『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』論

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Title
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』論
Author(s)
竹本, 憲昭
Citation
竹本憲昭:外国文学研究(奈良女子大学外国文学研究会),第29号
,pp.27-47
Issue Date
2010-12-30
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/2680
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『ア ン ドロイ ドは電気羊 の夢 を見 るか ?』論
竹
本
憲
昭
権力が個人を法的のみな らず倫理的に も支配 し,その身体を場合 によ って
は理不尽 ともいえる程度 まで管理す るという状況 は, SF作品において頻繁
に措 かれ る もので あ る. まず思 い浮 かぶのが, ジ ョー ジ ・オー ウェルの
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949) とオル ダス ・ハ ックス リーの
『一九八 四年 』 (
『すぼ らしい新世界』 (
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93
2) の二作である。 これ らはいわ
ゆる SF作家ではない, イギ リスの主流文学作家によって書かれた小説であ
り,未来社会 における全体主義 と人間の奴隷化が批判的に描かれている。
『
一九八四年』 は, タイ トルの通 り 1
98
4年 とい う,作品執筆時か らみれ
ば 35年後 の,つ まり文字通 りの近未来社会が,作者が冷戦下で共産主義を
批判 していると受 けとめ うるよ うに描かれてお り, しか もこの 1
98
4年 とい
う年 はわれわれにとって過去になって しまっているということもあって, SF
作品 としてはすでに古 びた もののように感 じられ るか もしれない。 しか し,
この小説で批判 されているのは共産主義だけでな く,資本主義 も含めたあ ら
ゆる権力 の体制であるとい う解釈が定着 してお り,『一九八四年』 は, いま
も評価が高 い SFの古典作品 といえるだろう。
『すぼ らしい新世界』 は,『一九八四年』 よ りも遠 い未来 の,数百年後の
社会が舞台 となってお り, ここでは人間は誕生す る段階か ら人工筋化で生 ま
れる。生 まれた時には,すでに将来従事すべ き仕事が定 め られてお り,その
仕事に適応す るように洗脳 され る。 テクノロジーの進歩が権力 によって乱用
され,人間が人間 らしさを剥奪 されて機構 の歯車 になってい くという,典型
- 27-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
的なデ ィス トピア小説である。 権力が人間の生 を管理す る 「
生政治」が とめ
どもな く進 めば,未来 において行 き着 くのが このような社会であろ う。
テクノロジーが こうした危険性 をは らんでいることは,早 い時期か ら多 く
の作家 に認識 されていた。 そ もそ も, SFとい うジャンルが成立 したのは,
未来 に対す る憧れ と不安 に拠 るところが大 きい。未来 に対す る不安 の要因 と
しては,異星人の襲来が SFにおいてよ く取 り上 げ られ るが, テクノロジー
の乱用 も, それ と並んで SFで はおな じみのテーマにな っている。 一九二六
年 に ヒューゴ一 ・ガー ンズバ ックが最初 の SF雑誌である 『アメー ジング ・
ス トー リーズ』を創刊 したことを契機 に, ひとつの ジャンル と して成立 した
とみ られ る SFは, その後,米国を中心 に SFプロパ ーの人気作家 を続 々 と
生み出 してい く。 SFは, ジャンル と しての性質上, ある程度 の娯楽性が求
め られ ることか ら, オーウェルや- ックス リーはどのイ ンパ ク トを もって近
0世紀前半 にお いて
未来社会 の惨状 を描 き出す ことので きる SF作家 は,2
は必ず しも多 くはなか った。
しか し,第二次世界大戦 を経て冷戦期 に入 ると,核兵器の恐怖 とい うかた
ちでテクノロジー乱用 に対す る不安が よ り一般的な ものとな った状況 を反映
して, SFは未来 に対す る不安 を従来 よ りも深刻 に取 り扱 うよ うにな ってい
9
4
0年代 に ジャンル と して様 々な可能性 を追究 し,5
0年代前半 におい
く。1
て成熟度を高めた SFは,まだ SF愛好家を中心 とす る限 られた読者 しか持 っ
ていなか ったとはいえ, レイ ・ブラッ ドベ リのよ うに, SFの枠 を越 えて文
学 と して評価 され る作品を書 こうとす る作家や, カー ト・ヴォネガ ッ トのよ
うに,基本的には主流文学作家であるが,代表作 の大半が SFで もあ る作家
が登場 して きて, SFと主流文学 の境界線がい くらか揺 らぐよ うにな った。
5
0年 代 にお いで は, ブ ラ ッ ドベ リが 『華氏 四五一度 』 (
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)で, マ ッカー シズムを思 わせ る,本 を読む ことが禁 じられ焚書 が行 わ
れている未来社会を風刺的に描 き, ヴォネガ ッ トは長編第一作 『プ レイヤー ・
-
28 -
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
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)で,機械 のために失業 した労働者 たちの叛乱
ピアノ』(
と挫折 を描 いた。
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ヴォネガ ッ トの短編小説 に,「ハ リスン・バージロン」(
1
961
) とい う近未来 の管理社会 における ミュータン トを扱 った, よ く知 られ
た作品がある。 1) この社会で は,すべての人間が平等 となることを目指 して,
優れた者 の高 い能力を発揮 させないような処置がされている。 たとえば,身
体能力 に優れた者 に対 して は身体 にお もりをっけて動 きを不 自由な ものにさ
せ,知的能力 に優れた者 に対 して は騒音 によって思考 を妨 げる。 さ らには,
美 しい顔 を持っ者 に対 してマスクをっ けることを義務づ けている。 こうして
各人 の長所が剥奪 され,すべての人間が最 も劣 った者 の レベルにまで引 き下
ろされ る悪平等社会が成立 している。
主人公 のハ リス ンは ミュー タン トで,常人 よりも遥かに優れた能力 を持 っ
ていたため,並外れた- ンデ ィを負 わされる。彼 は反抗 し,結局抹殺 されて
しま う。 この作品 は,共産主義 の問題点 を念頭 において書かれた もの と考え
られ るが,それを越えて,生政治 の行 き着 く果てを描 いた もの と して, いま
で もイ ンパ ク トを持 っている。
SFで ミュータン トもの といえば, シオ ドア ・スタージョンの 『人間以上』
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3
)がたいへん有名だが,そのスタージョンは 『ヴィー
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0
)で,人間を人工 的に両性具有 に して
ナス ・プ ラス Ⅹ』(
男女 の差 をな くす る社会 を措 いてお り, これは生政治 に ジェンダーがか らん
だ作品 と して注 目されている。
5
0年代後半 か ら 6
0年代前半 にか けて停滞期を迎えた S
,
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0年代半 ば
頃か ら始 まる 「ニューウェーブ」 によって息を吹 き返す。 この新 しい潮流 は,
実験的な試みを特徴 とす るもので,人間の内面を重視 しつつ未来 に対 しての
不安 を柔軟 に取 り扱 うことによ って, SFをより深 く幅広 い ジャンルへ と高
めることに貢献 した. ニューウェーブの中心的作家 といえ るのはイギ リスの
- 29-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
∫・G・バ ラー ドだが, ニューウェー ブの作家 とい うレッテルを貼 られて は
いないフィ リップ ・K ・デ ィックやア- シュラ ・K ・ル-グィンも,バ ラー
ドたちの作品 に劣 らない,娯楽性 と文学性 を兼ね備 えた代表作 を 6
0年代 に
発表 している。 デ ィックの 『
高 い城 の男』(
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)
とル-グ ィンの 『闇の左手 』 (
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6
9
) は, それぞ
れ両者 のおそ らく最 も高 い評価 を得て いる作品 といえ るだろう。
デ ィックは 6
0年代 に数多 くの長編 SFを書 いているが,『ア ン ドロイ ドは
電気羊 の夢 を見 るか ?』(
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,以後
『ア ン ドロ羊』 と略す) もその うちのひ とっである。 以後 この作品を,作 中
に描かれ た社会 の生政治 的 な側面 に留意 しなが ら詳 しく検討 してみ たい。
,
『ア ン ドロ羊』 は 『ブレー ドランナー』 とい うタイ トルで映画化 された もの
がかな りの注 目を集めた こともあ って, デ ィックの作品の中ではおそ らく最
も広 く知 られている。
デ ィックは 50年代か ら作家 と しての執筆活動 を始 め,数冊 の長編小説 を
0年代 に独 自の作風 を確立 して SFジャンル内でその実
発表 して いるが ,6
力 を認 め られ るよ うにな った。 70年代 には哲学 的,宗教的 な傾 向を強め,
カル ト的な人気 を獲得す る。 彼 は 1
982年 に心臓発作で死去す るまで,一部
の読者 か ら熱烈 に支持 されて はいたが,彼 の業績 は必ず しもSFとい うジャ
ンルを越えて広 く正当に評価 されて はいなか った。
彼 の死 の直後公開 された 『ブ レー ドランナー』 は,それまで知 る人 ぞ知 る
存在であ ったデ ィックが SFファン以外 の読者か ら認知 されてい くひ とつの
契機 にな った。 またこの映画のイ ンパ ク トは,従来 デ ィックの膨大 な作品群
の中で とりわ け知名度や評価が高 いわ けではなか った 『ア ン ドロ羊』 杏,彼
の代表作 にまで引 き上 げて しまったよ うな ところがある。 専門家か らはそれ
まで失敗作 と見 なされがちだ った 『ア ン ドロ羊』 は,『ブ レー ドランナー』
公開以後,数多 くの作品論が書かれ, その評価が見直 されてい くのだが, そ
-30-
『ア ン ドロイ ドは電気羊 の夢 を見 るか ?』論
のような論考の大半が この映画 に言及 している。
映画 『ブレー ドランナ-』 には原作 と違 ったところがあるということは,
よ く知 られている。 しか しまった く別の作品 といえるほどかけ離れているわ
けで もない。人間の支配を脱 した数体のア ン ドロイ ドを, ア ンドロイ ド・ハ
ンターである主人公が倒 してい くが,やがてその主人公が, ア ン ドロイ ドが
あまりにも人間に似す ぎているため,- ンタ-としての仕事を続 けてい くこ
とに疑問を抱 くよ うになる, とい う筋立 ては共通 している。 (ただ し,映画
においては 「ア ン ドロイ ド」の代わ りに 「レプ リカ ン ト」,「- ンタ-」 の代
わ りに 「ブレー ドランナー」 とい う言葉が用 い られている。)
映画 と原作の共通点 と相違点 に関 して は,マ- ビン ・ス ミスが丁寧 にまと
めているので,彼が指摘 している相違点 を一部紹介 してお く。 2) ス ミスは相
メ ジャー ・デ ィ7 7レンス
マ イナー ・デ ィフ Tレ ンス
遠点を 「
大 き な 違 い」 と 「
小 さ な 違 い」 に分 け,「レプ リカ ン ト」 など
の名称の違 いは後者 に分類 している。 そ して 「
大 きな違 い」の中で,映画 に
な くて小説 にあるもの として六っの点を挙 げている。一点 目が情調オルガ ン
という人間の気分をコン トロールす る装置。二点 目が本物のペ ッ トの代わ り
になる人造ペ ッ ト。 タイ トルに示 され る 「
電気羊」 もこの人造ペ ッ トの一種
である。 三点 目がマーサ リズムという宗教。四点 目がバスター ・フレンドリー
とい う人気 タレン ト。彼 はマーサ リズムの欺臓を暴 く,人間を装 ったア ン ド
ロイ ドである. 五点 目が フィル ・レッシュというア ン ドロイ ド・ハ ンター。
彼 はバスターとは逆 に, ア ン ドロイ ドで はないか とい う疑惑が持たれ るが実
は人間であることが判明す る。六点 目が人間に取 って代わろうとするア ン ド
ロイ ドの組織的陰謀。
以上の六点 は,映画では割愛 されたけれ ども小説の中では重要な役割 を果
た している。 またス ミスは,映画の レプ リカ ン トよ りも小説のア ン ドロイ ド
のほうが,感情を持 たない冷た く打算的な存在 として描かれていることも指
摘 している。 以上の,映画 と小説の違 いをふまえた うえで,対象を小説 に し
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『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか ?』論
ぼ って論 を進めてい くことにす る。
『ア ン ドロ羊』 とい う小説 は, デ ィックの特徴が典型的に表れた作品 とい
うことがで きる。 概 してデ ィックの SF的なアイデアは,それ 自体特 に斬新
な もので はな く,使 い古 された陳腐 な ものであることも珍 しくない。 しか し
デ ィックとい う作家 は, ひとっの作品の中にアイデアを多数,次か ら次へ と
投入 し,それ らを複雑 に組 み合わせ ることが巧みであ り,読者 を決 して退屈
させない。 このよ うな手法 によ って,読者を楽 しませ ると同時に考え させ る,
つ まり娯楽性 と文学性を兼 ね備 えた作 品が生み出されている。陳腐 な ものを
魅力的な ものに変えて しまう彼 の手並 みは,錬金術師を連想 させ る。 デ ィッ
クが好んで取 り上 げ,読者 に提起 したのが, ホ ンモノとニセモノの区別 の難
。
しさを巡 る問題である 『ア ン ドロ羊』 も, ニセモノの人間であるア ン ドロ
イ ドとホ ンモノの人間の区別 を中心的 なテーマとして扱 った作品であ り, そ
れにマーサ リズム,人造ペ ッ ト,情調オルガ ンなどがか らんで,複雑なプロッ
トが展開 され る。
この小説 の舞台 となる近未来 の地球 は,最後の大戦 を経て放射能で汚染 さ
れ,人間たちの多 くが植民地である火星 などの他 の惑星 に移住 したため, い
まや一部 の人間 しか残 っていない。 ア ン ドロイ ドは植民地 の惑星 において労
働力 と して利用 されていたが,地球 に入 って くることは認 め られていなか っ
た。技術が進歩 して人間 と見分 けがっかないア ン ドロイ ドを作 ることが可能
とな ったが,そのよ うなア ン ドロイ ドの中か ら人間 に逆 らって 自発的 に行動
す る者が出て きた。人間を装 ったア ン ドロイ ドが何体か地球 に入 り込 んだの
に対 して, ア ン ドロイ ド・- ンクーである主人公 の リック ・デカー ドは警察
か ら侵入者 たちの処分を命 じられ る。
ア ン ドロイ ドがあまりに も人間 に似 て しま うと,人間のふ りを したア ン ド
ロイ ドをニセモノと見抜 くことが容易でな くなって くる。 また人間の側 に も,
アン ドロイ ドをどう見 た らよいのか混乱が生 じて くる。 もはや単 なる機械 と
- 32-
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』論
見なせな くなって も不思議ではない。実際に リックは,ア ン ドロイ ドを処分
することが心理的に困難 にな り,職務を遂行で きな くなってい くのだ.単 な
る機械であれば人間のために利用 され るのは当然のことで, どれほどア ン ド
ロイ ドを酷使 しようと,それは搾取や虐待 とい うことにはな らないだろ う。
しか しアンドロイ ドが自分の意志 を持 ち,人間に勝 るとも劣 らない知性 を備
えていて,外見上人間 と区別がっかない とすれば, アン ドロイ ドを人間の思
い通 りに利用 しよ うとす ることは,搾取 に相当す るのではないか という疑念
が起 こって さて もおか しくない。
シェ リル ・ヴィン トは, この小説 における人間のアン ドロイ ドに対す る扱
いを搾取 と見な し,それを動物や女性,労働者,有色人種 などの弱い立場 に
立たされた人間に対 してなされて きた搾取 と結 びっける。
ア ン ドロイ ドを処分可能な もの と して扱 うことを正当化する理由は,
搾取可能なア ン ドロイ ドの労働力への人間の依存 と明確 に結 びっいてい
る。 その労働力がなければ,だれ も衰亡す る地球か ら脱出することはで
きないのだ。 とすれば, この小説 にお けるアンドロイ ドの扱 いは,われ
われが昔 も今 も動物か ら搾取 していることに対する論評 になっている0
さらには,女性,労働者階級,有色人種, とりわけ奴隷 にされた人種 な
ど動物 に見立て られた人間たちか らの搾取 も論評 されている。 3)
しか し,むろん この小説 はア ン ドロイ ドにも人権があると訴えかけている
ものではない。 ヴィン トも搾取す る側であ る人間の倫理性の低下を批判 して
いるだけである。 また, ア ンドロイ ドが,弱い立場 に置かれた人間を比愉的
に表現 した ものだ と考えることも難 しい。 ア ン ドロイ ドは感情を持たず,他
者 に共感す ることが決 してで きないか らである。 そ して, これ こそ人間 とア
ン ドロイ ドの間の最 も際立 った相違点 なのだ。
ー 33-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか ?』論
ところが皮 肉な ことに, この近未来社会 においては人間が豊かな感情 を失
い,他者 と共感す ることがで きな くな っている。人間の非人間化, ア ン ドロ
イ ド化が進行 していると言 って もよいだろう。 先に, この小説 と映画 『ブレー
ドランナー』 の大 きな違 いとしてマ- ビン ・ス ミスが指摘 していた ものを六
点紹介 したが, それ らはこの人問の非人間化 と深 く係 わるものである。
まず情調 オルガ ンは,人間の感情 を コン トロールす る機械である。 さまざ
まな感情 のメニューか ら自分の望 む ものを選択す る主体 は人間であるとい っ
て も,出来合 いの感情 を外か ら注入 され るとい う意味で, この装置 は人間本
来の感情 の豊 か さを損 な うもののよ うに思われ る。 あるいは逆 に,人間が豊
かな感情を持 ちえな くなったので, このような装置が開発 され,普及 していっ
たのか もしれない。
人造ペ ッ トは,人間の動物 に対す る愛情が枯渇 していることを示 している。
環境が悪化 し,すべての動物が希少 な ものにな ったため, ホ ンモノの動物 に
は高 い値がっ いている。 だか らホ ンモノの動物 をペ ッ トと して飼 うことは,
ステイタス ・シンボル となる。人造 ペ ッ トはホ ンモノに見紛 うはどよ くで き
てお り,ニセモノのステイタス ・シンボルとして利用 される。 いずれにせよ,
見栄のためにペ ッ トが存在 してお り,動物 に対す る愛情 は二 の次 にな ってい
る。 リックが ア ン ドロイ ドを処分す る仕事 を引 き受 けるのは,高額 の報酬 を
手 に して, それで ホ ンモノの動物 を買 いたいか らだ とい うことが強調されて
いる。
マ-サ リズムは,超越的な人格であ るウィルバ ー ・マーサ-と共感 ボ ック
スという装置を用 いて一体化 させ ることによ り人間 に救 いを もた らす, この
近未来社会 において唯一 の有力 な宗教 である。共感 ボ ックスはマーサ-の受
難 の視聴覚的イメー ジだけではな く,石を投 げ られたときの傷 の痛 みのよ う
な触覚的刺激 も与 え, さ らには利用者がマーサ-のみな らず他 のすべての利
用者 と一体化す ることを促す。
-3
4-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
バスター ・フレン ドリーは,マーサ-が実在 の超越的人物ではな く, アル ・
ジャ リー とい う映画俳優が演 じる架空 の存在 にす ぎない ことを暴露す るが,
ア ン ドロイ ドであ るバ スターが マーサ リズムを批判す るのは, マーサ リズム
の根幹 となる人間の共感能力が, ア ン ドロイ ドと人間を隔て るものだか らだ
と考 え ることもで きる。 とはいえ, マーサ リズムにおける人間の共感 には,
自発的で はな く不 自然 な側面 もあ る。
マーサ リズムの問題点 はこれ まで何人 もの研究者 か ら指摘 されているが,
とりわ け ジル ・ギ ャルバ ンの捉 え方 は生政治 とも係 わ って くる興味深 い もの
であ る。作 中でバス ターがマーサ リズムを以下 のよ うに ヒ トラーの ファシズ
ムになぞ らえている。
「しか し, この ことをよ く考 えてみて くだ さい。」 バ スター ・フ レン ド
リ-は続 けた。 「マーサ リズムが何 をや って い るのか, 自問 してみて く
だ さい。多 くの信者が言 うことを信 じるな らば,経験が一体化 して--・
」
「人間 には可能 な共感 とい うやつだね」 とアームガー ドが言 った。
「--太陽系全域 における人間たちが単一 の存在 になるのです。 だ けど
その存在 は, マーサ-のいわゆ るテ レパ ー シーの声 によ って操 ることが
で きます。 それが問題 なのです よ。政治的野心 を持っ ヒ トラー気取 りの
者 であれば--」 4)
ギ ャルバ ンは この箇所 を引用 した うえで,次 のよ うに述べている。
バ ス ター ・フ レン ドリーが彼 な りの不器用 なや り方であて こす って い
るよ うに, マーサ リズムとその核心 で あ る共感 のイデオ ロギーは,人間
の先天 的 な性質 にア ピールす ることはな く,政府が扱 いに くい人民 を コ
ン トロールす るための手段 と して機能 して いるにす ぎない。 5)
- 35-
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』論
さ らにギ ャルバ ンは,権力がマーサ リズムを利用 して, いかに人民を コン
トロール しているか詳 しく論 じているO
しか し共感 の倫理的価値観を系統立てて公表す ることによ って,体制 は
こうした機械への依存 を隠蔽す る。体制 は, 自律的な人間たちが結 びつ
いて親愛 の情 を交 し合 っているという幻想 を維持す る. た しか に, マー
サ リズムと人間の本質的な共感 に対す る大衆 の信仰 を継続 させ ることに
よってのみ,国家 はテクノロジーが個人の生活をどれだけ侵害 している
か, そのメデ ィアの見世物が政府 による市民 の活動 のチェ ックをどれだ
け可能 に しているかを,唆味にす ることがで きるのだ。 したが って, ア
ン ドロイ ドを追放す ることは政治 の権力者 にとって最 も都合がよい。坐
気 に満 ち十分 な知性 を備えた被造物であるア ン ドロイ ドは,人間が 日常
生活 において 自分 を取 り巻 いている機械 よ りも生物学的に勝 っていると
い う個人 の認識 に対 して,真 っ向か ら挑戦 して くるか らである。 人間 と
ア ン ドロイ ドが 自由に共存す る共 同体 は,市民 に対 して主体性がすでに
犯 されていることを警告す るだけではな く,全体主義国家 にとっての究
極の脅威 となるものを復活 させ るだろう。 国家 の多様 な成員が相互 の戟
愛 と要求 によって結 びつ き, 自分 たちを支配す る権力 に反抗 して立 ち上
が るとい う脅威である。 6)
権力側 は人間の非人間化を進 めて きたが, それを人間 に悟 らせないため,
マーサ リズムを使 って人間 とア ン ドロイ ドの違 いを強調 し, さ らには両者 を
反 目させ ることによ って,反乱 を未然 に防 いでいるとい う, なかなか説得力
のあ る解釈 である。 ただ し, この作品 において,権力の姿 は見定めることが
難 しい。権力 は, ギ ャルバ ンの説 くよ うな明確 な意志 を必ず しも持 っていな
いよ うに も見え る。 権力 に関 してはまたのちに再 び検討 してみたい。
- 36-
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか ?』論
ア ン ドロイ ド・ハ ンターの フィル ・レッシュも,人間の非人間化 を考えさ
せ る存在である。 ア ン ドロイ ドには偽造 された記憶 を植えつ け られて, 自分
が人間であると信 じている者 もいる。 レッシュも,そのようなア ン ドロイ ド
なのではないか と疑 いが持 たれ,彼 自身 も自分 のアイデ ンテ ィテ ィに確信が
持てな くな ってい く。 結局,彼 は人間であることが判明す るのだが, それに
して も,人間が 自分の記憶 を疑 い,出自に不信 の 目を向けなければな らない
このよ うな状況 は,非常 に不健全である。 ア ン ドロイ ドに偽の記憶 を植 えつ
けることが技術的に も倫理的に も可能であるとすれば,人間に対 して同 じこ
とがなされないとも限 らない。
レッシュにア ン ドロイ ドではないか とい う疑 いがかか るのは,彼が ア ン ド
ロイ ド・- ンクーとして通 っていた警察署 に,人間を装 ったア ン ドロイ ドが
入 り込んで警官 として ポス トを占めてい るとい うこともあ ったか らだが, こ
のよ うに人間 に取 って代わろうとす るア ン ドロイ ド側 の陰謀 も,むろん人間
の非人間化 と連動 した ものである。
しか し, この陰謀 は人間側 の権力 とど う関係 しているのだろうか。 この小
説 は, リック ・デカー ドの はか, ジ ョン ・イ ジ ドアとい う知能が低 いため
ス
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特 殊」 と分類 されているキ ャラクターが視点人物 とな っているが, この二
人 には権力 の姿が はっきりと見えていないので,読者 の解釈 に委 ね られ る部
分 も小 さ くない。 ギ ャルバ ンの解釈 は先 に紹介 したよ うに,権力側が人間 と
ア ン ドロイ ドの違 いを強調す ることで,両者を反 目させているとい うもので,
したが って, ア ン ドロイ ドの陰謀 は権力 に対す る反撃 と捉え られ る。 しか し,
ア ン ドロイ ドを製造 し, それを限 りな く人 間に近 い ものに向上 させてい った
の も,や は り権力なのである。
ア ン ドロイ ドの有力 なメーカーであるローゼ ンは,女性型 ア ン ドロイ ドの
レイチェルを使 って, リックたちア ン ドロイ ド・- ンタ-を色仕掛 けで誘惑
し,彼 らの職務 に対す る意欲を低下 させ ることによって, ア ン ドロイ ドが処
- 37-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
分 され るのを妨 げよ うとしている。 しか しローゼ ンが権力の意向を無視 して,
ア ン ドロイ ドの陰謀 に加担 しているとは考えに くい。
ア ン ドロイ ドを取 り締 まろ うとす る警察 も, ア ン ドロイ ドを守 ろ うとす る
ローゼ ンも,権力機構の末端であ り,根 はひとっであるはずなのだ。 しか し,
必ず しも権力の中枢が末端 を完全 にコ ン トロール しているとは限 らない。縦
割 り行政 に似た現象が起 きている可能性 もある。そ もそ も権力の中枢 自体が,
一貫 したぶれることのない方針を持 っているわけではないか もしれない。ギ ャ
ルバ ンは, メデ ィアが権力 と してはた らく場合 もあることをふ まえつつ, こ
の作品においては,権力者が メデ ィアを利用 して人民を支配 していると考 え
ているが, はた してそ うなのだろうか。
『ア ン ドロ羊』 において は, メデ ィアその ものが権力 のすべて とは言わな
いが,権力がかな りメデ ィア的な性質 に染 め られているよ うだ。行政 と資本
とメデ ィアが確 たる理念 もないまま結 びついて,場当た り的に動 いて いるた
め, あち こちで混乱が生 じていると考 えたほうがよいだろ う。 つ ま り, この
権力 は ヒ トラーのよ うな独裁者が握 っているのではな く,顔が見 えず確固 と
した人格 を持 たない無責任 な人間の集団 によって行使 されているのである。
末端で縦割 り行政 のよ うな背反が見 られ るところは官僚的 といえ る し,情
調オルガ ン,共感 ボ ックス,人造 ペ ッ トなど,本来 はな くて もよいよ うな も
のを,生活 に不可欠であるよ うに人 々に思 い込 ませ,商品 として購入 させて
いる点 は,商人的である。 また, マーサ リズムによって人 々を洗脳 しよ うと
す るい っぽ うで,バ スターを使 ってそのマ-サ リズムの欺橘を暴かせ るや り
口は,人気者 を作 り出 しては引 きず り下 ろ してい くマスコ ミを思 わせ る。バ
スターはマスコ ミにおける人気者で常 時テ レビ番組 に出演 しているが, 出演
の場が保証 されているか らには彼 は権力側 に属す るはずで, そのバ ス ターが
権力 にたてついてア ン ドロイ ドの陰謀 に加担 していると考え ることは難 しい。
彼がマーサ リズムを こきおろすのは,主 と して視聴者 を楽 しませためである
-
38 -
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
と考えるのが順当だろう。 スキ ャンダルを通 して何かを主張す るというよ り,
スキ ャンダルが 自己目的化 しているのだ。
以上 のよ うに,『ア ン ドロ羊』 における権力 は,行政,資本, メデ ィアの
。バ スター
性質を併せ持 ち,主体性 を欠 いた無責任 な ものであると考 えたい
が暴 いたように, マーサ-は俳優 によって演 じられた役 にす ぎず, またその
バスター自身 もア ン ドロイ ドであって,主体的に行動 しているとい うよ り,
出演 している番組 における要求 に応 じたまでであろう。 マーサ リズムの筋書
きを書 いた者 も,バスターの番組を演出 している者 も,決 して特定 され るこ
とはな く,顔が まった く見えて こない。
特定の個人や集団が支配欲 に基づいて権力を行使す るのではな く,行政 に
せよ,資本 にせ よ, メデ ィアにせよ,人 々のためによかれ と思 ってや ってい
ることが,人間の非人問化 を推 し進 めていると考え られ る。 それは独善的 と
さえいえないか もしれない。一般大衆の側 も,情調 オルガ ン,人造 ペ ッ ト,
マーサ リズムなど,権力が与えて くれるものを喜んで享受 しているのだか ら。
人間の思い通 りにな らな くな ったア ン ドロイ ドを,警察 は処分 しようとし,
メーカーは守 ろ うとす る, この権力機構末端 における背反 を先 に縦割 り行政
にたとえたが, これはメデ ィアに見 られ る節操 のなさと響 き合 うところ もあ
る。 いま日本 のメデ ィアが犯罪 を報道す るときの,犯罪者 に対す る憎悪 を煽
りなが ら,同時 に犯罪者 の人権 を守 ることに も気 をっか う両義的な手法が連
想 され るのだ。 さ らには,暴力団 と関係 を持 った者が新聞やテ レビで非難 を
浴 びるいっぽ うで,暴力団員 を英雄 のよ うに扱 う雑誌 や映画 もある。 メデ ィ
アの種類が違 うか ら,犯罪者や暴力団 に対す る考え方 も異 なるのだ とい う理
屈 もつけられるだろうが, どのメディアも根 はひとっである。つまり,メディ
アは言論 を売 っているのである。売れなければ仕事 にな らない。だか ら売れ
るよ うな言論 を提示す る。 理念 は二の次である。 あるいは理念 自体が売 り物
となる。
-
39 -
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
『ア ンドロ羊』 における権力 にも理念などあ りは しない。救 いを必要 とす
る人間にはマーサ リズムを提供 し, この宗教 に全体主義や悪平等 の匂 いを喚
ぎ取 って疑問を抱 く者 に対 しては,マーサ リズムの欺病性を暴露 して満足感
を与える。人間に近 くな りす ぎたアン ドロイ ドを恐れる者のために- ンクー
を使 って反抗的なア ン ドロイ ドを退治す るいっぽ うで, この人造人間の有用
性 を評価する人 たちに向けてハ ンターの標的を保護す る姿勢 も示す。 メディ
アに似て,ずいぶん大衆迎合的だ といえるだろう。
この近未来社会 において,人々はそれな りに満足 して 日々を暮 らしている
よ うに見える。 権力 によ って生活を管理 され,人間 らしさを奪われていると
い う自覚 はなさそ うだ。大半の人間たちは,放射能に汚染 された地球 を離れ,
植民地 となった他の惑星で労働力 としてのア ンドロイ ドを支給 されて,便利
で豊かな生活を送 っている。権力側 も,おそ らくコス トを計算 しての ことで
あろうが,人間が地球 を離れ るよ うメディアを通 して大いに煽 っている。 地
球 に残 っているのはわずか数千人 にす ぎず,その中には地球をどうして も離
れた くない者のほかに, イ ジ ドアのよ うに,離れた くて も被曝のため遺伝的
に劣等 と見なされて,それが許 されない者 もいる。 地球 に住む人間たちは,
現状 に不満がないとはいえないものの,権力 に責任を問お うとす るわけで も
なさそ うである。 やはり,地球での暮 らしにそこそこ満足 しているか らであ
ろう。
もちろんディックは,人間が便利 さを求めて機械 にたより,人間 らしさを
失 ってい くことに批判的である。 そ う仕向ける権力 よりも,利便,安楽を最
優先 して, 自分で ものを考えな くなって しまった個々の人間が批判 されてい
るように思われる。権力 はこうした人間たちに週合 しているにす ぎないのだ
か ら。
したが って,人間が主体性 を取 り戻すためには,社会の体制を変革するの
ではな く,個人が考えを改めることが必要 となる。おそ らくデ ィックは, こ
- 40-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか ?』論
の点 に関 してやや悲観的で,大半の人間が主体性 の回復 を必ず しも望 まない
と考えているよ うだ。 ただ し 『ア ン ドロ羊』 においては, イ ジ ドアや リック
のよ うな例外的存在が主要登場人物 として設定 され,微かな希望 の光 を とも
している。
リックは結末 において,失 われた主体性 を回復す る方向へ一歩踏み出す。
それに対 してイ ジ ドアは,知能が低 く劣等 な人間 として扱われているに もか
。
かわ らず, もとか ら強 い主体性 を持 っている 『ア ン ドロ羊』 において,人
間をア ン ドロイ ドと隔て る最大 の ものは共感力の有無であるが, それゆえ共
感力 こそが人間の主体性を支えているといえるだろ う。 この作品 において他
の誰 よ りも強 い共感力を持っイ ジ ドアが,最 も主体的な人間 らしい存在 に見
え るの もそのためである。 ただ し人間の共感 も, マーサ リズムに見 られ るよ
うに,度 を越 して 自分のすべてを他者 と同一化 させて しまう場合 には,危険
な ものにな りうる。 マーサ リズムに限 らず,宗教 とい うものは常 にそのよ う
な危険性 をは らんでいるといえ るだろう。 しか し人間が 自分 らしさを保 って
いる限 り,宗教 は恩恵 を もた らす可能性 を持 っ
。
共感力を望 ま しいかたちで
高 めることも少 な くないだろ う。 イ ジ ドア もマーサ リズムを信 じていたが,
マーサ-やすべての信者たちと同一化 して主体性を放棄す ることはなか った。
劣等感が強いために, 自分が他 の人たち と同 じだ と思 うことがで きなか った
とい う側面 もあ ったか もしれない。
イ ジ ドアの主体性 は,動物 やア ン ドロイ ドに対す る共感 において際立 って
いる。汚染 された地球では,動物が希少 にな っているので一般 に珍重 されて
いるものの, ペ ッ トがステイ タス ・シンボル として機能 していることか らも
分 か るよ うに,珍重 は必ず しも愛情を伴わない。 イ ジ ドアは人造 ペ ッ トを修
理 す る会社で働 いてお り,肺炎 になったホ ンモノの猫 を人造 の猫 と取 り違え
て死 なせて しま う。 その後始末 として,飼 い主 の妻 は夫 にペ ッ トの死 を知 ら
せ ることな く,死んだ猫 に似せた人造猫をっ くって, ホ ンモノの代わ りをさ
- 41-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか ?』論
せよ うとす る。 彼女 は,夫が この猫を大切 に していた ものの,身体的な接触
を避 けていたのでホ ンモノとニセモノの違 いが分か らないと言 うのだ。 イ ジ
ドア もホ ンモノの猫 をニセモノと取 り違えは したが,それは彼が ホ ンモノを
ニセモノ並みに軽視 していることを意味 しない。
彼 は,か くまってや った脱走中のア ン ドロイ ドのプ リスが興味本位 で クモ
の脚 を一本ずつ切断 してい ったとき, クモを哀れみ,苦 しみを長引かせ ない
よ うに自分 の手で殺 してやる。
プ リスは-サ ミで クモか らもう一本,脚を切断 した。突然 ジョン ・イ
ジ ドアは彼女 を押 しのけ,脚 を切 られた生 き物 を拾 い上 げた.
,彼 はそれ
を流 しまで持 っていき,溺れ させ た。彼 の中で,彼 の心,彼 の希望 も溺
れて しまった。 クモと同様,速やかに。
(
211
)
この場面 は,作中で人間の暖か さとア ン ドロイ ドの冷 たさの対照 を最 も印
象的 に措 いた ものである。 そ してイ ジ ドアは, プ リスのよ うに冷酷で危険 な
ア ン ドロイ ドに対 して も,思 いや りを持 って接 している。彼 にとって は,人
造 ペ ッ トもア ン ドロイ ドも,尊重 され る生命 を持 ち,共感 に値す る存在 なの
である。
ホ ンモノの生物 のみな らず, ニセモノを もホ ンモノに準 じて, もしくはホ
ンモノ同様 に愛す ることがで きるか ど うかが,人間の主体性 の維持や回復 と
つなが っている。 ホ ンモノの動物 をペ ッ トと して飼 うことにこだわ り, ペ ッ
ト購入 の費用を得 るために- ンタ-と しての職務 に励んでいた リックは,同
業者 の フィル ・レッシュを反面教師に して, ア ン ドロイ ドに同情す るよ うに
な り, それを通 して最終的に主体性 を回復す る。
女性型 ア ン ドロイ ドのルーバ ・ラフ トを レッシュが非情 に処分 して しま っ
たとき, リックにはそれが単 なる故障 した機械 の処分ではな く,人間の射殺
- 42-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
に類す るものに見えて しまった。 それ は, 自分が殺 し屋だ とい う認識 につな
が り,彼 は- ンクーとしての仕事 を続 けてい くことに自信が持てな くな る。
レッシュがルーバを倒 したときの冷 たさに違和感をおぼえた リックは, レッ
シュもア ンドロイ ドではないかという疑惑 を強めるが,検査の結果, レッシュ
はホ ンモノの人間であることが判明す る。 そ して逆 に, ア ン ドロイ ドに同情
しす ぎる自分 のほうがおか しいことに気づ くのだ。 しか も,同情で きるのが
女性型 ア ン ドロイ ドに限 られてお り,同情 は必ず しも純粋 な ものではな く,
性的な邪念が強 くはた らいている。 そのため リックの迷 いはいよいよ深 ま っ
てい く。
しか しレッシュの示 した非情 さを疑問視 しなければ,人間が ア ン ドロイ ド
には欠 けている共感能力を持っ とい う通念 が崩れて しまうだろう。 女性型 ア
ン ドロイ ドに性的関心 を示す こと自体, いささか倒錯的な もののよ うに見え
るけれ ども,それが リックの主体性 の回復 につなが るか らには,必ず しも否
定的に考えるべ きではない。 リックはのちに,女性型 ア ンドロイ ドの レイチェ
ル と性交す る。 レイチェルはこれまで, ア ン ドロイ ドに対す る戟意 を喪失 さ
せ るために,ハ ンターたちに色仕掛 けを して きたのであ ったが, リックに対
してはほのかに特別 な感情 を抱 くよ うになる。 ア ン ドロイ ドが感情 を持っ と
い うのは, ある意味で奇跡的な ことだ。 それは, こセモノの人間がホ ンモノ
の人間 に変身す るような ものだか らである。おそ らくリックの寄せた愛情が,
ニセモノをホ ンモノに変え る働 きを しているのであろ う。 ニセモノの人 間 は
ホ ンモノの人間 に, ニセモノの恋 はホ ンモノの恋 にな ってい く。
こうした 「嘘か ら出た実」 は, いか に も人間 くさい現象であるだけに,人
間の主体性回復 に大 きな意味を持 っ
。
マーサ リズムも,嘘で固めた ものであ
ることがバ スターによって暴かれ るが, それに もかかわ らず信ず る者 に対 し
て実 りを もた らしている。 マーサ-は俳優 によ って演 じられた架空 の人物で
あ った と判明 しなが らも,超越的な存在 と してイ ジ ドアや リックの前 に現れ,
ー4
3-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか ?』論
彼 らに救 いの手 を差 し伸べ るのだ。 マーサーは虚構 の神話 において死んだ動
物を廻 らせ る能力を持 っていたが, イ ジ ドアの前 に現れたマーサ-は, プ リ
スが脚 を切断 しイ ジ ドアが死 なせたクモを延 らせ る。 それ もまた幻 にす ぎな
い可能性 もあるが,少 な くともイ ジ ドアはクモが建 ったと考え ることによ っ
て救われている。
また, ア ン ドロイ ドを倒す ことに疑問を感 じ始 めた リックに対 して, マー
サ-は リックの仕事が間違 った ものであるに もかかわ らず,それをや り遂 げ
なければな らないと忠告す る。
「なぜ」 と リックは言 った。「なぜわた しはそ うしなければな らないの
ですか。 わた しは仕事 を辞 めて地球 を離れ るつ もりです。」
年老 いたマーサ-は言 った。「あなたはど こへ行 こうと,間違 った こ
とをや る必要がある。 自分 のアイデ ンテ ィテ ィを崩す ことが求め られ る。
それが生 きるとい うことの根本的な条件 だ。 どのような生 き物 で も,生
きている限 りいっかそ うしなければな らない。 それが究極 の汚点,創造
の敗北 なのだ。 この呪いが はた らいていて,すべての生命 を食 い物 にす
」
る。宇宙全域 において。
(
1
79)
そ してマーサ-は, リックが最 も手 ごわい敵であるプ リスを倒す にあた っ
て手助 け している. むろんマーサ-は, ア ン ドロイ ドに対す る共感 を否定 し
ているわ けではあるまい。 ア ン ドロイ ドを人間同様 の生命を持っ存在 と見 な
した うえで, それで も危険な敵 として殺 さなければな らないときもあ り, そ
れをや り遂 げるの もまた人間の人間た るゆえんだ と教 えているのであろ う。
この考え方 は もともとマーサ リズムに組 み込 まれてお り, マーサ-は信者 に
31
) と告 げている。
対 して 「
汝 は殺 し屋だけを殺すべ し」 (
マ-サ リズムに浸 りきってマーサ- と一体化す ることはた しかに主体性放
- 44-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか ?』論
乗 の危険を伴 うが, リックがア ン ドロイ ド退治 についで悩み苦 しんだよ うに,
自分 自身で困難 を引 き受 け試行錯誤す る限 りにおいて, マーサ リズムは有益
な手引 きにな っているよ うだ。 リックは,主体性を保 ったままマーサ-と一
体化 したときの ことを以下のよ うに語 っている。
「おか しな感 じだ。」 リックは言 った。「わた しは自分がマーサ一にな っ
て人 々か ら石を投 げっ け られ る, とうてい幻 とは思えないほどあま りに
も真 に迫 った幻を見 た。 だがそれ は,共感 ボ ックスの- ン ドルを握 って
いるとき経験す るよ うな ものではない。共感 ボ ックスを使 うときはマー
サ-といっしょにいるような感 じがす る。 しか し,わた しは誰 といっしょ
にいたわけで もなか った。独 りだ ったんだ。
」
(
23
4)
物語 の結末 において,すでに- ンタ-の仕事 を辞 める決意 を している リッ
クは,絶滅 したはずの ヒキガェルを発見 し, たいそ う喜んで家 に持 ち帰 る。
妻 のイラ ンは, その ヒキガェルが人造 の ものであることを見抜 いて, それを
リックに知 らせた。彼 は落胆す るが,気 を取 り直 し,以下のよ うにニセモノ
に も生命が あることを認 める。
「
大丈夫 だ。」彼 は当惑 したまま,頭 をす っきりさせよ うと したかのよ
うに首 を振 った。「マーサ-が間抜 けのイ ジ ドアに与えたクモ も, たぶ
ん人造 だ ったんだろうな。 で もそれ ほどうだ っていいんだ。電気仕掛 け
」(
2
41
)
の ものだ って命を持 っている。 取 るに足 りない命であって もね。
客観的 には, ホ ンモノとニセモノが違 ってお り,区別 しうることはい うま
で もない。作 中で人間 とア ン ドロイ ドを区別す る手段がい くつか紹介 されて
いるが,決定的な手段 は骨髄検査である。 しか し生 きている人間をおいそれ
- 45-
『アンドロイ ドは電気羊の夢を見るか?』論
と解剖 して骨髄 を検査す るわけにはいかない。 それが倫理であ り, また人情
で もある。 人間であるか らこそ,人間 とア ン ドロイ ドを区別す るための決定
的な手段 を とることがで きないのだ。逆 に,人情 を捨てた人間は,人間の身
体 を保 ちなが ら, ア ン ドロイ ドに類 した存在 にな って しまうだろう。
この ジレンマか ら脱す るには, リックやイ ジ ドアのよ うに, ニセモノに対
して もホ ンモノと同 じよ うに情 を寄せ ることが必要であるよ うに思われ る。
その情 とは,愛情 に限 った ものではな く, それ とは裏腹 の憎悪を含む ことも
あるだろ う。 リックの レイチェルに対 す る感情 は愛 と憎 の両面を持つよ うに
なっていった。また レイチェル も,ア ン ドロイ ドであるにもかかわ らず, リッ
クに対 して彼 と同 じよ うな愛 と憎 の感情 を示 しているよ うに見える。 た とえ
ば, リックか ら見放 されたあ とレイチ ェルが彼 の山羊 を殺 したのは,彼が 自
分 よ りも山羊 を可愛が っていると思 った彼女が嫉妬 したか らだ と考え られ る。
このよ うな情 こそが主体性 の根幹 といえ るだろ う。 リックは, ホ ンモノの人
間である妻 に対 して も,情 を寄せ ることをおろそか に していただけに, レイ
チェルのよ うな女性型 ア ン ドロイ ドに情 をか き立て られたのは,貴重 な経験
であ った。
結末 においては, リックと妻 の間の穏やかな愛情が描かれ,彼の達 した境
地が月並 みか もしれないが重要であることが強調 され る。 人間を機械 のよ う
に扱お うとす る生政治 の中で,人間が人間 らしく生 きるためには,結局, ひ
とりひとりが個別的に主体性を保 ちなが ら,他者 と情 を通 じ合わせ る しかな
いだろ う。 それ は自明の ことか もしれ ない。 ただ,『ア ン ドロ羊』が独創 的
なのは, その他者 にニセモノも含 まれていることであ る。 ニセモノを愛す る
ことによ って, ホ ンモノに対 しての愛 も深 ま り, いわば愛 自体がホ ンモノに
なるとい う逆説的な可能性 を, デ ィックは力強 く表現 しているのである。
-46-
『ア ン ドロイ ドは電気羊 の夢 を見 るか ?』論
本稿 は, 日本 アメ リカ文学会関西支部第 5
4回支部大会 (
201
0年 1
2月 4日,
於 :立命館大学)での口頭発表に加筆 した ものである。
注
1) この短編 小説 は, の ち に短編集 『モ ンキ ー ・- ウスへ よ うこそ』
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