WIJC160417復活の主と漁に出た弟子たち

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2016 年4月 17日 聖書:ヨハネ
聖書:ヨハネ 21章 1-14節
14節 タイトル:復活の主と漁に出る弟子たち
タイトル:復活の主と漁に出る弟子たち
序 論
●復活された後、
復活された後、イエス様は、どのような
後、イエス様は、どのようなお方として
イエス様は、どのようなお方として弟子たち
お方として弟子たちに現れた
弟子たちに現れたか、どのようなことを弟子たち
に現れたか、どのようなことを弟子たち
に教えられたかについて学び始めて、今日で3回目となる。
●まず、先々週は、『エマオ途上の弟子たち』を通して、「
まず、先々週は、『エマオ途上の弟子たち』を通して、「復活されたイエス様」は、
復活されたイエス様」は、①
イエス様」は、①私たちが呼ぶ
前に来て下さるお方、呼ぶ前に
前に来て下さるお方、呼ぶ前に既にそこにいて
呼ぶ前に既にそこにいて私たち助けて
既にそこにいて私たち助けて下さるお方であり、
私たち助けて下さるお方であり、②
下さるお方であり、②私たちを、
私たちを、生涯、
生涯、
聖書を通して、十字架への愛とパッションのゆえに『燃やして
聖書を通して、十字架への愛とパッションのゆえに『燃やして』
燃やして』くださるお
くださるお方であることを学んだ
方であることを学んだ。
ことを学んだ。
●先週は、『疑い深かったトマス』の問題を通して「
先週は、『疑い深かったトマス』の問題を通して「復活されたイエス様」
復活されたイエス様」は、次の3つのことを大切
は、次の3つのことを大切
なこととして弟子たちに教えられたことを学んだ
なこととして弟子たちに教えられたことを学んだ。第一は、
ことを学んだ。第一は、一人で生きるクリスチャンではなく、信
。第一は、一人で生きるクリスチャンではなく、信
仰の仲間と共に生きるクリスチャンであること、第二は、
仰の仲間と共に生きるクリスチャンであること、第二は、神様は決して私たち
第二は、神様は決して私たちを捨てることはない、
神様は決して私たちを捨てることはない、
むしろ、復活されたイエス様は、
むしろ、復活されたイエス様は、信仰の失敗者、信仰に懐疑的な人を
復活されたイエス様は、信仰の失敗者、信仰に懐疑的な人を、わざわざ訪ねて声をかけて
信仰の失敗者、信仰に懐疑的な人を、わざわざ訪ねて声をかけて下
、わざわざ訪ねて声をかけて下
さるほど愛していることを忘れない
さるほど愛していることを忘れないこと、
ほど愛していることを忘れないこと、第三は、
こと、第三は、たといどんなに
第三は、たといどんなに理性的に
たといどんなに理性的に信じられないことでも、
理性的に信じられないことでも、
イエス様を人生の『
イエス様を人生の『主
人生の『主』として、見えるどんな
として、見えるどんなこ
どんなこと、ものよりも、主の言葉を信じること
、ものよりも、主の言葉を信じること、即ち
よりも、主の言葉を信じること、即ち見な
、即ち見な
いで信じることの大切さである。
いで信じることの大切さである。
●さて、今日のメッセージの背景を少し説明したい。
さて、今日のメッセージの背景を少し説明したい。イエス様の復活後、弟子たちは、当初
を少し説明したい。イエス様の復活後、弟子たちは、当初エルサレム
イエス様の復活後、弟子たちは、当初エルサレム
付近にいたが、1
付近にいたが、1 週間ほどして、多くの弟子たちの出身地であり、イエス様と多くのときを過ごした
週間ほどして、多くの弟子たちの出身地であり、イエス様と多くのときを過ごした
彼らの活動の本拠地であった
彼らの活動の本拠地であったガリラヤ湖
活動の本拠地であったガリラヤ湖(
ガリラヤ湖(ここではテベリヤの湖と呼ばれている
ここではテベリヤの湖と呼ばれている)
テベリヤの湖と呼ばれている)付近に移動した。
●そこで、彼らは、イエス様が再び現れ、これからのことを説明し、導いてくださること、相談できる
こで、彼らは、イエス様が再び現れ、これからのことを説明し、導いてくださること、相談できる
ことを期待していたのであろう。
●彼らは、
彼らは、いつもイエス様が見える、触れる形でそばにいてくださった今までとは違って、新たに甦ら
いつもイエス様が見える、触れる形でそばにいてくださった今までとは違って、新たに甦ら
れたイエス様とこれからどのように生きて行くのか、分からない事、また不安が一杯であった。
●そんな矢先、食糧が無くなって来たのに気が付いたペテロが、『漁に行くぞ』とそばにいた 6 人ほど
の仲間に声をかけ、漁に出かけた。しかし、その晩は、一匹も獲れなかった。そこに一人の男が現れ、
その人の言う通りにしたら、大漁を経験し、その人がイエス様だと分かった。陸に上がると、既にイ
エス様は、朝食を準備して待っておられたという出来事である。
エス様は、朝食を準備して待っておられたという出来事である。
●イエス様は、ここでも、弟子たちが期待していた通りに、これからの弟子たちの歩みのために、大切
イエス様は、ここでも、弟子たちが期待していた通りに、これからの弟子たちの歩みのために、大切
なオブジェクトレッスンをなさったのである。
本 論
Ⅰ.第一に、ここで、復活されたイエス様は、弟子たちに、イエス様は私たちの『人間としての必要』を満たしてくだ
さるお方であることを体験実習させられた。
A.これは、弟子たちにとっては、まさに『生活が懸かった』重要な問題であった。
1.これまでは、イエス様が見える形でいつもそばにいて
1.これまでは、イエス様が見える形でいつもそばにいて食べ物を提供してくさった。
食べ物を提供してくさった。
2.あるいは、イエス様がそばにいれば、人々が食べ物を運んできてくださった。
2.あるいは、イエス様がそばにいれば、人々が食べ物を運んできてくださった。
3.でも、これか
3.でも、これからは
でも、これからは、今までとは、
らは、今までとは、違うことを
、今までとは、違うことを弟子たちは感じていた。
違うことを弟子たちは感じていた。
4.イエス様は、弟子たちに、ここで、形は違っても、これまでと同じように、生活の必要は神
様の御手によって満たされることを教えなければならなかった。
たされることを教えなければならなかった。
A.この点を進める前に、このことに関連して、一つ指摘しておきたいことがある。それは、キリスト教の歴史の
中で、クリスチャンのあるべき姿に関して、聖書的でない間違った概念が生まれてしまったことである。
1.そ
1.その誤った概念とは、精神的、霊的なことは
的なことは『聖なる世界』であるが
』であるが、
るが、物質的なこと、肉体
的なことは『
なことは『俗世界』と呼ばれ、罪と悪の温床とも言える
とも言える世界で、霊的世界より劣ってい
る。と言うものである。
2.だから、『聖人』のイメージは、
2.だから、『聖人』のイメージは、『
だから、『聖人』のイメージは、『あれが食べたい、
あれが食べたい、これが食べたい』
これが食べたい』とか、舌鼓を打って、
目の前の色々な食べ物
々な食べ物を夢中で食べる、
で食べる、グルメ好みの人よりも、食べることに
みの人よりも、食べることに極めて淡白
な人のイメージ
な人のイメージが
のイメージが浮んで来る。
んで来る。
3.或いは、お金のこともそうである。私が
のこともそうである。私がコミュニティーセンターのためのクラスの参加費を
皆の前で受け取ったり、計算したりしている姿を見て、『牧師が、皆の前でそんなことを
しない方が良い』『もっと、私は、
い』『もっと、私は、「
『もっと、私は、「お金とは関係ない」
ない」と言うような
と言うような「
ような「泰然かつ清らか
な」イメージを
な」イメージを示した方が良い』と言うようなご意見も頂いた。ここにも物の
いた。ここにも物の世界の代表
と も言え るお金 のような 俗的な ことは 、牧師が 関わる ことで はない、 と言う 雰囲気 がある。
2
4.肉体的なこととして、もう一つ
的なこととして、もう一つ『性的』な問題においても同じである。『性の
、もう一つ『性的』な問題においても同じである。『性の乱用』、即ち、
「結婚関係以外の性的関係は罪だ」と聖書は明確に告げる。しかし、この誤ったキリスト
教の考え方からすると、結婚さえも、結婚における性的関係さえも、所詮は肉体という霊
より低俗な世界の快楽だから、できれば
だから、できれば本当は
できれば本当は避ける方が良い。その方が、より
い。その方が、より高い信仰
生活の在り方であると言わんばかりに、
り方であると言わんばかりに、司祭、牧師は、結婚をしないという
をしないという考え方である。
5.これらは、皆間違っている。聖書的ではない。物の世界は、罪と悪、欲望の世界であり、霊
の世界は、より高尚な聖い世界と言う考え方、その二つの
え方、その二つの世界はいつも相い
はいつも相い対立している
と言う考えは、二元論的なギリシャ文化にあった異教的なものである。
B.むしろ、聖書は、物は、良いものであり、見えない神の栄光を、見える形で顕すために、神様が私たち人間
に下さった賜物である。言うまでもなく、人間の肉体はその一部である。その証拠を見ると・・・
1.そもそも、
1.そもそも、創世記
創世記1章が明らかにしていることは、
(1)この
(1)この世界のすべての物、その一
べての物、その一部である人間の肉体も含めて、すべては、神様が創造さ
れた物であること
(2)しかも、神様はそれらを『でも失敗だった、できそこないだった』ではなく、『よしと
2)しかも、神様はそれらを『でも失敗だった、できそこないだった』ではなく、『よしと
された・見られた』『非常に良かった』(
かった』(4, 10, 12, 18, 21, 25, 31)と言われた。
(3)即ち、神様は、物の世界を肯定しておられるのである。それは、神の作品であり、物の
創造は神様のご計画である。
2.イエス様も言われた。
2.イエス様も言われた。
(1)『人はパンだけで生きる者ではない。神の
(1)『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉による』
から出る一つ一つの言葉による』(
出る一つ一つの言葉による』(マタイ4
章4節)と。ここでイエス様は人には神の言葉である『聖書』さえあれば、『
。ここでイエス様は人には神の言葉である『聖書』さえあれば、『パン
は人には神の言葉である『聖書』さえあれば、『パン』はい
パン』はい
らないと言われたのではない
らないと言われたのではない。『パンだけでは
はない。『パンだけではダメだ』と言われたのである。即ち、人
メだ』と言われたのである。即ち、人
間には、パンも聖書も必要だと言われ、物
間には、パンも聖書も必要だと言われ、物質的必要を肯定されたのである。
されたのである。
(2)もう一つ、マタイ
2)もう一つ、マタイ6章32節で『しかし、あなたがたの天の父は、それが
は、それが(衣食住)みな、
あなたがたに必要であることを知っておられる』と言われた。ここにも、私たち人間の
物質的、肉体的必要を神様が認めておられることが記されている。
3.パウロも、『あなたがたのからだは、
ロも、『あなたがたのからだは、・・・神から受けた聖霊の宮であり』(
であり』(Ⅰコリント6
章19節)と言って、私たちの
言って、私たちの肉体を大切にするようにと、積極的、肯定的に表現している。
4.これらから言えることは、聖書は物
4.これらから言えることは、聖書は物・肉体の世界と霊の世界はどちらかが善で、他方が悪で
あるというような相
あるというような相対立・
対立・敵対し、並列する関係ではないことを教えていることである
ではないことを教えていることである。
を教えていることである。
5.むしろ、直列的に、神の見えない霊的な栄光と祝福を見える形で顕すために、物と肉体の世
界があること
があること、これが聖書のメッセージである。
こと、これが聖書のメッセージである。
6.だから、私たちは、人間として物質的な物、肉体に関するものを
るものを求めることに、少しも後め
たさを感じるべきでない。むしろ、大切なことは、このことを通して、霊的に神様の栄光
が顕されるようにと積極的に祈るべきである。
7.イエス様の例:ヨハネ 2 章 1-11 節で、水を最高級のぶどう酒に変えられたイエス様。ま
た、マタイ 11 章 18-19 節での人々のイエス様評から見て、イエス様は、禁欲的である
というより、もっと
というより、もっと自由に飲み食いしておられたことが分かる。
み食いしておられたことが分かる。
C.さて、キリスト教信仰における『物・肉体』の積極的、肯定的位置・役割・大切さが分かったところで、それが、
どのように満たされるべきかを弟子たちに実地訓練として教えられたイエス様について学びたい。
1.まずここで
1.まずここで聖書が
まずここで聖書が教えていることは、
聖書が教えていることは、私たち
教えていることは、私たち人間の
私たち人間の肉体的、物質的必要が満たされるために
は、人間の側でもするべきことがあること
るべきことがあることである
ことである。
である。
(1)聖書は、神様を信じていれば、
(1)聖書は、神様を信じていれば、祈っていれば、天から食べ物が、お金が降ってくるとは
言っていない。
(2)私たちも、動かなければならない、
(2)私たちも、動かなければならない、働かなければならないのである。パウロは言う。
『・・・』(Ⅰテサロニケ4章 11 節)、『・・・』Ⅱテサロニケ 3 章 10-
10-11 節)
(3)だからペテロは『私は漁に行く』
だからペテロは『私は漁に行く』(
ペテロは『私は漁に行く』(3 節)と言ったのである。
と言ったのである。彼も
である。彼も働こうとしたのである。
●どのような仕事をするのか? 皆それぞれ違
それぞれ違う。しかし、ペテロの
しかし、ペテロの場合、「漁」をす
ることであったように、
ることであったように、多くの
ように、多くの場合:
①自分の昔、していたこと、即ち、節理的に経験したことのあるもの、或いは、
3
②自分の得意とする分野、持って生まれた賜物に合ったものへと神様は導かれる。
ったものへと神様は導かれる。
●勿論、あのときそこにいた 7 人のうち、少なくとも、ヤコブとヨハネは、漁師であっ
たことが分かっているが、漁は得意でない人物も入っていたかもしれない。
●人生には,そう言うときもある。共にいる友人のゆえに(
人のゆえに(ここでは、ペテロのゆえに
ここでは、ペテロのゆえに)
ペテロのゆえに)暫
時的とは言え、今までしたことのない仕事につくこともある。
●いずれにせよ、物質的・肉体的必要が満たされるために私たちの
たされるために私たちのするべきことがある。
るべきことがある。
2.しか
2.しかし、それは
しかし、それは真理の一
理の一面であって、他のもう一面がある。それは神様の
がある。それは神様の側でなさることで
ある。即ち私たちの物
ある。即ち私たちの物質的・肉体的必要が満たされるために神様の
たされるために神様の働きが必要なのである。
(1)私たち人間の
(1)私たち人間の陥りやすい過ちは、今学んだ、肉体的。物質的必要が満たされるためには、
私たちが働かなければならないと言う面に捕らわれてしまい、それが
らわれてしまい、それが真理の半分である
ことを忘れ、無
ことを忘れ、無視する(頭や口では認めても、事実上の無視である)
である)ことである。
(2)残念なことは、その
なことは、その誤りに陥っている人たちの姿、また心の中は、ノン・クリスチャン
のそれと同じである。
●即ち、自分が働かなければ誰が働く、お金は天から降って来ないと心中で思っている。
●言い換えるなら、神様、神様と言っても、結局は自分がやらなきゃと、自分が全部背
負っているのである。即ち
っているのである。即ち満たしてくださる神が、ほとんど意識、体験されていない。
●そのような生き方は、いつか、挫折する。疲れ果ててしまう。
(3)それが、あの日ペテロたちが経験したこと
それが、あの日ペテロたちが経験したことであっ
、あの日ペテロたちが経験したことであった。それ
であった。それは、
た。それは、自分が、人間的にどんな
分が、人間的にどんな
に一生懸命やっても、どうにもならないことがあると言う事
やっても、どうにもならないことがあると言う事実であった。
●ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、彼らはベテランの漁
ブ、ヨハネ、彼らはベテランの漁師であった。新
であった。新米ではなかった。
●彼らの幼い時から慣れ親しんだ、漁
しんだ、漁師としても『
としても『勝手知ったる』ガリラヤ湖であった。
ったる』ガリラヤ湖であった。
●しかも、その彼らが強力して、夜から明け方と言う時間的にも漁には絶好の時に、一
晩中、漁をし続けた。にもかかわらず、一匹も取れなかったと言うのである。
●この経験は、人間の
この経験は、人間の力と努力が果たすことのできることの限界を彼らに教えた。
(4)そこに、復活のイエス様が
そこに、復活のイエス様が現れたのである
様が現れたのである。
現れたのである。そのイエス様の出現こそが、弟子たちの人
そのイエス様の出現こそが、弟子たちの人
間としての肉体的、物質的必要を満たす道を開いたのである。
(5)彼らが経験したことは、イエス様の言う通りにしたら、大漁の
彼らが経験したことは、イエス様の言う通りにしたら、大漁の収穫があったことであっ
た。即ち、彼らは、この大漁が、
た。即ち、彼らは、この大漁が、自分たちの力によるものではない。神の力、神様がさ
れたことであることを学んだのである。
(6)即ち、必要が
(6)即ち、必要が満たされるために、私たちは働かなければならない。しかし、その人間の
労働・苦労は、神様がいるときにだけ確実に実を結ぶのである。そうでなければ、一生
ぶのである。そうでなければ、一生
懸命に働いても、様々な事情・状況でその結実はあてにならない。皆無かもしれない。
(7)詩篇 127 篇の作者は、ハッキリとこのことを言っている(
リとこのことを言っている(同 1-2 節)。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは空しい。
あなたがたが、早く起きるのも、遅く休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは空しい。
(8)即ち、建築家、その元で働く労働者たち、また、城を守る見張り人の早朝から夜遅くま
で、時には夜を徹しての労力・努力も、もし神様がその背後にいて、働いてくださるの
でなければ、結局は空しいものに終わってしまう。と言うのである。
わってしまう。と言うのである。
3.イエス様は、ここでもう一つのレッスンを弟子たちに
3.イエス様は、ここでもう一つのレッスンを弟子たちに与えられた。それは、その神様の力を
引き出す、即ち、神様の力を経験する道を教えられた。
(1)第一は、自分の無力を神様の前に正直に認め、それを告白することである。
●そのことが、ヨハネ
そのことが、ヨハネ 21 章 5 節に記されている:
されている:(イエス様)
イエス様)『子どもたちよ、食べる
ものがありませんね』(
んね』(弟子たち)
弟子たち)『はい、ありません』。
ん』。
●これは、ベテランの漁師としては、プライドを傷つける言葉と事実であり、中々認め
たくない、そしてとても
たくない、そしてとても簡単には言えない言葉であった。
には言えない言葉であった。(
言えない言葉であった。(素人でも魚釣りに行って何
も釣れなかったと言えなくて、途中の魚屋で買ってごまかす人もいるくらいである)
人もいるくらいである)
●しかし、もし復活された主による新しい力を経験しようとするなら、自分の無力さを
ハッキリと神様の前に認め、『私の力ではできません』と告白することである。
4
●なぜ、私たちは神様の力を経験できないか? それは、口では神様の助けが必要だと
言っても、心の奥底では、自分の力でできると思っているからである。
●しかし、本当に神様の力を経験して生きてきた証人は言う。
—パウロは言う:
は言う:Ⅱコリント 12 章 『私は弱い時にこそ、強い。神の
い。神の力は私たちの
弱さに顕される』と。
—ジム・シンバラ(ブルックリン・タバナクル教会の牧師:つぶれそうで、閉鎖寸前だ
った同教会を、麻薬常用
麻薬常用者、売春婦たちの人生が次々と変わる教会、数千人の人々
が集まる教会に変えた)
えた)は言う:『神は、弱さを認める人に不思議なように引き付
けられるお方』
(2)もう一つは、
(2)もう一つは、イエス様の言われた通りにすること、即ちイエス様と聖書への服従である。
●彼らが大漁を経験したのは岸辺に立っていた人物の言葉の通りに従ったからであった。
●勿論、最初彼らは、その人物がイエス様であることを
初彼らは、その人物がイエス様であることを意識していなかった。しかし、
していなかった。しかし、
その通りにしたとき、彼らは、『イエス様の言う通りにする』ことが祝福の道である
ことを体験的に学んだのである。
●大漁を経験する前、彼らにとって、イエス様の言われたとおりにすることは、
①漁師の常識と経験から言って、無駄なこと、間違いであることは明らかであった。
②自分たちの能力と努力を馬鹿にする、プライドを傷つけるものであった。
つけるものであった。
●しかし、彼らは、それらの不
しかし、彼らは、それらの不服従への理由・言い訳を乗り越えて、イエス様の言われ
えて、イエス様の言われ
た通りにしたのである。そして、
通りにしたのである。そして、そのとき、
そして、そのとき、祝福を経験したのである。
4.この
4.このポイント、即ち『
イント、即ち『復活されたイエス様は、弟子たちの人間としての肉体的、物質的必要
を必ずケアーし、満たしてくださる』という
たしてくださる』というポイントを締め括るに当たり、もう一
るに当たり、もう一つ
、もう一つ興味
深いレッスンを短く付け加えて、今日のメッセージを
えて、今日のメッセージを閉じたい。
たい。
Ⅱ.それは、『使命に生き、使命を果すクリスチャン』と『一人のクリスチャンとして普通に生きるクリスチャン』とは、
同じであると言うメッセージである。
A,そもそも、弟子たちの使命は何であったか?
1.イエス様は、
1.イエス様は、かつて、
イエス様は、かつて、その多くが漁
かつて、その多くが漁師であった弟子たちに言われた。『あなたがたを、魚で
はなく、人間を獲る漁師にします』(マタイ 4 章 19 節、ルカ 5 章 10 節)と。
2.勿論、『人間を獲る』とは
『人間を獲る』とは言うまでもなく、比ゆ的な表現である。
(1)即ち、弟子たちの
(1)即ち、弟子たちの使命とは、人々を
とは、人々をキリストに捕らえる『伝道』である。
(2)人々に
(2)人々にキリストのことを伝え。キリストの弟子となるように導き、捕らえることである。
3.そして、これは取りも直さず、私たちの使命でもある。信
でもある。信徒、牧師にかかわらず、私たちは
にかかわらず、私たちは
みな、『
みな、『御子が私たちに
、『御子が私たちに永遠の命を与えるために、
えるために、死んで甦られた』
んで甦られた』という GOOD
NEWS をすべての人に伝える使命がある。
B.今日学んだ、弟子たちの経験で、興味深いことは、
1.弟子たちは、あの日、その日食べる物
1.弟子たちは、あの日、その日食べる物、
弟子たちは、あの日、その日食べる物、言い換えるなら、『日
えるなら、『日用の糧』『
の糧』『毎日の必要』を求
めて漁に行ったのである
めて漁に行ったのである。
のである。それなら
それなら 10-
10-20 匹の魚の収獲で十分であったであろう。
2.しかし、実際には、それを遥かに超えた、奇跡的な大漁を神様は彼らに
的な大漁を神様は彼らに与えられた。
えられた。
『153 匹』の、
』の、しかも一匹一匹が
しかも一匹一匹が『大きな
一匹一匹が『大きな魚』で、網を引き揚げられないほどであった。
3.更に面白いことは、弟子たちが陸に上がって来た
いことは、弟子たちが陸に上がって来た時に発見したことは、イエス様は、その一
見したことは、イエス様は、その一
部を数匹は食べるために持ってきなさいとは言われたが、
ってきなさいとは言われたが、基本的には、それらの 153 匹と
は別に、初めから
に、初めから弟子たち
初めから弟子たちの朝食
弟子たちの朝食用に炭火で焼いた魚とパンを準備しておられたのである
とパンを準備しておられたのである。
のである。
4.ここで、この出来事全体を比ゆ的に味わうと、私たちは次のことを学ぶことができる。
わうと、私たちは次のことを学ぶことができる。
(1)1
(1)153 匹の大漁は、弟子
匹の大漁は、弟子たちの
弟子たちの、
たちの、日用の糧、日用の必要の為に与えられるものを
えられるものを表徴して
いるのではない。
いるのではない。
●自分たちの必要の為だけなら、そんなにいらない。せいぜい数十匹で十分である。
●第一彼らの必要のためには、イエス様は、ちゃんと別に炭火の上に備えておられた。
(2)ゆえに
(2)ゆえに 153 匹の大漁は、むしろ、
匹の大漁は、むしろ、『
大漁は、むしろ、『人間を獲る漁師』としての弟子たちに与えられた
伝道の実、伝道の結果を表徴している。しかし、ある人は言うであろう。
している。しかし、ある人は言うであろう。
(3)『彼らは伝道していた訳ではない。単に生活の必要のために漁をしていただけだ』と。
5
●そこがポイントである。自分の必要のため、自分のするべき普通の仕事をして生きて
いる、その生きざま
いる、その生きざま自体を通して、私たちは伝道できるのである。生活伝道である。
●そして、自分の人間としての必要を満たすために働く、生活のど真ん中で、私たちが
神の前に忠実に誠実に、そして、神様を信頼し、服従して生きるなら、キリストと共
に生きることの証人として、それ自体が伝道となり、使命の遂行になるのである。
●その結果、153 匹にも匹敵する数の、教会に来る人、信仰に入る人が起こるのであ
る。
●また、使命に忠実に生きるなら、日用の糧も必ずイエス様によって、あの炭火の上の
パンと魚のように与えられるのである。
●これが、『クリスチャンが一人の人間として神の前に普通の人生を生きることと、キ
リストの証人として伝道の使命を果たして、多くの人々をキリストの元に導く人生と
は同じである』と言う意味である。
結 論
●私たちクリスチャン
私たちクリスチャンすべての使命は、この弟子たちと同様に、『人間を獲る漁師となる』こと、
となる』こと、人々
る』こと、人々
に『伝道』することである。
●しかし、それは、決して、
しかし、それは、決して、専門の伝道者、牧師、宣教師になることを意味しない。
●むしろ、生活
むしろ、生活伝道である。人間としての生活の必要の
である。人間としての生活の必要のために
必要のために自分のするべき仕事を忠実に、また懸命
にする中で、決して自分の力に依り頼まない。むしろ、
まない。むしろ、自分の無力さを神様の前に謙虚に認め、復活
め、復活
された主
された主の力を信じて生きる生き様を
信じて生きる生き様を示すことが伝道である。
●なぜなら、そこに私たちは、今も生きておられる復活されたイエス様を体験し、また証人として指さ
すことができるからである。
●あの朝、弟子たちは、そこに復活の主がいたのに、
あの朝、弟子たちは、そこに復活の主がいたのに、中々それがイエス様であることに気が付かなった。
私たちも生活の中にいつの間にか現れているイエス様を見逃すことが、また、
ことが、また、その声を
また、その声を聞き逃すこと
がないようにしたい。イエス様を
がないようにしたい。イエス様を生活の
イエス様を生活の中で、認め、信じ、従がって、多くの伝道の実を生活の中で
結びたい。