り給 ひ て、 小 太 刀 を
むね
うち
う
拔 いて、 彼 の盜 人 の太 刀 持 ち た り し腕 首 を、 太 刀 の 心 に て 強 に打 ち 給 へば 、 打 た れ て太 刀 を
ありさま
わざ
取 り 落 す 所 を 、 太 刀 の心 に て重 ね 敲 に擣 ち 倒 し 、 袴 の腰 を 蹈 み 付 け 給 ふ處 へ、 人 皆 寄 り て搦 め
あ れ
あ れ
け り 。 其 の形 勢 、 凡 夫 の業 に非 ら ず と重 頼 を 初 め と し て、 皆 々大 き に驚 き たり 。其 の上 、 下 總
も
國 に て も 鳴黎 は 誰 が領 ぞ 。 打 殺 し 押領 せ ん、 鳴 黎 が 館 は 要 害 に能 き所 な れ ば 、 防 ぐ によ し な ん
いく
ど宣 ひ し 程 に、 重 頼 も角 て は夲 家 へ聞 え な ん と持 て扱 ひ (て) 居 た し が、 其 の年 の秋、 と て も
よく よく し たし
思 召 す事 あ ら ば猛 勢 の者 こ そ便 も候 へ、 重 頼 な ん ど が領 幾 (ぼ く) な らず 候 へば、 秀 衡 が方 へ
御 越 し あ って、 能 々眤 近 み お は し ま せ か し と申 し た り し に、 御 曹 司 も、 實 に も と や .
思召 しけ
ん、 さ ら ば 下 ら ば や と て、 九月 中 旬 に出 で給 ふ。 小 侍 一人 、 僕 從 二人 添 へて途 り け り。
(三〇)
深 栖 陸 助 、 舊 本 に重 頼 に作 る。 頼 重 也 。 兵 庫 頭 源 仲 政 二男 、 三位 頼 政 弟 、 深 栖 三郎 光 重 子
也。
(遮 那 王 奥 州 下 着 )
はたざし
つらだましひいかさま
上野 國松 井 田 と 云 ふ處 に宿 し給 ふ。 主 の男 二十 四 五計 な る が、 頬 骨 何 樣 用 に 立 つ べき者 と見
給 ひ て、
若 し も の事 あら ば 、 旗 指 にも よ かり な ん と思 召 し 、
自 然 の事 も あ ら ん時 は頼 む べし と宣
ゆる
ひきいれ
慰
へば、あ
讌じ
の云 はく、 殿 は いま だ 少年 の身 と し て、 何 事 の有 り て自 然 の事 の有 り と は宣 ふ ぞ。 何
おぽ
事 ぞ・有腑譴 螢ハ
の時 の事 にて こそ候 は んとて・ しかぐ 共 云はず・ 心 の内 にては・擁
者 哉 。 馬 盜 人 ご ざ んな れ 。 但 し 色好 き 小 冠 者 な れ ば、 人 の搖 れ て心 を 許 さ せ、 夜 盜 の引 入 せ ん
(=二 )
爲 か と思 ひ、 心 を 許 さ ざ り け る と にや。 季和 泉 に着 き給 へば、 秀 衡 、 我 が館 へ入 れ 參 ら せ、 兩
いと ほ
國 は秀 衡 が 身 帶 な り 。礎 ∼
ぎ 冠 者 殿 な れ ば、 子 な き 者 は 子 に も し、 娘 持 ち た ら ん者 は聟 公 にも取
り 奉 り な ん。 其 の内 は秀 衡 が 方 に御 坐 せと て、 最 愛 し み け る とそ 。
(鬼 一法 眼 ・義 經 上洛 )
都 一條 堀 河 に陰 陽 師 鬼 一法 眼 と云 ふ者 有 り 。 希 代 の軍 書 を持 つ。 是 醍 醐 帝 延 長 元 年 五月 、 從
篷 ひて暴 の軍書也・薯
一八七
秘 書 也 。 鬼 一、 夢 想 を請 け 、 奏 聞 を經 、 下 し預 る と云 へり。 義 經 是 を聞 き給 ひ、 甚 だ執 心 し、
(
三四)
(
三五)
公 、 張 良 に傳 ふ る所 の兵 書 と夢 。 維 時 七代 の後 、 式 部 大 輔 匡 時 告 げ に依 って鞍 馬 へ奉 納 有 り し
三位中納莫 江繼 ま 移 災 宋國 へ遒はされし時・龍取醤
異 本 義 經 記
一八八
都 へ上 り拵 へて見 ぼ や と思 ひ立 ち 給 ふ と に や。 橘 次 季 春 が京 上 り を幸 ひ に、 安 元 二年 二月 十 一
いかさ ま
日 、 夲 和 泉 を 出 で給 ふ。 道 に て橘次 に宣 ふ は、 下 り の時 、 上 野 の松井 田 と云 ふ所 に宿 し た り 。
主 の男、 何 樣 用 に立 っ べき 者 と見 え た り。 松 井 田 に宿 し て、 彼 の男 の方 へも尋 ね て見 ば や と 宣
此前 イ
ひ て、 松 井 田 に宿 し給 ひ、 義 經 以前 の主 の方 へ尋 ね給 へば、 主 立 ち出 で、 此 れ以 前 も見 え た る
人 よ 。何 の用 ば し有 り て來 給 ふ ぞ。 家 の内 の物 に用 事 侍 る か と 云 ひ た る に、 義 經 、 吾 は人 の心
ノ
から から
わら
を頼 み て用 有 り。 但 し和 殿 は器 用 の人 な る に、 か ∼る所 に住 み給 ふ事 ぞ。 當 時 夲 家 の繁 昌 な る
は
に、 都 へ上 り夲 家 方 を頼 み身 を立 て給 はざ る や と宣 ひけ れ ば 、 主 、 呵 々 と打 嘆 ひ、 無 盆 の事 を
くく
さて
あた
宣 ふ物 哉 。 吾 は未 だ目 あ り。 耳 あ り、 何 の用 に夲 家 の被 官 に成 る べき や 。 喰 む物 無 (
く ば) 頸
ね
(一
二亠
ハ)
拘 り て も死 ぬ ぞ か し と申 し たり 。 義 經 、 偖 は和 殿 は李 家 の人 々 に仇 有 る人 歟 。 主 、 詮 無 き 事 を
云 ひ出 し根 問 ひ し給 ふぞ 。 某 は生 國 伊 勢 の國 の者 に て候 。 親 に て候 者 は、 河 嶋 二郎 俊 盛 と申 し
て、 勢 州 三 重 郡 河 嶋 と申 す 所 に住 み候 。 俊 盛 が親 、 左 衞門 尉 俊 實 、 堀 河院 の北 面 に て、 彼 の
つ
河 嶋 を 賜 はり 、 代 々領 し て候所 、 某 四 歳 の年 、親 に て候 俊 盛 病 死 し て、 母 計 に て候 を 、 伊 勢 守
景 綱 、 彼 の河 嶋 を 押 領 す 。 母 吾 を 連 れ て都 へ上 り 、 此 の事 を 夲 家 へ訴 ふ と い へど も 、 馬 の耳 に
風 の吹 く が 如 く 、 用 も な き や つ哉 と て、 景 綱 が 代 官 に云 ひ付 け て、 河嶋 を追 ひ 出 さ れ て候 、
ひと や
某 十 七 の歳 、 河 嶋 へ行 き て、景 綱 が 代 官 を夜 討 に し、 其 れ よ り 鈴 鹿山 の麓 に 居 て、 景 綱 が 古市
いけど
よ り 京 上 り す るを待 ち 請 け て、 一箭射 ば や と 思 ひ 候 に、 何 者 の云 ひ け る に や、 山 賊 の有 る ぞ と
て押寄 せ た る に、 太 刀 拔 き 合 せ切 り 結 ぶ。 然 れ ど も 大勢 に取 籠 め ら れ虜 ら れ て、 此 の所 へ流 さ
異 本 義 經 II
1
1
fl
殿も イ
あり
れ 、 六 年 を 經 候 。 殿 にも 若 し迷 ひ 歩 行 き給 ふ 人 な ら ば 油 斷 ば し し 給 ふ な と そ 語 り け るに よ り
し りぞ
すの こ
て、 義 經 、 吾 は義 朝 の子 の由 宣 ふ 。 主 大 き に驚 き て、 さ れ ば こ そ と よ、 只 人 に ては な か り け り
はや
と て、 座 を 立 ち 退 き て、 次 の簀 子 に 蹲 踞 す。 義 經、 自 然 の事 も有 ら ん時 は頼 む べし と 宣 へば、
速 今 日 よ り 主 君 と仰 ぎ奉 ら ん と 云 へり。 伊 勢 三郎 武 盛 と 云 ひ た り し を、 義 の字 を賜 は り、 義 盛
つ
と名 乘 る。 其 の時 隨 ひ奉 り て より 二心 な く 忠 勤 を 抽 ん で、 名 を 今 の世 ま で殘 し たり し伊 勢 三 郎
、
義 盛 是 也 。 則 ち 御 供 仕 る べき と て、 屬 き奉 り暫 く在 京 した り が、 故 郷 も 心元 な く 思 ふ ら ん と
て、 義 盛 を ば 上野 へ皈 し給 ふ と そ。
義盛親俊盛
(
三七)
の宅 地 の跡同 一塚 、 勢 州 川 嶋 に あ り。
義 經 、 都 一條 大 藏 卿 長 成 朝 臣 の方 へ上 着 有 り て、 後 、 四 條 の聖 門 房 を し て、 一條 堀 河 の鬼 一法
眼 が 方 へ宣 ひ たり しそ 。
(三八)
吉 岡本 に、 四月 廿 日 義 經 法 眼 が方 へ來 た り給 ふ と語 。
(三九)
鬼 一法 眼、 生 國伊 豫 國吉 岡 の者 と に や。 都 へ上 り陰 陽 師 に て有 り し そ。 宇 治 殿 の諸 大 夫 、 式 部
大 輔 盛 憲 が所 縁 に よ り て、 頼 長 公 法 眼 に な し給 ひ て、 吉 岡 法 眼 憲 海 と云 ひ た る と に や。 童 名 鬼
一丸 と 云 ひ しゆ ゑ に、 宇 治 殿 常 に鬼 一法 師 と召 さ る。 是 に依 つて世 人 も 鬼 一法 眼 と呼 び た る と
(
眉 取 っ て) 黒 齒 黒 に し て 、 時 に 年 十 八 歳 、 麗 質 婦 人 の 如 し 。 聖 門 房 、 伊 勢 三
か ね
云 へり 。 義 經 鳥 帽 子 に小 結 し て、 絹 紋 紗 の直 垂 、 白 き 大 口 、 金 作 り の太 刀 、 虎 の皮 の励 韈 入 れ
て兒 立 な れ ぼ 、
郎 其 の砌 り にあ り 。
1八 九
露
の袴、銀 にて覊
讐
た る刀嵳
一九〇
し、女 二人 に介錯せられ、座 に驟 り、(
讐
目 利 書 曰 く 、 金 作 り の太 刀、 備 前 友 成 作、 二 尺 一寸。
法眼齷
ぬす
司
を席 に招 き、 詞 細 か な り と雖 も、 兵 書 を 深 く秘 し て出 さず 、 是 に依 つ て義 經、 法 眼 が 娘 と 密
通、 彼 の祕 書 を娘 に愉 み出 さ せ、 寫 し取 り、 悉 く其 の指 要 を納 め得 ヒ 語。
ヨ う
張 商 英天 覺 が素 書 の序 に曰 く、 夫 れ素 書 六篇 は、 按 ず る に、 列 傳 黄 石 公 妃 橋 で所 授 子 房 者
也 。世 人 多 以 三 略爲 是 。 蓋 傳 之 者誤 也。 晋 亂有 盜、 發 子房 塚、 於 玉枕 中 獲 此書 。 凡 一千 二
百 四 十 六言 と云 。下 略 。
(湛 海被 斬)
、
法 眼門 弟 に白 川 の湛 海 と 云 ふ 者、 一年出 雲 路 の印 地 の時 四 五 人 に て持 つ べき石 を輕 々 と投 げ
た る によ り 、 世 人 岩 投 げ の湛 海 と 云 ふ。彼 の祕 書 を 度 々望 む と雖 も、 法服 許 さ ず。 義 經 寫 し取
り給 ふ事 を聞 き て、 甚 だ 驫 み法 眼 に麸 へたり 。 姫 に通 じ給 ふ事 は (
兼 ね て) 法 眼 も聞 き た れ ど
こひ む ご
も、 獪 豫 し た る所 に、 祕 書 を取 ら れ 腹 立 し た る氣 色 (し て)云 ひけ る は、 重 衡 朝 臣 の度 々宣 ひ し
な んど入道殿聞 き給 ひ ては・ 以て の外 の大妻
れ・殊覆
の人 の子 を 姫撻
した る の
だ にも用 ひず し て、 か 丶る事 を仕 出 で た る こ そ奇 怪 な れ。 夲 家 の公 逹 を嫌 ひ て、 源 氏 を乞 聟 に
傲鎧
やみうち
由 、一味 の稽 騾 る る所 な し。 いま だ披 露 な き前 に追 ひ失 ふ か 、
所 詮 討 つ て捨 つる か の外 あ ら じ と
思 ふ の由 云 へりっ 湛 海 云 はく 、
彼 の人 五條 の天 神 を 信 じ て 、毎 度 參 詣 有 り。 其 れ を う かが ひ闇 討
異 本 義 經 記
じ
に す べき の由 云 ひ て退 出 す る を 、法 眼 が 仕 女 障 子 を 隔 て て是 を聞 き (て)、
桂 女 に密 に語 る。 姫 驚
と 雖 も欲
き御 曹 司 に告 げ た り。 義 經 此 の由 を 聞 き て より 、 毎 夜 天 神 へ詣 う で給 ふ, 桂 女 止 む る
あぶ
せ ず。 十 二月 十 六 日 の夜 湛 海 、 溢 れ 者共 四 五 人集 め て、 五條 の天 神 の門 前 に待 ち掛 け た る に・
義 經 事 共 せず 、 湛 海 が持 ち た る長 刀 の柄 を切 り折 り .湛 海 土ハに 二人 當 座 に斬 り殺 し、 殘 り は追
ひ拂 ひ、 其 の身 は恙 な く し て堀 川 へ皈 り 給 ふが 、 爰 に長 居 し ては 此 の事露 顯 し、 若 し犬 死 す る
が女、冪
二位大納言藤成瀚矩
桂 の書
一
云う妾 の劈
息 女 と 云 へり・
事 も や有 り な んと 思 ひ給 ひ て、 其 れ よ り山 科 の増尾 秉房 が方 へ立 ち 退 ぞ き給 ひ し と に や。
傳 に冨 、塁
耄
子 にした るぞ・+四 の歳 晦
龍露
へ召され て參りしに・萎
を得
の名
三 歳 に て成 通 卿 に離 れ 、 母 に添 ひ桂 の里 に.
居 住 ゆ ゑ に 桂 姫 と 云 ふ。 四 歳 の年 母 を 法 眼 蹴
り、其 の蠶
めき給 へるも、姫更 に羅
拶 給 ひ て・ 父 の許 へ皈 り住 み し にも・ 慕 ふ
けず・
其 の後人 して麈
た り 。 去 年 六月 十 二 日女 院 相 模 守 業 房 が 淨 土 堂 へ御 幸 の時 、 御 酒 宴 有 り し に、 藏 人頭 重衡
朝臣桂姫 L .
羅
しけ れ ど も 承 引 せず ・ 顏
々宣 ひ・又父法眼も
ひ、 鑾
幸 ひ患
姦
び、 偕 老 の契 り爨
じ か り し そ か も・ 然 る磨
蘿
法 眼 の許 を
方 のみ 多 かり け れ ど む、 一度 の返事 だ に せざ り し に、 去 る 五月 義 經 に傾 き、 其 の志 深 く・
義 經 は 又姫 の嬋 娟 耄
ひ按 U け れ ど も・ 何 の沙 汰 も
の思 ひ 繦 え ず し て、 其 の蹴 を 慕 ひ 、山 科 に來 (
た り) 親 の
き 法 眼 も 靄 が と が め も あ ら んか 患
-立 ち退 き給 ひ し にも 、 姫 は薯
方 へ皈 、
bず 。 母 は 是 姦
な か り し 程 に、 東 光 房 の圓 忍 は義 經 の師 檀 、 法 眼 が爲 に も檀 越 な れ ぼ、 圓 忍阿 闍 梨 兎 角 犠
轡九 一
、鱗
湾
一九 二
く なる.年+八.死骸 を驚
め て 、 義 經 と 仲 直 り さ せ 、 姫 を も 法 眼 呼 び 返 し た り と 云 へり 。
安元 三年三月 言 、桂姫義經 の息女 を薐
に葬 るとに
疾 眼の娘 の墳萎 るべし.吉岡歪 、源頼覇 臣霪
や 。 此 の息女 を 以 て伊 豆守 仲 綱 男 、 右 衞 門 尉 有 綱 義 經 の聟 と な る。
孳 るに・驚 鏃 戳の 募 菟
鮪
鏡諜 脚
豐 驫 驫 繍鞴
価
靭
騨驫韓縟葦巍
律 師 と 云 ふ。 頼 義 此 の律 師 を し て湯月 の八幡 の社 僣 に し給 ふ。 又頼 義 の四男 、 伊 豫 權 介 親
清 、 河 野 新 大 夫 親 經 の聟 と し て、 其 の家 督 を 繼 ぐ 。 然 れ ど も 子 のな き こ と を親 清 室 家 歎 き
て自 ら 豫 州 三 嶋 大 明 神 に參 籠 通 夜 あ り し に、 宮内 に大 蛇 顯 は る。 是 三 嶋 大 明 祚 な り 。 室 家
更 に隴 れず し て、 彼 の大 蛇 と密 通 有 り て懷 妊 、 男 子 を産 め り。 河 野 通 清 是 なり 。 通 夜 し て
の師と して・親羹
云 ふ と あ り。
婦信心あり・其 の駈 欝
四代 の孫・霪
仗イ
の吉岡 にて崖
、鬼
儲 け た るゆ ゑ に、 通 の字 を家 の通 り字 とす 。 又 律 師 所 濤 の丹 誠 を 抽 んず 。 之 に依 つて河 野
の暫
一丸 と云 ・
つ者 、 法 師 にな り て吉 岡 憲 登
もてな
又 同 本 に・ 法 眼 も 牛 若 殿 と知 り たれ ど も 、 詞 にも 出 さ ざ り け り 。 我 が 先 租 慊杖 律 師 の事 、
頼 義 朝 臣 の恩 顧 の者 な り と申 し て、 我 が 主 の子 な んど を持 賞 す ご とく にそ し たり 。 軍 學 を
傳 ふ にも・ 其 の穫 蕎勝 れ て器 用 な り しゆ ゑ、 法 眼 も世 に祕 藏 の人 に思 ひ け り。 彼 の祕 書 を
望 み給 ふ時 も 、 法 眼 云 は く、 乞 ひ願 ふ 者多 く候 へど も 、 一人 にも見 せ ざ れ ば、 其 の聞 え憚
異 本 義 經 記
ゆ
るゆ ゑ 、 今 は叶 ふ べか ら ず。 見 せ奉 る時 節 も有 り な んと て、見 せ參 ら せざ るゆ ゑ、 姫 に 通
そね
じ彼 の軍 書 を寫 し取 り給 ふ。 湛 海 も兼 ね て此 の書 を度 々望 め ど も、 許 容 る さざ り し に、 此
の事 を聞 き て 、甚 だ僭 み て法 眼方 へ來 た り 、義 經 の よ し を云 ひ 、又 姫 君 の事 は 、重衡 朝 臣 の
なかだち
度 々宣 ひ し時 、所 勞 の由 に て返 事 な しな ど支 へた り。 此 の法 師 後 藤 兵 衞 盛 長 と親 し く、 重
も
て
衡 の姫 が 方 へ鹽
の艶 書 も 此 の法師 媒 しけ る程 に、 若 し夲 家 へ告 げ ら れ て は惡 し か り な ん と
法 眼 も 思 ひ 、今 初 め て聞 き た る躰 に持 賞 な し、 湛海 と相 談 した るに 、 湛 海 も 云 (はく )、
いたは
よう
か の小 冠 者 五條 の天 騨 信 U參 詣 す る程 に、 某 付 け行 き闇 討 にす べ し。 姫 君 の事 は彼 の子 を
つく ろ
よ
懷 妊 、 月 重 な る の由 な れ ば、 其 の間 は勞 り (いま だ) 宜 し から ず と披 露 有 り て、 産 後 必 ず
藏 人頭 殿 へ參 り給 ふ や う に計 ら ひ給 へ。 重 衡 朝 臣 の前 は能 く 繕 ひ、 又 盛 長 を も能 く能 く こ
かつ
し ら へ侍 ら ん と て皈 る。 法 眼 も詮 方 なく 思 ひ、 急 ぎ 此 の事 を妻 に語 り、 姫 に通 じ義 經 の法
眼 の方 を 立 ち 退 き給 ふ や う に計 ら ひ け れ ど も、 義 經 此 の事 を聞 き て、 曾 て驚 き給 はず 。 此
の法 師 遣 り 立 て てこ そ後 の害 に も成 る べ し。 三 日 はす ご さ せま じき と宣 ひ し とそ 。 絡 に天
さ
紳 の門 前 に て湛 海 は討 た れ た り。 同 本 に、 義 經 山 階 へ立 ち退 き給 ふ時 、 姫 の局 の庭 に楊 枝
を指 し て、 詠 歌 有 り。
(五 一)
後 の爲 指 し おく 楊 枝 根 延 び し て つひ に むす ば ん青 柳 の絲
姫 も楊 枝 を指 し て返 歌 、
我 も又 結 ぶ し る し の玉 柳 いどゆ ひ か はす 枝 な わす れ そ
一九三
﹂九四
(
五 二)
其 の楊枝 根 つき て後 は 大木 と な り、 二本 相 並 び、 鬼 一が宅 地 に有 り。 名付 け て し る し の柳
冖
と 云 ふ と そ。 ㍉
(五三)
(
五四)
古 翁 の云 (
は く)、 文 明 十年 臘 月 十 五夜 に、 若 宮 の御 方 よ り姉 小 路 基綱 の妹 に賜 は る ど奥
書イ
書 のあ る檜 草 子 、義 經 虎 の卷 と 云 ふ あ り。 鬼 一が軍 學 の事 な り。 其 の雙 紙 にも し る し の柳
の事 、 此 の歌 あ れ ば昔 は有 り た る に や。 兵 亂 の頃 燒 け た る にぞ 有 り なん と云 へり 。
治 承 二 年 十月 十 日 鬼 一法 眼卒 。 祗 陀 林 寺 に葬 る と吉 岡 本 に有 り。
(増 尾 十 郎 權 頭 兼 房 )
(五五)
めのと
増 尾 十 郎 權 頭 兼 房 は、 近 衞 院 の役 人 に て 有 り し そ。 常 盤 の門 葉 に て義 經 の乳 母 の親 也 。 丹
(五亠
ハ)むまち
波 の國 馬 路 の郷 を領 知 せ り。 彼 の所 の百 姓 と李 家 の侍 、 越 中 守 盛 俊 が領 分 の百 姓 と水 掛 の論 に
付 き、 象 房 が百 姓 を農 具 に て打 殺 し たり 。 秉 房 此 の事 を聞 き 、安 から ず 思 ひ、 殺 さ れ た る者 の
一子 十 四 五 に成 りけ る童 に、 吾 が 家 人 を相 添 へ、 盛 俊 が 百 姓 の家 へ押 込 み 、 念 な う 敵 を 討 たせ
た り。 此 の事 秉 房 が所 爲 の由 に て善 惡 の沙 汰 も なく 、 清 盛 公 の計 ら ひ に て、 馬 路 の郷 を 沒 收 せ
ら れ て、 山 階 の音 羽 の郷 に閑 居 し たり 。
(武 藏 房 辨 慶 )
(五七)
武 藏 房 辨 慶 の事 、 安 元 二年 六月 十 二 日 の夜 、 五條 の天 神 に て初 あ て見 參 し た る とそ 。 義 經 時
ノ
なぶ
に十 諌歳 、 辨慶 は 二十 六 の歳 の事 也。 辨 慶 色 々と義 經 を 嬲 り し ゆ ゑ、 後 に は 口論 に な り、 打 物
の勝 負 に及 ぶ と雖 も 、 辨慶 叶 はず し て皈 り しと 云 へり。 同 十 七 日 の夜 、 五條 の橋 に て行 き逢 う
そ
た り 。 此 の度 は勝 負 に依 つ て、 負 け た ら ん者 家 人 と な ら ん と約 諾 し て戰 ふ。 此 の時 も辨 慶 勝 っ
蠡 ひて
灘 ひたる雲 へ毳 甓 出 羅 毒
事能 はず。 是 よ り 主 君 と 仰 ぎ 、其 の心 金鐵 の如 く に し て影 の如 く付 き屬 ひ奉 り、 忠 勤 を盡 し た
暫
次r
a
i
nに .安元 の頃 五條 の橋 援 遊 の讐
う や ま
りて・往來 の人 を叢
一九五
す とあり・辨麋
(
り し) 時 も志 を通 じ敬 崇 ひ け る (と) 也。 季 家 追 討 の時 義 經 に屬 し、 常 陸 房 海
尊 と名 乘 る と銃 。
法 眼 が許 に在
(六〇)
常 陸房 海尊 の事 、 園 城 寺 の出 家 、 刑 部 卿 禪 師 と 云 へり。 強 力 者 ゆ ゑ荒 刑 部 と 云 ひ け る。 義 經
(
常陸房海尊)
事歟。
鬣
と ムふの
辨 慶 寺 の古 跡、 西 塔 北 谷 に あ り。 辨 慶 屋 敷 鴨 川 の東 二條 と三 條 と の中 間 に あ り。 所 の者 辨
跡 あ り。 東 坂 本 田 地 の異 名 に も櫻 本 屋 (
敷 ) と云 ふ あ り。 是 は里 坊 の跡 歟 。
あざ な
5
長 信 都 の弟 子 、 西 塔 北 谷 定 泉 房 付 き の中 房 と 云 々。 又 西 坂 本 一乘 寺 村 に櫻 本 房 月 輪 寺 の舊
る謹 蹉嫁 鬻 難
異 本 義 經記
(鈴 木 重 善)
さ めう し
一九六
紀 州 熊 野 の住 人 鈴 木 二郎 重 善 と云 ふ者 有 り。 是 は鈴 木 庄 司 が 弟 也 。 (
安 元 二年 の頃) 在 京 し
か ね
は
た り。 八 月 十 五 日佐 女 牛 の若 宮 八 幡 へ參 詣 せ し時 、 宮 前 に於 て歳 の程 十 七八 計 な る人 の兒 立 か
と見 え て、 眉取 って黒 齒 黒 な るが 、 繍 紗 の直 垂 、 精 好 の大 口着 て、 金 作 り の太 刀 を 偲 き 、 沙 門
二人 俘 ひ た る に行 き 逢 ひ たり 。 重 善 も 誰 人 や ら ん と思 ひ て過 ぎ 行 き たり 。其 の後 重 善 鞍 馬 へ參
もてな
り て、東 光 房 の許 に寄 り し に、 晩景 な れ ば彼 の房 に宿 した る處 に、若 宮 に て見 た る僣 の立 ち出
で て饗 しけ る に、 重 善 、 以前 佐 女 牛 に て見 奉 る の由申 す に、圓 忍 阿 闍 梨 の弟 子 、 禪林 房 の阿 闍
よもすがら
ひ
そのかみ
梨 の由 、 重 善 、其 の時 の兒 立 の御 方 は誰 人 な れ ば 麗質 な る由 稱 美 した り 。 禪林 房 、 吾 が 門 葉 な
ものい
り と答 ふ。 通 宵物 語 の序 に (
禪 林 房 ) 重善 が 心 を 曳 き見 んが 爲 にや 、往 昔 の事 な ど 語 り出 し、
今 にも 源 季 の亂 出 で來 た ら ば 、 何 れ へか 參 り給 は んや と 尋 ね し かば 、 重 善 、壁 に耳 、岩 の言 ふ
世 の申 な れ ぼ申 しが た し。 某 が親 に て候 重 邦 は、 六條 廷 尉 に不 便 を蒙 む り し 者 也。 前 の熊 野 別
(亠
ハ一)
(六二)
當行 快 は、 爲 義 の外 孫 、 今 の別 當 湛 増 は夲 家 の恩 顧 を厚 く請 く。 其 の時 代 變 つ て人 の心 も計 り
む つま
ひい き
難 し。 行 快 は 指出 でた る 心 も無 き 人 に て、 爲 義 の末 子 、 十郎 義 盛 と て、 熊 野 の新 宮 に居 給 へど
(亠ハゴ一)てんきう
そだ
も 、 さ のみ眤 U か ら ず と 語 り て、 や 丶も す れ ば源 氏 の贔 屓 口 な る ゆ ゑ、 覺 日 重善 が 心 を見 て、
以前 佐女 牛 に て見給 ひ しは、 故 左 典厩 の末 子 、 當 寺 に て育 立 ち給 ひ し牛 若 殿 也。 昨 日幸 ひ に當
房 へ來 た り給 ふ の由 を 云 ひ て、嚢 經 を呼 び出 し、 引 き 合 は せ奉 る。 重善 座 を 立 つて、 梵 郵 断 し
異 本 義 經 記
にんちやう
け る は、 人 定 に て存 ぜざ る事 こ そ本 意 無 く 候 へ。 某 紀 州 熊 野 の住 人 鈴 木 二郎 重 善 と申 す 者 に て
候 。 某 が親 に て候 重 邦 、六 條 廷尉 公 の御 恩 を厚 く蒙 む り し者 に て候。 白 川院 の御 時 、
教 眞 を熊 野
の別 當 に補 せら れ し時 も 、 六條 殿 の御 息 女 、 龍 田 姫 君 を教 眞 へ遣 はす べし の由 勅 定 に て遣 はさ
も てな
れ し時 も 、 重 邦 方 へ (
先 づ ) 龍 田 姫 を 入 れ 奉 り て、 重 邦 が 方 より 別 當 の方 へ入 れ 給 ふ に より 、
よ
重 邦 は教 眞 偏 に親 の如 く 持 賞 し給 ふ。 廷 尉 公 も 熊 野 へ渡 ら せ給 ふ時 は 、 必 ず 重 邦 が 方 へ入 ら せ
お とづ
給 ひ て、 餘 に不 便 の思 召 に て こ そ候 ひ し に、 思 はざ る保 元 夲 治 の亂 出 で來 て、 御 一門 悉 く 失 せ
む つま
お は し
給 ひ て 、李 家 一統 の世 とな り し程 に 、
餘 り に心 憂 き事 に存 じ、 新 宮 十 郎 殿 へ音 信 れけ れど も 、 如
あっぱれ
やう
さすか
ひ
何 思 ひ給 ひ し に や、 眤 じ き沙 汰 も なく 過 ぎ 候 ひき 。 土 佐 の御 曹 司 四 國 に御 座 ま せ共 、 蓮 池 權 頭
(六四)
(六五)
おとつ
が 前 を思 ひ て見 參 にも 參 ら ず 、 右 兵 衞 佐 殿 、 又 六郎 御 曹 司 は國 を 隔 て給 ふ事 な れ ぼ 、 音 信 れ 奉
(六六)かうのとの
(六七) にイ
る事 も な く 、 都 に こ そ頭 殿 の公 達 渡 ら せ給 へど も 、 御 法 躰 の御 姿 、 君 も 當 寺 へ入 ら せ給 ふ由 承
なみだ
り 、 天 晴 御 出 家 無 き 樣 に と心 底 に は存 じ候 へ共 、 世 の風 俗 に流 石 曳 かれ て、 今 ま で見 奉 る事 も
有 るやイ
な かり し に、 去 る頃 奥 の方 へ御 下 向 の由 承 り 、 如 何 な る御 心 も や と存 じ候 ひ し に、 不 思 議 に見
よもす が ら
よく じ つ
奉 る事 の嬉 ルさ よ と て、 落 涙 し たり け る に、 義 經 も 禪 林 房 も 重 善 が 詞 を 感 U て、 共 に泪 を 流 し
いた は り
給 ふ。 其 の夜 通 宵 語 り 明 し て、 翌 日重 善 は皈 り ぬ。 其 れ より し て誠 に 二心 も な く 志 を通 し たり
(六八)
とそ 。 治 承 李 家 追 討 の時 、 重 善 所 勞 ゆ ゑ 、 甥 の鈴 木 三 郎 重 家 、 箍 井 六郎 重 清 兄 弟 を 義 經 の家 人
に參 ら せ、 付 き 從 ひ奉 り 、 甚 だ 以 て忠 勤 を な す 。 鈴 木 三 郎 重 家 は 李 家 亡 び て後 、 老 母 所 勞 に付
(六九)
まし
き 、 紀 州 藤 代 に有 り 。 義 經 都 を ひら き給 ひ て後 、 其 の御 先 途 し れざ り し に、 奥 州 に在 ま す 由 を
一九七
や はぎ
一九八
聞 き て、 文 治 五 年 の春 、 藤 代 を 忍 び 出 で て奥 州 に下 る。 伯 父 鈴 木 二郎 重 善 、 是 も 義 經 に志 深
なみ
く、 重 家 が 跡 を追 ひ て奥 州 に赴 く の時 、 三 河 國 矢 矧 に て足 を損 じ て勞 り遲 引 す 。 其 の内 に義 經
沒 落 の由 を聞 き て、 三州 賀 茂 郡 高 橋 の庄 、 矢 並 の郷 に住 す 。 時 に落 髮 し て、 鈴 木 入 道 善 阿 彌 と
(七〇)さる移
號 す。 猿 投 山 に し て 一宇 の精 舍 を建 つと云去。
くま
當 時 鈴木 の姓 多 く は 此 の善 阿 彌 の後 胤 と云云。 鈴 木 の系圖 に 日 (は く)、 人 王 五代 孝 照 天 皇
五 十 三年 戊 午 化 人 あ り。 岩 基 隈 の北 、 新 宮 御 山 に於 て、 十 二所 權 現 と崇 め奉 る。 是 を新 宮
えのぎ
ど 號 す。 垂 跡 の初 あ、 權 現 龍 に乘 り 、 千 尾 の峯 に降 臨 あ り 。 奉 幤 使 の氏 人 を召 さ る る時
に、 漢 司 符將 軍 の嫡 子 、 眞 俊 進 み出 で て、 權 現 を新 宮 鶴 原 明 神 の前 に十 二本 の榎 木 の本 に
崇 め奉 ち。 之 に依 って榎 木 の姓 を賜 は る。 二男 基 成 は丸 子 の氏 を 賜 ふ。 三 男 基 行 は御 馬 の
草 稻 を獻 ず 。 之 に依 つて穂 積 の姓 を給 は る。 是 鈴 木 龜 井 の租 也 。
.(
鷲 尾 三 郎 ・源 八廣 綱 ・江田 源 三 ・熊 井 太 郎 ・駿 河 二郎 )
鷲 尾 は播 磨 の國 鷲 尾 庄 司 武 久 が嫡 子 也 。 義 經 鵯 越 を落 し給 ふ時 、 案 内 者 に召 さ れ、 熊 王 丸 と
(七 一)
云 う て、 歳 十 八 に て有 り け るを、 元服 さ せ て、 則 ち 諱 の字 を賜 は り、 鷲 尾 三 郎 義 久 と付 け 給
ふ。 父 武 久 は元 來 備 中 の國 の者 也。 領 地 を李 家 の爲 に押 領 せら れ、 浪 々 し て播 州 鷲 尾 と云 ふ所
に 住 す と 云 へり。
今 に武 久 が末 流 彼 の所 に有 り と云云。
異 本 義 經 記
かたうど
(七 二)
(七 三)
源 八 廣 綱 は 信 濃 の 諏 訪 の 一族 也 。 夲 家 追 討 の時 、 廷 尉 の使 に 上 り 、 院 よ り 兵 衞 尉 に 成 さ る と 云
う た ぞ 。,
.
(七四 )
江 田 源 三 弘 基 、 是 も 清 和 源 氏 の庶 流 と そ 。
(七 五)
みちすから
熊 井 太 郎 忠 基 は 丹 波 國 の住 人、 志 内 景 澄 が甥 也。 伯 父景 澄 は 季治 の時 、 悪 源 太義 夲 の方 人 し て
討 死 せ りり.
s
駿 河 三 郎清 重 の事 、 義 經 駿 河 國 淨 嶋 が原 を 通 り給 ひ し時 、 獵 人有 り て行 き連 れ、 絡 道 物 語 す
薑
を尋 籍
つて・則 ち家人 となり・觀墾
郎 と云 へり・豢
亡びて
るや 如 何 な る者 ぞ ど 名 を尋 ね給 ふ時 に、 駿 河 國 、竹 下 二郎 清 重 と答 ふ。 其 の時 見 參 し奉 り て
後・義 經 豢 追討 の篝
ひい き
うかか
後 、 頼 朝義 經 の中 不 和 に な り て、 義 經 奥 州 へ落 ち下 り、 秀 衡 を頼 み給 ふ時 、 秀 衡 頼 朝 公 と不 和
しのび
し のび
に し て、 義 經 を 贔屓 し奉 る事 強 し。 依 つて秀 衡 と示 し合 は せ、 時 々鎌 倉 の案 内 を窺 ひ給 ふ。 物
見 を鎌 倉 に竊 盜 入 れ置 き、 鎌 倉 の事 を奥 州 へ逋ず 。 清 重 も其 の竊 盜 の内 に て、 山 伏 の姿 に成 り
かた せ
て、 鎌 倉 に隱 れ居 た る と も 云 へり。 西 國 中 國 の者 を頼 み給 は ん が爲 に御 使 に遣 は さ れ た り と も
云 ふ。 固 瀬 川 に て舟 越 の者 に見 咎 めら れ て討 た れ た る と云云。
(七七)けはひ
おろ
鎌 倉 假 粧 坂 の上 に 六本 松 あ り。 清 重 此 の所 に休 み居 て鎌 倉 を見 降 し た る所 と俗 語 に云 ふ。
又 固 瀬 川 の西 、 民 家 の後 、 竹 藪 の際 に、清 重 笈 を 燒 き し所 と て松 あ り 。 笈 燒 松 と云 ふ。 片
瀬 川 は清 重 戰 死 の所 と里 人 云 ひ傳 へたり 。
一九九
(備 前 夲 四 郎)
やさ
たは
loo
ゑ
(七八)
(七九)
備 前 夲 四郎 成 春 事 、 久 我 内 大 臣 雅 通 公 の諸 大 夫 、 備 前 守 李 秉 房 が男 也。 安 元 三年 の夏 、 或 夜
(八〇)
(八 一)
あか
義 經 世 尊 寺 の邊 に し て、 松 殿 基 房 公 の青 侍 四 五人 行 き連 れ通 り し が、 月 の旭 か り し影 に て、 御
す
か
むす
曹 司 を見 て、 か か る譁 し き 人 こ そ な け れ と て戯 ぶ れ た り し 程 に、 義 經 も酒 に醉 ひ た る者 よ と思
かど
ひ て僞寄 し宥 め て行 き過 ぎ給 ふ を、 四 五人 の者 共 手 を結 び合 ひ て、 通 さざ り し ゆ ゑ、 既 に事 に
なだ
な ら ん と し た り し 處 に、 前 廉 よ り義 經 の跡 に付 き て來 た る男 一人有 り し が、 此 の由 を見 て中 へ
いつぞや
走 り 入 り 、兎 角 (
無 事 に)宥 め て 、
殿 下 の青 侍 共 を先 へ皈 し 、
御 曹司 を守 護 し た る躰 な り し ゆ ゑ 、
ふるまひ
義 經 、御 邊 は 誰 人 ぞ。 某 を も 見知 り給 へる に や と 宣 ひ し に 、 象房 申 す 樣 、 日外 長 成 公 に て見 奉
り 候 。 君 は 正 し き故 左 馬頭 殿 の御 公 達 に て渡 ら せ給 ふ に、 危 き御 擧 動 か な。 某 は本 國 越後 の城
にイ(八二)
の氏 族 に て候 處 、 城資 國 と中 惡 し く妨 げ ら れ 、本 國 を 浪 々 の身 と 罷 り 成 り 、 只 今 は 久 我内 府 殿
の仕 官 とな り 候 と申 し て、 長 成 朝 臣 の許 ま で途 り 屆 け 、い騒 懇 控瓣 響 ひ た り 。 義 經 も 禮 を な し て
(八三)
みまか
皈 し給 ふ。 木 曾 退 治 の時 入 洛 有 り て、 備 前 守 を尋 ね給 ひ し に、 終 命 り た り しゆ ゑ、 一子 備 前 夲
四 郎 成 春 を家 人 に仕 ひ給 ふ と に や。
(
鎌 田兵 衞 娘牛 王)
(八四)
(
八五)
鎌 田 兵 衞 が 娘 牛 王 は、 新 夲 剣 官 資 行 に嫁 し、 最 最 愛 し た り。 資 行 が 母 は牛 王 が 母 方 の 叔 母
也 。 牛 王 常 に李 家 の繁 昌 を牒 瞭 く 思 ひけ る にや 、 或 時 何 とな く 資 行 に云 ひ け る は、 吾 が 方 樣 の
人 々 は、 有 る か無 き か の風 情 を見 聞 く に付 け ても 、 口惜 しく 侍 るな り 。 君 御 志 變 ら ず は、 若 し
源 家 の人 々 の思 ひ 立 ち給 ふ事 も有 ら ば、 必 ず 力 を合 は せ給 は ん に や と云 ひ た り し程 に、 資 行 、
そね
斯 く夫 妻 の鰾 艦 を な す 上 は、 疎 略 す べき に非 ら ず 、 若 し思 ち 立 ち給 ふ御 方 も 有 ら ば、 一番 に資
轡
・新翡
しけ る。兩
簒 方 へ螂
段轄
面白 かりければ・酒な んど出だ し爨
監物 太郎頼 方が弟 ・武 藤小 二郎蘿
姦
きたり・蠱
へた る髴
月隣 なく亭 多 入り たる景 色読
はしかぐ
驫
の凱 護 ひ け る を・ 資 行 ・ 諍 ひ給 ひ そ・ 其 の時 は斯 く 宣 ひ た り。 挫
侍 る べきや・智
そ こは かと
で女礎騁
事作蠱
算
殿 の酒狂 の癖婁
たり しに・圭
も讐
て皈り しとにや・安埀 一
年正月 三日・蓄
に磊 静
と是を寥
の人 々獸畢
も嘆
陳 じけ る程 に・蘿
は加 樣 籟
も轡
左
たた
より通夜 して蠍
靭七回忌 に當 れり・其 の方樣
毒
二〇 一
共 に彼 の璽
爨
き た り し程 に、 髮 を も打 損 じ て取 り 亂 し た り。 牛 王 も興 醒 め て思 ひ け れ ど も諍 はざ り し。 資 頼
く斯 く牛 王 が我 を頼 み た る 詞 の相 違 す る事 の意 得 ず と 云 ひ て、 持 ち た る扇 子 に て牛 王 が頭 を敲
かしら
有 る覽 、 誰 も沈 醉 し て は無 若 な き事 酒 の習 ひ な ん ど云 ひ し を、 資 行 、 我 は酒 に は醉 はず 、 正 し
るゆ ゑ・圭
我 が 兄 頼 方 な ど若 し聞 き な ぼ 、 資 行 ま で も難 儀 な る べし。 努 々有 る べう も な き こ とと 制 した
ゆめゆめ
ま れ しな ど 、あ
郎ら
睡ぞ 云 ひ し程 に 、 (
資 頼 聞 き て) 今 此 の世 に か か る 心 の付 き し事 以 て の外 也。
圭
人 數 盈 を傾 け し 程 に、 資 行 沈 醉 の餘 り に や、 牛 王 が常 々語 り し事 な ん ど を云 ひ出 だ し た る に、
たり・誓
行 こそ 參 ら あ と 語 るに、・牛 王 も女 心 の無 墓 も う ち と け語 る程 に 、李 家 の繁 昌 を僭 み、 源 氏 の衰
異 本義 經 記
るさ
した
とど
二 〇 二
の由 を 云 へり 。 資 行 以 て の外 な る氣 色 し て、 佛 事 はさ る事 な れ ど も 、 道 の逗 留 密 夫 の爲 に
け しき
逢 に眤 し き者 の方 へ立 寄 り、 其 の夜 は彼 方 に逗 ま り、 明 る,
四 日 に牛 王 資 行 が方 へ皈 り て、 し か
ぐ
け て、袰
許 へ皈 り住 みたり・資行 莓
生 .
虧
圭
く思ひたる我 が心 の.
響
ひ て艦
義 意 に任 せて
よ愚
や。 但 しは 源 氏 の方 人 を頼 ま ん が 爲 かと 云 ひ て散 々 醜搭 歟 引 。 牛 王 は聊 かも 諍 はず し て、最 前
なり、資行 が方 急
酒 狂と思ひ しに、 かかる不覺 人とは知 らずし て、.
驥ぎ
蒼
資 行 を嫌 ひ し と意 得 た り し程 に、 或 時 資 行 が母 、 鎌 田 が後 家 の方 へ部 絛 れ し其 の鵬 翫 ・ 義 經 鎌
いは
かたらひ
田 が後 家 の所 に居 給 ふを 見 て、 其 の翌 日資 行 が 母 、 夲 剣 官 康 頼 が 方 へ行 き て、 牛 王 が 資 行 を 瀞
い から か
メ
け た る こ そ謂 れ 候 。今 は牛 王 、 牛 若 御 曹 司 と機 關 を な し て、 偏 に謀 叛 の事 を 勸 む る と聞 え候 な
ど 語 ら ひ出 だ し た る に、 康 頼 聲 を 嗔 恚 し、 かか る卒 怱 な る事 を 承 り 候 物 哉 。 當 時 誰 有 り て謀 叛
と 云 ふ事 思 ひ 立 つべき や 。其 の上 九 郎 御 曹 司 いま だ 二十 にだ に成 り 給 は ぬ人 を 、 誰 か方 人 す べ
き 。 此 の事露 顯 せ ば 、 誠 か 僞 を 正 さ れ ん時 、 若 し しか ら ざ る時 は、 獪 聾 憲と
を聞 か ん爲 ・蹤 か を
あなかしこ
もら
も責 め問 ふ べき な れ ぼ 宀其 の證 據 な く ば、 由 々し き身 の大 事 に な る べし と 云 ひ た り け れ ば、 女
は相 違 し て、 穴賢 、 人 に な洩 し給 ふ な。 告 げ知 ら す る 者有 り て斯 く は申 し た り。 其 の實 を知 ら
ゆめゆめ
ず 、 若 し 夲家 へ聞 え て は、 身 の爲 如 何 に候 と て、 母 ぼ皈 り ぬ。 其 の夜 に 入 り て、 康 頼 資 行 が方
あなか
とか
へ越 え て、 斯 う斯 う母 儀 の宣 ひ し そ。 努 々有 るま じ き事 也 。 牛 王 女 の不 縁 の事 は世 に有 る習 な
れ ぼ、 強 ち に尤 め給 へる事 に非 ら ず 。 大 事 の儀 に て候 程 に と制 し て歸 り た る と云 へり 。 此 の康
頼 は左 馬 頭 (
殿 ) の代 にも 常 に參 り し とそ 。弓 馬 の事 など 義 朝 の宣 ふ旨 を 信 じ た る と なり 。 左
異 本 義 經 記
とぶら
典 厩 亡 び給 ひ し後 、康 頼 尾 張 國 の守 護 た り しゆ ゑ、 水 田 三 十 町 を 寄 附 し て 一宇 の精 舍 を 建 立
し、 義 朝 の御 菩 提 を弔 ひ奉 り し と也 。
の由 申 す。 黷
の厚 志 を感 じ思 召 さ れ、 御 褒 美 有 り し と そ。 後 代 の驗
しるし
今 の内 海 の大 坊 是 な り。
(八八)
すさい
建 久 元 年 十月 廿 五 日、 頼 朝 公 、 左 馬 頭 殿 の御 廟 へ御 參 詣 の時 、 須 細 治 部 大 輔 爲 基 に御 尋 ね
有 り し に、 し か ぐ
あら
・に我 が齷 黝
を も圖 し置 く べき と の 仰 せ 有 り と 云 々。 其 の時 の頼 朝 公 の御 影 、 今 に大 坊 に あ
金王 丸等長 田豢 人 と戰 ひし暫
て小警
り・鮮
橋
り。 義 朝 を討 ち奉 り し測 殿 の跡 、 内 海 の田 上 と云 ふ處 に あ り。 同 じく 御 頭 を濯 ひ し所 と
つぶ
て・大坊 の門前 に小池あり・報遡
ど 云 へり 。 大坊 に其 の時 の縁 起具 さ に あ り。 義 朝 並 び に政 家 が墳 墓有 り。 至 り て古 し。 長
むね
(九〇)はりつけ
田 忠 致 、先 生景 致 、 地 磔 に掛 り し所 と てあ り。
(
關 原 與 市 ・牛 王 最 後 )
とか
(九 一)
安 元 三 年 初 秋 の頃 、 美 濃 國 の住 人 、 關 原 與 市 重 治 と云 ふ者 在 京 し たり 。 私 用 の事 有 り て江 州
にイ
をりふし
さくり
へ赴 き たり 。 山 階 の邊 に て御 曹 司 に行 き 逢 ひ 、 重 治 は馬 上 、 時 節 雨 の後 に て、 蹄蹟 に水 の有 り
けなげ
あり
しを 蹴 掛 け 奉 る。 義 經 其 の無 禮 を 尤 め て重 治絡 に討 たれ ぬ。 家 人 は皆 逃 げ たり 。 重 治 が 男 犬 王
さま
丸 と て十 二三 成 る小 童 の小 太 刀 を 拔 いて立 ち 向 ふ。 義 經 其 の太 刀 を打 落 し、 小 童 の健 氣 な る形
勢 を見 て打 捨 て て通 り給 へり。
二〇三
レ
けあげ
けあげ
二〇四
今 此 の所 を 蹴擧 と 云 ふ。 清 水 あ り。 蹴擧 の水 と 云 ふ。 重治 が討 た れ し所 と 云 ひ傳 ふ。
たた
よ
犬 王 丸 が母 方 の叔 父鯑 嶋 李次 と 云 ふ 者如 何 聞 き た り け ん、 犬 王 丸 が後 見 し て、 夜 甦 に鎌 田 が後
ためら
家 の門 を敲 き、 李 相 國 殿 よ り御 使 な る ぞ。 爰 を開 け よ と喚 ば は り し程 に、 牛 王 は夲 家 よ り御 曹
さめ
はかな
司 の討 手 來 た る と 心得 て、 小 長 刀 を取 り て待 ち掛 け た る に、 内 は暗 し、 鮫 嶋 を初 め獪 豫 ひ居 た
あ へなく
い まし
り し に、 獪 も構 へて待 ち たら ん に は、 左右 な く は取 ら れ ま じ き に、 女 心 の無 墓 さ は、 小 長 刀 を
し かい
打 振 つ て奔 り出 で た り し程 に、 不 才 生 捕 ら れ た り。 禁 肆 め て大 宮 を下 り に 五條 の邊 ま で連 れ行
(九二)
き け る が、 道 に て刺 し殺 し捨 て た る と に や。 牛 王 が下 女 、 片 岡 弘 經 が方 へ馳 せ て、 此 の事 を告
(
九 三)
げ た る に、 弘 經 兄 の片 岡 二郎 經 春 、 去 年 よ り大 番 役 に て在 京 せ り。 俘 ひ て弘 經 も 京 にあ り。 女
もイ
を思 ひ て鎌 田 が後 家 の近 所 に通 ふ。 其 の夜 彼 の女 の方 に有 り し が、 太 刀 取 って追 ひ かけ た れど
て・死骸を彼 の寺 の内 舞
り・佛事作善藏
懋
算
と 一
云へ
も、 早 敵 の者 共 行 方 知 れず な り ぬ。 牛 王 が 死 骸 の途 中 に有 り し を肩 に打 掛 け て歸 り し に、 母 は
囃く泣く 六波羅蜜寺 の僭 を顰
あゆま
いだ
り。 牛 王 は鎌 田 政 家 が 乙 娘 に て、 今 年 二十 一な り 。 去 る李 治 の亂 の時 、政 家 三 條 堀 川 の吾 が 宅
に火 を 掛 け 落 し時 、 妻 は兄 二人 の子 を 歩 行 せ、 牛 王 を 抱 懷 き て逃 げ 延 び 大 宮 に住 み しと そ 。
(
九四) まつ
(
九五)
六 波 羅 蜜 寺 の内 に東 向 の小 祠 あ り 。辨 才 天 な り 。俗 語 に 、
牛 王 女 を鎭 り し瓧 な り と 云 ひ傳 ふ 。
(
義經奥州下向)
其 の頃 夲相 國 の常盤 が 子 ど も皆 法師 に な せ と 云 ひ つる に 、 誰 が 計 ら ひ に て牛 若 丸 を ぼ男 に な
異本 義 經 記
とど
(九六)
し た るぞ と宣 ひ た る由 沙 汰 有 り しを聞 き て、 常盤 も長 成 朝 臣 も薄 氷 を 踏 む 心 地 し て、 急 ぎ奥 へ
(九七)
いさ
下 り給 ふ べ し と宣 ひ 、鞍 馬 の阿 闍 梨 も兎 角 諌 言 め給 ふ ゆ ゑ、 さ ら ば下 る べし と て、 八月 申 旬 都
を 立 ち給 ふ。 聖 門房 は京 都 の事 を 通 ぜ ん (が) 爲 に都 に 止 ま り、 辨 慶 法 師 、 片 岡 八郎 は供 し た
る と 云 へり。
(
義 經 李 家 追 討)
義 經 二十 二 の年 、 治 承 四 年 頼 朝 公 義 兵 に よ つて、 季 和泉 を 出 陣 有 り 。 十月 廿 一日 黄 瀬 川 の宿
ひ よど りこ え
やぶ
ー公 に(
九八
に し て初 め て頼 朝
謁
し)
給 ふ。 壽 永 三 年 正月 入 洛 有 り て、木 曾 義仲 を 李 ら げ 、 同 じ く 二月 李
家 三 草 山 の陣 を 夜 討 に し て、 鵯 越 を 落 し、 一の谷 の城郭 を印 時 に 敗 つ て、 宗 徒 の夲 氏 を討 ち取
はか
り 、 其 れ よ り 讃 岐 の八 嶋 、 長 門 の赤間 壇 浦 にし て、 夲族 を 悉 く討 つに、 向 ふ所 必 ず敗 らず と 云
ほこ
いく さ
ふ事 な し。 圖 る所 必 ず 落 ち ず と 云 ふ 事 な く 、其 の右 に出 つ る 人 な し。 弱 冠 の時 よ り 、 心猛 く 勇
きは
き
ま しく し て、其 の戈先 に向 ふ 者 な し。 先 祀 頼 義 義 家 等 の師 を 蕁 ね求 め、 鬼 一法 眼 が軍 法 の奥 義
そな
を 究 め 、 秀衡 な ど に も常 に清 衡 等 の軍 慮 を聽 い て、 其 の道 を得 度 有 り と云 へり。 一の谷 の軍 散
きよくろく
(に)立 つ・ 義 饗
赤 地 の錦 の直 垂 にく
纏 雛 .鐙
を養
鍬 形 打 つた る囀 .
の緒 を 緬 め ・
じ て後 、首 實 檢 の時 も 、後 藤 兵 衞 實 基 父 子 二十 五騎 に て前 に備 へさ せ、 田 代 冠 者 信 綱 十 八 騎 に
なぎなた
て前 の嚢
二〇五
薙 刀 を横 た へ、 曲 最 に腰 を掛 け て中 央 に有 り 。 左 に佐 藤 繼 信 、 同 忠 信 、 鈴 木 重 家 、 螽 井 重 清 、
かこ
(
九九)
片 岡 弘 經 、 熊 井 忠 基 、 常 陸 房 、 江田 弘 基 に構 園 ま せ、 右 に は鎌 田 盛 政 、 同 光政 、 伊 勢 義 盛 、駿
・
ゾ
・
二〇六
河溝 重 、源 八 廣 綱 、備 前 成 春、 八 瀬勘 八忠 實 、 菊 池 八郎 な ん ど備 へさ せ、 堀 景 光 、 武 藏 房 、 佐
板 垣 八百 驫
、磐
、 熊 谷、 缶
いそ べ
畠 山憙
あ り。
志 藤 八 長 俊 に分 捕 高 名 を 正 さ せ 、 三方 の後 に は、 義 經 の手 の郎 從 五百 餘 騎 に て打 圍 む。 一町 前
ミ
に は土 肥 ・ 岡 崎 千 餘 騎 に て鑵 へた り ・ 土 嘆
やぶ
鱶 力驤まの上 に て頸 共 を 集 め、 高 名 不 覺 を も 尋 ね 給 へり 。 舍 兄 の蒲 殿 は 磯 邊 を差 し て逃 ぐ る敵 を
おそろ
追 は れ け る が、 是 を見 給 ひ て、 義 經 は意 得 ぬ陣 の取 り 樣 不 審 さ よ 。敵 は 既 に敗 れ し に何 事 有 り
いく さ
つた
お はしま
てか斯 く騰 し く陣 す覽 。 九郎 は勇 也 と宣 へど も、 敵 と な れば 能 く 怖 しき にや と宣 ひ し とそ 。 義
あぶ
經 (此 の事 を) 後 に聞 き給 ひ て、 不 覺 な る 蒲 殿 の 兄 な がら も加 程 に師 の拙 なき 人 に て御 坐 す
まけ
刺 蠡 ふる事 (
有 り)、 又兵 二嘉
、 三驫
麁
の
み
へて直 に
ぞ 。將 の軍 に勝 ち て首 實 檢 し て高 名勝 劣 を尋 ぬ る に、 油 斷 に兵 を 立 て て有 る時 は、 敵 の浴 れ者
も
身を捨 てて將 の陣 へ紛れ入り・讐
騒 け 入 る事 も有 り。 然 れ ば 勝 ち た る軍 に思 ひ の外 な る負 を す る 物 に て 侍 る ぞ。 其 れ 而 已 な ら
ず ・ 將 の亡命 立處 に有 るゆ ゑ、 軍 も 負 け て怖 る る事 な く 、 勝 ち て油 斷 す る こと 勿 れ と 書 か れ し
喋
り、大夫智
と云 ふ。
は是 也・ 斯 く軍 のお
懸 に欝 嚢 せ ば こ そ、 大 手 生 田 の森 に て新 中 納 言 が 郎 從 と不 覺 な る軍 を し給 ひ
しそ か しと 川 越 の重房 に 宣 ひ し と に や。
コ 元暦元年八旦 ハ日、義 經左衞門少尉 になる.使 の諮
の覇
爲姫 と云 へる、籍
て美麗 の沙汰あり.蓬
是 を謂
護
ども、鎌倉殿 の
頃 日 頼 政 の嫡 男 故 伊 豆守 仲 綱 の 一子、 伊 豆 の冠 者 有 綱 、歳 十 六、 義 經 の聟 と す。
河 羹 郎轟
思 召 を憚 る 處・ 鸚 は す べき の由 、 頼 朝 公 の仰 せ に依 って、 八 月 十 四 日 重 頼 息 女首 途 す。 重頼 家
異本 義 經 記
の子郎 從 等 を付 く る と そ。 九月 五 日婚 姻 あ り。
(
義經大甞會前驅)
み かげ
ふつつか
びんのかみ
え もんかたさか
ものい
つ
すねこ
をか
(一〇三)
ささや
同 十月 廿 五 日大 甞 會 の行 幸 義 經 前 驅 す 。 京 童 部 の囁 き し は、 同 U 東 の士 な れ ど も 、木 曾 義 仲
むま れ つき
あ いぎ やう
も のごと
は見 懸 よ り無 形 に し て、 鬢 取 り 亂 し、 裝 東 の衣 紋 片 降 り に言 ひ た る詞 付 き 素 媚 び て険 し か り
し が 、 義 經 其 れ に は 格 別 變 つ て 、 天 性 尋 常 に 愛 敬 有 り て、 物 毎 に京 馴 れ た る 風 惰 ぞ か し 。 さ れ
ていたらく 亀
ど播
鳳イ
つぶや
かたはら あい
ど も 夲 家 の 人 々 の か か る 時 の 爲 躰 に は 似 る べ く も な く 劣 り て見 え た る な ど 謐 き た る に 、 傍 に 藍
い お
ず
ばか
老人イ
いやとよ さ
(一〇四 )
摺 り の直 垂 着 た る六 十 計 り の (
男 の)、 辭 言 、 左 は 宣 ひ そ 。 木 曾 は 父 帶 刀 義 賢 討 た れ し 時 三 歳 な
そ だ
やうやう
るを 、 母 抱 懷 き て信 濃 へ逃 げ下 り、 乳 母 の夫 木 曾 の申 三兼 任 を頼 み た り し に、 兼 任 請 取 り て、
す ね
わ ら
木 曾 の山 家 に育 立 ち 、 信 濃 よ り外 の事 を十 七 八 ま で は や は かゆ め にも 知 ら ず 、 漸 々 に十 計 り に
ゆか
て京 上 り し た れ ど も、 山 家 育 立 ち の詞 の拗 張 た るを 険 笑 はれ て、 京 にも は かば か しき方 へも出
ちからわざの み
かたくな
をか
でず し て、 又 木 曾 へ露 り住 み しゆ ゑ、 裝 東 の衣 紋 な ん ど の曲 み た るを も 直 す 心 も な く、 只 弓
き
矢 、 力 業 而 己 に て、 其 の心 計 り を 基 と せ し程 に、 京 の者 に逢 ひ ては、 物 事 癡 に、 嘆 し き事 も 理
あま
す
な り。 義 經 は十 六 (の)歳 ま で鞍 に兒 し て、 京 の差 別 も能 く見 聽 き、 其 の年 に奥 へ下 り給 ひけ
あ づ ま
れ ど も 、幾 程 も な く 又京 上 り し て、 十 八 九 ま で京 に住 み て、 都 の事 は甘 きも 酸 き も能 く 知 り 給
あ りさ ま
ま こと
か
ふ ぞ。 吾 妻 の事 は無 案内 の事 も多 く有 り な ん。 去 々年 先 帝 の御 禊 の行 幸 の時 、 李 家 の人 々 の供
奉 せ ら れ し分 野 、 寔 に其 の事 柄 物 馴 れ て優 に、 見 懸 け よ り 物 重 く 有 り し事 も 、 丞家繁昌なれば
二〇 七
ご〇 八
ぜまや
あつばれ
お の つ から 左 は有 る べし。 今 見 給 へ、 源 家 の世 と な り 武 家 の棟 梁 の御 連 枝 な れ ば、 天 晴 と他 よ
り見 る にも 重 く 優 に氣 高 く 見 ゆ べき ぞ か しと 云 ひ た ると にや。 此 の時 院 の御 厩 に 立 てら れ し甲
ひ
斐 國 よ り出 で た る黒 の御 馬 を 義 經 に賜 は る。 三 寸 の御馬 と そ 。 希 代 の逸物 に て、 其 の身 大 夫 の
(一〇五)
尉 な れ ば、 此 の馬 をも 祕 藏 の餘 り に、 大 夫 黒 と 名 付 け 給 ふ。 一の谷 を も 此 の 馬 に て 落 さ れ し
が、 八嶋 に て 繼 信討 た れ し時 、 僣 を請 じ此 の馬 を牽 かれ し と云 へり 。
(
屋嶋合戰)
元暦 二年 二局 十 六 日、 義 經 八嶋 へ首 途 の時 、 大 藏 卿 泰經 朝 臣 、 彼 の亭 に至 り 給 ひ宣 ひ け る
は かりご と
めぐ
は 、 吾 が 家 にあ ら ざ れ ば勇 士 の道 知 ら ず と雖 も、 推 量 の及 ぶ處 、 大 將 た る べき人 の匹 夫 の如 く
輕 々 しく 一陣 に進 み 給 ふ事 然 る べか ら ざ る か。 次 將 に譲 り て其 の身 は 退 き て謀 計 を廻 ら し凶 徒
を誅 伐 し給 ふ べし と宣 ひ た る に 、義 經 の云 は く 、仰 せ の邁 り承 り候 へど も 、戰 場 に向 ふ の時 は、
我 人 一陣 に進 ま ん事 を 兼 ね て は思 ふと 雖 も 、其 の期 に至 つ ては 退 き易 き物 に て候 。 然 る時 は將
の み
の勢 に依 つて軍 兵 其 の意 後 れ 候 。 某 に於 ては 命 を 塵 介 よ り も 輕 く し 、逆 徒 を 一時 に責 め季 ら げ
ん と而 己存 ず る よ り外 、 他 事 なく 候 と宣 ひけ る とそ 。其 れ よ り 四 國 へ打 立 ち 給 ふ と 云 へり。
摩 利 支 天 十 七 箇 の印 明 の内 、 習 ひ有 り。 後 白 河 院 義 經 傳 へさ せ給 ふ とそ 。 弱 冠 の時 よ り東
光 房 圓 忍 よ り 此 の印 明 の習 ひ を傳 へ給 ふ。 八嶋 の時 、 源 氏 の軍 兵 を 大 勢 と 李 家 の方 へ見 な
し た る事 、 義 經其 の仰明 の法 を な し給 ふ し る し と密 教 の方 に て云 へり。
異 本 義 經記
八嶋 の軍 の曦
大臣 殿宣 ひしは・源氏 は爨
なるに・薯
の大警
見な して驥
しく舟 に乘り
た るゆ ゑ 、 念 な う内 裏 を も 燈 か せ た る 事 の口 惜 し さ よ と 宣 ひ し に、 御 前 に門 脇 殿 居 給 ひ し が、
源 九 郎 は猛 鑢 男 と承 り 候 。 敵 の静 欝隊 を 作 つ て待 ち掛 け候 に も 怖 れず と こ そ申 し候 へ。 精 兵 に
賤 は せ候 はば 、射 取 る 事 も や 候 は ん と 宣 ひ し 程 に、 源 九郎 を見 知 り た る者 や 有 る と 尋 ね 給 ふ
(一〇六)
むかば
に、 越 中次 郎 兵 衞 盛 繼 申 しけ る は、 九郎 は 色白 き向 齒 の少 し指 出 で た る、 し る か ん の男 と沙 汰
承 り 候 と 申 した るに 、 飛 騨 三 郎 左衛 門 景 經 申 し け る は、 周 防 國 の住 人 、 岩 國 三郎 兼 末 、 近 き頃
かけ
ま で京 家 に候 ひ し程 に、 見 知 り た る に て こそ候 は ん と申 す。 則 ち召 さ れ て御 尋 ね有 り け れ ば、
く靉
麟
にして上馨
むかば
たか
なく、 肩 の小,
趨.
者にて候。京童部 は源 九郎 は空見す
兼 末 申 す や う 、 某 去 年 攝政 殿 に候時 、義 經 參 候 す。 某 配 膳 仕 り て能 く見 知 娠候 。 見 懸 二十 計 り
覧 え て・魯
はん か・近江國 の源昏 本 九郎韆
が向齒 の響
指出 でたり。左兵靄
晟
こと ば つき
りし時、 そ
る事 癖 な り と 申 す 。其 の如 く 折 々上 の方 を 見擧 げ 候目 付 す る事 癖 に て候 。 向 齒 の事 は人 違 ひ に
て衡
り 齒 の兵 衛 と京 童 部 の申 し習 は し候 な れ ば、 同 名 ゆ ゑ 左馬 の九郎 と申 し な し た る に や。 口釋 な
ど は誠 に遥
貍 か に て・ 木 曾 な ど とは 事籤 つて殊 の外 京馴 れ て見 え 候 之申 し た る に、 如 何 し て討 ち
の住人慧
紀 四郎親清 繕 兵 の毒
翰なればと て、嶺
三郎築 諸共 に玉蟲 が舟 に乘 せ
取 る べき謀 も や と宣 ひ し に、 義 經 は 好 色 に て女 を (
思一
ひ 候由 を 蕪 未申 し た る に よ り、 さ ら ば計 ら
〇七)
こぶね
へさき
ひ て射 取 れ と宣 ひ た る に依 つて、 其 の日 の晩景 に玉 蟲 と 云 ふ傾 城 を 締 に乘 せ て舳 に 扇 を 立 て、
伊畿
て、 源 氏 の方 へ向 ひ け れ ど も、 源 氏 の方 にも 心 得 て、 義 經 も 見 え ず。 扇 は那 須 與 囲宗 高 が射 落
ご〇九
tilo
(一〇八)すけたう
せがい
し たり け れ ば 、 其 れ を 感 U て、 阿 波 國 の助 當次 の舟 の編 に 立 ち顯 は れ て舞 ひ た り け る に、 頸 の
くか
あが
かぶと しころ
骨 を射 拔 (か れ ) て倒 れ 死 に に け り。 惡 七 兵衞 景 清 が義 經 な れ ば と て 怖 る べき に非 ら ず ・ 手 擁
り に し て海 へ沈 め ん と 荒言 云 ひ て陸 へ擧 り た れ ど も、 水 尾 屋 十 郎 が兜 の鞴 を 曳 き切 り た る計 り
に て仕 出 (だ し) た る事 も な か り し。 鞴 を曳 き切 ら ん よ り は持 ち た る薙 刀 に て水 尾 屋 が霊 臘 薙
いで討 ち 取 り た ら ん に は助 當 が報 い に も な り な ん と云 ひあ へり とそ 。 新 居 紀 四 郎 は 壇 の浦 に て
痛 手負 う て本 國 伊 豫國 へ落 ち下 り し に、 河 野 と 一族 な れ ば 、 河野 通 信 、 同 通 經 に 此 の事 を 語 り
しも
し と に や。 通 經 は義 經 の鳥 帽 子 子 、 軍 法 の弟 子 也 。 參 會 の時 、 逋 經 、義 經 に語 り し と そ。
(一〇九)
(二一〇)
長 谷 川 本 に、 纐 纈 源 五 盛安 、天 性 雙 六 の數 寄 に て院 中 へも 召 さ れ てう ち け る程 に、 若 き人
(111)
C1= 一
)
々、 双 六源 五 と宣 ひ し。 或 時松 殿 に (て) 近 江 の山 本 兵 衞 尉 義 經 と雙 六 を う ち た り け り。
其 の折 柄 丹 波 國 よ り 參 ら せ た り し う ち栗 御 前 に有 り し に、 勝 ち たら ん方 に賜 は り な ん と仰
さい
せら れ け るゆ ゑ 、 三 番 一徳 の雙 六 あ り。 盛 安 は雙 六 の上手 に て有 りけ れ ども 、 賽 の目 出 で
ず し て義 經勝 ち た り。 其 のう ち栗 を山 本 が方 へ遣 は さ れ し に、 如 何 な る 人 の 書 き た る に
そり
や 、 う ち 栗 の入 れ物 の下 に狂 歌 を書 き付 け た り。
双 六 の源 五 が賽 のう ち 栗 を 反齒 の兵 衞 か ち栗 にす る
山 本 兵 衞義 經 が向 齒 の指 出 で た る を同 名 な れば 大 夫 到 官 義 經 ど云 ひ 誤 り た る に や と 云 へり 。
(
壇 浦 合 戰 ・義 經景 時不 和)
壇 浦 に て丞家 の人 々入 水 の時 、 能 登守 教 經 、 義 經 を目 懸 け て義 經 の舟 に乘 り移 り給 ふ の由 云
へりむ
東讐 嶷 募 騨 容 の鑒 江守蕘 の手へ討ち取る覧 えたり・葎 臨 三郎左舘
沒落 せしかば・慧
源八廣綱 を以 て京都 へ奏 せら る.合戰 の瓷
具
ぜ
なけれどもイ
義 經 を目 掛 け、 其 の船 に乘 移 る。 義 經味 方 の舟 の間 遠 き に輕 々と 飛 び 乘 り 給 ふゆ ゑ、 景 經
日・曁
輕 熟 な らず 、 又 伊 勢 三郎 が舟 に乘 り て討 死 し た る沙 汰 あ り 。
に嚢
し善
景時 が饗
難
亭
梶禁
一
棗 墜 族奉
豊
員 をして、讐
さいはひ
ひ つじ
へ書状 を
の成光が夢楚 、淨 衣着 たる男 の立文 毒 げ て來 たる有 り。是
げの如 し・又八靉
二二
北 の時も・味方 の堊 幾 ばくならず、然 る籔 萬 の勢簪
た り。 夢 覺 め て後 、 成 光 相 語 る に依 つて、 未 の日 は構 へて勝 負 を決 す べき の 由 存 じ 思 ふ 處
かま
石清水 の (
御 使 と) 覺 え て、 彼 の御 文 を 拜 見 す る の處 に、 李 家 未 の日沒 す べし の由 載 せら れ
先づ三月 甘
西 海 の御 合 戰 の内 、吉 瑞 是 多 し。 御 卒 安 の事 は象 ね て紳 明 の示 す 祥 也 。 所 以 者 如 何 なれ ば 、
は く、
獻 ず 。 初 に は西 國 の合 戰 の時 奇 瑞 の晶 々を 記 し、 奥 に至 つて義 經 の事 を 支 へ申 す。 其 の詞 に 云
き由仰 せ下さ るるとにや・同四髢
威 を 顯 はす の條 、 甚 だ 感 じ 思 召 す 處 な り 。 又賢 所 、 神 璽 以下 の御 寳 物 無 異 に花 洛 に 入 れ奉 る べ
勅 使 と し て、 義 經 の許 へ遣 は さ れ、 仰 せ ら る る は、 此 の度 夲 家 の逆 徒 を悉 く 征 罸 し て、 既 に武
さ に 廣 綱 に御 尋 ね あ り。 御 感 の餘 り、 廣 綱 を ば 左兵 衞 尉 に な さ る。 則 ち院 よ りも 大 夫 尉 信 盛 を
元暦 二年浄 薦
異本義經記
\
くか
あま
一二 ご
出 現 し、 敵 人 の方 へ見 え し と云 へり 。次 に去 々年長 門 國 の合 戰 の時 、 大 箍 一つ出 で來 た り、
はな
姶 は海 上 に淨 み、 後 に は陸 へ上 る に、泉 郎 是 を 怪 しみ 、 三 河守 殿 の御 前 に持 參 す。 六人 が力
ふだ
を以 て獪 持 て煩 ふ程 也 。 時 に其 の甲 を放 つ べ し の由 相 議 す る の所 、 是 よ り 前 、 夢 の 告 げ有
ひるが
り 。 彼 の事 を 思 ひ合 は せ て、 三河 守 殿 制 禁 を加 へ給 ひ、 剩 へ簡 を付 け て放 ち遣 は さ る。 夲 家
件イ
沒 落 の期 に臨 み て、 彼 の蠡 再 び源 氏 の御 舩 の前 に淨 み出 で た り。 簡 を以 て知 れ り。 同 時 に白
鳩 二羽舟 の屋 形 の上 に飜 へり舞 ふ。 其 の時 に當 つ て李 家 宗 徒 の人 々海 底 に沒 す 。 又 周 防 國 の
合 戰 の時 も、 白 旗 ↓流 中 麟 に出 現 し て暫 く 味 方 の軍 士 の眼 前 に見 え 、 終 に雲 弘麟 に蟾 ま り 畢
ん ぬ。
又 曰 はく 、 到 官 殿 君 の代 官 と し て御 家 人 等 を 副 へ遣 は さ れ 、 合 戰 を 途 げ 訖 んぬ 。 然 る に頻 り
はげ
に 一身 の功 の由 存 ぜら る ると 雖 も 、 偏 に多 勢 (ゆ ゑ な り)。 人 毎 に剣官 殿 を 思 は ず 、 志 君 を 仰
ぎ 奉 るゆ ゑ 同 心 の勲 功 を 勵 ま し畢 ん ぬ 。 依 つて丞-家 を 討 滅 の後 、到 官 殿 の分野 、 日來 に 超 過
なまじひ
せり 。 士 率 の所 存 皆 薄 氷 を 蹈 む が 如 し。 敢 へて眞 實 和 順 の志 な く 、就 中 景 時 御 所 の近 士 と し
て憖 に嚴 命 の趣 を 伺 ひ 知 る の問 、 毎 に彼 の非 據 を 見 て、 關東 の御 氣 色 に違 ふ歟 の由 諫 め申 す
あた
やや
今イ
處 に、 諷 詞 還 つて身 の仇 と な り、 動 も す れ ば刑 を招 く も の也。 合 戰 無 異 の命 、 伺 候 據 る所 な
し。 早 く御 冤 を蒙 り歸 參 せ ん と欲 す。
ふ るま
と書 き た り。 頼 朝 公 此 の状 を御 覽 有 り て、 九 郎 は嘸 彫 の者 哉 。終 に は頼 朝 を も 離 麒 に せ んず る
ど思 ふ に ぞ有 る覽 。 雅 意 を擧 動 ふ な れ ば、 景 時 に限 ら ず 、 物 毎 に付 き て諸 士共 の恨 み思 は んず
異 本 義 經記
さくわん
と
ゆ る
れ と宣 ひけ る。 御 前 に因 幡 前 司 廣 元 、 大 夫 屬 入 道 善 信 、 筑 後 權 頭 俊 兼 な んど 候 ひ しが 、 以 て の
(一一七)
外 の御 氣 色 な れ ば 、何共 御 挨 拶 も無 か り し と そ。 是 は去 月 廿 四 日壇 浦 の合 戰 の時 、景 時 先 陣 を 望
むか
ざま
の み
みけ れど も、 去 る 二月 攝 津 國 渡 邊 に て逆 櫓 の遺 恨 よ り 義 經 心 解 け ず し て、 許 容 し給 は ず 。其 れ
せ
き
にく
や っ
を景 時 腹 立 し、 向 ふ樣 に猪 武 者 な んど 云 ふ而 己 に非 ら ず 、 侍 の主 には 成 り難 し な ど 嘱 哢 し た り
け る程 に、 義 經 も 大 き に嗔 恚給 ひ た るも 理 な り と 云 へり。 其 れ よ り し て景 時 を 惡 き奴 僕 哉 と思
ひ給 ふ。 又 義 經 の家 人 忠 信 を 始 め、 侍 の主 に な ら ぬ 人 ぞ と 云 ひ た る梶 原 あ が 口 の程 を た あ さ ん
きウやうもの
おの
れいつ
(一一八)
も のを と 思 ひ 、象 井 、鷲 尾 、 片 岡 な ん ど は、 年 若 き伎 価 者 な れ ば、 己 何 日 ぞ、 何 日 ぞ はな んど
いか
と表 向 き に も 云 ひ し と也 。 殊 に片 岡 (
弘 經 が兄 ) 二郎 經 春 は佐 竹 義 政 が聟 な り。 佐 竹 謀 叛 に經
(= 九)
春 同 意 の聞 え有 る に依 つて、 治 承 五年 三 月 廿 七 日、 頼 朝 公 の命 に て雜 色 を 經 春 が 領 下 總 國 へ遣
は さ れ し に、 御 使 と稱 し て法 に過 ぎ た るゆ ゑ 、 經 春 嗔 つて彼 の雜 色 を 打 擲 す。 是 に因 つ て經 春
が 世 帶 召 し放 た る べき 歟 の由 評 未 だ 究 ま らざ り し 處 に、 梶 原 景 時 、 其 の頃 未 だ新 參 な り し が、
し おほ
經 春 が 事 を ば 日 頃 李 家 に志 厚 き の由 聯 し樣 に申 しな し た り。 是 はコと瑠 佐 川 の宿 に て經 春 が小 舎
ひげ
を こ
人 と景 時 が 郎等 と 口論 を 仕出 だ し、 小 舎 人 理 蓮 に仕 課 せ た り。 是 に依 つて常 々經 春 弘 經 に も中
にく
能 か ら ず、 別 し て弘 經 、 其 の髭 男 鳴 呼 がま し き な ん ど云 ひ、 壇 浦 に て口 論 の時 も 、 弘 經 先 に進
異本義經記上之巻畢。
み て景 時 を害 す べき氣 色 見 え た り。 經 春 も 景 時 を 惡 し と思 ひ、 頼 朝 公 を も 恨 み 奉 り 、 義 經 に志
(一二〇)
を通 U た り。 絡 に文 治 元 年 十 月 二十 八 日 經 春 が領 地 、 三 崎 の庄 を 召 し放 た れ て、其 の跡 千 葉 常
胤 に給 は る と云 へり 。
一二 三
異本 義經 記巻下
(
義經鎌 倉下 向)
二 一四
元暦二年四月崖 馬 内侍所・靆 御入洛・纛 手勢三百驫 にて攀 す読 鮭 挑下の生
宗盛公斈 を襷 ひ・ 近日彎
へ下向有るべ耋 也・ 覇 公・雀 離 前屡
捕 、 土 肥 二 郎寛 夲、 伊 勢 三郎 義 盛 、 其 の外 軍 兵 共 、 是 を相 圍 み て 六條 室 町 の義 經 の館 へ入 れ參
ら す ど云云。
同韋 蘿
元 、 大 夫 屬 入 道 善 信 、 筑 後 守 俊 兼 、 民 部 少丞 行政 等 を 召 し て仰 せ ら れ け る は、 義 經 大 臣 殿 父 子
を 律 ひ醗 が て の内 に是 へ下 り 着 く の由 、 世 を 鎭 め た る事 、 九 郎 一人 が手 柄 の樣 に申 しな し、 頼
解
し事 鶲 何 にそや・購 心
卿 の今 の身 にては・蕪 覧 蓐
叢
り付きたから ん。
朝 が軍 勢 を指 添 へた る事 は思 はず 、 殊 に院 の御 氣 色 能 き 儘 に、 人 の廟 哢 を も 顧 み ず 、 夲 大 納言
時忠 の建
あの撃
の禦
ふべし・其 れを靉
り畠
云 ふ者、其 の蕎
へも來 て聞 きな ん・ 又此 の擺 磨
たり し事臑静 なし・義讐
貯
て、加樣 に
つべき程 の者 に て有 る
羅
又 小外 記 信 泰 が時 忠 に頼 ま れ使 し た る事 は、 義 經 が右 筆 な れば 、 如 何 にも し て義 經 が氣 に入 る
やう 患
今言 ふ事 耄
也 。 油 斷 は第堀 す べ から ず 。 金 洗 澤 に關 を 居 ゑ て、鎌 倉中 へ入 ら ぬや う に計 ら ひ給 ひ候 へ。 九
異 本 義 經 記
えけ
け、 駿
が ま し き耄 ハな れ ば・ 九 郎 が言 はず 共 ・ 家 人 共 が 鸛 め も や せ んず ると 宣 ひ しと
郎 が 心 こそ 猛 く共 、 頼 朝 が有 ら ん程 は如 何 に思 ふ共 叶 ひ難 から ん。 其 の上 義 經 が家 人 共 、 功 を
鼻繕
た や。 是 に依 つて金 洗 澤 に關 を居 ゑ て、 大 臣 殿 父 子 を 請 取 り 、到 官 は腰 越 に 置 か れ け る。
こ
俗 語 に云 ふ、 時 忠 の姫 君 義 經 に別 れ て後 、播 州 姫 路 に住 み給 ひ し と 云 へり。
た とひ
義 經 、 是 は如 何 な る故 に か か る事 も 有 るら ん。景 時 が 何 と申 す共 、 度 々 の功 を頼 朝思 ひ給 は ん
に は、 假 令 軍 功 の賞 ま で の事 はな く と も 、 一ど先 づ封 面 有 つて、軍 忠 の褒 美 な り共 有 る べき も
の の、 さ はな く (し) て鎌 倉中 へ入 れ ら れ ざ る事 こ そ遺 恨 な れ と宣 ひ し に、 御 縢 に螽 井 、 片 岡
面なき髴
ま り な ば・ 讐
へ雛
入 り て・ 其 の齧 男 ・ ひ きず り瞬 に仕 侍 ら は ん な ど申 し た
な んど 若 き 者土ハ候 ひ しが 、 何 條梶 原 め が御 前 の能 き儘 讒 言 を申 す に付 け て の事 に て候 な れば 、
禦
したた
り しを 、 辨慶 忠 信等 、兎 角時 節 も有 り な ん も のを と申 し け る と に や。 到 官 も (
今 ) 爰 に て何 と
思 ふ共 叶 ひ難 か ら ん と 思 は れ け ん、 一通 の款 状 を認 め、 伊 勢 三郎 を し て、 廣 元 朝 臣 の方 へ遣 は
さ れ し と そ。 因幡 守 此 の事 を披 露 せら れ け れ ど も、 兎 角 の御 返 事 も な く て、 使 者 に來 たり し義
譬 云舅 にも翻 籍 ふな・西國にての爾購・又此の度蠱 にて嶷 聾 響 鑑 した華
皆 以 て奢 り よ り出 で た る事 な れ ば、 其 の男 も内 心 に は邪 氣 を 思 ふ にや 有 るら ん と宣 ひ け り。 其
く= 一
八)
の後 も 全 く不 忠 存 ぜざ る の旨 起 請 を以 て龜 井 六郎 を使 者 に遣 はさ れ け れ ど も 、御 承 引 な か り し
と に や。
(一二九)
鎌 倉 腰 越村 龍護 山 滿 編寺 、 其 の地 昔 義 經 の宿 あ り し所 と云 へり。 爰 に し て義 經 の命 に依 つ
二 一五
纛
要
く して・大臣殿斈
一二 六
の
く・兩 人を歸 し給 M° 1l
日過 ぎて景
蔘 候 す。備前守行家
てけり.斈
り京都 へ騨 給 ふ。 近江國
太郎景 光暫
を叢
清宗 は覊
の由 にて封要
尋御使 として上洛・義經 龕
が獄門 の.
麟 の歪 掛 けられたりとなり。
奉 り・子息右衞譬
に鋸
驀 允公長暫
公縫
て辨 慶 款 状 を書 き し な り。
簪
里 彫 左㎎・鶉
篠原 にて釜
瞬 を三條 の西 に渡 され・西 洞院黶
(土佐 房 被 斬 )
震
霧
源太景季・講
の仰せなり・蘿
より爆
るべ登
同(
隹 聾
を誅署
の
の
かロ
つべ
季 成 尋 又 參 候 す る所 に、 佐 藤 忠 信 、 伊 勢 三 郎 、 辨慶 法師 な ん ど出 で向 ひ 、兩 使 を亭 へ招 ず。 暫
く 有 り て義 經 脇 息 に (より ) か かり 封 顔 有 り 。 兩 人 仰 せ の趣 を 演 ぶ る時 、脇 息 を 退 け頭 を傾 け
て仰 せ を聞 き給 ひ て申 さ る る は、 行 家 の事 各 も存 知 の通 り 、 六 孫 王 の流 な れ ば 、義 經 直 に向 ひ
の通りを宅
上げ ・
(
後)伊豫守殿 の髴
諭
あざ
い
橇 悴 したま ひ、顔色青釁
て、
誅 戮 す べ き な り。 未 渇憮ろ
よ から ず 、 病 氣 養 生 を 途 げ 、 本復 次 第 に相 向 ふ べ し と宣 へり 。景 季 鎌
倉 に歸 り・
御肇
灸 治 の跡 な ど多 く候 と申 し た り し に、 父 の景 時 御 前 に候 ひ し が、 嘲 笑 ひ て、 人 は 一夜 寢 ねず 、
おろか
たばか
食 事 を 霹 め 、丿た覿 酒 を飮 め ぼ顔 色 衰 へり、 又 灸 治 は當 座 に紙 を付 け て成 りな ん。 一兩 日過 ぎ て
參 向 す る間 に は、 如 何 樣 にも 謀 ひ易 か ら ん。 景 季 癡 に て計略 ら れ た る に ぞ有 り な ん と申 し た る
と にや 。 是 に因 り て義 經 を も追 罰 有 る べき と て 、北條 時 政 、土 肥 實 李 、三 浦義 村 、和 田義 盛 、 梶
異 本 義 經記
いつ
ひそか
はか
原 景 時 な ん ど を 召 し て評 定 有 り し に、景 時 進 み出 で て申 しけ る は、 伊 豫 守 殿 の御 事 、 軍 勢 を 向
け ら れ ん に於 ては定 め て 六 か し か る べ し。 何 れ に て も然 る べ き勇 士 を密 に指 遣 は さ れ て謀 り て
夜 討 な ん ど 然 る べか ら ん か。 當 時 在 鎌 倉 に候 土 佐 房 昌 俊 こ そ、 智 謀 あ る者 に て候 。 此 の者 を 御
いさ さ
登 せ候 は ば 然 る べか ら ん か の由 申 し け る に依 つて、 土 佐 房 に討 手 を仰 せ付 け ら れ し と云 へり。
よ
是 は去 る頃 北 條義 時 の亭 に て、 梶 原 景 季 と昌 俊 聊 か 口論 の事 あ り。 其 れ よ り し て梶 原 父 子 と中
能 か ら ず 。故 に景 時 、 昌 俊 が事 を申 し出 だ し た り。 義 經 に對 し た る時 は必 ず 昌 俊 仕 損 ず べ き ど
兼 ね て景 .・
時 思 ひ た る と に や。
或 は 曰 は く 、 土 佐房 私 に望 み申 し 上 り た る と も 云 へり。
時 に 昌 俊下 野 國 に 置 き た り し 老母 が事 な んど 御 憐 愍 を蒙 る べき の由 申 し上 げ た り。 (則 ち)下 野
(=ご四)
國中 泉 の庄 を 賜 ふ の由 仰 せ有 り と 云 へり。 斯 く て 土佐 房 昌 俊 、 同 九月 九 日 に鎌 倉 を 立 つ て け
かどまの
(一三五)
り 。 相 從 ふ輩 に は舍 弟 三 上 彌 六 、錦 織 四 郎 、 門眞 三郎 、 相 澤 二郎 等 都 合 八 十 三騎 、 同 十 七 日 に
すぐ
京 着 す 。 義 經 此 の事 を 聞給 ひ 、 辨慶 を し て土佐 房 を 召 す 處 に、 昌 俊 、 熊 野 參 詣 の由 僞 り申 す に
依 つて、 全 く 討手 に は參 ら ざ る由 の起 請文 を 書 か せ て歸 し給 へり。 土佐 房 直 に義 經 の六條 室 町
(
谷)
の館 へ押 寄 せ た り。 水 尾 野 十 郎 、 昌 俊 に方 人 す 。其 の頃義 經 ほ磯 の前 司 が娘 、 靜 を 思 ひ て 室 町
かぶろ
( 一一
二 亠ハ)
の亭 へ置 か れけ る が、 土 佐 が 心 知 れ が た し。 御 要 心 有 る べき由 申 す と雖 も、 義 經 敢 へて用 ひ給
はからひ
うかか
はず 、 更 に要 心 の氣 色 も な かり け る とそ 。 義 經 の近 仕 した り し十 七 八 の禿 童 の有 り け る を静 が
計 略 に て、 昌 俊 が宿 所 の邊 を窺 は せ た り し に、 時 移 れ ど も 歸 ら ざ り し程 に、 靜 心 元 な く 思 ひ 、
二 一七
も ののぐ
一二 八
仕 女 を 遣 は した り し に、 仕女 走 り歸 り て、 禿 童 は昌 俊 が門 前 に斬 り殺 さ れ て有 り 。 門 の内 に は
ふしど
もののぐ
やなぐひ
馬 武具 の音 し て既 に寄 す べき 風情 に て候 と申 す に依 つて、 彼 の女 を又 備 前 守 行 家 の 方 へ 走 ら
せ、 靜 は義 經 の閨 に入 り て起 し奉 り、 兵 具 取 り出 だ し着 せ申 し、 弓 胡 籔 を 參 ら す 。 義 經 笑 ひ給
ひ て、 女 心 叺雕鏃駐さ よ と宣 ふ に、 早 敵 は寄 せ て け り。 其 時 の義 經 、 蹤 か は弓 取 の思 ふ べき 人 ぞ
きほ
と宣 ひ し と にや。 其 の夜 は義 經 の家 人多 く は外 に有 り て幾 ぼ く なら ず 。 漸 く 佐 藤 忠 信 、 辨 慶 法
つつ
すくな
師 、 伊 勢 三 郎 な ど 門 を開 き て相 戰 ふ。 暫 く有 り て殘 る郎 等 も外 よ り來 た り集 り、 競 ひ か か る。
だに
ゆき
後 よ り は備 前 守 行 家 引包 んで責 め んと す。 昌 俊 が軍 兵 亂 れ 立 つて、 舎 弟 三 上 を初 め、 殘 り些 に
討 たれ た り。 土 佐房 は東 を指 し て落 ち た り し が、 龍 華 越 に か か り、 鞍 馬 の僣 正 が谿 に至 り て先
たす
ゐ たけだか
邂 を 失 ひ 、藤やの内 へ蟄 騰 た り し を、 鞍 馬 の寺 僭 是 を蕪 襯 攤 め て、 伊 豫 守 殿 へ參 ら せ た り しを 、
と くノへ
と
くび
御 前 に召 さ れ て、 命 扶 く る ぞ。 參 り て鎌 倉 殿 へ申 せ と宣 ひけ れば 、 昌 後 、 居 長 高 にな り 、 是 は
おろ
しのび
口 惜 しき 殿 の仰 せや候 。 命 は 一々 よ り鎌 倉 殿 に參 ら せ置 き て候 。 片 時 も 速 く 頭 を 召 さ れ 候 へと
処にイ
凸
申 した り。 義 經 聞 し召 し て、 然 ら ば其 の場 を遁 れず し て討 死 す べき に、 爭 でか 鞍馬 ま では 延 び
た るぞ。 昌 俊、 癡 か な る御 諚 や候 。 昌 俊 鎌 倉 へ歸 ら ば こ そ、 都 に竊 盜 居 て、終 には 君 を 討 ち 奉
(一一
二亠ハ)
る べき も のな れ ば、 一旦 命 を遁 れ た る事 、 命 を 惜 しむ に て は候 ふま じ と申 した ると にや。 寔 に
神 妙 な り と 云 へり。 絡 に 六條 河 原 に て斬 ら れ たり 。
傳 に曰 く、 義 朝 都 を落 ち さ せ給 ひ し時 に、 龍 華 越 の方 へかか り給 ひ し事 を 思 ひ 出 だ し て昌
俊 も其 の道 筋 へ落 ち け る か。
異 本 義 經記
つか
或 は曰 く 、 粟 田 口 の邊 、 義 經 の人數 指 塞 ぎ た る と開 き て、 龍 華 越 に か か り し時 、山 の上 に
簔
見 えず・漸く窟 の有 りけ る霧
・聳
俘黨三人 に手を曳 かれ て響
入
人 數 十人 計 り の聲 しけ る に よ り、 敵 と心 得 、 直 に鞍 馬 へ落 ち た り 。 僭 正 が 谷 に て勞 れ てや
有 りけん・蠶
さか
り た り。 其 の夜 長 高 き山 伏 鞍 馬 の坊 々 に來 た り て、 伊 豫 守 殿 へ敵 對 の者 、 僣 正 が 谷 に 有
り。 出 で合 ひ て搦 め捕 れ と喚 ば る。 依 つて寺 中 の若 僣 起 り 出 で て相 尋 ぬ。其 の隱 れ な く 索
むまれつ
き
つか
やみく いけど
し出 さ れ 四人 共 に生 捕 ら れ た 0
,。 昌 俊 常 に強 精 の天 性 な り しが 、 痛 く 勞 れ て暗 々 と虜 ら れ
を召 藩
げ候鬱
な bず、蘿
へ參 り て申 し上げらるるは・凶徒 臺
の所鼕
ぬ・覊
り候。
其 の弩
耄 誅す べき旨 を懿
の内 に退け男
た り。 起 請 人 の紳 罰 か と世 人 云 ひ あ へり。 堀 川 通 油 小 路 の中 間 、 六條 南 の方 義 經 の昔 堀 川
行麁
雑
の御 館 の所 と云 ふ。
(
義經都落)
同+月 三日蘿
存 ぜず・.灘.
孳
此 の上 は義 經 も 運 を天 に任 せ申 す べき か。 然 ら ば院 宣 を賜 は つて、 備 前 守 行 家 相 俘 ひ、 頼 朝 に
敵 對 し、雌 雄 を決 し申 す べ し。 さ な く ば、 行 家 義 經 院 中 に於 て腹 を切 り死 す べき の由 申 し上 げ
たり 。 此 の事 如 何 有 る べき と公 卿 僉議 の處 に、 泰經 朝臣 申 さ れ け る は、 義 經 が 申 す 處 誠 に し
すく
ずイ
かれ
て、 院 中 に て行 家 義 經 若 し自 殺 す るに於 ては、 後 代 ま で の珍 事 些 な から U。 其 の上渠 儂 に同 意
の有 綱 義教 有 り 。 伊 豫守 に相 從 ふ處 の家 人、 其 の心金 鐵 の如 く な る者 共 な れ ば、 其 の所 爲 計 り
一二 九
二 二〇
かれ
が た し 。 又 さ は な く共 宇 治勢 田 を 指 塞 いで、 鎌 倉 勢 を 引請 く る な ら ば、 一定 君 を渠 儂 が館 へ行
幸 な し奉 る べき か。 若 し軍 に利 な く ば、 君 を取 り奉 り て西 國 へ赴 か ん時 、 誰 有 り て取 り留 め奉
る べき や。 皆 以 て珍 事 遁 が れ か た き處 か。 一先 づ院 宣 を な し下 さ れ て の上 、 御 僉 議 有 り て源 二
位 方 へも仰 せ遣 は さ る べ し。 事 急 な る に遲 引 に及 び なば 、 義 經 邪 氣 を顯 はす 時 は、 悔 ゆ とも其
の詮 有 る べ から ず と宣 ひけ れ ば、 諸 卿 一同 に此 の義 尤 も な り と て、 則 ち 院 宣 を 賜 はり た る と云
ふ。
(一三八)
座 主 の事 、 第 (五) 十 九 世 の座 主 、前 權 僭 正 全 玄 桂 林房 也 。山 門東 塔今 の政 所 也 。
結願 畢 下 京す ヒ、
云。蘚 驪 是義經落茜 塰 裔
、可・
奉執 二
山 門 記 録 に、 文 治 元 年 十 一月 自 二朔 日 一、 爲 二義 經 謀 叛 御 所 一、於 二東 塔 北 谷 八部 尾 桂 林 房 一、
修二四天 王法 。同八日旱
間イ
法 皇 一之 由 、 披 二露 天 下 一
。仍爲 レ
除 二其 恐 怖 一、 被 レ令 レ修 二此 法 也 一。 然 則 無 爲 落 避 畢 。 可 レ謂 二
法驗 一
。 同 十 二 日 被 レ行 二勸 賞 一。 令 三權 少 僭 都 永 辨 、 東 北 惠 光 房 叙 二法 印 一
銃。下略。
ひたすら
義 經 既 に 院 宣 を 申 し 下 し宿 所 に 歸 り 、 菊 地 二邸 高 直 を 召 し て、 義 經 こ そ 院 宣 を 賜 は り 、 西 國 へ
かれ
赴 く べ し。 御 邊 は西 國 の案内 な れ ば 、 此 の度 一向 頼 む の由 宣 ふ。 高 直承 り、 仰 せ畏 つて御 供 に
罷 り下 る べく 候 へ共 、 子 に て候 八 郎 、 當時 在 鎌 倉 に候 程 に、 渠 を呼 び よ せ候 ひ て 一所 に御 跡 よ
招 いてイ
り參 り、 御 味 方 仕 つて候 は ん と申 した り け り。 其 の晩 景 、緒 方 三郎 維 義 を召 し て、 義 (
經院)
宣 を給 は り、 西 國 の方 へ赴 か ん ど思 ふな り と て、 彼 の院 宣 を維 義 に見 せ給 ひ て、 御 邊 は猛 勢 の
人 な り。 頼 ま れ て たび給 ふ べき や と宣 ひ け れ ば 、 維義 、 子細 にや 及 び候 べき。 さ り な がら 當 時
こ よひ
御 内 に驟 し て候菊 池 二郎 高 直 は、 我 等 が家 の怨 敵 に て候 間 、 給 は つ て 誅 戮 仕 り 度 き 由 申 す 。
(
義 經 )、 いさ と よ、 吾 も さ は存 ず る。 一定 彼 は鎌 倉 へ參 る と こそ見 え て候 へ。 今 宵 押 寄 せ て搦
め捕 る べき の由 宣 ひ て、 則 ち佐 藤 忠信 、 源 八兵 衞 廣 綱 七 十餘 騎 に て、 其 の夜 丑 の尅計 り に菊
池 が 三條 西 洞 院 の家 に押 寄 す。 緒 方 が郎 等 、 幅 永小 藤 太 裏門 よ り も 五 十 餘 騎 に て寄 せた り 。俄
いけど
か の事 な れ ば菊 池 の郎 等 彫 章 て騒 ぐ申 に、 早 門 を も押 壌 ら れ た り。 高 直 は漸 く腹 卷 計 り着 し、
太 刀 を拔 き 、廣 庭 に踊 り 出 で て戰 ひ た れ ど も、 絡 に虜 ら れ ぬ。 郎 等 も思 ひ思 ひ に討 死 し、 或 は
(一三九)
退 散 し た る と に や。 忠 信 廣 綱 が手 の者 少 々疵 を蒙 む ると 云 へり。 菊 池 は絡 に七 條 河 原 に て誅 せ
(一四〇)
ら れ た ると 也 。緒 方 三郎 は義 經 に頼 ま れ申 し、 一日先 達 つ て本 國 へ下 り た る と銃 。 同 十月 廿 九
響 所鸚 壽
に+郎權
日 、義 經 を責 め んが爲 、頼 朝 公御 馬 を出 だ さ る べき に定 ま り た り。 先 陣 は 土 肥 二郎寛 李 、後 陣
、れにより纛 既 に西國に赴かんと豊 剛⑳肇
かぶと
・
たつがしらず
こかね
二一=
しりざや か
の冑 、 同 じ 毛 の四方 白 の兜 に鍬 形 打 つて、 龍 頭 居 ゑ た る を著 、 金 作 り の太 刀 、 虎 の皮 の尻 鞘 掛
ようひ
成 、 伊 豆 右衞 門 尉 有 綱 、 郎 等 五 十餘 騎 相 具 す 。 曳 降 つて伊 豫 守 義 經 、 赤 地 の錦 の直 垂 に萌 黄 縅
ひきさが
著 、 鹿 毛 の馬 に 沃掛 地 の鞍 を置 い て乘 り、 相 從 ふ郎 等 七十 餘 騎 、 其 の次 は前 中 將 時 實 、 侍 從 良
い かけ ち
於 て待 ち 請 け 、 雌 雄 を決 せ ん事 、 且 つは上 への惶 れ を存 じ、 一先 づ 西 國 の方 へ赴 き 候 の由 申 し
(一四二)
をどし
上 げら る。 同 三 日義 經 都 を ひら き給 ふ。 先 陣 は備 前 守 行 家 、 紺 地 の錦 の直 垂 に、 櫻 綴 の鎧 を
おて
せ、 大 藏 卿 泰 經 朝 臣 を 以 て申 し上 げ ら る るは 、頼 朝義 經 を責 め んが 爲 に上洛 す る の由 、帝 都 に
頭 兼 房 を相 添 へて、 淀 の江内 忠 俊 が 方 が 忍 ば せ て、 同 十 一月 朔 日 、 伊 勢 三 郎義 盛 を 仙 洞 へ參 ら
は千葬 常胤導
異 本 義 經 記
は
や
ふさ
二二二
の
け た る を 偲 き 、滋 籐 の弓 に 大申 黒 の箭 を負 ひ、 黒 の馬 に 紅 の厚 總 掛 け て う ち駕 り、 手 の郎 等 三
うるは
ひか
百 畭 騎彼 是都 合 五百 餘 騎 と 云 へり。 京 中 の老 若男 女 、 其 の道 筋 に出 で て、 其 の跡 を慕 へり。 義
さ かしら
經 殊 に其 の粧 ひ 美 し く し て、 所 々 に て馬 を控 へ、 或 は會 釋 し、 又 は 詞 を か け給 ふ。 都 守 護 の内
て しま
う ち
かれ
は私 な く、 さ し も 良將 た り し 人 の、 人 の讒 ゆ ゑ に、 帝 都 を ひ ら き給 ふ事 の惜 し さ よ と人 皆 云 ひ
(一四三)
(1四四)
合 へり 。其 の日 は 淀 の忠 俊 が許 に宿 し給 ふ。 同 五 日攝 津 國 川 尻 に着 き給 ふ 處 に、 多 田 藏 人 行
おど
け ちら
綱 藩 豐 嶋 冠 者 高 頼 、 手 勢 百 騎 計 り に て馳 せ向 ふ。 義 經 點 頭 笑 ひ、 渠 同 じ流 の者 な れど も 、 成 親
かぶと
かた
をめ
ささ
卿 の謀 叛 に同 意 し て、 清 盛 法 師 に魘 さ れ て白 状 し た る不 覺 人 ぞ 。 弓 箭 ま で は い るま じ。 只 蹴 散
く つが へ
し て 通 れ と て、 義 經 の 三百 餘 騎 兜 を傾 むけ 喚 い て か か れば 、 行 綱 高 頼 一支 へも 支 へず し て、 四
角 八方 へ分 散 す 。 今 は何 事 か有 ら ん と て、 大 物 浦 より 舟 に乘 り給 ふ處 に、 逆 風頻 り に浪 を 轉 倒
ゆきかた
(一四五)
し て、 相 俘 ふ人 々 の舟 も 皆 散 々 にな り て先 途 知 れ ず 、義 經 の舟 に は、 聟 の伊 豆 右 衞 門 尉 有 綱 、
もど
武 藏 房 辨 慶 、 片 岡 八 郎 弘 經 、 堀 彌 太 郎景 光 、 靜 女 、 小 舎 人 、下 部 、 漸 う 二十 人 に は 過 ぎ ざ り
き 。 こ れ に依 り て又 舟 を 大物 の浦 へ漕 ぎ 戻 し て、天 王寺 に暫 く 休息 し給 ふ。 御 臺所 の舟 には 十
郎 權 頭 、 伊 勢 三 郎 付 き 從 ひ て、 兵庫 へ着岸 す と 云 へり。 兼 ね て相 圖 や有 り け ん、 同 八月 大 和 路
(一四 六)
に赴 き給 ひ し時 は、相 從 ふ者共 何 れ も集 り し と な り。 越 前 國 の住 人 、 齊 藤 庄 四 郎 と 云 ふ 者 有
り 。 御 室 の御所 に て男 にな り 、 夲 經 正 に屬 し、 夲 家 (都 を) 沒 落 の時 、 京 に滯 り、 木 曾 に從
ひげ
み
ひ、 義 仲 討 たれ て後 、義 經 の家 人 と な る。 義 經 都 守 護 の時 、 郎 從 共 會 合 し て物 語 の時 、 庄 が 云
ふ樣 、 三位 中 將 重 衡 卿 の乳母 、後 藤 兵 衞盛 長 が髭 程見 事 な る髭 は有 る ま じ。 今 は姿 を も隱 し な
異 本義 經記
す き
あた ら
の
ん に、 髭 有 り て は人 も 見 知 る べき な れ ば 、 髭 を 剃 り 落 した ら ん、 可 惜 髭 な る の由 雜談 し た り。
と どま
義 經 是 を傳 へ聞 き給 ひ て、 庄 は髭 數 寄 な る か、 盛 長 が 髭 持 たず 共 、 三位 中 將 を我 が馬 に駕 せ
て、 我 は 跡 に 滯 り 討 死 し た り せ ば、 髭 は な く共 見 事 に て 有 ら ん 物 を。 吾 は天 性 上 髭 も な け れ
ば、 庄 が 主 に取 つて も本 意 な か るら ん と笑 ひ た る と に や。 後 、 庄 四郎 は義 經 の許 を も 浪人 し た
り。 去 る 十 一月 三 日、 都 落 の時 、 義 經 川 尻 の舟 支 度 し た る が、 見 て參 れ と て、 大 夫 到 官 友實 を
遣 は さ れ け る。 友 實 則 ち川 尻 に赴 く道 に て、 庄 四郎 に行 き逢 ひ、 庄 、 友 實 に 云 ふ 樣、 伊 豫 守 殿
は鎌 倉 殿 と御 中 不 和 に なら せ給 ひ て、 都 を ひら き給 ふ の由 風聞 あ り。 一度 主君 に頼 み奉 り し 上
は、 御 先 途 を も見 屆 け申 し度 き由 を 云 へり。 友 實 其 の詞 を誠 と思 ひ て、 伊 豫守 殿 へ其 の通 り を
達 す べ き由 を 云 ひ て、 相 俘 ひ行 く の處 に、 道 に て思 案 し て、 庄 が心 計 り が た し と や思 ひけ ん、
則 ち庄 を指 殺 し た り とメ詆。
(一四七)
李 家 物 語 に 重衡 生 捕 の處 に、 庄 四郎 高 家 と あ り。 此 れ庄 四郎 が事 歟 。
(靜 鎌 倉 下 向 )
のぼ
ひた
(一四八)
文 治元 年 十 一月 十 七 日、 義 經 吉 野 の山 へ入 り給 ふ時 に、 靜 を召 さ れ仰 せら れ し は、 山 上 ほ 女
すら
の み
つく
つつみ
人 結 界 の地 也。 御 身 は是 よ り も都 へ歸 り給 へ。 重 ね て迎 ひ を 上す べ き由 を宣 ひ し に、 靜 は只 一
向 に御 名殘 を而 ヨ惜 し み奉 り け れ ど も叶 はず し て、 靜 に金 銀 並 び に 丸盡 し の小 鼓 を賜 は り、 雜
色下 部 を付 け て都 へ歸 さ れ し に、 彼 の雜 色下 部 靜 に賜 は る處 の金 銀 を奪 ひ取 り、 靜 を捨 て て逐
二二三
かく
まど
あり
やう
二 二 四
いぎ な
とか
電 す 。 靜 は藤 尾 坂 の邊 を惑 ひ歩 き て、 漸 々 と藏 王 堂 に至 る時 に、 衆 徒 是 を 怪 し め尤 む る の處 、
ありか
隱 す に詞 な う し て、絡 に靜 な る よ し申 す 。 これ に依 つて執 行 の房 へ誘 引 ひ 入 れ て、京 都 へ此 の
由 を 訴 ふ。 北 條 時政 是 を 召 し て、義 經 の在 隱 家 を 尋 ね給 ふ に、 靜 申 し て云 はく 、去 る 六日 大物
乗りイ
ちりぐ
の浦 に て舟 に召 し給 ふ處 に、難 風 に逢 ひ 、舟 共 散 々 にな り て、 伊 豫守 殿 に順 ふ 處 の 者 僅 に し
て、 其 れ よ り も 大和 路 にか か り、 吉 野 の山 に 入 り給 ふ時 、 山 上 は 女 人 結 界 た るゆ ゑ 、自 ら供 す
る事 も叶 は ず、 道 よ り都 へ歸 し給 ふ處 に、付 き 上 せ給 ふ 雜 色下 部 賜 は る所 の物 を 盜 み取 り、 吾
を 藤尾 坂 に捨 て て逐 電 す。 是 よ り後 の事 は 知 ら ざ る由 申 し切 る。 これ に依 つ て頼 朝 公 直 に御 尋
(一四九)
あだち
有 る べし と て、 同 二年 三月 朔 日靜 並 び に母 の磯 の前 司 共 に鎌 倉 へ召 さ れ、 足 立新 三郎 清 經 に預
よりく
ありか
(一五o)
c1五 一)
け置 か れ、 時 々義 經 の有 所 を御 尋 ね有 り け れ ど も、 曾 つて存 ぜざ る の由 申 し切 る と 也。 其 の頃
ひたすら
義 經 の子 を懷 胎 す。 象 ね て女 子 な ら ば靜 に賜 は る べし。 男 子 な ら ぼ 遁 る ま じ き の由 仰 せ の處、
日イ
きこしめ
果 し て男 子 を産 め り。 清 經 に仰 せ て害 せら る と云 へり。 御 臺 所 月 頃 靜 が藝 堪 能 の由 聞 召 し及 ば
せ給 ひ て、 (
此 の事 を) 御 所 望 有 り。 靜 辭 し申 す ど い へど も、 一向 仰 せ ら る る に依 つて、 同 四
(一五二)
月 八 日若 宮 の寳 前 に て藝 を 施 す 。 畠 山 重 忠 、 工藤 砧 經 、 其 の役 に出 づ。 靜 先 づ和 歌 を擧 げ て、
しづ
を だ まき
吉 野 山 峰 の白 雪 踏 み分 け て入 り に し人 の跡 ぞ戀 し き
は じめ
賤 や賤 し つ の小 手 卷 繰 り返 し昔 を今 に なす よ し も が な
頼 朝 公 、 此 の和 歌 の心 を聞 召 し、 仰 せら る る は、 初 發 先 づ當 家 を靦 す る の言 有 べき處 に、 さ は
な く し て逆 徒 義 經 を慕 ふ事 奇 怪 な り と宣 ひ し に、 御 臺所 の仰 せ ら る る は、 君 土肥 の椙 山 の戰 場
異 本 義 經 記
たく ら
の時 、 自 ら が 心 を以 て比 ぶ る に、 靜 が所 存 尤 も 也 と宣 ひ し と に や。 御 臺所 姫 君 よ りも 御 憐 愍 有
り しと 也 。
(
梶原景茂靜無禮)
いまや う
(一五三)
同 五月 十 四 日 、 工 藤 左 衞門 尉 砧 經 、 梶 原 三郎 景 茂 、 千 葉 夲 次 常 秀 、 八 田 太郎 知 重、 藤 鋼 官 代
邦 通 な んど 、足 立清 經 が所 に至 り酒 宴 を な す。 磯 の前 司 、 時 勢 を か な つ。 時 に梶 原 景 茂 靜 に戯
る。 靜 が 云 は く 、尾 籠 な り。 吾 不 省 の身 な れ ど も、 伊 豫 守 殿 の妾 な り。 伊 豫 守 殿 は鎌 倉 殿 の御
連 枝 、 汝 が爲 に は主 君 な らず や。 我 が君 恙 な く渡 ら せ給 は ば、 吾 汝 に逢 ふ べ き や。 汝 が親 の景
ふるまひ
な
わざ
あだ
時 、 逆 櫓 と や ら ん、 臆 病 を云 ひ出 し、 其 の事 を隱 さ ん が爲 に、 我 が君 を讒 し奉 り し事 、 世 人 普
いとやす
く 知 る處 也 。 今 又 汝 か か る不 禮 の擧 動 、 人 の作 す 業 に非 ら ず 。 吾 汝 を謀 り寄 つて主 君 の仇 を報
ぜ ん こ と最 易 け れ ど も、 同 座 に母 あ り。 後 の報 いを 思 ふ女 心 の 口惜 しさ よ と落 涙 す 。 景 茂 頗 る
さ
なだ
やうく
面 を 赤 め、 詞 な し。 座 中 興 醒 め た る所 に、 邦 道 座 を 立 つて、 双 方 を 宥 め、 漸 々 と し て皆 々退 出
とりぐ
す 。 此 の沙 汰 鎌 倉 中 に隱 れな く 人 口取 々也 。 御 臺 所 聞 召 さ れ 、 大 き に是 を 感 じ給 ひ 、 尤 も 侍 の
(一五四)
思 ふ べき 女 な り と宣 ふ。 靜 御 暇 を 給 はり 、 都 へ上 る時 も 、 御 臺所 姫 君 よ り 色 々 の珍 物 を 賜 ふと
にや 。
(一五五)
或 は曰 はく 、 義 經 奥 州 に て自 害 の由 を聞 き て、 靜 尼 にな り て、 名 を ぼ再 性 と 付 け て、 暫 く
嵯 峨 の邊 に有 り しが 、 後 南 都 に住 み し と也 。 又 奥 州 の方 へ下 り し共 云 へり。 傳 に曰 はく 、
二二五
いまやう
二二六
みやぴやか
ざま
少 納 言 道憲入道、 信 西 は 、 時 勢 、 舞 の上 手 に て面 白 き舞 の手 を 選 び出 し、磯 の前 司 に教 へ
て舞 は せ たり 。 靜其 の藝 を 習 ひ た る に、母 よ り も 勝 れ た り 。 殊 に容 貌 婉 妹 に し て、 心 緒優
な り と に や。 元 暦 元 年 六月 始 め て義 經 に奉 公 す 。前 司 は阿 波 國 磯 と云 ふ所 の者 な る故 、磯
(一五六)
の前 司 と云 へり 。 今 は其 の所 を 磯 崎 と云 ふ。 靜 は淡 路 の志 津賀 と云 ふ所 に て出 生 した るゆ
ゑ に名 とす 。 今 は所 の者 誤 り て志 津 木 と云 へり 。
又 丹 後 海 陸 巡 遊 日 録 に、 有 村 、 又 云 磯 、 昔 日 白 拍 子 磯 禪 師 及 靜 御 前所 出 也 。靜 塔 在 于 此 と
云 ふ と有 り。
(
義 經 多 武 峯 入)
(一五七)
ふじむろ
文 治 元 年 十 一月 下 旬 、 義 經 山 伏 の姿 とな り て、 大 和 國 多 武 峯 十 字房 に入 り給 ふ。 藤 室 な んど
(一五八)
せば
是 を賞 翫 す と也 。 十 字 坊 申 す や う 、 當 山 は土 地 狹 く し て、 又寺 院 幾 ば く な ら ず 、京 都 よ り 若 し
責 め來 たら ん時 、 防 ぐ に便 り有 る べ から ず 。 是 よ り戸 津 川 の邊 は人馬 不 通 に、 要 害 の所 也 。是
さが
へ迭 り奉 ら ん と て、 則 ち 道 徳 、 行 徳 、 拾 悟 、 (拾) 禪 、 樂 圓 、 樂 達 、 文 妙 、 文 實 、 此 の八 人 を
付 け參 ら せ、 戸 津 川 へ迭 り奉 る。 これ に依 つて京 都 より 多 武 峯 の寺 々を 悉 く索 し 求 む る と 雖
も、 其 の實 な し。 十 字 坊 、 藤 室 等 逐 電 す と銃 。
或 は 曰 は く、 多 武 峯 に 入 り給 ふ時 、 先 づ 南 都 勸 修 坊 に暫 く 忍 び給 ふ と也 。 又 曰 はく 、吉 野
を 落 ち給 ひ て、 其 れ よ り南 都 に出 で給 ひ、 勸 修 坊 の室 に居給 ひ し とも 云 へり 。 此 の寺 に義
異 本 義 經 記
だて
くだ り
ほり も の
(一五 九)
けしやう
はい
經 の具 足 あ り 。 胴 、 小 札 緋 縅 、 腹 は 承 夲 皮 、 絃 走 、 大 袖 、 障 子 の 板 、 頸 障 の板 、 逆 板 、 腕
しひ
あざや
よのつね
立 、 草 摺 、 四行 大 き な り。 何 れも 黄 金 の彫 物 な り。 又 春 日 の御 寳 殿 に兜 あ り。 内 に銘 あ
り 。 椎形 な り 。 四 方白 、黄 金 の燒付 の鍬 形 、 何 れ も彫 物 鮮 か に し て、 寔 に結 構 な り。 尋 常
ま しま
の人 の鎧 甲 に非 らず 。 又 吉 野 吉 水 院 に も義 經 の具 足 と て あ り。 承 李 皮 に て前 を 包 む。 同 じ
く 太 刀 も あ り。
(禪 林 房 覺 日糺 問 )
くわ ん
さか
文 治 二年 五月 下 浣 の頃 、 義 經 鞍 馬 東 光 房 に忍 び て御 坐 す 由 、 其 の上 禪 林 房 を始 め、 義 經 に同
あ
意 す る の風聞 あ り。 こ れ に依 つて 六月 三 日梶 原 刑 部 丞 百 餘 騎 に て鞍 馬 を 索 す と雖 も 、其 の誠 な
き事 に て、 殊 更東 光 房 圓 忍 も去 年 の秋 の頃 よ り病 痾 に 犯 さ れ、 老 身 心 なら ず 。 故 に禪 林 房 學 日
ちなみ
計 り相 俘 ひ、 北 條 殿 に參 向 す。 時 政 直 に子 細 を尋 ね給 ふ處 に、 學 日申 し て日 はく 、 豫 州 幼 稚 の
わぎ
時 よ り師 弟 の眤 深 か り し ゆ ゑ、 都 を ひら き給 ふ事 露 計 り も存 じ候 は ば、 爭 で か見 放 し申 す べき
ゆめく
や。 努 々知 ら せ給 はず 。 但 し師 に て候 圓 忍 、 其 の頃 は所 勞 以 て の外 な り しゆ ゑ 、 晝 夜 心 を 盡 し
ありか
候 ひ き。 又 豫 州 も是 存 の事 ゆ ゑ、 態 と知 ら せ給 はざ る歟 。 近 頃 殘 念 とや 申 さ ん。 又 恨 み とや 申
ま つす ぐ
す べき と申 す。 北 條 殿 聞 き給 ひ て、 和 僭 は豫 州 に同 意 の結 構 の由 、其 の有所 知 り給 ふ べき な れ
な
じ
ま こと
ば、 眞 直 に宣 ふ べし。 然 らず ば有 の儘 申 さ る るま で責 あ問 ふ べき 由 を宣 ふ時 に、 學 日 、 豫 州 と
は師 弟 の馴 染 み 深 く、 寔 に父 子 の契 り の如 く な り し も の を。 爭 で か疎 略 に致 す べき や 。 行 方 の
二二七
いとま
たとひ
した
二 二 八
かたら
ぜんど
たが
事 仰 せま でも なく 存 じ候 はば 、 野 僣 は師 の病 に暇 な く 共 、 親 しき 者 な り共 機 鬮 ひ て、其 の先 途
を も 見 届 け 申 す べき に、 知 ら ざ る 事 の本 意 な く 候。 假令 出 家 の身 な り共 、 か か る 事 は俗 に も 違
ふ べき にあ ら ざ れ ば 、 御 心 に任 せ、其 の罪 に行 ひ給 ふ べ しと 申 し切 ると にや 。時 に友景 申 し て
云 は く 、 禪 林 房 は 伊 豫 殿 の行 方 を 知 ら ざ ると申 す儀 心 得 が た く 候 。 土 佐房 昌 俊 を 搦 め て參 ら せ
つつ
あざわら
た るも 、 禪 林 房 の計 ら ひと こそ 人 も 申 した り し そ か し 。其 の頃 よ り 謀 叛 同 意 な れ ば 、 兼 ね て の
にく
約 諾 も 有 り な ん。 糺 問 に及 ば ざ る前 に、 包 ま ず 申 し給 へと 云 ひ た り 。 學 日 嘲 笑 ひ て、御 邊 が 思
な じ
ふ所 と は相 違 す べ し。 昌 俊 が 事 は 、 豫 州其 の頃 は 都 の守 護 な り 。鎌 倉 殿 加 樣 に惡 み給 ふ事 分 明
なら ず 。 殊 更 鞍 馬 は馴 染 み の所 な るゆ ゑ 、 昌 俊 私 の宿 意 を 以 て伊 豫 守 殿 に敵封 し て逃 げ 來 た る
さ
なら ん と、 寺 中 普 く 存 ず る處 な れ ば 、 搦 め捕 つて參 ら せ たり 。 御 邊 の兄 の景 時 腹 黒 に て、 加 樣
ほろ
に御 連 枝 の間 を 逆 け た り し事 、 世 の人 知 る處 也 。 其 の讒 言 を 御 用 ひあ る鎌 倉 殿 の御 所 存 こ そ口
惜 しく 候 へ。 と ても 御 亡 び 有 る べき な ら ぼ 、 さ しも 日 本 國 に其 の功 の顯 はれ た る 御 舎 弟 な れ
ば、 又 は さ り ぬ べき 人 こ そ仰 せ有 る べき 事 な る に、 彼 の昌 俊 法 師 は正 し き 故 左 馬 頭 殿 の小 舎 人
やから
たとひ
かれ
童 に て候 ひ き。 大 和 般 若 寺 に て法 師 に な り、 二階 堂 に居 たり しそ か し。 御 當 代 にな り て、 領 地
ひがごと
たが
たとひ
賜 は り た れ共 、 其 の身 小 身 の輩 な れば 、 假 令 鎌 倉 殿 思 召 す 事 有 り 共 、 渠 躰 の者 を 御 舎 弟 の討 手
ち つと
ど は仰 せら る ま じ き と思 ひ た る は僻 言 か。 所 詮 和 殿 が所 存 と は違 ふ べ し。 帳 令 糺 問 に 及 ぶ と
も、 知 ら ざ る事 は 云 ふ ま じ。 増 し て其 の先 途存 ぜ ね ば、 勿 論 な り と て、 一寸 も 騒 ぎ た る氣 色 は
な か り し と にや。 北 條 殿 も如 何 思 は れ け ん、 暫 く休 息 有 る べき由 に て、 警 固 の侍 を付 け て置 か
異 本 義經 記
れ た り し が 、夜 に入 り て禪 林房 を 近 く 招 き、 暫 く の内 問 答 有 り し が 、義 經 の行 方 知 ら ざ る に治
(一六〇)
定 し た り。 翌 四 日 早 朝 勢 州 よ り 飛 脚 到 來 、 神 祗 權 大 副 公 宣 が 方 よ り 注 進 あ り。 去 る頃 義 經 伊 勢
國 を 興 り 、 大 聯 宮 へ詣 う で 、其 れ よ り 南都 に赴 く 。祭 主能 隆 、義 經 に内 通 有 る由 告 げ 來 た る。
これ に因 つ て禪 林 房 は 宥 め て歸 さ れ し と 云 へり 。
(
常 盤 糺問 )
異 旦 ハ旦 條河黷 音堂の門前にて・纛 の袰 鐶 を碧 出死 娘 籤 朝臣を相量
左 馬 頭 能 保 朝 臣 の饑 に入 れ、 能 保 藤 に封 面 有 り て、 義 經 の事 を尋 ね 給 ふ に、 常 盤 宣 ひけ る は、
去 年 十 一月 朔 日 の夜 、 豫 州 侍 從 良 成 相 共 に來 た り給 ひ て、 鎌 倉 殿 景 時 が讒 言 を用 ひ、 義 經 を 亡
ぼ さ ん と し給 ふ。 一先 づ西 國 の方 へ赴 き身 の稀 な き の由 を申 し觀 か ん が程 、 鶴 方 に成 り と も暫
ま こと
ひら
さ かん
かれ
く 忍 び て有 る べき の由 宣 ふ に、 自 ら が申 す は、 西 國 へひら き給 ふ と も、 誰 有 つて鎌 倉 殿 へ其
とが
の眞 を申 し啓 か ん や。 讒 者 は 日 々 に壯 に成 り て、 渠 儂 が爲 に 亡 ぼ さ れ ん よ り は、 早 く軍 兵 を集
し ・.難
上 の御 心 耄
苦 し め奉 る事 本 意 に非 ・
bず・ 我 天 西 國 へ赴 き・ 濫 な き の
め 、都 の内 に て鎌 倉 勢 を 引請 け 、雌 雄 を決 し給 は ざ ら ん や と申 し た れ ど も、 讒 者 の爲 に咎 な き
都 の者 を墜
由 謝 し 申 し 、叶 はざ ら ん 時 は 運 に任 す る に て こそ 候 は ん と て歸 り給 ひ て後 、其 の先 途 を 知 ら ず
た より
と 申 し切 り給 ふと にや 。 左馬 頭 も 憐 愍 し給 ふ と 也 。 殊 に能 保 朝 臣 の室 家 、去 る李 治 の時 、 父義
朝 に放 れ て、後 藤 兵 衞 實 基 夫 婦 計 り を 力 に て、 餘 り に便 な く 有 り し事 、 今 思 ひ 合 は せ給 ふ 由 宣
一ご一九
いとねんごろ
めあ
ご 一
二〇
ひ て、 最 懇 に し給 ひ し と云 へり。 常 盤 息 女 を能 保 の室 家 の計 ら ひ に て、 後 に美 濃 國 の住 人玄
蕃 藏 人 仲 綱 に娶 は せ給 ひ し と な り。
或 は曰 はく 、 常 盤 阿 野 法 橋 全 成 の方 に居 給 ひ しが 、後 には 美濃 國 に居 住 と 云 へり。 山 中 村
いぶ かし
に常 盤 の墳 墓 の由 に て 一塚 今 にあ り。 仕 女 の墓 と て其 の傍 にあ り。 所 の者 の云 へるは、 常
盤 義 經 の跡 を 慕 ひ 奥 州 に赴 き給 ふ の時 、 此 の所 にし て夜 盜 の爲 に害 せら るる と銃 。 不 審 。
阿 野 全 成 、 建 仁 二年 六月 廿 三 日 、 謀 叛 に依 り て常 陸 國 へ配 流、 其 の所 に て誅 せ ら る。 息男
頼 全 も 同 七月 六 日洛 の東 山 延年 寺 に て討 た る と な り。
(
守 覺 法親 王 逋 懷 )
を り ふし
(一六二)
同 六月 廿 二日義 經御 室 の邊 に忍 び て居給 ふ由 風 聞 有 る に依 り て、 後 藤 新 兵 衞 尉 基 清 、 梶 原 刑
部 丞 友景 五 百 餘 騎 に て 、
御 室 の邊 を尋 ぬ る と雖 も 、
盧 説 に て兩 人 空 し く歸 洛 す。 其 の時 篩 左京 大
(一亠
ハ三)
夫 大 江 匡範 、 仁 和寺 の御 所 へ伺 候 し て御 前 に候 ひ し に、 守 n
l
l
l法親 王仰 せ ら れ し は、 景 時 が讒 を
源 二位 が用 ひ て、 伊 豫守 を 誅 せ ん と て、 加 樣 に都 鄙 を騒 が す事 そ や。 吾 を も義 經 と同 意 な る
をこた
由 、 源 二位 が あ や ぶ み 思 ふ の由 、 我 弓 箭 を 取 る身 な ら ね ば、 何 を以 て伊 豫守 が我 を頼 ま ん や。
かさ
ふるまひ
天 下安 全 の所 り は其 の業 な れ ば懈 ら ず。 是 は義 經 が爲 に非 ら ず。 天 下 の御 爲 、 頼 朝 が爲 に ても
ひ いき
有 るぞ か し。其 れ を 同 意 な んど と 云 ひ て、 基清 友景 が鎌 倉 を嵩 にき て、 法 に過 ぎ た る擧 動 す る
ぞ か し。 贔負 に て云 ふ にあ ら ね ど 、義 經 が都 の守 護 の時 は、 か か る無 禮 は な か り し そ と仰 せ ら
異 本 義 經 記
れ し に、 匡範 承 り 、是 は偏 に景 時 が 計 ら ひ に てこ そ 候 は め。 友景 と申 し 、 基清 と 申 し 、皆 以 て
た くら
景 時 が 同 類 に て候 。其 れ を 源 二位 知 ら ぬ 貞 に て計 ら ひ 候 事 、所 存 有 つ て の故 に ても や 候 は ん。
兎 角 伊 豫 守 武 功 過 ぎ た るゆ ゑ と存 U 候 。 今 義 經 に比 ぶ る 人 な き と こそ世 の人 も 申 し 候 ひ き。 某
ただも の
が元 の宅 地 は 一條 油 小 路 に て、 義 經 繼 父 大 藏 卿 長 成 朝 臣 の近 憐 に て、 牛 若 丸 の時 より 能 く存 U
いつ
すた
候 に、 少 人 の頃 より 唯 者 に て はな き と こそ 人 も 申 し 候 ひ き。 父義 朝討 た れ て後 、鞍 馬 に 登 り 、
はねこえ
わざ
學 文 を 勤 め候 に も、 甚 だ 器 用 に て、 東 光 坊 も 禪 林 房 も 歡 び 思 ひ 候 處 に、 何 の頃 よ り か 學問 は捨
たに
やみ
り て只 太 刀 打 、 飛 越 、 跳 越 な んど を 事 と し 、其 の業 外 に人 な き や う に 見 え て、寺 中 に て も牛 若
は信 正 が谿 に てへ 天 狗 に兵 法 を 習 ひ 給 ふ と云 ひ あ へり 。夜 に入 れ ば 、 暗 と も いは ず 貴 船 へ詣 り
候ゆゑ 、
師 の坊 、
寺 中 の僣 な ど 跡 を した ひ て行 く に、其 の仕 業 は 見 え ざ り け れ共 、 僣 正 が 谷 の邊
に て、 人 の大 勢 集 り し音 な んど 聞 え た るゆ ゑ 、 師 の坊 も寺 中 の僭 も魂 を清 し た る と 沙 汰 冉 し た
あ りさ ま
うで
わざ
り し。 十 六 の年 の春 、 奥 州 へ下 る道 に て、夜 盜 を 討 ち 、 又 深 栖 重 頼 が 方 に て馬 盜 人 を搦 め捕 り
た し形 勢 、 十 六歳 の小 腕 の業 、 凡 夫 の及 ぶ 處 に非 ら ず と 人 も 申 し 候 ひ き。 秀 衡 が許 に中 一年 滯
はか
留 し て十 八 年 の年 の春 、 又 洛 に上 り 、 堀 川 の法 眼 が申 し殘 し た る所 も 思 慮 有 り し に、 法 眼軍 書
か れ
の
を 惜 し み て見 せざ り しゆ ゑ 、
義 經 謀 つて法 眼 が娘 に通 じ 、祕 書 を 女 に盜 み 出 さ せ、 寫 し 取 り し 程
に、 鬼 一と中 違 ひ て渠 儂 が方 を 立 ち 退 き たれ 共 、 女 も 懷 妊 した る程 に、東 光 房 の取 持 に て中 直
り し て、 絡 に軍 法 の奥 義 を 納 得 し て、 強 敵共 事 故 な く 討 ち 李 げ 、 一度 も不 覺 を 取 ら ざ るを 見 て
は、 頼 朝 淨 世 に有 ら ん程 こ そ何 事 も 有 るま じけ れ 共 、 子 孫 の代 には 千 里 の野 に虎 を放 ち 置 き た
二三
あはひ よ
二三 二
あつちか
る や う (に) 頼 朝 も存 ず べき か。 又義 經 も會 間 能 く ぼ と存 ず る に ても や と そ申 し た る と に や。
あ わただしくイ
さが
此 の度 兩 使 火急 に御 室 の邊 を索 し た る事 は、 義 經 都 の守 護 の時 、 折 々御 室 へも召 さ れ て參 上有
いか が
おもだち
つて、 宮 も御 心安 き御 氣 色 に てぞ 有 り け る。 或 時 、 守 覺 法親 王 御 所 勞 の頃 、 大 學 佐 敦 周 、 賀 茂
こわ ね
禪 主 重政 兩 人 、 御 伽 の爲 伺 候 申 し た り し に、 宮 仰 せ ら る る は、 兩 人 は如 何 有 ら ん。 義 經 が顔 貞
こわ つき
く ちも と
は但 馬 守 經 正 に あ れ程 能 く似 た る者 は あら じ。 聲 音 ま で似 た る と仰 せ有 り し を、 敦 周 承 り、 誠
ひいぎ
に聲 根 、 吻 、 色 の白 さ、 經 正 に能 く も似 て こ そ と申 さ れ し に、 重 政 、 御 所 樣 に は經 正 童 形 の時
やさ
よ り御 志 有 つて御 不 便 に思 召 さ れ侍 り し程 に、 其 れ に似 た る義 經 な れ ば、 御 贔 負 に思 召 さ る る
も御 理 に や と申 し け る を、 敦 周 、 いや と よ、 伊 豫守 は 艶男 な れ ば、 見 か け よ り人 の思 ひ付 き の
みやびやか
由 京 童 部 も申 し候 ひ き。 此 の人 弱冠 の時 、 鞍 馬 に 登 せ て、 法 師 に な せ と夲 相 國 の指 圖 ゆ ゑ、 彼
の み
の山 へ上 り た れ ど も、 窈 窕 な る 兒 な れ ば、 師 匠 の禪 林 房 も 法師 に な す事 を惜 し み、 其 の身 も嫌
ひ け る を幸 ひ に し て、 兎 角 得 度 を 延 ば し た る と承 り候 へ。 其 れ而 已 な らず 家 人 た り し 辨慶 法
師 、 片 岡 八郎 な ど も 、義 經 弱 冠 の時 、 愛 色 の心有 つ て從 ひ屬 き た る と の沙 汰 は有 れ共 、 其 れ は
すぐやか
あ つばれ
さしも
未 だ 兒 の時 の事 、 今 は 男 に し て、 し か も 源 氏 の大 將 軍 な る に 、 美 弱過 ぎ て大 將 め かず 、 義 經 よ
こわね
あなが
ひいき
り 經 正 は 器 量 健 に て見 か け も天 晴 大將 と 云 ひ つ べき か。 御 所 樣 には 一切 御 志 深 か り し經 正 に顔
す
ば せ、 聲音 ま で能 く 似 た る義 經 な れ ば 、強 ち に御 贔 負 に ても や と 申 し た り け れ ば 、 宮聞 食 し
て、 惣 べ て人 には 愛敬 有 ると な き と有 るも のな れ ば 、 經 正 に似 た る 計 り に ても な く 、 義 經 は 吾
さしもの
謂イ
に愛敬 あ る にや 、 一切 強 敵 共 を 事 故 な く 討 ち 丞げ 、 日 本 の聯 寳 を華 洛 へ入 れ奉 り し事 、 義 經 一
異 本 義 經記
人 の武 功 に有 り。 其 れ を 居 な が ら 計 ら ひ た るば か り の頼 朝 が 功 な れ ば 、
關 東 は頼 朝 が國 務 し て 、
關 西 は 一圓 に義 經 國 務 を賜 は る筈 に てこ そ あ ら め。 其 れ を頼 朝 一人 思 ふ儘 の武 家 の惣 將 貞 こ そ
がほ
心得 ね と仰 せ ら れ け れ ば 、兩 人 承 り 、
誰 々 も 左 こ そ存 じ候 へ。 其 の心辨 へざ る京 童 部 共 も、 義 經
ささ
な ら で は な ど 口 々 に申 す由 、
其 れを 源 二位 傳 へ承 り 、
興 醒 め貞 し た る と こ そ承 り候 へ。 其 れ に付
あ りさ ま
け て彼 の景 時 が思 ふ儘 に義 經 が事 を有 る事 も あら ぬ事 も支 へ申 す の由 、 人 も申 し候 へ。 景 時 が
やす
弟 友實 が折 々京 上 り し た る も、 義 經 の形 勢 を しら ん が爲 の由 申 し候 。 其 れ に又 後 藤 新 兵 衞 基 清
ありさま
ささや
は 、 左馬 頭 能 保 朝臣 の簾 中 の所 縁 に て在 京 し た り。 友 景 は基 清 が妻 の伯 母 聟 な れ ば、 梶 原 と 亠
味 に し て、是 も 義 經 の分 野 に目 を付 く る な り と 人 も膸 き 候 へと申 し た り け れ ば、 宮 打 笑 は せ給
どん ぐ り め
ひ て、 基清 が 目 つき に て目付 す るな ら ば 、何 事 か見 出 さ (ざ) ら んと仰 せら れ し に、 敦 周、 あ
しは か
を か
なり
れ は團 栗 眼 と申 し候 。 元 暦 二年 に兵 衞尉 にな り た る時 も 、京 童 部、 鼠 兵衞 と 名 を付 け候 ひ き 。
に辱
て・奢 螽 はんが爲 に出陣 せし時・壅 より難 れ
鼠 の眼 に似 た る と申 す 事 にや。 友景 も同 時 に刑 部丞 に成 り し に、 聲 湍 涸 れ て、 嘆 笑 しき 男 形 に
かたうど
篌 ∴ .欝 の越箏 灘 が豢
た る聲 に て、 罕 家 の方 人 す る者 あ り 、搦 め捕 れ や と呼 び し と 申 す 沙 汰 あ る に依 つ て、京 童 部 の
しはが
ようくわい
(一六五)
友景 が 湍 涸 れ た る聲 を聞 き て、 妖 怪 刑 部 と 申 す な り と 申 し け る。 宮 聞 召 さ れ 、 基清 が 養 父 實 基
な にかし
は至 つて實 目 な る侍 の由 人 も 譽 めた り け れ共 、其 の家 を 繼 ぎ た る基清 は 養 父 が 十 に し て、其 の
一つも な き な んど 人 も 云 ふぞ と仰 せ有 り しと そ 。其 の頃 宮 の侍 に、清 の兵 衞尉 何 某 と云 ふ者 有
り 。 基 清 が 實 父 隨 身 仲 清 が所 縁 の者 に て 、
常 に 基清 と參 會 し た り。 御 室 の噂 な ど物 語 せ し序 に 、
二喜 二
しかぐ
の事 有 り し由 を 基蓮
さが
s
二一
二四
語 り (し) と そ。 此 の事 御 室 へ聞 え て、清 兵衞 浪 人 し た り し 程
さしはさ
( 一 亠ハ亠ハ)
に、 若 し 此 の兵 衞 が 云 ひ出 だ し て御 室 を索 し た る に や と 云 へり。
ひ
は
義 經 の郎 等 伊 勢 三郎 に基 清 宿 意 を挿 む事 あ り。 是 は去 る元 暦 二年 義 經 鎌 倉 へ下 向 の時 、 道 に
はし
しりかい
て義 盛 が馬 を牽 き 立 て た る 處 に、 基 清 が下 部 其 の馬 の後 を通 る。 彼 の馬 騒 ね て基 清 が下 部 を踏
ふともも
む。 殘 り の下 部 四 五人 奔 り來 た り て、 義 盛 が馬 の鞦 を切 り放 つ。 義 盛 が舎 人 と 既 に 鬪 諍 に及
かれ
ぶ。 義 盛 是 を見 て、 弓 を取 つて鏃 のな き箭 に て鞦 切 つた る下 部 の太 股 を射 る。 下 部 泣 き叫 ん で
逃 げ走 る。 基 清 是 を聞 き て、 太 刀 を取 つて義 盛 に向 ふ。 義 盛 も渠 と勝 負 を決 せ ん とす 。 左 馬 頭
はるか
能 保 朝 臣 此 の事 を聞 き給 ひ、 急 ぎ馬 を馳 せ來 た り給 ひ、 双 方 の中 へ入 り て制 し宥 め給 ふ。 義 經
は 遙 の後 陣 な る ゆ ゑ使 者 を遣 は し告 げ給 ふ。 義 經 に先 達 つて辨 慶 法 師 、 佐 藤 忠 信 、 馬 に 一鞭 を
進 め て馳 せ來 、 事 を宥 め て絡 に和 夲 に な る。 其 の後 義 經 も來 た り給 ひ、 基 清 に自 今 以 後 、 遺 恨
、
有 る ま じ き の由 を宣 ふ。 又 義 盛 を も制 し給 ふ と な り。 其 の事 を基 清 常 に云 ひ出 だ し て腹 立 す 。
此 の度 序 を以 て其 の仇 を報 ぜ ん と に や と、 京 童 部 共 は云 ひ あ へり。
(義 經 小 舎 人 童 五 郎 丸)
あウか
ま しま
(一六七)
同 七月 四 日 左馬 頭 能 保 朝 臣 の家 人 、 義 經 の小 舎 人 童 五郎 丸 を生 捕 る。 能 保 の宅 に し て、 義 經
闍 梨 、 承 意律 師 簫
走 あ り。 慧
室家 鸚
當時 懷 妊 の身 塊
右僣 申 、 u
,
t
^
Sひ に て東 坂 本
の在 家 を蕁 ねら る る に、 去 る 六月 廿 日 ま で叡 山 横 川 飯 室 谷 、 淨 戒 坊 俊 章 阿 闍 梨 の許 に御 坐 す 。
仲諮
異本 義 經 記
に居 給 ふ の由 。 五郎 丸 は丹 波 の者 也 。 母 所 勞 の由 に て暇 給 は り丹 州 に越 え、 昨 日 上 京 の 由 申
す 。 こ れ に因 つて山 門 の貫 主 桂 林 房 僣 正 全 玄 の方 へ仰 せ遣 は さ る る處 に、 豫 州 同 意 の僣 徒 行 方
知 れず と也 。 俊 章 等 義 經 を俘 ひ奥 州 の方 へ赴 く の由 巷 説 あ り。
(堀 彌 太 郎景 光 生 捕)
(一六八)
義 經 在 京 の時 、 久 我内 大 臣 雅 通 公 の姫 君 に通 じ給 ひ し に に、 都 を ひ ら き給 ふ時 、 鷹 司 の邊 に
(一六九)
居 ゑ給 ひ し。 此 の姫 君 の方 、 又 木 工 頭範 季 方 へ、 文 治 二年 の秋 、 堀彌 太 郎景 光 義 經 の使 に 上 京
お
かさ
いけど
し、 暫 く 範 季 が方 に忍 び 居 たり 。 九 月 廿 二日、 私 用 有 り て猪 熊 の邊 に至 る途 に て、 糟 谷 藤 太有
季 に行 き 逢 ふ。 日 頃 互 に見 知 つた れ ば 、有 季 が 郎等 下 り 重 な り て虜 る。 景 光 笠 を 着 な が ら 太 刀
を 拔 き たれ ど も 、 大 勢 な れ ば念 な う 生捕 (ら れ) た り 。景 光 、木 工頭 範 季 、 又 雅 通 公 の姫 君 の
事 を 白 状 す 。是 に依 つて範 季 が 事 を能 保 朝臣 鎌 倉 へ注 進 あ り と 云 へり。
(
佐藤忠信討死)
い とま
(1七o)
かれ なごり
佐 藤 四郎 兵 衛忠 信 は、 秉 ね て中 御 門東 洞院 に密 通 の女 あ り。 名 を 力 壽 と 云 へり。 渠 に餘 波 を
かたら
惜 し (ま ん) が爲 に、 九月 廿 二日、 宇 治 よ り暫 し の暇 申 し て京 に出 で、 夜 に入 つて女 の方 へ行
と りか こ
き た り し に、 彼 の女 忠 信 都 を ひ ら き し後 は、 糟 谷 藤 太有 季 に機 關 ひ し程 に、 忠 信 が來 た り し事
を密 に有 季 が 方 へ告 げ た り。 糟 谷郎 等 五 十騎 計 り具 し て、 夜 牛 の頃 力 壽 が家 を取 圍 むつ 忠 信 弓
二三五
ご三六
庭イ
を取 つて箭 を放 つ。 元 來 精 兵 な れ ば四 五人 矢 前 に殺 さ れ た り。 忠 信 が郎 等 二人 太 刀 を 拔 い て相
し のぶ の
戰 ふ。 糟 谷 が郎 等 多 く 討 たれ 、 又 は疵 を 蒙 る。 忠 信 が 郎 等 も絡 に討 た る。其 の隙 に忠 信 も 腹 切
つて死 す と云 ふ。
いけど
繼 信 忠 信 は秀 衡 近 親 也 。 秀 郷 朝 臣 の後 胤 。 信 夫 佐 藤 庄 司 基 治 が男 也 。 治 承 四 年 義 經 夲 泉 を
(一七 一)
出 陣 の時 、 秀 衡 此 の兄 弟 を付 け申 せ し とな り。 佐 藤 庄 司 は泰 衡 退 治 の時 、 伊 達 郡 石 那 坂 に
し て常 陸 冠 者 爲 宗 、 二郎 爲 重 、 三 郎 資 綱 、 四 郎 爲 家 と戰 ひ、 基 治 が軍 敗 れ て、 基 治 虜 ら る
(一七二)
る と い へど も、 勇 敢 の褒 有 る に よ り、 文 治 五年 十 月 二 日厚 免 を蒙 む り、 本 領 に安 堵 す 。 家
督 を 繼信 が 子、 左兵 衛 經 信 に繼 が し む。 忠 信 が子 は京 七條 坊 門 に あ つて、 坊 門 三郎 經 忠 と
云 へり。 忠 信 屋 敷 の跡、 七條 坊 門 に あ り。 今 不 動 堂 の東 南 の方 也。 此 の所 農 民耕 作 を せず
と な り。
(
南都勸修坊得業聖佛)
ぢき
(一七三)
文 治 三 年 三月 南 都 勸 修房 得 業 聖 佛 召 し に 依 つて 、
鎌 倉 へ參 向 す 。 結 城 七郎 朝 光 に預 けら る 。同
さが
かれ
八 日 鎌 倉 殿 聖 佛 に御 樹 面 有 つて、 直 に義 經 の事 を 御 尋 ね 有 り し と也 。 伊 豫 守 は國 家 を 亂 さ ん と
す る凶 臣 な り。 逐 電 の後 宣 旨 に任 せ諸 國 を 捜 し求 め誅 戮 せ ん と欲 す 。 天 下 の人 皆 以 て渠 を背 く
ちつ
處 に、
貴 坊 義 經 が 爲所 濤 致 さ れ、
鴇羅 や 同 意 せら る る由 聞 え有 り。 其 吃韆 て如 何 な る事 ぞ 。 聖 佛 仰
せ を承 り、 些 と も騒 ぎ た る氣 色 も なく 申 し て云 は く、 伊 豫 守 殿 君 の御 代 官 と し て、 夲 家 を追 討
異本 義 經 記
よしみ
の刻 、 凶 徒 誅 罸 の御 所 濤 を 致 す べき の由 慇 懃 の契 約 に て、 年 來 丹 誠 を抽 んず。 全 く 自 餘 の爲 に
いき ど ほ
非 ら ず 。 最 も 君 の御 爲 な ら ず や 。 其 の後 伊 豫守 殿 君 の御 氣 色 を蒙 り給 ふ時 、 師 檀 の値 遇 を 思
ひ 、 南 都 に來 たり給 ふ によ り 、相 か ま ひ て 一旦 の害 を 遁 れ、 退 い て身 を 全 う し て憤 り を謝 し申
あま つさ
さ る べき由 を申 す に、 伊 豫守 殿 も御 心解 け て、 如 何 に も し て君 の御 氣 色 を休 め奉 る べき より 外
つ
らく
な し と宣 ひ しそ か し。 倩 關 東 の安 全 を 案 ず る に 、
偏 に伊 豫守 殿 の大 功 に あら ず や 。然 るに讒 者 の
詞 を 御 用 ひ 有 つて 、
御 對 面 有 る べき處 を腰 越 よ り も追 ひ歸 し給 ひ 、忽 に奉 公 を御 忘 れ、 剰 へ恩 賞
ひ るか へ
の地 をも 召 し放 さ れ、 大 功 空 しく な る。 人 と し て何 ぞ 恨 み の・
29出 でず と云 ふ事 有 る べか ら ず。
はばか
ごん び
さわや
くず
仰 ぎ願 はく は、 日 頃 の御 氣 色 を 飜 し給 ひ て、伊 豫守 殿 を 召 し返 さ れ 、御 連 枝 水 魚 の思 ひ を な し
うちうなつ
やや
給 はば 、 天 下 泰 夲 の計 略 に ても 候 は ぬか と 憚 る處 も な く 、 言 美誠 に爽 か にし て、其 の麁 な し と
おろそ
にや 。 鎌 倉 殿 、 暫 く 御 詞 な く 、 動 額 諾 か せ給 ひ しが 、 良 有 つて朝光 を 召 さ れ 、 上 人 を相 件 ひ 、
宅 に歸 り、 疎 か にす べ から ず と て入 ら せ給 へり 。其 の夜 和 田 義 盛 を御 使 と し て、勝 長 壽院 の別
とど
當 職 に補 せら れ、 天 下 泰李 の御 所 濤 を 致 す べき と の御 事 也 。 聖 佛 も 兎 角 辭 し申 さ れ け れ ど も 、
暫 く 相 務 む べき由 、 御 慇 懃 の仰 せ によ り 、 聖 佛 も 此 の上 は鎌 倉 に滯 ま る べ し。 絡 に は伊 豫守 殿
と御 中 和 丞-の謀 に も成 り な ん と思 ひ て、 領 掌 申 さ れ しと な り。
(山 口 太 郎 家 任)
但 馬 國 の住 人 、山 口 の太 郎 家 任 と云 ふ者 あ り。 去 る文 治 元 年 十 一月 、 義 經 大 和 路 へ落 ち 給 ひ
二三七
ご一
二八
し時 、 家 任 を 召 し て、 御 邊 は當 家 譜 代 の者 な れ ば 、 義 經 が 方 へ參 り (た る事 、 強 ち に頼 朝 の尤
いつく
あ有 ま じけ れ ば、 京 に留 り時 節 を窺 ひ鎌 倉 へ參 り) 給 へど宣 ひ し程 に、 家 任 承 り て申 す や う 、
いや と よ
某 御 家 の御 譜 代 の者 な る に、 か か る時 節 に至 り、 爭 でか 見放 ち 申 す べき や 。 何 國 ま で も 御 供 仕
めあは
ら ん と申 し た り。 義 經 、 辭 言 。 我 が云 ふ に任 せ たら ん に は、 先 途 を 見 屆 け た る に増 さ る べし 。
かれ
一條 堀 川 の法 眼 が後 家 の方 に我 が 娘 一人 あ り 。 伊 豆 右 衛 尉 に娶 す べき 由 約 諾 す 。有 綱 も 吾 に 同
いとね んご ろ
意 し て流 浪 の身 と な る。 我 又 行 末 を知 ら ず 。 御 邊 が 娘 に し て不 便 を 加 へ、 有 綱 恙 な く ば 必 ず 渠
に嫁 し て た べ。 此 の事 を 偏 に頼 む な り と、 最 懇 に宣 ひ し程 に、 家任 辭 す る に 處 な く 、 領 掌 申
とどま
(一七四)
し、 京 に滯 り し とそ 。 文 治 三 年 十 一月 廿 五 日 、 家 任 今 出 川 の宿 所 に有 り し 處 に、 北 條時 政 の者
共 押 寄 せ た り しを 、 北 條 殿 へ參 り て、 申 し度 き 子 細 有 る の由 を 云 ひ て、 家任 が 方 よ り (太 刀)
にか
刀 を渡 し た り。 是 に依 つて相具 し て六 波羅 に參 る。 直 に樣 子 を 尋 ね給 ふ に、 家任 答 へ申 し け る
は、 某 は源 家 御 譜 代 の侍 に て、 六條 到 官 殿 の御 代 、親 に て候 三 郎 家修 數 ケ所 の領 地 を 賜 は り し
處 に、 夲 家 世 を 取 つて候 ひ しよ り 牢 籠め 身 と 罷 り 成 り 、 木曾 殿 上洛 の時 、家 のよ し み を存 じ、
彼 の手 に屬 し候 。 木 曾 殿 滅 亡 の後 、 伊 豫 守 殿 へ參 る 事 、頼 み 奉 ら んと の事 に は 候 は ず、 伊 豫守
殿 の御 執 奏 を 以 て關 東 御 家 人 を願 ひ 奉 り て こそ 候 へ。 則 ち 爲 義 公 の御 教 書 分明 な り。 是 に依 つ
めあは
て北 條 殿 の執 奏 有 り て本 領安 堵 す ど 云 へり。
(一七五)
文 治 二年 有 綱 も 討 た れ 給 ふ。 其 の後 義 經奥 州 に て亡 び給 ひ て後 、家 任彼 の息 女 を我 が娘 と
稱 し、 得 業 聖 佛 と示 し合 は せ て、 式 部 卿 禪 師 に娶 嫁 せ¥ 中 道 和 尚 を 産 む と 云 へり。 延暦 年
異 本 義 經 記
中 に忠 道 和 尚 あ り。 其 の忠 道 は忠 に作 り、 義 經 の孫 の中 道 は中 に作 る。 (一七六)
(
景時家人河津小五郎)
文 治 四年 の秋 の頃 、 梶 原 夲 三 が家 人 、 河 津 小 五 郎 と云 ふ者 洛 に上 り 、 或 夜 頂 法寺 の觀 音 へ詣
す る (の處 、 參 詣 の者 と見 え て、 男 二人 法 師 一人 堂内 に休 み居 た り 。物 語 す る) 皆 以 て義 經 の
事 也 。 小 五 郎 も 休 む て い に て、 何 と な く 近寄 り物 語 を聽 く に 、 法師 の云 へる は 、南 都 の勸 修 房
も 鎌 倉 へ呼 び 下 さ れ 、 到 官 殿 の事 御 蕁 ね 有 り け れ共 、 勸修 房 能 く申 し 分 け ら れ た り し程 に、 今
しの
か たら
は勝 長 壽院 の別 當 職 にな り給 ふ。 山 門 の俊 章 房 、 仲 教 房 、 承 意 房 な ど は、 到 官 殿 を奥 州 へ途 り
屆 け 、 俊章 は鎌 倉 へ竊 盜 び 上 り、 鎌 倉 の事 を も窺 ひ、 到 官 殿 への志 の人 々 な ど を ぼ機 關 ひ、 今
ゆかり
は 又京 に 上 り 忍 び て お は す な れ共 、 一味 の人 々 は密 々寄 り會 ひな ど し給 ふ程 に、 絡 に は兵 革 に
ゆかり
も な り な ん か と小 聲 に な り て語 る。 男 の云 はく 、 其 の僭 申 は剣 官 殿 に所 縁 あ る人 々な るか と尋
ね た る に、 仲 教 は剣 官 殿 の舅 、、川 越 の所 縁 の由 承 は る。 意 の事 はし か と 知 ら ず 。 俊 章 は到 官 殿
弱 冠 の頃 とや ら ん、 奥 州 よ り 中 上 り 有 り し時 、 櫻本 の御 房 に て見參 ら せ、 其 の時 よ り 志有 り
ま すぐ
て、 夲 家 追 討 の節 、 丹 誠 を 抽 ん で て到 官 殿 の所 濤 を し給 ひ た る と 語 る に よ り 、 川津 先 よ 険 の物
語 を 聽 き 、 其 の俊 章 は鎌 倉 殿 の御 尋 ね の者 な り。 何 方 に有 る ぞ。 眞 直 に申 す べし。 さ な く ぼ 己
わ こと
搦 め捕 つて拷 問 す べき の由 、 荒 け な く 慧 め た る に、 三 人 の者 共 、 雙 と も騒 がず 、 人 の囃 を録 む
二三九
る 和 主 は 誰 人 と 云 ふ に 、 梶 原夲 三景 時 が郎 等 、 河 津 小 五郎 と 云 ふ者 也 と 云 ふ に、 一人 の男 の棒
'
つ
み けん はなづら
二 四 〇
したた
う
う
を杖 に策 いて居 た り し が、 いは せ も は てず 、 小 五郎 が眉 間 を鰹 へか け て 健 か に擲 ち た り。 敲 た
めまひ
かさねうち
有り しイ
あか
れ て 眩暈 し た る處 を、 疊 擲 に絡 に打 倒 され た り。 供 に有 りけ る僕 、 是 は と 云 ひ て 立 ち矯 る 處
力らすねな
ひま
ー
漸 とイ
を、 空臑 薙 が れ て後 へ倒 れ た る隙 に、 彼 の三人 の者 共 行 方 知 ら ず な り ぬ。 月津 も 漸 々起 き揚 り
た れ共 、 す べき や う も な く て旅 宿 に歸 り し が、 打 擲 に あ ひ た る 事 を面 目 な く て や思 ひ け ん、 京
に ては 沙汰 せ ざ り け り。 鎌 倉 に歸 り、 俊 章 京 に 忍 び て有 る よ し を主 の景 時 に告 げ た り。 景 時 則
(一七七)
ち 言 上 す。 こ れ に 依 り て同 年 十月 の頃 、 在 京 の御 家 人 に 仰 せ付 けら れ、 俊 章 並 び に同 類 を相 尋
ね ら る れ 共 、其 の事 分明 な ら ず。 頂 法寺 に て の事 は 承 仕 法師 の傍 に居 て、 其 の時 の始 絡 を見 て
語 り し と にや 。
(
鈴木重家)
をり ふし
同 五 年 三 月 北 條 五 郎 時 連 、 伊 豆 の國府 に於 て、 鈴 木 三 郎 重 家 を 生 捕 る 。 時 運 國府 に至 る の
時 、 僕 從 一人 連 れ た る男 に往 き 逢 ふ。時 節 、時 政 の家 人 、 源 藤 太 廣 澄 と 云 ふ者 、時 連 の供 し た
だ
かいな
り。 重 家 を 能 く 見 知 り て、 後 よ り 抱 く 。 此 の廣 澄 は山 本 兼 澄 を 夜 討 の時 案内 し た る 者 也 。 伊 豆
いけ ど
國 に名 を 得 た る強 力 也 。 重 家 抱 か れ な が ら 刀 を 拔 い て廣 澄 が 弓 手 の腕 を縫 ひ ざ ま に貫 く 處 を 、
時 連 の家 人 下 り 合 ひ て、絡 に虜 り 、 僕 從共 に召 捕 り 、 鎌 倉 へ進 ら す の處 、 重 家 を 庭 上 に召 さ
ひらかせイ
れ 、 頼 朝 公 直 に御 尋 ね 有 り し に、 重 家 申 し て云 はく 、 伊 豫 守 殿 都 を ひ ら き 給 ふ の時 、 某 は紀 州
藤 代 に候 ひ て存 ぜず 。 其 の後 も伊 豫 守 殿 の御 在 所 分 明 なら ず 候 に よ り、 遲 參 申 す 處 に、 今 奥 州
異本 義 經 記
かれ
に ま し ま す の由 。 こ れ に依 り て御 先 途 を見 屆 け奉 ら ん が爲 奥 州 へ赴 く の由 申 し 上 ぐ る。 鎌 倉 殿
さ しも
聞 召 さ れ て、 伊 豫守 は國 家 を亂 ら ん とす る 逆臣 な る に、 汝 渠 を慕 ふ志 奇 恠 な り と 仰 せ ら る る
の み
に、 重家 承 り て 、 伊 豫守 殿 國家 を 亂 し給 は ん と の上 意何 事 そ や。 一切 の強 敵 を夲 ら げ給 ふ大 功
はからひ
昌 俊 法師 を討 手 に 圭
ちつと
給 ひ し に依 つて・ 其 の害 を潔 れ ん 煮
に、 院 宣 を申 し
を捨 て給 ひ て、 鎌 倉 へも 入 れ ら れ ず、 腰 越 よ り追 ひ 上 し給 ふ而 己 に非 ら ず 。 故 な く恩 賞 の地 を
召 し放 さ れ・.谿
下 し給 へる事 、 偏 に 君 の御 計 略 に て こ そ候 へと 一寸 も憚 る 處 も な く申 す。 頼 朝 公聞 召 さ れ、 義
あざけ
ふるま
經 が 大 功 何 な る そ や。 木 曾 を 亡 し夲 家 を夲 ら げ し事 は、 頼 朝軍 勢 を遣 は す餘 計 に非 らず や。 其
つて・君 は日本國 の侍 の囃響
て潭 bせ
れ を何 ぞ義 經 一人 の功 に備 へて、 院 の御 氣 色能 き儘 、 他 の嘲 り を も 顧 み ず 、 我 意 を行 迹 ふ の
條 ・諸 人 の峨 する處分明 也・ 重家 承り・蠖 鍵 .
を離
給 へば 、勇 士 の道御 前 に て申 上 ぐ る に及 ば ざ る事 な が ら 、 軍 は勢 の多 少 に依 る べか ら ず。 既 に
以 て三 河守 殿 の御 勢 と伊 豫守 殿 の御 勢 、 何 れ猛 勢 に候 や。 其 の功 何 れ か勝 れ候 や。 夲 家 攝 津 の
國 一の谷 、讃 岐 の八島 に籠 り し時 、 伊豫 守 殿 の御 勢 と夲 家 の勢 と何 れ が多 勢 に 候 や。 是 を以 て
ひかごと
愚 意 に存 U 侯 は、 只 將 の器 量 にも や 候 は んか 。景 時 が 己 が 小 智 を以 て渡 邊 輻島 に て大 儀 を謀 ら
ま こと
ならひ
んと す るを 、 伊 豫 守 殿 用 ひ給 は ざ る 事 を恨 み 、僻 言 計 り支 へ申 す を 、 君御 用 ひ有 る に 依 って、
眞 を存 U 候 輩 も 時 の權 威 に押 さ れ て申 し 上 げ ざ る 事 世 の風 俗 な れ ば、 是 非 な く 候。 國家 を 亂 さ
んと し給 ふ 伊 豫 守 殿 の御 所存 、 全 く他 の爲 す所 に非 ら ず、 君 の御 心 に こ そ候 へ と 申 し た り し
あるイ
ささや
に 、 御 前 の諸 士 、 (皆) 功 な る申 し 樣 か な と 曝 言 き あ へり。 鎌 倉 殿 、其 の後 は 仰 せ ら る る御 詞
ご四 一
かれ
二四二
てい い
も な く し て、 奥 に入 ら せ給 ふ の後 、 重 家 を ぼ 佐 原 十 郎 に御預 け 有 り て、 渠 が 父 庄 司 は 六條 廷尉
の不 便 を 加 へ給 ふ者 な り。 何 ぞ 當 家 に不 忠 を存 ず べき。 義 經 に屬 す る の條 、 一旦 の義 な れ ば、
御 家 人 に召 し 加 へら れ本 領安 堵 す べし と の仰 せに て 、 重 家領 掌 申 し、 暫 く鎌 倉 に徘 徊 し た り し
が、 絡 に鎌 倉 を 忍 び出 で て、 奥 州 衣川 の館 へ參 り し と 云 へり。
(義 經 討 死)
やじり
そろ
と
(一七八)
らめ
同 閏 四月 晦 日 辰 の尅 、 本 吉 の冠 者 高 衡 を 大 將 と し て、 伊賀 良 目 七郎 高 重 、 佐 藤 三 郎 秀 員 追 手
の道 を 廻 り 、 衣 川 の館 を 襲 ふ。義 經 の郎 從 鏃 を揃 へて暫 く 防 ぐ後 、 門 を 閉 ぢ て郎 從 一人 も 出 で
く
す
よ
ず。 泰衡 が 家 人 、 拌 の藤 八 、 同 藤 九郎 と て奥 州 に名 を得 た る剛 の者 有 り。 先 陣 に進 み て、 龜
井 、 片 岡 は何 處 に有 る ぞ。 武 藏房 は な き か。 出 で合 ひ て勝 負 を爲 べき の由 喚 ば は り け れ共 、 少
さが
々箭 を射 出 だ し た る 計 り に て、 敢 へ て出 つ る 者 も な し。 程 な く館 に 火 か か り燒 け出 で た り と 云
や
ただ
お
へり。 義 經 の郎 等 皆 以 て死 生 知 れず と云云。 夜 に入 つて義 經 の死 骸 並 び に室 家 息 女 の死 骸 を捜 し
もろをか
出 だ す と雖 も、 燒 け頽 れ墮 ち て、 其 の形 分 明 なら ず 。 息 女 の死 骸 は見 えず と 云 へり。
(義 經 室 家 仕 女物 語)
あま
同 年 九 月 五 日夜 に入 り て、 尼 女 一人 、 師 岡 兵 衞 尉 重 經 が旅 宿 に蕁 ね 來 た る。 是 義 經 の室 家 の
仕 女 な り 。 重 經 に膽 繰 有 る に依 つて頼 り來 た る。 彼 の尼 申 し て云 はく 、 金 剛 別 當 の子 息 、 励 贊
異 本義 經記
まう
房 太 郎 秀 方 、 歳 十 三、 常 に衣 川 の御 館 に參 候 す 。 其 の節 も 參 り て逗 留 あ り し に、 晦 日泰 衡 が軍
兵 寄 す る の由 告 げ來 た る時 に、 伊 豫 守 殿 、 秀 方 を 召 し て、 汝 は早 く 歸 宅 す べき の由 仰 せ有 り し
おと
に、 秀 方 申 し て 云 は く、 か か る急 難 の所 に參 り 、 見 捨 て て歸 る事 有 る べか ら ず 。 御 先 途 を 見 屈
け 申 し、 君 若 し御 命 を墮 し給 は ば、 我 命 を 捨 つ べき 由 を 申 す 。 伊 豫 守 殿 泪 を 流 し給 ひ、 汝 一人
是 に濮 ま り た り共 、 全 く義 經 が爲 に非 ら ず 。 邏 く 歸 り て泰 衡 に忠 を 致 す べき の由 宣 ひ て、 則 ち
鬻 触 武 貞 を膨 け て、 金 剛 別 當 が方 へ迭 り歸 し給 へり。 伊 豫 守 殿 の家 人 甲 胄 を帶 す る處 に、 早 泰
衡 が勢 襲 ひ來 た る。 軍 始 む る の時 、 女 中 五 六人 裏 門 より 逃 げ 出 で て散 々 に成 つて、 其 の行 方 知
れ ず 。 此 の尼 は暫 く關 山 の邊 に隱 れ 居 て、 其 の後 申 尊 寺 の別 當 大 法 師 心 蓮 を頼 み て尼 にな る と
云 へり。 重 經 、 郎 等 を付 け て、 川 越 重 頼 (
老 母 の方 へ途 り遣 はす と∼ 。 義 經 沒 落 の後 、 川 越 重
頼 ) 所 領 伊 勢 國 香 取 五 ケ郷 召 し放 さ れ、 川 越 一所 は老 母 に賜 は る。 重 頼 義 經 を愛 し、 志 深 く有
平妻 は蘿
同意 の沙汰 により領地常陸國南部 を召 し放 さ耄
躊 變 にな り給ふ・郎簪 以 て其 の姿 なる・耋 鸚 仕女
室家 の姉 也。是 も義彎
り し。 子息 重房 は義 經 の弟 子 也。 彼 是 以 て義 經 に同 意 の風 聞 有 るゆ ゑな り と云 へり。 下 河 邊 四
郎政嘉
と 云 へり 。
(
義經奥州下向)
纛 奥州 へ落ち給ひ睡
等 、 或 は兒 立 に似 せ て、 彼 是 五 十 人 計 り 、 國 々 の難 苦 を 凌 ぎ て、 北 國 海 道 を逋 り給 ふと 云 へ
二四三
そぴ
いか
ご四四
(一八〇)
り。 井 上 左衞 門 、 越 前 の金 津 の上 野 に て行 き逢 ひ奉 る。 義 經 を見 付 け 申 し、馬 より 下 り て所 用
いか
有 る躰 に て横 道 へ剪 れ た り。 郎 等 が小 聲 にな り て、 剣 官 殿 の御 通 り の由 を 告 ぐ る。 井 上 聲 を 嗔
はる
ら し て、 伊 豫 守 殿 は鎌 倉 殿 と不 和 にな り給 ひ、 今 は御 敵 な るを 、 吾 爭 で か通 し申 す べき や 。 汝
は主 を盲 目 な る と思 ふ にや 。 誠 の山 伏 達 に無 禮 有 る ま じき の由 を 云 ひ て、 各 々を 通 し遙 か有 つ
て本 道 に出 で た る とな り。
とかし
(︻八 一)はから にてイ
加 賀 國 富 樫 介 が關 所 を 通 り給 ふ時 、 辨 慶 計 略 う て通 し奉 る と 云 ひ傳 へり。
(一八二)
或 は曰 はく 、 彼 の關 を 通 り給 ふ時 、富 樫 が 家 人 見 咎 あた り しを 、富 樫 大 き に制 し て、 誠 の
ゆ や
お
ひざまつ
客 僭 達 に て渡 り給 ふも のを 、不 淨 の身 と し て近付 き 申 さ ん事、 明 王 の照 覽 計 り が た し。 笈
、
に は定 め て熊 野 權 現 の移 り給 ふ ら んと、 椽 よ り降 り て、 大 地 に蹲 踞 き、 頭 を傾 け て各 々を
邁 した り と銃 。
(
頼朝奥州征伐)
たと
義 經李 泉 へ下 り 着 き給 へば、 秀 衡 方 人 し て、 民 部 卿 基成 朝臣 の衣川 の館 へ入 れ奉 る。 秀 衡 所
存 にも 、其 の身 存 命 の内 は別 義 有 る ま U け れ共 、 秀 衡 死 後 に は、 假 ひ伊 豫 守 殿 な く と も鎌 倉 殿
よ り 兩 國 の内 へ手 を 入 れ給 ふ べき と蕪 々思 ひ て け れ ば、 義 經 の下 向 を幸 ひ の事 と思 ひ て時 節 を
計 ら ひ た る と にや。 義 經 奥 州 に ま し ま す由 鎌 倉 へ聞 えけ れ ば、 頼 朝 公 安 から ず 思 ひ給 ひ て、 七
道 の軍勢 凡 そ 二十 六 萬餘 騎 引 率 し給 ひ、 奥 羽 兩 國 に發 向 あ る。 先 陣 は畠 山 重 忠 、 宇 都 宮 父 子 三
かし
人 、 千 葉 新 介 、 佐 竹 六郎 、 其 の外 常 州 野 州 の國 人 相 集 り 十 萬 餘 騎 、白 川 の關 に 着陣 あ る。 秀 衡
是 を聞 き て、 義 經 を大 將 と し て、 子 供 を始 め、 國 人 彼 是 十 二萬 餘 騎 の勢 、 樫 山 に陣 を 取 る。 爰
に 於 て義 經鎌 倉 勢 の先 陣 已 に白 川 、頼 朝 の陣 は未 だ 宇 都 宮 に有 る の由 を 聞 き 給 ひ 、十 二 萬畭 騎 の
ささや
う
内 を 引 分 つて、 六 萬 餘 騎 に て白 川 に向 は る 。 秀 衡 が 子 共 並 び に國 人 等 、 大 勢 着 陣 有 る な る に 、
小 勢 に て向 ひ 給 ふ こそ 意 得 ね と 曝 き け れ共 、義 經聞 か ぬ 自 に て、 二 日 路 を 一日 一夜 に策 つて白
川 に着 き給 へば、 夜 は未 だ寅 の上 尅 な り。 中 々軍 勢 を休 め て は惡 か り な ん と て、 八 手 に分 ち
て、 各 々 一人 の大 將 を付 け て、 相 圖 を 定 め て、 吾 が 身 は手 勢 二千 餘 勢 騎 に て重 忠 が 陣 の後 の高
とき のこ ゑ
き 峯 に上 つて陣 を見 隲 し て、 火 を 擧 げ 給 ふ。 追 手 の軍 勢 鑠認 備を發 し て責 あ戰 ふ。 敵 陣 思 ひ 寄 ら
ざ る事 なれ ば 、 驚 き騒 ぐ 處 へ、 義 經 二千 餘 騎 に て重 忠 が陣 の後 に て鯨 波 を 上 げ てけ れ ば 、 畠 山
が 三 萬騎 購 き立 つて、 則 ち 陣 屋 に火 を かけ た り。 諸 軍 勢 是 に膝 節 て騒 い で散 々 に落 ち 失 せ てけ
たりと謂 はば、明 日 の未申 の
り。 軍 散 じ て後 、 國 衡 、 泰 衡 、 宇 都 宮 へ寄 せ ん と云 ふ。 義 經 の曰 はく 、 然 る べから ず 。 兄 に て
義經轡
く た び
人 には非らず・今見給 へ・是 に委
ら んに・ 儀
騨
つべきや・ 又宇都 寔 寄 せたり共、 此 の合戰 に欝
ご四五
れたる軍
軍 勢 も 下 知 に隨 ひ て本 陣 へ引 返 した り 。鎌 倉 殿 に は宇 都 宮 に て白 川 の陣 の敗 北 の 由 を 聞 き給
ん。 陣 の構 へも 無下 に淺聞 には 有 る ま U け れ ば 、只 是 よ り 引 返 し給 へと 宣 ひ け れ ば 、兄 弟 も 又
勢 、 二日 路 を 經 て行 か ん に、 物 の用 に は 立 つ べか ら ず。 其 の上頼 朝 は宇 都 宮 が城 にぞ有 り な
の大勢 にて麥
尅 に は 一定 是 へ大 勢 に て寄 せ ん ず る ぞ。 小 勢 の軍 に草 臥 れ て、 各 々油 斷 し て有 ら ん處 へ、 荒 手
候頼弧艇 左繕 撃
異 本 義 經 記
みつか
二四 六
のぼ
ひ、 こは如 何 にと按 じ給 ひ し に、 結 城 朝 光 申 し て 云 は く、 伊 豫 守 殿 、、
す す ど く、 如 何 に も 上 り
勝 な る軍 を す る殿 に て候 へ。 自 ら 定 つて北 ぐ る敵 に追 ひす がう て是 へそ寄 せ給 ひ な ん。 御 要 心
かて
有 る べし と申 す。 頼 頼 公 仰 せら る る は 、 義 經 一人 如 何 に勇 な り共 、 (
其 の) 勢 の分 際 幾 程 も有
つ
く たび
よ
とり こ
る べから ず 。 勢 樫 山 よ り白 川 ま で 二日 路 を 來 た り 。 軍 を し て又 是 へ二日 を 經 て來 た ら ん に、 糧
の盡 きず と 云 ふ事 有 る ま じ。 其 の上草 臥 れず と 云 ふ事 な し。 能 き擒 ご ざ ん な れ。 騒 ぐ べから ず
しイ
と宣 へば、 江間 義 時 申 さ る る は、 攝 津 國 一の谷 の合 戰 の時 も 、 勝 ち 給 ひ て後 、 首 實 檢 な ん ど宣
ゆるぐ
ひ て、 緩 々 と侍 り つる、 今 も 左 こ そ御 座 しま さ ん。 此 方 よ りも 寄 せ給 ひ たら ん に は、 一定 味 方
いく さ
勝 ち 軍 と こ そ存 じ候 へと申 され け れ ば 、 頼 朝 公 聞 召 され 、 江間 殿 の宣 ふ處 のや う に は候 はず 、
頼 朝 も寄 せ度 く 候 が、 義 經 、 師 頼朝 を 敵 に受 け て、 左 樣 に油 斷 す べき 者 に非 ら ず 。 今 聞 き給
へ。 人 を見 せ に遣 はさ んず るぞ 。 本 陣 樫 山 ま で引 く か。 又 は 一日 路 か引 退 か んず るぞ 。 其 の故
は前 の軍 敗 れ ぬ と云 は ば、 定 め て頼 朝 大 勢 に て白 川 に着 き な ん。 其 の時 義 經 又 出 で て此 方 の大
かれ
はかりごと
かた
勢 の陣 を取 り、 靜 な ら ざ る處 へ押 寄 せ て、 陣 を取 り、 手 詰 の軍 す べし と思 は ん者 な れ ば 、 頼 朝
いと
は又 渠 が兄 な り。 何 ぞ 其 の計 略 に落 ち んや 。 今 此 の堅 き 陣 な んど へは、 中 々寄 せ ま じく 候 ぞ と
いく さ
宣 ひ て、 最 騒 き給 ふ氣 色 も な かり し と云 へり 。 使 歸 り て白 川 に は敵 一人 も 候 はず と申 す 。 御 兄
弟 の師 相 應 せ り と各 々舌 を ぞ振 ひけ る。 鎌 倉 殿 初 の軍 に仕 損 じ給 ひ、 義 經 が有 ら ん程 は、 此 度
奥 州 へ発 向 し て は利 有 るま U と て引 歸 し給 ふ。
異 本 義 經 記
(
秀衡死去)
ひき
(一八三)
よぴあつ
文 治 三 年 十月 廿 九 日 、秀 衡 死 去 有 り、 其 の刻 泰 衡 國衡 以下 の子 供 、其 の外 家 の子 を 近 く讃 め
て、 我 斯 く有 ら ん 程 は、 鎌 倉 殿 如 何 に思 召 す共 、 左 ま で の事 も有 る ま じ。 死後 は 又大 軍 を引 率
おそ
ゐ て下 向 有 ら ん。 伊 豫守 殿 を大 將 軍 と し て軍 す べし。 兩 國 の軍 士 心 を 一つに仕 た ら ん に、 鎌 倉
ひ づめ
殿 の大 軍 怖 る に足 る べか ら ず と 云 ひ置 き た る と な り。 然 る後 鎌倉 殿 よ り も伊 豫 守 討 ち參 ら す べ
(一八四)
もてな
き の由 度 々仰 せ遣 はさ る。 又勅 使官 史 生 國光 、 院 廳 官 景 弘 を遣 は さ れ し時 も、 丁 寧 に持 賞 し領
まちまち
(一八五)
掌 申 した る 風 情 な れ共 、内 心 には敢 へて用 ひ ざ る内 に、 兩 國 の國 人 も 心 區 々 にな り 、 又 は 一族
え ぞ
樋 爪 太 郎 俊 衡 入 道 、 五 郎 季 衡 を 初 あと し て、其 の・
39計 り が た く 見 え た り 。 泰 衡 國 衡 も 、是 に て
ころ
あい
は始絡 如 何 と思 ひ た ると そ 。義 經 も 兼 ね て心 得給 ひ て、文 治 四 年 の頃 よ り 、 常 陸房 海 尊 を 蝦 夷
ぬけ
へ遣 は し、 日 頃 彼 の島 の者共 を 愛付 け給 へり 。其 の外 片 岡 、 武 藏房 な んど も 人 知 ら ず 渡 海 した
る と銃 。
義 經 自 害 の事 は、 或 は曰 はく 、 鷲 尾 義 久御 命 に代 ら ん事 を願 ひ て、 義 經 を 佚 道 より 出 だ し
ぬけあな
奉 り て、其 の後 衣 川 の館 に火 を か け 自 害 した ると 沙 汰 あ り 。 兼 ね て斯 く あ る べ き と各 々思
まう
ひ た るゆ ゑ に よ り、 秀 衡 死 後 計 略 有 る と にや。 義 經 も 兼 ね て持 佛 堂 の椽 の下 よ り拔 坑 を 拵
へ置 き 、 日 頃 儲 け 置 き た る舟 に乘 り て、 蝦 夷 に至 り給 ふ と云 へり 。 妻 室 の死 骸 の事 、 其 の
心 得 有 り て仕 女 を殺 し た る か。
二四七
二四八
又 或 沙 汰 に曰 は く、 衣 川 の邊 に貧 女 の 三四 歳 計 り な る女 子 を持 ち た る あ り。 辨 慶 是 を憐 み
て衣 川 の館 へ呼 び入 れ て、 室 家 の下 女 に し て不 便 を加 へた り し が、 後 彼 の貧 女 親 子 の行 方
知 れ ず 。 此 の者 を室 家 の命 に代 ら せ た る と云 ふ評 あ り。 又 泰 衡 が 衣 川 へ軍 兵 を (
寄 する
いぶかし
え ぞ
に) 道 筋 (
程 ) 近 き順 路 の能 き裏 道 あ る に、 其 れ を ば捨 て て道 も 遠 き追 手 よ り、 物 の鳴 り
磐
流 蔘 候 するに、鎌倉 殿より泰衡 を羈
し給 ふ事
合 はせたるか。義經 のま します衣川 の館 へ常 に河邊太郎高綱 雎賺
立旦筒く寄 せ た る も不 審 。 同 年 八月 奥 州 責 め の時 も、 泰 衡 季 泉 を落 ち て、 蝦 夷 の方 へ赴 き た
る事、兼 ね義 響
壌 、 金剛別當秀綱、佐藤庄司 基治譫
も、 綸 旨 の事 な ど も、 義 經 の前 に て雜 談 あ り し。 泰衡 衣 川 を 襲 ふ 十 日 程前 も、 民 部 卿 基成
朝臣 、 河 邊 太 郎 、 佐 藤 庄 司 等 衣 川 へ參 向 し て、 絡 日密 談 の事 あ り。 其 の後 又 四 五 日 を經
え ぞ
て、 河 邊 太郎 參 り、 一日物 語 し て歸 宅 し て、 其 れ以 後 は參 らず と疉 。 是 等 の事 を思 ふ に、
蝦 夷 へ落 ち給 ふ 事 も 泰 衡 秉 ね て示 し 合 ひ た る か 。
(
忠衡討死)
(一八六)
同 年 六月 廿 五 日 の夜 、 勾 當 八秀 實 を大 將 と し て、 八 十 餘 騎 、 和 泉 三 郎 忠衡 が 泉 屋 の館 を 襲
うつ
とびら
ゑが
ふ。 忠 衡 が郎 等 箭 を放 ち て是 を防 ぐ の後 、 館 に 火 を か け て、 忠 衡 自 殺 す。 夜 に 入 り て の事 な れ
(一八 七)
ば 、無 量 光院 へ既 に 火 か か ら んと す 。 軍 兵 並 び に寺 僣 等 、 此 の火 を 防 ぐ 。 此 の寺 は 秀 衡 の建
立 、 則 ち 菩提 所 な り 。 新 御 堂 と 號 す 。 宇 治 の夲 等院 を 圖 す と 云 へり 。 秀 衡 自 ら 扉 に畫 く 。 金 銀
異 本 義 經 記
ちりば
を鏤 め、 誠 に結 構 す。 忠 衡 が館 は無 量 光 院 の東 門 の邊 、 泉 屋 と云 ふ所 に有 り。 これ に依 つて和
泉冠 者 忠 衡 と 云 へり。 忠 衡 が死 骸 も燒 け損 じ て、 其 の形 分 明 なら ず と云 へり。
此 の忠 衡 も蝦 夷 へ落 ち行 き た る と 云 ふ沙 汰 も あ り。 兄 弟 云 ひ合 は せ た る か。 其 の實 知 れ ず
永 祿 評定 記 に 、
と 也。 義 經 は自 害 し給 ひ、 郎 等 は皆 失 せ た り と披 露 しけ れ共 、 郎 等 の内 一人 も外 に て見 え
其 をもイ
ず 。 又御 臺 所 の仕 女 な ん ど死 に た り し も沙 汰 も な し。 泰 衡 詮 議 に も及 ぼず 打 過 ぎ た る事 、
日頃 蝦夷 の事 を能 く知 り た る にや と 云 ふ 人 も有 り し と な り。
永 碌 十 二年 十 二月 、將 軍義 昭 公 、奥 州津 輕 の商 人 に、 蝦 夷島 の事 を お尋 ね有 り し に、 二百
きび
くち え ぞ
里 計 り 通 り 見 候 ひ て、其 の奥 は知 ら ざ 惹由 を 申 す。 其 の後 松 前 の者 に、 奥 に渡 り 一年 程 逗
か んく つ
けもの
留 した る者 に御 尋 ね 有 り し に、 深山 多 く寒 國 に て、所 に粟 、 黍 、 栗 、柿 等 の物 候 。端 蝦 夷
くち
かは
ゆたか
の方 は屋 作 りも な く 、 岩 窟 な ど を 家 と し て、畜 生 の如 く 、 鹿 狸 や う の獸 を 毒 の箭 に て射 殺
つか さ
し食 し候 。 奥 蝦 夷 は端 と は違 り、 人 の形 も 風 俗 も寛 に候 。 源 義 經 、 衣 川 の館 を 落 ち て、 此
の嶋 に渡 り給 ひ て、 島 の司 とな り、 今 義 經 大 明 神 と崇 め、 日 本 の伊 勢 大 神 宮 の如 く 恐 ぢ 怖
れ 候 。 本 祗 義 經 同 御 臺 所 、 姫 君 と申 し候 。 末 瓧 九 瓧 、 辨 慶 、 片 岡 、 鈴木 、 霾 井 、 熊 井 太
郎 、 源 八兵 衞 等 の者 共 と申 し候 と申 す 。 義 經 の子 孫 の事 御 尋 ね有 り し に、 子 孫 の沙 汰 承 ら
ず と申 し た る と な り。
(一八八)
國イ
且
東 鑑 に曰 は く、 文 治 五年 閨 四 月 卅 日、 今 日於 二奥 州 一
泰衡襲 源 豫州 一
、 是又任 二
勅諚一
、 且
依 二(工品 )仰 一也。 豫 州 在 二民 部 少 輔 基 成 衣 川 館 一
、 (泰 衡 )從 兵 數 百 騎 馳 一
一
至 其所 二(合 )戰 。 豫
ご四九
臣義經鸚 )
欒 場
蕉
二 五〇
頭覇 臣 六男、 母九條院雜仕蘿
殺。前伊馨
鸚 時 、(
則)聽二
院
、 壽 丞 二年 八月 六
州家人等、 雖 和 堕 、 悉敗績、 豫州入ゴ
持佛 掌 、 先害二妻廿二孟 扞、咨
從 五位下覇
日任 二
左衞門少劉 、蒙 二
使宣旨 、 九月+ 合 叙 留。+月 + 百 拜黒
内 昇 殿 一。 廿 五 日 供 二奉 大 甞 會 御 秡 行 幸 一。 元 暦 元 年 八 月 廿 六日 、 賜 二夲 氏追 討 使 官 符 一
。 ニ
ハイ
年 四 月 廿 五 日賢 所 自 二西 海 一
遷 宮 、 入 二御 朝所 一
間 供 奉 。 廿 七 日補 二院 御 厩司 一
。 九 月 十 四 日、
任 二伊 豫 守 一
使如元。
文 治 元 年 十 一月 十 八 日解 官 。
(一八九)
文 治 五年 六月 十 三 日、 泰衡 使 者 新 田 冠 者高 衡 、 持 二參 豫 州 首 腰 越 浦 一、 1
}
1
1
I
I
二上 事由 一
、 (仍 )
爲 レ加 二實 檢 一、 遣 二和 田 (太 郎 )義 盛 、 梶 原 (夲 三 )景 時 等 (
於 )彼 所 一、 (
各 )著 二甲 直 垂 一、 相 二具
従イ
甲 胃郎 等 二 十騎 一。 件 首 納 二黒 漆 櫃 一浸 二(
清 )美 酒 一。 高 衡 郎 從 二人 荷 二擔 之 一。 (
昔 )蘇 公 自 (者
獲
彼
自 )擔 ゴ其 猴 一
。 今 高 衡 者 、 令 レ入荷 二其 首 一
。 見 者 (皆 )拭 二双 涙 一濕 二兩 衿 三 丕
。
(義 經 首 葬 )
さしかは
すぐ
,
因幡 前 司 廣 元 、和 田義 盛 に 云 へる は、 伊 豫 守 殿 の御 首 、 若 し も 眼指 變 り た る事 有 ら ば、 鎌 倉
の内 へは 用 捨 有 る べし。 能 々意得 致 さ る べし と な り。 義 盛 領 掌 す。 直 に藤 澤 に葬 る と 云 へり。
(一九〇)
そのかみ
あまね
相 模 國 白鳩 大 明 神 の事 、 往 昔 里 人普 く 夢 見 ら く 、義 經 辨慶 大 き な る 蠡 に乘 り て、 此 の所 に
來 た り給 ふ。 里 人 夢 中 に怪 しむ の處 に、 伊 豫 守 源 義 經 、 武 藏 房 辨 慶 と名 乘 り 給 ふ。 是 に依
異 本 義 經 記
く るわ
つ て其 の所 に祗 を建 て祚 と崇 む。 今 の白 鳩 大 明 神 是 な り。 辨 慶 も末 祗 と崇 む と 云 へり。 或
なかごろ
は曰 は く、 三州 岡崎 淨 瑠 璃 曲 輪 に義 經 の畫 像 有 り。 鳥 帽 子 に裝 東卷 物 を持 て り。 世 に 云 ひ
くるわ
なつ
傳 ふ は、 此 の像 元 來 蝦夷 が島 に あ り %、 中 興 山 伏 の來 た り て、 此 の畫 像 を岡 崎 淨瑠 璃 曲 輪
鑑
燕 家 の侍 に・ 佐世石見守 互 云ひ著
あり・此 の者語 りて曰 はく藁
が租父 は雲
に納 む と に や。 此 の所 に淨 瑠 璃 姫 の影 あ り と 云 へり。 故 に淨 瑠璃 廓 と號 く と云云。
議
州 の者 也。 類 が弟 に 佐 世新 十郎 と 云 ふ者 落髮 し て、 安 樂 齊 と號 し、麹 齢 との如 く な り て廻 國
す。 享 碌 の頃 か 關東 に赴 き、 其 れ よ り 蝦夷 が嶋 に渡 海 す。 時 に同 俘 の士 に美 弱 の者 一人 あ
おそ
り。 異 名 に此 の者 を剣 官 と呼 ぶ。 蝦 夷 人 の前 に て、 異 名 を 云 ふ。 島 人 是 を聞 き て、 甚 だ怖
ゐ ねうかつかう
ぢ畏 る 躰 に て、其 の座 を去 り て、 數 十 人催 し來 た り、 氏 神 の子孫 か、 拜 む べき の旨 を云
こと
聞き いれずイ
ふ。 安 樂齊 し か U か の由 を 理 わ る と い へど も、 敢 へて用 ひず し て絡 に彼 の美 弱 の士 を座 上
さ しも の
に置 き て、 各 々圍 繞 渇仰 し た り。 其 の頃 蝦 夷 が島 に義 經 の像 と て、 鳥 帽 子 に裝 束 し た る
し るし
影 、 又 辨慶 が像 と て、具 足 を着 し、、
色 々 の挿 物 し た る畫 を家 々 の門 戸 に押 し て あ り。 義 經
の祗 に義 經 大明 紳 と額 あ り。 又 義 經 の郎 等 の璽 と て其 の頃 ま で は少 々殘 り て 有 り し と な
り。 其 の後 も彼 の嶋 へ渡 海 の人有 り し。 其 の時 も斯 く のご と く な る事 あ り し と な り。
又播 磨 國野 口 の里 教 心寺 の開 山 、 教 心 上人 は源 義 經 の由 、 高 館 を落 ち て此 の所 に至 り、 發
心 あ り。 教 心 ど名 を つき、 討 死 し た る郎 等 の菩 提 を吊 ひ給 ひ し が、 其 の身 も爰 に て遷 化 あ
り 。 其 の跡 に 一宇 を建 立 し て教 心 寺 と號 す と里 人 は云 へり 。 若 し波 多 野 右 馬 允 義 經 な る
二五 一
二五二
か。 治 承 四 年 頼 朝 公 の責 めを 受 け て、 討 手 下 河 邊 庄 司 行 李 寄 せ來 た ら ざ る前 に、 相 模 國 松
田 郷 に て自 殺 す と あ り。 謀 り て其 の期 を 遁 れ た る事 も や。
ぶ
其 の頃 又 近 江源 氏 、 山 本 兵 衞 義 經 な ど の同 名 あれ ば 、 其 の實 如 何 。
(冖九二)
往 昔 奥 州 に殘 夢 と云 ふ者 あ り。 出 生 行 年 知 れ ず 。 元 暦 文 治 の事 を能 く語 る。 義 經 又 は家 人
なつか
の人 相 ま で語 る。 義 經 は今 世 に云 ふ やう に は あら ず 無 男 な り。 辨 慶 も人 の云 ふ如 くな る姿
こ のみ
に て は な く美 僣 と 云 へり。 常 に常 陸 房 海 尊 な る由 自 稱 す。 主 君 の滅 期 の所 な れ ば懷 し く、
其 の 跡 を 慕 ひ て、 衣 川 の 邊 に 至 る 所 に 、 老 翕 來 た り て 、 我 に 赤 色 の菓 を 與 ふ 。 其 の味 甚 だ
美 な り 。 其 の 後 無 病 長 命 と 云 へり 。 古 き 事 を 知 り た る 者 あ り て 、 昔 の 事 を 尋 ぬ る 時 は 、 其
不分 明 イ
いつはり
の 答 分 明 な ら ず 、 世 人 僞 詐 の 輩 な り と 云 へり 。 (一九 三 )
(一九 四)
ちかごろ
紳 肚 考 、 都 の良 香 の條 下 に云 ふ、 近 世 有 レ人 云、 奥 州 有 一
殘 夢者 一
、 自 字 日 二呼 白 一、 又自 稱 二
秋風道人 一
、 不 レ僣 不 レ俗 、 風顛 狂漢 、 自 (
日 )與 二順 一休 一友 善 、 得 二其 禪 要 一、 又 時 々與 レ人 語
(以 元暦 文 治 之事 )而 日 、其 時 義 經 爲 二何 事 一
、 辨 慶 爲 二其 事 一
、 誰 某 作 二此 事 一
、 與 二夲 氏 一戰 二
子 某 一、其 話 殆 如 一
一
親 見 (之)者 一、 人 恠 詰 レ之 、 則 日、 我 忘 レ之 矣 、 淨 屠 天 海 及 松 雪 云 者 遇 一
一
殘
夢 一、 々 々好 二枸 杞 飯 一
食 レ之 、 海 亦 喫 レ之 、 與 人 語 日 、 殘 夢 長 生 、 不 レ速 レ事 而 服 一
一
枸杷 一
故也 。
人 恠 レ之 日 、 彼 蓋 常 陸 房耶 、 海 聞 喜 レ之、 人 途 二枸 杷 一
、 海 受 爲 二茱 飯 一餌焉 、 海 之 言 日 、 任 レ
意 隨 レ時 勿 レ急勿 レ速 、 緩 々慢 々、 是 延 二壽 命 一
、 人 或信 レ之 、 鳴 呼 淨 屠 妖 惑 之 弊 、 無 二所 不 ワ
至 、 昔漢 文 之 好 一
萇 生 一也 、文 成 五 利 之 儕説 レ帝 日、 黄 帝 不 レ死 、 帝 羨 レ之封 禪 、 然其 効 亦 可
異 本 義 經 記
觀 矣 、 今 日、 殘 夢不 レ死 、 然 其 何 在 哉 、 彼 一詐 也 、 此 一詐 也 、 由 レ是 觀 レ之 、 人 君 之 嗜 好不 レ
ひ
可 レ不 レ愼 。
(一九五)
くま
昔 時 古 老去 はく 、 伊 豫 國 久 萬 と云 ふ山 里 に珠懷 ど 云 ひ し 法師 、 出 つ る常 に碧 嚴 を講 談 す。
人 有 り て其 の出 所 を 尋 ぬる に、和 州檜 川 と 云 ふ所 の者 と 云 へり。 十 四 の年 多 武 峯 に登 り て
ちなみ
十 字坊 堯願 の弟 子 とな り 、 名 を堯 全 と 云 ふq 十字 坊 の屋 十文 字 に造 る (故)に坊 號 とす 。 堯
願 は義 經 の繼 父 、 一條 大 藏 卿 長 成 朝 臣 の所 り の師 に て、 義 經 弱 冠 の比 よ り眤 近 深 き ゆ ゑ 、
頼 朝 と申 違 ひ給 ひ て、 十字 坊 を頼 み多 武 峯 に來 た り給 ふ に よ り、 堯 願 頼 ま れ 參 ら せ、 戸 津
川 の方 へ義 經 を途 り遣 は す。 其 の事 露 顯 し て京 都 よ り あら た め有 る に よ つて、 十 字 坊 、 彼
の山 を逐 電 す。 某 も 在所 檜 川 に か へり住 す 。 或 時 吉 野 の奥 に至 る の時 、 一人 の老 翁 に逢 へ
り。 其 の粧 ひ甚 だ以 て殊 勝 な り。 是 に隨 ひ て暫 く 奥 山 に遊 ぶ の後 、 檜 川 に 歸 り 、 又奥 山 に
入 り て、 彼 の老 翁 を尋 ぬ る と い へど も 、 再 び 其 の在 所 知 れ ず し て里 に臨 る 後 、 病 む 事 な う
たるみ
し て命 長 し と云 ふ。 昔 の事 を 問 ふ に分 明 な り 。誠 に不 思 議 の事 と 人 々沙 汰 す。 其 の頃 道後
の垂 水 圖 書 の助 通 弘 と云 ふ者 、 二禪 宇 賀 島 と云 へる 兩 人 を 件 ひ 、 大山 寺 の觀 音 に 詣 す る所
に、 堂内 に於 て、 彼 の珠 懐 に行 き 逢 ふ 。 則 ち 相 件 ひ て坊 に 立寄 り、 昔 の事 を尋 ぬ る。 珠 懐
あ らま し
云 はく 、 義 經 都 にま し ま す の時 、 師 の堯 願 、 彼 の館 へ折 々參 向 す。 又 義 經 都 を ひら き多 武
ふと
う まれ つき
が うり き
峯 へ來 た り給 ふ 事 、
'正 し く見 た る事 な れ ば、 荒 増 覺 ゆ る と云 ふ。 義 經 は云 ひ傳 ふ如 く美 男
の人 な り。 辨慶 も世 に 云 ふ如 く な り。 骨 太 き天 性 な り。 世 人 も 強 力 の沙 汰 し た り。 辨 慶 師
二王 三
すなは さわや
二五四
はな
の堯 願 と園 碁 を う ち 、 辨慶 負 け て腹 立 せし 事 な ど を語 る。 其 の外 郎 等 共 の事 を咄 す に、 其
このみ
たるみ
の言 便 ち 爽 か な り。 堯 全 は 日本 國 普 く順 國 す。 心 の滯 る所 に遊 樂 す 。 心 の滯 る所 に遊 樂
みちのぶ
はなし
く
ま
す。 四 國 に 遊 ぶ 事 七 年、 去 年 當 國 に來 た る と 云 へり。 能 く 菓 を食 す。 垂水 珠 懐 が事 を、 河
野 彈 正 小 弼 通 宣 に 語 る。 通 宣其 の噺 を聽 か ん が爲 に珠 懷 を招 き に久 萬 の郷 へ人 を遣 は す。
其 の刻 限 に や 、珠 懷 里 人 に 云 へる は 、 河野 殿 我 を 招 き給 ふ べき由 今 日 宣 へり。 明 日必 ず 人
はる
來 た る べし 。 我 は 讃 州 に約 諾 の事 有 り。 彼 の方 へ赴 く べし と 云 ふ。 里 人恠 み て、 河野 殿 今
く
ま
日 宣 ふ 事其 の道 遼 か な り。 爭 で か只 今 其 の事 の知 る べき と て用 ひざ る 處 に、 果 し て其 の使
久 萬 山 に 至 る 處 、 珠 懷 行 方 知 れ ず と メ本。 鎌 倉 明 月 院 に 義 經 の守 り の 舎 利 一粒 あ り 。 金 塔 に
入 る 。 往 昔 古 河 の御 所 に あ り し を 、 此 の寺 に 納 め 給 ふ 。 元 は 金 紋 紗 の 直 垂 の 袖 に 包 み て 有
り し を 、 其 の 袖 は 古 河 に殘 せ り 。
略注
(一)尋 卑 分 脈 、 道兼 流、 宇 都 宮 、宗 綱 の子 に、 知 家 、筑 前 守 、 號 八 田 四郎 、實 者 下 野 守 源義 朝 子 とあ る 。
(二)宇 都宮 朝 綱 、 奪 卑分 脈 、 左 衞 門尉 、武 者 所 、 依伊 勢 訴 、 配 土 佐 國 と 。
(
三 )奪 卑分 脈 、 義 門 、早 世 とあ る。
之 等 誅之 云 々。
(
四 ) 尊 卑分 脈 、 全 成 、 ゼ ン サ イ。 童 名 今若 丸、 號 惡 禪 師 、阿 野 法橋 、 建 保 年 依夲 義 時 命 、 仰 金窪 左 衞 門 尉
(五) 尊 卑分 脈 、 圓 成 、 エン シヤ ウ。 祗 候 八條 坊官 、 號 今 禪師 卿云 、 改 義 圓 、 養 和 元 正 廿 四 、 於 濃 州 洲 俣
異 本 義 經 記
川 、爲 夲家 討 了 、 年 廿 七才 と 。
(六) 夲 治 物 語 卷申 に詳 し。
(七) 李 治 物 語 卷 下 に詳 し。
(八) 績 群 書 類從 卷 一 一七所 收 。
(
九 ) 夲 治物 語 卷下 、 コ 一月 九 日 の夜 に入 り て幼 き 者 ども 引 具 し て済水 寺 へそ 參 り け る 。
﹂
(1O ) 夲治 物 語 卷下 、 ﹁宇 陀 郡龍 門 の牧 岸 の岡 に いふ所 に叔 父 のあ り し か ば。﹂
(1 1) 卒治 物 語 卷下 、 ﹁常 盤 今年 二十 三 、 九 條 の女 院 の后 立 の御 時 、 都 の申 よ り眉 目 よき 女 を 千 人 そ ろ へ
て、 そ の中 より 百 人 、 又 百人 が 中 よ り 十人 す ぐ り 出 さ れ け る 、 そ の中 に も常 盤 一とそ 聞 え け る 。
﹂義
經 記 巻 一、 常 盤 都 落 參 照 。
(一二) 屋代 本 夲 家 、 劔 卷 、
﹁九 の年 鞍 馬 の 一和 尚 、 東 光 坊 の阿 闍 梨 圓 忍が 弟 子 、 覺 圓坊 の阿 闍 梨 圓 乘 に付 い て學 文 し て居 た りけ
る が改 名 し て遮 那 王 と そ申 し け る 。﹂
流布 本 夲 治 物 語 卷 下 、 ﹁東 光 坊 阿 闍梨 蓮 忍 が弟 子 、 禪林 坊阿 闍 梨 覺 日 が 弟 子 と な つで遮 那 王 と そ申 し
ける。
﹂
(= 二)義 經 記 卷 一、 ﹁良 智坊 の阿 闍 梨 。
﹂
(一四 )義 經 記 卷 一、 ﹁四條 室 町 。﹂ 四 條 坊 門 は 四條 よ り 北 三 筋目 の東 西 の路 。
ノ
(一五) 義 經 記 卷 一、 ﹁鎌 田 三郎 正 近 。﹂ 弟 の事 な し。 盛 衰 記 卷 四十 二、 盛 政光 政 が見 え 、 盛 政 は 一の谷 に
て討 たれ 、 光 政 は 屋嶋 に て討 た れ た と あ る。
商 人 にな り け る が、 今 度 九郎 冠者 に付 いて 、 又 侍 にな さ れ 、 窪 彌 太郎 と そ申 し け る 。﹂吾 妻 鑑 卷 四 、
(一六) 九條 家 本 夲治 物 語 卷下 、 ﹁か の商 人 は元 は公家 の青侍 に て あり し が 、身 貧 しく 爲 ん 方 な き に始 め て
元 暦 二年 六 月 二 十 一日 、宗 盛 の子 、 清 宗 を 斬 る由 が見 え る。 夲 家 物 語 卷 十 一參 照 。
屋 代 本 李 家劔 卷 、 ﹁承 安 四 年 の春 の比 、 五 條 橘次 末 春 と云 け る金 商 人 に相 具 し て東國 へ下 け る。﹂
(一七) 九條 家 本 夲治 物 語 卷下 、 ﹁坂 東 武 者 の中 に清 助 重頼 と云 う 者 あ り 。是 も 鞍 馬 へ參 り け る。 沙 那 王 に
二五五
二五六
に て候 へど も 、 源家 の末 葉 にて候 。 さ ては さ う な き人 ご ざ ん な れ ⋮ ⋮ 。
﹂ 流 布 本 李治 物 語 卷下 、、 ﹁深
'、 か たら ひ よ り て、 ⋮⋮ 名 を ば 誰 と申 す そ な ど と へば、 深 栖 三 郎光 重 が子 に、 清 助 重 頼 ど い ふ不 省 の身
栖 三郎 光 重 が孑 、、
陵 助 重 頼 と 申 し て源 氏 に て候 。﹂
U。 義 經 記 卷 ↓、 承 安 二年 二月 ご 日 ど誤 る。
(一八) 九條 家 本 夲治 物 語 卷下 、 ﹁承 安 四年 三月 三日 のあ つかぎ ( く ら ま 寺 を ぞ出 で てけ る 。
﹂ 流布本も同
(一九) 義 經 記 卷 二 、鏡 宿 に て吉 次 宿 に 強 盗 の入 る 事 で は 、由 利 太 郎 、 藤 澤 入 道等 とす る 。
C
ご o> 出 所 不 明 。
か れ が腹 に夜 叉御 前 ど て、 十 戯 に な ら せ給 ふ御 息 女 お は しま す 。﹂
(一11> 李 治 物 語 卷 下 、 ﹁彼 の宿 の長 者 大 炊 が女 、 延 壽 と申 す は、 頭 殿 御 志 淺 か らず 、 思 召 さ れ し 女な り 。
記 李 太 政 遠保元 逆 亂時 被誅 、 乙 若 以 下同 令 自 殺 了 。李 三眞 遠 、 出 家後 號 鷲栖 禪 源 光 、夲 治 敗 軍 時 、 爲
(二二 )吾 妻 鑑 卷九 、 建 久元 年 十 月 二十 九 日 、 ﹁故 六條 延 尉 禪門 最 後 妾 、 乙 若 以下 四人 幼 息 母 、大 炊 姉 、 内
左 典 厩 御 供 、廻 秘 計 、 奉 逾 于 内海 也 。大 炊 、 青 墓長 者 、此 四人 皆 連枝 也 。内 記 大 夫 行遠 子 息云 々。﹂
(
二 三 )尋 卑 分 脈 、貞 嗣 流 、 季 範 の子 に砧 範 、 法 橋 と あ るゆ 範 忠 か。
(
二 五 )流 布 本裸 元物 語 卷上 。
Ctl四) 流 布 本 保 元物 語 卷上 。
(二六 )流 布 本 夲 治物 語 卷下 、 ﹁伏 見 源申 納言 卿 、 三河 の八 橋 を渡 る と て、 夢 に だ に かく てみ か は の 八橋 を
そ仰 せな り け るり﹂
渡 る べし とは 思 は ざ り しを と 詠 ま れ たり し を 、 上 皇聞 し召 し、 哀 れ ど思 し召 さ れ け れ ば 、召 し返 せと
(二七 )淨 瑠 璃 十 二段 草 孑參 照 。
(二八 )
、夲 家 物 語 卷 四 、彈 折 を 高 倉 宮 以仁 王 が傳 へ、 三井 寺 の金 堂 へ奉 る由 が見 え る。
(二九 )久 能 山 縁 起 、"
寫 本 一册 、 舞 窮 會瀞 習文 庫 藏 (
國書 目 録)。
(
三 OJ 尊 卑 分 脈 、 頼光 流、 深 栖 三 郎光 重 の子 に、 瓣 重 、諸 陵頭 、 皇 后 宮 侍 長 と あ る。
(
コニ ) 義 經 記 卷 二、伊 勢 三郎 義 經 の臣 下 に は U め て成 る事 參照 。 義 經 記 に詳 し い。
異 本 義 經 記
歳 と注 す る。
(三 ご) 尊 卑 分 脈 、申 納 言 三 位 、文 章 博 士 、 大 學頭 、 三代 侍 讃 、 醍 醐朱 雀 、 號 江 納言 、應 和 三 六 七薨 七 十 六
'
囎口鞴
轟
(三 三) 日 本 紀 略 、 寛 李 六年 バ八 九 四) 九 月 卅 日 、 其 日停 遣 唐 使 と あ る。 延 長 元年 は 九 二 三年 、 矛盾 があ
ーる。
(三 四) 六韜.
三略。
(三 五) 匡 時 、 な し 。
維時-重光-匡衡ー舉周-成衡-匡一
房擁
義 連 と申 し て、 大 祕 宮 の祕 主 に て候 ひ け る が、 清 水 へ詣 う で て下 向 し け る 、 九條 の上 人 と申 す に乘 合
(三 六) 義 經記 卷 二、わ義 盛 臣 下 に な る事 に、 ﹁
親 に て候 し者 は 、伊 勢 の國 二見 の者 に て候 。 伊 勢 のかん ら ひ
'し て 、是 を 罪 科 に て上野 國 な が し ま と串 す と ころ に流さ れ參 ら せ て:⋮ ・
。
﹂
(三 七) 川島 村 。 四 日 市 の西 二里 許 り 、御 瀧川 の南 岸 にあ り 、字 東 谷 西 幅 寺 境内 に伊 勢 義 盛 の墓 と傳 ふ る者
'
陰
"
、
"
あ り ⋮ ⋮ パ大 日 本 地名 辭 書 )。 四 日 市 市川 島 町 。 松 井本 (
片 假 名 本 ) に 、﹁川 嶋 村 、 勢 州 四 日市 場 四 五 、
・
丁 西 ノ方 ノ瘤 也 、所 ノ者 ハア ヤ マリ義 盛塚 ト云 ﹂ どあ る 。
(
一
一
吋
八 )所 在 不 朋 。
0
1
1
.1
九 ) 舊 庄名 。 周 桑 郡 吉 岡村 。
(
四 〇 )左 大 臣 頼 長 の家 司 コ保 元 物 語 嚼 中 、
﹂左 府 最 後 の條 、 ﹁式部 大 輔 盛 憲 、馬 より 飛 ん で下 り、 御 首 を 膝
T・に か き の せ參 巧 せ 、御 頸 に袖 を 覆 ひ 奉 り て泣 き 居 た り 。
﹂
・
'
突 き て。﹂
(
四 一﹀義 經 記 卷 二、 ﹁生絹 の直 垂 に緋 縅 の腹 卷 著 て、 金 剛履 い て頭 巾 耳 の際 ま で引 つこ う で 、大 手 鉾 杖 に
玉 フ、 歌 アリ 、 シタ モ エゾ思 ヒ モ今 ハミ チ ノク ノ シノブ ノ浦 ノ海 士 Z藻 鹽 火 、 姫 、 返歌 、 ヨシサ ラ バ
(
四 二) 松 井 本 八片 假 名本 ) の頭 注 に、 ﹁憲海 記 二、 姫 ノ乳母 名 香 樹 ト 云 女 ヲ頼 ミ、 姫 ノ方 へ艶 書 ヲ ヲク リ
シルベ ナウ ト モ陸 奥 ノ シ ノブ ノ浦 モフ ミ ハマ ヨハジ 、 其 夜 ハ五 月 十 六日 、 姫 ノ ツボ ネ へ入 玉 フト ア
二 五七 '
リ。
﹂ とあ る。
ご五八
(
四 三 )宋 の張 商 英 の僞作 。 一卷 。 原 始 、 正 道、 求 人 之 志 、本 徳 崇 道 、 遒 義 、安 禮 の 六篇 よ り な る。 慶 長 頃
の刊 本 が あ る 。漢 魏 叢 書 附 載 の の序 文 は、 ﹁黄 石 公素 書 序 、 黄 石 公 素 書 六編 、按 前 漢 列 傳 黄石 公 杷 橋
六言 、 上有 秘 誡、 不 許 傳 於 不 祚 不 聖之 人 ⋮ ⋮張 商 英 天 覺序 。
﹂
所 授 子 房 、素 書世 人 多 以 三 略 爲是 、 蓋 傳 之 者 誤 也 、晋 亂 有 盗 、 發 子 房 塚 、干 枕 申 獲 此 書、 凡 一千 三百
(四 四) 尊 卑 分 脈 、北 家 頼 宗 流 。宗 通 の子 、 康 治 元 二 三從 二位 、 同 二年 正 三正 二位 、 久 安 五 七 廿 八、 權 大 納
言 、 李 治 元 十 五出 家 、 法 名 栖 蓮 、 六十 三。
(四 五) 後 白 河 天 皇 皇 后 。
(四 六) 百 錬 抄 、安 元 二年 (一 一七 六) 七 月 八 日 、 ﹁建 春 門 院 崩御 、 卅 五、 帝 母 后 、 天 下 亮 闇 、 上 皇御 歎
自心
、出
笄新 法 華堂o
﹂
々。
﹂
(
四 七) 吾 妻 鑑 、 元 暦 二年 五月 十 九 日 、 ﹁伊 豆 守 仲 綱 男 、 號伊 豆冠 者 有 綱 者 、 爲 廷尉 聟 、 多 掠 領 近國 庄 公 云
(
四 八 )鞍 馬 の小 学 校附 近 の地 。 鬼 一法 眼 の碑 があ る。
佛 堂を 建 立 し た と い ふ (
大 日 本 地名 辭書 )。松 山 市 畑 寺町 の繁 多 寺 。
(
四 九 ) 温泉 郡 桑 原 村 か 。畑 寺 は四 國 順 禮 五十 番 の札 所 。本 尊 藥 師 如 來 。 國 司 頼義 朝 臣 の時 に、 河野 親 經 が
(五〇 )尊 軍分 脈 、 頼義 の子 に親 清 な し 。
(五 一)松 井 本 (
片 假 名 本) 頭 注 に、 ﹁憲 海記 ニ モ此 歌 アリ 、 返歌 モ アリ ﹂ と 。
(
五 二)洛 陽 伽 藍 記 卷 五 、 ﹁佛 本 清 淨 、 嚼 楊枝 植 地 、 印 生 、 今 成大 樹 ﹂。
(五三 )後 土御 門 天 皇 の皇 子 、後 柏 原 天 皇 。
松井 本 (
片 假 名 本 )頭 注 に、 ﹁若 宮 ノ御 房 仰 有 シ ハ、 公 家 ニハ在 原 業李 、 藤 原 重家 、 武 家 ニハ夲 經
(五四 )文 明 年 中 、 飛 騨 國 司 とな る。 藤 原 北家 小 一條 流 、 權 中 納言 。 家 綱 ー 昌 家 i 基綱 。
ハ後 柏原 ノ御 事 力。﹂ と あ る 。
正 、源 義 經 ナド ハ美 男 ナ ル ヨシ舊本 ニ モ見 エタリ ト 基 綱 ノ妹 二仰 ア リ シト ニヤ 、文 明 ノ若 宮 ノ御 房 ト
異 本 義 經 記
(五 五) こ の段 、松 井 本 (
李 假 名 ) は、 湛 海被 斬 の次 に出 す 。 傳 に曰 く鬼 一が娘 云 々 の前 に出 す 。 又 こ の
段 、 謡 曲 拾葉 抄 卷十 一、 二 人 靜 に引 く 。
(五 六) 桑 田郡 馬 路 村 。 千 歳 の西 に接 し、 保 津川 の左 岸 の大村 で あ る (
大 日 本 地名 辭 書 )。 龜 岡 市馬 路 町 。
ある。
(五 七) 義 經 記 卷 三、 辨 慶 、年 時 不明 に て、 ﹁六月 十 七 日 五條 の天 聯 に參 り て﹂、 太 刀 を奪 ひ取 ら ん と す る と
(五 八) 義 經 記 卷 三、 辨 慶 を 比叡 山 の學 頭 、 西塔 櫻 本 の僣 正 の許 遣 はす 由 が 見 え る。
(五 九) 義 經知 緒記 、 勲 功 記 、 謡曲 拾 葉 抄 にも 引 用す る。
(六〇 ) 義 經 記 卷 三、 ﹁園 城 寺 法師 の尋 ね て參 り た る常 陸 房 ﹂。 同 卷 四、 大 物 合 戰 の條 、 海 尊 。 夲家 物 語 には
見 え な い。 盛 衰 記 卷 四 二、 屋 嶋 合 戰 、 ﹁武 藏房 、 常 陸 房 、舊 山 法 師 に て究 竟 の長 刀 の上 手 に て -:・
.
。﹂
(六 一) 熊野 別 當 代 々記 、 ﹁
第 廿 二代 行 快 、後 鳥 羽 院 建 及 九年 七月 七日 補 任 、治 山 五年 。﹂
(六 二) 湛増 か。 熊 野 別當 代 々記 、 ﹁
第 廿 一代 湛 増 、 後 鳥 羽院 文 治 三年 補 任 、治 山 十 二年 。
﹂
(六三 )故 左 馬 頭 源 義 朝 。
(六四 ) 頼朝 。
(六五 ) 蒲冠 者 範 頼 。
(六六) 左馬 頭 業票朝。
(亠
ハ七 )義判
經。
房 辨 慶 等 を は D め と し て。﹂
(六八) 源 季 盛 衰 記 卷 三 六、 源 氏 勢 汰 事 、 ﹁片 岡 八郎 爲 春 、備 前 四 郎 、 鈴 木 三郎 重家 、 龜 井 六 郎 重清 、 武 藏
戰 、 領 甲 斐 國 一所、 佳藤 日 白 文治 五年 潜 赴 于 奥 州、 弟 龜 井 六郎 與 討 死焉 。 六郎 重 清 者 、義 經 在 京 時 、
(六九) 鈴 木 三郎 重家 藤 白 住人 、 庄 司 重倫 嫡 男 也 。其 先 仕 甲州 武 田 信 義 、致 軍 忠 、 後 屬 範 頼之 手 、 勤 西 海 合
依 有 辨 慶 所 縁 小 童而 出 從 手 義 經 、 終 同 死 于 衣川 、 鈴 木之 末 孫 有 于 今 (
和漢 三才 圖 書 卷 七十 六、 紀伊
國)
(七 〇) 猿 投 聯 瓧 。
ご五 九
ご六 〇
﹁熊 王 と いふ童 の生 年 十 八歳 にな るを た てま つる。 や が ても と 穿り ど りあ
げ 、 父 を ば 鷲 尾庄 司 武 久 と いふ聞 、 是 を ば 鷲 尾 三郎 義 久 ど名 のら せ、 さ き う ち さ せ て案 内 者 に こ そ具
、
(七 ]) 夲 家 物 語 卷 九 、 老 馬 、
せら れ け れ 。
﹂
(七 二) 夲 家 物 語 卷 九、 三草 勢 揃 、源 八廣 綱 、 系 圖未 詳 。
所 へ奏 聞 し け る、 ⋮⋮御 感 のあま り に左兵 衞 尉 にな さ れ た り 。
﹂
,
(七 三) 夲 家物 語 卷十 一、 内 侍 所 都 入、 .﹁(
元 暦 二年 ) 四月 三日 、 九郎 大 夫 剣 官 義 經 、 源 八廣 綱 を も て院 御
(七四 ) 夲家 物 語 卷 九、 三草 勢 汰、 ﹁江 田 源 三 、熊 井 太 郎 ﹂。義 經 記 卷 四、 ﹁
信 濃國 の 住人 江 田源 三 。
﹂
(七 五) 李治 物 語 卷下 、 ﹁丹 波國 の住 人 、 仕 内 六郎 景 澄 ﹂。 義 夲 を助 け て夲 家 を ね ら ふ事 が 見 え る 。
(七 六) 義 經 記 卷 七、 三 の口 の關 の事 、 北 方 の隨 行 者 に、 龜井 六郎 、 駿 河 二郎 が見 え る。
(七 七)扇 谷 より 西 、 深 澤 梶原 に出 る坂 路 。
(七八 )義 經 記 卷 八、 衣 河 合戰 に て討 死 。
,
(七九 )村 上 源 氏 。 仁 安 三年 八月 十 日 任 内大 臣 。 五十 一。 承安 五年 二月 廿 七 日薨 。 五十 八 。
'
(
八 〇 ) 大宮 西 。 五 佛 。 も と藤 原 伊 尹 の家 。
、
(
八 一) 近衞 基 房 。 安 元 三年 、 三十 四 。
(
八 二) 夲 維 茂 の子 孫 と いふ。
(
八 三) 源 行 家 。 夲 家物 語 卷 八、 名 虎 、 壽永 二年 八月 十 日 任備 前 守 の由 。
(
八 五 )夲 家 物 語 卷 一、鹿 谷 、 俊 寛 の與 力 と し てそ の名 が見 え る。
バ八 四) 夲 治 物 語 卷 上 、源 氏 勢 揃 、 鎌 田 兵衞 政 清 。
(
八 六) 鎌 田 兵 衞 政 清 。後 に政 家 と改 む 。
(
八 七) 保 元 物 語 卷 申 、 ﹁爲 義 が 山 莊北 白 川 圓 覺 寺 に て烟 と し﹂ と あ る 。 一
﹁以 尾張 國御 家 人 須 細 治 部 大 夫爲 基 爲 案 内 者 、 到 于 當 國野 間
庄 、 拜 故 左 馬 典 厩廟 堂、 夲 治有 事 、奉 葬 于 此 所 云 々給 ﹂、 康 頼 の寄附 水 田 三十 町 、 伽 藍 建 立 の事 な ど
(
八 八) 吾 妻 鏡 卷 九 、 建 久 元 年 十月 廿 五日 、
が見 え る。
異 本 義 經 記
(八 九) 李 治物 語 卷下 、 詳 し。
、
(九 〇) 吾 妻 鏡 、治 承 四年 十 月 十 三 日、 橘 遠 茂 が長 田 父子 を 梟 首 の由 が見 え る。
(九 一) 舞 、﹁鞍 馬 出 ﹂。 謡曲 、 ﹁關原 與 市 ﹂ と 關係 があ る。
(九 二) 片 岡 八郎 弘 經 。 吾 妻 鏡 卷 五、 文 治 元 年 十 一月 三 日、 義 經 都落 參照 。
九 、 三草 勢 揃 に、 片 岡 五郎 經 春 、 卷 十 一、 内 侍 所 入 に、 片 岡太 郎 經 春 とあ る 。
(
九 三)吾 妻 鏡 卷 二、 治 承 五年 三月 廿 七 旧、 同 卷 九、 文 治 五年 三 月 十 日、 片 岡 次 郎常 春 とあ り 、 夲家 物 語 卷
(
九 四 )名 女 情 比 (
な さ け く ら べ) (
延 寳 九年 初 春 刊 ) 卷 三 に 、牛 王 姫 牛 若 丸 に あ ふ 一章 が あ る。牛 王姫 は
牛 若 丸 に契 り 、 清 盛 の探 索 の時 に牛 若 丸 を逃 し、 清 盛 に捕 へら れ て水 火 の責 め にあ ふが 自 ら命 を絶 つ
と いふ話 であ る。 最 後 に、 六波 羅 堂 の前 の松 の古 木 は 、 こ の姫 を 責 め た 松 で あ り、 そ の木 のも と に小
さ い祗 が あり 、 姫 を 祀 つた祗 であ るど あ る。
(
九 五)次 に、 松 井 本 (
片 假 名本 )、 ﹁土 ノ小 高 キ所 二松 一本 アリ 、其 下 二瓧 アリ﹂ とあ る。
(
九 六) 一條大 藏 卿 長 成 朝 臣 。常 盤 再 婚 の人。
(
九 七) 禪林 房 阿 闍 梨 覺 日 。
(
九 八 )吾 妻鏡 卷 一、 治 承 四 年 十月 廿 一日 、 盛衰 記 卷 二十 三 、義 經 軍 陣 來 事 參 照。
(
九 九 ) 盛 衰記 卷四 十 二、 屋嶋 合 戰 の條 、 盛 政 は 一の谷 にて討 た れた 由 が 見 え る。
c10 0 )吾 妻 鏡 卷 三、 元 暦 元年 八月 十 七日 、﹁去 六 日任 左 衞門 少 尉 、 蒙 使 宣 旨 ⋮ ⋮﹂。 夲 家 物 語 卷十 、 藤 戸
pに も同 記 事 が あ る 。 馬
010 1) 吾 妻 鏡 卷 四 、 元暦 二年 六月 十 九 日參 照 。
象 日 令約 諾 云 々、 重 頼家 子 ご人 、 郎從 三十 餘 輩 從 之 首 途云 々﹂。
(一〇 二 )吾 妻 鏡 卷 三、 元暦 元年 九月 十 四 日、 ﹁河 越 小 太 郎 重頼 息 女 上 洛 、爲 相嫁 源 廷 尉 也 、是 依 武 衛 仰 、
clo 三 )李 家 物 語 卷 十 、藤 戸 、 ﹁御 襖 の行 幸 あり け り ⋮ ⋮ け ふ は九 郎 到 官先 陣 に供 奉 す 。木 曾 な ど には 似
ず 、 以外 に京 な れ て は あり し か ど も 、夲 家 のな か のえ りく つよ り も 獪 お とれ り 。﹂
(一〇 四) 李 家 物 語 卷 六 、 廻文 、 ﹂﹁父義 賢 は久 壽 二年 八 月 十 六日 、 鎌 倉 惡 源太 義 夲 に誅 せ ら る 。 そ の時 義仲
ご六 一
二六二
二歳 にな り し を母 な く な く か 丶 へて信 濃 へこ え 、木 曾 中 三兼 違 が も と へ﹂。
(一〇 五) 李 家物 語 卷 十 一、 嗣 信 最 後 、 ﹁黒 き 馬 の太 う たく ま しき に 、 金覆 輪 の鞍 お い てか の僣 にた び に け
てぞ 落 さ れ け る 。
﹂
り 。 到 官 五 位 尉 にな ら れ し時 、 五位 にな し て、 大 夫黒 と よば れ し馬 な り。 一谷 ひ へ鳥 こえ も こ の馬 に
う せ いち いさ き が、 む か ば のこ と にさ し いで て し る かん な る ぞ 。
﹂
(一〇 六) 夲 家物 語 卷十 一、 壇 浦合 戰 、 ﹁越 申 次 郎兵 衛申 け る は、 同 じ く は大 將 軍 にく ん給 へ。 九郎 は 色白
(一〇 七) 盛 衰 記 卷 四十 二、 屋 島合 戰 、 ﹁建 禮 門院 の后 立 の時 、 千 人 の中 より 選 び 出 だ せ る雜 司 に玉 蟲 前 と
も 云 ひ 、又 は舞 前 とも申 す、 今 年 十 九 に ぞ な り け る 。
﹂
(一〇 八 ) 盛 衰記 卷 四十 二、 ﹁伊 賀 李 内 左 衛 門 尉 が弟 に十 郎 兵 衛 尉家 貞 。
﹂
(一〇 九) そ の所 在 不明 。
(l 10 ) 流 布本 夲 治 物 語 卷 下 、 ﹁兵 衛 佐 宣 ひ け る は、 首 は 故 池 殿 に つが れ 奉 る 。 ⋮ ⋮髻 は緻 纈 源 五 に續 が
れ た り 。但 し盛 安 は雙 六 の上 手 に て、 院 中 の御 局 の双 六 に常 に 召 さ れ、 院 も 御 覽 ぜ ら る るな れ ぼ 。
﹂
(l l l> 近 衛 基 房 。
云々。
﹂
三)吾 妻鏡 卷 一、 元 暦 元 年 二 月 七 日、 ﹁但 馬 前 司經 正 、 能 登 守 教 經 、備 中 守 師 盛 者 、遠 江守 義 定 獲之
經 、 同 弟柏 木 冠者 義 兼 等 合戰 ⋮ ⋮ 。
﹂
(一 = 一)吾 妻鏡 卷 一、 治 承 四年 十 二月 一日 、 ﹁夲 知 盛 卿 牽 數 千官 兵 、 下 向 近 江 國 、 而 源氏 山 本 前 兵 衛 尉義
(=
聞 し け る は 、去 る 三月 廿 四 日 ⋮ ⋮赤 間 關 に て夲 家 を せ め落 し 。﹂藤 到官 信 盛 下 向 の由 も見 え る 。
五) 夲 家 物 語 卷 十 一、 内 侍 所 都 入 、 ﹁四月 三 日、 九 郎大 夫 到 官 義 經 、 源 八廣 綱 を も て、院 の御 所 へ奏
(一 一四 ) 夲家 物 語 卷十 一、 能 登殿 最 期 參 照 。
(コ
(一 一六)吾 妻 鏡 、 元 暦 二年 四月 廿 二日 、 ﹁梶 原 李 三景 時 飛 脚 自鎭 西 參 着 、 差 進 親 類 献 上書 状、 始 申 合 戰次
第 、終 訴 廷尉 不 義 事 、其 詞云 、 西 海御 合戰 間 、 吉 瑞 多 之 、御 夲 安 事 、 秉 神 明 之 所示 鮮 也 、 所 以 者何 、
先 三月 廿 日 ⋮ ⋮。﹂ 以 下 吾 妻鏡 と殆 ど同 文 。
嚇
異 本 業姻 經 記
る 、 そ の日剣 官 と梶 原 と す で に同 士 軍 せん と す る事 あ り ⋮ ⋮ 。﹂
(一 一七) 夲 家物 語 卷 十 一、 壇 浦 合 驢、 ﹁元 暦 二年 三月 廿 四日 の卯尅 に門 司 赤 間 關 に て 源夲 矢 合 と そ 定 めけ
(一 一八 ) 松井 本 (
片 假 名 本 )、何 日 ぞ 、重 複 な し 。
之 處 、稱 亂 入領 内 、 乃 傷御 使面 縛 云 々、 仍罪 科 重 疊 之 間 、 被 召放 所 帶 等 之 上 、早 可 進件 雜 色 之 由今 日
(= 九 )吾 妻鏡 卷 二、 治 承 五年 三月 廿 七日 、 ﹁
片 岡 次 郎 常 春 、 依有 謀 叛 之 聞 、 遞 雜 色於 彼 領 所 下 總國 被召
被 仰 下 云 々。﹂
(= 一〇 )吾 妻 鏡 卷 四 、 同 日、 ﹁片 岡 八 郎 常春 、 同 心佐 竹 太 郎常春舅、 有 謀 叛 企 之 間 、 被 召 放 彼 領 所 下總 國
三 崎 庄畢 、 仍 今 日 賜 千葉 介 常 胤 、 依 被 感 勤節 等 也 。﹂
(一一
二 )吾 妻 鏡 卷 四 、 元 暦 二年 四月 廿 二日 參 照 。
入 廷 尉 六條 室 町 第 云 々 。﹂夲 家 物 語 卷 十 一、 一門 大 路 被 渡 參 照 。
(= 一二)吾 妻 鏡 卷 四、 同 月 廿 六日 、 ﹁今 日 前 内府 已下 生 虜 、 依 召可 入洛 之 間 、 ⋮ ⋮申 刻 各 入 洛 、 ⋮ ⋮皆 悉
今夜 着 酒 匂 驛 、 明 日可 入鎌 倉 之 由申 之 。
﹂
(一二三 )吾 妻 鏡 卷 四 、 元暦 二年 五月 十 五 日 、 ﹁廷 尉 使 者 景光 參 着 、 相 具 前 内 府 父子 令 參 向 、 去 七 日出 京 、
⋮俊 兼 奉 之 。﹂
(= 一四 )吾 妻 鏡 卷 四 、 元暦 二年 五月 八日 、 ﹁因 幡 前 司 、 大 夫 屬 入道 、 筑 後 權 守 、主 計 允 、 筑 前 三 郎參 會 ⋮
(一二五) 夲 家 物 語 卷 十 二 、文 之 沙 汰 に詳 し 。
ら る ま じ と そ の給 ひ け る 。
﹂
(一二六) 夲 家 物 語 卷 十 一、腰 越、 ﹁九 郎 は こ の た たみ の下 よ り は ひ出 でん ず る も のな り 。 た だ し頼 朝 は せ
盛下 部 鬪 亂 ⋮ ⋮。﹂
(一二七) 吾 妻 鏡 、 元暦 二年 五月 十 七 日 、 ﹁左 典 厩 (
能 保 )侍 後 藤 新 兵 衛 尉 基 清僕 從 、 與 廷 尉 侍伊 勢 三郎 能
(= 一八) 吾 妻 鏡 卷 四 、文 治 元年 五月 二十 四 日、 卒 家 物 語 卷 十 、腰 越 状 參 照 。
(= 一九) 春 臺 の湘 中 紀行 に 、滿 諞 寺 を 過 ぎ 、 こ の寺 は 腰 越 に て義 經 の留 つた 所 で 、後 に寺 とし た も の で、
辨 慶 の腰 越 状 の草 案 が こ の寺 にあ る と 云 ふ が、 そ の贋 物 で あ る のを 聞 き 知 り 、み よう とし な か つた 由
一一亠
ハ一
二
-
が見 え る (
大 日本 地 名 辭 書 引用 )
。
二六 四
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o) 吾 妻 鏡 卷 四 、文 治 元 年 六月 九 日、 ﹁廷 尉 此間 逗留 酒 匂 邊 、今 日相 具 前 内府 歸路 ⋮ ⋮。﹂
景 光 、 梟 前 右 金吾 清 宗 ⋮⋮ 。﹂同 六月 廿 三日 、 獄門 前 樹 に懸 け る 由 が見 え る 。
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ll) 同 卷 四 、 六月 廿 一日 、 ﹁廷尉 着 近 江 國 篠原 宿 、 令 橘 馬 允 公長 誅前 内 府 、次 至野 路 口、 以 堀彌 太郎
伊 與 守 義 經 之 亭 、 尋 窺備 前 司 行 家 之 在所 、 可 誅 戮其 身 由 相 觸 ⋮ ⋮。﹂ 同 九月 十 二日 、 ﹁景 季 成 尋 等入
(一三 二) 吾 妻 鏡 卷 四 、文 治 元 年 九 月 二 日、 ﹁梶原 源 太 左衛 門 尉 景 季 、義 勝 房 成 尋 等 爲使 節 上 洛 也 ⋮ ⋮行 向
洛。
﹂
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) 同 十 月 六 日 、 ﹁景 季 自 京 都 歸參 、 於 御 前串 云 、參 向 豫 守 亭 、申 御 使 由 之 處 、稱 違例 無 對 面 、 仍 此
箇所 ⋮ ⋮。﹂ 吾妻 鏡 ど略 同 じ 。
密 事 以傳 不 能 、歸 旅 宿 六條 油 小 路、 相 隔 一兩 日又 令參 之 時 、 乍 懸 脇 足被 相 逢 、其 體誠 以憔 悴 、 灸有 數
追討 事 、 人 々多 以 有 辭 退 之 處 、昌 俊 進而 申 領 状 之 間、 殊 蒙 御 感 仰之 ⋮ ⋮。﹂ 從 者 、吾 妻 鏡 に同 じ 。
(一三 四) 吾 妻 鏡 卷 四 、文 治 元 年 十月 九 日、 ﹁可 誅伊 豫守 義 經 之 事 、 日 來 被凝 群 議 、 今被 遣 土佐 房 昌 俊 、 此
剣 官 義 經 六條 室町 亭 、 干 時 豫 州 方 壯 士等 、 逍 遙 酉 河 邊之 間 、 所 殘 留 之家 人 雖 不 幾 、 相具 佐 藤 四 郎 兵 衛
(一三 五) 同 十 月 十 七 日、 ﹁土 佐 房 昌俊 、 先 日 含 關東 嚴 命 、 相 具 水 尾 谷 十郎 已 下 六十 餘騎 軍 士 、 襲 伊 豫 大夫
尉 忠 信 、 自 開 門 戸 、懸 出 責 戰 、行 家 傳 聞 此 事 、 自後 面 来 加 、 相 共防 戰、 仍 小時 昌俊 退散 。﹂
(二 二五) 夲 家 物 語 卷 十 一、 土 佐 房 被 斬參 照 。
日於 六條 河 原 梟 首 云 々。﹂
約 吾 妻 鏡 と同 じ 。
﹁去 十 一日並 今 日、 伊 豫守 大夫 義 經 潜 參 仙洞 奏 聞 云 ⋮ ⋮。﹂ 大
(一三 六) 吾 妻 鏡 、文 治 元 年 十 一月 廿 六 日、 ﹁土 佐 房昌 俊 拜 伴 黨 三 人 、自 鞍 馬 山 奥 、 豫州 家 人等 求 獲 之 、今
、
(一三 七) 吾 妻 鏡 卷 四 、文 治 元 年 十月 三 日、
(↓三 八) 明 雲 i 覺 快- 明 雲 - 俊 堯 ー 全玄 - 公 顯 。
(二 二九) 夲 家 物 語 卷 十 二、 剣 宮 都 落 參 照 。
(一四 〇) 吾 妻 鏡 、文 治 元年 十 一月 廿 九 日、 ﹁爲 征 豫 州 備州 等 之 叛 逆 、 ご 品今 日上 洛 給 ⋮⋮ 土肥 次 郎 實 李候
異 本 義 經 記
先 陣 、 千葉 介 常 胤 在 後 陣 、今 夜 御 止 宿 相 模國 中 村 庄 云 々 。﹂
(一四 一)季 家 物 語 卷 十 二、義 經 都落 參 照 。
海 、先 進使 者 於 仙 洞申 云 ⋮ ⋮前 中 將 時 實 、侍 從 良 成 、 義 經 同 母弟 、 一條 大 藏 卿長 成 男 、 伊 豆 右衛 門 有
(一四 二)吾 妻 鏡 、 文 治 元 年 十 一月 三日 、 ﹁備 前 守 、 櫻 威 甲 、伊 豫守 義 經 、 赤 地 錦 直垂 、 萌 黄 威 甲 、等 赴西
'綱 、 堀彌 太 郎 景 光 、 佐藤 四郎 兵 衛 尉 忠 信 、伊 勢 三郎 能 盛 、 片 岡 八郎 弘 經 、 辨 慶 法師 已 下 相 從 、彼 此之
勢 三 百騎 歟 云 々。﹂
(一四 三 ) 淀 の 江内 忠 俊 。本 家 物 語 卷 十 一、逆 櫓 參 照 。
等 遮前 途鴇 聊 發 矢 石 、 豫州 懸 破 之 聞 、 不能 挑 戰 、 然 而 豫 州 勢以 零 落 、 所 殘 不幾 云 々。﹂
(一四 四 )吾 妻 鏡 、 文 治 元年 十 一月 五日 、 ﹁今 日豫 州 至 河 尻 之 處 、攝 津 國 源 氏 多 田 藏人 大 夫 行 綱 、豊 島 冠 者
(一四 五 )吾 妻 鏡 、 文 治 元年 十 一月 六日 、 ﹁相 從 豫 州 之 輩 纔 四 人 、所 謂 伊 豆 右 衛門 尉 、 堀 彌 太 郎 、 武 藏房 辨
慶 拜妾 女 字 戳、 一人也 、 今 夜 一宿 干 天 王寺 邊 、 自 此 所 逐電 云 々。﹂
(一四 六) 吾 妻 鏡 、 文 治 元年 十 一月 二日 、 ﹁豫 州 已 欲 赴 西 國 、仍 爲 令 儲 乘 船 、先 遐大 夫 到 官 友 實 之處 、 有 庄
ゴ
四 郎者 、 元 與 州 家 人 、當 時 不 相 從 、今 日於 途中 相 逢 、問 云 ⋮ ⋮ ⋮、 相 具 進行 、 爲 庄 忽 被 誅 戮 廷尉 訖 、
件友 實 越 前 國 齋藤 一族 也 、 垂 髪 而 候 仁和 寺 宮 、 首 服時 屬夲 家 、 其 後 向 背 相從 木 曾 、 木 曾 被 追討 之 後 、
爲 豫州 家 人 、 途 以 如 此 云 々。﹂ 吾 妻 鏡 の友 實 は庄 四郎 の誤 か。
(一四 七) 季 家 物 語 卷 十 、重 衛 生 捕 、 ﹁庄 四郎 高 家 大 将 軍 と 目 を かけ .
.
.
.
.
.
﹂o 兒 玉 黨 の武 者 とあ る 。
(一四 八 )吾 妻 鏡 、 文治 元年 十 一月 十 七 日 、 ﹁豫 州 籠 大 和 國 吉野 山 之 由 風 聞 之間 、 執 行 相 催 惡 櫓等 、 日來 雖
索 山 林 、 無 其 實 之 處 、今 夜 亥 刻 、 豫 州妾 離 、 自當 山 藤 尾 坂 降 到 于藏 王堂 、 其 體尤 奇 怪 、 衆徒 等 見 咎
之 、相 具 向 執行 坊 、其 問 孑 細 ⋮ ⋮。﹂
磯 禪 師 伴 之 、則 爲 主計 允 沙 汰 、就 安 逹新 三郎 宅 招 入之 云 々 。
﹂
(一四 九) 吾 妻 鏡 、文 治 二年 三月 一日 、 ﹁今 日豫 州 妾 翻 、依 召 自 京 都 參 着 于 鎌倉 、 北 條 殿 所 被 迭 進也 、 母 儀
(一五 〇) 同 三 月 六 日 、 ﹁召 靜 女 、 以俊 兼 盛時 等 、 被 尋問 豫 州 事 、 先 日 逗 留吉 野 山 之 由 申 之 ⋮ ⋮ 。
﹂
(一五 一) 吾 妻 鏡 、 三月 廿 一日 、 ﹁當時 所 懐 妊 彼 子 息 也 。﹂
二六五
二六六
郎 重 忠 爲 銅 拍子 、 静 先 吟 出 歌 云 、 よ し の山 み ね のし ら雪 ふみ 分 て いり に し人 のあ と そ戀 しき 、 次 歌別
(一五 二)同 四月 八 日、 ﹁二品 并御 臺所 御 參 鶴 岳 宮 、 以次 被 召 出 静 女於 廻 廊、 是 依 可 令施 舞 曲 也 ⋮ ⋮畠 山 次
物 曲 之 後 、又 吟 和 歌 云 、 し つ や し づ し つ のを だ ま きく り返 し む か しを いま にな す よ しも が な 、 誠 是 瓧
壇 之 壯 觀 、染 鏖 殆 可 動 、 上下 皆 催 興 感 、 二品 仰 云 ⋮ ⋮ 。
﹂
也 、 爲御 家 人 身 、 爭 存普 通 男女 哉 、 與 州 不 牢籠 者 、 對 面 于 和 主 獪 不可 有 事 也 、 況 於今 儀 哉 云 々。﹂
(一五 三)吾 妻 鏡 、 五月 一四 日 、同 じ事 が 述 べら れ て ゐ る。 ﹁静 頗 落 涙 云、 與 州 者 鎌 倉 殿御 連枝 、 吾 者 彼妾
(一五 四)吾 妻 鏡 、 文 治 二年 九月 十 六日 、 ﹁静 母子 給 暇 歸 洛 、 御 臺 所拜 姫 君 依 憐 愍 御 、多 賜 重 寳 。
﹂
(一五 五) 謡 曲 拾葉 抄 卷 十 一、 二 人静 の條 に、 以 下 の文 を 引 用 す る 。
め靜 が ふ る 里 と い ひ傳 へて、木 陰 に塚 し る し の石 は苔 む し て見 る も あ は れを 殘 せ り ﹂ と あ る。
(一五 六) 西鶴 名 殘 の友 、 ﹁入 日 の鳴 門 の浪 の紅 ﹂、 ﹁志筑 と い ふ浦 邊 に つき ぬ、 此 所 は む か し磯 善 司 が む す
(一五 七)吾 妻 鏡 、 文 治 元 年 十 一月 廿 二 日、 ﹁豫 州凌 吉 野 山 深 雪 、 潜向 多 武 峯 、 是 爲 所 精 大織 冠 御 影 云 々 。
到 着 之 所者 南 院 藤 室 、其 坊 主 號 十 字 坊 之 惡 繪 也 、賞 翫豫 州 云 々 。﹂
悪 僣 者 、道 徳 、 行 徳 、 拾 悟 、拾 禪 、 樂 達 、 樂 圓 、文 妙 、 文 實 等 也 云 々 。
﹂
(一五八 )吾 妻 鏡 、 十 一月 廿 九 日、 ﹁十 字 坊 相 談 豫州 云、 寺 院 非 廣 、住 侶 又 不 幾 、 ⋮⋮ 差 惡僭 八人 迭 之 、謂
し た 革 。正 李 六年 征 西 將軍 懐 良 親 王 が 肥 後 熊本 の革 工 に命 じ て 染 め出 し たも のと いふ。
(一五 九 ) 正夲 革 。 白 地 を 柿 色 に そ め獅 子 、 唐 草 な ど の模 樣 及 び所 々 に正 夲 六年 六 月 一日 の 八字 を 白 く出 だ
劔 、 此 太 刀 、度 々合 戰 之 間 所 令 帶之 由 云 々。﹂
(一六〇 )吾 妻鏡 、文 治 二年 三 月 十 五 日、 ﹁伊 豫 前 司義 經 横 行 所 々 、今 日參 大 祚 宮 、 稱爲 所 願 成 就 、 奉 金作
關東歟由云々。
﹂
(一六 一) 吾 妻鏡 、 文 治 二年 六月 十 三 日、 ﹁去 六 日、 於 一條 河 崎 觀 音 堂 邊、 尋 出 與 州 母 並 妹等 生 虜 、 可 召 進
(一六 二) 吾 妻鏡 、文 治 二年 六 月 廿 二 日、 ﹁左 馬 頭 飛 脚自 京 到 來 、 豫 州 隱居 仁 和 寺 石 倉 邊 之由 依 有 其 告 、 雖
遣 刑 部 丞 朝景 、 兵 衛 尉 基 清 已 下勇 士 、 無 其 實 、而 當 時 在 叡 山 、 惡 僣等 扶 持 之 由 風 聞 云 々 。
﹂
(一六 三) 大 江 廣 元 の兄 。
異 本 義 經 1
1
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(一六 四 )夲 家 物 語 卷 六 、 嗄 聲 參照 。
仲 清 の實子 、後 藤 實 基 爲 子 と あ る。
(一六 五 )夲 家 物 語 卷 十 一、 嗣信 最 後 、 ﹁後 藤 兵衛 實 基 、 子 息 の新 兵衛 基 清 。﹂ 尊 卑 分 脈、 藤 原 秀 郷 流 、佐 藤
能 盛下 部 鬪 亂 ⋮ ⋮。﹂同 じ事 が見 え る 。
(一六 六 )吾 妻 鏡 、 元 暦 二年 五月 十 七日 、 ﹁昨 日左 典 厩 (
能 保 )侍 後 藤 新 兵 衛 尉 基清 僕 從 、 與 廷 尉伊 勢 三郎
(一六 七 )吾 妻 鏡 、 文治 二年 閏 七月 十 日 、 ﹁左 馬 頭 飛 脚 到 來 、 状 云、 搦 前 伊與 守 小 舎 人 童 五郎 丸 、 召問 子 細
之 處 、至 于 去 六 月 廿 日之 比隱 居 山 上候 之 由 、 所 申 上候 也 ⋮ ⋮ 。
﹂ 同 七月 廿 六 日 參照 。
宮 北 國 落 事 、 久我 大 臣殿 とあ る。 (七 九) 參 照 。
(一六 八 )村 上 源 氏 。 公 卿補 任 、 仁 安 三年 八月 任 内 大 臣 。承 安 五年 二月 廿 七 日 薨 。 五 八歳 。 義 經 記 卷 七、 剣
(一六 九 )吾 妻 鏡 、 文治 二年 九月 廿 二日、 ﹁糟 屋 藤 太 有 季 、於 京 都 生 虜 與 州家 人 堀彌 太 郎 景 光 、 此 間 隱住 京
都。
﹂
依 爲 精 兵 、 相 戰輙 不被 討 取 、然 而以 多 勢 襲 攻 之 間 、忠 信 拜 郎 從 二人 自 戮訖 ⋮ ⋮尋 往 密 通 青 女 、遣 一通
(一七 〇) 吾 妻 鏡 、 文治 二年 九月 廿 二日 、 ﹁又 於 中 御 門 東 洞院 、誅 同 家 人 忠信 云 々。 有 季 競 到之 處 、忠 信 本
書 、彼 女 以 件 書令 見 當 時 夫 、其 夫 語 有 季 之 問 、行 向 獲 之 云 々。﹂
攻 戰 之 聞 、 庄 司 已下 宗 者 十 八人 之 首 、 爲 宗 兄 弟獲 之 ⋮ ⋮ 。
﹂
(一七 一) 吾 妻 鎮 、文 治 五年 八月 八 日 、 ﹁佐 藤 庄 司 等 爭 死挑 戰 、 爲 重 、資 綱 、爲 家 等 被 疵 、 然 而爲 宗 殊 忘 命
(一七 二) 同 文 治 五年 十 月 二日 、 ﹁囚 人佐 藤 庄 司 、名 取 郡 司、 熊 野 別 當 等 、蒙 厚 免 各 皈 本 處 云 々 。
﹂
光 預 置 之 、今 日、 二品 有御 封面 、直 及 御 問 答 、仰 日 、 豫 州 者 欲 濫邦 國 之 凶 臣 也 、 而 逐電 之 後 、 捜 求 諸
(一七 三) 吾 妻 鏡 、文 治 三年 三 月 八 日 、 ﹁南 都 周 防 業 聖弘 依 召 參 向 、 爲 豫州 師 檀 之 故 也 、 日 者、 小 川 七郎 朝
國 山 澤 、 可 誅 戮之 旨 度 々 被 宣下 畢 、 然 天 下 尊 卑皆 背 彼 之 處 、 貴 房 獨致 所 薦 、 剰 有 同 意結 構 之 聞 、 其 企
如 何 者 、 聖弘 答 云 、 豫 州 爲 君御 使 征 李 家 刻 ⋮⋮ 。﹂ 以下 、 大 略 本 書 と同 文 であ る。
左 馬 頭 、爲 近仕 隨 一也 、 被 誅之 後 、 在 豫 州 之 家 、與 州 逐電 之 刻 、同 横 行 所 々之 問 、北 條殿 令 生 虜 之 、
(一七 四) 吾 妻 鏡 、文 治 二年 十 一月 廿 五日 、 ﹁有但 馬國 住 人 山 口太 郎 家任 者 、 弓 馬 逹 者 勇 敢 士也 、 而 屬 木 曾
二六七
所被召進也、⋮⋮Q
﹂
有綱義經餐合戰⋮⋮。
﹂
一一六八
(一七 五) 吾 妻 鏡 、文 治 二年 六月 廿 八 日 、 ﹁去 十 六日 、李 六慊 仗 時 定 、 於 大和 國 宇 多 郡 、 與 伊 豆右 衛 門 尉 源
(一七 六) 松 井 本 (片假 名 本 ) には 次 の語 が あ る。
﹁憲海 記 、義 經 息女 、 桂 腹 、 山 口太 郎 家 任 、 我 娘 ニ シテ大 和 式 部 卿 禪師 二娶 タリ 、 女 二人 出 生 アリ 、
四十 二及 ブ遑 男子 ナ カリ シ ニ、常 二觀 音 ヲ信 ジ、其 御 名 御 經 ヲ怠 ル事 ナ シ、 ア ル夜 夢 二尊 キ僣 ノ白 蓮
華 ヲ 一英 持 チ給 フ ガ、 是 ヲ汝 二預 ク ル ト宣 フ ニ、其 ノ白 蓮 華 ヲ呑 ムト覺 エテ夢 サ メ ヌ、是 觀 自 在 ノ御
告 ト有 難 ク 覺 エシ ニ、 程 ナク 懷 妊有 ツ テ、 男 子 ヲ産 メリ、 靈 夢 二任 セ白 蓮 丸ト 號 ヅ ク 、十 二歳 ニテ出
家 ト ナ ル、是 申 道 和 尚 ナ リ 、律 苑 僣 寳 傳 二、中 道 律 師 、 諱 聖子 、和 州 ノ人 也 、密 教 ヲ報 恩 院 憲 深 僭 正
二受 タ ル也 、南 都 眞 言 院 ヲ中 興 ト ス、後 石 清 水 檢校 行 清 律 師 ヲ招 請 、法 園 寺 ヲ建 テ、開 山 始 祀 ト ス、
正 應 四年 十 一月 廿 七 日遷 化 、 歳 七 十 三、 法 園 寺 二葬 ルト アリ 、 法 園 寺今 男 山 ノ麓 ニアリ、 執 恩 院 憲 深
・僣 正 ハ醍 醐 ナ ルベ シ。
﹂
間 、 數 月 令 隱容 之 、 又 至 赴 奧 州之 時 、相 攀 伴 黨 等 途長 途、 歸 洛 之 後 、企 謀 叛 之 由 有 其 聞、 仍 内 々窺 彼
(一七 七) 吾 妻 鏡 、 文 治 四 年 十月 十 七日 、 ﹁
叡 岳 悪僣 中 有 俊 章 者 、 年 來 與 豫 州 成斷 金 契 約 、 仍 今 度 牢 籠 之
左 右 、 可 召 進其 身 之 旨 、 被 仰 在 京御 家 人 等 云 々 。﹂
在 民 部 少 輔 基成 朝 臣 衣 河 舘 、 泰 衡從 兵 數 百 騎 、 馳 至其 所 合 戰 、 與 州 家 人等 雖 相 防 、 悉 以敗 績 、 與 州 入
(一七 八) 吾 妻 鏡 、文 治 五年 閏 四 月 卅 日、 ﹁今 日 於 陸 奥國 、 泰 衡 襲 源 與 州 、是 且 任 勅 定 且 依 二品 仰 也 、 豫 州
持 佛 堂 、 先害 妻 廿二歳、 子 女子四 歳 、 次 自殺 云 々。﹂
(一七 九) 吾 妻 鏡 、 文治 三年 二月 十 日 、 ﹁前 伊 豫 守 義 顯 、 日 來 隱住 所 々、 度 々 遁 追捕 使 之 害 訖 、 逾經 伊 勢 美
濃 等 赴 奧 州 (是 依 恃 陸 奧 守 秀 衡 入道 權勢 也 、 相具 妻 室 男 女 、 皆 假 姿 於山 伏 井 兒 童 等 云 々 。
﹂
(一八 〇) 義 經 記 卷 七 、 三 の 口 の關 通 り給 ふ事 參 照 。
(一八 一) 義 經 記 卷 七 、夲 泉 寺 御 見 物 事 參 照 。
(一八 一一)謡 曲 、 安 宅 によ る も の か。
異 本 義 經 認
前伊 豫 守 義 顯 爲 大 將 軍 、可 令 國 務 之 由 、令 逶 言 男 泰 衡 以下 云 々。﹂
(一八 三 ) 吾妻 鏡 、文 治 三年 十 月 廿 九 臼 、 ﹁今 日、 秀 衡 入 道於 陸 奥國 李 泉 舘 卒 去 、 月 來 重病 依少 恃 、 其時 以
衡 、可 搦 進 與 州 之由 也 、 彼 兩 人 帶 宣旨 並 廳 御 下 文 等 、今 日已 參 着 鎌倉 ⋮ ⋮。﹂ 宣 旨 状 も あ る。
(一八 四 )吾 妻 鏡 、 文 治 四年 四月 九 日 、 ﹁下 向 奥 州 之 官 史 生國 光 、 院 廳 官景 弘 等 、 去 月 廿 二日出 京 ・ 是 仰 泰
(一八 五) 吾 妻 鏡 、 文治 五年 九 月 十 五 日 、 ﹁樋 爪 太 郎俊 衡 入 道 並 弟 五郎 季 衡 、 爲 降 人 參厨 河 、 俊 衡具 子 息 三
宣 下 旨也 云 々 。
﹂
人 ⋮ ⋮ 二品 召出 彼 等 覽 其 體 、俊 衡 齢 已 及 六旬 、頭 亦 翩 繁 霜 、誠 老羸 之 容 貌 、尤 足御 憐 愍 也
⋮⋮。
﹂
(一八 六) 吾妻 鏡 、文 治 五 年 六月 廿 六日 、 ﹁奥 州有 兵 革 、 泰 衡 誅弟 泉 三郎 忠 衡年 廿 三是 同 意 與 州 之聞 ・ 依 有
加之 自 圖 繪 狩 獵 之 體 、本 佛 者 阿 彌 陀 丈 六也 、 三重 寳 塔院 内 莊 嚴 、 悉 以所 摸 宇 治 李 等 院 也 。
﹂
(一八 七 )吾 妻 鏡 、 文 治 五年 九月 十 六日 、 ﹁無 量 光 院 號新御堂事 、秀 衡 建 立 之 、其 堂内 四 壁 扉 鬪 繪 觀經 大 意 、
(一八 八 )吾 妻 鏡 の補 訂 は吉 用 本 によ る 。
(一八 九) 松 井 本 (李佞 名 本 ) は こ の 一節 を李 假 名 交 り 文 と し て本 文 と す る。 同 片 僂 名 本 も本 文 とす る 。
(一九 〇) 東 海 道 名 所 記 卷 一、 藤 澤 の條 に 、白 旗 大 明 祕 と あ り て同 趣 旨 の事 を 遞 べ てゐ る 。
(一九 一) 松 井 本 (
夲假 名 本 ) は 、 以 下 、神 祗 考 ま でを本 文 とす る。
(一九 ご) 島 津 久 基 、 ﹁義 經 傳 説 と 文 學﹂ 一七 二頁 參 照 。義 經 知 諸 記 に は なほ こ の他 に記 述 があ る 。
見 タ ル者 、彼 殘 夢 二逢 テ 、舊 記 二見 ヘタ ル義 經 、 又 家 人 等 ノ事 ヲ タヅ ヌ ル ニ、 殘 夢 詞 不 分明 ニシ テ年
(一九 三) 松 井本 (
片 假 名 本 ) の頭注 に、 ﹁此 比 奥州 ノ士 二渡 邊治 太夫 ト云 者 能 舊記 ノ事 ヲ覺 、 記 録 ヲ モ能
久 敷事 ナ レ バ ワ ス ル 丶ト 云 フ、 渡 邊 笑 テ、 此渡 邊 コ ソ常陸 房 ニテ コソ アラ ンズ ラ ント 云 リ﹂ とあ る。
(一九 四 )本 朝 紳 祗 考 卷 六 。 ﹁義 經 傳 説 と 文 學﹂ 一七 二頁 參 照 。
(一九 五 )松 井 本 (
夲 假名 本 ) は下 の 一節 を本 文 とす る 。
三 ハ九
異本 義經 記解 読
一
ご七 〇
異 本 義 經 記 は義 經 記 (
八卷) の異 本 で は な い。 別 の書 で あ る。 本 書 に就 い て の考 察 は殆 ど な
,
いと い つて よ い。 鹽 尻 瑠 五十 六 (
日本隨筆大成卷+、 一〇 二頁)、 山 城 國 粟 田 口 に蹴 擧 と い ふ處 あ ゜
り の條 に、^天 野信 景 が、
昔 關 原 與 市 源 義 經 にう た れ し所 と いふ、 古 書 に有 や 、云 、 異 本 義 經 記 に安 元 三 年 初 秋 の事 と
い へり。
と記 し て ゐ る が、 別 に異 本 義 經 記 に つい ては 述 べる所 が な い。 次 は繪 入頭 書義 經 記 評剣 系圖 傳
記 大 意附 録 入 と し て、 元 録 十 六年 、 十 四 冊 本 と し て刊 行 し、 奥 に、
孟亠
眷大 士口従川
日
安 浦 市 兵衞 刊 行
押 小 路通 麩 屋町 西 江 入町 金 屋
手時一
兀心
祿十 六癸 未 歳
京
﹂
書肆大野木市兵衞
大阪安堂寺町心齊橋筋
と あり 、 同 板 を以 て享 保 四 年 に改 版 し 、
享保四年
己亥正月吉旦
異本 義 經 記
と 刊 記 のあ る義 經 記大 全 に よ る と、 異 本 義 經 記 を引 用 し て居 る所 が少 く な い。 未 刊 國文 古 注 釋
大 系 の第 十 四 冊 に よ り て そ の主 要 な る も の を示 す と、 義 經 記 評 剣 卷 二上 で は、最 後 の伊 勢 三郎
義 經 の臣 下 に初 て成 事 の章 の絡 に、
伊勢 三郎 在所 伊 勢 四 日市 五 六町 程 四 の方 川 島 と い ふ所 に屋 敷 の跡 あ り親 義 連 に ては な し 俊盛
と い へり 俊盛 が俊 盛 が石 塔 ふ るび た る有 松 有所 のも のは義 盛 が 墓 と いふ本 文 相 違 (八八頁上)
と あ る。 本 書 の 一節 を參 考 し た も の で あ る。 卷 二下 、 鬼 一法 眼 の事 の章 の絡 に、
傳 に いは く こ が ねづ く り の太 刀 はび ぜ ん とも な り が作 二尺 一寸 法 げ ん こ ろ も の下 に くず のは
か ま を着 し銀 卷 し た る刀 を さ し仕 女 二人 にか いし や く せら れ ⋮ ⋮張 天 覺 が素 書 の序 に い はく
夫 素 書 六篇 は ⋮ ⋮法 眼 門 弟 白 川 湛 海 と いふ者 一と せ出 雲 路 の因 地 の時 ⋮ ⋮鬼 一が むす め の事
實 は大 納 言 藤 成 通 卿 の妾 のは ら の息 女 と 云 り ⋮ ⋮按 る に くら ま揖 取 谷 の 一塚 は か つら ひ め の
墓 所か (一〇〇頁下)
卷 四 上 、 より とも よ し つね に對 面 の事 の章 の絡 に 、
傳 日義 經 お さ な き時 よ り 心 た け く し て そ のほ こ さき に向 ふも のな し先 租 より よ し よ し いゑ と
う の いく さ を た つ ね も と め鬼 一法 げ ん がぐ ん ほう の奥 儀 を き は め⋮ ⋮ 河 越 のし げ ふ さ に 宣 ひ
し と に や (一二六頁下)
と あ り、 同 卷 、 よ し つね夲 家 の討 手 に上 り 給 ふ事 の章 の絡 にも 、
傳 日 元 暦 二年 二月 十 六 日義 經 八 島 へか ど で の時 大 く ら の卿 や す つね 朝臣 が て いに いた り ⋮ ⋮
二七 一
四國 へ打 立 給 ふ どメ訳。 (= 一九頁下)
同 卷 、 腰 越 の申 駿 の事 の章 の絡 にも 、
二七二
傳 日 六月 五 日 よ り朝 公 っゐ に よ し經 に御 た い め んな く し て⋮ ⋮ 一通 の駿 を し た 丶め い せ の三
(1>
>
11頁上>
郎 を使 と し て大 江 の ひ ろ も と朝 臣 の方 へ つか はさ れ け る是 を 世 に こし ご え 妝 と い へり
卷 四 下 、 土 佐房 よ し つね の討 手 に 上 る 事 の章 の初 め に、
傳 日 元暦 二年 九月 鎌 倉 よ り梶 原 源 太 か げ す ゑ義 勝 房 成 尋 御 使 ど し て上 ら く⋮ ⋮ あ る ひ は い は
く 土 佐 ぼ う私 に 望 み て 上 り た る と も 云 へり (; 三 頁上)
とあ り 、 又 同 章 に、
傳 日 義 經 此 事 を き 丶給 ひ 辨慶 を 使 ど し て 土 佐房 を め す ⋮ ⋮ し や て い の み の み を は じ め む ね と
のら う ど う 殘 り す く な に討 た れ た り (一三五頁上)
と あ り、 同 章 の頭 注 に、
備 前 の李 四 郎 成 春 は久 我内 大 臣 雅 通 公 の諸 大 夫備 前 守 李 の兼房 が男 な り安 元 三年 の夏 あ る夜
⋮ ⋮成 春 を家 人 に つか ひ給 ふ と い へり (一四二頁下)
と あ り、 同 章 に、
°
傳 日 粟 田 口 の邊 に よ し つね の人數 さ し ふさ ぎ た る と き 丶て龍花 越 へか 丶り し時 ⋮ ⋮神 ば つか
と世 の人 に く みけ る と也 (一四五頁上)
異 本義 經記
ど あ り、 同 章 に、
傳 日 土 佐 房 は くら ま の僭 正 が谷 に い た り て行 方 を う し な ひ いわ あ な の内 に ⋮ ⋮ 六條 か は ら に
て切 ら れ け る こ そ ふび んな れ (一四六頁上)
世 に云 傳 ふ そ のか み奥 州 に殘 夢 と いふ者 有 出 所 行 年 知 れず ⋮ ⋮長 命 と い へり是 詐
と あ る。 次 に よ し つね 都 落 の事 の章 の、 頭 注 に、
ひたち坊
也 用 べか ら ず (一五〇頁下)
と あ る。 これ は異 本 義 經 記下 卷 の絡 に 見 え る語 で あ る。 同 章 に、
傳 日 元暦 二 年 十月 三 日 よ し つね仙 洞 へま いり て申 上 け る は ⋮ ⋮諸 卿 一同 に此 儀 尤 の よ し に て
す な は ち いん ぜ ん を給 は り た る と い へり (一五二頁下)
と あ る。 卷 五 上、 卷 頭 に、
傳 日 文 治 元 年 十 月 廿 九 日 よ し つね を せ め ん が た め に よ り とも 公 御馬 を 出 さ る べき に、 ⋮ ⋮大
和 路 にお も む き給 ひ し時 は相 し たが ふも のど も いつ れ も あ つま り し と な り (一五七頁上)
同 卷 、 しつ か吉 野 山 に捨 ら るる 事 の章 に、
傳 日文 治元 年 十 一月 十 七 日 し つ か藤 尾 坂 の邊 に さ ま よ ひ あ り き て ⋮ ⋮ 三月 一日 し つ か か ま く
ら へ下 る と言 々事 は 六 の下 に み へた り (一六一
二頁下)
と あ り、 同 卷 、 よ し つね吉 野 山 を落 給 ふ事 の章 に、
傳 日文 治 元 年 十 一月 下 旬 よ し つね山 伏 のす が た と な り て大 和 のく に たう の みね 十 字 坊 に入 給
二七三
二七四
(一六六頁上)
ふ ⋮ ⋮吉 水 院 に も よ し つね のぐ そく と てあ り せう へいが わ に て前 を つ 丶む同 U く太 刀 も あ り
同卷 、 た 穿 のぶ よ し野 に ど 望ま る事 の章 の頭 注 に、
忠 信 は秀 衡 の近 親 也 ⋮ ⋮坊 門 三郎 經 忠 と い へり。
と あ り 、卷 六 上 、 關東 よ り く わ ん U ゆ ばう を召 さ る る事 の章 の終 に、
傳 日 文 治 三 年 三月 南 都 く わ ん じ ゆ ば う と くご 聖 佛 め し に よ つて ⋮ ⋮ ど思 ひ てり や う U や う申
さ れ し ど い へり (tl
o五頁上)
と あ り 、 卷 六下 、 し つ か か ま く ら へ下 る事 の章 の頭 注 に、
いそ の前 司 は阿 波 國磯 と いふ所 のも の ゆ へに磯 の前 司 と い へり⋮ ⋮ 今 は所 の者 あ や ま り て志
津 木 と い へり (二〇七頁上)
どあ り 、 同 章 の終 に、
(一二 〇頁下)
評 日 文 治 元 年 十 一月 十 七 日 よ し つね よ し野 山 へ入給 ふ時 ざ つし き下 部 を つけ て ⋮.
.
.
ど あ り、 一部 異 本 義 經 記 に よ る所 が あ る。
次 に同 卷 、 し つ か わ か宮 八 幡 宮 へさ んけ い の事 の章 の絡 に、
傳 に いは く文 治 二年 三月 一日 豫 州 妾 靜 及 母 磯 前 司 自 京 鎌 倉 來 る と 言 々同 五月 十 四 日 く ど う さ
へも ん か ち はら 三 郎 ⋮ ⋮ か げ し げ お も て を あ か め し と言 々。 ○ よ し つね を う し う に てじ が い
異本 義 經 記
の よ しを闘 て⋮ ⋮ お う し う のか た へ下 り し と も い へり○ 傳 に日 少 納 言 みち の り⋮ ⋮元 暦 元 年
六月 は U め て義 經 に奉 公 す と い へり (二 一九頁上)
と あ る。 卷 七上 の卷頭 に、
h
嫐
傳 日 文 治 二年 五月 の末 よ し つね く ら ま東 光 坊 に し のび てま しま す よ し⋮ ⋮ ぜ ん り ん ぼう かく
にち を ば な だ め てか へさ れ し と な り (一二 九頁下)
とあ り 、卷 八 の卷 頭 に、
傳 日 義經 李 いつ み へ下 り 着 き給 へば ひ で ひ ら か た う ど し て ⋮ ⋮ よ り ど も公 やす から ず 思 ひ給
ひ て 七道 のぐ んぜ いお よ そ 二十 六 萬 よ き ⋮ ⋮利 有 べから ず ヒ て かま く ら へ引 か へし たま へり
ど云 々 (一五 一頁下、二五二頁上)
と あ り、 秀 李 死 去 の事 の章 の絡 に、
傳 日 文 治 三年 十 月 廿 九 日 ひ でひ ら 死 去有 ⋮ ⋮其 外 か た 岡 む さ し な ど も人 しら ず か の島 へわ た
り け る と也 (二五六頁上)
同 卷 、 す 穿木 の 三郎 し げ家 高 だ ち へ參 る事 の章 の頭 注 に、
文 治 五年 三月 北 條 五郎 時 つら 伊 豆 の國 府 にお い て鈴 木 三 郎 を いけ ど る ⋮ ⋮ か ま く ら を 怨 び い
で ∼お ろ し う こ ろ も川 の た ち へ參 し と也 (二五九頁上下)
と あ り( 同 卷 、 こ ろ も川 合 戰 の事 の章 の絡 に、
傳 日文 治 五年 閏 四月 晦 日 た つの刻 も と よ し のく わ ん じや 高 ひら を 大將 とし て⋮ ⋮ よ し つね の
二七五
ら う ど う 皆 も つて死 生 し ら ず と銃 (三 公二頁下)
と あ り、 同 卷 、 秀 夲 が 子 ど も御 ついた う の事 の章 の頭 注 に、
文 治 五 年 六 月 十 三 日 泰 衡 使者 ⋮ ⋮其 首 を 直 に藤 澤 に葬 る と い へり
と あり 、絡 に、
ご七六
傳 に い はく や す 夲 夲 いつ み を 落 て ゑ ぞ が嶋 へお も む き た り と い へり ⋮ ⋮ さ が み の i
ii1
1は と大
明 紳 の事 そ のか み 里 人 あ ま ね く夢 み ら く ⋮ ⋮岡 ざ き U や う る り く る は にお さ む と にや ○ そ の
か み藝 州 毛 利 家 の侍 に 佐 世石 見 守 と いひ し も の ⋮ ⋮其 時 も か く のご とく な る事 あ り し と い へ
り (二六七頁下、ご六八頁上)
と あ る 。以 上 は いつ れ も異 本 義 經 記 よ り の引 用 で あ る。 然 し異 本 義 經 記 と い ふ語 を示 さ な い の
は 、著 者 松 風 廬 戈 止軒 の祕 し た た め で あら う か。
次 に謠 曲 拾葉 抄 卷 十 一、 二人 靜 の章 に、
異 本 義 經 記 云、 義 經 奥 州 に て自 害 の由 を聞 て、 靜 尼 に成 て名 をば 再 性 と付 て暫 嵯 峨 の邊 に在
信 西 時 勢 舞 の 上 手 に て :..
.
.(
申 略 ) 今 は 所 の者 あ や ま り て志 津 木 と い へ り と 罫 、
和
し が後 南 都 に住 し廿 四 の歳 絡 命 し と い へり、 又 奥 州 の方 へ下 り し共 い へり 、 傳 二云 、 少 納 言
逋憲崘
田宗 允 丹後 海 陸巡 遊 日録 云、 丹 後 に磯 と云 所 有 、 磯 前 司 及 ビ 靜 此 所 よ り出 る也 、 靜 が塔 在 于
此2 。
と あ り 、象 房 の條 に、
異 本義 經 記
異 本 云 、 増 尾 十 郎 權 頚 兼 房 ハ近 衞院 の役 人 に て有 し そ 、 常盤 の門 葉 に て義 經 の乳 釁 の親 也、
丹 波 國 馬 路 の郷 領 地 せり ⋮ ⋮ (
中略)馬 路 の郷 を沒 牧 せら れ て、 山 階音 羽 の郷 に閑 居 し た り
メ云。
同 卷 十 二、 安 宅 の章 に は、 官田樫 何 某 の條 に、
異 本 義 經 記 云 、 加 賀 國 富 樫 介 家 直 が 關 所 ト下 略。
と あ り、 到 官 殿 十 二人 の作 り 山 伏 の條 に、
又 異 本 に主 人 十 二、 又 山 門 の僣 、 北 の方 と 共 に都 合 十 六 人 と有 。
と あ り、 伊 勢 三 郎 の條 に、
異 本 義 經 記 云 、 義 盛 ハ伊 勢 國 河 嶋 次 郎 俊 盛 が子 三 郎 武 盛 と號 す 、 後 義 經 の家 人 と 成 て義 盛 と
改 む と文 略 。
駿 河 次 郎 の條 に、
異 本 義 經 記 云 、 駿 河 次 郎 清 重 事 、 義 經 駿 河 國 淨 嶋 が 原 を 通 り給 ひ し 時 、 獵 人有 て行 連 絡 道物
語 す る如 何 成 者 ぞ と名 を尋 給 ふ時 に、駿 河 國 竹 下 二郎 清 重 と答 フ、其 時 見 參 し て義 經 に 奉 仕
す銃 。
0
常 陸房 の條 に、
異 本 義 經 記 云、 常 陸房 海尊 事 、 園 城 寺 の出 家 、 刑 部 卿 禪 師 と い へり 、 強 力 者 ゆ へ荒 刑 部 と 云
け る 、義 經 法 眼 が許 に在 時 も 志 を通 じ崇 敬 け る と也 、 夲 家 追 討 の蒔 、 義 經 に屬 し、 常 陸 房 海
二七七
尊 と名 乘 ル と銃 。
と あ り、 卷 十 三 、 舶 辨 慶 の章 に、
一一七八
,
異 本 義 經 記 云 、 武歳 坊 辨 慶 ハ紀 州 ノ住 人岩 田 入道 寂 昌 が 子 也、 仁 夲 元 年 四月 八 日 に誕 生 す 、
比 叡 山 西 塔 櫻 本坊 の辨 長 僣 都 の弟 子 と な る、 只 常 に力 業 、 太 刀打 を 好 む、 依 て異 名 を 鬼 若 丸
と呼 け る、其 比 西 塔 の北 谷定 泉坊 附 の武 歳 坊 ど い へる明 房 に 入自 剃 髮 し て武 藏 坊 辨 慶 と名 の
る 、 全文 略。
とあ り 、 同 卷 十 九 、鞍 馬 天 狗 の章 に、
異本 義 經 記 云 、常 盤 清 盛 に馴 て息 女 を産 で後 、 一條 大 藏 卿 長 成 朝 臣 の妻 室 に成 て、 こ こ に て
も 子共 出 來 た る、 牛 若 は暫 く 繼 父 長 成 朝臣 の方 に て育 立 ⋮ ⋮ (
中略)禪 林 房 色 に愛 着 せ し故
也 と ぞ 語。
と あ り、 又 、
異 本 義 經 記 云、 一條 堀 川 に陰 陽 師 鬼 一法 眼 と云 者 あ り 、 希 代 の軍 書 を 持 、是 醍 醐帝 延 長 元 年
五月 從 三位 中 納 言 大 江維 時 遣 唐 使 に ⋮ ⋮ (
中略) 娘 に倫 出 さ せ寫 し取 り 悉 く其 指要 を 納 得 す
ヒ 語。
と あ り、 又 、
異 本 義 經 記 云、 義 經 鳥 帽 子 に小 結 し て、 絹 文 紗 の直 垂 、 白 き 大 口金 作 の太 刀 、 虎 の革 の尻 鞘
入 て、 兒 立 な れ ば 眉 取 て黒 齒 黒 に し て時 に年 十 八 歳 麗質 婦 人 の如 し夢 。
へ下 る、 秀 衡 が方 へも 出 入 と也 、 遮 那 王 橘次 が 參 詣 毎 に眤 給 ふ ヒ 蛭。
と あ る。 何 れ も異 本 義 經 記 より の引 用 で あ る。 次 は島 津 久 基博 士 の ﹁義 經 傳 読 と文 學﹂
二七九
接 し た こ と がな い と述 べ (四五ご頁)、 續 い て、 拾葉 抄 及 び 柳亭 種 彦 の熊 坂 物 語 の引 用 に より て
これ も 又 拾 葉 抄 及 び 小 中村 清 矩 博 士 の説 で あ る。 こ の異 本 義 經 記 な るも の に は不 幸 にし て 未 だ
由 が 無 い (二九九頁)と 述 べ、安 宅傳 説 の條 に も、 謠 曲 安 宅 は異 本 義 經 記 から 出 た と 説 が あ る。
二章 の關原 與市 傳 誂 の條 に も、 鹽 尻 卷 五十 六 の引 用 を 示 しな が ら 、 同 書 が存 在 せ ぬ ので質 す に
十年 一月二十 一日刊、明治書院)申 の研 究 であ るが 、博 士 は異 本 義 經 記 を見 て居 ら れ な いの で 、第
(昭和
異 本 義 經 記 云 、 三 條 橘 次 季 春 と云 金 商 人 あ り 、後 塚 彌 太郎 景 光 は 此季 春 と い へり、 毎 年 奥 州
異 本 に、 三 條 橘次 季 春 と有 -⋮ .
どあ り 、吉 次 の條 に、
丸 に討 れ し と 云 へり 、 傳 日 、 張 樊 が 事 ⋮ ⋮ (
申略)小 猿 な ど云 者 、 其 比 の盜 人 と い へり銃 。
異 本 義 經 記 云 、 熊 坂張 樊 と 云 盜 人、 加賀 國 熊 坂 の者 どぞ 、 美 濃 國 赤 坂 の宿 に て夜 討 し て牛 若
卷 二十 、 熊 坂 の章 に、
に聊 も 宣 ふ 事 も な く只 貴 船 へ夜 毎 に詣 ず と計 答 ら れ し と也 疉 。
の頃 よ り 惡信 な ど集 木 太 刀 に て打 合 給 ふ に、 手 利 に て ⋮ ⋮ (
中略)遮 那 王 殿 に此事 を尋 ね し
異 本義 經 記 云 、 遮那 王 早 足 飛 越 な ん ど し給 ふ に、 外 の人 より も身 も 輕 く有 し そ 、 十 四歳 の秋
又、
異本 義 經 記
存 在 は知 ら れ る が、 實 體 は疑 問 が あ る と し て、
二八〇
こ の異本 義 經 記 も 江戸 時 代 の作 で、 謠 曲 安 宅 と の關 係 は これ も 亦 却 つて逆 であ る と推 定 せざ
る を得 な い ので あ る。
と 述 べ、 拾 葉 抄 引 用 の同 書 の内 容 が、 明 ら か に義 經 知 緒 記 、 或 は義 經 勲 功 記 (
正徳 二年刊 )と 一
致 す る部 分 が多 く、 そ の點 で も却 つてさ ま で古 いも の でな く 、 流 布 本 よ り は無 論 新 し く、 或 は
勲 功記 か知 緒 記 あ た り から 取 つて作 ら れ たも の で はあ るま いか と 述 べら れ た。 し か し異 本 義 經
記 は 江戸 時 代 初 期 以 後 の成 立 と認 めら れ るが 、 勲 功 記 か ら 取 つた も ので は な く 、既 に義 經 記 評
到 に引 用 せら れ 、 知 緒 記 と の關 係 は筆 者 は 未 見 で これ を質 す こと が出 來 な いが、 島 津 博 士 の引
用 に、
も
も
へ
つ
も
異 本 義 經 記 云 、 加 賀 國 富 樫介 家 直 が閣 所 を通 り給 ふ。 家 直 が弟 齋 藤 次 助 家 、 そ の場 に在 り て
も
見咎めたりしを⋮⋮ (
四 五二頁)
と あ る が 、異 本 義 經 記 に は、 家 直 が弟 云 々 は な い語 で あ る。 又 異 本 義 經 記 引 用 の書 と し て、 謠
曲 拾葉 抄 の外 に 、義 經 一代 記 拔 萃 熊 坂 物 語 、 山 城 名 勝 志 、 陽 春 廬 雜 考 等 を あげ て居 ら れ る。 そ
し て義 經 記勲 功 記 と比 較 し て、 鬼 一法 眼 傳 説 、 熊 坂 長 範 傳 説 、 橋 辨 慶 傳 説 等 に同 一内 容 が あ る
と し て、 義 經 知 緒 記 と異 本 義 經 記 と も同 一のも のが 多 い と し て、
義經知緒記i義經記評到-勲功記-鎌倉實記
ど いふ 系圖 を示 され た。 これ は重 要 な 示 唆 であ つて今 後 の研 究 に參 考 と な る で あ ら う。
異 本 義 經記
二
異 本 義 經 記 の傳 本 は現 在 三部 存 在 す る。 そ の 一は本 書 の底 本 であ る叡 山文 庫 藏 本 であ る 。 上
下 二冊 、美 濃到 袋 綴、 一面 十行 乃 至 十 二行 、 片 假 名 交 り書 寫 、 恐ら く 江戸 中 期 の寫 であ ら う。
そ の二 は、 松 井 簡 治博 士 舊藏 本 で、 靜 嘉 堂文 庫 現 藏 、 美 濃到 袋 綴、 上下 ご冊、 片 假 名 交 り書
寫 、 一面 十行 、 注 を 二行 に 入れ て 一行 十 八 字 詰 、 江戸 末 期 の寫 であ ら う。 卷 末 に、村 上安 興 之
・
の識 語 と藏 印 が あ る。 本 書 は叡 山 文 庫 藏 本 に比 し て誤 脱 が 少 いが 、後 の増 補 と 認 む べき記 事 が
二箇 所 、 頭 注 に憲 海 記 と し て の引 用 が あり 、 そ の他 注 が 若午 あ る。 そ の三 も、 同 じ く松 井 簡 治
博 士 舊 藏 本 で、 上 下 二卷 一冊 、 美 濃 剣 袋 綴 、 本文 を 夲 假 名 交 り 十行 書 寫 、 注 は 多 く片 假 名 交 り
と し て書 寫 、 同 じ く 江 戸 末期 の書 寫 と 認 め ら れ る。 本 書 は叡 山文 藏 本 に比 し て僅少 の差 が あ
義 朝 ノ子 ノ内 ヘ ハ不 入 姓 モ改 藤 原
叡山文庫藏本
季 範 が娘 の腹 に出 生 の息 女 を
義 朝 の公 逹 の内 ゑ は いれ ず姓 も 藤 原 に改 ら る
松井本
る。 例 へば、
季 範 娘 腹 ノ息 女
松 杭 川 へ身 を投 死 す
仰 によ つ て政 家 さ し殺 し た り
・
命 二依 テ政 家 指 殺 シ タ ルゾ
自 杭 瀬 川 へ入 水 有 シゾ
と あ る が如 き で あ る。 内 容 上、 差 異 は な い の で詳 しく は あげ な い。 卷 頭 に 一枚 錯 亂 が あ る。
二益
三
二八二
こ の異 本 義 經 記 は如 何 な る も の で あ る か と い へば、 義 經 傳 説 を 編 輯 した も の で、 一貫 した作
品 と は 言 ひ難 い所 が あ る。 義 經 記 の如 き文 藝 的 な 性 格 は少 く 、 各 注 にも示 し た如 く、 吾 妻 鏡 と
一致 す る所 が 少 く な い。 こ の點 は吾 妻 鏡 に よ り て構 成 さ れ た と認 めら れ よづ 。 又 他 に見 え ぬ傳
設 も 少 く な いゆ 例 へば鎌 田兵 衞 の女 、 牛 王 女 の物 語 な ど が そ の好 き例 であ る。 伊 勢 三 郎義 盛 の
親 、 河嶋 二郎 俊盛 の事 も他 に見 え な いも の で あ る。 又 義 經 の部 下 と な つた 増 尾 十 郎 象房 、 海
尊 、 鈴 木 二郎 重 善 、 熊井 太郎 、 鷲 尾 庄 司 義 久 父 子 の事 な ど も他 に見 え な い。 こ の樣 な傳 説 が 何
を 根據 と し て成 立 し た か知 る由 も な いが、 本 書 の存 在 に より て義 經 傳 設 が更 に豐 富 にな つて居
る 点 は 看 過 出 來 な いも のが あ る。 更 に義 經 記 の異 本 と し て、 吉 岡 本 、 長 谷 川 本 の存 在 を示 す こ
と も 注 目 す べき で あ る。 こ れ ら の義 經 記 の存 在 は不 明 で あ る が、 そ の斷 片 を傳 へる の は本 書 以
外 に他 に資 料 が存 し な い。 義 經 の蝦 夷 が島 へ渡 つた と い ふ傳 説 も注 目 す べ きも の であ る。義 經
の奥 州 下 向 に つい て、義 經 記 の如 き創 作 的 な も の が なく 、安 宅 傳 説 も な い こ と は、 本書 の編 者
が 史 實 に忠 實 な ら んと し て と り あ げ な か つた も の で あら う か。 本 朝 紳 祗 考 や 丹 後 海 陸 巡 遊 日 録
等 を 注 とし て引 用 し てゐ る 點 よ り 、本 書 の成 立 を 江戸 初 期 の も の と認 む べき であ ら う か。 今 後
の研 究 を ま つも ので あ る。