鈴木貫太郎内閣はいかにして本土地上戦を経ないで、終戦に

1945年(昭和20)8月15日、日本
政府はポツダム宣言を受諾し、第
二次世界大戦は終結しました。
ここで大きな疑問がひとつ。
なぜ、鈴木貫太郎内閣は、本土
地上戦をせずに、終戦に持ちこ
むことに成功したのでしょうか。
(鈴木貫太郎首相)
相手を降伏させようとする国は、
まず首都を空爆し、その後、地上
軍を上陸させて首都を占領、
旧政府庁舎や警察、軍施設など
を制圧します。
空爆された
バグダッド(イラン)
逆に言えば、まだ、そうされてい
ないのであれば、最終的に戦争
に負けた、とは言えません。
日本軍に首都・南京を
占領された中国は、
首都を重慶に移して
抵抗を続けた
日本側も、連合軍の
東京上陸を予想し、
これを「本土決戦」と
呼んでいました。
「
呼国本
神上
び民土
風の
写かの決
」
特真け団戦
攻はる結に
隊 読を備
の 売 え
編 新 て
隊 聞 、
。
しかも、本土決戦にはとてもよい
お手本がありました。それは…
硫黄島の戦いでは、栗林中将率いる日本兵
約21000名がほぼ全滅しましたが、米兵の死
傷者はそれ以上の28000名にのぼりました。
日本は、本土決戦で「硫黄島の戦
い」を再現し、アメリカ議会で「もう停
戦したらどうか」という声があがるの
を待ち、できるだけ有利な条件で終
戦にもっていこうとしていたのです。
逆に言えば、それ以外には
「終戦」の方法が見あたらなかった
ということでもあります。
えっ? なんでサッサと
降伏しなかったのかって?
もし、本土決戦も
しないまま、
「降伏」したら、
どんな事態になると
予想されるでしょうか
第一に、天皇の処刑です。
1945年6月に米ギャラップ社がお
こなった世論調査によれば、天皇の
処遇について、アメリカ人の意見分
布は以下のようでした。
第1位 死刑(36%)
第2位 流刑(24%)
第3位 収監(17%)
合計77%のアメリカ人が
天皇の訴追・処罰を望んでいました。
第二は、閣僚や軍人の処刑です
実際、東京裁判では、文官の広田弘毅など、24名が
A級戦争犯罪人として起訴されました(7名処刑)。
1068名ものBC級戦争犯罪人が処刑されたり、獄死
しました。捕虜収容所勤務の民間人も処刑されました。
軍首脳は、降伏すれば、
部下たちの命が危ない
感じていました。
第3に、国民や軍人の反乱です
国民にしてみれば、政府のお偉方が「本土決戦」
もしないで、さっさと戦争をやめてしまったとしたら、
それは戦死者に対する裏切りだと感じ、許せない
と思うでしょう。
しかし、沖縄戦で十数万人の一般
県民が亡くなった悲惨な現実を
考えれば、もし「本土決戦」が実
施されていれば、沖縄の数倍の
犠牲が出て、恐ろしい事態となっ
ていたでしょう。
鈴木貫太郎内閣はどうやって、
「本土決戦」をしないで、終戦に持
ちこむことができたのでしょうか。
苦労したん
じゃよ・・・
そこには、そのために努力した人、
知恵比べ、だまし討ち、そして最後
には、自分の身を犠牲にして暴発
を未然に防いだ人、多くの人たちに
よるドラマがあったのです!
えっ!?
そうなの!?
鈴木貫太郎内閣はどのようにして
本土地上戦なしに終戦を達成できたのか
ファイル作成・村井淳志
1945(昭和20)年8月9日深夜 皇居地下防空壕での御前会議
鈴
木
貫
太
郎
内
閣
成
立
一
九
四
五
年
(
昭
和
二
○
)
四
月
八
日
前列中央・鈴木首相、向かってその右・米内海相
最後列中央・迫水書記官長、その右前・阿南陸相
当初、外相は鈴木首相が兼務、3日後に東郷が入閣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
東郷茂徳
外務大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
東郷茂徳
外務大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
迫水久常
内閣書記官長
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
東郷茂徳
外務大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
阿南惟幾
陸軍大臣
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
迫水久常
内閣書記官長
梅津美治郎陸軍参謀総長
東郷茂徳
外務大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
迫水久常
内閣書記官長
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
梅津美治郎
参謀総長
東郷茂徳
外務大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
阿南惟幾
陸軍大臣
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
迫水久常
内閣書記官長
豊田副武海軍軍令部総長
東郷茂徳
外務大臣
鈴木内閣のおもな顔ぶれ
鈴木貫太郎
総理大臣
迫水久常
内閣書記官長
米内光政
海軍大臣
阿南惟幾
陸軍大臣
梅津美治郎
参謀総長
東郷茂徳
外務大臣
豊田副武
軍令部総長
鈴木内閣発足の2ヶ月前、元首相で
公爵の近衛文麿は昭和天皇に
「もはや敗戦は必至、しかし敗戦よ
りも憂うべきは共産革命。速やかに
終戦の方途を講ずべき」
と進言していた。(近衛上奏文)
昭和天皇も、側近の武官に
房総半島を見に行かせた。
すると、竹槍訓練をしてい
て、まともな装備もなく、
とても勝てそうにない。
天皇も遂に終戦の決意を
固め、密かに鈴木首相や
東郷外相と、終戦の方法に
ついて検討を始めた。
外務省のアイディアは、日本と
中立条約を結んでいたソビエト連邦
に、英米との仲介を頼んで、なんと
か停戦にもっていこうというもの
ソ連の指導者スターリン
しかしスターリンは、
ドイツ降伏後、ベルリン
を占領したソ連軍に、」
冬装備なしに、ソ満国境
に向かへと指示して
いた!
冬が来る前に、
日本に宣戦布告する
つもりだったのだ!
残り時間がなかった。連合軍は9月に
房総半島と大隅半島で上陸作戦を
準備していた。あと1ヶ月で終戦でき
なければ、自動的に
本土決戦突入。
ソ連への仲介依頼が
全然進まず、東郷外相
が困っていたところに…
7月26日ポツダム宣言が発表された!
米軍が爆撃機から撒いたポツダム宣言のビラ
内容は…
1,連合軍による一定期間の日本占領
2,日本の領土は、本州・北海道・九
州・四国ならびに小諸島に限定する
3,軍隊は解散し、兵士は平和産業に
4,俘虜虐待など戦争犯罪人の処罰
東郷外相も、松本俊一外務次官も、
「これは無条件降伏じゃない、条件
降伏だ。これなら受諾できるかも」
と喜んだ。昭和天皇も、
「ぜひ受諾の方向で話を進めよ」
と命じた。
松本俊一外務次官
終戦の方法に、「本土決戦」以外に、
「ポツダム宣言を受諾」
という第二の選択肢ができたのだ。
しかしあくまでまだ、第二選択肢でしかな
かった。依然として第一選択肢は
「本土決戦」だったのだ。
鈴木内閣は「これを重要視
しない」と発表した
報ポ
ずツ
るダ
読ム
売宣
新言
聞を
「
笑
止
」
と
そこへ8月6日朝…
ここでみなさんに質問です。
鈴木首相を初め、閣僚の皆さん
は、「原子爆弾」という言葉や
その意味を知っていたでしょうか。
① まったく知らなかった。
② 説明を受けたことがある
③ よく意味がわかっていた
正解は③!
なぜ知っていたかと言えば、
日本もできれば「原子爆弾」を
開発しようとしていたからです。
広島に投下されたウラニウム型原爆リトルボーイ
1930年代、原子核を連続的に
分裂させれば、巨大なエネルギ
ーが引き出せることは、世界中
の物理学者たちにはよく知られ
たことだった。
核分裂させるためには、原子核
が大きい方が都合がよい。自然
界で一番原子核が大きい(原子
番号が大きい)物質は ウラン
しかし、ウランに中性子をあてても
核分裂が連続して起きない!!
何でやねん!
ところが!
ついに!
核分裂を連続して起こ
せる物質が見つかって
しまったのだ!!!
い
ニールス・ボーア ジョン・ホイーラー
この論文で2人は、
①ウラン235
(自然界には0.7%しかない)
②プルトニウム
(原子番号94番の人工元素)
どちらかを使えば、核分裂の連続反応
が起こせると証明したのだ!!
当時何と、このボーア博士
の弟子が日本にいた!!
仁科芳雄
1890年生まれ
しかも仁科は、粒子
散乱の断面積に関
するクライン=仁科
の法則を発見するな
ど、ボーア研究室の
優等生だったのだ。
ボーア博士
仁科芳雄
陸軍はすぐに仁科に
原子爆弾の製造を依
頼、「ニ号研究」が始
まったが、うまくいか
なかった…。
問題その1 原料のウラン鉱石がない
ドイツから潜水艦で送ってもらうが、途中、艦長
が連合国に降伏→アメリカに没収されてしまう
問題その2 ウラン濃縮(U238からU235
を分離)がうまくいかない
ウランをフッ素と化合して(六フッ化ウラン、気体)
加熱・分離しようとしたが、内部壁を覆う純金がな
いので銅で代用したら、ボロボロになってしまった
原子炉もないので、プルトニウムをつくるの
は絶対無理!!
実は敗色濃厚となった昭和19年2月、
政府は仁科芳雄、湯川秀樹らを呼んで
「原子爆弾にかんする懇談会」を開き、
原子爆弾開発の可能性を諮問した。
仁科博士ら学者たちは、結論として
「今時大戦中は、日本はもちろん、ア
メリカも、原爆開発はできないだろう」
という意見を述べていたのだ。
この会議は、大倉男爵邸(現・ホテ
ルオークラ)で行われ、男爵の親友
だった高松宮も出席している。
8月6日朝、強力な爆弾で広島が壊
滅したことは、呉の海軍基地からの
第一報で知った。
鈴木首相、東郷外相、迫水書記官
長は、「もしかしたら、原子爆弾かも
しれない…」
と直感した。
8月7日朝、
トルーマン米大統領は
ラジオ演説を行い、
「広島に投下したのは
原子爆弾。日本が降伏
しないなら、さらに別の
都市にも投下する」
と宣言。迫水にとって
は「驚天動地だった」
8月7日閣議が開かれたが、
「トルーマン宣言は謀略ではないか、
本当に原爆かどうか、懇談会の
学者を派遣して確かめよう」
ということになり、
仁科芳雄博士を
広島に急派した。
仁科博士からは翌8日夕方に迫水
書記官長に電話で報告が入った。
仁科博士は涙ながらに、
「残念ながら原子爆弾にまちがいあ
りません」
鈴木首相、迫水書記官長、東郷外
相は、明日、9日の閣議でポツダム
宣言受諾を決定すると決意。
しかし軍部が反対するだろうからと、
密かにウルトラCの秘策を練った
その夜…というか、8月9日未明、
真夜中の午前3時、迫水書記官
長の電話が鳴った!相手は同盟
通信社の長谷川外信部長。
「サンフランシスコ放送によれば、
ソ連が日本に宣戦を布告した」
「その時の私の心持
ちはとうてい言葉で
は言い表せません。
体中の血液が逆流す
るというか、憤怒が体
中を駆けめぐると申し
ますが、本当に怒り
の極度でありました」
(迫水『終戦の真相』より)
9日午前5時、迫水書記官長と東郷外相
は、首相私邸に駆けつけた。鈴木はすぐ
に天皇に報告しに行き、とんぼ返りで官邸
へ。迫水・東郷に天皇の言葉を伝えた。
「打ち合わせ通り、段取りを進めるように」
運命の日、8月9日、午前9時
最高戦争指導会議
↓
政府と大本営がバラバラではまず
いと、大戦中に新設された連絡会議
メンバーは政府側から、
首相・外相・陸相・海相
大本営側から、
陸軍参謀総長・海軍軍令部総長
最高戦争指導会議メンバー
鈴木貫太郎
総理大臣
米内光政
海軍大臣
梅津美治郎
参謀総長
阿南惟幾
陸軍大臣
豊田副武
軍令部総長
東郷茂徳
外務大臣
会議の冒頭、鈴木首相は
「広島の原爆と、ソ連の参
戦で、もはやポツダム宣言
を受諾するしかないと思う」
と発言。それに反対する者
は誰もいなかった。
この瞬間、遂に終戦方法の
第一選択肢は、「本土決戦」
ではなく、「宣言受諾」に変
更されたのだ!
しかし沈黙が続く。米内
海相が「みんな黙ってい
てはわからん。もし受諾
するならば、条件をどう
するのか、話し合わなけ
ればならないだろう」と発
言。それに対して…
阿南陸相は、宣言受諾の
4つの条件を挙げた
1,天皇の地位の保証
2,占領は小範囲、小勢
力、短期間で
3,武装解除は自主的に
4,戦犯処罰は日本人自
身の手で
これに対して東郷外相は、「天皇の地位の保
証」のみを主張、最高戦争指導会議は、
1条件派と4条件派、3対3に分かれた。
・
・
・
・
・
東郷茂徳
・
・
外務大臣
・
米内光政 ・
・
海軍大臣 ・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
鈴木貫太郎
・
・
総理大臣
・
・
・
米内光政海軍大臣
1条件派
4条件派
阿南惟幾
陸軍大臣
梅津美治郎
参謀総長
豊田副武
軍令部総長
会議がもめている最中、
午前11時をまわった時…
長崎にプルトニウム型
原子爆弾が投下された!
結論の出ないまま、
最高戦争指導会議は
打ち切り、午後、閣議。
その場でも4条件派と1条件派とも
に譲らず、午後10時をまわったとき、
鈴木首相は「この結論は、再度、最
高戦争指導会議を開いて決めたい。
この会議は天皇の臨席を仰ぐ、御前
会議とする」と宣告した。
梅津と豊田は驚いた。天皇には責任を負わ
せないという建前から、「御前会議」を開く場
合は、必ず事前に「脚本」があり、その通り
の結論にするのが慣例だった。なのに今夜
は、「脚本」なしで、御前会議を開くという。
しかも、御前会議開催には、参謀総長と
軍令部総長のサインが必要だった。普
通なら、脚本なしの御前会議などに、開
催OKのサインをするはずがない。
実は、午前の会議が終わった後、迫水
が両総長に、「急な場合にサインをいた
だくのは大変ですから、今のうちにいた
だけませんか」と言って、白紙の開催書
類にサインをもらっておいたのだ
4条件派の3人は、「何かある」と感じた
が、最高戦争指導会議は「全会一致」が
原則なので、「自分たちの意向を無視し
て結論は出さない」という約束を鈴木首
相から取り付けた上で、会議に出席した。
そこでも結論が出ず、午前2時近くになったとき、
鈴木貫太郎首相が立ちあがった。
1945(昭和20)年8月9日深夜 皇居地下防空壕での御前会議
「結論が出ないので、聖慮(天皇の判断)をもって、
会議の結論としたい」 もちろん、そうなれば天皇
は「外相案に賛成である」ということは打ち合わせ
通りだった!
1945(昭和20)年8月9日深夜 皇居地下防空壕での御前会議
つまりこれは、ギリギリ「全会一致」という建前を崩
さないで、しかし「1条件」の結論を出すという、離
れ業であった。迫水らが考えたシナリオである。
1945(昭和20)年8月9日深夜 皇居地下防空壕での御前会議
会議終了後、陸軍の吉積軍務局長が
鈴木首相にくってかかった。
「総理!約束が違うでは
ありませんか!!」
それに対して、阿南陸相が間に割っ
て入った。
「吉積、もういい
ではないか」
10日、閣議で「1条件」を正式決定。
中立国のスイス公使・岡本季正と、ス
ウェーデン公使・加瀬俊一を通じて、
「ポツダム宣言には、天皇の大権を変
更するような要求は含まれていないと
いう了解の下に、宣言を受諾する」
と連合国側に打電された。
阿南陸相は陸軍省で各
課の高級部員を集め「和
するも戦うも、敵の回答
如何による」と述べた。
これに対して「大臣は進むも退くも、
この阿南についてこいと言われたが、
退くことも考えておられるのか」と質
問する者がいた。阿南は答えた…
こ不
の服
阿な
南者
をは
斬、
れ
!!
8月12日、連合軍の回答が届く。
1条件には直接答えず、「天皇及び日
本国政府は、連合国軍総司令官に、
SUBJECT TOするとなっており、直
訳すれば「隷属」、外務省は苦肉の訳
として「制限下に置かれる」と主張した。
の
天皇も、「降伏するのだか
ら、SUBJECT TOする
は当然だろう」と述べた。
13日閣議。阿南陸相
「これでは天皇の地位の保証は約束
されていない。再照会すべきだ」
東郷外相「再照会すれば交渉は決裂
する。このまま受諾すべきだ」
激論5時間、互いに譲らず、最後に
鈴木首相が「明日、もう一度、御前
会議を開き、御聖断を仰ぐ」と発言
して散会となった。しかし、梅津・豊
田両総長が今度こそ、
御前会議開催のサイ
ンに同意するはずは
い。
どうしたらよいか…。
そのころ、陸軍
省では、荒尾軍
事課長と若手幕
僚たちによって、
「兵力動員計
画」という、宮城
を占拠するクー
デタ計画が策定
されていた。
陸軍大臣には、首都の治安を維
持するために、陸軍部隊を動員す
る権限がある。計画では、先日来
の和平工作は、慣例や法律を無
視した治安紊乱行為と見なされる
ので、陸相が兵力を動員して首
相・外相・海相を逮捕。さらに宮城
を占拠・封鎖遮断して、天皇に翻
意を迫るという内容である。
兵力動員計画では、阿南陸相、
梅津参謀総長、森・近衛師団長、
田中・東部軍司令官の4者が同
意したら、14日の閣議のため首
相官邸に集まっ
てきた鈴木・東
郷・米内を逮捕す
る計画であった!
クーデタ計画をつかんだ迫水は、1
4日早朝、鈴木首相の私邸に駆け
つけた。両総長のサインなしで御
前会議を開けないか、木戸内大臣
と前例を検討。その結果、
天皇自身から、閣僚らを
御所に招集するという「お
召し会議」という形式があ
り得ることを思いついた。
鈴木首相はすぐに参内、天皇も
直ちに同意して、閣僚全員と最
高戦争指導会議メンバーに「平
服にして差し支えなし、十時に吹
上御所に参集せよ」という命令を
を 出した。官邸に集まり
かけて いた閣僚らは慌てて
吹
御所に向かった。
阿南陸相ら「再照会」派はこもごも、
「このままでは国体護持は不可能であ
り、再照会-決裂なら、本土決戦で死
中に活を求めるべき」と意見を述べた
しかし天皇は「私の考えはこの前と変
わらない。もはや戦争継続は無理であ
る。私自身はどうなってもよいので、国
民を救いたい」と述べ、鈴木首相に、
ただちに終戦手続きをとるよう命じた。
迫水は直ちに「終戦の詔書」を起草、
夕方の閣議で字句修正に紛糾しつ
つ決定。日本放送協会の技術ス
タッフが宮内庁に出張して午後十
時頃、玉音をレコードに録音した
(玉音盤)。
これに対して、兵力動員計画を策定し
た青年将校の椎崎中佐、畑中少佐、
近衛師団の古賀少佐らは、自分たち
だけでクーデタを決意。森師団長を殺
害して、ニセの命令を出し、深夜、宮
城を占拠、玉音盤を奪取しようとした
クーデタには井田中佐も同調、田中
東部軍司令官を説得しようとしたが、
田中は拒否。井田は椎崎・畑中に
計画を断念するように伝え、顛末報
告のために陸相官邸に向かった。
田中は15日早朝、クーデタを鎮圧
井田が阿南陸相官邸におもむくと、
阿南は義弟の竹下中佐と別れの
酒を酌み交わしていた。すでに床
の間には、遺書と、割腹のため、
短刀が準備されていた
。
阿南には、「辞任」という切り札も
あった。陸相が辞任し、後任を出さ
なければ、内閣はたち
まち崩壊。終戦手続き
は
ストップし、9月の「本
土決戦」を迎えられる。
しかし阿南はそうは
しなかった。
それをやってしまえば、天皇の信任
を裏切ることになるからだ。また阿
南にとって鈴木首相は
かつて侍従長と侍従
武官として仕えた間柄
で、鈴木への忠誠心も
篤かった。結局、阿南
は自分が死ぬことで、
板挟みにケリをつける
ことにしたのだ。
阿南惟幾は15日未明、割腹自決した。
遺書には「一死大罪ヲ謝シ奉ル,
神州不滅ヲ確信シツツ」
陸軍の最高責任者・阿南の自決に
より、軍部にくすぶっていた徹底抗
戦の動きは急激にしぼんでいった。
思阿自(会阿
現
い南決 っ南
出にを姓た陸
をぶ、・
岩井相
語んと田田の
る殴言)元自
。中決
。らっ
一
た
れ 緒佐に
たらに 立
と
ち
15日正午、玉音放送は無事、放送
された。こうして日本は、地上戦を
経ないで、終戦を達成することに
見事に成功した。
最大の立役者・鈴木貫太郎は、 15
日未明、私邸が襲撃され、焼き討ち
にあった。終戦後は直ちに総辞職。
旧軍人から「日本のバドリオ」と
命をつけ狙われた。
名前を変え、各地を
転々としてテロを逃
れ、3年後の48年、
亡くなった。
もう一人の立役者・東郷茂徳は、
東条英機開戦内閣の外相だった責
任を問われ、戦犯容疑で逮捕され
る。巣鴨プリズンに
収監され、そのま
ま
釈放されることなく、
1950年、病死した。
迫水久常は戦後、
自民党の参議院議
員に当選(全国区)。
池田内閣で経企庁
長官や郵政大臣な
どを歴任。映画『日
本のいちばん長い
日』の製作にも携
わった。
1977年死去。
終
ファイル作成・村井淳志
1945(昭和20)年8月9日深夜 皇居地下防空壕での御前会議
主要参考文献一覧
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半藤一利『日本のいちばん長い日』
迫水久常『機関銃下の首相官邸』
同
『終戦の真相』
下村海南『終戦秘史』
鈴木貫太郎「終戦の表情」
東郷茂彦『祖父・東郷茂徳の生涯』
角田房子『一死、大罪を謝す-陸相・阿南惟幾』
阿川弘之『米内光政』
岩田正孝『雄誥-大東亜戦争の精神と宮城事件』
竹下正彦「機密作戦日誌」