高齢者の慢性疼痛をめぐる課題

高齢者の慢性疼痛をめぐる課題
公益財団法人長寿科学振興財団 理事長
名古屋大学 名誉教授
祖父江 逸郎
わが国では、少子高齢化がすさまじい勢い
いストレスフルな社会に変貌した。このような深
で進行、人口構成に大きな影響を来たし生産
刻な状況下にあり、高齢者は今や、医療、介護、
人口が著しく減少すると共に、高齢者人口は増
経済、孤独などの3Kで代表される不安を抱え
加が目立ち、人口の質的変革が表面化、国の
ながら生きがいを喪失、超長寿社会をどのよう
土台を揺るがすような特異なひびが入ろうとし
にして乗り切っていくのか、暗澹たる思いで毎
ている。また、先の大戦から70 年が過ぎ、様々
日を過ごしているのが現状である。国では、地
な制度やこれまでに培ってきたわが国特有の伝
域支援対策として様々なテーマを掲げ、対応を
統的文化にも大きな変革があらわれ、日常生活
急いでいるが、住民各人の目には、未だはっき
様式の様変わりも著しい。多様で多分に美的
りと見えてくるような効果に乏しく、その成果が
感覚を備えた豊かで心温まる生活様式は色褪
現われるのはまだある期間が必要かと思われ
せ、見る影もなく崩壊の一途をたどりつつある。
る。
一方では、先端技術化、情報化、スピード化な
このような社会状況も影響してか、慢性疼痛
ど新しい文明のツールがふんだんに取り入れら
は国全体に広く蔓延しており、高齢者層にとっ
れ、経済原理主義に根ざした功利社会の出現
ても様々な意味で大きな関わりを持つ課題であ
により、日常の生活様式はがらりと一変、画一
る。高齢者では、身体各部位の慢性疼痛が問
的なものに支配された全く味気がなく、ゆとり
題であるが、ことに腰痛、四肢痛などで代表さ
のみられない様相を呈するに到った。高齢者に
れる骨、関節、神経、筋、血管系など各種組
とっては様々の点でバリアーに充ちた住みにく
織の器質的、機能的障害に伴ってあらわれる
プロフィール
Itsuro Sobue
最終学歴 1943 年 名古屋帝国大学医学部卒 主な職歴 1945 年 海軍軍医大尉 1954 年 米国南カリフォルニア大学留学神経
学専攻 1975 年 名古屋 大学教 授医学部内科学教 授 1976 年 名古屋 大学医学部付属病院 長 1978 年 名古屋 大学医学部長 1980 年 名古屋大学医学部付属病院長 1984 年 名古屋大学名誉教授、国立療養所中部病院(現:国立長寿医療研究センター)院
長 1991年 愛知医科大学学長 2011年 公益財団法人長寿科学振興財団理事長 現在に至る
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高齢者の慢性疼痛をめぐる課題
慢性疼痛に悩まされており、その患者数は莫大
感情としての疼痛のもつ意味内容は千差万別
である。これらの器質的、機能的障害による
で一概にひとまとめにすることはできない。原
慢性疼痛は一方ではさらに心理的不安を引きお
始的な意味内容では刑罰とか、苦しみを与える
こし疼痛をさらに助長すると共に、病勢の進展
とか、痛みを経験することで罪滅ぼしをすると
による二足直立歩行が脅かされ自立障害へと
か、実に様々な場合がある。疼痛を経験する
進み、要介護、さらにはフレイル状態から寝た
ことで、死亡した親しい人の疼痛を自分の中に
きりに追い込まれるといったイメージ転換に悩
入れ、同じように感ずるといったような内容の
まされている。現実にそうした方向への歯車は
症例も存在する。出産した乳児の兎唇の手術
すでに回転しており、罹患者は膨大な数に達し、
に際し、母親が乳児の手術部位と同一部位即
大きな社会問題化しつつある。何んとか歯止め
ち唇の一部に疼痛を感ずるといった例が見られ
をかけ、阻止しなければならないといった心的
る。こうした症例では、疼痛を実際に感じてい
欲求は益々強烈となり、各種医療機関を毎日の
る部位即ち唇には何らの器質的障害もないの
如く訪れ、結果、服薬過多となり、消化器障
に、乳児の手術をイメージし、さぞかし痛いで
害をはじめ種々の身体不調を生ずる要因につな
あろうと想定する精神心理的側面が働き、自分
がっている。したがって、ADL、QOL は益々
の唇に疼痛が固定してしまう。感情としての痛
低下、日常生活での明るさは失われ、周辺へ
みカテゴリーに入るものといえよう。
の影響は増大、遂には家族崩壊を来たす要因
にもなりかねない。
このようなタイプのいわゆる心因性疼痛に
ついて多数症例を分析したことがある1、2、3)
。
さて、痛みには感覚としての痛みと感情とし
1962 年〜 1967年までの153 症例(同時期中の
ての痛みといった二面性があり、痛みそのもの
心 身症は1900 例で 8.0%に当る)
。1968 年〜
に内在する心理的、情緒的側面を見逃しては
1972 年までの 90 例(同期間中の心身症例は
ならない。何らかの器質的障害で発現してい
1050 例で 8.5%)
、全体として 243 例について分
る疼痛に対しても精神心理的因子の附加で内
析した結果、痛み部位は全身にわたっており、
容が著しく修飾されることはよく知られている。
1カ所のことが多いが、同時に他部位に疼痛を
戦場での銃弾による負傷の痛みが、実戦従事
訴える症例もあり、全身、半身といったものも
中はそれ程感じないが、治療所に収容され負
ある。特異な部位としては、顔、眼、耳、乳
傷状況を実際直視し、確認した途端、急に強
房、陰部、尾骶骨などであった。疼痛の表現は、
い疼痛に襲われるなどの実例は戦場ではかなり
じくじく、ちくちく、きゃっとする、しめつける、
経験されている。
ずきずき、
だる痛みなど様々である。期間は 6 ヶ
また、日常病床で器質的障害に伴う疼痛に
月以上が 70.1%で大半、長期にわたり慢性化す
ついても、局所で絡み合っている多彩な疼痛発
る傾向がある。微熱、めまい、心悸亢進、性
現要因に、さらに精神心理的附加などが重な
欲低下、咽頭異常感、頭痛、胸部圧迫感、胃
ることで疼痛が慢性化することがある。また、
腸障害などが随伴していた。こうした随伴症状
器質的障害がはっきりしないのに、精神心理的
は心身症ではよくみられるものである。精神心
因子の働き方次第で発現する慢性疼痛も実際
理的背景としては、転換ヒステリーが最も多く、
の臨床では経験される。
心気症、神経症、うつ状態、不安などが認め
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高齢者の慢性疼痛をめぐる課題
られた。この調査研究では年齢的には若年層
伝達告知されるような仕掛を備えている。その
が多かったが、その後高齢化が進み、現在の
ため、痛覚では、感覚としての痛みと感情とし
ような長寿社会では高齢者は様々な精神心理
ての痛みとの二要素があり、ことに感情的な痛
的不安を抱え、社会機構にも様々な病理状態
みの受容と伝達は、他の各種感覚にくらべ、よ
が発現しており、高齢者は多彩なストレスフル
り精度が高く、より敏感に情緒的感情が伴うよ
な環境に晒され、様々の病状が出現、医療機
う仕組まれているように思われる。疼痛には、
関に通うのが日課となり、様々の薬物を服用、
様々な情緒感覚を伴うことが知られており、こ
その結果さらに次々に別の症状に悩まされ、負
れらの感情的痛みは、感覚的痛みの表現をより
のサイクルが形成されている。最近の高齢社会
強度にし、個体に傷害部位の存在を強調、シ
では、腰痛をはじめとする身体各部位での骨、
グナルとしての役割を果たす意味に一役を担っ
関節、神経、筋、血行障害などに基く慢性疼
ているのではないかと考えられる。
痛が著増しているが、一方では、ここであげた
痛み刺激を皮膚上の一点に与えると痛覚を感
ような感情としての疼痛も増加していると思わ
じ、その強度、内容を識別するが、それと共
れる。
に様々な内容の情緒的感覚が同時に刺激され
これらの慢性疼痛は高齢者の行動を著しく
受容される。通常これらの感覚は痛み内容とし
阻害する要因となっており、閉じこもり、フレイ
て第一痛、第二痛として区別される。このこと
ルへと追い込むことになりかねない。戦後 70
で、傷害損傷の存在が明確にシグナル化され、
年の現在、大きな社会変革の中で、ことに家
個体に問題のありかを一早く認知させる役割と
族構成の変化、核家族化、家族同志の心の触
意味を有すると思われる。刺激の種類や大きさ、
れ合いの稀薄化などにより高齢者の拠り処、居
強度など様々な条件により、これら二種類の
場所の喪失といった現象が発生。家族とのコ
痛み受容の成立のあり方に差異が生ずる。した
ミュニケーションの絶たれたいわゆる高齢者難
がって、痛み内容も様々になり、持続や程度差
民とでもいえる情況が醸し出されていることを
などが生じる。感覚としての痛みと、感情とし
直視せざるを得ない。こうした難民とでも言え
ての痛みとのバランス、両者の割合などで、発
る高齢者の一部には、感情としての疼痛を身体
現する痛み内容は様々である。実際には、痛
の一部に訴え続け、何がしかの医療、介護施
みを受容する個体側の条件、ことに大脳内で
設に身を委ねることで、心、気持ちの安定を辛
の情緒反応を生ずる場のあり方次第で、どのよ
うじて保っているといった事象が発生している。
うにも修飾される可能性がある。先にあげた戦
こうした症例の示す慢性疼痛は改善の兆を示す
場での痛み発現例のように、身体障害はかなり
ことなく、延々と固定し続けるであろう。社会
大きいにも拘らず、殆んど痛みを伴うことなく、
病理に基いた疼痛の一表現型とでも言える現象
感情としての痛みが極度に抑制されている。
ではなかろうか。
日常の症例では、上記の病例とは180 度異な
痛覚は生体のもつ基本的感覚の1つで日常生
り、感情としての痛みが前提にあらわれている
活を遂行する上で、生体にとり傷害箇所を知ら
ことがある。感覚としての痛み、感情としての
せる警報(シグナル)的な意義をもつ重要なも
痛みの両者のバランス割合により、多彩な痛み
のである。その役割が迅速且つ正確に生体に
の様相が生じると考えられる。
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高齢者の慢性疼痛をめぐる課題
わが国では、超高齢社会の出現に伴い、こ
れまでわが国伝統の家族構造の崩壊が出現、
コミュニティ社会に大きなひびが入り、様々の
形の病的社会が発生、今後下流高齢者の多発、
身寄りのない、根なし草とでもいえる高齢者層
が顕著となる事が予想されている。高齢者をと
りまく日常生活は大きく様変わりし、それに伴
ない感覚としての痛み、感情としての痛みバラ
ンスは大きく崩れ、感情としての痛み感覚が支
配的となる事が予想される。その結果、食欲
低下、引きこもり、意欲減退など様々な負の状
況が次々に出現、フレイルから寝たきり、認知
症などに転落した高齢者の多発といった前代未
聞の由々しき社会が目前に迫っている。こうし
た過程の中で、慢性疼痛はゆるがせに出来な
い大きな要因となっていることを強調しておきた
い。その対策が急がれる。
文 献
1)祖父江逸郎,安藤一也,河野慶三:心因
性痛みの臨床形態とその分析.精身医 12(6)
:
403−408,1972.
2)Walters A. : Psychogenic regional pain
alias hysterical pain. Brain 84: 1, 1961.
3)Huger R.A. : Fear, guilt, anxiety and
depression in the painful man. Arizona
Med. 26: 1030, 1969.
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