初めての本荘高校は実に 瀟 洒でした。正面から見る 本校のために頑張ろう。決 最後の母校となるであろう らく、教育に熱意ある人た とになった先生方もすべか 飛ぶ。初めて一緒に働くこ い顔を見つけ、不安が吹っ 名の中に、同職した懐かし ていく力そのものと考える いは地域や社会を切り開い させたい。自分の将来ある の力を何とかして身に付け る子どもの育成」だが、そ の最大目標は「問いを発す りなさを感じる。本県教育 藤 吉 一 ローカルな本高生を育てて いきたいと考えている。校 標の実現を図りながら。 本校東京同窓生の皆様に は日頃から母校を温かく見 と向き合ってきま ヨット部顧問 江幡 隆弘 年間インターハイを目指して 私たちヨット部は、雄大 な 鳥 海 山 を 望 む 日 本 海 で、 守 っ て く だ さ る と 同 時 に、 本校の教育活動にご支援ご した。ときには選 秒 中の好成績で見事に 本荘 対 本荘 対 新屋 本荘 対 大館大 この結果本荘高は 位に入 賞した。 位 と な っ た が、 弓道の予選は 射 中以 上が決勝トーナメントへ進 秋田北鷹 射 射 めるが、大場優君は 中、正木唯さんは 中 で実力発揮できなかった。 全国高等学校定時制通信 柳田楓真君( 年)が出場。 制 体 育 大 会 に 本 荘 高 よ り、 卓球の女子個人の部に加藤 定時制 剣道・卓球 柳田君、加藤さん全国大会へ 様ざまなことを学 〈男子団体戦の成績〉 れまで支 えてく だ 上位入賞 を目指し てがんばります。 チームが 日間連続の合計点 分 組 年)遠 位と健闘した。 位( 田真央( 年)は予選 に出場し )となり、準々決勝へ進 出した。 麗奈さん( 年)が出場。 年 せなかった。 市の教育委員会や自治体関 を収めているため、全国各 秋田県が全国学力テスト で毎回トップクラスの成績 利本荘市への視察は本年 全国に注目されている。由 がら答えを導く授業形式が や考え方を出させまとめな 西目小での鈴木知事(右から 3 人目) も達に様々な意見 とし、教師が子ど 秋田県の教育課題 「問いを発する 子どもの育成」を に至ったものです。 た鈴木知事の視察 向上を公約に掲げ 回ったため、学 力 連続全国平均を下 学 力テストで 観した。三重県が と算数の授業を参 目小学校では国語 由利本荘市の小中学校へ 県外から「教育視察」続々と の気持ちを忘れず、 剣 道 男 子 団 体の一員 として さった方々への感謝 6 女子ダブルスカル 石井 結( 年 ) 奥 山 咲 弥( 位までの準決勝進出を果た 弓道部個人の部 大場優君全県優勝 射 全県高校総体において弓 道部の大場優君は個人戦で 優勝に輝いた。女子個人戦 日々練習をしています。こ 手同士衝突もしま 理解をいただき感謝に堪え では正木唯さんは 年生のと 女子 出場、 級には と き も、 と き に は 雪 の 中 〈インターハイでの活躍〉 が で、 部 の OB で あ る 佐 藤 功美コーチの厳しい指導の 点 も と、 ヨ ッ ト を 操 り 自 然 男子・女子 クルー出場 年)猪俣凌 年)菅原絵理菜( 端艇部インターハイへ 佐藤雅也( 準々決勝では 組 位 年)佐々木海月( 年) 年)吉田一貴 ( 分 秒 ) と な り、 ㎏級佐藤駿君は 回戦 長谷山達彦( で京都共栄学園溝渕勇也に ( 判定で惜敗。 準々決勝へ進出した。 13 10 中 〈インターハイの成績〉 の成績で ㎏級佐藤俊 ㎏級佐藤光 ㎏級三保翔 ㎏級佐藤光君は 回戦 ( 年 ) は 予 選 組 に 出 場 で高知岡豊高門田直也に内 し、 位( 分 秒 )で 股で惜敗。 位まで) 射 したが、陸上では 年ぶりに女子 アットホームな雰 のたび、 級でインターハイの出場権 二人ともインターハイ出場 ません。今後ともどうぞよ 囲気のなかで支え が決まった。 ろしくお願いします。 合い、ヨットから が女子部員で、 の同点となったが、秋田工 業高の内容勝ちという判定 二賀保 大曲農 対 対 で、本荘高は惜しくも準優 勝となった。 〈女子団体戦〉 回戦 本荘 準々決勝本荘 兵庫県豊岡市円山川城崎 漕艇場で開催された全国高 それぞれが東北大会上位の 8 筆 者 略 歴 旧 河 辺 町 出 身。 を獲得することができまし 校 勤 務 後、 高 校 た。出場する 年生は全員 中学校 出場を目指し、練習に励ん 年ぶりの全国 大 会 を、後 援 会 を んできました。 国際情報学院各校教頭、秋 で い た 者 た ち で す。 い い 年間インターハイ 将来の見通しがつきにくい 田高副校長を経て、本年度 は じ め と す る、こ きから これからの社会をたくまし 風 の 吹 く と き も、 悪 天 の 人が優勝飾る 期) より現職。 柔道部 柔道部顧問 我妻 沢美 ( 全県総体 男子団体は惜敗 ㎏級の佐藤光(御野 年 )、 男 子 100 人、合わ 高校柔道部は男子個人で 平成 年の秋田県高校総 合体育大会において、本荘 全県総体での活躍 柔道部は、男子 ㎏級の 指してしっかりと強化して 佐藤 駿 勝 判定 佐藤駿(御野場中・ 年)、 いきたいと思っております。 決勝戦は右のとおり 対 男子 場 中・ ㎏級の高橋仁 ㎏級の三保翔(勝平中・ 年 )、 女 子 年)の 人、女子個人で 美(本荘東中・ 名が奈良県天理市で行われ せて う華々しい活躍をみせた。 (本荘高の内容勝ち) 男子舵手付きクォドルプル 人が優勝に輝くとい たインターハイ柔道競技に 優 勝 し た 次 の 選 手 は、 準決勝 本荘 対 金足農 奈良県で開催された全国総 〈インターハイの成績〉 ▼ 男子個人 ▼ 男子個人 準々決勝本荘 校総体ボート競技において 実力者で、インターハイで 体に出場した 名は も上位を目指していました ▼ 男子個人 参加しました。この が、三保のベスト が最高 で、上位に進むことはでき ませんでした。 タートしておりますが、次 ㎏級三保翔君は 回戦 準々決勝は 組で 位 を不戦勝、 回戦で前橋育 ( 分 秒 ) と な り 準 決 進出は 英高吉川拓海に判定で惜敗。 勝 進 出 を 逃 し た。( 準 決 勝 4 問いを発する生徒の育成へ での実現とみる。 本荘高等学校校長 佐 が多く、安定感と新鮮さが 校舎は前庭を包み込むよう 意を新たにする。 ちで、いいところに来たな からである。どうやって火 く生活していけるようなグ 同居、職場環境は十分に恵 「志ある者は事竟に成る」 へ。秋田南、秋田、秋田北 ま れ て い る と 確 信。 後 は、 よ う に、 志 を 高 く 持 た せ、 各校教諭、大館鳳鳴、大館 元気なそれぞれのベクトル をいかにして同じ方向に向 け る か が 力 の 見 せ 所、 教 に円形をなし、中央に重厚 頭、事務長と楽しくも頭を な 二つのエントランスが あ 生徒は実直で素直。まじ めに取り組んでいる様子が ひ ね る 日 々 の 連 続 だ ろ う。 る。威 風 堂々、西 洋 然 とし 日常的に見られる。整容も として、さらには、地域の きちんとしており、本校生 年の集大成をここで行 うん リーダーとしての自覚と誇 化 を 感 じ る。 「教員生活 た佇まいに本校の伝 統と文 だな 」と実 感、ちょっと震 えたのを今、また思い出す。 りを感じる。それでも主体 的・能動的に一つのことに と安堵する。内示の日に前 突進していく力にはもの足 任校の校長から言われた第 を点けるかだ。 全職員との初対面は職員 会議であった。見渡した 一 声 を 思 い 出 す。「 お め で のチームは歴代の中でも特 大曲工 八十年史を手に取る。答 え は そ の 中 に あ っ た。「 右 に素 質の高い選手が揃って 対 文尚武・質実剛健・玲瓏同 い ま す。 す で に 東 北 地 区 年)土方杏華( 女子舵手付きクォドルプ ル高橋明日香( 年)細矢 真美( 2 1 分 年 )は 予 選 位( )で敗者 秒 年度は 自 自治体 人に達し ている。平成 今年 月 日には三重県 治体 人、平成 年度は の 鈴 木 英 敏 知 事 が 西 目 小、 自治体 人に達した。今後 学校視察を行っている。 組 に 出 場 し、 係 者 が 由 利 本 荘 市 を 訪 れ、 月以降 秒 分 復活戦へ。敗者復活戦は 位( 位で突破し、準々決勝は 中学校を視察した。西目中 も視察が続くようだ。 )で準決勝進出を逃した。 学 校 で は 数 学 と 国 語、 西 (広報ゆりほんじょうより) 組に出場し 4 年 生 を 中 心 と し た 新 ▼ 女子個人 ㎏級高橋仁美 チームが来年度に向けてス 〈男子団体は準優勝〉 氣 」、 三 つ の 校 標 だ。 先 輩 女子 ㎏級高橋仁美さん は、この大会で準優勝した 比叡山高伊藤友希と 回戦 で対戦し判定で惜敗した。 8 3 3 4 50 48 とう、非常にやりがいのあ す。」 たちが常に目指した理想で 23 3 4 164 る伝統校です。本荘高校で 校務を十分に知り尽くし ているベテランがおり、働 なってきていますが、全国 あ り、 精 神 的 支 柱 で あ る。 ではトップクラスの戦 力に 本校が目指す生徒像は、こ 代がその周りを 大会で通用するチームを目 き盛りの き ち っ と 固 め て い る。 ま れら校標三つの高いレベル 準決勝 本荘 対 秋田 決 勝 本荘 対 秋田工 佐藤 光 勝 僅差 大場悠斗 引き分け 三保 翔 負 後ろけさ固め 坂本広大 負 判定 代 た、新採用二人を含む 24 2 3 3 16 4 420 1 25 3 1 26 3 2 3 32 2 2 3 3 2 420 2 12 12 20 201 3 3 1 0 3 08 29 3 1 2 1 2 2 3 3 1 3 0 4 86 2 1 3 3 4 66 3 4 97 3 1 66 24 1 0 4 5 43 1 40 7 2 3 4 82 30 2 84 4 358 0476 - 36 - 5459 63 5 秋田県立本荘高等 学校東京同窓会長 2 8 3 3 63 2 3 4 25 発行人 81 12 題字 後 藤 竹 清 3 4 27 4 1 4 82 4 3 6 3 1 佐藤源一 3 16 4 3 81 100 63 100 81 66 2 2 3 3 2 第 19 号 2 33 70 20 1 40 平成 27 年 9 月 1 日 本荘高校東京同窓会報 (1) 第 19 号 沙孟海の詩に励まされる 古希を迎えて 東京同窓会会長 佐藤 源一 い。……ただ深く頭を垂れ とも会員の皆様とともに同 り頼もしい限りです。今後 ておいしいお酒があります 前が天寿光希さん、天寿っ ら 以 外 あ り ま せ ん。「 遅 れ 合ったのは家が近かったか みかえしてみました。それ しくない。 とは思えない元気な語らい い う こ と は 確 か で す の で、 今よりはずっと若かったと 日同窓会員で観劇をし ました。 華やかなショウの幕が下り ない こうべ るのみです。 ね。忘れないいい名前です。 てきた人が感想文を書くん 歳)は 窓会活動を盛り上げていき またその方は「宝塚ファ ンはその道路の端に一列に 歳( たいと思いますのでご支援 歳だから)少しも珍 をよろしくお願い申し上げ 前の 今日、同窓会活動への若 手会員の参加拡大が叫ばれ 大いに仕事をしなさい。 すゝめ」 (新潮選書)を読 ていますが、一方年齢の高 歳)はたくさんいる に、あらためて健康である 今見たのは何だったの? …夢?…夢ですよねー? こ れ で も か と い う ほ ど の、 た時、右隣の会員たちと言 りしてすぐには出てこない いました。化粧を落とした たくさんの人たちが並んで と。本当にもう向こう側に すが、森繁節に魅せられて 受け取ったからではないで ンコールが何回も。花束を いうことがありました。ア 目中央でしっかり受けると 列 出演者を待ち、握手とかサ ありがとうと声をかけるの エストして買ってもらい何 のレコードを図書館でリク 今回の宝塚100周年記念 だとのこと。なんとファン 公演も夢のような記憶に 度も何度も聞きました。 今 ま で、 た く さ ん の 演 劇、ミュージカルも仕事の な っ て 残 る こ と で し ょ う。 もお行儀よくかっこいいの 合間を縫って見てきました このような企画をしてくだ でしょう。感心しました。 が、なぜか宝塚は初めてで 分 前、 さ っ た 役 員 の 方 に 感 謝 し、 場合じゃない、有楽町へギ 昼ごはんなんか食べている す。 るか楽しみにしておりま 次回はどんなことに出会え 携帯が鳴ったのは した。集合時間を勘違いし 曲を聴くとその時々の時 代を思い出します。きっと れ 様 で し た、 楽 し か っ た、 屋根の上のバイオリン弾き インとかはねだらず、お疲 投げた花束を、前から 昔、「 屋 根 の 上 の バ イ オ 並んで出演者の方たちが 出 て く る の を 待 つ ん で す 」 リン弾き」で倍賞千恵子が 書いています。 だよー」のひと言でこれを から老人の仲間には入らな に よ る と、 中 国 の 詩 人 で 歳 歳( ─1992) は 友 人 の 母校 年の時のクラス会 から「古希を祝う会」の案 沙孟海は、今日では百歳 を古希とすることに少しも 掛けであるとし 差支えなく、当時との年齢 いあいました。不思議なこ リ ギ リ 到 着。 開 演 に 間 に TDK新工場建設 そうでした。 面積が約 建設する。本荘の新棟は床 場」のそれぞれの敷地内に 場」とにかほ市の「稲倉工 棟を由利本荘市の「本荘工 TDKは市況の悪化を受 けて平成 年から平成 年 海外工場にも順次導入する。 性 を 高 めて、ア ジア な どの 稼 働 条 件 を 割 り 出 して 生 産 裕 子 ( 期) ます。 内をいただきました。古希 ことのありがたさをお互い いうことは明白です。 に感じとっていたようです。 じくとらえてはいけないと の割合は 歳は(以 とにカーテンコールやアン ち上がり舞台を背にする中 「本荘工場」と「稲倉工場」に 込んだ 次 世 代 製 造 装 置 を 導 公演「美しき幻影」の中 で会員の中のお一人が、長 を 収 集 す ることで、最 適 な 入 す る。 操 業 状 況のデ ータ しれません。 年宝塚に親しんでおられる に秋田県内の電子部品工場 土倉 い会員の積極的な参加があ 夢を見たような 宝塚歌劇星組観劇 を迎えるとはだれのことか このことに関連し、故江 幡勝一郎先生から紹介さ ています。今の コールなどはなく、舞台が 位を争うほどのレベルと 更なる発展のために、どれ 夢、夢の世界を見たのかも 聞 い て お り ま す。 し か し、 で の 会 話 で す。 本 当 に 夢、 高校のレベルになるとそう でもないというのは、なぜ なのでしょうか。是非とも TDKは250億円を投 じ、スマートフォンや自動 います。どうか、今回の定 持てる素質の上に、どれ だけの努力精進があってこ の集約や閉鎖に踏み切った 車向け電子部品の新工場 期総会を契機に、更に強固 の舞台で演じ、歌い踊りし で、 ス マ ー ト フ ォ ン 向 け が、その後円安や生産性の る大きな課題でもあると思 な母校に対する支援態勢を とのことで教えてください 高周波部品などを生産す 東京同窓会に課せられてい し っ か り と 対 策 を 講 じ て、 だけ活用できるかが、我々 高いレベルを維持していた 回定期総会実行委員長を拝命して 築いていただきたいと切に ま し た。 さ っ そ う と 踊 る る。稲倉の新棟は床面積が 万平方メートル お 願 い を 申 し 上 げ ま し て、 ていることでしょう。本当 男 役の一人 を「 黒のスーツ い、ということになるらし 書 家 の 沙 孟 海(1900 の祝いに次の詩を贈りまし 百歳古来(百歳は古来稀 なり) するに足る 九十無足奇(九十は奇と 無し) と思いましたが、一瞬のの 「古希」とはご案内の通 り、中国・唐代の詩人杜甫 利地方の子供たちは、小・ 終わった瞬間、皆静かに立 758年杜甫 によると男女総合で日本人 記念すべき2014宝塚 歌劇100周 年 記 念 公 演・ 八十大可為( 八十 は 大 い に為す可し) 星組の観劇が計画され、 ち現実の事態を理解しまし の 詩「 曲 江 」 に あ る「 人 れ た 原 田 種 成 著「 漢 文 の ・ 七十多得豨(七十は得る こと多し) た。小さいころから、古希 生七十古来稀」に由来す ところがあります。後輩た 中学生の段階では全国 などとはじいさん・ばあさ ました。プロの歌をご堪能 ちが、大活躍とはいかない く ら い か わ か り ま せ ん が、 んのことで我々には関係な いただきたい思います。 までも、そこそこの成績を ろでありますが、どれくら 第 月 皆さんこんにちは。この たび、本荘高校同窓会第 また、私たち同期の仲間 で盛り上げたいという思い 回定期総会の実行委員長を い参加していただけるか心 (注)豨は音調を助ける字 で、 意 味 は な く 読 ま 仰せつかりました安井賢光 もあり、地元本荘の同期生 業生が主幹事ということ 配でもあります。 の通り)本年は、第 で、同期の仲間で話し合っ 安井 賢光 首都圏の人的財産を母校発展のために た結果、私が実行委員長を 務めることとあいなりまし た。よろしくお願い申し上 げます。 さて、総会に対する抱負 ということですが、さして 特別なことがあるというわ に魅力的な低音、さっそう 実行委員長としての挨拶と だきたいと思います。 改善などで国内工場のコス ん、秋田の出身よ」と、さ ルで、磁性材料「フェライ 年ぶりに国内での工 つの 新 棟 は イ ンタ ー ネットで操 業 状 態 を 監 視 し る。 年末の稼働を計画してい し、 躍している人がいるなんて た り で き る セン サ ー を 組 み ト」などを製造する。 などと隣の人に聞いていた すばらしいですね。また名 場新設に踏み切り、平成 のです。ころりとだまされ は 信 じ ら れ ま せ ん で し た。 すがです。すぐわかりまし ト競争力が回復したと判断 万5000平方メート 残しており、まあ安心とい の楽しい懇親会にしたいと 後に退職 年板橋区副区長を最 年中央大学法 とした身のこなしの男らし う と こ ろ で し ょ う か。 正 首都圏在住の同窓の皆様 させていただきます。 直、 も っ と も っ と 大 活 躍、 は、 大 変 優 秀 な 方 々 が 多 ( 筆 者 略 歴 ) 昭 和 年 生、 いこと。私にはあの人達が 女性だと言われてもすぐに 本荘高校昭和 年卒業( 人的財産を母校本荘高校の 約 期 )、 昭 和 諸先輩の皆様からもアイ ディアをいただきたいと く、様々な分野でご活躍さ 学力の面では、本荘・由 にカンカン帽の人、天寿さ れておられることは、誠に 思っておりますので、ご協 大躍進を期待したいところ 思っております。まずはア ですが、少子化の時代とな 力をお願いいたします。 学 部 卒 業、 東 京 都 に 奉 職、 「 ほ ん と に 女 性 で す か ー」 た。秋田出身でこんなに活 トラクションとして、実行 平成 ところで話は変わります が、毎年、母校の状況を校 頼もしく、嬉しいところで ご推薦により、日本クラウ けでもなく、いつもながら 歳という数字を当時と同 期卒 と 申 し ま す。( 略 歴 は 後 述 年近く生きてきた 70 達の参加も促しているとこ とても 63 49 24 り、なかなか難しいところ ン所属の歌手、千花有黄さ 期矢作先輩の 90 7 あります。これらの多くの と思われます。 委員である 62 80 歳 の こ と で す。 た。(同書 231ページ) 品 だ そ う で す。 し か し 今 る数えの くもわが身もその仲間入 日の平均寿命は国連統計 歳の時の作 りの時を迎えたのかと思う の新緑のさかりの頃、鳥海 歳です。1200年以上も 72 71 の ち 懇 親 会 に な り ま し た。 前の中国の平均寿命はどの り神主からお祓いを受けた が ・ 歳、中国人が ・ 月末 ( 2 0 0 9 ─2 0 1 2 年 ) 47 山のふもとのホテルに集ま 気分になりました。 と、何とも言えない複雑な いと思っていましたが、早 70 長先生からご報告をいただ 21 82 73 70 いており、その都度感じる 30 5 んをお呼びすることとなり 23 28 49 2 2 49 9 62 5 70 56 23 62 5 8 1 2 3 80 42 47 1 27 53 第 19 号 (2) 本荘高校東京同窓会報 平成 27 年 9 月 1 日 インタビュー 女子陸上 競 技 部 監 督 と し て 再 出 発 り、また自分としても「陸 のチームよりの誘いがあ 年 、 千m 千mは 万mは が最高で、 秒 分 月の大阪 秒です。初マラソン 時間 秒、マラ 、ハーフマラソン 時間 秒 分 秒 自己ベストは、 分 は 分 では 分 ソンの最高タイムは である平成 年 時 本人トップの成績で自己ベ 分 スト記録となっている 分 秒(実際には 間 台)で準優勝したことが一 番心に残っています。 レース中に転倒したことや 寿屋の倒産はどんな影響を 合が近づくとともに徐々に 集中力を高めるために、試 かっているので、選手の気 の か、 減 量 の 苦 し み も 分 は、選手が何に悩んでいる 手が 年 入 っ た( 期 )。 高 校 は 初 います。現在、チームは選 場(寮から つは、江戸川区の陸上競技 レース前からは、糖質を十 エリートではなかったこと 工業高校出身で、国体で優 です。男子コーチは、秋田 名、男子コーチ 行っていることはありますか 何だと思いますか 現在、実業団の女子陸上 部 の 女 性 監 督 は、 第 一 生 行、肥後銀行に次いで5人 について聞かせてください 通常の練習は、宿泊先の 寮がある江東区の東陽町の ㎞)が 近くにある、江東区の夢の 島競技場(寮から メインの練習場で、もう一 最後の入学式 日であったが 私達の質問にはたえずにこ やかに答えてくれた。 全日本駅伝への出場を祈 りつつホテルを後にした。 (湯田友夫、伊藤典明、佐々木勝) ● 上川大内小学校 月 日上川大 内小学校(佐々木 名の入学式 照子校長)では新 入生 人の上川大内 が行われた。児童 数 小学校は本年春に 下川大内小学校と 統合し大内小学校となる ため、同校として最後の 入学式となった。 り、新会社をグローバル展 年から平成 年間は旭化成実業団 名の陣容 名、マネージャー ば、自分の競技人生がどう 特にカステラやケーキをた 分に取るために、甘いもの、 ます。また、自分は陸上の 勝した経験もあり、駒澤大 入賞もさることながら、そ た。結果は ㎞)で行って 試 合モードに 持っていった 持ちを理解しつつ指導でき なっていただろうかとの質 学では箱根駅伝で優勝した ま た、 実 業 団 チ ー ム の オーナー会社の倒産がなく てそのまま同じ実業団チー ことです。ま た、マラソン 問ですが。確かに、会社の もあり、選手の弱い気持ち 時のキャプテンをしていま 資生堂実業団 私は運動 神経が鈍く、バ できなかった期間があり大 ラ ンス 感 覚 が 悪 い よ う で、 変でした。平成 年の 万 し た。その一方 で、平 成 選 手 時 代 は 特 にレース 時のジンクスとか験担ぎは 目 で す。 女 性 監 督 と し て 命、 愛 知 電 機、 鹿 児 島 銀 なかったですが、とにかく を 歩むことになり、今で云 るという強みがあると思い ムで競技を続けていたなら 倒 産 で は し ば ら く 無 職 で、 くさん食べたりしました。 も理解できます。無名の選 した。チームとしての目標 れ以上に思い出深いのは初 及ぼしましたか 手が多い中、どうすれば選 は、全日本駅伝に出場する チームに所属 年間は ルートインホテルズ女子 陸上部の監督として、今年 手が伸びるかを経験してい ことです。 行く先が決まらずに練習も るので、自分としては他の し、 縁 が あ り 位 年目になりましたが、今 監督よりも教えやすいと 市で合宿して 国際女子マラソンでの 日に帰 mでの日本選手権での 男女混合レースで同時ス 年の京都シティハーフマラソ として 余 熱 を 保っていた時 う「 社 内ベンチャー」に 挑 その間チャンスが2度 あ っ た。 デ ィ ー ゼ ル 排 ガ ス装置を開発して、米国・ キャタピラー社と事業契約 チームの現況と当面の目標 週間位本荘 の成績は、前の年の選考基 月 以前よりトラック競 技では 月には よく 転んでいました。平 成 京しました。合宿中は本荘 借りることが出来ました。 年の ハーフマラソンの東京シ 高校を訪ね、ウェイト場を が、その年は選考基準が変 位 ティハーフマラソン(初フ 準では世界選手権に出場で ルートインホテ きたレベルでありました わって選ばれなかったこと タートしたこともあり、係 ンでは、転 倒 したにもかか 代 だったからだろう。会 社 楽 な 気 持 ち で 会 社 を 選 び、 ま で 交 わ し た。 し か し バ ブル崩壊した日本ではど こ も 大 リ ス ト ラ を 展 開 し、 企業。そこから6年間、私 会社も体力がなく事業は 1995 年 中 止・ 売 却 と はアジアや欧州を駆け巡 月 思っています。 ㎞過 ぎでの転 倒で は、それまでは先 頭 集 団に が悔しかったことです。 月 開 催 ) に お い て、 ンでの ルマラソンの一年前の平成 予想できなかったことであ メージが大きくて完 走でき の人が女子の先頭集団とは 女性監督としての強みは いましたが、転 倒 後 結 構ダ 思わずに踏切を下ろしたと わらず優勝しました。 抜けて み続けた 年間だった。 ス タ 鳥 海 で「 古 希 の お 祝 「失われた 年」をくぐり い 」。 中 学 の 仲 間 に は 夜 行 レース前の験担ぎや必ず りますが、途中大井競馬場 のことです。それでも、日 位に終わりま 間 足 止 め さ れ た こ と で す。 ないのではないかと思いまし 付近の踏切が下りて約1分 年 ルズ女子陸上部 の監督を引き受 けることになり ました。 実 業 団 での記 録 と思い出 深い出 来 事 を 聞 かせて ください 年間に亘る 競技人生での 古希のお祝い 昭 和 年(1969 年 ) もまた「脱自動車」を掲げ 大学を卒 業して、独立系の も多く、その人たちの波乱 いざ入社してみると鋳 物を ベースにした会社で、いわゆ 名余、経営者や官 庁・大企業幹部、小中学校 青い鳥を追って る前の * * * 私達が訪問したのは、長 野県菅平での定期合宿に入 年の大阪国際 女子マラソ から約 たが、平成 ルートインホテルズ女子陸上部監督就任 マ ラ ソ ン 選 手 藤川 亜希 ( 期)さん 年目より監督をして 年目の若い陸上部であるが、 ルートインホテルズ女子陸 上 部 は 創 部 し て から ま だ 創部 インホテルの本社に訪ねて いる藤川亜希さんをルート インタビューした。 陸上競技を始めたきっかけ は何ですか 私は母の実家のある秋田 県で育ちました。陸上に興 味を持ったのは小学校高学 年の頃からですが、本格的 に 陸 上 競 技 を 始 め た の は、 秋田市の飯島中学校のとき の担任であった長沼優先生 先生は当時ジュニアの長距 上を続けたい」という希望 と出会ってからです。長沼 離の日本記録を持っていた があったからです。その中 万丈の半生を聞くと心が揺 「どこへ行っても同じ」と気 「古 希」 、自分のこととは 列車「羽黒」で見送られて 全然思ってもいなかったのに、 東京などへ集団就職した人 年のときは長距離で県 陸上競技の選手でした。中 のお祝い」をやった。私たち すられる。本高 学 は南北に分れる前の本 荘中 自動車部品会社に入社した。 ム『 ラ ラ ラ 』 を 選 び ま し 学の最 後の卒 業 生で、 今 年は中 学・高 校の「 古 希 でも本格的に陸上競技をや た。実業団チームを選ぶに で 590 名。会への出 席 者 から九州熊本の実業団チー りたいという思いが強ま 当っては、恩師である大友 は 184 名、子 吉川河 畔の 位となりました。高校 り、陸上競技の指導に熱心 先生より「自分で決めなさ ホテルで、本当に懐かしい時 年C組の 本 荘 高 校 に 入 学 し ま し た。 い」との進言もあり、自分 だった大友貴弘先生のいる の意思で決めました。ララ を過ごしながら、今 更なが 仲間は 高校では秋田県内の厳しい ラ実業団チームのオーナー 度目は 2006 年、 私 が 手 掛 け 開果たすまでにしたところ なってしまった。 たいくつもの事業・製品を 小笠原 弘 三 集約して新会社を創ること で後継に託した。 新理事紹介 新しい事 業分野を模索して になった。 ら、平成 年 本 荘 市 中 横 町で 生 大内地域の出羽中学校と 旧大内中学校の 校が統 合 し て、 新 し い 大 内 中 学 日に 挙 行。 生 徒 数 182 人。 月 熱ヒーター技術」と「電波 施設は旧出羽中の校舎を 年春羽田空港から研 に 就 任。2012 年 退 任 ン環 境 システムの 創 設 社 長 昭和 暗 室・ シ ー ル ド 技 術 」 の 千万円で大規模改修 修に旅 発った。こう して私 を実施した。 億 の熱 気が依然として社 会の 後、現在 MSIC・代表。 ニッチ分野での国内トップ 昭和 新 生「 大 内 中 」開 校 出羽中と統合 いて、部 品から機 械装置 事 た私は、 の約 1 は自然と会社の非主流の道 K( きつい、 汚い、 危 険)企業。私は同 期入社の 業への転 換 を図るべく イギ 月に新会社「リ 1 あ ちこちに 若いエネルギー る K企業脱皮の ケン環境システム」の創業 の先生や大学教授など、多 くは社会で活躍している 仲間たちと リスの会 社と提 携した。私 鶴舞西小学校、本荘中学 から、昭和 年本荘高校に が、話しの面白さや人生経 会社革 新の声 を上げた。こ 民事再生の申請したことか めての進学クラスの編成 験では中学時代の仲間には 年間は資生堂 い時代だった。 筆者略歴 チームに所属することにな で、その効もあってか東北 ㈱ リ ケンに 入 社 後、㈱ リ ケ まれ、東北大学工学部卒業。 校 の 開 校 式 が りました。平成 年の約 月はフォレ 月で定年だっ 年から平 終焉したとはいえ大学紛 争 んなことが許容されたのは、 はプロジェクトに選抜され、 社長になった。それは「電 成 ブーム世代を実感した。 2 かなわない。どちらにして 年 生まれのベビー 組 予選を勝ち抜いて、京都市 ら昭 和 年間出場することが出 1 も高度経済成長期を駆け抜 月に 3 大学工学部へ入学した。本 年 会社である株式会社壽屋が に 来ました。高校 年の時に は国体(福島開催)にも出 場しています。 実業団での経歴を聞かせて 13 高のクラスメイトとはほぼ 倒産して、平成 で開催された全国女子駅伝 内 20 けた私たちには、日本のよ が良く、この 3 7 16 年間一緒で、今でも皆仲 実業団チームに所属しまし た。その後、結婚を契機に 競技人生から離れていまし 2 ください の時から実業団の幾つか 1 21 2 5 1 10 10 9 22 10 20 44 27 2 7 10 9 31 5 3 1 22 1 3 4 1 50 43 5 15 6 48 06 34 77 2 11 4 24 4 2 広報「ゆりほんじょう」より 11 5 2 16 8 12 2 14 10 59 15 08 1 05 92 3 46 14 6 60 13 21 3 2 22 2 高校卒業後実業団チーム に入ったのは、高校 年生 1 40 5 3 3 1 27 10 3 3 13 2 3 3 平成 27 年 9 月 1 日 本荘高校東京同窓会報 (3) 第 19 号 プロオーケストラからスクールバンドまで 指揮者として多忙に活躍中 指揮者 岡田 友弘 コンサートを開くことで 演奏者全てを本校同窓生で す。その際はみなさま、是 夢があります。それは聴衆、 オーケストラのメンバーが 非 奮 っ て ご 参 加 い た だ き、 あります。そして大人数の 音楽を指揮者と作り上げて があると強く感じることが 理学」など、音楽の基本以 いく 精 神は、まさに「 玲 瓏 れ は「 心 理 学 」 「哲学」 「歴 外の様々なものを駆使して また足をお運び下さるよう 史学」 「社会学」 「数学」 「物 聴衆に音楽を伝える仕事な お願い申し上げます。そし てコンサートの最後は校歌 同気」です。無意識のうち の自分を作り上げたのだと の大合唱を! に本校の気風や精神がいま す。 「 指 揮 者 に な り た いの 思うと、ここに拙文を執筆 者にいわれたことがありま なく、音色や雰囲気という しっかり するように。それ でれば、音楽以外の勉強も のです。かつて世界 的 指 揮 抽象的なものでさえ大きく うな外面的なものだけでは 変わります。それを聴くの させていただけたことに感 ●筆者略歴 旧本荘市生ま 謝したいと思っております。 れ、 本 荘 高 卒 業( 期 )、 じ ら れ、野 球ファンに とっ しながら現 在のプロ野 球は て最 高の時 間でした。しか 面白さの提供を忘れている。 ばリーグから陥落する緊張 サッカーの様に負けが続け うか。音を出さない音楽家 といえるのではないでしょ 楽 を知るのに必要である。 」 り、広がることが 多 くなり ることは、その作 曲 家の音 る。言語や歴史、地勢を知 ました。僕 が 指 揮 をしてい オーストリアほか 各 地で研 タリヤ、オランダ、ドイツ、 音楽学部(指揮)を経てイ ツ文学専攻、桐朋学園大学 阿部 義康 ( 期) 巨人が勝って、 身も心も軽やかに御帰還 巨人 対阪神 観 戦 記 多い。第一に引分けが無い。 感 が ない。日・米の 違いも 真 夜中であろうと勝 負がつ であるがゆえ、楽器ではな と。作曲家と演奏家、聴衆 る大学の吹奏楽団や管弦楽 鑽を積み、現在全国 各地の 点 力が低い。日本プロ野 球 くまで続 行する。第二に得 く人間という一人一人個性 との仲介者である指揮者と 団にも本 校 出 身 者が入って オーケストラの指 揮 台に立 が指揮者としての財産とな も人格も違う生物を相手に していまでも大 事にしてい くることも増 え、大 変 嬉し がクラシック音楽の醍醐味 していますので、楽曲の準 ることです。これは本 高の ざ負けが続くと気が滅入っ 見ません。全勝は不可能と と期待に胸を膨らませた情 時 代のド キ ド キ・ハラハラ さに欠ける。昔の王・長 嶋 うのは私だけでしょうか? 最後に私が愛する巨人軍 に苦 言 を呈したい。特に選 ショックな 試 合が 多 く、巨 判っているつもりですが、い ラン等の長打が少なく豪 快 レスが 溜る。第 三にホーム りの試 合はイライラとスト グの得 点と大 差がない。守 の得 点 はサッカー・Jリー ます。 備 の 段 階 か ら、 リ ハ ー サ 中央大学文学部文学科ドイ 僕が指揮者として一般の お客様によく質問されるこ と申します。普段は活字・ つ。横浜市在住。 日の 巨 育った自 分には、耐 えられ 人・ 大 鵬・ 卵 焼 き 世 代 に 手にギラギラ 感が 無い。プ 月 今まで不 振で喘いでい ない試合内容なのです。 た村田選 手が逆転のホーム 軍 途中退場しトボトボ取手ま ており、悔 しい思いを 胸に く 思っており ま す。僕には とが幾つかあります。代表 ル、本番にいたるまで、そ 「右文尚武」と通じるところ 文章ではなく音符・楽譜を 熱ある醍醐味溢れる楽しい 的なものを挙げてみますの 期の木村文 期の鈴 てしま う 馬 鹿な巨人ファン で、ご参考にしてくださる もし生きていたら 来年も参加したい 工藤 晉 ロの格 闘 技なのに野 性 味が 子さんもご夫妻で参加され けている。なにしろチーム 援を送りましたが、この日 ランと大当りで 対 で勝 昭和 年卒業後上京し公 利 し ま し た。 神 様・ 仏 様・ 害の街川崎の会社に就職し 打 率が最 悪だ。ホームラン た。入場時間は各自で自由 ました。当時川崎 市にはプ も 少 な い。 見 せ 場 の な い、 日で、帰りは意 へ ナ棟の建築工事は平成 年 由利本荘市石脇の国療跡 地の総合防災公園とアリー きた。完成後は官民 施設計などを進めて 取得・地質調査・実 の支援を受け、用地 い たい 放 題 の 雑 言 で す が、 勝てば御機嫌 勝てば官軍 無い。高校野球の迫力に負 気揚揚の御帰還でした。 ターの時は球場 全体が眩し ロ野 球の球 場があり、ナイ ました。 自分には、悪い癖があり ます。巨人が勝てば御機嫌 いる気 分になります。と言 つまらない劇 を見せられて 稀勢の里が横綱白鵬に勝利 富士に優勝の可能性が出て 影で懇 親 会は皆さん一層 楽 に顔を出して下さり記念撮 う大歓声があり会社の寮か い位 輝いて、時々ワー とい としましたが十両の取組位 きました。いつも写真撮影 ですが、負けた場 合はテレ ら巨 人・大 洋 戦ナイターの 村田様の で記念の写真を皆にプレゼ しそうでした。副 会長の佐 ビのスポーツニュースはもち した事で大いに盛上り照ノ ントして下さる伊藤宏男さ 藤正義さんが会計を済ませ で は ほ ぼ 満 席 で し た。 遠 期)阿部義康さん ん( ろん、新 聞のスポーツ 欄 も 期 ) に は 感 謝、 厚 く 御 総合防災公園建設 会は無事終了となりました。 て下さり今年の大相撲観戦 ( 礼申し上げます。お酒やお つまみの提供も多く取組中 から懇親会が始っている感 じでした。 国立療養所跡地 の方には定 員オーバーのた 度に着手される。この施設 あげてスポーツ振興 ─ め大変 失礼してしまいまし はスポーツと防災、そして やイベントなどの誘 災公園事業として国 たので次回は失 礼のないよ 地域コミュニティ機能の複 致に結びつける。 今回は同窓会の方からの 参加希望が急に増えて数名 うに努力致したく思います。 年度の供用開始を目指し 合型交流拠点として、平成 員出席の懇親会、ご夫妻で 取組終了後両国駅前の 〝ちゃんこ「霧島」〟にて全 (広報ゆりほんじょうより) 37 大相撲 観 戦 記 日目に開催しまし 今回の大相撲観戦会も 名分の入場券を準備して 月場所 !! 雰囲気が手に取るように感 ちゃんこ鍋で話題もはず み元大関の霧島さんが挨拶 木礼治さん、 期)が「もし生きていたら 読み、音楽家として筆では と実際に僕に遭遇した際に ことが多いので無理もない 10 2 期) 藤、照ノ富士、逸ノ城等の なく指揮棒という奇妙なも 若干の時間の節約となるで のですが、なかなか「指揮 7 4 ( ゲームを見せて欲しいと思 のを振り回す仕事をしてお しょう。まず「本業はなん 年になります。大学は文学 大関稀勢の里には全員で声 で帰った思い出があります。 です。この頃 特に無 気 力で りますので、お見苦しい部 で す か?」 と 聞 か れ ま す。 人は違いました。勝てば官 分も多々あると存じますが イメージとして学校やアマ しかし今 年 一時我慢してご一読くださ 来年も参加したいと思いま れば幸いです。 チュアの楽団の指揮者さん は教員をされていたり、他 部に進みましたが、その後 者が僕の職業である」とい の仕事をされていたりする 音 楽への想いを 忘れられず う答えには不思議そうな顔 楽は変わるのか?」という に音楽大学に進み、ヨーロッ 素朴かつ悪意のない質問で をされる方が少なくありま 揮 者の世界は60歳までは す。僕の立場から言わせる パ各 地での修 行 を経て、指 若 手 といわれる仕 事ですの と指揮者は必要です。そう せ ん。 も う 一 つ 挙 げ る と で、まだまだ僕 も落 語 界で 言わないと僕の仕事がな 揮 者 という「 音 を出さない 例 えるな らば「二つ目 」に くなってしまいますので す る な ら ば、「 指 揮 者 は 必 なりたてくらいの位 置 付け …。そして、指揮者で音楽 要 な の か?」 「指揮者で音 であ り ま す。とはいえ、幸 は変わります。テンポ、強 在まで続けております。指 運に恵まれ、現在では管弦 弱などは何人かの指揮者で 音 楽家」として幸運にも現 楽団や吹奏楽団の指揮を中 同じ曲を聴くとお分かり頂 60 年度から防 なのです。誠に単 細 胞その ものです。 最後に願わくば、土曜日 か日曜日の午後 時の試合 ● 佐々木 勝氏へ交替 ホームページの作成兼管理 者は畑山茂 氏から佐々木 勝氏( 期)へ交替した。 ホームページ担当者 企画に期待しております。 れるのが夢です。次年度の 全員で勝利の美酒に酔いし 観戦で熱烈応援し、終了後 2 本荘高校を卒業し、東京 の大 学に進 学して以来、東 す」とおっしゃった事が印 昨年の巨人対阪神戦は 回表で 対 で巨人が負け !! 57 関取が人気を上昇させてい 8 るのかこの日も満員御礼で 9 象に残りました。 音楽を通じて全国 各地で 本 校 出身の方のご縁が繋が 88 した。秋田県出身の豪風や とステージを共にしており ♪ 心に日本各地のプロオーケ ている。平成 27 京、神奈川に居を構 えて 3 1 60 元大関霧島を囲んでの記念撮影(阿部義康氏撮影) 東京同窓会の会員のみな さま、 期卒業の岡田友弘 ♫ ストラから小学校のスクー 63 26 30 !! 50 出 席 の 阿 部 貞 夫 さ ん( 65 57 20 けると思いますが、そのよ 43 5 20 88 ルバンドまで、多くの皆様 14 第 19 号 (4) 本荘高校東京同窓会報 平成 27 年 9 月 1 日 突 然 の 電 話 は 2014 年の新年が目の前に迫った 頃でした。同窓会総会を今 までの役員中心から、卒業 年度ごとの実行委員会形 名だすよ 期からも 式で行うことになったの 、 で、初回担当の 実行委員を うに、できるだけ女性を多 しく、ホッと安堵して新年 加者をふやすことです。妙 番期待されていることは参 めての実行委員会形式、一 れるのかわかりません。 は決めませんでしたし、正 第二は参加要請の電話か けです。特に参加者の目標 にしました。 第一は同 期 生への参 加 呼 名)は改めて会合を持つこ じクラスの人が呼びかけ人 び 掛 け 文 を 作 り、 総 会 案 と か、「 案 内 が 届 い て な い 内に同封することです。同 「久しぶりに行ってみよう」 てテレビを見ておられたと ると、佐藤さんは横になっ 家に生まれた。家の戸口を 国(現にかほ市)の豪農の れるって」と元気な女性の 佐藤さんは大正 年 声 が 聞 こ え て き た。「 こ ち (1914 年 ) 院 内 村 上 小 らは分かりにくい所なの 出て隣村まですべて佐藤家 で、片倉駅から電話をくだ されば駅まで迎えに行きま 佐 藤 さ ん の 長 兄 は 101 の田圃が続いていたという。 今まで音信のなかった級友 は、本荘高校剣道部の歴史 ク ラ ス 会 の 人 数 が 増 え た、 す。 新 理 事 小 坂 善 雄 さ ん その後は参加未定の人へ のフォロー、当日の進行な 期に限らず、このこ 期 の 同 期 生 の 皆 様、 と「日産自動車神奈川工場 護師が毎日、医師が月 言われた。それ以来訪問看 で、寄席での体験ができる ところ、同窓会のイベント 小生落語は、もっぱらテ レビで楽しんでおりました 真っ黒で、姿勢も前かがみ るのかと思うくらい、顔も た落語家で本当に落語をや ると、この方は一風変わっ 特に小生は柳家喜多八の ファンで、喜多八が登場す た。 とは今後の同窓会発展の大 豪快華麗な竹刀さばき同 が届いていない人が多数い 広がっているようです。) す。 ててくださることと思いま に名を残す剣士です。その 当日を迎えたい、懇親会を 最後に、非力ながら 年 近く理事を務めさせていた から連絡があった…と輪が 多くの同期生で楽しみた だきましたが、この度バト ど意見を出し合い、無事に い、という気持ちで取り組 東京同窓会の皆様、ご協力 きな鍵だと思います。 みました。実行委員は、ま ンタッチいたしました。長 よろしくお願いいたします。 最後まで引き付けられた 柳家喜多八 へ行ってくれ」という連絡 訪ねてきて健康状態を調べ とのことで、早速応募いた で病人(失礼?)みたいで から約 週間兵舎に泊りがけ る秋田 場で 年前のアルバム 続いてもよく召し上がると 君は石 脇に住んでいた」こ わ れ た。 佐 藤 さんは「 専一 ひどく 懐かしい気 持におそ 来ない姉妹漫才、粋な姉さ テレビではなかなか拝見出 ニックス・アメリカ二世の 幹事さんのお蔭様で、金太 演芸鑑賞後の親睦会、遠藤 今 回 も 感 嘆 い た し ま し た。 後 ま で 引 き 寄 せ ら れ ま す。 職担当者から「それでは当 いう。昨年肺炎に罹ったこ ひ まご 人に 楽芸、寄席ならではの目の 義康君、工藤俊行君と一緒 いしく、また、同期の阿部 でしたので、更に楽しかっ たです。是非次回も参加致 ます。 したく、よろしくお願いし 進) 態でした。 ころか、舞台に釘漬けの状 前の実演には、 時間で居 人おられる。 (打矢 べられたのが、強く印象に ふる さと 人 郎寿司での宴会は料理もお 分 遊 ん で い ろ 」 と 言 わ れ、 とに気づかずにいて、医師 佐藤さんのお子さんは 談と踊り、三増紋之助の独 校を休んでしまった。その つらしい。最近は殆 となど良く覚えておられた。 ん三遊亭小円歌の三味線漫 いとこ 出して見せてくれた。 今 年 101 歳 を 迎 え ら 話 を し て お ら れ る と い う。 では元気でいられた筈だと れ た 佐 藤 次 男 さ ん( 期 ) 程なくしてご自宅に到着す いう。その他の兄弟はすべ を訪問することにした。数 ころであった。 ど自宅から出掛けることが だったが、現在孫が 日前にご自宅へ電話しとこ 少なくなったが、今年の花 曾孫が ろ、「 あ ら、 お じ い ち ゃ ん も外地の会社を勧められた 見の時期には、公園まで出 す」と言ってくださったの 期) を受けた。敗戦まで日産自 しました。始めての本場の 出だしは、やる気があるの 亀 山 治 夫( ざるを得なかった。 からは神奈川県電気局に勤 佐藤さんが本荘中学(旧 制 )の卒 業アルバムを持 ち 寄席で前座から始まり、女 落語鑑賞会 希望する会社を選べない 務されたという。 年 性落語家二つ目昇進祝の柳 昭和 年 月に日本大学 工学部電気工学科を卒業し 牛肉が大好き 前のアルバムである。本 荘 かは声も小さくぼそぼそと が、「 健 康 に 自 信 が な い の 掛けて桜の花を堪能したと ため上級学校への進学準備 残った。 4 長寿の家系 で、外地へは行けない」と 85 3 5 に同窓会から取材に来てく に倒れてしまった。その後 断った。すると厚生省の就 ると思われる。 から「危ない所だった」と その年の 月になってやっ が遅れてしまい、本荘中学 11 日 か月も学 92 3 1 しかし、佐藤さん自身は 中学時代から体が丈夫な方 4 で、そのご厚意に甘えるこ 様、 東 京 同 窓 会 を 盛 り た だまだ現役・準現役で多忙 い間 あ り が と う ございま 倍 近 い 同 期 生 が 集 い、 契機に同期生の輪、東京同 毎年今回同様の参加は無 理と思いますが、この会を 懐かしみました。 め、高校時代に戻り青春を 二次会、三次会と旧交を温 の かはわかりませんが、例年 た。多かったのか少ないの そして総会当日、 名も の同期生が一堂に会しまし 発揮してくれました。 な身でしたが、皆さん力を ることを改めて感じまし さんが奮闘してくれました。 せんが、東京同窓会の情報 を迎えたことを感謝の念で 同窓会名簿を中心に、情報 話し合いを続けました。初 思い出します。 収集と電話かけを行うこと をいただいた時は本当に嬉 全体実行委員会が 月に 開かれ、顔合わせと新形式 期実 岡部 民江 私にとって勇気のいること 案 は あ り ま せ ん で し た が、 直どの位の人が集まってく についておおよその説明が 親しかった人、あまり縁 のなかった人、電話かけは ありました。私たち 名、女性 名出席の新記録 期生集合」 行委員(男性 「 クラスごとに呼びかけ人を決める とにし、会場を主に国分寺 よ!」 「東京同窓会のこと の「 き り た ん ぽ 」 (同期生 に居た方が親しみやすいの 知らなかった!」などの声 でした。それでも少しずつ た。 小野千代さんのお店)に決 が集まってきました。どの く、 と の 厳 命(?) で し 女性の同期生の方々には それぞれの事情で断られて 名出すことに 、 では、とクラス毎に呼 びか け 人を め、ここを拠点に数回の実 行委員会を持ちました。 窓会の輪が広がっていくこ たが、自分の希望する会社 市 長 を務めた佐 藤 憲一氏が 谷なな子、真打ほやほやの 何を言ってるのかわからな と を 願 っ て い ま す。( 実 際 に就職することが出来な 歳で亡く 佐藤さんは最初の奥さん を割と早くに亡くされ、再 同期生であった。アルバムを 春 風 亭 朝 之 助、 ベ テ ラ ン 回 かった。なぜなら当時理科 婚後の奥さんは めくると筆 者の従兄にあた 年間予備校に通わ 系の卒業生の就職先は、国 なるまで佐藤さんがよく面 る打矢専一氏の写真があり、 の 鈴 々 舎 馬 風 の け な し 話、 いが、いざ本題に入ると最 卒業後 によって統制されていたか 倒を見られたという。長女 年 生 の 時、 本 荘 らである。官立大学(戦後 の明子さんの話では、佐藤 (旧制) キロ離れた所にあ は国立大学)の卒業生は優 で は な か っ た。 本 荘 中 学 に住んでいるのかわかりま くらいの同期生が東京近辺 か月前 の東京同窓会総会に出席さ お酒を飲みながら、時に し、呼びかけ人と文案作成 脱 線 し つ つ も 楽 し く(?) は、顔の広い元応援団横山 しまいましたが、 れた方々に、飛び込みセー ルスよろしく電話し、快諾 か く しゃく 百一歳を超えて矍鑠と 佐藤次男さん( 期)訪問記 先的に国内の大企業に就職 さんは牛肉が大好きで るようになった。 聯隊の強首野演習 し、私立大学の卒業生は日 年 の軍事教練をうけた。その 本領土であった台湾、南樺 のこと、また揚げ蒲鉾も好 歳まで長生きされた。長女 体の具合が悪く 動車に勤めたが、昭和 帰り道に本荘街道を行軍中 太または満州国に就職せざ 物の とにした。 は余程長生きする家系であ て健在であるから、佐藤家 20 るを得なかった。佐藤さん 勢揃いした 23 名の 61 期生たち(伊藤宏男氏撮影) ときに不 幸にしてツツガム 歳で亡くなら れたが、もしツツガ虫に刺 が 車 で 迎 え に 来 て く れ た。 シ病に罹り 明子さんは佐藤さんの家に さ れ な け れ ば 100 歳 ま 57 2 3 同居して、お父さんのお世 9 80 61 2 61 の方は山菜採りに出かけた 2 23 1 1 5 85 5 17 50 1 23 4 61 23 27 当日片倉駅には佐藤次男 さんの長女の武石明子さん 27 『 郷 里 へ 一 度 帰 り た い 』 眠りでも出るかと思いまし という願いを佐藤さんが述 たが、なんとなんと眠ると 3 5 61 1 15 6 61 2 平成 27 年 9 月 1 日 本荘高校東京同窓会報 (5) 第 19 号 絆の茂里 周年 小 松 迪 弥 ( 期) 「平和の集い」─ 現地で開催 域 振 興 会 長、 石 沢 出 張 所 教育長、地元旧石澤村の地 平成 年 月 日(土)、 業生 名を始め、由利本荘 由利本荘市石沢地区にある 市の副市長、市議会議長・ 周年記念・平和の 以上とは思えぬ若々しさを 感 じ さ せ る 見 事 な 合 唱 に、 しで説明に聞き入っていた。 家の関係者、石沢小学校の の女学生達を受け入れた民 長、市議、それに集団疎開 めて語 り、児 童達は眼の前 を辿りながら切々と心を込 うどんと山菜料理に舌鼓を 昼は主催者心づくしの本荘 植村伴次郎さん 秋田富士・鳥海山の雄大な トクリームや、間近に見る 間中誰一人として体調を崩 程だったに違いないが、期 にとってはかなりの強行日 心 よ り 御 礼 申 し 上 げ ま す。 画 の ビ デ オ・DVD 及 び 真 に 有 難 う ご ざい ま し た。 ら 植村さんは昭和 年㈱東 張所長、井島市会議員、そ れ に 市 バス の 運 転 士 さ ん、 北新社を設立、昭和 年か 続いて 姿に感動し、残雪の5合目 す者もなく、無事に全ての 小松地域振興会長、村井出 鉾立では、全員バスを降り 歳を超えている彼女達 旧女学生達は親の膝元を ループに別れて実施された。 て自らの足で雪を踏みし 図書を由利本荘市へ寄贈 日々と、毎日を平和に送るこ みテンションを上げてい 年 万点以上のアニメや映 記) 金へ何度も拠出している。 連勝し阪神キ (広報ゆりほんじょうより) 手で阪神に ラーとなる。阪神は負けた が同窓の仲間が年に一回集 合し一喜一憂は楽しいひと てあげると言って下さる を 生きている 方 」がおいで さ ま の 中 に も「 前 回 も 書 か せ てい た だ きましたが、同 窓 生のみな たことのように思います。 2014 年 肺 腺 が ん で 左 寄ったおつまみをまわしな に 着 い た。 皆 さ ん が 持 ち 合いとなるがボレダは豪速 筆 者 紹 介 旧 姓 小 松、 本 は首を垂れる。 その後阪神メッセン 荘 高 校 期、2007 年 肺 腺 が ん で 左 肺 下 葉 切 除、 ジャーと巨人ポレダの投げ 歓 喜 す る。 虎 キ チ の はオレンジタオルを振って で 点ゲットされた。これ し加藤、堂上とタイムリー フルカウントから四球連発 は是非来年は東京ドームに す。千葉にお住まいの方に 高責任者で頑張っていま 勉 ( 期) 医師がいること」 「隠して かと思います。独 りでお悩 球を封印して緩いカーブを 時となった。来年も参加の 決意を固めながら帰宅の途 についた。 あえて希望を記せば虎キ チの仲間をもう少し参加者 対 にならないかと念じてい を増やしたい、せめて ます。小生今千葉に居を構 えています、現在の阪神球 団の現場は、和田監督は安 いないからこそ何かと声を みでしたら私 を 使って下さ 外角に決め阪神の主軸は三 正木 た。800 円 の ビ ー ル が 日 地域の皆様の温い歓迎を肌 前日までの雨天がうその ような晴天になり今日の東 良く売れた。 月 め、 東 北 の 遅 い 春 を 満 喫、 行事を予定通り終了出来た 年 前の記憶 京ドームでの巨人阪神戦は との大切さを いのですが、そんな時「私 盛り上がる予感がした。直 塁、福留の犠牲フラ 阪神は初回 番打者の ヒットから盗塁、捕手の暴 投で 点先行した。巨人は イで 番村田 (平成 し、またふるさとさくら募 また、絆の茂里に植樹さ ことは真に幸いであった。 は回遊魚のようなものなの 連戦 人、阪神は中日との を極度の打線不振で連敗し 今朝の新幹線でドーム入り 回阿部が四球、 が右翼中段にホームランで した。 試合開始前に同窓会仲間 る」。 孫 子 高 校、 ジ ェ ネ ラ ル マ んだ)と思うでしょ。だか のため」という記述のなん ( あ あ や っ ぱ り も う 駄 目 な かけてくれるご近所さんが 上葉部分切除。趣味は観劇 ネージャーの中村勝広は成 ら痩せられないの」と減ら いること」 「仕事を続ける と民話創作。障害児デイ施 年の間に医 と多いことでしょう。 答えました。 療は進歩し「次は緩和ケア に 率 のみ」と告げられた私でも さらに入院期間の短さ( 1597(FAX同じ) 時 2 期の浅香英男さんと私) で試合は決まった。巨人の 敗,ボレダは勝利投 軍で打撃コーチ ず口をたたいて笑われた次 こと」 「趣味を楽しむこと」 い。連絡先は ︲2947︲ 勝 2 ます。 おいで頂きたいと思ってい この三人が球団の現場の最 布 さ ん は 習 志 野 高 校 OB、 として若手指導に当たる掛 東高校、 第です。この「がんを隠さ 等々自然体で暮らしていら 人 人 が「 が ん 患 者 」、 し ないで生きる」という考え 66 いします」と間髪入れずに 位」と言われて久しい 手 術 が 出 来 る こ と に 驚 き、 かも「肺がんが、がん死亡 に共感していただいて、が 度も肺がんを患うだ 53 振の山、メッセンジャーは ( 中、 2 以降なら在宅しております。 設勤務。 4 2 分の けでなく全く別な組織の新 院を含めて 2 8 1 1 1 20 04 7 1 9 人 日間)に驚き、診察回数の で感じた 日間でした。 市内観光の一行、 旧岩城町天鷺村にて 遠く離れて生活した旧石 澤 (右端佐々田教育長 会場となった絆の茂里 村での、寂 しさ をこら えた 後列左端が筆者) (満開の枝垂桜と記念碑) されていなかったが、東京 れた記念の桜が風雪に耐え で確かめることが出来たの 児童達、さらに秋田魁新報 から参加した旧女子学生達 虎キチの野球観戦記 でじっとしていたら死ん 近を 年 前の姿 巨人阪神首位攻防戦 日 私がこうしてがんと共生 出来ているのは「病気を独 じゃいますからー」と答え 月号肺がん最新治 7月 つでもいらっしゃい」と りで抱え込んでいないこ ています。 思 っ て 過 ご し て い て、 先 と」 「再発してもカテーテ がらビールをうまそうに飲 日 も 近 所 の 方 か ら「 少 し ルの届く所なら私が治療し 今年の 打った。 も、はるばる訪れた彼女達 集い」と銘打たれた式典が や NHK、 秋 田 放 送 等 の 差しの下、午後1時半から が司会者の求めに応じて当 を現 在の自分達に重ね合わ に居る彼 女達の 分 由利本荘市名誉市民に ダーレで開催された直木賞 にとってはこの上ない贈り を追加 植樹、会場を近くの 大 蔵 寺に移して、この日 ま 開催された。戦時中、東京 新聞やテレビの報道記者な 約1時間、折から満開の枝 時口ずさんでいた「石澤隊 師範学校(現お茶の水女子 号に「 大学)付属高等女学校の卒 風山児水第 の時代を生きる」と題 式典の前日( 月 日)、 て見事に成長し、美しく花 由利本荘市の文化交流館カ を咲かせている姿をその眼 作家中島京子さん(集団疎 物であったに違いない。 会場からは期せずして賞讃 開の一員だった中島公子 の拍手が湧き起った。 さ ん の 娘 ) の「 小 さ な お 由利本荘市並びに旧石沢 地区の関係者の皆さん、い の女子中学生達が味わった ど、 総 勢 お よ そ 120 名 垂桜の花びらが舞い散る絆 の 歌 ── 水 の 瀬 清 き 」 を せるかの様に、真 剣 な眼 差 でに物 故した関 係 者の方 達 子等と語らう うちとその時代」と題す ろいろ有難うございました。 桜花舞う 絆の茂里の 碑に寄りて 戦禍の歴史 る 平 和 記 念 講 演 ── 聴 衆 約 1000 名、 広 い 会 場 植 村 伴 次 郎 さ ん( 期 ) が由利本荘市の名誉市民に この後は新たに開 墾した 茂里の一角に、記念の桜 本 翌 月 日( 日 )、 旧 女 学生達は由利本荘市の好意 中就、 推挙された。遠藤章博士に の慰霊式を住職の先 導で取 がほぼ満席となる大盛況で 佐々田教育長、石沢地区の てお世話頂いた由利本荘市 苦難の歴史と、彼女達を温 余り、記念碑の建立に尽力 の茂里の記念碑の傍で開催 歳 の茂里 日に渡り、全員 あ っ た ── を 含 め る と 行 かく迎え入れた旧石澤村の した柳田前市長は療養中の された。関係者の挨拶、祝 その場で披露、全員が よ う な 気 が し ま す。 「 最 近 動 き 過 ぎ じ ゃ な い の?」 の 40 36 2 「 絆 の 茂 里 」 の 一 角 で「 絆 で提供されたバスに乗車 事は 村人達の思いやりの心が一 身体であったが、医師の許 辞に続き、式次第には記載 療特集がんと生きるコー と声をかけられることも多 日間終始付き添っ り 行った後、旧 女 学 生達 と し、鳥海山麓の観光に足を つ に 結 ば れ た 桜 の 園、「 絆 可を得て入院先の病室から はよほどがん細胞に好まれ ナーに取り上げていただき 泊 延ばした。花立牧場のソフ の茂里」が誕生してから今 馳せ参じた。 る体質のようです。おかげ ました。 人目となる。 会が本堂の畳の上で つのグ 年、これを記念して 式典は抜けるような青空 と初夏を思わせる暖かな日 でこの頃は開き直って「今 が 石沢小学校児童達との交流 の式典である。 後仕事に復帰しました。 度はどこに出てくるの?い 太った?」と聞かれた時に 連勝し休養十分の巨 は「私が痩せたらみんなが なにはともあれ「与えら れた人生を納得して生き 「がん」と共に生きる 逆点した。同窓会メンバー 1 少なさにも驚きました。入 名(女性 名)が揃い席 常に「死」を意識せざる を得ない生活の中で確信し 4 年で 出席者は、はるばる東京 から訪れた旧東京女子高等 新聞やテレビで著名人の 死亡が報道されると「がん して掲載して戴きました。 「その後変わりなく過ごし ところですが、昨年術後 ております」と報告したい 年目の検索で「左上葉に センチの影が見つかりまし た」と思いがけない結果を 告げられ「とうとう末期か …緩和ケア…」と思って聞 24 ん 情 報 誌「 が ん サ ポ ー ト 」 れることが功を奏している 水野 ゆき 10 62 20 5 51 70 70 しいがんが出来るとは、私 4 3 26 2 いていると「放射線にしま すか、胸腔鏡手術にします 3 3 27 3 50 ヶ月休養した か」と聞かれ「手術でお願 4 2 7 17 2 25 5 80 3 4 20 20 2 7 2 25 1 10 3 4 15 80 1 2 27 20 20 1 2 第 19 号 (6) 本荘高校東京同窓会報 平成 27 年 9 月 1 日
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