石巻2.0「VOICE」 - ISHINOMAKI 2.0

VOL.0
死亡行方不明者数、合計五千名以上。
東北の市町村の中で最大の被害が出た街、石巻。
一方で、地震以前から郊外型大型ショッピング
モ ー ル の 台 頭 で、 石 巻 の 象 徴 で あ っ た 市 の 中 心
部商店街には、いわゆるシャッター街が形成さ
れていった。
同時に大都市への人口流出で過疎化も進行する
など、日本の地方都市が抱える典型的な問題も
抱えていた。
三 月 十 一 日 の 震 災 を き っ か け に、 そ の 中 央 商 店
街から復興の狼煙を上げたい。
そして石巻を復興させたい。
石 巻 を 通 し、 被 災 地 の 復 興 モ デ ル を 提 案 し て、
東北復興の手助けをしたい。
私たちは、そう考えました。
昨日より今日より、明日を良くしたい。
”という名前を付
2.0
自 由 闊 達 な 石 巻 人 の DNA
で、 全 く 新 し い 石 巻
にならなくてはいけない。
その思いを込めて、
“石巻
けました。
千葉隆博
私たちは新しい石巻を幅広い智恵と縦横無尽の
内海公恵
ネットワークにより、草の根的に作ります。
沖元太一
第 0 号“ VOICE
“ で は、 未 曾 有 の
2.0
困難に対し、強靭な人間力によって立ち向かい、
阿部明
この石巻
西條允敏
一日一日を乗り越え続けている石巻人の声を集
阿部紀代子
めました。
松村豪太
そこから見える厳しい現実と、未来への光明。
阿部久利
少 し で も 多 く の 人 々 へ、 こ の 現 場 か ら の 声
“ VOICE
”が、届きますように。
邊見清二
石巻千石船の会 会長
邊見清二
若い頃は産經新聞の記者を生業にしていました
が、 そ の 後 辞 め た 後 は 建 設 省 の 時 代 か ら 国 土 交 通 省
の川の担当の仕事で、岩手と宮城の事務所のお手伝
いで河川行政を十年以上やってきたんです。岩手と
宮城といえば北上川ですから。
私 の 仕 事 は、 両 県 の 北 上 川 流 域 で 川 に 関 す る 各 種
情報の収集調査でした。
現 在、 私 は「 石 巻 千 石 船 の 会 」 と い う 団 体 の 代 表
を し て い ま す が、 江 戸 時 代 の 廻 船 問 屋 の 末 裔 さ ん な
どを集めてつくった組織です。
平成七年に結成したので今年で十六年になります
ね。私は廻船問屋の家系ではないのですが、取材先
で い ろ ん な 人 と 会 っ て る う ち に、
「 う ち も 昔、 廻 船
問屋やってました」と言う人がいっぱいいました。
皆 さ ん を よ く 知 っ て る の は 私 だ か ら、 皆 さ ん に 集
ま っ て い た だ き、 昔 は 皆 さ ん の ご 先 祖 さ ん は 同 業 者
だったのですから、これをご縁に会を作ってはどう
で す か?」 っ て 言 っ て 作 っ て い た だ い た っ て い う 経
緯もあるんです。ご先祖さんを調べることは、この
牧山から中瀬を望む。
歴史の解明につながることですから。
100年前の石巻中央。
ま ち の 歴 史 の 解 明 に つ な が る こ と で す か ら。
「それ
ぞ れ の 立 場 で、 石 巻 の 古 い 時 代 の こ と を 調 べ て 伝 え
て行くことをこの会の目標にしましょう」というこ
とで今日まで続いている会です。
今回の震災で私の自宅は、地震と津波で大規模半
壊でした。
ご先祖さんを調べることは、このまちの
だったんです。震災の後、その日の夕方あたりから
元 々 グ ラ ン ド 面 が 非 常 に 低 く て、 す り 鉢 の 底 状 態
戦後石巻線の北側に作った住宅街と今のバイパ
スは昔の田んぼを埋めて造成した市街地ですから、
あと貴重だったのは、ある建物の火災保険の証券
のひとつに明治四十何年のものがでてきて、石巻税
代頃から、多額の献金をしたときの感謝状だとかね。
てきて、その中からは卒業証書だとか、明治四十年
新しく出てきたものは古い明治の新聞とトランク
だとか。あるお宅の一階倉庫の中からトランクが出
て、大きかったと思われますね。
ほんと一例ですから、多分失われたものの方が多く
以前であるってことがわかるわけですね。
こ と が 分 っ た ん で す。 で す か ら 廃 止 は 十 一 年 の 九 月
見でそのときには既に、北上川航路の定期船が無い
と言われてますが、何年に廃止されたのかが今でも
ころが一関に行く船は、昭和十年前後になくなった
定期船が運航していたことがわかってるんです。と
の東側河口の大川航路と二つあったのですが、その
手の一関に行く北上川航路と、今の追波湾、北上川
わかりません。この昭和十一年九月の新聞広告の発
追波湾の方にいく航路は戦後の、昭和二十九年まで
北上川から下水路を伝って入り込んできた水が、市
務 署 に 貸 し た 建 物 に 火 災 保 険 を か け て い ま す。 そ
この辺は水がひくのが早くて良かったんですが、
石巻駅にかけた北側、石巻線の北側は、すり鉢状の
街地をかなり広範囲に水没させるんですね。津波は
れ が 仲 町 何 番 地 で 建 坪 何 坪 で、 構 造 の 記 述 が あ り、
地形で水没が続きました。
南側の海岸部から石巻市街地を襲い、西側は定川と
北上運河、北と東側は旧北上川に囲まれた湊・石巻・
り浸水。場所によっては北上運河からの水も。また
里、 南 中 里、 中 里 地 区 は 直 接 の 津 波 と 下 水 路 を 伝 わ
穀町のほか地盤の低い西・北部の駅前北通り、東中
央、住吉町、元倉から内陸の立町、千石町、鋳銭場、
旧北上川を北上した津波は、石巻大橋下流の無堤
防の湊・石巻亮地区を直撃。石巻地区は川沿いの中
方が貴重だ!」って。茶色くなって、ちょっと判読
たに。で、私は「この器よりは包んでいた新聞紙の
にどうぞ」と言ってお分けしたんです、みなさんが
存してるんです。持ち主は「被災したから必要な人
です。新聞紙で一個ずつ包んで、壊れないように保
倉庫から出てきたリンゴ箱の中に陶器が入ってたん
と思います。●
ぬまで多分そんなことを追いかけているのだろうな
私のライフワークは「どうやってこの石巻ってい
うまちができたんだろうか?」の解明。この先も死
一枚の新聞というけども、様々な情報がつまって
いるから、見方によっては非常に面白いものですね。
運河の逆流で旧山下地区の低地の清水町、新橋、錦
しにくい紙面でしたけども、開けてみたら大正十五
が木造でこのくらいの坪数だった!」とかってのが
「 え ー! 明 治 の 石 巻 税 務 署 は あ そ こ で、 し か も 構 造
町、 貞 山 な ど が 堤 防 の 越 水 ま た は 運 河 に 通 じ る 下 水
年 で し た。 昭 和 十 一 年 の 新 聞 で 興 味 深 か っ た の は、
門脇のかつて例を見ない範囲が被災します。
路からの流入により浸水。鰐山丘陵地をのぞいたわ
石巻の定期船の会社が営業広告をしてるんですね。
へんみせいじ
地元石巻の歴史を調べ伝えて
いくことを目的とした「石巻千
石船の会」会長。新聞記者を
経ながら国土交 通省の河川行
政に携わる。震災後、長年 集
めた膨大なデータを失うも、現
在も精力的なフィールドワーク
明 ら か に な っ た わ け で す。 あ る 瀬 戸 物 屋 さ ん で は、
ずかな地域がかろうじて水没をまぬがれたという感
「何々航路は一日何便で何時に石巻を出発して、何
時に目的地につきますよ」という航路の案内を広告
してるわけですよ。昭和十一年は、県境を越えて岩
を続行中。
じですね。
震災後の後片付けの中から新しい資料が見つか
る、嬉しいこともあったんです。でもそういう事は
邊見清二
ります。
にうまく懐柔されて終わるのかなっていう感覚があ
どんどん巻き込んでいかないと、多分また元の勢力
でなにか一つ動きを起こして、それに賛同する人を
なると思います。リセットされたわけだから、ここ
まちの経済の復興って部分では、多分立ち行かなく
きゃって思う人が一人でも二人でも出てこないと、
状 で、 ベ ン チ ャ ー じ ゃ な い け ど 新 し い こ と を や ら な
今、石巻の取り巻く状況は、劇的に変化している
と 思 い ま す。 既 存 の 商 売 が 成 り 立 っ て い な い こ の 現
心が折れそうで…でもそこにピースボートやボラン
在。泥かきなんかは一人でやったって途方に暮れて
正直、おばあちゃんの遺体を確認するまではいろ
んなことには手を出せなかったです。外に出て色々
のは。
からかな、他のこともやれるかなって感じになった
は、近所の民家の敷地内で見つかったんです。それ
てこれは大変だと思いました。おばあちゃんの遺体
て き て、
「 は? 何 そ れ?」 み た い な。 そ の 時、 改 め
おばあちゃんの名前)助けられなかったんです…」っ
が す れ 違 い に、
「 あ ー、 阿 部 新 さ ん、 は ま さ ん( *
有限会社 阿部新 代表取締役
震 災 後、 水 が ひ い た の は 次 の 日 の お 昼 く ら い で し
た。 と り あ え ず 長 靴 は い て 外 に 出 て ま ち の 中 歩 い て
ティアがきてくれて、当初は外人が多くてがたいの
阿部久利
眺めてみたら、なんか、猿の惑星の最後のシーンみ
やろうっていうきっかけは、ボランティアさんの存
二 百 メ ー ト ル く ら い で 着 く か な っ て 時 に、 職 員 さ ん
たいな感じなんですよね。静かな中で、いろんなも
いい人が多くてね。一階のフロアなんか二日くらい
で 全 部 泥 か き 終 わ っ た ん で す。
「あー…なんかやっ
そういう情報が入ってきました。湊中学校近くのデ
るのもなぁ…」って思い始めたんです。
ういう気持ちで仕事してたんだよなあ。ここで諦め
ぱ り こ う や っ て 助 け て く れ る 人 も い る し、 今 ま で そ
イ サ ー ビ ス に、 う ち の お ば あ ち ゃ ん が 行 っ て た ん で
いらないじゃん。官僚さえいればたぶん何とかまわ
「政治家とか霞ヶ関いらないじゃん。特に国会議員
も動かないっていうのを体感して分ったんです。
まって勉強会とかして何かを形にしていかないと何
す。「 多 分 あ あ い う と こ ろ は ち ゃ ん と 避 難 訓 練 し て
内海橋には大きい船が乗っかってるからそれ乗り
越 え な い と 渡 っ て い け な い 状 態。 湊 中 学 校 に あ と
行ったんです、道なき道を。
出てた湊中学校にいるのかなと思って十三日に
SOS
る だ ろ う し、 み ん な 生 き て る だ ろ う な 」 ぐ ら い で、
お上とか行政では物事は何も進まないっていうの
が、今回の一件で分りました。市民同士、有志が集
三日目、まちでいろんな知り合いに会って「南浜
発信があった」とか、
町壊滅だ」
「湊中学校から SOS
のが壊れて時間が止まってる感じ。
志のある人が集まって発信することによって、
なるのでは?
阿部久利
あべひさとし
現在は、自身の会社経営を復活さ
せる準備に奔走する傍ら、復興市
民検討委員会のメンバーとして、地
元商店街の若きリーダー的存在と
して、
石巻 2.0 実行委員として、
日々
未来の石巻を考える一人。
はそういう可能性を秘めた組織です。
2.0
視野に入れて動いていきたいと思っています。●
ら す ご く 良 い と 思 い ま す。 将 来 的 に は 公 益 法 人 化 も
宣 伝 に も な る し、 商 工 会 議 所 さ ん と も 連 携 が と れ た
東の方にイベントで呼ばれていってやったら、街の
たいに復興キャラバンをやってみる。東京とか、関
は、 そ れ を 五 人 く ら い 協 同 で、“ 石 巻 マ ル シ ェ” み
僕は今、温かい食べ物をその場である程度だせる
ような移動式キッチンカーを作ってます。夢として
議論もあってしかるべきなんじゃないかな、と。
再開発の話し合いっていうのも必要ですが、それ
までのタイムラグに何をして埋めるのか?っていう
石巻
な い か?」 と い う の は な ん と な く 思 っ て た ん で す。
ちが抱えている問題を解決できる糸口になるのでは
ある人が集まって発信することによって潜在的にま
巡 り 会 え ま し た。 こ う い う 混 沌 と し た 中 で、
「志の
で、問題が明確化されていったり、いろんな同士に
そ れ こ そ ブ レ イ ン ス ト ー ミ ン グ じ ゃ な い け ど、
上でいろんな人たちと情報を交換していく中
SNS
いますよね。
ないといけないの?」って思ってる人は、いっぱい
していくだろうし。国家議員になんでそんな金払わ
潜在的にまちが抱えている問題を解決できる糸口に
まちをつくってどうするんだ」と。
ト ル に 付 け た「 爆 心 地 」 と い う 言 葉 は そ の と き に 出
んこう…実感として。私が綴っているブログのタイ
んとか水をかき分け泳ぎながら動いてみて、だんだ
で。 二 〜 三 日、 自 分 の 足 で 実 際 い ろ ん な と こ ろ を な
自分の目で見えるエリアしか見えませんでしたの
た ね。 ま ず 目 の 前、 も う 本 当 に 動 け る エ リ ア し か、
九十九パーセントの方は、まあ私も含めて呆然と
し て、 も う「 こ の 世 が 終 わ っ た 」 と い う 気 持 ち で し
たかが各自異なってくるところでしょうね。
するような規模のストーリーが。そこからどう動い
いうストーリーはどこでも聞けます、もうびっくり
うなレベルのものを持ってらっしゃいますね。そう
ぞれのストーリー、体験、確実に一冊の本になるよ
震 災 時 の 話 は、 誰 に 聞 い て も み ん な む し ろ 聞 い て
欲しいという方が多い。いくらでも、みんながそれ
まいましたが、昭和のモダンで懐かしい看板が残っ
代の頃のものはほとんど保存されずになくなってし
かしつつ、まちをガラっと変えたいですね。江戸時
いいものがいっぱいあるので、それを自分なりに活
います。石巻では、これまで利用されてこなかった
を始めるとかお店をつくるということは当然考えて
権をもちだしたので、そうした仲間と話して、事業
代の、三十代半ばから後半の人たちがある程度決定
かしたいとは思っていましたね。ようやく自分の世
石巻は“眠りゆくまち”というか、もともと経済
や人口が毎年衰退していました。個人的にはなんと
いきたいと考えています。
すし、ボランティア事業としても活動の幅を広げて
も、事業としてまちづくり活動を定款に含めていま
今度は中心商店街の復興に向けた会合に誘われ
法人で
て、 ま た 意 識 が 変 わ っ て き ま し た ね。 NPO
ばいいですね。●
のを機に、賛同してくれる人がたくさん来てくれれ
かった動きだと思います。こうした活動をしている
自ら発信するアイデアの反応を広げて取り入れな
が ら 復 興 の ま ち づ く り を す る の は、 こ れ ま で に な
います。
ような、訪れて楽しいまちになるのではないかと思
たようなつながりができて、面白い店を紹介しあう
す し、 避 難 所 に 通 っ た 経 験 か ら 分 る の は 店 同 士 の コ
日常な演出された空間が自然とできるのは魅力的で
ごくチャンスだと思うんですよね。屋台のように非
の で す が、 被 災 後 は 目 の 前 で 困 っ て い る 人 が い る と
「災害に強くしても、人のいないまちをつくってど
う ん で す よ ね。 そ れ よ り も、 文 化 と 経 済 で し ょ う。
今あちこちで聞かれる「災害に強いまちづくり」
と い う の は、 意 味 の な い 安 易 な キ ー ワ ー ド だ と 思
まつむらごうた
NPO 職員としてスポーツを通し
た地域振興や住民活動をリード
する他、石巻 2.0 プロジェクトの
実行委員としても、未来のまちづ
くりに積極的に関わっている。
http://blog.canpan.info/suport2007/
ミュニティが絶対できるんですよね。今までなかっ
な足かせとなっています。そこで今、仮設店舗はす
うけど。沿岸沿いに建物を建てるのは、そこが大き
てきたものです。
的です。そして、中瀬もとても面白い地形だと思い
一緒に瓦礫を撤去したりしていました。そうしてい
うするんだ」と。まあ、そうはいっても地盤沈下で
てるバーや建物があって、資源としては十分に魅力
今回おそらく中心商店街で一番早く復興したの
は、私も関わっている、叔父のスポーツショップだ
ます。
NPO石巻スポーツ振興サポートセンター
クラブマネージャー
松村豪太
「災害に強くしても、人のいない
と自負しています。震災翌日に店を開けましたから。
るうちに、他の家にも目が向くようになって、叔父
冠水するので、少なくとも小さな堤防は必要でしょ
私自身は総合型地域スポーツクラブの
が呼んできたサッカー選手などと一緒に、ヘドロか
職員な
NPO
きや洗浄のボランティア活動をしていました。
松村豪太
なるべく来る人は拒まない。私としては、ずっと長
ちの町内から増えていったんです。どこの町内でも
なりましょう」っていうと、あっちの町内とかこっ
給物資が欲しい人は言ってください。一緒に仲間に
私 た ち も 始 め は 十 人 く ら い だ っ た ん で す け ど、
「支
なんか他のところにはあまりないみたいですね、
地元市民が自主的に集まって情報交換するのって。
です。
礫に埋もれた道路の真ん中に皆で集まってやったん
なったんです。震災から四日目、最初の集まりは瓦
朝みんなで集まって情報交換しましょうってことに
話しよっか」と言い出されたことがきっかけで、毎
(*京屋呉服店)さんが、
「じゃあ一日一回集まって
な っ て 痛 感 し た わ け で す よ。 そ の 時 に 近 く の 京 屋
情 報 を 得 て、 つ く づ く 自 分 に は 情 報 が 大 事 な ん だ
人 に 会 っ て、「 あ そ こ に 物 が 売 っ て る よ 」 の よ う な
報が入って来なかったんです。外を歩いている中で
朝会をやるようになったのは……私自身、路地の
中に住んでいるので、震災後三〜四日しても全く情
他の街区でも私たちみたいに勉強会やるって言う
人 が な ん で い な い ん だ ろ う? と 思 う こ と が あ り ま
いことは明日考えるっていうふうにしています。
そっちに頭がいかないようにして。明日考えればい
い て お い て、 で き る だ け 寝 る 前 は 本 読 ん だ り し て、
くなるから、明日にならないと決まらないことは置
たらどうしよう?ってずっと考えていると寝られな
一晩中あっちになったらどうしよう?こっちになっ
深く考えないように」って気をつけてるんですね。
私、
「明日にならないと要素の見えないことを今日
他 の 方 は、 私 の 元 気 な の が 羨 ま し い っ て い う の。
それは“気の抜き方の差”なんだろうなって思うの。
ないように、あんまり構えなくていいと思います。
だと思います。逆に聞く人は、あんまり想像しすぎ
をして吐き出してるから、人よりたくさん元気なん
なことだと思います。私の場合は人よりたくさん話
すよ。そうやって聞いていただくことは非常に大事
あって、泣かないと聞かれないような話もあるんで
でも吐き出してしまえば楽になることってすごく
すごく必要だと思うんですよ。つらいことでもなん
ま ち の 人 達 を ち ょ っ と 揺 さ ぶ る。 ず っ と 朝 礼 で 揺
さぶってるんですけど●
んです。
いから、そういう会もしましょうってことを話した
もいいかな、って。ハード部分で手をあげた後でい
たらいいと思うものをざらざらしゃべる会をやるの
“外か
あ と も う 一 つ 阿 部 新 さ ん と 話 し て た の は、
ら 見 た 石 巻 ” と い う こ と で、 欲 し い も の と か 活 か し
いと思っています。
費やすのは誠にもったいない。一歩でも前に進みた
ら。市が出したことにいい悪いといってただ時間を
なさんと共にいいまちにしたいと思っていますか
今、毎朝朝礼やってて、皆が聞く耳をもって下さ
るから、そのうちになんとかしたい。私としてはみ
ないと聞きます。
と言われます。だからなかなか再開発がうまくいか
鰻割烹八幡 家
いこと中心市街地がうまくいかないっていう瞬間を
いう人がいてもいいと思うんです。そういう人が出
阿部紀代子
垣間見てきてしまったわけじゃないですか? だか
ら投げかけをしてるんです。少しずつ皆に投げては
ないのが不思議。多分、誰かが「しましょ」ってい
この石巻という街には、総論賛成各論反対が多い
す。例えば「どういう勉強会してるか見せて」って
い る し、 会 議 で 聞 い た こ と は 出 来 る 限 り 皆 に お 話 す
私 ね、 心 の ケ ア っ て 自 分 の 体 験 を 吐 き 出 す こ と が
うのを待ってるんだと思います。
ずっと朝礼で揺さぶってるんですけど。
いる。
まちの人達をちょっと揺さぶる。
るんです。
阿部紀代子
あべきよこ
割烹八幡家女将。震災直後か
ら率先して地 元住 民を呼びか
け、毎 朝行われる朝礼の中心
的存在として、厚い信頼を得て
いる。まちづくりの勉強会にも
積極的に参加し、同街区のより
良い方向性を探る日々を送って
きたんです。
ま就職したのですが、四年半ほどして石巻に帰って
かったなと思いますよ。大学は横浜に出て、そのま
した自然環境に恵まれて育ったというのは、一番良
魚が集まってくる。野菜や米も豊富にあって、そう
そして川と海に囲まれていて、石巻の港には全国の
た ん で す。 お 祭 り の 時 の 賑 わ い は 特 に す ご か っ た。
私が育ったのは中瀬で、石ノ森萬画館の建ってい
る真下に家がありました。中瀬には昔、人が沢山い
の人をつくっています。
りました。やはり、港町が栄えたという歴史は石巻
ものをどんどん発表して高い評価を受けるようにな
オーケストラに踊りを付けるとか、そういうような
総 合 芸 術 的 な こ と を す る ん で す。 ミ ュ ー ジ カ ル や、
レベルの高いものが出てくる。どのようなものでも、
文化が蓄積されてきました。文化活動が動き出すと、
の交易で人々がいろんな地方から来て、それぞれの
かったという背景があります。ところが港を通して
台藩の政策により、石巻で余裕のある商人が育たな
人が豊かになると民間の文化が栄えるのですが、仙
歴 史 的 に、 石 巻 は 伊 達 藩 の 港 町 と し て 栄 え た に も
かかわらず、儲けは仙台藩に集まっていました。商
の人が身を寄せている避難所に行って、年配の人や
つくっていく案を進めるとなれば、門脇・南浜・湊
くことができないのがきつい。建築制限もかかって
まだ今は、おおもとの計画となるグランドデザイ
ンが策定されていないので、計画を横に見据えて動
るべきなんです。
来るんだから、そこではできないものを商店街でや
ています。向こうのほうが絶対お客さんがいっぱい
競争というより、私は最初から共存共栄だって言っ
共栄していくべきであると思います。大型店舗とは
設などをつくる案も考えられます。そうして居住人
て個人病院を二階につくって、三階以上には育児施
を考えた住宅をつくるべきです。建物を高床式にし
ことになれば病院であったり、老人や子供達のこと
失った地区の人たちをここに迎えたい。住むという
今、中心市街地を活性化させるためには、定住人
口を増やさなければいけません。本当は、根こそぎ
ろと検討しているところです。
模で行い、資金をどのように入れていくか、いろい
ので、まちに関わるどのような事業をどの程度の規
ジメント機関)として、事業主として独自に動ける
災害が起きてしまった。本来は
(タウンマネー
TMO
ちづくりの方向に舵を切る予定でした。そのうちに
動している人が強いんです。●
進 み 方 が 全 然 違 う。 や っ ぱ り 住 民 の 信 頼 を 担 っ て 行
はもうこうなってるよという立場とでは、その後の
行政だって、案をつくってから最後になって住民を
ち、 住 民 の 意 思 が 最 後 の 決 め 手 に な る ん で す よ ね。
分がつかめる。ある案を実現するには、住民の気持
思います。一対一で話を聞けば聞くほど、本音の部
か、考え方や希望、本当の思いを聞ければいいなと
若い人などにもっと話を聞いて、今後どう住むべき
いますし。普通の人たち向けの住宅を中心市街地に
さいじょうまさとし
株 式会社街作りまんぼう代表
取締役社長/石ノ森萬画館指
定管理者として、石巻の街作り
を住民目線で考えている貴重
な存 在。現在のまんぼうは住
民や様々な学識者を招いた勉
ニティースペースとして機能し
ている。
説得しなくてはいけないという立場と、住民の意見
私が代表を務める「街づくりまんぼう」は、これ
までは萬画館の運営管理を主体にしていたのです
口を増やして、便利で住みやすい環境の中で、共存
が、中心市街地の認定を受けましたし、今年からま
http://www.man-bow.com/
行動している人が強いんです。
強会を始め地域の大切なコミュ
やっぱり住民の信頼を担って
株式会社 街 づ く り ま ん ぼ う 代 表 取 締 役
石ノ森萬画館指定管理者
西條允敏
西條允敏
のがごちそうなんだよね。シャコとかおやつに出て
なか認識できない。たとえば、普段食卓にのぼるも
見ることができたね。いいものは、中にいるとなか
東京の吉祥寺に出たんだ。そのときに外から石巻を
て。自分は高校を出てから三年ほど、料理の勉強で
たんだ。親父も目が治ると、
食堂を手伝うようになっ
四十五年くらい前、小学校四年生のときに親父が
目を怪我して船を上がって、おふくろが食堂を始め
いうか「仙台には負けない」という流行があったね。
親父達は外国のモノを持ってくるから、ハイカラと
石巻は昔から遠洋漁業なんかで船に乗ってる人が
多いところで、うちの親父も捕鯨船に乗ってたんだ。
ま ら な い 仲 間 も い る し。 最 近 に な っ て か ら や っ と、
再出発しようと思っていたし、周りにはまだ店が決
けど、複雑な思いだったね。テントみたいな所から
るという話がたまたまあって移ることになったんだ
にも大変だし。グランドホテルに魯曼停を出店でき
でダメになって、これを全部また揃えるのは経済的
一度見たらもうきついなと。店のほとんどの物は泥
地震の後すぐに店に来たときは、まだなんとかや
れるなと思ったんだけど、津波で避難した後でもう
を盗んで来る(笑)
。
結構ヒマで、二十三時を回ったくらいで奥さんの目
は オ ヤ ジ ば か り で ね( 笑 )
。店を開けて早い時間は
う思っています。●
のステージへ進むきっかけになるかもしれない、そ
亡くなった人もいるし、この震災について単純に
は判断できないけれども、自分に限って言えば、別
だろう、と待っている状態なのかもしれない。
あったけど、今はみんな窓をあけて、次は何やるん
いる気がする。これまでの石巻は閉鎖的なところも
今は外からいろいろと人が入ってきてくれて、被
災した人たちはそれに関わるごとに外を向き始めて
住人の本音なんだよね。
石巻に住んでいた人は戻ってきたいと言う。それが
れ て い る。 遠 く に 避 難 し て い る 身 内 も い る け れ ど、
かっこいいなぁ、と。そういう店をつくりたいなと
人がひとりで来て銘柄で注文するんだ。それを見て
たんだけど、ある店ではジャズをかけていて、女の
そ の 頃、 日 本 酒 が 好 き で よ く 仙 台 に も 飲 み に 通 っ て
が 出 て き て、 郊 外 の 食 堂 は 衰 退 し て き た ん だ よ ね。
い。次の世代は新しいまちがあれば、そこが自分た
もっと内陸に住むという選択肢もあるのかもしれな
ろん、安全を無視して街をつくるわけにはいかない。
たのは安心とか安全よりも、運だったと思う。もち
あるから崩壊しないとも限らない。今回は、助かっ
トルの高さの堤防をつくったとして、今回のことも
北上川は、普段静かなときに見ればゆったりとし
た流れで、とてもいい風景だよね。そこに何十メー
プンする予定。ジャズと日本
ホテルでやるということをみんなに言えるように
思ったんだ。当時、石巻では日本酒をメインに出す
ちのベースになるわけで。ただ、安心や安全ばかり
変えて、ニュー魯曼停を再オー
石巻には石巻の文化があって、
にオープン。震災後、場所を
DNA に組み込まれている。
酒をコンセプトに石巻の夜を
盛り上げる。趣味は自転車。
なった。
店 は な か っ た し、 お 酒 に は 刺 身 と い う パ タ ー ン し か
日本酒バー魯曼停を 1996 年
くるし(笑)。
なかったから、あえて料理はつまみだけでね。始め
考えると、消極的なことしかできないよね。やっぱ
あべあきら
バ ー を 始 め た の は 十 四 年 前。 そ れ ま で は 食 堂 を
やっていたんだけど、コンビニとかファミレスとか
るとジャズ好きなお客さんが増えてきて、お客さん
り 石 巻 に は 石 巻 の 文 化 が あ っ て、
に組み込ま
DNA
が店のカラーをつくってきた感じがある。ただ、客
魯曼亭オーナー
阿部明
阿部明
門にやっている会社は少ないんです。我々のように
することができました。全国的に見ても茅葺屋根専
す。 だ か ら、 一 ヶ 月 く ら い 経 っ て す ぐ に 仕 事 を 再 開
うちの会社は茅葺が主な仕事なんですが、地元の
仕 事 と い う よ り、 九 割 く ら い は 県 外 で の 仕 事 な ん で
なかったと思います。
自宅にいたんです。水は十日くらい全然ずっとひか
ちの会社の倉庫は半壊しました。僕は運よく休みで、
震 災 当 日 は( 窓 の 外 を 指 し て ) ち ょ う ど こ の 辺 か
ら下流のほうが壊滅状態で、事務所もそこにありま
か」っていう感じで今に至ったんです。
ら っ て、「 よ し、 い い チ ャ ン ス だ か ら 行 っ て み よ う
え て た 時 に、 た ま た ま 今 の 会 社 の 社 長 に 誘 っ て も
ものを作れないかな?」って思ったんです。そう考
な く、 手 を 動 か す こ と で 感 動 さ せ ら れ る よ う な い い
もなき民家を見ているうちに「頭で考えることじゃ
か け は、 つ く ば 市 の 民 家 調 査 を 通 し て 素 晴 ら し い 名
僕はもともと建築の設計をやりたくて、地元の広
島の学校で学んでました。茅葺やろうと思ったきっ
が あ る ん じ ゃ な く て、
「 そ の プ ロ セ ス で あ っ た り、
にやっているんだから。でも、その残った形に意味
うじゃないですか?自分たちはその何かを残すため
と自分たちがやっている事に意味が無くなってしま
津波が来てしまえば何も無いんですよね。そうする
すために一生懸命働いて残すじゃないですか。でも、
な?」って思ったんですよね。みんなお金とか物残
し ま っ た 土 地 を 見 て、
「残すことに意味があるのか
じたのは、津波のあった次の日に何にも無くなって
この石巻でも色々な人がそれぞれ色々な変化が
あったと思います。自分自身の変化というか一番感
ですよね。
の丈に合ってる構法であり、材料であったりするん
と。そういう意味で、茅葺っていうのは、人間の身
にかあった時どうにか対処できるようにしおかない
から簡単に扱えるわけですよ。使うんであれば、な
じゃったじゃないですか?茅葺なんて自然のものだ
例えば今の原子力問題にしても、結局自分の手に
負 え な い も の を 作 っ た 結 果、 大 き な リ ス ク を 生 ん
です。ゴミにならないです。
ていくんですよね。ぐるぐるぐるぐる循環できるん
てくる。またそれを降ろしてやれば、また土に還っ
何も東京や仙台ばっかり向く必要は無くて、石巻
でもいろんなやり方あると思うんです。●
気づかされる。
良 さ を 発 信 し て い く こ と が 必 要 で、 逆 に 地 元 の 人 も
別に特にビビッと来なくたって石巻の中央歩くだ
けでも面白いじゃないですか。宝探しじゃないけど、
が大事なんじゃないかなと思うんですよね。
し ま し ょ う 」 と か、 そ う い う 仕 組 み づ く り と い う の
うものが来たらすぐに「じゃあここに逃げるように
家も流されてしまうかもしれないけど、もしそうい
と思うんですよね。津波はいずれまた来るんだから、
メ ー ト ル に し ま し ょ う と か、 そ う い う 話 で は ダ メ だ
だからといって堤防十メートルで足りないから二十
まちを高台に新しく造ればいいって言うけど、三
陸沿岸でそんなところって無いですよね?というこ
た人が住んでいかないといけないじゃないですか?
根師。石巻市北上町にある
同社は日本でも有数の茅葺
屋根専門職人を有する会社
伝統技術継承者として日本
各地の伝統的家屋や歴史的
http://www.kayabukiyane.com/
(有)熊谷産業 工事課長 屋
とはやっぱり元の所に住まないといけないんです。
材料も全部自分たちで確保してるところは、もっと
おきもとたいち
した。上流は床上浸水や、ここも結構水がきて、う
少ないんです。
かな」っていう事を感じたんです。
全 く ほ と ん ど 無 く な っ て し ま っ た 状 況 で …… 石 巻
だって、南三陸町だって、気仙沼だって、そこにま
やってる人の思いやそういう事に何か意味があるの
茅葺屋根で僕が一番惹かれるのは、それが最終的
に土に還っていくことで、しかもまた自然に生えて
くるんですよね。自然に生えてきて、またそれを刈
建造物の屋根上で活躍中。
構法であり、材料であったりするんですよね。
として有名。沖元氏は若き
茅葺っていうのは、人間の身の丈に合ってる
り取って、屋根にのせて、何十年かするとそれが腐っ
有限会社熊谷産業 工事課長・屋根師
沖元太一
沖元太一
石巻のサブカルチャーを語る上で中心的存在の、
サカチヨさんこと榊顯雄(さかきあきお)さんと奥
事務局のベースキャンプ、阿部新旅館か
石巻 2.0
ら歩いて一分。
つまみをもって夜な夜な集まっている。これからの
がこよなく愛されている。音楽仲間がおいしい酒と
ここには本当に色んな人達が、榊さん夫婦と石巻
を応援するために全国規模で集結している。近所の
出 身、 年 齢、 学 歴、 国 籍 な ん か 全 然 関 係 な く て、
あらゆる人と人との交流がこの狭い何の変哲もない
り、この場を通じて始めて出逢う人達がいる………
当をみんなで分け合って食べている。そしてなによ
た ま に 夜 ご 飯 も 食 べ さ せ て く れ る。 一 つ し か な い 弁
石巻の将来についてアツい話し合いがされている。
人々の憩いの場となっている。ピースボートの団長
さんの美香さんが、震災後、自力で始めたコーヒー
がある。かくいう自分も、
朝のコー
ROOTS
ヒ ー が 恋 し い 時、 自 衛 隊 風 呂 の 後 に コ ー ヒ ー と タ バ
ショップ
プロジェクトの相談がしたい時等々、在石中
2.0
コで一日の疲れを癒したい時、実行委員を務める石
巻
は本当にお世話になっている場所でもあります。
店内で日々行われているんです。
そこに見えるのは、古き良き時代の商店街がもっ
ていた、人と人とのコミュニケーションの基本型。
今はまだはっきりとは言えないけど、ここに集ま
る人達の笑顔や笑い声が、全てを現してる気がして、
これからのまちづくりのヒントみたいなものがここ
にある気がします。
なぜなら、ここに来る度、僕は石巻のまちと石巻
人がどんどん好きになってしまうから。
ちだ原人に遭遇した時の衝撃と感動は、今思い出
しても心が震えます●
0実行委員 飯田昭雄
写真・文 石巻2.
サカチヨさんのブログ→ http://captaintri.exblog.jp/
アメリカ的巨大モールを模したかのような郊外型
ショッピングセンターの台頭によって、石巻の象徴
だ っ た 中 央 商 店 街 は 年 を 経 る ご と に 疲 弊 し、 ノ ー
フューチャーな風が流れていたそうです。
震災がすべてを奪ってしまい、石巻とここ中央商
店街はとてつもない困難を前にこれから復興への長
い長い道のりを歩まねばなりません。
商店街といった草の根的ネットワーク
ZENKAI
国 や 県、 市 の ま ち づ く り の 方 向 性 が い ま だ 定 ま ら
ない中、それを待つ時間を無駄にせず、地元では石
巻
の存在を見ると、そこに新
ROOTS
を利用した経済活動が始まりました。
そ し て、 こ の
しいまちづくりの原点のようなものがあると確信し
てしまうんです。
ストリートへの回帰。
そこから見える、まちづくりの原点。
づくりがいい。そうすれば観光も、体験型・滞在型
ぱり市民の方々が住んで楽しいと思えるようなまち
て、来てみたくなる仕掛けづくりというのかな。やっ
だ集まれる場所をつくればいいというだけではなく
というニーズをくみ上げて、考えてもらいたい。た
ね。 若 い 人 た ち に は「 こ う い う の が あ っ た ら い い 」
ちではなくなったというのは寂しく感じていました
そうした店が少なくなって、回遊というか遊べるま
があったんですよ、
格好いい人がいたなぁとか(笑)
。
ご く 楽 し み で、 喫 茶 店 な ど で 青 春 の い ろ ん な シ ー ン
震災前でも最近は、石巻のまちの雰囲気が変わっ
て い ま し た。 私 の 学 生 時 代 は ま ち に 出 て く る の が す
のために役に立ちたいなと思いますね。
づくりに関わってきた部分で、やっぱり地元の石巻
す。自分も子育てをして、歳を重ねるごとに、まち
資金繰りや確定申告などで相談役をする団体なんで
フラ整備をする。小さくは、色々なお客様に対して
をしている方々の声を集めて国に陳情したり、イン
地元の高校を卒業して商工会議所に入り、今に至
ります。商工会議所は、地域の経済団体です。商売
生まれてからずっと石巻に住んで、外に出て暮ら
したことがありません。
い建築制限の区域になっていますし。
一番多い声ですね。このあたりは新しく建てられな
なりました。早く方針を出して欲しい、というのが
末に開設すると、お問い合わせだけでもすごい数に
震災では、皆さん少し落ち着いてからは、これか
ら商売どうしよう、という感じでした。窓口を三月
だよねって言われて改めて気づくという感じです。
が当たり前のようになっていて、外の人からいい街
という、あまりにも恵まれている環境ですね。それ
す。石巻の魅力は、気候だったり、川や海だったり
宅をまちの中にどんどん建てて欲しいなと思いま
しね。東京でまち中に住むのはお金とか大変でしょ
みに行く感じの所が近くにあれば、歩いて帰れます
まちの中に住みたい。ちょっと夜にご飯を食べて飲
散策したり。私が高齢者になったら、賑わいのある
て、そこで楽しんで買い物したりおしゃべりしたり、
またはバスでもいいのですが、乗ってまちに出てき
のシステムもいいですね。乗り物が立派でなくても、
なみというか。また、まちを巡回するライトレール
ですね。神社の境内のような雰囲気というか、まち
がぶつかり合うような商店街っていいなと思ったん
人と触れ合ったり新しいネットワークが広がると
いう、眼に見えない付加価値が出てきますから。●
関わりができるのが一番の財産。
あるんだけど、そこに行くことでいろんな人たちと
ん で す よ。 自 分 で 最 後 ま で つ く っ た と い う 達 成 感 も
私も、ちょっとした工房で三年くらい習っていた
の で す が、 や っ ぱ り 物 づ く り っ て 楽 し い な っ て 思 う
や仕掛けは面白いんじゃないかと思います。
カルチャー教室というか何かつくるようなスペース
せませんよね。また、復興やまちづくりというとき、
うつみきみえ
石巻商工会議所勤務。石巻の中
小企業や地域住民の声を最も身
近に受けとめながら、様々なニー
りに対する姿勢も積極的。
うけど、石巻は大都市ではないし、高齢者の賃貸住
になっていくんじゃないかしら。
やる気があるときに方向性が見えれば、それに向
かって皆さん動いていくと思います。仮設住宅を出
ても働く場がないようだと、復興の第一歩は踏み出
ズに対応する日々を送る。街作
住んで楽しいと思えるまちづくりがしたい。
この前ちょっと東京に行ったときに、谷中の商店
街がいいなって。車も入れないような所で、肩と肩
石巻商工会議所中小企業課課長補佐
内海公恵
内海公恵
ま っ て、 広 い 土 地 を 確 保 し て そ こ に 公 共 施 設 を 誘 致
も し か し た ら、 今 ま で 話 し 合 っ て た 何 か が 実 現 で
き る ん だ っ た ら 商 店 街 も 生 き ら れ る し。 み ん な 集
そうした意味では、タイミングがよかった。
わりましたよね、今じゃなかったら関われないもん。
きるというのであれば参加したいなって思った。変
まちづくりに関しても、ただ放置して行政まかせ
に す る の で な く、 プ ラ ン を み ん な で 練 っ て そ れ が で
そんな時に朝のミーティングに誘われて、そのう
ちに復興の会議があるからと声をかけてもらったの
当たりにしたら、何かしなくちゃなって…(汗)
。
け ど、 い ざ 地 震 が 起 こ っ て 何 も 無 く な っ た の を 目 の
地 震 の 前 は、 正 直 あ ま り 石 巻 に 関 心 が 無 か っ た ん だ
なくというか、知らないうちに鮨屋になってた(笑)
。
親父が店を新しくして引っ越すというのでしょうが
鮨屋は代々継いできたわけではなく、親父が一代
目。俺は鮨屋やる前は建築の学校に行ったんだけど、
働意欲がなくなっちゃうし…それこそ、復興の第一
うでしょ?(笑)やっぱり三ヶ月も仕事しないと労
いなかで、その間仕事しないとダメ人間になっちゃ
から長いことかかる。地元の魚の入手がままならな
と言われれば、まぁそうなんだけど、復興計画が策
も面倒見てくれると。
「石巻から逃げるんでしょ?」
したい人がいて、空き家を三年間貸せると。働き口
集していたのを奥さんが聞いたんだね。現地に支援
「家族で来れる人」
「鮨が握れる人」という条件で募
逆に、私的な話だけど、この夏にアメリカのメイ
ン州に渡ることになりまして…。たまたまラジオで
まであり得るのか」という意識になると思うしね。
な い 子 供 が 増 え て き て も、
「津波が来るときはここ
トを付けなきゃいけない。そうすれば、震災を知ら
にも「水がこの高さまで来ました」っていうプレー
新しい建物は、下を駐車場にするのを決まりにし
て、二階以上に住むようにする。そして、どの建物
らないでしょ?
分)次第だけれども、人が住まないことには話にな
アの人口が増えればいい。そこから先は商店街(自
得できるよね。●
れに伴っていろんな問題も出てくるだろうけど、納
たほうがいいんじゃない?」みたいな。もちろんそ
まちじゃなくて、みんなで考えて「こんなのがあっ
三 年 後、 今 ま で 頑 張 り た く て も 頑 張 り よ う が 無
かった状況から、頑張った分だけ報われる、そうい
するじゃない、今だったら。
こうなれば、不可能なことも本当にできそうな気が
がってるイメージがものすごくあった。震災で逆に
こ れ ま で の 石 巻 で は、 ま ち づ く り や イ ベ ン ト は 小
さなグループだけで集まって、その中だけで盛り上
もあるし。
うちの母親も津波でやられちゃったから、まあそれ
鮨職人
し て、 地 権 者 は そ の 上 に つ く る 住 居 に 住 ん で も ら
歩は仕事をすること。まあ、したくても出来ない人
千葉隆博
う っ て す れ ば、 誰 も 損 し な い シ ス テ ム が で き る で
の方が多いんだけど。それなら期限を区切って行っ
挑 戦 へと臨むも、3 年 後には
石巻に戻ることを誓う。
なワケだし、なんとゆうか必然的でしょ?(笑)
。
と共に渡 米。海を渡り新たな
うまちになったらワクワクするよね。誰かが考えた
し ょ う。 地 元 に 根 ざ し て い る 文 化 セ ン タ ー や 公 民 館
てみるのも面白いんじゃないかと。自然の流れから
助六鮨・鮨職人。今夏、家族
が 始 ま り。 こ の イ ン タ ビ ュ ー に し て も そ の 延 長 線 上
であれば、周りの人も集まってくるだろうし。津波
し て、 呼 ば れ て い る よ う な 気 が し た も ん ね。 今 回、
ちばたかひろ
定されるのが今年の秋からで、地盤が整うにもそれ
に強い住居をつくって、仮設住宅に入っている人た
復興後のまちを考えるとワクワクする。
ちを優先的に住んでもらえるようにして、このエリ
千葉隆博
ISHINOMAKI 2.0 vol.0
VOICE
2011 年 7 月発行
編集長
飯田昭雄(ワイデン+ケネディ トウキョウ/石巻 2.0 実行委員)
編集協力
東京工業大学大学院社会工学専攻 真野研究室
真野洋介(石巻 2.0 実行委員)
荒川佳大 石際由美 速水検太郎 渡邊享子
内西哲朗 大村一仁 坪内舞子 野村美里
石川怜也 加納亮介 堀口拓未 宋 暁丹
阿部久利(有限会社 阿部新代表取締役/石巻 2.0 実行委員)
松村豪太(NPO 法人石巻スポーツ振興サポートセンター/石巻 2.0 実行委員)
加藤純
アートディレクション/グラフィックデザイン
真木大輔(ワイデン+ケネディ トウキョウ)
吉川一陽(ワイデン+ケネディ トウキョウ)
写真
小泉瑛一(オンデザインパートナーズ/石巻 2.0 実行委員)
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石巻 2.0 事務局
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