清正公下水道 -遺構保存と持続可能な下水道経営-

土木技術資料 54-12(2012)
現地レポート:下水道技術が支える市民生活
清正公下水道
-遺構保存と持続可能な下水道経営-
宮原國臣 *
1.はじめに 1 2
2.熊本市の下水道
熊本市は、平成20年10月 に下益城郡富合町と、
明 治 45年 、 第 3代 辛 島 格 市 長 の 「 都 市 衛 生 向 上
平 成 22年 3月 に 下 益 城 郡 城 南 町 、 鹿 本 郡 植 木 町 と
に は 上 水道 ・ 下水 道 いずれ を 先 に実 施 すべ き か」
合 併 し 、 人 口 約 73万 人 、 行 政 区 域 面 積 約 390平 方
と の 諮 問に 対 し、 市 議会は 大 議 論を 経 て「 収 入の
キ ロ メー トル の「 新 熊本市 」 とし て生 まれ 変 わり、
伴 う 上 水道 の 先行 を 可とす る 」 旨答 申 した た め下
平成24年4月には、全国で20番目、九州で3番目と
水 道 の 重要 性 は認 識 されつ つ も 上水 道 の整 備 を 先
な る 政 令指 定 都市 と して新 た な スタ ー トを 切 った
行することとなった。その後、大正13年から15年
ところである。
に か け ての 腸 チフ ス の大流 行 は 、改 め て下 水 道の
市内には、日本三名城のひとつである熊本城や
必 要 性 の 認 識 を 高 め る こ と と な り 、 昭 和 2年 九 州
肥後細川藩綱利公が造られた水前寺成趣園、西南
帝 国 大 学教 授 、西 田 精博士 の 指 導に よ り当 時 とし
の役最大の激戦地である田原坂の頂上にある田原
て は か なり 精 度の 高 い「熊 本 市 改良 下 水道 計 画」
坂公園などの歴史遺産・文化遺産、そして土木遺
が 策 定 され た 。し か しなが ら 、 これ も 主に 経 済的
産が数多く存在している。
理由により実現に至らなかった。
本市では、これらの貴重な歴史遺産・文化遺産、
第 二次世界 大戦後 の昭和23年 、戦 災復興 事業 の
土木遺産を保存しながら有効に活用する取り組み
一 環 と して 戦 火に 見 舞われ た 中 心市 街 地な ど を対
を続けている。
象 に 面 積 278ha、 計 画 人 口 48,000余 人 で 下 水 道 事
本報告では、その中の一つとして清正公が築
造したと伝えられている水路の保全と利用につい
業が スタートし ている。昭和 30年代 には浸水排 除
を主眼とした本格的な整備に移行し、さらに公共
て報告する。
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熊本城
Sewer was built by Lord of Kiyomasa Kato.
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土木技術資料 54-12(2012)
用水域の水質保全が問われる中、昭和51年それま
で の 合 流式 下 水道 か ら分流 式 で の整 備 に転 換 し、
以来都市の発展と共に計画区域を随時拡大してき
てい る。その結 果、平成23年 度末に は下水道普 及
率が86.2%となった。
3.加藤清正公のまちづくり
熊 本 県 内 に は、 北 か ら菊池 川 、 白 川 、緑 川 など
の大河川が東から西に流れており広大な沖積平野
を 形 成し てい る。 こ の地域 は 、太 古よ り、 温 暖で、
水 に 恵 まれ 水 稲栽 培 に適し た 豊 かな 地 域で 、 この
生 産 力 を背 景 に地 域 ごとに 幾 多 の豪 族 が覇 権 を唱
え て い た。 一 方で 、 この自 然 の 恵み は 、洪 水 と裏
腹 の 関 係が あ り、 流 域の住 民 は 幾度 と なく 甚 大な
被 害 を 蒙っ て きた が 、多く の 実 力者 が 流域 内 で群
雄 割 拠 して い る状 況 では、 こ れ らの 大 河川 の 総合
的な治水対策は望むべくもなかった。
し か し 、 虎 退治 の 逸 話が語 り 継 が れ る清 正 公の
入 国 に より 群 雄割 拠 状態は 解 消 し、 流 域単 位 の治
水 ・ 利 水対 策 が講 じ られる よ う にな り 、熊 本 は更
に 豊 か な国 に 発展 し ていっ た 。 清正 公 は、 領 地全
図-1
熊本市中心部
体 を 俯 瞰し 大 規模 な 治水・ 利 水 対策 や 街道 整 備に
取 り 組 むと と もに 増 加する 家 臣 団や 領 民の た めに
新たな城下町の造成にも取り組んだ。
い わ ゆ る 町 割り の 中 で清正 公 は 防 衛 線な ら びに
舟 運 水 路と し て活 用 を図る た め に熊 本 城周 辺 の河
川 整 備 や城 下 町の 排 水のた め の 水路 整 備を 計 画的
に 実 施 して お りそ の 一部が 当 時 のま ま 残さ れ 活用
さ れ て いる 。 ここ で は、熊 本 城 の東 側 の低 地 を開
削 し て 整備 し た人 工 河川と 市 街 地に 残 され て いる
石造水路の歴史について紹介する。
ま ず 、 内堀 と して の 人工河 川 で ある が 、こ れ は、
写真-1
下水道幹線上の生活道路
開 削 当 時、 坪 井川 と 呼ばれ て い たが 、 その 後 、東
側 に 新し い大 断面 積 の新河 川 を整 備し たこ と から、
新 河 川 を坪 井 川、 そ れまで の 坪 井川 を 旧坪 井 川と
称 す る よう に なっ た 。現在 は 、 この 旧 坪井 川 を、
坪 井 川 雨 水 7号 幹 線 と し て 熊 本 市 上 下 水 道 局 が 管
理している。(図-1)分水堰より上流部は、覆蓋さ
れ 生 活 道 路 ( 写 真 -1) と し て 活 用 さ れ て お り 、 下
流部はオープン水路(写真-2)となっている。
写真-2
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幹線の下流
土木技術資料 54-12(2012)
図 -2は、 1674年 以 前と 推定 され ている 熊本市 内
こ の 地 域 は 、現 在 で も浸水 し や す い 地域 で 、旧
の 絵 図 面で 、 当時 の 水路が 、 現 在の 雨 水幹 線 とほ
坪 井 川 は、 清 正公 の 時代に お い ても 地 域の 最 も低
ぼ同じ線形であることがご理解頂けるかと思う。
い 位 置 を流 下 して い たと思 わ れ 、必 然 的に 住 民の
生 活 に 伴う 雑 排水 の 排水路 と し ても 機 能し て いた
と考えられる。
現 在 は 、 雨 水排 除 が 主な機 能 で あ る が、 一 部、
汚 水 排 除の 機 能も 有 してお り 覆 蓋の 終 了す る 地点
付 近 に 、 分 水 堰 ( 写 真 -3) を 設 け 晴 天 時 に は 、 汚
水 の み を処 理 場ま で 流下さ せ 、 雨天 時 には 、 雨水
を坪井川に流下させる機能を持たせている。
写 真 -4は 、 雨 水 幹 線 の 内 部 の 状 況 で あ る が 、 水
路 側 面 の石 積 みが 清 正公時 代 の 構造 物 だと 考 えら
れている。
こ こ に も 、 遺構 水 路 の効率 的 な 活 用 のた め の工
夫が施されている。
本 水 路 は 、 前述 の よ う晴天 時 に は 、 汚水 の みが
流 下 し てい る が、 汚 水中の 固 形 物が 堆 積し な いよ
うに水路中央部にインバートを設けている。
図-2
肥後国熊本城廻之絵図
写真-4
写真-3
雨水幹線の内部
分水堰
現 在 の 旧 坪 井川 は 、 下水道 施 設 と し て 認 可 を受
け 活 用 さ れ て い る が 、 400年 前 に 築 造 さ れ た ま ま
で は な く、 よ り効 率 的に活 用 で きる よ うに 工 夫が
施されている。
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写真-5
排水路遺構
土木技術資料 54-12(2012)
4.まとめ
熊 本 市 の 下 水 道 に は 、 60 年 間 の 近 代 下 水 道 ス
ト ッ クと 戦国 時代 か らのス ト ック が混 在し て いる。
ス ト ッ ク マ ネ ジ メ ン ト の 観 点 か ら 、 400年 前 の 施
設 を 活 用す る こと は 、超長 寿 命 化対 策 と位 置 付け
る こ と が出 来 、今 後 も大事 に 活 用し て いき た いと
考 え て いる 。 また 、 単に遺 構 を 活用 す るだ け では
な く 、 現代 の 社会 的 にニー ズ に あっ た 工夫 を 施す
こ と に よっ て より 効 率的に 活 用 でき る もの と 考え
ている。
単純な改築修繕ではなく、今後とも最新のス
写真-6
ト ッ ク マネ ジ メン ト 技術の 導 入 を図 り なが ら 歴史
改修後の排水路
的 な 遺 構を 保 存し つ つ持続 可 能 な下 水 道経 営 を成
こ の よ う な 清正 公 時 代の遺 構 が 見 つ かっ た 経緯
り立たせたい。
で あ る が、 熊 本市 の 都市化 に 伴 い開 水 路だ っ た 水
路 が 覆 蓋さ れ 、都 市 内道路 が 建 設さ れ る。 都 市の
発 展 と もに 交 通量 が 増加、 特 に 重車 両 の交 通 量が
増 え る こと に よっ て 既存水 路 が 損傷 し 、覆 蓋 部分
や 舗 装 面に 陥 没が 発 生し、 そ の 補修 工 事に 伴 い発
見 さ れ るケ ー スが 多 い。補 修 工 事は 、 中心 市 街地
で あ る こと か ら、 道 路を開 削 す るの で はな く 、 既
宮原國臣*
存 水 路 の内 面 に新 た に下水 道 管 渠 を 構 築す る 非開
削 工 法 が採 用 され る ケース が 多 く、 遺 構は 、 地中
に保存されるものの人目には触れなくなる(写真 5、写真-6)。
市 内 に は こ のよ う な 清正公 時 代 の 石 造水 路 を 現
役 の 下 水道 管 渠と し て活用 し て いる ケ ース が 多数
存在しているものと思われる。現在、管渠のス
ト ッ ク マネ ジ メン ト 計画を 策 定 する た め に 管 渠の
診 断 調 査を 実 施し て いると こ ろ であ る が、 調 査の
進 展 と とも に 今後 、 数多く の 清 正公 下 水道 が 確認
されるものと考えている。
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熊本市上下水道局
事業管理者
Kuniomi MIYAHARA