発 行 所 徳島市雑賀町 東開21番地1 徳島県遺族会 一般財団法人 TEL(088)636-3212 FAX(088)636-3213 http://izokukai.jp/ 発行責任者 増 矢 稔 校外学習で松茂小6年生が来館 印 刷 グランド印刷㈱ 板野郡松茂小学校6年生104名が、平成27年10月21日、校外学習の一環として、 戦没者記念館を訪れた。 国語学習の中で、「未来がよりよくあるため」に、各自がテーマを決めて意見文 を書くことを目的としており、広島原爆ドームを題材とした「平和の砦」という資 料で学習したうえで来館した。 児童は、「日本は、どうして戦争を始めたのだろう。」、「戦没者記念館は、どのよ うな思いで建てられたか。」などについて、展示パネルや遺品などを見ながら熱心 に学習していた。 「平和の大切さ」 富岡東中学校二年中野優奈さん ~終戦七〇周年記念平和作文コンクール作品紹介~ いうこともあっただろう が、一番は家族や恋人の ため、そして一刻も早く 「平和」になればと願っ たからではないかと私は 思った。家族や恋人が安 心して暮らせる世の中に するために、自分のよう に命を犠牲にする人がい なくなるようにするため に特攻したのではないだ ろうか。私は特攻隊員の 遺書を読んだことがある が、どれも家族や恋人へ 向けた温かく、優しいも ので思わず涙があふれだ してくるほどだった。そ してその文の奥の最も根 底にあるのは「平和」へ の思いではないのかと 思った。 こ う し た「 平 和 」 を 願って戦った人、またそ れによって命を失った人 達の犠牲のもとに私は今 の「平和」があるのだと 思う。だから私達はこの 「平和」を当たり前だと 思ってはいけない。責任 を持って守り、持続させ なければならない。また、 どのようにしてこの「平 和 」 が つ く ら れ た の か、 をよく知らなければなら 先月号に引き続き、標記作文コンクールの作品を 紹介する。 今月号で紹介するのは、優秀賞を受賞した県立富 岡東中学校二年中野優奈さんの「平和の大切さ」と 題した作品。 中野優奈 「 戦 争 」 と 聞 い て 私 の 中で一番に出てくるのは 第二次世界大戦のことで ある。百田尚樹さん著の 「 永 遠 の 0」 を き っ か け に、私は第二次世界大戦 を描いた作品をいくつか 見たり、読んだりしてき た。その結果、今まであ やふやだった「戦争」が どんなに悲しく残酷なも のであったかを知ること ができた。 第二次世界大戦で私が 最も深く心に残ったのは 特攻隊のことである。十 死零生、自分の命を武器 として敵陣へ体当たりを する。この事実を知った 時私は心がズンッと重く なった。自分のたった一 つしかない命を犠牲にす るなんて私には到底考え られることではなかっ た。では、なぜ自分の命 を犠牲にして特攻したの か。それは国のためにと ない。今、戦後七〇年の 時を経て「戦争」と「平和」 について語る人も、知ろ うとする人も少なくなっ てきていると思う。しか し、それでも私は今の「平 和」のありがたみをもっ と深く知るため、そして それを未来へ受け継いで いくために、これからも、 もっと「戦争」と「平和」 を知っていこうと思う。 館内清掃のため、 平成27年12月17日㈭ を休館とさせてい ただきます。 *毎月第 2 土曜日に開催(13:30 ~) -戦没者記念館- ● 12 月 12 日(土) 「日はまた昇る」 山本 勝美 氏(73)(和歌山県伊都郡かつらぎ町) ● 1 月 9 日(土) 「秋田町空襲」 横山 正 氏(81)(元中学校教師)(徳島市) ● 2 月 13 日(土) 「那賀川鉄橋空襲」 竹井 幸 氏(84)(徳島市) 臨時休館の お知らせ 語り部事業のご案内 富岡東中学校 2 年 第175号 徳 島 県 遺 族 会 会 報 (1) 平成27年11月10日 昨年の三月、例年のよ うに、父の命日に徳島市 の護国神社へ参拝に行っ た。 そ こ で ふ と 目 に 止 まったのが、日本遺族会 主催のパンフレットであ る。「 私 も 父 が 戦 死 し た 場所まで行けるかもしれ ない。」『行って父親の行 動やどういう行程をたど り、そしてどこで息を引 き取ったのかを知りた い。』 そ れ は ず っ と 私 が 願い続けていたことだっ た。それまで父に関する 情報はあまりなく、家族 もあまり語りたがらな かった。 今年の三月、徳島県遺 族会に参加を申し込ん だ。数ヶ月後に決定の通 阿南市 原 口 補 公 知が届いた。八月三日か で四名がそれぞれ英霊に ら 十 二 日 ま で の 予 定 だ。 追悼文を捧げた。その後 いろいろ準備をし、出発 夕食。毎日、こういう日 の日を迎えた。集合場所 程で進んでいく。それに は 東 京 九 段 の 靖 国 神 社。 しても、なぜ隠れて追悼 まず説明会で驚いたの をしなければならないの は、父や父の所属する部 だろう?日中国交回復の 隊の行動の記録だ。複数 条件の一つとして、日本 の書物を照合し部隊の行 人戦死者の遺骨収集や墓 動記録を場所や日時とも 地での弔いなどが禁止さ 克 明 に 割 り 出 し て い る。 れ た ま ま な の だ そ う だ。 調査に携わっていただい た日本遺族会の方々のご 足 労 に 感 謝 す る と 共 に、 あらためて『一般の観光 旅行とは全く性格を異に するもの』であることを 痛感した。 翌日、成田空港から北 京へ。そこから中国国内 航空で二時間、ハイラル 空港着。これから一週間 はバスの旅となる。夜の ハイラルの町はライト (日本人墓地は一ヵ所も アップで町並みが美し なかったが) い。内モンゴル自治区の 追悼のための旅はまだ 地でさすがに肌寒い。翌 まだ続く。広大な満州平 日も上着着用で戦跡を回 野を走る。見渡す限りト る。夜はホテルの一室で ウ モ ロ コ シ 畑。・・・ チ 追悼式を行う。ハイラル チハル、白城、長春、瀋 は四名の方々の父親の戦 陽(奉天)そして我が父 死 地 で あ り、 故 郷 か ら の戦死地である海城(瀋 持ってきた水や米、写真、 陽より六十㎞南)へと進 献花等が並んだ祭壇の前 めていった。最後の訪問 ー﹁日中友好訪問団﹂に参加してー ﹁ここはお国を何百里﹂ ・ ・ ・夢にまで見た満州 平成27年11月10日 (2) 徳 島 県 遺 族 会 会 報 第175号 地となる海城は二十万人 程度の比較的小さな町で ある。海城駅から五百~ 六百m南東に行ったとこ ろに旧日本陸軍病院があ る。今は立て替えられ中 国人民軍の病院(海城市 中医院という)となって いる。中に少し入ると他 の地域でみた旧日本陸軍 の建物とどこか似ている ようだった。玄関近くに 中国の公安部の警官が四 ~五名いる。彼らの視線 をさけながら、我が家か ら持っていった米と水を 建物の近くに撒く。父は 北東部の虎林で約一年間 ソ連国境の警備にあたっ ていたが、病気にかかり 二~三度転院した後、こ の病院で息を引き取った そうだ。病室の窓を見上 げ、どこの部屋であった かなあと想像していたと き、「 あ あ、 や っ と き ま したねえ」日本遺族会の 方の一言に、張りつめて いた気持ちが切れ、急に 涙があふれて、しばらく 涙が止まらなかった。夜 の追悼式でも追悼文を読 んでいるとき、涙が出て きて言葉が詰まったこと もあった。 こうして中国の旅は終 わりに近づいたが、最後 の晩にA班B班合同の懇 そのあと全員で記念写真 を撮った。 今 振 り 返 っ て み る と、 今までに経験のない不思 議な気持ちのする旅で あった。私としては、肩 の荷が半分はおりた気が する。いろいろお世話に なった日本遺族会や添乗 員の皆さん、そして何よ りも各県から参加の遺児 の皆さんに厚く感謝を申 し上げ筆を置きます。 藍住町乙瀬(住吉遺族会)の岩永 綾子さんが、10月8日、100歳のお 誕生日を迎えられました。 入院している病院にて、県と町か らの祝い状と共に、徳島県遺族会か らの祝い状と記念品を伝達いたしま した。 岩永さんは戦争で夫を亡くし、 3ヶ 月になる娘を紡績工場で働きながら 育てられました。娘さんの服はほと んど作られていたようです。90歳ご ろまでは自転車にも乗られ、家庭菜園や草ぬきなどもされ、今でも毎日、 新聞に目を通すほどお元気です。 しっかりした口調で、集まった方々に『遠方のところありがとうござ います』と何度も感謝の言葉を掛け、終始和やか雰囲気でした。 藍住町・住吉遺族会会長 池内 慶治 ~ 100歳のお慶び~ 親会をした。そこには日 本総領事館から三名、中 国当局から二名、そして われわれ二十六名の参加 があった。中国当局の人 の挨拶は『親を大切にす る気持ちはすばらしいこ とです。私たち中国人も 同じです。こうした人民 レベルでの交流こそが両 国の交流に深く結びつき ます。これからも続けら れることを希望します。』 支部だより (3) 平成27年11月10日 徳 島 県 遺 族 会 会 報 戦没者記念館だより 1月から9月までのアンケート調査結果につい ては以下のとおり。(対象者1,091名) ▶ アンケート概要 ①【来館のきっかけ】は、 「遺族会」31%、 「家族」 22%、「新聞」13%の順。 ②【来館の目的】は、 「遺影を見るため」 (32%)、 「展 示の観覧」 (31%)が圧倒的に多いが、 「命日祭」 も14%。 ③【来館されての感想】は、 「非常に満足した」、 「満 足した」が共に47%と、両方を足すと94%。 ④【来館者の年齢等】は「70歳代」が30%で一 番 多 く、 次 い で「60歳 代 」18 %、「50歳 代 」 15%、 「40歳代」11%、 「80歳代以上」8%、 「30 歳台」6%、 「20歳未満」6%、 「20歳代」4%の順。 60歳以上が56%を占める。来館者の遺族の割 合は56%。 第175号 ▶ 来館者の感想等(8・9月自由意見:139の意見から抜粋) ・ いつもだったら喋ってばかりいるが、記念館では黙っ て見るしかできなかった。戦死した人の年齢があま りにも若くて驚いた。 (10代女性) ・ 戦争を繰り返してはいけないことは理解しているが、 しっくりきていなかった。今回来て、 改めて「戦争」 というものがどういったものであるかを再認識する 機会となった。 (20代男性) ・ 大戦の起こりから終戦までの具体的な展示で、とて も感銘を受けた。戦死者の方々の展示が非常に丁寧 で、又、戦争について具体的に知ることができた。 (40 代女性) ・ 終戦記念日を子供達に学んでもらうために来た。小 学生には難しい内容であり、短くてわかりやすい漫 画の映像があればいいと思う。特に子供は「なんで 戦争を始めたの」から始まるので、もう少しわかり やすい内容もあればいいと思う。 (40代女性) ・ 戦争に至った経緯を勉強したが、教科書では教えら れていないことが多すぎて「日本悪」としか教育さ れてこなかったので、とても驚いた。 (40代女性) ・ 旅行で訪問した土地では必ず護国神社にお参りして いる。徳島は初めてだが、他県と比べて大変素晴ら しい展示内容と解説に驚嘆した。 (50代男性) 語り部事業講演要旨 ●第 11 回語り部事業 8月8日(土) 大規模な本土 空襲の危機が 「16 地蔵の紙芝居」 迫 っ た 昭 和19 武田 文男 氏(73) 年、貞光町真光 寺には大阪市大 正区南恩加島国民学校(現在の小学校) 3年生、4年生男子29名が集団学童疎開 していた。 疎開先での生活は、食料の買い出し、 農作業の手伝い、薪拾いと厳しい毎日で あった。それにも増して苦しめられたことは、空腹、寂 しさであった。親元から遠く離れた子供達の中には、大 阪に帰りたくなって、夜になると泣き出す子供も多数い た。 疎開生活が始まって4ヶ月が経過した昭和20年1月29 日午後9時頃、本堂付近から出火した。締め切られた雨 戸の中は、炎の中でまさに地獄そのものだったのではな いかと思われる。 折り悪く空襲警報のサイレンと重な り、助ける人もないままに痛ましい大惨事となった。 「どうかどこかに逃げていて欲しい」と、祈りにも似 た気持ちで消火始末が行われたが、原因不明の火事によ り16名が無残にも焼死した。 町長・知事は、「いたいけな16の魂を弔い慰めるため の像」を作ろうとの合意により、昭和21年、寺の桜が満 開の日、台座の高さ1.2m、像の高さ1.5mのお地蔵さま を完成させ、同年5月29日には「地蔵尊眼式」が盛大に 行われた。 この経緯については、昭和63年、原田一美先生の出版 された「十六地蔵物語-戦争で犠牲になった子どもたち -」として紹介され、広く知られることとなった。 この紙芝居の作者「どりーむ宅配便」の齋藤久留美先 生は、作品を通じて「平和の尊さを認識し、二度と過ち を起こさないで欲しい」という切なる願いを表現できた ら幸いとのことである。 16地蔵尊設以来、貞光四ツ辻、庚申、秋葉の子供会が 毎月周囲の清掃をし、1月29日の命日には、町長はじめ 町の有志、貞光幼稚園、小学校、先生、生徒が千羽鶴を 奉納し、供養が行われている。 こういった「温かい貞光人気質」に触れ、先生は胸が 痛くなるような感激を覚えているとのことである。 ●第 12 回語り部事業 9 月 12 日(土) 大 東 亜 戦 争 は、 昭 和16年12 「私の戦争体験」 月8日に始まり、 春藤 嘉雄 氏(84) 昭 和20年8月15 日に終戦を迎え た。 戦争が始まっ た時は、小5であった。戦争前は、テレビ や自動車もなかったが、凄惨な事件もなく 平穏な時代であった。戦争が始まると一転 して戦争のニュースばかりであった。青少 年は校庭に防空壕を掘ったり、勤労奉仕で 出征兵の留守宅へ手伝いに行くなど肉体労働を強いられた。 地元には海軍の松茂航空隊があり、昭和18・19年は米国 艦載機の襲撃を受けたり、小型爆弾を落とされて、全くの 戦場であった。 戦争が敗色濃厚になった昭和20年3月、私は呉にある第 11海軍航空廠(工場)で働くことになった。宿舎から工場まで は約5キロ位であり、その間、動員された学徒は、朝晩軍歌 を歌いながら工場に通った。 3月に行った時点で、工場の横には10機位完成した飛行 機が並んでいたが、艦載機に撃たれて、すでに焼けただれ ていた。このように呉という所は、朝に晩に艦載機が来て、 天気さえ良ければ必ず空襲に遭った。 5月5日にB29による大空襲があり、すべて焼かれた。普 通、警戒警護は足摺岬の洋上に敵機を発見してから発令が 出て、15分から20分位で艦載機が呉に到着するのが普通で あったが、その日は5分も経たずに爆弾が落ちてきた。 艦載機は、地上を通ったら対空砲火に狙われるから、必 ず海の上から本土に侵入してきたが、昭和20年になると、 迎え撃つ飛行機も弾もなく、豊後水道を通らずに山岳を通っ て陸地から侵入してきた。 その日、年少工3人で食事の準備をしていたら、先輩が 「お前ら、何しとんな。警報が入っとる。早う隧道(トンネ ル)へ行け。 」と、怒鳴るように言ってくれた。隧道に走り 込むやいなや爆弾が落ち、間一髪で助かった。隧道は、縦 横にくり抜かれ、常に何百人もの工員が働いていた。また、 空襲警報、警戒警報が出たら、何百人の工員が逃げ込んだ。 1トン爆弾が落ちると震度5、6の揺れがあり、2時間以上 波状攻撃が続いた。隧道の中は、本当の修羅場であり、生 き地獄であった。入口しかない隧道に入っていた工員150人 は、入口に爆弾が落ち、全員窒息死した。 2、3日後、小さな車で、爆弾にやられて手や足がばらば らになった死体を集めた。300人位の死体を河原に運び、丸 太を組んで、サンマを焼くように人を並べて、何日も焼いた。 私の宿舎の近くであり、夜、窓を開けたら、ちょろちょろ と火が燃えていて、怖いもの見たさによけい見た。悪臭と 火を見るので、全くの地獄であった。工場は、空襲で影も 形もなくなり、8月に玉音放送を聞いた。 徳 島 県 遺 族 会 会 報 第175号 フィリピン慰霊巡拝団募集 戦没者遺族相談員制度について ご遺族からの相談に応じて、助言等を行ってくれ る「戦没者遺族相談員」は、表の 18 名の皆様です。 10 月 1 日から2年間の任期で、ご遺族の相談業務に あたることになりました。各担当地区の戦没者遺族 相談員に、特別弔慰金や公務扶助料に関することな ど、お気軽にご相談ください。 地区担当 氏 名 徳 島 市 芝 正裕 徳島市 上浦喜代志 鳴門市 鳴 門 市 上田 哲夫 小松島市 尾崎 義明 阿 南 市 池添 哲哉 阿 南 市 椋本 貞憲 吉野川市 後藤田重喜 阿 波 市 吉川 精二 馬 馬 好 好 市 小笠 功 郡 市 木下 豊幸 郡 三 好 市 福田 敬二 勝 浦 郡 東 功 名 西 郡 萩原 一徳 名西郡 阿部 健夫 名東郡 那 賀 郡 亀代 高男 海 部 郡 田村 清朔 板 野 郡 近藤 隆弘 住 所 ※ただし、満員になり次第締め切ります。 088-652-2966 2 08853-2-2383 0884-22-5133 0884-33-0689 0883-25-2392 バギオ バナウエ 06:30 専用車 マニラ(泊) 20:00 マニラ マニラ(泊) マニラ 1月20日 カリラヤ 5 (水) マニラ(泊) 6 06:00 09:00 1月19日 アンチポロ 12:00 専用車 (火) 0883-36-2538 0883-63-4905 交通機関 バナウエ(泊) 18:00 1月18日 3 (月) 4 時刻 1月21日 (木) 0883-84-2328 摘 要 04:45 リムジンバス リムジンバスにて関西空 港へ 07:30 出国審査後、 空路フィリピ 09:55 PR407 ン航空にてマニラヘ 13:00 入国審査、 税関後専用車に 20:00 専用車 てバギオヘ 1月17日 ボントック 12:00 専用車 (日) 18:00 08:00 11:00 専用車 15:00 08:00 専用車 ボントツクセントラル小学 校訪問・慰霊祭 その後、 バナウエヘ バヨンボン、 バレテ峠、 サン ホセ、 カバナツアン関係先 にて慰霊祭 (途中マバラカ ツトに立ち寄り) その後、 マニラヘ 大使館表敬訪問 アンチポロ、 サンタマリア、 戦跡訪問 カリラヤにて慰霊祭、 およ び関係先にて慰霊祭 夜は懇親会 出発までマニラ市内観光 出国審査後、 フィリピン航 空にて関西空港へ 14:05 PR-408 マニラ発 入国審査・税関後、 リムジ 関西空港着 19:05 ンバス乗り場へ移動 関西空港発 21:20 リムジンバス リムジンバスにて徳島へ 徳島駅前着 00:05 到着後、 解散 0883-72-0722 「春の靖国神社」参拝団募集 090-4504-1229 旅行日程/平成28年3月27日(日) ~3月29日(火) 088-674-2511 088-678-0489 08846-2-1603 08847-3-1008 088-672-0670 7 27 8 遺族会の動き 26 12 平成二十七年九月~十月行事実施 ︵九月︶ 2 28 日 ~ 日 中 国・ 四 国 ブ ロ ッ ク 会 議 (山口市) 日 語り部事業(戦没者記念館) 日 ~ 日 英 霊 に こ た え る 会 中 国・ 四 国 ブ ロ ッ ク 会 議( ホ テ ル ク レ メント徳島) 神恩感謝祭(護国神社) 50 1 18 15 10 日 2 ︵十月︶ 3 日 ~ 日 中 国・ 四 国 遺 児 部 有 志 の 会(出雲市) 6日 女性部正・副部長会(護国神社) 日 語り部事業(戦没者記念館) 日 正・ 副 会 長 会、 運 営 委 員 会( 護 国神社) 16 14 靖国神社(昇殿参拝・遊就館見学)、 柴又、鎌 倉、世界遺産韮山反射炉、三嶋大社、熱海温泉、 城ヶ崎海岸、伊豆高原桜まつり。 旅行代金 86,000円 募集人員 45名(最少催行人員30名) 締切期日 平成28年1月26日(火) ※ただし、満員になり次第締め切ります。 お申込先 徳島県遺族会事務局(TEL.088-636-3212) 慰霊祭及び 主な観光地 平成二十七年十一月~ 平成二十八年一月行事予定 19 088-686-2208 日 徳 島 県 護 国 神 社 例 大 祭( 護 国 神 社) 日 日 本 遺 族 会 青 年 部・ 女 性 部 合 同 研修会(東京) 日 語り部事業(戦没者記念館) 日 ~ 日 第 回 沖 縄「 徳 島 の 塔 」 慰霊参拝 日 戦 没 者 記 念 館 運 営・ 企 画 委 員 会 (護国神社) 遺族勉強会(護国神社) 日 21 発着地 088-623-3507 088-662-1771 ︵十一月︶ ︵十二月︶ 14 12 日 付 徳島駅前発 関西空港着 1月16日 関西空港発 1 (土) マニラ着 バギオ(泊) 電話番号 徳島市論田町 本浦下19-12 徳島市住吉4丁目 7-27 徳島市佐古三番町 13-3 鳴門市撫養町斎田 字浜端西93 小松島市中郷町 加藤34 阿南市見能林町 中村6-2 阿南市椿町豊野 14-2 吉野川市川島町 桑村2514 阿波市市場町尾開 字八坂264-2 美馬市美馬町 字城47番地 三好市山城町 下名1623 三好市池田町州津 中津1668 勝浦郡上勝町大字旭 字東浦九番地 名西郡石井町高原 字関363-1 名西郡神山町阿野 五反地279-1 那賀郡那賀町 小仁宇大坪102 海部郡海陽町浅川 字イナ43-2 板野郡板野町吹田 字町西63 4日 役員総会(護国神社) 日 語り部事業(戦没者記念館) 日 日 本 遺 族 会 事 務 局 長 会 議( 千 代 田会館ビル) 全 国 戦 没 者 遺 族 大 会( 自 由 民 主 会館) 15 日 21 平成二十八年︵一月︶ 9 日 正・副会長会(護国神社)、語り 部事業(戦没者記念館) 日 ~ 日 海 外 慰 霊 巡 拝( フ ィ リ ピ ン) 16 旅行代金 183,000円 募集人員 20名(最少催行人員15名) 締切期日 平成27年11月20日(金) 〔委託期間 平成27年10月1日~ 29年9月30日〕 徳 島 市 米川 孝宏 美 美 三 三 旅行日程/平成28年1月16日(土) ~1月21日(木) お申込先 徳島県遺族会事務局(TEL.088-636-3212) ―戦没者遺族相談員― (厚生労働大臣委託) 平成27年11月10日 (4)
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