ヨーロッパ大学史におけるタルト大学の位置と役割 セルゲイ・イサコlフ 橋本伸也・訳 現在、世界には多数の大学がある。これらの大学はきわめて多様であって、二1三万名もの学生が学ぶ巨大大学も あれば、学生数わずか数百名という小規模なものもある。まず第一に、地域に﹁奉仕﹂する大学もあれば、世界中か ら学生を引きつけている大学もある。古くからの学問的伝統をもった由緒ある名だたる大学もあれば、あまり知られ ていなくて、何らかの伝統の形成に未だ成功していない若い大学もある。 大半の大学は独自の特徴をもっている。この点では、大学は人間と似ている。それぞれに自分の顔があるのである。 そして、その相貌がことのほかくっきりとしていてユニークであり、他の大学とそれほど似たところもなく、まさに そのことで耳目を集める大学も存在する。私が卒業し、そして働いている大学であるタルト大学︵元ドルパト大学、 ユリエフ大学︶はまさにそうした例だと私は思う。 一点ばかり、ことのついでに指摘しておこう。エストニアでは、ほとんどすべての地理上の名称、特に都市名には 三つ︵場合によっては四つも︶の異名がある。エストニア語、ドイツ語、ロシア語である。例えば、タルト︵これは エストニア語の呼称︶はドイツ語では、ドルパトとなり、ロシア語ではデルプト︵ドイツ語のドルパトに由来する︶な いしユリエフ︵いにしえのルl シの都市名︶である。タルト大学、ドルパト大学︵あるいはデルプト大学︶、ユリエ フ大学といくつもの大学の呼称があるのはこのためである。どの呼称を使用するかは、地域の権力を有する地位に誰 がついているかで決まることがほとんどだった。 タルト大学の独自性の根っこは過去、つまりその歴史の中にある。この大学は、実にふつうの﹁子ども﹂ではない。 誕生日を複数もち、一度ならず名前と教授言語を変えてきたのである。 ここで、大学の創立記念日の変転ぶりについて思い起こさずにはおれない。私が学生であった一九五二年には、大 学一五O周年記念がおごそかに語られた。一九八二年、このときすでに私は教授になっていたのだが、これに劣らず おごそかに三五O周年が語られた︵ということは私は、聖書に出てくるメトセラ[訳注・旧約聖書で九六九年生きた とされる︺なみに、二OO年以上生きたことになる︶。一九八九年に私は、実際はずっと控えめであったとはいえ、 138- ー − 大学七O周年を祝った。ここでもまたもや、その瞬間に最高権力が何を強調しているのか、このことによって多くが 決められた。 だが、いずれにせよ、タルト大学を性格づけ、最終的にはその歴史と化した多くの特徴は、それでもなお何か独自 の、独特の異彩を放つものを生み出していて、それは今も大学の外貌に現れている。人間がその足跡を残さずに消え さることがないのと同様、過去が跡形なく消えてしまうことは決してありえないだろう。およそいつであれ、過去か らはなにかが生活の中に残されて、後続世代がすでに別世界に旅立ったときでさえ、彼らのなかに息づいているもの なのだ。 ヨーロッパ大学史全般について二三円三言。このタイプの学問的な高等教育機関がヨーロッパに登場したのは一一 世紀から一三世紀のことである。それを特徴づけるのは﹁多機能性﹂であって、一つ屋根の下で行われる多くの専門 や多くの学向上のディシプリンの講義、学位︵パカラリウス、マギストル、リツエンツィア、ドクトル︶授与権、そ して権力からの相対的独立と学問の自由、一定の自治である。大学が最初に登場したのは、経済的・社会的・文化的 北イタリア、フランス、イギリス、スペインーーであった。最古と考えられている にもっとも発展した西欧諸国 lll のはボロ l ニヤ︵イタリア︶、ケンブリッジ︵イギリス︶、パリ︵ソルボンヌ、フランス︶、サラマンカ︵スペイン︶ といった大学である。一四世紀になると、中央ヨーロッパ諸国︵今日ではその一部は東ヨーロッパに当たる︶にも生 まれていて、二二四八年にはプラハ︵今日のチェコ︶、一三六四年にはクラコフ︵ポーランド︶、一三六五年にはウィー ン︵オーストリア︶に大学が作られている。一五世紀には、バルト海地域にも大学が登場する︵北ドイツ、ロストク の大学︶。現在の﹁プリパルテイカ﹂リバルト海沿岸地域は当時のヨーロッパ的文化世界のもっとも東方の辺境に当 たるが、ここでは大学創設のための土壌はいまだ整っていなかった。 ここで私は、またもや日本人聴講者向けに少しばかり説明しておかなくてはならない。﹁プリパルティカ﹂ Hバル ト海沿岸地域︵バルト諸国︶という概念は﹁バルト海諸国﹂という概念とは一致しておらず、歴史的に変化してきた 一 139一 ものである。今日、﹁プリパルティカ﹂という概念が含むのはエストニア、ラトヴィア、リトアニアであるが、 一九一八年まではこれを構成するのはエストニア、ラトヴィアだけであった。これは歴史的にはリヴォニアと言い、 後に、帝国のオストゼ l諸県︵つまり、バルト海を指すドイツ語の﹁オストゼl﹂に由来する︶としてロシア帝国に 併合された地域である。リトアニアの歴史的発展は、ラトヴィァ、エストニアの歴史的発展とはまったく異なる道を たどった。リトアニアはつねにポーランド、カトリックともっとも緊密な関係にあり、中央ヨーロッパ文化圏に入っ ていたのである。しかるに、エストニア・ラトヴィアはドイツやドイツ人、プロテスタンテイズムと歴史的つながり を持ち、北欧文化圏に入っていた。 さて、大学が、宗教的教説とならんで、その時代にもっとも行き渡った文化類型である学問の水準を反映するのは、 当然のことである。一五1 一六世紀のヨーロッパ大学にはルネサンス的な人文主義思想がかなりの影響を及ぼしてい た。それは、大学の教育課程中に人文的学芸を設けるよう促すものであった。一六世紀から一七世紀の大学生活に多 大の影響力を有したのは宗教改革であり、それに続く対抗宗教改革、カトリックとプロテスタントとの闘争であった。 カトリックとプロテスタントへの大学の分裂が始まった。 だが、プリパルティカに戻ることとしよう。一七世紀前半になってやっとここでも、大学開設を可能とし、それど ころか好適な歴史的条件が整った。一七世紀初頭、多年にわたる血で血を洗う戦争の結果、リヴオニア||当時、プ リパルティカはこう呼ばれた1lの大半はスウェーデン王国の一部となった。当時のスウェーデンは北欧の大国の一 つであり、カトリックとの闘争のなかではプロテスタントの庇護者であった。スウェーデンの権力者たちは、最近獲 得した地域の教育発展や、権力者のめざす政治を実行してプロテスタンテイズム︵正確には、その一流派であるルタl 派︶の原理を定着させるのに必要な能力を有した役人や牧師の養成に関心を抱いていた。一六三二年、スウェーデン 国王グスタフ二世アドルフはドルパト︵タルト︶ギムナジウムを大学に改組する勅書に署名した。リヴオニア領内で 最初のこの新しい高等教育機関は二ハ三二年一 O月一五日に開設され、その創設者を頒えて、アカデミア・グスタヴイ 一 140 アナという名称を得た。 この新大学は当時のヨーロッパ大学をモデルとして形作られていた。四つの伝統的学部、すなわち神学部、法学部、 医学部、哲学部を有した。そこでの授業は、当時一般に行われていた通り、ラテン語で行われた。アカデミア・グス タヴィアナには、自治を保証したスウェーデンのウプサラ大学学則が適用された。教授︵その数は一 O名ないし二二 名で変動した︶の大半はドイツ人であった。アカデミア・グスタヴィアナは、その存立期間中︵一六三二ー一六五六 年︶に一 O 一六名の学生を数えたが、主としてスウェーデン人ないし、ドイツ人であり、なかには他国出身もいた。学 生中にはラトヴィア人が一人︵ヤニス・レイテイエルス︶いたことが知られているが、エストニア人は一人もいなかっ た。これは驚くようなことではない。エストニア人は農奴であったのにたいして、当時のプリパルティカの支配的身 分||貴族・聖職者・市民||はドイツ人と、まれにスウェーデン人からなっていた。 アカデミア・グスタヴィアナの運命は容易ならざるものであった。一六五六年には、ロシアースウェーデン戦争開 戦のあおりで、大学は、事実上、存在を停止してしまったのである 一六九O年、スウェーデン政府はタルトに大学を復興することを決定した。復興された大学は先達との継承性を一示 すとともに、当時のスウェーデン国王カlル一二世を頒えて、アカデミア・グスタヴオ Hカロリーナと称されるよう になった。この大学はしめて二0年間存続して、当初、二ハ九九年まではタルトに、その後一七一 O年まではエスト ニア西部の海岸沿いの都市パルヌにあったが、ここに大学が移転させられたのは、ロシアとの次なる戦争が差し迫っ ていたためであった。アカデミア・グスタヴオリカロリーナは、その活動成果ははるかに慎ましいものだったとはい え、先達と同じ道をたどった。一七一 O年、パルヌはいわゆる北方戦争時にロシア軍部隊に占領され、大学は最終的 に閉ざされ、教授たちはスウェーデンに立ち去った。 一八世紀、プリパルティカがロシア帝国の一部に編入されると大学復興の試みが幾度となくなされたが、それらは いずれもうまくいかなかった。 一七世紀から一八世紀初頭のタルトとパルヌの大学は、この時期に北欧、スウェーデン王国に作られた三つの大学 の一つであった︵このほかにスウェーデンのルント大学とフィンランドのオlボ[トゥルク]大学︶。学生の大半は リヴオニア、スウェーデン本国、そしてスウェーデン王国の一部たるフィンランド出身の若者であったから、これは 狭い一地域の大学ではなく、むしろ全国家的大学であった。だがもちろん、それがもっとも重要な意義を有したのは プリパルティカにとってであった。この大学は、教授団や学生交流を介してプロテスタントの北ドイツやこの地域の 大学に結びついていた。講師陣には当時の著名な学者がおり、大学で学んだ者たちは教育・学問・教会といった分野 を含むさまざまの領域でみごとな業績をおさめた。アカデミア・グスタヴィアナとアカデミア・グスタヴオ Hカロ リーナで学んだ者のなかには、他の大学︵とりわけスウェーデン王国︶の教授が多く知られている。まとめるなら、 おそらくプリパルティカで最初の大学は典型的なヨーロッパ型大学であって、実際には平均以上の水準になることは なかったとはいえ、ある種の独特の特徴がすでにそこに認められるのである。 タルトの大学は、一八O 二年、皇帝アレクサンドル一世の勅命によって再興された。再興された大学の初代学長ゲ オルグ・フリードリヒ・パロットは、ドイツ語を教授言語とするとはいえ、オストゼl諸県のみならずロシア帝国全 体のためのロシアの帝国大学を設けるよう皇帝を説き伏せることに成功した。 ここに、タルト大学史上もっとも輝かしい時期が始まり、これは一九世紀中頃まで続いた。 ここで、ロシア大学史全般について二言、三言述べておかねばなるまい。今日、形式的にロシア帝国最初の大学と 広く考えられているのは、一七二六年、創立直後のぺテルブルグ科学アカデミーに設けられた、いわゆるアカデミー 大学である。またもや純粋に形式的な話になるが、今日のサンクト・ペテルプルグ大学はその﹁系譜﹂をここに求め ている。とはいえ、一七二六年に設けられたこの大学は、ヨーロッパの古典的大学をさほど紡悌させるものではなかっ た。実際には、ロシアの大学教育システムは一七五五年のモスクワ大学創設に始まるのである。一九世紀初頭にいた るまで、この大学は基本的に、巨大なロシア帝国全土で唯一の大学であった。そして、国家も社会もともに、これで -142ー はまったく不十分で、全国に新大学を設ける必要があることをよく理解していた。デルプト大学︵タルト大学︶は一 連の新たな高等教育機関の最初のものであった。一八O四年にはカザン、一八O五年にはハリコフ、そして一八一九 年には再度ぺテルプルグに大学が開設される︵かつてのアカデミー大学は、すでに一七六六年には存在しなくなって いた︶。 他大学が大都市に作られたのに対して、タルト大学が住民わずか数千人の小さな郡都に作られたことに注意してお こう。いったいどういう事情があったのだろうか。その際にまず考慮されたのは、タルトにはかつて大学が存在した という事実である。とはいえ、率直に言って、アカデミア・グスタヴオHカロリーナとデルプト帝国大学には直接の 関係を一切認めることはできない。われわれは、アカデミア・グスタヴィアナとアカデミア・グスタヴオリカロリー ナを今日のタルト大学の﹁先駆﹂とみなしているのである。第二に、大学都市としてタルトが選ばれたのには、ドイ ツの経験も影響を与えていた。ドイツでは小都市に大学の設けられるのが一般的だが、その際、学問への思いを逸ら させる娯楽の少ない場所の方が学生はよく知識を身につける、と考えられたのである。ドイツの大学はこの頃、ヨー ロッパでもっとも価値がありもっとも権威が高かったということが想起される。 だが、もちろん、他大学とデルプト大学との違いの主たるものは、それが小さな郡都にあったことにあるわけでは ない。肝心なのは、これがドイツ語を教授言語とし、ドイツ人の教授団を擁し、ドイツ人学生が優位にあったという 点である︵一九世紀前半に学生の五分の四はドイツ人で、そのなかでもまず、すでに指摘したように、地域の特権身 分であったバルト・ドイツ人が多かった︶。 この問題をめぐっては古くから論争がある。一八O 二年に設けられたデルプト大学は、教授言語、だけではなくて、 その性格上も、また、ドイツ大学を佑御とさせるその指向性や構造の点でも、ドイツ的だとする見方をとる人々が一方に いる。また、そうはいってもこの大学は、、ドイツ語を教授言語とするロシアの帝国大学であって、ロシアとその必要・ 要求の方を向き、これらの必要に配慮し、まさしくロシアのために専門家を養成し、ドイツの学界だけでなくロシア 一 回 一 143 のそれとも結びついていた、と考える人々もいる。近年、ドイツ人研究者のあいだでも後者の観点が支持されるよう Eg江田忠円 になっているが、これは注目に値する︵さしあたり、以下を参照。富山5 冨32JSO号E RYO者向島。己 。。召丘、YJ58︶。私は、この見方に立っている。 実際、一九世紀の学生の大半はドイツ人であったが、そうはいっても、一九一八年以前の全時期を通じて、タルト 大学には四Oを下らぬ民族の学生が学んだ。その中には少なからぬ数のロシア人、エストニア人、ポーランド人、ラ トヴィア人、ユダヤ人、ウクライナ人、アルメニア人、グルジア人、リトアニア人、ベラルl シ人と、ロシア帝国の その他民族の人々がいた。タルト大学で学んだ人々はその後、自民族の文化の名だたる担い手となった。彼らはタル トで知識を得て学問に触れただけではなくて、ここで人格と世界観を形成したのであり、彼らの創作活動もここで始 まったのである。タルトでは、学生民族団体も活動していて、そのこともまた、民族文化の発展を促していた。 デルプト 1 ユリエフ大学で学んだ人々や教授たちがいなければ、ロシアの学問はかなり貧困なものになっていたで あろう。さしあたり、もっとも偉大なロシアの医学者で、外科学教授であったニコライ・ピロゴl フの名前でも想起 しておこう。彼は、デルプト大学に学び働いたのである。彼は、外科学における解剖学的・実験的潮流の創始者であ り、同時代の野戦外科学の揺藍期にあって、固定式石膏ギプスを普及させた一人であった。だが述べておかねばなら ないのは、個々の学者︵その一部については以下でもっと名前を挙げる︶だけではなくて、もっと広く、ロシア文化 全体の発展のなかでタルト大学の果たした役割である。驚嘆すべきほど多面的な人物であり、ロシア語のもっとも完 全にしてもっとも有名な辞書の著者であったヴラジlミル・ダlリもタルト大学の教え子で、彼の辞書は今もその意 義を保っていて、途切れることなく再刊されている。大学のおかげでデルプトは、すでに一八一 0年代から三0年代 に、ロシア文化の少なからず重要な源となっていたのである。 カフカl ス、ウラル、シベリア、極東を含むロシアの地理・歴史・植物学・鉱物学の研究において、タルト大学の 学者たちはきわめて多大の貢献をした。例えば、レデプル教授は包括的な四巻本の労作である﹃ロシアの植物﹄ 一 144ーー ︵一八四二3 一八五三年︶の著者であったが、これは、この国の植物界の研究に一時代を画するものであった。 エストニア、ラトヴィア、ポーランド、アルメニアの文化と学問の歴史にタルト大学の卒業生や教師たちがもたら した貢献には、ことのほか大きなものがある。タルト大学で教育を受けたエストニア人、ラトヴィア人、ポーランド 人その他の傑出した学者や作家、社会活動家や政治家の名前をいちいち挙げて皆さんを煩わせることはいたしますま い。これらの人々が実際、自民族の学問や文化の歴史のなかで多大の役割を果たした担い手であったということ、こ の点については私の言葉を信頼していただくようお願いしたい。たとえば、エストニア国民文学の礎を築いた人物で、 エストニアの民族叙事詩﹃カレヴィポエグ﹄の著者であるフリードリヒ・レインハルト・クロイツヴアルト、あるい は近代アルメニア文学と近代アルメニア文語﹁アシユハラパル﹂の創始者であるハチャトゥル・アボヴャンを挙げて おこう。ロシア語やアルメニア語によって創作を行うデルプトの詩人のシュ 1レも知られている。この大学で学んだ ラトヴィア入学生のおかげで、タルトは一九世紀中葉にはラトヴィア民族覚醒の中心にもなった、等々といった次第 なのである。 こうしたすべてが証明しているのは、デルプト大学はロシアにおける、ドイツ人の大学ではなかった、ということで ある。この大学は、まさしくロシアの帝国大学であり、ロシア帝国に暮らした多くの民族の学問と文化の歴史に重要 な役割を果たしたのである。すでにこのことがタルト大学をしてヨーロッパの幾多の大学のなかで独特のものとして いるのであって、このことに同意していただければと思う。 当然、次のような疑問が起こってくるであろう。カフカlスのような遠方の土地からタルトに若者たちを引きつけ たのは一体何だったのか、ということである。あるいは、自分たちの大学があるにもかかわらず、ロシア人やポーラ ンド人が当地に学びに来たのはなぜなのか、ということである。 基本的な理由は、一八二0年代から五0年代までのこの大学の学問水準の高さや高い人気、この時期の学問の世界 における高い権威である。タルト大学は、この時期、﹁黄金時代﹂を迎えていたと言うこともできる。ロシア帝国の 一 145一 唯一最良の大学ではなかったにしても、最良の大学の一つだったのである。一八二八年、ここタルト大学に教授学院 が開設されたのは偶然ではなかった。これは、国内全大学の優れた卒業生のなかからロシアの高等教育機関のための 教授を養成することを使命とした、ユニークな教育機関であった。注意していただきたいことは、今日の博士課程に 似たこの施設がモスクワでもペテルブルグでもなくて、タルト大学に作られたということである。 デルプト大学の高い学問的水準の基礎となったのは、かなりの程度、その教授言語がドイツ語だったということで ある。くどくどと申し上げるわけにはいかないけれども、幾多の歴史的理由からロシアには自前の学問の担い手が存 在しなかった。しかるに、政治的には細かく分裂して弱小であったが、文化や学問の方面でたいへん発展していたド イツでは、学者やエリート的なインテリゲンツイアがあり余っていた。デルプト大学はドイツ人の若き学徒が活躍す る可能性を提供した。まもなく自前の担い手、すなわち自校出身教授たちが登場したとはいえ、一九世紀前半のデル プト大学の教授の大半は民族的にはドイツ人で、ドイツ大学に学んだ人々だったのである︵一八二六年から五O年に すでに、この大学の教師の四八・五パーセントはデルプトを母校とする卒業生たちであった︶。 たった今、名前を濫発することはしないと約束したばかりだが、それでも、一八二0年代から五0年代のデルプト 大学の学問的水準の高さの最良の証となる、何人かの学者たちの名前を挙げずにいるわけにはいかない。この時期最 大の学者には、天文学教授のフリードリヒ・ゲオルク・シュトルlヴェがいる。彼はこの大学の卒業生で、最強の反 射望遠鏡︵ブラウンホl ファ1反射望遠鏡︶を備えた、当時、世界最高の天文台の一つである大学附属天文台長であっ た。連星にかんする古典的研究や、恒星への距離を確定する新しい方法はシュトルlヴェによるものである。タルト で働いた後、彼は、ロシアの中核的天文台であるぺテルブルグ郊外のプルコヴォ天文台を指導した。科学的発生学の 創始者で、抜群の幅広い学問的関心をもっ百科全書家的自然科学者の最後の学者の一人であったカ1 ル・エルンス ト・べiルもタルト大学の卒業生であった。モ1リツ・へルマン・ヤコビもしばらくこの大学で働いたことがあった が、彼は世界最初の実用電動機の発明者であり、電気メッキ法の創始者であった。イギリスの物理学者ジュールとと 一 ー 146一 もに、﹁ジュール lレンツの法則﹂として広く知られた法則の考案者と考えられているエミlル・レンツもデルプト 大学で学んだ。この法則により、導体中を電流が流れる際に発生する熱量が確定された。彼はまた、電磁誘導の結果 生じる電流を確定する、いわゆる﹁レンツの法則﹂を確立した。後にレンツは、ぺテルプルグ大学の教授や学長になっ た。総じて、タルト大学の学窓から一九世紀中に輩出したアカデミー会員や各大学の教授は約二五O名で、科学アカ デミー会員一八名、タルト大学の教授七一名、ロシアのその他の大学の教授一 OO名、外国大学の教授三九名、その 他の高等教育機関教授一二名であった。一九世紀から二O世紀初頭のタルト大学の教授たちは、ぺテルプルグ科学ア カデミーの活動にも積極的に関与していた。 タルトの学者たち、とりわけ夫逝した動物学者のヨハン・フリードリヒ・フォン・エッシュショルツがロシア人船 乗りたちの世界一周航海に加わって、その間に地質・鉱物学的、自然地理学的、植物学的な地球研究に従事していた ということを、さらに指摘しておこう。タルトの教授たちはそのための特別プログラムを策定した。たとえ ば、一八二三年から二六年にかけて行われた世界一周航海のために、コツツェプーを長としたタルトの学者たちは水 深計や深度計を世界で初めて利用したが、これらはタルトで開発された器具で、海洋学にとって新機軸のものである。 この太平洋航海時に三つの群島が発見され、うち一つはエッシユシヨルツ島と命名された。この島は今では哀しいこ とに、アメリカ人が原水爆実験を行ったマーシャル諸島のビキニ環礁として知られている。 かくして、一九世紀︵とりわけその前半︶の世界の学問にたいするデルプト大学の貢献には議論の余地がない。に もかかわらずこの大学は、きわめて小規模の﹁周縁的﹂大学︵﹁地方﹂大学という語を用いるのは望ましくない︶であっ 。 た。学生数も多くはなかった。一八二O年には二六二名、一八三O年に五九二名、一八五三年に七一二名だったので 士的ヲQ 比較的小規模な大学が世界の学問に多大の貢献をなしえた理由として、私見では、さらに一つタルト大学に固有で、 他大学と異なる理由を指摘しておく必要がある。一九世紀のデルプト大学は一方では、ドイツ的世界やもっとひろく西 一 147一 欧的学問と結びついていたが、他方では、ロシアの学問とも結びついていた。この大学は、西欧とロシアとの学問的・ 文化的接触の媒介者という独特の使命を多くの点で遂行したのである。一八O 二年に再興されたこの大学の初期の教 授たちは、すでにこのことを自覚していた。たとえば、歴史学・統計学・地理学教授のぺシュマンは、一八O 二年開 学時の記念講演のなかで、大学の一一つの課題を示していた。すなわち、①ロシアが西欧的文化と学問の成果を摂取す る助けとなること、②ロシアの学問・文化・文学の成果を西欧に知らしめること、である。彼の考えでは、デルプト 大学は西欧とロシアとの﹁通路﹂を切り拓かねばならないのである。タルト大学はこうした役割を、現に、実に成功 裏に遂行したのである。 逆に、このことは、デルプト大学のなかで様々の学派や流派の総合をはかるための土壌を生み出すこととなった。 しかるに、世界の学問の経験が示しているように、まさしくこうした総合こそが、学問の発展にとってことのほか有 益なのである。タルトにはそのための前提条件がすべてそろっていたわけで、この事実こそが、世界標準の学問中心 地としての地位をデルプト大学が確立するよう促したのである。 一例を挙げてみよう。化学教授のカlル・シュミット︵ちなみに彼は、複数の学問分野で大いに成果を上げた多面 的学者である︶は、生理学教授のフリードリヒ・ビデルとともに、実験生理学とさらに生化学の分野で名だたるデル プト学派の創始者であった。この学派からは、一九世紀ロシアの生理学や組織学の大学者の一人であるフィリップ・ オフシャンニコフを輩出した。彼はデルプト大学卒業生で、のちにまずカ、ザン大学、ついでペテルブルグ大学教授に なった。ニコライ・コヴァレアスキーや、後のノーベル賞受賞者で高次神経系生理学研究に従事したイヴァン・パヴ ロフが、その学問の道を歩み始めたのも、彼の研究室であった。ここには、ビデルとシュミットをはじめとしたデル プト生理学派とオフシャンニコフとコヴァレアスキーのカザン・ペテルプルグ学派、そしてパヴロフ学説との継承関 係という、興味深いネットワークがきわめてよく跡づけられる。しかも、こうしたつながりのなかからさらに一連の 学問上の潮流が枝分かれしていて、それは現代の神経学、神経病理学、そして精神医学の基礎を据えるのに一役買っ − 一 148一 たのである。こうした学問的探究とその成果の連鎖のなかにあって、タルト大学は名誉ある位置を占めている。この 種の事例は、もっと挙げることができる。 かつてタルト大学が高い学問的水準を達成し、しかもロシアの若者のあいだであれほど人気を博したのには、さら にもう一つ、きわめて本質的な理由がある。デルプトータルトでは、ロシア帝国の他地域と比して、それほど息苦し い雰囲気がなかった、つまりここでは、社会的・民族的抑圧体制、すなわち帝国を支配した官僚制がさほど強くその 存在を意識させることがなかったのである。様々の民族の人々が異口同音にこのことを認めている。﹁私のみるところ、 当時のデルプトはおのれの人生を生きている独特の国のようなもので、占領され抑圧された私たちの国ポーランドは もとより、ロシア国家全体、さらにはヨーロッパ全体で起こっていることとも根っから違っていた﹂。デルプト大学 卒業生で医師のポーランド人教授イグナツイイ・パラノフスキは、自分の回想記のなかでこう書いていた。﹁リヴォ ニアのアテネ﹂ll一九世紀にタルトを呼ぶのにこの表現が好んで用いられた||の自由な雰囲気について、この上 なく喜ばしい気分で評していたのである。 一八O三年デルプト大学令により、この大学が他に例を見ない大きな自治権を与えられていたことを考慮しておく 必要がある。教授たちは、自分たちのあいだから学長を含む要職者を選任していた。大学は独自の警察をもち、その 成員に対する裁判を行った。大学裁判所の判決を破棄できるのは、セナlト[元老院、最高法院]だけであった。プ リパルテイカ総督と地方当局は大学に対するいっさいの権限を奪われていた。世界の首座は神、二番目がロシアの ツアlリ、そしてそれにすぐ続くのがデルプトの学生だとこの土地の学生は本気で思っている、などというよく知ら れた学生小唱が生まれたのはこれゆえである。一九世紀前半には検閲権も大学に集中させられており、プリパルテイ カの学事のいっさいは大学の指導下に置かれていた。こうしたわけで、大学はロシア帝国領内のある種の自由な共和 国と化していたのである。 このような自由な空気と自由な精神はタルト大学に特徴的なものであるが、これは学問が花聞くための担保でも 一 149一 あった。なぜなら、学問が成功裏に発展するのは精神的抑圧が最小にとどめられていて、学問的論争と討論の可能性 が存在する自由な状況のなかだけだからである。 実は、一九世紀後半にデルプト大学は次第にロシアの他大学、とりわけモスクワ大学とペテルブルグ大学から後れ を取りはじめて、世界の学問への貢献も小さくなっていった。その活動には二八五0年代まではさほど目立たなかっ たオストゼ!の地域主義的特徴がますます現れてくる。自分たちの特別の権利や特権を守るために中央権力と闘って いたプリパルティカのドイツ人たちが、ますます大きな影響力を大学に及ぼすようになったのである。このため、こ の大学はロシアの学聞から切り離され、同時に、かつての西欧的学問世界とのつながりを必ずしも維持できなくなっ ていく。それでも、一八六0年代から八0年代には優れた学者たちがこの大学で引き続き働いていた。すでにカlル ・ シュミットやフリードリヒ・ビデルの名前は挙げておいた。それに加えて挙げておかなくてはならないの は、一八七五年から八一年にかけてこの大学で働いたヴィルへルム・オストヴアルトであって、彼は物理化学の礎を 築いた一人で、哲学者でもあり、目下、タルト大学卒業者中で唯一のノーベル賞受賞者でもある。ドイツ時代の最末 期のこの大学では、有名な言語学者であるボドゥエン・デ・クルテネ教授が講義を行っていたが、彼は、現代言語学 の源流に位置している。これらの学者らが、学問中心地タルトの栄光と名声を支えていたのである。 一八八0年代に帝国権力は、プリパルティカを含む辺境のロシア化政策に乗り出した。大学における教授言語とし てのドイツ語と、それと結びついたオストゼ!の分離主義はいまや、権力にたいして危倶を抱かせるようになった。 一八八九年以降、デルプト大学の改組が始まった。それは一八九0年代中頃に完成した。新たにもたらされた主要な こととして、大学の教授言語がロシア語に移行したが、これは当然、大学生活のすべての面で変化を惹起した。ロシ ア語による講義への切りかえをできないか、あるいはそうすることを希望しないドイツ人教授に代えて、ロシア人の 教授と講師が採用された。学生の構成も変化した。ドイツ入学生の数が激減し、その代わりにロシア人の数が増加し たが、同時に、エストニア人、ラトヴィア人、ウクライナ人ととりわけユダヤ入学生の数も増えた。ロシア全土で通 -150- 用していた一八八四年大学令がデルプト大学にも適用され、これにより自治権が廃止されて、ロシアの全高等教育機 関システム中でこの大学の有する特別の地位が消失した。タルトの﹁母校包自白 E印円。﹃﹂はロシア的な大学になった。 一八九三年にはデルプト大学は正式にユリエフ大学に改称され、そのことによってロシア的な性格が強調された。 ロシア化がこの大学の学問的水準のいちじるしい低下をもたらしたという主張を聞くことが稀ではない。だが、そ んなことはまったくない。実際は、その初期に短期間の過渡期があって、この時期には大学の教育水準低下について 語りうるだけの根拠が存在した。だが、まもなく一八九0年代末には状況は安定し、一九OO年から一九一 O年のユ リエフ大学が一八七0年代から一八八0年代のデルプト大学にひけを取ったということはあるまい。世界的に知られ た少なからぬ学者らがここでは働いていた。例えば、優れた地震学者で電気力学地震計の発明者であるボリス・ゴリ ツインや、彼の後継者で、光エネルギーを力学的作用に直接転換させる可能性︵いわゆるサドアスキー効果︶をはじ めて理論的に証明したアレクサンドル・サドアスキーといった物理学教授らの名前を挙げておこう。化学講座では、 氷の多型的変異を発見し結晶化理論を編み出したグスタフ・タンマンが一 0年間にわたって働いていた。 ロシア帝国の各大学がヨーロッパ大学システムに加わっていたことに疑いをさしはさむ余地がない以上、ユリエフ 大学は、典型的なロシア的大学であるのと同時に、ヨーロッパ的大学であった。だが、問題は、一九世紀前半のデル プト大学がロシアの最良の大学の一つであり、ヨーロッパ大学の平均的水準より上にあって、はっきりとした独自性 をかちとっていたのにたいして、一九世紀最末期から二O世紀初頭のユリエフ大学は普通の、﹁平均的﹂で、おそら くはロシア帝国の﹁標準的﹂な大学であり、モスクワ大学や。へテルブルグ大学には明らかに後れを取っていて、ヨー ロッパ的基準では、おそらく特に優れたところがなかったということに尽きるであろう。 一九一七年から一九一九年の恐るべき出来事は、大学の運命をも大きく変えた。一九一八年、第一次世界大戦下で ロシア的なユリエフ大学は存在を停止してヴォロネシに疎開し、そこでヴォロネシ大学という新大学の端緒となった。 号EESES円が一セメスターだけ活動した。短い休止期間を 、ドイツ占領当局の創設した、ドイツのラントの大学Eロ 経て、一九一九年一二月には、すでに独立を果たしたエストニア共和国の政権によってタルト大学は再開された。大 学は純粋にエストニア的なものに転じた。教授言語はエストニア語であったし、教授や学生たちも多くはエストニア 人であった。もっとも、自前の専門家が不足している以上、最初のうちはロシア人を含む外国人教師に頼らねばなら なかったのではあるが。タルト大学は、純粋にエストニアの高等教育機関に転じつつも、同時に引き続きヨーロッパ 的大学であったわけで、この点に利のあったことは議論の余地がない。エストニア人たちは初めて自分たちの土地、 自分たちの母国に﹁自分たちの民族の大学﹂を得たのであり、自分たちの母語で学ぶ可能性を手にした。今初めて、 タルト大学は真の﹁エストニアの学問と文化の中心﹂となった。だがそれでもこの大学は、かつてのデルプト l ユリ エフ大学との一定の継承関係を維持していた。そこには何人かのヨーロッパでもよく知られた学者がいた︵たとえば、 神経外科のルlドヴィヒ・プlセップ︶。この大学は実に良質のヨーロッパ的大学であったが、民族的な原則に力点 が置かれていた。これは、東欧や北欧の大学に特徴的であった。 プリパルティカ、そしてエストニアを含むヨーロッパにとって二O世紀は深刻な衝撃の世紀であり、これらの衝撃 は、国内のすべて、国の相貌のすべて、そして人々の生活様式を時に激変させてしまった。当然、それらは大学の運 命にも反映した。一九四O年夏、エストニアはソ連に併合された。大学の抜本的改組は第二次大戦後にすでに始まっ ていた。タルト大学は引き続きエストニア語を教授言語としたとはいえ、標準的なソ連的高等教育機関に変えられて しまわざるをえなかったし、そこでは共産主義イデオロギーが支配して、いかなるものであれ﹁反体制的思考﹂は認 められなかった。この時期のできごとは、大学に痛みに満ちた打撃を与えた。教師たちの一部は一九四四年に西側に 亡命し、一部は弾圧され、一部はブルジョア民族主義なる嫌疑で大学を去ることを余儀なくされた。[ソ連邦他地域 から︺若く高い技能を備えた要員たちが流入したことは、きわめて厄介であった。それでも、この信じがたいほど困 難な状況を大学は生き抜き、一九五三年のスターリン死去後は、急速に発展し前進していった。一九六0年代から 一九八0年代にかけて、タルト大学は西側の学界との接触を確立しえた||総じてソビエト的状況下で可能な範囲で 一 152一 のことではあるが||ソ連邦内の少数の大学の一つであった。ソビエト指導部や公式イデオロギーによって奨励され ることのない学問研究も||これまたおそらく一定範囲内でのことではあるが||そこでは認められていた。この点 で特に示唆的なのは、今や世界的に著名な人文学者のユ lリl ・ロトマン︵ちなみに、彼は私の師である︶の構造詩 学や記号論に関する研究である。彼の仕事は世界的に注目され、世界のすべての主要言語に翻訳された。ロトマンは 外国の多くのアカデミー会員や世界記号論学会の副総裁に選ばれたが︵ところが、ソ連のアカデミーでは選ばれてい ないて外国に出ることは長く許されず、ソ連では彼の構想は認められなかった。それでもタルトでは、仕事をし出 版する機会が彼に与えられていた。ここにもまたもや、タルト大学の特質が現れていると私は思う。多少の誇張を交 えて言うことができるとしたら、この大学はソ連邦でもっとも﹁西側的﹂な大学の一つだったのである。だが、再度 言うなら、だからこそ比較的小規模なタルト大学が、ソ連邦で最良の大学の一つになったのである。このことは権力 からも認められていた。高度技能を備えた専門家を養成するセンターであり、同時に、学術研究活動の中心として考 えられたソ連邦内の七O校の主導的高等教育機関にこの大学は含まれたのである。 これほどう説明すべきことなのだろうか。ここでもまたもや理由は多くあり、多様である。それらをすべて説明す るとなると、あまりにも多くの時聞を要するであろう。少しだけ述べておこう。ソ連邦の他共和国と比してよりリベ ラルなプリパルテイカのあり方、これが一つの理由である。また、これはまるで偶然的要因のようであるが、この大 学の叡知を備えた慧眼な指導者たち、まず第一に長く学長を務めたフョ 1ドル・クレメントの存在である。 だが、私が特に強調したい一つの契機がある。つまり、学問の歴史における伝統の意義であり、継承性の原理の意 義である。伝統とは、複雑な現象である。単に伝統を繰り返し、盲目的にそれに従うだけであれば、これはずっと以 前からわかっていることだが、なんら良いことはない。だが、同時に、伝統なくして学問の進歩はありえない。世界 の学問のまったく同じ経験が示しているように、もっとも成功裏に発展しているのは、継承性と伝統の網の目を絶や すことがなく、同時に、こうした伝統がつねに更新されている学問中心地なのである。これは自然なプロセスであり、 そこではもちろん内部矛盾も生じかねないが、これはまさしく進歩の担保となる古いものと新しいものとの弁証法な のだということが、特に重要である。 私は信じているのだが、タルト大学はまさに、一八O二年以来、学問的伝統が途絶えることなく発展した幸福な事 例なのである。一九世紀の最末期に教授言語がドイツ語からロシア語に変更になったことも、一九一九年にエストニ ア語が教授言語になったことも、そうした伝統を途絶させることはなかった。そこには独自の学問と学問追究と探究 の精神が保たれていた。大学のロシア化であれ、﹁ソビエト化﹂であれ、こうした精神を根絶やしにすることはでき なかった。本物の大学には、嵐や歴史の逆行に抗することを可能にしてくれる何か驚くほど生命力豊かな不屈のもの があるものなのだ。 あと私が述べておくべきことは、エストニア共和国の独立回復から一 O余年を経過し、エストニアの欧州連合加盟 [訳注・エストニアは、他のバルト諸国や東中欧諸国などとともに、二OO四年五月一日に欧州連合に加盟した]か ら数ヶ月を経た今日のタルト大学がどのようなものか、この点である。 ソビエト的高等教育システムから現代のヨーロッパ的大学教育システムにいたる複雑な過程の一部をなしているこ の大学の改組は、実は、いわゆる﹁ペレストロイカ﹂の末期、一九九一年八月のエストニア独立宣言以前に始まって いた。この改組は、かなり急速に一九九二年から九三年までに完了した。それが意味したのは、ソビエト的な課程制 から科目制への移行、新たな学位制度、神学部の復活︵一九九一年︶、社会科学部の開設︵一九九二年︶、カレッジの 創設、その他一連のタルト大学を西欧やアメリカの現代的大学に接近させる新たな試みである。 これ以上立ち返ることもないように指摘しておくが、今日わが国では、ボロl ニア宣言にあわせてすでに最新の教 育制度である三+二+四︵学士課程教育・修士課程教育・博士課程教育︶への移行は完了している。これは今や、あ る種の全ヨーロッパ的標準である。 今日エストニアには多くの||四O校以上もの||高等教育機関が存在するものの、その大半は一部の専門のみを 1 5 4 そなえただけであるが、タルト大学はエストニア共和国で唯一、学部が一式そろった﹁古典的﹂大学である。そこで は二OO三/四年度に一万七六五三名の学生が学んでいて、そのうち四三八名は三二カ国からの留学生である。大学 には一一学部ある。神学部︵最小学部で、学生数二四六名︶、哲学部︵最大学部で二八四九名︶、医学部、法学部、生 物・地理学部、物理・化学部、教育学部、体育学部、経済学部、数学・情報学部、社会科学部である。大学に附属し て四校のカレッジがあり、うち三校はナルヴァ、パルヌ、テュリといったエストニアの小都市におかれており、四番 目は、欧州連合から財政支援をかなり得たユ l ロ・カレッジで、これはタルト所在である。このほかに大学には、タ リン所在の独立した法律研究所がある。通信教育を行ういわゆる﹁オープン・ユニヴァlシティ﹂もある。大学では 一 三OO名の教員と研究者が働いており、うち一三五名が教授である。日本語講師もいる。 大学には四つの博物館︵動物学博物館、地質学博物館、芸術博物館、大学史博物館︶と植物園︵プリパルティカで 最古のもの︶、この上なくみごとな学術図書館がある。そこにはほぼ四OO万冊の図書と定期刊行物があり、多くの 稀親書や価値の高い古い時代の学位請求論文のコレクションが含まれる。医学生の教育用には﹁タルト大学病院﹂連 合体も利用されているが、これは国内最大の医療センターである。 ヨーロッパの他大学との定期的な交換教授が実施されているが、アメリカやアジアとは少ない。毎年、講義を行う ために諸外国から数十人の教授たちがやって来る。学生交流も定期化されている。例えば、二OO四/五年度には約 五OO名のタルトの学生を外国大学に派遣することが計画され、逆に、タルトには約二OO名の学生が外国から来る ことになっている。講義の一部は︵ただし多くはない︶英語で行われている。 今日のタルト大学の基本課題と特別の使命について論じられる際には、二つの契機が強調されるのが普通である。 すなわち、タルト大学は、一方では﹁エストニアのナショナルな大学﹂であり、エストニアの文化と学問の中心であ るということであり、他方で、この大学は現代の学問の水準に立ち、世界のすべての地域の大学と結びついた﹁国際 的な学問中心地﹂であり、学問革新の中心地である、ということである。 現代のどの大学とも同じく、タルト大学は教育機関であることと学問研究の中心であることとを一体的に担ってい て、エストニア全体の﹁学術生産物﹂の半分以上︵学術刊行物では六二パーセント︶を生み出す最大のセンターであ る。その際、特に指摘しておくことが重要なのだが、タルト大学における学術研究の基本的方向が、世界中の学者ら が注意を払う中心にあるもっともアクチュアルなものに向けられているということである。つまり、分子生物学、生 物物理学、遺伝子工学、免疫学、レーザー医療、レーザー分光学、環境保護工学等である。ヨーロッパ学問中心地シ ステムに入る高等学術センターがエストニアには一 O箇所あるが、そのうちの六研究施設がタルト大学で活動してい る。遺伝子工学センター、エコロジー・センター、人間行動・保健研究センター、物理学研究所、分子臨床医療セン ター、化学・材料学センターである。学術研究の成果を実際に生かしていくために、特別工学研究所も作られている。 タルト大学は、世界一四カ国の三O以上の大学と協力協定を締結している。また、ヨーロッパ大学連合メンバーで あり、プリパルティカの大学では唯一、いわゆるコインプラ・グループにも入っているが、これは歴史的伝統によっ てもっともよく知られ、国際的に認められた三九の大学の連合である。 タルト大学は現代のヨーロッパ大学システムにみごとに統合されているということ、そして、このシステムの不可 欠の一部分となったということ、願わくば、皆さんがこのことに納得いただけたなら、と思う。実のところ、タルト 大学はこれまでも常にその一部であり、このシステム中でさほど大きくはないが||この大学はつねに比較的小さな 大学であった||、しかし独特のまたとない﹁顔﹂を備えてきたのである。 ︻訳者解説︸ ここに掲載したのは、西洋教育史研究室主催により二OO四年一一月二日に広島大学大学院教育学研究科・教育学 部で行われた特別講義﹁ヨーロッパ大学史におけるタルト大学の位置と役割﹂の全文である。訳者である橋本が研究 代表者を務める国際共同研究﹁エストニア・ラトヴィアにおけるロシア系住民の歴史と現状に関する総合的研究﹂︵平 一 156一 ー 成二二1 一六年度科学研究費補助金・基盤研究︵B︶︶の一環として開催された国際シンポジウム﹁沿バルト11多 文化空間のロシア人﹂︵二OO四年一 O月三一日、於・東京工業大学︶のために招聴、来日されたエストニア共和国 タルト大学名誉教授のイサコ lフ先生に特にお願いして実現したのが、この特別講義である。 セルゲイ・イサコ1フ教授は、一九三一年、エストニア北東部の都市ナルヴァで生まれた、エストニア国籍のロシ ア人である。一九四九年、タルト大学歴史文献学部ロシア語ロシア文学科に入学して、一九五四年にはこれを優秀な 成績で卒業、その後、一九九七年の退職まで、同大学で一貫して学究生活を送ってこられた。ウンベルト・エ 1 コと ならんで世界的にも著名な記号学者にしてロシア文化史家のユ lリl ・ロトマンの薫陶を受け、その弟子としてある いは同僚として、エストニアにおけるロシア文学史・文化史研究の中心の座を占められ、一九八O年以降はロシア文 学科主任教授等の要職にあって活躍されてきたのである。ソビエト期の業績には﹃一八ら一九世紀エストニアの教育 機関におけるロシア語・ロシア文学﹄︵全二巻、一九七三I七四年︶、﹃一八六0年代ロシアの出版物における沿バル ト地域問題﹄︵一九六三年、准博士学位請求論文︶、﹃一九世紀エストニアのロシア文学﹄︵一九七四年、博士学位請求 論文︶をはじめとして、ロシア帝国時代のエストニアにおけるロシア人・ロシア文化問題やエストニア iロシア関係 史に焦点化した多数の著作や論文を執筆し、この研究分野の創始者・第一人者として知られている。その 問、一九八三年から八六年まではフィンランドに在住してへルシンキ大学で教鞭をとられたほか、ロシア、イタリア、 ラトヴィア、リトアニアその他の旧ソ連諸国でも講義を行っておられる。さらに、帝制期のタルト大学︵デルプト大 学、ユリエフ大学︶史に関連する論文も多数執筆され、帝制期ロシア教育社会史を専攻する訳者がはじめてイサコ l フ教授の知遇を得たのは、もつばらこの方面を契機とするものであった。特別講義は、こうしたイサコ lフ教授の大 学史に関わる知見を包括的に述べられたものなのである。 他方、一九九一年のソビエト連邦崩壊後イサコ lフ教授は、研究面では帝制期から戦間期の独立エストニア共和国 時代に対象を移して、この時代のエストニアにおけるロシア人マイノリティの文化運動に関わる一連の歴史研究を推 一 157一 進し、その成果を多数の論文と二つの著書、すなわち﹃エストニアにおけるロシア人一九一八I 一九四O年 文 化 史概論﹄︵タルト、一九九六年︶および﹃エストニア共和国のロシア系民族マイノリテイ︵一九一八i 一九四O年︶﹄︵タ ルト、サンクトペテルブルグ、二OO一年、編著書︶として発表した。そこでは、教授の持ち味ともいうべき史料へ の嘆覚を活かしたア!カイヴでの忍耐づよい入念な資料調査に基づきながら、この時代にエストニアの地でロシア系 住民の繰り広げた多様な文化的活動の詳細が再現されている。しかもこうした教授個人の手になる一連の業績のみな らず、上記編著書をはじめとして現代のエストニアないしバルト三国のロシア人文化研究の組織化を進めていること にも注目しておく必要があろう。現在のエストニア共和国におけるロシア文化運動の支柱の一人とも言うべき存在な のである。 こうした文化史研究上の諸業績に加えてイサコ lフ教授はエストニアの国内政治にも関与しており、一九九五年か ら一九九九年にかけてエストニアの国会議員に選出されている。議員時代には、ロシア系住民の組織した政党である エストニア統一人民党に属して主として文教分野で活動するとともに、バルト議会連合メンバーにも選出されている。 また、欧州国際機関からロシア系住民の処遇是正を迫られるなか、民族的少数者のエストニア社会への統合促進を目 的に設置された統合基金理事に選ばれ、ロシア系住民を代表してその利益擁護のために活動する政治的役割を期待さ れる立場にあった。ただし、国会議員としての経験は教授にとってけっして愉快なものではなかったらしく、すでに 一期のみで引退され、目下は、現役教授時代に勝るとも劣らぬ活力をもって、エストニアで活躍したロシア人知識人 に関する執筆活動に取り組んでおられる。最近著﹃音の魔術師||歌手ドミトリl ・スミルノフとエストニア||﹄︵タ リン、二OO四年︶は、エストニアにおけるロシア文化の伝統を掘り起こして継承することによりロシア人のアイデ ンティティ維持とエストニア・ロシア人文化なるエストニア文化中のサプカルチャーの創造をはかろうとする、文化 的・学問的であると同時に政治的でもある教授の目下の活動の一端を伝えるものである。こうした自身の文筆活動の 意味をより明示的に語ったものとしては、橋本伸也訳﹁エストニアにおけるロシア人文化の未来についての思索﹂、﹃エ − 一 158 ストニア・ラトヴィアにおけるロシア系住民の歴史と現状に関する総合的研究||欧州統合と多民族社会形成に関す る同時代史的視点から||﹄︵研究代表者・橋本伸也、科研費報告書、二OO五年︶がある。 さて、池端次郎名誉教授の訳出されたステファン・デイルセ l ﹃大学史﹄︵上・下、東洋館出版社、昭和六三年︶ にもリヴォニアのドルパ 1ト大学として登場するこの大学のたどった数奇な歴史については、訳出した特別講義があ ますところなく語っているとおりであるが、それにくわえて、すでに何点かの日本語による紹介や研究論文が発表さ れてきた。それらを掲げるならば、以下の通りである。 今村労﹁アレクサンドル一世の教育改革と G ・v ・パルロット﹂﹃早稲田大学大学院文学研究科研究紀要︵別冊、 哲学・史学編︶﹄第二号、一九八四年。 今 村 労 二 八O二年のデルプト大学の創設||帝政ロシア教育史への一考1 1﹂﹃北欧史研究﹄第三号、一九八四 年 。 今村労﹁C ・C −ウヴァ 1 ロフの教育政策とバルト海沿岸諸県﹂﹃北欧史研究﹄第七号、一九八九年。 一九九二年。 今村労﹁G ・F ・ V −パルロットとロシアの大学﹂、山本俊朗編﹃スラヴ世界とその周辺 1 1歴史論集||﹄ナ ウカ 今村労﹁デルプト大学における教授インスティトゥ lトの開設﹂﹃史観﹄第一二四輯、 一九九一年。 橋本伸也﹁ロシアのなかのドイツの大学﹂﹃大学史研究﹄第一四号、一九九九年。 梶雅範﹁バルト科学史会議に参加して﹂﹃科学史研究﹄第H期、第四O号︵一二七︶、二OO一 年 。 決して豊穣とは三一守えないにしても、関心を向けられることの少ない小国の大学史としては、それなりの蓄積がある が中世的な圏域を越え出て北欧・東欧へと拡張した初期近代に生を受けながらも、戦乱とロシアへの併合のなかで一 というべきであろうか。それは、﹁暗黒時代﹂とさえ称される荒廃ぶりとは裏腹に、ヨーロッパ的大学ネットワーク − 一 159一 旦消滅し、ロシア帝国が国家的規模で大学ネットワーク整備に乗り出した一九世紀初頭に再興、次いでロシア革命に よる帝国解体のなかで独立エストニアを代表するナショナルな高等教育機関となりながらも、ソ連への併合によって ソビエト型大学に変貌させられ、ついに一九九一年の独立回復を契機にヨーロッパ的大学に復帰したこの大学の運命 が、近現代をいろどる﹁ロシアとヨーロッパ﹂という壮大な主題を貫く問題群を象徴的に提示しているがゆえのこと である。ソビエト教育学やコメニウスへの突出的関心にもかかわらず、波乱に充ち満ちた中東欧地域の歴史の実像に はさほど眼を向けることのなかった日本の西洋教育史研究ではあるが、もしも、目下E U拡大のなかで再審の対象と なっている﹁ヨーロッパ・アイデンティティ﹂の核としての大学や教育の歴史的役割を解き明かそうとするのであれ ば、あるいはヨーロッパ的な意味での知識や教育の世界システム化の相貌を解き明かそうとするのであれば、タルト 大学やその周辺に存在した各種の教育機関はきわめて興味深い一事例を提供してくれるであろう。特別講義を主催す るとともに、今回、その内容を訳出・刊行するのは、まさにそうした観点からこの小国の事例を紹介したいと考えた ゆえのことである。 このように、ヨーロッパ大学史にかかわる観点からも、﹁体制移行と教育改革﹂という同時代的関心からも、きわ めて興味深いエストニア共和国タルト大学の来歴について、概略的とはいえ読者になにがしかの興味を持っていただ けたなら、訳者にとってこれほどの喜びはない。 一 160一
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